小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

緊急事態発生――公明・山口代表の発言が大問題になった。閣議決定強行すれば、執行部のクビが危ない。

2014-07-01 06:42:31 | Weblog
「天地がひっくり返るほどびっくりした」とは、昨日(6月30日)の公明党の「外交・安全保障に関する合同調査会」での山口代表の発言だ。この会議で公明党は、自民党・安倍執行部が公明執行部とキャッチボールの末、きょう閣議決定する運びになった集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更を執行部に一任した。そのこと自体はすでに分かっていたことだし、私がびっくりするわけがない。びっくりしたのは執行部一任を取り付けたあとの山口代表の発言である。
 NHKニュース7で武田アナウンサーが発言内容をこう紹介した。実はあまりびっくりしたのですぐに公明党に電話したが、「ただ今電話が大変込み合っています。恐れ入りますが、しばらくしてからお電話いただきますようお願いします」という自動音声のメッセージが流れるだけで、まったくつながらない。話し中にしてくれれば電話代がかからないのに、自動音声が流れて20秒で切られるたびに電話代がかかる。こういう状態が何十回も続くとさすがに忍耐強い私も我マンができなくなる。それでもかけ続けたが、とうとう諦めNHKに電話して上席責任者に出てもらった。
 私がいきなりぶつけた言葉は「山口代表の発言は本当か。NHK報道局のでっち上げではないのか」だった。私がぶつけた疑問で、上席責任者はすぐ私だと分かったようだ。念のため名前を名乗らず「私が誰か、ご存知ですよね」と聞いたら「承知しております」と返事が返ってきた。そのうえで私の詰問に対して「もしNHKの報道が事実と違っていたら、公明党からクレームが入っているはずです。まだ入っていないということは事実と考えてよいと思います」だった。ここまで書いて、ようやく公明党に電話がつながった。やはりNHKのニュースを見て抗議が殺到したことを公明党事務局が認めた。山口代表の発言もNHKの報道どおりだということを認めた。ひょっとすると、今日の閣議決定は「待った」がかかる可能性が生じた。安倍総理も昨夜オーストラリア訪問に出発したし、安倍総理抜きの自民執行部には決断できない状況が生じたと言える。
 最後の最後まで外野席をハラハラさせる「政治劇」は、ヒチコックの映画ではないが、どんでん返しの連続だ。それに今日終止符が打てるのだろうか。
 お待たせした。肝心の公明・山口代表の発言とはこうだ。
「与党協議では、他国のためだけでなく、日本国民の生命、自由、権利を守るための限定的な行使容認であり、閣議決定案以上のことは憲法改正でなければできないことを確認するなどの歯止めを勝ち取った」
 この山口発言に対して公明党事務局に抗議の電話が殺到したということは、日本国民はバカではないことを立証したとも言える。公明執行部も自民執行部も、国民を甘く見ていたことが明らかになった。山口発言のポイントは「他国のためだけでなく」の部分である。「他国のためではなく」だったら、これまでの公明執行部の主張との一貫性はかろうじて維持できただろうが、「他国のため
だけでなく」となると「他国のためにも集団的自衛権の行使を容認する」ことを意味する。これは中学生の国語力でも理解できることだ。「閣議決定」の目的がこれではっきりした。その目的については最後に書く。
 
 昨日は新宿で、集団的自衛権行使容認に抗議して焼身自殺を図る人まで出た(未遂でよかった。消防隊の対応が素早かったためだ)。それでも、自公は集団的自衛権行使容認を憲法解釈の変更によって認めるという、前代未聞の閣議決定を今日、強行する予定になっている。
