小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

アメリカが新疆ウイグル人権侵害問題で北京オリンピックの外交的ボイコットを呼びかけた本当の理由

2022-01-25 01:21:34 | Weblog
【特別追記】ウクライナ情勢でバイデンはなぜへっぴり腰に変わったのか~
ウクライナ情勢をめぐって緊迫状況が続いている。ウクライナはもともとは旧ソ連邦の構成国であり、ワルシャワ条約機構の最前線国だった。そのためウクライナにはロシア人も多く住んでいる。
旧ソ連が崩壊後、ウクライナは独立したが、親ロ派政権が続いていた。が、親ロ派政権の汚職問題もあって政権が親ロ派から親EU派に変わった。その後、2014年に、ロシア人が圧倒的多数を占めているクリミア自治共和国が、住民投票を経てウクライナから分離独立、ロシアへの編入を決めた。さらにロシア人住民が多い東部の2州(ドネツク州・ルハーシンク州)もウクライナから分離独立の動きを始めた。そうしたロシア人住民の多い地域でのウクライナからの分離独立の動きの背景にロシアの関与がなかったとは、多分言えないと思う。
いまウクライナで危機が生じているのは、親EU政権のポロシェンコ大統領がNATOに参加する方針を打ち出したためだ。
NATOとEUとは違う。そのことを明確に認識しておいてほしい。EUはヨーロッパの経済圏を意味し、NATOは旧ソ連圏に対する軍事同盟連合である。NATOは旧ソ連圏の軍事的圧力に対抗するために結成された、当時の西側軍事同盟であり1954年に結成された。旧ソ連が主導して結成されたワルシャワ条約機構はNATO結成の翌年の1955年である。この両軍事同盟の成立の時間差から考えても、NATOは共産主義勢力の西側ヨーロッパへの浸透を防ぐために結成されたと考えるのが文理的である。一方、旧ソ連圏にとってはNATOが軍事的脅威に相当し、対抗するための軍事同盟のワルシャワ条約機構を結成したと考えるべきだろう。
言っておくが、私は本稿でも書いているように、どちらを支持しているわけでもない。体制についていえば、私は共産主義体制には反対である。が、民主主義の名のもとにおかしな政治を行っている状況に対しては厳しく断罪している。本稿では、日本の安全保障をアメリカに頼ることがいかにリスキーかということを、本稿の前のブログの「憲法改正論」とともに書いている。
そのうえで、いかなる体制の国でも、他国からの軍事的脅威に対する対抗手段は否定すべきではないと主張した。本稿では、北京オリンピックの外交的ボイコットに関していえば、欧州議会が中国の新疆ウイグルでの人権侵害を口実にしたアメリカに対して香港での人権侵害を決議したことを評価したが、日本はさらに踏み込んで国会でチベットやモンゴルに対する人権侵害も非難する決議をした。私は寡聞にしてチベットやモンゴルに対する人権侵害の実態を知らないので何とも言えないが、日本が矜持をもって人権侵害を問題視するならアメリカでの黒人迫害の様々な事件に対しても「遺憾の意」くらいは表してもらいたいと思っている。
それはともかく、ウクライナ危機に関していえば、私は「キューバ危機」を思い出した。当時、アメリカはCIAがキューバのカストロ政権を転覆させるため、様々な工作を行っており、キューバがアメリカの軍事的圧力に対抗するためミサイル基地の建設の乗り出し、旧ソ連がキューバを支援するためミサイル基地建設のための資材(ミサイルそのものも含んでいた可能性も高い)を搬入しようとしたとき、時の米大統領のケネディが「ソ連との戦争をも辞さず」とソ連・フルシチョフと強談判してソ連からの搬入を阻止したことが頭によぎった。冷静に考えれば、キューバがアメリカと戦争して勝てるわけがなく、北朝鮮もアメリカと戦争して勝てるわけがないことは12歳以上の子供なら常識でわかる話だ。
日本は「12歳以下の子供」(マッカーサー発言)だったから、勝てる見込みのないアメリカとの全面戦争を始めたが、世界の国々は日本のバカげた戦争から学んでいる。北朝鮮の核ミサイル開発はアメリカと戦争するためではなく、アメリカの敵視政策・軍事的脅威に対する、あくまで対抗手段でしかすぎず、だから日本が北朝鮮の暴発をやめさせるにはアメリカに対して「北朝鮮に対する敵視政策・挑発行為をやめてくれ」と主張すべきだと本稿で書いた。
同様に、ウクライナがNATOに加盟するということになれば、ロシアに対する軍事的敵視政策をとることを決めたということを意味し、ロシアにとっては黙視できるわけがない。キューバ危機と同様、ロシアと隣接した地域にミサイル基地が建設されることを意味するからだ。
ウクライナ政権にとっても、これ以上ロシア勢力の浸透を許すわけにはいかないという思いもあるだろう。が、いきなりNATOに加盟するということは、あからさまなロシアに対する敵視政策であり、核禁条約については日本政府が「核保有国と非保有国の橋渡し」に徹するというなら、ウクライナ政府に対して「EU(経済圏)への加盟にとどめ、軍事同盟であるNATOへの加盟は考え直してほしい」と要請すべきだろう。
それにしてもアメリカ・バイデンの豹変にはあきれた。当初は「軍事介入辞さず」と強硬姿勢を示していたが、一気に「経済制裁」に後ずさりしてしまった。やはりアメリカには「モンロー主義」(自国に直接の利害関係がない国債紛争には関与せず)が根強く染みついているようだ。アフガニスタンからの撤退騒ぎもそうだが、日本有事でもアメリカにとって直接の利害関係が薄ければ、おそらく在日米軍は総撤退するだろう。
私は別に反米主義者ではないが、アメリカという国はそういう国だということを、私たちは胸に刻み込んでおいた方がいい。(1月28日)



北京冬季オリンピック開催が目前に迫ってきた。米バイデン大統領が、習近平政権による新疆ウイグル自治区での人権問題を重視して北京オリンピックの外交的ボイコットを表明、EU、カナダ、オーストラリアなどが次々に同調、中国との関係悪化を懸念してなかなか態度を鮮明にしなかった日本も、昨年12月24日になって滑り込みで同調、政府代表団を派遣しないことにした。ただし、日本は政府代表団の代わりに橋本聖子・東京オリンピック組織委会長、山下泰祐・日本オリンピック委員会会長、森和之・日本パラリンピック委員会会長を派遣することにした。
が、アメリカが新疆ウイグルでの人権問題を「口実」にした外交的ボイコットには、私は疑問を抱かざるを得ない。新疆ウイグルでの強制労働や虐殺は少なくとも2019年には明らかになっており(ただし外国の報道陣が入れないため、実態は不明)、さらに翌20年5月には習近平政権が「国安法」(香港国家安全維持法)を成立させ、それまで「一国二制度」のもとで政治結社や思想・言論の自由が曲がりなりにも保障されていた香港での人権弾圧の状況は私たちもテレビの映像で目に焼き付いている。実際、欧州議会は昨年7月アメリカに同調して新疆ウイグルの人権問題で外交的ボイコットを議決したが、今年1月20日に香港の人権問題も外交的ボイコットの要件として再決議した。EUの方が筋が通っている。
なぜアメリカは今頃になって新疆ウイグルの人権弾圧を理由に北京オリンピックを外交的ボイコットすることにしたのか。それしか口実にできない事情があったからではないか。そう確信できる問題が実はある。

