小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「日米同盟」至上主義の虚構を見抜いた――核禁条約に参加しない理由

2021-01-26 07:11:09 | Weblog
22日(金)、核兵器禁止条約が発効した。国連で核禁条約が採択されてから3年半になる。この日を、日本国民とりわけ広島・長崎の市民は一日千秋の思いで待ち続けたに違いない。
が、なぜか世界で唯一の被爆国である日本の政府は核禁条約に背を向けたままだ。意味不明の「第3の道」とやらを探っているという。「第3の道」のコンセプトは「核保有国と非保有国の橋渡しをする」ということらしいが、どんな「橋」を架けるつもりなのかは全く分からない。なんとなく「7色の虹の架け橋」のような感じはするが…。アメリカと北朝鮮のあいだに、太平洋上に超巨大な虹を作って見せるということか。
私は科学者ではないから、そんな巨大な虹を人工的に作れるのかどうかは分からないが、たとえ超巨大な虹の架け橋を作れたとして、その虹を見た金正恩やバイデンが感動して核兵器を太平洋の深海に沈めてくれるのだろうか。言い出しっぺの安倍さんは結局虹をつくらず引退してしまったが…。
えっ、まだ引退していないって? ウソだろう、冗談も休み休みにしてほしい。なに、国会中継で安倍さんを見たって? ああ、あれは私も見たけど、蝋人形だよ。きっと…。安倍さんだって、恥くらい知っているだろうから。

●日本政府が核禁条約に背を向けるための「口実」は…
世界で唯一の被爆国日本の政府が、なぜ全国民の悲願とも言える「核なき世界」の実現に背を向けるのか。現時点では核禁条約に罰則規定がないため、核保有国に対する強制力はない。が、そうであっても、核禁条約は「核なき世界」実現への現実的な第1歩になりうるし、そうする責任は日本が負うべきだ。
そういう意味では、現時点では核保有国に対する強制力を有していないとしても、国連に加盟する非保有国の大多数が核禁条約に賛成し批准すれば、核保有国に対する強烈なプレッシャーになりうるし、核保有国が主張する「核による核抑止力」の論理構造も崩壊する。本来、日本政府は真っ先に核禁条約に賛成・批准して、同志を増やす義務と責任を負うべき立場にあるはずだ。そしてそれが大多数の国民の願いでもある。なぜ日本政府は核禁条約にあえて背を向けるのか、外務省の公式見解はこうだ。

日本は唯一の戦争被爆国であり、政府は、核兵器禁止条約が目指す核兵器廃絶という目標を共有しています。一方、北朝鮮の核・ミサイル開発は、日本及び国際社会の平和と安定に対するこれまでにない、重大かつ差し迫った脅威です。北朝鮮のように核兵器の使用をほのめかす相手に対しては通常兵器だけでは抑止を効かせることは困難であるため、日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要です。
核軍縮に取り組む上では、この人道と安全保障の二つの観点を考慮することが重要ですが、核兵器禁止条約では、安全保障の観点が踏まえられていません。核兵器を直ちに違法化する条約に参加すれば、米国による核抑止力の正当性を損ない、国民の生命・財産を危険に晒(さら)すことを容認することになりかねず、日本の安全保障にとっての問題を惹起(じゃっき)します。また、核兵器禁止条約は、現実に核兵器を保有する核兵器国のみならず、日本と同様に核の脅威に晒(さら)されている非核兵器国からも支持を得られておらず、核軍縮に取り組む国際社会に分断をもたらしている点も懸念されます。
日本政府としては、国民の生命と財産を守る責任を有する立場から、現実の安全保障上の脅威に適切に対処しながら、地道に、現実的な核軍縮を前進させる道筋を追求することが必要であり、核兵器保有国や核兵器禁止条約支持国を含む国際社会における橋渡し役を果たし、現実的かつ実践的な取組を粘り強く進めていく考えです。

以上の文書は核禁条約について外務省が公表している「日本政府の考え」の全文であり、1字1句、手を加えていない。その論理の虚構を明らかにするため、「考え」の論点を整理する。
① 核禁条約が目指す核兵器廃絶という目標は共有している。
② 北朝鮮の核・ミサイルは日本にとって重大で差し迫った脅威である。
③ 北朝鮮の核に対する抑止力として米国の核抑止力の維持が必要。
④ 核禁条約には安全保障の観点がない。
⑤ 核禁条約に参加すれば、米国による核抑止力の正当性を損ない、国民の生命・財産を危険にさらしかねない。
⑥ 日本政府は国際社会における橋渡し役を果たし、現実的かつ実践的取り組みを進めていく。
●日本政府の「軍縮と軍拡の両立」政策は可能か
日本政府は核禁条約に背を向ける一方、核不拡散条約(米・英・仏・露・中の5か国にのみ核兵器保有の権利を認め、それ以外の国の核開発・保有を禁止した条約)には参加しかつ支持している。核不拡散条約参加・支持についての日本政府の考え方についての外務省の公式見解はこうだ。

日本は唯一の戦争被爆国として,「核兵器のない世界」の実現に向け,国際社会による核軍縮・不拡散の議論を主導してきています。日本は,すべての核兵器保有国に対し,軍備の透明性の向上を図りつつ核軍縮措置をとることを呼びかけ,具体的な行動を起こしています。

日本政府は過去のいつ、アメリカを含む「すべての核兵器保有国に対し、核軍縮措置をとることを実際に呼び掛け、具体的な行動を起こして」きたのか、私は寡聞にして知らない。国民のだれも知らないのではないか。少なくとも「虹の架け橋」はそのイメージさえ私たち国民にはつかめない。その一方で、政府は「北朝鮮の核の脅威」を必要以上に強調して、むしろアメリカに「核抑止力」の強化をお願いしているではないか。平ったくいえば、核軍縮の議論を主導しつつ、アメリカには北朝鮮の脅威に対抗すべく各軍事力の強化をお願いするというわけだ。この論理、理解できる人、いますか?

1987年12月8日、米レーガン大統領とソ連ゴルバチョフ書記長の間でINF条約(中距離核戦力全廃条約)が締結された。日本政府が両核大国に核軍縮を呼び掛けた結果、ではもちろんない。
2019年2月1日、米トランプ大統領はINF条約の破棄をロシアに通告、ロシアも直ちに条約の履行停止を発表、軍拡競争が再び始まりだした。
日本政府は両国に対して「核軍縮の国際的要請に反する行為」として抗議したか。するわけがない。日本の安全保障をアメリカの核抑止力に依存している以上、アメリカの核戦力の強化は歓迎すべきことだからだ。この一点だけでも、日本政府の「考え」が矛盾だらけのことが明々白々だ。野党もメディアも、そのことになぜ気付かないのか。子供でも理解できる論理だと思うが…。
実際、日本政府は「米国の核抑止力に頼らなければ、北朝鮮の核の脅威から日本国民の生命・財産を危険にさらしかねない」と主張しており、その立場から考えても日本政府がアメリカに核軍縮を要請できるわけがない。アメリカの核戦力が弱体化すれば、それは即日本の安全保障上のリスクが高まることを、日本政府の「考え」に基づけば、意味するからだ。それとも「両立」が大好きな日本政府は「軍縮と軍拡の両立」を目指すということなのか。
15日の金曜日に『ザワつく金曜日』で、世界トップクラスのカード・マジックを見たが、日本政府はこのマジシャンを最高顧問として雇用したらどうか。ひょっとしたら両立政策を可能にしてくれるかもね…。
私は「軍拡と軍縮の両立」は、現実世界ではは不可能と思うが、日本政府だけは可能だと思っているようだ。そうではないというなら、安全保障の基本をアメリカの「核抑止力」に依存しながら、核軍縮のための「虹の架け橋」をつくるという両立政策のエビデンスを明らかにしていただきたい。ここまで書いても日本政府の「両立」論の矛盾に気が付かない人は、この先を読んでも時間の無駄だ。テレビの『ザワつく金曜日』を見た方が健康のためにもいい。

●海外の人たちは、日米関係をどう見ているか
 もし米朝が軍事衝突した場合、金正恩総書記は、「真っ先に火の海になるのは日本だ」と公言している。なぜか。日本は特段、北朝鮮に対して敵視政策をとっているわけではない。が、米朝有事の際には在日米軍と在韓米軍が真っ先に動員される。北朝鮮はまだアメリカ本土を総攻撃できるほどの核・ミサイル戦力を有しているとは思えないから、在日米軍基地と在韓米軍基地が真っ先に北朝鮮の攻撃目標になることは間違いない。
実際、最近日本でも有事の際には敵の攻撃基地をたたくことが憲法上認められるかという議論が盛んになっている。これまでの日本防衛の役割分担は自衛隊が「盾」(防衛)、米軍が「矛」(攻撃)とされてきた。憲法解釈として自衛隊の「実力」行使は「専守防衛」に限定されるとされてきたが、敵のミサイル攻撃を「盾」の役割だけで防げるのかという議論が始まったのだ。私に言わせれば、なに今頃という思いを禁じ得ない。ボクシングのスパーリング練習じゃあるまいし、敵の攻撃を防ぐだけの「防衛力」などありえないし、防備なしの「攻撃力」もありえない。防衛力と攻撃力は一体でなければ、「専守防衛」も不可能だ。実際、どこかの国と軍事衝突が生じたとき、いちいちどこまでが「専守防衛」で、どこから憲法違反になるか、などと考えていられるわけがない。

では、日本が目指すべき安全保障策とはどうあるべきか。基本はアメリカの抑止力に頼るのではなく、日本が他国から敵視されないようにふるまうことだ、と私は考えている。
北朝鮮は、自国民に対してすら銃を向けることをいとわない軍に守られている金一族が支配する朝鮮労働党独裁政権だが、国民生活を犠牲にしてまでは核・ミサイル開発に狂奔することはできない。北朝鮮が東南アジアの最貧国であることはおそらく間違いないが、一部に報道されているような、北朝鮮国民が食べるものにも事欠くほどの極貧生活に陥っている状況ではないと思う。
実は、同じ共産党独裁政権の中国やベトナム、キューバでも、国民生活を犠牲にする経済政策を行い国民が飢えるような事態になったら、権力を維持することはできない。経済政策に失敗すれば、いかに軍によって支えられているといっても、国民は飢えれば必ず暴動を起こす。自分の命を犠牲にしてまで国民が共産党政府に忠誠を尽くすことはありえない。
日本でも江戸時代、一揆は謀反扱いされた。首謀者は死刑である。それでも飢饉でわずかに収穫できた米を藩によって奪われたら、「どうせ飢え死にするなら」と百姓一揆がしばしば起きた。そういう時、村長(むらおさ)は死刑になることを覚悟のうえで、一揆の先頭に立った。だから村長は農民を束ねるだけの権威を持っていたのだ。
だから権力を維持するための最高の手段は、経済政策で失敗しないことだ。が、今年5年ぶりに開かれた北朝鮮の労働党大会で、金正恩は経済政策の失敗を認めながら、「永久欠番」と目されていた「総書記」の地位に昇格した。そうでもしなければ、権力の地位を維持できない状況になったのだろう、というのが私の見立てである。一方、実妹の与正党第1副部長を政治局員候補から外して形の上でけじめを付けた。そのうえで、「米大統領がだれになろうと、アメリカは我が国に対する敵視政策を止めない限り、つねに主敵である」と改めて宣言した。経済政策に失敗しても、核・ミサイル開発はやめないという国際社会への挑戦である。
私は疑問を抱き続けた。日本の安全保障政策の基本はアメリカの覇権を強大化し、そしてアメリカの庇護を受け続けることであるべきか、と。他国の庇護を自国の安全保障政策の基本に据えるということは、事実上その国の属国になることを意味する。その基本原則は、古今東西を問わず、不変である。そのことに、日本政府やメディア、国民は気づいているのか。
私たちがどう考えようと、国際社会は、日本をアメリカの属国とみなしていることだけは疑いようのない事実だ。日本とアメリカの関係を海外の人たちがどう見ているか、世界中でアンケートを取ってみれば明らかになる。

