小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。③

2014-07-08 04:55:28 | Weblog
 やっぱり権力争いだったのか。東京女子医大の医療事故のことだ。私は6月11日に投稿したブログ『混合医療解禁は日本の医療技術を飛躍的に高めるチャンスになる。私は条件付きで賛成する』で、その可能性を指摘した。過去のブログの中間で挿入した記事を見つけることができたのは偶然である。毎日いろいろな問題を取り上げていると、タイトルか書き出しの部分で書いていないと、いつブログで書いたのか思い出すのは困難だからだ。その個所を転記する。
「今月、東京女子医大病院で、2歳の男児に人工呼吸中に投与してはならないプロポフォールを麻酔科医が過剰に投与し、男児が急死した事件があった。その医療過誤をあえて公表したのは同大の医学部長だった。本来医療過誤を隠すべき立場にある医療部門の最高責任者だ。その行為をメディアは「勇気ある行動」とほめたたえたが、私は非難するわけではないが、医学部長が医療過誤を公表したのは権力闘争の表れとみている。それほど純粋な医者だったら、権威ある医大で医療部門のトップになれるわけがないからだ。
 ただ、この内部告発の意味は大きい。力によって内部の不祥事を闇に葬ろうとした場合、権力を失いかねないということを医療の世界に明らかにしたことだ。東京女子医大の理事長は、引責辞任を免れない。もし免れるとしたら、何らかの方法で医学部長を懐柔するしかない。が、医学界にこれだけ大きなショックを与えた事件を、うやむやにしたら、医学部長は理事長ともども社会的信頼を永遠に失うことになる。そのくらいのことは医学部長も心得ているとは思うが…。」
 昨日、理事長が反撃に出たことが明らかになった。6日に緊急理事会を招集し、医学部長を解任した。解任理由は「無責任な言動を繰り返した」ことだそうだ。そんな解任理由を社会が認めるとでも理事長は思っているのか。この医療過誤を医学部長が公にしたことについて、私は医療過誤を犯した責任者としての純粋な良心からの行動とは思っていないとブログで書いた。だが、その行為が権力争いから出たものだとしても、病院経営の最高責任者が自ら責任をとらず、医学部長を解任して権力の座に居座り続けようとする構図は、醜さを通り越している。『白い巨塔』を書いた山崎豊子氏が存命していて、この権力争いを知ったら、どう書くだろうか。
 本題に戻る。

 集団的自衛権問題は、単純に同盟国間の軍事同盟の在り方だけで考えるべきではない。確かに、安倍総理が主張するように、日本の安全保障力高まるだろう。アメリカ政府が歓迎していることは、その証左と言えないこともない。
 だが、どんな変革でもメリットだけではない。確かに日米の関係は、「集団的自衛権」が行使できるようになれば、アメリカの一部に今でもくすぶっている「安保ただ乗り」といった反日感情は薄らぐだろう。が、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性も生じる。
 これまでは憲法の制約によって、個別的自衛権以外の実力の行使は認められていなかった。個別的自衛権は、言うまでもなく日本が不法に攻撃されたときに自衛隊がその「実力」によって外敵を排除する権利で、主権国家が国連憲章によらずとも持っている固有の権利である(自然法として人類の歴史が始まって以来普遍の原理として確立されてきた権利)。
 が、集団的自衛権は昨日のブログでも明らかにしたように、集団安全保障体制を構築している国(それが同盟国であり、集団と書いたが2国だけでも認められる)が、有事の際に同盟国に支援を求めることができる権利であって、その国から支援を求められた同盟国はその国とともに共同防衛する義務が自動的に発生する性質を持っている。同盟とはそういう関係であり、アメリカにとって最も頼りになる同盟国のイギリスはつねにアメリカの戦争に参加してきた。が、いまイギリスではアメリカとのそういう関係に対する国民の反発がかつてないほど高まっている。アメリカ国内でも、アメリカだけが持っていると自負してきた「世界の警察」権の行使に疑問の声が高まりつつある。そのためアメリカ自身が「警察」権を行使できない状況になっているのが現実である。