●新疆ウイグル自治区とは~
まず「新疆」とは地域の名称であり、「ウイグル」は新疆地域で多数を占める民族の名称である。日本なら「沖縄琉球」とでも言えばいいか。つまり沖縄は沖縄県と言う地域を意味する名称であり、その地域に住む住民の多数は日本人ではあるが琉球民族という関係と理解してもらえればいい。
新疆は少なくとも2500年以上の歴史を持つと言われており、モンゴル・ロシア・カザフスタン・アフガニスタン・パキスタン・インドなど多くの国と国境を接しており、国境の大部分は標高数千メートルの山脈である。また新疆のアクサイチン地域はインドとの間に領有権問題を生じている。
18世紀に中国の清王朝に征服され、清後は蒋介石の中華民国の支配下になり、その後、毛沢東の中華人民共和国(中国)に組み込まれた。日本による朝鮮併合のような感じだ。なお、かつては日本のメディアは中国を「中共」と称していた。中華人民共和国を略せば「中共」が正しい。
新疆は綿産業が盛んで、日本のユニクロも含め世界のアパレルメーカーの多くが新疆産の綿製品を購入していると言われるが、ここ数十年、新疆では豊富な石油・鉱物資源が発見されており、中国最大の天然ガス産出地でもある。
新疆は当初、中国の「省」だったが、民族融和のため1955年「自治区」に指定し漢民族が多数流入し始めた。中国政府も新疆の近代化を促進する政策をとってきた。いまでは新疆の住民2500万人のうち4割を漢民族が占めるに至っているようだ。が、新疆の多数民族であるウイグル族は大多数がイスラム教徒であり、とくに文化大革命のときには宗教を否定しモスクを大量破壊した紅衛兵との間に大きな衝突が何度も生じている。そういう過程を経て胡錦涛が2003年、高等教育において少数民族固有の言語使用を禁止し、公用語も漢語に統一した。当然、ウイグル族が反発して独立運動もしばしば発生するようになった。
そうした状況下で誕生したのが習近平政権である。習近平はまず「汚職の撲滅」を口実に政敵を次々に粛清、「毛沢東二世」を目指すほどの独裁権力を手に入れた。時期は不明だが、新疆に「強制収容所」を設置し、ウイグル族の思想改造に乗り出したのである。一説には強制収容所に収容されたウイグル人は延べ100万人に達しているという(「強制労働」については実態が不明)。
こうして習近平が、日本が朝鮮併合時代に行った「朝鮮人の日本人化」政策と同様の「ウイグル民族の中国人化」を目指しだしたのが、そもそも新疆ウイグル人権問題の発端である。
もちろん私は習近平政権の人権侵害政策については新疆ウイグル問題だけでなく、香港問題も含めて一切支持するつもりはない。が、なぜ新疆ウイグルの人権問題が突如、北京オリンピックの外交的ボイコットに結びつくのか、それが大きな問題なのだ。
もし本当に人権問題で習近平・中国を国際的に孤立化させるというなら、いっそのこと北朝鮮と同様の経済制裁を中国に対して発動する方がよほど効果は大きい。が、北朝鮮を孤立化しても世界経済はほとんど影響を受けなかったが、中国を孤立させれば、アメリカも日本もEUも経済的に大打撃をこうむる。いまや先進国のあらゆる産業は、中国を抜きにしては生き延びることができないからだ。

●アメリカはなぜ中国の共産化を防げなかったのか?
習近平政権の目標はアメリカを凌駕する中国の覇権をアジアで確立することのようだ。南沙諸島の軍事基地化などの海洋進出や香港の「一国二制度」の破壊による「中国化」もその一環。新疆ウイグルの「中国化」も同じ。そして最後の総仕上げが「台湾の中国化」である。そういう習近平の狙いはアメリカも分かっている。分かっていないのは日本だけだ。

日本の敗戦後、中国の内戦で蒋介石率いる国民党軍(中華民国政府軍)と毛沢東率いる共産勢力(人民解放軍)の戦いで、アメリカがなぜ国民党軍を軍事支援しなかったのか。
近現代歴史家と称する学者や小説家のほとんどが、実はこうした疑問を抱いたことがないようだ。
私はこう考えている。
日本がいたずらに太平洋戦争を長引かせ、とくに沖縄戦では米軍にも多くの犠牲者を出したことで、日本が無条件降伏したときには米軍自体が疲弊しきっていて、中国の内戦に軍事介入できる余力がなかったことが最大の理由。
日中戦争が始まって以来、中国で敵対関係にあった、孫文が創設した国民党と共産党が協力して関東軍と戦った(国共合作)。当時は共産党勢力より中華民国政府軍の方が圧倒的に戦力に勝っており、連合国も中華民国を中国の正当な国家とみなしていた。実際日本に無条件降伏要求を突き付けたポツダム宣言はルーズベルト・チャーチル・蒋介石3人の連名で発されている。また戦後の45年10月に発足した国際連合の常任理事国には国民党政権による中華民国が名を連ねていた。
が、46年6月には政府軍(中華民国軍)と共産党勢力(人民解放軍)が激突し、中国内戦が始まった。対日戦争では政府軍が前線で関東軍と戦い、人民解放軍はもっぱら後方支援に回っていた。そのため日本が降伏したとき、政府軍と人民解放軍の戦力は逆転していた。政府軍は関東軍との戦いでかなり疲弊していたのに対して人民解放軍は後方支援に徹し、戦力を維持していたからだ。
米ソもそれぞれ武器支援など双方の勢力を後方支援してはいたが、直接的軍事介入をするには米軍もソ連軍も疲弊しきっていた。もし、日本がミッドウェー海戦の敗北(42年6月)かサイパン島守備隊3万人全滅(44年6月)の時点でアメリカに降伏していれば、米軍は沖縄上陸作戦で大きな犠牲を払わずに済み、人民解放軍による中国支配を軍事的に防げていたかもしれない。
実際、第2次世界大戦が終結したのち生じた朝鮮半島での共産勢力の攻勢やベトナムでの共産勢力の拡大に対してアメリカは直接軍事介入している。ある意味では日本があのバカげた戦争を原爆を落とされるまで続けた結果、共産勢力の拡大を招いたと言えなくもない。
ちなみに戦争とは国と国の戦いを指す名称である。本来なら内戦である朝鮮戦争やベトナム戦争に「戦争」という名称が冠せられることになったのは、両方ともアメリカが戦争当事国として軍事介入したからである。だから中国での政府軍と人民解放軍との間に行われた内戦には「中国戦争」という名称がついていない。なぜ、そんな単純なことに誰も疑問を呈さないのか。
その単純な疑問を抱くだけで、アメリカが北京オリンピックを外交的ボイコットに踏み切った理由が分かるはずなのだが……。

●アメリカが北京オリンピックを外交的ボイコットした本当の理由
さて中国の内戦は先に書いたような事情で毛沢東率いる人民解放軍が蒋介石の中華民国政府軍を圧倒的に破り、49年1月には北京を制圧、10月1日には中華人民共和国の成立を宣言した。一方、中華民国政府軍は12月7日、台湾に逃れ、台湾で中華民国政府を樹立した。
実は台湾の歴史は極めて複雑である。古代中国の属国的立場だった時代もあれば、1624年からオランダの東インド会社が支配していた時期もあり、中国本土で明朝滅亡後、清朝(満州族の王朝)が中国を支配した時期には台湾は「化外(けがい)の地」(皇帝が支配する領地ではないという意味)という扱いだった時期もあり、台湾が歴史的に見て中国の一部と言えるかどうか疑問は残る。
日本も日清戦争の勝利によって台湾を清から割譲され統治していた時期もあり、台湾と中国の関係は琉球(沖縄)と日本の関係に近いかもしれない。いずれにせよ、台湾を独立国とみなすか、中国の領土とみなすかはそれぞれの国の台湾との関係、中国との関係によって異なっている。
実は戦後、アメリカも日本も基本的に台湾を独立国として扱ってきた時代があった。が、1970年代初頭に世界にアメリカ発の激震が走った。いわゆる「ニクソン・ショック」である。ニクソン・ショックには二つあり、一つ目は71年8月15日、アメリカが金とドルの交換を停止して固定相場制が崩壊、一時的な固定相場制を経て現在の変動相場制に移行したこと。もう一つは翌72年2月21日、ニクソンが電撃訪中を行い、中国との国交正常化を実現したことである。
この米中国交正常化は、ハーバード大教授であり、大統領補佐官だったキッシンジャーが極秘に中国を訪問(71年7月)、周恩来首相と会談して米中国交正常化への道を切り開いたとされている。そのとき、キッシンジャーが周恩来の要求に応じて、台湾は中国の一部であるとする「一つの中国」を受け入れたとされている。もちろんキッシンジャーが独断でそんな重要な外交案件を決められるわけはなく、水面下で双方の受け入れ条件に付いての合意があったはずだ。
この米中国交正常化は日本の頭越しに行われ、日本は蚊帳の外だった。慌てて日本は田中角栄総理が72年9月29日に訪中して周恩来と会談、「一つの中国」を受け入れて日中国交正常化を実現した。今年は日中国交正常化50年に当たる。
問題は「一つの中国」が何を意味するかである。この問題はややこしすぎるので、この稿では深入りしないが、アメリカも日本もそれまであった台湾の外交機関(大使館・領事館など)を廃止し、正式な外交機関の代わりにアメリカは「米国在台協会(ATT)」を、日本は「日本台湾交流協会」を設置した。
問題は米中国交正常化の後、アメリカは中華民国との間での「米華相互防衛条約」の後継法と言える「台湾関係法」を議会で成立させ、台湾との軍事同盟関係を維持してきていることだ。つまりアメリカは中国に対しては「一つの中国」を容認し、台湾に対しては同盟関係を維持するというダブル・スタンダードを中台政策の基本にしたのである。
すでに述べたように、習近平は「毛沢東二世」を目指してアジアでの覇権を確立しようと躍起になっており、新疆ウイグル族の「中国人化」や香港の「中国化」、さらに南沙諸島の軍事拠点化などの海洋進出を含む一連の強大化路線を進めており、台湾の「中国化」を最後の総仕上げ目標にしている。
一方、アメリカにとっては東シナ海・南シナ海における覇権だけは守り抜かなければならないという立場を維持しており、そのためにも「台湾の中国化」だけは絶対に阻止したいというわけだ。そのため、いま台湾を巡って米中のにらみ合いが続いており、中国が台湾に対して挑発的な軍事演習を行う一方、アメリカは台湾の防衛力強化に必死だ。
が、国交正常化に際してアメリカも日本も「一つの中国」を容認しており、そのため習近平政権はアメリカに対して「内政干渉だ」と強く非難している。そのため台湾問題をめぐって北京オリンピックを外交的ボイコットするのは、アメリカとしても国際的理解が得られにくいと考え、いまさらと言えなくもない新疆ウイグルの人権問題を外交的ボイコットの口実にせざるを得なかったというわけだ。人権問題を口実にすれば、北京オリンピックの外交的ボイコットも国際的理解が得られやすいと考えたのだろう。

