小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

日産騒動が意味するものーー西川社長らに責任はないのか?

2018-11-23 11:55:11 | Weblog
 日産が揺れに揺れている。日産自動車は22日午後4時半から臨時取締役会を開き、金融商品取締法違反で逮捕されたカルロス・ゴーン代表取締役会長と同じく代表取締役のグレッグ・ケリー容疑者の代表権はく奪・解任を決議した。取締役会は4時間という異例の長さに及んだが、議論が白熱して紛糾したというわけではない。午後4時半という開始時間も異例だが、日産の筆頭株主であるルノー出身の非常勤取締役2人にも会議に参加させるためフランスとテレビ電話でつないだため、時差を考量して開始時間を設定したようだ。
 取締役会では、ゴーン容疑者らの逮捕に関する社内調査の説明を含め、ゴーン容疑者の違法行為の数々が事細かに暴かれたという。通訳を介してルノー出身の役員にも事実関係が理解できるよう説明が丁寧に行われたため、4時間という長丁場の会議になったようだが、朝日新聞の報道(23日付朝刊「時々刻々」)によれば、「説明を終えた時には『全員が言葉を失っていた』(関係者)。不正の細かい事実関係を確認する質問はいくつか出たが、議論が紛糾することはなく、両容疑者を擁護するような発言も出なかったという」。
 今のところ、ゴーン容疑者の不正行為の舞台は日産にとどまっているようだが、三菱やルノーでも不正行為がなかったか、今後両社の内部調査が本格化するだろうと思われる。三菱はすでにゴーン代表取締役の解任を決めているようだが、今のところ静観しているルノーも2人の日産取締役の報告を受けてゴーン会長兼CEOに対する厳しい処分に踏み切らざるを得ないと思われる(※朝日の論調とは異なる)。

 実は私自身、個人的だが多少灌漑深いものがある。というのは1988年、青春出版社から『シーマ苦闘の700日 この男たちの大逆襲』という著書を上梓し、ある程度日産の企業体質に触れたことがあったからだ。
 この年1月、日産はシーマという、ニュー・コンセプトの高級車を発売した。このクルマが爆発的にヒットして「シーマ現象」「社会現象」とまで言われた。社会現象という言い方は今でこそ広く流布されており、この言葉を知らない人はいないといってもいいだろうが、当時はは極めて異例だったと記憶している。それほどシーマは自動車業界のみならず社会全体に大きな衝撃をもたらしたクルマだった。
 シーマをテーマに本を書くことになったのは、ひょんなことからだった。多分この年の7月頃だったと思うが、青春出版社の編集長と飲んでいて、シーマの爆発的人気が話題になり、編集長から「きこうさん、緊急出版したい。今すぐに取り掛かれないか」と誘いがかかったのがきっかけだった。編集長も前から温めていた企画だったわけでもなく、その場でどんな話になったのかは記憶にないが、編集長がなんとなく「小林に書かせれば、面白いドキュメントになるかもしれない」と、その場の雰囲気で思いついたのではないかと思う。なお、「きこう」といいうのは業界用語で、ある程度名が売れた著者は名前を音読みする習性があった。私の名前の紀興は「のりおき」というのが正式な読み方だが、音読みすると「きこう」となる。名前を音読みされるようになれば、出版業界では一応「一流人」の仲間入りをしたことを意味していた。
 ちょうど、私も取り掛かっていたテーマがなかったこともあり、編集長の申し入れを快諾した。翌日、私は編集長とふたりで日産の広報室長と会い、取材を申し入れた。日産側も喜んで受け入れてくれたが、本の内容は私も取材に入る前には思ってもいなかったかなり手厳しいものになった。
 当時日産の本社は銀座にあり、私は約1か月間、日産本社ビルから200メートルほどの場所にあった銀座東急ホテルに缶詰めになって取材と執筆を同時並行で進行するという、異例の態勢でこの仕事に取り掛かった。日産の広報も異例の態勢をとってくれ、例えば「今から30分後に石原さんの時間が取れる。来てくれるか」と電話が入り、私は書きかけの原稿を放り出して駆け付けるといったケーズもしばしばあった。広報が常時トップの動向をつかんでいるなどということはありえず、おそらく社長室なども含めて異例の体制をとってくれたのだと思う。
 私はこの著書ではまえがきを書かなかった。32冊上梓してきた中で、まえがきを書かなかったのはこの本だけだったと思う。ただし、まえがきの代わりに本文の冒頭に短いリード文を書いた。
「驚くべきドラマが隠されていた。私はそのことを、取材して初めて知った。これほどの題材には、二度と巡り合えないかもしれない 小林紀興」
 基本的にはシーマ開発のドキュメントである。が、単に日産がヒット商品を作ったというだけのストーリーにはならなかった。日産・広報にとっては想定外の厳しい内容になったと思う。のちに出版社が打ち上げとしてゴルフに招いてくれた時、一緒に招かれた日産・広報室長から「ある役員から、あんな本をなぜ出させたと怒られましたよ」と打ち明け話をしてくれたほどだった。
 私は基本的にゲラを取材先にチェックしてもらうことにしている。取材先に気に入ってもらうことが目的ではなく、間違った情報をお金を出して買ってくれた読者に伝えることは読者に対して申し訳ないという思いからで、だからゲラをチェックしてもらう前提として「チェック内容は事実誤認の範囲だけです。私の主張が気に入らないからと言って書き換えてくれという要求は受け入れません」と念を押している。が、それでもゲラを見せることで、しばしば取材先ともめることがある。そうした場合、基本的に広報は中立的立場をとってくれるのだが、直接取材した相手からクレームがつくことはしばしばある。
 前にもブログで書いたが、いま飛ぶ鳥を落とす勢いのソフトバンクの孫氏から呼び出しがかかったこともある。孫氏が「世界のメディア王」と呼ばれていたマードック氏と組んでCS放送事業に乗り出そうとしていた時だったが、当時はすでにBSでNHKとWOWWOWがアナログ衛星放送を行っており(地上波民放は未参入)、CSでもパーフェクTVとディレクTVが先行していた。そこにいくらマードックと組んでも、最後発のJスカイBが勝てるわけがないと私は考えていた。孫氏がゲラを読んで私に来てくれと呼び出し、「小林さん、僕はこの事業に命をかけているのだ。わかってほしい」と懇願してきた。私を説得できるだけの論理的説明に窮したために発した言葉である。私は「僕も命をかけて本を書いている。孫さんのためにではなく、読者のために命を張っている」と応じた。孫氏は最後に「それなら、賭けよう。JスカイBが成功したら、小林さん、10万円くれ。もし僕が負けたら30万円払う」と、捨て台詞に近い言葉を投げかけてきた。私は「いいですよ」と応じたが、その後CS3社は経営統合してスカパーになり、孫氏はCS事業から完全に手を引いた。
孫氏から30万円もらったか?…もらっていないよ。

