鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.冬の取材旅行 「外川・松岸・波崎・高田・犬吠埼」 その1

2012-01-16 05:58:26 | Weblog
 翌朝は銚子電鉄の赤い電車に乗って外川(とかわ)に向かいました。

 車内ポスターに、「銚子電鉄ぬれ煎餅アイス」というのがあって、「Produced by 銚子商業高校 販売価格210円」とありもまた「・地域活性化プロジェクト・高校生が企画する新商品開発 銚子の名産品を使用して夏の新銘菓を開発!」と記されていました。

 地域の農業学校などが、学校で生産したものを使って商品を開発し、地域の活性化に寄与して地域の人々に喜ばれているという話は、私の住んでいる神奈川県でもしばしば耳にしています。

 「『犬吠駅』売店にて絶賛発売中」とポスターの一番下に記されています。

 外川駅に到着したのは、6:45頃。

 駅を出ると、すく左手に「NHK連続テレビ小説 『澪つくし』のロケ風景」という看板があり、それによると、銚子電鉄は主人公かおるの通学や銚子と外川を結ぶ交通手段として何度も登場したとのこと。

 ここは『澪つくし』の舞台の一つであったのです。

 駅舎は、その看板に描かれたのとほぼ同じでした。「驛川外」が「外川駅」になり、看板が「澪つくし」の白い看板に変わっているのが大きな違い。

 たたずまいはほとんど一緒で、かつては台地上の畑みたいなところに建っていたのではないか。現在はまわりは住宅地になっています。

 「外川の街並」と書かれた案内板もあって、それによれば、外川の街並は、紀州和歌山から移住してきた崎山治郎右衛門が、万治元年(1658年)に外川漁港を築港した際に、計画的に造られたという。港を中心に碁盤の目状に広がる坂道には、昔ながらの石畳も残っているとのこと。

 外川駅と新旧並んだ赤い電車をデジカメで撮影した後、駅前の道を海の方へと歩いていきました。

 その狭い舗装道路の下り坂の先には、冬の太平洋が、沿道両側の家の間からのぞいていました。

 いったん海岸道路に出て、「活魚問屋メ島長」と記された建物の壁などを見て、今度は別の坂道を上に向かって歩いてみました。

 途中の、坂道と坂道を結ぶ横道の東側から、まばゆいばかりのオレンジ色の朝日が差し込んでいました(7:02)。ということは、この外川の碁盤目状の町は、ほぼ海に向かって南面していることになります。

 私が今上っている坂道の両側にはいくつか商店があり、これが外川のメインロードのよう。

 上りきった後、今度はまた別の坂道を下ってみました。

 下りきった海岸の通りに面して、「銚子市漁協外川支所」の2階建て鉄筋コンクリートの建物があり、その1階部分から漁港が見えました。

 漁港の岸壁に出ると、漁船が密集しており、東方向から差し昇ったばかりの朝日が輝き、それは海面と漁船の船側にまばゆく反射していました。

 そこから見ると、漁港の左手は丘陵(台地)となっており、その斜面に家々が建ち並んでいます。

 先の案内板に記されていたように、紀州から移住してきた崎山治郎右衛門が、その丘陵の斜面に碁盤目の道を造って地割を行い、それにしたがってその後人家が建てられていったのでしょう。

 もともとは丘陵(台地)の、海に面したなだらかな斜面であったのです。

 海鹿島(あしかじま)の漁村も、小規模ながら、丘陵の海に面した斜面に形成されたものであることを想起しました。

 そこからまた別の坂道を上がっていくと、途中に「2011.3.11 ツナミ」と白いペンキで書かれているのを見つけました。

 この地点は、海岸に沿った道路の上だから、海面から2m近くはあるかも知れない。

 一昨日、ここに立ち寄った時には、地震による津波の影響はほとんど見掛けられないと判断したのですが、大津波はこの外川港にもたしかに押し寄せていたのです。

 しかし斜面上に建つ人家には、それゆえに大きな被害は生じなかったようです。

 人家には黒い瓦葺きで黒板壁の年輪を経た家もありますが、多くは新建材で建てられたものが多くなっており、漁村の多くがそうであるように建てこんではいるものの、明るい雰囲気があります。

 路地のような横道などにも入って、縦横に外川の街並みの中を歩いた後、見覚えのある坂道を上がっていくと、正面に外川駅の駅舎が見えました。

 駅前の別の案内板には、外川町にある8つの坂道の由来について詳しく記されていました。

 海岸へと下っていく坂道に、それぞれ名前が付いていて、その歴史的由来もあるというのが面白い。

 東側から順に、①王路(おうみち)②阿波(あんば)通り③長屋通り④新浦通り⑤一条通り⑥一心(いっしん)通り⑦本浦通り⑧条坊通り、というもの。

 外川駅から続いている坂道は、「新浦通り」という名前でした。

 「一心通り」が、かつての外川のまちの中心であったという。

 「一条通り」は、現在の「県道銚子外川港線」で、一本道で銚子へ行けることから「一条通り」と呼ばれるようになったと言われているとのこと。この道が、現在は外川のメインロードとなっています。

 西側の「本浦」に面したところが早く開け、その後「新浦」に面した東側が開かれていったのでしょう。

 現在はその碁盤目状の街並みの外側にも、また台地上にも住宅が広がっています。

 7:44に外川駅を出発して、銚子駅へと戻り、そこから浄国寺にふたたび立ち寄った後、銚子大橋を渡って波崎へと向かいました。

 波崎へは、2010年の冬の取材旅行で立ち寄ったことがありますが、今回は、崋山が波崎から利根川の河口部越しに銚子の町並みを描いた地点はどこかを、確かめたいと思いました。


 続く


○参考文献
・「港町銚子の機能とその変容」舩杉力修・渡辺康代


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