小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

日本の新聞記者や論説委員はなぜ恥じないのか。区割り法案の衆院可決は彼らの無能のせいだ。

2013-04-23 06:56:45 | Weblog
 いきなり、追記から始めざるを得ない。
 私はブログの原稿をワードで書いて「貼り付け」投稿しているので、しばしば書き溜めておいて、時機を見て投稿することがある。この原稿も実は自公が「区割り法案」を衆院特別委で民主・維新・みんなが欠席する中で強行採決し可決した翌日の4月20日に書き上げていたのだが、その前に投稿したブログ記事『0増5減は自民のエゴ丸出し法案だ。政権与党につねにすり寄ることが大新聞社のやることか』(15日投稿)の訪問者が連日増え続けていたので投稿するチャンスがなかなか訪れず、今日にも与党が衆院本会議で区割り法案を強行可決するようなので、やむを得ず急遽この記事を投稿することにした。前回投稿したブログ記事をまだお読みになっていない読者の方は、誠に申し訳ないがこの記事を読む前に前回のブログにざっと目を通していただければ、と願う。
 さてこのブログ記事を書く前に早稲田大学社会科学部教授の岡崎憲芙氏に送った文書がある。岡崎氏は17日早朝、NHKの『視点・論点』に出演し(録画)、区割り法案に反対の意見を述べたうえで、真の民主的選挙制度は「現在は全国区での比例代表方式、道州制が導入されたときは道州単位での比例代表方式が望ましい」と主張した。岡崎氏が日本共産党員であるか否かは知る由もないが、この主張は共産党の主張と完全に一致している。私は同日岡崎氏宛に早稲田大学社会科学部にFAXしてこう述べた。

 岡崎氏が主張された完全比例代表方式は全国あるいは道州単位にせよ、民意を反映させる選挙制度としては、少なくとも現段階においてはかなりの欠陥があると思わざるとえません。
 というのは、比例代表制の場合、現在でも比例名簿の順位は政党の権力者が事実上決めています(中央の決定に背く支部もありますが)。当然党議拘束がかかった法案に反対票を投じる議員が出たら、除名されたり、次の総選挙で比例代表から除外(あるいは当選不可能な下位での登録)になる可能性が極めて高くなります。比例代表制は、日本の選挙風土を考えると比較的ましなほうだと思いますが、私は選挙制度をいじるより、国民の民度を高めることのほうが先ではないかと考えています。
 国民の民度を高めるということは、学力や特殊な能力を向上させることではありません(それが不必要だとまでは言いませんが)。
 私は教育の二大目的は「論理的思考力を高めること」「フェアで社会的弱者に対する思いやりの心を育むこと」の二つだと考えています。学校教育で詰め込むべき「知識」は、社会人になっても必要とする範囲で十分です。たとえば聖徳太子が制定した日本初の憲法17条のうちだれもが知っていることは「日本人は和をもって貴しとなす」(要旨)だけでしょう。かくいう私自身がそうです。それだけで知識としては十分ではないでしょうか。教育で必要なことは「和をもって貴しとなす」という意味をディベートで子供たち自身に考えさせることです。ただ友達と仲良くすればいいのか、あるいは相手の立場に立って考えた時、自分はどういう行動をとるべきかを考える思考法と思考能力を身につけることなのか。「知識」を身につけるということがどういうことを意味するのか、なぜ「知識」を身につける必要があるのか、そういうことが教育の本質について問われているのではないでしょうか。
 高校生になるとある程度自分がどういう分野に向いているのか分かってきますから、その分野の基礎的学力(その分野の知識教育は必要です)を高める教育が必要になります。大学に進めば、例えば東大のように教養課程と専門の学部教育に分ける必要などなく、最初から専門分野で先進国、とくにアメリカの大学生の学力・能力に負けないくらいの知識と思考力を高めることに重点を置くべきだと考えています。
 いずれにせよ、日本が高度な民主主義国家になるためには、民意が政治に反映されるような制度を作ることも必要ですが、民意を国政に反映させるのは国民の「権利」ではなく「義務」だという認識を国民が持つような教育をすることが、現在の日本には一番重要なことではないでしょうか。
 私は残された人生の生きがいとして『小林紀興のマスコミに物申す』というブログを書いています。論理的思考力が皆無のくせに「自分たちの主張が一番正しい」と思い込んでいるマスコミの驕りに対する痛烈な批判を行うことによって、ブログ読者の思考力と思考方法に挑戦しているつもりです。私の人生最後の闘いが、次代を担う若い人たちのほんの一握りにでもいいから引き継がれていくことを願いながら……。

 もちろん天下の早稲田大学教授からの返事は今のところ全くない。ではすでに書き溜めておいたブログ記事に移ろう。

 衆院小選挙区の「0増5減」を実現する区割り法案(公職選挙法改正案)が19日夜、民主・維新・みんななど野党が出席を拒否する中で、衆院特別委員会で自公両党が可決した。この法案を可決した特別委員会は正式には「政治倫理確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会」という。この特別委員会で区割り法案を可決した与党は23日にも本会議で可決する予定と新聞で報じられている。
 あらゆる法案は国会本会議に上程される前に何らかの委員会で審議を尽くしたうえで可決された法案だけが本会議にかけられる。したがって委員会で十分審議が尽くされているということが前提であり、本会議ですったもんだすることはあまりない。現に民主政権最後の国会では、予算委員会で野田総理が解散時期を明らかにしたことで予算委員会での審議が急速に進み、重要法案が次々に可決され、本会議では形式的な質疑応答が短時間で行われただけであった。
 ではマスコミが一切問題にしていない区割り法案を可決した「政治倫理確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会」(※「倫選特」と略す)なるものはどのくらい重要な委員会なのか。この委員会の顔ぶれを見ればおおよそ分かる。
 まず委員長が保岡興治氏(自民)。かつて法相を二度務めた経験はあるが、今は閣僚ではない。委員長を補佐する理事は自民議員が5人、あとは民主・維新・公明から一人ずつ。大物議員は一人もいない。
 ちなみに国会の構成は(衆参とも)本会議・常任委員会・特別委員会の三つからなる。本会議はすべての国会議員に出席が義務付けられているが、委員会はその委員会に属する議員以外は、特別に出席を求められた議員しか出席できない(傍聴は可)。言うまでもなく常任委員会は本会議に次ぐ重要な委員会であり、22の委員会がある。中でも予算委員会は本会議に次ぐと言われているほど重要な常任委員会である。委員長は山本有二氏(内閣特命担当相=金融担当)で、アベノミクス推進の旗頭でもある。理事は9人で、自民議員が6人を占め、残り3人は民主・維新・公明に割り振られている。
 予算委員会が、なぜ本会議に次ぐと言われるほど重要な委員会なのか。
 そのことを証明するにはNHKの国会中継の基準を見れば分かりやすい。NHKが内規で定めている国会中継の基準は3つのケースだけである。第一はもちろん本会議の中継だが、本会議のすべてを中継しているわけではない。通常国会開催時に行われる首相の施政方針演説(臨時国会の場合は所信表明演説)、各政党の代表質問と首相を中心とする閣僚などの回答、重要法案をめぐっての与野党の質疑応答などである。第二が重要法案を審議する予算委員会、そして第三が公開の党首討論会。この三つがNHKの国会中継の基準である。ほかの常任委員会はおろか、臨時的に設けられる特別委員会の会議を中継することは原則としてない。当然、区割り法案を「審議」した倫選特を中継することはなかった。
 もちろん特別委員会(以下「特委」と略す)があまり重要な委員会ではないというわけではない。たとえば東日本大震災復興特委や、原子力問題調査特委、北朝鮮による拉致問題等に関する特委など、国民の関心も高いが、かなりの長期にわたって審議する必要があり、常任委員会では審議しきれないような案件を扱うために設置されるケースが圧倒的である。
 一方、予算委員会は内閣が提出する予算案の審議を行うことが基本的な役割だが、予算は一年間の国政の在り方を決めるものであるため、国政のあらゆる重要案件について審議を行うことが国会の慣例となっている。そのため予算委員会には総理をはじめ多くの閣僚が出席することが多く、本会議、党首討論と並ぶ国会審議の花形として広く認識されており、またその重要性から予算委員会開催中は他のすべての委員会は開催されない。すでに述べたように、区割り法案を審議した「政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会」には委員長以下閣僚は一人もいないが、予算委員会の開催中は倫選特は開催されていない。
 なぜ自民政権は衆議院議員の選出方法の審議を予算委員会で行わず、わざわざ特別委員会を設置して、0増5減で「違憲基準」とされる一票の格差を1.998倍と、2倍未満にするためだけの小選挙区の区割り法案を「先行」して可決する必要があったのか。
 はっきり言って自民党は、おそらくNHKが中継するであろう国民の目にさらされる予算委員会では区割り法案を審議したくなかったのである。国民の目の前で「なぜ区割り法案だけを先行して成立しなければならないのか」という自民のエゴ本音がさらけ出されてしまうのを恐れているからである。
 前回のブログで私は断言したが、0増5減の区割り法を成立させたら、自民はこれで裁判所から「違憲」を問われなくなる、ということしか考えていないのだ。そもそも自民が小選挙区制に変更した時「一人別枠方式」をどさくさに紛れて導入したのは、地方で圧倒的に強い自民の選挙基盤をさらに確固たるものにするためだった。
 実際、先の総選挙で自民党の安倍総裁が「聖域なきTPP交渉には参加しない」と公約して、前総理の野田氏がTPP交渉への参加に前向きな姿勢を明らかにしていた民主党に大勝したのは、この「一人別枠方式」があったが故だった。実際、自民候補者が先の総選挙で獲得した得票総数は、自民が惨敗した時の総選挙からそんなに増えたわけではない。ただ、それまでは選挙にあまり関心を持たず投票にも行かなかった人たちが自公政治を変えたいと、当時は新鮮なイメージを国民に与えていた民主に投票した結果だった。だから先の総選挙では民主に失望した無関心層が、再び投票所に足を運ぶのをやめた結果、自公が3分の2以上の議席を獲得したというわけだった。国中が燃えた「小泉劇場」の再現というわけではなかったのである。
 今、なぜ安倍内閣の支持率が上昇を続けているのか。アベノミクスによって生じたミニバブルに国民が浮かれたためではない。黒田氏が日銀総裁に就任して、「物価上昇率が2%に達するまで金融緩和を続ける」と安倍首相とのタッグマッチを表明し多結果、円安が進んで株価が急上昇したのはつい最近のことで、安倍首相が就任して以降、内閣支持率は一貫して上昇を続けていた。なぜか。
 連合との野合政党だった民主党が、連合勢力に足を引っ張られ(その代表格が輿石幹事長)、また消費税増税を打ち出した野田内閣に反旗を翻した元小沢代表がいわゆる小沢チルドレンを率いて「小沢の声が第一」(ジョークではない)なる新党を立ち上げて民主党とたもとをわかったことも、国民が当初抱いた民主党に対する期待を裏切る結果になったことが大きかった。いわば敵失に乗じて政権の座に返り咲いた自民党政権が、「聖域なきTPP交渉には参加しない」と公約しておきながら、「公約は選挙に勝つための戦術」と言わんばかりにTPP交渉参加に前向きに舵を大きく切ったことが、農業団体や医師会などの抗議にもかかわらず国民が支持した最大の理由であった。またマスコミが、珍しくこのケースでは、日本が自由貿易のブロック圏形成という世界的流れを知って、安倍政権の豹変を支持したことも安倍内閣への支持率を高めたと言えよう。この支持率の上昇をバックに、安倍内閣は区割り法案を国民の目が届かない倫選特で可決し、本会議に上程する作戦に出たのだ。選挙制度の抜本的改革抜きの区割り法案を「先行」させようとした自民の詐欺的とさえ言える方針の欺瞞性にまったく気付かず、愚かにも区割り法案を支持してしまった大新聞社の責任は重大である。そのことはすでに書いたが、何度でも書く。 
 だが、衆院では可決できても、参院では自公はまだ過半数を占めていない。だから何とかして参院でも可決できるよう、憲法改革で足並みをそろえる見込みがある維新に強力に働きかけているが、その維新の選挙基盤は自民と違って地方ではなく大都市である。「一人別枠方式」を自民が廃止に踏み切らない限り、区割り法案には絶対賛成票を投じない。そのため最悪、参院で法案が否定されたときは衆院で3分の2以上の議席を持つ自公が衆院で再可決に持ち込みンで強引に「意見」「違憲状態」とされた現在の選挙制度を「改革」したことにしようというのである。なんと図々しいことか。
 だが、小泉劇場の時は国民の大多数が郵政民営化を支持していたから、小泉総理が衆院を解散して総選挙に打って出た時には国民が郵政改革派に投票を集中したため、郵政民営化は実現したが、今回の区割り法案は、いずれ国民すべての目に自民の目論見が明るみになることは間違いない。
 確かにマスコミによる世論調査では、区割り法案への支持のほうが高いが、それは大新聞社が欺瞞的報道をして国民の意識を誘導した結果でしかない。すでに前回のブログでも書いたが、自民の目論見はとりあえず区割りの変更で一票の格差を「違憲」基準の2倍未満にすることで、選挙制度改革の幕を下ろしてしまうつもりなのだ。
 その自民の欺瞞的区割り法案を全面的に支持しているのが読売新聞であり、当初は読売新聞と同様区割り法案の先行成立を支持していた朝日新聞は私の批判を受けて政治部内部が完全に混乱状態に陥ってしまった。つまり朝日新聞政治部の中に、私の主張のほうが論理的だと認め、区割り法案の先行成立は、それで選挙改革にピリオドを打ってしまおうというのが自民の本音であることに気付いた記者たちが出てきたためである。だから朝日新聞の区割り法案に関する主張は社説や解説で180度違ってしまったのだが、新聞社はそうした内部混乱を絶対認めない(紙面上では)。
 読売新聞のほうは、区割り法案を成立させてから抜本的な選挙制度改革を行うだろうと、絶対にありえない希望的予測をしているが、その「希望」が裏切られて自民が選挙改革の幕を下ろしてしまった時どう責任を取るつもりなのか。おそらく、一刻も早く抜本的選挙改革に手を付けよ、と金切声をあげるだろうが、それは責任転嫁のためでしかないことを今からはっきり言っておく。読売新聞はこれまでの主張の誤りを素直に認め、読者に謝罪したうえで区割り法案の「先行」可決を批判すべきだ。