 イラクの内紛がますます激化する中で、イラク政府から反政府武装集団への軍事的制裁を求められても、イラク政府のために米兵の血を流すことに国内での反発が強く、せいぜい軍事顧問団を派遣するという、イラク政府にとってはほとんど助けにもならないことしかできないのが現実だ。
 オバマ大統領が安倍政権に、日米安保条約の片務性を解消して双務的なものに改めるよう要請してきた背景には、そうした事情がある。
 いま、政府は国内関連法(自衛隊法や周辺事態法など)の改正に向けて動き出した。が、国内関連法の改正だけでは済まない。その先に、アメリカが日米ガイドラインの変更、さらに日米安全保障条約の改定を要求してくることは必至だ。日米防衛協定を双務的なものにしなければ、安倍政権が行った「憲法解釈の変更による集団的自衛権の限定行使の容認」は、安倍総理が強調しているような具体例の範囲だったら、アメリカにとって何の意味も持たないからだ。
 が、いくらなんでも日米ガイドラインや日米安保条約の改定によって日米関係が、限りなく米英軍事同盟に近い形にして、それも「憲法解釈の変更」で行おうとすれば、国民も騙されてことに気が付かないわけがない。安倍政権は一瞬にして崩壊することは必至だ。
 では、憲法を改正して日米安保条約を双務的関係に改定するという方針に安倍政権が転換したら、やっぱりそういうことかと「集団的自衛権行使容認」のペテン性が誰の目にも明らかになり、やはり安倍政権は一瞬にして崩壊する。
 国民の間には、憲法改正への理解が相当高まっていた。「左」寄りとみられていた朝日新聞や毎日新聞も、いまは「護憲一本やり」の姿勢ではなくなっている。維新やみんなも憲法改正に前向きだし、「平和の党」を自負する公明党の「生みの親」である創価学会ですら「集団的自衛権問題は憲法改正で行うべきだ」と、憲法改正の話なら前向きに対応すると公式メッセージを発表していたくらいだ。そうした状況をすべて破壊してしまったのが、安倍政権だ。憲法改正ははるか遠くに遠のいてしまったと言える。
 さらに安倍総理は、「集団的自衛権」の行使をどういう場合に行うのか、考えていることがさっぱり分からない。少なくとも閣議決定に同意した公明党の山口代表は「他国のためだけでなく」と、「他国(※実際にはアメリカ)のためにも」行使すると記者会見で発言し、いまだにその発言を撤回していない。が、安倍総理は「日本国民の安全を守る責任を果たすため」と、公明党以上に行使の条件を厳しく限定するかのような発言をしている。いったい、どっちが正しいのか。少なくともアメリカは閣議決定の内容を山口発言と理解している(理解していることにする必要が米政府にはある)。もうすでに閣内不一致が明らかになっているのに、そのことへの説明責任を果たしていない。読売新聞が山口発言を白を黒と言いくるめるような捏造発言を記事にしてしまったから、これ幸いと頬被りするつもりなのだろうか。
 安倍総理はこうも言っている。「湾岸戦争やイラク戦争のような戦争に自衛隊を派遣するつもりはない」と。その意味も明確に説明していない。遠い国でのアメリカの戦争には知らん顔をするが、日本に飛び火しかねない南シナ海において国際紛争が生じ、アメリカが「警察権」を行使したり、同盟国の一つであるフィリピン政府に要請されて米軍が中国と軍事的衝突をした場合は、「近い国」での戦争だから日本に明白な危険が迫っていると判断して、アメリカの要請に応じて自衛隊を派遣するつもりなのか。なぜメディアの記者は「湾岸戦争やイラク戦争のような…」と安倍総理が記者会見で発表したとき、「では南シナ海で紛争が生じたときはどうするのか」と質問しなかったのか。
 また「日本国民の生命を守る責任がある」との発言に、「近い国での紛争に日本人が巻き込まれて生命の危機にさらされたときは、自衛隊を出動させて日本人の生命を守ると聞こえるが、遠いイランやペルーで日本人の生命が脅かされても、遠い国での出来事だから知ったことではないとも聞こえる。日本国民の生命を守る地域の限界はどこまでなのか」と、なぜ記者は追及しなかったのか。
