東海大相模の45年ぶりの優勝で終わった100年目の夏の高校野球。決勝戦は俄解説者の多いジムで見た。年代、出身地などで高校野球の思い出がそれぞれある。それらを聞きながらの観戦はなかなか楽しい。
決勝まで残るには打撃力もさることながら投手力の安定が必要条件だということでは異論がなかった。両校は残るべくして残った。東北勢の初制覇に応援する人は、三沢高校の太田投手や仙台育英の大越投手での決勝戦の思い出を熱く語っていた。
私はほぼ同年代であった1969年の夏の決勝のほうが記憶に残っている。東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした松山商業戦は2日間に渡って熱戦を繰り広げた。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。延長15回の裏のスリーボールノーストライクで押し出しサヨナラかという場面での井上投手のふんばりと審判の微妙な判定はドラマ性を帯びていた。太田、井上両投手とも200球はゆうに超えていた。再試合の2日目は初回に試合は動いたが互角の投げ合いがつづき4対2で破れ準優勝に終わった。
大越の仙台育英も延長までもつれ込んで準優勝に終わった。
東海大相模を応援する人は三池工業高校と東海大相模を優勝に導いた原監督の思い出を熱く語った。福岡出身の方は三池工の優勝の感激は忘れられないと話していた。その原監督は昨年亡くなり、その東海大相模に追いつき追い越せと切磋琢磨してきた横浜高校の渡辺監督が神奈川大会の決勝を後に勇退をした。
1973年にセンバツ初優勝を飾り、27度甲子園に出場し激戦区神奈川を作り上げた「父」でもある渡辺監督の思いは「神奈川に大優勝旗を持って帰りたい」であった。それゆえ県内の監督と交流を持ち自らの経験を惜しみなく語ったという。その中の1人に、東海大相模・門馬敬治監督がいた。神奈川大会の決勝戦後、「神奈川のために頑張れ」と言いながら握手を交わしたと新聞にあった。バトンを託された東海大相模としては負けられない。
私は東海大相模を応援した。6対6に追いつかれた時は、流れから仙台育英かなと正直思った。あと1点の壁がまたまたまた越えられなかった東北勢であった。準決勝が2試合とも期待はずれの一方的なものになった分、両校の力を存分に発揮した面白い決勝であった。高校野球は筋書きのないドラマとはよく言ったものである。
決勝まで残るには打撃力もさることながら投手力の安定が必要条件だということでは異論がなかった。両校は残るべくして残った。東北勢の初制覇に応援する人は、三沢高校の太田投手や仙台育英の大越投手での決勝戦の思い出を熱く語っていた。
私はほぼ同年代であった1969年の夏の決勝のほうが記憶に残っている。東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした松山商業戦は2日間に渡って熱戦を繰り広げた。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。延長15回の裏のスリーボールノーストライクで押し出しサヨナラかという場面での井上投手のふんばりと審判の微妙な判定はドラマ性を帯びていた。太田、井上両投手とも200球はゆうに超えていた。再試合の2日目は初回に試合は動いたが互角の投げ合いがつづき4対2で破れ準優勝に終わった。
大越の仙台育英も延長までもつれ込んで準優勝に終わった。
東海大相模を応援する人は三池工業高校と東海大相模を優勝に導いた原監督の思い出を熱く語った。福岡出身の方は三池工の優勝の感激は忘れられないと話していた。その原監督は昨年亡くなり、その東海大相模に追いつき追い越せと切磋琢磨してきた横浜高校の渡辺監督が神奈川大会の決勝を後に勇退をした。
1973年にセンバツ初優勝を飾り、27度甲子園に出場し激戦区神奈川を作り上げた「父」でもある渡辺監督の思いは「神奈川に大優勝旗を持って帰りたい」であった。それゆえ県内の監督と交流を持ち自らの経験を惜しみなく語ったという。その中の1人に、東海大相模・門馬敬治監督がいた。神奈川大会の決勝戦後、「神奈川のために頑張れ」と言いながら握手を交わしたと新聞にあった。バトンを託された東海大相模としては負けられない。
私は東海大相模を応援した。6対6に追いつかれた時は、流れから仙台育英かなと正直思った。あと1点の壁がまたまたまた越えられなかった東北勢であった。準決勝が2試合とも期待はずれの一方的なものになった分、両校の力を存分に発揮した面白い決勝であった。高校野球は筋書きのないドラマとはよく言ったものである。