14:40に「君ヶ浜」の駐車場を出発したのですが、帰途、気になっていたのは、崋山が銚子からどういう景観を眺めながら江戸へのルートを歩いたかということと、もう一つは、越川芳麿さんの奥さまから頂いた、新聞のコピー記事でした。
その新聞記事は、越川芳麿さんが発行していた『東日本新聞』の「1984年6月15日(創刊54周年)」の記事で「青堀の忠魂碑」というもの。
これは「一九五一年(昭和二六年)東日本新聞五月二十五号」(「二十五号」は「二十五日号」のことと思われます─鮎川)より再掲載したものでした。
これによると、昭和26年の5月20日、越川芳麿さんは『東日本新聞社』の「記者」として、「尾崎行雄先生をお送りして」、君津郡青堀町へ行きました。
午前11時に列車が青堀駅に到着すると、そこには町長はじめ町の代表者がずらりと並んで、尾崎行雄の到着を出迎えました。
そこから車で一行が向かったのは、昼食を摂るための「なにがしという鉱泉旅館」であり、その後、尾崎行雄と記者(越川芳麿)らが車で向かったのは「浄信寺」というお寺でした。
なぜ「浄信寺」というお寺へ向かったかと言えば、そこには町が尾崎行雄に揮毫を依頼した忠魂碑が建っているからであり、その忠魂碑を尾崎行雄に見てもらって、「御講演をお願い」するというのが、町が尾崎行雄を招いた理由であったからでした。
この尾崎行雄揮毫の忠魂碑の碑文を呼んだ時の、記者(越川芳麿)の感動と感慨を記したのが、この『東日本新聞』5月25日号の記事(奥さまからコピーでもらったのは、その再掲載記事)であったのです。
「青堀の忠魂碑」とあり、「こシカワよシマロ」と署名されています。
この「こシカワよシマロ」という名前の書き方は、越川芳麿さんが、私淑する尾崎行雄の書き方を真似たもの。
その「青堀の忠魂碑」が気に掛かり、今でもそれはしっかりと残っているのだろうか、その忠魂碑があるという「浄信寺」とは、どういうお寺なのだろう、という興味・関心が湧いてきて、ぜひ、帰途に立ち寄ってみようと思いました。
崋山と小林蓮堂、および崋山の従者の3人が、いつ銚子を出立したか正確なところはわかりません。
文政8年(1825年)の7月15日(旧暦)の夜に、大里庄次郎(桂麿)の誘いで利根川に舟を浮かべて観月をしているから、それ以後のことであることは確かです。
今で言えば、約2週間あるいはそれ以上、銚子に滞在していたことになります。
観月の数日後には、銚子を出立しているのではないか。
『玄蕃日記』を見ると、7月16日は「曇天北風冷気夜分降雨」、7月17日は「快晴」とあり、可能性としてこの7月17日に出立したのではないかという推測が生まれます。
もしこの日に出立したとしたら、翌18日は「雨天」であり、19日は「曇天雨天少々雷鳴」、20日は「曇天」であり、江戸へ戻る道中は天気に恵まれなかったことになります。
崋山が銚子からの帰途、取ったルートは、利根川水運(木下茶船)を利用したものではなく、「第二巻図一路程図」によれば、松岸→芝崎(海上郡柴崎村・現在の銚子市柴崎)→成田(海上郡成田村・現在の旭市大字ロ)→太田(匝瑳〔そうさ〕郡太田村・現在の旭市大字ニ)→八日市場(匝瑳郡八日市場村・現在の匝瑳市八日市場)→松山(匝瑳郡松山村・現在の匝瑳市松山)→中村(香取郡南・北中村、南並木村、南借当〔かりあて〕村・現在の香取郡多古町南北・中、南並木、南借当)→多古(香取郡多古村・現在の香取郡多古町多古)→賀茂(武射〔むしゃ〕郡賀茂村)→成田(現在の成田市成田)→酒々井(しすい)→佐倉(現在の佐倉市)→臼井(現在の佐倉市臼井)→大和田(現在の八千代市大和田新田)→船橋(現在の船橋市本町)→行徳→江戸、というものでした。
下総の行徳河岸から、「行徳船」に乗って江戸日本橋小網町に到着したことがわかります。
この「行徳船」の利用は、往路と同じ。
崋山一行は、銚子→旭→多古→成田→佐倉→船橋→行徳までを陸行し、行徳から水行(行徳船)したことになります。
往路から考えて三泊四日ほど、あるいは急いだのであれば二泊三日ほどの行程ではなかったか。
ということで私も、帰途は多古あたりまで同じ行程をたどり(車で)、多古あたりから富津方面へと向かうことにしました。
袖ヶ浦で一泊し、翌朝、富津の「浄信寺」門前に到着したのは、8:25でした。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