 ここまでが、20日に書いたブログ記事の原稿だが、同時進行で日本がTPP交渉に正式に参加することが正式に決まった。私は野田民主党政権の時代から一刻も早くTPP交渉に参加すべきだとブログで主張してきた。参加が遅れれば遅れるほど不利な立場で交渉に臨まざるを得なくなるからだ。少なくとも、日本が参加する前に参加国の間で合意に至っていたことは無条件に日本は呑まなければならない。それが後からTPP交渉に参加する国に課せられた責務であることがすでにTPP交渉参加の条件として決まっているからだ。
 外交力を左右するのは、基本的には軍事力が最大、次が経済力だが、そのいずれも効果を発揮できない時に、この二つの要素を上回る方法がある。それは国際世論を味方につけるという方法だ。しかし、この方法が実は一番難しい。アメリカのような軍事的にも経済的にも世界最大を誇る国でも、軍事力や経済力だけでは国際世論を味方につけることはできない。アメリカの主張や行動が国際世論の支持を得るためには、世界最強国のアメリカといえども、その主張や行動が普遍性をもったものでなければならない。わかりやすく言えば、自ら犠牲を払うことを前提にしたうえで共通したルールを作ろうという主張をしない限り、国際世論の支持は得られない。日本が「聖域なきTPP交渉には参加しない」と主張すれば、当然他の国にもそれぞれ得たいもの、失いたくないものがあるわけで、それらをすべて認めなければならなくなる。利害関係が必ずしも一致するとは限らないケースでの交渉は、双方が犠牲を払い合うことによってのみ合意点に達するということを肝に銘じてTPP交渉に臨むのでなければ、日本はせっかくTPP交渉に参加できてもたちまち村八分にされてしまう。
 別に先見の明を誇るわけではないが、昨年末の12月30日、私は『今年最後のブログ――新政権への期待と課題』と題したブログを投稿し、TPP交渉への参加の必要性と参加に当たっての心構えを強く訴えた。その個所を転記する。

 確かに選挙には勝たねばならないが、日本の将来を危うくするような公約(マニフェスト)を並べ立てて票の獲得を目指すような政治家に日本の将来を任せるわけにはいかない。その最たるものが日本の農業保護政策だ。資本主義社会の基本原則は自由競争である。もちろん今すぐ何でもかんでも自由競争にしろなどとは言わない。自由競争社会で生き残れるような手段を構築することと、その構築が完成するまでの一定の猶予期間を設ける必要はある。だが、どうやっても勝ち残れない場合は別の救済手段を設けるべきだ。その典型がコメ農業である。実際、今すぐに自由化しても生き残れる国産米の生産量は50%以上あるそうだ。ただしその50%以上の国産米を生産している農家(農業法人も含め)は全体の5%以下だそうだ。つまり農家(兼業農家も含む)の95%はどうやっても自由競争に生き残れない農家だ。そういう農家は減反奨励金などの保護策ではなく、生活保護の対象として救済すべきだ。(中略)
 はっきり言う。日本は直ちに「聖域なきTPP交渉」への参加を表明すべきだ。TPP交渉に参加したからと言って、今すぐ直ちにすべての関税をゼロにしなければならないというわけではない。一定の猶予期間は認められる。その猶予期間のうちに競争社会で生き残れるコメ農業を育てるための努力は政府は農業団体と協力してやるべきである。それでも競争に勝てない農家は気の毒だが、生活保護受給者になっていただく。
 (※ここからが重要な視点だが)日本が、自らそういう血を流す覚悟を世界に向けて発信すれば、国際社会における日本の発言力は格段の重みをもつことになる。

 日本はTPP交渉への参加が正式に認められた。日本が遅れてTPP交渉に参加できたのは、その条件である全参加国11か国の同意が得られたからだ。そのきっかけを作ってくれたのはメキシコだった。最大のハードルだったアメリカは日本に対するトラック(事実上はピックアップ)の輸入関税25%をゼロにするまでの期間をTPP交渉参加国が目標としている10年を超えることに日本が同意することを条件に日本の参加に同意したためである。それに対しアメリカも日本が農産物の輸入にかけている関税の撤廃までの期間について考慮するという約束をした。日本の新聞が正確に伝えていないのは、このアメリカとの約束である。
 日本の新聞はあたかも日本画ピックアップ・トラックの関税猶予をアメリカに約束した代償として日本も農産物の輸入に対する関税が認められたかのような報道をしているが、実際には10数年後には日本もアメリカも関税をゼロにしなければならないことを、なぜかひた隠しに隠している。あたかも日本のコメは永遠に関税で守ることができるかのような報道をしているが、事実を伝えずにTPP交渉参加をバックアップして安倍内閣に恩を売ってどうするつもりなのか。大新聞の政治部記者や論説委員たるもの、少しは「恥」という日本文化を学び直せ。「恥じる」ということが、日本人が長い歴史の中で育んできた世界に誇るべき独特の文化であるということすら、彼らは知らないのだろう。

「0増5減」は自民のエゴ丸出し法案だ。政権与党につねにすり寄るのが大新聞社のやることか。

2013-04-15 05:41:15 | Weblog
 頭が悪い人は、いま国会で問題になっている選挙制度改革について、こういう主張をする。読売新聞論説委員のことである。
 読売新聞は4月14日の社説で『衆院選挙制度――「格差」と定数削減は別問題だ』と主張した。論点を箇条書き的に整理する。

① 与党(自公政府)は各地の高裁で「違憲(状態)」「無効」の判決が相次いだ先の総選挙の違憲状態を解消するため、小選挙区定数の0増5減を実現すべく区割り法案を衆院に提出した。この法案が可決されれば「一票の格差」は解消し(※格差は1.998倍になる)違憲判決基準の2倍未満に収まる。
② しかるに野党(民主・維新など)は、最高裁判決は違憲状態の主因が「一人別枠方式」にあると選挙制度そのものの改革を求めているのに、自公は肝心の「一人別枠方式」を温存しようとしている(※つまり数合わせの違憲解消策に過ぎず最高裁判決の趣旨を無視している)ことを理由にして、自公法案に反対している。
③ しかし民主は昨年11月(※当時は民主政権)に0増5減の選挙制度改革に賛成したはずで、この反対はご都合主義だ。
④ 抜本改革に関する各党の主張の隔たりは大きい。合意形成が困難だから自公法案を成立させるのが立法府の最低限の責務だ。
⑤ そもそも野党が定数削減と絡めた改革案を唱えること自体がおかしい。「一票の格差」是正とは次元の異なる問題だ。定数削減の主張は国民受けを狙ったポピュリズム(大衆迎合主義)そのものだ。
⑥ 6月の会期末まで、時間は限られている。これ以上「違憲」は放置できない。緊急処置として自公提案の法案を成立させるべきだ。

 私はこれまでブログで「民主主義」の欠陥については何度も書いてきた。大哲学者のプラトンやアリストテレスなどが主張したように民主主義は「衆愚政治(愚民政治とも言う)」の側面が小さくないことは否定できない。
 だが、民主主義の欠陥を克服する新しい政治システムが発明されていない以上(永遠に発明不可能かもしれない)、私たちは民主主義の欠陥を理解したうえで民主主義をより成熟させていくしか現状改革の方法がない。この本質的な問題を、読売新聞社説氏はまったく分かっていないようだ。つまり社説氏が果たすべき最大の責務は、国民が正確な理解をしたうえで国政に民意を反映させるための情報を提供することだ、ということをまったく理解されていないようだ。国民に誤った情報を提供して、誤解を招かせるごとき主張をすることは言論の自由の範囲を超えていると言わざるを得ない。

 民主主義の歴史はヨーロッパでは古代ギリシアにさかのぼる。デモクラシーの語源そのものが古典ギリシア語の「デモクラティア」であり、ポリスと呼ばれた都市国家では民会による民主政治が行われた。ただし古代アテネなどの民主政治は各ポリスの「自由市民」と呼ばれる特権階級だけが参政権を持つ制度で、ポリスのために戦う従軍の義務と表裏一体をなすものだった。当然女性や奴隷、他のポリスでは「自由市民」であっても移住者は、移住先のポリスで実際に戦士として従軍するまでは市民権が得られなかった。つまり古代民主主義は「特権階級の、特権階級による、特権階級のための」政治システムだったのである。
 その後、このような擬似民主主義は封建体制に継続され、「貴族の、貴族による、貴族のための」政治システムに変貌する。その封建体制を崩壊させたのが18世紀後半に起きたフランス革命である。1787年に始まった絶対王政に対する一般市民・農民・下級戦士などの反乱によってアンシャン・レジーム(旧体制)が崩壊し、近代民主主義の原点となった議会制民主主義が誕生した。
 その流れを汲んで生まれたのがアメリカ型民主主義であった。アメリカ型民主主義がどのような歴史をたどり、今日に至ったのかを詳細に検証するのは専門家に任せるとして、概略だけを述べておきたい。これは日本型民主主義がいかに形骸化していることを検証するために絶対必要な作業だからである。

