小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑧

2014-07-15 06:21:38 | Weblog
 昨日のブログでは、集団的自衛権行使によって日本の安全保障力が強化されるか、を論理的に検証した。私が歴史的事実を、私自身の主張に組み入れる場合の方法論がお分かりいただけただろうか。私は、ことさらに自分の主張にとって都合がいい「事実」だけを採用する、つまり「木を見て森を語る」ような、無数の事実の中から都合がいい
事実のみ取り出して主張の論拠にするといったご都合主義的手法は一切行っていない。
 実は日本のディベート教育などでよく行われるやり方なのだが、「木を見て森を語る」といった論法が、結構説得力を持ってしまうことがある。こういう論法を別名「例証主義」とも言うのだが、事実そのものはねつ造した「事実」でなければ否定できないから、つい説得させられてしまう。そういう結果になるのは、学校教育が「知識習得」に重点を置いているためではないかと、私は思っている。
 中国や北朝鮮の軍事的挑発行為自体は誰も否定できない事実だから、それを「脅威」と感じ、「脅威に対抗するための手段を構築する権限」を、時の政権が行使することは憲法違反でもなんでもない。憲法の制約によって、国家と国民の安全が脅かされる事態に対処できないと考えるのはアホである証拠だ。

 前にもブログで書いたが、私は記憶力が、自慢するわけではないが人並み劣って弱い。「人並み優れて」という言い方はしばしばされるが「人並み劣って」という言い方は、初めて目にしたという方も少なくないのではないだろうか。「天は二物を与えず」という言い方もあるが、この格言は裏返せば「天は一物しか与えない」つまり「一物は与えてくれる」ことを意味する、と私はポジティブに考えるようにしている。
 確かに私は若いころヘーゲルの弁証法は勉強したが、きわめて難解で、意味がさっぱり分からなかったことを正直に告白しておく。が、社会に出てからエドワード・デ・ボノの『水平思考』を読んで、その分かりやすさに脱帽したことをいまでも記憶にとどめている。ボノがヘーゲル論理学を参考にしたかどうかは知らないが、「水平思考」は典型的な弁証法的思考力を養う方法だということが理解できた。
 水平思考とは、分かりやすく言えば、既成の価値観や知識に依存せず(「頼らず」ではなく「依存せず」が重要)、ジグゾーパズルをはめ込むような方法で主張の体系を構築する方法である(というのが、私流「水平思考」の方法論)。
 私はしばしば、幼な子のような素直さで、あらゆることに疑問を持つことの大切さをブログで書いてきた。国民がそういう思考力を身に付けることが、実は権力にとっては最も脅威なのだ。はっきり言って中国や北朝鮮の核よりも脅威といって差し支えない。国民の感情を意図的に煽ったり、「木を見て森を語る」ような手法で世論を誘導することが不可能になるからだ。
 まだ、物心もつかないような幼な子に、じっと見つめられた経験が誰にでもあると思う。心の奥底を見透かされているような恐怖感に襲われたことは誰でも経験していると思う。その幼な子のような目で、頭の中からすべての既成概念や観念を取り払い、いったん頭のなかを真っ白にして、権力が主張する個別的事例を幼な子のような素直な気持ちで考えると、あらゆることが透けて見えてくる。これが「水平思考」の効果である。
 私の場合、子供のころから記憶力が抜群に劣っていた。今でもそうだが、人の名前、人の顔、本当に覚えられない。フィットネスクラブやゴルフ場で、しばしば「知り合い」と顔を合わせることが多いのだが、私には見覚えがないの
で私のほうから挨拶することはほとんどない。相手から頭を下げられて、あわてて頭を下げたら、その人が挨拶した相手は私ではなく私の背後にいた人だったりして、バツが悪い思いをしたことがしばしばある。もちろん何度も顔を合わせている人の顔や名前は覚えているが、それほど頻繁ではないケースは頭脳のメモリが記録を拒否しているのかもしれない。
 一度見て、絶対に忘れないのは、やはり男だから美人である。歳が歳だから、スケベ心があるわけではないのだが、いくつ歳をとっても美人とは飲み友達くらいにはなりたいと思う。これって、やっぱりスケベ心のうちかな…。だとしたら、死ぬまでスケベ心は治らないな。
