小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。⑤

2014-07-10 06:55:37 | Weblog
 メディアの報道によると、この夏にも集団的自衛権行使についての国会論議を、衆参で各1日ずつの短期論議で安倍政府は閣議決定を正当化するようだ。
 当初、集団的自衛権行使は憲法改正で行えるようにすべきだとし、自民執行部との協議に応じる姿勢を見せていた公明執行部をけん制していた創価学会本部も、公明・山口代表の説得に応じて閣議決定を了承したようだ。「厳重な歯止めをかけた。アメリカの戦争に日本が加担するようなことはさせない。今公明が連立から離脱すれば、自民党政権の足かせが完全に失われることになる」と、山口代表は創価学会本部を説得したようだ。
 そのため公明党地方代表者会議で猛烈な突き上げを受けた山口執行部を、今度は創価学会本部がかばう姿勢を見せだした。その結果、公明の地方組織も態度を軟化させたが、公明党の選挙活動は基本的に創価学会員が担っている。その末端の創価学会員が、今までのように一枚岩で選挙活動に力を注ぐ気持ちになれるかどうかは、まだ分からない。私は創価学会とは無縁なので情報はネットに頼るしかないが、来春の統一地方選挙で創価学会員の自民党公認候補に対する応援活動の実態を見るまで何とも言えない。
 一時は山口代表が「自分が辞めればいいんだろう」と腹をくくった発言をするほど、公明執行部内でも集団的自衛権行使問題での意見は割れていたようだ。が、自公連携の歴史は長く、いまでは「一心同体」とも言える選挙協力体制が構築されている。いま自民との連立を解消して選挙協力体制も解消するということになると、小選挙区制の下ではいくら創価学会の組織力が強いと言っても、強力な他党との連携なしには国政選挙は戦えない。結局山口代表の粘り勝ちといったところか。
 また、自民内部でも安倍=高村ラインの強硬派が、野田総務会長らの慎重派を抑えて政権基盤を完全に確立したことの表れかもしれない。ただその辺は、私は政治家との付き合いもないし、情報源はメディアに頼るしかないので、自民内部の派閥抗争の状況についてはまったく分からない。ただ、自民が一枚岩の政党ではないこと、また派閥自体もカネと人脈で維持されているだけで、派閥が政策面で一枚岩でないことも常識として分かっているだけだ。ただ、将来の総理候補とみられている野田聖子総務会長が、一時、安倍総理の独走に待ったをかけるような発言をしたことがあったが、その後自民内部での表立った執行部批判の声はメディアでは紹介されていない。だから、可能性として安倍総理の権力基盤である党内右派が主流勢力として固まってきたのかもしれない、と思っているだけだ。
 ただ、高村副総裁が砂川判決の「新解釈」で集団的自衛権行使容認説を唱え出したあたりから、私がブログで書いたように(いつ書いたかは覚えていない)、それまでの安倍=石破ラインから安倍=高村ラインに集団的自衛権行使容認体
制は移行したようだ。本来副総裁というのは、影武者のような存在で、政治の表舞台に出ることはほとんどない。実際、副総裁としての権限は何もなく、空席のことも少なくない。
 副総裁として知名度が高かったのは「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちたらただの人」の名言で知られる大野伴睦氏と、ポスト田中角栄総裁として自民の最左翼系とみられていた三木武夫氏を新総裁に指名した椎名悦三郎氏(いわゆる「椎名裁定」)くらいだろう。高村氏が率いる高村派も自民では小派閥で、党内の影響力もさほどではない。が、総裁選で一貫して安倍氏を支持してきたことによる「論功行賞」として、名誉職にありつけたという見方が強い。

 私は「安倍総理が目指している懸案」として、「憲法改正」と並べて、さりげなく「日米安全保障条約の改定」と書いたが、そういう話が現段階でどこからも出ているわけではない。メディアもそうした推測は一切していないし、与野党含め政治家からもそうした発言はまったく出ていない。にもかかわらず、私はなぜそういう断定的な書き方をしたのか。
