小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権行使にあくまで食らいつくぞ。 日米安全保障条約の片務性解消の方が優先課題だ。⑦

2014-07-28 07:06:34 | Weblog
 この連載ブログも長くなった。今日から日米安全保障条約改定の必要性を読者の方たちと考えたい。
 サンフランシスコ講和条約の調印によって日本が独立を回復した日、日本はアメリカとの間に最初の日米安全保障条約をアメリカとの間に締結した。私がまだ小学校4年生のときで、いまは亡き父が画用紙に書いた「日の丸」を玄関に張り、母が赤飯を炊いたことは覚えている。確か、その日から交通法規も変わり、「車は右、人は左」から「車は左、人は右」に変わったと思う。が、依然として占領下におかれていた沖縄では「車は右、人は左」のはずだったと思う。いまの若い人には想像もつかないだろうが、そのくらい占領下におかれるということは、国民生活のありようまで一変させるという紛れもない事実である。
 逆に日本が占領した国でも、同じようなことを相手国に対して日本もしてきたということだ。戦争というものは、単に人を殺したり殺されたりするという悲惨さだけではなく、戦争に負ければ「箸の上げ下ろし」に至るまで相手国の生活様式に沿うことを強制されるということであり、そうした屈辱を私は二度と味わいたくないし、また他国の人たちにもそうしたつらい思いをさせたくない、という一心で「集団的自衛権」問題に取り組んでいる。

 閣議決定後の記者会見で、安倍総理は戦争を知らない世代の若い記者の「自衛隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性が高まるという指摘があるが、どう考えるか」との質問に答え、「今次閣議決定を受けて、あらゆる事態に対処できる法的整備を進めることによりまして、隙間のない対応が可能になり、抑止力が高まります。我が国の平和と安全をそのことによって、抑止力が強化されたことによって、一層確かなものにすることができると考えています」と、記者の質問に正面から答えず受け流してしまった。相撲では勝負技として認められている「肩すかし」は、政治の世界では認められないというルールを、安倍総理はご存じないようだ。
 公明党・山口代表の「他国のためだけでなく」という発言はとうとう政治問題化せず、読売新聞やNHKまでもが発言内容を「他国のためではなく」と黒を白と言いくるめたことも不問に付されたままで闇に葬られたが、自衛隊が何のために存在するかを考えたら、安倍総理は色をなして記者の質問に対し、「日本の国と国民を守るために自衛隊員は命を捧げる覚悟で職務についている。日本の平和と安全性を強化するために自衛隊員が戦闘に参加するリスクは高まるが、日本人の命はより確実に守れるようになる」と、なぜ正面から答えなかったのか。安倍総理が、そう答えられないところに、この政治課題に取り組んだ安倍総理の真意が透けて見えてくる。
 いかなる改革も、リスクを伴わない改革はない。民主主義とは、改革に伴うリスクを政府が可能な限り国民に説明し、国民が「そういう改革であれば我々もリスクを受け入れよう」と納得するまで、政府が説明責任を果たす義務があるというのが、その本来の政治システムのはずだ。
「戦争に行くことなど考えていなかった」という自衛隊員もいるようだが、そう考えている人たちは私に言わせれば「税金泥棒」でしかない。日本国と日本人の平和と安全が脅かされたとき、自らの命を懸けて守り抜くのが自衛隊員の責務であり、そうしたリスクに伴う待遇を受けているはずだ。警察官や消防隊員も、犯罪防止や消火活動に命を懸けている。戦後、日本で殉職した警察官や消防隊員がどのくらいいるか。その一方で日本の安全と国民の命を守るために殉職した自衛隊員は一人でもいたか。飛行訓練中の事故で死亡した自衛隊員はいるが、戦争で殉職した自衛隊員は一人もいないはずだ。
 肩すかしという禁じ手を使った安倍総理も安倍総理だが、日本国と日本国民の平和と安全より自衛隊員が「血を流す可能性が高まる」ことを重要視するような記者は、とっととどこかの国に国籍を移してもらいたい。そんな都合にいい国があればのことだが。
 この記者と総理のやり取りについて、毎日新聞は11日夕刊でこう書いた。
「自衛隊員が実際の戦争で死傷したことは一度もない。だからこそこの記者の質問は重みをもつのだが、安倍総理の答えはズレている」
 ズレているのは、この記事を書いた記者ではないのか。

