小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

菅政権は安倍政権の「負のレガシー」とどう向き合うか② アベノミクスの検証(1)

2020-09-24 05:01:08 | Weblog
一般的にはアベノミクスに対する評価はプラス・マイナス相半ばといった感じかもしれない。プラス面はコロナ禍に襲われるまでは雇用が大幅に増え失業率が改善したこと、民主党政権下では停滞していた日経平均が2万円台に回復したことが挙げられている。上場企業の利益がこの間、2.1倍に拡大したこともあげられよう。
いっぽうマイナス面は増えた雇用の大半は非正規社員であり、そのため従業員の平均給与はかえって減少し消費があまり増えなかったこと、東京一極集中が加速し地方経済の疲弊が進んでいること、などがあげられている。
そこでまずアベノミクスは何を目的にして、その実現のためにどういう経済政策をとったのか、という原点から検証しよう。

●アベノミクスの「3本の矢」とは…
安倍前総理が「リーマン・ショック今日の大問題が生じない限り」と、消費税10%への増税を1年前に行ったときは、だれもコロナ・パンデミック(世界的大流行)を予想していなかったし、「自然災害」みたいなものだから、それによる経済停滞をアベノミクスのせいには誰もしていない。が、コロナ・パンデミックがなかったとしても、アベノミクスは絶対に成功しえない経済政策だった。その理由は大きく分けて二つある。
そもそもアベノミクスとはどういう経済政策だったのか。「3本の矢」と言われているが、最初は①「日銀の金融緩和」(国債買い入れによる通貨発行量の増大+低金利政策)によって輸出企業の国際競争力強化+設備投資の活性化を図ること、②「大胆な財政出動」(国債発行で得た政府資金で公共事業を行う)によって建設業界とそのすそ野産業の活性化を図る、の2本だった。この二つの景気刺激策だけでは「失われた20年」と言われ冷え込んだ経済活動を活性化することは難しいということで、のちに3本目の「成長戦略」が付け加えられた。実際に日本経済に大きな影響を与えた第1の矢から検証していこう。
第1の矢についてアベノミクスが描いたスケッチは、【金融緩和→円安→輸出製品の国際競争力回復→輸出増大→設備投資活性化+雇用拡大+賃金上昇→給与所得層の可処分所得増加→需要拡大→デフレ脱却】である。さらに副次的効果として【金融緩和→円安→輸入製品価格の上昇→物価上昇(原材料の高騰による国内製造コストアップ+自動車やブランド輸入品の価格上昇)→消費者物価上昇→デフレ脱却】も期待された。つまりアベノミクスの第1の矢はモノレールのような1本軌道ではなく、電車のような2本軌道の経済政策だったのである。
確かに「黒田バズーカ砲」と呼ばれた金融緩和政策は当初、それなりに効果を発揮した。民主党政権下の円高基調が一変して円安基調になり、一時は円相場は120円台を回復、自動車や電機など輸出企業は軒並み国際競争力を回復した。が、その後はアベノミクスのシナリオ通りに事は進まなかった。
円安で輸出製品の国際競争力を回復させたのは、ドル建て輸出価格に為替相場を反映させ、メーカーが輸出量を増やす(つまり生産量を増やす)ことに本来の目的があった。自動車メーカーや電機メーカーが政府の期待通り輸出価格を引き下げて輸出を増大(当然、生産量も増大)していれば、アベノミクスは「絵に描いた餅」にはならずに済んだ。が、輸出メーカーはドル建て輸出価格を引き下げず、据え置いた。当然、国際競争力は回復しない。輸出量が増えないから設備投資も必要ないし、雇用の拡大も生じない。
その結果、輸出企業は輸出が増えないのに為替差益で内部留保だけは膨らんだ。そのうえ政府は企業の設備投資活性化を期待して法人税まで引き下げたが、肝心の企業は設備投資にそっぽを向き続けた。日本の特殊な事情が働いたためだが、いまはそのことに触れない。
厳密にいうと、メーカーは設備投資に完全に背を向けたわけではない。製品の品質向上やコストダウンのためのIT関連投資は積極的に行った。が、アベノミクスが期待した生産拡大のための設備投資にはそっぽを向き続けた。そのためいったんは円安に振れた為替相場も、再び円高基調に戻ってしまった。日銀は安倍総理のご機嫌取りのために何度も「黒田バズーカ砲」を撃ち続け、禁断のマイナス金利政策にまで踏み込んで金融機関を塗炭の苦しみに追い込んだが、すべて空振りに終わった。そしてもはや撃つ弾もなくなり、口先だけの「バズーカ砲」つまり空砲になってしまった。なぜか。