 こうしたケースについて、私は1992年7月に上梓した『日本が危ない』のま
えがきでこう書いている。前にもブログに転載したので、覚えている方は読み飛ばしてもらってもいい。

 正直なところ、私は湾岸戦争と旧ソ連邦の解体に直面するまで、日本の安全や防衛問題について深い関心を抱いていたわけではない。
 戦後40数年の間(※現時点では70年近く)、日本は自ら軍事行動に出たこともなく、また他国から侵略されることもなく(※この本を書いた時点では竹島問題は浮上していず、韓国に武力侵略されていることを知らなかった)、見せかけの平和が続く中で経済的繁栄を遂げてきた。私はそういう状態が今後も長く続くに違いないと、無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。日本とアメリカとの結びつきは政治的にも経済的にも強固であり、日米関係に突拍子もない異変が生じない限り、日本の安全は世界のどの国よりも保障されている、と信じて疑わなかった。
 だが、湾岸戦争と旧ソ連邦の解体は、そんな勝手な思い込みをアッという間に打ち砕いてしまった。
 まず湾岸戦争。イラクが突如、クウェートに侵攻し、日本人141人が人質にされた。経済大国日本の海外駐在ビジネスマンが、テロリストの標的にされる事件は最近、頻発しているが、いかなる犯罪とも関係のない日本人の、それも民間人の生命が他国の国家権力の手によって危機にさらされるという事態は、戦後40数年の歴史で初めてのことだった。
 このとき日本政府は主体的な解決努力を放棄し、ひたすら国連頼み、アメリカ頼みに終始した。独立国家としての誇りと尊厳をかけて、人質にされた同胞の救出と安全に責任を持とうとするのではなく、アメリカやイギリスの尻馬にのってイラクへの経済封鎖と周辺諸国への医療・経済援助、さらに多国籍軍への資金カンパに応じただけであった。
 私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
 海部首相が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなかったに違いない。
 もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わん
やである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。
 私の、本書における基本的スタンスは、この一点にあることを、前もって明
らかにしておきたい。

 安倍総理の口から、一言でもかつて自民党政府が日本人141人を見捨てたことについて心から国民に謝罪し、二度とそういう過ちを繰り返さないためにも憲法解釈の変更によって「集団的自衛権」の行使をも認めてもらいたい、と心底から訴える言葉が出ていれば、今日の大混乱は生じていなかったと思う。というより、「安倍さん」の頭の中には、このときの事態に対する深い悔恨など、露のかけらにしたいほどもなかったことが、集団的自衛権の説明によって明らかになったと言えよう。
 なお、この本を上梓した直後、朝日新聞の防衛担当編集委員・田岡俊次氏から自宅に電話を貰った。「初めて防衛問題について書かれたにしては、よくまとまっていると思うが、危険な要素もある」との指摘を受けた。当時の朝日新聞は護憲一本やりで、田岡氏も湾岸戦争のとき毎週のように田原総一郎氏がキャスターをしていた『サンデー・プロジェクト』に出演して、護憲の立場からコメントしていた。当然、彼が「危険だ」と指摘した部分は海部政権のスタンスを批判した箇所で、護憲の視点で読むと、私の本が説得力を持ちすぎているため「危険」と感じたのだろう。
 1時間以上の長電話になったが、私のとどめの一言「では、人質にされた日本人のたった一人にでも、万一のことがあったとき、田岡さんは日本政府がどうすべきだったとお考えですか」と質問をぶつけた。田岡氏はしばらく沈黙した後「その答えはありません」と、まことに正直にお答えになった。その問題に対する答えを持っていない人が、よくもしゃあしゃあとテレビで偉そうなことが言えるものだ、と私はただただ呆れただけだ。
