鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「富津市 浄信寺の忠魂碑」 その4

2012-01-24 06:15:29 | Weblog
 富津市の浄土宗浄信寺を出発して、アクアラインを通過して、帰途に就いたのですが、前に佐倉城址の国立歴史民俗博物館に行って以来、「佐倉連隊」のことが気になっていました。

 「佐倉連隊」のあった佐倉城址には、正岡子規が、開通してまもない総武鉄道(現在の総武本線)の本所停車場(今の両国駅)から佐倉停車場まで乗車し、佐倉停車場から佐倉連隊のある佐倉城址まで行ってその日のうちに戻ったことがあり、それが明治27年(1894年)の暮れであるということを知っていました。

 明治27年(1894年)というと、その年の8月に「日清戦争」が始まっています。

 その正岡子規の旅についても併せて調べてみたく思い、帰宅してしばらく経ってから、千葉県立中央図書館(千葉市)を訪ねて、「佐倉連隊」と正岡子規の「総武鉄道」の旅について調べてみました。

まず正岡子規について。

 子規は佐倉を二度訪れています。

 1度目は明治24年(1891年)3月の「房総旅行」の時。子規は、市川→船橋→臼井を経て、3月26日、佐倉に到着しています。

 2度目は明治27年(1894年)12月下旬(27日か28日頃)。この年7月に総武鉄道は市川から佐倉まで開通。8月1日には「日清戦争」勃発。そして12月9日に総武鉄道は市川から本所(今の両国)まで延長され、本所から佐倉まで行くことができるようになりました。

 当時、子規は母八重、妹律と、上根岸町82番地に居住しており、『日本』新聞の記者でした。

 師走の暮れ、子規は道連れ一人と、本所~佐倉間が延長されたばかりの総武鉄道に乗って、「発句枕」の旅に出ました。

 本所の町はずれの「本所停車場」から汽車に乗ると、老婆が若者に向かって、「作右衛門は、最近旅順より便りが来て別に変りはないということでした。今はもう旅順にはいないそうだが、行き先がどこかはわかりません」などと水洟(みずばな)をすすりながら話をしており、それを子規は聞いています。

 「今は一字不通の匹夫匹婦も旅順平壌を隣のやうに覚えて蝦夷よりも琉球よりも近き心地ぞすなる」

 と、子規はその会話を聞いての感慨を述べています。

 市川→幕張→四街道などの各停車場を経て、汽車は「佐倉停車場」に到着。

 「佐倉停車場」から佐倉の町までは、「野道二三町許り(ばかり)」で、泥濘の新道の両側に建つ茶店などはまだ新築されて間もないもので、「佐倉の町は平野の中に一段高き処」にありました。

 その台地の上に子規は薬師坂か漆坂を通って上がり、左に士族町を見て右折。城下町に入ると、「清国捕虜廠舎」と墨書された門があり、その前には護衛の兵士が剣を持って立っており、門内には青竹の矢来がめぐらされた茅葺きの家がありました。

 その茅葺きの家は、「海隣寺といふ寺」でした。

 子規は、遠くここに連れて来られて「神州の粟」を食べている清国人捕虜の「心の中」を推測しています。

 子規は坂(海隣寺坂─鮎川)を下れば堀があって、その「堀の内は昔の城にて、今の営所なりとか」と記していますが、この「営所」が「佐倉歩兵第二連隊」であり、この「佐倉歩兵第二連隊」(3309名)はその年9月27日に佐倉を出発。10月24日と25日に遼東半島の花園口に上陸し、11月21日午前1時より旅順総攻撃を開始しています。

 子規はおそらく「佐倉第二連隊」が旅順総攻撃に加わっていることを知っており、かつて訪れたことがある佐倉への「発句枕」の旅を、延長したばかりの総武鉄道に乗って行おうと思い立ったのです。

 その車中では、老婆が旅順攻撃に加わった息子と思われる兵士の話をし、佐倉では清国人捕虜(多くは平壌戦で捕虜となった兵士)が収容されている海隣寺の「清国捕虜廠舎」の門前に立ったのです。

 子規は、そこからもと来た道を引き返し、「佐倉停車場」から「本所停車場」まで汽車に乗り、その日のうちに上根岸の自宅に戻り、その数日後の12月30日付『日本』新聞に、子規の「総武鉄道」という記事が掲載されました。

 子規が佐倉を訪れた時は「佐倉歩兵第二連隊」であったのが、明治42年(1909年)になると、それは「佐倉歩兵第五十七連隊」となり、千葉県下の若者のみが入隊する「郷土部隊」となりました。