話がちょっと横道にそれたが、シーマの開発ドキュメントを書いた著書で、私はまえがきは書かなかったが、16ページに及ぶあとがきを書いた。今そのあとがきを読み返してみて、結局、日産の体質は変わらなかったんだなという感慨を深くした。全文を転記するのは消耗だし、読者も退屈するだろうから末尾の文だけ転載する。あらかじめ言っておくが、日産の官僚主義的体質は、実はこの本を書いた前後、強力な権力を誇っていた塩路自動車労連会長(日産労組委員長)と闘った石原会長の遺産でもあった。
「歴史は繰り返す。
 歴史を繰り返させるものは振り子の原理である。
 かつて日産には、自由でのびのびした空気があった。たとえばシーマをデザインした若林昇は昭和42年に日産に入社しているが、『10年間ほどはすごく自由だったのが、そのあと急に官僚化していった』と証言している。
 自由度があまりに進むと、個々の社員が勝手にバラバラ好きな方向に走り出してしまい、組織としての統一性、一貫性が失われていく。その結果、“組織性の確立”が叫ばれるようになり、空気は一転して官僚主義化していく。しかも組合の職場に対する影響力を排除するためには、ある程度、職制による組織的締め付けが避けられなかった。石原・日産の時代は、こうして振り子が触れすぎたのである。
 経営が順調でありさえすれば、振り子がそう大きく振れすぎることもないのだが、国内販売政策の失敗や労使対立の激化が重なることで、組織の硬直化・官僚主義化が猛烈な勢いで進んでしまったのである。
 社内の空気を一変させ、日産に新しい流れを作り出した久米・日産の時代がいつまで続くかは、もちろん予測の限りではないが、いずれ久米の鋼材も歴史によって検証される時が来るであろう。今のところ経営上のミスはほとんど無く、また日産を取り巻く環境がアゲインストからフォローに転じたことも考慮に入れると、当分は社内の自由化が次々といい結果を生み続けることは間違いないと思われる。だがそれも、経営環境が一変し、悪化しだすと、“部下が上司を上司とも思わない”“個々バラバラに走り出して統制が取れない”といった弊害の部分が一気に露呈してくる。そのとき再び歴史が繰り返さないという保証はどこにもない。日産ペレストロイカ(新しい流れ)の意義は、そのとき改めて問われなければならないのかもしれない」

 日産は一応、ゴーン氏とケリー氏の追放には成功した。が、ある意味ではゴーン体制を支えてきた西川(さいかわ)体制は温存される。朝日などメディアの読みとは異なり、私はルノーでも早晩ゴーン体制は崩壊するとみている。強欲なゴーン氏が日産だけで不正を働き、三菱やルノーでは清廉潔白の経営をしてきたと信じろというほうが無理だろう。ルノーの経営陣にもゴーン氏の経営方針に反発していた人はおそらくいる。今までは沈黙を余儀なくされてきたが、彼らの不満が一気に爆発する日が間違いなく来る。
 日産、三菱、ルノーが、どこまでゴーン色を一掃できるか。
 ゴーン氏は確かに日産の窮地を救った。大胆なリストラと、徹底的な合理主義で赤字転落していた日産を再び優良企業に、いったんは回復させることに成功した。そのため一時的には日産の業績は回復したが、技術開発の流れには大きく後れを取ることになった。
 かつては「技術の日産、販売のトヨタ」と言われた時期もあった。それほど日産の技術陣は技術力に自信を持っていた。そうした誇りは、いまの日産にはみじんも感じられない。むしろ世界の自動車技術の最先端をリードしているのは、かつて「販売の」と屈辱的な扱いを受けていたトヨタである。
 目先の収益を優先する欧米企業の考え方が、いまの日本企業にも少しずつ浸透しつつあるような気がしてならない。少なくとも、西川氏をはじめ日産経営陣の多くは、そうしたゴーン流の経営を支えてきた人たちだ。確かに日本人経営者の手によっては、ゴーン氏がやったような「血も涙もない」厳しいリストラはできなかっただろう。シャープが立ち直ったのも、経営をホンハイにゆだねたからでもある。リストラされる従業員も、日本人経営者による合理化には反対できても、外国人経営者が矢面に立つと、「仕方がない」とあきらめが先に立つようだ。
 これはたとえ話だが、定員が1000人の船に2000人を乗せたら、船を改造して2000人が乗っても沈まないようにするか、無理やり定員オーバーの1000人を放り出すかしないと、船は沈んでしまう。船に定員オーバーの2000人を乗船させた責任は船長(企業でいえば経営者)にあり、船を改造することに失敗した責任も船長にある。
 ゴーン氏の片腕として今日の日産を作ってきた西川社長をはじめ、主だった経営陣はやはり責任の所在を明らかにする必要がある。代表権を持つ経営者が西川氏一人になった今、直ちに責任を取るというわけにはいかないだろうが、ゴーン氏らの取締役解任を決議するための臨時株主総会はともかく、定時株主総会では出処進退を明らかにする必要があろう。そうでなければ、単なる権力奪取のためのクーデターだったのか、というそしりを免れ得ない。


【追記】私がこの記事を書いたのは23日の午前中だった。記事を投稿した直後、日本テレビの視聴者センターに電話をした。当日の午後10時からBS日テレの『深層ニュース』が日産騒動をテーマにする予定だったので、「この問題は日産のガバナンスがめちゃくちゃだったということを意味する。西川社長をはじめ日産経営陣の責任は免れ得ない。臨時株主総会ではゴーンとケリーの解任しかやらないだろうが、決算後の定期株主総会では現経営陣の総退陣は必至だ。その視点を絶対入れてほしい」とアドバイスした。
 実際『深層ニュース』では西川社長の責任問題も俎上に挙げた。が、コメンテーターが「西川氏は続投するつもりですよ。意気揚々としていますから」と述べていた。ゴーンとケリーを除く現経営陣がのほほんと暖かい椅子に座り続けるようだったら、日産のガバナンスは完全に崩壊していると考えざるを得ない。本文で書いたように、現経営陣によるクーデターと言われても仕方あるまい。それもかつて三越百貨店の「天皇」岡田社長を取締役会で突然解任したような社内クーデターではなく、公権力の手を借りなければ実現できなかったクーデターだったということになる。みっともないこと甚だしい。
 今晩(25日)、『NHKスペシャル』が日産騒動をテーマにした。私はNHKのニュースでの日産騒動の報道や、今日の『日曜討論』での取り上げ方についても、NHKふれあいセンターのスーパーバイザーに日産のガバナンス問題を問う姿勢の欠如について批判した。にもかかわらず、『Nスぺ』も日産のガバナンス問題を不問にした。
 殿様が絶対権力を保証されていた徳川幕府時代においても、殿様の悪行がひどすぎると家老をはじめ重臣たちが殿様を座敷牢に押し込めて、実力で政権交代を行った。つまりクーデターである。徳川時代には、もし家臣たちが公権力(幕府)に訴え出たら、お家取り潰しになる可能性があったから、公権力の手を借りることはできなかったと思うが、それに比べても「日産クーデター」は、何ともみっともない話ではないか。
 捜査が司直の手にゆだねられることになった以上、ゴ-ンの不正に手を貸した、あるいは見て見ぬふりをしてきた経営陣の取締役義務違反も明らかにならざるを得ない。西川氏は「権力が一人に集中しすぎた」と悔いを口にはしたが、彼自身、ゴーンの片腕としてゴーンの不正に手を貸してきたのではないかという疑いはぬぐえない。少なくとも、清廉潔白ということは、代表取締役社長という立場上ありえない。権力の座を、ゴーンにとって代わろうなどと考えているようだと、また周囲がそれを許すようだと、日産の明日はない。


