小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

都議会「ヤジ問題」メディアが大騒ぎした理由――メディアの体質が先の大戦中と変わっていないためだ。

2014-06-30 06:09:07 | Weblog
 やはり都議会でのヤジ騒ぎが、「早く結婚した方がいいんじゃないか」とヤジを飛ばした本人が名乗り出たら、かえって拡大した。おかげで都議会は連日この馬鹿馬鹿しい問題で揉めに揉めて、議事が完全にストップしてしまった。
 私は、本人が名乗り出た翌日(24日)のブログ『河野談話の作成過程の経緯が明らかになったのに、なぜ安倍総理は河野談話の再検証をしないのか。②』の最後にちょこっとこの問題に触れた。NHKまでもが27日の「特報首都圏」で『“やじ”に揺れる議会~緊急報告・議場で何が~』と題して、この問題を特集したので、さすがに黙っていられないと思いNHKに電話した。
 私がヤジ問題についてブログ投稿したのは、ブログ記事の記録によれば24日の午前7時15分。もちろん当日の朝刊に目を通している時間的余裕はない。だから私は前日のテレビニュースでの報道だけを頼りにブログを書いた。が、その日から全国紙5紙がすべて社説でヤジ問題を取り上げるという「前代未聞」の大騒ぎになった。週刊誌もすぐこの問題に飛びつき、女性議員の過去のスキャンダル暴き合戦をする始末。メディアの連中は暇を持て余しているのかな。
 とりあえず、全国紙の社説の題名と主張の要点を無断転記する。

読売新聞(24日)『都議会ヤジ問題 セクハラ謝罪で収拾できるか』…「なぜ、もっと早く名乗り出て、謝罪できなかったのだろうか」「議場では、ヤジを面白がるような笑い声さえ上がった。ヤジの張本人や同調した議員の不見識には、あきれるばかりだ」「個人の尊厳を傷つけるセクハラ発言が許されないのは、当然である」「(名乗り出た議員は)これまで、ヤジへの関与を一貫して否定していた。騒ぎが大きくなり、名乗り出ざるを得ない状況に追い込まれたということだろう」「問題を収束させるには、ヤジを飛ばした他の都議も自らの発言にけじめをつける必要がある。これ以上頬かぶりは許されまい」

日本経済新聞(24日)『セクハラ都議会は猛省せよ』…「こんな女性をさげすむ発言を許すわけにはいかない」「今回のヤジは女性の社会での活躍に冷水を浴びせ、政府の成長戦略にも逆行する」「昨年6月の都議選で自民の候補者全員が当選し、都議会では自民主導の議会運営が続いている。今回の発言やその後の対応は、選挙で大勝した自民党の驕りから出た問題でもあるのだろう」「(名乗り出た)議員は自民党の会派を離脱すると表明した。問題が発覚した直後に同議員は自ら発言したことを否定しており、議員辞職にすら値する言動ではないか」「海外でも報じられ、日本の国際的イメージを損なっている」

毎日新聞(24日)『ヤジ議員判明 説明にもあきれ果てる』…「こんな説明で幕
引きなど、ありえない話だ」「都議会は対応が鈍い。自民党を含め、国際的に日
本の印象を傷つけた言動に明確なけじめをつけるべきだ」(名乗り出た議員は)
当初からヤジの発言者との見方があったが、報道各社の取材に発言を否定、ウソをついていた。騒動が拡大する中で『声紋』分析まで浮上、隠し通せないと観念したのが実態ではないか」「毅然とした対応をとらず、手をこまねいた都議会も同罪だ。議場でヤジを制止せず、(女性議員が)議長あてに提出した発言者の処分を求める要求書も受理しなかった」(※これは私がブログで指摘した重用な視点だが、「ヤジ議員」が名乗り出たのはヤジ事件(18日発生)の5日後である。女性議員はいつ処分の要求書を提出したのか不明だ)「ヤジ問題は海外でも報じられ『日本には女性に対する人権感覚が欠如しているのではないか』との疑惑の目が国際社会から向けられた」

朝日新聞(26日)『反省なき議会 人権と少子化を学べ』…「要するに早く騒動を収めたいだけなのがありありだ」「やるべきこともやらずに『再発を防ぐ』と言われても、有権者が信用するとは思えない」「そもそも(女性議員が)提出した発言者の処分要求書も議長は受理しなかった。議会には事実を解明する気がないとみられても仕方がない」(※この主張は私のブログや毎日新聞の社説の2日後である)「会派離脱も党への謝罪にすぎない。(女性議員や)都民へのけじめにはなりえない」「都民だけでなく全国に抗議が広がったのはなぜか。暴言と冷笑の裏には性差別意識がある。男女共同参画なんて口先だけ。こんなヤジを飛ばす心性こそ、少子化の元凶だ…。そう感じた人が多いからだろう」(※これは「天にツバする」主張。そのことはあとで書く)

産経新聞(27日)『女性蔑視発言 これで幕引きは甘すぎる』…「都議会は再発防止を誓う決議案を採択したが、ヤジの発言者の特定を求める決議案は否決した。これで幕引きを図るつもりらしい。発言を疑われている自民党はそれでいいのか。このままうやむやで終わればいいとの判断があるとすれば、甘くはないか」「みんなの党は声紋分析を行うとしているが、これも異常だ。議場での発言である」「発言者本人と周囲にいた都議の多くは、ただ口を閉ざしているだけなのだろう。首都の議会に自浄作用がないとすれば、恥ずかしい限りだ」

 NHK「報道首都圏」のヤジ問題特集について電話したとき、上席責任者の電話は全部ふさがっていたようで、中間責任者に私が24日に投稿したブログを読み上げた。中間責任者は「おっしゃる通りです。録音もしてありますから文書にして報道部門に伝えます」と言ってくれた。その部分をスキャンして貼り付ける。ただ1カ所間違えた表現があるので、その部分(「会派を離脱」と書くべ
きところを「党派を離脱」と誤記)は訂正する。

 話題を変えるが、昨日、東京都議会で不適切なヤジを飛ばした議員が名乗り
出た。彼は35歳の美人独身議員に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というヤジを飛ばしたようだ。ただ、この議員は「産めないのか」といったヤジについては否定している。自民党都議団としては、この議員が会派を離脱したことで幕引きにしたいようだが、これだけ大騒ぎになってしまうと、そうもいきそうにない。私自身は、自分が男性のためか、それほど大騒ぎするような話ではないと思っている。ただ大騒ぎになったことで、小さな町村議会まで含めて、人格を傷つけかねない不適切なヤジに対する議員たちの自制心が働くようになるだろうことは、せめてものプラスになったかなと思っている。
 ただ、都議会騒動で見逃されている、もっと重要な問題が二つある。
 一つは、この騒ぎの最大の責任者はだれか、という視点である。当り前のことだが、吉野利明議長の責任である。「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というヤジが飛んだときは、女性議員はヤジを発した方向に顔を向け、ニコッと笑みを浮かべた。その後「産めないのか」といった卑劣なヤジが飛んだことで、女性議員の顔が一瞬で変わり、質問の口調も固く早口になり、とうとう涙声にまでなった。そのときに、なぜ吉野議長は毅然として議事の主導権を発揮しなかったのか。具体的には「いまのヤジを飛ばした人は起立してください」と直ちに発言者を特定し、女性議員への謝罪と議場からの退席を命じるべきだった。そういう感覚を、メディアが持たないことが、私には不思議でならない。
 二つめの問題は、この事件が海外のメディアでかなり大きく取り上げられたことだ。「日本は女性蔑視の国」と烙印を押されたようなものだ。これが国政の場である国会の本会議や予算委員会での事件なら海外で報道されても理解できないことはない。が、首都といっても地方自治体での小さな出来事である。本来、他国のメディアが飛びつくような話ではない。
 逆の立場から考えてみよう。仮にアメリカの首都ワシントンDC(どの州にも属さない特別区)やニューヨーク州の議会でこうした類の不適切ヤジが飛び交ったとして、日本のメディアは大騒ぎするだろうか。そう考えると、海外メデ
ィアの異常反応が何を意味するのか、そのことの方が私には気になる。いま安
倍・日本は海外からどう見られているのか。そのことをメディアも政治家も最重要視しなければならない。メディアも政治家も、感覚がどこかずれているのではないか。それとも私がおかしいのかな?

 なお、NHKの中間責任者が私のブログについて「おっしゃる通りだ。文書にして報道部門に伝える」としたのは、一つ目の「最大の責任者は吉野利明議長だ」という私の主張の部分であって、海外メディアの異常反応に対する私の見
解については肯定も否定もしていない。
 全国紙5紙の社説は全文を転記したわけではないが、あえて私にとって都合が悪い主張を排除したりはしていない。今日のブログは、はっきり言って全国紙5紙の論説委員たちに対する挑戦状でもある。少なくとも私がブログを書いた時点では女性議員が議長に、発言者に対する処分要求書を提出したことも、議長が拒否したことも知らなかった。知っていたら吉野議長に対する批判はもっと厳しいものになっていた。
 私は24日のブログでも、今日のブログでも氏名を特定したのは吉野利明議長だけである。女性議員もヤジを認めた議員についても、新聞の社説で記載されている個所すら氏名を伏せた。なぜ伏せたか。こんな些細な問題で、女性議員がヒロインになり、セクハラでもなんでもないタダの「からかいヤジ」を飛ばした議員が悪者になり、あまつさえ議員辞職すら要求するような風潮を煽ることによって読者におもねる体質は、戦中のそれと全く変わっていないと考えたからだ。
 私はだいぶ前(ブログを書き始める前)だが、各紙の読者窓口に戦時中の報道姿勢について「もし言論の自由があったとして、戦争の真実を伝え、戦争はやめるべきだ、という報道をしていたら、お宅の新聞はどうなっていたと思うか」と片っ端から聞いたことがある。読者窓口はいずれも沈黙した。私が追い打ちをかけて「もし、そういう報道をしていたら、軍部が弾圧する前に読者から見放されて新聞社がつぶれていたとは思いませんか」と問いかけたら、「うーん。そうかもしれませんね」と全員が渋々認めた。はっきり言って戦時中の新聞の報道スタンスは、軍部におもねたのではなく、読者におもねていたのである。その体質はこのヤジ事件をめぐっても継続されていることが、証明されたと言えよう。
 戦後60年にもなろうというのに、いまだに自らについて真実を語れないメディアを、国民が腹の底から信じられると思うのか。私がブログの総タイトルを『マスコミに物申す』としたのは、そういう思いが私の批判精神の底流に脈々と流れているからだ。

 とくに朝日新聞の社説は問題である。朝日新聞は読者窓口の「お客様オフィス」に最近女性を多用している。女性の活用を図っていると思いきや、とんでもない。朝日新聞の記事について疑問を呈しても、何一つまともな返事が返ってこない。「あなたたちは人間録音機か」と嫌味を言っても「この仕事に就くとき、そう指示されましたので」といけしゃあしゃあとした返事が返ってきた。
 どの新聞社も最新のニュースは活字にする前にネットで配信するが、ある時朝日新聞デジタルで配信されたニュースについて質問したいことがあり電話して「デジタルで配信されたニュースについて聞きたいことがある」と言った途端「担当に代わります」と内線で別の部門につながれた。「どんなご用件でしょうか」と聞かれたので配信されたニュースについて聞きたいことがあると伝えると、「ここはパソコンなどでデジタルにアクセスする方法に関する問い合わせ部門です。配信したニュースの件でしたら『お客様オフィス』におかけ直しください」と返事が返ってきた。
 まだある。読売新聞の『基礎からわかる』シリーズに対抗して『一からわかる』シリーズを朝日新聞も始めているが、ある日、その内容について問い合わせたら「何ページ目でしょうか」と聞かれた。新聞を読んでもいない社員を「お客様オフィス」に配属するというのは、女性の活用ではなく「読者蔑視」の姿勢がありありである。
 まだある。朝日新聞の「お客様オフィス」には記者出身ではない女性まで「登用」している。どんなに有能な女性かは知らないが、報道された記事についての質問や意見をぶつけても答えられるわけがない。実際、相手の対応に違和感を感じたので「あなたは記者出身ではないんですか」と聞いたら「違います」と、あっけらかんとした返事が返ってきてびっくりし、電話代が無駄だと早々に電話を切ったことさえある。確かに「人間録音機」でいいなら、別に記者出身でなくてもいいのかもしれないが、それならそれで「記事の担当者から折り返し電話させます」と対応してくれてもいいだろう。
 ちなみに一般商品についての「お客様相談窓口」に問い合わせの電話をした場合、電話に出た方には分からないような質問だったら、必ず「折り返し詳しい者から電話させます」と対応してくれる。「相談窓口」の電話も大半がフリー・ダイヤルだ。一方、メディアはすべて有料電話だ。メディアは読者や視聴者に君臨しているのだという意識がありありだ。
 朝日新聞「お客様オフィス」にも男性スタッフがいないわけではない。ただ私が電話したとき男性が出る確率はせいぜい1割くらいの感じだが(厳密に記録しているわけではない)、男性スタッフとは活発な議論もできる。で、あるとき電話口に女性スタッフが出たので「男性に代わってほしい」と頼んだが、「電話を回すことはできませんので、後程おかけ直しください」と言われた。私はこのときの朝日新聞「お客様オフィス」の女性スタッフの対応については以前、ブログに書いたことがある。覚えている読者もおられるのではないだろうか。

