「安保法制は違憲だ」と、大多数の憲法学者や弁護士は声高に叫んでいた。とりわけ元最高裁長官や元内閣法制局長官が「違憲法案だ」と主張したことの重みは、今さら取り消すわけにはいくまい。
私は前回のブログまで、憲法学者や弁護士集団が全国各地で集団「違憲訴訟を起こす」ことを前提に、国民がこの問題にどう立ち向かうべきかを提起してきた。
が、一向に憲法学者や弁護士たちが集団で「違憲訴訟」を起こす動きが表面化していない。表面化していないだけでなく、実際に訴訟活動がほとんど生じていないようなのだ。なぜなのか?
私の友人が安保法制反対運動に参加していて、東京弁護士会主催のシンポジウムで、ズバリその疑問をぶつけた。
弁護士の答えは冷たかったようだ。「安保法案の違憲性を問う訴訟は出来ない。実際に集団的自衛権行使に基づく自衛隊の活動があったとき、はじめてその活動の違憲性を提訴できる」と、某弁護士は答えたようだ。
私は憲法学者でもなければ弁護士でもない。専門家がそう言い訳すれば、訴訟というものは「違憲法案に基づいた違憲行動」が生じなければできないというおかしな考えを受け止めざるを得ないのかもしれない。が、だとしたならば、なぜ国会で安保法案の審議中に大多数の憲法学者や弁護士は「違憲法案だ」と声高に叫んだのか。そう主張できる法的根拠はなかったということなのか。元最高裁長官や元内閣法制局局長まで「違憲法案だ」と主張したのは、いたずらに国民を煽動し、ことさらに法的根拠がない反対運動を鼓舞するために行ったということなのか。
私の手元に今年6月12日付で、東京弁護士会会長・伊藤茂昭氏の名において発表された「安全保障関連法案の違憲性に関する政府・自民党の恣意的見解を批判し、あらためて同法案の撤回・廃案を求める会長声明」なるものがある。実は昨日入手したばかりのものだが、この声明文で主張したことと、実際に安保法案が成立した後の東京弁護士会の行動につじつまが合わないと思わざるを得ない。この声明文の一部を引用する。
現在、衆議院においていわゆる「安全保障関連法案」が審議されている。この法案は、他国のためにも武力行使ができるようにする集団的自衛権の実現や、「後方支援」の名目で他国軍への弾薬・燃料の補給等を、地域を問わず可能にし、従来政府の解釈・答弁においても憲法9条違反として許容できなかった自衛隊の海外等における武力行使の制約を一挙に取り払おうというものであり、憲法9条及び立憲主義に反することは明白である。(中略)
折しも本年6月4日の衆議院憲法審査会において、与野党から参考人として招かれた3名の憲法学者全員がそろって集団的自衛権行使を容認する「安全保障関連法案」は違憲であると断じた。また、全国の憲法学者・研究者たちが「安
保関連法案に反対し、その速やかな廃案を求める憲法研究者の声明」を発表し、その賛同者は現在200名以上にのぼっている。弁護士会においても、日本弁護士連合会や当会のみならず全国の弁護士会が憲法違反を理由に法案反対の決議や声明を発表しており、本法案が憲法違反であることは多くの法律家の共通認識である。(以下略)
が、安保法案が成立して、すでに1か月を超えているのに、私が予想していた憲法学者や弁護士たちによる「違憲訴訟」はまったくなされていないようだ。法律が憲法に違反しているのであれば、とくにその法律に反対の立場をとっている学者や弁護士たちは、法律の廃止ないしは法律の施行の中止を求めて訴訟を起こす義務があると思う。シンポジウムで某弁護士がほざいたように、実際に自衛隊が憲法に違反した行動をとらなければ訴訟ができないというのであれば、そもそも憲法学者や弁護士たちが「安保法案は違憲法案だ」と主張した法的根拠を自ら否定したことになる。はっきり言えば、彼ら専門家は国民にウソをついて、いたずらに国民を煽動してきたことになる。
実は私自身は「憲法に違反しているから」という理由で安保法制に反対してきたわけではない。
私は第2次安倍政権が発足し、第2次安保法制懇を首相官邸に設置した直後から集団的自衛権を、日本はすでに保有していると主張してきた。たとえば2013年8月29日に投稿したブログ『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』で、こう書いた。