輸出企業がなぜ「笛を吹いても踊らなかったのか」。その理由は大きく二つある。一つは世界のマーケットがゼロ・サムどころかマイナス・サム状態に突入したからである。もう一つは「日本型資本主義」の特殊性にある。「アベノミクスが絶対成功しない経済政策」である二つの理由とは、このことを意味する。

●トランプ大統領が「世界貿易戦争」を始めた理由
最近「ゼロサム・ゲーム」というのがオンライン・ゲームでブームになっているようだが、アナログ・ゲームの麻雀がゼロサム・ゲームの典型である。ゼロサム・ゲームはゲームの参加者の勝ち側と負け側の得失点が同じゲームのことを指すらしいが、もともとは需要が伸びなくなり市場での競争がシェアの奪い合いになったことを「ゼロ・サム」と言い出したのが最初である。もっとはっきり言えばマーケットが飽和状態になり需要が伸びなくなると、その市場で1社の製品がヒットすれば、他社が割を食う状態のことである。
日本では自動車や家電製品、スマホやパソコンなどのIT商品は供給過多市場になっている。つまりゼロ・サムどころかマイナス・サム状態になっている。
だからメーカーは国際競争力が回復しても、リスクが大きい生産増強には踏み切れないのだ。アメリカでも、トランプが輸入自動車に高率関税をかけた自国の自動車産業の競争力を回復させたにもかかわらず、GMが北米の5工場を閉鎖したのはマイナス・サム世界での生き残りのためだった。
かつて日本がバブル景気に沸いていた1989年5月、日米構造協議が始まった。対日貿易赤字に苦しんでいたアメリカが対日輸出を増やすことを目的として、対日輸出を阻んでいる日本の関税・非関税障壁をなくすよう日本側に迫り、日米が(アメリカは商務省が、日本は通産省=当時)が真っ向から激突、1年余をかけた貿易交渉である。この協議でアメリカ側はおおよそ、以下のように主張した。
「消費者向け、産業用を問わずアメリカ製品は価格・品質の面で高い競争力を持っている。にもかかわらず先進国の中で日本だけはアメリカ製品の競争力が正当に発揮できない。それは日本の行政が消費者中心ではなく、かつ排他的だからだ。日本の市場が開かれたフェアなものになれば、米製品は日本市場で正当な競争力を発揮できるはずだ」
もちろん日本の通産省も黙っていない。
「日本の市場は決して閉鎖的ではない。現に自動車などドイツ車は日本でもかなり売れている。ドイツの自動車メーカーは日本向けに右ハンドル車を作っている。が、アメリカの自動車メーカーはアメリカ仕様の左ハンドル車を買えと言う。日本の自動車メーカーはアメリカ向けには左ハンドル車を輸出している。アメリカ・メーカーの努力不足だ」
「それにアメリカ企業は四半期決算で、目先のことしか考えていない。日本企業は長期的視野で投資している」
が、アメリカ側は日本市場の閉鎖性を事細かく突いてきた。なかでも公共事業への外国企業の参入規制、農畜産物の関税障壁、大店法による自由な販売競争の阻害などだ。
「日本の行政は生産者保護に重点を置いている。農畜産物の輸入規制を撤廃すれば、日本の消費者は毎週ステーキを食べることができるし、大店法を撤廃すれば、競争原理が働いて日本の消費者はもっと安くていいものが買えるようになる」と。
このアメリカ商務省のレトリックを日本のメディアが支持した。その結果、大店法は廃止され、ウルグアイ・ラウンドではコメの輸入(ミニマム・アクセス)が義務付けられることになる。
いま郊外の駅前商店街がどういう状態になっているかは、私がいまさら言うまでもないだろう。が、私が言いたいのは、その当時のアメリカのグローバリズムはそういう姿勢だったということだ。
トランプはアメリカの生産者を守るために世界中を相手に貿易戦争を始めた。当然、アメリカの消費者にとっては、高いアメリカ製品を買わされることになるから不利益を被る。つまり、日米構造協議の時と、アメリカの行政スタンスは真逆になっているのだ。そのことを、なぜ政府もメディアも言わないの?
