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素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

100年目の夏の高校野球決勝は東海大相模と仙台育英

2015年08月20日 | 日記
 東海大相模の45年ぶりの優勝で終わった100年目の夏の高校野球。決勝戦は俄解説者の多いジムで見た。年代、出身地などで高校野球の思い出がそれぞれある。それらを聞きながらの観戦はなかなか楽しい。

 決勝まで残るには打撃力もさることながら投手力の安定が必要条件だということでは異論がなかった。両校は残るべくして残った。東北勢の初制覇に応援する人は、三沢高校の太田投手や仙台育英の大越投手での決勝戦の思い出を熱く語っていた。

 私はほぼ同年代であった1969年の夏の決勝のほうが記憶に残っている。東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした松山商業戦は2日間に渡って熱戦を繰り広げた。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。延長15回の裏のスリーボールノーストライクで押し出しサヨナラかという場面での井上投手のふんばりと審判の微妙な判定はドラマ性を帯びていた。太田、井上両投手とも200球はゆうに超えていた。再試合の2日目は初回に試合は動いたが互角の投げ合いがつづき4対2で破れ準優勝に終わった。

 大越の仙台育英も延長までもつれ込んで準優勝に終わった。

 東海大相模を応援する人は三池工業高校と東海大相模を優勝に導いた原監督の思い出を熱く語った。福岡出身の方は三池工の優勝の感激は忘れられないと話していた。その原監督は昨年亡くなり、その東海大相模に追いつき追い越せと切磋琢磨してきた横浜高校の渡辺監督が神奈川大会の決勝を後に勇退をした。

 1973年にセンバツ初優勝を飾り、27度甲子園に出場し激戦区神奈川を作り上げた「父」でもある渡辺監督の思いは「神奈川に大優勝旗を持って帰りたい」であった。それゆえ県内の監督と交流を持ち自らの経験を惜しみなく語ったという。その中の1人に、東海大相模・門馬敬治監督がいた。神奈川大会の決勝戦後、「神奈川のために頑張れ」と言いながら握手を交わしたと新聞にあった。バトンを託された東海大相模としては負けられない。

 私は東海大相模を応援した。6対6に追いつかれた時は、流れから仙台育英かなと正直思った。あと1点の壁がまたまたまた越えられなかった東北勢であった。準決勝が2試合とも期待はずれの一方的なものになった分、両校の力を存分に発揮した面白い決勝であった。高校野球は筋書きのないドラマとはよく言ったものである。
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盆の慌ただしさもやっと終わる

2015年08月18日 | 日記
 8月12日から14日までは志摩に帰り、いつものように叔父、叔母への挨拶回りと墓参りをこなす。その間に実家の掃除、片付けや買い物などがあり多忙であった。機動力の減退は高齢になれば致し方のないものである。酷暑の中、体調を大きく崩さずに過ごしてくれていることに感謝である。身辺自立の大切さをひしひしと感じる。

 30年前の8月12日は北九州市であった教科研への参加の帰りに、大分の臼杵からフェリーで愛媛の八幡浜に渡り琴平近くの妻の実家に立ち寄った。9歳、7歳、2歳の3人を連れての初めての長旅であった。フェリーを有効に使ったが、今考えると若かったからできたというほかない。妻の実家に着いたのは18時を過ぎていた。荷物を降ろし┐(´д`)┌ヤレヤレとテレビをつけたら日航ジャンボ機の事故のニュースが流れていた。そのタイミングに毎年、事故の報道に接するたびに1週間余りの家族旅行とセットになって記憶が呼び起こされる。

 11年前の8月12日は志摩の実家に帰省した。玄関に入るやいなや、母が飛んできて長女が産気づいて病院へ行ったという電話がついさっき入ったと告げた。2,3日前に長女とは会っていて月末の予定日の前に、志摩の方へ行ってくるからと話していただけにビックリであった。折り返し連絡をとると無事に出産したとのこと。降ろした荷物を積み込んで急ぎUターンした。