私自身はこれまでも述べてきたように、まず憲法を改正して国民主権の下で新憲法を制定し、自衛のための固有の権利として自衛軍(あるいは国防軍)の保持を明記したうえで、自衛のための軍隊の行動を国民の意思によって規制することを定め(緊急時には政府が戒厳令を発布して政府の管理下で自衛のための軍隊の発動を許可し、事後に政府の決定について国民の意思を問う仕組みにする)、集団的自衛権については国連憲章51条の正確な理解な理解に基づいたうえで、日本としての集団的自衛権行使の義務の範囲を明確に定める(中略)。
国連憲章51条は「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、(中略)個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」とある。(中略)実は国連憲章は戦争を犯罪行為とみなし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対し武力攻撃が行われた場合は、
自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国(とくに同
盟関係にある国)の軍隊に共同防衛してもらう(これが「集団的自衛」の意味)
権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的妥当性を有する。
そういう集団的自衛権を権利として国連憲章が認めた背景には、国際会議で承認された「永世中立国」が非武装だったため他国から侵略され占領された過去があり、そうした悲劇を二度と繰り返さないため、個別的自衛力が十分でない国を他国の攻撃から国連加盟国が共同で守ってあげようという意味なのである。つまり国連憲章が認めた集団的自衛権とは、同盟国や『日本と密接な関係にある国」(日本政府の定義)を、攻撃された国と一緒に守ることを意味するものではないのである。非武装や十分な「個別的自衛」の戦力を有していなかった場合に、他の国連加盟国に応援を頼める権利が集団的自衛権の本来の意味である。(中略)だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係を築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。(中略)
集団的自衛権を行使する対象について日本政府は「同盟国及び日本と密接な関係にある国」と定義しているが、国連憲章によれば「国連加盟国」と明確に定義している。つまり、国連加盟国は「無法な侵略を受けている。助けてくれ」と、他の国連加盟国に要請する権利があり(これが集団的自衛権)、支援を要請された国連加盟国がその要請に応じることは「集団的自衛権の行使」ではないのだ。(中略)日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが日本を防衛する義務を負っていることにより、日本はすでに集団的自衛権を有しているのである。どうして日本の政治家やジャーナリストはここまで頭が悪いのか、私には理解できない。(以下略)
つまり、日本が同盟国あるいは親密な関係にある国が他国から攻撃され、日本に軍事的支援を要請してきた場合、日本の自衛隊はその国を共同防衛できるか否かということが今回の問題の核心なのだ。問題点を総明確にすれば、少なくとも現行憲法を改正しない限り、日本の軍事力を他国防衛のために行使することは不可能であることは子供にも理解できる話だろう。
そもそもGHQによる占領下で制定された現行憲法は、「自衛のための戦力の保持」すら否定している(憲法制定を行った国会での吉田茂総理の発言)。つまり、自衛隊も、本来は現行憲法の改正抜きにはできないはずなのだ。吉田総理はサンフランシスコ講和条約に調印して日本が独立を果たした時点で、主権国家としての尊厳を明確にした憲法に改正する発議を行うべきだった。
が、敗戦によって致命傷を負った日本の経済力を回復させることを、吉田総
理は最優先することにした。日本が占領下にあった時代は、日本の安全と防衛