【さらに追記】すでに日付けは変わって26日になったが、いま深夜のニュースでゴーンが容疑を否認しているということを知った。どのような容疑を否認しているのかはニュースではわからないが、考えられるのは「不正な利益を得ていた」ということしかないだろう。自らの報酬について虚偽記載をケリーに命じていたことは明らかになっているし、ゴーンが主張できることは「虚偽記載を命じたのは、日本の給与慣習から不当な報酬しか得られないため、やむを得ず実質とは異なる報酬を記載させた」という「正当防衛論」の主張だろう。ケリーに決算報告書での報酬額の減額記載を指示していたことはすでにメールで確認されている(『Nスぺ』)。
 だが、『Nスぺ』によれば、ゴーンは週に2,3日しか日産に出社していなかったという。激変する政治・経済状況にあって経営者に求められるのは的確な判断力である。もし、それが事実であったなら、西川が主張してきた「ゴーンには逆らえなかった」という自己弁護はうそになる。出社していないゴーンに経営判断を仰ぐということ自体が、代表取締役としての資格が問われるはずだ。
 言っておくが、ゴーンの悪質さを弁護するつもりなど毛頭ない。私が重要視しているのは。ゴーンの不正行為をこれまで不問に付しながら、公権力の力を借りなければゴーン体制を覆せなかった日産のガバナンスである。ゴーンを追放さえすれば、日産は健全なガバナンスが回復すると勝手に思い込んでいる西川ら現経営陣の支援に回っているメディアの体質を私は問うている。
 ゴーンが日産、ルノー、三菱の3社から得ていた実質的な報酬が正当であったかどうかは、私が判断できる立場にはない。問題は仮に正当であったとしても、なぜ報酬額を堂々と公表せず、決算報告書に虚偽記載までしなければならなかったのか。もし、ゴーンが決算報告書に虚偽記載した報酬額で税務申告せず。実質的に受けてっていた報酬を申告して納税していれば、ゴーンの主張にも一分の理がある。
 別に会社に出社することだけが権力者の責務と言いたいわけではない。出社しなくても的確な経営判断ができる状況を作り、経営判断を誤ることがなければ経営者としての責務は十分果たしていると私は思う。今のところ、その問題にはメディアは触れていない。私にもわからない。
 この問題で、あえて「働き方改革」を持ち出すつもりはなかったが、働き方を決めるのは経営者であろうと一従業員であろうと、働く側の権利にすべきだ。そのことはすでにブログで書いてきた(経営者の権利については書いていない)。
 私が仮に現役で、全国紙の論説委員だったとしよう。私は毎日決められた時間に出社し、ただダラダラと時間をつぶして、記者が取材で集めてきた情報をもとに記事を書くより、自宅の書斎にこもって記者からはメールで情報を受け取りながら、インターネットで様々な情報を検索したり、ひとりで静かにさまざまな情報をどう分析・解析すべきかを考えるほうがはるかに有意義で効率的な仕事ができると思う。
「働き方改革」については、かなり前にブログで書いたが、「高度プロフェッショナル」制度を選択するか否かは、会社側の権利ではなく従業員側の権利にすべきだと主張してきた。「働き方改革」の原点は「成果主義賃金制度」の導入にあったはずで、労働時間や勤務場所にしばれることなく、労働者が提供する労働力の成果に応じて賃金を支払うべきだという考え方であるはずだった。
 私はある全国紙を購読しているが、いろいろアドバイスすることもあるし、手厳しい批判をすることもある。その新聞の読者対応窓口が、いま平日は9:00~18:00.土曜日は9:00~17:00.祝日は窓口閉鎖である。テレビの視聴者窓口や新聞の読者窓口は、私に言わせればメディアのセカンド・オピニオンだ。メシアの側はそれを勘違いして、視聴者や読者に対するサービスだと思っているようだ。メディアの驕りとしか言いようがない。
 その新聞社になぜ読者窓口時間を短縮したのか、聞いた。「経費削減のためか」という質問には、さすがに「そうです」とは言わなかった。「では、働き方改革か」と重ねて聞いたら「その側面はあります」と答えた後、付け足すように「18時以降の電話は少ないんです」と言い訳をした。
 新聞社が「働き方改革」を誤認していたら、権力に対するチェック機能は全く果たせない。読者からの電話のすべてを担当社員が何も会社で受ける必要はない。新聞社で直接対応する社員は2~3人もいればよく、どの記事に対する違憲かを聞いて、対応できる自宅待機の社員に電話を転送すればいい。そうすれば、かなり遅い時間でも読者の意見をセカンド・オピニオンとして受け取ることができる。とくに子育て中の社員(男女を問わず)にとっては仕事と子育てを両立させることができるから歓迎されるだろう。まぁ。メディアは自分たちが一番偉いと思っているから、セカンド・オピニオンなど必要ないと考えているのかもしれないが…。

 日産騒動の話からかなり横道にそれたが、安部さんの意図はどうであれ時間の問題で「働き方改革」は労働者の権利になる。いや、権利にしなければいけない。経済界はそうなることをかなり肯定している。労働者の権利にする以上、高額所得層に限定する必要もない。労働時間(実質、ブラブラしている時間があっても、勤務時間内のブラブラだったら給与の支給範囲に入る)に応じた給与制度はいずれ崩壊する。日本の労働者の生産性が先進国中最低ランクに甘んじているのは、ブラブラ時間が多すぎるためだ。
 本文で書いた『シーマ苦闘700日』の本は、銀座東急ホテルで1か月缶詰めになり、その1か月で取材と執筆を完了した。取材と執筆を同時並行で進行し、書き上げた原稿はその都度編集者に渡していたから、脱稿後1週間足らずで出版になった。それでも。十分睡眠時間は取っていたし、毎晩ではなかったが、缶詰めになった場所が銀座だったこともあって、ちょくちょく飲みにも行った。
ただ、取材と執筆を1か月で完了するというのは、正直私もきつかった。幸い初版3万500部で、発行日に再販3万部になったので、苦労のし甲斐があったと、私は思っている。でも、さすがに疲労はかなりあり、その後の1か月は新規の仕事は受けなかった。自由業だから、そういう選択ができたが、勤務者であってもそういう自由度が認められれば、日本の労働生産性は相当向上すると思う。労働者側も、残業代で生活費を補うという考え方を捨ててほしい。もっと自分の能力と労働の成果に自信を持てる働き方を、働く側の権利として主張できるような働き方を模索してもらいたい。
「働き方改革」とは、そういう働き方が労働者の権利として認められる改革でなければならないと。私は思う。


