小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

橋下「日本維新の会」が初心を捨てて石原新党と合流した理由(前編)

2012-11-30 05:49:07 | Weblog
 第三極が迷走を始めた。。
 第三極とは、自民、民主の二大政党に次ぐ三番目の政治勢力のことをいう。そういう意味では、厳密に言えば公明党も第三極に入るのだが、公明党は自民と連立しているので第三極とは言わない。衆院議員の現有勢力(解散前)で最大の第三極政党は小沢一郎率いる「国民の生活が第一」(48人。以下「生活」と略す)だが、NHKが11月19日に発表した世論調査によれば、支持率はわずか1.1%(26日に発表した支持率はさらに低下し0.9%。以下各党の支持率のカッコ内数字は26日発表のもの)でしかない。今度の総選挙で「生活」の大惨敗は必至の状況だ。
 前回のブログで書いたように、小沢が民主党を飛び出した理由「消費税増税はマニフェスト違反」が、見え見えの「反対のための反対」にすぎなかったことに国民がそっぽを向いた結果である。もちろん消費税増税を喜んでいる国民など、たぶん一人もいないだろう。しかし消費税増税に反対するなら、消費税を上げなくてもこういう方法を取れば将来にわたって社会保障制度を維持・充実させることができる、という政策を提案し、その提案が党執行部から受け入れられなかったから、という理由だったら、「生活」の支持率はたぶん二桁台にのっていたであろう(解散前の衆議院議員総数に占める割合はジャスト10%)。「生活」は党名を「小沢の声が第一」と代えた方がすっきりする。いま「生活」は党勢を挽回すべく「脱原発」を旗印に新党(現時点では党名は「日本(にっぽん)未来の党」が有力視されている)を立ち上げようとしている滋賀県知事の嘉田(かだ)由紀子に秋波をおくり、合流をもくろんでいるが、1969年に衆議院議員に初当選して以降一貫して原発推進の立場をとってきた小沢が、選挙のためには基本的理念すら捨てるというなら、いっそのこと日本共産党に選挙協力関係を申し入れたらいかがか。共産党なら消費税増税に代わる財源ねん出の具体的政策を訴えているし、原発反対でも一致する(これはジョークではない。共産党が容認するかどうかは別だが)。
 しかも小沢が言い張ってきた「マニフェスト違反」という口実自体がこじつけを通り越したイチャモン付けでしかないことがだれの目にも歴然だった。真実は「マニフェストに書いていなかった」というだけで、もしマニフェストに消費税増税をうたっていたら民主党は自公連立から政権を奪うことができなかった可能性は確かにあったとは思う。
 実際にはその後の参院選で消費税増税をマニフェストに謳った自民が大量の票を獲得して、いわゆる「ねじれ現象」が生まれたことを考えると、前回の総選挙で民主が消費税増税を、社会保障のために国民に等しくお願いするしかない、とマニフェストで堂々と謳っていても勝利した可能性も少なくなかったと思う。
 現に消費税増税に、すったもんだはしたが自公が賛成しても、自民の支持率はー0.3ポイントの24.7%(24.3%)と高く、公明に至っては1.3ポイントもアップの4.3%(4.3%)になり、自公合わせると29%(28.6%)にも達したことを考えても、少子高齢化に歯止めがかからない社会的状況の中で、消費税増税はやむを得ない選択肢であることに国民が理解を示した結果が、NHKが行った政党支持率調査に現れたと考えるべきだろう。また野田総理が解散後「選挙のことを考えれば、消費税を増税しない方が良かったかもしれない。しかし日本の将来の社会保障のことを考えると、政治家としてどうしてもやらなければならないことだった」という発言が支持されたのか、内閣支持率が低下し続けた状況に歯止めがかかり4.7ポイントも民主党支持率がアップして17.4%(16.6%とやや後退。この支持率低下は野田執行部が党議に同意書を提出しないと公認しない、と露骨な「野田政党」化を図り、鳩山由紀夫が政界引退するなどの波紋を呼んだことの影響と考えられる)と党勢が持ち直したことも考えると、わが国民はポピュリズム政治(大衆迎合主義)の欺瞞性に気づきつつあることを証明しているのかもしれない。それはいみじくも大哲学者プラトンが指摘した「民主主義は愚民政治だ」という民主主義の欠陥を、私たち日本人は克服しつつある兆しと考えてもいいかもしれない。
 またアメリカでも、クリントン大統領時代にヒラリー・クリントンが実現できなかった国民皆保険制を、富裕層などの猛烈な反対を押し切って実現し、一時支持率が大幅に低下しながらも、「国民すべてが平等に医療を受ける権利がある」と最後まで信念を貫き通したオマリーが大激戦区のオハイオ州やフロリダ州で勝利し、共和党のロムニーを破って再選を果たしたことにも、アメリカが日本と同様民主主義政治の欠陥を克服しつつあると言えるかもしれない。この二国の政治状況は、「新民主主義」の始まりを意味するのではないかという予感がする。 
 またNHKが行った政党支持率調査とは違うが、朝日新聞が26日朝刊で発表した「衆院選比例投票先」の世論調査によると、自民が23%、民主が13%だった。 国会議員数(衆参両院)では第三極で最大勢力を誇る「小沢の声が第一」の影が薄らいでいく一方で、目が離せなくなったのが「日本維新の会」(以下「維新」と略す)である。朝日新聞の世論調査では9%に達した(朝日新聞に他の政党についての数字を問い合わせたが、不明とのことだった。朝日新聞は政局を左右するだろう3党についてのみ調査したのかもしれない。あまりフェアな調査方法とは言い難い)。
 ここで皆さん、特にマスコミの政治記者の方にお尋ねしたい
「連立政権」
「野合政権」
「野合政党」
 この三つの使い分けを意識しておられるだろうか。多分ないはずだ。
 この三つのカテゴリー(「連立政党」というカテゴリーは存在しない)を当てはめるとこうなる。
「連立政権」――自公政権、民主・社会民主・国民新党の連立政権(民主政権)
「野合政権」――細川政権(日本新党・日本社会党・新政党・公明党・民社党・
        新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合)、自社政権
「野合政党」――旧民主党(新党さきがけの鳩山由紀夫や管直人ら・社会党右
        派・鳩山邦夫ら自民離脱者)、新民主党(旧民主・自由党{旧新
        生党→旧新進党つまり小沢グループ}・民政党・新党友愛・民
        主改革連合)
 では「維新」はどういう性質の政党か。上のようなカテゴリーで考えれば、ほとんどの方はお分かりになる。お分かりにならないようであれば、少なくともマスコミの政治部記者はすぐお辞めになることをお勧めする。政局を分析する場合、常にこの三つのカテゴリーを念頭に置くか置かないかで、浅はかな分析しかできないか、表面上の動向の背後にうごめいている政治家たちの思惑や計算が透けて見えてくるかの大きな差が生じる。
 でも政治ジャーナリストだけが私のブログを読んでいただいているわけではないので、いちおう三つのカテゴリーの意味を説明しておこう。
 まず「連立政権」は中心になる政党があり、その政党の政策を柱にしながらも連立を組む相手の政策にも配慮し安定した政治基盤をつくるための政権のことである。したがって双方の政策の基本点でおおむね合意ができていないとたちまち分解してしまう。
 政策の一致点が少ないのに、ただ数合わせのために複数の政党が「結集」して多数派になり政権を獲得したケースを「野合政権」という。その極端なケースが自社政権である。細川内閣の成立によって自・社対立の55年体制にピリオドが打たれ、政権の座から引きずりおろされた自民が、ただ政権の座に戻りたい一心で55年体制の対立軸にあった社会党を取り込み、あまつさえ社会党党首の村山富一を担いで総理にするという「離れ業」(というより「禁じ手」と言った方がいいかもしれない)で再び与党に返り咲いたことは自民党史に消すことができない最大の汚点として残った。
 細川政権も、ただ自民を政権の座から引きずりおろすことだけを目的にして政策論議すら交わさず、ひたすら「この指とまれ」で小政党を寄せ集めた「理念・政策なき政権」だった。実は細川政権を裏で画策して作り上げたのが小沢であった。が、すでに述べたように小沢の政治生命は事実上終わりを遂げた。そういう政局分析をするのが政治ジャーナリストの使命なのだが、残念ながらそういう論理的思考力をもった政治ジャーナリストは日本には私が知る限りひとりもいない。
 最後に「野合政党」である。もともと野合政党だった旧民主が中心になって、思想も理念も政策も一致しない複数の政党を寄せ集めた新民主がその典型である。新民主にはなんと15ものグループ(自民の派閥のようなもの)が存在し、小沢グループの3割以上(明確な数字は判明しなかった)が離党したあとは絶対的多数のグループがなく、グループ同士の足の引っ張り合いに乗じて旧小沢グループの残党(小沢チルドレン)を「タナボタ」的に掌握し、また最大の支持母体である連合をバックにした輿石が新民主の実権を握って、肝心の野田が動きが取れない状態に追い込まれていたことが前回のブログ『なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのか――私の政局分析』で書いた。野合政党は必ずそういう運命をたどる。
 もう皆さん、お分かりのように「維新」は野合政党以外の何物でもない。しかも新民主と違い、政権奪取の可能性もないのに(将来の話ではなく現在の話)、今なぜ野合政党をつくる必要があるのか。まず橋下は橋下自身の政治理念と基本的政策をベースに「橋下新党」(党名は「日本維新の会」で構わない)を立ち上げ、単独で総選挙の洗礼を受けて、橋下の政治理念や基本的政策がどの程度国民から理解され、そして支持されるかを見極めたうえで、次の総選挙で「維新」と政治理念や政策で共有し合える政党と選挙協力を結んで戦い、もし政権奪取の可能性が現実化した時に初めて「野合」に近い数合わせでもいいから(これは政権奪取のためのやむを得ざる許容範囲と私は認める)連立政権を目指すのが政治の王道である。
 橋下徹が日本テレビの人気番組『行列の出来る法律相談所』にレギュラー出演して全国的知名度を上げ、地元関西地区のローカルテレビ・ラジオ番組にもたびたび出演して関西地区での知名度をさらにアップ、知名度だけを頼りに2008年、大阪府知事選に出馬して圧勝し地方自治の大改革を目指した。
 橋下は『週刊朝日』が10月26日号で「ハシシタ 奴の本性」と題する連載記事の1回目で彼の出自を暴かれ、彼の父親のDNAがハシシタ政治の本性であるがごとき主張をしたことに激怒、朝日出版(朝日新聞社の子会社)の社長が引責辞任するという出版界だけではなくポピュリズム(大衆迎合主義)・マスコミ界の格好のネタになったことは皆さんご存知であろう。
 またまた本筋から外れるが、そもそも週刊誌が全盛時代を築くきっかけとなったのは1956年(昭和31年)発行の『週刊新潮』と、1959年(昭和34年)発行の『週刊文春』である(いずれも出版社系)。それ以前に新聞社系の週刊誌は何誌かあったが、新聞社系の週刊誌は新聞では紙面の許容スペースでは書ききれない記事を細部にわたって書くというスタンスを取っていた。『新潮』や『文春』は新聞社系が新聞記事の補完的役割に徹していたことにくさびを打つため、新聞が取り上げないような事件(主にタレこみや内部告発の追跡取材)を中心に記事を掲載する方針を取ってきた。また新聞社系が取材を担当した記者が原稿も書くという、新聞の紙面と同様な作り方をしていたのに対し、出版社系では最初の『新潮』が取材記者と記事の書き手(業界用語で「アンカー」という)の分業体制を取ることにより、作業効率を大幅に向上させ、以降そうした分業体制が出版社系週刊誌の基本的作り方になっている。
 ところが週刊誌が全盛期を迎えたのは『文春』が創刊された同じ年に発刊された講談社の『週刊現代』と10年後の1969年に小学館が発行した『週刊ポスト』が徹底的にスキャンダル記事路線で、先行した新聞社系を始め『文春』や『新潮』を追撃し始めたからである。さらにそうした状況に加速度を付けたのは1981年に発刊された『FOCUS』や1984年に発刊した『FRIDAY』などの写真週刊誌だった。写真週刊誌はもともと朝日新聞社の『アサヒグラフ』や毎日新聞社の『毎日グラフ』が先行していたが、週刊誌と同様新聞の補完的役割を果たすことが役割で、戦争現場などの生々しい写真を掲載する硬派の写真週刊誌だった。当然、赤字垂れ流し事業となり、現在は休廃刊になっている。
 こうして週刊誌のポピュリズムというか、スキャンダル路線が定着していく中で、読売新聞社だけはスキャンダル路線に迎合することを潔しとせず、『読売ウィクリー』を2008年に休廃刊した。新聞社の見識を示したと言えよう。だが、朝日新聞社は同じ年の2008年に出版部門を分離独立して朝日出版を設立し(と言っても朝日新聞社が100%出資した完全子会社)、朝日新聞社本体は朝日出版の刊行物に直接の責任を負わないという体制をとった。その結果、『週刊朝日』も朝日新聞社に気兼ねすることなく、利益追求重視のスキャンダル路線に転換した中で生じたのが例の「ハシシタ 奴の本性」と題するえげつない記事だった。
 この記事の筆者は佐野眞一である。「現代の」代表的ノンフィクション作家だ(というより「過去の」と言った方が正確な表現だろう。というのは、もはや佐野はノンフィクション作家としての生命をこの記事の筆者となったことでおそらく失うだろうからである)。佐野は「この記事は週刊朝日のスタッフとの共同作業だ」と弁解しているが、こういう場合の共同作業とは何を意味するかをご存じない方に説明しておくが、週刊朝日の記者は取材をしたり資料を集めたり、言うなら佐野の手足を務めたにすぎず、記事の全責任は佐野が負うのがこの世界のルールである。
 実は著者と編集者がしばしば(と、私が思っているだけかもしれないが)ぶつかるのは著作権と編集権の対立である。単行本の場合は書いた内容でもめることはあまりないと思う(少なくとも私の場合は文章に編集者が手を入れたことはほとんどない)。が、題名でもめることはしばしばあった。小説の場合は題名は著者が決めるケースが多いようだが、ノンフィクションやジャーナリズムの場合は編集長(担当編集者ではない)が決めるのがこの世界の常態である。著者の主張はまず通らない。著者としては書いた内容を反映した題名にしたいと思うのは当然だが、編集長は売らんがための題名をつけたがる。まだ、編集長が内容を読んだうえで内容と矛盾しない範囲(著者にとってのぎりぎりの許容範囲)なら我慢するが、原稿を読みもしないで「売れそうだ」と勝手に思い込んで内容と完全に矛盾した題名をつける場合がままある。私の場合は、あくまで私がこだわって押し切ったのは祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』(1992年刊。89年には日米構造協議が始まるなど経済摩擦が激化していくさなかに書いた)の1冊だけだった。この題名だけでは私の意図が伝わらないと思い、サブタイトルに「日米経済摩擦を解決するカギ」と付けた。読者が書店で題名やサブタイトル、ひょっとしたらもっと重要な要素はカバーデザインかもしれないが、興味を持って手に取ってくれたときまず目が行くのはまえがきである。私は渾身の思いを込めて前書きの書き出しをこう書いた。

 日米経済摩擦には、二つの側面がある。
 一つの側面は、言うまでもなく貿易摩擦である。増える一方の日本の対米貿易黒字をどうするかという問題だ。
 もう一つの側面は、もっと根が深い。いわゆる日本的経営や行政、さらには日本社会そのものが問われているからである。
 日本社会の底流には、目的さえ正しければ手段は問わない、という考え方が横たわっている。ロッキード裁判で有罪判決を受けた全日空の若狭徳治名誉会長に、同情票が集まったり、社内での人望が揺るがないのも、「会社のためにやったこと」(若狭)だからである。つまり「会社のため」という目的の“正当性”によって、賄賂という手段の“反社会性”が塗り込められてしまったのである。
 一方、アメリカは目的の“正当性”より手段の“正当性”を重視する傾向が強い。アメリカ人の目に、日本社会の構造が「米欧社会とは異質なアンフェアなもの」と映ったのはそのためである。
 こうした日米のパーセプション・ギャップ(認識のずれ)は、『忠臣蔵』と西部劇に象徴的に反映されている。『忠臣蔵』は、主君の仇を討つという目的の“正当性”によって、無防備状態の敵を闇討ちするという行為が美化された物語である。
 一方、西部劇では、目的の“正当性”だけでなく、手段の“正当性”が厳しく求められる(※本文で書いたが、西部劇における手段の正当性とは「丸腰の相手を撃ってはならない」「後ろから撃ってはならない」という2大ルールを意味しており、それがアメリカ社会の規範的ルールになっていることを「手段の正当性」として私は評価した。そのため「フェア」であること、すなわちフェアネスを世界共通のルールにすべきだと主張するのが本書の目的だった)。この、日米二つの社会の底流に横たわる価値観の対立が、日米経済摩擦の深層部を形成していると言えよう。(以下省略)

 この本は山本七平や竹村健一は高く評価してくれたが、あまり売れなかった。もしこの本がヒットしていたら、その後の私の人生は大きく変わっていたであろう。売れはしなかったが、私にとっては32冊上梓した本のうちの代表作であり、今でも新鮮さを失っていないという自負がある。
 老いぼれジジイの回想はこの辺でやめるが、単行本ですら、そういう状態だから、雑誌や週刊誌の場合は、編集者が著作権を平気で侵害するケースがしばしばどころか、しょっちゅうある。単行本の場合は担当編集者は一人つくだけだが、月刊誌でも編集者は7~8人いるし、週刊誌となると編集者は10人をはるかに超える。
 雑誌の企画は、著者側が売り込むケースもないわけではないが、大半は編集会議でテーマを決め、そのテーマにふさわしいと思った著述家に執筆を依頼する。週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」は、おそらく週刊朝日側が企画して佐野に執筆を依頼したのではないかと思える。佐野のこれまでの作品から考えると、そういう類のスキャンダラスな企画を売り込んだとは到底思えないからだ。佐野は1997年、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』で第28回大矢惣一ノンフィクション賞を受賞、さらに2009年にも『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞しているほどの著述家である。彼が自ら橋下の父親の問題を洗い出し、その父親のDNAを橋下が引き継いでいるなどというテーマを売り込んだりする人ではない、と私は思う。
 活字離れは想像を絶するほどのスピードで進んでおり(私は「氷河期」を通り越して「ビッグバン」の時代になってしまったと思っている)、佐野ほどの著名なノンフィクション作家でも、仕事の機会は極めて少なくなっていたと思う。そのため、つい週刊朝日側からの執筆依頼に飛びついてしまったのではないだろうか。だが、たとえそうだったとしても、書き手が全く無名のライターで、売り出すためのやむを得ない行為とは、彼の場合は異なる。佐野の行為は大宅壮一ノンフィクション賞や講談社ノンフィクション賞の権威を汚した行為と、この世界からは烙印を押されたに等しい。
 私自身、いつか機会を見て橋下の思い上がった独裁的振る舞いについて厳しい批判を加えるつもりでいた。だが、機を見て敏なる遊泳術を、いつからどうやって身に付けたのかは知らないが、橋下の独裁的政治・行政活動に対する批判的な目をマスコミが向けだした途端、一瞬にして柔軟な姿勢に豹変、ブログに書く機会を失ってしまったと思っていたら、突然の衆院解散、そして石原慎太郎率いる「太陽の党」との唐突な合併と、どうしても見逃すわけにいかない事態が出現したため、急きょ「維新」の立役者・橋下について分析することにしたというわけである。
 橋下は94年早稲田大学を卒業後、司法試験に合格、2年間の司法修習で法曹資格を獲得、いったん大阪市内にある樺島法律事務所に10か月ほど在籍したのち98年にはやはり大阪市内に橋下総合法律事務所を開設、主に示談交渉による解決を看板にした。飛び込み営業をするなどして年間400~500もの案件を手掛けたという。
 このキャリアについては私も正直疑問を抱かざるを得ない。弁護士不足を解消すべく文科省が法科大学院を乱立させ、法曹家を粗製乱造する以前であったとしても、実務経験が司法研修(医者の世界でいえばインターンのような制度)を入れてもわずか2年10か月ほどで大阪市内に個人の法律事務所をどうやって開設できたのだろうか。しかも橋下はいみじくも週刊朝日が暴いたように決して裕福な家庭に育ったわけではなく、むしろ苦学に近い状態で大学を卒業している。実務経験といっても司法修習時代に高級を貰えるわけがなく、また顧客を獲得することは不可能である。顧客との交渉は事実上樺島法律事務所に在籍していたわずか10か月に過ぎない、どの世界でもそうだが樺島法律事務所時代に担当した顧客をかっさらって個人事務所の顧客にすることなどできるわけがない。別に法律がそうした行為を禁じているわけではないが、そんなことをすればたちまち法曹界から締め出されてしまう。さらに個人事務所を開設し軌道に乗せるのにどれだけ費用がかかるか、橋下がどうやってこのような「奇跡」を実現できたのか、そのプロセスを週刊朝日は検証すべきだった。おそらく週刊朝日はその「奇跡」の真実をつかみ、その「奇跡」が橋下の父親との因果関係と結びついていたことを明らかにしようという意図があったのではないかと、
私は好意的すぎる見方かもしれないが、そう思う。ただいきなり父親がどういう人間だったのか、また「」という差別を意味する用語を使ってまで明らかにしてしまったこと、 しかも橋下の人格が父親のDNAを受け継いでいるかのごとき書き方をしたこと(これは佐野の言い逃れできない責任)が、橋下の反撃を世論が支持する要因になったと思う。そもそも橋下に限らず、人の人格形成と親のDNAとの関連性は科学的にまったく証明されていず、そのような行き過ぎたレトリックを使用したことで週刊朝日と佐野は墓穴を掘ってしまった。おそらくこれが週刊朝日問題の真実ではないだろうか。売らんがためには手段を問わない、という『忠臣蔵』精神が週刊朝日にも佐野にも根強く染み込んでいたというのが事件性を抜き差しならないものにしてしまった最大の要因だったのではないか。日本人が忠臣蔵精神から脱皮し、「目的を遂げるためには手段を問わない」という社会規範を全否定できるには私の孫の時代まで待つしかないかもしれない。
 だいいち事務所を開設して飛び込み営業をして顧客を獲得し、年に400~500もの案件を手掛けるといった人間離れした行動が、法曹界では本当にできるのだろうか。橋下が国政に大きな影響力を持つようになったら、この時代の「奇跡」は必ずマスコミかノンフィクション作家によって暴き出される。実際私が売れ出した途端いろいろな方から有名人や大企業、さらにはテレビ番組のやらせなどのスキャンダル情報がうんざりするほど寄せられた。私はスキャンダルライターではないし、スキャンダルを暴くことでテレビ局から引っ張りだこになりたいなどと思ったことは一度もないので、そういった類の情報は一切無視してきたが、「いやな世界に身を置いてしまったな」という思いは実際何度かしたことがある。
 橋下は自ら法曹家になって以降の「サクセス・ストーリー」の真実を今のうちに明らかにしておいた方がいい、と彼のためにそう思う。いまだったらどういう手練手管を使ってサクセス・ストーリーを作り出したのかを自ら告白しておけば、クリントン大統領が「不倫」を相手から暴露された時、正直に認め、ヒラリーとの間に生じた亀裂と夫婦関係破綻の危機にあることも告白したことで、窮地を脱したばかりか、むしろいったん急降下した支持率が逆転急上昇した事実を教訓にすべきだと願う。
 
 またまた長いブログになってしまった。すでに9800字を超え、ブログの文字制限に達しようとしている。今回は前・後編の2回で終えるつもりなのでご容赦願いたい。(続く)
 

橋下「日本維新の会」が初心を捨てて石原新党と合流した理由(後編)  )

2012-11-30 05:38:07 | Weblog
 橋下徹はどういう政治思想を持っているのか。私は共鳴できる部分もあるが、容認できない部分もある。
 まず「大阪都」構想。これは無条件に支持する。もともと橋下が大阪府知事選(2008年)に出馬した時点ではこの構想は持っていなかった。彼が府知事選に立候補した時の公約は4つ。①子供が笑う、大人も笑う大阪に②人が集い、交わるにぎわいの大阪に③中小企業が活き活きし、商いの栄える大阪に④府民に見える府庁で、府民のために働く職員と、主役の府民が育てる大阪に、というものだった。
 その4つを実現するための具体的政策は全くなかった。つまり彼は大阪府が抱えている問題については何一つ知らずに大衆受けするスローガンを並べただけで選挙戦を戦ったのだ。だが、橋下は戦う前からすでに勝利は確実視されていた。お笑いタレントの横山ノックを府知事に選んだくらい「民度が高い」大阪府民である(これもジョークではない)。知名度が高く、しかも法曹家という社会的地位の高い橋下が勝つのは既定の事実だったと言っても差し支えない。
 だから橋下は立候補を決断した時点(あるいは立候補を考え出した時点かもしれない)から、選挙運動そっちのけで大阪府が抱えている問題について勉強を始めたと思われる。おそらく優秀なブレーンのアドバイスもあっただろうし、橋下の応援団を買って出た堺屋太一からもいろいろ教わったに違いない。
 08年2月6日に府知事として府庁に初登庁した日に行われた記者会見で橋下は財政非常事態宣言を出し、予算の1000億円カット、知事退職金の半減などを宣言、一躍国民的ヒーローになった。予算の1000億円カットの方策も6月には明らかにして府民の信を改めて問うた。その主な内容は①ハコモノ集客施設の廃止・見直し②府指定出資法人(府職員の再就職先の受け皿)の廃止・見直し③知事退職金の半減だけでなく知事給与及びボーナスの30%カット④府職員の給与カット{3.5~16%}、ボーナスカット{4~10%}、住居・通勤・管理職手当カットなど府職員組合との対立をも辞さない思い切った具体策を発表した。
 
