新宿駅に着くと、第一朗読が始まった。
マザーハウスで行われている聖人となったマザーの記念日のミサである。
イヤホンを持ち合わせていない私はスマホを大事に手を合わせるようにして両手で持ち、画像だけを目で追った。
サイレントにしていなかったので電車が駅で止まった時、静かになった瞬間にインド人シスターのインドなまりの英語が耳に伝わると懐かしさも一緒に届いた。
山手線に乗りながら、マザーハウスからの生配信のミサを見る時が来るのなど、想像すらしなかったが、やはり見れて、私の心はとても喜んでいた。
いつものマザーの記念日のミサであれば、司教を始め、司祭は10人くらいで行われるだろうが、コロナの影響であろう、この日は3人で行われた。
その一人に私と同じ年の高塚神父がいた。
その姿を見るのも嬉しかった。
もう何百回、何千回と見てきたマザーハウスのイエスの銅像とその横に書いてある言葉「I Thirst」に心を奪われた。
私は山手線のなかにいながらも私の心はマザーハウスにいた。
胸が熱くなった。
瞳も汗をかきそうになっていた。
カメラは一台だけであったろう。
シスターたちの意向かも知れない、やはりシスターの姿などはあまり映らなかった。
聖体拝領の時、少し映ったシスターはマスクしていて、聖体を手でもらっていた。
これもコロナの影響であろう、以前であれば、シスターたちは聖体を口でもらっていた。
マザーは聖体を口でもらうことを好んでいた。
手でもらうと聖体が削れたり、少し散ってしまったりすると言う理由からだそうだ。
私はマザーハウスで洗礼を受ける前にシスターから、それを聞いて以来、聖体は口でもらうことにしてきたが、コロナ禍になってからは手で聖体をもらうようにしていた。
だから、マザーハウスのシスターたちが聖体を手でもらっている姿を見て、私は勝手に嬉しかったのだった。
私はほんとうにたくさんの友達にこのミサのことを知らせた。
一緒に祈りたかった。
みんなはどんなことをマザーに祈ったのだろうか。
何を思い、何を感じたにしても、そのすべてが愛のなかにあってほしいと思った。