●政府は尖閣諸島を「有効支配している」と言うが…。
アメリカでバイデン新政権が誕生した直後、日本の北村国家安全保障局長はバイデン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)のサリバン氏に電話し、尖閣諸島が日米安保条約5条(アメリカが日本防衛義務を定めた条文)が適用されることを確認したという。
実は昨年11月12日、バイデン氏の勝利がほぼ確実になった日に菅総理は、電話でバイデン氏から尖閣諸島についての安保条約5条の適用範囲であるという言質をすでにとっている。北村氏は念には念を入れたのだろうが、さらに大統領になったバイデン氏から正式に「口約束」を取り付ける必要がある。
米大統領が尖閣諸島について安保条約5条の適用範囲であることを初めて「口約束」してくれたのはオバマ氏だが、トランプ氏も「口約束」を継承した。が、日本が米大統領の「口約束」を明文化してくれといくら頼んでも(すでに頼んでいるはずだ)、アメリカは絶対、明文化には応じない。米大統領が「口約束」するときは、4年か8年に一度、どでかい「お年玉」を日本からせびり取れる大きなチャンスだからだ。
が、「口約束ほど当てにならないものはない」ことは洋の東西を問わず、普遍的真理だ。明文化したものを反故にするのは大変だが、口約束は「そのときと事情が変わった」で、簡単に反故にできてしまうからだ。ガースーは、安倍さんが岸田氏との「口約束」を反故にしたから総理の座に就けたことを忘れてはいないだろうね。
昨年、菅総理がNHKのインタビューで「尖閣諸島は日本が有効支配している」と発言したので、さっそく「有効支配」と「実効支配」の違いをネットで調べてみた。よく理解できなかったので、外務省に問い合わせたが、やはり違いはよく分からなかった。
実は私は外務省(中国・モンゴル課)に、アメリカの大統領の口約束が有効なうちになぜ尖閣諸島を「実効支配」しないのかと何度も聞いている。外務省によれば、そういう問い合わせは国民からたびたび寄せられているという。尖閣諸島を最初に所有者から買い取った東京都の石原都知事(当時)も、日本政府に「転売」したのちも、早く実効支配に踏み切れと何度も申し入れているようだ。
実効支配とは言うまでもなく、たとえば魚釣り島の中央の平地に自衛隊員の駐屯用建造物をつくり、少人数でも自衛隊員を配備するとか、日本漁船の緊急避難用の港湾施設をつくるとか、日本の領土であることを既成事実化することを意味する。現に日本政府が我が国の領土だとしている竹島や北方領土は、韓国とロシアに実効支配されており、日本は手も足も出せない。どうして日本は尖閣諸島を実効支配しようとしないのか、と外務省に聞いたが、私の頭では理解できない説明しか返ってこなかった。やり取りをかなり忠実に再現する。

「我が国は海上保安庁の監視船が尖閣諸島付近の領海を守っており、不法に侵入した中国公船には直ちに領海域から退出するよう警告しています」
「そういう行為が有効支配しているという意味ですか?」
「そうです」
「ということは、竹島や北方領土付近の海域(本来は日本の領海のはずだが)に日本の漁船が入ると直ちに拿捕されてしまうのは、竹島も北方領土も韓国やロシアに実効かつ有効支配されていることになる。日本の領土と主張するなら、なぜ実力で奪還しないのか」
「日本の両海域であっても外国船が航海中通過することは国際法上認められています」
「中国公船はどこかへ行くための航海中に尖閣諸島海域を通過したのですか」
「……」
「それだったら、退去を警告するのは国際法違反になりませんか」
「……」
「何度も警告したにもかかわらず違法侵入を繰り返す場合は撃沈することは国際法で認められていますよ。かつて大韓航空の民間機がスパイ撮影するためソ連領空を侵犯して撃墜された事件がありましたが、国際法上の自衛手段として認められていますよ」
「日本は話し合いで解決するという方針ですから」
「しかし尖閣諸島については、日本は中国との間に領土問題は存在しないという立場を取っていて、中国と話し合おうとはしませんね」
「その通りです」 

 日本の外交姿勢がますます分からなくなった。日本の主張の正当性を話し合いで認めさせるというなら、堂々と国際司法裁判所で争えばいいと思うのだが。

●日本が尖閣諸島を「実効支配」できない理由
日本政府が安全保障政策の基本を「日米同盟の強化(または深化)」に置いている以上、永遠に尖閣諸島問題も、竹島や北方領土問題も解決しない。日本が尖閣諸島を「実効支配」に踏み切ったら、アメリカが困るからだ。
アメリカは東南アジアの覇権を中国と争ってはいるが、中国と正面から軍事衝突はしたくない、というのがホンネだからだ。もし日本が尖閣諸島の実効支配に踏み切った場合、日中間で軍事衝突が生じかねない。そうなると、たとえ「口約束」であっても、唇も渇かないうちに約束を反故にして「おら知らねぇ」と知らんぷりするわけにはさすがにいかない。国際社会でのアメリカの権威が失墜しかねないからだ。ではなぜ、米大統領の「口約束」が有効なうちに実効支配に踏み切らないのか。
もちろん日本政府も尖閣諸島の実効支配に踏み切る場合は、事前にアメリカにお伺いを立てる必要がある。おそらく、もうすでに日本政府は「尖閣諸島の実効支配に踏み切ってもいいでしょうか」と、米政府にお伺いを立てていると思う。アメリカの回答は目に見えるようだ。「やめとけ」。
はっきり言えば、米大統領の「口約束」は、ペットの子犬の頭を「よしよし」となでるのと、実は全く変わらない。なのに、日本は「口約束」を取り付けただけで大喜びだ。しかも、「口約束」を取り付けるたびに、すでに書いたようにアメリカに季節外れのどでかい「お年玉」、はっきり言えばアメリカの軍需産業のために「防衛装備品」なる高いおもちゃを、それもアメリカ側の言い値で買わされてきた。日米同盟の強化(あるいは深化)とはそういう意味なのだ。
アメリカ大統領の「口約束」を「外交成果」と誇る政府も政府なら、それで喜ぶメディアや国民はよほどお人好しなのだろう。
実は領土問題を現実的に解決する方法は二つしかない。
領土問題の「話し合い」での解決は、別に日本の外交姿勢の問題ではなく、これまで成功した試しは国際的にも皆無だ。
① 国民投票を経て日本がアメリカの51番目の州になるという方法。そうすれば、尖閣諸島も竹島も北方領土もアメリカの領土ということになり、その場合はアメリカも実力行使をいとわなくなる。で、尖閣諸島、竹島、北方領土がアメリカ合衆国日本州の領土として実効支配できるようになったら、今度は日本州政府が州民投票を実施してアメリカ合衆国から離脱・再独立する。実はアメリカ合衆国はイギリスと同様、連邦制だから、例えばウクライナからクリミアが分離独立してロシアに編入したようなことができるのだ。もっとも、そんな見え透いた手にアメリカが乗るとは思えないが。
② 次に、この方法は理論的には最適な方法だが、アメリカ本土に自衛隊基地をつくることだ。そうすれば、「日米同盟」は完全に双務的な関係になり、日本はアメリカに対して対等にモノが言えるようになる。そして、それが可能な論理的根拠は期せずして安倍前総理とトランプ前大統領が作ってくれている。
まず安倍氏が作った論理的根拠は安保法制である。集団的自衛権という概念は国連憲章が初めて国際法上の権利として認めた権利だが、国連憲章51条はあくまで自国を防衛する手段として自国の軍事力だけでなく、他国(単独でも複数でも可)の軍事力も自衛手段として利用してもいいという国際法だ。これを日米安保条約の解釈に適用すれば、日本が他国から攻撃を受けた場合、アメリカは日本を防衛する義務を負うことになっており、日本はアメリカに対して自衛隊と一緒に日本防衛を要請できる権利があるという意味だ。それ以外に解釈のしようがないのだが、内閣法制局はどうトチ狂ったのか、「親密な関係にある他国が攻撃を受けた場合、日本はその国を軍事的に支援する固有の権利はあるが、憲法の制約によって、その権利を行使できない」と解釈してしまった(1973年)。この内閣法制局の解釈は日本共産党ですら認めているほどの、一見正しい解釈のように見えるが、では日米安保条約5条に基づいて日本防衛のためにアメリカが行使する軍事行為は「義務」ではなくて「権利」ということになる。私は日本共産党は思想集団ではなく宗教集団だと定義づけているが、とにかく日本が戦争に巻き込まれさえしなければ論理的根拠なんかどうでもいいと共産党は考えているようだ。それはともかく、安倍氏はこの内閣法制局の「集団的自衛権解釈」に基づいて、日本が危機にさらされる可能性がある場合は、他国の国際紛争に自衛隊の「実力」を行使して他国を防衛する権利があると、憲法解釈を変更して安保法制を成立させた。なぜ野党は安保法制を巡る国会での議論で、「集団的自衛権が他国防衛の権利であるとするなら、安保条約5条はアメリカの日本防衛義務ではなく、権利つまり気が向いたら日本を守ってあげますよという意味なのか」と政府解釈のいい加減さを追及しなかったのか。「権利の行使」と「義務の行使」には、天と地ほどの差があるのだ。
いっぽう、アメリカのトランプ氏は「日本が攻撃されたときアメリカ人は血を流して日本を防衛する義務を負うが、アメリカが攻撃を受けても日本人はソニーのテレビを見ていればいい」と、安保条約の片務性を問題視した。安保法制を成立させた安部氏は、直ちに「そんなことはない」と反論すべきだったのに、トランプ発言を耳にしなかったのかどうかは知らないが、だんまりを決め込んでしまった。安部のノータリンは別としても、少なくともトランプは安保条約5条を日本防衛の「権利」ではなく「義務」であることを理解している。安倍氏の名誉のために付け加えておくが、ノータリンは共産党を含む野党もだ。
実はトランプ発言は、日本の安全保障政策にとって、こんなビッグ・チャンスはなかった。私が日本の総理だったら、トランプ発言に飛びついて「承知しました。私たち日本も、安保法制に基づいてアメリカ防衛のため集団的自衛権を行使できるようにアメリカ本土に自衛隊基地を直ちに作ります。もちろん在日米軍基地に倣って、日本にとって都合がいい場所に基地を作りますし、自衛隊基地の経費は日本並みにアメリカに負担していただきます。言うまでもなく、基地協定も在日米軍基地に準じて結ばせていただきます」と世界中に公言している。
アメリカが在米自衛隊基地の設置を認めるわけがないから(もし認めたら、「なーんだ、アメリカはでかい面をしているけど、自分の国を日本に守ってもらっているじゃないか」と、国際的権威がいっきに崩壊する)、在日米軍基地は日本防衛が主目的ではないことが国際的に明々白々になる。そうなると、日本の総理が代々口にする、「日米同盟の強化」の意味も明々白々になるというものだ。

●「日米同盟」が日本の安全保障上のリスク要因になりかねない理由
私は日米同盟を破棄しろと言っているのではない。日本の安全保障上の重要な役割を、少なくとも現在は占めていると考えている。ただし、それはアメリカのためではなく、日本のためにだ。だから永遠に日米同盟が日本の安全保障上の最重要な要素を占め続けるとは限らないとも考えている。日本の安全保障環境は、極端に言えば日々刻刻変化しているからだ。
そういう意味では中国の南シナ海進出に対しても、アメリカの都合を中心に考えるべきではない。日本の安全と経済活動にとって支障がないよう、中国との信頼関係を深めることにも努力すべきだ。南シナ海の覇権をアメリカが握ったほうが日本にとって有利ならアメリカを支援すればいいし、中国が覇権を握ったほうが日本にとって有利なら、中国とより仲良くすればいい。実際、アメリカがイランとの核合意を破棄してイランの孤立化と経済制裁を強めても、日本にとってイランは原油輸入にとって欠かせない相手だから、アメリカに同調できない。アメリカもそれはわかっているから、日本にイラン制裁の協力を強制はしない。石油はエネルギー資源というだけでなく、重要な化学資源でもあり、日本の経済活動にとって絶対に欠かせない要素だからだ。
どのみち、米中が正面から軍事衝突することはまずありえない。かつてケネディがキューバ危機の時にソ連・フルシチョフを屈服させたブラフは、中国には効かない。そのことは、中国に対して強硬姿勢をとるだろうと予測されているバイデン政権も、重々承知しているはずだ。
だいいち、キューバ危機はアメリカののど元に核ミサイルを配置するという計画だったから、ケネディのブラフはブラフに止まらない可能性が実際にあった。同様に南シナ海は中国ののど元に当たる。中国と南沙諸島をめぐって領有権紛争を起こしているフィリピンやベトナムにアメリカが核ミサイル基地を作ろうとしたら、今度は習近平がカードを切ることになる。日本の政治家と違ってアメリカの政治家はバカではないから、習近平にカードを切らせるようなことは絶対にしない。
つまりアメリカとの「同盟関係を強化する(または深化する)」ことは、かえって日本の安全保障にとって重大なリスク要因になる可能性すらあるのが、いまの国際情勢だ。アメリカが敵視する中国やロシア、北朝鮮から、日本は事あるごとに敵視政策をとられかねないからだ。「昨日の味方は今日の敵」のリスクはつねにあることを私たちは理解しておく必要がある。
現に、ロシアとの北方領土問題交渉についても、ロシアのプーチン大統領は一時、2島返還に傾いたが、その2島に米軍基地を作られたらキューバ危機問題と同じことが起こりかねないと、返還問題を振り出しに戻してしまった。安倍氏は「米軍基地はつくらせない」と言い続けたが、安保条約上どこに基地をつくるかはアメリカに主権がある。現に、旧民主党政権の鳩山氏が首相に就任したとき、普天間基地の移設先について「最低でも県外」と約束したが、肝心の主権国であるアメリカがウンと言わなかったため、鳩山氏はウソつき呼ばわりされることになった。北方領土問題が「政治決着」したとき、安倍氏がウソつき呼ばわりされることになる可能性は極めて高い。
首都圏上空の制空権すらアメリカに主権を握られ、羽田空港への増便のため都心上空の飛行ルートを確保するときも、主権国アメリカにお願いしなければならなかったことを思い出してほしい。事実上、日本はアメリカ合衆国日本自治共和国であり、アメリカ合衆国の「51番目の州」提案は、それほど荒唐無稽な話ではないのだ。
ただし、第1次世界大戦時に、「日英同盟」を口実にドイツに宣戦布告して中国のドイツ権益を奪い取った歴史が日本にはあり、日本政府が憲法9条を改定した暁には、アメリカが戦争を始めたとき、日米同盟を口実に再び侵略戦争を始めることができると考えているなら、話はまったく別になるが…。
まあ、結婚式の時、「永遠の愛」を花嫁・花婿は誓い合うが、日米同盟もそんな程度のものだと、少なくともアメリカは考えている。日本だけが「愛は永遠に続く」と本当に思い込んでいたら、いつかひどい目に会う。