 わたくしごとになって恐縮だが、私が中小企業のサラリーマンだった時代、組合ができたとき初代委員長に就任(組合設立には一切関与していなかったが、設立総会で組合設立に奔走した民青系組合員の方針に真っ向から批判し、一般組合員から「小林さんが委員長になってほしい」との要請を受けて、やむを得ず委員長を引き受けた)、私が委員長として取り組んだ最初の労使交渉となった「夏季ボーナス闘争」で、私は会社側の提示をいきなり独断で呑んだ。労使交渉に同席した組合執行部はびっくりしたようだが、その直後に私が付けた条件に今度は社長をはじめ会社側がびっくりした。
 当時社員の給与体系はきわめて複雑で、基本給のほか役職手当・職務手当(職務によって一律支給)・その他もろもろ意味不明な名目で支給されていた諸手当(経営状況によっていつでも廃止できるようにすることが目的だったと思う)があった。どうしてそのように細かく分けていたかというと、残業代を始めボーナスや退職金のベースになるのが基本給だけで、月給(総支給額)は世間並みにして、ボーナスや退職金で調整するという姑息な方法をとっていた(当時の大半の企業がそういう給与体系をとっていた)。で、私は従来の組合が主張していた「ボーナスは生活給」という考え方をとらず、会社側が主張していた「ボーナスは成果配分」という主張を丸呑みし、「成果配分であるならば基本給だけをベースにするのではなく、通勤・住宅・家族手当の属人的手当を除いたすべての手当は職務に直結した手当であり、成果配分のベースにすべきだ」と主張したのだ。そうするとボーナスの算定基準は一気に倍くらいに膨らんでしまう。会社側が呑めるわけがなく、最初の交渉で決裂、私は直ちにスト権の確立を組合員総会で承認してもらい、スト権行使は執行部一任を取り付けた。そのことを会社側に通告、会社側を一気に窮地に追い込んだ。
 その結果、社長(のちに国から何かの褒章を受けたほどの人)が困り果て私にボス交渉を内密に申し入れてきた。「小林君はいったい何が目的なのだ」と聞いてきたので、私は「給与体系を基本給・役職給・属人的手当に集約したうえで、会社の経営状況から出せるギリギリの線を一発回答してほしい」と主張し、社長は「君の主張はわかった。もっともだと思うので会社としても精いっぱいの線を出す」といって、その日のボス交渉は終わった。当時は会社は未上場だったので、私には会社の経営状況がわかるわけがなく、社長の誠意にかけるしかなかったという事情もあった。1週間ほどたって2度目のボス交渉で社長が出してきた支給額は属人的手当てを除くすべての名目の給与(もちろん管理職は対象外)を算定基準にして提示したものだった。私は「それが交渉の余地がないギリギリの線ですね」と念を押してOKした。その場で、私は2回目以降の労使交渉の工程表(ボス交渉ではなく正式な労使交渉)をつくって、3回の交渉で妥結に至るスケジュールを組んだ。そのスケジュール通りに事は進み、労使協調体制を築く第1歩を踏み出した。
 その直後胃潰瘍で私は入院・手術して1か月ほど会社を休んだが、その間給与は非課税で丸々くれた。退院して会社に出ると、社長にすぐ呼ばれ、「今度、社長室をつくることにした。室長は常務(社長の義弟)になってもらうが、君を社長室の仕事をしてもらいたい。受けてくれるか」と頼まれ「わかりました」と応じた。それまでの私の仕事は広報兼宣伝担当と総務(経理や人事も含んでいた)だったが、それはそのまま継続してやってくれとのことだった。その結果、今は高層ビルになっているが、当時は3階建てのビルだったので、新しく社長室をつくるスペースがなく、役員室の片隅に私のデスクを用意してくれた。そのため私のデスクは二つになり、行ったり来たりするようになった。社長職として最初に取り組んだのは給与体系をすっきりしたものにすることだった。ボーナス交渉で基本給・役職手当・属人的手当てに集約することは労使間ですでに合意が成立していたので、それまではほとんどトップの思い付きで作ってきた諸手当を課長以下すべての社員一人一人について常務と二人だけで相談しながら決めていった。
 その時私が問題にしたのは属人的手当をどうするかであった。通勤手当や住宅手当、家族手当などの属人的手当ては本来職務や会社への貢献度とは無関係の、言うなら自己責任に相当する手当であり、すべて廃止したかった。が、廃止した結果給料が減るということになると労組が承知するわけがないので(社長室勤務になると自動的に組合から離脱することになっている。会社の最高機密に接触する機会が生じるからである。なぜか電話交換手やタイピストも組合員になれない)、この属人的手当をどう処理するかにかなり頭を絞った。特に私が問題視したのは通勤費と住宅費が事実上反比例する関係にあることだった。つまり会社(本社は都心にあった)に近い場所に住居を構えると住宅費は当然高くなるが、住宅手当は実情を反映せず一定額である。ところが住宅費が安い遠距離地に住居を構えると、住宅手当は変わらないのに通勤手当は実額支給である。どこに住居を構えるかは自己責任であって、遠距離地に住居を構えると通勤時間はかかるし、疲れ果てて出勤することになり、当然仕事の能率に大きな影響が出る。しかも住宅手当は課税対象になるが、通勤手当は非課税だ。国の課税システムにも大きな問題があり、私は管轄の税務署に出向き、強引に署長に面会を要求し、交渉した。私は諸手当に対する課税システムは問題があり、通勤手当を住宅手当と含めて一本化し、通勤手当として一律支給するが、それを認めてくれるか、という、今から考えると若気の至りと言うしかないむちゃな要求をした。当然のことながら一言のもとに拒否された。しかし署長は私の主張の合理性は個人的には理解できると言ってくれたのが、せめてもの慰めだった。
 この時代に取り組んだもう一つの大仕事は総務部長と私が二人でやっていた社員の給与計算方法だった。コンピュータといえばメインフレームを意味していた時代で、いちおう電卓はあったが卓上の電話機ほどの大きさで、しかも計算ミスをしばしば起こすような代物だった。だから二人で1週間がかりで計算し、何度も互いの計算をチェックしなければならないといった状況だった。私は今でもそうだが、何事もほどほどということができない性格でエクササイズも全力でやるためインストラクターが「やりすぎはかえって健康を害しますよ」とアドバイスしてくれるのだが、そういったコントロールができない性分はたぶん死ぬまでなおらないだろう。そういうわけで、この単純な給料計算の作業を何とか効率化できないかと考えていた時、会社がゼロックスの複写機{コピー機}を購入したので(それまでの複写は青焼きだった)、これを利用しようと考えた。具体的には給与票をタイプライターで打ってもらい、不変の基本給・役職手当・属人的手当とその合計額は私があらかじめ記入しておき、給料締日にコピーをとって空欄にしておいた残業代と給与総額、源泉徴収額の3か所だけ計算機を使って記入し、それを再コピーして原本は会社が保管し、社員に給与と一緒に渡す給与票は個々人ごとにはさみで切り分けるというやり方に変えた。いまから思えば、コンピュータがない時代で、どの会社も手計算で給与計算をしていた時代だったから、かなり斬新な方法だったと思う。
 私の「厚生年金保険被保険者証」(当時は「年金手帳」はなく、ほぼはがきサイズの1枚の紙切れだった)の記録によると、私が被保険者になったのは昭和42年4月21日付で、この一連のすったもんだは入社3年目に入った直後ぐらいだったから28歳の時だったと思う。もちろんまだ平社員で、梅雨時から夏場にかけては「水虫になるから」と屁理屈をつけて下駄ばきで社内を闊歩していた。社長は私を新設の社長室で仕事をすることになった時(正確にはダブル配属)社長室長代理(部次長クラス)の肩書をくれようとしたが、この下駄ばきが役員会で問題になり、結局主任(係長クラス)の肩書になった。でも役職手当は部次長クラスに相当する額を支給してくれたので私は嬉しかった。30歳のとき事情があって転職した際、略歴に肩書きを一切記入しなかったので平社員待遇での採用となったが、「まだ30歳の平社員なのになぜこんな高給をもらっていたのか」と聞かれ、「私が自分の給与を決めたわけではないのでわかりません」と答えたことは覚えている。
 こんな性分なので、自分を売り込むことに自分自身が抵抗心を持ってしまい、そんな私を見かねた妻から「私が営業してあげようか」とまで言われるほどで、竹村健一など自分が個人的に開いていた私塾のようなものに呼んでくれたり、「私の事務所に遊びに来ないか」とまで誘ってくれたが、私塾は小池百合子をはじめ竹村の「ご機嫌取り」のための取り巻きの集まりに過ぎないことがわかったので二度と出ることはしなかった。たぶん私は「三つ子の魂百まで」を地で行くような生涯で終えることになるだろう。でも、あらゆることに妥協できない性分を、私は勝手に我が誇りと思っている。
 
 戯言はさておき、府知事になって橋下が府財政の立て直しのために気づいたことは二重行政の無駄であった。そのあたりはさすが、と私も敬意を表したい。
 さらに橋下の政治家として人並みすぐれた資質は、知事の地位にあってはこの二重行政を解消できないをすぐ理解したことである。
 田中眞紀子前文科省大臣がすでに文科省が認可していた3大学(秋田公立美術大・札幌保健医療大・岡崎女子大)の認可を取り消したものの、世論の批判を浴びて撤回、3大学の設立を認可した問題と、橋下の決断はある意味で対照的である。
 私はいかなる世論の批判を浴びようと、3大学設立認可を取り消すべきであったと思っている。そして3大学設立を認可した文科省の責任者(文科省事務次官をはじめ大学設立認可にかかわった幹部職員)の首を飛ばすべきであった。それができないような政党が、政治主導の云々と口先だけでいっても「空文句」に過ぎないことが、この事件で明らかになった。
 文科省の役人は、大学を卒業しても就職できないという状況、そして大卒を採用するより経験とそれなりの能力がある社員の定年を65歳まで延長した方が会社にとって有利だと経営者が考え始め、しかも少子高齢化がますます深刻化して行く中で、就職できない大卒者をさらに増やす結果になることが目に見えているのに、何が目的で大学を増やそうというのか、文科省の役人どもの頭をかち割って脳みそを調べてみたくなった。
 ただし、田中にも多少の問題はあった。能力のある学生が家庭の経済事情で大都市の権威ある大学に進学できないというようなケースに対する何らかの支援体制を構築することを前提に認可の取り消しを発表すべきだった。さらに既設の大学も、卒業者の就職率が80%を切るような大学には一切国が補助金を出さないことも同時に決定すべきだった。そうすればバカでもチョンでも入れるような大学は自然消滅し、社会に出た時、それなりの能力を発揮できる学生に絞り込んでいけば、大卒者の就職難も解消に向かうのは当然の帰結である。
 とかく役人どもは、屁理屈としか言えないような口実を無理やり考え出し、役所での自分の仕事をでっち上げ、さらにその仕事の中身は自分の再就職にとって有利な状況を確保すること、としか考えていないと言っても言い過ぎではない。そういう能力だけは、官僚は有している。というより、そういう能力しか官僚は持っていないのだ。
 民間企業だったらどうか。IT技術の進歩で仕事の効率はどんどん上がって行く場合、余剰社員は能力に劣る社員から順にリストラしていくか、市場規模が拡大している場合はそれに見合った仕事に就かせる。そういう民間の考え方を役所にも導入し、「いつ首になるかわからないよ」という状況をつくれば、本当の意味での政治主導が可能になる。国会議員が「政治主導」を口にする場合、役所を民間並みに大変革しない限り不可能だという認識を持ってもらいたい。
 そういう意味で、橋下がとった行動は大阪府の最高権力者である知事という職を自ら投げ出し、格下の大阪市長選に出馬して当選、市長の権限で二重行政を解消しようとしたことは見事な決断と言ってもいいだろう。
 その一方で橋下は密かに「大阪都構想」を温めていった。府知事になって2年後の2010年1月、橋下は公明党の年賀会に招かれ「競争力のある大阪にするためには一度大阪府を壊す必要があるし、大阪市も壊す必要がある。来たるべき統一地方選挙において、大阪の形を一回全部解体して、あるべき大阪をつくりあげる」と述べ、大阪都構想の一端を披露している。そして翌11年6月に開いた政治資金パーティーで、橋下は半年後に行われる大阪府知事・大阪市長のダブル選挙を視野に入れながら「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」「大阪は日本の副首都を目指す。そのためにいま絶対やらなければならないことは大阪都をつくることだ」「今の日本の政治で一番必要なのは独裁。独裁と言われるくらいの力だ」と大阪都構想の実現に向けて突っ走る宣言をした。
 もともと橋下が府知事になって以降、財政再建のため強引な政策を次々と打ち出し、しばしば議会や職員組合とぶつかってきた。その手法が「独裁的だ」と批判する声もあちこちから出てきたのは事実である。たとえば民放の格好なニュースショーのネタになった、いわゆる「一斉メール送信」事件はご存知の方も多いだろう。この事件は09年10月1日、府のダム建設費用について次のようなメール(抜粋)を全職員に一斉送信したことに端を発した。
「水需要予測の失敗によって380億円の損失が生まれたことに関しても。恐ろしいくらい皆さんは冷静です。何とも感じていないような。民間の会社なら、組織あげて真っ青ですよ!!」「何があっても給料が保障される組織は恐ろしいです……」
 このメールに対して翌日女性職員から反論のメールが返信された。橋下は即座に反応し「まず、上司に対する物言いを考えること。私は、あなたの上司です。組織のトップです。その非常識さを改めること。これはトップとして厳重に注意します。あなたの言い分があるのであれば、知事室に来るように。聞きましょう」と再送信した。このやり取りをきっかけに反論メール合戦になり、ついに業を煮やした橋下は8日「トップに対する物言いとして常識を逸脱している」として女性職員を厳重注意処分にした。この一連のやり取りが明らかになり、府に寄せられたメールや電話の反響が約700件に達するという騒ぎになったのである。市民からの反応は賛否相半ばしたようだ。
 私は、この件に関しては、橋下の「トップの威」を笠に着たいびりには違和感を覚える。なぜ女性職員の上司に対するイチャモンの付け方を問題視するより、行政機関(行政組織ともいう)の職員(つまり公務員)の仕事の結果に対する無責任さ、鈍感さを噛んで含めるように諭さなかったのか。そうしていれば市民の反応は圧倒的に橋下支持の声で満ち溢れていたはずだ。
 「パーキンソンの法則」というのがある。60代以上の人なら覚えておられる方も少なくないと思うが、若い人は耳にしたこともない法則だろう。この法則はイギリスの歴史・政治学者のシリル・ノースコート・パーキンソンが提唱した法則で、行政組織についての二つの法則から成り立っている。
 第1法則は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」というもの。
 第2法則は「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」というもの。
 この法則はパーキンソンがイギリスの官僚組織を観察して発見したもので、わかりやすく解説すると官僚組織は、その組織が行ってきた仕事が完了しても、新たに無意味な仕事を創り出し、さらにその仕事が完了したら、また新しい仕事を創り出すという無限のサイクルを繰り返し、官僚組織は際限なく膨張を続けるという意味である。この法則が成り立つ要因は二つあり、①公務員はライバルにならない部下が増えることを望む②公務員は相互に仕事を創りあう、という2点である。
 パーキンソンがこの法則を提唱したのは1958年(昭和33年)で、日本はまだ高度経済成長の時代への手探りをしていた時代で、すぐパーキンソンの法則が話題になったわけではなかった。日本でパーキンソンの法則が話題になり出したのは、高度成長時期に入った1960年代からで、高度経済成長を支えるために官僚機構も肥大化していった時期になってからである。
 この時期、日本では経営理論が一大ブームとなり、ピーター・ドラッガーの著作『断絶の時代』やダグラス・マグレラーのXY理論が日本の経営者にとって極めて都合のいい理論であったことから大流行した。私も先述した労組委員長から社長室主任に転属した時、これらの経営理論をむさぼるように読んだ。それも自費で購入して社長室で読んでいたため、自費で買っていたことを知った社長が「会社で金を出すから読みたい本はいくらでも買っていい」と言ってくれたが、「これは自分の勉強のためだから自分の金で買う」と断ったことを覚えている。
 私はいずれ日本の年功序列終身雇用という江戸時代の経営管理法を引きずった人事管理ではアメリカの経営手法には太刀打ちできなくなると考えており、若い有能な人材がその能力を十分に発揮できる人事システムを構築することに全力を傾注していた。具体的には、そのころ日本でも盛んに言われ出していた能力主義・実力主義を定着するためにはどのような組織・人事・給与の一体的システムを作り上げるかが私の当時の最大のテーマで、通勤・住宅・家族手当などの属人的手当を廃止するための最初の一歩として通勤・住宅手当を一本化したうえで一律定額支給にし、非課税の「通勤手当」の名目でやろうとしたのもそのためだった。
 私が既成概念に疑問を最初に抱いたのは、小学生のころ、ニュートンが万有引力の法則を発見したきっかけはリンゴが木から落ちる瞬間を目撃したことだという「伝説」に対し、そんなことはありえないという疑問を持った時からである。多分5年生のころだったと思うが、授業で担任の教諭がこのあり得ない「伝説」を事実であるかのごとき説明をしたのに食って掛かり、教諭を立ち往生させて以来、常識や既成の価値観に対する疑問を抱く「クセ」が私の頭脳に定着するようになった。今でもその「クセ」は引きずっているが、少し大人になったのは、現行のシステムを全否定するのではなく、妥協点を見出しながらその妥協点を時間をかけながら少しずつ私が考える方向に移行させていくという現実的な方法に重点を置くようになったことである。
 こんな話をしたのは、橋下の政治理念に共鳴を感じつつも、その政治理念を一気に実現しようとすると、当然現行システムの中で安穏とした優雅な人生を歩み既得権益に胡坐をかいた特権階級(はっきり言えば高級公務員)の抵抗にあってとん挫しかねないという危惧を抱いたからである。
 橋下は現時点でどこに妥協点を設定し、時間をかけてその妥協点を少しずつ橋下の理念に近づけて行くかという手法を身に付けるべき時期だと思う。彼の「大阪都構想」には全国の行政組織のくびちょうがかたずを呑んで見守っている。特に大都市と大人口を擁する神奈川県や愛知県、福岡県、北海道などの行政組織のくびちょうは橋下改革が成功したら、橋下に同調して一気に地方自治改革が進みだす。彼の戦いの結果は、地方自治改革を一気に進めるか、逆に大きく後退させてしまうかの分岐点になる。そのことを重く自覚してほしい。
 特に地方自治改革を大きく進めるためには国の行政組織の改革も不可避だと考えたことは、私も十分理解できるが、これも1歩1歩亀のような歩みで最初は始めるべきだったと思う。「小異を捨てて大同に付く」という老いぼれジジイ(80歳)の石原慎太郎のレトリックに乗ってしまい、「維新」の主導権を老練な政治手腕にたけた石原に事実上奪われかねない危惧を抱いているのは私だけではない。現に橋下の地方自治改革「大阪都構想」を支持してきたマスコミが、ここに来て橋下に対する批判を強めだしとことを高にくくるべきではない。たとえば朝日新聞は24日の社説「総選挙 維新の変節 白紙委任はしない」はこういう書き出しで「維新」批判をしている。

 原発はゼロにするかもしれないし、しないかもしれない。環太平洋経済連携協定(TPP)には参加するかもしれないし、しないかもしれない……。
 太陽の党と合流して日本維新の会の主張ががぜんあいまいになった。代表代行になった橋下徹大阪市長は街頭演説でこう言い切る。
 「政治に必要なのは政策を語ることではない。組織を動かし、実行できるかどうかだ」
 自分や太陽の塔を立ち上げた石原慎太郎代表は大阪と東京で行政トップを経験し、組織を動かす力がある。どう動かすかは任せてほしいといわんばかり。だとすれば、有権者に求められているのは政策の選択ではない。白紙委任である。
 維新は、党規約に明記していた企業・団体からの政治献金の禁止を、撤回した。「選挙を戦えない」という太陽側の意向を受け、上限を設けて受け取ることにしたという。
 「脱原発」は看板政策だったはずたが、揺らいだ。

 この手厳しい批判を橋下は重く受け止めなければ、国民からの支持は遠かれ遅かれ失うことは目に見えている。国民はバカではない。直観的であっても、橋下の二枚舌に気付くのは時間の問題だ。
 このブログの前編で書いた滋賀県知事の嘉田は「脱原発」を「卒原発」に言い換えて新党「日本(にっぽん)未来の党」(以下「未来」と略す)の立ち上げを28日正式に表明した。小沢は最後の生き残りをかけて「生活」を解散して「未来」に合流することにした。「脱原発」を「卒原発」に言い換えたのは嘉田のアイデアなのか小沢の提案なのかはしらないが、なぜ言い換えたのかの説明は一切ない。他の「脱原発」派と違うのは10年後と、期間を短縮しただけだ。10年で卒原発を実現できる根拠は当然ながら一切説明がない。ひたすら「この指とまれ」で反原発政治グループの中で主導権を確保したいという意図が見え見えだ。反原発以外の政策は「子供・女性支援」以外一切ない。それ以外の政策を明らかにすると野合政党が作れないという理由以外の何物でもない。こんな「第三極」にだれが投票するだろうか。日本国民の見識が問われている。
 橋下は「未来」が国民からそっぽを向かれる実態を見て(この結果は、私は予想屋ではないが、近くマスコミの世論調査で判明するだろう)、直ちに「維新」の原点に立ち返るべきだ。そして、総選挙で自公が過半数を獲得できなかったときに民主や渡辺喜美の「みんなの党」(以下「みんな」と略す)などと政策協定を結んで連立政権を目指せばいい。特に「みんな」が発表しているアジェンダ(公約やマニフェストとほぼ同義)の主要部分は「維新八策」とかなり近い。「太陽の党」との合流を最優先して「維新八策」を骨抜きにするより、「みんな」と選挙協力関係を結び、「太陽」が否応なしに歩み寄らざるを得ない状況をつくるべきだったのではないか。それが「政治の王道」というものである。


 


なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ①

2012-11-19 15:59:33 | Weblog
 今日は11月11日、日曜日である。いつ書こうかと朝日新聞の政局記事やテレビのニュース番組をチェックしてきたが、こう着状態が続いていたため時期を見て書こうと思っていたマイナリ氏の冤罪問題(東電女性社員殺人事件)を先行することにした(11月9日投稿)。もし読売新聞読者センターとの「戦争」がなければ読売新聞の政局記事を参考にしていただろう。
 今春まで私と読売新聞読者センターの関係は極めて緊密だった。が、今春読者センターのスタッフがほぼ総入れ替えになり、読者センターのスタッフとの信頼関係を改めて構築しなければならない状況になった。そういう状況の中でそごが生じ、読者センターは極めて卑劣の方法で私を敵対視するようになり、私は事実をブログで明らかにし、読売新聞へのコミットをやめた、というわけである。
 そして今は朝日新聞にコミットし、朝日新聞のお客様オフィスとの親密な関係を築きつつある。 
 私のブログ読者は誤解されないと思うが、私が「コミットする」という意味は、ヨイショすることではない。評価すべきことは評価するが、批判すべきことは厳しく批判する、という意味である。より具体的に言えば、新聞の    読者が当たり前に支持するような記事に対する評価はブログでは書かない。
 私のブログスタンスはともかく、マイナリ氏冤罪問題に取り組んでいる最中の10月29日に政局が大きく動き出した。焦ったが、書きかけのブログ記事を放り出して政局問題を追いかけるわけにはいかない。とりあえずマイナリ氏冤罪問題の片をつけてから同時進行形で政局問題に取り組むことにしたというわけだ。
 そもそもアメリカ型の、政権交代可能な保守2大政党政治状況を日本にも根付かせようという構想を初めて表明したのは、いっとき「影の自民党総裁」と呼ばれた故金丸信だった。金丸が自民党内で頭角をあらわすきっかけになったのは田中角栄を担いで田中内閣の実現に奔走し、角栄の「懐刀」と称されるようになって以降である。田中内閣当時に建設大臣に就任(初入閣)、さらに三木武夫内閣では国土庁長官に就任、「建設業界のドン」と呼ばれるほどの人脈・金脈を築いた。80年代後半から、55年体制をガラガラポンして政界を再編し、2大政党政治体制を構想したと言われる。
 立花隆らによって田中金脈が暴かれて田中が失脚した後は、後継総裁選びに辣腕を発揮し、特に鈴木善幸総裁の後任に中曽根康弘を強く推し、中曽根内閣を実現した論功行賞として総務会長→幹事長→副総理へと権力者への階段を順調に上りつめていった。いっぽう田中派の末路を見極めてのちは田中派内部に経世会と称する「勉強会」(実態は派閥内派閥)をつくって竹下昇を総理総裁候補に育て上げていく。そしてポスト中曽根に竹下後継総裁を実現、竹下内閣がリクルート事件で総辞職した後は、宇野宗佑総裁がスキャンダルで辞任した後は海部俊樹を後継総裁に強く推し、海部内閣が実現した時、「「竹下派7奉行」の中で最年少の小沢一郎を幹事長に就任させ、海部後の自民党政権の危機的状況の中で竹下派(旧田中派)とは「右手で握手し左手で殴り合う」関係にあった旧大平派の宮沢喜一を竹下元総裁の意向にあえて逆らって総裁に推し副総裁に抜擢された。その後金丸はポスト海部選びのとき立役者に仕立て上げたのが小沢一郎で、宮沢喜一、渡辺美智雄(愛称・みっちー)、三塚博の3候補を小沢の個人事務所に招へいし、小沢と海部が面接を行い、その結果を金丸に報告、実際には金丸が最終的判断を下して宮沢総裁が誕生した。
 この後継総裁選びに先立って金丸は小沢に「お前がやればいいじゃないか」と言ったが、小沢が「総理総裁になるにはまだ若すぎます」と固辞したというエピソードがあるが、真偽は不明である。もちろん朝日新聞や読売新聞はそうした総裁選びの経緯を知っていながら、年配者でもあり、当選回数も多く、党や内閣の要職を歴任してきた3人の候補者を、小沢が自分の個人事務所に呼びつけて面接したという一点を針小棒大に記事化した結果、「小沢面接」といった言葉が一般に流布し、それが根拠になって小沢の人格に対する国民の印象が悪化し、その影を小沢は今でも引きずっている。
 私自身は実は小沢の政治家としての資質に疑問を抱いている。たとえば野田政権が7月に「社会保障と税の一体改革」のための財源確保の手段のひとつとしてとりあえず消費税増税を与野党が協力して衆議院で成立させたとき、「消費税増税はマニフェストに違反している」と政府案に反対して離党(民主党は離党を認めず除籍処分にした)、「国民の生活が第一」なるまったく自己矛盾した新党を立ち上げたことを私はブログで痛烈に批判したことがある。理由はデフレ不況が続き、EUの金融危機のあおりを食って円高に歯止めがかからず産業界が深刻な経営危機に陥り、かつ少子高齢化がますます深刻度を増し高齢化社会を支えるべき若い人たちの就職難が続いている状況下で、新たな社会保障体制をどう構築し、またそのための財源どう確保すべきかの具体策の提案もできないくせに、ただ「マニフェストに違反している」ということを理由にした増税反対はもはや駄々っ子の域すら越えていると言わざるを得ない。小沢の離党の本当の理由はマニフェスト問題ではなく、民主党内での権力基盤を回復することは不可能という判断に傾き、しょせん小世帯でも「お山の大将」でいたいが故の新党結成であったことは見え見えなのだが、朝日新聞も含めて依然として小沢新党の真実を理解できていないのは残念である。
 金丸が金銭的スキャンダルで失脚して後ろ盾を失った小沢は「自民党に対抗する保守政党をつくりアメリカ型の2大政党政治体制を実現する」と称して新生党を立ち上げて代表幹事に就任した。自民を離党したものの小沢アレルギーを持つ議員が少なくないことを承知していた小沢は人望があった羽田孜をあえて党首に立て、自らは代表幹事という地位に就いた。
 そうした状況の中で細川護煕が「自由社会連合」を提唱、政界再編を目指して日本新党を結党、93年7月に行われた総選挙で社会現象とまで言われた日本新党ブームを巻き起こして自民党を単独過半数割れに追い込んだ。このビッグチャンスを小沢が見過ごすわけがない。公明党書記長の市川雄一と組んで(いわゆる「一・一ライン」)、非自民・非共産の大連立を各党に呼び掛け、日本社会党・新政党・公明党・日本新党・民主党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合(当選議員数順)による大連立政権を樹立、「55年体制」に終止符を打った。
 小沢の政界遊泳術はこの時いかんなく発揮された。大連立グループの最大勢力だった日本社会党党首を総理候補にするのではなく(社会党主導では大連立がまとまらないため)、第4勢力に過ぎず、また所属議員もほとんど国政に携わった経験を持っていないだけでなく、衆議院では初当選(参議院議員の経験はあったが)だった日本新党党首の細川を総理候補に祭り上げることで大連立(実態は大野合)を実現、細川政権を誕生させた。が、細川に総理としての実権はほとんどなく政権運営は事実上一・一ラインが中心になって行っていた。そういう状況を打破しようと細川総理は独断で突然、消費税廃止とセットで7%の国民福祉税を導入すると発表、総理を補佐すべき武村官房長官が即反発し、国民福祉税構想を断念した細川はあっけなく政権を放り出し、大野合は一気に崩壊する。
 その後小沢は新政党を解党して新進党を立ち上げ、ようやく独裁者としての地位(党首)に就くが、小沢の独断専横の党運営に反発する党所属議員が続出、小沢は新進党も解党し新たに自由党を結成して党首になった。が、盟友の鳩山由紀夫の説得を受け自由党丸ごと民主党に合流し、一時は民主党代表の座に就いた時期もあったが、党内の小沢アレルギーは激しく、再び新党「国民の生活が第一」を立ち上げる。その時点では民主党の最大勢力は小沢派で、09年の総選挙で小沢が擁立して当選した新人議員(いわゆる小沢チルドレン)の大半が小沢と行動を共にすると思われていたが、小沢新党に入った国会議員は小沢も含め衆議院38人、参議院12人のわずか50人だった。 
 ちなみに小沢の人物評は「剛腕」「壊し屋」「傲慢」が主なものだが、まったく見当違いなことは、このブログで書いた民主党からの離脱の「目的」を考えると直ちにわかるはずである。つまり小沢は小なりといえども党内での独裁的権力を持てないと我慢ができないボナパルティスト(※後述)なのである。そういう視点で小沢の政界遊泳の遍歴を見ると、完全に論理的整合性を満たしていることはもはや反論の余地がないであろう。
 実際、人間性の面からみると小沢はかなり人情家としての側面も持っており、小沢が小沢派の立候補者の地元に応援に行くと、腰の低さ、人懐っこさに小沢の演説を聞いた人たちはびっくりするという。良しにつけ悪しきにつけ小沢はその時の感情が顔の表情や口調にもろに出てしまうタイプで(テレビでインタビューに応じる時の小沢の顔つきや口調を観察すると自分の感情を抑制できないタイプの政治家であることに、読者の皆さんも、「そういえば」と思いを致されるであろう。
 さらに小沢の武器は実は金ではなく、独特のレトリックの巧みさにあることも、この際指摘しておきたい。「マニフェストに違反している」というのは実は虚偽の主張である。事実は「マニフェストで増税問題に触れなかった」だけである。
 マニフェストで「私が総理である間は増税しない」と公約したのは小泉純一郎が自民党総裁として衆院選挙を戦った「郵政解散選挙」だけである。そして小泉は公約通り消費税増税をしなかった。その付けが今の時代に回ってきている。もっとも小泉政権の時代には、東日本大震災のような大災害もなかったし、EUの金融危機による円高デフレ不況も生じていなかったし、さらに日中関係の悪化による日本産業界の苦境の影すらなかったから、消費税増税なしで政権運営ができただけの話である。
 自公連立政権が大敗した2009年9月の総選挙時の民主党代表は小沢の盟友・鳩山由紀夫だった。鳩山民主党がこの総選挙で掲げたマニフェストは①無駄遣い根絶②子育て・教育対策③年金・医療④地域主権⑤雇用・経済の5項目だった。具体的な政策としては②で中学生までに1人2万6000円の子供手当や公立高校の無償化、ガソリン税をはじめとした暫定税率廃止など生活支援を前面に打ち出した。当然そういった生活支援を充実するには相応の財源の確保が必要になるが、徹底した無駄の排除や特別会計の「埋蔵金」(実際にはほとんどなかったのだが)で捻出するとしたのである。
 しかし、マニフェストは所詮(絵に描いた餅)のようなものである。国会議員(衆院および参院)の選挙で政党が消費税増税を公約(マニフェストも含む)した政党はかつてない。選挙で絶対負けるからだ。実際10日野田総理が福岡市で行ったマニフェスト報告会で「次の選挙を考えれば消費税率は上げない方がよかったのかもしれない。(民主党は)次の世代のことを本気で考えている党なんだ」と述べた(10日午後7時のNHKニュースでの録画報道)。
 日本で消費税法が初めて成立したのは竹下内閣時代の88年末で、89年4月1日から施行された(税率3%)。この時期小沢は官房副長官として消費税導入のために大活躍をしている。もちろん竹下内閣は発足時に消費税導入の「し」の字すら公約していない。そのことを小沢はすっかり忘れているようだ。
 しかも、竹下内閣時代の消費税導入の目的は現在とは全く違う。当時の納付税率(国税である所得税と地方税を合算)は最高税率が85%と高額所得層の負担が極端に重く、最高税率を65%に引き下げる代わりに、減税分を補うために消費税を導入したのである。その時に使われた口実は、「日本も豊かな国になったのだから、欧米先進国並みに高額所得層の負担を軽減してあげよう。そうでないと高額所得層の働く意欲がそがれる」というものだった。これに対し左翼政党は「金持ち優遇税制だ」と猛反発し、一般国民からも非難の声が上がった。
 ついで橋本内閣はさらに税制を簡略化するという口実で最高税率を50%まで下げ、減税分を補うために消費税を5%に引き上げたのである。この時すでに小沢は自民党を離党していたが、この消費税引き上げにどう対応したかはインターネットでいろいろ調べたが、結局わからなかった。ご存知の方がいらしたらご教示お願いしたい。
 つまり過去の消費税導入と増税は、間違いなく高額所得層の税負担を軽減することが目的だった。私は左翼ではないので、この税制改革を一言のもとに「金持ち優遇税制だ」と切って捨てるような批判はしない。常に私の視点は改革の結果を基準に検証することにしている。つまりこの税制改革によって日本経済や国民生活がどう変化したかという検証である。この視点は「結果論」と言われるかもしれないが、政治は税制に限らず過去の改革がどういう結果をもたらしたかを検証しながら次の改革の筋道を考えないと、失政の連鎖を招くからである。
 そして消費税導入によって減税の恩恵を受けた高額所得層は、増大した可処分所得をどう使ったかを検証することであった。彼らが高額商品を購入したり、優雅な生活を楽しむために消費してくれていれば日本の内需が拡大し、さらなる経済成長をけん引してくれていた、はずである。が、日本の高額所得層は全く政府が予想もしなかったことに、増えた可処分所得分を使ったのである。はっきり言えば、金が金を生むマネーゲームに突っ込んでいったのである。その金で土地や株式、絵画、ゴルフの会員権などを買い漁り、ヘッジファンドにリスキーな投資(実際には投機)を託したりしたのである。一流銀行の行員だけでなく、支店長自らがゴルフ場開発会社や住宅地分譲業者の営業マンになり、「全額融資しますから買いませんか」と勧めていたのである。「まさか」と思われるだろうが、私は買わなかったが、某一流銀行の都内の支店長が「ツアー」を組んで裕福な顧客を仙台市郊外の住宅地の分譲現場に案内し「全額融資しますからお買いになりませんか。数年後には2倍になっていますよ」と私たちにセールスをしたのである。仙台市郊外などに別荘を建てる人が首都圏にいるわけがなく、投資目的で買わせようという意図が見え見えである。
 多少過去にさかのぼるが、澄田智が日銀総裁に就任(大蔵省事務次官からの天下り)した84年に日銀プロパーの三重野康が副総裁に抜擢され、事実上の実権者として金融政策決定に絶大な影響力を発揮するようになっていた。すでに述べたように日本経済はバブル時代に入っており、三重野は金利引き上げを図ろうとしたという説もあるが、日銀の金融政策に絶大な影響力を持っていたはずなのに金融緩和状態に手を付けず放置していたのも事実である。そして澄田・三重野体制で日銀が金融緩和政策を続けていた89年4月に竹下内閣が消費税の導入と高額所得者の減税をセットで施行したのである。まさに油に火をつけるがごとくバブルは一気に爆発した。
 89年12月に日銀総裁に昇格した三重野はあわててバブル退治に乗り出した。公定歩合を引き上げて金融引き締めにかかると同時に、大蔵省銀行局に働きかけ総量規制を銀行に義務付けた。総量規制とはバブル景気で高騰した土地価格を下落させるため、不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えろという行政指導である。
 この荒療治によってバブル景気はとりあえず収まった。その一時的現象を見て、レッテル張りしかできない無能な自称評論家の佐高信は、三重野を「平成の鬼平」と持ち上げた。
 しかし三重野が強行したバブル退治は、その後「失われた20年」(その間に短期間ではあるがITバブルで多少景気が持ち直した時期があったので「失われた10年」説をとる人もいる)と呼ばれるデフレ不況をもたらした。
 佐高という人は妙な人で、レッテルを貼り付けることが最も有効な批判の方法と思っているようだ。しかも「レッテル貼り」だけの非論理的「批判」をする権利は恥ずかしげもなく行使するくせに、自分が批判された場合は一切無視して反論もしない(失礼、「反論できない」と書くべきでした)権利もやはり恥ずかしげもなく行使する人なのである。
 ただ彼の人並みすぐれていることは「マスコミ遊泳術」には非常に長けているのである。別に内橋克人の弟子でもなんでもないのに売れる前は這いつくらんばかりのちょうちん持ちをこれまた恥ずかしげもなくやり、内橋の引き立てで少し売れるようになると、たちまちその恩を忘れてしまえるという特技を持っているのだ。私も彼のように破廉恥にふるまえれば、多少はお金になる仕事にありつけるかもしれないのだが、そういうことができない融通の利かない性格なので、これが私の運命と諦めている。
 話を本筋に戻そう。現在の政局を論じる予定で書き始めたのだが、もともと順序立てて書くということが苦手で、本を書いていた時代も書き出しの1行だけ多少時間をかけて考えるが、書き出しの文章だけ決めるとあとは一気呵成に思いつくままに書いていくのが私のスタイルなのだ。それでいて書き終わったら一切推敲せず、そのまま原稿を出版社の編集者に渡す。だからいつも「小林さんの原稿はきれいですね」と言われる。書き終えた後推敲しないから(ということは書き終えた原稿に手を入れないから)きれいなことは間違いなくきれいなのは当然である。
 さて野田政権になって初めての通常国会は衆参ねじれ状態の中で行われた。しかも野田総理の党内権力基盤は政権誕生以前から決して強固なものではなかった。
 野田派と言えるような勢力があったわけではなく、官総理が失脚したあと党内最大派閥の領袖・小沢と代表の座を争い、小沢アレルギー派の「そして最後に残った選択肢」という消極的な支持を得て代表の座に就いたという経緯があった。そのため党内融和を最優先せざるを得ず、小沢に近いとされていた輿石を幹事長に据えて小沢の協力を得て党運営を図るしかなかったのである。
 しかし、すでに述べたように小沢は権力に異常なくらいの執着心を持つ政治家で、民主党での権力の座に就くことに見切りをつけ、「消費税増税はマニフェスト違反」という理屈にならない理屈をつけて離党した。が、小沢の期待に反し、小沢チルドレンの大半は民主党に残った。「洞ヶ峠」を決め込んで小沢チルドレンの動向を見ていた輿石は小沢チルドレンの大半が党に残ったのを見て、彼らを掌握することで党内の実権を握ろうと画策したのである。
 その最初の軋轢が通常国会の終盤で生じた野田と輿石の主導権争いだった。「社会保障と税の一体改革」に政治生命を賭けていた野田は、ねじれ国会で消費税増税法案を通すには自公の協力を取り付けることが最重要課題だった。が、そうした野田の意向に真っ向からストップをかけようとしたのが輿石である。
 輿石も野田と同様もともとは自前の権力基盤を党内に持っていなかった。だが、小沢が離党し、小沢チルドレンの大半が小沢に反旗を翻した。このことは輿石にとって「棚から牡丹餅」のような僥倖だった。
 しかし輿石が小沢チルドレンを自分の権力基盤にするためには、いかなる手段を講じても解散時期を引き延ばし、元小沢チルドレンの信頼を得なければならなかった。元小沢チルドレンは大半が1年生議員で、地元での支持基盤はまだ極めて弱く、早期解散は彼らの政治生命に直結しかねない恐れを抱いたのは当然だった。つまり解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、できれば満期まで解散を阻止することによって元小沢チルドレンに恩を売り、彼らを囲い込むことしか輿石の脳裏にはなかったのである。
 そうした状況の中で野田・輿石の、おそらく最後となるだろう主導権闘争が表面化したのだ。
 民主党の代表選で野田が再選されたあと、それまでさんざん煮え湯を飲まされてきたにもかかわらず、野田が幹事長という党ナンバー2の座に輿石を再任せざるを得なかった理由を書いた9月24日付のブログ記事「輿石幹事長は「規定」の人事――今度は私の読みが当たった」の最後に私はこう書いた。

「この民主党人事(※輿石幹事長の続投)に自民は反発しているようだが、反発して民主との対立を激化させればさせるほど、自民は輿石氏の手のひらで踊る結果になる。当然民主は特例公債発行や選挙制度改革法案が成立しない限り、重要法案を積み残したままで解散するわけにはいかない、というのが輿石作戦のポイントだからだ。
 そうした輿石作戦に乗らないためには自民が子供じみた反発をせず、むしろ積極的に法案審議に協力し、早期に民主が主張している「重要法案」を成立させてしまうことだ(政府案を丸呑みしろと言っているわけではない。自公も対案を出し、一致できる点は争うことなく同意し、一致できない問題は審議を尽くして妥協点を見つける。そういうスタンスをとるべきだ、と私は言っているのだ)。
 自公がそう言う作戦に出れば、民主としては解散を先延ばしする理由がなくなってしまう。そもそも前の国会で審議や採決をボイコットしたりせず、さっさと成立させてしまっていれば、民主は会期末に解散せざるを得なくなっていたのだ。
 私は別に民主の肩を持つつもりもなければ、自民の肩を持つつもりもない。はっきり言って私は積極的無党派層の一人である。その意味は選挙当日、白紙票を投じるために選挙会場に行っているくらいなのだから。特例として記入投票することがないわけではないが、それは所属する政党のいかんを問わず、こういう人にこそ日本の将来を担ってもらいたいと思えたケースだけである。ジャーナリストである以上、その程度の信条は持っていただきたい」
 9月24日に投稿したブログ記事を自民党本部にFAXするかプリントして  ヤマトのメール便で送っていれば、もっと早く安倍総裁は私の提案に乗っていたかもしれない。現にいま自民は私が9月24日に投稿したブログ記事の最後で提案した通りの作戦に切り替えたからだ。いつまでも「年内解散」の約束にこだわっているから通常国会が開会しても空転状態が続き、輿石作戦のシナリオ通りに事態は進行していってしまった。
 私は実は今でも野田・谷垣のトップ会談(8月8日)で、野田が解散時期についての表現を「近い将来」から「近いうち」に変えた時、かなり具体性を帯びた密約を交わしたと思っている。谷垣も「子供の使い」ではないのだから、依然としてあいまいな「近いうち」でコロッと騙されるようなことはありえない。はっきり言えば、「今月中」か「今国会中」と明示しなくても、かなり具体性を帯びた解散時期を谷垣に示唆したはずだ。
 そもそも民主党を事実上支配しているのが野田ではなく輿石だというくらいの認識は政治家だったら持っていなければおかしい。
 当時私は読売新聞にコミットしていたので読売新聞の政局記事をベースに最初の政局についての私論を書いて投稿した。その日がトップ会談で3党合意が成立したことを、NHKがオリンピック競技を中継中だった午後8時半過ぎに臨時ニュースで知った翌日である。8日のトップ会談は野田の谷垣への直談判で都内のホテルの1室で極秘に行われたようだ。会談は当初二人だけで行われ、隣室には公明党の山口が控えていた。と言ってもマスコミ各社の番記者はその時期野田、谷垣、山口には24時間体制で張り付いており、3人がほぼ同時刻にホテルに入ったのを確認している。NHKの番記者も同様だったはずだ。それを私がなぜ「極秘」と書いたのかは、この会談が輿石の了解を得ずに行われたからだ。だから3党合意が成立したことを輿石に張り付いていた番記者から聞かされた輿石にとってはまさに「寝耳に水」の話だった。
 その前日の7日の読売新聞朝刊は1面トップ記事で「自民、不信任・問責案提出へ…解散確約ない限り」(大見出し)と、自民が石原幹事長を筆頭とする強硬路線に舵を大きく切ったことを報じていた。さらに3面スキャナーでは「首相手詰まり…輿石氏、党首会談認めず」という見出しで、民主の最高実力者が野田ではなく輿石であることを示唆していながら、実際にはそういう認識を持っていなかったことが、同記事のリードを読めばすぐにわかる。

 そろそろブログ投稿の文字数制限にぎりぎりのところまで来てしまった。このブログは同時進行形で書いているため、何回の連載になるか見当もつかない。途中で飽きたりせず最後までお読みいただければ幸いである。

なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ②

2012-11-19 15:34:24 | Weblog
 8月7日の読売新聞は3面スキャナーの見出しで「首相手詰まり…輿石氏党首会談認めず」という政局解説の記事を掲載した。輿石が事実上野田総理に君臨していることを示唆するような思わせぶりな記事だったが、実際にはリードでそういう認識を持っていなかったことを露呈してしまった。
「自民党が、社会保障・税一体改革関連法案採決の条件として衆院解散の確約を求める強硬路線に転じた。野田首相は、自民党の出方を読み誤り、輿石幹事長ら党執行部の対応に任せてきた甘さがあった。事態打開の手立ても容易には見当たらない事態に追い込まれている」
 スキャナーの見出しとリードの内容が完全に乖離してしまっている。見出しで「輿石氏、党首会談認めず」と、事実上民主党の実権を握っているのは野田首相ではなく、輿石幹事長であることを示唆していながら、リードでは「野田首相は、自民党の出方を読み誤り、輿石幹事長ら党執行部の対応に任せてきた甘さがあった」と、野田路線と輿石路線の間に抜き差しならない対立があり、この時点では輿石が事実上の党最高権力者であることにまだ気づいていなかったことを明白に物語っている(今でもそうだが)。
 そして翌8日の朝刊1面トップ記事で読売新聞は与野党の対立が修復不可能なところまで来てしまったと解釈し、「一体改革成立に危機…自民きょう不信任・問責案」という大見出しをつけた記事を掲載した。さらにスキャナーでは「自民『強硬』一点張り…党内『主戦論』抑えられず」というタイトルで、1面記事を補完する記事を書いた。ちょっと本筋から離れるが、読売新聞は重大ニュースについては原則3面のスキャナーで1面トップ記事を補完する解説記事を掲載、同じく3面の社説で社としてのスタンスを主張するようにしている。これは読者にとって非常に親切な編集方針である。ところが、朝日新聞もかつては同じような編集をしていたのだが、今は1面トップの重大ニュースとの関連性を重視した編集をしていない。社説と社内外の権威者の主張にスペースを割いた「オピニオン」、読者の投稿文を掲載した「声」を一体的に扱い、しかもそれがどのページに掲載されているのか一定していない。確かに1面の目次を見ればわかるのだが、大方の読者は1面から順番に読みたい記事を見つけたら読む、という習慣だと思う。「オピニオン」はいい企画だと思うし、「声」も読者の様々な主張を読売新聞ではほとんど掲載しないような(読売新聞読者センターの話)「重たい」読者の主張も、あまり偏らずに掲載しているのはいいと思うが(読売新聞の読者欄「気流」は一般の読者にとってはどうでもいい個人の日常生活に根差した投稿文が大半を占めている)、もう少し読者に親切な編集をしてもらえたら、と思う。
 余談はそのくらいでやめるが、読売新聞は自民党執行部の意見対立はちゃんと把握していたのに、なぜ民主党の最大権力者が輿石で、肝心の野田総理が輿石に手足を縛られ身動きが取れない状態になっていることに理解が及ばなかったのだろうか。読売新聞は今年の春くらいまでは野田政権に対して極めて厳しいスタンスをとっていた。私が読者センターに電話で「今日の社説の主張は私も理解できるが、もう少し長い目で見てやったらどうか」と申し上げたところ読者センターの方は「もう待ったなしのところに来ていると私たちは判断しているんです」とお答えになった。で「私は野田さんは『おしん』ではないけど『我慢総理』と勝手に命名しています。民主党は一枚岩ではない。小沢さんとの代表選では小沢アレルギーの議員たちが野田さんに投票したから勝てたけど、反小沢の議員たちもまた一枚岩ではない。野田さん自身の党内基盤は極めて脆弱なんです。そういう中で党内融和を図りながら時間をかけて政治信条を実現しようとしているのだと思います。だから『がまん総理』と勝手に命名したんです」と理由を申し上げたところ、読者センターの方は「うーん。確かにそう言われるとそういう感じは私もします。貴重なご意見として伝えます」と返事をしてくれた。そのころは私と読者センターの関係は極めて良好だった。私は読売新聞の読者の中ではたぶん最も厳しい批判をしてきた一人だったと思う。が、私の批判は悪意に満ちたものではないことを読者センターのほとんどの方は理解してくれていた。いまは朝日新聞お客様オフィスとの関係がそういう状態になりつつある。ただ電話では穏やかに言いたいことを言わせてもらうようにしているが、ブログで書くときはかなり手厳しい表現をするケースがままある。それは読者センターやお客様オフィスを相手に書いているのではなくブログ読者により深く理解していただくための私の手法である。読者の中には「何様だと思っているのか」と不快に思われるだろう方もおられることを想定し、そのうえで書いているのでご了解いただきたい。
 そんな私ごとはどうでもいいが、読売新聞はたぶん初夏を迎えたころからだったと思うが、突然野田批判をやめて野田総理の「応援団」に転換した。転換したのはいいが、まだ民主党内事情を正確に把握していなかったため、民主党の政局運営は輿石が掌握していて、野田は依然として身動きが取れない状態にあることまでは思いが至らなかったようだ。たとえば肝心の総理の意向を訊きもせず「党首会談は認めない」などという思い上がった発言に対してさえ野田はたしなめることもできない状況にあったことを理解すれば、社説で徹底的に輿石批判を展開して野田総理の権力基盤の強化に手を貸してやればいいのに、それができないところにせっかくの「応援」が中途半端に終わってしまった最大の要因がある。
 いずれにせよ、8月の7~8日にかけて政局は大きく動いた。すでに述べたように野田が輿石の「了解」をとらずに谷垣と直談判して8日の午後8時過ぎ、とうとう3党合意を取り付けた。合意の内容は①自公は不信任・問責案を引っ込める②粛々と消費税増税法案を参院で採決し自公は賛成票を投じる③野田総理は解散を「近いうちに行う」と表明する、という3点だった。3党合意が成立した直後、記者団に囲まれた谷垣は「野田総理が約束した『近いうち』とは重い言葉だ」と万感の思いを込めて強調した。が、谷垣もまた野田が綱渡り的状態の中で「近いうち解散」を約束せざるを得なかった危うさに思いが至らなかった。私もまた同様野田がとうとう民主党の実権を輿石から奪うことに成功したのだと思い、9日に投稿したブログで「消費税増税法案採決は10日(11日からお盆に入るため)、解散は早ければお盆明けの21日か22日」との予測を書いた。10日採決の予測は当たったが、解散時期の予測は外れた。なぜ10日採決を予測したかというと、谷垣が石原を筆頭とする党内強硬派を説得するために最低1日の猶予が必要で、11日からお盆に入るというタイムスケジュールの中で採決に持ち込める日は10日しかないと判断したからである。が、野田の「反乱」がいとも簡単に輿石によってひっくり返されるとは、私も読み切れなかった。私は8月28日「私はなぜ政局を読み誤ったのか?…反省に代えて」というタイトルでブログ記事を投稿した。その骨子はこうだった。

