CDを購入することはグッと減ってきたが、新聞の音楽時評で笠置シズ子の生誕100年を記念して♪ブギウギ伝説・笠置シヅ子の世界♪の2枚組CDが発売されたことを知った。
迷うことなくAmazon.co.jpをひらいて購入の手続きをした。笠置シズ子は昭和歌謡史の中で戦前から戦後初めにかけて作曲家服部良一とのコンビで大きな位置を占めているにもかかわらず、私は歌手としての笠置シズ子にお目にかかれなかった。私の笠置シズ子はテレビや映画の元気な下町のおばちゃんを演じる俳優としての姿しかなかった。
懐メロに興味のあった中高時代、他の歌手によって歌われるブギウギシリーズの曲調と俳優の笠置シズ子が自分の中でマッチせず、ずっと???状態であった。歌声だけはほんのたまに流されるが、実際に歌うことはなかったと思う。「思い出のメロディー」みたいな番組にも出演しないことが不思議だった。
そういうわけで、昭和歌謡の中で笠置シズ子はすっぽり抜け落ちたピースであった。今でも多くの歌手がカバーして歌っているのに、本人の歌声と姿は見事に消えてしまった。就職してからは日々の忙しさの中でこだわりもうすれていったが、災いと同じように朗報も忘れた頃にやって来るのである。
新聞を見た時、これを逃したら永遠にピースは埋まらないと思った。今日届いたCDを聴きながらこのブログを書いている。よくできている2枚組だと思う。書くことに集中できなくて困るのもまた楽しい。
佐藤利明(オトナの歌謡曲・娯楽映画研究家)さんの解説で笠置シズ子に関する理解が深まった。
興味深かった話を紹介させてもらう。
服部良一との出会いについて。
服部は自伝「僕の音楽人生」の中でシヅ子との出会いについて、「大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて『どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた』のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと『…全くの別人だった』。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って『オドウレ。踊ウれ』の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した」とある。
代表曲♪東京ブギウギ♪誕生について
吉本興業の創業者・吉本せいの子どもの8歳年下の吉本穎右(えいすけ)と知り合い交際に発展・妊娠するが、穎右を吉本の後継者に待望していたせいはシヅ子を気に入らず断固として結婚を認めなかった。そして結核療養中だった穎右は昭和22年5月に24歳の若さで病没。失意の中、シヅ子は穎右死後数日後に長女・エイ子を出産。妊娠中の舞台『ジャズ・カルメン』を最後に、一旦は引退を考えたものの生活のために歌手生活を続けることを決意。そのシズ子のために戦前から音楽面で支えてきた作曲家・服部良一が作曲したのが♪東京ブギウギ♪。
服部は、失意のシズ子の再起のために、リズミカルなブギウギのスタイルで明るい調子の曲にしようと考えた。
歌手引退について
ブギが下火となった1957年(昭和32年)に歌手廃業を宣言。客を満足させる歌声・踊りが出来なくなったからとも、一人娘の育児を優先させるためだったともいわれたが、後年テレビの対談番組で、「廃業の理由は『太りかけたから』だった」と告白。つまり昔と同じように動けていれば太るはずはない、太ってきたのは動けていないからだ、ということだった。またそれに関連して「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自分の手で汚す必要は無い」とも語っている。以後、女優活動に専念する。長女・エイ子は「公私を問わず、引退後は一切鼻歌にいたるまで歌を歌わなかった」と話している。
また女優活動専念に際しては各テレビ局、映画会社、興行会社を自ら訪れ、「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの『スター・笠置シズ子』のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞギャラを下げて下さい」と出演料ランクの降格を申し出ている。
YouTubeで昭和22(1947)年12月30日に公開された、正月映画「春の饗宴」(東宝)のなかで笠置が観客のリクエストに応じて「『東京ブギウギ』でございますか?まぁ、皆さま、余程お好きなんですのね。じゃぁ、やりましょう!」とバンドを促して歌い出すシーンを見つけた。
不鮮明だが、その全盛時代を知らない私にとっては2枚組のCDとともにパワフルなすごさが時代の熱気とともに伝わって来る。
戦後のあの時期、ブギウギに熱狂した大衆の気持ちがわかるような気がした。
笠置シヅ子 東京ブギウギ
石原裕次郎がデビューして「太陽族」が流行語となった昭和31(1956)年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言。この年の大晦日の第7回紅白歌合戦で笠置は大トリをつとめ「ヘイヘイブギー」を歌い、翌年歌手から引退し、女優業に専念するという流れを見るとやはり「時代」というものを考えてしまう。歌の世界は美空ひばりの時代へとなっていく。
「流れ行く川のように、時代は移り、人も変わる。
その後に一つの歌が残り、過ぎゆく季節の記憶を奏でる」
「ラジオ深夜便」イントロのテーマを朗読した。
迷うことなくAmazon.co.jpをひらいて購入の手続きをした。笠置シズ子は昭和歌謡史の中で戦前から戦後初めにかけて作曲家服部良一とのコンビで大きな位置を占めているにもかかわらず、私は歌手としての笠置シズ子にお目にかかれなかった。私の笠置シズ子はテレビや映画の元気な下町のおばちゃんを演じる俳優としての姿しかなかった。
懐メロに興味のあった中高時代、他の歌手によって歌われるブギウギシリーズの曲調と俳優の笠置シズ子が自分の中でマッチせず、ずっと???状態であった。歌声だけはほんのたまに流されるが、実際に歌うことはなかったと思う。「思い出のメロディー」みたいな番組にも出演しないことが不思議だった。
そういうわけで、昭和歌謡の中で笠置シズ子はすっぽり抜け落ちたピースであった。今でも多くの歌手がカバーして歌っているのに、本人の歌声と姿は見事に消えてしまった。就職してからは日々の忙しさの中でこだわりもうすれていったが、災いと同じように朗報も忘れた頃にやって来るのである。
新聞を見た時、これを逃したら永遠にピースは埋まらないと思った。今日届いたCDを聴きながらこのブログを書いている。よくできている2枚組だと思う。書くことに集中できなくて困るのもまた楽しい。
佐藤利明(オトナの歌謡曲・娯楽映画研究家)さんの解説で笠置シズ子に関する理解が深まった。
興味深かった話を紹介させてもらう。
服部良一との出会いについて。
服部は自伝「僕の音楽人生」の中でシヅ子との出会いについて、「大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて『どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた』のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと『…全くの別人だった』。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って『オドウレ。踊ウれ』の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した」とある。
代表曲♪東京ブギウギ♪誕生について
吉本興業の創業者・吉本せいの子どもの8歳年下の吉本穎右(えいすけ)と知り合い交際に発展・妊娠するが、穎右を吉本の後継者に待望していたせいはシヅ子を気に入らず断固として結婚を認めなかった。そして結核療養中だった穎右は昭和22年5月に24歳の若さで病没。失意の中、シヅ子は穎右死後数日後に長女・エイ子を出産。妊娠中の舞台『ジャズ・カルメン』を最後に、一旦は引退を考えたものの生活のために歌手生活を続けることを決意。そのシズ子のために戦前から音楽面で支えてきた作曲家・服部良一が作曲したのが♪東京ブギウギ♪。
服部は、失意のシズ子の再起のために、リズミカルなブギウギのスタイルで明るい調子の曲にしようと考えた。
歌手引退について
ブギが下火となった1957年(昭和32年)に歌手廃業を宣言。客を満足させる歌声・踊りが出来なくなったからとも、一人娘の育児を優先させるためだったともいわれたが、後年テレビの対談番組で、「廃業の理由は『太りかけたから』だった」と告白。つまり昔と同じように動けていれば太るはずはない、太ってきたのは動けていないからだ、ということだった。またそれに関連して「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自分の手で汚す必要は無い」とも語っている。以後、女優活動に専念する。長女・エイ子は「公私を問わず、引退後は一切鼻歌にいたるまで歌を歌わなかった」と話している。
また女優活動専念に際しては各テレビ局、映画会社、興行会社を自ら訪れ、「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの『スター・笠置シズ子』のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞギャラを下げて下さい」と出演料ランクの降格を申し出ている。
YouTubeで昭和22(1947)年12月30日に公開された、正月映画「春の饗宴」(東宝)のなかで笠置が観客のリクエストに応じて「『東京ブギウギ』でございますか?まぁ、皆さま、余程お好きなんですのね。じゃぁ、やりましょう!」とバンドを促して歌い出すシーンを見つけた。
不鮮明だが、その全盛時代を知らない私にとっては2枚組のCDとともにパワフルなすごさが時代の熱気とともに伝わって来る。
戦後のあの時期、ブギウギに熱狂した大衆の気持ちがわかるような気がした。
笠置シヅ子 東京ブギウギ
石原裕次郎がデビューして「太陽族」が流行語となった昭和31(1956)年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言。この年の大晦日の第7回紅白歌合戦で笠置は大トリをつとめ「ヘイヘイブギー」を歌い、翌年歌手から引退し、女優業に専念するという流れを見るとやはり「時代」というものを考えてしまう。歌の世界は美空ひばりの時代へとなっていく。
「流れ行く川のように、時代は移り、人も変わる。
その後に一つの歌が残り、過ぎゆく季節の記憶を奏でる」
「ラジオ深夜便」イントロのテーマを朗読した。
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