 この辺で、私の経験談は終わりにするが、読売新聞にも多少は女性が「読者センター」に配属されてはいるが、朝日新聞とははっきり言ってレベルが違う。まともな話ができる。ちょっと朝日新聞の女性担当者のことを話すと「私どものほうでも女性が電話に出ると、いきなり電話を切られてしまうこともしばしばあります」と言われた。それで朝日新聞が「お客様オフィス」に女性を多用するようになった理由が分かった。読者の側にも責任がありそうだ。が、それに対して「読者がそうなら人間録音機でもいい」と朝日新聞が考えて「お客様オフィス」に女性を多用し、「録音機以上の対応をしてはいけない」と指示しているとしたら、それが女性の活用と言えるのか。
 またこの事件で週刊文春や週刊新潮が女性議員の華やかな過去のスキャンダルを暴いたのは、かかりつけのクリニックで診察待ちの間にちらっと斜め読みしただけでなので(私は週刊誌をカネを出してまで買う気はしない)、事実かどうかについての判断はしかねるが、「早く結婚したほうがいいんじゃないか」とのヤジには笑みで返した女性議員が、「産めないのか」というヤジに涙を浮かべ、後で処分要求までしたようなら、週刊誌にも「事実無根の名誉棄損」で訴えるべきだろう。「名誉棄損」で訴えられないようなら、そもそもこの女性議員に都議になるだけの見識と資格があるのかと疑わざるを得ない。なお私が週刊誌記事を斜め読みしたのは28日であることをお断りしておく。
 これはうがった見方かもしれないが、美人議員が35歳にもなるのに、未婚の理由が週刊誌情報から推測できるように、結婚できず子供も産むことが許されない男女関係にあって、そのことが都議たちの間では周知の事実だったとしたら、「早く結婚したほうがいいんじゃない」「産めないのか」といったヤジは「セクハラヤジ」ととらえるべきではなく、そうした立場にある女性議員に「晩婚・晩産問題や子育て支援問題」について都議会で質問する資格があるのか疑わしい感じがする。そうだとしたら、むしろ問題にされたヤジは、私に言わせれば「抑制された許容範囲のヤジ」であり「女性一般に対する蔑視感から出たヤジ」とは理解しかねる。
 いずれにせよ女性の涙は、メディアを動かすほどの力があるのか、と今さらながらびっくりしているというのが実感である。

 明日、自公両党からなる政府は、集団的自衛権行使のため憲法解釈変更を閣議決定する見込みだ。「平和の党」を標榜してきた公明が、なぜ急いで自民にすり寄ったのか。これまでメディアが報道しなかった裏事情(といっても、だれでもちょっと頭を働かせれば分かるはずのことで、私は極秘情報をキャッチしたわけではない)を書く。ただ、NHKの上席責任者には昨日午後8時過ぎにヒントだけ教えて置いた。報道部門に伝えるようだが、果たして私が提供したヒントで、NHKがどこまで自公協議が成立した裏事情に迫れるか――今日中に迫れたら「ごりっぱ」と褒めておこう。多分、無理だと思うけどね。
コメント

集団的自衛権行使容認問題――土壇場での自公協議成立の真相はこういうことだ。

2014-06-27 08:26:49 | Weblog
 押したり引いたり――とはこのことか。
 集団的自衛権行使容認問題で、自民・安倍執行部と公明・山口執行部の駆け引きのことだ。が、どうやら昨日公明党の閣議決定批判派(創価学会本部に忠実な議員と考えられる)を山口執行部が押し切って、自民執行部に歩み寄ることになったようだ(昨日NHKの『ニュースウォッチ9』での発言)。
 安倍総理にとっては、憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認することは、第1次政権時から持ち込してきた執念のようなものだ。
 そもそも歴代自民党政権が継承してきた「集団的自衛権」の定義は、「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある他国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」というものであり、「日本も固有の権利として持ってはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」という見解が定着してきた。
 憲法9条の当初の政府案は、「個別的自衛権」すら否定するものだった。実際、政府原案作成の責任者である当時の吉田茂首相は、国会の答弁で「(9条が)一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と明確に自衛権を否定した(1946年6月26日)。
 当時日本国憲法の作成に深くかかわっていたGHQ総司令官のマッカーサーは、日本に自衛権も認めない方針だった(のちにマッカーサーは、そんなつもりではなかったと回顧録で弁解しているが、その方針を記した「マッカーサー・ノート」が残っており、マッカーサーの意図は明白である)。そのマッカーサーの方針に真っ向から反対したのが、実際に日本政府と憲法草案の作成について交渉していたGHQ民政局のホイットニー局長だった。
 この当時の憲法草案作成過程は、河野談話の作成過程ときわめて類似したものだったと考えてよい。最初のたたき台は日本政府が作ったが、その内容ではだめだと相手(憲法の場合はGHQ、河野談話の場合は韓国政府)から突き返されたり、こういう表現にしてほしいと要求されて日本側がその表現ではのめないが、この表現ではどうかといったやり取り=すり合わせが何度も行われて、最終的に憲法については吉田内閣の政府原案が作成され、慰安婦問題については河野談話が作成された。
 いずれにせよ、日本国憲法の政府原案も、慰安婦問題に関する河野談話も、そうした日米、日韓の裏交渉で作られた。

 実は今まで、自公間でも同じような状態が続いてきた。「集団的自衛権行使容認」問題で、与党がまとまらず、なかなか閣議決定に至らなかったのは、憲法原案や河野談話の作成過程と同じように「押したり引いたり」の交渉が長引き、いったん執行部どうしでは合意に達しても、それぞれが党に持ち帰って党内をまとめようとすると、党内で異論が続出して白紙に戻ってしまうといった状況が続いたからだ。
 憲法については、結局政府原案が修正され(いわゆる「芦田修正」)、最高裁
が後にこの芦田修正を根拠に「個別的自衛権」は憲法も否定していないという高度な政治的判断を打ち出し、自衛隊の合憲が確定したといういきさつがある(砂川判決)。ただこの裁判は旧立川基地の拡張計画に対して地元住民や学生たちが反対運動を起こし、またそれに呼応するかのように国会では自衛隊は違憲ではないかという論戦が自民党と社会・共産両党との間に繰り広げられていた。そうした中で、最高裁は米軍は日本政府の支配下にある軍隊ではないから憲法が定めている「戦力の不保持の対象には当たらない」としたのである。それ以降政府は自衛隊も自衛隊が有する戦力も、公には「実力」という意味不明な言葉で繕ってきたし、いまもそれは変わっていない。
 が、最高裁の判決によって自衛隊の合憲性は認められたが、自衛隊の持つ実力(戦力)の範囲も限定されたし、行動範囲も限定されてしまった。まず戦力の範囲は「専守防衛」のための必要最小限に限定され、行動範囲も日本の領土・領域内に限定されてしまった(※その範囲まで最高裁が限定したわけではない。その後自民政府が野党との国会論戦の中で自衛隊の合憲性の解釈結果として「個別的自衛権」の行使範囲を勝手に限定してきただけだ)。
 メディアは、自民党政府がこれまでも「解釈改憲を繰り返してきた」と決めつけているが、一体いつ自民党政府が憲法解釈を変えたことがあるのか。一度もない。安倍総理が「憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使」を可能にしようとしているのが、初めての「憲法解釈変更」の事例になる。
 吉田総理が自衛権をも否定したのは憲法の政府原案が国会に提出されたときの答弁であり、自衛権すら否定した内容になっていた憲法9条は芦田修正によって自衛力の保持は憲法に違反しないという判断を最高裁も下している。現行憲法は自衛権をも否定した吉田内閣が作成した政府原案ではなく、芦田修正が行われたものであり、吉田答弁は現行憲法に関してのものとは違う。それをメディアも安保法制懇も(ということは安倍執行部も)完全に誤解している。
 現行憲法が制定されて以降、政府が解釈改憲を行ったことは一度もないはずだ。念のためウィキペディアだけでなくネット上でいろいろ調べてみたが、政府が解釈改憲をしたという過去の事例を見つける事は出来なかった。いつものことだが私のブログは朝早く投稿するので、政府機関に電話で問い合わせることができていないが、ネットで解釈改憲の事例を見つけることができなかったということは、政府機関に問い合わせても分からないと思う。
 一体、なぜ「解釈改憲」説が定着してしまったのか。そのこともネットでは分からなかった。メディアに問い合わせても答えられないだろう。そこで私の論理的推測の出番になるが、55年体制の中で自衛隊の規模や軍事力の拡大・強化についての与野党の論戦のなかで、社会党が「非武装中立論」に基づく批判を行い、それに対する自民政府の答弁を「憲法解釈」に相当する、と勝手に社会党やメディアが決めつけてきたからではないかと思う。
 私に言わせれば、たとえ「専守防衛」であっても、その戦力は日本にとって脅威となる他国の軍事力の強化とともに(つまり国際情勢の変化とともに)、強化せざるを得なくなるのは論理的に考えて当然のことである。
 国会で北朝鮮による拉致問題を初めて取り上げた(1997年2月3日)衆院議員の西村眞悟氏は、「他国の核の脅威」に対する抑止力として日本も核を保有すべきだと最右翼の主張をしており、もしアメリカと日本が経済政策や外交政策で決定的に対立し、かつアメリカにとって中国や北朝鮮の軍事的脅威が解消されたときは、アメリカは負担が大きい日本の米軍基地を縮小する可能性も考慮に入れた場合、「専守防衛」の武力行使の範囲についての解釈も変えざるを得なくなる可能性が現実化する。
 ただ、それすら「憲法解釈の変更」に該当するのかどうかは議論の的になろう。「自衛のための必要最小限の戦力」とは固定したものではなく、また憲法にも「専守防衛」に限定した条項など、どこにも書かれていないから「解釈改憲」に相当するのかどうか、再び最高裁は高度な政治的判断を迫られることになる。誤解がないように言っておくが、私は西村氏の「核武装論」を肯定しているわけではない。論理的に考えると、そういう事態は絶対にありえないとは言えない、と考えているだけだ。
 いずれにせよ自公が週明け早々にも集団的自衛権の行使容認について閣議決定が行われる見通しとなった。いま現実に日本が差し迫った危機的状況にあるわけではないが、安倍総理は内閣支持率が高水準を維持している間に閣議決定に持ち込み、通常国会は閉会したのに秋の臨時国会を待たずに、緊急臨時国会を召集して短期日で国会で成立させたいようだ。

 が、ここに至るまでの経緯をざっと振り返っておこう。
 公明党が、集団的自衛権行使容認に向けた安倍総理の積極的姿勢に猛烈な反発を示しだしたのは今年に入ってからだ。昨年内は集団的自衛権問題について公明党はまったく無関心だった。
 公明党の目を覚ましたのは実は私である。今年1月6日、私は『安倍総理の集団的自衛権行使への憲法解釈変更の意欲はどこに…。 積極的平和主義への転換か?』と題するブログを投稿すると同時に、公明党事務局の政策担当者に電話して安倍総理が行おとしている憲法解釈変更の意味を説明した。公明党の政策担当者は、その時点ではまったく集団的自衛権行使の意味を理解しておら
ず、私は子供に言い聞かせるように噛んで含めるような説明をしなければなら
なかった。担当者はびっくりして私の説明を聞いた。「まったく考えてもいませんでした」と返事を返したのがその証拠である。
 が、その直後から公明党執行部が、「これはうかつには乗れない」と考え出したようだ。また私の公明党事務局への提言が創価学会本部にも伝わったのだろう。創価学会の広報が「この問題は憲法解釈の変更によるべきではなく、憲法改正で行うべきだ」という宗教団体としては異例のコメントを出した。政府与党内での自公の密接な関係にひびが入りだしたのはそれ以降である。このことは、いまごろになって、私が結果論で言いだしたのではない。何度もブログで書いてきたし、公明党事務局とは妙な関係にはなりたくなかったので、このブログは参考にしてもらいたいと思ったときに二度ほど公明党のホームページの「ご意見欄」にメールで「こういうタイトルのブログを書きました。ご参考までに」と送信するにとどめてきた。