【3度目の追記】今朝(26日) の朝日新聞の記事を見てびっくりした。これまでのメディアの報道ではゴーン氏が50億円に上る報酬を隠していたということだった。が、隠蔽されていたとされる50億円は、ゴーン氏が日産の役員を退任した時の退職金として日産が蓄えてきたという。記事にはこうある。
「関係者によると、ゴーン前会長の報酬は、実際には年約20億円だったのに、報告書(※有価証券報告書)への記載は約10億円にとどめる一方、差額の約10億円は別の名目で毎年蓄積し、退任後に受け取る仕組みになっていた。差額の10億円分については毎年、退任後の受領を明記した文書を作っていたという」
 この報道が事実だとすると、ゴーン氏の不正の根拠が改めて問われざるを得ない。もちろん、ゴーン氏の私的流用の不正がこれで不問に付されるということではないが、最大の疑惑の根拠が崩れたとなると、果たして検察が起訴に持ち込めるか不透明になったと言わざるを得ない。
 朝日の報道では不明な点がある。一般の従業員の退職金引き当ては商法上、経費として認められているはずだが、役員の場合、退任引当金として商法が認めているのかは、私は知らない。記事の「別の名目で毎年蓄積」とある「別の名目」とは、具体的にどういう名目だったのかは記事では不明だ。また「退任後の受領を明記した文書」は他の役員たちが承知していたのか。そのことも記事では不明だ。
 もし西川氏ら役員が、退職金として積み立てることを承認していたとしたら、この「クーデター」の正当性が問われる。今後の捜査を見守るしかない。




NHKは世論調査まで政府に迎合するようになったようだ。

2018-11-13 08:30:30 | Weblog
 NHKに対する怒りの告発を続ける。
 NHKは9~11日の3日間にわたって恒例の世論調査を行い、12日のニュースで結果を発表した。
 NHKに限らず大手新聞社やテレビ局、通信社も、時期こそ多少ずれるが、毎月世論調査を行う。
 世論調査の方式は各社ともRDD方式といって、コンピュータで無差別に調査対象の電話番号を選んで電話する。昨年のある時期までは固定電話だけが対象だったが、読売新聞と日経新聞が共同で携帯電話にも調査範囲を広げたことにより、他のメディアも順次調査対象に携帯電話も加えるようになった。
 固定電話の場合、あらかじめ最初の局番によって調査対象が住んでいる場所が特定できるから、例えば東京都23区内の住民に対しては人口比に応じたサンプル数に電話するようにすればよかった。が、携帯電話の場合、最初の局番の090や080では調査対象が住んでいる地域が特定できない。だから世論調査も大変になったなと思っていたが、ネットで調べたところ、実は携帯電話もある程度所有者が住んでいる地域を特定できるらしい。おそらく090や080に続く4桁の番号で地域の特定ができるのではないかと思う。詳しい方法については私は知らない。ひょっとしたら特殊詐欺グループも、そうやってカモ(もし差別用語だったら、ごめんなさい)を探しているのかもしれない。
 調査方法はともかく、設問の内容によってメディア各社の調査結果にかなりの差異が生じていることは、すでにかなり知られている。また調査相手はコンピュータがランダムに選択するが、アンケート調査は自動音声による場合と調査会社に依頼して調査マンが電話対応するケースもある。RDD方式の場合、大体1500~2000サンプルの調査で誤差は±5%にとどまるとされてきた。が、最近メディア各社による調査結果にかなりのばらつきが目立つようになった。設問の仕方に、メディアの立ち位置が反映されているためというケースもあるだろうが、内閣支持率や政党支持率といった誘導調査が不可能な設問でも、時にはメディアによって10数%の差異が生じることがある。これではどのメディアの調査を信用したらいいのか、また調査の意味が問われると思い、私は何度もNHKふれあいセンターのスーパーバイザー(職位は部長クラスとされている)に、「NHKがメディア各社に呼びかけ第3者的な調査機関を設置するなり、世界的に権威があるギャラップ社に統一して調査依頼をし、かつ電話による調査ではなく、人海戦術で調査するようにしたほうがいいのではないか」と何度も提案してきた。NHKなら一応公正かつ中立的立場が義務付けられているから、NHKがメディア各社に呼びかければ各社も応じる可能性があると思っていたからだ。
 が、そのNHKがとんでもない調査をした。消費税導入について「外食を除く食料品などの軽減税率導入」についての賛否を問うたのだ。