 なぜ「前代未聞」と書いたのか。たとえば「村山談話」は閣議決定されたが、「河野談話」は閣議決定されていない。政府が新しい法律を作ったり、外国との条約の締結などでは閣議決定する必要があるが、法律(憲法も含む)についての従来の政府解釈を変更する場合は、通常「サクラ議員」を使って質問させ、その質問に総理なり担当大臣が答弁するという形で行われる。今回、そういう手段が取れなかったのには、それなりの理由がある。
 メディアは、そういう子供でも気が付きそうな疑問を、持てない体質になってしまったようだ。メディアの体質については昨日のブログでも明らかにしたので、それ以上の批判はとりあえず差し控えておく。
 ただ、都議会の「ヤジ問題」はいぜんとして関心が高いようで、訪問者、閲覧者ともに私のブログ歴では空前の数字を記録した。NHK「ふれあいセンター」の責任者が、私から「最大の責任者は都議会の吉野利明議長だ。議長は議会の尊厳と品位を守るための権限を与えられ、議会の尊厳と品位を守る義務がある。その権限を行使せず、義務を果たさず、いたずらに騒ぎを放置した責任はヤジの発言者より大きい」と申し上げたのに対し「その通りだと思います」と私の主張を支持してくれた。別にNHKの責任者から支持されようとされまいと、私にとってはどうでもいいことだったが、支持されたことより、逃げずに対応してくれたことのほうがよほど嬉しかった。その責任者は、6月27日投稿のブログでは書かなかったが、女性である。私はしばしばNHKも厳しく批判するが、女性の責任者にも、責任者としての権威を与えている。はっきり言って朝日新聞の女性社員に対する扱い方とは雲泥の差がある。

 すでに、なぜ自公協議の成立が可能になったのかについては6月27日に投稿したブログで書いた。公明党執行部は自公連立政権から離脱はしたくなかった。権力の椅子は、公明党執行部にとって、それほどおいしいものだったのだ。自公連立の歴史が短ければ、公明も創価学会本部の意向に逆らってまで集団的自衛権の容認に合意しなかったと思う。
 実は自公の歴史は、くっついたり離れたりの歴史でもあった。時には自公は自民対共産のような敵対関係にあった時期もある。1992年に竹下派(経世会)が分裂して小沢一郎氏らが自民党を飛び出して新進党を結成したとき、公明党は新進党と協力して細川政権を誕生させた。公明党が政権の一翼を担った、初めての機会である。
 細川政権は一応「連立」と称してはいたが、はっきり言えば「野合政権」だった。崩壊はあっけなく、初めて野に下った自民党は社会党との「連立」という禁じ手を使って政権を奪還、村山内閣が誕生した。この自社連立政権が公明党を目の敵にする。週刊誌に掲載された創価学会名誉会長の池田大作氏のレイプ疑惑を追及、国会に証人喚問を要求するほどの敵対関係になった。
 が、消費税増税に対する反発が大きく、増税を強行した橋本内閣が1998年8月総辞職し、小渕内閣が発足した。その前後に竹下登氏が創価学会会長の秋谷栄之助氏とひそかに会談、和解が成立して創価学会の協力を取り付けることに成功した。ただ公明党は代表の神崎武法氏が「自民党の補完勢力にはならない。自公連携、自公連立は考えていない」と表明し、創価学会との溝をのぞかせた。
 創価学会には、先の大戦中、治安維持法で弾圧された経緯があり、学会員の中には自民への協力に批判的な勢力もあった。そうした創価学会の「自民アレルギー」勢力に小渕内閣も配慮し、公明の主張や提案を丸呑みすることで公明との協力関係を築いていった。
 この時期の自民と創価学会、自民と公明の関係のずれは、現在の関係と180度転換している。そのことにメディアは無関心なのか、はたまた小渕内閣時代の関係を知っているはずの記者が全員、健忘症あるいは認知症になっているのか、どっちだろう?