 最後に、自公の駆け引きの中で重要なことだけ指摘しておきたい。安倍総理は公明の抵抗に手を焼いて先週末(事実上の国会閉会日)に突然「集団安全保障への武力行使」を集団的自衛権行使のケースに盛り込む方針を打ち出した。これにはメディアもびっくりしたようだが、押したり引いたりしながら行使が可能な事例をほとんど個別的自衛権か警察権の行使で可能なケースにまで自民を歩み寄らせてきた公明も「インド人もびっくり」(※ごめんなさい。これは差別用語です。削除はしませんが問題にされたら撤回することをあらかじめ申し上げておきます)一気に態度を硬化させ、自公協議は振出しに戻ってしまった。
 それであわてたのが自民の多くの地方議員たちである。先の参院選、また安倍政権が誕生した衆院選、この二つの選挙で自民が大勝したのは「民主が勝手に転んだ」という他力本願的要素もあったが、とくに小選挙区制での自民立候補者を公明が応援したことが大きかった。もし、煮え切らない公明に安倍総理が短気を起こして「もう公明の支持なんかいらない。すでにみんなや石原新党は賛成の意向を表明しており、結いと合併する維新もまだ正式な態度表明はしていないが前向きな姿勢を示している。公明抜きでも法案は通すことができる」と踏んだとしたら、自公連立は崩壊しかねず、そうなると次の国政選挙で自民候補者が勝てるかどうかわからなくなる、といった執行部の独走に対する反発が猛烈に噴き出したのではないだろうか。
 それが土壇場で、ほとんど公明の主張を丸呑みした「新3要件」への180度転換の真相であり、公明執行部も「そういうことなら、我々も内部をまとめる」となったのではなかろうか。公明も権力の座から滑り降りることは何が何でも
避けたかったのだろう。しょせん権力者の発想とはそういうものだ、ということを白日の下にさらけ出しただけでも、この騒動の意味はあったと私は考えている。
 ただし、このまますんなりいくとは限らない。憲法学者や弁護士、市民団体などが「憲法解釈の変更は憲法違反だ」と全国で提訴するのは必至だからだ。この訴訟は各地の地方裁判所の裁判官によって判断が分かれるだろうが、地裁のかなりは「憲法違反」と判断する可能性が高いと思われる。砂川判決(最高裁)が認めたのは「個別的自衛権」のみであり、集団的自衛権については何も触れていない。
 確かに最高裁判決は「高度な政治的問題については裁判所は判断することはできない」としたが、それは日本防衛体制強化を目的とした米軍基地の拡張計画についてのことであり、「憲法解釈を変更する」限度が裁判で問われるとなると、「高度な政治的問題だから」と逃げるわけにはいかない。憲法解釈に関する訴訟に最高裁が判断を下せないということになると、果たして現行憲法は有効なのかという疑問さえ生じかねないからだ。
 この訴訟は間違いなく最高裁まで行くだろうし、万が一、最高裁が憲法の有効性を否定するような判決を下したら、憲法を前提にした裁判はすべて無効となると考えるのが文理的である。
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韓国の想定外の反発は安倍政権にとっては「神風」かも…。STAP細胞問題との類似性を検証すれば分かる。

2014-06-26 06:18:58 | Weblog
 安倍さんは、ついているのかも…。
 そうとしか、言いようがない。韓国政府が、勝手に墓穴を掘ってくれそうだからだ。
 政府が設置した「検討会」が、外交上のトップ・シークレットを暴露してしまったことに抗議することは当然分かっていたし、23日のNHKのニュースでもそうした報道があった。
 そうした類の外交上の抗議は日常的にありふれている。たとえば尖閣諸島付近の日本領域を中国の艦船や戦闘機などが侵犯したら、日本政府は直ちに中国の駐日大使を呼びつけて厳しく抗議する。最近も二度にわたって警戒飛行中の日本の航空機(自衛隊機?)に、中国の戦闘機が30メートルまで接近する事態が生じ、日本は激しく中国に抗議した。
 が、相手は「はい、本国に伝えます」と言って、通常はそれで終わりだ。本当に伝えたかどうかの確認も取らない。言うなら外交上の「儀式」のようなものなのである。実質的な効果はなくても、抗議をしなければ「黙認した」ことになってしまうからだ。
 だから、「検討会」の報告書に対しても、私は韓国が「事実無根」と抗議して、それで終わりと思っていた。が、報告書について河野洋平氏が、韓国側とすり合わせた内容すべてを事実として認めてしまったのが、韓国政府にとっては誤算だったのかもしれない。それはそれで、韓国は事実関係については「ノーコメント」として無視したうえで、「検討会」の報告書はに日韓関係を悪化させかねないと抗議して、この件に幕を下ろしてしまえばよかったのだ。
 が、韓国政府はのぼせ上ったのかどうかはわからないが、「検討会」の検証結果に対して国際社会に訴えると言いだしたようだ。
 23,24日のブログでも書いたが、「検討会」の目的は河野談話の作成過程の検証であり、外交上のトップ・シークレットをよくも暴いたと私は感心している。だが、この検証作業の目的はあくまで「河野談話の作成過程」であり、「河野談話の内容」の検証ではない。もちろん「河野談話の作成過程」に疑問が生じたら、「河野談話の内容」も検証すべきなのだが、安倍総理はすでにアメリカ政府の恫喝に屈して「河野談話は継承する」と言ってしまっているのだ。つまり、談話の内容については「検証作業」は行わないと日本政府のスタンスを明らかにしている。が、韓国政府は「河野談話の作成過程」についての「検討会」の報告書に過剰反応してしまった。
 朝日新聞によると、こういうことだそうだ(24日付朝刊)。

 韓国外交官の趙太庸(チョテヨン)・第1次官は23日、別所浩郎・中韓大使を呼び、安倍政権が公表した河野談話の検証結果について抗議した(※この段
階ですでに韓国政府は「談話の作成過程」の検証と「談話内容」の検証をごっちゃにしている)。韓国側は「強制性を認めた談話を無力化させようとしている」と分析。今後、慰安婦の実態に関する白書を発行するなど国際社会への訴えを強める方針だ。

 この韓国政府の強硬姿勢に困惑しているのは安倍総理だけではない。アメリカのオバマ大統領も頭を抱えてしまっているはずだ。
 安倍総理は、オバマ大統領の恫喝を受け入れて、本当は河野談話を否定したかったのだが、「談話の作成過程の検討」にとどめ、談話そのものは継承することを報告書が出る前に明言していたのだから、安倍総理の目的はすでにアメリカによって排除されていたのだ。安倍総理は、当然「検討会」が安倍総理の変心を察して適当な(つまり当たり障りのない)報告書を作成してくれるものと思っていたのかもしれない。が、当初の目的が談話を否定することにあったから、相当優秀な有識者を「検討会」のメンバーに選んでしまったのだろう。
 だったら「検討会」の有識者たちに裏から手を回して、報告書は適当でいいよと指示しておけばよかったのに、自分の意を察してくれると勝手に思い込んだのだろうか。それともそれなりに手は打ったのだが、外交上のトップ・シークレットを完全に白日の下にさらけ出してしまうくらい優秀な人たちだから、「今さら、何を言うか」と総理筋の要望を撥ね付けてしまったのかもしれない。私は後者の可能性が強い、と思っている。
 だから「検討会」の報告書が出た段階で、安倍総理は即座に「河野談話の見直しはしない」と再び断言してしまった。米韓に屈して外交上の不利益になりかねないことは、事実が明白になっても目をつむることにしたのだ。日本が誇りと尊厳を失うことを承知の上でだ。
 こうした経緯で発表された報告書について朝日新聞と読売新聞は、どう見ているか。
 まず慰安婦問題に火を付けておいて、吉田清治の捏造「ノンフィクション」小説が韓国人の反日感情を煽った責任を回避したまま「火を消し忘れた」朝日新聞の社説から抜粋する。
「安倍総理はかつて、慰安婦への謝罪と反省を表明した河野談話の見直しを主張していた。だが、国際社会からの強い反発(※反発したのはどの国?)もあって、河野談話を見直さないとの方針に転じた。もう談話に疑義をはさむのはやめるべきだ。(中略)報告書に韓国政府は猛反発し、せっかく始まった日韓の外務省局長級協議も中断する可能性が出てきた。(中略)慰安婦問題が日韓の大きな懸案に浮上して、四半世紀がたとうとしている(※よくも他人事のように言えたものだ)。(中略)韓国政府に登録した元慰安婦の生存者は54人になった。日韓両政府に、互いをなじり合う余裕はない(※ホント?)。河野談話をめぐって『負の連鎖』を繰り返すことなく、今度こそ問題解決の原点に返るべきだ(※火をつけたのは朝日新聞ではないか)」
 次に河野談話の検証を独自に行い、「裏付けに欠ける」と主張してきた読売新聞の社説はこうだ。
「韓国側の求めで、日本政府は元慰安婦16人の聞き取り調査を行ったが、調査終了前に政府内で原案が作成されていたという。事実関係よりも政治的妥協と外交的配慮を優先したのは明らかだ。極めて問題の多い“日韓合作”の談話と言えよう。(中略)安倍首相は、河野談話を見直さない方針を明言している。日韓関係の改善を模索するための大局的な政治判断だろう(また、安倍さんのヨイショかい?)。(中略)河野談話が起点となり、日本が慰安婦を強制連行したかのような誤解が世界中に広がっている。(中略)河野談話があるために、政府は有効な反論を行えずにいる。談話の見直しは、いずれ避けられないのではないか」

 何度も繰り返すが、「談話の作成過程の検証」と「談話内容の検証」とは別次元の問題である。もちろん前者の検証結果で「談話が日韓両政府のすり合わせでねつ造された」ということになると、当然後者、つまり談話そのものも検証せざるを得なくなるのは当然だ。
 わかりやすいケースでこの違いを述べる。STAP細胞問題である。
 現在、明らかになっているのは『ニュートン』に掲載されたSTAP論文は二つあり、小保方晴子は最初、論文の撤回には絶対に同意できないとしていたが、次々に論文に対する疑惑が表面化したことで、まず副論文の撤回には応じた。が、論文に対する追及はおさまらず、STAP細胞の存否を決定づける主論文の撤回にも応じざるを得なくなった。
 が、理研は「STAP細胞の存在が否定されたわけではない」として、STAP細胞の有無の検証研究を行っている。主論文が撤回された以上、STAP細胞は存在しなかったと結論付けるのが論理的なはずだが…。そうなると理研の権威が根底から覆ってしまうことを恐れているのだろう。
 私は、山梨大学の若山教授が共著者に論文の撤回を呼びかけ、STAP細胞疑惑が表面化した時点で、『小保方晴子氏のSTAP細胞作製は捏造だったのか、それとも突然変異だったのか?』と題するブログを投稿した(NHKがニュース7で報道したのが3月10日、私がブログを投稿したのは翌11日)。が、私は小保方が200回以上STAP細胞の作製に成功したと述べた瞬間から「突然変異説」をいったん撤回することにしたが(突然変異だったら200回も成功するわけがないから)、小保方が参加しての検証研究の結果、ひょっとすると突然変異でSTAP
細胞が生まれる可能性が再浮上したと、いまは考えている。
 つまり、STAP論文がインチキだったということと、STAP細胞が存在しなかったということはイコールではないということを読者に理解してほしいのだ。
 同様に、河野談話の作成過程の検証によって談話が捏造された可能性が非常に高くなったということと、では慰安婦問題はまったくなかったかということは別の問題であって、談話の作成過程が政治的産物だったことが明らかになった以上、改めて事実に基づく慰安婦問題の解明を行う責任が日韓両政府に生じ
たのである。
 このブログの冒頭に述べたように、韓国政府が「白書」を発行して国際社会に訴えるとなると、「白書」の根拠は吉田清治の捏造「ノンフィクション」小説『私の戦争犯罪』に求めるしかない。元慰安婦16人の証言だけは国際社会も容認するだろうが、それは20万分の16にしかすぎず(元慰安婦は20万人いたと言われている。ただし明確な根拠はない)、日本軍当局による強制性の証明にはなりえない。
 となると、これまでは国際社会から証拠として採用されてきた「私の戦争犯罪」が捏造作品だったということも、国際社会で明白になってしまう。当然国連人権委員会の決議も、米下院での決議もすべて無効になってしまう。このブログの冒頭で「韓国政府が墓穴を掘ろうとしている」と書いたのは、そういう意味である。
 そうなると、安倍総理を恫喝して「河野談話は継承する」と言わせた米オバマ大統領も窮地に陥る。いまさらオバマ大統領も「検討会の報告書はなかったことにしろ」とまでは、いくら何でも言えないだろうし、もしそんな内政干渉をしてきたら安倍総理も「はい、承知しました」と報告書を撤回させることまではできまい。
 オバマ大統領としては、おそらく韓国政府に圧力をかけて「白書を作ったりして、寝た子を起こしたりしたら、かえって韓国が不利になる」と朴大統領の説得に乗り出さざるを得なくなる。安倍さんにとっては、韓国政府の予想外の反発は、場合によっては「神風」になるかもしれない。冒頭で「安倍さんは、ついている」としたのは、そのゆえだ。


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実効法人税率の引き下げでは、日本経済の活性化は期待できないという、それなりの理由。

