銚子市公正図書館の駐車場に車を停めて、ドアを開けて外に出ると、独特の香りが体全体を包みます。初めて公正図書館を訪れて、その香りに接した時、この香り(匂い)はどこから来るのだろうと思ったところ、通りを隔てた真向いに「ヤマサ醤油」の大きな工場があり、「ああ、これは醤油の匂いなんだ」と、銚子が「醤油の町」でもあることを実感した覚えがあります。
公正図書館で閲読したのは、
①『田中玄蕃日記 要用記』の「文政八年」のもの。これにより、この年7月から8月にかけての田中玄蕃の動静や銚子の天候を知ることができました。「大里庄次郎」の名前も出て来ます。
②『歴史地理学調査報告 第8号』(筑波大学歴史人類学系歴史地理学研究室)。これに今までずっと参考にしてきた「港町銚子の機能とその変容─荒野地区を中心として」〔舩杉力修・渡辺康代〕という論文がおさめられています。越川さんから教えられた論文ですが、私にとって得難い論文でした。
の2冊。
その公正図書館を出て、銚子大橋を車で渡って、ふたたび波崎(はさき)の岸辺に到着したのが12:59。
岸辺に面した公園のようなところですが、川面のやや先に防潮堤が長々と延びていて、これがまず崋山の描いた景観とは大きく異なるところ。両方からの防潮堤が途切れるところから、飯沼観音の位置を見定めて、対岸の景色を撮影しました。
飯沼観音の背後には丘陵があり、これが崋山の描く「御前鬼山(ごぜんきやま)」と思われますが、崋山の描くように「二瘤(ふたこぶ)」の山ではありません。戦後の開発で削られたのでしょうか。かつてはここに銚子地方気象台があったという。標高は25mほどであったといい、それほど高い山ではなかったようですが、空襲で焼け野原になった時、銚子のどこからもその「御前鬼山」がよく見えたとのこと。
崋山は、ここから見える景色をかなりクローズアップして描いており、また下総台地の起伏(特に御前鬼山)もやや誇張して描いているように思われます。
通りを少し歩いてみると、「見晴坂通りと見晴坂広場」と刻まれた、真新しい黒御影石の石碑を見つけました。
その石碑の裏面には、次のように刻まれていました。
「見晴坂通りと見晴坂広場は、東仲島周辺地区の住環境整備事業によって、仲町で初めてつくられたものです。昔、この辺りには、渡船場や自動車渡船場、海難救助會倉庫などがあり、川からの玄関口として利根川との結びつきが特に強い場所でした。このことにちなんで広場を波崎町と利根川を形どった水路を設けました。 平成十一年三月」
つまり、ここは波崎と対岸の銚子とを結ぶ渡し船の発着場(渡船場)であったことになります。
昔から「見晴坂」であったかどうかはわかりませんが、内陸部へとやや坂道になっており、そこからは渡船場が見え、そして幅の広い、湖のような利根川が見え、その向こうにその利根川岸に沿った銚子の家並みが見えたのです。
現在は手前の岸辺は岸壁になっており、コンクリートでその表面は広く覆われているものの、晴れ晴れとするような景観の広がりは、崋山の絵と同様です。
崋山の絵の手前は海に突き出したかなり広い砂浜のようであり、その中央に、岸辺に接岸している渡し船らしき船一隻と、砂浜に引き上げられているやはり渡し船のような船一隻が描かれています。
またその手前には二本差しの侍らしき人物と、その従者らしき男が描かれています。
この二人連れは、たとえば「「新町大手、町奉行やしき」にも、「霧ヶ浜ヨリ海鹿島ヲ見る」などにも登場し、崋山自身とその従者あるいは道連れであった友人の小林蓮堂を描いたとも思われるものです。
これに描かれる二隻の船はおそらく渡し船であり、そうであるとすると、崋山はこの絵に描かれる渡し船を利用して、銚子からこの波崎にやってきたと思われる。
渡し船は日に何度も、毎日運航していたはずであり、崋山は行こうと思えばいつでも利根川を渡って波崎に行くことができたはず。
そう考えると、崋山は、この絵の素描をまず潮来から銚子に到着する直前に波崎で描き、それから何度かこの波崎に渡し船でやって来て、丹念に描き加えていったものと思われてきます。
銚子滞在を続けることで、銚子の町の様子が詳しく分かってくると、それも念頭に置きながら、崋山は、銚子の町並み全体をこの一枚や「松岸より銚子を見る図」に、力を込めて描こうとしたのではないか、と私は考えるようになりました。
続く
○参考文献
・「港町銚子の機能とその変容」(舩杉力修・渡辺康代)
・『田中玄蕃日記 文政八年』
・『定本渡辺崋山 第Ⅱ巻』(郷土出版社)
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・『宮負定雄 下総名勝図絵』川名登編(国書刊行会)