 まず結論から先に述べておきたい。そのほうが理解しやすいと思うからだ。
 アメリカ型民主主義の基本的概念(社会的規範)には「フェアネス」という思想がある。これは欠陥が少なくない民主主義を成熟させていくために欠くことができない基本的要素だ、と私は考えている。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは1492年である。その後16世紀の初めにスペイン人が入植して中南米を征服、フロリダに植民地セントオーガスティンを建設した。
 次いで17世紀初めにイギリス人がバージニアに上陸、ジェームズタウンを建設した。さらに1620年にはイギリスからメイフラワー号がプリマス(ボストンの近く)に入港、イギリス人の大量移住が始まった。
 その後、アメリカに新天地を求めて(宗教改革に敗れたキリスト教徒が大半を占めていた)オランダ人、スウェーデン人、フィンランド人などが次々に移住し、さらにイギリスに対抗してカナダへ移住をしていたフランス人もカナダから五大湖を渡ってアメリカに南下を始めた。
 1775年、英本国の厳しい植民地政策に反抗してイギリス人以外のヨーロッパからの移住民が結束して独立戦争を始めた。彼らは「自由か死か」を合言葉に銃をとって軍事力、特に海軍力に優れたイギリス軍と戦い、81年にはイギリス軍を降伏させ、アメリカは独立を勝ち取った(国際的に独立が承認されたのは83年のパリ条約による)。
 独立後のアメリカは北部・南部・西部がそれぞれ異なった顔を持って別々の道を歩んでいった。北部が商工業を中心に資本主義経済を発達させれば、南部は黒人奴隷の労働力を基盤とした綿花王国を築き、西部は牧畜に活路を求めた。アメリカ映画の代表的な存在だった西部劇の主人公たちがカーボーイなのはそうした理由による。そもそもアメリカが独立した時点からアメリカ合衆国を形成した各州が、あたかも独立国家のような体をなしてきたのも、そうした歴史的背景があったからである。
 ここで南北戦争の真相について、スティーブン・スピルバーグ監督作品『エイブラハム・リンカーン』のウソについて明らかにしておく。スピルバーグは、リンカーンを「奴隷解放の父」として描いており、事実アメリカでもそう扱われている。だが、リンカーンはもともと奴隷解放論者ではなかったし、大統領に選出された時の就任演説にも彼の考えがはっきり表れている。
「私は奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思もない」(1861年3月4日)
 ではなぜリンカーンが「奴隷解放の父」と呼ばれるようになったのか。
 実はリンカーンは共和党所属の初の大統領だった。歴史的に共和党は北部や西部を基盤にしており、南部を基盤にしていた民主党とはつねに対立していた。西部劇に黒人がほとんど登場しないのはそのためであり、今日に至るも共和党が銃規制に反対しているのは西部や北部に圧倒的な影響力を持つ全米ライフル協会の政治力の巨大さのためである。
 問題は商工業を中心に発達してきた北部にとって、安価な労働力である黒人に自由を与え、南部から北部に移住させたいと考える共和党支持者が増えてきたことにある。この共和党勢力の増大に危機感を抱いたのが南部を基盤とする民主党だった。「保守派の共和党、リベラル派の民主党」と言われている現在の対立関係を考えると隔世の感がある。
 そして、ついに大統領選挙で共和党のリンカーンに敗れた南部各州を政治的に支配していた民主党は、「リンカーン自身は奴隷解放論者ではなくても、共和党政権が続くと時間の問題で奴隷制が崩壊する」と考え、アメリカ合衆国から離脱して「アメリカ連合国」として独立を宣言したのだ。例えば日本でいえば唯一の黒字である東京都が都民の税金を他の赤字道府県のために使われるのは嫌だ、と神奈川や千葉、埼玉の各県に働きかけて「首都圏国」の独立を宣言するようなものである。さすがにリンカーンもこの独立宣言を無視できず、「アメリカ連合国」に対して戦争を始めたというのが南北戦争の原因である。
 だから戦争に突入したときリンカーンは奴隷制を布いていた北軍側の州に対して「奴隷解放をするつもりはない」と約束している。そして北軍の勝利に終わったのち(南軍が負けた要因の一つに南部の奴隷黒人の反乱もあった)、リンカーン自身が自分の政治生命を維持するため「奴隷解放論者」に転向したというのが真実である。
 伝説はえてして実像を虚像に変えてしまう。忠臣蔵の大石内蔵助は主君の仇討をした大忠臣のごとく思われているが、実像はまったく違う。彼の本心は断絶させられた浅野藩を、切腹させられた浅野内匠頭の弟・大学を擁立してお家再興を実現することにあった。もし大石の策略が成功して浅野藩再興が成功していたら、大石は最大の功労者として浅野藩の実権を掌握する地位に就いていたであろう。が、たとえ浅野藩の再興が成ったとしても石高は大幅に削られていただろうから、再雇用されるのはほんの一握りの上級武士だけ、ということは大石にも、また下級武士の赤穂浪士にもわかりきっていた話だった。だから大石にとっては赤穂藩再興の目的を果たすためには下級武士の跳ね返りを抑え込まねばならず、主君の仇討を目指していた浪士たち(彼らには再雇用される保証がなく、「主君の仇を討つ」という大義名分だけが生き甲斐になってしまっていた)の手綱を握り続けておく必要があった。結果的に大石の策略は成功せず、それまでの赤穂浪士たちとのいきさつから引くに引けなくなり、大石は吉良家討入りの総大将として後世に名をはせることになるが、もし浅野藩再興が成っていたらどうなっていただろうか。おそらく浅野藩の実権を掌握した大石を、赤穂浪士たちは「裏切り者」として付け狙い、暗殺しようとしたであろうことは間違いない。そう言い切れる理由は、もし大石が本気で仇討を考えていたとしたら、なぜ山科に豪邸を構えて遊郭に通いつめて、あいじんに子供まで生ませたのか、論理的な説明がつかない。吉良家が放ったスパイの目をくらますため、というのが通説になっているが、スパイの目を欺くためだったら田舎にこもって畑仕事でもしてのほほんとした生活を送っていれば十分だったはず。浅野藩取り潰しで手に入れた莫大な分配金で、なぜ貧困な生活に苦しみながら仇討の機会を狙っていた赤穂浪士の生活を援助してやらなかったのか。はっきり言って有り余るほどの金があり、酒と女好きだっただけというのが山科での隠遁生活の真実と考えるのが論理的だろう。
 まだある。秀吉伝説である。信長が暗殺された後、信長の跡目相続をめぐって秀吉は柴田勝家と対立した。勝家はすでに成人していた信長の三男(次男説もある)・信孝を擁立したが、秀吉は信長の長男であり、信長とともに本能寺で果てた長男・信忠の長男・三法師(まだ3歳)を擁立して争った(世に言う清洲会議)。この時の秀吉の主張は三法師は信長の直系であり、たとえ3歳でも三法師が織田家の当主になるべきだというものだった。いちおう清洲会議では秀吉の「筋論」が勝利したが、本能寺の変の時期には信長が事実上「天下人」だったことを考えると、三法師が成人した時点で政権を三法師(成人後は織田秀信)に返還すべきであった。もしその「正論」が本音であったとしたら、秀吉が死の直前、徳川家康と前田利家を枕元に読んで、「秀頼成人の際には政権を秀頼に」と懇願したのは虫のいい話である。
 伝説は実像を虚像に変える話はまだまだあって、司馬遼太郎などはそうした虚像作りの名人であった。その最高傑作が坂本龍馬であり、司馬自身そのことを承知していたためあえて龍馬の本名を使わず、著書の中では「竜馬」としたということは知る人ぞ知る話だ。伝説はしばしば実像を虚像に変えるという事実だけご理解いただければ十分である。

 本題に戻る前、というか本題に欠かせない話なので、アメリカ型民主主義成立の話に戻る。アメリカが北部・南部・西部と異なる産業基盤を持って歩み、それが民主党と共和党の政治的対立を生み、さらに南北戦争にまで発展してしまったことはすでに書いた。その結果、決して奴隷解放論者ではなかったリンカーンが自らの政治生命のために奴隷解放論者に転向し、奴隷解放宣言を行って「奴隷解放の父」という虚像がつくられてしまったことはご理解いただけたと思う。
 あえて追い打ちをかければ、リンカーンはもともとは奴隷解放論者ではなかっただけでなく。アメリカ史上まれにみる非人道的大統領であった。アメリカの歴代大統領の中で、原住民であったインディアンに対して最も非人道的な政策を行ったのがリンカーンだったのである。それも、リンカーンが生来のインディアン嫌いだったからではなく、共和党の支持基盤である西部の牧畜業者のためにインディアンを豊かな牧草地帯から追い払うことが目的で、命令に服さないインディアン部族に対する虐殺行為は「奴隷解放の美名」の陰に隠されてしまったが、これもまた伝説が実像を虚像に変えた証拠の一つである。
 
