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素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

(通りすがり)さん、(新米教員)さん、(パオパオ)さんのコメントを受けて

2013年01月26日 | 日記
 予期せぬ方々からのコメントをいただき嬉しく思っています。最近のニュースにそれぞれ胸を痛め、憤りを感じている人が多くいるのだということを思いました。

(通りすがり)さんは、とても言いにくいことをズバリと指摘してくれました。自殺という手段に訴えることはよくない。ということをもっとアピールしていかないといけないとえている私も思います。元来、日本には死を美化する意識が根底に存在するのではないかと思う。そのことを痛烈に批判したのが山本周五郎さんだと思う。20代の頃ほとんどの作品を読みつくしたが、それらを通じて「何があっても生きる」ということを学んだ。『完本山本周五郎全エッセイ』が手元にある。その中にもこういうくだりがある。

「このごろしばしば、倒産とか失業とか就職難などで、親子心中とか、若いのに自殺するなどという報道が眼につく。心痛む話である。超高度経済成長政策という、奔馬のヒヅメにかけられた死傷者や、切り刻まれた国土のむごたらしい姿を、いまここであげつらうつもりはない。私が訴えたいのは、生活がちょっとゆき詰まると、すぐに自殺したり一家心中をしたりする、わが民族のねばりのなさに、心痛みながらも怒りを感ぜずにはいられないということだ。
 
 いまさらのようだが、人間の生活には波があって、好況があれば必ず不況がある。好況のときにはスポーツ・カーなどを買って乗り廻したり、キャバレーで金をばらまいたりする。そして、不況、倒産となると、すぐに一家心中とか自殺に走ってしまう。もちろん、そこに到る経過は単純ではなく、多くの複雑な因果関係が絡みあっていることだろうが、自分が苦しいときは他人も苦しいということ。その苦境は永久的なものではなく、いつか好転するということをなぜ考えられないのだろう。三食を一食にしても切り抜けてやろう、というねばり強さがなければ、人間生活とはいえないのではないか」(昭和40年12月・朝日新聞)


 体罰”いじめ”問題に関しては、ひとくくりの言葉で片付けられない難しさがある。それだけにセンセーショナルに取り扱わずにしっかりとした検証が大切ではないかと思う。アメリカの銃規制の問題のむずかしさと同じくらいだと考えている。それでも、少しずつ良い方向に向かっていると私は思っている。短絡的な解決法は長い目で見ると悪い結果をもたらすこともある。今回の動きはそういう危険性をはらんでいる気がしたので黙っておれなくなった。

(新米教員)さんにとって、実際に経験した現場はどう見えたでしょう。なかなかきれいごとではいかない矛盾に満ちたものではないでしょうか。それに失望して辞めていく人が多いとも聞きます。私の知っている範囲でもかなりの数になります。今回の早期退職問題同様、全国的には相当深刻な事態ではないかと推察しています。今の現場は失敗に関する寛容力が少なくなってきていることも拍車をかけているように思えます。自分の小さな経験からですが、20代、30代、40代、50代と10年単位で節目があります。本当は20代のときはある程度自由奔放にやってみるべきだと思います。後で考えれば恥ずかしくて穴にも入りたいことも含め体当たりしていくことが大切。その経験を深めるために実践しつつ貪欲に他の人の考えや実践から学ぶのが30代。そして自分なりのスタイルが見えてきて実践を通して熟成していくのが40代。ただ、ここで現場の最前線で働き続けるか管理職として関わっていくかという岐路がある。どちらが良いかは決められない。大切なのは自分の心の声に耳を傾けることである。いずれにしても、集大成としての50代が言い訳のできないつらさはあるが、もっとも充実した実践ができるのではないだろうか。

 ですから、いつも若い人には「続けてください。」と言っている。自分の思い通りにならないことこそ自分を鍛えてくれるものに他ならない。と思えば良い。

(パオパオ)さんの生徒の会見に関する見解についてですが、尾木さんは実践者感覚がなくなってしまったのだと思いました。私は教育に関しては実践者、評論家(保護者も含め)、研究者と大別しています。そしてどれも欠くことのできない大切な人たちだと思っています。私は昔、実践者、今は評論家の立場だと思っています。

 実践者は日々の目の前の課題に埋没しがちです。時には視点が偏ったり、狭くなってしまいます。それを是正してくれるのが評論家であり、研究者であります。評論家と研究者の違いは自分の体験や考え方をもとに教育問題に関心を寄せて意見を述べるのが前者、教育のあるべき姿を歴史や人間への洞察から日々理論的に追及しているのが後者。

 実践者の基本は生徒の声に耳を傾けるということだと思います。そこにはさまざまな声があります。相容れないものもあります。それらも含めて自分の頭で考え、自分の責任で実践していく必要があります。それゆえ「簡単には言えない」ということが多々でてきます。体罰”いじめ”に関して現場からの声が無いという批判もあるが、それは「簡単に言えない」ということに起因していることもある。それを尾木さんは隠ぺい体質”という言葉で切り捨てている。