●「台湾有事は日本有事」か?
以上述べたことでアメリカの北京オリンピック外交的ボイコットの目的が習近平政権の「一つの中国」作戦を未然に防ぎ、東シナ海・南シナ海におけるアメリカの覇権を維持するための手段であることが明確になったと思う。いわゆる「民主主義サミット」も、アメリカに同調する国と中国に同調する国を二分するための「踏み絵」なのだ。
だから必ずしも民主的な国家だけが招待されたわけではなく、アメリカに同調する国は独裁政治を行っている国も招待されている。北京オリンピックの外交的ボイコットの呼びかけも、いざ有事になったとき、政治的にも軍事的にもアメリカが主導する多国籍軍に参加しろとの「踏み絵」だ。
中国でも今、さすがに習近平の強硬路線に対する批判勢力が生まれつつあるという情報もちらほら出てきた。中国では言論の自由がないのは自明だが、習近平批判の論調を書く政府系新聞も出てきている。それどころか、習近平暗殺計画があったことも政府系新聞が明らかにした。習近平の権力も絶対ではない。
習近平もバカではないから、国際的非難が殺到する「一つの中国」作戦を強行するようなことはないと思うが、それはあくまで習近平が理性的であることを前提にした楽観的見方に過ぎないかもしれない。習近平があくまで権力の維持に固執した場合、「台湾有事」はありえないことではない。
そして最悪のケース、つまり習近平がアメリカとの軍事衝突も辞さずと「一つの中国」作戦に踏み切ったケースも一応想定しておく必要がある。そして実際に「台湾有事」が生じたとき、「日本有事」の可能性も。
安倍元総理は昨年12月1日、台湾の民間シンクタンクが主催したシンポジウムに日本からオンラインで参加し「新時代の日台関係」と題する基調報告を行った。その中で安倍氏は「日本と台湾がこれから直面する環境は緊張をはらんだものとなる」「尖閣諸島や与那国島は台湾から離れていない。台湾への(中国の)武力侵攻は日本に対する重大な危険を引き起こす。台湾有事は日本有事であり、日米同盟への有事でもある。このことの認識を習近平主席は断じて見誤るべきではない」と語った。
私も実は安倍氏とは違う理由で間違いなく「台湾有事は日本有事になる」と考えている。
もし、習近平・中国が力で「一つの中国」を実現しようとした場合、ダブル・スタンダードの中台政策をとってきたアメリカがかなりの確率で台湾防衛のために軍事介入するからだ。その場合、軍事介入する米軍の主力は沖縄の米軍基地に属する兵力になる。
これまでも私は沖縄の米軍基地が、日本にとって最大の安全保障上のリスクになると主張してきた。普天間基地の辺野古移設について、日本政府は「日本の安全保障上、辺野古移設以外の選択肢はない」と繰り返し主張してきた。
本当にそうか。
沖縄県の総面積は日本全体のわずか0.6%を占めるに過ぎないが、その沖縄県に在日米軍基地の70.6%(総面積比)が集中し、基地数も31を数える。日本防衛のために沖縄にそこまで米軍基地を集中させる必要性があるか否かは、中学生でもわかる話だ。
今年5月に沖縄返還50年を迎えるが、アメリカが日本に沖縄を返還する際、本土の米軍基地のかなりを沖縄に移設している。そもそもアメリカは朝鮮戦争時、在日米軍を朝鮮戦争に総動員して日本を丸裸にしたことが、日本独立を速めたといういきさつもある。そうした経緯から見ても、米軍基地を沖縄に集中させることにアメリカがこだわる理由は、日本防衛のためではなく、東シナ海・南シナ海での覇権を維持するための戦力重点配備が目的であることは明らかだ。
だから台湾有事にアメリカが軍事介入する場合、その戦力は沖縄の在日米軍になる。当然、中国は沖縄の米軍基地へ総攻撃をかける。まさに「日本有事」である。安倍氏の論理ではなく、沖縄の米軍が中国と軍事衝突した場合、間違いなく「日本有事」になる。だから私は、沖縄の在日米軍が日本にとって安全保障上の最大のリスクだと主張してきた。
改めて明確にする。沖縄の在日米軍の目的は日本を守ることではない。

【追記】NHKの偏向報道がひどくなる一方だ
1月22日のNHK『ニュース7』が核禁条約について報道した。事実についての報道は別に問題があるわけではないが、NHKはこのニュースの最後を一橋大学教授のコメントで締めた。
そのコメントは「日本は中国の核の脅威にさらされている」という核禁条約反対のコメントだった。NHKによる印象操作が明確になった瞬間である。
日本が中国の核の脅威にさらされている事実があってのことならいいが、そんな事実はまったくない。実際、中国が日本に対して敵視政策を行使したこともないし、核で脅した事実もない。ウルトラ右翼政治家の安倍元総理や高市氏でも、中国の核を脅威に思ったりはしてはいないと思う。現に、安倍氏は習近平を国賓として招待する予定だったくらいだ(コロナ禍で延期にはなっているが)。一橋大教授がどういう思想を持とうが、それは自由だが、あまりにも偏見に満ちたコメントを、なぜNHKが意図的に報道したのか。
同盟国であり友好国でもある中国やロシアの核の傘に守られていない(と思っている)北朝鮮が、アメリカの敵視政策に対して「やるならやってみろ。ただでは済まないぞ。もしアメリカが我々を攻撃するなら、日本が真っ先に火の海になる」と脅したのは事実だが、中国はそんな脅しもしていない。だいいち、NHKは「日本などアメリカの同盟国・友好国はアメリカの核の傘で守られている(と思っているだけだが)」と報道するが、それは大多数の日本人の共通認識だからやむを得ないとしても、実際に日本を敵視している国がどこにある?
日本が領土問題を抱えている国は韓国(竹島)、中国(尖閣諸島)、ロシア(北方領土)だが、自国領土と主張していながら竹島は韓国に実効支配されており、北方領土はロシアに占領されたままだ。オバマ以降歴代アメリカ大統領が「安保条約5条の範疇だ」とリップサービスしてくれている尖閣諸島ですら、日本は実効支配すらできない
(アメリカが反対しているから)。そんな国を、どういう口実で核攻撃する国があるというのか…。
日本政府は「核保有国と非保有国の橋渡しをする」と口先では言うが、具体策は何もない。せめて、日本自身は核を保有しなくても、非核保有国が核保有国の脅威にさらされた場合、その非保有国に対して核開発のための技術的・物質的(プルトニュームの無償提供など)援助をして核保有国からの脅威を軽減するというなら、「橋渡し」の意味も分からないわけではない。
しかし日本政府は核保有国のアメリカの敵視政策に悪乗りして、アメリカの核の脅威に屈しろと主張しているに過ぎない。しいて言えば、アメリカの核政策の「露払い」役に徹しているようにしか見えない。
日本が、本当に北朝鮮の核の脅威を排除したいのなら、アメリカに対して「北朝鮮への経済制裁などの敵視政策をやめてくれ。アメリカのおかげで日本は北朝鮮の核・ミサイルの脅威にさらされている。アメリカが北朝鮮に対する敵視政策をやめてくれたら、日本が責任をもって北朝鮮を平和国家として発展できるよう努力する」と主張すべきではないか。
実際問題として、アメリカが核の傘で守ってくれているというのは、独りよがりの思い込みに過ぎない。実際、そんな約束は、アメリカは日本に対しても、また他の同盟国・友好国に対しても、してくれていない。だいいち、沖縄返還のとき、日本政府はアメリカに対して核の持ち込みをさせないと約束したではないか。在日米軍基地から核攻撃できるならいざ知らず、米本国から報復核ミサイルを発射しても、多分敵国に撃墜されるだけだ。
それに、アメリカは北朝鮮の核保有には制裁を加えるが、イスラエルやインド、パキスタンの核保有は事実上容認している。アメリカが敵視している国ではないからだ。むしろイスラエルの核はイスラム過激派にとって脅威になり、インドの核は中国に対するけん制になるからだ。そんなご都合主義のアメリカ核政策に本気で頼っているお人好し国家が日本であり、公共放送と称しているNHKなのだ。