 この質問の内容のどこに私がNHKの公平性に重大な疑義を生じたのか、10月19日に投降したブログ『メディアが報道できない消費税増税の舞台裏――飲食料品の軽減税率は消費税の逆進性を増幅する。国民の90%以上が知らない新聞の軽減化の理由』を熟読していただいた方はすぐお分かりになると思うが、私がこの質問で引っかかったのは「など」という部分だった。「など」という場合、「ほかにもある」ことを意味する。
 で、私はニュースが終わった後、このニュースの正確性を確認するためネットで検索した。私の聞き間違いではなく、間違いなく「食料品など」とアナウンサーが発言していた。そのことを確認したうえで、私はNHKふれあいセンターに電話してコミュニケーター(最初の電話に出る人)に「世論調査について重大な疑義がある。スーパーバイザーに代わってほしい」と申し入れた。代わって電話に出たのが田島と称する女性だった。「責任者の田島です」と彼女は電話口で名乗った。
 実はNHKふれあいセンターは最初に電話対応するコミュニケーターと、その上位に位置するチーフ(課長クラスとされている)、そしてスーパーバイザーという3階層からなっている。スーパーバイザーはかなりの権限を与えられており、自分の意見を言うこともできるし、インターネットも自由に使える。またニュースの原稿や『クロ現』や『Nスペ』などの番組内容もあらかじめ通知されている。だからスーパーバイザーとはかなり突っ込んだ話ができるのだ。
 ところが、田島氏の場合は違った。最初のひと言、ふた言で詐称ではないかと思ったので「食料品など」の「など」はこの場合、何を意味するのか、と聞いてみた。返ってきた答えは「広辞苑などでお調べください」だった。アホか、と私は思った。
 仕方なく、「広辞苑で調べることもなく『など』とは『ほかにもある』ことを意味する。あなたがスーパーバイザーなら『ほかの何か』をご存じのはずだ。その『ほかの何か』は何ですか」と再度聞いた。田島氏は「そういうご意見が寄せられたことを『ニュース7』の担当者に伝えます」と応じただけだった。
 この時点で私は田島氏が職位を詐称していることを確信した。「本当にスーパーバイザーですか?」と、それあとも何度も聞き直したが、その都度「スーパーバイザーです」という返事しか返ってこなかった。
 もし田島氏が本当にスーパーバイザーなら、NHKの人事はどうなっているのか。私の中での女性蔑視の差別意識が初めて芽生えた瞬間である。「女だから、しょうがねぇか」で済む話ではない。女をスーパーバイザーの職責につけたこと自体がNHKの体質を表しているのかもしれない。女にはスーパーバイザーという職務は重過ぎる。女には女らしい仕事を与えてやれ。そう、私は言いたくなった。
 実は「食料品など」という表現には二重の間違いが含まれている。一つはたいしたことではないが、正確には「外食だけでなく酒類を除く飲食料品」が軽減税率の対象である。つまり{食料品など}という質問は、正確には「飲食料品など」でなくてはならないのだが、これはたぶん質問内容を作成した人のケアレスミスだろう。目くじらを立てるほどの問題ではない。私はこのケースについては目くじらを立てたりはしないが、NHKとしてはお恥ずかしい話だろう。
 実はNHKが「など」という表現で意図的にねぐった極めて重要な問題がある。10月19日に投降したブログで書いたが、飲食料品以外にもう一つ大きな軽減税率対象のアイテムがある。「週2回以上発行」の定期刊行物で、「定期購読」の場合である。事実上日刊の新聞で、かつ定期購読の場合(つまりコンビニや駅の売店で買う新聞はスポーツ紙や夕刊紙だけでなく、読売や朝日などの新聞も軽減税率の対象にはならい)に限定されているのだ。そのくらいの消費税増税についての基礎知識くらい、スーパーバイザーだったら常識だろう。田島氏がスーパーバイザーを詐称したことはこのことからも明々白々である。
 なぜNHKはあえて消費税増税についてのからくりを意図的の隠ぺいする調査を行ったのか。言っておくがNHK受信料にも消費税はかかっており、増税の際は軽減対象に含まれていない。なお軽減税率導入を強く求めた公明党はこう主張している。
「(飲食料品以外にも)国民に幅広い情報を伝える新聞も、活字文化や民主主義を担う重要な社会基盤であるという観点から、公明党が(軽減税率の)適用を求めていたものです」
 公明党は、定期購読の新聞には「民主主義を担う重要な社会基盤」という位置づけをしていながら、同じ新聞でもコンビニや駅の売店で購入する場合はその価値がないと思っているようだ。私は私自身が購読している新聞社に対して「この甘い餌に食いついたら、権力に対する監視機能を失うことを意味する。断固として軽減税率を拒否せよ」と強く申し入れた。憲法改正と同じで、憲法を改正したからといって直ちに自衛隊の任務が変わるわけではないだろうが、政権の事情によっていつ自衛隊の任務が変わるかもしれない。もし万一国会で憲法改正案が発議されたら、国民投票で間違いなく憲法は改正される。国民投票で否決されるだろうと甘く考えている人たちもいるが、とんでもない。間違いなく政権側は憲法改正の必要性をこう訴える。
「この国民投票は、自衛隊の存否にかかわることを意味します。つまり、国民投票で憲法改正が否決されたら、自衛隊は『違憲な組織』ということになって、自衛隊を解散せざるを得なくなります。大きな自然災害が起きても、命を張って国民の救済に当たる組織の消滅を意味します。それでもいいのですか?」と。
 そう訴えられて、憲法改正にNOを突き付けられる国民がどれだけいるだろうか。100%、憲法は改正されてしまう。安部さんが異常なまでに「自衛隊違憲論争に終止符を打つため」と今ではほとんど消滅している違憲論争を憲法改正の必要性として強調しているのはそのためだ。
 同様に、新聞社が今甘い餌に食らいついたとしても、今日明日に新聞社のスタンスが変わるわけではない。だが、重大な時期に新聞が「民主主義の重要な社会基盤」としての機能を発揮しようとした時、権力によって「餌を取り上げるぞ」と脅かされたら、おそらく新聞は抗しきれない。目先の餌に食らいついたら、いずれ新聞は権力に対する牙を抜かれることになる。
 さてNHK受信料はなぜ軽減税率の対象から外されたのか。NHKに牙があったら、この軽減税率のからくりを『クロ現』などの番組で暴くはずだ。実際、私はふれあいセンターのスーパーバイザーの何人かにそういう提案をしてきた。この重要な提案は、スーパーバイザー全員に共有されている。そのこともすでに私は確認している。田島氏が本当にスーパーバイザーなら、こうした情報も共有していなければ、そもそもスーパーバイザーとしての資格がない。詐称の可能性が極めて高いと言わざるを得ない。
 あっ、そうか。NHKはすでに「民主主義を担う重要な社会基盤」としての機能を喪失しているから(つまり牙を抜かれているから)、政府も軽減税率の対象にするという餌を与える必要性を感じなかったのか。それなら、わかるよ。今のNHKには牙がないものな…。

【追記】この記事では、あえて有名人ではない個人名を書いた。NHKふれあいセンターへの電話はすべて録音されている。NHKないし、個人名で告発した田島氏が名誉棄損で訴訟を起こさなければ、私が書いたことは事実であることをNHKおよび田島氏が認めたことを意味する。
 私はかつて読売新聞読者センターの方の問題発言をブログで記事にした。NHK以外は電話対応した人は名前を名乗らない。読売の場合は、だから特定の個人名は書けなかった。が、私が読売新聞の「権威」を毀損するかのごとき(受け止め方によると思うが)記事を書いたことで、読者センターは大騒ぎになった。読売との闘いの経緯はすべてブログで公表しているが、私は闘いの過程ですべての経緯を明らかにして読売新聞社のコンプライス委員会に告発した。
 その結果、読者センターのスタッフの大半が二度にわたって総入れ替えになるという完全勝利も、私は勝ち取っている。そのこともブログで報告した。
 さあ、NHKの守旧派よ、そしてやり玉に挙げた田島氏よ、私とトコトンまで戦う勇気があるか。
 この記事は、NHKの経営委員会にFAXする。沈黙は許されない。私は前回のブログで最高裁判決まで論理的に否定した。NHKよ、私と闘え!