●核不拡散条約を改正すべき論理
トランプ氏の「日本が攻撃されたときは…」という発言は、トランプ氏だけの独特なものと考えていたら、とんでもない思い違いだ。実は前にもブログで書いたが、共和党支持者、民主党支持者、無党派層を問わず、アメリカ国民の90%以上は「日米安保条約は不公平だ」と考えている。そのことは外務省の安全保障担当者も承知している。政府もわかっているはずだ。現に日本政府要人にも「いざ有事の際、本当にアメリカが日本を核の傘で守ってくれるという保証はない」と、日本も核開発を検討すべきだと主張する人もいる。口をつぐんでいる政治家も腹の中ではみんなそう思っている。だから、アメリカにとって、日本が尖閣諸島の実効支配に乗り出したりしたら困るのだ。安倍氏や菅総理が「有効支配」などと意味不明なことを言い出したのは、アメリカの意を汲んで実効支配するつもりがない意図の表明である。この理屈、お分かりかな?
どのみち「絶対的な安全保障策」はありえない。もし可能にする方法があったとしたら、アメリカやロシア、中国以上の、核を含む軍事力を持つことだけだ。そんなことはまず日本国民が許さないだろうし、アメリカにとっては日本が脅威の対象になるから黙っていない。安全保障とはそういうものだ、ということを私たちは頭に叩き込んでおく必要がある。
だとしたら、「いま現実的な安全保障策」を追及するしかない。そういう観点から、日本は核不拡散条約や核禁条約にどう取り組むべきか。
現時点では、核不拡散条約の方が実効性があることは間違いない。そのことは、残念ながら私も認めざるを得ない。メディアも冷静に、世界はそういう状況にあることをしっかり認識してほしい。理想は理想として、実現のための努力を惜しむべきではないが、核禁条約を実効性のあるものにするためのハードルは、残念ながら極めて高い。
現に、北朝鮮の核・ミサイル開発やイランの核開発疑惑に対しては国際社会からの、国連憲章41条(非軍事的なあらゆる制裁措置)の発動が行われている。またイラクに対しては、実際には核開発の事実はなかったが、国連憲章42条(あらゆる軍事的制裁措置)が発動された。核禁条約には、そういう制裁措置が盛り込まれていない。そのことは核禁条約の理想と、現実的有効性との極めて大きな乖離として認めざるを得ない。日本政府の「核禁条約には安全保障の観点がない」との主張にも一理はあるのだ。「盗人にも一分の理あり」のたぐいだが。
では、唯一の被爆国・日本はどういう「核廃絶」への道を主導すべきか。少なくとも核保有国と非保有国の間に「夢の架け橋」を架けることは不可能なことはすでに書いた。繰り返せば、アメリカの核の傘に依存している日本が、いくら「核保有国と非保有国の橋渡し」をすると主張しても、それはアメリカでピストルを両手で構えながら銃規制を叫ぶような行為と同じで、「銃規制を言うなら、まずあなたが手にしている銃(アメリカによる核抑止力)を捨ててからにしなさい」と言われるのがおちだからだ。私たちは言葉遊びをしている暇はない。
だとしたら選択肢は極めて限られたものになる。核不拡散条約の改定か、核禁条約に現実的に有効な安全保障策を盛り込むかだ。
核不拡散条約の改定案(私案)としては、国連に届け出て一定数の加盟国の承認が得られれば、「自衛手段に限って、すべての加盟国に核開発・保有の権利」を認める条項を入れることだ。
具体的に言えば、アメリカはこれまで北朝鮮に対して言われのない敵視政策をとってきた(北朝鮮に対して根拠なしに「テロ支援国家」「悪の枢軸」といった非難を公然と行ってきたことは事実だ)。北朝鮮が、そうしたアメリカの敵視政策を脅威と感じ、国連に届け出た場合、一定数の加盟国が「北朝鮮には核を含む自衛手段を持つ権利がある」と認めれば、北朝鮮は核保有国の仲間入りができるように核不拡散条約を改定することだ。
そうなると、核大国はいわれなき敵視政策を、非保有国に対してとることができなくなる。
実際、核不拡散条約には、核保有国だけが認められた非保有国にとっては極めて不利益な要素がある。現に、アメリカの逆鱗に触れたイラクは実際には保有していなかった「核を含む大量破壊兵器」の保有を口実に多国籍軍の総攻撃を受けたし、アメリカの敵視政策に対抗して核・ミサイル開発に狂奔している北朝鮮や、核開発の疑惑を持たれているイランもアメリカやアメリカに同調する国から経済制裁を受けている。
かと思えば、事実上の核保有国であるイスラエルはアメリカの庇護のもとで核保有が黙認されているし、中国と領土紛争を生じているインドの核保有や、インドと領土紛争を抱えているパキスタンの核保有も、アメリカにとってはかえって好都合だから黙認されている。それでいながら、イスラエルの核に対抗してイスラム教国が核を開発・保有することは絶対に許さないというのがアメリカであり、そのアメリカの核の庇護を受けているのが日本なのだ。
先ほどの銃規制の話にたとえれば、両手で銃を構えながら、「お前たちに銃を持つ権利はない」と銃規制を強制しているのが核不拡散条約なのだ。
日本政府が言う「橋渡し」を有効なものにするためには、日本政府はまず核不拡散条約の不平等性を明らかにし、アメリカの身勝手さを国際社会に向かって告発することだ。そういうことができてこそ、日本は主権国家になれるし、国際社会からの尊厳を受けられるようになる。

●核禁条約を有効化するための「架け橋」とは…。
もう一つの、核禁条約に制裁措置を盛り込むことだが、これは事実上、非常に難しい。理想としては私も大賛成なのだが、核不拡散条約で核保有が認められている5大国はいずれも国連安保理の常任理事国であり、拒否権を有している。核禁条約を有効性のあるものにするためには、5大国の拒否権を無効にする必要がある。実は、私はそうすべきだと思っているが、なにせアメリカの主権下にあると国際的に見られている日本が、たとえそういう正論を国連総会で主張しても、まず相手にされないだろうし、だいいち、日本の事実上主権国であるアメリカのご機嫌を損じてしまう。日本政府にそんな勇気を期待することは処女に子供を産ませようとするくらい難しいことだ。そんなことは生物学上不可能だって? だってマリア様はイエス・キリストを処女懐妊したではないか。
広島・長崎に原爆を投下したアメリカは、いまでも非を認めていないが、後ろめたさはかなりの知識人は持っている。オバマ氏が大統領時代、広島の記念式典に参列し、被爆者とハグしたのは、そうしたアメリカ人の感情を反映した行為でもある。一方、すでに述べたようにアメリカ人の90%以上は日本に対して「安保タダ乗り論」感情を持っていることも、まぎれのない事実だ。日本人が考えている以上に、アメリカ人は冷めた目で日本を見ている。
が、いま日本政府にできることは、まずアメリカに対して「北朝鮮に対する敵視政策を止めてくれ」と言えるだけの矜持を持つことだ。在日米軍基地が日本防衛のためだけではなく(というより、日本防衛以上の)、重要な「使命」を持っていることは、日本政府も百も承知のはずだ。はっきり言えば、東南アジアにおけるアメリカの覇権維持のための軍事拠点が在日米軍基地だ。その「使命」以外に沖縄に基地を集中する理由はありえない。最近、中国が沖縄に対する領有権をほのめかしだしたが、たとえ沖縄に米軍基地がなくても自衛隊の抑止力で十分沖縄は防衛できる。
第2次世界大戦後、曲がりなりにも世界の平和はかなり守られてきたといえる。少なくとも帝国主義や植民地主義はすでに死語になった。なぜか。
基本的に戦争の目的は経済的利害の衝突にある。「戦争」は、国と国の武力衝突であり、地域的な民族紛争や宗教対立を武力で解決しようという行為は「戦争」とは言わない。あくまで「戦争」をそう定義すれば、「朝鮮戦争」とか「ベトナム戦争」という言い方がおかしいことが分かるはずだ。実際、「朝鮮国」がどの国と戦争したというのか。「ベトナム国」がどの国と戦争したというのか。あくまで朝鮮半島やベトナムで生じた、共産主義を標榜する軍事勢力と自由主義を標榜する軍事勢力の、国家支配権をめぐっての内乱(「内戦」と言っても差し支えないが)に過ぎない。その内乱にアメリカが武力介入したから「戦争」と名付けられたが、ではアメリカは朝鮮と戦争したのか、ベトナムと戦争したのか。
そのおかしさは、なぜ「中国戦争」という名称がないのか、考えればすぐわかる。日中戦争時には中国では自由主義軍と共産主義軍が「国共合作」で日本軍に対抗した。日中戦争が終結した途端、中国の支配権をめぐって共産主義勢力と国民党軍が争い、毛沢東率いる共産主義勢力が勝利を収めた。この内戦を「中国戦争」とは絶対言わない。第2次世界大戦でアメリカ軍が疲弊し、とても中国の内紛に介入できる余裕がなかったからだが、もしアメリカが武力介入して国民党軍を支援していたら、間違いなく「中国戦争」と命名されていたはずだ。お分かりかな、この理屈。
なぜ、経済的利益を追求した帝国主義や植民地主義が消滅したのか。他国を軍事的に支配することが、経済的合理性に欠けることに、第2次世界大戦の戦勝国が気付いたからだ。
前にもブログで書いたが、日本の朝鮮支配時代の収支決算をしたら、おそらく日本は大赤字になっていたと思う。第2次大戦後、日本を占領下においたアメリカも、占領期間中そうとうの赤字決算を余儀なくされたはずだ。
だから、たとえ憲法9条がなくても、日本は二度とバカげた侵略戦争などしない、と私は考えている。現に、イラク戦争後も、勝利したアメリカはさっさとイラクから撤退した。結果的にはそのためにIS(イスラム国)の台頭を招き、イスラム過激派のテロがいま世界の脅威になってしまったが…。9.11事件の後、アメリカはアフガニスタンのタリバン勢力をいったん、ほぼ一掃したが、アフガニスタンの治安維持のための財政負担に耐え切れずに兵力を撤退し始め、再びタリバン勢力が息を吹き返しつつある。
歴史認識をフェアに行うことの重要性は、こうした点にある。現代の倫理観で過去を非難し合うことからは、別に過去、日本が行ったことを擁護するつもりはまったくないが、生産的なことは何も生まれない。日本が過去行ったことの償いは、被害を受けた人にとっては金銭に代えられないこともあると思う。その思いは、過去の戦争に責任がない私たち世代も、引き継がざるを得ない。そのうえで、二度と過去の悲劇を人類が繰り返さないようにすることが、加害者でもあり被害者でもあった私たち日本人に課せられた責務だと、私は考えている。
確かに核禁条約には、安全保障の観点が抜けていることは否定できない。だったら日本は核禁条約に背を向けるのではなく、安全保障の観点を入れればいいじゃないか。そういう努力をすることが、唯一の被爆国・日本が作るべき「架け橋」では、な・い・だ・ろ・う・か。







NHKはなぜ私を告訴しない? それとも出来ないのか?

