川口神社には、大きな石鳥居と長い参道、そして長い石段がありました。
「川口神社」と額の掛かる「一の鳥居」(石鳥居)は、今まで利根川・鰐川・常陸利根川べりなどにあった「一の鳥居」の場所から考えて、川岸のほんそばにあったものと思われます。
今までの例でいうと、岸からすぐに「一の鳥居」を潜って参道に入り、「二の鳥居」あるいは「三の鳥居」を潜っていくのです。
現在は舗装道路があったり海岸部が護岸工事をされているために、直接、川岸から上がることはできないようです。
石畳の整備された参道を進むと、旧道と思われる道路と交わり、そこに「二の鳥居」(石鳥居)があって、そこから登りの石段となります。この石段もかなり整備されていて、両側には石製の玉垣が続いており、その長い石段を、足腰を鍛えるためか駆け上っている母娘がいます。
その石段を「三の鳥居」(石鳥居)を潜って上がりきると「四の鳥居」(石鳥居)があって、その正面に川口神社の社殿がありました。
その手前の参道両側には、古そうな狛犬や、石灯籠、「奉 仲吉丸」「奉 伊東丸」などと記された木製の灯籠が並んでいます。
鈴の下がる社殿には入り組んだ彫刻が施されており、かなり年輪を経ている社殿のように見受けられました。
石段の上から振り返ってみると、「三の鳥居」の上に利根川河口部が広がっていました。
石段と参道は、ほぼ直線的に、その利根川河口部の川岸へと延びています。
つまり、社殿は、まっすぐに利根川河口部を見下ろしていることになる。
石段を下っていくと、右手に「松陰先生曾遊之地」という石碑が立っているのを見つけました。
説明板は何もありませんでしたが、かつて吉田松陰はここを訪れたことがあるのです。
途中の石灯籠には「文政十丁亥年九月」という文字があり、これが文政10年(1827年)に寄進されたものであることがわかります。崋山が銚子に来訪した2年後のことになり、崋山はこの石灯籠を目にしてはいない。
この川口神社(川口明神)は、宮負定雄(やすお)が「下総銚子川口明神」という絵に描いていますが、それを見る限りでは鳥居は一つしか描かれていません。
「千人塚」や「川口明神」の付近も、現在のように人家が密集しているようには見えません。
宮負は、「平磯の波打ち際を過ぎ、千人墳(千人塚のこと─鮎川)を右に見て、めおとが鼻にいたる」と書いているから、川口明神の「一の鳥居」があったとすれば、それは、利根川河口部の「平磯の波打ち際」にあったものと思われます。
次に向かったのは「和田不動堂」。
崋山は、銚子滞在中にこの和田不動堂を訪れ、そこから「和田不動道より海ヲ見ル」と記された絵を描いています。
ここからかなり見晴らしがよかったようで、崋山は、眼下手前に広がる銚子(かつての飯沼村飯貝根〔いがいね〕あたり)の家並み、その向こうの利根川河口部の流れ、その川向こうの波崎(はさき)とそこから延びる常陸の海岸(鹿島灘)を描いています。
この常陸の海岸のはるか先には、前年に、イギリス船の乗員11名がボートで上陸するという大事件が発生した大津浜があり、崋山はそれを意識しながらこの絵を描いたという想定も可能性としては成り立ちます。
この和田不動堂を探すのに、少し道を迷いました。
和田不動堂は、「東部不動ヶ丘公園」というところにありました。
その参道の入口には古い常夜燈(石灯籠)があって、左側の方は台石はあるものの上の灯籠部は完全になくなっていますが、右側の方はしっかりと上まで残っています。
右側の石灯籠には、「御寶前」「文化八稔辛」と刻まれていて、これが文化8年(1811年)に寄進されたものであることがわかります。
おそらく左側の石灯籠も同じ年に寄進されたものであり、崋山はこの石灯籠を両側に見て、和田不動堂への参道を進んでいったものと思われる。
参道は丘陵斜面の左側にあり、その参道左手下は住宅が密集しています。
「西國同行中」と刻まれた石灯籠もありましたが、これは「天保十二」年(1841年)に寄進されたもの。
右手に「東部不動ヶ丘公園 中央口」と刻まれた石碑があって、そこが不動堂への登り口でした。
両側の石柱には、「奉 和田山」「納 不動堂」と刻まれています。
石段の登り口手前に小さな池のようなものがあって、小さな石橋が架かっており、そこを渡ると石段が始まります。その石段は、高さも石の幅も狭く、苔が生えていたりして、かなり古いもののように思われました。両側と真ん中に手すりが付けられています。