NHK裁判の検証ーー韓国と同様、日本の最高裁も誤判決を下すこともある。

2018-11-05 01:24:08 | Weblog
 前回のブログを投稿してから丸2週間を超えた。この間ブログで書きたいことが山ほどあった。ネットで炎上した安田純平氏に対する「自己責任」バッシング問題、韓国大法院(最高裁判所)での元徴用工判決、招集されたばかりの臨時国会で与野党間の論戦が高まっている外国人材受け入れ拡大法改正問題、さらには前回のブログに関連して消費税増税時の景気対策としての小規模小売店でのキャッシュレス決済への2ポイント還元策やプレミアム商品券発行といったバカらしさ、この上ない愚策の連発…。いずれの問題もそれぞれ独立したブログ記事のテーマにしなければならない重要な問題だが、とりあえずいま生じている諸問題は今回のブログでも多少触れながら、今回はNHKの公共放送としての資質について書く。
 その前に、まず読者の方たちにお礼を申し上げる。プリントすればA4でぎっしり14ページに及ぶ大変な量の記事を読んでいただいた。しかも読者の方は毎日のように増え続け、いつ更新できるか私の最大の悩みになっていた。が、11月に入って最初の新しい週を迎えた今日、思い切って更新することにした。
 つい最近、ある世論調査の結果が公表された。国民のメディアに対する信頼度調査である。その結果、国民が最も信頼を寄せているメディアはNHKであった。「不偏不党、公共性」というNHKに対する国民の幻想が岩盤的信頼感につながっているからではないかと思う。
 が、メディアは民主主義を育てるための最後の砦である。政権寄りとされる産経新聞や読売新聞でも、政権に対する監視機能を完全に失っているわけではない。政府高官に対する厳しい追及は怠っていないし、しばしば疑惑のスクープも辞さない。が、そうしたメディアとしての最低限の機能を、いまのNHKは維持していると言えるだろうか。
 NHKは衛星放送も含めて現在4局で放送事業を行っている。各局が1日20時間放送したとして合計で80時間になる。基本的には番組編成は1週間単位で行われているが、国会中継を除けばNHKが最も軽視しているのが報道系のコンテンツだとしか言いようがない。
 私は1988年11月、『NHK特集を読む』という題名の本を上梓したことがある。『NHK特集』が新たな使命をもって『NHKスペシャル』に衣替えをした時、私はその新番組のCM出演の依頼を受けた。そのときCM作成のディレクターから依頼されたことは「タブーへの挑戦に対する期待を語ってほしい」ということだった。もちろん私は喜んで受諾し、私が出演したCMは全国に流れた。その直後、当時私がメンバーだったゴルフ場に行くと、キャディさんたちが「見たよ、見たよ」と私を取り囲んでくれた。民放での討論番組に出演しても、そういった反応はほとんどなかったので、改めてNHKの存在感のすごさを感じ取ったものだった。
 が、『NHKスペシャル』にしても、国谷裕子氏がキャスターをしていたころの『クローズアップ現代』にしても、当時はかすかにあったジャーナリスト魂が、いまのNHKの番組からは残念ながらみじんも感じることが出来ない。国谷氏が降板させられた事情はうかがい知る立場にはないが、つねづね官邸からNHK上層部に圧力がかかっていたという噂は降板前からネットでは流れていた。直接的には「出家詐欺事件」の責任を取らされたということにはなっているが、国谷氏はキャスターにすぎず、出家詐欺事件を『クロ現』で取り上げた責任者は番組の製作スタッフである。人気絶頂にあった国谷氏に、その後民放からも一切声がかからなかったということ自体、見えざる力が背後で働いていた可能性は否定できない。
 しかし、NHKから完全にジャーナリスト精神が消えたわけではない。私はしばしばNHKの中間管理職クラスと電話等で話をするが、彼らの多くはいまのNHKの在り方に批判的である。そういう彼らへの、このブログはエールでもある。戦え、悩むNHKジャーナリストたちよ!


 最高裁が下した判決・決定は、いちおう最終的で覆すことは不可能とされている。が、刑事訴訟では不服の申し立てを行うことが出来、実際再審が行われたケースもある。
 刑事事件では、判決後に新たな証拠などが発見されたり、あるいはかつての裁判では証拠として認定されていたことが、その後の科学技術の発達などで証拠とみなすことに相当の無理があると改めて認定された場合などが、再審決定に至るケースである。
 が、民事事件では、そうした救済方法はない。つまり民事事件では最高裁が下した判決・決定は最終的な効力を持つ。たとえ最高裁判事が誤った判断基準で下した判決と言えど、裁判の過程で原告あるいは被告が最高裁判事に誤った認識を故意であるか否かを問わず与えてしまった場合(そうなる原因の多くは弁護士の弁論によることが多いと考えられる)、最高裁判事といえど誤った判断基準で判決・決定を下してしまうこともある。そうしたケースの一つに、2017年12月6日に最高裁が下したNHK受信契約義務についての判決がある。
 この判決は放送法64条をめぐって、民放に定められている「契約の自由」を盾にNHKとの受信契約を拒否していた男性に対して、NHKが起こした民事訴訟が最高裁まで持ち込まれたケースについてである。最高裁判決によれば、放送法64条で定められているNHKとの受信契約義務は合憲で、被告の男性はテレビ設置の日にさかのぼって契約しなければならなくなった。
 もともと放送法は特別法として民放に対して優位にある。ということは、民放に定められている「契約の自由」を理由にNHKとの契約を拒否することは、放送法よりさらに優位にある憲法との整合性を問う以外に、被告の男性側に勝ち目はなかった。だから被告弁護士は「契約の自由」を盾に、原告であるNHK弁護士と争ったのだろう。
 その観点から、改めてこの裁判を検証してみる。言っておくが、私の法律知識はせいぜいのところ高校生なみである。大学で法律を専攻したことはない。だから、私がこれから述べることは、すべて法律知識によらず、ひたすら私独自の論理的思考力だけを頼りに書く。が、これから私が書くことに、おそらくいかなる法曹家も反論の余地がないはずだと自負している。論理は、いかなる権威にも勝る、と私は信じているからだ。