私が「憲法改正」すべきと考えた、これだけの理由。

2022-01-03 01:43:05 | Weblog
●ブログを書き始めて5000日目を迎えて
今日2022年1月3日が、私がブログを書き始めてちょうど5000日になる。最初のブログのタイトルは『私がなぜブログを始めることにしたのか』で、2008年4月27日の投稿だ、私が67歳のときで、私の32冊目になる最後の著書『西和彦の閃き 孫正義のバネ』を上梓したのが1998年3月だから10年たっていた。もちろん10年間、何もせずぶらぶらしていたわけではなく、雑誌や週刊誌には時々記事を書いてはいた。が、雑誌や週刊誌は単行本と異なり、あらかじめ雑誌や週刊誌の編集会議で決めた「結論」があり、私が取材した結果として書いた内容が編集部の「結論」と異なっていた場合、肝心の筆者に何の断りもなく勝手に改ざんされることがしばしばあり、ある雑誌の編集長とトラブルになり、私の意志に反した記事が私の名前で掲載されることに耐え切れず、著作活動をやめていた。当然、うつ病を発症し、電車に飛び込み自殺を図ったこともあった。幸か不幸か、身体のすべてが2本のレールの間にすっぽり嵌り、大事にはいたらなったが、その後も躁(そう)と鬱(うつ)を繰り返しながら今日に至っている。ある日、本屋でブログというSNSがあることを知り、これならカネにはならないが、だれにも束縛されず自由に書きたいことが書けると、ブログを書き始めたのが動機である。その後、フェイスブックやツィッター、ユーチューブなどSNSがいろいろ出現したが、私はブログ一筋で14年間続けてきた。

その節目の日を記念して、今月17日に召集される通常国会で本格的に議論がスタートする憲法審査会での議論について、なにをどう議論すべきかを書くことにした。これまで立憲や共産が開催に反対してきたため審査会は中断状況にあったが、開催に前向きな維新や国民が先の総選挙で議席数を大幅に増やしたこともあり、立憲も枝野体制から泉体制に代わったこともあって審査会への対応を変えたためだ。共産党がどう対応するかはまだ不明だが、改憲に反対だからといって参加を拒否したら、それは国民への裏切りである。
あらかじめ私のスタンスを明確にしておくが、現行憲法は「アメリカから押し付けられた」云々といった不毛な神学論争には一切与するつもりはないが、敗戦の翌年(1946年11月3日)に拙速に制定されたこともあり(発効は47年5月3日)、国際社会における日本の地位も当時とは比較にならないほど変化しており、現実に即し、かつ日本が国際社会にいかに貢献すべきかの羅針盤を示す内容に改正することには基本的に賛成である。が、審査会での議論が自衛隊を9条に書き込むことだけに終始するようだと、自民党というより、安倍元総理の土俵にまんまと引きずり込まれる結果になる。ゆえに、これまで自民党とくに安倍・菅政権がいかに憲法を無視してきたかを追及する議論を怠ってはならないと考えているからだ。

●憲法と皇室典範の矛盾
前回のブログ『「次の天皇は愛子さま」が国民の総意だ』で書いたように、皇室典範は皇位継承について「男系男子」と定めている。この規定は明らかに男女の性差別を禁止している憲法14条に違反している。
いま皇室問題についての政府の諮問会議である有識者会議が議論しているが、有識者6名の中に憲法学者は一人も含まれていない。安倍元総理は「憲法学者の6割以上が自衛隊を違憲と考えており、日本と国民を守るために命を懸けてくれている自衛隊員がかわいそうだ。だから自衛隊を憲法に書き込む」と改憲の目的を主張しているが、それなら憲法によって「天皇の地位は国民の総意に基づく」と明記されているのに、皇位継承権を「男系男子」に限定している皇室典範は合憲か違憲かを憲法学者に諮問しろ。おそらく憲法学者の100%が「違憲だ」と主張するだろう。そのうえ、メディアの世論調査によれば、国民の83%が「次の天皇は愛子さま」を望んでいる。
そういう現実を無視して、現在皇位継承権第2順位の悠仁さまが次期天皇になられて、悠仁天皇に男子のお子様ができなかった場合、数百年さかのぼって「男系男子」の元皇族を探し出して天皇の地位を継承させることになる。いったい今の天皇の何等親に当たるか。おそらく20等親、30等親あるいは100等親を超えるかもしれない。そうなったとき、国民のだれがそんな人に対して天皇として敬愛の念を抱くことができるだろうか。
おそらく「天皇なんかいらない」「皇室なんか不必要だ」という声が巻き起こり、共産党を喜ばせるだけの結果になる。それに憲法より皇室典範の規定を優先するなら、憲法14条を改正して女子には遺産相続権がないことを書きこむべきだ。そうしないと憲法と法律の整合性が失われる。

●学術会議会員の任命権は総理にはない
この問題も何回もブログで書いてきたし、前回のブログでも改めて書いたが、現行憲法の用語は戦前戦中の用語をそのまま踏襲しており、菅前総理が憲法15条の規定の一部を切り取って「学術会議会員は特別職の国家公務員であり、従って国民の代表である総理に任命権がある」などと馬鹿げた主張をして、いまだに6名の会員有資格者が宙ぶらりん状態だ。
が、憲法15条で定められている「公務員」とは私たちがイメージしている公務員ではない。「普通選挙」で選ばれた国会議員や地方議員、自治体の首長の地位を示しており、私たちがイメージする公務員は現行憲法では「官吏」という名称で記載されている。戦前戦中の用語をそのまま踏襲していることをいいことにして無理筋の解釈をしたのが菅氏であり、もしそんな解釈が罷り通るなら、同じ特別職の国家公務員である国会議員や裁判官の任命権も総理にあることになる。そうなると不祥事を起こした議員の出所進退は「自ら決めること」と処分を回避せず、総理権限を行使して除名することが可能になる。
学術会議会員の選出方法に従って選出された会員資格者を、自分が気に入らないからといって任命を拒否したのだから(ただし、任命拒否したのは事実上は安倍氏)、モリカケサクラなど職権乱用の極みを行使した安倍氏も今はタダの「特別職の国家公務員」だから、岸田総理は「国民の代表」として国会議員資格をはく奪すればいい。目の上のたん瘤を排除して自分の思い通りの政治を実行できるようになる。

なお、公文書改ざんという違法行為を上から命じられて違法な行為をさせられて自死した故・赤木俊夫氏の妻・雅子さんが起こした損害賠償訴訟について国は「全責任が国にある」ことを認めて民事上の決着はついたが、国が財務省近畿財務局の職員だった故・赤木氏に違法行為を強制したことを事実上、認めたことになるから、これは「国家犯罪」ということになる。つまり当時の国の代表者である安倍氏はその刑事責任を問われなければならないのではないだろうか。私は法曹家ではないので、この「国家犯罪」の刑事責任をだれが負うべきかの法的判断をする資格はないが、カネを払って刑事責任が免れることができるのなら日本は法治国家とは言えないと思う。

●安保法制なんか日本は必要なかった
安倍元総理が数の力にものを言わせて「集団的自衛権の行使」を容認した安保法制だが、そんな必要など全くなかった。いちおう、この稿では自衛隊の合憲・違憲問題は置いておくが、日本は集団的自衛権はいつでも行使できるのだ。
外務省のホームページによれば、日米安全保障条約第5条についてこう解説している。

第5条は、米国の対日防衛義務を定めており、安保条約の中核的な規定である。
 この条文は、日米両国が、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対し、「共通の危険に対処するよう行動する」としており、我が国の施政の下にある領域内にある米軍に対する攻撃を含め、我が国の施政の下にある領域に対する武力攻撃が発生した場合には、両国が共同して日本防衛に当たる旨規定している。
 第5条後段の国連安全保障理事会との関係を定めた規定は、国連憲章上、加盟国による自衛権の行使は、同理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの暫定的な性格のものであり、自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに同理事会に報告しなければならないこと(憲章第51条)を念頭に置いたものである。

分かりやすく説明すると、日本の領土(ただし、日本が自国の領土と主張するだけではなく、アメリカが「日本の領土」と認めた領域のこと。そのため日本政府はアメリカの大統領が代わるたびに尖閣諸島が日本の領土であることの言質を米大統領から取らなければならない。
文書化できれば、そんな必要はなくなるが、アメリカが応じない。言質を与えるたびに日本からの謝礼をもらいたいからだ)が他国から武力攻撃を受けたり、侵略された場合、アメリカは日本防衛の義務(権利ではなく義務)を負うというのが第5条の趣旨。
日本政府は尖閣諸島については第5条の範疇に入ることを米大統領に懇願し、言質の代償として米製兵器をアメリカの言い値で買わされているが、なぜ竹島や北方領土については米大統領の言質をとろうとしないのか。言質がとれっこないのなら「日本の領土」といくら主張しても「絵に描いた餅」に過ぎない。
また安保条約はアメリカが認めた「日本の領土」にしか適用されないから、日本が竹島や北方領土を取り返すことは事実上不可能だ。そのうえ尖閣諸島にしても中国が軍事支配しようとした場合にしか適用できず、日本が実効支配しようとして中国と軍事衝突に至った場合、米軍が自衛隊と共同して軍事行動に踏み切るかは疑問が残る。おそらく日本政府は何度もアメリカに尖閣諸島の実効支配に踏み切っていいかとアプローチしているはずだが、アメリカから「やめとけ」と命令されているから、手も足も出せない。
アメリカにとっては日本防衛は「義務」だが(しつこいようだが、アメリカの「権利」ではない)、日本にとっては自国防衛のためにアメリカに軍事的支援を要求できる権利があるということ。実はこの日本の権利が国連憲章51条で認められている「集団的自衛権」なのだ。つまり安保法制など作らなくても、いつでも日本は日米安保条約第5条の取り決めによって集団的自衛権を行使できるのだ。ではなぜ、こんなトンチンカンな安保法制が必要だったのか?