 三者がそれぞれに「何にもわかっていない」と相互批判をしているだけでは問題は解決していかない。それぞれの立場を尊重し、お互いの意見を交流する中で、多面的な見方ができ解決の糸口、道筋が見えてくるように思う。

 教育問題は「これが正解」という簡単な問題ではない。ということをふまえることが大前提だと考えます。そこが抜けている評論家、研究者の話はうすっぺらく聞こえます。

 
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新・30kmコース・思っていた以上の風と寒さに苦戦

2013年01月25日 | 日記
 新・30kmコースは『鶴見緑地往復コース』と命名する。高低差に関しては予想通り足への負担の少ないものだった。しかし、風と寒さが思っていた以上で苦しい走りとなった。往路でちょっと貯金をしておこうという目論見をしていたが向かい風をまともに受け続け、体が前に進まないという感じで走りのリズムがつくれなかった。鶴見緑地公園の東端には1時間15分余りで到着したのでペース的にはまずまずだったがかなり消耗していた。緑地公園内の遊歩道はとても走りやすかった。木々や芝生広場、池など今までの道路とは違いホッとする風景で気分的にはリフレッシュした。風の強さと寒さのせいか人影もまばらであった。

 復路は追い風を受けての走りだが、汗でぬれた体がぐんぐん冷やされ手や足、背中の筋肉がこわばってくるのが実感できた。向かい風だったらギブアップ宣言間違いなし。かろうじて風に押してもらって歩を進めることができた。26kmあたりに500m余りの上り坂がある。昨日自転車で走った時もここが最後の山場かなと思ったが何とか上り切ることができた。ちょうど3時間ぐらい。手足の感覚はマヒしていた。「ゴールしたら、ジムのお湯につかるぞ!」というのが支えとなった。心底温かい湯船が恋しかった。

 最後は我ながら情けない足の運びでゴール。タイムは3時間28分12秒。湯船に手を入れた時、電気が走るように痛かった。ちょうど雪国出身の方がおられて、雪でかじかんだ時は井戸水、お湯と順番につけていかないとダメだという話を小さい時の思い出とともに話してくれた。もっと冷えていたら飛び上るほど痛いとのこと。しばらくはお湯の温度を感じなかった。ただ今解凍中という具合。10分ほどしてようやく普通の感覚がもどってきた。
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新・30kmコースをつくる

2013年01月24日 | 日記
 フルマラソンのトレーニングには30km走を取り入れると良いといろいろな所で見聞きする。12月10日に「寝屋川公園・向井田30kmコース」をつくり初めて取り組んでみた。自分の身近な所をベースにしたコースなので急なアップダウンが多いものとなってしまった。特に、最後の5km余りがほとんど上り坂という少々きついコースである。何とか3時間31分15秒でギブアップしないでゴールしたが新しいコースを考えたほうが良いという思いが強くなった。

 前々から車でよく行っている花博跡地の鶴見緑地公園をからませたコースなら比較的フラットな部分の多いノーマルなものになるのではと考えていた。明日走りたいと思ったので午後から自転車で距離を測定してみることにした。

 家から第二京阪道路の副道につくられた自転車・歩行者専用道路に入り鶴見緑地公園の東の角までがだいたい予想通りの13km余りであった。そこから公園の外周道路に入り園内の遊歩道をぐるぐるとまわり中央の池まででちょうど15kmとなった。

 たくさんの渡り鳥が飛来していたのでちょっと一服。冬ならではの光景である。ハトやカラスも混じりにぎやかなこと。

  

 そこからさらに遊歩道を巡ってから同じ道をもどるとちょうどこれからラストの上りが本格的に始まるぞという交差点で30kmとなった。これならまだ精神的に耐えることができそうな気がした。明日、チャレンジしてみたい。

 わがはしり まひるのつきが みとどけん だれのためでも なくひたすらに

 
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「埼玉の公立校教員100人超早期退職希望」の報道

2013年01月23日 | 日記
 世の中は予期せぬことで驚かされることが多くあるが、この早期退職の報道もその1つ。「こんなことが起こっているんだ!」という驚きがまずはじめにきた。次に「なぜ?」国が1月から退職手当の水準を引き下げたのに合わせ、埼玉県も関連条例を改正し、今年2月1日から施行予定なので2か月間の給料と退職金の減額分の差額を考えると1月末の早期退職のほうが金銭的に有利になるという。

 ここで素朴な疑問が湧く。

「国が1月からの退職手当の水準の引き下げを決めるに至った経緯はどうなっていたのだろう?」
「どの自治体も条例の改正をして、退職金の減額を行なうのだろうか?」
「このような処置をとれば早期退職者が出ることは想定しなかったのだろうか?」