 最高裁判決を検証する前に、私は公共放送の受信料支払い義務は全国民にあると考えていることを明確にしておく。ただし1歳未満の幼児(赤ちゃん)及び高度の認知症患者、生活困窮者などを除く。支払い義務は国民一人一人にあり、世帯や組織単位ではない。私はそうあるべきだと考えているし、放送法64条についてもそう解釈すべきだし、それ以外の解釈は論理的に不可能である。実はこの裁判に関しては、被告弁護側も最高裁判事もその基本的視点を欠落していた。だから「世帯単位」という憲法違反の契約のありかたを争点にせず、単純な「契約の自由」を争点にしてしまったのだと思う。
 まず公共放送の契約義務について、私の考えを述べておく。
 日本の放送法15条で、公共放送の使命と役割についてこう述べている。「公共の福祉のために、あまねく日本全土において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送(中略)を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行うこと」。この規定に従って日本国民は等しく公共放送事業者と契約する義務が生じる、と私は考えている。
 公共放送の契約義務を認めたうえで、NHKに対して受信料の支払い義務が生じうるか否かを検証する。NHKは現在地上波2局、衛星(BS)2局の計4局で番組を制作し、放送している。それほどまでに公共放送に値するコンテンツがあるのか。
 そもそもNHKが衛星放送を開局したのは地上波(当時はアナログは)の難視聴対策だった。だから衛星放送のコンテンツもほぼ地上波と同じだった。
 しかし地上波がデジタル化することによって、地上波の難視聴問題はほぼ解消した。当然NHKは衛星放送から撤退し、それまで有していた衛星放送の電波帯やBS衛星の権利を民間に売却して受信料の軽減化に取り組むべきだった。が、NHKはそうしなかった。当然使える電波帯は一気に2倍に膨れ上がった。その電波帯を有効に使えるような公共放送のコンテンツなど、そうそうあるわけではない。実際、NHKが取り組んだのは総娯楽放送局化への道だった。やたらとドラマを増やし、大金を投じて、民放と大きなスポーツ大会の放映権獲得競争に狂奔することだった。こうしたコンテンツが、果たして公共放送といえるだろうか。私は面倒くさくてそこまでやるつもりはないが、もし暇を持て余している方がいらっしゃれば、1週間分でも1か月分でもいいから、NHKが公共放送の名にふさわしいコンテンツと娯楽番組との放送時間の割合を計算してみていただければ、と願う。
 またEテレについても、すでに時代の要請は終了している。まだ日本が貧しかった時代、すなわち男女ともに高学歴社会に入っていなかった時代に、中卒で就職した人たちなどのために通信制の教育プログラムを組んだり、大学受験資格検定試験に合格するための教育プログラムが必要だった時代の産物であり、今ではその必要性はほぼなくなっている。が、組織を維持することが自己目的化して、教育プログラムとはおよそ無関係の番組を延々と放送し続けているのが偽らざる現状である。
 ヘーゲル弁証法の核心をなすとされている「らせん発展」説とは、社会の進歩は一直線的ではなく、らせん階段を上っていくように進む、という考え方だ。実は「逆もまた真なり」と、私は考えている。らせん階段を下るように組織の肥大化による劣化が進む、というのが私の認識だ。
 中学生でもわかるように、この関係を書く。組織はある目的を達成するためにつくられる。公的組織であろうと私的組織であろうと、その点に差異はない。
 そして、その目的を達成するための手段が様々講じられえる。その過程では議論も活発に行われるだろう。が、いったん「目的を達成するための手段」が組織内で決定されれば、その手段を実現することが自己目的化される。そして、さらに新たに自己目的化された手段(つまり二次目的)を実現するための手段(二次手段)がまた講じられる。そして二次手段が三次目的になり、三次目的を実現するための三次手段(=四次目的)が正当化されていく。いつの間にか最初の目的は忘れ去られ、次々と生まれる新しい目的を達成に向けて努力することが組織維持の手段と化していく。「負のらせん構造」が、こうして構築されていくというわけだ。
 公共事業体が、当初の目的を終えたにもかかわらず、目的を変更して存続し続けようとするのは洋の東西を問わない。
 民間企業であれば、その会社が当初製造していた製品が社会的存在価値を喪失しても会社を解散せず、新たな存在価値のある製品を開発して企業の存続を図ろうとするのは当然だが、税金や義務化された受信料で運営されている公的組織が、当初の社会的存在価値を喪失したら、組織の存続を自己目的化した方向転換を図ることは許されていいわけがない。
 さらに、そもそも憲法や法律以前の自然法として権利と義務の関係は自動的に発生する。つまり、「権利が生じない義務」もなければ「義務を伴わない権利」もあり得ない。そのことに対する基本認識が、最高裁判事には完全に欠落していた。だから、テレビ設置者に「受信契約の義務化」を認めながら、では「契約の義務を果たし、放送法には義務付けられていない受信料を支払っている視聴者にNHKはいかなる権利を約束しているのか」という観点が、この裁判の判決から完全に欠落していた。
 ひょっとしたら、NHKは「放送を見る権利」を与えていると主張するかもしれない。もし、そう主張するなら「放送を見ない権利」も自動的に生じるわけで、その場合は「NHKの放送は見ないから受信料は支払わない」という権利も自動的に正当化される。つまり「契約の自由」が認められなければならないことになる。が、契約の義務化と受信料の支払い義務は別問題であり、受信料の支払い義務については放送法の条文には書かれていないし、最高裁判決も契約の義務化は認めたが、受信料の支払い義務については何ら言及していない。
 NHKは紅白歌合戦などの人気番組の見物応募資格に「受信料をお支払いの方に限ります」と限定条件を付けることがあるが、それがNHKが受信料支払い者の「権利」だとも言うのか。だったら、そんな権利などいらないから「契約はするけれども受信料は支払わない」という主張も論理的には成立するはずだ。
 私は最高裁の判決直前の17年12月4日にブログでこう書いた。「ここで問題になるのは『受信料契約の義務』を明記している放送法64条が憲法違反の法律なのかという判断と、契約をした場合自動的に受信料の支払い義務も生じるのかという問題が混同して論じられていることだ」「放送法64条1項は、テレビ受信機を設置した者は受信契約を結ぶことを命じている。が、受信料については第2項で免除の基準についての記載はあるが、どの項目にも受信料の支払い義務の記載はない。NHKは受信契約を結べば、受信料の支払い義務も自動的に発生すると考えているようだが、その法的根拠は明らかでない」と。
 判決後の12月7日、13日にも最高裁判決の問題点についてブログをアップしたし、放送体制の見直しを含めて地上波とBS放送の分離、BS放送の民営化にまで踏み込んで、書いたブログをNHKの経営委員会にFAXで送った。
 その時点では書かなかった、というより思いつかなかったことを今日は書く。
 NHKの経営委員を公選制にすることだ。政治選挙のときのマニフェストと同様、経営委員に立候補する人はNHKの放送についての方針を公約に掲げる。「エンターテイメント中心にする」という立候補者がいても構わないし(現状肯定派)、「少なくともコンテンツの30%以上は報道や政治問題、社会問題。国際問題で占める」という人がいてもいいではないか。私たち視聴者が経営委員を選ぶ権利があれば、私たちが選んだ経営委員会が認めた番組編成は許容せざるを得ない。公共放送は、視聴率競争を超越しているから、公共放送たるゆえんではないか。