 徴集の範囲(連隊区)は、千葉県のみになったのです。

 それまでの「佐倉歩兵第二連隊」は、千葉県以外に茨城・栃木など関東各県から徴集された青年たちが入営していました。

 「佐倉歩兵第二連隊」は、千葉県民からは「郷土部隊」と呼ばれ、地元民(佐倉町人)からは「兵隊屋敷」と呼ばれていたようです。また「城」とも呼ばれていました。

 佐倉では、家族・親類に付き添われ、県内各地から集まった入営者たちの多くが町の旅館に前泊し、翌日には営門をくぐる姿が見られたという。

 この「営門」があったところが、佐倉街道(成田街道)に沿って外堀があったところ、現在の国立歴史民俗博物館の入口のところであったのです。

 この千葉県の「郷土部隊」である「佐倉歩兵第五十七連隊」が、「満州国」の対ソ国境を固めるべく、佐倉兵営を出発するのは昭和11年(1936年)5月22日のこと。

 5月28日に大連に入港した連隊は、チチハルに移動し、9月下旬になるとチチハルから満州国奉天省本渓県に移動。その間、7月には日中戦争が勃発しています。

 昭和14年(1939年)7月には、速射砲中隊60名が「ノモンハン事件」に出動し壊滅しています(7月17日)。

 南方戦局悪化により、「佐倉歩兵第五十七連隊第三大隊(谷島大隊)」は、昭和19年(1944年)2月に満州最奥部の黒河省孫呉を出発。3月にグアムに上陸しますが、7月21日にアメリカ軍が5500の兵力でグアムに上陸。そのアメリカ軍との戦闘により、第三大隊628名のうち生き残った者はわずか63名でした。

 同昭和19年(1944年)10月、「佐倉歩兵第五十七連隊(宮内連隊)」は上海を出航。11月1日にレイテ島西岸のオルモックに上陸。

 11月5日よりリモン峠でアメリカ軍と交戦を開始。

 2541名のうち、生存者(8月15日の時点における)はわずか114名でした。

 フィリッピンのミンドロ島で捕虜となった大岡昇平は、昭和20年(1945年)1月に、捕虜としてレイテ島タクロバンの捕虜収容所に送られ、その捕虜仲間からレイテの戦況を聞き、昭和23年(1948年)に、それを『俘虜記』として発表します。

 そして昭和42年(1967年)1月から44年(1969年)7月にかけて『中央公論』に『レイテ戦記』を連載します。

 「死んだ兵士たちに」とあるように、それは大岡昇平の、レイテ島をはじめとする南太平洋で、あるいはアジア・太平洋戦争で戦死した兵士たちに対しての鎮魂・供養のための文学作品でした。

 レイテ島で「玉砕」した兵士たちの多くは、「佐倉歩兵第五十七連隊(宮内連隊)」の兵士たちであり、それは千葉県の「郷土部隊」であったのです。

 グアムでほぼ全滅したのは、「佐倉歩兵第五十七連隊第三大隊(谷島大隊)」であり、それもやはり、千葉県の「郷土部隊」であったのです。

 銚子市の浄国寺の戦没兵士のお墓も、また富津市の戦没兵士のお墓も、その戦死した場所は、満州であり、中国であり、グアムであり、レイテ島であり、また硫黄島であったりしました。

 よく調べてみれば、南太平洋のグアム島やレイテ島で戦死・餓死した青年たちが多いのではないか。

 青木村の人々から忠魂碑の碑文を依頼された尾崎行雄は、そのあたりの事情を知っていたかどうかははっきりとはわかりませんが、おそらくそのことを知っていたのではないか。

 昭和20年3月10日未明、東京はアメリカ軍による大空襲を受けますが、その帰途、米軍は余った焼夷弾や爆弾を利根川河口部の港町銚子に落とします。これが第1回目の銚子における空襲でした。

 2回目は7月19日で、この日、アメリカ軍の戦略爆撃機B29、91機などが約3000発の焼夷弾と150発の爆弾を投下。

 焼夷弾はM69焼夷弾であり、それは48発の子爆弾(ナパーム弾)となって飛び散りました。ということは15万発ほどのナパーム弾が落下したことになる。

 それによる焼失家屋は4000余。300人以上の死者と1000人以上の負傷者が出ました。

 「この被害規模は人口比で比較すると東京大空襲にもまさるとも劣らないものである」という。

 この銚子空襲により、大里家の土蔵に大切に保管されていた崋山の『刀祢河游記』は、直撃弾を受けて土蔵もろとも焼失してしまいました。

 工業都市でも軍事都市でもなかった銚子がなぜ、大規模な空襲の標的になったかと言えば、それは「銚子は東京に食料を供給する重要な漁業の中心で、千葉県第二の都市」であったからだという。

 江戸時代以来の、海上水上交通の要衝地(東北と、江戸・東京を結ぶ)であり、また漁業の盛んな湊町であった銚子の発展が、南太平洋を完全制圧したアメリカ軍の空襲の標的となった理由であった、ということでしょうか。


 終わり


○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・『東日本新聞 第1198号』コピー
・『千葉日報』2009.4.2「房総の作家」中谷順子
・「正岡子規の歩いた道」渡部八重子(『うすゐ』第二十一号・臼井文化懇話会)
・『四街道駅前 子規の句碑建立記念誌』(四街道駅前に正岡子規の句碑を建てる会)
・『佐倉連隊にみる戦争の時代』(国立歴史民俗博物館)
・『佐倉の軍隊』(国立歴史民俗博物館友の会 「軍隊と地域」学習会の記録)〔国立歴史民俗博物館振興会〕『続佐倉の軍隊』(同)
・ネット「銚子空襲」

※写真は、「港町銚子の機能とその変容」より引用。「明治26年(1893)における大里庄治郎商店」


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