鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山の銚子への旅 その2

2012-01-27 06:11:13 | Weblog
 前川に沿ったいくつかの河岸を中心とした潮来の繁栄は、元禄の頃がその最盛期であったらしい。

 利根川や江戸川が整備されて、大型船(川船)が直接銚子から江戸へと行けるようになると、それまで常陸の那珂川から入ってきた物資は、銚子で積み替えが行われて、大型船で江戸へと直接運ばれるようになりました。

 この利根川・江戸川を航行する大型の川船として製造されたのが「利根川高瀬船」でした。

 その「利根川高瀬船」に積み込まれた物資は、年貢米を中心に、干鰯や〆粕などの金肥や醤油などであり、河岸にはそれらの物資を扱う廻船問屋や各種商店が並び建っていきました。

 「利根川高瀬船」などの荷船には「戻り荷」が江戸などで積み込まれ、それは各種の生活用品であったり小麦などであったりしたのですが、それらは各河岸で下ろされて問屋や仲買などによって売買されました。

 特に、東北からの海上交通と利根川水系の水上交通(河川交通)の結節点である銚子には、東北諸藩の廻米を取り扱う「御穀宿」や、海産物を取り扱う「気仙問屋」、また「仲買仲間」などがあって、それは銚子を構成する主要4ヶ村の中でも、荒野村(こうやむら)に集中していました。

 この「荒野村」の中心である「通明神町(とおりみょうじんちょう)」で「御穀宿」をしていた豪商の一つが「行方屋(なめかたや)」であり、その当主が「大里庄次郎(桂麿)」であったのです。

 崋山が「四州真景」の旅に出掛けた文政年間、銚子は繁栄を極め、その当時の人口は関東地方では3番目に位置していました。

 1位がもちろん江戸で、これは群を抜いており、当時世界的に見ても有数の人口を抱える都市でした。2位が水戸藩の城下町水戸で、3位が銚子であったのです。

 明治初年においても、1位は東京、2位は横浜、3位が水戸で、4位が銚子。

 明治20年代までは、銚子は人口においては千葉県第一の町であり続けたのです。

 文政年間当時、利根川水系と霞ヶ浦・北浦などを結ぶ要衝地としてさかえていた潮来は、すでに銚子にその繁栄を奪われて、「潮来遊郭」以外は衰退の気配が漂っていました。

 崋山は潮来において、「潮来泉やより望図」を描いていますが、その絵の手前に流れる前川と思われる川には、「さっぱ舟」が幾艘か浮かんでいるものの、その中にはなかば川に沈んだようなものもあって、河岸としての衰退をうかがわせています。

 その潮来とは対照的に、常陸利根川から利根川本流に出て大河を下った崋山は、松岸の手前辺りから見えてきた河口部の川岸沿いに、延々と続く銚子の町並みの景観、そしてその川岸に帆柱を立てて浮かぶ「利根川高瀬船」の船溜まりやおびただしい数の荷船や漁船が密集する光景に、目を瞠(みは)ったものと思われる。

 銚子の繁栄はすでに人から聞いてはいたものの、実際に江戸から利根川を利用してはるばるやって来て、実際にその町並みを望見した時、想像以上のその繁栄ぶりに、彼は瞠目し、舟の上から川越しにはるか遠く左右に広がる銚子の町を、まず「松岸より銚子を見る図」として描き上げたのです。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・「港町銚子の機能とその変容」舩杉力修・渡辺康代(『歴史地理学調査報告 第8号』)


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