 安倍さんが、最も大切な「お友達」を失いたくない気持ちはわからないではない。とにかく日本のことよりアメリカを重視している人だから。だけどねぇ。
                                                                                         
●日銀・黒田総裁の「バズーカ砲」が空砲になった理由
アベノミクスがなぜ「絵に描いた餅」にもならなかったのか。実は、過去に経験したデフレ不況だったら、アベノミクスは成功していたかもしれない。が、いま日本だけでなく世界の先進国は人類が初めて経験する「人口減少時代」に突入している。そうした時代における経済政策とはどうあるべきか、を発想の原点に据えるべきだった。が、古色蒼然たるケインズ理論の延長で景気浮揚を図ろうとしたことが、まず間違いのもとだった。
さらに、日本企業にとって足かせとなった「年功序列・終身雇用」制度が、安倍さんがいくら笛を吹いても大企業が踊れなかった理由である。そうした日本企業のビヘイビア原理は、実は1985年のプラザ合意以降の急速に進んだ円高を日本の輸出産業がどうやって乗り切ったかを論理的に検証していれば、アベノミクスの笛では輸出企業は踊らないことが自明だったのだが…。この日本独特の事情については次回のブログで明らかにする。
実はアベノミクスを支えている経済理論は「リフレ派」と称される経済学者たちの主張である。「自国通貨を発行している国は、ハイパーインフレになるまでは国債をじゃぶじゃぶ発行しても財政破綻しない」というめちゃくちゃな景気浮揚論(「新ケインズ理論」とも言われている)であるMMT(現代通貨理論)と同類の破綻的経済理論である。
リフレ派は「自分たちはインフレ目標を数値化(2%)としている。MMTには数値の裏付けがない」と差別化を図っているが、なぜ「2%の物価上昇率が健全な経済成長なのか」についての科学的裏付けはない。蓮舫氏ではないが、「なぜ3%ではダメなんですか。なぜ2%でなければいけないんですか」という数値目標の科学的根拠だ。むしろMMT派の方が「ハイパーインフレの気配が見えたら国債発行をストップすればいい」と柔軟である。
ただし、MMT派の決定的欠陥は、ハイパーインフレになる前に国債発行をストップすればいいというが、世界大恐慌の時も、バブル崩壊の時も、リーマン・ショックの時も、大地震のようにほとんど前触れなく突然襲ってくる。どの時点で国債発行をストップしてハイパー・インフレ化を防ぐかの方策がない。
一方、「MMTとは違う」と主張する日銀・黒田バズーカ空砲の、米FRB(アメリカの中央銀行)のゼロ金利政策に対抗して「いくらでも国債を買う」はMMT理論とどかが違うのか。
実は、リフレもMMTも通貨の意味をまったく理解していない机上の空論に過ぎない。自国通貨には、国内では商品購入のための決済手段としての顔と、為替市場では通貨自体が売買される投機商品の一つにすぎないという両面の顔を持っているという事実に、リフレ派と称する日銀は意図的に目をつむっているのか、あるいは気付いていないのかは知らないが、まったく無視していることにアベノミクス破綻の根拠があるのだ。
そのことを明らかにする前に、極めて基本的なことだが、資本主義と社会主義は経済政策としてどう違うのかを考えてみたい。というのは、かなり多くの人たちは、【資本主義=自由競争経済=民主主義政治】で、【社会主義=計画経済=共産党独裁政治】と思い込んでいるようだからだ。実は資本主義と社会主義は、アダム・スミスとカール・マルクスの考え方の違いを基準にする限り、現在は、ほとんどの国が実際には自由競争経済と計画経済の混合経済になっているのである。
