小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

NHKスペシャル「メイドインジャパン逆襲のシナリオ」の誤りを指摘する

2012-10-28 15:36:22 | Weblog
 昨夜(27日午後9時)のNHK特集『メイドインジャパン逆襲のシナリオ』を楽しく拝見しました。ただなぜソニーがデジタルオーディオ戦争でアップルに負けたのかの分析は全く間違っていましたのでご指摘します。
 AV(オーディオ&ビジュアル)の世界では常に統一規格を巡っての激しい争いを繰り返してきました。
 そもそも世界で最初にAV業界で規格争いが生じたのはレコードでした。レコードを世界で初めて発明したのは、ご存じでしょうが世界の発明王、トーマス・エジソンでした。1877年7月、エジソンはモールス信号記録装置の改良作業をしていて、ふといたずらを思いついたのです。
 当時のモールス信号を記録する装置は円筒形をしていました。その円筒(今様に言えばメディアと言ってもいいでしょう)を高速で回転させ、それに針を当ててみると実にリズミカルな音が出たのです。このいたずらを機に、エジソンは音を記録する材料の研究に没頭し、溝を刻んだ金属製の円筒に薄いスズ膜を巻きつけた世界初のレコードを発明したのです。
 ここで注目すべきは、天才エジソンですら、モールス信号記録用のメディアである円筒という形状の延長上でしか発想の範囲から抜け出せなかったということです。ここにソニーがアップルに負けたまったく同じ要因があったのです。そのことを証明しますからレコード発明のエピソードを記憶にとどめておいてください。
 さてエジソンはこの世紀の大発明を機にエジソン蓄音機会社を設立するのですが、気まぐれでも有名だったエジソンはレコードの改良に興味を失い、全く別の発明に取り掛かります。そしてエジソンレコードの改良に取り組み、世界で初めてレコードの商品化に成功したのが電話を発明したグラハム・ベルでした。ベルはスズ膜の代わりにろう(ワックス)を染み込ませた巻紙を使った円筒形蓄音機を開発して商品化しました。ベルもレコードというメディアはエジソンと同様モールス信号記録用の円筒形という思い込みにとらわれていたのです。
 しかし円筒形メディアは、詳しくは書きませんが実用上さまざまな問題を抱えていました。そして円筒という形状に問題があることに最初に気付いたエミール・ベルリーナが87年にグラモフォンという円盤式のレコードと蓄音機を初めて開発に成功し、これがCDに至るまでのオーディオ・メディアの形状として今日まで続いてきたのです。
 もう一つ、レコードという商品は世界で初めてハードとソフトが分離した製品でした。このこともAVの歴史を語るとき絶対に欠かせない重要な視点です。ただプロのAV評論家を自称している人たちがそのことに全く気付いていないのが今回のNHK特集の誤った見方にもつながっているように思います。
 もう一度レコードの歴史に戻りますが、ベルリーナの発明によるグラモフォンがレコードの統一規格として定着したかというと、そうではありませんでした。グラモフォンがヒット商品になったことでエジソンは再びレコードの研究に戻り円筒形の改良を重ねてきましたし、円筒形方式を採用したベルもやはり円筒式の改良に努力してきました。しかしこの3方式は当然ですが互換性がありません。エジソンの蓄音機に円盤のグラモフォンレコードが使えるわけがないのです。そしてユーザーは使いやすく補完するのに便利なグラモフォンにコミットしたのです。この時音質について(当時いたかどうかはわかりませんがオーディオ評論家たちが)論争したかどうかはわかりません。ただ想像できるのはエジソンもベルも音質でグラモフォンと勝負をしようとしたのではないかということです。そして消費者が選択したのは音質より使いやすさだったのではないだろうかということです。
 グラモフォンが勝利を収めたのちも、今度は円盤式レコードの規格をめぐってレコード業界の大戦争が始まります。まず円筒式で負けたエジソンが円盤式に転換したものの、音の記録方式でグラモフォンとは別の提案をして商品化したのです。当然両者の間にはやはり互換性がありません。そして円盤式で先行していたグラモフォンの有利は動きませんでした。レコード時代の黎明期には蓄音機とレコードのメーカーは同一でした。つまりグラモフォンもエジソンもレコードと蓄音機を共に作っていたのです。ところが、レコードが普及を始めると独立系のレコード会社が続々と誕生するようになりました。この時代のレコード戦争についてはVHSとベータが主導権争いを演じたVTR戦争のことを想起しながら読んでください。