2021-01-18 02:02:35 | Weblog
今月13日、NHK前田会長が「中期経営計画(案)」を発表した。バンカー出身者(元銀行頭取経験者)らしく、「強靭でスリムな体質」や肥大化の一途をたどってきた体質の改善、受信料の見直しなどについて計画の骨子を発表した。
具体的には、23年度に受信料値下げの方針を打ち出し、その原資として事業規模の1割に当たる700億円程度を確保するという。中でも「衛星放送の受信料の割高感」を解消するため、衛星放送契約(地上波契約を包含)と地上波契約の2本立てを解消し、1本化すると同時に、衛星放送も1波に集約するという。
これらの改革案は、それなりに評価しないわけではないが、前田会長はバンカー出身らしく、肥大化に歯止めをかけスリム化を図ることがNHKの体質改善のすべてであるかのような認識でいるようだ。
が、スリム化を実現するためには大幅な人員削減が必要だ。NHKの職員数は上限が1万人を決められているが、それはあくまで正規社員の数。非正規を加えると、上限を超えているという説もある。すでに法制化されている「同一労働同一賃金」の原則からも、無能な正規社員を残して有能な非正規社員を馘首するようなスリム化であってはならない。

●毎日新聞以外のメディアは、なぜ沈黙するのか?
不思議なことに、「NHKの中期経営計画」について、民放が評価しづらいのはやむを得ないとしても、大手新聞社が、毎日新聞を除いて計画内容の概要を報道しただけで、なぜかそれ以上の評価を「遠慮」している。とりわけ日ごろからNHKを目の敵のごとく扱ってきた朝日新聞が、この経営計画には一切の評価を加えていないのはどういうわけか。昨年8月に社説で朝日は注文を付けていただけに、正式発表に対して沈黙しているのは、裏で握手することにしたのか? NHKが朝日新聞の大スポンサーになったとも思えないのだが…。
毎日新聞だけが16日の社説で多少、「辛口」な視点で解説した。『NHKの経営計画 視聴者本位の改革なのか』と題した社説の一部を抜粋引用しよう。
「チャンネル数を増やし、現在9波を持つことに対し、民放から「肥大化」との批判は強い。 ただ、BSの良質なドキュメンタリーの評価は高く、AMラジオの豊富な語学講座番組は熱心なファンが多い。NHKだからこそ可能なものであろう。帳尻合わせの削減になってはならない。 ネット活用も視野に入れているというが、受信料が値下げされても放送サービスの質が低下するようでは、逆に視聴者離れを招きかねない。
権力を監視するメディアとしての役割を忘れてはならない。 公共放送が提供すべき番組は何か。それが、いま問われている。視聴者に納得して受信料を払ってもらうには、コンテンツを通して信頼を得るより他に方法はない」
毎日新聞は、それでもまだNHKへの幻想を抱いているようだ。「権力を監視するメディアとしての役割を忘れてはならない」と。
私自身はとっくに「ジャーナリズム」としてのNHKに見切りをつけている。スポーツ紙や芸能週刊誌のように、「エンターテイメント放送局」に堕した、と思っているからだ。実際NHKがいま最も力を入れているのは、間違いなく「ドラマ」と「スポーツ中継」だからだ。唯一の政治番組と言える『日曜討論』も、司会の伊藤・中川両アナウンサーは、ストップウォッチをもって、発言者を順番に指名するだけで、発言者に対して「どういう意味か」とか「国民の間にはこういう意見もあるが」といった突っ込みも一切しない。それが司会者の「中立・公平な立場」と考えているのなら、中学生にでもできる司会だ。
かつてNHKの看板番組だった『NHK特集』が『NHKスペシャル』に衣替えしたとき、番組の「前宣」をスペシャルのスタッフから頼まれた。その打ち合わせで、プロジューサーから「タブーへの挑戦」を主張してもらいたいと言われ、私も喜んでインタビューに応じた。が、いまの「Nスぺ」に、その面影はまったく見られない。「N特」の時代の大連載企画「シルクロード」は、いくつもの歴史的評価に耐える「N特」の中でも、永遠に残る放送だったが、そうした意気込みすら感じられる放送は「Nスぺ」にはない。
まして毎日新聞のご託宣にある「権力の監視機能」や「民主主義の砦」としての使命など、いまのNHKのニュースからすらまったく感じられない。政府べったりと批判されている産経新聞や読売新聞でさえ、学術会議問題や「桜を見る会」問題、河合夫妻のカネまみれ選挙については厳しい報道をしている。NHKがこれらの問題に正面から向き合った報道をしたことは一度もない。

●NHKが「NHKらしさ」を取り戻すための大提案
この「中期経営計画」の策定に当たって、前田会長は「NHKを本気で変えるという強い覚悟を示した」とアピールした。「新しいNHKらしさ」もうたった。
その意気込みや「よし」としたいが、肝心の中身がさっぱり示されない。そもそも、前田氏はジャーナリストの経験もなければ、銀行というジャーナリズムとは全く無縁の世界から「経営合理化」のために政府が送り込んだ人物だ。だから本腰を入れてスリム化に取り組もうとしているのだろう。それはそれで大いに結構だが、同時に「強靭な体質」をつくるという。スリム化は確かに計画の中で表明されている。が「強靭な体質」とは、どういうことを意味するのか、単なる言葉遊びに過ぎないのか。まさか、いま以上に政府に寄り添う体質にしていくという意味では、さすがにないだろう。政府も、これ以上寄り添われたら、気持ち悪いだろう。
金融業界もいまスリム化が求められている。
金融業界も時代の要請に翻弄されてきた。明治維新以降は「富国強兵・殖産工業」の国策の要請を受け、軍事力強化や産業近代化を図るための資金を広く民間から集める役割を担ってきた。
敗戦後も焼け野原から産業復興のための資金を、やはり広く民間から集める役割を担ってきた。
「世界に冠たる」(?)全国津々浦々まで広まった日本の金融網は、こうして構築された。その金融網の維持が、いま日本の金融業界を苦しめている。
経済成長の途上にあっては、企業の資金需要は限りなく増え続けた。それに応じるため、成長産業の設備投資資金を担う長期信用銀行(興銀・長銀など)、大企業の短期の資金繰りをカバーしてきた都銀、中堅企業の設備投資や資金繰りを助けてきた地銀、地域の零細商店や小企業の資金需要に応じてきた信用金庫と、それぞれ金融機関が業務範囲をすみ分け、相携わって日本産業の成長を支えてきた。
が、今やその「世界に冠たる」金融網が、大きな、重い荷物として背中にのしかかってきている。産業界の資金需要が激減しているからだ。健全な産業界の資金需要が激減したため、日本の金融業界は競ってバブル資金の供給源になった。見せかけだけの経済成長が富裕層を潤したが、所詮「砂上の楼閣」にすぎぬ経済成長だった。政府が「これはやばい」と気づいたときはすでに「時遅し」だったが、政府はこともあろうにバブル退治を軟着陸ではなく胴体着陸でやろうとした。その手段が大蔵省の「総量規制」と日銀・三重野総裁の「金融引き締め」という原爆投下だった。
アホなことこの上ない自称経済評論家が三重野氏を「平成の鬼平」と持ち上げたが、この「金融引き締め」策が「失われた20年」のスタート・ラインになった。そもそもバブル経済を演出した澄田総裁の金融緩和といい、コロナ禍がなくても先進国の人口が減少時代に突入するという、ケインズもマルクスも予想もできなかった時代にあって、馬鹿の一つ覚えみたいに政府の使命は経済成長を遂げることにあると思い込んだ安倍前総理と、安倍氏とタッグマッチを組んだ日銀・黒田総裁の金融緩和政策のダブル・パンチで、ただでさえ疲弊していた金融業界は体力が持たない状況に追い詰められている。
そういうことを自ら経験してきた前田会長だけに、NHKを「スリムで強靭な体質にする」ということが、何を意味するか、本当に分かっているのか。
まず、単にニュースを報道するだけだったら、NHKに記者は必要ない。共同通信や時事通信が日本全国に最大の取材網を構築しており、また海外ニュースについてはロイターやブルンバーグなどがメディアにニュースを配信しており(NHKもこれらの通信社と契約しているはず)、それらのニュースを編成局が整理して報道すべきニュースだけ選別すれば済む話だ。つまり、政治部・社会部・経済部・国際部などの報道部門はすべて解体してしまった方がいい。テレビには映像が必要だが、それも買えばいい。
NHKが最も力を入れているドラマや歌謡などの芸能部門やスポーツ中継も、やりようでうんとスリム化できる。
たとえばドラマ。カネのかかる大物俳優は起用せず、劇団などの俳優養成所から無名だが、きらりと光るものを持っている役者を発掘して起用する。面白ければ、有名俳優が出演しなくても視聴率は稼げる。
歌謡番組はそうはいかない要素があるから、大物歌手を出演させる必要もあるが、安上がりにするため新曲を中心に構成するようにしたら、大物歌手でもほとんどボランティア出演してくれる。過去のヒット曲は新人歌手にカバーさせればいい。
スポーツ中継に至っては、民放が飛びつくようなカネのかかる試合には手を出さず、スポンサーを必要としないようなマイナーなスポーツに絞る。まさに「民放にはできない、NHKにしかできない快挙」だ。
前田さん、このくらいのこと、やってくださいよ。
こうした改革だけで、NHKの職員は8割くらい削減できる。さらに人員整理には徹底して「同一労働同一賃金」の原則を適用する。つまり、年功だけで役職についている役立たずの管理職からやめてもらう。ある程度の割増退職金は仕方ないでしょう。その代わり、有能な若手職員を能力に応じた抜擢し、待遇も大幅に改善する。若い人たちのやる気と競争がNHK改革の大エネルギーになりますよ。
前田さん、バンカー出身だから、私の提案が最も理にかなっていることが、お分かりですよね。

●「契約の自由」の主張ではNHKに勝てなかった理由
最後に、前田会長にぜひお願いしたいことがある。私を受信料未払で告訴していただきたい。
私は受信契約は結んでいるが、受信料は支払っていない。前は1年か2年かに一回くらいのペースで集金人が来た。「1か月分か2か月分を支払ってくれたら、私が今後は支払わなくてもいいようにしますから」という常套文句で、集金人を相手に議論しても始まらないし、彼らもこれでメシを食っていると思うと気の毒になり、その都度1か月か2か月分は支払ってあげた。
私のところに来た集金人はみな割と紳士的だったが、なかには暴力団まがいの取り立てをする集金人もいたようで社会問題になり、NHKも集金人による訪問はやめたようだ。
が、毎月のように、支払い請求書は封書あるいは張り合わせハガキで配達される。いちおう目は通すが、ほとんどゴミ箱に直通だ。が、例外的に同封された2通の文書だけは残してある。2通ともほぼ同じ内容で、わたくし宛て、日本放送協会の名で角印も印字されている。日付は平成2年2月と3月である。両書に共通している文面は「このままお支払いがない場合には、貴殿に対し、やむを得ず、法的手続きを検討せざるをえません」である。が、そろそろ丸1年になろうというのに、いまだ法的手続きを取ってくれない。
これまでNHKが提訴したケースで敗訴したことはほとんどないようだ。ネットで調べたところ、筑波大の学生が発明した「イラネッチケー」というNHKの地上波をカットする装置を取り外しができないように設置した女性を相手取った裁判では、NHKは敗訴したようだ。また衛星放送を受信できないようにパラボナ・アンテナを取り外した付きの受信料の支払いを求めた裁判でも、NHKは最高裁まで争ったが敗訴に追い込まれたという。
そうしたレアケースを除いて、NHKが敗訴してケースはほぼないようだ。メディアも話題にした裁判は、東横インというビジネスホテル・チェーンが各宿泊室に設置したテレビの受信料不払いの裁判や、渋谷区の男性が「契約の自由」を理由にNHKとの契約を拒否した裁判でもNHKは勝訴している。当時メディアは「憲法が保証した」と報道していたが、直接「契約の自由」をうたった条文は憲法にはなく、憲法解釈として男性は主張したようだ。百科事典マイペディアの解説によると、

個人は社会生活において自己の意思に基づいて自由に契約を締結して私法関係を形成することができ,国家はこれにできるだけ干渉すべきではない,という近代法の原則。〈私的自治の原則〉の一内容である。契約を締結するとしないとの自由,相手方選択の自由,契約内容決定の自由,契約方式の自由などを含む。

ということのようだ。最高裁の判決文までは面倒くさくて読んでいないが、常識的に考えて「契約の自由」は法律が定める範囲内においてしか行使できないのは当然で、放送法64条という法律はNHKの放送を受信できる装置を設置した者はNHKとの契約を義務付けているから、もし「契約の自由」によってNHKとの受信契約を拒否できるなら、私たちはあらゆる法律に従わなくてもよいことになり、そんなことを裁判所が認めたら日本は無政府状態になりかねない。
そういう意味では「N国」党の立花氏が、NHKに対してスクランブル放送を要求するのは自由だが(この自由は憲法によって間違いなく認められている)、NHKが放送をスクランブル化しないからといって受信料支払いを拒否できるわけではない。私も立花氏の主張はもっともだと思うし、課金制(見た番組の分だけ支払う制度)を要求している人もいるようだが、それを実現するためには放送法をかえなければならない。「N国」党は国会で2議席を確保しているのだから、与党に強力に働きかけて放送法の改正を実現するしかない。
報道によれば、改憲私事と引き換えにスクランブル化で与党の協力を得ようとしているようだが、与党もそれほどバカばかりではない。ま、無理な話だ。