 99年1月、自民は自由党(新進党分裂後の小沢新党)との連立を成立させた。公明党は連立政権には加わらなかったが、周辺事態法をはじめとする重要法案に賛成票を投じ、連立への足固めを築いていく。そして同年10月の内閣改造で公明が連立に加わり、いったん自自公連立政権が誕生した。政権への影響力を相対的に弱めることになった自由党は翌2000年4月、連立から離脱して自公連立政権になった。以降自公連立は森内閣、小泉内閣、第1次安倍内閣、福田内閣、麻生内閣へと継承され、民主党政権が扱(こ)けたあと成立した第2次安倍内閣で再び自公政権が復活したという経緯がある。
 つまり、かなり長期にわたって公明は政権の一翼を担い、おいしい汁を吸ってきた。その味は「平和の党」という看板以上に公明党執行部にとっては重要なものになっていたのだ。だから、今年に入って集団的自衛権問題が「国のありかた」を左右する重要な政治課題として浮上したとき、公明党の支持母体、というより「母屋(おもや)」の創価学会が公明執行部に足かせをかけようとして「集団的自衛権行使は憲法解釈の変更ではなく、憲法改正で行うべきだ」と宗教法人としては異例のコメントを出したのだが、もはや公明は創価学会の出先機関ではなく「鬼っこ」になっていた。そもそもそうした学会と公明のずれは、公明執行部と相談せずに創価学会の秋谷会長が竹下元総理と和解してしまったことから始まっていたのだが、そうした学会と公明の関係に無関心なメディアは、創価学会の正式コメントに公明執行部が反旗を翻した意味が理解できなかったようだ。
 公明執行部が「平和の党」というイメージを壊してまで自民党との連立を優先させた理由は、「おいしい汁」だけではない。96年以降実施されている衆院選の「小選挙区比例代表制」が背景にある。もともと参院選はその以前から同様の選挙制度になっていた(ただし、参院選では重複立候補は認めていない)。この選挙制度の中で、自公は「貸し・借り」の選挙協力の歴史を築いてきた。この関係は自民も公明も壊したくない。私は6月27日のブログで、集団的自衛権行使容認についての自公協議を「押したり引いたり」と表現したが、この選挙協力関係が背景にあったから、キャッチボールができたのであり、長年にわたって築いてきた選挙協力の関係がなければ、キャッチボール自体が途中で頓挫していたはずだ。
 創価学会はいったん「集団的自衛権行使は憲法改正で行うべきだ」と正式コメントを発表した後、本来なら学会本部の「政界での出先機関」にすぎないはずの公明執行部が学会本部の意のままにならなくなった事情がやっとわかったようだ。結局、学会本部は先のコメントを一度出しただけで、その後は沈黙してしまった。公明執行部に押し切られたのだろう。公明・山口代表が早い時期から「連立離脱は考えていない」と、事実上自民との協議成立を匂わせてきたのも、自民との選挙協力なしには国政選挙で公明は戦えないと判断し、学会本部を説得したと考えるのが合理的である。
 そうした事情は自民にとっても同じだ。確かに集団的自衛権行使容認の問題だけだったら、石原新党やみんな、橋下グループと結いの合流で結成される新党などの支持を得れば、公明の協力がなくても強引に閣議決定に持ち込むことは可能だ。が、集団的自衛権問題を解決したら、それで終わりというわけにはいかない。公明との選挙協力抜きに自民が政権の座に座り続けることが不可能なことは、過去の苦い経験から安倍執行部は百も承知のはずだ。だから最後の土壇場で、いったん強硬姿勢に転じて公明を硬化させてしまった安倍総理の判断ミスにより、結局、公明の主張を丸呑みするという形で協議をまとめざるを得なかったというのが真相だろう。
 一方、権力の「おいしい汁」を直接には味わえていない公明の地方代表は、また別の事情を抱えている。地方代表にとっては国政選挙だけではなく、地方自治体の選挙もある。国民の多くが反対している集団的自衛権行使を容認するための「憲法解釈変更」で自民に同調したら、地方選挙で戦えないという計算が働くのは当然である。だから公明党の全国幹部会では執行部の独走に対する不満が続出した。が、メディアの報道によれば、地方の声は執行部から完全に無視されたようだ。