 独立系のレコード会社は当然のことながら市場で優位に立っていたグラモフォンの蓄音機にコミットして次々にレコードを発売しました。コンピュータ時代に入ったころ人口に膾炙した言葉に「コンピュータ、ソフトがなければただの箱」というのがあります。ハードとソフトが分離した世界では、ソフト業界がコミットしたハードメーカーが最終的な勝利を収めるという図式はこの時定着したのです。
 こうしてグラモフォン(メーカーはRCAビクター)がレコード業界を独占する時代が約40年も続きました。一つの技術が40年も世界を独占するケースはあまり例を見ません。例外はテレビとラジオ(FMを含む)くらいでしょう。テレビはアナログ時代はアメリカ方式とヨーロッパ方式に分かれ、日本はアメリカ方式を採用してきました。だから日本のテレビをヨーロッパに持って行ってもヨーロッパのテレビ放送を見ることはできませんでした。VTRが発明されるまではそれはそれで格別の支障はなかったのですが、VTRの発明によって事情は一変しました。ヨーロッパのテレビ放送を録画したビデオを日本では見ることができないからです。で、NHKが世界に先駆けてハイビジョン放送という新しい高画質放送(ただしアナログ放送)の世界統一規格を提案したのもそういう事情が背景にありました。
 再びレコードの話に戻りますが、1948年にCBSコロンビアがLPという長時間演奏レコードを発明し、再びレコード業界で主導権争いが始まりました。それまでのRCAビクターのグラモフォン・レコード(SP)の10倍近くの長時間レコードだったのです。しかし40年にわたり蓄積されてきたグラモフォンのソフト(SPレコード)が使えないLPは当初まったく売れませんでした。つまり「ソフトがなければただの箱」でしかなかったからです。
 ところがCBSコロンビアに神風が吹きます。当時全米最大のディスカウント・チェーンだったグッディーズがSPの在庫品を50セントという超安値で処分し、CBSコロンビアのLPを30%引きのディスカウントで売り出したのです。これで情勢が一変、CBSコロンビアが一気にレコード業界の主役に躍り出て、他のレコード会社も一斉にLPにコミットし始めたのです。
 結局両社が協力することによって互換蓄音機をつくることで合意し、アナログレコードはLPもSPも1台のオーディオプレーヤーで再生できるようになり、それがデジタル時代に入るまで続いたというわけです。
 レコードの歴史をたどる中で、「想起しながら読んでほしい」とお願いしたことがありましたね。VTR戦争のことです。松下・ビクター陣営のVHSとソニー陣営のベータは決着がつく直前まで大体7:3のシェアで共存していました。特にNHKの職員は音質・画質ともにベータの方が優れていると考えていた方が大半でした。実際、当時はNHKの放送機材は大半がソニー製でした。ある意味ではソニーのVTR技術はNHKによって育てられてきたと言っても過言ではないと思います(誤解を避けるためお断りしておきますが、NHKがとくにソニーに肩入れしてきたなどと言っているわけではありません。世界最高度の画質・音質を追求してきたNHKの厳しい技術的要求にソニーが応えてきた結果だと私は思っています)。
 VTRには録画と再生という二つの機能があります。そして日本の家庭とアメリカの家庭とではVTRの使用目的が大きく異なっていました。日本では留守中に録画しておいたテレビ番組を見るというのが主な目的でした。一方アメリカでは「カウチポテト族」という言葉がはやったように週末にVTRレンタル店から何本かのテープを借りてきて、揺り椅子に座ってポテトチップを齧りながら映画のビデオを見るというのが大きな目的になっていきました。そういう習慣が確立したのはアメリカの映画事情のせいでもあります。テレビの普及によって映画館に足を運ぶ人が急減して興行収入も激減して危機感を抱いたハリウッドが、「いっそのこと一般家庭のテレビを映画館にしてしまえ」と、発想の大転換を図ったのです。そうなると、画質や音質はともかく基本録画時間が1時間のベータより2時間のVHSにコミットするのは当然の市場原理です。