●LAST HOPE お願い、私を告訴して―。
すでに書いたように、日本放送協会は2度にわたって私に対し「このままお支払いがない場合には、貴殿に対し、やむを得ず、法的手続きを検討せざるをえません」と警告文(脅迫文?)を発している。
が、NHKはいまだ「法的手続き」を取ってくれない。「検討する」時間は十分あったはずだ。なぜ、「法的手続き」を取らず放置しているのか。
すでに、私の考えは前回のブログで明らかにしているので、ここでは繰り返さないが、日本放送協会を管轄する総務省の担当職員は私のブログを読んでいる。
NHKは、私の主張に屈するか、それとも私を告訴するか、どちらかしか選択肢はない。

ねえ、前田会長さま。「法的手続きの検討」だけで済ませるつもりですか。だとしたら、日本放送協会の権威も地に堕ちるし、前田会長のリーダーシップも「絵に描いた餅」に終わってしまいますよ。NHKは「法的手続き」まで考えているのですから、バンカー出身の前田会長のメンツにかけても私から受信料を取り立ててください。なお、私の方は、これっぽっちの請求で弁護士を雇うようなことはしませんから(ボランティアで応援してくださる方がいれば別ですが)、司法の世界もカネ次第、そのうえ「村社会」ですから、1億円くらいかけて大弁護団を組んで告訴すれば、ひょっとしたらNHKが勝訴できるかもしれませんよ。


【追記】 昨夜(19日)、『クローズアップ現代』を見ながら、涙が止まらなくなった。武田アナが自民党・二階幹事長と新立憲・枝野代表へのインタビューを交えながら、いまの政治課題について鋭く突っ込んだ。あくまで言葉遣いは丁寧ながら、国民が抱いている政治不信を政権のキーマンである二階氏と野党の代表格の枝野氏に遠慮会釈なくぶつけ、質問を重ねた。最近のNHKにはまったく見られなかった姿勢が、ここには、まぎれもなくあった。インタビューに応じる二階氏の、最初のころ見せていた笑顔が次第に厳しくなり、冷静にインタビューを重ねる武田氏への怒りとも思える厳しい表情になっていったのが、そのことを何よりも雄弁に物語っている。
しいて注文を付けさせてもらうと、枝野氏に対する質問はもっと厳しくてもよかったのではないかと思う。今日のコロナ感染状況を招いた責任はもちろん政府が負うべきだが、感染対策と経済対策の両立を実現しようとしてきた政府に対し、「二兎を追う者は一兎をも得ずの政策だ」と、Go Toトラベルを始めた時点で、野党が反対しなかった責任も大きいという点だ。諸外国が感染対策を強めていったん抑え込みに成功したかに見えた瞬間から経済活性化に舵を切り替え、すべて失敗に終わってきたことはメディアが毎日のように報道していた。
二階氏は「結果が出てからならだれでも何でも言える」と居直ったが、野党も国民の反発を恐れて二兎を追う政策にからだを張って抵抗しなかった。その責任も鋭く追及してほしかった。
昨年10月26日、臨時国会での菅総理の所信表明演説について、『ニュースウォッチ9』の有馬アナが菅総理へのインタビューで学術会議問題について「もう少しわかりやすい言葉で、総理自身、説明される必要があるんじゃないですか?」「説明がほしいという国民の声もあるようには思うのですが」と食い下がったことがあった。これに対し、菅総理が「説明できることとできないことってあるんじゃないでしょうか」とキレ気味に反発。「総理を怒らせた」と、有馬アナの降板説まで出たことがある。
権力の前に委縮を重ねてきたNHKが、本来のジャーナリズムとしての責任である「権力の監視」「民主主義の砦」としての機能を回復するきっかけになってほしい、そう願うだけだ。(20日)






NHK中期計画でNHKはどう変わる?――憲法違反の受信料制度には手を付けないつもりか。

2021-01-14 03:28:24 | Weblog
13日、NHKは中期経営計画(案)を発表した。NHKはこの計画の策定に当たって広く意見を募集した。募集期間は20年8月5日から9月3日までの1か月弱。集まった意見は1819件で、うち個人(一般の視聴者)からの意見は1774件に達した(個人以外は民放など放送事業者が大半)。
NHKは寄せられた意見を類似するいくつかのグループに分けて開示すると同時に、その意見に対するNHKの考えも併記した。「N国」党が主張しているスクランブル化の意見も載せたから、一見公平に意見を扱ったかのように見える。が、NHKにとっては最も厳しかったであろう、私の意見はまったく無視された。
後で全文を掲載するが、私の意見(提案)は、意見募集の翌日、20年8月6日に意見募集のフォームからメール送信している。私の意見は「N国」党、立花氏の主張とは違うが、NHKが提訴した訴訟で、立花氏側が私の主張を裁判で弁論に使えば、間違いなくNHKは敗訴する。

●NHKの抜本的改革にはほど遠い、ごまかしだらけの中期経営計画
とりあえず、NHKの中期3年計画の概要は報道によれば、こういう内容のようだ。
「NHKは13日、2021~23年度の中期経営計画を発表し、受信料を23年度に値下げすることを明らかにした。原資は支出削減や新放送センター建設計画の抜本的見直しなどで捻出し、事業規模の約1割に当たる700億円を確保する。
またコスト削減のため、放送波の整理も行う。BS1、BSプレミアムのうち1波を削減。ラジオについても2波あるAMを1波に整理する。
 この日同局で行われた定例会見で、前田晃伸会長は『NHKを本気でかえるという強い覚悟を示した』と経営計画についてアピールした」
視聴料については23年度から「雀の涙」ほど下げるようだが、計画で何度も強調された「新しいNHKらしさ」については具体的なことは何も触れられていない。民放以上にエンターテイメント路線に傾斜してきたNHKの放送内容をどう見直すのか、さっぱりわからない。前田会長は「本気で」NHKをどう変えるつもりなのか?
NHKの悲願は「公平を期すため」受信料の義務化を国会で認めさせることにあり、そのため「権力を監視する」という重要なジャーナリストの使命を投げ捨て、ひたすら権力におもねって、極力、政治問題を避けてエンターテイメント路線を突っ走ってきたのだが、その涙ぐましい「努力」も報われず、受信料の義務化はいまだに実現できていない。
言うまでもないことだが、NHKの放送を受信出来る装置を設置したものはNHKと受信契約を結ぶ義務がある(放送法64条)。が、受信料の支払い義務については法律が定めておらず、NHKの内部規定があるだけ。受信契約は私も立花氏も法律に従って結んでいるが、受信料は私は支払っていない。立花氏も同様のようだ。ただ、支払い拒否の論理は、私と立花氏とは大いに違う。NHKに「スクランブル放送化」(例えばスカパーやWOWOWのように視聴料を払わなければ視聴できないようにすること)を要求している立花氏と違って、私は受信料の義務化を認めたうえで憲法違反の行為に加担するわけにはいかないという立場だ。
実際、私のところにはほぼ毎月「受信料払い込みのお願い」文書が送付され、不思議なことにその都度払い込み用紙に記載されている金額が異なる。で、時々NHKの「ふれあいセンター」(受信料部門)に電話して責任者に代わってもらい、「受信料支払い拒否」の論理を展開すると「わかりました。勉強になりました。ありがとうございました」と、お礼まで言われる。「私を提訴してくれないか」と挑発しても「提訴は致しません」と、つれない。
集金人の中には「提訴されたら」と私を挑発する人もいるが(最近は集金人も来ない)、私は受信料を支払っていないので被害者ではないから、私の方から訴訟費用を払ってまで裁判を起こすつもりはない。
ただ私はNHKが公共放送かどうかは別にして、公共放送には国民である以上、受信料は支払うべきだと考えている。ただ、いちおう百歩どころか千歩譲ってもNHKが公共的放送局とは考えにくいということだけでなく、NHKの内規である受信料制度が憲法14条が定める「法の下での平等」に違反しているから、私が受信料を支払えば、私自身が憲法違反行為に加担することになるため、支払いたくても支払うわけにはいかないという論理である。
ただし、選挙権や納税義務、電車やバスなどの公共交通の乗車料が、個人単位でなく世帯単位になり、憲法14条の「平等の原則」が世帯単位を基準とするように憲法解釈が変更されれば、私はNHKに受信料を支払うつもりだ。

●憲法違反のNHK受信料制度――支払うべきか、支払わざるべきか
ここまで書けば、NHKが私の意見書を無視せざるをえなかった理由が読者の皆さんにも、おおよそ見当がつくと思う。念のために、私が「NHKに対する提案書」を提出したのは、NHKが意見募集を始めた翌日である。意見書が殺到して目を通せなかった意見書も中にはあったかも、などという言い訳は通用しない。ここまでコケにされても、NHKは私を提訴できないか。
なお、この私の「NHKに対する提案」は、13日の昼間、朝日新聞の「お客様オフィス」にFAXし社会部に渡すよう依頼した。また今日14日には首相官邸を通じて総務省に伝えるようメールする。
では、私が昨年8月6日、広島に原爆が投下された日にNHKにメールした「NHKに対する提案書」の全文を公開する。

① 経営委員会についてー―経営委員会はNHKの最高意思決定機関であり、公正で公平な意思決定ができるように、公選制にすべきである。現在のように政府によって経営委員が任命される制度では公共放送としての、権力との適正な距離を保つことができなくなる。現に、かんぽ生保の不正販売についての番組に経営委員会が不当に関与し、公共放送としての信頼性を著しく損なったこともある。
② 番組編成について――NHKは公共放送であり、民間放送局には放送できないような公共性の高いコンテンツに絞るべきである。かなり前(数十年前)は娯楽が少なく、民間放送局も自前でドラマなどを制作できなかった時代には、NHKが自前でドラマ制作して放送することも合理性があったが、今はそんな必要はない。「民間ができることは民間に」が公共放送の原則であるべきだ。NHK3人娘(馬渕晴子・富士真奈美・小林千登勢)をNHK職員として育成しなければならなかった時代ではない。どうしてもエンターテイメント・コンテンツを外せないというならNHKを半官半民にして、娯楽番組は民間放送局と同様CMで制作費を賄うか、あるいは課金制のコンテンツにすべき。
③ 受信料制度について――かつてはテレビは一家に1台だった時代があり、いまの受信料制度はその時代に適正だった制度をいまだに続けている。いまはNHKの放送を受信できる設備も多様化しており、またテレビ自体も一家に1台から一人1台の時代に移っている。放送法64条はNHKの放送を受信できる「受信設備を設置したものは、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」となっており、この規定によれば「世帯単位の契約」は無効である。現代では一人数台の受信設備を持っている人もいる時代であり、世帯単位の受信契約でなく個人単位の視聴契約にすべきである。また現在の受信料制度は憲法14条の定めによる「法の下での平等」に抵触する可能性も高い。「法の下での平等」が「世帯単位」で行使されているのは事実上NHKの受信料制度だけであり、受信料未払で裁判になった場合、「一人暮らしの単身世帯と5人家族でテレビも5台ある世帯の受信料が同一なのは憲法違反である」と、憲法14条の解釈が争点になったら、おそらくNHKは敗訴する。
そこで放送法64条の一部を「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した世帯に属し、協会の放送を視聴できるものは、協会とその放送の視聴についての契約をしなければならない。ただし、満1歳未満の幼児および著しく聴覚障害がある者で協会が定めた基準に該当する者は、その限りではない。また未成年者については世帯主が代理で契約することを妨げるものではない。協会と視聴契約をしたものは協会に視聴料を支払わなければならない。ただし、未成年者については世帯主が代わって支払うことができる」と改定することを求める。なお、この改訂によって事業所向けの受信料制度は廃止する。視聴の二重契約になるからである。
また、生活保護世帯に属するものや障碍者に対する受信料(新しくは視聴料)免除制度は廃止することも求める。この制度は本来社会福祉に属する性質のもので、国なり各自治体が行うべきことである。彼らが負担すべき視聴料を一般の視聴者に自動的に負担させることは違憲の可能性がある。

【追記】 15日未明、NHK前田会長あてにFAXしましたので、貼り付けます。

NHK 前田晃伸 会長 殿
                                小林紀興(のりおき)

明日16日午前9時、前田会長は、13日に発表された「NHK中期経営計画(案)」について、『新しいNHKへの改革~皆さんの声に答えます~』という番組のなかでご説明されるようですが、昨年8月5日から9月3日までの1か月弱、視聴者などから改革についての意見を募集されました。私は意見募集開始の翌8月6日に意見フォームから、前々から疑問に思っていたことを3点に絞って意見を申し上げました。
が、今回発表された「中期計画」には私の意見はまったく反映されていませんでした。前田会長はご多忙ですから、寄せられた1819件の意見(うち個人の意見は1774件)のすべてに目を通されることは不可能だったと思いますが、最重要と自負していた私の意見には目を通されなかったように思います。おそらく前田会長が目を通された意見は、前もって前田会長の腰巾着の職員が、「この意見を会長にお見せすると大変なことになる」と、独断で私の意見を排除したものと思います。