たとえば中国は一応社会主義国とされているが、株式会社もたくさんあれば株式市場も存在しており、経済制度としてはかなり資本主義化が進んでいる。一方日本はどうかと言えば国鉄や電話、郵便などいまは民営化されているが国営時代もかなり長く続いていた。主食のコメについては戦後長く食管制度の下で減反政策が実施され、事実上の計画経済だった。減反政策が廃止されたのは2018年である。また零細小売業者を保護するための大店法や弱小金融機関を保護するための護送船団方式の行政もバブル崩壊後事実上廃止されたが、こうした制度は「需要と供給のバランスを行政が計画的に支える」という、かなりマルクス的計画経済政策と言える。トランプの輸入規制も国内の生産活動を保護しつつ、需要と供給のバランスを関税政策で支えようという、社会主義的計画経済である。この明確な事実から、近代経済学者たちは目を背けようとしている。
実はスミスの考え方は自由に競争させればデフレやインフレが生じてもシーソーの原理が働いて自然に需給バランスがとれるようになるというのが基本論理。一方、マルクスは自由競争に市場をまかせると大不況が生じかねないから、需要と供給を常にバランスがとれるように政府がコントロールしてデフレやインフレなどの経済混乱を事前に防ぐという論理。実際には両極端の経済制度はありえず、いまは資本主義国も社会主義国も、程度の差こそあれ自由な競争に任せる市場経済原理と政府がある程度コントロールする計画経済原理を混合した経済運営を行っている
実はマルクスの政治思想は「一人は万人のために、万人は一人のために」と
いう民主主義社会の理想ともいえる「個と全の関係」の構築を目指しており、「万人は一人(独裁者)のために」という中国や北朝鮮のような共産党1党独裁の政治体制を主張したりはしていない。だから日本共産党は、いまはかなりリベラルな政策を主張しているが、党名から共産主義を消さない限りは「赤ずきんちゃん」を装っているという疑念をどうしてもぬぐえない。だから党名を変更しない限り野党連合の仲間に入れてもらえないだろう。むしろ日本共産党の「一枚岩」状態は党員の思想の堅固さというより、新興宗教団体信者のようなイメージすら抱かせる。「しんぶん赤旗」の主張しか信用していないからだ。
いま世界の先進国は軒並み人口減少時代に突入している。一人の女性が一生出産む子供の数の平均値を合計特殊出生率というが、人口を維持するためには合計特殊出生率が2.08以上である必要があるそうだ(科学的根拠は不明)。先進国で最も少子化対策が進んでいると言われているフランスでも合計特殊出生率は1.9。日本に至っては1.43だ。そういう状況の中で経済成長を各国が追及しだしたら、第3次世界大戦を避けられないかも…。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅政権は安倍政権の「負のレガシー」とどう向き合うか① プロローグ

2020-09-18 01:07:03 | Weblog
9月16日、菅義偉新政権が発足した。その1か月前には誰も予想しなかった政権の誕生である。突如、安倍総理が持病の「潰瘍性大腸炎」の悪化を理由に総理総裁を辞任することを発表したあと、急浮上した後継候補が菅官房長官だった。7年8か月に及ぶ長期政権を官房長官として支えてきた菅氏が、安倍路線を継承するのに最もふさわしいというのが菅氏を支援することにした自民党内5派閥の口実である。14日に自民党総裁に当選したときも、16日の首班指名選挙で総理になったときも、記者会見の場で記者たちからもっとも問われたのは外交を担当したことがないことへの不安だった。菅氏は、「7年8か月、安倍政権の官房長官として安倍外交をずっとそばで見てきた」と反論したが、そんなことは別に気にするほどのことではない。現に安部前総理は第1次政権を樹立する前に担当した役職は官房副長官(森政権)、幹事長(小泉政権)、官房長官(小泉政権)だけで、外交も経済も担当したことはなかった。だけど、「外交の安倍」と呼ばれたし、アベノミクスというおかしな経済政策で長期政権を維持してきた。むしろ、外交にしろ経済にしろ、あまり「安倍路線の継続」にとらわれない方がいいと私は思っている。

●菅新政権は安倍政権の継承ではないかも⁉
