「心ゆたかな暮らしを」  ~Shu’s Page

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魚三楼~寺田屋騒動~幾松まで

2008年10月01日 | 雑感・日記的な
新撰組にまつわるエピソードは、日本史の中でも大好きな部分なんですが、その幕末史の中の一つ「鳥羽・伏見の戦い」の舞台となった伏見区にある料亭・「魚三楼」に行ってきました。

その銃撃戦の時についたとされる、表玄関の格子に残る弾痕もバッチリ写真に収めてきましたよ



中々風格のあるお店でして、お店の佇まいは凄く立派でしたし、その歴史や伝統は素晴らしかったんですが、肝心のお料理の味はというと・・・・・


抜群に美味しかったです


さて、幕末の歴史といえば・・・語る上で欠かすことの出来ないエピソード「寺田屋騒動」ですが、有名なのが「坂本龍馬襲撃事件」ですね。もう一つ「薩摩藩粛清事件」というのもあったんですね。

坂本龍馬が投宿していた寺田屋に伏見奉行所が踏み込み銃撃戦になったということですが、その時についた弾痕や刀傷などが、そのまま残っているということで龍馬ファンが連日詰め掛けている人気の寺田屋です。

しかし、その寺田屋は「幕末当時のまま」と、うたっていたが、実は「鳥羽伏見の戦い」において消失しており、現在の寺田屋は明治後期の建築であるという調査結果が出されました。

龍馬ファンや幕末ファンにとっては、夢を砕かれるような思いでしょう


それによって「歴史偽装?」というか、再注目を集めたのが、料亭「幾松」における「桂小五郎と幾松」の逸話です。


「桂小五郎もびっくり!?歴史“捏造”旅館にご用心では・・・

>「幾松」が大阪から越してくる前、昭和32年頃まで
 この建物を利用していた人々は、皆口をそろえて
 「そんな刀傷や抜け穴は当時存在しなかった」と証言している。
>「桂小五郎と幾松が逢瀬を重ねていたのは、現在の旅館
 『幾松』のある場所ではありません。三本木の吉田屋という料亭です。
 吉田屋のあった場所は、今では駐車場になってしまっていますが、
 以前はここに“吉田屋跡”の駒札が立っていました。
>この駒札は今も京都市観光協会に保存されています。旅館側は、
 駒札が撤去されたのをいいことに、自分たちの商売に利用しているのです。
 そもそも、彼らの言うような『長州藩の控え屋敷』なるものが
 存在したという証拠はどこにもない」

桂小五郎を助けたとの逸話のある幾松は、京都三本木にあった料亭吉田屋でのことだとする説」という中には・・・

>吉田屋は、後に清輝楼(せいきろう)という料亭になり、
 ここに明治33(1900)年、立命館大学の前身である京都法政学校が
 設立されたが、清輝楼は、料理旅館・大和屋と名を変え、
 平成8(1997)年まで存続していたそうだ。
 それと、密会中に新選組に急襲された桂は、幾松の機転で
 裏階段から地下道に降り、鴨川の河原に逃れたといわれておったようだが、
 石造りの地下道が大和屋にも残っていたといい、この近くの民家には
 そのような地下道が今でも残っているところがあるらしい。


僕は、この幾松に2回行ったことがあり、その内一回は、例のつづらの前で講談調の話を聞きました。それはもう素晴らしく楽しいお話でしたよ(^_^;) でも肝心のお料理の味はというと・・・・・・・


(-_-;)でしたね。
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