素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

2冊の本をいただく

2010年05月18日 | 日記
 先日、2冊の本をいただいた。井沢元彦著「井沢式“日本史入門”講座」(徳間文庫)と鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)である。

 中学時代は「歴史」=「年号と語句の暗記」だけで終わり、高校時代は日本史の先生が嫌いで、捨てたも同然の勉強しかやらなかったため知識も貧弱な上にバラバラで入っているため繋がりがない。近場ではあるが、いろいろな所に出かける機会が増えると「これでは駄目やろう!」ということを頓に思うようになってきた。

 そこで買ったのが「もう一度学びたい日本の歴史」(西東社)。コンパクトにビジュアルにまとめられているのだが物足りなさがあった。それを補完してもらえそうな気がする。難しい中身を、よくかみくだかれたわかりやすい記述であるのも助かる。また、少し前に買った“京都奈良「駅名」の謎”の中に書かれていることとも共通するところが多々あり、楽しませてもらっている。

 鶴見俊輔という人は、私の中では「小田実と一緒にべ平連運動の中心となった闘う文化人」という認識しかなく、興味をひく人ではなかった。「思い出袋」という本は、岩波の情報冊子『図書』に連載された「一月一話」の集成に、書き下ろしの終章を付けて2010年3月19日に発行されたものである。

 連載は80歳から始められ、7年間にわたり綴られたという紹介の文に目が留まった。そして文章、400字詰め原稿用紙にして3枚弱の短文だが、80歳を超えても、思い出に溺れずに一歩離れながらも心に伝わってくる文章を書けることに、うらやましい気持ちが湧いた。87年の人生の積み重ねから紡ぎ出されたものだが、10話ほど読んだ時に鶴見さんはどんな生き方をしてきたのだろうという興味がわいた。感傷的な文ではないのだが、行間から“生き様”が感じられたのである。安易ではあるが、Wikipediaの助けを借りた。

 経歴

 鶴見祐輔の長男として東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。外祖父は後藤新平。俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による。厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校3年生のとき近所の中学生と組んで万引集団を結成。本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返す。このためクラスでは除け者にされていたが、このときただ一人鶴見を庇っていた同級生が永井道雄だった。

 しかし鶴見の側では永井をいじめる態度に出て、大塚駅の前でこうもり傘の柄で永井の足を引っ掛けて水溜りの中に倒し、その後で再びクラスから村八分にされることを恐れて翌日は早くから登校し、クラスの世論を鶴見側に有利に傾けるため事実の捏造をした。

 肉体的に早熟だったため、小学生時代から性的な思念が頭から離れず、授業中は「パンツの中でペニスが右側に入っているか左側に入っているか」を気にして上の空だった。10歳をいくつも出ない年齢で歓楽街に出入りし、女給やダンサーと肉体関係を持った他、自殺未遂を5回繰り返して精神病院に3回入院させられた。当時、同校の生徒800人のうちただ1人の不良少年であることが誇りだったという。

「平常点はいつもビリに近いところにいた」ため、東京高等師範学校附属中学校に推薦されず、府立高等学校尋常科に入学するも、武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため入学後1年1学期で同校を退学になり、東京府立第五中学校に編入学するもやはり中退。

 俊輔の将来を心配した父から「土地を買ってやるからそこで養蜂場を経営して女と暮らせ」と言われたこともあるが、最終的には父の計らいで1938年に単身渡米し、同年9月、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス・スクールに入学。全寮制の寄宿舎で9ヶ月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの勧めでハーヴァード大学に進学、哲学を専攻。ホワイトヘッドやラッセル、クワイン、カルナップに師事。大学では成績優秀で、1000人いる同級生の中の上位10%に入っていたため飛び級コースに入る。

 18歳の時には、当時働いていたニューヨークの図書館でヘレン・ケラーと一度会い、言葉を交わしている。この頃、ハーヴァードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマティズムを学ぶことを勧められる。都留は生涯の師となった。

 1941年12月8日に日米開戦。1942年3月末、大学の第3学年前学期が終わったとき無政府主義者としてFBIに逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。この間、拘置所から提出した卒論が受理され、19歳のときSumma Cum Laude[10]の成績でハーヴァードを卒業。

 1942年6月、日米交換船グリップスホルム号と浅間丸に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。ただしこれは強制退去ではなく、送還か収容所送りかの選択を迫られて鶴見自身が決めたことであった。収容所にとどまれば食事の心配がないのに敢えて帰国を選んだ理由について鶴見は「(収容所にとどまれば)敗戦後の日本に帰るときには大変に後ろめたい思いをしなきゃいけない」「アメリカに残っていたら、収容所といえども飯は結構困ることないんだよ。イタリア人のコックだし。私にとって(収容所の)飯は旨かったんだよ。だけどそれを戦争の終りまで─負けることは判ってる─終りまで、これを食い続けるのは悪いなという気がしたんだよ」と説明している。              
                                                      
 第二次世界大戦時には結核持ちであるにも関わらず徴兵検査に合格したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願し、1943年、インドネシアのジャワ島に赴任。主に敵国の英語放送の翻訳に従事。1944年12月、胸部カリエスの悪化により帰国。敗戦を日本で迎えた。

 戦後、海軍を除隊後に『思想の科学』を創刊し、『共同研究 転向』など思想史研究を行う。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後言論界の中心的人物とされる。京大助教授時代、1951年にはスタンフォード大学から助教授として招聘されたが、原水爆反対運動に関与したことが神戸市の米国総領事館から問題視されて米国への入国を拒否され、その後一度も渡米していない。

 ベトナム戦争期は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の中心的な人物として活躍した。ただしマルクス主義者ではなく、「私は日本にいたときからクロポトキンを一生懸命読んでいた。クロポトキンにはマルクスに対する偏見がありますから、それが、私がマルクス主義者にならない、一種の予防注射になった」と述べている。反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している。 


 87年の人生をこれだけの記述でわかった気になってはいけないが、それでも“途中下車”という題のついた文の書き出し「私は、自分の内部の不良少年に絶えず水をやって、枯死しないようにしている・・・」という一文の重さを感じたのである。と同時に不遜ではあるが私と同じ部類に属する人やなぁと親近感を覚えたのである。

 ジムの有酸素運動をしながら読むのに最適な一文の長さなのでありがたい。80歳まであと21年ある。そこまで生きるかどうかはわからないが、もし80代を生きることになれば、是非“思い出”をこのように書くことができる人間になりたいと思う。そのためにも、自分の感覚を信じて日々を過ごすことを改めて強く思った。

 本と一緒につけられていた栞も気に入っている。坂本龍馬の歌である。

 世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

 
コメント
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