 まず日本の「安全神話」は、日本が「アメリカの核の傘で守られている」という大きな誤解の上で成り立っている。
 もし仮に、日本が尖閣諸島の領有権を中国に一定の条件付きで譲り渡したら、日本にとって中国の軍事力は脅威の対象ではなくなる。
 すでに日本は「日本固有の領土であるはず」の竹島を事実上韓国に無償譲渡している。政府や外務省は「返してください」と韓国にお願いしているが、60年以上にわたって「空鉄砲」を撃っているだけだ。政府が得意になって持ち出す国連憲章は、確かに国際紛争は話し合いなどの平和的手段によって解決することを加盟国に義務付けているが、60年以上にわたって話し合いを続けろ、とまでは義務付けていない。
 実際、外務省には右翼からではなく、一般の国民や竹島の編入を決めた島根県の住民からも「いつまで話し合いを続ける気だ。韓国が平和的交渉に応じない限り、いつまで日本が平和的解決の努力を重ねても無駄だ。平和的に解決できる手段はアメリカの仲裁に頼る以外に手はないが、そのアメリカはいま日本との同盟関係より韓国との同盟関係のほうを重要視している。だとしたら、竹島を取り戻すためには、個別的自衛権を行使する以外に方法がないではないか。なぜ国連憲章が認めている個別的自衛権を日本は行使しないのか」という抗議が殺到している、と思われる。「集団的自衛権」議論の中で、なぜ竹島問題が問われないのか、野党もメディアも、無能というしかない。
 個別的自衛権すら行使できない日本が、閣議決定で「集団的自衛権行使」を「憲法解釈の変更」によって可能にしたとしても、実際に政府が想定している事例が生じても「集団的自衛権」を行使できるわけがない。
 まず安倍内閣は、「集団的自衛権行使」の想定事例をいろいろ並べ立てる前に、「個別的自衛権」を行使できる事例を明らかにして、竹島問題を個別的自衛権の行使によって解決しようとしない理由を明確にすべきだろう。
 が、安倍総理は、その理由を明らかに出来ない。なぜなら、もし日本が個別的自衛権を行使して竹島を奪還しようとしたら、たちまち「アメリカの核」が、日本の正当な権利の行使に対する、抑止力として機能することが分かっているからだ。
 
 竹島問題に詳しくない方のために解説しておこう。戦後日本を占領下においた連合国は、連合国の施政権が及ぶ範囲をマッカーサー・ラインによって決定した。つまり独立後の日本の領土が、このマッカーサー・ラインによって確定したと言える。その範囲の中に竹島も入っていた。日本の独立後も米軍の占領下におかれた沖縄や小笠原もマッカーサー・ラインの範囲に含まれていた。が、北方四島はマッカーサー・ラインから外され、国際法上日本の領有権の有無は微妙である。
 もっともソ連も、日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したのちに北方四島を占領しており、旧ソ連時代からロシアが主張する「戦利品」という解釈が、国際社会から承認され得るかも微妙である。というのは、ポツダム宣言は米トルーマン大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン書記長の3人の会談によって作成されたが、その時点ではソ連は日本との中立条約を破棄しておらず、ポツダム宣言にはスターリンは署名していない。そのためポツダム宣言はトルーマン、チャーチルに加えて中華民国の蒋介石総統の名によって発せられている。
 ソ連が日本に宣戦布告したのは1945年8月8日、ソ連軍が北方四島を占領したのは8月28日から9月5日にかけてである。ソ連はポツダム宣言に署名しておらず、日本のポツダム宣言受諾後も交戦状態は続いていたとの立場をとっている。またトルーマンの前大統領だったルーズベルトが、アメリカの兵力がヨーロッパと日本に二分されていた過大な負担を軽減するため(※これは私の論理的見解。俗説では重病で病床にあったルーズベルトが思考力を失っていたというのが有力)、ソ連に「北方四島を奪っていいから対日参戦してくれ」とスターリンに頼んだという事実も背景にある。だからアメリカは北方領土問題に口を挟めないし、日本もアメリカに仲介を依頼できない。
 そういう諸事情について政府は国民に説明責任を果たさず、ただひたすら「北方四島は日本の領土だ」と、必ずしも国際社会が認めるとは限らない主張を繰り返してきたため、ソ連が「二島返還」で日ソ平和条約を結ぼうと提案してきた絶好のチャンスにも、「四島一括でなければ応じられない」と突っぱねざるを得なくなり、「二兎を追う者は一兎をも得ず」という結果を招いた。
 もっとも、ソ連もサンフランシスコ講和条約に調印できず(サンフランシスコ講和条約に調印すれば、日本がボツダム宣言受諾を連合国に通告した8月14日に戦争は終結したことを認めることになるため、米国が中心になって連合国が日本政府と交渉してまとめた講和条約に、なんだかんだとイチャモンを付けて調印を拒否した、というのが真相だろう。歴史家は、そういう認識をしていないようだが…)、実は国際法上は、いまだに日露は交戦状態が続いていることになる。
 そういう経緯で継続中の北方領土問題を解決するには、ロシア側が納得できる何らかの条件で折り合いをつけるしかない。プーチン大統領はそのことを正確に認識して、領土問題を解決しようとした。が、日露が領土問題を解決して平和友好条約を提携して友好関係になることは、アメリカにとっては必ずしも喜ばしいことではない。日ロ関係が修復されると、日本の安全性は格段に強化され、アメリカが日本に軍事基地を網羅して、アジア太平洋地帯の支配権を維持する正当性の理論的根拠がなくなるからだ。
 もし日本が先の大戦でどんでん返しの大勝利を治めていたら、北方領土問題どころか、ソ連軍による終戦後の日本兵士に対する行為(戦争終結で武装放棄をした日本兵を不法に捕虜にしてシベリアに抑留し、虐待的肉体労働を強いて無数の死者まで出した行為)をめぐって、間違いなく「歴史認識問題」が発生している。歴史認識の正当性は、常に勝者側にあり、だから私は「勝てば官軍、負ければ賊軍」の歴史認識基準は改めるべきだと主張してきた。
 日本政府が毅然とした姿勢で、先の大戦で日本政府と軍が犯した、国際の平和と安全を破壊した行為については厳しくかつフェアに反省しつつ、これからの国際の平和と安全に日本はこういう貢献をしたいと世界に向かって発信すれば、米・韓・中を除いて国際社会から大きな支持が間違いなく得られる。