を守る義務が占領側にあることは国際法上の常識である。日本も先の大戦で占領した国(地域)の安全と防衛を日本軍が守ってきた。が、敗戦により経済力をほとんど失った日本にとって、経済力の回復に吉田総理としては全力を注がざるを得なかったのだろう。そのため、主権国家としての尊厳を回復するための憲法改正を後回しにせざるを得なかったのだと思う。吉田総理自身が、のちに回顧録で「日本が経済的にも技術力においても世界の一流国と伍するようになった現在、日本の安全を他国に頼ったままでいいのか」と書いている。が、独立回復時に主権国家としての尊厳に満ちた憲法に改正しなかったのは、経済力の回復を最優先せざるを得ない状況に日本があったとしても、吉田総理の責任は大きい。
そして戦後長い間、他国からの侵略を受けず、国際紛争にも巻き込まれてこなかった日本では、いつの間にか「平和憲法」神話が定着していった。
「憲法9条があったから、日本は戦争をしないですんだ」というのが平和憲法神話の中身である。事実は明らかに違う。他国を軍事力で自国の支配下に置く目的は、その国の資源が魅力のあるものであるか、あるいはその国を支配下に置くことが大きな軍事的意味を持つかのケースのいずれかである。
日本の場合、資源は何もない。が、日本の地勢的重要性は決して小さくない。旧ソ連も終戦間際になって日ソ中立条約を破棄して対日参戦に踏み切り、一気に北方四島を侵略したのは、太平洋への進出が大きな目的だった。もし日本の無条件降伏があと数日遅れていたら、北海道もソ連に侵略されていた可能性が高かった。同様に、アメリカが日本を独立させた後も長期にわたって沖縄県の施政権だけは返還せず、アメリカの「植民地」として支配し続けたのは、沖縄の持っている地勢的意味の大きさによる。アメリカにとっては日本の地勢的重要性はますます大きくなっている。中国の軍事力が急速に拡大し、海洋進出を活発化しているからだ。
つまりアメリカにとっては、日本が、とくに沖縄が国際紛争に巻き込まれては困るのだ。巨額の軍事費を投じて日本、とくに沖縄に基地を集中しているのはそのためであり、皮肉なことだが日本の平和はそうしたアメリカの軍事戦略によって守られてきたのだ。
「平和憲法を守れ」と主張する方たちは、では日本の平和を事実上維持してきた在日米軍にこれからも頼り続けるべきだと考えているのだろうか。
私は前回のブログまで、憲法学者や弁護士集団が全国各地で集団「違憲訴訟を起こす」ことを前提に、国民がこの問題にどう立ち向かうべきかを提起してきた。
が、一向に憲法学者や弁護士たちが集団で「違憲訴訟」を起こす動きが表面化していない。表面化していないだけでなく、実際に訴訟活動がほとんど生じていないようなのだ。なぜなのか?
私の友人が安保法制反対運動に参加していて、東京弁護士会主催のシンポジウムで、ズバリその疑問をぶつけた。
弁護士の答えは冷たかったようだ。「安保法案の違憲性を問う訴訟は出来ない。実際に集団的自衛権行使に基づく自衛隊の活動があったとき、はじめてその活動の違憲性を提訴できる」と、某弁護士は答えたようだ。
私は憲法学者でもなければ弁護士でもない。専門家がそう言い訳すれば、訴訟というものは「違憲法案に基づいた違憲行動」が生じなければできないというおかしな考えを受け止めざるを得ないのかもしれない。が、だとしたならば、なぜ国会で安保法案の審議中に大多数の憲法学者や弁護士は「違憲法案だ」と声高に叫んだのか。そう主張できる法的根拠はなかったということなのか。元最高裁長官や元内閣法制局局長まで「違憲法案だ」と主張したのは、いたずらに国民を煽動し、ことさらに法的根拠がない反対運動を鼓舞するために行ったということなのか。
私の手元に今年6月12日付で、東京弁護士会会長・伊藤茂昭氏の名において発表された「安全保障関連法案の違憲性に関する政府・自民党の恣意的見解を批判し、あらためて同法案の撤回・廃案を求める会長声明」なるものがある。実は昨日入手したばかりのものだが、この声明文で主張したことと、実際に安保法案が成立した後の東京弁護士会の行動につじつまが合わないと思わざるを得ない。この声明文の一部を引用する。
現在、衆議院においていわゆる「安全保障関連法案」が審議されている。この法案は、他国のためにも武力行使ができるようにする集団的自衛権の実現や、「後方支援」の名目で他国軍への弾薬・燃料の補給等を、地域を問わず可能にし、従来政府の解釈・答弁においても憲法9条違反として許容できなかった自衛隊の海外等における武力行使の制約を一挙に取り払おうというものであり、憲法9条及び立憲主義に反することは明白である。(中略)