あらかじめ申し上げておきますが、私は衛星受信契約をしておりますが、受信料支払いは拒否しております。以前は1~2年くらいのペースで来訪された集金人の方に脅かされたり、すかされたりして、面倒くさく、その都度1~か月分の受信料はお支払いましたが、最近は集金人の方もお見えになりません。
もちろん公平を期すためと思われますが、毎月「受信料支払い」の封書が届いております。何度か、「ふれあいセンター」(受信料担当)に電話し、責任者(スーパーバイザー)の方に、私が受信料を支払わない(支払えない)理由について申し上げ、「ぜひ私を告訴していただきたい」とお願いしてきましたが、中には「大変勉強になりました。ありがとうございます」とお礼まで言われたこともあり、また告訴については「いたしません」と拒絶されました。私を告訴するとNHKの体制が根幹から崩壊しかねないと危惧されたのかもしれません。

13日、新聞報道により、その日「中期経営計画(案)」が発表されることを知り、計画案もある程度わかりましたが、基本的にはBSやラジオ放送の1波化と受信料値下げという、すでに予想されていた範囲を出るものではありませんでした。で、前田会長が発表される前にお知らせしておいた方がいいと思い、「ふれあいセンター」(放送担当)の責任者(スーパーバイザー)に電話をして、NHKの受信料制度は憲法違反の疑いがあることをお伝えしました。
私は毎日ではありませんが、時々ブログを書いています。日本学術会議会員の任命権問題でも、菅総理の「任命権」にお墨付きを与えた内閣法制局の職員に「間違い」を認めさせたこともあり、そのこともブログで書きました。NHK改革への私の意見を無視されたため、経緯も含めて14日未明にブログを書き、また「ふれあいセンター」(番組担当)の責任者(スーパーバイザー)に電話をし、私を告訴するよう申し入れました。

実は私は受信料支払いを拒否していながら、受信料支払いを義務化すべきだと考えている人間です。しかし、受信料支払いを義務化するためには、その前に憲法違反の疑いが濃厚な現行受信料制度を合憲状態に変える必要がある、と考えています。
私が自身料支払いを拒否しているのは、受信料を支払えば憲法違反行為に私が加担することを意味するという信念を持っているからです。

というわけで、私が14日未明にアップしたブログ記事もFAX致しますので、16日の放送では「視聴者から重大な意見が寄せられたため、いったん発表した中期経営計画(案)を見直す必要が生じました」と、白紙撤回を宣言されることを求めます。聡明な前田会長ですから、私のブログ記事に目を通されれば、私の考えをご理解いただけるものと信じています。
2021年1月15日



日本政府が韓国の地裁からも、なめられた理由

2021-01-10 00:51:53 | Weblog
韓国はもはや「法治国家」ではない。
残念ながら、私はそう断じざるを得ない。
言うまでもなく、日本と韓国は海を隔ててではあるが、日本にとっては一番近い隣国だ。当然、両国間の友好的な歴史は長きにわたる。天皇家の血筋にも朝鮮王家の血が混じっているという説もあるくらいだ。
もちろん長い歴史の中で、不幸な関係にあった時期もある。豊臣秀吉による朝鮮侵略や、明治の時代における日本の朝鮮併合は、明らかに日本側に非があることは国際的常識と言っていい。とりわけ、日本が朝鮮を併合していた時代の生存者は韓国にも日本にもいる。日本人、とりわけ日本兵士によって悲惨な目にあった朝鮮の方たちも、まだ多く生存している。彼らがいまだ、日本への恨みつらみを抱いている気持ちも、私たち日本人は深く理解すべきだと思う。
が、私たち日韓両国民にとって、未来志向の関係を築いていかなければならないときに、日韓両国が永遠の仇敵であるような関係にしてしまうことは、かえって両国民にとって不幸と言わざるを得ない。

●韓国ソウル地裁の判決は国際法上、有効か?
私は1965年の「日韓請求権協定」によって、過去のすべてを水に流せたとは思っていない。日本が韓国に無償3億ドル、有償2億ドルを供給することで、相互に相手国への請求権を主張しないという「完全かつ最終的に解決した」というのは、あくまで日韓両政府間の取り決めであり、併合中に味わった苦しみを今でも引きずっている韓国の人たちへの思いやる気持ちは、日本政府も日本国民も持ち続けるべきだとは私も思っている。
そうした苦しみを味わった人たちの気持ちは、国と国との政治決着で解決するわけでは決してない。
私はそういう前提に立っても、元韓国人慰安婦12人(故人を含む)が日本政府に損害賠償を求めて起こした訴訟で、ソウル中央地裁が8日、原告の訴えを認めて日本政府に1人当たり1億ウォンの賠償金支払いを命じたことに、いったい韓国には現代法理論がないのか、と思わざるを得ない。
朝日新聞9日付朝刊によれば、ソウル中央地裁の判決理由はこうだ。

地裁は判決で、原告が慰安婦として受けた行為は「日本によって計画的、組織的に強行された反人道的犯罪」と認定。主権免除は「他国の個人に大きな損害を与えた国に、賠償を逃れる機会を与えるために作られたものではない」として、日本政府に適用されないと判断した。また、原告の賠償請求権は、日韓請求権協定や2015年の日韓慰安婦合意の対象に含まれていないとした。

このソウル中央地裁の判決について日本政府は「国家には他国の裁判権が及ばない」という主権免除をタテに、この裁判そのものを認めない方針のようだが、ソウル地裁は日本側の出方も想定して主権免除の原則はこのケースの場合、適用されないと判決文で述べている。
確かに、いわゆる「慰安婦問題」は韓国の主権が存在しなかった日朝併合時代に生じた問題であり、韓国が主権を回復した現在、当時の問題が他国間で生じた問題とはいいがたいとは、法理論上も考え方としてはありうると私は思う。たとえば太平洋戦争において米軍の二度にわたる原爆投下や民間人(非戦闘員)を狙い撃ちにするような無差別空襲は、人道上の罪として裁くのであれば、当時は存在しなかった国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)の管轄になる。国際司法裁判所は先の大戦が終了した後に設立されており、かつ原告と被告の双方が国際司法裁判所で争うことを容認しない限り、裁判そのものが開かれない。
そういう意味では、もし被告が拒否した場合、日本の検察審査会のような「この国際紛争は国際司法裁判所で決着をつけるべき」といった強制力のある権能を国連に持たせなかったという点で、私は国連憲章の改定が必要だと思ってはいるが、韓国が法治国家であるならば、元慰安婦は「自分たちの意に反した政治決着をした」として韓国政府を訴えるのが法理論上の常識だと思う。

●日本軍の「慰安所」設置は性犯罪防止のためだった
そういう意味では、もし私がこの訴訟の裁判長だったら、「原告の気持ちは理解できるが、原告が受けた被害が請求権協定から除かれたと主張するのであれば、訴えるべき相手は日本政府ではなく、日本政府と韓国政府が政治決着した請求権協定は無効だとして、韓国政府を訴えるべきです」と、日本政府を相手取った訴訟そのものを却下している。
さらに、これは事実に反する「河野談話」をそのまま放置してきた日本政府の体たらくが招いた事件でもあることを、私はこれまで何度もブログで書いてきたが、再度、検証しておく。いわゆる「河野談話」は、1991年に元従軍慰安婦らが日本政府に対して補償を求める訴訟を日本で起こしたことを受けて、宮沢内閣の官房長官・河野洋平氏(故人)が独自調査した結果を閣議決定を経ずに発表したものである。河野談話の趣旨は『百科事典マイペディア』によれば、

慰安所は〈当時の軍当局の要請により設営された〉とし,慰安所の設置・管理,慰安婦の移送について〈旧日本軍が直接あるいは間接に関与した〉と認め,〈慰安婦の募集については,軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが,その場合も,甘言,強圧による等,本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり,更に官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった〉と,している。そのうえで,〈当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた〉として元従軍慰安婦に〈心からのお詫びと反省の気持ち〉を表明した。河野談話は日本政府の公的な見解であり,韓国はもとより国際的にも政府公式見解と受け止められた。

はたして「河野談話」は歴史の真実を述べていたのか。「徴用工問題」が日韓の間で火を噴いていた時期に書いたブログ『広島・長崎の原爆から75年。「核のない世界」をつくるために日本は何をしてきた?+日韓問題』(20年8月6日投稿)で、私はこう書いた。

 実際には軍(政府と同義)が慰安婦所設置について厳しい通達を出している。要約すると、「占領地域内での日本軍人による住民の強姦など不正行為を厳重に取り締まり、士気の振興、軍紀の維持、犯罪および性病の予防のため慰安所の設置が必要である。慰安婦の募集に当たる者の取り締まりについては、軍の威信を保持し社会問題を惹起させないため、慰安婦の募集に当たる者の人選を適切に行うこと。適正な慰安所利用料金、避妊具の使用義務、慰安婦の健康管理(性病の検査を含む)に留意すること」などを各部隊に命じている。当時の日本政府が行っていた慰安所管理は国際水準からみても、模範とされるべきものだった。
 保守系メディアは、「ほとんどの慰安婦は職業的売春婦であり、自ら応募して大金を稼いだ者もいる」と、何人かの元慰安婦の証言を集めて韓国側の主張に反論しているが、これも全くの的外れ。いまでも警察官や自衛官の立場にありながら、強姦や痴漢、万引きなどの犯罪に手を染める連中が少なくない。まして当時の日本軍兵士が置かれていた状況から考えて、不正な行為が少なからずあったであろうことは想像に難くない。また、軍に取り入った慰安婦募集の業者が、場合によっては一部の兵士の協力を得て若い女性を強制連行したケースも少なからずあったと思う。
 が、それらの不正な行為が「組織的行為」(つまり個人的犯罪ではなく政府の責任による行為)とまで言えるのだろうか。はっきり言えば「河野談話」は、こうしたケースをごっちゃにして「政府の関与があった」と認めてしまった。その結果、韓国から付け込まれることになった。
 安倍総理は一時、「河野談話の作成過程を検証する必要がある」と主張していたが、アメリカから「やめとけ」と恫喝され、「はい、かしこまりました」と検証作業をすぐやめた。靖国神社参拝中止にしろ、これほど信念に欠けた総理を、私は知らない。中曽根氏や小泉氏も、総理時代、毎年靖国参拝を欠かさなかったが、アメリカからコケにされたことは一度もない。

これが戦時中、日本軍が行った「慰安所設置」に関する真実であり、日本政府あるいは日本軍が問われている「組織的行為」の真実である。私は安倍政権に対しても菅政権に対しても、極めて厳しい批判を繰り返しているので、左翼思想の持ち主と思われているようだが、私の目的はジャーナリストとしてフェアに真実を明らかにすることだという信念を持っている。思想的にはリベラルだが、「保守リベラル」でも「革新リベラル」でもない。ど真ん中の剛速球リベラルのつもりだ。実在するピッチャーでいえば、昨年引退した阪神の藤川球児氏のように、「ド真ん中の直球と分かっていても打てない」ような、「反論できるものなら反論してみろ」という気概で書いている。

●日本が尖閣諸島の実効支配に踏み切れない理由
私は別のブログで、日本の安全保障政策として最も有効なのは、米本土に自衛隊基地を置くことだ、とも書いている。
当然、この主張には100%の日本人が批判する。「そんなこと、出来るわけがないじゃないか」と。その通り。が、日本がアメリカにそう主張することによって在日米軍基地は日本を守るためではないことが明々白々になる。日本の防衛力は、在日米軍抜きでも、十分すぎるほどだからだ。
トランプは極端だったが、アメリカ人の90%は日米安全保障条約は不公平だと思っている。
「日本が攻撃されたら、アメリカは自分たちの血を流して日本を守らなければならないが、アメリカが攻撃されても日本人はソニーのテレビを見ているだけだ」
これはトランプの言葉だが、90%以上のアメリカ人の対日感情を代表した発言だ。「いや、そんなことはない。アメリカが攻撃されたら、日本も指をくわえてはいない」とは、集団的自衛権行使容認に踏み切った安倍さんでも言えない。
しかし、アメリカが勝手に始めた戦争には、いくらなんでも日本が集団的自衛権を行使して米軍の戦争に参加することは憲法上も、また集団的自衛権行使の条件からも無理だ。
しかし、(現実的にはほとんどありえないが)アメリカ本土がテロではなく、どこかの国の国家権力の実力行使として攻撃されるような事態が発生した場合、真っ先に日本は重大な安全保障上の危機に直面する。当然、集団的自衛権行使の要件の範疇だ。どうせそういう事態になるのであれば、アメリカが攻撃されたとき、米本土に自衛隊基地を置いて、アメリカを守るためにjは日本も血を流す用意があることを明らかにしておいた方がいい。
そういう「屁理屈」をこいて、米政府に「自衛隊基地を米本土に置くことに決めた」と日本政府が主張すれば、これまで日米安保条約の片務性に不満たらたらだったアメリカは、どう返答する?
今度はアメリカが窮地に陥る。トランプが日米安保条約の片務性を声高に言い張ってきたのは、要するに「カネ」が欲しかっただけだからだ。「在日米軍基地は日本を守るためにあるのだから、日本は米軍基地を維持するためのカネをもっと出せ」と言ってきた以上、「日本もアメリカを守るために自衛隊基地を米本土に作るから、日本が米軍基地の維持のために負担してきたのと同等のカネは出してもらう。もちろん基地協定も同等のものを結ばせてもらう」――そう日本政府が啖呵を切ったら、頭を抱えて困るのはアメリカだ。「世界1の強国」を誇ってきたアメリカが、日本の自衛隊に守ってもらわなければ自国の安全を保てないことが、全世界に明らかになるからだ。日本に限らず、アメリカが世界中の同盟国の大半に米軍基地を作ってきたのは、名目はともかくホンネはアメリカの覇権を守るためだからだ。