その新聞記事は、越川芳麿さんが発行していた『東日本新聞』の「1984年6月15日(創刊54周年)」の記事で「青堀の忠魂碑」というもの。
これは「一九五一年(昭和二六年)東日本新聞五月二十五号」(「二十五号」は「二十五日号」のことと思われます─鮎川)より再掲載したものでした。
これによると、昭和26年の5月20日、越川芳麿さんは『東日本新聞社』の「記者」として、「尾崎行雄先生をお送りして」、君津郡青堀町へ行きました。
午前11時に列車が青堀駅に到着すると、そこには町長はじめ町の代表者がずらりと並んで、尾崎行雄の到着を出迎えました。
そこから車で一行が向かったのは、昼食を摂るための「なにがしという鉱泉旅館」であり、その後、尾崎行雄と記者(越川芳麿)らが車で向かったのは「浄信寺」というお寺でした。
なぜ「浄信寺」というお寺へ向かったかと言えば、そこには町が尾崎行雄に揮毫を依頼した忠魂碑が建っているからであり、その忠魂碑を尾崎行雄に見てもらって、「御講演をお願い」するというのが、町が尾崎行雄を招いた理由であったからでした。
この尾崎行雄揮毫の忠魂碑の碑文を呼んだ時の、記者(越川芳麿)の感動と感慨を記したのが、この『東日本新聞』5月25日号の記事(奥さまからコピーでもらったのは、その再掲載記事)であったのです。
「青堀の忠魂碑」とあり、「こシカワよシマロ」と署名されています。
この「こシカワよシマロ」という名前の書き方は、越川芳麿さんが、私淑する尾崎行雄の書き方を真似たもの。
その「青堀の忠魂碑」が気に掛かり、今でもそれはしっかりと残っているのだろうか、その忠魂碑があるという「浄信寺」とは、どういうお寺なのだろう、という興味・関心が湧いてきて、ぜひ、帰途に立ち寄ってみようと思いました。
崋山と小林蓮堂、および崋山の従者の3人が、いつ銚子を出立したか正確なところはわかりません。
文政8年(1825年)の7月15日(旧暦)の夜に、大里庄次郎(桂麿)の誘いで利根川に舟を浮かべて観月をしているから、それ以後のことであることは確かです。
今で言えば、約2週間あるいはそれ以上、銚子に滞在していたことになります。
観月の数日後には、銚子を出立しているのではないか。
『玄蕃日記』を見ると、7月16日は「曇天北風冷気夜分降雨」、7月17日は「快晴」とあり、可能性としてこの7月17日に出立したのではないかという推測が生まれます。
もしこの日に出立したとしたら、翌18日は「雨天」であり、19日は「曇天雨天少々雷鳴」、20日は「曇天」であり、江戸へ戻る道中は天気に恵まれなかったことになります。
崋山が銚子からの帰途、取ったルートは、利根川水運(木下茶船)を利用したものではなく、「第二巻図一路程図」によれば、松岸→芝崎(海上郡柴崎村・現在の銚子市柴崎)→成田(海上郡成田村・現在の旭市大字ロ)→太田(匝瑳〔そうさ〕郡太田村・現在の旭市大字ニ)→八日市場(匝瑳郡八日市場村・現在の匝瑳市八日市場)→松山(匝瑳郡松山村・現在の匝瑳市松山)→中村(香取郡南・北中村、南並木村、南借当〔かりあて〕村・現在の香取郡多古町南北・中、南並木、南借当)→多古(香取郡多古村・現在の香取郡多古町多古)→賀茂(武射〔むしゃ〕郡賀茂村)→成田(現在の成田市成田)→酒々井(しすい)→佐倉(現在の佐倉市)→臼井(現在の佐倉市臼井)→大和田(現在の八千代市大和田新田)→船橋(現在の船橋市本町)→行徳→江戸、というものでした。
下総の行徳河岸から、「行徳船」に乗って江戸日本橋小網町に到着したことがわかります。
この「行徳船」の利用は、往路と同じ。
崋山一行は、銚子→旭→多古→成田→佐倉→船橋→行徳までを陸行し、行徳から水行(行徳船)したことになります。
往路から考えて三泊四日ほど、あるいは急いだのであれば二泊三日ほどの行程ではなかったか。
ということで私も、帰途は多古あたりまで同じ行程をたどり(車で)、多古あたりから富津方面へと向かうことにしました。
袖ヶ浦で一泊し、翌朝、富津の「浄信寺」門前に到着したのは、8:25でした。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
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