折しも本年6月4日の衆議院憲法審査会において、与野党から参考人として招かれた3名の憲法学者全員がそろって集団的自衛権行使を容認する「安全保障関連法案」は違憲であると断じた。また、全国の憲法学者・研究者たちが「安
保関連法案に反対し、その速やかな廃案を求める憲法研究者の声明」を発表し、その賛同者は現在200名以上にのぼっている。弁護士会においても、日本弁護士連合会や当会のみならず全国の弁護士会が憲法違反を理由に法案反対の決議や声明を発表しており、本法案が憲法違反であることは多くの法律家の共通認識である。(以下略)
が、安保法案が成立して、すでに1か月を超えているのに、私が予想していた憲法学者や弁護士たちによる「違憲訴訟」はまったくなされていないようだ。法律が憲法に違反しているのであれば、とくにその法律に反対の立場をとっている学者や弁護士たちは、法律の廃止ないしは法律の施行の中止を求めて訴訟を起こす義務があると思う。シンポジウムで某弁護士がほざいたように、実際に自衛隊が憲法に違反した行動をとらなければ訴訟ができないというのであれば、そもそも憲法学者や弁護士たちが「安保法案は違憲法案だ」と主張した法的根拠を自ら否定したことになる。はっきり言えば、彼ら専門家は国民にウソをついて、いたずらに国民を煽動してきたことになる。
実は私自身は「憲法に違反しているから」という理由で安保法制に反対してきたわけではない。
私は第2次安倍政権が発足し、第2次安保法制懇を首相官邸に設置した直後から集団的自衛権を、日本はすでに保有していると主張してきた。たとえば2013年8月29日に投稿したブログ『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』で、こう書いた。
私自身はこれまでも述べてきたように、まず憲法を改正して国民主権の下で新憲法を制定し、自衛のための固有の権利として自衛軍(あるいは国防軍)の保持を明記したうえで、自衛のための軍隊の行動を国民の意思によって規制することを定め(緊急時には政府が戒厳令を発布して政府の管理下で自衛のための軍隊の発動を許可し、事後に政府の決定について国民の意思を問う仕組みにする)、集団的自衛権については国連憲章51条の正確な理解な理解に基づいたうえで、日本としての集団的自衛権行使の義務の範囲を明確に定める(中略)。
国連憲章51条は「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、(中略)個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」とある。(中略)実は国連憲章は戦争を犯罪行為とみなし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対し武力攻撃が行われた場合は、
自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国(とくに同
盟関係にある国)の軍隊に共同防衛してもらう(これが「集団的自衛」の意味)
権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的妥当性を有する。
そういう集団的自衛権を権利として国連憲章が認めた背景には、国際会議で承認された「永世中立国」が非武装だったため他国から侵略され占領された過去があり、そうした悲劇を二度と繰り返さないため、個別的自衛力が十分でない国を他国の攻撃から国連加盟国が共同で守ってあげようという意味なのである。つまり国連憲章が認めた集団的自衛権とは、同盟国や『日本と密接な関係にある国」(日本政府の定義)を、攻撃された国と一緒に守ることを意味するものではないのである。非武装や十分な「個別的自衛」の戦力を有していなかった場合に、他の国連加盟国に応援を頼める権利が集団的自衛権の本来の意味である。(中略)だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係を築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。(中略)