 実は昨日フィットネスクラブで昼職を顔見知りの同年代の女性たちと一緒になり、そんな戯言(ざれごと)を話していたら、彼女たちも口をそろえて「私たちもそうだよ。テレビのドラマを見ていても、やっぱりイケメンには心をときめかせるもの」と言っていた。男も女も同じかと思った。
 そんなことはどうでもいいが、「天も一物は与えてくれた」おかげで、記憶力に弱点があるため、問題解決に当たって知識に頼ることができず、その結果、論理的に物事を考えるしか、問題を解決できない人間になってしまった。非常に分かりやすい事件について私の水平思考による論理を駆使してみる。元兵庫県議員の野々村竜太郎が起こした事件である。
 この事件に関連して多額の切手を金券ショップで購入していた議員が10人以上いることが判明した。議会側は記者会見でその事実は認めながら「適正に処理されている」としか言わず、疑惑そのものを否定した。記者は必死になって食い下がったが、どこまでも平行線をたどった。
 やはり昨日、沖縄返還時の密約の公開について最高裁での判決が下った。最高裁は公開要求自体は否定しなかったものの、「政府が密約文書はもう残っていないと主張している以上、密約が現在も存在することを証明する義務は原告側にある」と、事実上原告の公開請求を退けた。この判決は不当だと原告側は記者会見で怒りをぶつけたが、私もこれほど重大な密約文書が破棄されているとは一概に信じがたいが、逆説的に言えば、いつ密約が漏れ出すか、また漏れた
ときのリスクを考えたら、政府が密約文書は小さなメモリに保存し、文書その
ものは本当に破棄した可能性のほうが高いとも考えられる。
 兵庫県議会の問題を水平思考で考えてみよう。私が記者だったら、こういう質問をぶつける。
「県議会が村社会で、かばい合いの世界だということは、我々の世界が同じだから理解はできる。しかし、食品メーカーがスーパーで販売している菓子袋に異物が混入した事件が生じたと考えてみよう。それが一つだけだったら、新しい菓子と交換して一件落着になる。が、10袋に異物が混入していたら、間違いなく全品を回収し、すでに購入した消費者には多額の広報費を投じて回収への協力を呼びかける。それが民間企業の責任であり、モラルだ。菓子の数は数十万になる。県議会議員は何人いるか? 確率からしたらとんでもない確率になる。県議会が解散したら県政が滞るから、半数ずつ改選して県議会の一新を期すべきだと思う。そのとき前議員が立候補した場合、すべての政治活動費を1円に至るまで公開することを有権者は要求するだろう。県議会は県民の信頼を回復するためにもそうすべきだ。そうでなければ県民の県政に対する信頼は永遠に損なわれる」
 こう私から追及されたら、県議会も根拠を示さずに「適正に処理されている」などと逃げることはできなかったはずだ。こういう思考方法が「水平思考」であり、弁証法的考え方なのである。論理というのは、これほど単純なものはないと言っても差し支えない。日本は江戸時代から儒教的教育方針で「知識詰め込み」を重視してきたため、どうしても知識に頼ろうとする。だから「森を語るために木を探す」という無意味な努力を重ねることになる。
 
 行使支持派新聞の主張について続ける。「限定容認」についての主張だ。この問題については、各紙に多少の隔たりがある。読売新聞は「行使の範囲を狭めすぎれば、自衛隊の活動が制約され、憲法解釈変更の意義が損なわれてしまう」と主張した。はっきり言えば、読売新聞は「安倍政権は公明党に妥協しすぎだ」と言いたいようだ。
 それに対して日本経済新聞は慎重な姿勢を表明した。「アジア太平洋に安全保障の協力網を作る。この枠組みで中国と向き合い、協調を探っていく」「だからといって、安倍政権の議論の運び方に問題がなかったわけではない」「政府は行使の要件について『国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』場合などと定めた。慎重派の公明党との妥協を急ぐあまり、『過度に、制約が多い内容になってしまった』との批判がある」「実際の行使に当たり、『何をどこまで認めるのか』といった議論は、ほとんど深まらなかった」
 産経新聞は読者層が限定されていることを承知しているからだろうか、ズバリ自衛隊の実力行使について大胆な主張をした。「自衛隊が国外での武器使用や戦闘に直面する可能性はある。自衛隊がより厳しい活動領域に踏み込むことも意味すると考えておかねばならない。どの国でも負うリスクといえる」「反対意見には、行使容認を『戦争への道』と結びつけたものも多かったが、これはおかしい。厳しい安全保障環境に目をつむり、抑止力が働かない現状を放置することはできない」