確かに日本の官房長官は他国の報道官と違って、単なる政府のスポークスマンではない。総理の「女房」役として総理の相談相手になったり、時にはアド
バイスしたりもする、言うなら「総理の分身」のような存在だ。それだけに、菅氏が後継総理総裁になるということは、自身も主張しているように「安倍路線の継承」が最大の任務になるはずだった。が、どうやら安部路線の継承にとどまるような政治家ではないかもしれない。
総裁選中、菅氏は「自助・共助・公助」を自らの政治姿勢としてアピールしていた。当たり前と言えば当たり前すぎる、ほとんどスローガンとして意味を持たないような代物だ。立憲民主党の枝野氏は「自助」を最初に持ってきたことに対して「自己責任を強調する新自由主義だ」と批判したが、言葉尻をとらえるような批判はかえって国民の反発を買う。菅氏はこうした批判に反発を示さなかったが、私だったら「では共助や公助を優先しろというのか」と切り返していた。
もっとも菅氏は大差で首班指名選挙で総理が確定するや、組閣に当たって「改革」を強烈に打ち出し始めた。それも単なるスローガンだけでなく、携帯電話の料金値下げを恫喝的に迫ったり、地銀の統廃合を示唆したり、デジタル庁を新設して縦割り行政の打破に立ち向かおうという姿勢を明らかにした。縦割り行政の打破はこれまでの政権もスローガンとしては掲げてきたが、実際には強固な官僚組織に手を付けられなかった。
安倍前総理が官僚の人事権を内閣府が掌握して、内閣府に、本来なら厚労省が担当すべき新型コロナ対策の担当大臣を置いたり、また本来なら経産省が担当すべき経済再生の担当大臣をやはり内閣府に置いたり(ともに担当相は西村氏)、二重行政で内閣府が官僚組織の縦割り行政を破壊してきた。その結果、西村氏にあまりにも大きな権限が集中しすぎて、メディアもしっちゃかめっちゃかになってしまった。たとえば西村氏の肩書について、緊急事態宣言中は「新型コロナ感染対策担当相」としていたのが、宣言解除後は西村氏がコロナ感染拡大防止対策について発言しているときでも「経済再生担当相」という肩書を付けるなど、私はNHKや朝日新聞にいやというほどクレームを付け続けたが、最後までメディアは鈍感だった。
私自身は菅組閣で一番注目していたのが西村氏の扱いだった。一時は官房長官の菅氏の影が薄くなるほどコロナ対策と経済再生両立の中心人物として権限が集中し、菅氏との関係もぎくしゃくしているのではないかといった憶測も飛んでいたほどの西村氏をどう処遇するかで、菅政権と安倍政権の距離感を見定めようと思っていた。実際、組閣のふたが空いたら西村氏はいちおう内閣府の特命担当大臣として残りはしたが、安倍政権では担当を四つも持っていたのに、菅内閣では「経済財政政策」という、ラインではなくスタッフとしての特命担当大臣に押し込められた。明らかに菅政権は安倍政権の継承ではなく、自らの路線を新しく敷こうとしている。それにメディアが気付かないだけだ。
実際、菅氏が総裁選で大勝利を収めた直後の記者会見では、菅氏が今後総理大臣として「安倍路線」をどう進めていくのかを語ることはなかったし、記者たちからの質問もせいぜい「モリカケ問題」や「桜を見る会」などのスキャンダル問題についての質問が大半を占めた。「桜を見る会」は中止するということだが、記者からは「廃止ではないのか」という質問すら出なかった。「廃止」は復活することはないが、「中止」はそれなりの理由さえつければ、いつでも復活できる。菅政権が取り組むべき安倍政権の「負のレガシー」に、どれだけ手腕を振るえるかが、安定政権を築けるか否かにかかわっている。

●菅政権が取り組むべき、安倍政権の四つの「負のレガシー」
安倍政権の「負のレガシー」は、大きく分けて四つある。一つはスキャンダルまみれの8年間。モリカケ疑惑から始まり、桜を見る会、検察庁改革に名を借りた検察最高人事への露骨な介入、河合杏里氏への巨額な選挙資金提供など、表面化した問題だけでもこれだけある。が、これらの問題は他のメディアがこれからもしぶとく追及していくだろうし、私には特別な情報源があるわけでもないから私の手におえる問題ではない。スキャンダル・レガシーの追及は週刊誌やテレビのニュースショーにお任せする。