 ところが日本ではVTRが開発された当時はテレビで映画を放送するケースはあまりありませんでした(それはアメリカも同様でした)。だからソニーが基本録画時間を1時間に設定したのは映画ではなくドラマの録画を主な用途と考えていたからです。しかし、日本にもレンタルビデオの波が押し寄せてきました。そうなると市場シェア3割のソニー陣営にとっては圧倒的に不利になります。映画会社などが市場の7割を押さえているVHSにコミットするのはあまりにも当たり前の構造でした。もともとソニー陣営には東芝と新日本電気しか参加していませんでした。その他の家電メーカーはすべてVHS陣営でしたから、そういう意味では7:3というすみわけは、特にベータ陣営が苦戦を強いられていたというわけではなく、極めてリーゾナブルなすみわけだったのです。
 さて時代はデジタルの時代に入っていきます。デジタルの技術は今様々な分野で使われていますが、NHK特集のテーマにそって考えてみます。つまりデジタルオーディオの世界でなぜソニーがアップルに後塵を拝することになったかという問題です。
 もともとデジタルオーディオの世界はソニーが常に世界の先端を切り開いてきました。最初に製品化されたのはCDですが、これもソニーがフィリップスと共同開発しました。CDが発売された当時は「LPに比べて金属音がする」などとオーディオ評論家の間では不評でしたが、消費者の反応は「雑音がない。非接触のため盤面を傷つけない。コンパクトだから保管や持ち運びに便利だ」といった利点を重視しました。こうしてCDはあっという間にLPを駆逐してしまったというわけです。
 CDに続いてソニーがオーディオ市場に大きなインパクトを与えたのはMD(ミニ・ディスク)でした。これはオーディオソフトメーカーとの間に大問題を引き起こしました。ご承知のように、デジタル記録は音質にしても画質にしても、何度再生しても、また何度ダビングを繰り返しても、アナログのように劣化することはありません。そのためオーディオソフト業界からは原音が巷にあふれ出るといった反発が噴出したのです。そのためソニーは原音を100%は録音できないようにすることによってソフト業界の了解を得ようとしたのです。その方法として使われたのが帯域圧縮というデジタル技術でした。この帯域圧縮技術は現在、地デジ放送(ハイビジョン)にも使われています。つまりソニーのデジタル技術の原点はデジタル録音にあったのです。デジタル録音するための帯域圧縮の技術についてはソニーは世界の最先端を走っていますが、アップルは全く別の視点からデジタル録音することを考えたのです。
 アップルはソニーと違ってコンピュータメーカーです。コンピュータメーカーというより、世界で初めてコンピュータをつくった会社です。ハードメーカーだったアップルはマイクロソフトと違ってコンピュータの市場を独占しようとして基本ソフトを公開しませんでした(一時Macグループをつくってマイクロソフトを追撃しようとした時期もありましたが、同調するメーカーがほとんど現れず、現在は再び単独でパソコン事業をしています)。だからアップルはパソコンの利用技術には身を持って習熟しているのです。そのアップルが考えたのは、音楽のデジタル録音技術ではなく、レコード店でCDを買うのと同じように、対価を払って音楽の原音をインターネットを利用して直接ダウンロードするという考えでした。つまりハリウッドが消費者の家庭にあるテレビを映画館にしてしまおうという発想からレンタルビデオに力を入れたのと同様、アップルはインターネットをレコード店にしてしまえばCDをつくってレコード店を介して消費者に売るよりはるかに儲かるよ、とオーディオメーカーを口説いたというわけです。そしてアメリカのオーディオメーカーは、ハリウッドと同様その方が合理的だと考え、アップルのアイディアにコミットしたというわけです。
 ひたすらレンタルCDからの原音に近いデジタル録音技術にこだわってMDを開発したソニーと、インターネットを利用してデジタル原音そのものをCDを買うよりはるかに安くダウンロードする方法を考えたアップルとの違いはそこにあったのです。オーディオメーカーも不良在庫の不安におびえながら高い値段でレコード店でCDを売るより、製造費もかからず在庫の処分に頭を悩ます心配もなく、安い値段で大量のダウンロードに期待した方が有利だと考えたのだと思います。
 要するにソニーとアップルの差は、VTRやウォークマン、MD、ブルーレイなど録音・録画技術にこだわってきたソニーと、コンピュータが作り出したインターネットの世界で何ができるかにこだわってきたアップルの企業風土の差と言ってもいいかもしれません。
 また映画会社やオーディオメーカーの考え方の、日本とアメリカの社会風土による差も作用しているのではないかと思います。
 

読売新聞と共同通信は誤報の責任をどう取るつもりか?