 私は状況にもよるが、自民党内の強硬派(石原幹事長を筆頭とする)を説得できるだけの根拠を谷垣氏が確信したこと(「近いうちとは重い言葉だ」との発言を再三繰り返したこと、さらに民主・輿石幹事長が参院採決の合意ができた当日に記者から「近いうちとは今国会中か」との質問に対して「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改革などの重要法案がまだ残っている」と発言したことを聞き谷垣総裁が「こんな幹事長が与党にいるなんて信じられない」と激怒したこと、また肝心の野田総理が繰り返し「私は社会保障と税の一体改革に自らの政治生命を賭けている」と耳にタコができるほど聞かされてきたことの3点)に重点を置いて、私はおそらくお盆明け早々の解散を野田総理がそれとなく示唆したか、あるいは密約したかのどちらかだと今でも思っている。
 だが、そうした事実上の約束を、輿石幹事長が再び民主党の実権を野田総理から奪い返したことによって反故にされたとしても、谷垣総裁は密約を明らかにすることはできない。そんなことをしようものなら密室政治に対する国民の怒りが爆発し、野田総理ともども谷垣総裁も政治生命を完全に失うことになるからだ。
 そこまで輿石幹事長が読み切って、絶対に参院で否決されて廃案になることを百も承知で今国会に特例公債発行や選挙制度改革法案を衆院に提出して自公ボイコットの中で単独強行採決に踏み切ったということは、解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、うまくいけば衆議院議員の任期満了まで政権を維持しようという作戦に出たと解釈するのが妥当だろう(その間に選挙基盤がまだ弱い元小沢チルドレンに地元に確固たる基盤づくりをする時間的余裕を与えるのが目的と思われる)。
 私が解散時期を読み誤ったのは、輿石氏の党内基盤が野田総理よりはるかに強固だったということに思いが至らなかったことによる。先のブログで書いたように、輿石氏は小沢氏に近いとみられていた実力者である。その輿石氏を野田総理が重用し総理に次いで党内に大きな影響力を発揮できる幹事長という要職に就けたのは、ひとえに党内融和をすべてに優先したからだ。そして小沢氏の離党に際し、小沢氏と行動を共にしなかった元小沢チルドレンは当然輿石氏を頼る。選挙活動を差配するのは幹事長の専権事項だからだ。つまり大派閥の領袖ではない野田総理の党内基盤が予想していたよりかなり脆弱で、小沢チルドレンの残党を一手に握った輿石氏の権力基盤の方が強かったということを証明したのが、現在の民主党の内実だったのだ。(※以下の記述に、ご注目いただきたい)
 
 一方自民党の谷垣総裁も、私と同様輿石氏の党内基盤の強固さを見抜けなかったことで墓穴を掘ってしまった。輿石発言に憤る前に総理の約束を無視できるほどの党内基盤を輿石氏が固めていることに気付くべきだった。だから「いったん成立した参院での採決の3党合意は、野田総理が解散時期を今すぐ明確にするか、それとも総理の約束をひっくり返した輿石幹事長の職を解くかしないと3党合意を白紙に戻す」と、野田総理に迫るべきだった。それを怠った谷垣総裁が自民党強硬派の協力を今後得ることは極めて難しい状況になったと言えよう。(※実際谷垣は総裁選出馬を石原によって引きずり下された)

 この時期、石原幹事長はまだ谷垣下しを画策していなかったし、自民党総裁選は1か月先の9月26日だった。谷垣も再任を目指していた。が、私が上記のブログで予測した通り、強硬派筆頭の石原伸晃が谷垣下しにかかる。谷垣は、9月10日、出馬断念を表明した。その無念の思いが「執行部の中から2人が出るのはよくないだろうと考え、決断した次第だ」の言葉に込められている。こういう事態を1か月前に予測した政治ジャーナリスト(新聞社やテレビ局の政治部記者も含む)や評論家は誰もいなかったはずだ。
 自民党総裁選については私はあまり関心を持っていなかったし、読売新聞読者センターの私に対する卑劣な言いがかりに対して戦うことと、オスプレイ問題に全神経を集中していたからである。しかし選挙結果は私も予想だにしないものだった。投票は地方票(全国各ブロックの自民党員による投票)と    国会議員票を合算して行われる。順序を逆にして国会議員による選挙結果から見よう。
 1位  石原伸晃  58票
 2位  安倍晋三  54票
 3位  石破 茂  34票  (以下省略)
 谷垣総裁を支えるべき立場だった石原が谷垣下しに奔走したことに対する批判はかなりあったが、強硬派の筆頭だった石原を支持する議員はやはり多かった。が、国会議員の投票に先立つ地方票の結果はどうだったか。誰も予想できなかった結果が出た。
 1位  石破 茂  165票
 2位  安倍晋三   87票
 3位  石原伸晃   38票
 こういう結果を誰が予想しただろうか。はっきり言えば永田町と民意(と言っても自民党員に限られるのだが)のずれの大きさがこの投票結果に現れている。民意が反映されるようにするには小泉純一郎が2001年4月に行われた総裁選の予備選(その後改められ地方選になる)で最大派閥出身で最有力視されていた橋本龍太郎に圧勝した時のようにドント方式に戻すか(米大統領選もドント方式)、小泉純一郎がやろうとしてできなかった派閥の解体をするかしかないだろう。
 それはともかく、国会議員票では1位を石原がとったことは結果的に野田総理との約束を反故にされた谷垣の甘さに対する批判票が強硬派筆頭の石原に集中したことを意味し、地方票では谷垣を補佐すべき石原が谷垣下しを画策したことへの反発が石破の4分の1も取れなかったという結果に表れている。その結果、地方票と国会議員票を足した獲得票の順位は以下のようになった。
 1位  石破 茂  199票
 2位  安倍晋三  141票
 3位  石原伸晃   96票
 いずれの候補者も過半数の249票に達しなかったため引き続いて規定により上位2人によって決選投票が行われたが、安倍が大逆転し(安倍108票、石破89票)安倍が自民党総裁の座を射止めた。なお決選投票は国会議員のみで行われ、これまた民意(自民党員の総意)を裏切る結果となった。今のところ目立った動きはないようだが、「では何のための地方選だったのか。結局大派閥をバックにしなければ、党員の意向に関係なく総裁になれないというのであれば、わざわざ大金を投じて地方選などやる必要はない。最大派閥のリーダーが自動的に総裁の座に就き、政権をとったあと内閣支持率が30%を切ったらやはり自動的に内閣総辞職して第2派閥から総裁を出し、その内閣も支持率が30%を切ったら第3派閥から総裁を出す。そうした順送りはそこまでで、その内閣もやはり支持率30%を切ったら、今度は順送りをせず国会を解散して総選挙で国民の信を改めて問うことにしたらどうか。そうすれば派閥も再編成されて三つに収れんされ、さらに国民の信頼を失った自民党はガラガラポンで派閥の再編成ができるようにすべきだ」という案が地方組織から噴出しかねないのではないか。というより、そうした方が従来のように総理が論功行賞的人事をやる必要もなくなり、他の派閥に気兼ねすることなく自分の政治生命を賭けて信念を貫く政治を行うことができるようになる。これは私の期待でもある。
 自民党総裁選とほぼ同じくして民主党も代表戦が行われた。野田だけではなく、赤松広隆、原口一博、鹿野道彦も立候補したが、大した波乱もなく野田が再選された。事実上の「出来レース」だったが、野田は再び輿石に幹事長続投をいちおう「要請」する形をとり、体裁を取り繕った。そのことは9月24日に投稿したブログ「輿石幹事長は『規定』の人事――今度は私の読みが当たった」で詳しく分析した。
 だが、内閣人事では反小沢の若手実力者を配置することによって輿石を孤立化させる作戦に出た(24日の時点では内閣改造はまだ行われていない)。改造内閣の発足は10月1日で、岡田克也(無派閥)を副総理に起用して輿石体制を覆すための布石を打った。その他の閣僚には幅広く各グループから登用したが、必ずしも派閥均衡内閣とは言えず、また代表戦が接戦でもなかったため論功行賞的人事もやる必要がなかった。あえて特徴を言えば旧小沢グループから田中真紀子(文部科学大臣)を登用したぐらいで、代表選に立候補した赤松、原口、鹿野の各グループからは一人も登用しなかった程度である。
 この間、政界に激震が走った。大阪市長で「大阪維新の会」代表の橋本徹が国政に乗り出すことを表明し、「政権交代可能な民・自2大政党政治体制」にくさびを打ち込むことを宣言、「維新」ブームが巻き起こっていた。また東京都知事の石原新太郎が突然都知事を辞任、国政に再参加すると表明、立ち上がれ日本を母体に新党を立ち上げることを発表した。橋本は9月13日「日本維新の会」の結党を宣言、石原新党やみんなの党、減税日本などとの連携あるいは合流を画策しているが(マスコミは「第三極」と命名)、憲法改正や安全保障、原発。税制などの基本的政策での不一致点が目立ち、いっときのブームは完全に沈静化してしまった。第三極についてもブログを書くつもりでいたが、最近の世論調査(NHK)によると日本維新の会の支持率は2%程度にしか達せず、政権党を脅かすような存在感はこれっぽっちも見受けられなくなった。私は「近いうちの解散・総選挙」が行われたことが明確になったら第三極の弱小政党間で再編成の動きが活発化するだろうから、それまで静観することにした。
 さて民主、自民ともに新体制が発足し、とりあえず臨時国会開催の状況にはなったが、消費税増税法案成立の3党合意が成立した時の野田総理の約束「近いうちに信を問う」が反故にされたことへの自民の野田政権への不信感が日を追うごとに増大し(というより総裁選で国会議員票を最も集めた石原の強硬路線を安倍も無視できず)、「解散時期を明らかにしない限り国会審議に応じられない」と頑なに臨時国会の開催を拒否、政治的空白状態が続いた。こうした安倍作戦にマスコミが批判を始め、10月25日、民主が自公の同意を取り付けずに29日に臨時国会を開くことを決定したのを受け、安倍、石破ら自民の幹部が同日夜緊急会議を開いて臨時国会への対応を協議、臨時国会での審議を拒否するのは得策でないと判断、ようやく臨時国会が召集された。
 だが、野田首相への反発をますます強める強硬派に配慮し、国会初日に行われることが慣例になっている首相の所信表明演説を無視することを決定、まだかろうじて民主党議員が多数を占めていた衆院では野田は所信表明演説を行ったが、野党が多数を占める参院では所信表明演説が拒否され(憲政史上初めて)、マスコミからの集中砲火を浴びた。
 そのころはもう読売新聞を読んでいなかったが、おそらく自民批判を強力に展開して野田政権の後押しをしたのは読売新聞ではなかっただろうか。すでに書いたように読売新聞が主張を方針転換して(野田政権が目指している政策には当初から賛意を示していたが、遅々として進まないことに感情的批判を繰り返していたのが、今年初夏を迎えた時期から主張の方針を転換し、野田政権を積極的にバックアップするようになったことはすでに述べた)、それ以降はむしろ野党(特に自民)に対して批判の矛先を向けるようになった。日本最大の発行部数を誇る読売新聞からの「解散時期を明確にしない限り審議に応じられない」という駄々っ子じみた主張を繰り返していた自民党に対する批判はかなり厳しいものがあったのではないかと、これは私の推測だが思う(自民党員には読売新聞の読者がかなり多い)。
 しかし解散は総理の専権事項である。大統領制を採用している国は、大統領の権限は日本人にとっては想像を超えるほど大きい。国民から直接選ばれたという強みがあるからだ。しかし衆議院の選挙で選ばれる日本の総理大臣の権限は極めて脆弱で、まず自分が所属する党内の支持を固めなければ国会に法案を提出することすら不可能だ。まして連立政権であったり、政党そのものが数合わせの寄せ集め集団だったりすると、根回しに相当の努力が必要になる。
 実際、それを怠って「5%の消費税を廃止して7%の国民福祉税を創設する」という、今から考えれば素晴らしい税制改革案であることを誰も否定しないだろうこのアイデアは、武村官房長官の「過(あやま)ちてはすなわち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)
れ」の一言で一夜にして葬られ、細川が政権を放り投げる要因の一つとなったほどである。
 すでに述べたように、野田の政権基盤は細川と同様脆弱である。実際民主党の権力実態は輿石体制と呼んでもいいくらいである。なぜ輿石はそれほどの力を持つにいたったのか。
 輿石は政治家になる前は山梨県の主に山間僻地の小学校教員を遍歴した。時間的余裕があったせいもあり組合運動に熱心に取り組んで山梨県教職員組合執行委員長に就任、その後、山梨県労働組合総連合会議長を兼任、90年の総選挙で社会党から出馬して当選して政界入りを果たした。その後、落選の悲哀も味わったが、98年には民主党の参議院議員として政界に返り咲き、旧社会党系の横路グループに所属、05年に参議院議員会長になり07年の参院選挙を取り仕切って民主党の歴史的大勝利の立役者となった。
 その後、民主党の最大派閥のリーダー、小沢に急接近して権力基盤を強化し、小沢・管・鳩山の「トロイカ」と並ぶ実力者にのし上がり、小沢代表のもとで管とともに代表代行に就任した。この時代に民主党が政権奪取に成功した時大量に誕生した小沢チルドレンの教育係になり、それが現在の輿石体制の基礎となったのである。
 一方、野田は松下政経塾の1期生として政治家を目指し、家庭教師などアルバイト生活を送りながら虎視眈々と政治家への道を模索していた。だが、輿石のような組織的バックがないため、いきなり国政への参加は不可能と考え、千葉県議を目指し最大の激戦区だった船橋市からあえて出馬、20代の若者たちのボランティアに支えられて下馬評を覆して当選、政治家への第1歩を踏み出した。
 千葉県議を2期務めた後、細川の日本新党に参加、93年の総選挙で当選し念願の国政に参入することになった。が、細川→羽田政権が短命で終わると小沢の新進党に入るが、96年の総選挙で落選、その後民主党に鞍替えして00年の総選挙で返り咲き、02年には鳩山3選を阻止すべく若手の代表として民主党代表選に出馬、負けはしたが若手グループの信望を集めた。鳩山代表から政調会長就任の要請を受けたが、鳩山が中野寛成を幹事長に抜擢したことに「論功行賞人事だ」と反発して固辞、骨太なところも見せた。10年6月、鳩山内閣が総辞職したあとに成立した管内閣のもとで副総理兼財務大臣として初入閣、管総理が福島第1原発事故収拾の失敗の責任をとって辞任した後、小沢の支持を受けた海江田万里経産相、前原前外相、鹿野道彦農水相、馬淵澄夫全国土交通相と後継代表の座を争い、第1回投票では海江田に次ぐ2位だったが、決選投票で反小沢票を集めて逆転勝利し、野田政権が誕生した。
 そもそも民主党は細川連立政権の遺産を継承した野合政党に過ぎず、右から左まで幅広く権力の旨味を求めて集まった寄り合い所帯であった。自民党のいわゆる「派閥」と言えるような規模の集団は小沢派だけで、その他はグループと呼ばれている。グループは、鳩山、管、横路、川端、羽田、前原、野田、平岡&近藤、旧小沢、樽床、小沢鋭仁、平野、原口、玄葉、鹿野の15グループを数える。これらをまとめ党内融和を図るには参議院議員ではあったが、鳩山、管が失脚し、政治資金規正法違反の嫌疑がかけられていて表舞台から退いていた小沢を除くと党内きっての実力者にのし上がっていた輿石に党運営を委ねるしかなかったのである。輿石が付け上がる要因はこうして形成されたのである。

 さて政局が急展開し出したのは田の「近いうちに信を問う」との谷垣に約束した言葉を反故にしたことへの、自民の駄々っ子じみた反発、にマスコミが批判の矛先を向け出したからである(その先陣を果たしたのは②編で書いたように読売新聞だったと思う)。マスコミがこの時期自公(特に自民執行部)に対して批判の矛先を向けだしたのは、臨時国会開催日の29日に衆院本会議に欠席、参院では野田首相に所信表明すらさせないという前代未聞の「抵抗」劇を始めたからである。
 もっとも自民も一枚岩ではない。総裁選で強硬派筆頭の石原が国会議員の投票で最多の票を集めたという事実は、党執行部にとっても重しとなっていた。彼ら強硬派が納得できる状況を作り出さずに民主との交渉のテーブルに着いたら「お前ら、バカか。また谷垣の二の舞を踏むつもりか」と猛反発が出ることは必至だったからだ。もともと安倍や石破は強硬派ではない。連立を組む公明党への配慮から、どうしても譲ることができない選挙制度改革を除けば、赤字国債になる特例公債発行の必要性は十分認識していたし、先の消費税増税と合わせていちおう社会保障制度構築の財源が確保でき(私はまだ不十分だと思っている。特に税体系を抜本的に見直して、将来の日本を担うべき子供たちを若い夫婦が安心して産めるシステムを構築するために、富裕層にかなりの負担をお願いするしかないと思っている)、この財源を使っていかなる社会保障制度を構築するか、民間の有識者も交えた国民会議を設置する必要性も十分理解していた。
 


なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ③

2012-11-19 15:25:14 | Weblog
 このブログの①編で「小沢はボナパルティスト」と断じたが、この時期の安倍・石破執行部もボナパルティズム体制によって勝ち取った自民内部の権力である。
 ついでにここで「ボナパルティズム」について説明しておきたい。この言葉の本来のいわれは、フランスのナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)が権力を握った第1帝政の崩壊後、第2帝政(ナポレオン3世)を再興させた運動勢力のことである。が、マルクスが、フランス革命を支持しながら、結局は革命の主体となった勢力が労働者だけでなく、貴族社会を打倒して資本主義国家建設を目指し、軍事勢力と手を組んだブルジョアジー(資本家階級)と統一戦線を組んだ革命を批判して以降、ボナパルティズムの意味が変わったのである。
 ナポレオン・ボナパルトはイタリア半島の西に位置するコルシカ島(元はイタリア領土だったがコルシカ人による独立運動がたびたび生じ、手を焼いたイタリア政府がフランスに譲渡した。その当時の1769年にナポレオンは生まれている。現在もフランス政府はコルシカ人に司法・立法・行政の3件を認めており事実上の「独立国」と言えなくもない)で生まれ、子供のころから軍人を目指し、パリ陸軍士官学校で砲兵科を専攻した。当時花形だった騎兵科を専攻せず砲兵科を専攻したのは、結果論だが「先見の明」があったと言える。
 ナポレオン・ボナパルトの人生は織田信長のそれとの共通点がかなりある。
 刀槍による戦争が大半だった時代に新兵器の鉄砲に目をつけ、ヨーロッパとの交易で栄えていた堺を支配下に置き、鉄砲の輸入や製造を奨励し、近代(当時の)戦術を駆使して日本を制圧していった信長と同様、ナポレオンはこれからの戦争における近代戦術は大砲が中心になると考え、あえて騎兵科ではなく砲兵科を専攻したようだ。そして4年制の士官学校をわずか11か月の短期間で卒業(開校以来の最短記録)、1785年に砲兵士官として任官した。が、その4年後にフランス革命が勃発し、世相は騒然たる様相を呈していたが、当時のナポレオンはこの政変に無関心だったようで政治的活動はしていない。
 ナポレオンに先立つこと235年前にすでに生まれていた信長は幼少の頃(尾張きってのうつけ者」と陰口を叩かれながら、父・信秀がそれまで敵対していた斎藤道三と和睦し、その証として道三の娘・濃姫と結婚した直後に近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。ちなみに信長と濃姫の夫婦関係には謎が多い。何が何でも信長を戦国時代の英雄に仕立て上げたかった司馬遼太郎は、本能寺の変の際、濃姫が長刀をふるって信長とともに戦ったとしているが(「国取物語」)、論理的に考えるとおかしい。そもそも当時は権力者の正室になると、それまでの名を捨て○○殿とか○○院(たとえば徳川家康の正室は築山殿、家康の死後は西光院)という別名で呼ばれる習慣があり、濃姫の場合、○○殿という別名で呼ばれたという記録が残っていない。また二人の間に子供が生まれた記録も残されていない。信長伝記で一番信頼されている『信長(しんちょう)公記』も信長と濃姫の夫婦関係の実態については触れていない。「司馬史観」などと彼の著作を拝めている人たちは多いが、実際には司馬は自分の歴史観を正当化するため、都合の悪いことはすべて隠蔽して書いている。推理小説家なら多少アンフェアなところがあっても許容できるが、歴史小説ではそういうアンフェアな書き方は許されるべきではないと思う。たとえば「あの戦争」(この言葉は私独自の用語で、ほかに言いようがないためこういう多少曖昧な言葉を使わせてもらっている。朝日新聞の用語は「アジア太平洋戦争」、読売新聞の用語は「昭和戦争」)について司馬は批判しているが、『坂の上の雲』では日露戦争の勝利を賛美している。しかし日本が軍国主義への道を歩み出したのはこの戦争で勝利しながら、日本の戦力を脅威に感じ出した欧米列強の干渉により戦果を放棄せざるを得なくなった政府に対して国民の怒りが爆発し、連日国会や総理官邸をデモ隊が取り巻き、そうした一般大衆の「弱腰外交」に対する怒りをあおりにあおったのが大新聞社であり(具体的には朝日新聞や読売新聞など)、そうしたマスコミのバックを得た国民の怒りが軍国主義国家への道を掃き清めたという動かしがたい歴史的事実を、司馬は意図的に自分の脳裏から消去した歴史小説家であった。
 司馬批判はそのくらいでやめ、ナポレオン・ボナパルトと信長の共通性についてもう少し検証しよう。フランス革命によって市民がいったん王を含む貴族の支配を崩壊させたが、王政派がしばしば蜂起し、ナポレオンは市民側が支配していた軍隊の総指揮をとってパリ市街地で大砲を乱射して王政派の反乱を鎮圧した。この時市民側にも大きな犠牲者を出したが、そんなことはお構いなしといった、現代社会だったら当然許されない乱暴な行為だったが、この「功績」によって国内軍司令官のポストを手に入れた。
 だがフランス革命の余波が自国に及ぶのを恐れた欧州各国が同盟(第1次対仏大同盟)を結びドイツ側とイタリア側の2方面からフランスに攻め込み、ナポレオンはイタリア側からの攻撃に対するフランス軍の総指揮をとって連戦連勝を重ね、イタリア北部に広大な領地を獲得、凱旋したナポレオンはパリ市民から熱狂的な歓迎を受けた。
 さらにナポレオンはフランス領土の拡大を目指してエジプトに侵攻、いったん勝利してカイロに入城したが、イギリスが反発してナポレオン軍を攻撃し、アブキール湾の海戦でフランス艦隊を撃破、ナポレオン軍は孤立した。勝利したイギリスは欧州各国に呼びかけて第2次対仏大同盟を結成、オーストリア軍がイタリアを奪還、フランス市民政府は一転窮地に陥った。
 これを知ったナポレオンは自分の軍隊を放り出してエジプトを脱出(信長も浅井・朝倉連合軍との「姉川の戦い」に敗れ、同盟の徳川軍や自分の軍隊まで見捨てて京都に逃げ帰っている)、パリに逃げ帰ったが、パリ市民はエジプトを制圧した英雄としてナポレオンを迎えた。
 その直後、ナポレオンは当時台頭しつつあったブルジョアジー(資本家階級のこと。左翼用語)の意向を受けてクーデターを起こし、市民政府の代表の座(統領)に就く(この権力の座に就くプロセスは、信長が足利義昭を担いで義昭を第15代将軍の座に就けながら、実権を掌握していくプロセスときわめて酷似している)。
 権力を掌握したナポレオンは内政面でも諸改革を断行。革命時に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興を図る。フランス全土にわたる統一法典をつくり、「万人の法の前の平等」「信教の自由」「経済活動の自由」「公共教育法」など現在の民主主義に継承される法律を制定する。また社会インフラとして交通網の整備にも力を注いだ(このあたりも楽市楽座を設け、資本主義経済を先取りした制度をつくった信長の政治とも類似している。信長が暗殺されていなければ社会資本の充実やインフラ整備にも取り組んでいたと思われる。キリスト教の布教を許して「信教の自由」を事実上認めた点もナポレオン政治と酷似している。また豊臣秀吉の太閤検地などは信長の思想を継承したものと言っていい)。
 