・『房総の山河 一茶漂泊』井上修之介(崙書房)
公正図書館で閲読したのは、
①『田中玄蕃日記 要用記』の「文政八年」のもの。これにより、この年7月から8月にかけての田中玄蕃の動静や銚子の天候を知ることができました。「大里庄次郎」の名前も出て来ます。
②『歴史地理学調査報告 第8号』(筑波大学歴史人類学系歴史地理学研究室)。これに今までずっと参考にしてきた「港町銚子の機能とその変容─荒野地区を中心として」〔舩杉力修・渡辺康代〕という論文がおさめられています。越川さんから教えられた論文ですが、私にとって得難い論文でした。
の2冊。
その公正図書館を出て、銚子大橋を車で渡って、ふたたび波崎(はさき)の岸辺に到着したのが12:59。
岸辺に面した公園のようなところですが、川面のやや先に防潮堤が長々と延びていて、これがまず崋山の描いた景観とは大きく異なるところ。両方からの防潮堤が途切れるところから、飯沼観音の位置を見定めて、対岸の景色を撮影しました。
飯沼観音の背後には丘陵があり、これが崋山の描く「御前鬼山(ごぜんきやま)」と思われますが、崋山の描くように「二瘤(ふたこぶ)」の山ではありません。戦後の開発で削られたのでしょうか。かつてはここに銚子地方気象台があったという。標高は25mほどであったといい、それほど高い山ではなかったようですが、空襲で焼け野原になった時、銚子のどこからもその「御前鬼山」がよく見えたとのこと。
崋山は、ここから見える景色をかなりクローズアップして描いており、また下総台地の起伏(特に御前鬼山)もやや誇張して描いているように思われます。
通りを少し歩いてみると、「見晴坂通りと見晴坂広場」と刻まれた、真新しい黒御影石の石碑を見つけました。
その石碑の裏面には、次のように刻まれていました。
「見晴坂通りと見晴坂広場は、東仲島周辺地区の住環境整備事業によって、仲町で初めてつくられたものです。昔、この辺りには、渡船場や自動車渡船場、海難救助會倉庫などがあり、川からの玄関口として利根川との結びつきが特に強い場所でした。このことにちなんで広場を波崎町と利根川を形どった水路を設けました。 平成十一年三月」
つまり、ここは波崎と対岸の銚子とを結ぶ渡し船の発着場(渡船場)であったことになります。
昔から「見晴坂」であったかどうかはわかりませんが、内陸部へとやや坂道になっており、そこからは渡船場が見え、そして幅の広い、湖のような利根川が見え、その向こうにその利根川岸に沿った銚子の家並みが見えたのです。
現在は手前の岸辺は岸壁になっており、コンクリートでその表面は広く覆われているものの、晴れ晴れとするような景観の広がりは、崋山の絵と同様です。
崋山の絵の手前は海に突き出したかなり広い砂浜のようであり、その中央に、岸辺に接岸している渡し船らしき船一隻と、砂浜に引き上げられているやはり渡し船のような船一隻が描かれています。
またその手前には二本差しの侍らしき人物と、その従者らしき男が描かれています。
この二人連れは、たとえば「「新町大手、町奉行やしき」にも、「霧ヶ浜ヨリ海鹿島ヲ見る」などにも登場し、崋山自身とその従者あるいは道連れであった友人の小林蓮堂を描いたとも思われるものです。
これに描かれる二隻の船はおそらく渡し船であり、そうであるとすると、崋山はこの絵に描かれる渡し船を利用して、銚子からこの波崎にやってきたと思われる。
渡し船は日に何度も、毎日運航していたはずであり、崋山は行こうと思えばいつでも利根川を渡って波崎に行くことができたはず。
そう考えると、崋山は、この絵の素描をまず潮来から銚子に到着する直前に波崎で描き、それから何度かこの波崎に渡し船でやって来て、丹念に描き加えていったものと思われてきます。
銚子滞在を続けることで、銚子の町の様子が詳しく分かってくると、それも念頭に置きながら、崋山は、銚子の町並み全体をこの一枚や「松岸より銚子を見る図」に、力を込めて描こうとしたのではないか、と私は考えるようになりました。
続く
○参考文献
・「港町銚子の機能とその変容」(舩杉力修・渡辺康代)
・『田中玄蕃日記 文政八年』
・『定本渡辺崋山 第Ⅱ巻』(郷土出版社)
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・『宮負定雄 下総名勝図絵』川名登編(国書刊行会)
・『房総の山河 一茶漂泊』井上修之介(崙書房)
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