2012-10-19 21:12:51 | Weblog
 ようやく森口尚史・自称「ips細胞臨床応用研究者」のニセ研究成果をめぐってのてんやわんやの大騒動が沈静化したようだ。ただ当人は6件と発表していた臨床応用のうち5件はウソだったと認めているが、1件は実際に行ったと、依然として主張し続けている。しかし森口氏が「研究者」としての最後の砦と頑張っているその1件も、いつ臨床応用の手術を行ったのかについては「今年の2月」から「昨年の6月」に「思い違いだった」と訂正するなど、あやうさを通り越してウソの上塗りとしか思えない言い訳に終始している。手術を行った病院名も明らかにせず、臨床応用手術を行った執刀者の氏名も明らかにせず(森口氏によれば口止めされているとのことだが)、具体的な裏付けは何もない。
 こんな大騒動になったのは、そもそも日本最大の発行部数を誇る読売新聞が11日付朝刊1面で森口氏の「快挙」を大々的に報じたからだ。読売新聞によれば、森口氏らは今年2月、ips細胞から心筋細胞をつくり重症の心不全患者6人に移植する世界初の臨床応用を行ったということだった。しかもこの臨床応用は、ハーバード大の倫理委員会から「暫定承認」を得ており、米国際学会で発表するほか、英ネイチャー・プロトコルズ電子版で近く論文発表する予定だという。
 また全国の新聞社などに記事を配信している共同通信も読売新聞と同様の記事を配信し、地方紙何紙かは記事化した。
 この件について世界中からハーバード大に問い合わせが殺到したようだ。ハーバード大は真偽を確認したうえで当日「森口氏は1999年から2000年まで(一か月間は)研究員だったが、それ以降、関係はしていない。大学や病院(マサチューセッツ総合病院)も彼に関係するいかなる臨床研究も承認していない」と発表した。
 そして肝心の森口氏は、やはり当日ニューヨーク幹細胞財団主催の国際会議に現れず、予定していた研究発表をボイコットした。
 こうして森口氏の研究成果に疑問が生じた結果、読売新聞は翌12日付朝刊1面に「ips移植発表中止」の見出しをつけた記事を掲載し、森口氏が発表する予定だった学会会場に現れなかったことや、ハーバード大が森口氏と協力関係にないと表明したことを報じ、さらに同日夕刊ではやはり1面に「事実関係を調査します」という見出しの記事を掲載して事実上誤報であったことを認めた。
 実はこの「ビッグニュース」は読売新聞や共同通信が独自の取材活動でつかんだ『特ダネ』ではなかった。朝日新聞や日本経済新聞、毎日新聞にも森口氏はメールで「快挙」を送信しており、各紙はそれぞれ森口氏に面談取材をしていた。たとえば朝日新聞の場合、9月30日に「世界初の人ips細胞の臨床応用」なるメールを受け、同紙記者が10月3日、東大病院の会議室で3時間にわたり面談取材を行っている。
 朝日新聞によれば、森口氏の売り込みを記事化しなかった理由は以下のようだ(13日付朝刊社会面)。
「だが(17日か18日に掲載される予定の英科学誌電子版の)論文の共著者はいずれも日本の研究者で、ips細胞の研究者も臨床医もおらず、移植手術の実施場所も明示されていなかった」「(その後)11日の電話取材では、移植手術を実施した共同研究者について『長期休暇中でアフリカでボランティア活動をしていたり、政治的な活動をしていたりなどをしたりしていて、戻ってこられなくなった人もいる。取材には応じられない』などと話した」「最終的に研究データや論文の信頼性は低いと判断し、記事化はしていない」「記者は今年2月にも、東京大病院で森口氏が『自分の研究室だ』と説明した部屋で取材した。6畳ほどの部屋で隅に冷蔵庫のような箱があった。森口氏は『この中にすごいips細胞が入っている』と話した」「朝日新聞は1996,97年に医療経済研究機構調査部長だった森口氏による肝炎の治療効果分析の記事を2本、2002年には東大先端科学技術研究センター特任助教授時代の森口氏の診療報酬改定に異論を唱える投稿を掲載している」
 この記事にあるように、朝日新聞は1990年代後半から森口氏の活動に関する記事を、投稿も含めて3本掲載している。おそらく森口氏は朝日新聞と同様読売新聞にも1990年代後半頃から接触を試みてきたと思われる。