 ここまで書いて、食事をしながら午後7時のNHKニュースを見ようとテレビを点けたら、いきなり野田総理が今月16日解散を、自民・安倍総裁に条件を付けて表明したというビッグニュースが飛び込んできた。で、本筋の本筋の政局問題に戻るが、大急ぎで続きを書く。
 
 ナポレオンの権力は拡大し、自ら皇帝の座に就く。王政を滅ばして民主的改革を進めながら、独裁的地位を築くや歴史の歯車を逆転し、自らが皇帝になったのである。パリ市民のナポレオン敬愛の念は急速に冷えていく。ナポレオンはフランス皇帝の座に就いただけでは満足せず、スペインをも手中に収めようとスペイン王朝の内紛に付け込んで自分の兄をスペイン王の座に就けるという暴挙までやった。これに怒ったスペイン民衆が蜂起、ゲリラ活動を始めた(「ゲリラ」という言葉はこの時生まれた)。彼らを支援したのがイギリス軍で、オーストリア軍も反ナポレオン連合軍に加わり、ナポレオン軍は一時苦戦を強いられたが、最終的には勝利を収め、敵対したイギリスを孤立化させる作戦に出る。
 当時イギリスでは産業革命が進行中で、ヨーロッパ諸国は国内産業がイギリスの工業製品に頼っていた。そのためまずロシアがナポレオンのイギリス包囲作戦に反発、フランスとロシアの間で戦争が勃発、ナポレオン軍はロシアの「冬将軍」の前に大敗を喫する。これがナポレオン帝政の没落の原因となる。
 この大敗で皇帝の座を追われたナポレオンだが、ナポレオンを慕う軍隊や民衆も少なくなく、いったん皇位に復活するが、ふたたびイギリス・プロイセン連合軍とワーテルローの戦いで完敗し、セントヘレナ島に幽閉され孤独な生活を送って、波乱に満ちた人生を閉じた。
 ナポレオンが信長と決定的に違った点は、若くして小さいながらも一国の主として領内の内紛を次々に平定し独裁体制を築いてからは、周辺に領土を拡大していき、天下制覇の達成を目前にしながら、逆臣・明智光秀のクーデターで夢を絶たれたのと違い、一兵卒から身を起こし、数々の戦争で武勲を立て、最後はフランス軍の最高司令官になってブルジョアジーの要請を受ける形で民衆とともに帝政を崩壊に導き、独裁権力を確立したうえで帝政を復活して自ら皇位に就いたという権力奪取のプロセスの違いである。ナポレオンが独裁権力を確立して行く過程で、貴族(前国王を含む)、民衆(農民と新興工業産業の労働者)、イギリスの産業革命の余波を受けて台頭しつつあったブルジョアジーの3者の拮抗した勢力関係を巧みに利用し、政治的遊泳術で次第に独裁権力の座を固めていった、そういう権力奪取の手法をボナパルティズムという。
 そういう意味で、自民党時代も派閥均衡状態を巧みに利用した政界遊泳術でのし上がり、「政権交代可能な2大政党政治体制を確立する」という大義名分を掲げ、ある意味では近い思想で日本新党を結党した細川護煕に呼びかけて大野合勢力を作り上げ、総選挙で自民が過半数を割ったのを好機として大連立政権を実現、細川を総理に擁立しながら、その背後で事実上の権力を握ろうとした手法はまさにボナパルティストと言って差し支えないだろう。

 実はこのブログを書き始めたのは11月8日から。前日の7日は朝から外出していて帰宅してから朝日新聞を広げたら、いきなり目に飛び込んできたのは「首相、主導権狙う」という中見出しを付けた政局記事だった。「主導権狙う」という表現は、現時点で野田が民主党の主導権を握っていないことを意味する。やっと朝日新聞はそのことに気が付いたかと思い、朝日新聞お客様オフィスに急きょ電話したのが午後5時45分ころ。土曜日は朝日新聞お客様オフィスの読者対応は午後6時まで(平日は9時、日祝日は休み)。年中無休で午後10時まで読者からの電話に対応している読売新聞読者センターに比べ、朝日新聞の読者に対するサービスは悪すぎる。読者から寄せられた情報や記事に対する意見は新聞社にとって「宝物」と言ってもいい(すべてとは言わないが)。朝日新聞は、読者サービスは「棚から牡丹餅」を入手できる大きなチャンスなのだという認識を持ってほしい。
 それはともかく、記事の中身は読まずに(読んでいる時間的余裕がないため)朝日新聞のお客様オフィスに電話した。聞き覚えのある方の声だったが、朝日新聞のお客様オフィスも読売新聞の読者センターも絶対姓名を名乗らない。自分たちは誰彼かまわず取材する時は土足で入り込み、ひとの人権やプライバシー、親族のスキャンダルまで平気で暴く「権利」を主張するくせに、自分たちは安全地帯を確保するため姓名を名乗らない。ちなみにNHKの場合はふれあいセンター(視聴者窓口)の人はコミュニケーター(最初に電話に出た方)も、チーフ(責任者)も必ず姓名を名乗る。それだけでなく、電話をかけたら担当者につながる前に「正確を期すため録音させていただいております」というインフォメーションが自動音声で流されている。読者からの電話を録音していることも読者に知らせず、何かトラブルが生じたときの証拠にするためかどうかは知らないが、密かに録音している読売新聞読者センターの悪辣さに対する憤りはいまだに消えない(私が知っている限り、客からの電話を録音する場合、読売新聞読者センターを除いてすべて「正確を期すため録音させていただきます」といった趣旨の自動メッセージが流れる。読者センターは読者をどう考えているのか)。
 私は朝日新聞お客様オフィスの持ち時間が残り15分しかないので、急きょ、ブログに投稿するまでは政治部に伝えないでほしい、と念を押してこれからの政局の論理的予測を述べた。その骨子を箇条書きで書く。

①野田は年内解散・総選挙の腹を決めたと思う。
②ただし安倍が最低「特例公債(赤字国債)発行法案」の今国会中
 成立を約束すること。
③「社会保障制度構築のための国民会議」の設置を約束すること。
④来年の通常国会で衆議院議員の定数削減を約束すること。
④以上の②~④を条件に解散すると思う。もともと野田は8月8日、輿石の了
 解をとらず、密かに谷垣と会談し、消費税増税法案成立条件として「近いう
 ちに国民の信を問う」と約束していた。
⑤だが輿石が解散を承知せず、野田も約束を反故にせざるを得なかった。野田
 が頼みにしていた反小沢の若手実力者たちが野田に協力してくれなかったこ
 とも約束を守れなかった要因の一つである。
⑥その結果、輿石氏の幹事長続投は阻止できないまでも閣僚人事で輿石体制に
 対抗できるようにしたと思う。
⑦一方、自民も強硬派の石原を党執行部から遠ざけることで野田の出方次第で
 は民主3条件に歩み寄れる(もちろん丸呑みは意味しない)体制をつくった。
⑧かくして特例公債発行については3党合意が成立し、国民会議の設置にも
 自民内で反対の声が出ていないから②と③は実現する見通しがついた。
⑨早期の解散・総選挙となると民主が惨敗することはほぼ間違いない。もとも
 と政策のすり合わせもせずに右から左までを数合わせで集めた野合政党だか
 ら、総選挙で負けた途端細川・羽田政権のように四分五裂のガラガラポンで、
 政界再編成になる可能性がかなり高い。
⑩その場合、民主内でも少数派だった野田グループだが、代表選で若手実力者
 たちが様々な要因で出馬できず、小沢アレルギーから野田支持に回ったいき
 さつもあり、野田グループとスクラムを組んで自公と大連立を組む可能性は
 無視できない。
⑪まったく予測がつかないのが旧小沢チルドレンの動向。これまでは輿石につ
 いて行ったが、総選挙となると輿石が属する旧社会党系の横道グループでは
 選挙に勝てないことは明らかで、かといって野田グループに接近するのもこ
 れまでのいきさつから潔しとしないだろうから、身の振り方に困ると思う。
 ひょっとしたら小沢の「国民の生活が第一」に、頭を下げて入る人が出る可
 能性もある。

 野田の「解散のための3条件」は④を除いてほぼ自公の協力を取り付けた。④の選挙制度改革は自公と民主の間の隔たりは小さくない。国民に大きな負担をお願いする以上、自分たちも血を流す必要があると、最高裁で憲法違反の判決が出た1票の格差を解消するための小選挙区の0増5減だけでなく、比例定数を40人は削減すべきだと主張する民主と、とりあえず憲法違反の0増5減を先行すべきだとする自公の主張の格差は簡単には埋まらない。だから野田も一応選挙制度改革法案は提出するが、「来年の通常国会で定数削減を約束するなら」という16日解散のための条件を付けたのである。これに対して安倍は約束すると応じた。いちおうこれで不充分ながら3条件が整った形になったが、はっきり言ってこの約束事は茶番劇である。とにかく安倍は年内解散を確実なものにするために「約束」しただけで、野田だって「近いうち解散」を反故にしたことがあるじゃないか、と言われると弱みがある野田としては何も言えないことを計算づくでした「約束」に過ぎない。せいぜいのところ野田の顔を立てて5~10くらいの定数削減はするかもしれないが、その程度の軽い「約束」でしかない。
 そもそも政党の主張は選挙を有利に運ぶことを最優先するケースが圧倒的に多い。そのため民主主義政治はポピュリズム(大衆迎合主義)に陥りやすいと言われている。
 大哲学者のプラトンは、民主主義政治は「愚民政治」とこき下ろし、哲学者による独裁政治を主張した。プラトンほどの人ですら自己中心の政治論を主張したことからも民主主義の最大の欠陥が多数のための多数による政治という点にあることは明らかである。しかし民主主義に代わるよりフェアな政治思想が登場するまでは民主主義はベストとは言えなくてもベターであることは疑問の余地がない。
 マルクスが『ゴータ綱領批判』で唱えた社会主義・共産主義の理念は民主主義者も全否定はしていないが、レーニンが社会主義社会の前段階としてプロレタリア独裁政治を唱えたことにより、封建制度以上の専制独裁政治の理論的主柱となってしまった。今では日本共産党すらこの政治思想を否定しており、中国も毛沢東時代への反省から個人による独裁政治の防止策を模索しているのだ。
 実はマニフェストは政党の「党利党略政治」の公約に過ぎないのだ。実際、「国民に大きな負担をかける消費税増税をお願いする以上我々も自ら血を流す必要がある」という民主の比例定数削減案は、自民と連立している公明党議員を標的にした削減案に過ぎず(公明党議員は圧倒的に比例選出が多い)、自民が主張する憲法違反の解消を優先すべき、というのも公明党を救済するためのものでしかない。
 いずれにせよ両者譲らず政治空白が一か月以上続く中で、しびれを切らした民主が自公の合意をとらずに一方的に臨時国会の開会日を10月29日と決定したことに自公が猛反発、衆院の首相所信表明演説には出席せず、野党が多数を占める参院では開会すら認めず、野田が所信表明演説すらできないという前代未聞の状態になり、マスコミが自民に集中砲火を浴びせたことで、何とか打開の道を模索しながらも強硬派に配慮して身動きがとれなかった安倍・石破執行部にとっては、逆にマスコミの批判が強硬派の重しを取り除く契機になった。
 実際翌10日から安倍・石破執行部は徐々に党内強硬派の説得に乗り出した。そうは言っても一夜にして自民内部の主戦論が簡単に後退するわけでもなく、党内での対立がかえって激化するという結果も生んだ。
 が、このことが安倍・石破執行部にとっては神風となった。中間的立場で様子見していた有力議員たちが執行部寄りの発言を始めたからだ。マスコミは自民内部の対立について強硬派の「野田総理が年内解散を表明しない限り国会審議に応じるべきではない」との主張だけを強調してきたため、全く別の視点から審議入りの条件整備の声が出てきて、結果的にはこれが自民の軟化を一気に進めることになったのだが、それをご存知の方はほとんどいないと思う。
 それは、水面下でくすぶっていた今年度予算の減額を巡る与野党の対立だった。このことは大方の方はご存知だと思うが今年度予算の中で大きな要素を占めていた東日本大震災によって被害を受けた地元経済を復活するための予算が成立したことで、実は無関係な事業を営む企業が「蜜に群がる蟻」のように絶好のチャンスとばかり見せかけの申請をして不正に受給していたことが明らかになり、自公が今年度予算の減額補正を求めていた案件が急浮上してきたのである。が、執行部は「減額補正は当然だが、それと解散時期の表明がリンクするかどうか…」と党内の状況を見定める姿勢を打ち出すにとどまっていた。が、こうしたこう着状況の打開案が自民から出てきたことをチャンスととらえた民主の安住幹事長代行が「喜んで提案に乗らせていただきたい」と野党に歩み寄る姿勢をはっきり打ち出し誘い水をかけたことで自民の体制が大きく転換していく。
 それまでいちおう強硬派に配慮していた安倍が11月1日昼、都内での街頭演説で特例公債発行法案について衆院予算委員会での審議に応じると初めて表明、事態打開の動きが急速に進みだしたのである。
 
 ここまで書いて私の日課であるフィットネスクラブに行って汗を流し、帰宅して食後NHKのニュースを見たら(15日)早くも民主党から5人の離党者が出たらしい。一歩も外出せずパソコンに向かい続けなければ政局のめまぐるしいまでの激変にとてもついていけない。で、今日でこのブログをいったん終了することにした。続きは解散語、民主党の分裂がどういう形で生じるか、野田グループが前原や岡田、枝野、安住など最後の段階で野田の支援を明確にした実力者たちが新たな連合を結成し(その場合民主党の党名を踏襲するか、あるいは新党を結成するかは不明だが)、自公とどういう関係を構築するべきかについて書きたいと思う。
 ただ政局の読み方としてポイントになったことだけを時系列で書いておく。
 安倍がマスコミの批判に対応する形で強硬派をけん制し、特例公債法案の審議に入ることを表明したのが11月1日だった。また社会保障制度改革を実現するための有識者も含めた国民会議の設置にも合意した(いわゆる「太陽政策」)。「野田が解散時期を明確にしなければ与党に協力すべきではない」と主張してきた強硬派は、安倍が方針転換したことに猛烈に反発し、自民内部も収拾がつかない状況になった。
 一方、民主党では輿石が依然として強硬姿勢を崩さず4日のNHK番組で「年内解散は日程的にも物理的にも難しい」と述べ臨時国会で民主が成立を目指す3法案にあくまでこだわる姿勢を強調した。この時点では輿石は「解散のための3条件」を自公が呑まない限り、野田が解散時期を表明するようなことはありえないと考えていたのだ。一方同じ番組で安倍は「野田総理が求めてくれば党首会談に応じるのはやぶさかではない」と、3条件の扱いに前向きな姿勢を示し、野田・安倍ラインで事態の収拾を図る意向を示唆した。
 こうして政局の歯車が曲がりなりにも動き出したが、まだその行方は全く読めない混沌とした状況だった。そうした時期の3~4日に共同通信が行った全国世論調査によると、内閣支持率は前回10月の調査より11.5ポイントも急落して17.7%だった。この数字は事実上野田内閣がすでに「死に体」であることを示している。自民の石破幹事長は5日「これだけ国民に信頼されていない政権が外交をやる、来年度予算を組むとは笑止千万」と一刀両断し、「国民の声を首相は真摯に受け止め一刻も早く国民に信を問うべきだ」と改めて年内解散を強く迫った。自民強硬派の主張を執行部がまだ押し切れていないことを意味する発言だった。実際安倍の「特例公債法案の審議入り」を容認する発言を公の場でしたことで、強行派はかえって硬化し、安倍は党内で孤立化しかねない状況に追い詰められた。
 民主もまた輿石路線が依然として党の主流をなしており、安倍の「太陽政策」にかえって警戒感を鮮明にし、自公が求めた国会日程をことごとく拒否、衆院両院での予算委員会の開催要求にも「法案の処理を優先すべき」(山井国対委員長)と一蹴するありさまだった(6日)。この時期、アンチ野田派は、野田が安倍の「太陽政策」に乗って早期解散に踏み切ることを最も警戒していた。
 こうした民主党内部の混乱は、自民強硬派をかえって元気づけ、安倍も再び強硬姿勢に転換せざるを得なくなっていく。たとえば、この段階になって民主が「中道路線」を主張し始めたことについても安倍は「自分の信念も哲学も政策もない人たちを中道の政治家という。堕落した精神、ひたすら大衆に迎合しようという醜い姿がそこにある」と、民主の混迷ぶりを痛烈に批判した(7日午前)。が、そのころ自公に「国民の生活が第一」が加わり国会内で国対委員長会議が行われ、衆院予算委員会の9日(金曜)、12日(月曜)両日開催に与党が応じれば、特例公債法案について8日(木曜)の衆院本会議での審議入りを容認することで一致した。新聞やテレビニュースではあまり大きく扱われなかったが、この野党3党の国対委員長会議が局面打開に大きく影響した。野田がこの野党3党の要請に応じたからである。野田にとっては膠着状態から脱する最後のチャンスとなった。

(「今日でこのブログをいったん終了する」と書いたが、政局を一転する事態が生じたので④に続ける)
 
 



なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのかーー私の政局分析 ④

2012-11-19 14:48:20 | Weblog
 11月8日午後、衆院本会議で特例公債法案の審議がようやく始まった。野田は国民生活に支障が出るのを避けるため速やかに法案が成立するよう野党に協力を求めた。自民は法案処理が大幅に遅れた責任は政府・民主にあると主張、年内の解散・総選挙を改めて迫る。ある意味では無意味なやり取りと言えないこともないが、これは国会での審議開始に際しての儀式のようなもので、それ以上でもなければ、それ以下でもない。しかし、この日を境に再び回りだした歯車は一気に加速しながら進みだす。
 9日の朝日新聞朝刊は1面トップ記事に「公債法案、成立見通し」の大見出しをつけて衆院を15日に通過させることで3党合意が成立したことを伝えた。また3面では野党の要求を呑み民主が予算委員会の開催にも応じる方針を決定したことを報じている。ただこの記事のリードでは「環境整備は進むが、会期末まで残り3週間。自公が求める年内解散へのハードルは、なお高い」と書き、結果論だが読みの甘さを露呈した。
 しかも9日の夕刊では、また読者が混乱したであろう記事が1面トップを飾った。野田がTPP(環太平洋経済連携協定)の交渉に参加する意向を固めたというのだ。その一方サブタイトルは「首相、年内解散も視野」とした。TPP交渉参加の意向はもともと野田は持っていた。が、民主が参加を一方的に決めたら野党が反発して審議はストップし、党内も分裂状態に陥ることくらい政治記者なら百も承知のはずだ。TPP交渉参加と年内解散は絶対に両立しえないテーマである。解散後の総選挙でのマニフェストに謳う意向を固めたという意味だったらあり得るが、今国会中に参加を決めたりしたら、何もかもぶち壊しになることぐらいわかりそうなものだが……。
 このブログの③編で朝日新聞のお客様オフィスに10日の午後5時45分ごろ、私が今後の政局予測を申し上げ、実際ほぼその通りになったのは、些細な情報にとらわれず大局的要素以外は無視したからである。政局が最終的段階に入りつつある状況で、民主、自民ともども党内が割れているTPP交渉参加問題を野田が争点に持ち出すわけがない。朝日新聞の番記者は民主幹部に張り付いており、9日の夕刊で、TPP問題について枝野経産相が「次の選挙までに結論を出すべきだ」と個人的意見を述べたことは事実だろうし、前原国家戦略相が「TPPの交渉にも参加すべきだ。民主党が高らかにマニフェストに掲げて、選挙後の連携の一つの大きな軸にもなりうる」とやはり個人的見解を述べたことはたぶん事実だと思う。しかし、解散が近い状況になると、解散後の選挙を有利に運ぶため閣僚や閣僚級の党内実力者が、様々なアドバルーンを打ち上げ、マスコミや国民の反応をうかがおうとするのは有力政治家の常套手段である。その程度のことは政治ジャーナリストにとって常識である。政治ジャーナリストではない私ですら承知しているくらいだから……。
 何度も書いてきたように野田が頑として譲ろうとしなかった「解散の3条件」は①特例公債(赤字国債)の発行②社会保障制度改革を国民の目に見える形で論じあう国民会議の設置③衆院議員数の0増5減で憲法違反状態を解消するだけでなく消費税増税という国民に大きな負担を求める以上国会議員も血を流すべきとして主張してきた比例定数の40削減(前回選挙でのマニフェストでは80削減だった)、の三つである。この三つのうち①と②は事実上合意に達しており、連立を組む公明に配慮して比例定数削減の先送りだけは頑として歩み寄りの姿勢を見せなかった自民との距離をどうやって縮めるかだけが残る段階まで漕ぎつけてきたのに、ここに来てすべてをぶち壊すような難問を持ち出すわけがないことぐらい、高校生とまでは言わないが大学生だったら容易に理解できるはずの話を、2日にわたって夕朝刊の1面トップ記事で扱った朝日新聞の政治センスが問われるべきである。
 このあと書くが、まさか輿石に「最後の大逆転」を図るためのこんな手があったのかということは、私にとってまったく想定外だった)。いや私だけでなく、輿石にこんな「奥の手」が隠されていたとは、「専門家」であるはずの政治ジャーナリスト(マスコミの政治部記者を含む)や政治評論家にとっても想定外だったはずだ。というより、政治ジャーナリストとしては素人の私ですら「想定外」という認識を持ったのに、プロの政治記者がそういう認識すら持っていなかったということは、政治ジャーナリストとして「失格」の烙印を押されても仕方ないだろう。
 もし私が朝日新聞のお客様オフィスにそういう意見を申し上げたら朝日新聞お客様オフィスの方はどうお答えになるだろうか。良心的な方だったら必ず「私もそう思う」とお答えになると思う。で、実際これから試してみる。実は今胸がドキドキしている。

 電話に出られお客様オフィスの方は「私の意見は差し控えさせていただきます」と言われたので「皆さん、ご自分の考えを述べられますよ」とさらに迫った。その方は「お客様のご意見は今後の教訓として活かすべく担当部門に伝えさせていただきます」だった。非常に慎重な言い方だったが、事実上私の主張をお認めいただいたと思う。
 さてなぜこういう手段を私がとったか。読売新聞読者センターの対応の卑劣さを改めて検証するためだった。すでにご承知の方も多いと思うが、8月15日に投稿したブログ記事『緊急告発!! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』を書くに際し、読売新聞読者センターの方二人に私の考え方に盲点がないかどうかを確認すべく電話したのである。書く前に私の分析内容について聞いていただいたのは男性のスタッフ。声に聞き覚えがなかったので、春の異動で読者センターに配属された方ではないかと思う。その時の彼の発言をブログに書いてしまった(私の配慮がちょっと足りなかったことは認めるが…)。その個所を転記する。

 実は昨夜読売新聞読者センターの方に私の考えを申し上げたところ、担当者は「うーん。……おっしゃる通りだと思います」とお答えになったので「読売さんの記者はまだ誰も米国防総省の計算と欺瞞性にお気づきではないようですね」と言いつのった。「そのようですね」とお答えになったので「つまり記者としては失格だということですね」とまで挑発してみたが、返ってきた答えは「その通りだと思います」だった。そこで私が米国防総省の欺瞞性を暴いてみることにしたというわけである