●内閣法制局のデタラメ解釈が混乱の原因
内閣法制局は集団的自衛権については以下のように解釈してきた(解釈はまだ変更されていない)。
「同盟国や有効な関係にある国が他国から武力攻撃を受けた場合、その国を防衛する集団的自衛権はすべての国連加盟国の固有の権利として認められているが、日本は憲法の制約によって行使できない」
まったくデタラメな解釈である。が、こうした解釈が必要になったのには、それなりの理由がある。東西冷戦時、ソ連もアメリカも各陣営国内の内紛(あるいは内乱)が生じた際、陣営に属する国の政府の要請に応じて軍事介入してきた。たとえばソ連はハンガリー動乱やチェコスロバキア動乱(プラハの春)の際に共産党権力防衛のために軍事介入した。アメリカも朝鮮やベトナムの内紛に軍事介入して西側権力を防衛しようとした。
これらの軍事介入は友好国や同盟国の他国からの攻撃に対する防衛のためではないのに、そうした行為の正当性について米ソともに「集団的自衛権の行使だ」と居直った。アメリカの事実上の属国として日本はアメリカの主張に同調せざるを得ず、集団的自衛権の解釈も「友好国への軍事協力の権利」と解釈せざるを得なくなった経緯がある。しかし国連憲章が認めている集団的自衛権とは似て非なるデタラメ解釈なのだ。
国連憲章は1945年6月26日、国連軍各国が第2次世界大戦後の世界秩序についてサンフランシスコで署名して成立した憲章である。すでに枢軸国側はイタリアもドイツも降伏しており、まだ抵抗を続けていたのは日本だけであった。この国連憲章を「憲法」として国連が発足したのは戦後の45年10月24日だ。
その国連憲章は前文で「国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則」とする、という平和主義の高い理想を掲げた。
さらに憲章の第2条(原則)では「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と明記している。
が、このような高い平和主義の理想を掲げても国際紛争が生じないという保証はない。そこで憲章は実際に紛争が生じた場合の対策として第7章『平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動』を設け、国連安保理に紛争解決のためのあらゆる権能と、紛争当事国に自衛のためにとっていいとする手段を明記した。まず安保理が行使できる権能については第41条と第42条を設けた。

第41条〔非軍事的措置〕
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。
第42条〔軍事的措置〕
安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。

この規定にもかかわらず、侵略や軍事攻撃を受けた国連加盟国については第51条で自衛のために行ってもよい軍事的手段を明記した。ここで初めて集団滝自衛権の行使が認められた。それまでは国際条約として集団的自衛権の行使が認められたことは一度もない。

第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が(とった)措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

これで国連憲章が容認した集団的自衛権がいかなる性質の権利かが明確になった。ただ疑問が残るのは、憲章が固有の権利として認めたのが「個別的及び(and)集団的」ではなく、なぜ「個別的又は(or)集団的」としたかである。andであれば個別的自衛権(自国の軍事力の行使)だけでなく同盟国や友好国の軍事力を自国防衛のために協力を要請できる集団的自衛権の行使ができる権利を意味するが、orの場合は個別的か集団的かのどちらかしか自衛手段として行使できないことになる。いかなる政治的意図がこの表記に込められたのかは不明である。が、いずれにせよ、内閣法制局の解釈がでたらめであることは憲章の文面から明らかである。

●湾岸戦争のとき、主権能力を喪失した海部内閣
1980年8月2日、フセイン・イラクが突如、隣国クウェートに侵攻した。フセインの口実は「クウェートは歴史的に見て我が国の領土である」というものだった。クウェートは直ちに集団的自衛権の行使に踏み切り国際社会に支援を要請、米欧など多国籍軍がイラクを攻撃した。湾岸戦争である。
フセインの主張に正当性があるのかどうかは不明である。ヨーロッパ列強はその検証をいまだにしていない。
日本は四海に囲まれた島国であり、他国との間に国境線問題は生じたことがない。竹島や尖閣諸島、北方諸島については領有権を巡って韓国、中国、ロシアとの間に紛争を抱えているが、他国と隣接はしていないから国境線問題は生じようがない(領海域については別)。
が、ユーラシア大陸や南アメリカ大陸などでは国々が隣接しており、しばしば国境をめぐって紛争が生じている。大河を国境にしている場合は漁業権紛争を生じることはあるが、国境線が地続きで設定されている場合は国境をめぐっての紛争が時には武力衝突に至ることもある。いずれにせよ、ユーラシア大陸や南米諸国の国境線は直線的ではない。大河や山脈などの自然環境は直線ではないからだ。
が、アフリカ大陸の中東諸国やアフリカ諸国は事情が違う。地図を見れば一目瞭然だが、国境線の多くが定規で引いたように直線なのだ。直線の自然環境などはありえないのにだ。
もともと中東やアフリカでは諸民族が国家を形成して領土を確定してきた歴史がない。ヨーロッパ各地に点在し、自分たちの国を持っていなかったユダヤ人が19世紀後半に生じたユダヤ国家建設を目指して聖地エルサレムがあるパレスチナ地域に集結してアラブ人と対立を深め、パレスチナ紛争が生じ、第1次世界大戦以降パレスチナ地域を委任統治していたイギリスが委任期間の終了により国連に解決を一任した。国連は1947年の総会でアメリカの強硬な主張によってユダヤ人が48年5月14日、イスラエルを建国することになった。が、アラブ側がこの一方的なイスラエル建国を承認せず、翌日にはアラブ諸国による「多国籍軍」がイスラエル領域に侵攻、ユダヤ人の猛反撃でかえってイスラエルが領土を拡大する結果となった(第1次中東戦争)。
イスラエル建国のケースにもみられるように、中東のアラブ諸国やアフリカ諸国はヨーロッパ列強が話し合いで植民地支配地域を決めた結果、国境線が直線的になったというわけだ(アフリカ諸国の場合は川や山脈などの自然環境を国境線にしている地域もある)。そんなことがなぜ可能だったのかというと、中東やアフリカではそれぞれ部族同士がほぼ争いなく各部族の支配地域をなんとなく承認し合ってきた経緯があった。彼らにはそもそも国家意識がなかったのではないかと考えられる。
そのためフセインが主張したように、クウェートが歴史的にイラクの領土だったというより、イラク人とクウェート人はヨーロッパ列強によって分断されるまでは同一アラブ民族として支配地域を共有していたのではないか。フセインにはフセインなりの理由があったにせよ、国家合併するならクウェート政府と話し合い協議すべきであった。いきなり問答無用で武力侵攻したことに対する国際社会の反応が厳しかったのは当然である。
実は、フセイン・イラクはクウェート侵攻に際してイラク在住の他国の人たち(民間人も含めて)を人質にした。日本人も141人がイラク政府によって拘束された。
このケースは、ペルーの日本大使館がゲリラ勢力によって武力制圧されたケースとは全く異なる。ペルー事件はペルー国内においても犯罪行為であり、現にペルー政府はゲリラ勢力を制圧して大使館職員らの救出に成功した。が、イラクの人質事件は国家行為であり、日本政府はいかなる手段を講じても日本人人質を救出する責任があった。憲法9条を守ることと、他国の国家権力によって生命の危険にさらされた日本国民の救出のどちらを優先すべきかは、だれが考えても明らかなはずだ。が、海部内閣が行ったことは、巨額の軍資金をアメリカに供与しただけだった。
この事件をきっかけに私は日本国憲法制定の経緯や日米安保問題、在日米軍基地問題、地位協定問題、そして自衛隊問題などを調べ始めた。そのうえで1992年に『日本が危ない――NI(ナショナル・アイデンティティ)のすすめ』と題した本を上梓した。同書のまえがきでこう書いた。

私は、自衛体を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万が一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
海部首相が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなかったに違いない。
もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。

※この稿を書いた翌日(昨年12月22日)、日本経済新聞電子版が湾岸戦争時、ブッシュ(父)米大統領が海部首相に対して「自衛隊による米軍の後方支援を求めていた」ことが当日公開された外交文書や元政府高官の証言で分かったと報道した。同記事によると、海部政権は代替策として130億ドルの財政支援に応じることにしたが、その額は米側が要求した額を無条件に受け入れたようで、複数の元政府高官は「米側の言い値で積算根拠はなかった。ほかに仕方がなかった」と証言したという。
もちろん日本が出した130億ドルは日本人救出のために、米軍兵士を傭兵として雇うためのカネではない。アメリカにぶったくられただけだ。