 もう少し続ける。
 アメリカが人種のるつぼと言われているのはだれでもよく知っていると思う。「人種のるつぼ」ということはどういうことを意味するのか。ソ連における共産主義体制の崩壊が証明したように、異なる人種・民族は異なる言語・宗教・風習・文化・伝統を擁しており、それらをひとつの共同体としてまとめるためには共通の社会的規範(ルールといってもよい)を作らなければならない。ソ連圏の場合、強大な軍事的強制力で無理やりまとめてきたが、共産主義体制の崩壊と同時に、この強制力も壊滅してしまった。その結果一気に爆発したのが東欧圏の大混乱であった。旧ユーゴスラビア、旧チェコスロバキアなどの内乱を見れば、軍事的制圧がなくなると人種・民族の混合国家がたどる道は火を見るより明らかであろう。中国も共産主義体制が終焉すれば、少数民族自治区のチベットなどが独立しようとし、中国政府がそれを阻止しようとすればたちまち内乱状態になることは間違いない。
 ある意味では人種のるつぼであるアメリカの場合も、人種・民族間の紛争がいつ生じてもおかしくない国家構成になっているのである。
 実際、黒人への人種差別感情が白人の間でまだまだ残っているアメリカで。黒人大統領が誕生し、しかもさしたる実績も上げられず、むしろ第1期在任中には経済的にはかえって悪化させてしまったオバマ大統領が再選されたことは奇跡と言ってもいい。
 日本人に対する差別も、太平洋戦争中の強制収容ばかりがクローズアップされてきたが、いまだに「リメンバー・パールハーバー」の反日感情を持っているアメリカ人がいるだけでなく、実は真珠湾攻撃の35年も前にカリフォルニアでは排日運動が激化していた。1906年の日系児童の学級隔離、13年の排日土地法成立(日本人の土地所有禁止・借地制限など)、24年の排日移民法と、黒人差別と甲乙つけがたいほどの人種差別の洗礼を、日系移民は受けてきた。
 太平洋戦争の末期に、もう勝敗の帰趨が見えていたのに広島と長崎に原爆を、それも別々の種類の原爆(広島に投下されたのはウラン235、長崎に投下されたのはプルトニウムをそれぞれ核燃料とした原爆)を使ったということは、アメリカが「自国兵士の損害を最小限にとどめるため」「戦争を早期終結させるため」などといかなる言い訳をしようと、原爆の実際的効果を確かめるための実験だったことは絶対に否定できない。歴史に仮定の話をしても仕方がないが、ドイツに対してだったら、あのような人体実験的な原爆投下に踏み切ったであろうか、という思いはぬぐいきれない。
 黒人や日系人に対してだけではない。先住民のインディアンに対してはもっと残酷だった。「人民の、人民による、人民のための」という歴史的名言を残したリンカーンですら、先述したように自らが所属する共和党における権力基盤を強化するためインディアンの居住区をペンペン草も生えない場所に定めたり、命令に服しないインディアンは容赦なく惨殺したりした。またメキシコ人からもテキサスやカリフォルニアを奪い取ったうえ、メキシコ住民を弾圧した。
 とはいえ、アメリカも人種間対立を放置してきたわけではない。人種問題は、国家分裂の温床になりかねないからだ。
 では、アメリカはどうやって人種対立の芽を摘もうとしたのか。
 そこがアメリカのすごいところなのだが、政治的にも経済的にも圧倒的な勢力を占めるアングロサクソンの絶対的優位性を自ら否定することによって、人種対立を和らげようとしたのである。その方法が「フェアネス」を社会全体の規範的ルールにすることであった。アメリカが根強い人種差別問題を抱えながらも、いざというときは星条旗のもとに全アメリカ人が結束できるのは、人種・民族間の宗教や文化・慣習・風習などの相違を超えて、すべての国民にフェアネスの規範的ルールを適用してきたからである。
 そして、この「フェアネス」のルールがアメリカ型民主主義の概念として定着してきたことを、私たち日本人も学ぶ必要がある。
 1960年6月、私がまだ大学生だったころの話だが、当時の岸内閣が日米安保条約の改定を強行しようとして(いわゆる「60年安保」)、デモ隊が国会周辺を取り巻き、日本中が革命前夜のように騒然としたことがある。読売新聞がこの安保闘争をどう報道したかはまったく覚えていないが、マスコミの多くは「民主主義の危機」と岸内閣を批判した。その時、岸は「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には〝声なき声“が聞こえる」とうそぶいて物議をかもした。
 いまマスコミは60年安保改定、さらに続く70年安保改定についてどう評価し、当時の主張についてどのように自らの主張についての検証をしているか。読売新聞も朝日新聞も昭和の時代を再検証しているが、その検証の中で自らも含めてマスコミが果たした役割についての検証はまったくしていない。なぜ日本のマスコミは自己検証しないのか。アメリカのマスコミは必ず自己検証を重ねながら主張を行っている。マスコミがそういう姿勢では、日本に成熟した民主主義が育つわけがない。
 民意を反映する政治というのは、政府に反対する運動が盛んになることではない。もちろん国民は権力に対して厳しく監視し、国の将来を危うくするような政治に対しては抗議の活動をする義務がある。あえて言う。「権利」ではなく「義務」である。
 一方、民意を政治に反映させるため、自分の考えを国会や地方議会で実現してくれそうな候補を積極的に応援し、支持を広げるための活動を行う義務がある。これも「権利」ではなく「義務」である。
 その場合の行動基準は、はたして自分の考えや行動(反対運動にせよ、支持運動にせよ)がフェアか否か、また論理的か非論理的かを自ら考えチェックする訓練を積む必要がある。実はディベート教育というのはそのために必要なのだ。
 ディベートを単純に論争で勝つためのテクニック(たとえばレトリックなど)や説得力をもつ話術を学ぶための教育ではない(アメリカのディベート教育も論争に勝つためのテクニックを重視するきらいがないではないが)。ディベート教育の真の目的は学生にフェアで論理的な思考力を身に付けさせるためのものでなければならない。マスコミの主張も、論理的かつフェアでなければならないことは言うまでもない。
 したがって真の意味で民意が反映されるような選挙制度を確立することが、最高裁判決に応える国会の最大の責務であることをマスコミは国民に訴える義務がある。国会の責務は単なる数合わせで「違憲」の基準とされた「一票の格差」を是正すればいいというものではあるまい。
 もちろん、総選挙が目前に迫っているという状況であれば、とりあえず「一票の格差」を解消するための0増5減を最優先し、そのための区割り作業を与野党協力して一刻も早く国会で成立させなければならないのは当然である。
 だが、0増5減を最優先せよと主張するなら、同時に区割り作業を終えたら直ちに衆院を解散し、改めて国民の民意を問うべく総選挙を行え、とも主張すべきだろう。それが論理的かつフェアな主張というものである。
 読売新聞社説氏の頭の悪さを論理的かつフェアに検証してみよう。
 0増5減の区割り法案は自民にとって極めて有利な選挙制度改革である。自民の石破幹事長は「0増5減は自民にとって不利な区割りになる」と主張するが、そんなレトリックに騙されてはならない。仮に5減される議員のすべてが自民党所属だったとしても「一人別枠方式」が温存される限り、地方を選挙基盤としている自民にとって有利な制度下での選挙が今後も続く。自民が抜本的な選挙制度改革を後回しにして、とりあえず「一票の格差」を「違憲」基準内の2倍未満にしたら、それで選挙制度改革の幕は間違いなく閉じる。再び2倍を超える格差が生じたら、その都度区割り作業で格差を2倍未満にする「選挙改革」が間違いなく常態化する。そんなことが社説氏には読めないのか。バカと言われても反論できまい。
 もし完全に有権者数に比例して選挙区の区割りを行えば、圧倒的に都市型政党(現段階では維新やみんな)が有利になる。そして民主主義が多数決を前提とする限り政治は大都市重視になる。だから私はこのブログの初めに民主主義には欠陥があることを明らかにしている。しかし、その多数決の欠陥を補う方法は、地方を選挙地盤としている自民にとって有利な選挙制度によって補うという姿勢は、明らかに自民の政党エゴである。
 そもそも読売新聞は民主政権の時代には野党の自民に批判を集中していた。今度は自民が政権の座についたから野党になった民主を批判するというのか。そこにはジャーナリズムとしての矜持も、権力に対する警戒心も何もない。あるのは権力にすり寄るといった戦前・戦中の姿勢そのものだ。
 社説氏は「6月の会期末まで、時間は限られている」「緊急処置として自公提案の法案を成立させるべきだ」とのたまう。
 確かに今夏の参院選を考えると、通常国会の会期を延長することは不可能だ。だが、ことは参院選の区割り問題ではない。別に参院選までに決めなければならない問題でもない。どっちみち参院選で自公が勝てば、ねじれ状態は完全に解消する。民主など野党がすじを通して選挙制度の抜本改革にこだわるなら、すじを通させればいい。
 当然、衆院選の選挙制度改革は、参院選での与野党の大きな争点になるだろう。その結果、与党が勝って国民が「0増5減」案を支持すれば、国民が選挙制度の抜本改革を拒否したことになる。たとえ、その選択が間違ったものであったとしても、国会は国民の選択に粛々と従えばいい。つまり秋の臨時国会で決着が自動的につく話だ。
 社説氏は、国民が自らの意志でどういう選挙制度の改革を望むか、そのための正確な情報を提供するだけでよい。つまり、参院選で自公が勝てば、最高裁が国会に要求した「一人別枠方式」の廃止を、国民が拒否することを意味する、という厳然たる事実だけを国民に伝えるのが、現時点での社説氏の果たすべき最善の使命だ。社説氏の責任は、それ以上でも、それ以下でもない。少なくとも現時点においては……。

 

アメリカは勝手すぎないか。日本はTPP交渉参加を新しい国づくりのチャンスにせよ。

2013-04-08 07:05:16 | Weblog
 今回は大変長く、重たいブログ記事です。読むのに大変疲れると思います。しかし、これからの日本の形はどうあるべきかを、TPP交渉参加問題をテーマに皆さんと一緒に考えたいという思いで書きました。私が知る限り、この視点でTPP問題を考えている政治家もジャーナリストもいないはずです。これまでも私はみなさんの既成概念や常識的な考えに挑戦するブログを書き続けてきました。新しいブログを投稿するたびに訪問者が増えていっている状況が、皆さんから私のブログが興味を持たれていることを証明していると自負していますが、とくに今回のブログは誠心込めて書き上げました。正直私自身がへとへとになるほど疲れました。しかし投稿直前の今、私はかつてなかったようなすがすがしい疲労感を味わっています。ではよろしく。