 なお、これまでのブログでもさんざん書いてきたことだが、放送法64条1項については、NHKは厳密に守ってほしい。この項目にはNHKと受信契約を義務付けている相手は「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者」と定義されている。放送法のどこにも受信契約の義務者は「世帯主」とは記載されていない。「設置した者」はだれのことか?
「設置した者」に受信契約の義務があり、契約者に受信料支払いの義務があるというなら(何度も書くが、そんな法律は放送法だけでなく、どこにもない)、NHKはまず「設置した者」を特定する必要がある。不動産や自動車の場合は、登記や登録によって税金などの支払い義務者が確定できるが、テレビにはそういうたぐいの制度はない。
 言っておくが、これは法律に関する問題だ。「常識だろう」といったたぐいの非論理的主張は通用しない。「設置した者」を特定できない以上、NHKとの契約を結ぶか否かは個人の任意によらざるを得ないはずだ。まともな法曹家なら、この考え方を否定できないと思う。
 ちなみに私の場合、引っ越し祝いにある人(その人に迷惑がかかるといけないので明らかにしない)からプレゼントしてもらった。また「物理的に設置した人」はテレビを配達してくれた家電量販店の人だ。アンテナの接続だけでなく、地デジの場合は地域によって細かな設定が必要なようで、素人には難しいということだった。もちろん設定料金は3000円ほどかかっている。さてこの場合、NHKとの契約義務を負うのはだれになるのか。
 事実上「所有している人」という解釈になれば、家庭向けテレビのリース会社が雨後の竹の子のようにできる。買わずにリースすれば受信料を支払わなくて済むからだ。リース会社も「契約の守秘義務」を盾にとって、リース先を明らかにするのを拒んだら…。さぁ、NHKどうする!?
 だから私は、これまで書いてきたブログで主張したように、受益者負担、つまりNHKであろうがなかろうが、テレビ放送を見ることで受益する人すべてが平等に負担するようにすべきだと思う。ひとり暮らしの若者や老人が、多人数の世帯と同額の受信料を支払うという、いまの制度を、国政選挙に関しては「一票の格差」をあれほど問題にしてきた最高裁の判事が下した判決とは信じがたい思いがする。バカも休み休みにしてもらいたい。

 最高裁がおかしな判決をすることは、あり得ないことではない。すでに書いたが、オウム事件の最高裁判決は自らが下した死刑判決の基準とされている「永山判決」の要件を著しく逸脱したものだった。少なくともサリン散布の実行犯でもなければ、明確な殺意の立証も出来てもいない被告に対しても、最高裁は世論に迎合して死刑の判決を下した。
 韓国の大法院(最高裁)も、やはり1965年の日韓請求権協定に反して、世論に迎合する判決を下した。司法が政治的圧力や世論に迎合して、政府から歓迎されたり、あるいは世論の喝さいを受けることを目的とするような判決を下し、それがまかり通る社会ということになると、もはや民主主義の最後の拠り所としての機能を司法自らが放棄することを意味する。メディアは、司法の責任をとことん追求しなければならない。それがメディアの最低限の義務であり責任ではないか。

 安田氏に対する「自己責任」バッシングについても書いておく。武装勢力の兵士二人に挟まれて安田氏が「助けてください」と懇願した映像を見た時、正直私も「リスクを覚悟の上でシリアへ密入国したはずだ。いまさら『助けてくれ』はないだろう」といったんは思った。が、テレビが放映した、この映像の入手ルートが分からなかったので(メディア側は入手ルートについては一切明らかにしていない)、多少の疑問を抱いていた。
 安田氏が解放された後で、彼が奥さんに送った暗号化された文書から(文書には「金は払うな」「必ず帰る」といった安田氏の真意が書かれていた)、あの「助けてくれ」映像は武装勢力に強制され、やむを得ず喋ったことが判明した(記者会見で安田氏もそう証言している)。また彼は出かける直前にも奥さんに対して「どういう事態になったとしても自己責任だ」と語っている。
 安田氏が、当初予定していた方法ではなく、安易に(おそらく)武装勢力側の二人に誘われてシリアに密入国して捕まったことについて「凡ミスだった」と述べていたが、安田氏はいわゆる「冒険家」ではない。冒険家の場合は、無謀なチャレンジはしない。安田氏が何度も危険な地域で取材活動をしてきた経験豊富なジャーナリストなら「凡ミス」で済む話ではないが、安田氏の場合、単独で極めてリスキーな行動に出たのは、ひょっとしたら過去の経験がかえって裏目に出たのかもしれない。
 彼はイラク戦争当時、イラクで取材活動をしていたが、イラク政府の「人間の盾」作戦に参加し、何度かイラク軍や武装勢力側に拘束されたが、すぐに解放されている。そうした経験が、もちろんシリアへの密入国のほうがはるかに危険なことは承知していただろうが、彼の「自己責任」の考えの基本にあったのは、戦闘に巻き込まれて重傷を負ったり、場合によっては死に至る危険性の意味だったのではないか。武装勢力に長期にわたって拘束され、金銭目当ての人質にされる可能性は過去の経験からあまり考えていなかったと思われる。
 おそらく今では安田氏も自分の計画そのものが安易だったことを、百も承知していると思う。そういう意味では「凡ミス=迂闊(うかつ)」だったでは済まない話だとは私も思うが、同様の「凡ミス=迂闊さ」の責任は、武装勢力の作戦にまんまと引っかかって武装勢力が流した映像を何度も安易に放映したメディア側も問われなければならない。武装勢力側は、日本のテレビ局が放映することで日本政府を追い詰める作戦を立てていたことは間違いなく、テレビ各局が意図せず武装勢力に加担してしまった結果、政府も水面下で動かざるを得なくなり、安田氏は言われもなき「自己責任」バッシングを受ける羽目になった。
 実際、政府は安田氏解放のために身代金を肩替わったとされているカタールの首相を日本にお礼招待することになった。お礼で招待して、手ぶらで返すことは国際慣習上できない。ODAという形になるのだろうが、この事件で日本政府がそれなりの借りをカタール政府とトルコ政府に負ったことだけは間違いなく、その全責任は安田氏の「身勝手さ」にではなく、武装勢力の作戦にまんまと引っかかったメディア側にあることだけははっきり言っておく。

 最後に、消費税増税に伴う政府の景気対策について一言。
 消費税を増税すれば一時的に消費が冷え込むのは歴史上の常識だ。竹下内閣による消費税3%の導入、橋本内閣による5%へのの増税、そして安倍総理による8%への増税時も例外ではなかった。竹下内閣も橋本内閣も、消費税導入、増税後の選挙で自民党が敗北、二人の総理は責任を取って辞任した。安倍総理だけが消費税増税を争点にした選挙は行わず(正確には増税時期の延期を争点にして選挙で勝利したことはあったが)、つねに「アベノミクスは着実に成果を上げている」と明言してきた。
 アベノミクスは失敗に終わったから、消費税増税に際しては景気への悪影響を避けるため万全の対策を立てる、という話なら私にも理解できる。が、アベノミクスが成功しているのに、なぜ景気への悪影響を心配する必要があるのか。私は理解に苦しむ。
 前回のブログにも書いたように、私は消費税増税に基本的には反対ではない。だが、アベノミクスが成功しているのに、増税効果を台無しにするような対策がなぜ必要なのか。いまこそ財務官僚は正念場に立っていることを肝に銘じてほしい。