 アメリカが国際社会に占めてきた巨大な権威は、いま大きく崩れつつある。イラク戦争やアフガニスタンのタリバン政権を攻撃したアメリカと軍事行動を共にした、アメリカにとって最大の同盟国イギリスですら、いま国内でアメリカの軍事行動とは一線を画すべきだという世論が大きくなっている。肝心のアメリカ国内ですら、イラク国内の紛争に手を出せないでいる。オバマ大統領は民主党政権の維持のために「世界の警察官」としての権威を誇示したいところなのだが、アメリカの世論がアメリカの軍事的介入に拒否反応を示している。
 そうした状況の中で、あえて安倍総理はアメリカとの「同盟」関係を中途半端に双務的なものに変えようとしている。アナクロニズムもいいところだ。
 でも、やるならとことんやれ、と私は言いたい。つまりイギリス以上に同盟関係を強固な双務的なものに変えればいい。ということは、日本もアメリカを防衛するためワシントンDCやニューヨーク市近郊に自衛隊基地を設け、アメリカと基地協定を結ぶ。そして、日本の安全にとって必要以上なアメリカ軍基地は撤去していただく。もちろん他国から攻撃される可能性などゼロに等しい沖縄の米軍基地は、一カ所あれば十分だ。
 そうすることによって、日米同盟は完全に対等な関係になる。そうなった場合、日本も核武装しろという声が耳元に聞こえてくるが、そんなバカげた妄想はいい加減にしろと言いたい。どの国も、日本を核攻撃して利益が得られるような状態ではない。ただ日本は「核保有国、とりわけ核5大国が自国の個別的自衛手段として核独占を宣言した核不拡散条約を撤廃し、核を放棄しないのであれば日本も自国の個別的自衛手段として日本全国に核基地を作るぞ」と国際社会に訴えればいい。それだけのことだ。世界の非核国は大半が日本を支持するだろう。
 もう読者は、私がこのブログのタイトルに書いた『日米安全保障条約の片務性解消のほうが優先課題だ』とした意味をご理解いただけたと思う。中途半端な「集団的自衛権行使」を意味不明な「新3要件」を付け足して容認し、オバマ大統領のご機嫌取りをしながら、アメリカの「国益」のために奉仕するというこれまでの自民党政治の姿勢を、安倍総理はさらに一段と強めようとしているだけではないか。
 現に、安倍総理はアメリカ防衛のための一里塚を築きながら、オバマ大統領に対して「もう沖縄の米軍基地は、日本のためになら必要ない。日本はロシアと領土問題を解決して平和友好条約を締結するから、そうなるとロシアの軍事力の前には手も足も出せない中国や北朝鮮の脅威は霧のように消えてなくなる。日本はアメリカの核の傘など必要なくなる」となぜ主張できないのか。(続く)