 もう一人の方は何度も意見交換をしてきた女性の方で、ブログ記事を書き上げた後、再確認するため意見を伺った。私は名前を名乗って電話したわけではないが、その女性は「小林さんの主張は私もその通りだと思いますが、ちょっと気になった表現があります」とのご指摘を受けた。実は私もやや気にしていた個所だったが、米国防総省が仕掛けた罠とトリックにまんまと引っかかり、オスプレイの安全性を安易に認めてしまった森本防衛相に対し「アホな」という冠言葉をつけた個所だった。彼女は「小林さんの主張については私も同意しますが、森本さんは少なくとも一国の大臣ですよ。敬称まで付ける必要はないと思いますが、大臣に対して『アホな』はないでしょう。小林さんらしくないと思いますよ」と、手痛いご指摘だった
 で、私はその個所を「森本のような論理的判断力を欠いた防衛相がたった一度オスプレイに試乗したくらいでオスプレイの安全性or危険性がわかるわけがない」と書き換えて投稿し、このブログ記事の原本(ワードで書いた原稿を貼り付け投稿したのがパソコンなどで読めるブログ記事です)をプリントして読者センターにFAXした。すべてではないが、今後の参考にしてもらいたいと思った記事は読者センターにFAXすることにしていた。いまは朝日新聞のお客様オフィスにそうしている。
 ところが、読売新聞は驚くべきことに北朝鮮のような世界だった。言論の自由を声高に主張する日本最大の発行部数を誇る読売新聞の世界には言論の自由がないのである。私のブログ記事(原本)を読んだ読者センターの責任者は直ちに「犯人探し」を始めた。いわゆる内部調査である。そして「犯人」を突き止めた責任者は「お前、本当にそんなことを言ったのか」と詰問した。震え上がった「犯人」は「そんなこと言ってません」と否定した。北朝鮮のような世界で正直に答えたら、たちまち稚内あたりの支所に飛ばされてしまう。本当のことが言えるわけがない。で、たちまち私は「ウソつき」呼ばわりされることになった。あまつさえ「ねつ造した方ですね」とまで断言された。これで怒りを爆発させないようなお人好しでは私はない。「ねつ造なんか絶対にしていない」「証拠がある」「証拠とはなんですか」「録音だ」「では聞かせてほしい」「そんなことできるわけがない」……このやり取りを最後に私は読売新聞に対するコミットを遮断することにしたというわけだ。
 それ以降私は読売新聞読者センターへの復讐を始めた。私が復讐するための手段はブログ記事で告発する方法しかない。弁護士に「名誉棄損で告訴できないか」と尋ねたこともあるが、「電話での二人だけのやり取りは告訴しても名誉棄損を問えない」と言われ、告訴は断念した。その代りの手段として読売新聞読者センターに私を名誉棄損で告訴させるため、さんざん挑発するブログを書いてきた。ブログは小なりといえど公な言論手段である。そのブログで事実に反する情報を公にして法人や個人の名誉を傷つけたら、間違いなく名誉棄損罪が成立する。対立が生じて以降、読売新聞読者センターは私のブログを毎日チェックしていたはずである。ひゃひゃしながら……。
①読売新聞読者センターはとうとう人間録音機集団になってしまった(8月25
 日投稿)
②読売新聞読者センターはとうとう「やくざ集団」になってしまったのか?(8
 月26日投稿)
③読売新聞読者センターの欺瞞的体質をついに暴いた!!(8月31日投稿)
 我ながら多少執拗すぎたと思ってはいるが、そこまでやっても読売新聞読者センターは反撃してこない。「録音」という絶対的証拠があるのだから(でっち上げでない限り)、告訴すれば勝てるはずだし、勝てば私の社会的生命を抹殺できるのに、なぜ告訴しないのだろう。で、今度は読売新聞本体に攻撃の矢先を向けることにした。武器はやはりブログである。
④オスプレイ問題で米国防総省の有料広報誌に堕した読売新聞(9月21日投稿)
⑤頭の悪い奴でないと読売新聞社には入社できないぞ!!(9月23日投稿)
⑥読売新聞論説委員の国語能力を再び問う お前らアホか!(10月2日投稿)
⑦なぜ読売新聞論説委員は政府の「女性宮家」創設案に賛成したのか?(10月8
 日投稿)
⑧読売新聞と共同通信は誤報の責任をどう取るつもりか?(10月19日投稿)
 さすがにタフな私も疲れた。このブログ記事の原本を読売新聞社コンプライアンス委員会にメール便で送りつけて、とりあえず様子を見ることにする。たぶん読売新聞読者センターはてんやわんやの大騒ぎになると思う。最初からそうしていればよかったのだが、そういう方法があることを思いつかなかったため消耗なひとり相撲を取り続けてしまったというわけだ。
 政局の話に戻る。いよいよ政局は最後のドラスチックな段階に突入していくが、この続きは明日(17日)書く。

 さてこのブログ記事は文字実数ですでに3万5000字を超えた。これはワードが頼みもしないのに勝手に文字カウンター機能を付けたことで、ブログの制限以内に文字数を収めるのに非常に役立ち、私は重宝にしている。
 最後のドラマが始まったのは10日である。自公の要求を呑んで政府が予算委員会を開いた日だ。「予算委員会」は衆参両院に設置されている常設機関である。本来の目的は政府が提出した予算案を審議することだが、予算は国政のあらゆる側面に直結しているため、法案が本会議に上程される前に争点整理を行う場として位置づけられ、予算委員会で承認されればほとんどの法案が本会議ではシャンシャン手拍子で可決される。ゼロから本会議で議論を始めると収拾がつかなくなることがしばしば生じるため、あらかじめ地ならしをしておくのが予算委員会の役割になっている。実際予算委員会の委員は各政党の有力議員が占め、予算委員会は、本会議についでNHKが予算委員会での重要法案の審議を中継することが多い。
 当然自公が予算委員会で野田の約束違反(「近いうち解散」の事実上の撤回)を追求してくることは目に見えており、当初民主は予算委員会開催の前に党首会談などで与野党の隔たりをできるだけ解消したうえで予算員会を開きたいとの意向を示し、「密室政治」の継続による争点整理にこだわっていた。
 しかし安倍が民主への歩み寄り路線を鮮明にしたこと、またマスコミ各社による世論調査で野田内閣の支持率が急落し、このままいくと解散後の総選挙で大敗しかねないと、野田がようやく重い腰を上げて予算委員会が開かれることになった。この時点で野田の年内解散の腹が完全に固まったと言えよう。だから、予算委員会での野田の答弁はかつてなかったほど腹の座った堂々たるものだった。NHKの中継を見ていた私ですらそう感じたくらいだから、現場で取材に当たっていた記者たちがいかに鈍感だったか、朝日新聞の政局問題の扱い方にも表れている。10日夕刊の1面トップは「うまいコメ列島激戦…北海産・九州産からトップ3」であり、片隅に「首相『TPP、公約に書く』」と、政局には何の影響もない記事を載せ、11日朝刊の1面トップ記事は「延命治療せず6割経験…救命センター、搬送の高齢者に」と、これまた政局に無関係な記事を持ってきていた(10,11日は土日で予算委員会も休会ではあったが)。
 が、12日の朝刊1面トップに、前日の11日夜から幕を開けたドラスチックな政局ドラマの開始を告げる記事が載った。記事の大見出しは、横書きの黒べた白抜きという最大級の扱いで「首相、年内解散の意向」とあった。サブ見出しも二つに分け、一つは大見出しに相当するくらいの大きな文字で(大見出しは通常ゴシック体の文字を使うが、この見出しは大見出しとの違いを明確にするため明朝体の文字を使っていた)「輿石氏に伝える」とあり、さらに二つ目のサブ見出しで「懸案見極め判断」と記していた。記事のリードは以下の通り。

 野田佳彦首相は年内の衆院解散に踏み切る意向を固めた。民主党の輿石東幹事長と11日夜、首相公邸で会談して伝えた。特例公債法案や選挙制度改革法案、社会保障国民会議設置の三つの課題の進捗状況を見極め、環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加表明時期を探ったうえで(※TPP問題には触れていないはず。もし触れていたのなら、解散表明の時、安倍総裁に「TPPへの交渉参加にも前向きに取り組むことを約束していただきたい」と協力要請をしていたはず。朝日新聞は民主の有力議員がTPP交渉参加のアドバルーンを上げたことを大きく取り上げてしまった尻拭いをするため、こういう姑息なでっち上げをするのか!)、最終判断する。課題の処理のため、年内に解散しても選挙は年明けになる(※この予測も見事に外れた。政局の読み方を知らないための結果である)。

 さらに本文でも、その日の午前中に開かれた予算委員会で、石破幹事長の質問に答えた野田の決定的な発言を無視した。朝日新聞の記者はこう書いている。

 野田首相は(中略)「近いうち」とした衆院解散の時期について「自分の言葉は重たいとの自覚は持っている」と強調。一方で「特定の時期を明示するつもりはない」と述べた。

 このやり取りがあったことは事実である。だが、そうした類いの発言は今に始まってのことではなく、まして本文の冒頭を飾るようなやり取りでもない。野田が12月16日解散を表明した時、自民執行部を動かすことにつながったに違いない極めて重要な発言を朝日新聞は無視した。それは石破が「所費税増税について、8月8日の党首会談で3党合意が成立していなかったら、野田総理はどうされていましたか」という質問をした時、野田が何と答えたかである。野田はこう答えた。「私は、議員を辞職するつもりでした」と。この発言を機に、自公の野田に対して解散時期の表明を求める攻勢は止まった。野田の政治人生の中で最も重い言葉になっただろう。その言葉の重みに気付かなかった記者はやはり政治ジャーナリストとして失格だと言わざるを得ない。小泉純一郎が国民の圧倒的支持を得た一言「自民党が変わらなければ、私が自民党をぶっ壊す」と同じくらい重たい言葉だったのに…。

 野田が輿石に年内解散の意向を伝えたことで、輿石が私の(だけでなく、すべてのマスコミの)想定外の行動に出た。13日、常任幹部会の招集を急きょ行ったのである。政局を論じながら恥ずかしい限りだが、民主党に(民主だけではないかもしれないが)常任幹部会という名の、両院議員総会に次ぐ党の意思決定機関(実態は長老会議。つまりかつての実力者たちが党運営への影響力を維持するために設けた機関)があることをまったく知らなかった。この会議を招集した輿石の意図は言うまでもなく明らかである。長老たちの力を借り、年内解散を阻止すべく最後のあがきに出たのである。そして長老たちを説得するため、今まで主張してきた「まだ今国会で処理しなければならない重要法案が残っている」といったきれいごとではなく、ついに本音で勝負に出たのだ。
「今解散すれば、総選挙で惨敗する」
というのが、長老たちに対する本音の殺し文句だった。このあとは私の推測だが、「今解散・総選挙に突入すれば、党は四分五裂するだろう」とか「今解散したら1年生議員(その大半は小沢チルドレン)が小沢の『国民の生活が第一』に流れてしまう」などと言ったかもしれない。こうしたレトリック手法は日教組や連合で鍛えたのだろう、長老たちはコロッと輿石の手のひらに乗ってしまった。「年内解散は、党の総意として反対する」という「総意」を常任幹事会で取り付けてしまったのである。輿石はこの「総意」を野田にぶつけ、年内解散の翻意を迫った。窮地に陥った野田はついに「伝家の宝刀」を抜かざるを得なくなったのだ。
 野田が抜いた「伝家の宝刀」とは何か。
 総理だけが有する専権事項である「解散権」の行使であった。
 野田は輿石の反乱を無意味なものにするため、14日安倍、山口、小沢の3氏に呼びかけ急きょ党首会談を持ちかけた。もちろん解散の意思表明のためだ。通常、党首会談を公開することはありえない。「党首会談」は密室で、国会運営が行き詰まった時に、事態を打開するため妥協点を探ろうと、党首同士が本音をさらけ出して丁々発止の真剣勝負をする場である。「密室政治」の典型であり、その場を国民の目にさらすということは、この時点で解散することの意味を国民に知らしめ、野田が政治改革にかけてきた執念を改めて国民に問うという捨て身の作戦であった。
 内閣支持率の低下に歯止めがかからない状況の中で、「解散の3条件」にあくまでこだわり続けてきた野田が、輿石の大反乱に直面し、国民の目の前で野党党首の本音を引きずり出し、「わが信念の正当性」を来たるべき解散後の総選挙で問うために打った大芝居、とも言えよう。その様子を朝日新聞の「1問1答」記事で見てみよう(ただし記事中の敬称は略す)。野党党首に迫った野田の迫力がよくわかる。支持率は下がる一方で、「近いうち解散」の約束を反故にして野党からこれでもかこれでもかと追及され、その上輿石の大反乱でにっちもさっちもいかなくなった政治家とは思えないほど、逆に野党を追い詰めていく野田の真骨頂の一端が「一問一答」記事の行間に見て取れる。ただし朝日新聞の記事は党首間のやり取りをすべて掲載しているわけではない。

 安倍 野田総理は確かに約束した。(消費増税の)法律が成立したあかつきには、近いうちに信を問うと。法律は成立した。約束の期限は大幅に過ぎている。
 首相 私は小学生の時に家に通知表を持って帰った時に、とても成績が下がっていたので、おやじに怒られると思っていた。でも親父は頭をなでてくれた。生活態度の講評のところに「野田君は正直の上にバカが付く」と。それを見て喜んでくれた。数字にあらわせない大切なものがある。残念ながら、「トラスト・ミー」(※)という言葉が軽くなってしまったのか、信じてもらえていない。
   ※「トラスト・ミー」は1990年制作のアメリカ映画。妊娠して高校をド
   ロップ・アウトした少女が、両親にそのことを告げると父親が激怒、妊
   娠させた相手からも愛想を尽かされる。その彼女が偶然出会ったのが誠
   実すぎて巧みな世渡りができず、仕事も転々としていた若い男性と知り
   合い互いに惹かれあう。男性は彼女のために地道に働くことを決意する。
 確かに感動的な映画だが、ここで使う言葉としてはあまり適切ではない。
  むしろズバリ「正直者は馬鹿を見る」あるいはその逆を意味する「正直
 者の頭に神宿る」という格言を使って安倍を牽制すべきだったと思う。
 特例公債については3党合意ができた。今週中に成立できるように、尽力を頂ければと思う。1票の格差と定数是正の問題。1票の格差の問題は違憲状態だ。一刻も早く是正しないといけない。一方で定数削減は、2014年に消費税を引き上げる前に、まず我々が身を切る覚悟で具体的に削減を実現しなければいけない。それを約束して頂ければ、今日、近い将来(※当然この言葉はカギカッコでくくるべき)を、具体的に提示したい。
 安倍 まずは0増5減。皆さんが賛成すれば明日にも成立する。
 首相 定数削減はやらなければならない。消費税を引き上げる前に、この国会で結論を出そう。どうしても定数削減で賛同してもらえない場合は、ここで国民の皆さんに約束をしてほしい。ここで定数削減は、来年の通常国会で必ずやり遂げる。それまでの間は議員歳費を削減すると。このご決断をいただければ、私は今週末の16日に解散をしても良いと思っている。
 安倍 まずは0増5減、これは当然やるべきだ。来年の通常国会において、すでに私たちの選挙公約において、定数の削減と選挙制度の改正を約束している。(※この党首会談での事実上の「公約」を安倍は党内の慎重論に押され、翌日あっさり撤回した。朝日新聞は15日の夕刊で「削減数、公約に記さず…安倍氏方針」という見出しで報じた。「ひとのことがよく言えたな」と言いたい)
 首相 最悪の場合でも、必ず次の国会で定数削減をする。ともに責任を負う。それまでの間は、例えば議員歳費の削減等々、国民の皆さんの前に、身を切る覚悟をちゃんと示しながら、負担をお願いする。制度ができるまでそれを担保にする。そこをぜひ、約束して頂きたい。
 安倍 皆さんが出している選挙制度、連用制はきわめてわかりにくい。憲法との関係においても疑義がある。しかし16日に解散をして頂ければ、国民の皆さんに委ねようではないか。
 首相 技術論ばかりだ。覚悟のない自民党に政権は戻さない。そのことで我々も頑張る。(中略)
 山口 総理はこの16日にも解散をしてもいいと。
 首相 16日解散、ぜひやり遂げたいと思うが、問題は1票の格差と定数削減だ。ぜひ協力を。
 山口 連用性の提案は傾聴すべき点もあるが短い時間で合意を作り上げることは簡単ではない。
 首相 16日までに決断できるよう、再考していただきたい。定数削減は必ずやらなければいけない。かつて山口代表は議員歳費の2割削減を主張された。削減できるまでは、せめて身を切る努力をすることを約束いただけないか。(※些細なことと言われるかもしれないが、これまでは「頂く」と書いていたのにこの首相発言では「いただく」と漢字を開いている。記者の国語能力の低さもさることながら、チェックで見逃した校閲担当の社員も「給料泥棒」と言われても仕方あるまい。私の場合、手書きで原稿を書いていた時代はこういうミスは絶対しなかった。ワードで書くようになり誤変換を見落とすことがたびたびあるが、書くのも推敲も校閲も一人でやらなければならなくなりミスを完全に防止することが不可能になったが、そういうミスをチェックする体制を新聞社は取っている。「恥」を知ってほしい)
山口 おお、いいでしょう。定数削減、これも選挙制度の内容とともに議論を進めよう。3党合意に基づいて、消費税の制度設計、命を守るための防災対策、そういう道を共に歩もう。

 16日午後の衆院本会議で衆院議長が「解散」を高らかに宣言した。各党各議員はいっせいに選挙活動に走り出した。
 これで長文の政局記事を終える。これから編集作業に入る。 
                           平成24年11月18日午前10時15分


東電女性社員殺害の犯人になぜマイナリ氏が仕立て上げられたのか !?

2012-11-09 20:12:12 | Weblog
 日本の恥、と言わざるを得ない。東電女性社員殺害事件の裁判で明らかになった日本の司法制度の問題である。
 「検察は一枚岩」としばしば言われる。一枚岩とは、たった一人の検事の過ちであっても、その責任は検察全体で負わなければならないということを意味する。だからこそ、検事の肩にかかる責任の重さは「地球より重い」のだ。私たち国民が検察を信じることができなかったら、アメリカのように自己防衛の権利を要求せざるを得ない。
 すでに多くの人が知っていると思うが、改めて東電女性殺害事件の概要を簡単に説明しておきたい。「そんなこと説明してもらわなくても知ってるよ」と言わず、読んでいただきたい。マスコミ報道とは全く違う視点から私は説明するので……
 1997年3月18日、東京都渋谷区円山町のアパートの1室(当時空室)に女性が横たわっているのをアパートの管理人が目撃した。その時点では管理人は事件性を感じなかったようだ。が、翌日午後5時過ぎになって気になりもう一度見に行ったところ、女性が全く同じ姿勢で横たわっていたため不審に思い女性の体に触って死んでいることを知り、あわてて警察に通報したという。女性の身元は所持品からすぐ判明し、39歳の東電社員だった。被害者は3月8日には出勤しており、その日から帰宅せず行方不明だったこともすぐわかった。
 「犯人」はあっけなく割れた、はずだった。後に逮捕され起訴されたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ氏が自ら渋谷警察署に出頭したからである。ただしマイナリ氏は「殺人を犯した」と自供するために出頭したわけではなかった。むしろ殺人犯として嫌疑をかけかねられない状況にあると思い込み、嫌疑を晴らすために出頭したという(マイナリ氏の主張)。
 実はマイナリ氏はビザの期限が切れており、しかも資格外の仕事に従事していたという後ろめたさがあリ、そのうえ被害者と何度か殺害現場となった部屋で性的関係をもっていた。そのため、入管難民法違反で逮捕されることを覚悟の上で、殺人事件とは無関係であることを訴えるために出頭したという(マイナリ氏の主張)。
 が、すでにマイナリ氏に目をつけていた警察にとっては「飛んで火にいる夏の虫]であった。とりあえず入管難民法違反の容疑で逮捕し(いわゆる別件逮捕)、東電女性社員殺害の自供を取り付けるための尋問を始めた。
 マイナリ氏にとって不利な状況も確かにあった。被害者と性的関係をもったときに使用したコンドームがトイレの便器に放置されており、そのコンドームに残っていた精液のDNA型がマイナリ氏のものと一致したのである。
 さらに殺害現場の部屋の鍵を管理人から借りていたことがあり、その鍵を管理人に返したのが、被害者が行方不明になった2日後の3月10日であることも判明した。
 これだけ状況証拠が重なれば、マイナリ氏に強盗殺人の嫌疑がかけられたのはやむを得ないと言えよう。
 しかし「物的証拠」とみなし得るのは、客観的に考えてコンドームに残っていた精液のDNA型がマイナリ氏のものと一致したという事実だけである。被害者が帰宅せず行方不明になったのは3月8日の退社後。アパートの管理人が被害者を初めて確認したのが3月18日である(状況から考えて8日の夜に殺害されたと推察できる)。
 警察もこれだけでは送検できないことは百も承知だった。当然「物的証拠]らしき精液の鑑定を行う必要があった。被害者がマイナリ氏と性行為を3月8日に行ったことが、精液の鑑定から立証できれば、マイナリ氏に対する容疑の確実性が相当程度高まる。
 しかし、コンドームの発見が、犯行後すでに10日も経っていた。いつの性行為による精液だったのかは、少なくとも3人以上の専門家による鑑定が必要なはずだ。
 さらに被害者の膣内に精液の残滓の有無を調べる必要もある。もしコンドーム内の精液と被害者の膣内の残滓精液が一致すれば、マイナリ氏の犯行である決定的な証拠になる。
 まずあり得ないはずだが、警察が精液鑑定を依頼したのは帝京大の押尾茂氏だけだった(厳密に言えば押尾氏の鑑定結果だけを検察に送っており、担当検事はそのことに不審感を抱かなかったようだ)。さらに押尾氏も鑑定方法として、これもあり得ないはずだが、清潔な水を使って精液の劣化を調べた。その結果コンドームに残っていた精液は20日以上経過したもの、という鑑定意見書を提出した。押尾氏が提出した「意見書」がそれで終わっていれば、その時点で犯人はマイナリ氏でないことが立証されていた。マイナリ氏自身が2月末から3月初めごろに被害者と性的関係を持ったことを認めており、マイナリ氏の証言の信ぴょう性を裏付ける鑑定だからである。
 が、押尾氏が提出した意見書には「トイレの水は汚れているので清潔な水を使って実験した結果より精液の劣化が急速に進んだと考えても矛盾はない」という一文が書き加えられていた。なぜ押尾氏は少なくとも犯行以降一度も使われていないトイレの水(マイナリ氏の精液が入っていたコンドームが便器の中に残っていたという事実が、犯行後トイレが使用されたことがないことを物語っている)を使って実験しなかったのか。警察もまた精液が入っているコンドームだけでなく、コンドームが捨てられていたトイレの水も鑑定用としてなぜ押尾氏に提供しなかったのか。そこに何が何でもコンドームに残っていたマイナリ氏の精液を犯行の物的証拠に仕立て上げようという作為が全くなかったとは到底思えない。 
 さらに被害者の膣内の精液の残滓のDNAとマイナリ氏の精液のDNAの照合である。これが一致していれば、マイナリ氏の犯行であることは完ぺきに証明できたはずである。
 その調査を、実は警察は行っていた。行っていながら、一致しなかったことを隠ぺいした。ほかにも真犯人がマイナリ氏とは別人である可能性が相当程度高いと考えて差し支えない証拠を二つ警察はつかんでいた。一つは現場に落ちていた体毛が別人のものであったこと、二つ目は決定的とも言える証拠物で、被害者の爪に付着していたもの(おそらく真犯人の皮膚の断片)は、被害者が抵抗しただろう時に引っ掻いて付着したと考えるのが論理的妥当性を持つと考えて差し支えない。が、その付着物のDNAがマイナリ氏のDNAとは違っていたのである。
 この二つの決定的な証拠物を渋谷警察署は東京地検に提出しなかったようだ。
 いくら警察と検察がツーカーの関係にあったとしても、この二つの証拠物を東京地検が入手していたら、渋谷警察署に対し、マイナリ氏以外に真犯人がいる可能性が高いと、再捜査を命じていただろうと思う。いや、そう思いたい。
 さらに東京地検は、この二つの決定的証拠物の提出を受けていなかったとしても、渋谷警察署に対し、コンドームに残っていた精液のDNAと被害者の膣内の精液の残滓の照合を警察に命じていれば冤罪はその時点で防げた。
 そこに人種的偏見を感じるのは私だけではないだろうと思う。マイナリ氏が無罪確定後に「僕とネパール人に謝って」と万感の思いを込めて記者団に語った言葉に、マイナリ氏が日本で受けてきた屈辱感が無限大の重みで私たち日本人にのしかかってきている。
 またマイナリ氏にとって不幸だったことは、弁護人(たぶん国選弁護士)が無能だったことだ。①押尾氏の鑑定に対し、「なぜコンドームが入っていたトイレの水を使用して鑑定しなかったのか」と追及し、裁判官に対し別の専門家にトイレの水を使えば10日間でどのくらい精液の劣化が進むのかの再鑑定を要求すべきだった。ただしコンドームが捨てられていた便器の水はいったん流して(というのは便器の水は公判が始まるまでマイナリ氏がコンドームを捨てた時のままだっただろうから、その水を再鑑定のために使用すると正確な鑑定ができない)新しい水を使って新しいマイナリ氏の精液を採取し、帝京大の清潔な水(たぶん水道水)との劣化の度合いを調べれば、それで十分である。②もっと決定的なこと(つまりコンドーム内の精液と被害者の膣内の精液の照合)を裁判官に要求しなかったのは刑事事件の弁護士として失格、と烙印を押されてもやむを得ないだろう。
 むしろ警察と検察が共同でマイナリ氏の有罪判決を勝ち取るためには裁判で弁護側からこの2点を追求されたら決定的に不利になると考え、最後の手段としてマイナリ氏の自供を何が何でも取ることを最優先しただろうことである。しばしば冤罪を生まれるのは、この自供をとることに巧みな尋問担当警官が「落としの名人」として署内で一目置かれる状況が日本の警察社会に残っていることである。だから自供をとるためには尋問担当警官は手段を問わず手練手管を駆使して落としにかかる。つまりオウム真理教と同じで、容疑者を完全にマインドコントロール下に追い込むことによって、容疑者自身が「ひょっとしたら自分がやったのかもしれない」と錯覚症状に陥らせるのが尋問の目的なのだからである。
 直近に生じたケースでは「パソコンの遠隔操作による脅迫メール」事件がある。
 この事件の捜査について警察の捜査の在り方について日弁連の山岸憲司会長は以下のような声明を公表した。
「ウェブサイト上やメールで犯罪を予告したとして、男性4人(うち少年1人)が逮捕されていた一連の事件について、真犯人を名乗る男からパソコンを遠隔操作するなどして実行した旨の犯行声明メールが送られたことを受け、警察庁長官は、当該男性4人は誤認逮捕だった可能性が高いことを公式に認めたと報道されている。
 これら事件では、逮捕・拘留手続きについて今後十分に検証する必要があるが、加えて看過されてならないのは、これらの事件のうち少なくとも男性2人の虚偽の自白調書が作成されていることである。報道によれば、供述調書には、ありもしない「動機」までが書かれているとのことである。全く身に覚えのない脅迫行為について自分がやったと認め、動機まで記載された調書が作成されているということは、捜査機関による違法または不適切な取り調べがあったと考えざるを得ない。
 今回は、たまたま真犯人がほかにいることが明らかになったが、そうでなければ、これらは隠れた冤罪になっていたであろう。このことは、虚偽自白による隠れた冤罪が決して稀なものでなく、現在も冤罪が起こり続けていることを示している」(以下省略)
 特筆すべきは、この事件で尋問担当警官が大学生を「自白」させるため「自白すれば、観察処分ですむが、あくまでシラを切ると少年院送りになるぞ」と脅して「自白」に追い込んだ悪質さである。この悪質さは少年院がどういう世界かおそらくまったく知らない少年に、少年院の恐ろしさを針小棒大に説明して震え上がらせ、かつ自分のパソコンから脅迫メールが送られたという事実から「ひょっとしたら彼女がやったのかもしれない。もし彼女が少年院に送られたりしたら大変なことになる」と思い込み、女友達をかばうために「自白」したというケースである。
 確かに詐欺師などは人を騙すことを生業としているプロだから生易しい取り調べでは到底太刀打ちできない。詐欺師を自白に追い込むには「落としの名人」がそれこそ詐欺師まがいの方法で脅したりすかしたりして取り調べる必要があることは私も認める。また詐欺犯罪者でなくても口八丁手八丁のしたたかな犯罪者もいる。そういう輩に対してはある程度の手練手管を要する必要があるだろう。しかし脅迫メール事件の犯人として誤認逮捕した4人は普通の社会人や学生である。何年も容疑者の取り調べを経験してきた尋問担当警官なら,二言三言言葉を交わせばどんなタイプの人間かわかるはずだ。
 容疑者イコール犯人と思い込んでしまうと、自白させることが尋問担当警官にとっては自分の義務であり責任だというプレッシャーを感じてしまうのかもしれない(きわめて好意的に解釈しての話だが)。
 特にビザが切れているのに帰国せず、しかも資格外の仕事をしていたマイナリ氏に対して、尋問担当警官があらかじめ犯罪者という先入観をもって取り調べに当たったであろうことはほぼ間違いないと思う。
 ここまで書いて(9日午前1時ごろ)そろそろ寝ようと横になって朝日新聞の夕刊(8日付)を広げたら、社会面の準トップ記事で誤認逮捕された男性(アニメ演出家の北村真咲(まさき)氏・43歳)の弁護人(土橋央(おう)征(せい)弁護士)が7日夜、大阪府警や大阪地検による北村氏に対する取り調べの実態を日弁連などが主催した集会で報告したという。「犯人はお前しか考えられない」「否認は一層傷口を広げる」などと強引に自白を迫られたようだ。以下同紙の記事を転載する。