二つ目は「アベノミクス」と自らも称してきた経済政策の失敗だ。アベノミクスの目的はあくまで「デフレ不況」からの脱出であり、そのために日銀・黒田総裁とタッグ・マッチで超金融緩和政策を7年8か月にわたって続けてきた(今も継続中)。確かに大企業は史上空前の利益を計上し、株価もバブル期に比べれば足元にも及ばないが、少なくともリーマン・ショック時からはかなり回復した。コロナ禍で雇用状況は悪化したが、その前はバブル期に匹敵するくらいの売り手市場になり、安倍前総理は「アベノミクスで400万人超の雇用を生んだ」と胸を張ったが、アベノミクスは株価対策や雇用対策のための政策ではなかったはずだ。肝心の目的である「デフレ脱却」「2%の消費者物価上昇」という目的はどうなったのか。
三つめが集団的自衛権行使を可能にした安保法制で、かえって米トランプ大統領から足元を見られて「在日米軍経費をもっと負担しろ」とまで要求されるに至った安全保障政策だ。安倍政権は安全保障の柱として「抑止力」を最重要視しているが、日本が「抑止力」の名のもとに敵基地攻撃の軍事力を強めれば、それは近隣諸国にとっては直ちに「脅威」となる。安倍政権が、別に日本を標的にしたわけでもない北朝鮮の核・ミサイルの開発を脅威ととらえてきたことを考えれば、日本の軍事力強化を近隣諸国が脅威と感じない方がおかしいだろう。そもそも軍拡競争は、お互いに「抑止力」を口実にすることで激しくなるのが常だ。政治家もメディアもそのくらいの常識はわきまえてほしい。
四つ目は拉致問題や北方領土問題など外交案件を何ひとつ解決できなかったこと。一時は「外交の安倍」と言われるほど世界中を飛び回ったが、国内政治と同様、各国首脳と「お友達」関係を築くことが目的だったのか。そう言われても仕方がないほど、見るべき外交成果はほとんどない。確かに安倍さんは歴代総理のなかではギネスものと言ってもいいほど外国歴訪に熱心だったが、外交成果として何があっただろうか。核禁条約にも反対し続けたが、「核保有国と非保有国の橋渡し」としてどんな国際的役割を果たしてくれたのか。「橋渡し」という以上、核非保有国に「我慢しろ」では通るわけがないことくらい子供でも理解できる。お友達のトランプに「お前、もう核やめろ」となぜ言えない。

●意外に高い菅政権への評価
 毎日新聞と社会調査研究センターは17日、JNN(TBS系列のテレビニュース・ネットワーク)と共同で菅新内閣の緊急世論調査を実施した。内閣支持率は64%と高く(第2次安倍政権発足時は52%)、菅総理が強調してきた庶民派のイメージ作りが成功したのかもしれない。また自分自身の実績として総務相時代に創設した「ふるさと納税」を世論誘導に利用した作戦が成功したのかもしれない。
 あるいは、安倍前総理が辞任表明した途端、危険水域まで下落していた内閣支持率が大幅に反発した流れに乗れたのかもしれない。いずれにせよ、菅新政権への期待は、何かを変えてくれそうな予感を国民が抱いた結果かもしれない。
 ただ政治はあくまで結果であり、どう結果を出すかがこれから問われることになる。毎日系の世論調査で注目すべきは、これまでの世論調査で常にトップだった「ほかの内閣よりよさそうだから」という消去法的支持選択だったのが、今回は支持理由のトップが「政策に期待が持てそうだから」で35%を占めた。かつて内閣支持の理由で「政策への期待」がトップになったのは細川政権の時と民主党政権の時くらいで、圧倒的勢力を誇る与党に対する支持理由のトップに「政策への期待」という消去法ではない積極的支持理由が出ることはまずない。ふつう2番目の支持理由になるのは「人柄が信用できそうだから」で、「政策への期待」は相当ランクが低いのが常だ。与党政権の発足で「政策への期待」が高まったのは田中角栄総理誕生の時以来ではないか。