その石段を登りきると、古いお堂があって、これが和田不動堂でした。前面の柱上部の入り組んだ彫刻は、川口神社のそれと似通っています。
ここに広場があり、これが「中央広場」であるようです。しかし、この不動堂の前からは樹木が繁茂していて、眼下に視界は開けません。
「西口広場」があるということなので、そちらの方へ歩いていくと、途中、白いコンクリートの建物の向こうに銚子の町並みと利根川河口部、および対岸の波崎のあたりが見える場所がありました。しかし、そこからは鹿島灘の海岸線は見えません。
「西口広場」へと下り、「植松町青年館」、「銚子植松郵便局」を右手に見て進み、先ほどの参道のところに戻って、ふたたび不動堂への石段を上がりました。
すると、上がったところの右手に「展望台」と記された案内標示があるのを見つけました。その小道は丘陵の崖際へと続く道であって、平たい丸石が敷かれていて、傍らには古い石造物が散在しています。
その道を進むとたしかに小さな展望台があり、そこからはやや樹木の枝葉が視界を遮るものの、崋山の絵のように、眼下手前に銚子の家並み、その向こうに利根川河口部、その対岸に波崎のあたりを眺めることができました。
しかし鹿島灘の海岸部はそこからは見ることが出来ず、崋山が眺め、そしてスケッチしたところはもう少し和田山の東側(和田不動堂の東側)ではなかったか、と思われました。
あるいは、ここからは見えないところの常陸の海岸部を、ことさらに描き込んだのかも知れないのですが、そこのところは確認することができませんでした。
和田不動堂の裏手は、現在は住宅や学校などになっています。しかしかつては山林であったものと思われ、裏手のその山をさらに上へと上がって行けば、崋山が描いたような景観が広がったのかも知れません。
そこから石段を下って、車を停めたところに戻り、車で銚子駅前方向へと向かいました。
続く
○参考文献
・「港町銚子の機能とその変容」舩杉力修・渡辺康代
・『宮負定雄 下総名勝図絵』川名登編(国書刊行会)
・『定本渡辺崋山 第Ⅱ巻』(郷土出版社)
「川口神社」と額の掛かる「一の鳥居」(石鳥居)は、今まで利根川・鰐川・常陸利根川べりなどにあった「一の鳥居」の場所から考えて、川岸のほんそばにあったものと思われます。
今までの例でいうと、岸からすぐに「一の鳥居」を潜って参道に入り、「二の鳥居」あるいは「三の鳥居」を潜っていくのです。
現在は舗装道路があったり海岸部が護岸工事をされているために、直接、川岸から上がることはできないようです。
石畳の整備された参道を進むと、旧道と思われる道路と交わり、そこに「二の鳥居」(石鳥居)があって、そこから登りの石段となります。この石段もかなり整備されていて、両側には石製の玉垣が続いており、その長い石段を、足腰を鍛えるためか駆け上っている母娘がいます。
その石段を「三の鳥居」(石鳥居)を潜って上がりきると「四の鳥居」(石鳥居)があって、その正面に川口神社の社殿がありました。
その手前の参道両側には、古そうな狛犬や、石灯籠、「奉 仲吉丸」「奉 伊東丸」などと記された木製の灯籠が並んでいます。
鈴の下がる社殿には入り組んだ彫刻が施されており、かなり年輪を経ている社殿のように見受けられました。
石段の上から振り返ってみると、「三の鳥居」の上に利根川河口部が広がっていました。
石段と参道は、ほぼ直線的に、その利根川河口部の川岸へと延びています。
つまり、社殿は、まっすぐに利根川河口部を見下ろしていることになる。
石段を下っていくと、右手に「松陰先生曾遊之地」という石碑が立っているのを見つけました。
説明板は何もありませんでしたが、かつて吉田松陰はここを訪れたことがあるのです。
途中の石灯籠には「文政十丁亥年九月」という文字があり、これが文政10年(1827年)に寄進されたものであることがわかります。崋山が銚子に来訪した2年後のことになり、崋山はこの石灯籠を目にしてはいない。
この川口神社(川口明神)は、宮負定雄(やすお)が「下総銚子川口明神」という絵に描いていますが、それを見る限りでは鳥居は一つしか描かれていません。
「千人塚」や「川口明神」の付近も、現在のように人家が密集しているようには見えません。