 が、田岡氏は朝日新聞を退社後はフリーの軍事ジャーナリストとして「自衛隊擁護・自主防衛・武装中立・米国追随からの脱皮」論の論客に転向した。ま、少しは湾岸戦争当時に比べればまし、と思う人もいるようだが、とんでもない話だ。田岡氏の現在の主張を現実化するには、自衛隊の核武装が絶対必要条件になる。アメリカの「核の傘」から抜け出して自主防衛の軍事力を保持するためには、日本が核武装する以外に方法はない。そういうことが分かって田岡氏は護憲派から武装自主防衛派に転向したのだろうか。いつも答えを用意せずに、思いつきで「…論」を展開しているとしか思えない。
 権力は、どんな権力も一応「国と国民の権利と安全を守る」と約束する。が、「国の権利と安全」と「国民の権利と安全」が常に一致するとは限らない。権力者にとって「国の権利と安全」は、「権力および権力を支えている機構の権利と安全」を意味しており、だから「国民の権利と安全」とはしばしば衝突する。ベトナム戦争がその典型的な例と言っていいだろう。
 ベトナム戦争でアメリカの軍事産業は史上空前の利益を上げ、それに連なる組織が権力基盤となって米政府を支えた。その一方で数十万の米兵の命が失われた。アメリカで徴兵制が廃止されたのは、このベトナム戦争の意味が厳しく国民から問われた結果である。
 利害が衝突するのは「国と国民」の間だけとは限らない。いま世界を揺るがしているウクライナやイラクの内紛は、「国民同士」の利害の衝突である。多民族国家、多宗教国家では、しばしばそういう事態が生じる。
 ウクライナでは旧政権の権力基盤だったロシアの経済支援(旧政権時代、ロシアは国際市場価格の半額程度の低料金で天然ガスをウクライナに供給していた)が打ち切られたことで親欧米派の暫定権力が生まれた。あるいは旧政権の腐敗を親欧米派から追及されて旧政権が失墜して暫定政権が誕生、親欧米路線を明確にしたことに反発したロシアが経済的支援を打ち切ったという見方もできる。いずれにせよ、親欧米暫定政権がNATO加盟の方針をちらつかせたことで一気にロシア系住民が多いクリミア自治共和国政府が分離独立を問う国民投票を行い、ロシアへの編入に至った。
 さらにクリミアに同調したウクライナ東部2州の住民が住民投票を行ってウクライナからの分離独立を決めたが(東部2州はロシア系住民が約4割を占めていると言われている)、クリミアのような自治共和国ではないため住民投票で分離独立を行使する権利は国際法上も認められていない(かといって否定しているわけでもない。そうしたケースを国連憲章は想定していなかっただけだ)。
 結局、暫定政権のもとで行われた大統領選挙で、親欧米派のポロシェンコ氏が勝利し、国際社会が正式と認めるウクライナ大統領になった。新政権はNATOへの正式加盟する一方、東部2州には自治権の拡大によって融和政策をとろうとしている。予断は許さないが、ロシアも東部2州のロシア系住民への軍事支援は控えており、混乱は収束に向かうと思う。
 世界はいま大きく動きつつある。かつてのように、米ソが大国の「権利」として他国の国内紛争に軍事介入する「権利」を、自国の利益を守るという口実で行える状況ではなくなりつつある。現にEU諸国の大半と同盟関係にあるアメリカも、クリミア自治共和国の分離独立に際して国連憲章41条による「非軍事的措置」としてロシアに対する経済制裁にいち早く乗り出し、安倍政権にも足並みを揃えるよう要請したが、事実上クリミア自治共和国のロシア編入は黙認された状態になっている。振り上げたこぶしを、アメリカはどういう大義名分を付けて振り下ろすのだろうか。また自国の国益であるロシアとの友好関係の確立による北方領土問題の解決や北東ロシアとの経済協力関係の強化を犠牲にしてまで、アメリカの要請に渋々応じた安倍政権は、どうやってロシアとの関係を修復するつもりなのか。そうした問題についてもメディアは責任を果た
しているとは言えない。
