鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「外川・松岸・波崎・高田・犬吠埼」 その3

2012-01-18 05:52:13 | Weblog
 その「地蔵院」のお堂の右側手前に、本堂のような建物があり、そこに黒御影石の石碑があって、由来が刻まれていました。

 それによると、この「地蔵院」は、永禄2年(1559年)に建立されたもので、慶安2年(1649年)に、6代目宮内清右衛門の菩提寺を開放寄進したものであるという。

 真言宗智山派のお寺であり、この利根川流域には真言宗のお寺が圧倒的に多いことについては前に触れたことがあります。

 参道左側の墓地内に入って、宮内家の代々の墓を探してみました。宮内家と刻まれた墓がかなりありましたが、「宮内清右衛門」と刻まれた墓は見つからず、たまたま出てこられた住職の奥さまらしき人に声を掛け、「宮内清右衛門」代々の墓に案内してもらいました。

 そこには歳月を経た、五輪塔のような立派なお墓が横にずらりと並んでいました。これが代々の「宮内清右衛門」のお墓でした。

 住職の奥さまらしき方としばらく話を交わしましたが、その方のお話によると、高田の年輩の人たちには水運関係の仕事に従事していた人がいるとのこと。現在直線道路になっている道路(旧街道=「銚子みち」)はかつては曲がりくねっており、お寺の墓地ももっと広かったらしい。しかもかつては利根川はもっと近くを流れていたという。

 宮内本家(かつての清右衛門家)には現在は一人の方が住んでいるだけで、子孫は他所に住んでおり、時々お墓詣りに来られるとのこと。

 高田は、宮内姓が一番多く、かつてはほとんどの土地が宮内家のものであり、この墓地の墓の中には、宮内家の使用人のお墓もあるとのことでした。

 ほんの隣のお墓に「石碑」があって、そこに詳しいことが書かれているということで、その石碑を見てみました。

 その黒御影石の立派な石碑には、「宗家宮内清右衛門」とあって、次のようなことが刻まれていました。

 第一世の右京亮秀行は千葉一族の東氏より出て、高田村で「漁海漕運」を営んでいた豪農の宮内家を継ぎ、千葉介親胤の武将となる。永禄3年(1560年)、千葉介胤冨より「房州上総下総三カ国許商売状」を得て、千葉氏の商人頭を務めていたが、三世正蓮が、臣族数十人とともに高田村に帰農し、その三世正蓮より代々清右衛門と称するようになる。徳川時代になっても権益を残し、歴代、土地の代官職兼名主を務める。

 「清左衛門濱宅由来」には、次のようなことが刻まれていました。

 十世清右衛門定賢は長沼手賀沼印旛沼開拓を志して、後室の父である侍医坂輪玄瑞を介して、時の老中田沼意次に懇請してまず長沼開墾に着手し、巨費を投ずるものの、田沼意次の失脚によりその宿志を果たせずして、長男に清右衛門職を譲って、名前を清左衛門と改めて「濱宅」と称し、その祖となる。天明の飢饉に遭遇した際、清左衛門は高田村に碇泊所がないことを憂いていたが、意を決して救助普請を起こして窮民を賑恤した。

 清左衛門の三男高重は潮来宮本家に婿入りして十代宮本平右衛門となり、考証学者宮本茶村はこの高重の次男として生まれる。

 ほかにも興味深い記述がありましたが、ここで嬉しかったことは「宮本茶村」の名前にぶつかったこと。

 崋山は潮来五丁目に住む宮本茶村(尚一郎)を、「四州真景」の旅の途中訪ねていますが、この宮本茶村の父親(宮本平右衛門)は、この高田村の十代宮内清右衛門(後、清左衛門=「濱宅」)の三男であり、ここで生まれ育ったことになります。

 つまり茶村にとっては、ここは父親の生まれ故郷であり、父平右衛門らとともに先祖の墓参りなどにやってきたはず。

 潮来から「さっぱ舟」に乗って高田河岸に上陸し、この高田村の宮内清左衛門家や代々の宮内清右衛門のお墓があるこの地蔵院を訪ねていることが十分に考えられます。

 高田河岸は、銚子湊や潮来、また利根川水系の各河岸、そして江戸などと密接な水運上のつながりがあり、高田村の宮内家は、潮来の名家である宮本家とも頻繁な往来や交流があったものと思われます。

 その地蔵院を出て、前に歩いた利根川の堤防沿いの道へと出てみました。

 河岸へと通ずる道がかつては賑わっていたはずですが、現在は、途中で新旧の道路のために行き止まりとなり、かつてはもっと近くにあったという高田河岸はまったくその名残を留めていません。

 わずかに旧街道から河岸へと向かう道の入口に、ナマコ壁の土蔵や赤レンガ積みの重厚な煉瓦塀などがあって、かつての河岸場としての高田村の繁栄を伺うことができました。

 道を戻って車に乗り、それから銚子市公正図書館へと向かいました(10:11)。


 続く


○参考文献
・『続高瀬船』渡辺貢二(崙書房)
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)


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2 コメント

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高田・宮内清右衛門 (宮内)
2012-03-04 21:38:55
銚子高田清右関連の貴ブログを偶然拝見しました。
当家は清左衛門濱宅家です。
HP「濱宅資料館」を立ち上げています。
検索していただき、ご覧いただければ幸いです。
茶村、関戸覚蔵(自由民権運動活動家)、田中玄ば、などの関連も載せています。
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宮内さんへ (鮎川俊介)
2012-03-06 05:22:49
 HP「濱宅資料館」を早速拝見させていただきました。特に宮本茶村と関戸覚蔵の関連記事を興味深く読ませてもらいました。

 高田の地蔵院や宮内家については、銚子の越川行雄さんから教えていただき、以前利根川沿いに通過したところであることを思い出しつつ、あの日の朝、今度は車で高田へと向かいました。

 渡辺崋山は潮来にわざわざ宮本茶村を訪ねていますが、その茶村と高田の宮内清右衛門家との深いつながりを知ることができたのは、墓地内にあった立派な石碑に刻まれた碑文のおかげでした。

 その石碑のほん傍に整然と立ち並んでいた宮内本家の代々のお墓の、歴史の厚みを感じさせる古色蒼然とした姿も印象的でした。

 かつての利根川水運の隆盛ぶりや、それをもとにした村人たちの人的・文化的ネットワークの緊密さを、肌に感じ取りました。

 貴HP「濱宅資料館」の、さらなる充実と発展を期待しております。

 また、今後ともよろしくお付き合いください。    
                 鮎川俊介
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