 ただ、菅政権の支持理由の2番目には「安倍政権の路線を引き継いでくれそうだから」が30%を占め、ちょっとちぐはぐな感じがしないでもない。
 というのは、「政策への期待」は改革を求めての期待であり、菅総理自身、組閣に当たって「改革」をかなり強調しており、現状維持を意味する「安倍政権の路線継承」とは相反する理由になるからだ。
 3位には「人柄に好感が持てる」が入り27%を占めた。これは秋田の田舎から高校を卒業して上京・就職し、苦学して法政大学を卒業したという、田中角栄に似た「立志伝」的人物像がメディアとくに民放のニュースショーによって植え付けられたせいかもしれない。
 安倍路線を文字通り継承するのかどうかは、今後の経緯を見てみないとわからないが、少なくとも安倍氏が全幅の信頼を置いていたとみられる西村氏を表舞台から遠ざけたことが、今後の政権運営にどういう影響を及ぼすか。いちおう形の上では二重行政は消去できたが、厚労省や経産省の官僚が政治家の顔色を窺わなくてもいいような状況を作り出せるか、霞が関が「忖度村」から脱出させることが菅政権の最初の仕事になる。
 これから否応なく菅政権が取り組まざるを得ない安倍政権の「負のレガシー」を何回かにわたって検証していく。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党総裁選と合流新党代表選に国民がしらけ切る理由

2020-09-08 06:41:11 | Weblog
 期せずして、自民党の総裁選と合流新党の代表戦が同時期に行われることになった。一足早く合流新党の代表選の立候補者受付は7日に締め切られ、旧立憲民主党の代表・枝野幸男氏と旧国民民主党の泉健太政調会長が立候補を届け出た。代表選は10日、衆参国会議員の投票で決めるという。
 一方、自民党の総裁選は8日告示で、菅義偉官房長官、石破茂元幹事長、岸田文雄政調会長が立候補し、14日に両院議員総会を開いて衆参両院国会議員各1票(394票)と47都道府県連各3票(141票)、計535票の投票で決まる。過半数の268票以上を獲得できた候補者がいない場合は上位2人による決選投票が両院議員の投票で決めることになる。

 合流新党の党名は枝野氏が立憲民主党を、泉氏が民主党を候補として主張している。また自民党の正式名称は自由民主党である。が、私に言わせれば、自民党も合流新党も「民主」を名乗るのはおこがましい。
 民主主義には「直接民主主義」と「間接民主主義」があると言われるが、間接民主主義なる民主主義制度があるわけがない。
 民主主義という概念は、国民(有権者)がすべての政策(国政および地方政)についての最終的決定権を持つことを意味する。実際には個々の政策について有権者全員の賛否を問うことは難しいことは私も分かっている。が、せめて選挙の時、出来もしない甘い餌をばらまいたり、選挙に勝ってから本当にやりたいことをそっと懐から出して、議会の多数決で決定して「有権者の支持を得たことにする」というのが「間接」民主主義なのか。民主主義という言葉を、そんなに安易に使ってほしくない。
 日本は「民主主義国家」だと大半の国民は思いこんでいる。が、私たち国民(有権者)に与えられている権利は事実上選挙権の行使だけだ。私はアメリカのトランプ政権はこれっぽっちも支持していないが、少なくともトランプは大統領選挙での公約を必死に実現しようと頑張ってきた。いま、アメリカで大問題になっている人種差別にしても、トランプは公約で「白人社会を取り戻す」という目的を言外に含んだアメリカ・ファーストを掲げてきた。少なくとも民主主義という点では、日本はアメリカの足元にも及ばない。

 自民党総裁選にしても、合流新党代表選にしても、国民はしらけ切っている感じだ。政治が信頼を取り戻すためには何が必要か。せめてウソをついた政治家、例えば安倍総理を次の総選挙で落選させるくらい、私たち自身が民主主義の担い手としての責任感を持つことが必要だろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする