昨日は山谷の帰りにニルマル宅で飲んだ。
酔いつぶれて寝た。チワワのしょうちゃんと仲良く寝ていたらしい。
MCのシスター方でボランティアをしている谷口さんも来た。
酔いつぶれて寝る前までマザーの話しや日本のMCの問題なども話し合っていた。
いつでも、どこでも、問題はある。自分のなかにもあるだろう。しかし、否定的なことばかり口走り、憂さを晴らすようなことから愛は生まれない。
その問題から教わるような態度であることは良いだろう。それに向き合えるような勇気が愛を生むかも知れません。
山谷では多くのおじさんたちが抱えきれないような苦しみを持っている。そして、ときに憂さを晴らしたいと、それをあらわにすることもある。
彼らが抱える、抱えているものが憂さを晴らすことによって、ほんの少しでも軽くなるのであれば、それを晴らしてもらうことをする。
どんな苦しいことでも言葉に表すことによって、その形を変え始める。その大切さを知り感じることによって、自分たちの態度はどうあるか、どうあるべきかは自分たちの問われていることである。
昨日、あの死にたいと言っていたおばちゃんに会った。
少し和らいだ顔をしていたことに安堵した。先週よりも元気そうな顔に安堵した。
こうしたことを感じる自分の内側には、元気が良い、元気がないと悪い、そうした思い込みがあることを感じていた。
もちろん、元気であることは何よりだろう。しかし、元気を装うことはとても辛いことである。
元気でない人としっかりと向き合えることをした方が良いだろう。元気がないことをしっかりと受け止めてあげることが良いだろう。そうしたあたたかな態度が何かを変えていく。
元気がなくてもいい、無理に元気を出さなくてもいい。その人のありのままと向き合えるような自分でいたい。そして、その人にはありのままであってほしいと望む。
気が付けば、いつも目の前の人から教わっている。
二日酔いの今朝、ニルマル宅でシャワーを浴びた。
両足の親指には変わったマニキュアがあった。
左にはへのへのもえじ。右にはスマイル。
落書きが問題視されているが、これは変わったマニキュアなので、特におとがめなしにした。
変わったマニキュアをしたまま、亀有のニルマル宅から帰ってきた。下駄をはいているので、罰ゲームのような感じも何気にもあらずだったが、楽しい思い出を身体の一部にしたまま帰ってきた。
そうですね。“こと”に問題がなく思うように進んでいけば良いのですが、おっしゃるように救いを求めながら進んでいくことの方が多いものですね。
今日は、Star Festivalの日ですね。
皆の願いがいつかきっと、天に届く日が訪れますように。
よい日を。
今日も祈り願い。それを抱きしめるようにあたためていく。
静かに思っています。