 単純に、論理的結論として安倍総理は祖父の岸信介元首相が行った日米安保条約の改定と同様、日米安保条約の再改定を目指しているとしか考えられないからである。なぜなら、現行の日米安保条約は周知のように、アメリカにのみ日本を防衛する義務があり(有事の際、実際にアメリカが自国の国益に反してまで日本を守ってくれるかどうかは別)、日本にはアメリカを防衛する義務はないことになっている。そういう関係を「片務的」といい、集団安全保障体制(たとえばNATOのような)によって相互共同防衛を条約によって約束している関係は「双務的」という。安倍執行部が目指している集団的自衛権行使容認の個別的事例の中に、限定的とはいえ米艦防護や、米国に向けて発射されたミサイルを迎撃するという行為が憲法解釈の変更によって可能になるとすれば、日米安保条約も限定的ながら「双務性」を必然的にもつことになる。米政府が公式に発表した見解ではないが、政府高官が「日本の集団的自衛権行使容認」を歓迎する発言を繰り返しているのは、アメリカ国内の世論が「他の同盟国はアメリカのためにも血を流してくれているのに、日本はカネしか出さない」という、安保条約の片務性に対する反発が国内で相当根強いことを意味していると考えてよい。
 アメリカ国内の対日感情については最近のメディアは一切調査もしていないし、仮に調査をしていても報道していない。だから、推測でしかないと言われればその通りなのだが、あくまで論理的な推測の結論である。世界最大の民間調査会社の米ギャラップ社は30か国以上に調査機関を擁し、それぞれの友好国間、あるいは敵対視している国同士の相手国に対する国民感情の世論調査を定期的に行っているはずだが、その結果もメディアは無視しているようだ(あるいは記事の扱いが小さくて私が見落としているのかもしれないが)。

 これはアメリカの勝手といえば言えないこともないのだが、1970年代後半からアメリカでは「産業空洞化」が急速に進んだ。当時のアメリカは軍事・経済力だけでなく、あらゆる分野で技術力も世界のナンバー1だった。単に国内の生産物を海外に輸出するだけでなく、アジアや南米の「発展途上国」(当時はそう呼ばれていた)に対する産業支配力を強めるという国家戦略が背景にあった。もちろん海外進出したアメリカ企業は、企業の戦略として人件費が安上がりな「発展途上国」に生産拠点を移した方が、より国際競争力が高まるという計算があった。それはエレクトロニクス産業で一時は世界を制覇した日本が、人件費の安上がりな韓国に、次いで中国に、そして今はアジア諸国に「安い労働コスト」を求めて生産拠点を移した結果、その分野での国際競争力を失っていったのと同様、アメリカも重要産業の国際競争力を失っていった。アメリカの失敗を日本は学ぼうとしなかったと言われても仕方あるまい。
 ただ、アメリカの産業空洞化と日本のそれとはかなりのタイムラグがあった。技術というのは、基本的に生産現場からしか生まれない。日本が半導体の生産拠点を韓国に移していった時、基礎技術の研究拠点を国内に残しておけば技術的優位性は失わないと、勝手に思い込んでいたようだが、生産現場と直結しない研究所で生まれる技術はしょせん実用的レベルで国際競争力を持ち得るものにはならない。実際エレクトロニクス技術はアメリカで生まれ、日本が育て、花を咲かせたのは韓国、という結果を見れば歴然である。
 いずれにせよ、産業空洞化に伴って技術も空洞化していったアメリカは、日
本産業界にとってこの上ない「おいしい市場」になった。とりわけ石油ショックが日本産業界にとって神風になった。「資源ゼロ国」の日本と、「資源大国」でもあるアメリカとでは、石油ショックの衝撃度に天と地ほどの差があったからだ。「省エネ省力」「軽薄短小」を合言葉に、世界の頂点に君臨したエレクトロニクス技術を武器に、日本産業界は一気に国際競争力を高めていく。その結果、アメリカとの間に経済摩擦が激化することになった。なかでも自動車産業がその象徴だった。アメリカはガソリンがぶ呑みの大型車中心の生産体制を変えられなかったのに対して、日本はもともと国内市場の中心だった小型車で米国市場を席巻し始めた。