2014-06-25 08:01:28 | Weblog
 安倍総理が昨夜(24日)、首相官邸で記者会見を行い、同日の臨時閣議での「新成長戦略」の決定を受け、「今後、成長戦略を大胆にパワーアップさせていく」と胸を張った。
 成長戦略には、成果主義賃金制度(残業代ゼロ政策)の導入、混合医療の適用範囲の拡大、外国人労働者の活用、JA全中を中核とする硬直化した農協体制の改革など盛りだくさんの内容が盛り込まれた。が、これらの成長戦略の核と位置付けているのが「実効法人税率の引き下げ」で、安倍総理は「来年度から数年間かけて実効税率を現在の約35%から20%台に引き下げる」とした。
 これらの成長戦略は、すでに方向性が打ち出されたものばかりで、特に目新しいものはないが、閣議決定で確定したことの重みが加わった。
 私はこれまで、成果主義賃金制度の導入については条件付きで支持するブログを複数回書いてきたし、混合医療の全面的導入についても一刻も早く推進すべきだと主張してきた。外国人労働者の活用と、農協改革については「もう少し具体的内容が見えてきたら書くことを読者にお約束してきた。その約束は必ず果たす。現時点で言えることだけ書いておこう。
1.外国人労働者の活用…現在は技能実習生制度の下で限定された職種(建設や農業など)にのみ認められているが、一定の条件を満たせばあらゆる産業分野で認めるべきだと、私は考えている。ただし、女性労働力の活用、若年労働者の「正規社員」の壁を厚くしている企業に対する罰則を科すること、同一労働同一賃金制を完全に原則化し、外国人労働者が過酷な条件下でこき使われている実態に対する救済策を策定することなどをとりあえず考えている。
2.農協組織の改革については、私は1991年11月に青春出版社から上梓した『日本が欺くコメ、ブッシュが狙うコメ』で、農協組織が小規模・零細農家を食い物にして組織の拡大を図ってきたことを明らかにしたことがあるが、自民党農水族の抵抗をどれだけ排除できるかの視点で具体策が提案された時点で書きたいと考えている。実は、この著書は書店ではあまり売れなかったが、テレビ出演や講演の依頼が一番多かった本である。全中が発行している新聞からは酷評されたが…。

 たった今ワールド・カップ1次リーグの最終戦が始まった。いま時々テレビに目線を走らせながらブログを書いている。日本が決勝リーグに進出できる可能性は、コートジボワールがギリシャに負けるか引き分けることが絶対条件である。
 メディアは日本がコロンビアに勝利することを「絶対条件」としているが、これは間違い。野球を知っている人は理解できると思うが、終盤の優勝争いが激化してくると「マジックが点灯した」とか「消えた」あるいは特定のチーム
について「自力優勝はなくなった」といった報道がよくされる。「自力優勝がなくなったチーム」が優勝するための「絶対条件」は、そのチームが残り試合を全勝することではない。ライバルのチームが取りこぼして、再び「自力優勝の可能性が復活する」ことが、そのチームにとって優勝戦線に残れる絶対条件なのである。日本が強豪コロンビアに100点という大差をつけて勝ったとしても、コートジボワールがギリシャに1点差でも勝利すれば、最大の指標である勝ち点で日本はコートジボワールに絶対追いつけない。政府が「絶対条件」などと定義したわけでもないのに、メディアがそろって「日本がコロンビアに勝つことが絶対条件」としていることに、疑問を感じる人がメディアにはいないのだろうか。(※いま、ちらっとテレビに目を走らせたらコロンビアに先制点をとられたようだ。日本の可能性は、大学の数学教授がスーパーコンピュータで計算したら、天文学的確率になっているだろう)

 本題に戻る。安倍内閣の「実効法人税率引き下げ」政策である。私は昨夜NHKのニュースを見たあと某新聞社の読者窓口に「実効税率」とはどういうことを意味するのかをきいた。ウィキペディアで調べてみたが、かなり難しい計算が必要なようで、まったく理解できない。私が知りたかったのは税制は国によって違うので、仮に日本の法人税制を他の主要国の税制に当てはめて計算した場合、他国の法人税率は日本と比べて有利になるのか不利になるのかが知りたかったのだが、結局分からなかった。単純に名目税率を比較しても意味がないからだ。企業が稼いだ利益から、「引当金」などの名目の控除がされているから、実効税率という以上、そういう控除がなかったとして利益の何%が課税されているのかの国際比較をしてくれないと、私には判断のしようがない。
 実は「実効税率」という言葉に私が引っかかったのは、竹下内閣時の消費税導入、橋下内閣時の消費税増税の際、政府はウソをついていた。そのウソをメディアが「意図的に暴くことをやめた」とまでは私も考えてはいないが、少なくとも理解力がゼロに等しかったことだけは指摘しておきたい。

※いま、サッカーは前半終了直前に岡崎がシュートを決めて同点に追いついた。一方ネットでギリシャ―コートジボワールが1点取って前半を終了した。スポーツは「下駄を履くまで分からない」というが、日本に「自力優勝」の可能性が生じた。この時点で、先に述べた「絶対条件」は、もしギリシャがこのまま1点差で勝ってくれれば、日本がコロンビアに勝利することに変わった。

 自民党政府は消費税導入に際して、日本の高額所得者に対する累進課税は過酷すぎる、として高額所得者への課税の軽減化と引きかえに消費税を導入・増税してきた(※今年4月の消費税増税の目的は社会福祉制度を維持するためであり、だからおそらく世界で例を見ない増税に対する国民の支持があった)。が、その高額所得者に対する累進課税が過酷すぎる、という当時の政府説明がウソ
だったことを安倍内閣がばらしてしまった。
 私は、安倍内閣が高額給与所得者に対して2段階に分けて給与所得控除を減額すると発表した時、すぐそのことに気がついてブログを書いた。が、私のブログはメディア関係者や政治家のかなりの人たちが読んでいるはずなのに、竹下・橋下内閣のウソを告発しなかった。安倍内閣がばらしているのにだ。(※たった今後半が始まった。ニッポン、がんばれ!)
 安倍内閣が高額給与所得者の「給与所得控除」を減額したので調べてみたが、給与所得控除は累進的に控除額が増額する制度になっていることが分かった。簡単に言えば、年収500万円のひとより年収1000万円の人の方が給与所得控除額がはるかに大きいのだ。ある意味ではそうした高額所得者に対する優遇税制によって「過酷」とされてきた日本の累進課税制のバランスをとっていた、と言えなくもない。
 日本の大きなメディアは海外主要国に総局や支局を置いている。当然現地人も採用している。その人たちに、日本の税制を適用した給与を払っているのか。そんなことはありえない。現地人に対する給与だけでなく、海外に転勤している日本人社員の給与も、その国の税制に従って支払っているはずだ。だからメディアは、竹下内閣・橋下内閣の「日本は高額所得者に対する課税が過酷だ」という主張のウソが分かっていたはずだ。いや、ひょっとしたら、日本政府のウソに気づかないほど無能な記者を海外に転勤させるのが、日本のメディアの人事方針なのかもしれない。
※いま後半に入ってすぐ、コロンビアにまたリードを奪われた。いったん灯った日本の「自力優勝」の可能性はまた消滅した。自力優勝どころか「他力本願」も危うくなった。でも、まだ時間は残されている。がんばれ、ニッポン!
 そういうわけで、安倍内閣が日本企業の競争力を高め、また海外からの企業進出への誘い水に、実効法人税率の引き下げがなるのかどうかの不信感がどうしてもぬぐえない。消費税導入時に自民党政府はウソをついた前歴があるからだ。
 実効法人税率を引き下げるには、まず主要国(米独英仏伊韓など)の法人税の仕組みを明らかにして、いったん同じ基準に変換して日本の実効税率と比較すべきだろう。そういう手順を踏んで初めて日本の法人税制の見直しも含めた実効税率の引き下げを行うべきだろう。その肝心の説明や各国の税制とのフェアな比較検証作業なしに、法人税だけを引き下げ対象にするというのは、またウソにまみれた税制改正につながりかねない。
 かつて日本はバブル景気と、その後の「失われた20年」を経験した。バブル
景気の原因はいろいろ検証されているが、経済学者たちが意図してか、あるいは頭が悪いためか、金融緩和のせいだとか、土地神話が強調されすぎたせいだとか、東京がアジアの金融センターになりオフィスが圧倒的に足りないといったうわさをだれかが流した(長谷川慶太郎氏という説が有力)とか、さまざまな理由があげられているが、肝心な問題に背を向けている。
※いまコロンビアに3点目が入った。もうギリシャを応援しても無駄な状況になってしまった。まだ試合は続いているが、日本が絶望的状況になったことは否定しようがない。
 それは、カネがないところでは絶対にバブルは生じないという基本的な経済原則である。現在中国のバブルがはじけつつある状況が報道されているが、世界第2位の経済大国にのし上がった中国のバブルが崩壊したら、世界経済がどれだけ大打撃を受けるか、安倍内閣はその日に備えた手を講じるべきだろう。※コロンビアに4点目が入り、点差は3に広がった。NHKのアナウンサーは「日本は苦しい状況になりました」と悲鳴を上げたが、苦しい状況どころか「心肺停止」状態だ。
 はっきり言って「バブル景気」はバブルを生み出すだけの豊富な資金力がなければ絶対に実現しない(※試合終了。日本は1次リーグで敗退が決定。残念)。そしてバブルを生み出した豊富な資金力は、消費税導入・増税と引きかえに実行に移された高額所得者への課税軽減政策であった。高額所得者は、すでに必要なものはすべて持っている。有り余った可処分所得がどこに向かうか、子供でも分かる話だ。彼らが飛びついたのは銀行預金より有利な株や不動産やゴルフ会員権や絵画などの芸術品、貴金属といったたぐいである。これらのうち、芸術品や貴金属類は国際相場が形成されており、バブル時代でも日本だけの事情で高騰することはないが、株や不動産、ゴルフ会員権は日本固有の事情で相場が左右される要因が大きい。一時は東京都23区の時価総額でアメリカ全土が買えるという、常識から考えたらありえないほどの状況になり、海外からも日本への投資が急増した。バブル景気の本当の理由はそこにあったということを経済学者やメディアが指摘しないから、安倍内閣は実効法人税率を引き下げたらどうなるか、を考える思考力を失ったままとしか言いようがない。
 日本経済新聞の23日「電子版」によれば、企業の内部留保が増え続け、2013年度には304兆円と過去最高を更新した。もちろん企業はその余剰資金を銀行に預けたり金庫にしまっているわけではない。その内部留保がどこに向かっているのか。大和総研の調査によると「海外企業への投資」に向かっているようだ(日本経済新聞)。
 そういう傾向が大企業中心に定着しているとなると、実効法人税率を引き下げても、日本経済の活性化に結びつくのかという疑問が当然生じる。むしろバブル景気の原動力になった高額所得者の可処分所得の増大と同様、法人の内部留保が膨れ上がり、そのカネが海外に流出して、かえって日本経済活性化の足を引っ張りかねないという危惧が生まれる。安倍内閣は、そうなる可能性も織り込み済みで法人優遇税制を実行に移そうとしているのだろうか。
 政府の成長戦略の中には、「企業が内部留保をため込むのではなく、新たな設備投資などに活用していくことが期待される」と盛り込まれている。言っておくが、企業は内部留保を「銀行預金や金庫の中に」貯めこんだりしていない。そんなバカな経営者はたちまち株主総会で罷免される。
 実効法人税率の引き下げというアメをしゃぶらせるのなら、政府は企業の内部留保の使い方にも目を光らせ、使い方によってはムチをふるうことも成長戦略に盛り込まないと、モラルのひとかけらもない日本企業がまたバブル景気を演出しかねないことに気付くべきだ。
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河野談話の作成過程の経緯が明らかになったのに、なぜ安倍総理は河野談話の再検証を拒むのか。②

2014-06-24 07:15:10 | Weblog
 朝日新聞が21,22日に実施した全国世論調査(電話)によると、安倍内閣の支持率が前回(5月)の49%から43%へ6ポイントも下落、第2次安倍内閣発足後最低となった。その原因は「集団的自衛権行使容認」への強硬姿勢にあるとみられる。河野談話の作成過程の検証を踏まえて、当時の慰安婦問題の実態はどうだったのか、河野談話にあるように、本当に慰安婦所の設置や管理あるいは慰安婦の集め方について軍当局が直接間接に関与し、かつ強制的なものだったのかという、当時の日本政府の植民地統治の国家姿勢の根幹にかかわる問題の検証を放棄したことに対する世論はこの調査には反映されていない。朝日新聞も今回の調査の焦点を集団的自衛権問題に絞ったようで、行使容認をめぐる国会での議論が「十分されている」と答えた人はわずか9%にすぎず、76%の人が「十分ではない」と答えたことからもそのことがうかがえる。
 それでも支持率が政権発足後1年半を経過したにもかかわらず比較的高い水準にとどまっているのは、確かな手ごたえは得られていなくても、なんとなくアベノミクスと称している安倍内閣の経済政策への期待感が、まだ失われていないことの表れと言えなくもない。が、アベノミクスが成功するかどうかの判断はまだ下せない。ニューヨークはリーマン景気に沸いた時期の株価水準を連日突破してアメリカ経済の見通しは悪くないようだが、日本はいぜんとしてバブル期の株価水準の半分にもほど遠い。日本経済の先行きはまだ不透明だ。