 土橋弁護士によると、北村さんは府警の取り調べで「逮捕直後に自白したら、警察の判断で釈放も可能だった」「本当のことを言うのを待っている」と迫られた。否認しても「確たる証拠がある」との一点張りだったという。
 地裁の検事からは「調べれば調べるほど君はクロ。やったとしか思えない」と言われた。北村さんが「自分には動機がない」と主張すると、「動機は要らない。通り魔に動機がないのと同じだ」と否定された(※「無視された」あるいは「突っぱねられた」が正しい表記)。北村さんは「何を言っても無駄だと感じた」と振り返っているという。
 逮捕当初、北村さんは「自分は何も遣っていないので信用してもらえる」と考えていた。だがいくら説明しても理解が得られず、精神的・肉体的な苦しさの中で(※「極度の精神的・肉体的苦痛に追い込まれ」が正しい表記)「自分はやってしまったのではないかと錯覚することすらあった」という。
 土橋弁護士は「密室で無制限に取調べができる日本の刑事司法の問題点を示す事件だ」と述べ(※アメリカでは州によって多少の差があるが、基本的に容疑者は取り調べに弁護士の立ち合いを要求する権利が認められている)、身柄を拘束し続けて自白を迫る「人質司法」(※意味不明。「人権無視の司法」なら意味が通じる)を批判した。

 民主国家としては恥ずかしい限りの冤罪多発の原因が、日本の司法制度によるものであることを、いみじくも北村氏に対する取り調べの実態を土橋弁護士が明らかにしてくれたおかげで、私がこれまで想像力を駆使して書いてきたことを完全に裏付けてくれた。脅迫メール事件で誤認逮捕された北村氏は「アニメ演出家」という職業を考慮すると、ある程度の社会的地位が認められてしかるべき人物だと考えられる。そういう方に対する取り調べの実態が土橋弁護士が明らかにしたようなものだったとしたら、すでに弱みを抱えていたマイナリ氏に対する取り調べの熾烈さはもう私の想像力を超える。
 こうした冤罪事件をほぼ完全に防げる方法が実はある。「自供」の内容に「秘密の暴露」が含まれていない場合は証拠として採用しないという司法ルールを定めればよい。「秘密の暴露」とは、真犯人でなければ知りえない事実(たとえば警察も発見できていなかった凶器を捨てた場所など)が自供の中に含まれているか否かで自供の信ぴょう性は全く異なるからだ。
 ひょっとして1日早く(つまり昨日)このブログを投稿していたら、「素人が何を知ったかぶりして偉そうなことを書いているのか」と非難を浴びかねない可能性があることを、実は私は百も承知でマイナリ氏の冤罪事件がどうして発生したのかの検証をすることにしたのであった。
 これまで述べてきたこと以上に渋谷警察署は証言のでっち上げや誘導による「錯覚証言」を証拠として提出していたようだが、微に入り細にわたってそういった限りなく犯罪行為に近い手練手管の数々をこのブログでこれ以上検証する必要はないであろう。とりあえず事件と裁判の経緯と、マイナリ氏の無罪が確定した7日の東京高裁の判決要旨を、朝日新聞から転載させていただいてブログを終える(経緯は7日の夕刊、判決要旨は8日の朝刊)。

≪事件と裁判の経緯≫
97年3月19日 東京都渋谷区のアパートで女性の遺体が見つかる
     23日 不法残留容疑でマイナリさんが逮捕される
   5月20日 強盗殺人容疑で再逮捕される
   6月10日 強盗殺人罪で起訴
00年4月14日 東京地裁が無罪判決
  12月22日 東京高裁が無期懲役とする逆転有罪判決
03年10月20日 最高裁が上告を棄却。その後、有罪が確定
05年3月24日 マイナリさんが東京高裁に再審請求
11年7月    新たなDNA型鑑定で、マイナリさんとは異なる第三者の犯行
        の可能性が浮上
12年6月7日 東京高裁が再審開始と刑の執行停止を決定
    16日 マイナリさんがネパールに帰国
  10月10日 東京高検が、追加鑑定で被害女性の右手の爪からも第三者の型
       が出たとの鑑定書を弁護団に開示
    18日 東京高検が無罪を求める意見書を高裁に提出
    29日 再審の第1回公判が開かれ結審
  11月7日 再審で無罪とする判決

≪東京高裁の再審判決要旨≫
 1審判決は、殺害現場となったアパートの部屋から、マイナリさんと被害者の体毛のほか、第三者の体毛が発見されており、マイナリさん以外のものが犯行時にいた可能性がぬぐいきれないことを無罪の理由の一つに挙げていた。再審での取り調べの結果、第三者の体毛のDNA型が判明するとともに、同じ型が被害者の体内から検出された精液などの付着物に含まれていることが判明した。
 新たなDNA型鑑定などによれば、被害者の下腹部や、被害者の下着の下腹部から検出されたDNA型は第三者の精液に由来すると考えられる。また、被害者の右胸から検出されたDNAも、第三者の唾液(だえき)に由来するとみて矛盾はない。そうすると、第三者は被害者の右胸をなめ、コンドームを着けずに被害者と性交したと合理的に推認できる。
 デパートの部屋に落ちていた体毛からも第三者のDNAが検出され、第三者が被害者と性交した際に落ちた可能性を示している。
 被害者のコート左肩の血痕は被害者のDNAが主成分だが、第三者のDNAも含まれていると考えられる(※この推認には無理がある)。血痕の形状などから、血痕は被害者が犯人から暴行を受けた際に付いたと合理的に推認できる(※ 「付いたと推認するのが合理的である」と書くべきである)。
 被害者の両手指の爪の付着物は第三者のDNAと考えて矛盾はない。特に右手の指からは明確に出ている。被害者が抵抗する過程で、第三者のDNAが爪に付いた可能性がある(※「可能性が高い」と書くべき)。
 総合すると、第三者が①犯行現場の部屋で被害者と性交した②被害者を殴打して出血させ、その手で被害者のコート左肩に触って血液を付けた③被害者を殴るなどし、首を絞めたーーという可能性を示している。第三者が犯人である疑いが強いと言える(※「犯人である可能性が高いと言える」が正確な表現)。
 検察官は一審では、現場アパートの部屋に残されていたコンドーム内の精液からマイナリさんのDNA型が検出されたことや、室内に残ったマイナリさんの体毛を重要な物証と位置づけ、犯行時に部屋のカギを保管し、出入りできたのはマイナリさんだけであることなどを有力な間接事実として主張した。しかし、再審での取り調べによれば、第三者が犯人と強く疑われ、検察官が主張する状況証拠あるいは間接事実の推認力は、著しく減殺された(※「第三者が犯人である可能性は否定できず、検察官がマイナリさんを犯人であることを立証するために提出した状況証拠や間接事実をもってしても、検察官の主張は説得力に欠けると言わざるを得ない」と書いた方がはるかにわかりやすいし、また表現方法としても正確性が高い)。

警察庁の秘密主義には呆れ果てた !

2012-11-06 22:09:55 | Weblog
 警察庁の秘密主義には呆れた。
 
 さっき投稿したブログ記事を警察庁広報室にFAXしようとして、すでに広報室の執務時間が終わっているというので、当直の山本某(仮名の可能性はある)に広報室のFAX番号を訊いたが、頑として教えてくれない。
 地元の県警本部を通してください、の一点張りでどうしてもFAX番号を教えてくれない。

 道交法は国家公安委員会の管轄だが、電話番号も一切公開していない。タウンページなどの電話帳には一応電話番号が掲載されているが、その番号は警察庁の代表番号と同じで、その番号にかけて公安委員会につないでほしいと頼んでも交換手は「公安委員会にはおつなぎできません。広報室におつなぎします」という。
 公安委員会は全国の道府県警察本部にもあるが、それらの公安委員会の電話番号も道府県警察本部の電話番号と同じで、やはり公安委員会には絶対つながない。それなら私のように電話帳への掲載をやめればいいのだが、なぜか意味のない警察本部の番号を公安委員会の番号として電話帳に掲載している。
 そういう秘密主義が警察庁の隅々まで浸透していることに、私は呆れるのを通り越して怒りを覚えた。
 なぜ道交法に対する私の意見を含んだブログ記事のFAXを警察庁広報室に送ることを、何が何でも阻止しようとするのか。
 山本某は「道交法についての意見があるなら道府県の警察本部にFAXしてください。道府県の警察本部が警察庁に伝えるべきだと判断したら、警察本部から回ってきますから。そういう仕組みになっているのです」と、頑として私の要求に応じない。
 それなら、なぜ警察庁に広報室があるのか。あらかじめ広報室の職員にFAX番号を訊いておこうと思って日中3,4回警察庁に電話したが、今日に限ってすべて広報室の電話がふさがっているということだったので、交換手に広報室のFAX番号を尋ねたが、ここではわからないから夜にでも当直に聞いてくださいという。そのため9時ごろ当直に電話したところ、これまで書いたようなそっけない対応しかしてくれない。こんな警察に私たちの安全を託せるのだろうか。呆れ果ててものも言えない気持ちだ。

「蛇行運転」で子供二人を含む4人を死傷させても危険運転にならない ?

2012-11-06 20:14:37 | Weblog
 自動車による痛ましい事故が絶えない。11月5日の朝日新聞夕刊社会面の記事によると、当日東京地裁で幼稚園の年長組の男の子と小学校3年生の男児(いとこ同士)が信号待ちしていたところへ21歳の造園工が制限速度(50km)を25kmもオーバーする猛スピードで突っ込み、二人の子供は死亡、子供たちの祖父母も重傷を負った事故の裁判員裁判が始まった。当初検察は「制御困難な高速度で車を暴走させた」として危険運転致死傷罪で起訴する予定だったが、少なくとも自動車運転過失致死傷罪は成立するとの主張を加えた。弁護側は危険運転致死傷罪を問うのは不当で、自動車運転過失致死傷罪の適用を主張している。判決は16日に言い渡される予定だが、わずか10日間で判決が出せるような事件ではない。
 危険運転致死傷罪が新設されたのは2001年11月28日で、同年12月25日に施行された。飲酒や薬物によって正常な運転ができない状態で車を運転し、死傷事故を起こした運転者に適用される刑事罰である。それまではそういうケースも業務上過失致死罪が適用されていた。その理由は運転者に犯意がないからであった。
 法律用語の一つに「未必の故意」という言葉がある。「確定故意」は結果を目的にした行為で犯意が明確に証明できる犯罪である。一方「未必の故意」は、犯意はないものの結果は常識的に考えたら予測できるはずの行為を意味する。たとえば殺人罪に問われた被告が裁判で「殺意はなかった。騒ぐので静かにさせるために首をちょっと絞めただけだ」などと弁解するケースはしばしばある。その場合、殺意の有無を証明することは極めて難しい。もし加害者が被害者に対して相当の恨みや憎しみを持っていたり、別に凶器(ナイフなど)を用意していたら「殺意があった」と認定されるだろう。が、被害者が暴れて、加害者があわてて首を絞めておとなしくさせようとした場合は、「殺意はなかったとしても首を絞めれば被害者は呼吸ができないのだから死に至る可能性は十分予測できた」と裁判官が判断すれば「未必の故意」による殺人、ということになる。そういう意味では個人差はあるが、「酒を飲んで運転すれば、正常な運転ができなくなる」ことは周知の常識であり、事故を起こす可能性は十分予測できたはずという認識に立てば、飲酒運転による事故は「未必の故意」に該当する。この考え方が、危険運転致死傷罪新設の法的根拠になったはずである。
 しかし一般的には、飲酒運転による死傷者の増大に対する国民の怒りが、新法の成立につながったと理解されている。発端は2000年4月に神奈川県座間市で飲酒運転をして歩道に突っ込み、歩いていた大学生2人をひき殺した事件で、息子を失った母親が「法律で禁じられている飲酒運転で人をひき殺しておいて刑の軽い業務上過失致死傷罪(5年以下の懲役・禁固あるいは50万円以下の罰金)という、窃盗罪より軽い刑罰には納得できない」と声を上げたことである。その声に自動車事故による被害者の遺族たちが加わった。その中に東名事故(飲酒した運転者のトラックが前を走っていた自動車に追突して炎上させ、後部座席に乗っていた幼い姉妹二人が焼け死んだ事件)の遺族両親が加わったことで、飲酒運転したトラック運転者に対する国民の怒りが爆発し、それがきっかけになって法改正に至ったとされている(たとえばウィキペディアの解説)。実際、2001年10月までに交通被害にあった遺族たちが集め法務大臣に提出した署名簿は17万4339人に達した。
 しかし国民感情によって法律が改定されることなど、少なくとも先進国の中で最も法律の整合性が担保されていると言われている日本ではありえないことだ。私が「未必の故意」という法律用語の意味を書いたのは、この解釈を適用しないと危険運転致死傷罪を新設することは不可能、と考えたからである(法律の知識がほとんどない私の論理的思考による結論)。
 いずれにせよ危険運転致死傷害罪の量刑は、致傷は15年以下の懲役、致死は1年以上最高20年の懲役、致死と致傷が併合加重された場合(今回の事件のように死亡者と負傷者が複数出たケースで、危険運転致死傷罪が適用されると自動的に致死と致傷の量刑が併合加重される)、最大量刑は懲役30年となる。
 しばしば「車は走る凶器」と言われるが、自動車そのものが「凶器」であるわけではない。ただ飲酒や薬物、てんかんの発作などで正常な運転ができなくなった時、自動車は「凶器」と化すのである。最近高齢者の運転事故が目立つ。平均寿命が伸びたことで、高齢の運転者が増加したせいでもあるが、個人差はあるにせよ、誰でも年をとるに従いとっさの判断力が鈍る。実際高齢者が起こす事故の大半はとっさのときのブレーキとアクセルの踏み間違いが圧倒的に多い。だから私も70歳になった時運転免許書をお上に返上した。
 私自身のことはともかく、危険運転致死傷罪が刑法に導入されたことに伴い、軽微な事件への救済として自動車運転による業務上過失致死傷に対しては量刑の裁量的軽減ができるように「自動車運転過失致死傷罪」を合わせて新設したのである。
 
 なお危険運転致死傷罪に問われるケースは以下の5項目に限定されている。
① 酩酊運転致死傷罪(飲酒または薬物の影響によって正常な運転ができない
 と判断された場合。この場合の薬物には麻薬や覚せい剤だけでなく、医者か
 ら処方された向精神薬、精神安定剤、解熱剤や、一般に市販されている風邪
 薬なども含まれる)
② 制御困難運転致死傷罪(制限速度を大幅に超えハンドル操作が困難になる
 ほどの高速運転で事故を起こした場合。おおむね制限速度を50km以上超過
 したスピードでの無謀運転が対象になるが、急カーブの道路などでのスピー
 ド違反による事故は50km未満でも適用される)
③ 未熟運転致死傷罪(免許取り立てでまだ運転技術が未熟なのに過信による
 無謀運転などによって起こした事故に適用される。ただし無免許でも日常的
 に運転をしており、一定の運転技術はあると判断された場合には適用されな
 い。またとっさの判断力が鈍ってきた高齢者の運転ミスによる事故には適用
 されていないが、誰が考えても未熟運転に該当されるべきだと思うが、それ
 が野放しにされていることは高齢者の免許更新の在り方に問題があるためで、
 国家公安委員会の怠慢以外の何物でもないことをこの際指摘しておきたい)
④ 妨害運転致死傷罪(人や車の通行をわざと妨害した運転によって生じた
 事故で、先に述べた「未必の故意」も含まれる)
⑤ 信号無視運転致死傷罪(赤信号を「確定故意」で無視して交差点に進入し
 たり、青信号であっても道路横断中の人や対向車を無視して右左折して生じ
 た事故)

 この事件の場合、検察は当時被告が制限速度(50km)を大幅に超過した時速95kmの高速で前の車を追い越したあと元の車線に戻ろうとして急ハンドルを切った結果蛇行運転になり事故を起こしたとして危険運転致死傷罪の適用を求めて起訴したが、公判前の争点整理の過程で時速を75kmに変更した。検察の大きな失点であり、危険運転致死傷罪の適用要件②の適用は難しくなったと思う。しかし私が警察関係者から聞いたところ、加害者はスピード違反の常習者であり、何度も軽微な事故を起こしていたらしい。しかも事故を起こした中原街道は国道1号桜田道りから枝分かれして都心と川崎市中央部を結ぶ片側2車線の幹線道路で、交通量が日夜を問わず多く、事故多発の道路である。そういう道路を75kmという高速道路並み(東名高速から枝分かれして箱根・熱海方面に向かう高速道路の小田原厚木道路の制限速度は70kmである)の猛スピードで、しかも交差点の直前で歩道側車線から中央車線を走っていた車を追い抜いたうえ(その行為自体が交通違反)、おそらく中央車線の前方を走行していた車がいたため、また内側から追い抜くため交差点内で車線変更しようとして急ハンドルを切った結果(その行為も交通違反)、制御不能になり歩道に乗り上げて事故を起こしたと考えられる。検察が主張する「蛇行」という表現が妥当かどうかは別として(少なくとも暴走族が交通量の少ない深夜に行う「故意」の蛇行運転とは言えないと思う)、結果的に蛇行的なハンドル操作を加害者が行ったことは間違いない。私は限りなく危険運転致死傷罪(それも致死と致傷の併合加重)に近い運転として裁かれるべきだと思う。
 ここで民主国家の量刑の軽重についての考え方に二つの側面があることを、ブログ読者の方にはご了解いただいておきたい。
 ひとつは犯罪の抑止効果である。量刑を重くすればするほど犯罪は激減する。現に危険運転致死傷罪が刑法に組み込まれて以降飲酒運転による事故は激減した。そのあおりを食ったのが郊外の飲食店である(スナックなど飲酒が主な目的の店は軒並みつぶれた)。ゴルフ場も稼ぎ頭のコンペ後のパーティが激減しているようだ。
 もう一つは被害者に与えた損害(金銭的価値だけを意味しない。最悪の場合、死に至る違法行為も含まれる)を償わせる目的の、いわば社会的制裁である。極端なケースは、アヘン戦争でイギリスに負けた中国では、麻薬犯罪に対して世界一厳しい無条件の死刑判決が裁判で下される。
 ただし以上の二つの目的は民主国家の世界でのことで(中国は民主国家ではないが犯罪に対する社会的制裁の極端な例として挙げた)独裁政権の国では「国家反逆罪」の名で反権力勢力に対しては容赦ない刑罰を科す。軍事独裁政権のミャンマーで、反政府勢力のシンボル的存在のアウンサンスーチー氏に対して自宅軟禁以上の制裁を軍事政権が加えなかったのは、あまりにもスーチー氏の行動が世界中に知れ渡っており、スーチー氏を抹殺することが不可能になってしまったからにすぎない。
 こうした観点から自動車事故を激減するためには「危険運転」につながりかねない交通違反行為に対する罰則をもっともっと強化すべきだと思う。その反面、危険な交通違反が後を絶たないのは、道交法自体に違反を誘発する要因があるのではないか、原点に立ち返って検証する必要があると思う。
 たとえば駐車違反(放置禁止区域での駐車違反の場合)。罰金2.5万円、違反点数3点という罰則の厳しさが、交通事故を減らす効果を生んでいるのか考え直した方がいい(私は先に述べたようにもう車を運転することはないから自分の利益のために主張しているのではない)。あるいは原付の制限速度30kmはかえって危険である。車がびゅんびゅん走っている交通量の多い道路は、自転車はだいたい歩道を走れるが、原付にはそういう救済方法がない。そういう道路を30kmで自転車同様無防備な(ヘルメットの装着は義務付けられているが、ヘルメットは頭部を保護するためのものであって交通事故を防ぐための用具ではない)状態で走行するのはかえって事故を誘発しかねない。事故に巻き込まれるのを防ぐためには車の流れに乗って制限速度オーバーの運転をせざるを得ず、現に原付で巡回している警察官自身が自分の身の安全を守るため制限速度をオーバーして走行しているのが実態である。
 そもそも制限速度は事故を未然に防ぐために設けられているはずだ。つまり制限速度を超えて運転すると制御が困難になるという判断を基準にして設けられている規制である。だから制限速度をちょっとでもオーバーしたら「危険運転」になりますよ、という制度でなければおかしい。ということは速度違反にランク付けをすること自体が、事故防止のためという目的に矛盾しているのではないか。もちろんオーバーの度合いによって事故率は上がっていくし、猛スピードで事故を起こした場合の被害の大きさは速度の度合いにほぼ比例することは百も承知の上で私はそう主張している。だが、そうした悪質な運転によって生じた事故の責任は、刑法による量刑の軽重で取らせるのが、論理的に考えれば、より合理的ではないだろうか。したがって道交法による交通違反罰則の基本的考え方は、すべての規制を本当に事故につながりかねない危険運転の基準まで緩和したうえで、その基準を逸脱した場合は、ランクをつけず最低1年間の免許停止処分の罰則を科すようにしたほうがいいと思う。たとえば速度制限に関して言えば、高速道路では直線個所は制限速度120~130km、カーブは50~100kmの間で10km刻みで速度制限を設定するとかにする。また一般道は少なくとも現行より10~20km程度制限を緩和し、その基準を超えたら自動的に「危険運転」と規定したら、交通事故は一気に激減する。飲酒運転や薬物使用しての運転も、またてんかんなどの持病を隠して免許を取得して運転した場合も、すべて同様に扱う。無免許運転の場合は、必ずしも運転技術が未熟で「危険運転」に該当するかどうかが不明なので、自動車教習所で実際に運転させて、仮に試験を受けても免許を取得することは無理、と専門家数人が判断した場合にのみ「危険運転」の範疇に入れる。
 一方事故に直接つながる可能性が低い駐車違反などの罰則は大幅に緩和し、罰金も現状の半分くらいにしてもよいのではないか。ただし交通の妨げになったり、歩行者の安全を脅かすような悪質な駐車違反は交通裁判にかけ、やはり悪質度に応じた免許停止期間を判決で決めるようにする。そうすれば「ここはやばい」と運転者が思うような場所での駐車違反も激減する。警察に言わせれば、交通量の少ない駅周辺の違法駐車が増大すると主張するだろうが、そうした事態を防ぐにはパーキングメーターを設置して有料駐車できるようにするなどの方法をとればいい。銀座のような場所でも中央通り(銀座通り)と昭和通りの間の裏道にはパーキングメーターがずらりと並んでいるのだ。郊外の駅周辺の比較的交通量が少ない道路はそうした駐車スペースを確保すれば違法駐車は激減する。
 改めて言う。現行のような交通違反を誘発したうえで違反を取り締まるような道交法の考え方を180度ひっくり返し、運転手自らが「危険運転」を抑制するような道交法に一刻も早く改めるべきである。