 8月12日の帰省は何かと思い出深い出来事があったので、いつも以上に安全運転を心がけた。6年前に脳出血で倒れて、自宅でリハビリに励んでいた叔父が、熱中症の症状で緊急搬送されて入院した以外はみんな変わりなく生活をしていた。自分の20年先を考えるモデルとなる。老老看護、施設か在宅か、墓の維持管理、空家問題など高齢化社会の抱える課題が身近に迫っていることを実感する。

 16日には、我が家に3人の子供が集まった。加えて大阪の叔母の家にアメリカから帰省している姪の娘さんも加わったので大賑わいとなった。17日は仕事が始まるので孫と姪の娘さんの2人のお守りをすることになった。

 天気が不安定で迷ったが、思い切って信貴山にあるのどか村へ行くことにした。孫も姪の娘さんもうさぎがお気に入りみたいで、パンフレットにうさぎの広場があるというので乗り気になったからである。

 生駒信貴スカイラインを使うことにした。途中何度か雨が降ったが、車中や食事中で室内にいる時でタイミングが良かった。スカイラインの途中にある鐘の鳴る展望台は高所恐怖症の私にはパスしたい所だ。写真は3人の上がれる限界点である。私は写真撮影にかこつけて一歩も上がらずに済んだ。
  のどか村では山羊、ひつじの旺盛な食欲に感心する。
   お目当てのウサギは暑さよけのため穴に入っていてがっかりしたが、昼食後にもう一度行ってみると食事のために穴から出てきていたのでホッとした。
 その日の夜、大阪市と山崎にそれぞれ送り届けた。昔の忙しかった子育て時代を思い出した2日間であった。ようやく今日になって静かな日常が戻ってきたという感じ。怒涛の1週間であった。


 
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a school of fishで暑さ忘れる

2015年08月11日 | 日記
午前の郵便配達は11時30分頃にいつも来る。シンポジウムの要員だった人から妻に暑中見舞いが届いた。昼食の時に「右下に薄く英語がかいてあるけど分かる?」とハガキを差し出した。涼しげな図案だった。確かにあぶり出しのような感じで英語が書いてあった。

 遠近両用だがメガネを外さないと判読できない。
・・・ I found a school of fish と読めた。

「どういう意味?」 「魚の学校???」と妻、「めだかの学校という歌もあるしな」と私。英語力のないもの同士が話していてもらちがあかない。この時とばかり電子辞書を取り出す。衝動買いした中では一番重宝している。

school①ではよく知っている「学校」関連の日本語である。《原義》に(余暇→余暇を使うこと→学び→学校)とあり、しばしそちらに気を奪われる。
「何かわかった?」という妻の声であわてて他に目を移すと、school②があった。[魚・クジラ・イルカなどの]群れ[of]となっていて無事解決。電子辞書が無用のものでないことが分かってもらえて一石二鳥であった。さらに(→flock①[関連])とあったので調べると《(主にヒツジ・ヤギ・アヒルなどの)群れ》とあり、またまた[関連]で「群れを表す語」があり、「群れ」地獄にはまった。

 生活に密着しているものほど表現方法が豊かであるということを再認識。むし暑さを一瞬忘れるひとときを提供してくれた暑中見舞いであった。

 
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「真の敵」は今も目の前に

2015年08月10日 | 日記
 8日(土)の朝刊にあった保阪正康さんの『昭和史のかたち』も一読に値するものだった。海軍の特攻作戦に公然と反対した、海軍の飛行部隊・芙蓉部隊の隊長だった美濃部正さんとの対談の様子と氏の書き残した回想録を紹介しているが、その底に自民党の武藤貴也衆院議員(36)のネットでの発言に対しての憤りがあることがひしひしと伝わってきた。