 が、分かっていないのは執行部の方だ。自民との選挙協力といっても、創価学会と無関係な公明支持層がそんなに多いわけがなく、実際に選挙のとき自民立候補者の手足となって応援する運動員は創価学会員がほとんどである。彼らが執行部に反発したら、事実上選挙協力は不可能になる。そのことを、執行部は理解していないようだ(※昨夜の電話で公明党事務局はそうした地方の事情を完全に認めた。事務局自体が困惑しきっている感じだ)。
 これだけ、国民の反発が強い憲法解釈の変更によって集団的自衛権行使容認を閣議決定したら、その瞬間安倍内閣の支持率は激減する。メディアは毎月内閣支持率を調査しているが、7月の支持率の下落は、おそらく史上空前の数字になるだろう。いま固唾(かたず)をのんで見守っている野党は、内閣支持率が公表された瞬間、それまでのスタンスを一変させるだろう。ただ、国民にその豹変をどう説明するかだ。いまさら、これまで明確にしてきた容認スタンスをひっくり返すわけにもいかないだろうから、「国民の信を問うべきだ」と問題をすり替えて、国会解散を要求するしか逃げ道はない。国民の、政治に対する絶望感が膨れ上がるだけだ。

 なお、これは閣議決定後の投稿するつもりで書きためてあるブログ原稿の一部を「予告編」として明らかにすることにした。メディアが1日も早くこの重要な視点に気付いてほしいと考え直したからだ。
 自民が閣議決定を急ぐ理由は年内の「日米ガイドライン」に間に合わせたいということが最大の理由だとされている。が、アメリカは「急いではいないよ」と、日本の政治状況に配慮の姿勢を見せている。にもかかわらず、なぜ安倍総理はアメリカの配慮にもかかわらず、公明の主張を表面上丸呑みしてまで閣議決定を急ぐ理由は一つしか考えられない。
 集団的自衛権行使を限定つきではあっても憲法解釈の変更によって認めれば、当然日米安全保障条約の改定に直結する。公明党が「他国」という表現を「我が国と密接な関係にある他国」と限定するよう求めたのに対しても、また「国民の権利が根底から覆されるおそれがある」とした自民執行部案の「おそれ」を「明白な危険」に変更するなど、「てにをは」に至るまで公明の主張を丸呑みしてまで閣議決定に持ち込みたい安倍総理の執念は、はっきり言って祖父の岸信介元総理が改定した日米安全保障条約の片務性を再改定して、双務的条約に変えるための布石を打つことにある。
 公明・山口代表は、おそらく安倍総理の真意を耳元で「これは二人だけの話にしてくれ」とささやかれたのではないか。「盟友」扱いされて有頂天になった
山口代表が、つい口走ってしまった「他国のためだけでなく」という発言は「アメリカのためには(集団的自衛権を行使する)」というとんでもないことを意味すると解釈するのが、憲法解釈よりたやすいはなしだ。
 が、現行憲法下では、どんなに屁理屈をこねても日米安全保障条約を双務的な条約に変更することは不可能だ。最高裁が、もし砂川判決をひっくり返して憲法9条に抵触しないといった判断を下すようなら、もはや日本は立憲主義の国ではなく、独裁政権の国で、政権は憲法の拘束を受けないことを最高裁判所が認めることになる。
 最高裁判事は、衆院選のときに審判を受けることになっており、いまだ有権者から罷免された判事はいない。が、次の衆院選では「日米安全保障条約の再改定」は「高度な政治的問題であり、裁判所が判断するのは適当でない」と逃げたら、それは事実上安保条約の再改定を最高裁が憲法違反ではないと判断したことを意味することくらい、有権者にはすぐに分かる。
 当然、次の衆院選と同時に行われる最高裁判事の信任投票で、安保条約再改定を事実上認めた判事は全員、有権者から罷免されることはわかりきったことだ。日本国民はそれほどバカではない。