 日本経済新聞はやや慎重な言い回し方だが、読売新聞と産経新聞は公明党との妥協で行使の条件をかなり「個別的自衛権」や「警察権」で対応できるほど限定してしまったことに不満なようだ。いずれにせよ、支持派の主張は重要な二つの問題をあえて無視した。私が「あえて」と書いたのは、それほどバカではないだろうとの「敬意」の表明である。でも、本音ではバカだと思っているが…。
 一つは安倍総理の説明の中に「湾岸戦争やイラク戦争のような(日本の安全が脅かされるおそれがない)遠い国での戦争に参加するようなことはありえない」と行使の地域を限定したことに対する評価である。中国の海洋進出によって既にベトナムとの間は一触即発状態にある。が、アメリカと同盟関係になく、かつては戦火を交え、ナパーム弾や枯葉剤などの実験材料にされたベトナムとしては、「世界の警察」であるアメリカには支援を頼めない。アメリカも口を出すつもりはないようだ。そんなもんだぜ、アメリカという国は…。
 が、いったんフィリピン政府の要請により基地を撤去したアメリカだが、フィリピン政府が中国との紛争に備えてアメリカに再び「来てください」と頼んだら、フィリピンはアメリカの同盟国でもあるから、「待ってました」とばかり米軍を派遣した。
 安倍総理が主張する国際情勢の変化によるリスクは、日本よりベトナムやフィリピンのほうがはるかに大きい。中国とベトナムが戦火を交えるようになったときアメリカは「知らんぷり」をするかもしれないが、フィリピンと中国との間に紛争が生じればアメリカはフィリピン防衛のために軍事行動に必ず出る。その時アメリカは日本に「集団的自衛権」の行使を要求してくることは間違いない。
 フィリピンは地球の反対側にあるような遠い国ではない。安倍総理の地域限定論によれば、フィリピンは行使の地域的範囲内だ。アジアで火を噴く一番可能性が高い、この地域での「集団的自衛権行使」について支持派新聞は「あえて」語ろうとしない。なぜか。
 次に、安倍政権が中国や北朝鮮の軍事的挑発行為を「脅威」と感じて「集団的自衛権」を行使するというのなら、当然そうした日本の軍事力の強化を中国や北朝鮮は「脅威」と感じるだろう。少なくとも、感じたふりをしてさらに軍事力を強化することは間違いない。つまり中国や北朝鮮に軍拡の正当性を、わざわざ安倍政権は提供したようなものだ。
 そのとき日本の政権をだれが掌握しているかにもよるが、安倍総理の論理によれば日本政府も「脅威」を感じなければならないし(少なくとも感じたふりをしなければならない)、さらに日米軍事同盟を強化しなければならない。それがまた中国や北朝鮮にとっては「脅威」の増大になり、…。もうそれ以上書かなくても読者はお分かりのはずだ。
 つまり、「限定容認」の「限定」が際限なく拡大されていくことは論理的に考えれば必至だ。支持派新聞は安倍政権が公明党との妥協で行使の範囲が狭められたことに不満のようだが、そんな心配することはない。安倍政権はもう「負の連鎖(スパイラル)」の扉を開いたのだから、あとは支持派新聞が何も言わなくても、日本はいずれ核まで持つようになるって…。
 そのとき、政権はおそらく堂々と正論を主張する。「核不拡散条約は、国連憲章違反だ。核大国の米英仏露中(国連安保理の常任理事国でもある)が他国攻撃のためではなく、自国防衛と抑止力のために独占的に保有する権利を国際社会に認めさせ、5大国以外の自国防衛と抑止力のための核開発と保有を禁止するがごとき条約は、国連憲章51条が全加盟国に認めている個別的自衛権を否定するもので、かくのごとき核大国のエゴは我が国としては到底承服しかねる」と。
 この論理に、核アレルギーの感情論では到底対抗し得ない。論理的には核大国の米英仏露中も、反論できない。核不拡散条約が、5大国の核による自国の防衛権と抑止力のための核開発・保有を認めているからだ。そこまでの権利は国連憲章のどの条文も認めていない。日本国内で、核アレルギーの払しょくのために、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞が総力を挙げざるを得なくなる時が必ず来る。もちろん、3紙の論説委員諸氏は、そうなることを百も承知だろうね。

 明日は反対派の主張を検証する。