 内閣支持率の低下問題は別として、昨日のブログの続きに戻る。結論から言うと、「検討会」が行ったのは「河野談話の作成過程の検証」であり、それが当時の韓国・金泳三大統領の要請に日本政府が応じて「16本の枯れ木を見て」森全体が枯れているという政治的判断をしたのが河野談話であることが明らかになった。枯れ木が16本(とは限らないが)あったことの確認が、なぜ森全体の状態の証明になるのかという疑問は、以前から私も持っていた。閣議決定は経ていなかったと言うが、少なくとも宮沢総理は知っていたということだから(※官房長官は総理の女房役とされる内閣のスポークスマンである。その権限を逸脱したのは細川内閣の武村正義官房長官で、細川総理が唐突に消費税を廃止して国民福祉税を創設するという構想を発表した際、記者会見で真っ向から批判したケースくらいだろう)、宮沢総理も小学生並みの頭脳しか持っていなかったということになる。そんなことは実際問題としてあり得ないが…。
 結局、「検討会」の調査によって、河野談話は韓国の金大統領からの要請によって日本政府が慰安所設置の経緯と慰安婦に対する非人道的扱いについて「調
べた」ことにして、元慰安婦及び韓国に対して謝罪の談話を捏造するというこ
とがあらかじめ決まっていたこと、また談話の内容についても一字一句を韓国
側とすり合わせながら作成されたことが明らかになった。

 慰安婦問題が日韓関係ののど元に突き刺さったとげになったのは吉田清治が書いたねつ造「ノンフィクション」小説『私の戦争犯罪』(1983年、三一書房刊)に端を発している。吉田は軍の命令によって済州島で205人もの朝鮮女性を慰安婦として強制連行したと「告白」したのである。この「ノンフィクション」小説を高く評価したのが朝日新聞だった。当時の朝日新聞は日本の良識を代表する新聞と一般的には認識されており、朝日新聞が吉田を英雄視した記事を書いたのが韓国に伝わり、韓国でいっきに反日感情が盛り上がった。
 実は吉田の「ノンフィクション」小説が捏造だったことを暴露したのは済州島の地元新聞だった。済州島のような小さな島で、205人もの慰安婦狩りが行われたという話に、地元の人たちが疑問を持ち、済州新聞が裏付け調査したようだ。その結果、まったくの捏造であることが明らかになり、済州新聞は調査結果を紙面で公表、吉田も「創作」であることを認めたが、肝心の火を付けた朝日新聞が「火を消し忘れ」てしまった。済州新聞の検証記事は朝日新聞が無視しただけでなく、韓国国内でも無視された。また国連やアメリカも無視した。
 当時の韓国は、技術建国を目指しており、技術を教えてもらわなければならない「先生」である日本との関係を悪化させたくなかった。が、日本に支配されていた過去の「不幸な時代」に対する国民の記憶は、そう簡単には消えない。誤った形で慰安婦問題が韓国に伝えられたため、緊密な関係にあった日韓関係の先行きが不透明になってきた。その時点で日韓関係がぎくしゃくすると、「発展途上国」(当時の呼称)から脱皮して先進国への仲間入りを目指していた金政権にとって大きな障害になりかねない。金政権にとって、とりあえず国内の反日感情の火を消すことが最優先の政治的課題になったのである。
 はっきり言ってしまえば金大統領が宮沢内閣に頭を下げて「旧日本軍が悪行を働いたことにしてほしい」と願い出たのが、河野談話作成の真相だったのではないか。そう考えないと、16本の枯れ木を根拠に森全体が枯れ木で埋め尽くされているかのような検証談話を、いくらなんでも日本政府が自主的に出すことなどありえない。宮沢内閣は社会党や共産党の政権ではなく、自民党政権だからだ。当然、金大統領が日本政府に日韓関係の悪化を食い止めるために「談話作成」を宮沢内閣にお願いし、その代わり「談話を出しても慰安婦問題で日本に賠償請求などしない」と約束したのがそもそもの談話作成の出発点だったはずだ。
「検討会」はその後の談話作成の過程は実に丹念に検証し、河野洋平も韓国側も検証内容については全面的に認めている。が、自民党政権のピンチを救済したリリーフ総理の村山富市氏が、リリーフ役を引き受ける条件として出した「村山談話」は、抽象的な表現にとどまっており、その後の政権も無条件に支持を
表明してきた。安倍総理も「村山談話」については再検証しようなどとはつゆ
ほども考えたことがないはずだ。「村山談話」と「河野談話」の根本的な相違は、総理大臣という日本の最高政治責任者の発言と、内閣のスポークスマンである官房長官の発言という「重みの違い」ではない。「村山談話」は具体例には触れず、先の大戦で日本がアジアの人々や国に対して大きな苦痛を与えたという抽象的な表現にとどまっており、その範囲では自民党右派も否定しようがない内容だったからだ。が、「河野談話」は慰安婦問題について、韓国側が出した16人の元慰安婦への聞き取り調査だけで、旧日本軍が慰安所の設置、管理、募集、待遇に至るまで直接間接に関与し、非人道的な扱いをしたと、きわめて具体的に「事実関係」を「明らかに」して元慰安婦と韓国に謝罪している。「検討会」は談話の作成過程において韓国側と密に連絡を取り合いながら一字一句に至るまで韓国側とすり合わせながら談話の文章を作成したプロセスは明らかにしたが、そもそも宮沢内閣が唐突に慰安婦問題についての「自主的な」謝罪談話の作成を行うことにしたのかの、一番重要な要の検証をすっぽかしてしまった。そこまで気が回らなかったのか、それとも…。

 言いようによっては、当時の日本政府は金大統領のお願いに対して「大人の対応」をしたと言えなくもない。だが、その談話が、国際社会で今後どういう影響を持つことになるのか考えなかったのだろうか。実際談話発表の3年後の1996年には国連人権委員会のクマラスワミ報告や2007年の米下院121号決議でも、「旧日本軍の慰安婦狩り」が「歴史的事実」として明文化されてしまった。その際にも吉田の捏造「ノンフクション」が証拠として採用されている。が、日本政府は公式に河野談話を発表し、韓国に謝罪してしまった以上、そうした国際社会の「認定」に抗議することもできない。
 河野洋平は、「検討会」の検証結果を全面的に認めた。認めながら、「政治的配慮」を口実に依然として自己正当化している。私も金大統領のお願いを聞き入れた背景には様々な政治的配慮があったことは否定していない。が、その時点の政治的配慮が、今日の海外での日本に対する評価として定着してしまったことに、一片の責任も感じないのか。政治家と言う職業は、ずいぶん都合のいい職業だな、と今さらながら感心する。経済界だったら、不祥事が明らかになったら、その不祥事が発生する原因を作った過去の経営者までさかのぼって責任が問われる。そういう権力に伴うモラルが、政治の世界には必要ないということが、今回の事件で明白になった。それがせめてもの救いか。

 私は先の大戦における日本の侵略戦争を、あらゆる意味において肯定するものではない。だから、これから述べる当時の日本政府の植民地支配政策は、日本の軍国主義による侵略戦争を美化することが目的ではないことをあらかじめお断りしておく。勝手に一人歩きさせられては困るので…。
 日本社会には聖徳太子の「17条憲法」以降、「和をもって貴し(※尊しの誤りではないか?)となす」という「和」の精神が定着してきた。そのため、日本の植民地政策は、ヨーロッパ列強とは違い、同化政策をとってきた。教育も日本並みの制度を整え、京城や台北には日本の帝国大学と同等の資格をもつ帝国大学を作り、民度の向上を図ってきた。植民地国の教育制度を整備するということは、場合によっては両刃(もろは)の刃になりかねない。
 日本が植民地支配した国で教育制度を充実させた理由の一つに、日本産業近代化の担い手を養成するという目的があったことは私も否定しない。が、高度な教育を身に付けた人たちが反日運動を起こす可能性は当然、当時の政府も考慮の中に入っていたはずだ。実際世界中で生じた(現在も生じている)反権力(あるいは反体制)運動の指導者たちは、ほとんどすべて高度な教育を受けた人たちである。そうしたことを承知の上で、日本が支配下に置いた国で高度な教育制度を導入し、その国の将来のリーダーを育てようとしてきたことは、日本社会の精神的規範として根付いてきた「和」の精神が大きく働いた結果ではないかと私は考えている。
 民主化された現在でも汚職する官僚は跡を絶たないし、「警官を見たら泥棒と思え」とまで酷評された時期もあったくらいで、たとえ小さな権力でも、その権力には必ず誘惑の手が伸びる。先の大戦時の状況は、私には知る由もないが、誘惑に屈した小さな権力は間違いなくあったと思う。ただ召集されて一兵卒になった亡父の思い出話で聞いたことだが、父が配属された関東軍の部隊はものすごく規律が厳しく、現地人に対する暴力や強盗・強姦は厳しく禁止されていたようだ。そういうことも含めて、そろそろ「勝てば官軍、負けたら賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」史観から脱皮して、先の大戦の真実をフェアに掘り返すべき時期ではないかと思う。過ちは過ちと認め、平和な国際社会の構築に日本はどういう貢献ができるのか、またすべきなのかを、いたずらに主義主張によって行うのではなく、国際社会から本当に評価され、尊敬されるような役割とは何かを、国民的議論を経て考えるべき時期だと思う。

 それはともかく、河野談話の「作成過程」の検証以上に問題なのは安倍総理の姿勢である。安倍総理は第1次政権のときから河野談話の見直しに前向きだった。ただ、今日の日韓関係は金大統領・宮沢内閣時代とは激変している。日本の技術に頼って経済発展を図っていた金時代と異なり、IT技術の根幹をなす半導体の研究・開発・生産の分野で日本は韓国に完全に逆転されている。アメリカの失敗から何も学ばなかった日本政府は、日本の半導体を含むエレクトロ
ニクス産業の空洞化の進行に何の手も打たなかった。
 その結果として、いま日本のエレクトロニクス産業は韓国の先端技術を借りないと、何も開発できないし、生産もできない状態になっている。たとえば、いま日本メーカーのテレビはほとんど中国製になっているが、肝心の心臓部のエレクトロニクス部品は韓国メーカーから買わざるを得ないのが現実だ。日本メーカーはいま4Kテレビで「テレビ王国」の復活を目指しているが、韓国から技術を買わないと研究開発もできないし、生産を国内はおろか中国で行うこともできないのだ。それが現在の偽らざる日韓経済関係の根っ子にある。
 朴大統領が対日強硬姿勢を前面に出しているのは、そうした「韓国なしには日本の産業界は生き残れない」という現実を背景にしていることを忘れてはいけない。また、アメリカ産業界も同様な状態にある。確かにパソコンやモバイル、携帯電話、スマートフォンなどのエレクトロニクス・メディアはアメリカが開発してきたが、実際に商品化するとなると、エレクトロニクス技術は韓国メーカーに「おんぶにだっこ」しなければ、にっちもさっちもいかないのが現実である。しかもアメリカの戦争に国民の血を流したことがない日本と、血を流してきた韓国と、アメリカにとってどっちが重要な同盟国か、と計算ずくの上での反日政策なのだ。だから朴大統領は日韓が対立したら、アメリカは韓国との関係のほうを重視すると、日米の足元を見透かしているのである。
 そうした日米韓の関係をまったく理解していない安倍総理が、河野談話の見直しを現時点で行おうとしたこと自体、政治的センスがゼロであることを自ら証明してしまったと言えなくもない。結局、安倍総理は河野談話の検証ではなく「河野談話の作成過程の検討」と姿勢をかなり後退させたが、作られた第三者の有識者会議である「検討会」は、本当に作成過程を完全に暴いてしまった。
 安倍総理は、検討会発足と同時にアメリカの猛烈な圧力に屈して「河野談話は継承する」と言ってしまった。それならそれで、「検討会もやめた。解散する」とすれば、二重の屈辱を味会わずに済んだのだが、そうすると総理の沽券にかかわるとでも思ったのか、検討会の「検証作業」を放置した。韓国も、安倍総理が「河野談話は継承する」と明言したことで、「検討会」がまさか外交上のトップ・シークレットに迫り、暴露してしまうとは予想もしていなかったのだろう。妙な言い方になるかもしれないが、セウォル号沈没事故の不手際で窮地に立たされた朴政権に、タナボタのようなプレゼントを差し上げてしまう結果になったのが、今回の「検討会」の報告書である。おそらく朴政府は、河野談話を事実上否定した報告書を材料にして「日本は信用できない国。信じ合える関係を作るのは無理」といったキャンペーンをはることで政権の危機を逃れようとする。韓国の野党がだらしなかった場合だが…。