●憲法9条は自衛権まで否定しているのか?
私自身は国防と国民を外国の国家権力による迫害から守るための最低限の組織(軍事力あるいは戦力)は保持すべきだと考えている。
またその組織(名称を自衛隊とするか国防軍とするかは大した問題ではない)を、自国防衛のためだけでなく、体制のいかんにかかわらず自然災害に襲われた国や地域に派遣し、災害救助の任に当たるべきことも憲法に明記すべきだと考えている。
憲法9条がそうした行為の足かせになっているのであれば、その組織の目的を明確にした内容に改正すべきだとも考えている。現行憲法9条はこうだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

この規定を前提にする限り、政府が何と言い繕うと「実力組織」なる自衛隊が「違憲の組織」であることは疑いを入れない。実は現行憲法の制定についての国会で、吉田茂内閣と野党の間で自衛力をめぐって激しいやり取りがあった。そのやり取りの一部は『日本が危ない』でも書いたが、さらに要点だけ述べる。

日本進歩党(のちの民主党)・原夫次郎「自衛権まで放棄するのか」
吉田「第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」(1946年6月26日)
共産党・野坂参三「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。従って戦争一般放棄という形ではなく、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」
吉田「国家正当防衛権による戦争は正当なりとのことですが、私はかくのごときを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」(6月28日)
(※このやり取りでは二人とも【自衛=防衛】と理解しているようだ。「自衛」は外国からの侵略に対する軍事的対抗手段であり、「防衛」は既得権益(不法に得た既得権益も含む)を守るための軍事行動を意味する、というのが私の「戦争論」。そういう意味で、日本が行った自衛戦争は「元寇」のときだけであり、日露戦争、太平洋戦争は「防衛戦争」という理解。それ以外の戦争、日清戦争をはじめ、日中戦争、「大東亜戦争」はすべて「侵略戦争」。なお、世界戦争史上最も醜悪な「防衛戦争」はイギリスのアヘン戦争である)
社会党・森三樹二「戦争放棄の条文は将来、国家の存立を危うくしないという保障の見通しがついて初めて設定されるべきだ」
吉田「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として相当の制裁が加えられることになっております」(7月9日)
※なお共産党のドン、不破哲三が井上ひさしとの対談本『新・日本共産党宣言』(光文社刊)で、不破はこの吉田発言と瓜二つの論理で「非武装中立論」を展開している。いったい、当時の吉田が共産主義者だったのか、それとも不破が改心して吉田「安全保障論」に宗旨替えしたのか~

実は後日談がある。憲法9条の第2項の原案には「前項の目的を達するため」という条文は入っていなかった。当時は自由党の反吉田派の中心人物だった芦田均(のち民主党)が「この原案のままだといかなる戦力も無条件に保持しないことになってしまう」とクレームをつけて2項の冒頭に挿入させたと言われている(「芦田修正」)。実際、芦田は新憲法が公布された46年11月3日に『新憲法解釈』(ダイヤモンド社刊)を上梓し、こう主張している。
「第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争ということになる。従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。また侵略戦争に対して制裁を加える場合の戦争も(※芦田は湾岸戦争を想定していたのか?)この条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の不戦条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している」
が、その後自由党と民主党が合同して自民党が結党されて以降も、自民党は芦田修正を理論的根拠として自衛隊合憲を主張したことは一度もない。芦田が自由党に反旗を翻して日本進歩党と民主党をつくったことに対する旧自由党派の恨みが骨髄にまで達しているのか。「三つ子の魂、百までも」がいまでも自民党内の派閥争いに受け継がれているようだ。

●旧「日米安保条約」批准が憲法改正の最大のチャンスだった。
芦田修正を自衛隊合憲論の根拠にしなかった自民党は別の論理で自衛隊の合憲を主張してきた。自衛隊合憲についての政府公式見解はこうだ。

憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であります。

私自身は日本が独立国家である以上、他国からの侵略攻撃や他国の国家権力による日本国民に対する生命にかかわる不当な迫害行為を抑止・防止するための自衛権の発動は正当であると考えている。芦田修正はともかく、なぜ現行憲法に自衛権の記載がないのか。それは現行憲法が制定されたのは連合国(実際にはアメリカ=GHQ)の占領下において制定されたからであった。私は自著『日本が危ない』の「憲法改正へのたった1回のチャンス」という項でこう書いた。少し長いが、この稿を転記する(一部要約を含む)。改憲問題がこじれにこじれてきた経緯を「ど真ん中のリベラル」思想で検証したものだ。

旧安保条約(※サンフランシスコ講和条約締結と同時にアメリカと結んだ日米安全保障条約。1960年に岸内閣が改定した現在の安保条約ではない)は、前文および5つの条文から成り立っていたが、そのポイントは以下の通りである。
日本は武装解除されているため固有の自衛権を行使できる有効な手段を持っていない。しかし無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないため、日本は自国防衛のための暫定措置として、日本に対する武力攻撃を阻止するために米軍が日本国内およびその周辺に駐留することを希望する。アメリカは平和と安全のために、自国軍隊を日本国内およびその付近に維持する意思がある。
旧安保条約によれば、駐留米軍は「極東における国際平和と安全に寄与する」ため、また「外部の国による教唆または干渉(※共産勢力の日本への浸透を意味する表現)によって引き起こされた日本国における大規模の内乱および騒擾を鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するため使用することができる」となっていた。この条文は一見、米軍が日本の防衛のため駐留するかのごとき印象を与えるが、実はそうではない。条文の草案段階では「もっぱら日本の防衛を目的とする」という表現で日本がいったん合意していたのを、アメリカ政府が「日本の安全に寄与することを目的とする」に変更するよう強く主張し、日本政府がやむなくアメリカ側主張をのんだという経緯がある。(※実際朝鮮戦争時には日本駐留の米軍は朝鮮に総動員され、日本は丸裸になった)
その結果、日本側には駐兵受け入れの義務があるのに、アメリカは日本の防衛についての明確な義務を負わなくても済むことになった。在日米軍の義務はせいぜいのところ「日本の安全に寄与する」ことであった。つまり日本防衛の主体は日本側にあることが、この表現によって明確にされたのである。実際、旧安保の前文には「(日本が)直接および間接の侵略に対する自国の防衛のため、漸増的に自ら責任を負うことを(アメリカは)期待する」と明記されており、警察予備隊の枠を超えた軍事力の整備を図らなければならないという重い責任が日本政府にのしかかったのである。(※この、徳川幕府が末期に欧米列強との間に結ばされた屈辱的な通商条約をすら上回るほど一方的な日米安保条約締結は当然、国会でも大揉めに揉め、評価をめぐって社会党は左派と右派に分裂した。ただ、吉田はこの時期、日本の経済復興を最優先しており、鉄鋼と石炭の2大産業の生産力復活にすべてを集中する「傾斜生産方式」を経済戦略の柱にしており、その政策によって日本経済は朝鮮戦争特需にありつけ戦後経済復興の足掛かりをつくったことも事実である。実際、吉田はのちに「回顧録」で「先進国の仲間入りを果たした今日でも他国に日本の安全保障をゆだね続けるのはいかがなものか」と安全保障政策の転換を主張している)【中略】
この旧安保を批准した国会では、憲法論議はほとんど行われなかった。旧安保には日本自身による防衛責任がうたわれたのに、それと憲法第9条との整合性を問題にする政党はなかった。せめて芦田氏が自分の憲法解釈へのこだわりを捨て、自衛権をも否定した吉田答弁との矛盾をあくまで追求していたら、この時点で憲法を改正することは可能だったと思われる(※以下カッコ内は要約=安保条約は衆院で289対71の大差で可決、参院でも147対76で可決しており、この時期での保革の力関係から憲法を改正し、9条に「ただし日本国と日本国民の安全を守り、自衛のための戦力の保持と、そのやむを得ざる行使については否定するものではない」という1項を付け加えることができたであろう)。そうしていれば、際限のない憲法の拡大解釈によって、その場しのぎの帳尻合わせをしていくという歴代自民党内閣の無様さは回避できたであろう。まさに旧安保を批准したときが憲法改正の千載一遇のチャンスであり、そしてこのようなチャンスは二度と訪れることがなかった。