 では森口氏とはどういう人物だったのか。ウィキペディアによれば彼は医学界において相当な業績を積み重ねてきた堂々たるキャリアの持ち主のようだ。東大や慶応大学の医学部出身者でも彼ほどの実績を誇れる医学者はそういない。彼が「ips臨床応用に成功した」などというウソをつかなければ、一流の医学研究者としての道を歩み続けていたのではないかと想像するに足る人物だった。
 森口氏は1964年生まれ。40代半ば過ぎの働き盛りだ。彼は東京医科歯科大学で保健衛生学科看護学を専攻して看護師の資格を取得、卒業後は同大学院に進学して保健学修士号の資格を取得している。修士論文のテーマは「健康診断における異常所見の評価とその予後に関する考察~超音波エコーによる胆のうポリープの自然経過の検討」という、彼が専攻した「看護」の分野を超え「臨床医学」の分野に踏み込んだと言っても差し支えない研究論文を書いている。おそらく森口氏が当初目指していたのは病院で医師の補助的仕事を行う看護師(当時は看護婦と呼ばれていた。ただし看護婦の資格は看護士)ではなく、医学・医療の分野だったのではないかと思われる。
 その彼がなぜ東京医科歯科大学で保健衛生学科看護学を専攻したのか。推測の域を出ないが、常識的に考えられることは同大学は国立大学であり、かつ保健衛生学科は医学部に属しながら医学科と異なり学費があまりかからないという事情があった故だったのではないか。朝日新聞は13日付朝刊社会面で森口氏の経歴について「看護師資格、職を転々」という見出しをつけて紹介しているが、この見出しが読者に与える「負の印象」とは全く異なる赫々たるキャリアを彼は重ねてきた。そのキャリアをウィキペディアから転載する。

▰1995年~1999年.財団法人医療経済研究機構主任研究員・調査部長、ハーバ
 ード大学メディカルスクール・マサチューセッツ総合病院客員研究員
▰1997年、東京医科歯科大学医学部保健衛生学科非常勤講師(国際看護保健学、
 健康情報データベースと統計分析など担当(2009年まで)
▰1998年8月、東京大学先端科学技術研究センター研究員(知的財産権大部門)
(非常勤)
▰1991年11月~2001年1月、マサチューセッツ総合病院胃腸科客員研究員
▰2000年10月、東京大学先端科学技術研究センター客員助教授(非常勤)
▰2002年4月、東京大学先端科学技術研究センター特任助教授(次世代知的財
 産戦略研究ユニット、先端医療システム研究)(常勤)
▰2006年、東京大学先端科学技術研究センター特任教授(システム生物医学)(非
 常勤)
▰2007年9月、東京大学大学院より、博士号(学術)取得
   博士論文題目は「ファーマコゲノミ薬用の難治性C型慢性肝炎治療の最
   適化」、主査は児玉龍彦東京大学先端科学技術研究センター教授
▰2010年、東京医科歯科大学教授・薬品メーカーと共同でC型肝炎の予防及び
 治療に有用な特許を発明者として提出し、2012年特許公開
▰2010年、東京大学医学部付属病院客員研究員。東京大学先端科学技術研究セ
 ンター交流研究員(無給)
▰2012年3月~8月、東京大学附属病院形成外科・美容外科技術補佐員(非常勤)
▰2012年9月~現在、同病院同科で有期契約の特任研究員(常勤)として所属、
 研究テーマは「過冷却(細胞)臓器凍結保存技術開発の補助」

 これが「看護師」の資格しか持っていない森口氏の研究活動のグラウンドであった。医学・医療の研究者を志す者にとってはまぶしいばかりの経歴ではないか。森口氏が「医師免許を所有している」と虚偽の資格を勤務先に言っていたら、それは「詐称」の犯罪になるが、そういった事実は今のところ明らかになっていない。ということは、これだけの研究歴と研究グラウンドを持ちえたのは、学歴や資格はともかく、研究者としての実力がそれなりに評価されてきたからにほかならないと言っても過言ではない。読売新聞や共同通信の記者がいとも簡単に森口氏の「ips臨床応用に成功した」という虚偽の成果を信じてしまったのはその故だったのかもしれない。
 実力や能力の評価はそんなに簡単ではない。私は山中伸弥・京大教授がノーベル賞を受賞したその日、NHKのニュース7でその事実を知り、直後にブログでこう書いた。