 話題を変えるが、昨日、東京都議会で不適切ヤジを飛ばした議員が名乗り出た。彼は35歳の美人独身議員に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というヤジを飛ばしたようだ。ただ、この議員は「産めないのか」といったヤジについては否定している。自民党都議団としては、この議員が党派を離脱したことで幕引きにしたいようだが、これだけの大騒ぎになってしまうと、そうもいきそうにない。私自身は、自分が男性のためか、それほど大騒ぎするような話ではないと思っている。ただ大騒ぎになったことで、小さな町村議会まで含めて、人格を傷つけかねない不適切ヤジに対する議員たちの自制心が働くようになるだろうことは、せめてものプラスになったかなと思っている。
 ただ、都議会騒動で見逃されている、もっと重要な問題が二つある。
 一つは、この騒ぎの最大の責任者はだれか、という視点である。当り前のことだが、吉野利明議長の責任である。「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というヤジが飛んだときは、女性議員はヤジを発した方向に顔を向け、ニコッと笑みを浮かべた。その後「産めないのか」といった卑劣なヤジが飛んだことで、女性議員の顔が一瞬で変わり、質問の口調も固く早口になり、とうとう涙声にまでなった。そのときに、なぜ吉野議長は毅然として議事の主導権を発揮しなかったのか。具体的には「いまのヤジを飛ばした人は起立してください」と直ちに発言者を特定し、女性議員への謝罪と議場からの退席を命じるべきだった。そういう感覚を、メディアが持たないことが、私には不思議でならない。
 二つ目の問題は、この事件が海外のメディアでかなり大きく取り上げられたことだ。「日本は女性蔑視の国」といった烙印を押されたようなものだ。これが国政の場である国会の本会議や予算委員会での事件なら海外で報道されても理解できないことはない。が、首都といっても地方自治体での小さな出来事である。本来、他国のメディアが飛びつくような話ではない。
 逆の立場から考えてみよう。仮にアメリカの首都ワシントンDC(どの州にも属さない特別区)やニューヨーク州の議会でこうした類の不適切ヤジが飛び交ったとして、日本のメディアは大騒ぎするだろうか。そう考えると、海外メディアの異常反応が何を意味するのか、そのことのほうが私には気になる。いま安倍・日本は海外からどう見られているのか。そのことをメディアも政治家も最重要視しなければならない。メディアも政治家も、感覚がどこかずれているのではないか。それとも私がおかしいのかな?(終わり)
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河野談話の作成過程の経緯が明らかになったのに、なぜ安倍内閣は談話の再検証を拒むのか。①

2014-06-23 05:47:46 | Weblog
 通常国会の事実上の閉会日(20日)に、政府はいわゆる「従軍慰安婦」問題についての河野談話(1993年8月に宮沢内閣の河野官房長官が発表したもの)の作成過程の検証結果を公表した。NHKはニュース7で「検討結果」としたが、「検討」と「検証」とでは、重みが月とすっぽんほど違う。ほかのすべてのメディアが「検証結果」としているのに、なぜNHKは「検討結果」としたのか。
「検証」とは、事実の有無についての調査の結果、明確になったこと(あるいは明確にすること)を意味する言葉である。「検討」とはまだ事実が明確でない時点で事実関係についての判断を行った(あるいは行っていること)を意味する言葉だ。だから政府が有識者会議を設置した段階では事実関係を明確にするという意味において設けられた「検討会」だった。その検討会が行った作業が、河野談話の「作成過程の検証」であり、事実関係が明らかになったので「検証結果」を発表したのである。言葉尻を捉えるわけではないが、最近のNHKは明らかに政治的意図を含めた言葉を使っている。
 安保法制懇の位置付けにしてもそうだ。読売新聞と産経新聞は「政府の有識者会議(懇談会)」と位置付け、朝日新聞と毎日新聞は「安倍総理の私的有識者会議(懇談会)」と位置付けていた。日本経済新聞は「政府の」とか「私的な」といった冠言葉を付けずにただの「有識者会議」としていた。メディアの安保法制懇についての位置付けは、当然のことだが各社の政治的立場を反映した表現になる。だから安保法制懇の正式な報告書が出る前からメディア各社は報告書の概要について関係者に取材してスクープ合戦を行った。
 それはNHKも含めてメディアとして当然のことだが、なぜか政治的中立性が義務付けられているNHKは、ニュースでアナウンスやテロップ(字幕)で安保法制懇の動向を報道する場合、「政府の有識者懇談会」とオーソライズした表現を繰り返していた。当然私は何度もNHKの上席責任者に電話し、安保法制懇を「政府の」と位置付けることは、現在のメディア各社の位置づけ方から考えてもNHKが「集団的自衛権行使容認」の立場に立ったことを意味すると抗議した。閣議決定を経て政府が設置した有識者会議(懇談会)の場合は、政府に対してかなりの強制力を持つ(決定権ではない)からだ。
 結局NHKは私の抗議を受け入れて、4月末くらいからだったと思うがアナウンスやテロップの表現も変えた。「安倍総理が設置した有識者懇談会」としたのである。この表現が、一番政治的中立性を明確にしたもので、NHKの報道局内部での良識派がニュース報道の主導権を握ったのではないか、と私は考えていた。確かNHKとのやり取りの経緯と結果はブログで書いたはずだが、タイトルにそういう表現を加えていなかったようで、いつ書いたのか思い出せない。
 いずれにせよしばしば欧米人とのやり取りで日本人が使用する「検討します」という言葉が「YES」や「OK」を意味する言葉と誤解されて問題を起こすケースが生じた時期がある。日本人は相手を傷つけないようにやんわり拒否するニュアンスの言葉だということが分かっているが、なんでもYESかNOかはっきりさせたがる欧米人にとっては日本人が日常的に使う、相手への気遣いを込めたNOのサインだということが分からない。最近は日本の政治家やビジネスマンも欧米人の言葉に対する感覚と日本人のそれとは違うということが分かってきて、相手に誤解を与えないような対応を心掛けているようだ。
 そういう意味も含めて政府は、まだ事実関係が明らかでない段階で「検証」という強い意味(つまり河野談話そのものに対する否定的な見解を出すこと)を使用せず、また「河野談話」そのものの信ぴょう性を明らかにすることが目的ではないことも言外に匂わせた「河野談話の『作成過程』の検討会」としたのであろう。
 が、調査の結果事実関係が明らかになったら、検討会が提出した報告書の内容は「これから検討する」段階のものではなく「明らかになった事実を検証したもの」ということになる。素人なら「うかつだった」ですむが、メディアが使う言葉はつねに一定の政治的意味合いを持つ。さんざん安保法制懇の位置付けについて言葉の持つ意味と重要性をNHKにはお教えしてきたはずだが、なかなかご理解いただけないようだ。

 とりあえず、検討会が行ったのは河野談話そのものの信ぴょう性ではなく、談話の作成過程がどうだったのかを調べましょうということだった。そのきっかけは、河野官房長官と一緒に「従軍慰安婦問題」の調査に当たった石原信雄官房副長官(当時)が今年2月20日、衆院予算委員会で「日本政府あるいは日本軍が強制的に募集することを裏付ける資料はなかった。証言の事実関係を確認する裏付け調査は行われていない。談話の作成過程で韓国側と意見のすり合わせというものは当然、行われたということは推定される」と証言したことによる。
 その結果、にわかに河野談話の信ぴょう性を検証する必要があるという世論が高まった。そうした経緯の中で、安倍内閣は「河野談話の内容」についての検証ではなく、「河野談話の作成過程を調べる必要がある」として「検討会」を設置したのである。では河野談話とはどういうものだったのか。

 韓国の元慰安婦らが1991年、日本政府に補償を求めて提訴した。政府は調査の結果として、93年8月に宮沢内閣の河野洋平官房長官が公表したのが河野談話である。慰安所は「当時の軍当局の要請により設営された」とし、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送について「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」と強制性を認め、「心からお詫びと反省の気持ち」を表明した。

 これが「河野談話」の骨子である。この「お詫びと反省」は日本政府を提訴した16人の元慰安婦への聞き取り調査の結果として行われた。つまり16人の元慰安婦の証言が真実であると、聞き取り調査を指導した河野氏が確信したということを意味する。
 その後、16人の元慰安婦の証言について様々な疑問(たとえば証言に具体性がないとか、つじつまが合わないといった)がメディアによって指摘されたが、それは大した問題ではない。元慰安婦が日本政府を訴えたのは自分たちが慰安婦として日本軍兵士の性欲のはけ口になったのは提訴の50年も前のことであり、仮に当時の元慰安婦が20代半ばの年齢だとしたら、すでに75歳前後にはなっている。現在の調査研究によると、日本人の場合だが65歳以上の高齢者の認知症有病率は8~10%と推定されている(厚労省)。日本人の食生活が通常になったのは1950年ころと言われているから、先の戦争時における朝鮮の食生活の水準から推測しても元慰安婦の証言にあやふやな点があったからといって、証言がでっち上げだったとは私は考えていない。むしろ、証言の内容が完全無欠で矛盾点がなかったとしたら、そのケースの方がでっち上げを疑うべきだと思う。
 問題は、日本政府を訴えた16人の元慰安婦の証言だけで、慰安所の設置が「軍当局の要請により設営された」と断定し、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送についても「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」と、河野談話では断定していることである。
「木を見て、森を見ず」という格言もある。あるいは「木を見て、森を見る」ともいう。
 16人の元慰安婦を、仮に20万本の木でうっそうとした森のあちこちに生えていた枯れ木だったと考えればいい。その16本の枯れ木を見て、「この森は枯れ木で埋まっている」と断定することができるだろうか。河野談話はそういう性質の談話だったということなのだ。
 16人の元慰安婦は、恥を忍んで日本政府を訴えたくらいだから、確かに大変つらい思いをした方たちだったと私は思っている。が、慰安所の設置、管理を軍当局、具体的には大本営なり陸軍参謀本部なりが各部隊に指令したとしたら、必ず軍当局が関与したことを証明する文書がどこかに残っているはずだ。朝鮮全土に展開されていた日本軍の各部隊に電話などで通達するなどということはありえない。そういったことは、各部隊に軍当局がわざわざ通達するまでもなく、部隊の駐留先で自由に行えていた時代だったから、と考えるのが自然であろう。戦後も「赤線・青線」が残っていたくらいで、公娼制度はほぼ世界中で公認されていたのが実態である。
 例外はアメリカだ。アメリカは母国でいい仕事にありつけなかったり、事業に失敗したヨーロッパ人(中心はアングロ・サクソン系)が新天地に夢を託して移住して作り上げた人造の国家である。彼らの多くは、セックスに対する極めて厳しい倫理観を持ったキリスト教徒である。現在もアメリカは州によっては避妊や堕胎を禁じている。不倫はご法度であり、当然公娼制度などない。
 レディファーストは、もともとは中世ヨーロッパの騎士道に端を発したと言われているが、実は世界共通のルールにしたのはアメリカではないか、と私は考えている。というのは、新天地にわたった若い男性にとって最大の問題は女性をどうやってアメリカに呼び寄せるかだった。荒れ地を開拓して生活基盤を築いたのはいいが、女性がいないと家庭も作れないし、子供も作れない。そこで「アメリカは女性にとって天国だよ」とヨーロッパの女性に呼びかける必要があった。要するに北朝鮮が在日朝鮮人に「北朝鮮は天国だ。早く帰っておいで」とプロパガンダしたのと同じ手口を使ったのだ。
 だが、アメリカは北朝鮮のような一党独裁の軍事政権ではない。そのプロパガンダがウソだということになると、ヨーロッパから若い女性を呼び寄せることができなくなる。そのため、アメリカは本当に「女性にとって天国」のような社会にする必要があった。それがアメリカにレディファーストが定着した理由であり、だから公娼制度はかなり古くから認めていなかったのではないだろうか。アメリカは男性の不倫に対しても厳しい社会だが、おかしいのは元大統領のクリントンがホワイトハウスで実習生の若い女性と「不適切な関係」を持ったが、その行為はSEXではないということで世論の集中砲火を免れたというアメリカの倫理観である。日本では売春婦は「キスは許さない」ようだが、国によって性的モラルの基準が異なるのも、おかしな話といえば言えなくもないような気がする。
 そうしたモラル基準があって、アメリカは公娼制度を認めていない。そのため、おそらく先進国で性犯罪が最も多いのはアメリカではないだろうか。実際ノルマンディー作戦を成功させてフランスに進駐した米兵たちがフランス女性を片っ端から強姦した事実はもはや公然たる秘密とされているが、橋下徹氏がその事実を公言するのはちょっとまずかった。私がブログで書く分には何の問題も生じないが、日本の将来を担おうという政治家が口に出すのはいかがなものか。(続く)
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最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ。③

2014-06-20 05:48:04 | Weblog
 さて防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛氏は「集団的自衛権行使は『戦争』に非ず」とのたまう。本当か。
 戦争をしたがっている日本人はいない。ま、有権者だけでも1億人を超えるのだから、戦争をやりたがっている日本人もゼロではないかもしれない。が、少なくとも一国の総理である安倍晋三氏が、戦争目的で集団的自衛権行使を可能にしようなどと考えているわけはない。
 かといって、戦争をなくすために集団的自衛権の行使を可能にするといった論理は、どう考えても理解不可能だ。しかも、安倍=高村ラインは、やっと集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更することを明らかにした。私が今年1月にブログで指摘したことだ。安倍=高村ラインが「新解釈」を明らかにしたことで、メディアもようやく気が付いただろう。
 高村氏が公明党に示した「自衛権発動の新3要件」とはこうだ。