本当に日本はアメリカが守ってくれる、と日本政府が信じているのなら、アメリカの「本気度」を試してみたらいい。
オバマ氏も、トランプ氏も尖閣諸島は「安保条約5条の範疇に入る」と舌なめずりしながら「口約束」をしてはくれた。バイデン氏は、まだ大統領の地位が確定する前から、すでに「口約束」をほのめかしているという。そして日本は米大統領が「口約束」するたびに、軍備装備品という名の米国製兵器を言い値で買わされる。
だから、アメリカの「本気度」を確かめるためにも、日本が尖閣諸島を実効支配してしまうのだ、魚釣り島に港湾施設をつくり、わずかにある平地に自衛隊基地を設置して、尖閣諸島の実効支配を既成事実化してしまうべきだ。
が、日本政府にはできない。なぜか。アメリカが「いいよ」と絶対に言ってくれないからだ。もし実際に日本が尖閣諸島の実効支配に踏み切ったら、まず中国が黙っていない。その結果、日本と中国の間で軍事衝突が生じたら、アメリカは代々大統領の軽はずみな「口約束」を実行せざるを得なくなる(ホントは絶対に米軍は傍観するけどね)
万一、日本が尖閣諸島の実効支配に乗り出して中国との間で軍事衝突が勃発したら、アメリカはおそらくアメリカにとって最善の方法を取るだろう。具体的には日米安全保障条約を一方的に破棄して「我関せず」を決め込む。
そうなることを、中国は百も承知だ、だから、いくら日本が遺憾の意を表したり、抗議しても、「どこ吹く風」と公船を毎日のように尖閣諸島周辺の日本領海域への侵犯を繰り返しているのだ。
もちろん日本政府にも少しは頭のいい人もいる。バカばかりではないから、尖閣諸島問題がアメリカにとって「のどに突き刺さったとげ」であることを分かっている人もいるようだ。だから中国公船が領海侵犯しても、日本政府は「口先」だけの抗議や遺憾の意の表明で、日本国民をだまくらかすことにしているというわけだ。お分かりかな、この論理。

●北朝鮮との国交正常化がいま求められている。
普通、自尊心が多少でもある主権国家だったら、こうたびたび領海侵犯を重ねられたら、一戦交えるところだ。
さもなければ、尖閣諸島の領有権問題は国際司法裁判所で審理してもらったらいいと思うのだが、日本政府が「中国との間に領有権問題は存在しない」として、司法の場で争うことを避けている。
私が外務省に「なぜ尖閣諸島の実効支配に踏み切らないのか」と疑問をぶつけたら、「日本は話し合いで解決することをモットーにしていますから」という。なのに、話し合い解決の場である国際司法裁判所での解決を避けるのか。頭のいい人は時々わけの分からんことを言う。

しかし、アメリカの対日政策の本音が分かったら、たまには主権国家らしく振舞ってみたらどうか。
たとえば対北朝鮮政策。9日のHKK「ニュース7」を見ていたら、金正恩はえらく強気の発言をしているようだ。「だれが大統領になろうと、アメリカは主敵だ」「アメリカがわが国への敵視政策を止めない限り、わが国は戦う姿勢を緩めない」と。
逆立ちしても勝てない相手に、それでも「窮鼠、猫を噛むぞ」という姿勢を失わない北朝鮮と、経済的には世界3位の大国でありながら、アメリカの顔色ばかり伺っている日本を、国際社会はどう見ているだろうか。だからソウル中央地裁の裁判官も、日本の主権なんか無視していいと考えたのだろう。
これは日本の安全保障にもかかわることだから、はっきり言うが、北朝鮮との国交正常化を一日も早く目指すべきだ。戦後75年も経つのに、日本が賠償問題を解決できていない国は北朝鮮だけだ。
北朝鮮は、ホンネとしては日本の賠償金が喉から手が出るほど欲しいはずだ。日本にとっても、北朝鮮に払うべきものは払って国交を正常化し、北朝鮮の平和産業を育てるために資金や技術面での協力を行えば、北朝鮮にとっては日本を敵視する理由がなくなる。
その結果、北朝鮮が豊かな国になり、国民生活が安定すれば、金政権も安定するし、「仮想敵国」をでっちあげることで国民の不満をそらすようなことはしなくても済むようになる。極東アジアの平和的環境が一気に進む。
朝鮮半島の統一は、朝鮮の人たちが決めればいいことで、他国がとやかく口を出すことではない。北朝鮮に対して「悪の枢軸」とか「テロ支援国家」だとかの敵視政策はやめなさい。アメリカと北朝鮮がいがみ合うのは、横綱が子供相手にむきになるに等しいことだ。日本が責任をもって北朝鮮の核・ミサイル開発を止めさせるから、横綱は横綱らしく、ガキ相手に力でねじ伏せようなどとバカなことは考えないでほしい。
日本が、北朝鮮と国交を正常化し、米北の緊張をほぐし、極東アジアの平和的環境が一気に進めば、主権国家としての日本の存在感も国際社会で大いに増す。
「拉致問題」の解決も、そうなれば一気に進む。圧力をかければ解決する問題ではないからだ。いま拉致被害にあった日本人のうち、何人が生存しているかは不明だが、生存していても北朝鮮が日本に帰そうとしないのは、重要な国家機密に接する立場にあるためと考えるのが自然だ。そういう状況にある拉致被害者を、いくら圧力をかけても無駄だ。日本に帰しても大丈夫という状況を北朝鮮に作ってやることが、安全保障上のリスク解消や拉致問題解決にとって、一番の近道である。

そういう時代が訪れたとき、私はノーベル平和賞の有力候補に…というのは今年の初夢だった。

【追記】10日朝、フジTVの『日曜報道プライム』にコメンテーターとしてリモート出演した橋下徹弁護士が、「僕はソウル地裁の判決には反対だが」という前提で、自分自身の弁護士としての体験を話した。
「外国で受けた被害についての相談を受けることがしばしばあったが、主権免除の原則から日本で裁判を行うことは無理だと言ってきた。しかし、最近主権免除が被害者の救済を妨げているという考えから、主権免除にも制約を加えるべきだという考え方が強くなってきており、そういう観点から徴用工判決で被害を被った日本企業は日本国内で裁判に訴えることができる、と僕は思っている」
なるほど、橋本氏らしい主張だが、では徴用工判決の被害者は誰(個人、法人、政府?)を相手に訴訟を起こしたらいいのか。個人とした場合、訴訟を起こした原告ということになるが、その場合でも、原告が加害者であることの立証が必要になる。つまり判決結果ではなく、訴訟を起こしたこと自体が不当であり、かつ不当な訴訟を起こされたことによってどういう被害が被告の日本企業に生じたのかを立証しなければならない。それは可能か?
次に法人とした場合、「不当判決を下した裁判所」ということになる。日本の場合、裁判官を相手取って訴訟する場合、「弾劾裁判」という制度があるが、これは日本の司法制度であって、外国の司法制度にクレームをつけることは「主権免除」どころか「主権侵害」になりかねない。そんなことは事実上、不可能だろう。
最後に韓国政府を訴えることができるか、という問題だ。が、いまのところ韓国政府は徴用工判決についても慰安婦判決についても、司法の判断には関与しないという姿勢だから、徴用工裁判の被告である日本企業も、慰安婦裁判の被告である日本政府も、韓国政府を相手取った訴訟はできない。
これらの判決を受けて韓国政府が何らかの措置を講じて、被告の日本企業や日本政府が実際に被害を被った場合には、現実的解決手段としては国際司法裁判所に提訴するか、一戦交えて軍事的勝利を収めたうえで、政治決着による解決に持ち込むしかない。バカは死んでも治らんか。
ただ慰安婦問題については日本は国際的に誤解を受けているので、ある意味ではいい機会だから先進国各国の主要紙に全面意見広告を出して、私が書いたようなフェアな論理を展開し、汚名を晴らすべきだと思う。(10日10:15)


今年最初のブログ――AIは人類に何をもたらしてくれるのか

2021-01-05 05:30:37 | Weblog
2日の深夜、眠い眼をこすりながらNHKのBSスペシャルを見た。『私たちのデジタル医療革命2021』というタイトルで、久しぶりに三宅民夫氏の司会進行を見た。
医療の世界でもデジタル技術は急速に進んでいる。一つは医療機器の進歩に欠かせないデジタル技術。この分野でデジタル化が急速に進んでいるのが画像診断機器だ。私が若かった頃、画像診断機器はレントゲンしかなかった
レントゲン(X線撮影)装置を世界で初めて開発したのはドイツのシーメンス社で1898年である。が、レントゲンが医療機器に応用されるようになったの
は1930年代に入ってからである。主に骨折や肺結核の診断に使用され、今日では総合病院だけでなく、ほとんどの整形外科クリニックをはじめ内科クリニックや歯科クリニックなどに設置されている。

●AIが医療現場に入り込めない理由
医療分野における画像診断は約一世紀にわたってレントゲン機器しかなかった。が、1948年、ウィリアム・ショックレーらが、のちに「3本足の魔術師」と呼ばれることになるトランジェスタを発明したことで、「第2の産業革命」と呼ばれるデジタル革命が始まった。余談だが、このトランジェスタを初めて家電製品に応用したのがソニーで、世界初のトランジェスタ・ラジオの発明に成功し、それがソニーの源流となっている。パナソニックの場合は二股ソケットの発明が源流だ。
医療分野へのデジタル技術の応用は、まず画像診断機器から始まった。1967年、ソ-ンEMI研究所のハンズフイールドがCTを考案、71年に実用化され、脳の断層撮影に初めて成功したとされている。
CTの発明以降、デジタル医療機器の開発が急速に進み、当時のCTでは不可能だった3次元的な画像情報を得る機器として1973年、ランターバーらが初めてMRIを提案、1978年には初めて人体画像の撮影に成功、2000年代に入って急速に普及するようになった。また手軽な画像診断機器としては超音波による腹部(胃腸や肝臓など)や膀胱などの診察に使用されている。
医療機器のデジタル化はさらに進み、2007年には極めてコンパクトでクリニックでも設置できる(価格面のことではない)3次元CTが登場する。実際、3次元CTを「売り」にするクリニックも現れ出している。が、受診料がかなり高額で、保健医療の対象にはまだなっていないようだ。
また胃カメラや大腸カメラの分野でも、必ずしもデジタル技術の応用とは言えないが、小型化が急速に進んでいる。私が人間ドックで初めて大腸カメラによる診察を受けたのは今から40年近く前だが、気が遠くなるほどの激痛だった。ドックでの最後の検査で、看護婦(当時の呼称)いわく。「最初に大腸カメラをすると、患者さんが逃げ出してしまうので、最後にしている」との優しい心遣いによるという。ふざけるな!…と、心の中で叫んだ。
しかし、なぜか医療分野でのデジタル革命は、遅々として進んでいないように見える。手術やCT、MRIやカメラなどで得られる画像の診断といった医療行為の分野にはなかなか応用されないのだ。なぜか。
工業社会においてはデジタル化の波はどんどん押し寄せている。極端に言えば生産工程の無人化によって、工場には生産装置や機器類のメンテナンス要員しか必要ないといったケースも生じている。生産現場で働いていた工員たちの「既得権益」など、だれも考慮してくれない。
だが、医療の世界では医師や技師、看護師といった「資格取得者の既得権益」を守るために、彼らの「専門」分野でのデジタル革命は大きな壁で妨げられているのだ。いったい医療は誰のためにあるのか。ふざけるな…と心の中で私は叫び続けている。私も弱い人間だから、医師に向かっては正論を言えない。「命を預ける」という弱みがあるからだ。悔しい…けど、諦めざるを得ない。
実は医者の側にも、誤診をなくすことはできないことから、最近は「セカンド・オピニオン」を認めるようになった。
1963年、医療界に一つの激震が走った。名医中の名医とうたわれた東京大学医学部の沖中重雄教授が退官に際して行った講義で「自分の誤診率は14.2%だった」と公表したのである。もちろん当時はAIなんか影も形もない。だからもしAIが診断していたらなどという設問を立てることは無意味である。
ただ断言できることは画像診断に関しては、いかなる名医よりAIの方が優れているということだ。かつてテレビ(局は覚えていない)で自動車のナンバー・プレートを5度か10度くらいの角度で写した写真を、視力が抜群にいい人間とAIに読み取らせるという実験映像を流したことがある。人間にはまったく読み取れなかったが、AIは正確に読み取った。
画像診断機器がいくら発達しても、診断するのが人間の医者だったら、誤診は免れ得ない。が、医者の側は自分の「既得権益」を絶対手放そうとはしない。
ガースーよ、剥奪しなければならない「既得権益」の世界は学術会議だけではないよ。

