素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

“習熟”の部分は口出さない

2012年09月11日 | 日記
 折に触れて橋本治さんの『「わからない」という方法』(集英社新書)を読んでいる。スラスラとは読めないのだが、視点や切り口を新鮮に感じる。そこにこのような一節がある。

 《「初めはいい加減でもいい。慣れればなんとかなる。重要なのは、まず慣れることである」というのは、すべてにわたっての根本原則のようなものである。だから、子供は「遊べ」と言われるのである。
 「初めはいい加減でもいい。慣れればなんとかなる。ちゃんとする」・・・このことだけははっきりしている。後は、その「ちゃんとする」のゴールのありどころである。これが揺らぐと、「いい加減」は野放しになる。「初めはいい加減で、その後もいい加減」になってしまう。それを防ぐためには、ゴールの「ちゃんと」がいかなる状態かを明確に規定しなければならない》 


 それで氏の書いたセーターの編み方を書いた本の中身は、初級編と上級編と超弩級の三つに分けていると言っている。「中級編」がないのである。氏は、「初級編を何度も繰り返すのがすなわち「中級編」で、それは、教える側の管轄ではなく、教わる側の管轄だ」と言い放つ。

《「中級」とは、初級から上級に至るまでの習熟の期間であって、そんなものは、当人が決めればいいのである。・・(中略)・・その「中級」がなければ、「上級」はない。それだけのことである。だから初級編の最後で、私は意地悪なことを言ってしまうー「編み方だけを知ってあなたが編んだセーターは、まだ人前に出せるようなものではない」と
 それを言うのが教育だと、私は思うばかりである。》


 この「中級」(=習熟の期間)の処し方が教育をするものにとって大切ではないかと思う。基本をいかに飽きさせずに繰り返しさせるかということである。肝に銘じておくことは、早く成果をだそうと細かいアドバイス、口出しをしすぎることであろう。習熟とは余分な力がぬけ、段取りが体に入ることだと思う。そのためには一定期間の基本の繰り返しが必要である。慣れていないうちにアドバイスや注意が入るとかえって力が入り、段取りもスムーズにいかなくなる。するとさらに注意や叱責が増えるというように負の循環に陥り、やる気をなくし離れていくということになる。

 古今東西さまざまな分野の名指導者と言われている人はそのあたりの勘所を心得ている人だと思う。

 
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