 昭和20年2月、木更津の第3航空艦隊司令部で開かれた連合艦隊主催の次期作戦会議の席上で、幕僚、指揮官、飛行隊長など80人を前に、最若輩の少佐で末席に連なっていた美濃部さんは、誰も異論を唱えない連合艦隊参謀の「全機特攻」という作戦案に、意を決して発言を求め正面から反対論を唱えた。
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 保阪さんは美濃部さんの反対論には次の重大な2点が含まれていたと指摘する。第一は「若い搭乗員に死を強要するならまずは自分たちが先頭に立って死んでいけ」。第二は「たとえ戦時下といえども他人に生の確率ゼロの作戦を強要する権利はない」

 これを保阪さんは「真の敵」への批判ととらえる。参謀の激高を受け、芙蓉部隊は特攻編成から外され、夜襲舞台として菊水作戦に参加した。さらにこの部隊は、練習機などでの特攻作戦に加わっていない。

 それらの事実を美濃部さんは保阪さんに淡々と語ったという。軍人としてより一人の人間として特攻のような「十死零生」の作戦を採るべきでないはないとの信念を持っていたのでその考えを指揮官の会議で披露しただけで特に褒められることではないということも語られた。と述懐する。

 しかし、手記には「妄想狂的猪突戦線拡大と兵站補給の軽視」といった語もあるぐらい、参謀、指揮官、司令官に対するすさまじい怒りを書いていると言う。

 前途夢多き若者の未来を摘み取る「真の敵」は今も私たちの目の前にいると戒めている。


 
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人生相談への高橋源一郎さんの回答に「そうだよな」

2015年08月09日 | 日記
 昨日の人生相談欄で、60代という女性の相談に作家の高橋源一郎さんが回答していた。高橋さんとの出合いは「BS歴史館」だった。自分の言葉で話をする人だなという印象を持った。その後、「民主主義とは何だろう?」ということに思い悩み始めた時に雑誌の書評で取り上げられていた高橋さんの『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)を買った。朝日新聞の「論壇時評」に掲載された48本の原稿をまとめたものである。

 2011年4月28日から2015年3月26日まで毎月1回掲載されたものなので素材がまだ新鮮である。その切り口に「BS歴史館」の時に感じたものと同じような思いを持った。今でも、時々読み返している。

 その高橋さんが毎日新聞では人生相談の回答者となっている。この手のものは好きではないのだが高橋さんが回答者の時だけは目を通している。

 今回は、

 「66歳の夫は4年間、若い女性と関係を持ち、毎月手当を渡し、500万円使いました。夫は今、心の病になって入院しています。夫を不潔に感じ、退院後の夫との関係に悩んでいます。本当のところ別れたいのですが、そうもいかず、どうすればよいのでしょうか。(60代・女性)」
というもの。

 どう裁くのか?というのがいつも興味のあるところ。回答はこうである。

 『相談者は、「本当は別れたい」が「そうもいかず」と書かれています。ですから、相談事の半分は、実質的には終わっていますね。あなたとあなたの夫を結びつけていた細い糸はもう切れてしまって、修復できない。ここまでが決まっている半分です。

 でも「別れられない」としたら、それは経済的な問題か(暮らしていけない)、社会的な問題か(離婚するとさまざまな波紋が生じる)、精神的な問題か(大きな変化に耐えられないかもしれない)のどれかでしょう。相談者の置かれている状態がわからない以上、残り半分に答えることは困難です。

 一般論であることを承知していただいた上で、書いてみます。

 相談者も夫も、わたしと同じ年代になります。生涯の残りも、それほど多くはありません。まったく新しいことを始めることも難しいでしょう。わたしが心がけているのは、その残りの時間を大切なものにする、ということです。悔いなく過ごしたい。そのためにどうするか、を考えてみたいのです。やり残したことはないか。行ってみたかったけれどまだ行っていない場所はないか。ずっと会いたかったのに会わずに来てしまった人はいないか。若いときの1年と、60代の1年は意味が違います。

 若い頃の時間は浪費すら役に立つ。でも、年を重ねてからの時間こそ、わたしたちは責任をもって過ごさなければならない。背筋を伸ばし(夫のことなんか放っておいて)、それほど長くはないかもしれないけれど(だから尊い)未来を見つめてください。』


 「そうだよな」と思わず呟いた。
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