4月5日、安倍内閣はTPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加に向けて「政府対策本部」(本部長=甘利TPP担当大臣)を設置することを決定した。日本が本腰を入れてTPP交渉に参加する体制を整えたことで、米オバマ大統領は小躍りしているだろう。
 オバマ大統領は日本をTPP交渉に参加させるために、先の日米首脳会談でも安倍首相を躍起になって説得した。世界第3位の経済大国・日本がTPP交渉に参加しないと、TPP交渉はアメリカの主導権がだれの目にも見え見えになってしまい、他のTPP交渉参加国の足並みが乱れかねないからだ。はっきり言えばオバマ大統領は日本を巻き込み、同意を取り付けることによって、アメリカの「自由競争主義」(かつては「グローバル化」と呼ばれたこともあり、ヨーロッパ諸国から猛反発を受けたアメリカ流自由競争を意味する)を、TPP参加諸国に押し付けようとしている。そのため日本の協力が何が何でも必要なのだ。
 私は、これまで何度も日本は「聖域なきTPP」を目指すべきだと主張してきた。その考えに変わりはない。が、アメリカが目指しているのは真の意味の自由競争世界を生み出すことではなく、自国が有利な分野は例外なき自由競争を、自国に不利な分野は自国にとって有利なルールを他国に採用させようという、これ以上ご都合主義な話はない勝手気ままな考えが根底にある。はっきり言ってアメリカの驕りとしか言いようがない。
 例えば、自動車。アメリカは日本の乗用車に対しては2.5%の関税をかけている。日本は輸入車に対しいっさい関税をかけていない。ま、2.5%程度の関税なら日本の自動車メーカーにとってそれほど競争力を削がれるような関税障壁ではない。が、日本の自動車メーカーがアメリカに工場進出しているのは、この2.5%の関税逃れのためではない。アメリカで売る車は基本的にはアメリカで作ってやろうという、日本側の思いやりの結果である。そうしてやらないと本当にアメリカの自動車産業は壊滅してしまうからだ。
 一方、アメリカは日本製のトラックに対しては25%もの高率関税をかけている。ほとんどの日本人は、その理由がわからないだろう。
 実はアメリカは日本の道を走っているようなトラックが恐いのではない。アメリカ映画をご覧になったらお分かりのようにアメリカで高速道路を走っているトラックは馬鹿でかくて、日本の自動車メーカーはあんなトラックを作ったりはしないし、作りたくても、そういう技術を培ってきていないから競争できるような状態ではない。アメリカの自動車メーカーが一番恐れているのはピックアップという、日本でいう軽トラックのようなタイプのクルマなのだ。
 日本にもピックアップタイプのトラックはある。が、日本での利用法は作業用の軽トラックとほとんど変わらず、ヒット商品になったこともない。
 が、アメリカでは事情が違う。アメリカでは作業用として荷台に作業道具類や荷物を載せているケースのほうが少ない。アメリカでは主にパーソナルカーとして乗用車的な利用法が中心で、ほとんど荷台には荷物を載せずに走行している。荷台に荷物を載せるときは、レジャーに出かけるときにレジャー用品を載せたり、後部にトレーラー(キャンピングカーなど)をつないで遠出をするようなケースが圧倒的である。つまり商用ではなく通勤・通学・レジャー・ショッピングなどの用途が圧倒的に多いのだ。実際2002年の調査によれば、販売されたピックアップのうち商用としては約19%しか使用されていないのに対し、約77%が個人用として使われているというデータが明らかになっている。
 そうした市場を反映してか、ピックアップのレースも盛んで、人気も高い。それはそれで、大型高級車と同様アメリカ人のクルマ志向の一種であり、日本がとやかく言うべきではないし、言う必要もない。実際アメリカのピックアップ人気はわかっていても、日本国内で生産して輸出しようとしたら25%もの関税の壁に阻まれて太刀打ちできるわけがなく、2006年にはトヨタがピックアップの現地生産を始めたほどである。なぜ、アメリカではピックアップがそれほど大きな市場になったのか。その答えを書く前に、アメリカが日本の自動車行政に対して口を出しているケースについて書いておこう。
 アメリカが日本の自動車行政に文句をつけているのは、軽自動車に対する税制面などでの優遇策に対してである。
 日本では軽自動車は660cc以下の4輪自動車を指すのが一般的だが(軽4輪)、125cc超250cc以下の2輪車も軽自動車の範疇に入る(軽2輪)。また数は少ないが軽3輪もある。自動車税は地方税なので各市町村は標準の1.5倍までの額で税額を決めることができるが、軽乗用車(5ナンバー車)の標準税額は自家用で7200円(業務用は5500円)である。
 これにたいし660cc超の乗用車の自家用(いわゆる白ナンバー)の標準税額は最も安い1.0リッター以下でも29,500円で、アメリカでは主流の大型乗用車は4.5超6.0リッター以下で88、000円、6.0リッター超は111,000円もする。
 アメリカは日本に輸出するために軽自動車を開発するといった発想そのものが最初からない国である。彼らの発想は、大型のアメ車が日本で売れないのは、軽自動車が「不当に安価な税金で優遇されているため」というものである。別に日本は日本製の軽自動車だけを優遇しているわけではなく、戦後の日本経済の発展と国民生活の向上を促進する消費財普及の柱を自動車と家電製品に据えたことによる。そうした日本の経済政策は、アメリカにとって不利だからけしからん、と彼らには見えるようだ。
 さてアメリカでなぜピックアップが大衆的人気を集めたかを説明する番だ。もともとアメリカでもピックアップは古くは農場で使われていた作業用のクルマだった。アメリカでも自動車税は地方税(州税)で、農業保護の政策の一環として州によってピックアップが無税か優遇課税されていたため、所得の少ない若者たちが飛びつき、それが一種のファッションになったというのがブームに火をつける結果になったのである。このファッション化は当然のことだが、ニューヨークなどの大都市から始まったわけではなく、中西部や南部などの農業が盛んな地方から始まり、都市にまで広がっていったという経緯がある。その結果、ピックアップはアメリカ人にとって奇妙なステータス・シンボルになってしまった。
 実は私もいい年をして普段はくズボンはジーンズである。ジーンズ禁止のようなところ以外は、かなり高級なホテルや飲食店、デパートなどに行くときもジーンズが私の「外出着」である。私がほぼ毎日行っているフィットネスクラブも、年配者の男性はジーンズが圧倒的に多い。アメリカ人のピックアップと同様、私たちにとってはジーンズがかっこいいのである。
 おそらくアメリカが日本と同様、自動車税を自家用と業務用に分けて、農作業用のピックアップには優遇税制にするが、自家用ピックアップは乗用車と同じ税率にしていたら、ピックアップがアメリカ文化になったりしていなかったであろう。所得の少ない若者たちが飛びついたりしなかったはずだからだ。
 アメリカが日本の軽自動車に対する優遇税制にくちばしを挟むなら、日本はアメリカのピックアップに対する優遇税制を問題にすべきだ。「アメリカが日本で売れるような軽自動車を作ればいいじゃないか」という反発が間違っているとは言わないが、それよりアメリカが自国のピックアップの自動車税を優遇し、しかも作業用だけでなく自家用にも適用しているのは平等税制ではない、と批判したほうが有効である。今回発足したTPP政府対策本部はそういう視点を持って、アメリカの自己中心な「自由競争主義」の欺瞞性を暴いてほしい。
 と思いたいが、日本のばかな政治家にそういう論理的思考能力を期待するのは、ないものねだりでしかないか。

 では日本はいかなる方針でTPP交渉に臨むべきか。安倍首相はつねに「国益に反するような妥協はしない」と断言している。そもそも先の総選挙で自民が大勝したのは「聖域なきTPP交渉には参加しない」という公約をばらまき、党内の反対でマニフェストには入れなかったが野田前首相が公言していたTPP交渉への前向きな姿勢の民主が地方で惨敗したのが最大の理由であった。
 だから、自民が大勝したとたん、安倍首相が舌の根も乾かぬうちにTPP交渉への姿勢を一変させたことに対する農業関係者や医師会の失望と反発が激しく燃え上がったのも無理はない。
 いや、民主内部で総選挙大敗の責任を取らされた野田前首相の怒りは、そんなものではないだろう。だから私は今年1月11日投稿のブログでこう書いた。

「ふざけるな! !」
 民主・野田前総理は今歯ぎしりしているだろう。
「そんなの、ありか!」
 そう思っているかもしれない。
 総選挙における公約(マニフェスト)とはそんなに軽いものなのか。選挙に勝つためなら、どんなウソをついてもいいのか。政党や立候補者が選挙に勝つことだけを最優先してポピュリズムに走るから、政治に対する国民の不信感が募るのだ。
 無党派層が増大の一途をたどり、投票率が低下していくのは朝日新聞社説氏が主張するように民主主義の危機ではなく、健全な民主主義を実現するための国民の積極的な意思表示なのである。そのことは前回のブログで書いたが、「社会の木鐸」を自負する新聞社自身が誤報や誤った主張・解釈を読者から指摘されても知らん顔をして、読者に謝罪もしなければ、訂正記事を掲載することもしないのでは(※)、新聞社自身が健全な民主主義を育てる役割を放棄し、逆に足を引っ張っているといわざるを得ない。

 ※ 実は以前に某大新聞社の幹部OBと飲んだ時、私が日ごろから抱いていたこの新聞社の姿勢についての疑問を問いただしたことがある。彼はまことに誠実に新聞社の実態を教えてくれた。
「誤報が隠せなくなった時(たとえば他のマスコミによって暴露された時など)はかなり大きなスペースを割いて誤報であったことを明らかにして謝罪する。しかし隠しおおせたときは間違いなく知らんぷりをして、読者に気づかれないように後からそっと真実を報道する。新聞は実は相当多くの誤報をしている。全新聞社が一斉に誤報をしたのは松本サリン事件の時だ。この誤報の原因は警察の誤認逮捕とリークの裏付けを取らず犯人と思い込んで報道してしまった、誤報が生じる典型的なケース。これは大本営発表をうのみにして裏付けを取らず誤報を繰り返してきた戦前・戦時中の新聞社の姿勢が全然変わっていないことを意味する。なぜそうなってしまったのか。新聞記者自身が自分たちの責任ではなかったと思っているからだ。大本営が発表したから報道したまで、という居直りの姿勢を真摯に反省していないため、その後も誤報の責任は自分たちにはないと居直っていることが、誤報がなくならない大きな要因の一つだと私は思っている。もう一つ、誤報をいちいち訂正していたら、読者の信頼を失ってしまう。当然新聞の購読者が減るだろうし、誤報した記者の責任問題も生じる。新聞社もかばいあいの世界なんですよ。誤報をして知らんぷりの記者を告発などしたら、明日は我が身ですからね。結局自分を守るために仲間も守る。はっきり言って新聞社の体質は戦前・戦中と何も変わっていない」
「では間違った主張をした場合は?」と私は重ねて問うた。
 彼は、一瞬黙したが、腹をくくったようにこう答えた。
「主張の訂正は絶対しない。とくに社説での主張の訂正は新聞社にとって自殺行為ですからね。ただ、訂正はしないが、ある程度時間差を置いてこそっと前とは違う主張の社説を書くケースは、そう多くはないけどある。新聞社の良心なんて、そんな程度のものですよ」

 これはすでにブログで描いたことだが、私は読売新聞読者センターと大喧嘩したことがある。その結末については今年1月26日に投降したブログ『読売新聞読者センターはついに「白旗」を挙げた!!』で皆さんに報告したので繰り返さないが、誤報より悪質なのは、論説委員が自分の勝手な思い込みを正当化するために意図的な誤った主張をする社説である。社説は誰かが勝手に書いて、だれのチェックも受けずに紙面に載る記事ではない。事前に論説委員室の会議で話し合って主張の趣旨を決め、そのあとは論説委員の誰かが原稿を書く。その原稿も何人かの論説委員の目を通してからでないと活字にならない。だからよほどの突発的な大事件が深夜に発生しない限り、社説記事が決定するのは新聞発行日の午前1時前後である。「決定」と書いたのは、記事そのものは少なくとも0時前に完成しているのだが、これでいいという責任者による最終的判断が下されるのが午前1時前後という意味である。
 今年に入ってからも読売新聞と朝日新聞は社説でとんでもない主張を行った。すでにブログに書いたので、お忘れの方は読み直していただきたい。読売新聞については2月18日投稿の『読売新聞社説は剽窃だった。日本経済新聞社説は日本への警戒心をあおるだけだ』で書いた。朝日新聞については3月31日に投降した『「一票の格差」問題に対する全国紙の主張はすべてでたらめだ!!』で書いた。このブログ記事はかなり長いので、冒頭に書いた朝日新聞の社説批判と、最後に読売新聞読者センターにFAXした朝日新聞社説に対する批判の結果を転記した部分(要点のみ)だけ読んでいただければ十分である。朝日新聞は社説の主張を翌日朝刊1面トップ記事の解説という形式をとって完全にひっくり返した。朝日新聞の読者で何人がその事実に気づいたであろうか。いやそもそも朝日新聞の社員すらほとんど気づかなかったのではないだろうか。このケースは朝日新聞にとって空前絶後と言ってもいいかもしれない。

 TPP問題に戻ろう。
 TPP問題について、現在表立った反対運動をしているのは農業団体と医師会である。漁業団体はもう諦めているのか、内部に魚介類の輸入業者のほうが多くて国内の漁業者の声が反映されなくなっているのかだと思う。
 まず農業団体のTPP交渉参加反対運動だが、この問題については何度もブログで書いてきたし、TPP問題が生じるはるか前、事実上、最後のガットになったウルグアイ・ラウンドで日本がコメの自由化を迫られ、ミニマム・アクセス(最低輸入量)を約束することで778%という高率関税で事実上コメの輸入阻止を果たした時、私は『日本が欺く米 ブッシュが狙うコメ』と題する本を上梓し(1991年11月、青春出版社)、「食料自給率を高めることは日本の食糧安全保障をかえって危うくする」という主張を展開、その後もTPP問題に絡んで同様の主張を何度も書いてきたので繰り返さない。
 ただ基本的な要点だけ述べておくと、農業団体は「食料自給率が低まると、輸入先が飢饉に襲われた時日本の食糧安全保障が脅かされる」という主張をしているが、飢饉に襲われる可能性は日本にもあり、だから食糧安全保障を確実にする最善策は、日本人が好む短粒種のコメを世界中の短粒種コメ栽培適正地に技術供与して日本の食文化を世界中に広めていくことである。それに成功すれば、世界中が大飢饉に襲われない限り、日本の食糧安全保障はより高まることは確実である。農業団体が主張する食糧安全保障の真実は、零細農家の生活保護が目的なのである。専業零細農家が日本人口の何%を占めているかを考えたら、彼らの救済は農業保護政策によるべきではなく、生活保護法で守るべきだ、というのが私の繰り返してきた主張である。安倍首相が言う「国益」とは、日本人の大多数の犠牲の上で農家への過保護を続けることではないだろうというのが私の基本的立場である。
 ではもう一つの、TPP交渉参加に反対している医師会の主張について考えてみよう。まず(社)日本医師会(以下「医師会」と記す)が3月15日に発表した公式見解の重要部分を抜粋しておこう。