1.我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること
2.これを排除し、国民の権利を守るために他の適当な手段がないこと
3.必要最小限の実力行使にとどまるべきこと

 これはいったい「集団的自衛権」の新解釈なのか、それとも「個別的自衛権」の新解釈なのか? はっきり言って、「又は」という接続詞で国連憲章が加盟国に認めた二つの同等な「固有の権利」である個別的自衛権と集団的自衛権をごちゃ混ぜにすることによって、憲法解釈が可能になるとでも主張しているように見える。というより、それが目的なのだろう。
 従来の集団的自衛権についての政府解釈は「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」で、「日本も固有の権利として保持してはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」というものだった。
 なぜ歴代自民党政府は「権利はあるが、行使できない」としてきたのか。個別的自衛権についての政府解釈を前提にする限り、集団的自衛権の行使が不可能なのは当り前である。
 主権国家である以上、自分の国は自分で守るための自国の軍隊・戦力を持つことは当然のことである。憲法9条は芦田修正によって自衛権まで否定したものではないという意味が込められたが、いったん明文化されると、憲法に限らず独り歩きを始める。とくに何らかの特定の意図を持って、それなりに世論への影響力を持つ団体(政党を含む)・メディア・学者・ジャーナリストなどが解釈しようとすると、とんでもない誤解が世間に定着してしまうことになる。
 たとえばNHKの籾井会長が就任の記者会見で「政府が右と言っているのに左と言うわけにはいかない」と発言したことをとらえ、自公政府に批判的なメディアは一斉に「政府の言いなりになるのか」と噛みついた。確かに籾井氏はそういう発言はしたが、NHKの国際放送について「竹島・尖閣諸島についてはどういうスタンスで報道するのか」という記者の質問に答えたのが先の発言であった。小中学生の教科書にも領有権を明記することになったケースについて、この質問をした記者は「竹島・尖閣諸島の領有権は日本にはない」と言いたかったのか。質問をした記者が、この問題についてどういう認識を持とうが、それは個人の自由だが、記者とのどういう質疑応答の中で、いわゆる「籾井発言」が飛び出したのかは不問にされ、「政府が右と言っているのに左と言うわけにはいかない」という一部の発言だけが切り取られ、独り歩きしだした結果、「NHKは公共放送でありながら、政府の言いなりになるメディアだ」と決めつけられてしまった。さらに籾井氏がまずかったのは、その発言の趣旨を明確にせず「個人的見解であり、自分の個人的見解をNHKの報道に反映させるようなことはしない」と、おかしな弁明をしてしまったことである。
 同様に、憲法9条が認めていると政府が解釈している個別的自衛権についても、これまで自民党政府はとんでもない解釈と行使についての限定を加えてきた。まず9条に明文化された「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」が足かせになって、再軍備に踏み切って以降政府は一貫して、「戦力に至らない程度の必要最小限での実力は保持できる」とし、その実力の範囲は「専守防衛のための必要最小限」としてきた。だから自衛隊は、国内では依然として「軍隊」や「戦力」ではなく「実力」と言う意味不明な言葉で定義してきた。防衛庁を防衛省に格上げした際、自衛隊も自衛軍あるいは国防軍と名称を改めた方かいいという議論も出たが、そうすると憲法の「戦力の不保持」に抵触するといったバカげた主張によって一蹴されてしまった。
 では、自衛隊が保有できる「専守防衛のための必要最小限の実力」とはどういうことか。従来の政府解釈によれば「外国からの違法な侵害に対して、自国を防衛するための緊急の必要がある場合、それに武力をもって反撃する国際法上の権利である個別的自衛権の行使」に限定され、日本が攻撃された場合に初めて発動が許されるという解釈に立っている。もちろん「専守防衛」だから、日本を攻撃するために発射されたミサイルを迎撃したり戦闘機や軍艦を攻撃することはできるが、肝心の敵国の軍事基地を攻撃することは憲法解釈上許されないことになっている。
 この専守防衛を、分かりやすい例で考えてみよう。ボクシングの練習で、ボクサーが繰り出すパンチを野球のキャッチャーミットのような大きなグローブを両手にはめて受け止めるシーンをテレビや映画でご覧になった方は多いと思う。その大きなグローブこそ、ボクサーが繰り出すパンチに対する専守防衛の道具なのである。ボクサーを攻撃するための武器にはなりえない。
 実際には自衛隊の「実力」は敵国の軍事基地を攻撃する能力は十分備えており(ただし短距離ミサイルに限定されているから、中国・北朝鮮などの近隣諸国しか攻撃できない)、またミサイル誘導技術は世界でもトップレベルと言われている。が、そのミサイルは、敵国にとってはさしたる脅威にならない。なぜなら自国(敵国のこと)を攻撃するための武器としては使用しないと日本政府が決めているからだ。敵国は、安心して日本を攻撃できることになる。ただし、アメリカが日本防衛のために軍事介入しなければという前提だが。
 私は日本国憲法の平和主義は世界に誇るべきものだとは思っている。が「平和憲法」が日本の平和を守ってきたと主張している超楽観主義の護憲論にはくみできない。日本が戦後安全だったのは、日本防衛の「義務」をアメリカが
負っていると外国から見られてきたこと(※さりげなく書いたが、日本政府も
含めほとんどの国がそう思っている。肝心のアメリカを除いて…)、また日本を攻撃して何が得られるかと冷静に考えたら、得るものはほとんどなく逆に国際的に孤立することは間違いないという判断が国際社会で定着していること、また日本から攻撃される心配はしなくてもいいという理解がこれまた国際社会で定着していること、この三つの要素が日本が安全を維持できた理由である。
 が、現行憲法の平和主義が、偏見をもって流布されて「9条を守れ」という大きな世論の形成にあずかってきたことも、まぎれもない事実である。もちろん、そうした偏見解釈が一定の合理性を持ってしまったことは私も否定はしない。確かに憲法9条は「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を明文化しており、芦田修正によってそれが完全に否定されたと解釈するのはやはり無理があると私も思う。この連載ブログで引用した芦田氏の真意がどうであろうと、9条に「自衛のための戦力の保持と、自衛のための行使を除いて」という限定を加えなかったことが、その後の憲法解釈の混乱を招いたこと、また憲法改正の最大のチャンスだった日本の独立回復時に、吉田内閣が経済復興を最優先するため占領下において制定された憲法(※占領下において制定された憲法は占領軍に押し付けられた憲法、と主張している極右勢力の憲法論は私は認めていない)を改正せずに存続させたこと、また存続に際して国民の意思を問わなかったことが大きな禍根を残したことは、指摘しておく必要がある。
 実は、日本にはもう一度憲法改正の大きなチャンスがあった。誰も分かっていないが…。
 そのチャンスは湾岸戦争の時に偶然訪れた。湾岸戦争はイラクのフセイン大統領(当時)が突然クウェートに対する領有権を主張して武力侵攻したことによって生じた。このときフセイン政権は自国内の外国人をすべて拘束した。日本人141人も拘束された。が、当時の海部内閣は、この事態に対して思考能力を完全に失った。他国の国家権力によって日本人の安全が脅かされているのに、政府としての主体的な解決努力を放棄し、ひたすら国連頼み、アメリカ頼みに終始した。主権国家としての誇りと尊厳をかけて、人質にされた同胞の救出と安全に責任を持とうとするのではなく、アメリカやイギリスの尻馬にのってイラクへの経済封鎖と周辺諸国への医療・経済援助、さらに多国籍軍への資金カンパに応じただけであった。
 このとき、海部総理が国内外に「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたら、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」と、公式メッセージを発表していたら、おそらく国論を二分する騒ぎになっていたと思う。国会では野党が「自衛隊をイラクに派遣するつもりなのか」と政府に噛み付いたであろうし、海部内閣は「それなら国民に信を問う」と国会を解散
して、「これは海外の国家権力によって日本人の生命と安全が脅かされている事態だ。憲法9条の片言隻語の解釈にこだわって同胞を見捨てていいのか」と国民に訴えるべきだった。そうしていれば、その時点で憲法改正論はおそらく世論の大きな支持を得ていたはずだ。
 安倍総理の大きな間違いは、そうした歴代自民党政府の過ちを素直に認めて国民に謝罪していないことだ。それをせずに「戦争状態に陥った海外から脱出する日本人を乗せた米艦を防衛するために憲法解釈を変更する」などとおかしな主張をするから、内閣支持率や憲法改正についての国民の理解は高いのに、「解釈改憲による集団的自衛権行使の限定容認」には国民がソッポを向くのだ。安倍さんには、この世論の落差の意味が分からんだろうな。もちろん防衛大学名誉教授の佐瀬昌盛さんにも理解できんだろう。(終わり)

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最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ。②

2014-06-19 07:30:33 | Weblog
 ねつ造者は、ねつ造者をほめたたえるのが上手なようだ。STAP細胞疑惑で真っ黒けになった小保方晴子氏は、三木秀夫弁護士より防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛氏を代理人にお願いしたほうがよかったのではないか。
 ま、それは冗談がきつすぎたかもしれないが、朝日新聞が社説欄のすべてを使って批判した安保法制懇(安倍総理が設置した「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」)の報告書を、佐瀬氏はべた褒めした。
「同報告書は憲法解釈をめぐり息苦しいまでに理詰めの文書で、感情が立ち入る余地は皆無である。それも道理、集団的自衛権は国連憲章抜きでは議論できず、我が国の現行政府解釈、すなわち『国際法上は保有、だが憲法上は行使不可』もまさにその線上での議論である。ともに感情を抑えて砂を噛(か)む思いに耐える覚悟なしでは理解できない」
 佐瀬氏がこれほど高く評価した安保法制懇の報告書は、歴史の捏造を根拠にしたものである。報告書は、歴代政府の憲法解釈の変更についてこう書いている。それが、実は歴史の捏造なのだ。

 憲法9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」としていたのを、1950年代には「自衛のための抗争は放棄していない」とした。

 実は現行憲法は主権国家としての日本が自主的に制定したものではない。日本を占領下においたGHQの意向が色濃く反映されたものであることは、護憲勢力も否定していない。
 終戦後、日本政府は直ちに自主的な新憲法草案の作成に着手した。1946年2月8日にGHQに提出した改正案は天皇の統帥権を否定し、「軍事行動には帝国議会の承認を必要とする」という制限を加えることで済まそうと考えていた。が、日本の軍事力を完全に解体しようと考えていたGHQ総司令官マッカーサーが、そんな小手先の改正を容認するわけがなかった。マッカーサーは、日本の再軍備をも否定する新憲法三原則(いわゆる「マッカーサー・ノート」)を日本政府に突き付けた。そこに明記された憲法原案のうちの第二原則はこうだった。

国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

 このマッカーサー原案に噛み付いたのがGHQの民政局長(憲法草案起草のGHQ側責任者)ホイットニーだった。「自衛権をも取り上げたら、日本が将来独立を回復した際、禍根を残す」と批判し、マッカーサー原案から「さらに自己の安全を保持するための戦争をも」の部分を削除させた。が、占領下にあった日本の安全を保障するのは、占領側の米軍にあるのは国際法上当然である。実際当時の植民地においては、国際法上植民地の安全を守る義務は宗主国が持つことになっており、たとえ植民地化された国に軍隊が存在していても、その軍隊は宗主国の軍の支配下に置かれた。
 また終戦直後の日本には、軍隊を維持できるだけの余力も残っていなかった。国民は食うや食わずだったし、軍隊には欠かせない兵器の生産どころか鍋、釜の生産すらままならない状態だった。戦争に負けた日本を米軍が占領下において日本防衛の義務を果たしていなかったら、米軍が引き揚げたあとの日本は間違いなくソ連に占領されていた。そうした状況の中で当時の吉田内閣がGHQと交渉しながらまとめ、46年4月17日に枢密院(天皇の最高諮問機関)に提出されたのが、最初の政府原案だった。そこで若干の修正が加えられて6月25日に第90回帝国議会に上程された憲法9条はこうなっていた。

第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

 この政府原案に対して、当然だが自衛権をも否定するのか、という批判が帝国議会で相次いだ。たとえば6月26日には日本進歩党・原夫次郎議員の質問に対して吉田総理は「第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁している。社会党や共産党も、政府原案に原議員と同様の立場から反対した。
 安保法制懇は、このときの吉田答弁をもって終戦直後の政府の憲法解釈を「自衛権の発動としての戦争、また交戦権も放棄した」としている。が、実はこの政府原案はそのままでは帝国議会で承認されなかった。実は本会議と並行して7月25日から帝国憲法改正小委員会が設けられ、政府原案についての検討が行われていた。その委員会の委員長が芦田均氏であった。そして帝国憲法小委員会で政府原案が修正され、吉田内閣は10月12日に「修正帝国憲法改正案」として枢密院に上程、天皇の裁可を経て11月3日、公布された(施行は翌47年5月3日)。それが、いわゆる「芦田修正」と言われる現行憲法なのである。芦田氏が行った修正は9条の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求し」という文言を加えたことと、第2項の頭に「前項の目的を達するため」という文言を加えた2点である。
 芦田氏は、なぜこの二つの文言を加えたのか。新憲法が公布された46年11月に発表した『新憲法解釈』でこう述べている。