宮負は、「平磯の波打ち際を過ぎ、千人墳(千人塚のこと─鮎川)を右に見て、めおとが鼻にいたる」と書いているから、川口明神の「一の鳥居」があったとすれば、それは、利根川河口部の「平磯の波打ち際」にあったものと思われます。
次に向かったのは「和田不動堂」。
崋山は、銚子滞在中にこの和田不動堂を訪れ、そこから「和田不動道より海ヲ見ル」と記された絵を描いています。
ここからかなり見晴らしがよかったようで、崋山は、眼下手前に広がる銚子(かつての飯沼村飯貝根〔いがいね〕あたり)の家並み、その向こうの利根川河口部の流れ、その川向こうの波崎(はさき)とそこから延びる常陸の海岸(鹿島灘)を描いています。
この常陸の海岸のはるか先には、前年に、イギリス船の乗員11名がボートで上陸するという大事件が発生した大津浜があり、崋山はそれを意識しながらこの絵を描いたという想定も可能性としては成り立ちます。
この和田不動堂を探すのに、少し道を迷いました。
和田不動堂は、「東部不動ヶ丘公園」というところにありました。
その参道の入口には古い常夜燈(石灯籠)があって、左側の方は台石はあるものの上の灯籠部は完全になくなっていますが、右側の方はしっかりと上まで残っています。
右側の石灯籠には、「御寶前」「文化八稔辛」と刻まれていて、これが文化8年(1811年)に寄進されたものであることがわかります。
おそらく左側の石灯籠も同じ年に寄進されたものであり、崋山はこの石灯籠を両側に見て、和田不動堂への参道を進んでいったものと思われる。
参道は丘陵斜面の左側にあり、その参道左手下は住宅が密集しています。
「西國同行中」と刻まれた石灯籠もありましたが、これは「天保十二」年(1841年)に寄進されたもの。
右手に「東部不動ヶ丘公園 中央口」と刻まれた石碑があって、そこが不動堂への登り口でした。
両側の石柱には、「奉 和田山」「納 不動堂」と刻まれています。
石段の登り口手前に小さな池のようなものがあって、小さな石橋が架かっており、そこを渡ると石段が始まります。その石段は、高さも石の幅も狭く、苔が生えていたりして、かなり古いもののように思われました。両側と真ん中に手すりが付けられています。
その石段を登りきると、古いお堂があって、これが和田不動堂でした。前面の柱上部の入り組んだ彫刻は、川口神社のそれと似通っています。
ここに広場があり、これが「中央広場」であるようです。しかし、この不動堂の前からは樹木が繁茂していて、眼下に視界は開けません。
「西口広場」があるということなので、そちらの方へ歩いていくと、途中、白いコンクリートの建物の向こうに銚子の町並みと利根川河口部、および対岸の波崎のあたりが見える場所がありました。しかし、そこからは鹿島灘の海岸線は見えません。
「西口広場」へと下り、「植松町青年館」、「銚子植松郵便局」を右手に見て進み、先ほどの参道のところに戻って、ふたたび不動堂への石段を上がりました。
すると、上がったところの右手に「展望台」と記された案内標示があるのを見つけました。その小道は丘陵の崖際へと続く道であって、平たい丸石が敷かれていて、傍らには古い石造物が散在しています。
その道を進むとたしかに小さな展望台があり、そこからはやや樹木の枝葉が視界を遮るものの、崋山の絵のように、眼下手前に銚子の家並み、その向こうに利根川河口部、その対岸に波崎のあたりを眺めることができました。
しかし鹿島灘の海岸部はそこからは見ることが出来ず、崋山が眺め、そしてスケッチしたところはもう少し和田山の東側(和田不動堂の東側)ではなかったか、と思われました。
あるいは、ここからは見えないところの常陸の海岸部を、ことさらに描き込んだのかも知れないのですが、そこのところは確認することができませんでした。
和田不動堂の裏手は、現在は住宅や学校などになっています。しかしかつては山林であったものと思われ、裏手のその山をさらに上へと上がって行けば、崋山が描いたような景観が広がったのかも知れません。
そこから石段を下って、車を停めたところに戻り、車で銚子駅前方向へと向かいました。
続く
○参考文献
・「港町銚子の機能とその変容」舩杉力修・渡辺康代
・『宮負定雄 下総名勝図絵』川名登編(国書刊行会)
・『定本渡辺崋山 第Ⅱ巻』(郷土出版社)
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