 これは日本にとって僥倖としか言いようがないことだが、ヨーロッパ諸国の自動車市場も小型車中心だったのに、なぜ日本車の一人勝ちになったのか。実は半導体の生産には「純水」という混ざりものを含まない水を大量に必要とする。日本や韓国の水は、石灰分などの混ざりものが少なく、低コストで純水を作ることができる。ヨーロッパでエレクトロニクス技術が育たなかったのは、ヨーロッパの水は混ざりものが多く、純水の生産に適していなかったという事情による。そのうえヨーロッパの自動車技術は伝統的に高スピード化を目標にしてきた。経済的合理性を重視してエレクトロニクス技術によるエンジン制御の効率化などの向上に総力を注いだ日本メーカーの感覚と、ブランド力に依存してきたヨーロッパ・メーカーの感覚の違いかもしれない。あるいは、アメリカ市場で日本車が勝利を収めた背景には、ひょっとするとヨーロッパ文化に対するアメリカ人の反発が底流にあったのかもしれない。
 それは逆の意味でも言える。ヨーロッパ、とくにイギリスやフランスは軍事的にはアメリカと同盟関係を結んでいるが、経済や文化の面ではアメリカに対する反発や警戒心が非常に強い。たとえば映画文化はフランスが生んだという歴史的背景もあって、ハリウッド映画はヨーロッパではなかなか受け入れられなかったし、映画文化を守るためにテレビにも当初は拒絶反応を示していた。
 ヨーロッパで最初にテレビ放送を始めたのはイギリスだが、敗戦国日本より遅れて、というのも唖然とするような本当の話だし、また放送方式(アナログ放送の時代)もアメリカが開発したNTSC方式は採用せず、フランスを除くヨーロッパはほぼ当時の西ドイツが開発したPAL方式を採用した。なぜかフランスはPAL方式を採用せず、独自のSECAM方式を開発、ロシアはSECAMを採用した。フランスがPAL方式を採用しなかったのは、先の大戦でナチス・ドイツに占領された恨みが、骨の髄まであったのかもしれない。またNATOの重要なメンバーでありながらフランスは旧ソ連時代からロシアとは西側では唯一友好的関係を結んでいた。また中国との関係も良好で、フランスは中国に相当の武器を輸出している。ヨーロッパの食文化にはない醤油もフランスではかなり前から隠し味の調味料としてしょうゆを使用するようになっているが、その醤油は中国からの輸入品が主流である。だから甘っぽくて私の口には合わない。

 そういう話にあまり深入りするのは止めよう。ただ物事を論理的に考えようとするときの方法として、何度も書いてきたように「単眼思考」ではだめだということだけわかっていただければ、それでいい。日本の小型車がアメリカ市場を席巻した経緯を複眼思考で理解していただくためにちょっと横道にそれた
というだけのことだ。
 そのとき生じた日米経済摩擦の中で一気に表面化したのが、日本に対する「安保タダ乗り」論だった。「日本は自国の防衛をアメリカに委ねておきながら、経済戦争でアメリカを脅かしている」というのが、その内容である。まだソ連の共産主義体制が崩壊する以前のことで、アメリカはアメリカの防衛上にとっても日本の米軍基地は重要な役割を占めていたのだが、「ジャパン・バッシング」の嵐の前には、そうした理性的判断をアメリカ人に求めるのは無理だったのだろう。
 安保条約に基づく日米地位協定では、日本側負担は基地を米軍に提供するだけで(基地所在地の所有者に対して支払う地代は日本政府の負担)、それ以外の経費はすべて米国が負担することになっていた。が、日本が高度経済成長を遂げる一方、アメリカは冷戦下における軍事費増大、とくにベトナム戦争後の財政難、そこに輪をかけた産業空洞化で基地の維持費に苦しむようになった。そうした背景の中で1978年から「思いやり予算」と位置付けた、在日米軍への「政府カンパ」が行われるようになり、その額も年々増大していった。2007年度の日本側負担は総額で6092億円、米兵1人当たり約1800万円に達しているという(その後の負担額はなぜか公表されていないようだ。あまりにも膨大になりすぎて公表しないことにしたのかもしれない。そうした状況に「特定秘密保護法」が加わったら…)。
 が、メンツのためかどうかは知らないが、米政府は日本からいただいている「思いやりカンパ」については米国民に明らかにしていないようだ。その結果、日米経済摩擦が生じたときに「ジャパン・バッシング」の柱として「安保タダ乗り」論が米国内の世論を形成していったという経緯がある。
 では、そういう反日感情がいまのアメリカに渦巻いているから、米国のご機嫌取りをしなければならない状況に今の日本があるかというと、そんなことはありえない。安倍総理は国際情勢の変化を「集団的自衛権行使容認」の理由として上げているが、国際情勢の変化として上げている理由が間違っている。