 日米共同声明では「TPP交渉参加に際し、一方的にすべての関税を撤廃することをあらかじめ約束することを求められるものではないことを確認する」とありますが、TPPに新たに参加する国に対しては、①合意済みの部分をそのまま受け入れ、議論を蒸し返さないこと、②交渉の進展を遅らせないこと、③包括的で高いレベルの貿易自由化を約束すること、という条件が付されていることも判明し、TPP交渉で日本の公的医療保険の給付制度が縮小する懸念はなおも消えません。

 これだけでは医師会が具体的に日本の医療制度がTPP交渉参加になぜ反対するのかが読者にはよくわからないだろう。
 TPP交渉参加国の中で高度な医療技術を有している国はアメリカだけである。はっきり言ってしまえば、高度な医療技術を誇るアメリカの医療機関が日本に入ってくることに対する恐怖感が、TPP交渉参加に反対する医師会の本音なのである。
 なぜアメリカの医療技術が世界でダントツに優れているのか。これもはっきり言ってしまえば、アメリカは基本的に弱肉強食の世界であり、アメリカの医療の世界も弱肉強食の原理によって高度な技術的発展を遂げてきた。またアメリカは基本的に自由診療の国であり、高度な医療技術(医療機器を含む)を開発すれば、必ずニーズが生まれる。日本の場合は国民皆保険制度が足かせになって、保険医療の対象になりにくい高額な医療技術や医療機器の開発が進まないという事情がある。医療の在り方が根本的に問われる問題ではある。
 このアメリカの医療界の事情は、儒教社会の残滓がまだ社会的規範としてかなり残っている日本人には理解しにくいことだが、この日米の社会的規範の本質的差異を理解しておかないと、本当の意味で日本の国益を創り出す(「守る」ではない)TPP交渉参加は難しくなる。
 アメリカには建国以来、長い間、公的健康保険制度がなかった。歴代民主党政権は公的保険制度の導入を試みてきたが、共和党の反対にあって実現できなかった。クリントン大統領の時代にもヒラリー・クリントンが公的健康保険制度を導入しようと奔走したが失敗に終わっている。
 ようやくオバマ大統領が共和党を説得し(というより共和党との妥協の産物として)公的健康保険制度の導入に成功したが、日本のような国民皆保険制度ではない。日本の制度との基本的な違いは二つある。公的健康保険制度に加入するか、従来からある民間の健康保険に加入するかは加入者の自由選択にまかされたこと。もう一つは医療機関に公的健康保険で医療を行うことを義務化しなかったことである。
 実はこの二つの条件は日本にも従来からあることはあった。例えば、1957年から25年の長期にわたって日本医師会会長を務め、「天皇」の異名さえ持った故武見太郎氏が銀座に開いていたクリニックでは保険診療を行わず、医療費は患者が自分で勝手に決めてボックスに入れていたという実話は武見伝説の一つとしてつとに知られている。そのため貧乏な人からは日本最高の先生にタダで診てもらえると、「情けと涙の太郎」とも呼ばれていた。
 一方開業医の利益代弁者として(医師会会長職にあったから当然といえば当然だが)厚生省官僚と闘って一歩も引かず「喧嘩太郎」とも呼ばれていた。武見氏が厚生官僚とケンカした最大の問題は、厚生省の医療政策の一つとして、47都道府県のすべてに最低でも医科大学を一つは作るという方針を打ち出した時である。ある雑誌の対談で武見氏はこう語っている。
「全都道府県に医科大学を作ることで、医師の質が低下するのではないかという心配が出ていますが、それより10年後には医者の失業者がおよそ15万人から20万人出ることのほうが、大きな問題なんです。これは日本の医療界の大問題に発展します」
 実際には、武見氏の心配は当たらなかった。むしろ小児科医や産婦人科医の不足が現在の日本の医療界の最大の問題になっている。
 ただ武見氏の心配は外れたが、なぜ武見氏がそういう心配をして、なぜ武見氏の心配が外れたのかをきちんと検証しておく必要はある。
 武見氏の心配が外れたのは医療技術の急速な進歩によって日本人の寿命が延び、開業医(とくに内科・整形外科・眼科クリニック)の「お得意先」である高齢者患者が増えたことにより、医者の失業問題が生じなかったという事実が証明している。その一方、夜間の救急医療が多い小児科や産婦人科の医師のなり手が減少し、武見氏が医者失業時代の到来を心配していた当時はいちばん儲かっていた歯科医が急増し、コンピニ並みに歯科クリニックが増えたのに、少子化時代の到来で歯科医にとって最大の「お得意先」だった子供の患者が激減し、しかも歯磨きの進歩や母親が子供に甘いお菓子をあまり与えなくなったことで、子供が虫歯になる確率が低下するというダブルパンチが歯科医を襲ったため、歯科医の競争は極めて厳しいものになっている。
 そもそも患者を「お客様」扱いするようになったことは、ある意味では当然のことである。最近大病院でも「患者様へ。医師や看護師への心付けは当院ではお断りしております。お気遣いなきようお願いします」といった張り紙を病棟の掲示板に貼っているところが多くなった。アメリカでは、とくに開業医は診療が終わって患者が帰るとき「サンキュー」と言う。金を払うのは患者なのだから、金を貰う医師が患者にお礼の言葉をいうのはアメリカでは当たり前なのである。医者だけではない。大学の教授も授業が終わったとき学生に「サンキュー」とお礼の言葉をいう。自分の生活を支えてくれているのは、授業料を払う学生だという考え方がアメリカ社会には根付いているのである。これが、ビジネスは自由競争、というアメリカの社会的規範になっている考え方なのだ。そして、こうした考え方の根本にはキリスト教、特にプロテスタントのルター派の思想がアメリカの社会的規範を形成してきたという経緯がある。
 こうしたアメリカ流自由競争主義に対して日本は徳川家康が、徳川政権を盤石なものにするために、儒教を国教に定めたことが日本の社会的規範を形成してきたという経緯がある。だから日本では、アメリカのビジネス感覚からすると考えられないことだが、金を払う側が金を貰う側に対して「先生」と呼ぶ特殊な職業がいくつかある。たとえば学校の教師、医者、議員、弁護士、税理士、司法書士、作家や芸術家などである。それだけではなく有名な歌手や俳優・タレント、エクササイズのインストラクターに至るまで日本では金を貰う側が金を払う側から「先生」と呼ばれて、それが当たり前であるかのような感覚が双方に定着している。まず日米間の諸問題を考えるとき、そうした社会的規範の相違を前提に考えていかないと、妥協点を見いだすことは困難になる。
 そうした社会的規範の相違を基本において、TPP交渉に日本が参加した場合、日本の医療制度がどう変わるかを考えてみよう。
 医師会の本音は、高度な医療技術をもつアメリカの医療機関が日本に乗り込んできた場合、患者が奪われるのではないかという危機感が背後にあることは否定できない。どんなきれいごとを言おうと、武見「天皇」以来、医師会は医師が患者に君臨するための医師優位の社会構築に全力を挙げてきた。医師会はいわば「開業医労組」のような存在であることは否定できない。
 しかし厚労省(旧厚生省)が医師会の言いなりになってきたわけではなく、私が知る限り日本の保険医療制度は世界で最も患者中心のシステムになっていると言っても差し支えないだろう(医療費無料という国は別にしてだが)。
 日本の健康保険制度はかなり複雑だが、このブログで日本の保険制度を解説する必要はないだろう。いちおう被保険者の自己負担額は原則3割で、前期高齢者(70歳以上75歳未満)は2割、後期高齢者(75歳以上)は1割負担ということになっている。ただし現在は経過処置として前期高齢者も1割負担が原則で、前期・後期を問わず現役並みの収入がある被保険者は3割負担が義務づけられている。これが世界に誇る日本の国民皆保険制度で、保険料は収入に応じて負担し(そういう意味では所得税と同じ)、高額所得者も低所得者も例外なく保険が認められている範囲の医療を受ける権利がある。
 ただし、日本では平等な医療制度を維持する目的もあって、厚労省が認めていない保険外の高度の医療を受ける場合は、保険で認められている治療も保険が適用されず、すべて自己負担になる。医師会は、日本がTPPに参加した場合、アメリカの要求によって混合診療が導入されるのではないかと主張する。「混合診療」というのは、厚労省が保険で認めていない高度な(ということは高額な)医療を受ける場合、現在はすべて自己負担になるが、保険が適用される医療は保険を適用し、保険医療が認められていない医療のみ自己負担にするという制度である。
 実はアメリカの場合、基本的に自由診療が原則である。オバマ大統領が導入した公的健康保険制度も、いかなる医療も保険でカバーするというわけではなく、公的保険が適用される医療には日本と同様制限がある。公的保険制度がなかった時代はアメリカ人は民間の保険会社に加入する必要があり(それも義務化されているわけではない)、民間の保険会社は加入者が払う保険料に応じて限度内の医療費は全額保険会社が支払う。つまり自己負担は原則としてない。ただし、限度を超える医療費は全額自己負担になり、医療の高度化によって医療費も高額になり、それに伴って保険料も高額化したり、保険金の支払いが多い加入者に対しては保険継続を拒否されることもある。その結果、国民の6人に1人が民間の保険会社に加入できない状態になった。オバマの健康保険改革もそうした時代背景を受けて国民から支持されたという経緯がある。ただし州政府がかなりの自治権をもっているアメリカでは、オバマの健康保険改革が憲法違反だと提訴する州が相次ぎ(理由は保険料の強制徴収など)、フロリダ州では憲法違反の判決が下り、実効性が疑問視されている。
 いずれにせよ、賛否はいろいろあると思うがアメリカは基本的に自由を重視する国であり(民主党の長年の懸案である銃規制もままならないくらいだ)、その代わり自己責任が原則の国だということを医療問題についても理解しておく必要がある。これは日本がTPPに参加する場合、そうした考え方をどの程度受け入れるかを決めなければならない話なのである。そうした基準以外に「国益」なるものなど存在しない。「国益」の話は後でもう一度する。
 とりあえず日本がTPPに参加した場合、国民皆保険制度と診療制度がTPP合意によってどう変わるかを考えてみよう。アメリカがアメリカ型の自由診療制度を日本に要求したりしないことは医師会も認めている。医師会が心配しているのは自由診療制度になることではなく、混合診療制度になることである。それが日本人にとってメリットが大きくなるのかデメリットが大きくなるのかという問題である。
 実は日本が抱えている健康保険制度の問題は年金制度と同じなのだ。健康保険は年金と制度的に関連しており、社会保険としての健康保険は厚生年金と一体化しており、国民健康保険は同じく国民年金と一体化している。そして社会保険としての健康保険は厚生年金と同じく、会社が保険料の半分を負担している。そして保険料も年金も収入に比例して徴収される仕組みになっている。その点だけが国民健康保険と違うのだが、国民健康保険料は収入に比例して徴収されるが、年金は収入と無関係で定額である(25年度は月額15,040円)。一方支払う医療費は社会保険としての健康保険も国民健康保険も自己負担は3割だが(70歳未満)、貰う年金は厚生年金の場合はそれまで支払ってきた年金に比例するが、国民年金の場合は満額(20~40歳まで40年間納めた場合)で年786,500円(24年)だった。なお年金支給額は物価などによって変動する。
 ご承知の通り、少子高齢化に歯止めがかからない状況の中で、年金制度が崩壊するのではないかと心配されている。年金受給資格はこれまで60歳になれば生じていたが、厚生年金の場合は受給開始が65歳に延長され、それに伴って無収入状態になる5年間の空白を埋めるため定年を65歳に延長することが義務づけられた(希望者に対して)。高齢者はそれで助かるだろうが、ただですら就職難状態が続いている新卒者の就職率がさらに低下することは間違いない。つまり年金世代を支えてくれなければならない若者が、支えきれない状態になることが避けられないことを政治家は分かっているのだろうか。無党派層や政治無関心層が多い若者は票にならないが、高齢者は票になるから、とりあえず高齢者の生活を守れば政権が持つという発想しか日本の政治家にはないようだ。
 さらに日本の将来にのしかかってくるのが、まだ社会問題化してはいないが、間違いなくそう遠くない将来、健康保険制度は崩壊する。国民の大半は山中伸弥教授のips細胞発明に浮かれ、実用化への期待を高めているが、現在の健康保険制度を維持する限り日本ではips細胞実用化の恩恵を受けることはできないだろう(自費治療なら別だが)。保険でips医療を行えるようにするには保険料を今の倍にするか、自己負担を3倍から5倍に引き上げるしか方法がないからだ。日本人が発明しノーベル賞も受賞したほどの革新的な発明なのに、肝心の日本が実用化研究でアメリカに後れを取っているのは、先に述べたように保険の対象にならない限りニーズが生じないからだ。
 かといって保険料を大幅に増大したら保険料の半分を負担している企業が立ち行かなくなるから社会保険から脱退する企業が続出するし、とくに若い人たちの国民健康保険への加入者も激減する。本来国民健康保険と国民年金は一体的な制度だが、年金を払っても将来年金をもらえる保証がないからと、国民年金に加入しない若い人が増えている。かといって健康保険は人の命にかかわることだけに、国民健康保険は国民年金とセットだからと、国民健康保険だけ入るという人の加入を拒否できないのが現実である。当然国民健康保険料が高額になると健康な若い人は保険に加入せず、医療費がかさむようになる高齢者だけが国民健康保険に入る、という結果になることは目に見えている。健康保険制度が破たんするのは当然の帰結である。
 そうなることを恐れて健康保険制度を現状維持で続けると、保険医療の適用範囲を狭くするか、自己負担を4割、5割に増やすかしか方法がない。そうなると、低所得者は当然だが高額医療は受けられなくなる。
 実は私も2年ほど前テレビニュースで初めて知ったのだが、健康保険制度には高額医療費制度というのがある。長期入院したり、手術をしたりして高額の医療費がかかった場合、申請すれば一定額以上かかった医療費が健康保険から戻されるという制度だそうだ。そういう救済制度があるのに、役所の国民健康保険担当者も会社の総務担当者も、さらに病院などの医療機関も絶対に教えてくれない。だから、テレビニュースではこの制度があることを知っている人はテレビ局の調査によると成人の30%に満たなかったという。おそらく、この制度を知っていたのは公務員や医療関係者、その家族や友人たちだけだったのではないか。だから今日まで日本の国民皆保険制度が破たんせずに持ってきたと言える。
 だが、今ではほとんどの人がこの制度を知ってしまったと思われる。ニュースを見た人が口伝で知り合いに教えまくったからだ。実際、私はニュースを見て知っていたが、フィットネスクラブでたくさんの人から教えてもらった。その結果はおそらく早晩健康保険制度の破たんという形で現れるだろう。そして健康保険制度を維持するためには先ほど述べたように保険料を高額化するか、自己負担率を高めるか、それとも高額医療費制度を廃止するしか方法がない。少子高齢化に歯止めがかからない以上、健康保険制度を維持するためにはこの三つの選択肢しかないのである(三つを組み合わせるという方法はあるが)。つまるところ、医師会が反対しようがしまいが、結果的には日本の医療は混合医療への道を歩まざるをえないのである。その結果経営が成り立たなくなる開業医がたとえ続出しようともだ。