集団的自衛権を行使する対象について日本政府は「同盟国及び日本と密接な関係にある国」と定義しているが、国連憲章によれば「国連加盟国」と明確に定義している。つまり、国連加盟国は「無法な侵略を受けている。助けてくれ」と、他の国連加盟国に要請する権利があり(これが集団的自衛権)、支援を要請された国連加盟国がその要請に応じることは「集団的自衛権の行使」ではないのだ。(中略)日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが日本を防衛する義務を負っていることにより、日本はすでに集団的自衛権を有しているのである。どうして日本の政治家やジャーナリストはここまで頭が悪いのか、私には理解できない。(以下略)
つまり、日本が同盟国あるいは親密な関係にある国が他国から攻撃され、日本に軍事的支援を要請してきた場合、日本の自衛隊はその国を共同防衛できるか否かということが今回の問題の核心なのだ。問題点を総明確にすれば、少なくとも現行憲法を改正しない限り、日本の軍事力を他国防衛のために行使することは不可能であることは子供にも理解できる話だろう。
そもそもGHQによる占領下で制定された現行憲法は、「自衛のための戦力の保持」すら否定している(憲法制定を行った国会での吉田茂総理の発言)。つまり、自衛隊も、本来は現行憲法の改正抜きにはできないはずなのだ。吉田総理はサンフランシスコ講和条約に調印して日本が独立を果たした時点で、主権国家としての尊厳を明確にした憲法に改正する発議を行うべきだった。
が、敗戦によって致命傷を負った日本の経済力を回復させることを、吉田総
理は最優先することにした。日本が占領下にあった時代は、日本の安全と防衛
を守る義務が占領側にあることは国際法上の常識である。日本も先の大戦で占領した国(地域)の安全と防衛を日本軍が守ってきた。が、敗戦により経済力をほとんど失った日本にとって、経済力の回復に吉田総理としては全力を注がざるを得なかったのだろう。そのため、主権国家としての尊厳を回復するための憲法改正を後回しにせざるを得なかったのだと思う。吉田総理自身が、のちに回顧録で「日本が経済的にも技術力においても世界の一流国と伍するようになった現在、日本の安全を他国に頼ったままでいいのか」と書いている。が、独立回復時に主権国家としての尊厳に満ちた憲法に改正しなかったのは、経済力の回復を最優先せざるを得ない状況に日本があったとしても、吉田総理の責任は大きい。
そして戦後長い間、他国からの侵略を受けず、国際紛争にも巻き込まれてこなかった日本では、いつの間にか「平和憲法」神話が定着していった。
「憲法9条があったから、日本は戦争をしないですんだ」というのが平和憲法神話の中身である。事実は明らかに違う。他国を軍事力で自国の支配下に置く目的は、その国の資源が魅力のあるものであるか、あるいはその国を支配下に置くことが大きな軍事的意味を持つかのケースのいずれかである。
日本の場合、資源は何もない。が、日本の地勢的重要性は決して小さくない。旧ソ連も終戦間際になって日ソ中立条約を破棄して対日参戦に踏み切り、一気に北方四島を侵略したのは、太平洋への進出が大きな目的だった。もし日本の無条件降伏があと数日遅れていたら、北海道もソ連に侵略されていた可能性が高かった。同様に、アメリカが日本を独立させた後も長期にわたって沖縄県の施政権だけは返還せず、アメリカの「植民地」として支配し続けたのは、沖縄の持っている地勢的意味の大きさによる。アメリカにとっては日本の地勢的重要性はますます大きくなっている。中国の軍事力が急速に拡大し、海洋進出を活発化しているからだ。
つまりアメリカにとっては、日本が、とくに沖縄が国際紛争に巻き込まれては困るのだ。巨額の軍事費を投じて日本、とくに沖縄に基地を集中しているのはそのためであり、皮肉なことだが日本の平和はそうしたアメリカの軍事戦略によって守られてきたのだ。
「平和憲法を守れ」と主張する方たちは、では日本の平和を事実上維持してきた在日米軍にこれからも頼り続けるべきだと考えているのだろうか。