●天皇の政治権力を認めた読売「憲法改正試案」
私が『日本が危ない』を上梓したのは1992年。来年でちょうど丸30年になる。
同書のまえがきの書き出しで、私が同書執筆に取り組んだ動機を書いている。その個所を転記する。
「正直なところ、私は湾岸戦争と旧ソ連邦の解体に直面するまで、日本の安全や防衛問題について深い関心を抱いていたわけではなかった。
戦後40数年の間、日本は自ら軍事行動に出たこともなく、見せかけの平和が続く中で経済的繁栄を遂げてきた。私はそういう状態が今後も長く続くに違いない、と無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。日本とアメリカの結びつきは政治的にも経済的にも強固であり、日米関係に突拍子もない異変が生じない限り、日本の安全は世界のどの国よりも保障されている、と信じて疑わなかった。
だが、湾岸戦争と旧ソ連邦の解体は、そんな勝手な思い込みをアッという間に打ち砕いてしまった」
同書の執筆に取り掛かった時点では、まだインターネットはそれほど普及しておらず、何冊もの関連本を買い集めたり、図書館通いをして調べた。いまはインターネットのおかげでどれだけ情報収集が楽になったか。が、メディアはバカみたいに「記事は足で書け」という旧世代の記者像をかたくなに守っているようだ。「夜討ち朝駆け」したところで、政治家などがホンネを喋ってくれるわけではない。例えば読売新聞がスクープした文科省の元事務次官の前川氏の「出会い系バー」通いも、政府の文科行政に反発してきた彼を社会的に葬るため、安倍CIAの「内閣情報調査室」がひそかに調査したことを保守系メディアの読売に情報提供したと言われている。だとすれば、読売は安倍に恩を売り、その見返りに取材の便宜を図ってもらった可能性は否定できない。
なお読売は1994年、200年、2004年と3回にわたって憲法改正試案を紙面に掲載した。政党や政治団体の試案を掲載するのは自由だろうが、メディアが自ら憲法改正試案をつくり紙面で公表するのはいかがなものかといった批判が殺到したが、そのことの可否は別としてとんでもない改正案が含まれている。
現行憲法の第1章の「天皇」の条項を2章に下げて1章に「国民主権」を新設している。それはいいのだが、2章の9条として「天皇の任命権」という条項を設け、その1項に「天皇は、衆議院の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」と「天皇の政治権力」を認めている。
「任命しなければならない」であれば権利ではなく「義務」になるが、読売は「権利」として国会で指名された内閣総理大臣を、天皇が「任命しない権利」を有することになる。明らかに憲法が天皇の政治権力を認めることを意味する。
では、日本学術会議会員の「任命権」を行使した菅総理の問題についてはどう主張したか。2020年10月6日と29日に同紙は社説でこう主張している。

「政府は1983年、会員の選出方法について、学者による選挙制から、学術団体の推薦を踏まえた首相の任命制に改めた。
その際、「政治的介入が予想される」という野党議員の指摘に対し、当時の中曽根首相が「政府が行うのは形式的任命にすぎない」と答弁した経緯がある。
今回の決定について、政府が十分に説明していないのは問題だ。過去の答弁との整合性をどう取るのか。菅首相は、判断の根拠や理由を丁寧に語らねばならない。
除外された学者には、安全保障関連法や改正組織犯罪処罰法に反対した人が含まれていた。野党推薦の公述人として、国会で安保法の廃案を求めた学者もいる。
安倍前内閣の施策を批判したことが、除外の理由ではないかと反発している。多様な意見表明の機会を閉ざしてはなるまい。
学術会議は、推薦通りに任命するよう政府に求めている。野党は「学問の自由を脅かす重大な事態だ」として追及する方針だ。
6人は自由な学問や研究の機会を奪われたわけではなく、野党の指摘は的外れだろう。
学術会議は、政府の研究開発予算の配分に大きな影響力を持っているとされる。政府はその運営に年間10億円の国費を投じており、会議の活動や人事に、一定程度関与するのは当然である。
学術会議のあり方も問われている。会員の選考過程や、会議の運営が不透明だという指摘は多い。改善を図ってもらいたい」(6日)
「日本学術会議が推薦した会員候補の任命を拒否した理由について、首相は「人事に関することで、答えは差し控える」と述べた。学術会議に関し、「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りがみられる」とも語った。
組織の問題点を指摘し、人事の妥当性を訴えたかったのだろうが、「政府が行うのは形式的任命」という過去の政府答弁と整合性が取れてはいまい。分かりやすく説明することが重要だ」(29日)

一見、政府の説明責任は問うているように見えるが、政府の意図的な憲法解釈の歪曲は問うていない。読売の論説委員が無能なのか、「しっかり説明しなさい」とあたかも政府批判をしているかのように見せかけてはいるが、事実上、政府の違憲行為を容認している社説だ。
社説だから、メディアによって論点が異なるのは自由だが、読売憲法試案によれば天皇が文字通り政治権力を持つことになる。とんでもない話だ。

●安倍改憲論のハチャメチャ振りを検証する。
いわゆる「安倍改憲論」は自民党の公式改憲案とは似ても似つかぬ内容だ。改憲論議は多岐にわたるべきだが、安倍元総理は「とにかく自衛隊を憲法に書き込む」ことだけが目的のようだ。ではまず、自民党の公式改憲案を見てみよう。ただ、自民党の公式改正案は憲法全体について一部修正ではなく、すべて見直すようだから、今年6月11日に成立した国民投票法では「改正条項」の一つ一つについて個々に国民(有権者)はYESかNOかを判断しなければならず、国民への負担の重さをどうするか。まさか一括で賛否を問うわけにもいくまい。安倍元総理としては、とりあえず9条に自衛隊を書き込むことだけを優先したいかもしれないが、果たして自民党がそんな見え透いた改正案で一致するか。だいいち安倍氏が主張しているのは「9条の1項、2項を残して3項をつくって自衛隊を書き込む」というのだが、そうすると9条の整合性が失われる。そのうえ、安倍氏は1項、2項との整合性を確保したうえで新たに設ける3項をどう表記するつもりなのかさえ示していない。自民党の公式改正案のうち、とりあえず9条改正案はこうだ。

第2章 安全保障(※現行憲法では「戦争の放棄」)
(平和主義)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は自衛権を妨げるものではない。
 (国防軍)
第9条の2 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第1項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、または国民の生命もしくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に裁判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
 (領土等の保全等)
第9条の3 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

この自民党の公式改正案と安倍改正案はあまりにも乖離が大きすぎる。自民党総裁として、また総理大臣として安倍氏が提案している改正案は「現行憲法9条の1項、2項は残し、3項を設けて自衛隊を書き込む」というものだ。自衛隊をどう書き込むかは不明だが、自民党公式案は2項を完全に書き換え、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除して「自衛権の発動」を明文化している。
総理総裁たるものが、党に諮らず勝手に私案をベースに憲法を改正しようというのに、党はお咎めなしなのか。私が自民党員だったら、安倍除名を総会で提起する。安倍氏は離党して「安倍新党」を立ち上げるべきではないか。
安倍氏に対する嫌味は置いておくとしても、氏の改憲論はめちゃくちゃだ。たとえば「お父さんは憲法違反なの?」と自衛官の子供が涙を見せたというエピソードを持ち出して、「憲法論争に終止符を打ちたい」と改憲の正当性を訴えたことがある。ただし「涙を見せた」というのは安倍氏の創作だったようで、総理時代にモリカケ問題などで野党から追及されるたびにしばしば「印象操作だ」と反論したが、まさに安部氏ほど印象操作を得意としてきた政治家はかつていない。印象操作の殿堂入り間違いない。
安保法制を成立させたときも米艦に救済された日本人女性と子供の漫画を描いたプラカードを手にして、「有事の際、日本人を救出してくれる米艦が攻撃を受けても自衛隊は指をくわえて見ているだけでいいのか」と、日米安保条約の私的な拡大解釈さえして法案成立のために印象操作を行った。安保条約にはそんな条項の記載は一切ないし、アメリカもさすがに「そんなことはしない」と突っぱねえた。安倍印象操作の最たるものは森友学園問題で追及されたとき、国会で「私や私の妻がかかわっていたら、私は総理も議員も辞める」と大見得を切り、安倍総理(当時)を守るために佐川らが公文書改ざんを現場の部下に命じ、自死者さえ出したことに対する反省の「は」の字さえ示さない図々しさを国民は知っている。
なおアメリカが世界貿易センタービルに対する自爆テロへの報復としてアフガニスタンのタリバンを攻撃し、事実上アフガニスタンを占領下において民主化政策を進め、そのアメリカの政策に協力するため日本人を含む多くの外国人がアフガニスタンに入国したが、アメリカが「費用がかかりすぎる」とさっさと撤退を決めたとき、アメリカに協力してアフガニスタンで様々な活動をしてきた他国人は放りだして自分たちだけさっさとわずか3日で撤退してしまった。
もちろん自衛隊はすぐ日本人救出のため自衛隊機を飛ばしたが、すでに空港はタリバン勢力によって封鎖され、自衛隊機は一人だけ救出して帰国した。通常なら日本人より優先的に救出すべきイスラエル人すらアメリカは見捨てた。
この事例からも「いざ有事の際、アメリカは頼りにならないから自衛力を強化するために憲法の制約を外すべきだ」というなら、憲法改正のための最も有力な理由になる。その場合、アメリカがどうしても日本に基地を置きたいというなら、日本は大きなリスクを抱え込むことになるのだから、「思いやり予算」の廃止どころか、リスクに見合う相当高額な借地料をとるべきだ。