 このブログを終えるにあたって、先述した「国益」について私論を述べておきたい。
 私に言わせれば「国益」などというものは幻想の世界でしか存在しえない。例えば日本がTPPに参加した場合の損得勘定を政府は10年間で3兆円の経済効果があると試算し、内閣府もGDPが2.4~4.2兆円増加すると試算している。一方農水省は農林水産全体でGDPが4.57兆円減少し(農業関連だけだと4.1兆円減少)、雇用が約350万人分失われ、食糧自給率は現在の40%から13%に減少して食糧安全保障が危険水域に入るとしている。
 こうした試算が当たった試しがないのは、例えば国交省(旧運輸省・建設省・北海道開発庁・国土庁の統合によって設置)が計画した高速道路や鉄道(国鉄時代)、地域開発計画などの需要予測がすべて甘いものだったことで証明されている。つまりこうした場合に行う試算は計画を推進するための裏付けを作ることが目的なのだから、まず計画推進のためのコストを計算し(これは極力安価にできるかのような計算。実際には予算をはるかに上回る費用がかかっている)、そのコストを上回る収益が生じるように需要予測するのだから赤字事業になるのは当たり前の話だ。
 TPP参加の経済予測も。参加方針を貫きたい政府や内閣府が経済効果が高いと予測するのは当然で、農業団体の利益代弁省の農水省(その点は開業医の利益代弁省になっていない厚労省とは基本的スタンスが違う)が、デメリットのほうが大きいという試算を出すのは当たり前である。
 そういう場合、国益とはGDPの増減計算だけで決めるべきなのか、という基本的な国の姿勢が問われていることをまず考えるべきなのではないか。
 日本がTPPに参加するとしたら、何を最も重視すべきか、何を目的にするのか、をまず議論することから始めるのが政治の在り方ではないだろうか。それはこれからの日本の国の形を、子供や孫たち、さらにその子孫たちの時代のためにどう創っていくべきかを考えることを意味する。
 明治維新を実現した最大の運動エネルギーは攘夷運動だった。家康が征夷大将軍に補任されて徳川幕府が成立したのは1603年。3代将軍・家光が鎖国令を発布したのが1633年。ペリー率いる米艦隊が浦賀に強硬入港して幕府に開国を迫り、220年続いた鎖国を破って幕府が日米和親条約を締結したのが1853年。アメリカとだけ通商関係を結んで、当時一斉に日本に開国を要求していたヨーロッパ列強に対しては鎖国政策を続けるというわけにはいかない。翌54年にはイギリス、オランダ、ロシアとも通商条約を締結して日本は国際社会に素手で乗り出すことになった。圧倒的な軍事力を背景にした欧米列強と通商関係を結ばされた日本は、当然だが屈辱的な条約に調印させられることになった。こうした幕府の弱腰外交に国内から一斉に非難の声が上がった。徳川御三家の水戸藩士がその先陣を切ったくらいだから、当時の幕府に対する国民(もちろん武士階級だが)の怒りは激しく燃え上がるのは当然だった。こうして攘夷(外国人を排斥すること)運動が自然発生的に全国に広まったのである。
 水戸藩士が攘夷運動の先陣を切ったくらいだから、当初の攘夷運動は討幕を目的とはしていなかった。桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸浪士は、藩に累が及ぶのを避けるため脱藩したほどだった(水戸藩はその浪士たちを庇護した)。さらに新選組さえ攘夷派だったのだから、攘夷運動の性質は今日一般的に解釈されているようなものではまったくなかったのである。
 だが、燎原之火のごとく日本中に広がった攘夷エネルギーを、当時朝廷に大きな影響力を持っていた長州藩が巧みに利用した。長州藩は関ヶ原の戦いで西軍側につき(実際には大阪城に立てこもって関ヶ原には出陣しなかったが)、その責めを受けて領地の大半を奪われて以来、徳川家に対する恨みが遺伝子として長州藩士の心の隅に宿り続けてきたのである。で、長州藩は朝廷を担いで攘夷運動のエネルギーを倒幕運動に結び付けようと試み、それに成功したのが明治維新が実現した真相である。だから明治維新を実現した運動エネルギーを「尊王攘夷」と四字熟語でくくったのは歴史家の大きな誤りである。
 だから、明治維新が実現した途端、最大の運動エネルギーだったはずの「攘夷」が煙のように消えてしまったのはゼロがやるようなマジックではない。天皇制を確立した日本が、これからの国の形の在り方を「富国強兵」に定め、欧米から近代産業技術と近代軍事技術を導入し、国際社会の中で先進国の仲間入りを目指したのは、損得計算によってではなかった。
 いま日本は損得計算でTPP交渉に参加すべきか否かを考えている。そんな計算で、日本の将来を見据えた真の「国益」を創造することができようか。
 いま日本がTPP問題で最も重視すべきは、これからの国際社会の中で、どう日本の存在感を大きくし、発言力を増し、どのような新しい国際社会を同盟国と協力しあって創り上げていくかということではないだろうか。
 国土は狭い、資源もない(将来的には日本領海域の海底にあるとされている膨大な資源を手に入れる可能性はあるが)、軍事力はかなりのレベルにあるが憲法の制約で外交力としては機能しない、頼りになるのは経済力だけだが、これまで経済力を支えてきたエレクトロニクス技術は韓国に追い上げられ、家電分野では抜かれてしまっている。そうした状況の中で、どういう国づくりをするのか、そのことがTPP問題では問われている。そうした議論を国民レベルに広げていくのがマスコミの使命であるはずだ。そのことにジャーナリストが気付かず、政府の手のひらで損得勘定論に走っているのはいかがなものか。

 今朝(4月8日)の朝刊で、メキシコ政府が日本のTPP交渉参加を支持することを知った。メキシコも昨年末に参加が承認されたばかりで、日本の立場に理解を示してくれているようだ。だが、安倍首相にとってはまだ多くのハードルがある。TPP交渉参加に反対している農業団体や医師会は自民党にとって大きな票田である。彼らの反対を押し切って政府が交渉参加に踏み切っても、現在の参加国11か国すべての承認が必要となる。日本と貿易摩擦を生じていないメキシコが日本の参加を支持してくれても、日本が農業分野への過保護や健康保険制度の堅持にこだわり続けた場合、他の10か国がすべて承認してくれるという保証はない。というより無理だろう。
 日本が参加のスタンスをGDPにおける損得計算に置く限り、たとえ参加が認められても、TPP交渉での日本の発言力はほとんどゼロに近い。
 くどいようだが、改めて言う。軍事力という最大の外交手段を事実上行使できない日本が、国際社会で発言力を大きくすること、その最後のチャンスが今TPP交渉に参加することで訪れようとしている。そういう基本的な考え方を政府には持ってもらいたい。
 それが私たち世代が子孫に残すべき最大の遺産である。
 

長嶋、松井両氏への「国民栄誉賞」――国民をバカにするな !! 