 確かに中国の海洋進出の活発化や北朝鮮の軍事力の強化は無視していいというわけではないが、本当にそれが日本の脅威と言えるようなものなのかと考えると、極めて疑わしいと言わざるを得ない。現に日中の関係は、尖閣諸島問題を除けばいがみ合わなければならない問題は何一つと存在しない。むしろ「集団的自衛権」行使容認で中国の日本に対する警戒心が高まり、それが組織的な反日感情に転化しかねず、早くも中国からの撤退を考慮し始めた日本企業は少なくない。そうなれば、日本の抑止力の重大な要素が失われることを意味することを理解しているメディアも政治家も学者、評論家も、私以外には誰もいない。純粋な論理的考察というのは、このように書くとだれも否定せず、自分もそう思っていたと勘違いしてしまうほど、自然に誰の頭にも素直に受け入れられる結果をもたらす。「集団的自衛権」行使は重要な抑止力の一つを失うことになるというのは、私のオリジナルな主張だということを、この際はっきりさせておく。
 日本政府は尖閣諸島については「領土問題は存在しない」という立場を採っているが、中国がばかばかしいこじつけで自国の領有権を主張するなら、国際司法裁判所で堂々と領有権の所在の決着をつければいいだけの話だ。そうした場で、日本とも中国とも特別な利害関係のない第三国に公正な判断を仰げば、間違いなく日本の領有権が国際的に確定するはずだ。
 オバマ大統領が「尖閣諸島は日米安保条約5条の範囲だ」と恩着せがましい主張をしてくれたが、その見返りにアメリカの「警察権」の補完的役割を約束するための「集団的自衛権行使」を、お返しとしてオバマ大統領に差し上げるとしたら、日本にとってあまりにも不平等な「物々交換」ではないか。実際、オバマ大統領の発言によって中国は尖閣諸島への野望を諦めたかというと、むしろ警戒飛行中の自衛隊機に中国戦闘機が異常接近するなど、逆効果すら現実化している。
 そういう挑発を繰り返している中国機に、沖縄米軍基地の戦闘機が中国の挑発行為を阻止するためにスクランブル発進してくれたことなど一度もない。日本政府も、沖縄の米軍基地総司令官に、中国の挑発行為に対して「自衛隊と協力して中国の挑発阻止の行動に出てほしい」と頼むことすらできないではないか。はっきり言って、沖縄の米軍は絶対に尖閣諸島防衛には動いてくれない。もし尖閣諸島防衛に動いてくれるとしたら、それはアメリカの国益に重要な影響がある、と判断した場合だけだ。現に、イラクのフセイン大統領を、根拠もない「核疑惑」を理由に殺害する目的のために起こしたイラク戦争で、結局イラクが核など持っていなかったことが判明したのち、フセインなきイラク国内で、宗教や民族対立によって生じた紛争の責任すら取れないではないか。
 そんなアメリカを当てにするために「集団的自衛権行使」という、これまでは憲法9条の制約によって「行使できない」とされてきたのを、論理的根拠も示さずに「行使に限定条件を付けるから、従来の政府見解を変えることができる」などと言う、屁理屈にもならない理由で「行使容認」を閣議決定して、アメリカからどんな見返りを安倍総理は期待しているのか。
 昨日のブログの最後にも書いたが、「脅威」の連鎖反応が生じることは必至であり、中国や北朝鮮に軍拡の口実を与えるという結果を招いたことなど、露ほども感じない総理を抱いた日本国民は、大変幸せだと思う。これは皮肉ではなく、中国や北朝鮮が日米関係の軍事同盟化を脅威に感じて軍拡をさらに強化すれば、当然日本にとっては重大な脅威が増大することになるから、国内の軍需産業や関連業界は空前の好景気に沸くことにだろうし、そのうえ輸出までできることになるのだから、日銀の金融政策に頼らなくても日本経済は高度経済成長期以来の好景気時代が到来するからだ。
 
 ここまで書いてきて、メディアの方もかなり「目からうろこが落ちた」ので
はないだろうか。単眼思考ではなく複眼思考で「集団的自衛権」問題を考察すると、今まで見えなかったことが見えてくるということがお分かりいただけただろうか。政治家の発言も、公明党の山口代表のようについ安倍総理との密談の中身をぽろっと漏らしてしまうこともある。
