旧暦の6月3日から7日まで羽黒山に滞在した芭蕉が次に月山に登った場面の描写が「おくのほそ道」の中で一番印象に残った。月山の天候の厳しさは30年ぐらい前に二中の文化祭で♪山の輝き♪という合唱曲のイメージづくりに色々な山を調べている時に知った。この曲は月山を思い浮かべて歌えばいいのだと紹介した。あくまで独断と偏見によるものだったが、それ以来月山は特別な存在であった。
それだけに長谷川さんの話の中に月山が出てきた時は引き込まれた。芭蕉が登ったことも驚きであった。宝冠で頭を包み、強力に案内され雲や霧の立ちこめる山の中、氷や雪を踏んで30km余りを登ったとある。太陽や月の通路にある雲の関所に入るのかと疑わしくなるほどだという描写は体も冷え切って息絶え絶えに登る芭蕉の姿が浮かんでくる。
八日、月山(がっさん)にのぼる。
木綿(ゆう)しめ身(み)に引きかけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(ごうりき)といふものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひょうせつ)を踏(ふみ)てのぼること八里(はちり)、さらに日月(じつげつ)行道(ぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(い)るかとあやしまれ、息絶(いきたえ)身(み)こごえて頂上(ちょうじょう)にいたれば、日没(ぼっし)て月顕(あらわ)る。
笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕(まくら)として、臥(ふし)て明(あく)るを待(ま)つ。
日出(い)でて雲消(きゆ)れば湯殿(ゆどの)に下(くだ)る。
谷の傍(かたわら)に鍛治小屋(かじごや)といふあり。
この国の鍛治(かじ)、霊水(れいすい)をえらびてここに潔斎(けっさい)して劔(つるぎ)を打(うち)、終(ついに)月山(がっさん)と銘(めい)を切(きっ)て世に賞(しょう)せらる。
かの龍泉(りゅうせん)に剣(つるぎ)を淬(にらぐ)とかや。
干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。
道に堪能(かんのう)の執(しゅう)あさからぬことしられたり。
岩に腰(こし)かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半(なか)ばひらけるあり。
ふり積(つむ)雪の下に埋(うずもれ)て、春を忘れぬ遅(おそ)ざくらの花の心わりなし。
炎天(えんてん)の梅花(ばいか)ここにかほるがごとし。
行尊僧正(ぎょうそんそうじょう)の哥(うた)の哀(あわ)れもここに思ひ出(い)でて、猶(なお)まさりて覚(おぼ)ゆ。
そうじてこの山中(さんちゅう)の微細(みさい)、行者(ぎょうじゃ)の法式(ほうしき)として他言(たごん)することを禁(きん)ず。
よりてて筆(ふで)をとどめて記(しる)さず。
坊(ぼう)に帰れば、阿闍利(あじゃり)のもとめによりて、三山(さんざん)順礼(じゅんれい)の句々(くく)短冊(たんじゃく)に書く。
涼(すず)しさや ほの三か月(みかづき)の 羽黒山(はぐろさん)
雲の峯(みね) 幾(いく)つ崩(くず)れて 月の山
語(かた)られぬ 湯殿(ゆどの)にぬらす 袂(たもと)かな
湯殿山(ゆどのさん) 銭(ぜに)ふむ道の 泪(なみだ)かな 曽良(そら)
私たちは鶴岡市の湯野浜温泉から庄内平野を通って朝一番に月山に向かった。「月山だけは天候が回復してほしい」という願いが通じたのか、午前中は晴天となった。予報では午後からはまた雨模様になると言っていたが、月山さえ天気が良ければ全てよし!と心が弾んだ。
庄内平野の向こうには昨日、まったく姿を見せなかった鳥海山がくっきりと見えた。車中の全員が思わず拍手したほどだった。
芭蕉には申し訳ないが、私たちは8合目までバスであがった。ただその道はヘアピンカーブの連続でおまけに道幅も狭く対向車が来たらどうするのかと不安になる。
今回のツアーはバスガイドは乗務していないが、月山への往復道路のみ保安要員としてバスガイドが途中で待機していて乗務した。それぐらい運転が難しい道路であった。
月山の8合目・弥陀ヶ原湿原はこの夏一番と言っていいぐらいの快晴だった。頂上が見えることはめったにないとのこと。頂上まで行くには1時間余りかかるので弥陀ヶ原湿原をまわって帰る。ツアーの限界である。
帰る頃には雲がどんどん上がってきてその様相は一変した。厳しい山の側面を見た。湯殿山に向かう途中から雨となった。
湯殿山は「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた清浄神秘の世界。これは芭蕉の時代から変わらない。観光バスや車で行けるのは大鳥居の前の駐車場まで、そこからはシャトルバスで本宮ヘ。
バスを降りて10分ほど歩く。もちろん写真撮影は禁止となる。
湯殿山神社には社殿がなく、御神体は熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊厳(大きな岩)。素足になり、お祓いを受けてからお湯の湧き出る御神体の周りを歩く。これ以上は語られぬ。である。日本古来の自然崇拝の山岳信仰の原風景を見た思いであった。
それだけに長谷川さんの話の中に月山が出てきた時は引き込まれた。芭蕉が登ったことも驚きであった。宝冠で頭を包み、強力に案内され雲や霧の立ちこめる山の中、氷や雪を踏んで30km余りを登ったとある。太陽や月の通路にある雲の関所に入るのかと疑わしくなるほどだという描写は体も冷え切って息絶え絶えに登る芭蕉の姿が浮かんでくる。
八日、月山(がっさん)にのぼる。
木綿(ゆう)しめ身(み)に引きかけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(ごうりき)といふものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひょうせつ)を踏(ふみ)てのぼること八里(はちり)、さらに日月(じつげつ)行道(ぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(い)るかとあやしまれ、息絶(いきたえ)身(み)こごえて頂上(ちょうじょう)にいたれば、日没(ぼっし)て月顕(あらわ)る。
笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕(まくら)として、臥(ふし)て明(あく)るを待(ま)つ。
日出(い)でて雲消(きゆ)れば湯殿(ゆどの)に下(くだ)る。
谷の傍(かたわら)に鍛治小屋(かじごや)といふあり。
この国の鍛治(かじ)、霊水(れいすい)をえらびてここに潔斎(けっさい)して劔(つるぎ)を打(うち)、終(ついに)月山(がっさん)と銘(めい)を切(きっ)て世に賞(しょう)せらる。
かの龍泉(りゅうせん)に剣(つるぎ)を淬(にらぐ)とかや。
干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。
道に堪能(かんのう)の執(しゅう)あさからぬことしられたり。
岩に腰(こし)かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半(なか)ばひらけるあり。
ふり積(つむ)雪の下に埋(うずもれ)て、春を忘れぬ遅(おそ)ざくらの花の心わりなし。
炎天(えんてん)の梅花(ばいか)ここにかほるがごとし。
行尊僧正(ぎょうそんそうじょう)の哥(うた)の哀(あわ)れもここに思ひ出(い)でて、猶(なお)まさりて覚(おぼ)ゆ。
そうじてこの山中(さんちゅう)の微細(みさい)、行者(ぎょうじゃ)の法式(ほうしき)として他言(たごん)することを禁(きん)ず。
よりてて筆(ふで)をとどめて記(しる)さず。
坊(ぼう)に帰れば、阿闍利(あじゃり)のもとめによりて、三山(さんざん)順礼(じゅんれい)の句々(くく)短冊(たんじゃく)に書く。
涼(すず)しさや ほの三か月(みかづき)の 羽黒山(はぐろさん)
雲の峯(みね) 幾(いく)つ崩(くず)れて 月の山
語(かた)られぬ 湯殿(ゆどの)にぬらす 袂(たもと)かな
湯殿山(ゆどのさん) 銭(ぜに)ふむ道の 泪(なみだ)かな 曽良(そら)
私たちは鶴岡市の湯野浜温泉から庄内平野を通って朝一番に月山に向かった。「月山だけは天候が回復してほしい」という願いが通じたのか、午前中は晴天となった。予報では午後からはまた雨模様になると言っていたが、月山さえ天気が良ければ全てよし!と心が弾んだ。
庄内平野の向こうには昨日、まったく姿を見せなかった鳥海山がくっきりと見えた。車中の全員が思わず拍手したほどだった。

今回のツアーはバスガイドは乗務していないが、月山への往復道路のみ保安要員としてバスガイドが途中で待機していて乗務した。それぐらい運転が難しい道路であった。


湯殿山は「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた清浄神秘の世界。これは芭蕉の時代から変わらない。観光バスや車で行けるのは大鳥居の前の駐車場まで、そこからはシャトルバスで本宮ヘ。



湯殿山神社には社殿がなく、御神体は熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊厳(大きな岩)。素足になり、お祓いを受けてからお湯の湧き出る御神体の周りを歩く。これ以上は語られぬ。である。日本古来の自然崇拝の山岳信仰の原風景を見た思いであった。