●AIは人間に勝てるか――永遠のテーマ
ではAIには何ができ、何ができないのか、考えてみたい。AIの可能性について議論する場合、つねに問題になるのは、AIがいつの日か、人間の能力を超えることができるかというテーマである。
その場合、いったい人間のどういう能力をAIが超えるか、の基準をあらかじめ明確にしておかないと議論する意味がない。
よく言われていたのは、AIには感情がないということだが、すでに「疑似感情」を持つAIロボットが続々生まれている。飼い主と一緒に喜んでくれたり悲しんでくれたりするペット・ロボットや子供ロボットだ。コンピュータはもともとAIを搭載していなくても学習能力を持っており、AIロボットは飼い主と戯れている間に飼い主の言葉から感情移入の能力を有しており、かつ学習によって「疑似感情」能力を向上させている。
次に思考力だ。思考力は人間も学習によって培っていくが、AIが人間のように、自ら学習し思考力を高めることができるかという問題だ。とくにクリエイティブな能力をAIがもちうるかということが最大の問題だ。
史上最年少で将棋「二冠」を達成した藤井聡太君の場合、人間棋士を相手の練習よりAI相手の練習の方がはるかに多いそうだ。藤井君の相手をしている「AI棋士」は、おそらく将棋界で最強の実力をすでに持っているのではないか、と私は思っている。聡太君の相手をすることで、彼の「AI棋士」は相当学習して力をつけているからだ。
人間は、聡太君や不世出の天才と言われた羽生善治棋士でも、長時間の対局で思考力も次第に鈍っていくが、AIは思考力が鈍るどころか対局中にも思考力にさらに磨きをかけている。もし聡太君の「AI棋士」と羽生氏の「AI棋士」をオンラインでつないだら、日本中の棋士が束になってかかってもかなわない「最強AI棋士」が誕生するかもしれない。
が、「AI棋士」が、かつて見たこともない一手を生む能力を持ちうるか、と考えたら疑問がある。数年前、NHKが確か『スペシャル』だったと思うが、羽生棋士と「AI棋士」の対局を放送したことがある。このとき、AIは初手で王を金の頭に動かすという手を打った。そんな手を打つ棋士がいるわけがなく、AIが学習しているわけがない。で、びっくりした記者がプログラマーに「そういう手を打つよう、プログラミングしたんですか」と聞いた。私もテレビを見ていて同じ疑問を持った。が、プログラマーは「いや、そんなプログラミングはしていない。私自身がびっくりしている」と答えた。この番組を作ったプロジューサーは、AIがクリエイティブ能力を持ちうることを証明したかったのかもしれないが、明らかにやらせである。
実は、AIが絶対に、永久に獲得できない、人間にしか持ちえない能力は、「疑問を持つ」という能力だと私は考えている。
私は前にも書いたが、論理的思考力を培うためのスタート・ラインは「赤子のような素朴な疑問を持つこと」である。
私は人間が「神」(が存在すればの話だが)から授かった最大の能力は「疑問を持つこと」だと思っている。疑問を持たなかったら、解決はない。解決すべき問題の所在に気づかないのだから。
ニュートンが「万有引力の法則」を発見したきっかけは、リンゴの実が木から落ちるのを見て疑問を抱いたことにあるという、あまりにも出来すぎたエピソードがある。そういうエピソードは大体後から面白おかしくつくられることが多く、もしこのエピソードに多少の真実が含まれているとしたら、たぶんニュートンが子供のころに目の前でリンゴの実が本当に風も吹いていないのに(おそらく実が熟したため?)、ポトリと落ちたのを見て(そういう場面に遭遇したこと自体、奇跡的と言えるかもしれないが)、子供心に疑問を抱き、その記憶がずっと残っていて、そのことが万有引力の発見につながった可能性はある。
もしAIが人間から問題を与えられたら、かなりの確率で正答を出すだろうが、その場合もあらかじめ人間が「解決すべき疑問」を持っていてAIに解決法を見つけさせようとするからである。
たとえば、ガースーは4日になってようやく緊急事態宣言の発令に前向きに取り組むことを発表した。2日に首都圏の4知事が首相官邸を訪れて緊急事態宣言の発令を要請したのに、ガースーは対応を西村・内閣府コロナ感染担当相に任せて自分はさっさと議員宿舎に引き上げた(引き上げたと書けば格好はつくが、実質は逃げ出した)。そのうえ3日にはラジオ放送に出演して緊急事態宣言の発令には消極的な発言をしてメディアから猛反発を食った。もし、AIにコロナ感染対策を考えさせていたら、おそらく11月の後半には「地域限定の緊急事態宣言を発令すべし」という答えを出していただろう。
ガースーが逡巡し続けたのは、二階自民党幹事長にお伺いを立てずにGo Toトラベルを独断で一時停止したことで、二階氏のご立腹を買ったためと思われる。「二の舞」を踏むと9月の総裁選で突き放されることを案じ、ガースーが二階氏のご機嫌が直るのを待っていたからに違いない。AIは学習能力によって「疑似感情」は持つことができても、そういったこざかしい計算能力は学習していないから、感情抜きに最も正しいと思える解答を出してくれる。
※4日のNHK『ニュースウォッチ9』を見ていてびっくりした。ガースーが首都圏限定の緊急事態宣言を出さざるを得ない状況に追いつめられていることについて、経済界の懸念の声を集中的に報道した。それはいまのNHKのスタンスとして不思議でも何でもないが、びっくりしたのはNHKの女子アナのエース格である和久田麻由子アナがこのニュースの最後を締めくくったひと言である。「緊急事態宣言が出されたら、経済はどうなるんでしょうか」という、常識はずれの発言だった。NHKの方針として発言を強要されたのかどうかは知らないが、経済はいったん疲弊しても、復活できる潜在力があれば復活できるが、コロナで死んだ人はイエス・キリストと違って復活することはありえない。このバカ女は何を考えているのか。


●チャップリンは「喜劇王」だったのか、それとも「哲学者」だったのか?
 話はちょっと飛ぶ。若いころから私が抱いていた疑問の一つだ。
 チャップリンは「喜劇王」として一世を風靡した。しかし、喜劇役者はその後も続出している。なぜチャップリンだけがいまでも「喜劇王」として人々に愛され、記憶に残っているのか。
 彼の喜劇は産業革命を痛烈に批判した作品が多い。労働者が機械の奴隷となる姿を「喜劇的」に描いた作品が多い。チャップリンが否定的に描いた産業革命とは何だったのか。なぜチャップリンは産業革命を否定しようとしたのだろうか。
産業革命は大量生産・大量消費の時代を切り開き、多くの人が自動車や電気製品など、文明の利器を容易に入手できるようにした。多くの人は文明の利器に囲まれた豊かな生活を享受できるようになった。
 いったい、産業革命とは何だったのか。なぜチャップリンは猛烈な拒否感を持ったのか。いま、だれもチャップリンに会って、「あなたはなぜ産業革命に拒否感を持ったのか」と聞くことはできない。
 そういう時、ネットは極めて有利な情報源になる。産業革命についても諸説があるし、チャップリンについても様々な評価がある。私はこのブログで産業革命論をぶつつもりもないし、チャップリンが単なる「喜劇王」だったのか、それともまれにみる「哲学者」で、自分の哲学的思考を表現する手段として喜劇映画を選んだのかを深掘りするつもりもない。
 実は、私はチャップリンにそれほど興味を持っているわけではない。いま私たちはどういう時代に向き合っているか、ということを考えている。
アルビン・トフラーが『第3の波』を著して(日本語訳:1980年)世界に衝撃を与えたことを覚えている方は、いまどのくらいいるだろうか。
 トフラーは人類の文明史を三つの波としてとらえた。「第1の波」は農業革命であり、「第2の波」が産業革命(工業社会)、そして今「第3の波」である情報革命(脱工業化社会)に人類は直面しているという説だ。とりあえずトフラー説に従って、私たちはいま情報革命のどういう時代に直面しているか、考えてみたい。

●トフラーが与えた衝撃
 とりあえずトフラー説に従って、と書いたが、本当に情報化社会は脱工業化を進めたのかの検証が必要だ。
 まず「第1の波」は農業生産力の飛躍的増大をもたらしたとされている(本当にそうかは、私には検証できない)。「第2の波」の産業革命は間違いなく工業社会の飛躍的拡大をもたらした。そのことは検証するまでもなく、だれも否定できない。
いちおう農業革命(実態は不明)が人類を飢えから解放したとしよう。農産物の生産コストが飛躍的に低下したからか(検証不能)。が、「第2の波」である産業革命は工業製品の生産コストを間違いなく飛躍的に下げた。その結果、自動車や家電製品などの工業製品が、多くの人たちの手に届くようになった。これは疑いようのない事実である。
 では「第3の波」である情報革命は従来の革命と同様に、何かの生産コストを飛躍的に下げたのか。農業革命は農産物の生産コストを大幅に下げたか。トフラーはその証明はしていない。実際に農産物の生産コストを大幅に下げたのは、産業革命で人手に変わる農業危機が続々生まれたからである。また産業革命は工業製品の生産コストを大幅に減少し、大量生産大量消費の工業化社会を実現したことは否定できない。
 私は別に情報革命を否定するつもりはないが、情報化社会が実現したことは、産業革命をさらに推し進めたことと、人々が知る権利の条件や誰もが情報を発信できる手段を持ち得たことに過ぎないと、私は思う。ただ、トフラーの時代にはそういう手段を人類はまだ手にしておらず、トフラーが現在さらに未来の情報化社会をどこまで見抜いていたかには疑問がある。
 情報が「価値」を持つ時代はとっくの昔からあり、たとえば有名なエピソードとしては大財閥のロスチャイルド家がそのきっかけをつかんだ英仏戦争で、イギリスが仏ナポレオン軍とのワーテルローの戦いで勝利したという事実を英政府より早く知り、あたかもイギリスが負けたかのような沈鬱な表情でイギリス公債の取引所に姿を現し、彼のしおれ切った姿を見た投資家の投げ売りで暴落した英公債を買い占めて巨利を得たことがきっかけという話がある。
 だから情報に価値があることは、別にトフラーが言い出すまでもなく周知の事実であり、戦争でもビジネスでも情報をいち早く入手することにみんな必死になった。少なくともトフラーの時代にはパソコンはまだ姿もなく、メイン・コンピュータが銀行で導入されだしたころで、情報の価値化が必要とされていた時代ではなかった。
 が、トフラーの『第3の波』が社会に与えた衝撃は大きく、情報化の流れが一気に進みだしたことは否定できず、コンピュータの出現が社会を大きく変えたことは事実であり、トフラー自身、思いもよらなかったことが生じたとも言える。いずれにせよ、トフラーが提唱した情報化社会は、実は「脱工業化社会」の実現ではなく、工業化社会の中での技術革新に過ぎなかった、というのが私の見方である。

●AIと向き合う私たちが抱えたテーマは?
そう考えると、いわゆる「IT革命」はトフラーの「第3の波」の一部なのか、あるいは「第4の波」なのか。
いずれにせよ、AI技術が「IT革命」を大きく進めたことは間違いないと言ってもいいだろう。そして産業革命や、これまでの情報化社会をリードしてきたコンピュータと違って、AIは人間の能力も高めてくれる技術だということも分かってきた。実際、聡太君が史上最年少記録を次々に塗り替えてきたのは、彼が「AI棋士」と戦ってきた結果である。もし「AI棋士」の誕生がなければ、聡太君の快挙もありえなかったかもしれない。
現代に生きる私たちは、これからAIをどう自分の能力を高めるために活用できるかという大きなテーマに向かっている。たとえば、いま私がブログを書いているパソコンは、学習能力はあるが、私の疑問を解決してくれるわけではない。私はこのブログだけでなく、ブログを書きながら何かを調べる必要が生じたとき、インターネット検索で調べる作業が常態化している。もし、私が書いたことを、AIパソコンが「それは間違っています。事実はこうです」と手助けしてくれる時代がそう遠くない将来、来るのではないかと思っている。AIに教えられることで、私たち人間が自分の知的能力を高めることができる時代がそこまで来ているのではないか、という期待さえある。
チャップリンが産業革命を、人間が機会に支配される時代と考えたように、人間がAIに支配されるか、人間がAIを上手に使いこなすことによって自分自身の知的能力を高めることができるか、そういう岐路に私たちは差し掛かっているのかもしれない。