 よく公務員のぬるま湯体制と引き合いに出される民間であるならば、期限を切って金銭的に不利な状況を設定することは早期退職勧奨を前提にしてのことだろう。教職員だから3月の年度末まで奉仕(するだろう)。もしくは(すべし)という風に考えてのことだったら甘いといわれても仕方がないだろう。

 この事態を「民間だったら有り得ない」といういつものステレオタイプの批判をしないでほしい。

 新聞によれば、さいたま市教委の採用分では学級担任も教頭も含まれているという。また佐賀県や徳島県ではでも同様に43名が退職をしていたし、全国的にはかなりの数があるみたいである。また、愛知県警、京都府警でも同様の事態で補充に追われているという報道もある。

 誰しも自分が長きにわたって従事してきた仕事を退職するにあたって、駆け込みという中途半端な終わり方はしたくなかっただろうと推察する。

 この事態で「教師聖職者論」を持ち出して、ことの本質を曲げないでほしい。

 場当たり的な教育施策などで振り回されて疲弊している教育現場に目を向け適切な対処をしていかないともっと深刻な事態に陥るおそれを感じる。慢性的な講師不足による派遣教師の増加、その反面、指導力のある教諭が授業時間数ゼロにならざるを得ないシステムなど教育の空洞化が進んでいる。

 その1つの現われが今回の根にあるような気がする。

 中央集権、上意下達を強めれば強めるほど現場の活力は失われていく。というのは多くの会社、チームなどの苦い経験から導きだされた教訓だと思う。

 ちょっとブームが去った感のあるドラッカーの言葉を

「働く者のやる気を引き出し、生産性の高い仕事をさせることが経営者や管理職の課題だ」
「仕事を生産的にするには、一人ひとりを尊重することから始め、責任を分担する」
「会社にとって人は最大の資産。いかに人の強みを活かすかを、上司は考えなければならない」
「生産性をあげる糸口は信じることにある。一人ひとりのスキルと判断力を信頼し、思い切って任せてみよう」
「現場は現場に任せるのが一番。そのために現場のリーダーには、より大きな責任と権限を与えるべき」

 この問題に関しての今後のマスコミの論調を注目したい。

 

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「巨人・大鵬・卵焼き」

2013年01月22日 | 日記
 偶然ではあったが、昭和”をテーマにした展覧会を続けて観る機会があった。昭和が終わって1/4世紀、私自身、物心ついた時から考えれば「昭和の生活」と「平成の生活」の比は7対5となってきた。そろそろ「昭和」が鳥瞰図的に眺められる時期にさしかかったのだとあらためて実感した。生活の比率は小さくなっているが、記憶の比率は圧倒的に昭和が大きい。10代、20代の記憶は深く刻み込まれている。

 昨年の11月ぐらいから私が10代、20代の頃、各分野で若手として輝きを持って活躍していた人々が次々亡くなっていくことに時代の変わり目をを感じていたが、年が明けてもその流れは続いている。大島渚、大鵬と相次いで亡くなった。

 私の10代の頃、テレビで日常目にするスポーツは野球、相撲、ボクシングぐらいであったから「巨人・大鵬・卵焼き」というフレーズはその時代を象徴するものだろう。

 納屋幸喜さんより8歳年上の私の叔父も「たいほう」という名前である。字は「大法」と書くが、今の時代ならともかく当時ではとんでる名前だったと思う。小さい時よく遊びに行ったが、みんなが「たいほうさん」と言うのを聞いて幼い私は大砲を思い浮かべていた。後に、大横綱大鵬の出現で字こそ違え「たいほう」という語感に重みがつき仕事の時、すぐ名前を憶えてもらえるようになったと笑っていた。

 ただ、私は安定感あふれる大鵬関は好きにはなれず、強さともろさが同居した柏戸を応援していた。野球も同じで常勝軍団巨人にhが魅力がなかった。相撲が柏鵬なら野球は水原・三原だった。私は三原脩さんの行く球団を応援していた。

 卵焼きは貧しさをともなう記憶である。高度経済成長の起点となる東京オリンピックが中2、絶頂期を迎えた万博が19歳。卵焼きはハレの日のごちそうであった。落語に「長屋の花見」というのがあるが、小中学校の時の弁当のおかずは卵焼きのかわりに大根漬けであった。冬には各教室の前の廊下には冷蔵庫ならぬ炭火を入れた温蔵庫があり、朝、自分の弁当を入れて温めておくのだが時間が経つにつれて漬物のにおいがただよってくる。卵焼きを見ると大根の漬物の匂いが思いだされる。

 平成もそう長くはないように思える。「元号が変わっても」という人もいるが私には何となく時代の変わり目に来ているなという思いが強い。
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