 NHKはそうした発言を録画による「生発言」ではなくアナウンサーが「代行アナウンス」するといった手法は、通常はとらない。おそらくNHKの報道部門で、山口発言をどう扱うかについての相当、意見の対立があったと思われる。極めて政治的に問題になる発言だったからだ。
 NHK報道部門の意見対立は、政府寄りのスタンスをとる体制派と、視聴者に真実を伝えるべきだという良識派の、「集団的自衛権行使」についての相容れない対立だったはずだ。それは安保法制懇の位置付けについてもあった。当初「政府の有識者会議」と位置付けたとき、私はふれあいセンターの上席責任者に抗議の電話をした。上席責任者は私の抗議を認め、報道部門に伝えると応じた。その結果、いったん「政府の」というオーソライズした位置付けをやめたが、体制派の巻き返しが功を奏したのだろう、再び「政府の」というオーソライズした表現に戻した。
 私がまた猛烈な抗議の電話をした時、電話に出た上席責任者は「本当ですか」と確認したうえで、「どうしてだろう?」と首をひねっていた。が、その後も武田アナウンサーの発言だけでなく、テロップでも「政府の有識者懇談会」とオーソライズした位置付けが続いた。その都度、私は抗議の電話をしてきたが、とうとう良識派が勝利を収めたのだろう、「安倍総理が設置した有識者懇談会」という、文句のつけようがない位置付けをするようになった。その間BPO(放送倫理・番組向上機構)にも私はNHKが政治的中立性を欠いていると訴えたが、BPOはこの件に関しては動かなかった。私が書いたブログ記事をFAXしたのだが、意味を理解できなかったようだ。
 こうした経緯に私自身が直接かかわってきただけに、今回の山口発言をどう
扱うかについても内部の意見対立が相当あったのではないかと思っている。山口代表の発言を録画で放送していれば、その瞬間「集団的自衛権行使」は吹き飛んでしまう。あくまで報道機関として録画の生発言を放送すべきだとする良識派と体制派との対立の結果、妥協の産物として武田アナウンサーが「代行」するという姑息な手段をとることになったと思われる。すでにブログで書いたように、私自身が公明党事務局に電話した山口発言の内容を確認しているので、武田アナウンサーの「代行アナウンス」を根拠にせず、読売新聞の記事を「捏造」と決めつけることができたのだ。読売新聞はNHKの報道が「代行」だったので、これ幸いと「でっち上げ発言」を作った。つまり吉田清治の捏造「ノンフィクション」小説の『私の戦争犯罪』と同じことをやったのだ。
 昨日、朝日新聞が「集団的自衛権」問題についての全国紙5紙に東京新聞を加えた6紙の社説の比較検証記事を書いた。自紙の社説を否定するわけがないので、こういうやり方はあまりフェアとは言えない。比較検証するなら、私のように純粋にロジカルに分析できる社外の人に紙面を提供すべきだろう。
 とりあえず、私自身の「集団的自衛権」問題についての考察は、明日で終える。全国紙5紙の社説検証は来週月曜日に行う(できれば1回で済ませたいと思っている)。明日はこの問題の「本丸」に切り込む。この連載ブログを始める直前に書いたように、この問題を論理的に考察する最大のポイントである「集団的自衛」とは何を意味するか、「集団的自衛権」とは何を意味するか、最後に「集団的自衛権の行使」とは何を意味するか、という問題を解明する。
 読者は、もう一度私が駆使してきたような論理的考察で、この三つの概念がそれぞれ意味していることを考えてほしい。もう「目からうろこが落ちている」人はかなりいるはずである。というのは、このブログはどれだけ私の論理的考察を理解してもらえるかを、複数のメディアに電話で確認しながら書いてきたからだ。
 正直私自身驚いたのだが、「北朝鮮の核は国連憲章が認めている固有の権利の一つである個別的自衛手段の一つだ。核不拡散条約は5大国のみに核保有を個別的自衛手段として認め、他の国の個別的自衛手段を禁止するというのは国連憲章上、どう屁理屈をこねても認められないはずだ」という主張に、私が電話した人全員が同意してくれたことだ。
 私は、その方たちに「あなたは今まで、そう考えていなかったでしょう」とまでは追及しなかった。そこまでしなくても、そうした論理的思考による考察をメディアがするようになれば、私はそれだけで1円の対価も得ていないこのブログを書き続けてきた目的は達成できるからだ。そんな人間が、日本にも一人くらいいてもいいではないか。