Nスペ番組『メイドインジャパンの逆襲』への再批判(完結編)

2012-11-04 11:38:00 | Weblog
 まず前回のブログ「NHKスペシャル『メイドインジャパンの逆襲』の誤りを指摘する」の記事についてお詫びを申し上げなければならない。あの記事は同番組担当プロジューサーにFAXしたものをブログにそのまま投稿してしまったため、同番組をご覧になっていらっしゃらなかった方にとってはチンプンカンプンだったのではないか、と反省している。だいいち私の本来の文体である「である」調ではなく「ですます」調のまま投稿した手抜きについては弁解のしようもない。さらに、ソニーとアップルを対比させてソニーの失敗を検証した番組に対する批判に、なぜレコードの歴史を書く必要があったのか、我ながら恥じるばかりである。
 NHKスペシャル(以降Nスペと記す)では「ソニーがアップルとの競争に負けた」という「事実誤認」に基づいた検証番組を作ったので、そもそもそういう問題認識そのものが間違っていることを証明するつもりだったのだが、つい話が横道にそれてしまい、ハードとソフトの関係をこの際明らかにしておこうと考えてしまったことが、私の失態の最大の原因であった。
 ハードとソフトの関係はやはり明らかにしておく必要があるので、別の機会に書こうと思っているが、まずNスペの問題認識の誤りについて明確に指摘しておこう。
 Nスペの狙いは一時世界を席巻した日本の最先端技術力がなぜ競争力を失ったのかを解明し(第1部)、再び技術立国として世界をリードできるようになるかを検証する(第2部)ことにあった。この問題提起そのものは間違っていないし、ハイテク企業にとっては喫緊の課題であることも間違いない。だが第1部でソニーとアップル、シャープとサムスンを対比させ、かつては世界をリードしたトップメーカーが凋落したことを検証の材料として取り上げたことがそもそも間違いのもとであった。
 とくにソニーとアップルに関しては競争関係にあったことは過去も現在も一度もない。ソニーはAV(オーディオ&ビジュアル)市場における世界の雄であり、ブルーレイDVDで足並みを揃えるまではことごとく松下電器産業(現パナソニック)と世界標準規格の主導権争いをしてきた関係にあった。一方アップルがAVの世界で新しい技術を提案したことも一度もない。アップルがしたことはインターネットの新しい利用方法を実現するための、iモードに代わる機器を開発したことである。それをごっちゃにしてしまったのがNスペの失敗だった。
 ソニーがオランダの名門企業フィリップスと、世界初のデジタル・オーディオのCDを共同開発に着手したのが79年。その3年後(82年)にはソニーが世界初のCDプレーヤーを発売、主に日本の家電メーカーが一斉にCDプレーヤーの生産を開始した。またレコード業界も一斉にLPからCDへとメディアの転換を始めた。
 当時オーディオ評論家たちはCDに対して概して否定的であった。音質が金属音的でLPのような柔らかさがない、というのが大方の見方だった。だが一般の消費者はCDに飛びついた。レコードは刻まれた溝の上をレコード針が直接接触してアナログ信号を拾う。当然レコード盤にちょっとでも埃が付くと、それが雑音の原因になる。また繰り返し音楽を再生すると音質が劣化していくのは当然である。さらに摩耗の少ないダイヤモンド針でも寿命はある。レコードを聴いていて、そろそろ針の代え時だな、とわかる消費者はどのくらいいるだろうか。金型のベテラン職人は指先で数ミクロンの誤差を感知できるようだが、そういったプロのために音楽があるのではない。だから手入れや針の交換に気を使わずにすむCDは絶対に市民権を持つに違いない、と私は思っていた。結果はその通りになった。
 えてして専門家は自分たちの世界だけで通用する極めて狭い視野での既成概念でものごとを考える習性がある。そして一般市民の感覚や思考との差を専門家たるゆえんと誇る。専門家と称する人たちの予想がしばしば外れるのはそのせいだ。専門家を職業とする人は、まず既成概念を基準に考えるのではなく、一般市民や消費者ならどう考えるだろうか、またなぜそう考えるのだろうか、という問題意識を持つ訓練をした方がいい。そういう思考方法を修得すれば世の中の流れが見えてくる。
 CDがアナログ・オーディオのレコードを駆逐したのちは、レンタルビデオ店がCDをレンタルするようになり、CDをカセットに録音する時代が始まったからである。だがカセットはアナログ・メディアであり、オーディオ・メディアがアナログからデジタルになっても、デジタル・ツー・デジタルの録音はそんなに簡単ではなかった。まずレコード業界(すでに実態はCD業界と言った方が正しいのだが、日本の著作権法はすべての記録済みオーディオ・メディアを「商業用レコード」と定義づけているのでレコード業界と書く)が、デジタル・ツー・デジタルの録音に猛烈に反対した。アナログの場合はレコードにせよカセットテープにせよレコード針や再生用ヘッドがレコード盤あるいはテープに直接接触する。したがって再生するたびに音質が劣化する。それでもレコード業界はCDレンタルに猛反対したくらいだから、非接触で何回再生しても音質が劣化せず、また何回ダビングを繰り返してもやはり音質が劣化しないデジタル・コピーが出回ると、レコード業界にとっては死活を制する大問題になる。実際デジタル・ツー・デジタルの録音再生機器が開発される前に、消費者はレンタル店からCDを借りてきてカセットに録音するという安上がりな方法に飛びつき、レコード業界の業績は軒並み悪化していた。
 しかし消費者は当然だが、デジタル・ツー・アナログの録音(CD→カセット)に満足していたわけではない。デジタル・ツー・デジタルの録音再生ができるオーディオ機器を待ち望んでいた。ソニーをはじめオーディオ機器を生産していた家電メーカーはいっせいにデジタル・ツー・デジタル録音再生機器の開発に走り出した。
 しかも日本の著作権法は消費者が自分のために音楽や絵画、書籍などをコピーする自由を個人の権利として認めている。だからデジタル・ツー・デジタルの録音再生機器の開発を阻止する法的権利がない。そこでレコード業界がオーディオ機器メーカーに求めた妥協案は、CDからのデジタル・ツー・デジタルの録音は、せめてフルコピーではなく、音質をアナログ並みに劣化した録音システムにしてくれないか、という虫のいい話だった。そしてこの妥協案を通産省(当時)が容認し、オーディオ機器メーカーにレコード業界の要求を呑むよう「行政指導」したのである。文部省(あるいは文化庁)ならいざ知らず、著作権法は通産省にとって管轄外のはずだ。だが、実際に通産省は以下のような通達をオーディオ機器メーカーに出していた。
「DAT(デジタル・オーディオ・テープレコーダー)の商品化に当たっては、当面以下の技術的仕様に基づくものを商品化するよう要請します。CDと同一のサンプリング周波数は再生のみとし、記録不可能とすること……」
 このお役所文書は一般の人にはわかりにくいと思うが、要するにレコード会社が発売するDAT用音楽テープはCDと同じデジタル信号を記録してもいいが(再生専用だから)、消費者が録音再生するためのデジタル・ツー・デジタルのオーディオ機器は、CDと同一のデジタル信号を記録できないような工夫をしろという行政指導なのである。アナログで例えれば、レコード会社が発売するレコードやカセットテープは同音質でいいが、消費者がレコードからカセットテープに録音する場合は音質を落とすようにしなさいというたぐいの話なのである。こんなバカげた行政指導を通産省はなぜしたのか。
 実は通産省はIBM互換機で世界の巨人と戦っていた富士通など日本のコンピュータメーカーを支援するため、著作権法を改悪してコンピュータのOSやCPUの命令セットを著作物として保護する政策をとっていた米商務省に対し、「OSや命令セットは著作物には相当しない。あくまで公開が原則の特許法で保護すべきだ」と主張してきた経緯もあり、デジタル・ツー・デジタルの録音再生システムの規格にも首を突っ込んできたのである。
 その結果、オーディオ機器業界はやむを得ず「帯域圧縮」という方法(簡単に言えばCDのデジタル信号を間引く技術)でCDのデジタル原音をフルコピーせず、音質をアナログ並みに劣化した統一規格で85年にDATを発売することにした。この統一規格づくりをリードしたのはフィリップスと共同でCDを開発したソニーだった。だがDAT発売の先陣を切ったのはソニーではなく、系列(当時)の音響機器メーカーのアイワで、2月12日に世界初のDATが家電量販店の店頭に並んだ。もちろんアナログ・オーディオ機器しか作ってこなかったアイワが帯域圧縮という高度なデジタル処理技術を培っていたわけではなく、親会社のソニーのデジタル技術を導入したから商品化できただけの話である。ソニーはおそらく(私の推測)、通産省の横やりでアナログ並みの音質の録音が義務づけられたオーディオ機器に消費者が手を出すか、確信が持てなかったのではないだろうか。
 こうしたいきさつを経て、とりあえず世界で最初のデジタル・ツー・デジタルのオーディオ・システムが発売された。NHKはその日の午後7時のニュースで、松平アナウンサーが「DATは著作権上問題があるため、多少音質を下げるよう義務付けられました」と報道した。Nスペの担当者はその事実をまったく知らなかったようだ。
 当時、数年後には2兆円産業に育つと一部からは期待されて船出したDATだが、今はほとんどの人の記憶に残っていないだろう。ソニーがフィリップスとCDの共同開発を始めた79年に発売したウォークマンはいまだ多くの人の記憶に残っているが、その3年後に鳴り物入りで発売された世界初のデジタル録音再生オーディオ機器のDATの記憶がほとんどの人から失われているという事実が、デジタル・オーディオの世界の複雑さを物語っていると言えよう。
 しかしDATの失敗でくじけるソニーではなかった。世界の最先端を走っていた帯域圧縮技術に磨きをかけ、帯域圧縮してもCDの原音と区別がつかないくらいの音質を録音再生できるデジタル・ツー・デジタルのオーディオ機器の開発に総力を挙げて取り組んでいった。
 そしてソニーが満を持してデジタル・ツー・デジタルの録音再生ポータブル機器MD(ミニ・ディスク)を発売したのが92年11月だった。これが爆発的にヒットした。
 実はMDはCDのデジタル信号を5分の1に帯域圧縮していた。だからディスクのサイズもCDの直径12cmに対しMDは6.4cmと約半分に収めることができたのである(ディスク面積は約4分の1)。では音質はCDに比べかなり劣化したかというと、よほどのプロでないと区別がつかないくらいCDの原音に近い音質を実現したのである。ソニーが開発したMDは、同伴者も含め全世界を席巻したのは当然だった。2001年11月に、アップルのiPodが出現するまでは……。
 Nスペはこの事実をもって「ソニーがアップルに負けた」「ソニーらしさが失われた」という印象を視聴者に植えつけた。それがこの番組をつくったプロジューサーの意図だったのかどうかはわからない。たくまずしてそういう印象を視聴者に与える結果になった可能性は否定しない。
 実際はどうだったのか。この問題を結果論から見るとiPodの出現によってMDの世界が潰えたという事実は動かしがたい。だがその事実はアップルの技術力にソニーの技術力が敗れたということを意味しているわけではまったくない。そもそもソニーとアップルはまったく別の世界でビジネスを行ってきた企業である。ライバル関係にあった時期は過去一度もないし、今もない。
 ではなぜiPodの出現によってソニーのMDは市場性を失ったのか。それはレコード業界の事情が大きく関わっている。MDの発売によってレコード会社の売り上げは大きく激減した。Nスペは「ソニーがアップルに負けたのはソニーがレコード会社を傘下に擁しており、それゆえiPodのような製品をつくることができなかった」という訳知り顔の解説をしたが、事実は全く違う。MDの出現によってレコード業界は大打撃を受けたが(ソニーミュージックも同じ)、iPodが登場してMDを駆逐したことでレコード業界は窮地を脱したのが歴史的事実である(ソニーミュージックも同じ)。ソニーが傘下にレコード会社を擁していたためiPodのような製品を開発できなかったなどという解釈はげすの勘繰り以外の何物でもない。そのことはおいおい証明していく。
 実はソニーの牙城を崩したのは、アップルではなく、皮肉なことにいま瀕死の状態にあるシャープであった。ソニーはテレビの世界でもトリニトロンという画期的な受像技術を開発し、その画質の鮮明さからたちまちテレビ市場でトップに躍り出た。さらに世界で初めてブラウン管方式のテレビ画面の平面化を実現し、ライバルを大きくリードした。が、こうした一人勝ちの歴史が、ソニーの足を引っ張ったのである。成功が失敗の原因になるという皮肉な結果はあらゆる分野でしばしばみられることだが、ソニーもブラウン管テレビの世界で一人勝ちをした結果、ポスト・ブラウン管方式の受像機の開発に真剣に取り組んでこなかった。その間、ライバルの家電メーカーは液晶ディスプレイやプラズマディスプレイの研究開発に取り組み、とくにシャープは電卓時代から取り組んできた液晶ディスプレイに特化してポスト・ブラウン管の薄型テレビの開発に全力を挙げていた。しかも大半の家電メーカーがコスト削減のため製造拠点を中国などのアジア諸国に移転していく中で、シャープは技術革新は生産現場から生まれるというメーカーの原点をかたくなに守るため主力工場の亀山工場を液晶テレビの製造拠点に位置付けてきた(いわゆる亀山モデル)。
 そうした情報は当然ソニーもキャッチしていたはずだが、トリニトロンや平面ディスプレイでテレビ市場をリードしていたソニーはまだまだブラウン管時代が続くと考え、ポスト・ブラウン管の技術開発には見向きもしなかったのである。「失敗は成功の元」と言われるが、その逆もまた真なりなのである。たとえばホンダがCVCCという画期的なエンジンの開発で三菱やマツダを抜き去り、かつては「技術の日産、販売のトヨタ」とまで言われ2強時代の一翼を担っていた日産をも追い抜いたという成功体験が、ポストCVCCの開発に後れをとり、「技術は売っても、買うことはしない」と豪語してきた誇りを捨て、トヨタからハイブリッド技術を買うことによってかろうじて先頭集団にとどまったことを考えると、ソニーがなぜシャープから恥を忍んで液晶技術を買おうとしなかったのか、まさに「成功は失敗の元」を絵に描いたようなケースだったと言えよう。
 ソニーの技術力は、Nスペの見方とは違って、私は今でも健在だと考えている。現にテレビ放送がデジタル時代になって、画像のデジタル・ツー・デジタルの録画システムで主流になっているブルーレイ方式はソニーが中心になって開発したものだ。ただソニーの技術力にかつてのような輝きが失われつつあることも否定はできない。その最大の理由は成功した技術のDNAを依然として引きずっている点にある。ソニーのように数えきれないほどの輝かしい最先端技術開発の歴史を誇ってきた会社でも、その歴史の過程で脈々と受け継がれてきたDNAは、ソニーほどの会社でも人間集団である以上、簡単に捨て去ることはできないのだ。その点、ホンダがCVCCという世界が驚嘆した技術の流れをいとも簡単に捨てることができたのは、かつてエンジンの冷却方式を巡って「空冷」にあくまでこだわった本田宗一郎に対し、若手の技術者たちが一歩も引かずに「水冷」を主張して譲らず、社内での開発競争を挑み、ついに本田宗一郎を屈服させたというホンダ精神のDNAが現在も脈々と受け継がれているからこそ、トヨタに頭を下げてハイブリッド技術を導入することで、ホンダは自動車業界での世界的地位を保つことができたのである。そして多分ホンダのDNAは、この屈辱を絶対に忘れさせないだろう。ホンダは思いもよらぬ方法で、トヨタから買ったハイブリッド技術を凌駕する革新的なエンジンの開発に社運を賭けて取り組んでいると私は思う。自分の息子を断固としてホンダに入社させなかった本田宗一郎と、自分の息子を将来の社長に据えるべく入社させた盛田昭夫との差が、ホンダとソニーのDNAの違いを証明している。ソニーが再びかつての輝きを取り戻すには遺伝子の組み換えから再スタートする必要があるのではないか。
 一方アップルは世界で初めてパソコンを商品化し、パソコン時代の黎明期を築いた、コンピュータ市場に燦然たる金字塔を打ち立てた会社である。アップルのライバルは、ではhpやDELLなどのパソコンメーカーかというとそうではない。パソコンをつくった歴史もないマイクロソフトがアップルにとって宿命のライバルなのだ。マイクロソフトがパソコンを製造せず、パソコンの基本ソフトのOSを全世界のパソコンメーカーに売るという戦略をとることによって事実上パソコンの世界を支配した結果、アップルの存在感は一気に失われていったのである。
 コンピュータの黎明期を築きながらマイクロソフトの戦略によって瀕死の状態に陥っていたアップルを立ち直らせたのは、実はiPodの成功ではなく、マイクロソフトを目の敵にしだした米公正取引委員会だった。公取委はマイクロソフトがアンフェアな方法でパソコンの世界を独占しようとしているとみなし、OSのウィンドウズ部門とアプリケーションソフトのオフィス部門を分離させようとした時期がある。この時マイクロソフトの総帥ビル・ゲイツはCEO(最高経営責任者)の席を降り、一技術者に自らを降格させ(形式上に過ぎないことは見え見えだったが)、Mac用のワードやエクセルを開発してアップルに提供するという手段に出て、かろうじて企業分割を免れたという経緯がある。まさに敵から塩を贈られることによってアップルは生き延びることができたのである。
 実はパソコン時代の黎明期、二人の天才的技術者スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズが設立したアップル・パソコンの大ヒットに、いち早く敏感に反応したのがコンピュータ業界の巨人IBMだった。が、パソコンなどおもちゃの域を出ないと考えていたIBMの技術者たちはパソコン用のOSをつくろうなどと考えもしなかった。そこでIBNはやむを得ずパソコン用OSの開発を外注することにして、当時マニアの世界ですでに有名だったポール・アレンとビル・ゲイツが設立したマイクロソフトに発注したのである。IBMがうかつだったのは、この時マイクロソフトと独占使用契約を結んでおかなかったことだった。ひょっとしたらIBMは二人の天才的マニアの技術力をあまり評価せず、ほかにも同様の依頼をしていて、できのいい方を選ぼうとしていたのかもしれない。あるいはそういう動きを見せることによってアップルと連合軍を組めるかもしれないという期待を持っていたのかもしれない。少なくともパソコンの肺とも言えるOS(心臓はCPU)の開発を外部に発注したくらいだから、IBMがアップルに対して何らかの提携を持ちかけた可能性はかなり高かったと思う。いずれにせよこの時期IBMが様々な選択肢を確保しながらパソコンへの進出を考えていたことは間違いないと言える。だから独占使用契約を結んでIBM自身が手足を縛られることを避けたのではないかと私は推測している。
 IBMの思惑はともかく、IBMが独占使用条件を要求しなかったことがマイクロソフトにとっては「棚から牡丹餅」以上の幸運だった。実際、マイクロソフトがIBMに提供したOS(MS-DOS)はIBMが期待していた以上の優れものだったため、IBMはただちにマイクロソフトに対し独占使用契約を持ちかけたが、アレンとゲイツはその要求を拒否、どのパソコンメーカーにもMS-DOSを供給できる権利を主張した。IBMはやむを得ず一ユーザーとしてMS-DOSをIBMのパソコンに搭載することになった。パソコンへの進出の機会を狙っていた世界各国の企業はいっせいにMS-DOSに飛びついてパソコン市場へ参入した。こうして一夜にしてアップルの一人勝ち市場は崩壊し、マイクロソフト連合が業界のリーダーシップを握ることになったのだ。
 いずれにせよパソコン戦争に勝利したマイクロソフトは、マイクロソフトにコミットしMS-DOSの上で走るアプリケーションソフトを開発してマイクロソフトの勝利に貢献したサード・パーティを今度は潰しにかかった。具体的には表計算ソフト(1‐2‐3)のロータス、文書作成ソフト(ワードマスター)のマイクロプロ、日本ではジャストシステムが開発した一太郎(文書作成ソフト)や花子(表計算ソフト)などのアプリケーションソフトに対抗するワード(文書作成ソフト)やエクセル(表計算ソフト)を開発し、これらのアプリケーションソフトのバンドル(抱き合わせ販売)をパソコンメーカーに強要したのである。その結果、すでに述べたように米公正取引委員会がマイクロソフトに対し会社分割の命令を出そうとしたため、マイクロソフトは見かけ上ゲイツがCEOから降り、さらにアップルにMac・OSの上で走るワードやエクセルを開発して提供し、何とか企業分割という窮地を凌いだのである。
 このブログ記事はマイクロソフトのえげつなさ、狡猾さを糾弾することが目的ではないが。あと一つだけ事実を明らかにしておきたいことがある。実はマイクロソフトがパソコンの世界を支配することになった原点のMS-DOSはアレンとゲイツが開発したものではなかったのである。IBMからOS開発の打診を受けたことは事実だが、開発する自信がなかったゲイツはいったん断っている。
 アップルはパソコンの心臓部にモステクノロジーのMPUを使っていた。ところがMPUの開発ではモスに先行していたインテルのMPUを搭載したパソコンをつくろうと考えてOSをシアトル・コンピュータ・プロダクツという小さな会社が開発していた。が、パソコンを開発製造するだけの資金力がなく、せっかく作ったOS(SCP-DOS)は宝の持ち腐れとなっていた。その情報をつかんだゲイツは直ちにシアトル・コンピュータ・プロダクツと交渉し、10万ドル以下の安値(ただし公表はされていない)で買い取り、MS-DOSと名前を変えて、あたかも自分たちが開発したかのように装ってIBMや全世界のパソコンメーカーに売りつけたのである。「他人のふんどしで相撲を取る」を絵に描いたような、20歳そこそこの若者のしたたかさにはあきれるほかない。
 いずれにせよ会社分割の危機から逃れるためにマイクロソフトはMac・OSの上で走るワードやエクセルを開発し、アップルの延命に手を貸した。マイクロソフト陣営に屈して一時CEOの座を追われたジョブズがアップルに復帰したが、もはやパソコン市場でマイクロソフト陣営を追撃することは不可能な状況にあることは認めざるを得なかった。そのことがジョブズに発想の転換をもたらしたのである。
 ウィンドウの機能もアップルが先行して開発したし、高度なグラフィック機能は依然としてマイクロソフトの追随を許していない。しかしどんなにパソコンの高機能化を図っても事実上の世界標準になっているマイクロソフトの牙城を崩すことは不可能であった。そこでジョブズが発想を転換した戦略で挑もうとしたのがインターネットを活用したニュービジネスの創造であった。その第1弾がiPodだったのである。
 ビデオのレンタル店がCDもレンタルするようになり、世界中のレコード業界は窮地に陥っていた。そこでジョブズが考えたのはインターネットを使って音楽ソフトを売買するシステムを構築することだった。販売側のレコード業界はコストがほとんどかからずCDの数十倍、数百倍のミュージックを売れれば、CDよりはるかに安い価格でCDの原音を消費者に提供できる。レンタル店からCDを借りてきて、帯域圧縮してMDに録音するより、消費者にとってもはるかに有利なのは当然である。
 ソニーも今はパソコンをつくっているが、ソニーのDNAはハード面での高機能化に集約されている。たとえばソニーは生命保険会社や損害保険会社も傘下に擁している。インターネットを利用すれば、単に保険料を安くできるだけでなく、消費者自身が年齢や家族構成、年収、などの条件を入力し、自分にとって最も有利な保険をインターネットを介して設計できるシステムを開発すれば、たちまち保険業界のトップに躍り出れるのだが、そういう発想はソニーのDNAからは絶対に生まれない。そのDNAの違いがアップルのiPodによってMDの存在価値が立たれたゆえんである。
 以上でNスペ番組に対する批判を完結する。