2013-04-03 05:27:50 | Weblog
 長嶋茂雄氏と松井秀樹氏に国民栄誉賞が与えられることになった。ケチをつけるわけではないが、今回の褒賞には素直に喜べないものがある。
 長嶋氏については、巨人ファンではなくても受賞資格についての異論はどこからも出ないであろう。私自身巨人ファンではないが、長嶋氏はもっと早く、あえて言えば第1号の王貞治氏と同時受賞してもよかったのではないかとさえ思っている。確かに王氏には世界新記録の本塁打を放ったという記録が大きくものを言ったことが受賞の最大の理由であり、そういうたぐいの記録を長嶋氏は残していない。
 しかし、王氏の受賞後、国民栄誉賞は必ずしも記録を基準にしておらず、内閣総理大臣顕彰と国民栄誉賞の区別もあいまいになっていった。第一、国民栄誉賞はこれまで20個人1団体に授与されているが、そのうち12名は没後の受賞であった。世界の芸術家の中には、没後に作品が高く評価されるようになった方たちも少なくないが、たとえばノーベル賞は原則生存者にしか与えられない。ノーベル賞の場合、一人だけ例外がいるが、死後に研究成果が評価されるようになったためではなく、生前中に授与が事実上決定していたという事情があったためである。
 また国民栄誉賞を授与された没後の12名は、没後に生前中の活動が見直されたというわけでもなく、他界されたことが授与の契機になったとしか思えないケースが大半である。たとえば受賞第2号の古賀政男氏は没後10日目に、3号の長谷川一夫氏は没後13日目、4号の植村直己氏も死亡が確実視された後だったし、美空ひばり氏は12日後、長谷川町子氏は62日後、服部良一氏も27日後、渥美清氏は30日後、吉田正氏は27日後、黒澤明氏も25日後、遠藤実氏は47日後、森繁久彌氏は42日後だった。芸能界における唯一の例外は森光子氏で、生前の2009年7月1日に単独主演の舞台「放浪記」2000回という前人未到の記録が受賞の理由だった。
 芸能人以外はすべてスポーツ選手(「なでしこジャパン」だけが団体)で、今回で9人1団体になるが、大鵬を除き(大鵬は没後36日後に受賞)すべて生前の受賞である。そしてこれまでの受賞理由にはそれなりの「記録」が受賞理由とされてきた。
 王氏についてはすでに書いたが、2人目の山下泰裕氏は前人未踏の203連勝(引き分けを含む)、3人目の衣笠祥雄氏は連続試合出場の世界記録達成、4人目の千代の富士も、その後記録は並ばれたり破られたりしたが、幕内通算勝ち星記録、年間3度の全勝優勝、3場所連続全勝優勝などの記録を樹立した。また近くは吉田沙保理がレスリング女子55キロ級で世界選手権とオリンピックを合わせて13大会連続世界一を達成したし、大鵬は当時史上最多32回の幕の内優勝を達成している。
 スポーツ選手の受賞で問題になったのは、シドニー五輪の女子マラソンで女子陸上史上初の金メダルを獲得した高橋尚子の時だった。もちろん問題になったのは高橋尚子が受賞に値するか否かではなかった。五輪で2度、世界選手権で7度の金メダルに輝いた田村(現・谷)亮子はなぜ国民栄誉賞に値しないのかという批判が社会問題化するほど噴出したのである。
 スポーツ選手の従来の受賞理由からすれば、日本女子初の五輪陸上競技での優勝という価値の重みを考えると、まぎれもなく高橋のほうが上回っていたと思う。特に陸上競技を100メートルの短距離からマラソンまで含めて走る競技に限定すると、男女含めて高橋尚子の優勝は日本人の悲願であった。はっきり言って田村の偉業とは世界が違うほどの差があった。
 しかし国民感情には別の要素があった。「やわら」ちゃん(田村亮子の愛称)に対する国民的人気度の高さは女子スポーツ選手の中では別格だった。この国民感情をマスコミもバックアップした結果、政府はあえて国民栄誉賞と同格という「位置づけ」をしたうえで田村氏に「内閣総理大臣顕彰」を授与した。もちろん田村氏が「内閣総理大臣顕彰」に十分値する功績を残したことについては異論の余地はない。しかし、田村氏を急きょ国民栄誉賞に加えず、内閣総理大臣顕彰を授与した森内閣には、国民栄誉賞の基準に対する厳しいモラルが維持されていた。
 さてそういう国民栄誉賞についての基本的考え方からすると、今回の選定には大きな疑問を抱かざるを得ないと思うのは私だけだろうか。
 まず長嶋茂雄氏。彼は「記録より記憶に残る選手」と言われる。記録的には日本最高も世界最高も一度も実現していない。が、彼の人間性も含めて長嶋氏ほど国民的人気を集められる選手は多分二度と現れないだろう。「破られない記録」としては60連勝の双葉山より9連覇の巨人軍を率いた川上哲治氏のほうが、記録を基準にする限り国民栄誉賞に値するだろうと思うが、川上氏の名前が挙がったことは一度もない。
 さらに内閣総理大臣顕彰と、一応同格とされている国民栄誉賞だが、国民の関心事は内閣総理大臣顕彰より国民栄誉賞のほうがはるかに高い。安倍首相は長嶋氏に対し国民栄誉賞の受賞が遅すぎたくらいだと述べたが、国民栄誉賞には先に述べたような基準がある以上「記録より記憶に残る」長嶋氏の場合は、何かの機会をとらえて、たとえ彼一人だけという結果になったとしても「特別国民栄誉賞」を創設して与えるべきだったのではないだろうか。
 野球人として別格の長嶋氏に比べ、なぜ松井秀樹氏が国民栄誉賞に値するのか、私にはまったく理解できない。安倍首相は日米両国でMVPを獲得したと、国民栄誉賞の「記録的要素」を満たしたかのような主張をしているが、松井氏が日本で受賞したのはリーグのMVPであり、1年間のリーグ戦での成績に対する評価である。短期決戦の日本シリーズでのMVPなどとは重みがはるかに違う。アメリカでの、いわば日本シリーズに相当する短期決戦のワールドシリーズでたまたま大活躍して手に入れたMVPと同格に扱う神経が私には理解できない。
 日本のプロ野球選手には松井氏よりはるかに大きな功績を残した(残しつつある)選手はまだまだいる。たとえば今もヤンキースで活躍しているイチロー選手。彼は日米両国で史上初の首位打者になったとき国民栄誉賞の授与を打診されたが「まだ現役なので、もしいただけるなら引退した時に」と辞退した。またメジャーでシーズン最多安打の記録を更新した時も授与を打診されたが、同じ理由で断っている。
 さらに福本豊氏も、当時の世界記録をつくった通算盗塁記録を評価されて国民栄誉賞の授与を打診されたが、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と妙な理由で固辞している。国民栄誉賞に値するほどの実績など何も残していない松井氏は、もう少し「恥」という日本文化を学ぶべきではないか。
 授与を固辞したイチロー選手や福本氏ではなくとも、松井氏よりはるかに大きな実績を残したプロ野球選手は少なくない。
 例えば昨年引退した金本知憲氏は連続イニング、連続フル出場の世界記録を打ち立てている。すでに引退しているが、野茂秀雄氏はメジャーリーグで2回もノーヒット・ノーランを記録している。アメリカのメジャーリーガーですら彼を含めて4人しか実現していない大記録だ。金田正一氏に至っては通算400勝、通算4490奪三振の世界記録(当時)を達成している。少なくとも松井氏が残した成績より彼らが残した記録のほうがはるかに国民栄誉賞にふさわしいと私は思うが……。
 プロ野球だけではない。岡本綾子は全米プロゴルフで賞金王に輝いたし(このときは岡本に国民栄誉賞を授与すべきだという声も出たが、肝心のメジャーで未勝利だったため受賞を逃した)、冬季五輪で女子初の金メダルを獲得した里谷多英氏、女子フィギアスケートで初の金メダルを獲得した荒川静香氏も国民栄誉賞を受賞していない。
 記録ではなく人気を国民栄誉賞の基準にするというなら、いっそのことAKB48に与えたらどうか。若者たちの政治離れにも歯止めがかかるかも……。

 冗談はさておいて、改めて国民栄誉賞という褒賞の在り方について考えてみたい。そもそも王貞治氏が最初に受賞したのは、メジャーリーグに比べて3流クラスと見られていた日本のプロ野球選手が、世界のホームラン王になったことを、国を挙げて喜び誇りにしようではないかという発想から生まれた賞である。
 佐藤内閣の1966年にすでに設置されていた内閣総理大臣顕彰である「学術及び文化の振興に貢献したもの」など6つの表彰対象の中にスポーツ分野で活躍した人たちが何人もいた。ただ、王氏が国民栄誉賞を受賞した以前にスポーツ分野における内閣総理大臣顕彰を受けた個人や団体はすべてアマチュア選手・団体だった。具体的には五輪で活躍した日本男子体操チーム(団体)、三宅義信氏(重量挙げで五輪連覇)、遠藤幸雄氏(五輪3連覇した男子体操の中心選手)だけであった。つまりプロのスポーツ選手・団体の受賞歴がそれまでなかった。そのためより幅広く国を挙げて喜びを分かち合おうという趣旨で、福田内閣の時代に新たに設けられたのが国民栄誉賞なのである。そういった経緯から、二つの褒賞の間で混乱が生じるようになった。
 王氏が受賞するなら、当然長嶋氏にもしかるべき褒賞を授与すべきであった。だが長嶋氏は「記録より記憶に残る選手」だった。いかに国民的人気が高かろうと、与えるべき相当な褒賞制度がなかった。が、王氏のために作った国民栄誉賞が、内閣の人気取りのための道具になってしまった。そうしたのは誰あろう、内閣総理大臣顕彰は王氏には与えられないと判断した福田首相その人だった。支持率が急落した福田首相が人気を挽回するため、こともあろうに故人の古賀政男氏に国民栄誉賞を与えてしまったのだ。
 もちろん古賀氏を私はけなすつもりは全くない。氏は日本の演歌界を代表する作曲家であり、数々のヒット曲を世に送り出しただけでなく、多くの歌手を育てた日本歌謡界の第一人者である。だが、王氏のように世界記録を作ったわけではなく、文化・芸術の分野での貢献に対する褒賞であるなら内閣総理大臣顕彰がふさわしい。現に内閣総理大臣顕彰の6つの受賞対象の項目の中にすでに述べたとおり「学術及び文化の振興に貢献したもの」という項目が入っており(スポーツ分野での貢献は文字としては対象に入っていない)、古賀氏の貢献内容は王氏の場合と違って明らかに内閣総理大臣顕彰の範疇に入っている。しかし、古賀氏に内閣総理大臣顕彰を授与したところで、マスコミが大騒ぎしてくれそうもなく、マスコミが飛びつくに違いない国民栄誉賞をあえて古賀氏に授与した時から。二つの賞の関係がめちゃくちゃになってしまったのである。
 つまり、だれが考えてもおかしな分け方が、それ以降行われるようになってしまった。スポーツ界に関して言えば、プロゴルファーの岡本綾子氏が国民栄誉賞ではなく内閣総理大臣顕彰に仕分けされ、谷亮子氏も内閣総理大臣顕彰に回されてしまった。国民栄誉賞を固辞したイチロー氏や福本豊氏は別としても、野茂秀雄氏や金田正一氏、金本知則氏などが何の褒賞も受けていないのは国民的人気がいまいちだからなのか。だったら、それほど人気があったとは思えない衣笠祥雄氏が国民栄誉賞を受賞できた理由はどこにあるのか。
 芸能界に目を転じても、長谷川一夫氏や藤山一郎氏、美空ひばり氏、渥美清氏などが国民栄誉賞を受賞して、石原裕次郎氏や黒柳徹子氏などそうそうたる人たちがどちらの賞も受賞していないのはなぜか。史上初の7大タイトルを独占した棋士の羽生善治氏が、なぜ国民栄誉賞ではなく内閣総理大臣顕彰なのか、合理的な説明がつくわけないだろう。
 はっきり言って、長嶋氏は「なぜ、今頃になって国民栄誉賞なんだ。俺は今、この賞に値することなど何もしていない」と怒りをたたきつけるべきだ。
 一方松井氏は「私より先にもらうべき人たちがたくさんいる」と受賞を固辞すべきだ。「今私がもらったら、日本の恥だ」と、そのくらいのことを言ってほしい。
 そして二人がそういう毅然たる姿勢を示せば、国民栄誉賞が内閣の人気取りの道具とみられるような状況にストップがかかり、改めて内閣総理大臣顕彰と国民栄誉賞を一本化して、国民が等しく納得できる褒賞制度に変えるべきだ。そして、その中には言うまでもなく、医療革命を起こす可能性に大きな国民的期待が寄せられているips細胞の発明者・山中伸弥氏も含まれるべきだろう。