 肝心のEU諸国が、いまアメリカのウクライナへの介入に有難迷惑(はっきり言えば「お邪魔虫」)と思っている。アメリカはEUとの友好関係を強化するために、ロシアへの経済制裁を始めたが、アメリカはロシアの天然ガスをはじめとする資源を必要としていないが、ヨーロッパはロシアからの天然ガス供給がストップすると国内産業が大打撃を受ける。「頼みもしていないのに、勝手にしゃしゃり出てロシアをかえって硬化させてしまった。とんだドラ親父だ」と口には出さないが、そう思っている。だからEU諸国はいま、アメリカ抜きでウクライナ紛争の平和的収拾に乗り出しているのだ。ポロシェンコ大統領が「アメとムチ」政策で東部2州のロシア系住民を懐柔しようと必死になっているのは、アメリカよりEUを頼りにしている証拠だ。なぜメディアはそういう論理的思考力を働かせないのか、私には不思議でならない。論理的思考力を持っていない人は直ちにメディアから去ってほしい。
 
 話が少しずれるかもしれないが、「核不拡散条約」は非核社会をつくるための条約ではない。勘違いしている方が多いので多少説明しておく。
 はっきり言えば核保有の5か国が、既得権利をお互いに認め合ったうえで、5か国だけが核保有の権利を持ち、ほかの国の権利は認めないという核大国のエゴ丸出しの条約だ。もちろん、核大国の指導者が、子供がおもちゃを欲しがるように、最新の核兵器を欲しがっているわけではない。そんなことはわかりきったうえで、私は「核不拡散条約」の矛盾を指摘している。核を持たない国が、核保有国に脅威を覚えたら、はっきり言って核で自己防衛するのは「個別的自衛権」として国連憲章で認められている。なぜメディアがそういう論理的思考をしないのか、やはり私には不思議でならない。
 核を世界中から廃絶することは、核の被害を受けた唯一の国である日本人の悲願でもある。その悲願を実現するため、核という個別的自衛手段を持つことを禁止することを国連に求める権利と義務が日本にはある、となぜ主張しないのか。アメリカの「核の傘」に守られているから、そう主張できないのか。すべての核大国が既得権利を捨てて、核の力で国際紛争を解決することを放棄したら、核は間違いなく世界中から姿を消す。もし、日本がアメリカの核の庇護から外されたら、いまの国際情勢から考えると、日本は最小限の個別的自衛手段として、否応なく核を持たざるを得なくなることが分かっているのだろうか。現に安倍政権は、いまの日本が脅威にさらされていると主張して「集団的自衛権」を無理やり行使できるようにしたではないか。
 そう考えると、北朝鮮がなぜ核にこだわるのかもわかるような気がする。もし北朝鮮の金政権が、有事の際には中国が核の力で守ってくれるという確信があったら、巨額の費用を投じて核を持つ必要はないはずだ。その確信がなかったら、北朝鮮がアメリカの核を脅威に感じて核を保有するのは、北朝鮮にとっては国連憲章が「固有の権利」の一つとして認めている個別的自衛手段と考えざるを得ない。そうなると、日本が北朝鮮の個別自衛権を否定するような核不拡散条約に調印したことはどう理解すればいいのだろうか。
 誤解を避けるために書いておくが、私は北朝鮮の核武装を支持しているわけでもないし、日本が核武装すべきだなどと考えているわけでもない。純粋に論理的に考えたら、安倍総理の目的である「日本の平和と安全」のための保障をより確実なものにするためには、核不拡散条約の承認を取り消し、米ロ中など核大国の核の廃棄を強く要求すべきだと主張している。その要求ができないのなら、北朝鮮の核武装を非難する論理的根拠がないと言っているだけだ。
 そして北朝鮮や中国の核が日本にとって脅威だから「集団的自衛権」を憲法解釈の変更によって容認するのであれば、北朝鮮や中国の脅威に対する「個別的自衛」手段として日本の核武装を主張している極右の人たちに対する説得力を持ち得ないことを論理的に立証しただけだ。むしろあてにならないアメリカの核を抑止力として維持するために無理やり憲法解釈を変更するより、国連憲章も認め、最高裁も認めた個別的自衛力の強化を図るほうが、まだ国民も納得するだろう。
 私自身の、究極の「国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全」のために日本がどういう貢献をすべきかについての切ない思いは、明日のブログで述べる。(続く)