●日本の安全保障上の最大のリスクは在日米軍基地だ。
最近、安倍氏はあちこちで「台湾有事は日本の有事だ」と中国と一戦交えかねないような発言をして得意になっている。
本当にそうか。
実は、本当に日本有事になりかねないのだ。これは安倍氏得意の印象操作ではなく、まぎれもなく日本有事になる可能性が極めて高い。
なぜか。
もし習近平政権が台湾の中国化を目指して軍事行動に出た場合、アメリカが黙殺すれば問題はないが、もしアメリカが力で中国の台湾支配を封じ込もうとした場合、当然台湾有事に軍事介入するのは日本基地の米軍だ。となれば、中国は間違いなく日本の米軍基地を攻撃する。その場合は、安保条約によって自衛隊も米軍基地を防衛する義務を負っている。
日本がアメリカに守られているのではなく、米軍基地のアメリカ人は自衛隊によって守られているのだ、実際は~
安倍氏は総理時代から、北朝鮮の核・ミサイルや中国の海洋進出を「我が国にとっての最大の安全保障リスク」として日米軍事同盟の強化と自衛隊の軍事力強化にまい進してきた。
だが、ちょい待ち。北朝鮮や中国が日本を敵視する理由があるのか。
まず北朝鮮――核・ミサイルを除けば通常兵器だけなら北朝鮮は自衛隊に到底勝てない。日本と戦争するなら核・ミサイルの使用を前提にしない限り、勝てるわけがない。が、日本との戦争で核・ミサイルを使用したら北朝鮮はその瞬間、消滅する。そのくらいのことが分からない金正恩ではないだろう。そういう意味では北朝鮮の核・ミサイルは日本にとって安全保障上のリスクではありえない。
が、北朝鮮が日本に対して核・ミサイルで攻撃しかねないケースがたった一つだけある。そのケースとは、アメリカと北朝鮮が軍事的衝突した場合だ。台湾有事の際と同様、北朝鮮を攻撃するのは在日米軍だ。当然、北朝鮮は日本の米軍基地を狙って攻撃してくる。この場合も台湾有事の際と同様、安保条約に基いて自衛隊は在日米軍を守る義務を有している。
北朝鮮はむしろ日本との関係の良化を願っている。アメリカの核の脅威の前に、国民生活を犠牲にしてまで核・ミサイル開発に狂奔しているが、ホンネはできればアメリカとの敵対関係に終止符を打ち、近代産業の育成と国民生活の安定を望んでいるはずだ。
私は昨年12月7日にアップしたブログ『真珠湾攻撃から80年――日本はあの戦争から何を学んだか』で、アメリカが仕掛けた罠にまんまと引っかかった奇襲作戦を検証した。日本政府は、いわゆる「ハル・ノート」をアメリカの最後通告と解釈して対米開戦に踏み切った。実はそれがアメリカの仕掛けた罠だった。当時アメリカ国内は厭戦気分が横溢していて、ヨーロッパ戦線や日中戦争に軍事介入できる状態ではなかった。そのためアメリカ国内の厭戦気分を一掃し、対日・独・伊戦争に踏み切る状況を何が何でも作りたかったのがルーズベルトだ。一方、日本はアメリカとだけは戦争を避けたかった。冷静に分析して勝てる相手ではないことを軍部も政府も分かっていた。だからアメリカが中国や東南アジアに有する利権には一切手を付けないよう細心の注意を払っていた。そこでアメリカは日本に対米開戦に踏み切らせるため徹底的に挑発を繰り返してきた。その挑発の最後の切り札にしたのが「ハル・ノート」だったというわけだ。
そういう意味では北朝鮮を徹底的に挑発し、経済制裁を強め、金正恩がやけっぱちになって軍事行動に出るのを待っている。「悪の枢軸」とか「テロ支援国家」などと罵詈雑言を繰り返し、さらにはイスラエルやインド、パキスタンの核には何の制裁も加えないのに、北朝鮮にだけは経済制裁で兵糧攻めにして、金正恩が「窮鼠、猫を噛む」行動に出るのを待っている。
日本政府は核禁止条約に参加しない理由として、「核保有国と核非保有国の橋渡しをすることで核のない世界をつくる」という神頼みのような核廃絶方法を考えているようだが、橋渡しをすべきなのは核保有国と非保有国の間ではなく、核保有国同士間の橋渡しの方が実は重要なのだ。現実問題として、核非保有国に対して核保有国が核攻撃したら、その国はたとえアメリカであっても国際的に孤立する。が、北朝鮮がやけっぱちになって在日米軍基地を核攻撃したら、アメリカにとっては「待ってました」とばかりに北朝鮮に対する核攻撃を正当化できる理由が作れる。
だから日本は「北朝鮮の核・ミサイルの脅威」を煽り立てるのではなく、アメリカに対して「小さな子供をいい年をした大人がまじになって挑発するようなバカなことはやめてくれ。アメリカが北朝鮮への敵視政策をやめてくれたら、北朝鮮も核やミサイル開発への狂奔をやめて国民生活の安定に政治のかじを切り替える。そういう状態になれば、日本は安心して北朝鮮の経済近代化や国民生活向上のために北朝鮮に力を貸してやれる。それが東アジアの平和と安定への一番の近道だ」と説得すべきだ。
米中の覇権争いに関しても同様だ。すでに書いたように、中台有事(習近平政権が台湾を中国の支配下に力で置こうとした事態)にアメリカが軍事介入した場合、日本は「在日米軍の出動はやめてくれ」とは言えない。その場合、在日米軍が出動すれば。中国は当然、日本の在日米軍基地を攻撃するし、安保条約に従って自衛隊は米軍基地を防衛する義務がある。
そうした自衛隊の義務があることを、どの程度、日本国民は知っているのか。はっきり言えば、日本に米軍基地がなければ、日本は世界で最も安全な地政学的環境にある。言い換えれば、日本の安全保障に関して、在日米軍基地の存在が最大のリスクだということ。とくに沖縄の米軍基地が最も安全保障上のリスクだ。なぜ沖縄にアメリカが米軍基地を集中してきたかの理由がそこにある。
憲法を改正して憲法に自衛権の保持を明記することには私は賛成だが、憲法の改正と同時に日米安保条約も改定して、現在の形式的片務条項を双務的なものにしたうえで、アメリカを防衛するためにアメリカの日本にとって都合がいい場所に自衛隊基地を設置し、地位協定も結ばせる。そういう交渉をアメリカとすれば、アメリカが自衛隊基地を国内に設置することを認めるわけがなく、日本の米軍基地の在り方も完全に日本主導で変えることができる。
それが、憲法改正で日本が誇りを取り戻す唯一のチャンスだ。

【追記】2日のNHK「ニュース7」で、拉致被害者の問題をかなりの時間を割いて報道した。私はすぐNHKに電話をしたが、小泉総理(当時)が北朝鮮を電撃訪問したとき、北朝鮮は日本が把握していなかった拉致被害者も日本に返しt。北朝鮮は何とか日本との友好関係を再構築したかったのだと思う。
本稿で書いたように、北朝鮮も中国もロシアも日本を敵視する理由がない。むしろ日本との友好関係を築くことで安全保障と経済的関係を強くしたいと思っている。私は中国や北緒戦の独裁体制を擁護するつもりは毛頭ないし、かといって日本が中国や北朝鮮の政治体制を覆す権利もないとも考えている。中国や北朝鮮が民主的国家になるかどうかはそれぞれの国の国民の選択肢だ。
ただ言えることは、北朝鮮が小泉氏の訪朝の結果として拉致被害者として認定していなかった人(田口八重子)を返して横田めぐみをなぜ返さなかったのか、という疑問だ。
これは私の想像でしかないが、めぐみを返せない何らかの北朝鮮側の事情があったのではないか。たとえばめぐみが北朝鮮の政府高官と結婚していて国家機密を知りうる立場にあったとしたら、やはり日本への帰国は難しい。
問題は、なぜ北朝鮮が国民生活を犠牲にしてまで核ミサイル開発に狂奔するかだ。韓国との同盟関係の問題もあるとは思うが、アメリカは北朝鮮に対して一貫して敵視政策を続けてきた。北朝鮮はアメリカの核の脅威に常に脅えてきた。日本が同じ立場だったら、例えば中国やロシアの核の脅威に対抗せざるを得なくなっていたはずだ。
もし北朝鮮が、中国やロシアの核の傘で守られていたなら、国民生活を犠牲にしてまで核ミサイルの開発に狂奔していただろうか。
逆に日本がアメリカの核の傘に守られていなくて、中国やロシアから露骨な敵視政策をとられたら、果たして「非核三原則」などとノー天気なことを言っていられただろうか。
私がNHKに電話したのは、拉致被害問題を直ちに解決できるかはわからないが、日本の立場としては「アメリカに北朝鮮に対する敵視政策をやめてくれ。アメリカの対北朝鮮敵視政策が、日本の安全保障上の最大のリスクになっている」と、なぜ言えないのかだ。