 第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争ということになる。したがって自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の下関条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している。

 吉田内閣が作成した政府原案は、このように芦田氏によって修正され、日本国憲法として制定された。繰り返しになるが、現行憲法が公布されたのは46年11月3日、施行されたのは47年5月3日である。少なくとも46年11月以降、政府が自衛権を憲法解釈によって否定したことは一度もない。高村副総裁が引き合いに出した最高裁の砂川判決も、この芦田修正を根拠にしている。安保法制懇は、まぎれもなく憲法解釈について、歴史的事実を捏造することで、憲法解釈を変更することが可能だという根拠にしている。
 ただ、現行憲法が占領下において制定されたという事情、また第3次吉田内閣時代の1950年6月からアメリカとの間で平和条約の交渉が始まり、アメリカから「独立した際には主権国家としての責任を果たせ」と再軍備を要請されたが、経済復興に全力を注ぎたかった吉田総理は「やせ馬に重荷を背負わせようとするのか」と突っぱねて憲法改正も行わなかった。その結果、現行憲法が「戦争を禁じた平和憲法」という短絡的な解釈を広めてしまった大きな要因の一つである。また、日本共産党が影響力を強く持っていた日教組が学校教育で「平和憲法」幻想を広めたことも、日本人の憲法観に大きく与ってきた。(続く)
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最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ。①

2014-06-18 07:16:21 | Weblog
 防衛大学名誉教授の佐瀬昌盛氏が、産経新聞【正論】で『集団的自衛権行使は「戦争」に非ず 煽動と説得とは大違い』と題する「集団的自衛権行使」容認論を展開した。佐瀬氏はこの論文で大江健三郎氏が中心になって結成した「九条の会」の集会での発言と、朝日新聞の社説について「馬鹿も休み休み言うがよい」と切って捨てた。
 私は別に大江氏や朝日新聞の肩を持つつもりはないが、集団的自衛権行使については大江氏や朝日新聞とは別の意味で問題があると考えている。
 言うまでもなく、日本が集団的自衛権を行使する場合、その実行部隊は自衛隊である。佐瀬氏もそれは否定しないだろう。そして歴代日本政府は憲法9条と自衛隊の関係について「憲法は自衛権の放棄を定めたものではなく、その自衛権の裏付けとなる自衛のための必要最小限度の実力を行使することは当然に認められている」との苦しい説明をしてきた。
 憲法9条は「戦争の放棄」と「戦力の不保持」および「交戦権の否認」を定めている。そのため海外からは明らかに「軍隊」「戦力」と見なされている自衛隊を「軍隊」とも呼べず、「戦力」とも言えず、意味不明な「実力」と定義してきた。そのことを前提に「集団的自衛権行使」の意味について改めて考えてみたい。
 佐瀬氏によれば、大江氏は集会で「戦争の準備をすれば、戦争に近づいていく」と語ったという(佐瀬氏自身が直接聞いたわけではなく、報道で知ったようだ)。朝日新聞については同紙5月16日付の社説『集団的自衛権 戦争に必要最小限はない』の中見出し「自衛権の行使=戦争」という表記を取り上げ、両者とも「集団的自衛権の行使イコール戦争だと捉えている」と断定した。
 確かに与党内で、集団的自衛権の行使についていくつかの事例に限定して検討されている。それらの事例の大部分は、自衛隊が直接実力を行使せずに済むケースである。だが、基本的には自衛隊も軍隊である以上、限定された条件の中で行動していたとしても、戦争に絶対巻き込まれないという保証はない。
 たとえば戦場ではない地域での、米軍への後方支援に自衛隊が従事していたとする。確かにその時点では自衛隊は直接米軍と共同行動をとっているわけではないが、米軍の敵国からすると自衛隊の後方支援活動は自国に対する敵対行為にみえるだろう。戦場においては敵軍の兵站線を絶つというのは、非常に重要な作戦行動である。自衛隊にはその気がなくても、否応なく戦火を交えざるを得なくなる状況は覚悟しておかなくてはならない。そうした事態が起こりうることまで佐瀬氏は否定するのだろうか。
 
 佐瀬氏はこうも言う。
「私は自分の経験から集団的自衛権について有権者の99%は理解ゼロだと考え
る。有権者1億400万強の1%は104万強だが、この抽象的概念を曲がりなり
にも説明できる人数はそれ以下だ。99%の有権者にとり、それは正体不明の〈妖怪〉なのだ」
 確かに佐瀬氏は、数少ない理解者の一人であることは私が保証する。その理由は、国連憲章51条を意図的に改ざんして集団的自衛権の行使容認論を主張しているからだ。理解していなかったら、憲章を意図的に改ざんしたりはしないはずだからだ。改ざんした箇所を指摘しておく。
「日本国憲法は『戦争の放棄』を謳(うた)う。これは『戦争の違法化』を法典化した国連憲章と整合関係にある。その憲章51条が全国家に『個別的、集団的自衛権の固有の権利』を認めている」
 佐瀬氏が意図的に改ざんした箇所は、読者にはもうお分かりだと思う。憲章51条の全文を転記するまでもない。
 国連憲章は、大原則として国際紛争を武力で解決することを全加盟国に禁じている(※大騒ぎするほどのことではないが、佐瀬氏が「全国家」としている部分は間違い。正確には「全加盟国」である。佐瀬氏は大江氏や朝日新聞について「用語には人一倍うるさいだろうと思ってきた」とお叱りになったくらいだから、ご自分も用語は正確にお願いしたい)。が、それでも国際紛争が生じた場合に解決するためのあらゆる権能を国連安保理に与えることにした。
 国連安保理に与えられた権能は41条(非軍事的措置)と42条(軍事的措置)に明記されている。言っておくが国連憲章が制定されたのは1945年6月。この憲章42条を行使して、2か月後に米軍が広島と長崎に原爆を投下した。国連憲章によって正当化された権利の行使である。佐瀬氏も、それを忘れてもらっては困る。
 戦後、憲章が基本になって国際連合(国連=本当は「連合国」)が45年10月に結成された。
 1946年11月3日、現行憲法が公布(施行は47年5月3日)。
 1951年9月8日、サンフランシスコ条約に調印、同日日米安全保障条約調印。翌52年4月28日に両条約が発効し、日本は主権を回復した。が、自衛権すら否定したと解釈されかねない憲法は国民の審判も得ずそのまま存続。なお憲法制定時の総理であり、独立回復時の総理でもあった吉田茂氏は、のちに回顧録『世界と日本』で「独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい」と、憲法改正への手順だけでも作っておかなかったことを後悔している。
 1956年12月18日、国連総会で日本は国連に加盟。

 さて国連憲章51条は、41条及び42条で安保理に国際紛争の解決のためのあ
らゆる権能を付与したが、安保理(現在は15か国)のうち5大国(米英仏露中)
が拒否権を持っており、とくに冷戦下においては安保理が国際紛争の解決のために付与された権能を行使することはできなかった。そのことは憲章制定時に当然予測されたし、特にラテンアメリカ諸国が自国防衛のために、安保理が国際紛争を解決できない事態に対処するための法的根拠として共同防衛による集団的自衛権を、加盟国に「固有の権利」として明記するよう強く主張、それが受け入れられて51条が制定されたという経緯がある。防衛大学校の名誉教授である佐瀬氏が「それは知りませんでした」とは、まさか言うまい。
 つまり集団的自衛権は、国連安保理が解決できないような国際紛争が生じて、自国の安全が脅かされた場合に、(同盟国などと)共同で自国を防衛する権利なのである。だから、憲章51条の肝心の部分はこう明記されている。
「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」
 この「個別的又は集団的自衛の固有の権利」という個所を、佐瀬氏は「個別的、集団的自衛の固有の権利」と意図的に改ざんした。「または」と「、」とでは接続詞(句読点を含む)の使い方としてまったく異なる意味を持つ。解釈が180度変わってしまうといっても差し支えない。
「又は」という場合、二つのうちどちらか、という選択肢を意味する接続詞である(おそらく英語の原文ではorとなっているはず)。したがって権章51条で加盟国の権利として認められた自衛権は、自国の軍隊だけで敵国からの攻撃を防いでもいいし(個別的自衛権の行使)、自国の軍事力だけでは攻撃を防げない場合は(同盟国などと)共同で敵国の攻撃を防いでもよい(集団的自衛権の行使)という意味に解するのが文理的である。が「、」で二つの自衛権を結びつけた場合、これらの自衛権の意味があいまいになってしまう。
 いま安倍=高村ラインは「個別的」と「集団的」を区別せず、いっしょくたにしてしまうことで集団的自衛権の新解釈を強引に閣議決定に持ち込もうとしている。大江氏や朝日新聞の用語法に噛み付いたくらいだから、佐瀬氏が「うっかり」して「又は」を句読点に置き換えたとは認めにくい。(続く)


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「STAP細胞」は結局、「青い鳥」だったのか…。関係者の処分だけではすまされない。

2014-06-17 07:09:37 | Weblog
 「STAP細胞」の共同研究者であり、科学誌『ネイチャー』に掲載された論文の撤回を共著者に求めた山梨大学の若山照彦教授が16日、新たな事実を発表した。若山教授によると、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの研究ユニットリーダー・小保方晴子が作製したとする「STAP細胞」を培養し、研究室内で凍結保存していた細胞8株を、千葉市の放射線医学総合研究所に依頼して遺伝子を詳しく解析してもらったところ、若山教授が小保方に提供したマウスから作られた「STAP細胞」ではないことが疑問の余地なく解明されたという。その理由は科学者ではない私には正直意味がよく分からないが、緑色に光る遺伝子を入れた染色体の位置が、若山教授が保存していた細胞と小保方が「STAP細胞」として発表した細胞とでは違っていたことが明らかになったらしい。
 小保方はこれまで、「STAP細胞」は若山教授の研究室のマウスを使って作製したとしてきたが、その主張が根底から覆ったことを意味するようだ。放射線医学研究所に依頼した解析結果について、若山教授は「これまで行われた分析結果はすべて『STAP細胞』を否定するものになっている。ただ、ないという証明はできない。今もあれば夢の細胞だと思うし、あってほしい」と説明した。
 が、記者会見でそう述べた若山教授の表情はきわめて固く、「そうした期待をいまでも捨ててはいない」ようには、とうてい見えなかった。
 また若山教授が記者会見を開いた同日、理研の小保方らが使用していた研究室の冷凍庫から「ES」と書いたラベルが貼られた容器が見つかり、その中に保存されていた細胞を分析したところ、若山教授が保存していた「STAP細胞」を培養した細胞と遺伝子の特徴が完全に一致したという。この分析を行ったのは、若山教授が依頼した放射線医学総合研究所ではなく、理研発生・再生科学総合研究センターの研究者たちだという。
 この二つの研究チームが、いずれも小保方が作製したと主張してきた「STAP細胞」が夢の万能細胞ではないことを疑う余地なく明らかにしたと思われる。が、理研はいぜんとして責任回避のためか「小保方研究室で見つかったESと書かれたラベルの細胞と『STAP細胞』から作ったという細胞の特徴が一致したのは事実だ」と認めながら、「これだけで『STAP細胞』がES細胞だったと結論付けることはできない」としている。二つの研究グループが、それぞれ別個に分析して遺伝子レベルでいわゆる「STAP細胞」がES細胞と一致したという分析結果を出しているのに、理研はなぜ「STAP細胞」存在の「可能性」にそこまでこだわるのか。
 理研の、とくに発生・再生科学総合研究センターに関する外部有識者による改革委員会は、すでに6月12日、それまでの調査結果をまとめ、重大な勧告を行っていた。
 改革委員会は、STAP問題が生じた理由をこう分析・公表した。
 1.通常の手順を省略して小保方を採用
 2.笹井芳樹・副センター長は秘密保持を優先し、外部の批判や評価を遮断
 3.小保方の研究データの記録、管理が極めてずさん
 4.理研発生・再生科学総合研究センターにも不正を誘発する構造的な問題
 5.理化学研究所本体も研究不正への認識が不足
 この公式発表に先立ち11日にはメディアにより、発生・再生科学総合研究センターの解体や武市正敏(センター長)と笹井芳樹の事実上の退任を求めていたことも報道されていた。
 理研は公的資金(事実上の税金)によって運営されている、いわば国立の研究機関である。そこを舞台にこれだけの詐欺まがい(本当に詐欺かもしれない)の研究が公的資金を使って堂々と行われ、世界的に権威があるとされている『ネイチャー』に13人もの共著者が名を連ねて投稿・掲載され、世界中の再生細胞研究に携わる人たちを巻き込んだ行為は、とうてい社会的に許容される範囲を逸脱している。関係者の処分は当然だが、理研そのものが解体的出直しを求められている。そのことを、まだ理研は分かっていないようだ。
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