「ノーベル賞を受賞した日本人は米国籍の南部陽一氏を含めると山中教授が19人目になる。だが、山中教授の研究業績は、単なる1/19ではない」「ノーベル賞の受賞者は、日本人であろうと外国人であろうと、受賞に値する研究成果を出した人たちである。そういう人たちにケチをつけるつもりは毛頭ない。だが、過去のノーベル受賞の対象になった研究成果に比べても、山中教授の研究成果は突出した数少ない研究の一つと言っても差し支えないと思う」
 私がそのブログをノーベル賞受賞のニュースの直後に書いたのは、翌日からマスコミ界を含め日本中が大騒ぎになると思ったからである。実際その通りになったのだが、テレビ各局のインタビューの中で山中教授自らが「実は挫折の連続だった」という自分の過去を語った。山中教授は当初研究者ではなく、外科医を志していた。だが不器用で、いつも同僚から「邪魔中」と揶揄されていたという。
 1963年からTBSがアメリカのテレビドラマ『ベン・ケーシー』を放送した。海外の連続テレビドラマとしては空前の大ヒットになり、最高視聴率が50%を超えたこともある。この記録は今も破られていない。正義感が強く、妥協を一切せず、しかし脳外科医としての腕は超一流。まさに理想の医師を主人公にしたドラマだった。
 患者が医師に求めるものは何か。的確な判断や処置、薬の処方などいろいろある。やさしさや親切な対応もその中に含まれるだろう。内科系の医師にはそういう要素がとくに求められる。だが、外科医とくに脳外科医や心臓外科医にとって最も必要とされるのは、極端な言い方をすればバカでもチョンでもいい、芸術的な手先の器用さである。どんなに優秀な頭脳の持ち主であっても、手先が不器用な医師の手術は願い下げにしたい、というのが患者や患者の家族の本音である。「邪魔中」と揶揄された山中教授が外科医の道をあきらめていなかったら、患者や患者の家族から「願い下げ」の医師の部類になっていたであろう。そう考えると、山中教授がへたくそな外科医だったことが、世界の医療・創薬に革命を起こす可能性が極めて高い研究を成功させた要因の一つだったということは、ある意味で皮肉な結果でもあった。
 私がベン・ケーシーと山中教授の話を書いたのは、どういう仕事にはどういう能力が必要かは、自分がどういう仕事をやりたいかということとは全く無関係だということを明確にするためである。つまり、やりたいということと、やりたいことを実現できる能力を持っているかということとは全く別だということなのである。
 そういう視点から読売新聞と共同通信の誤報を考えると、両社ともジャーナリストとして絶対に必要な能力を欠いた記者が取材したとしか考えられない。
 ではジャーナリストとして絶対に必要な能力とは何か。取材に際し、いったん頭の中を空っぽにすることである。実際にはそんなことは不可能なのだが、少なくとも空っぽにしようと心がけることである。
 もちろん、ジャーナリストがいかなる情報もないのに取材に入るということはありえない。今回の場合、「世界初のips細胞臨床応用に成功」という情報は森口氏側から持ち込まれた。森口氏のマサチューセッツ総合病院客員研究員、東京大学先端科学技術研究センター常勤特任助教授、東京大学大学院で博士号取得、東京大学医学部付属病院客員研究員等々といった華麗な研究者経歴を見ると、森口氏から寄せられた情報には信憑性がかなり高いと思うこと自体は致し方ないと思う。が、それを先入観として残したまま取材に入ると、森口氏の説明内容の不自然さに気付かず、もろに信じ込んでしまうことになる。こうした思い込みを頭の中から排除することが、困難ではあるが、ジャーナリストにとって最大の課題なのだ。ジャーナリストにとって、取材に際しいったん頭の中を空っぽにすることが最も必要とされる能力と書いたのはそういう意味なのである。
 森口氏の「快挙」を報じた読売新聞も共同通信も、誤報が明らかになった時点で直ちに謝罪を表明した。共同通信は誤報を認め謝罪記事をマスコミ各社に配信しただけだが、読売新聞は一般人を読者にした新聞社だけに謝罪だけでは済まないと思ったのだろう、12日付夕刊で「事実関係を調査します」と表明した。翌13日付朝刊では検証結果を掲載することを明らかにした。だが、いまだに検証結果は掲載されていない。森口氏がいかにインチキ研究者だったかという記事はしばしば掲載されているが、検証すべきは読売新聞がどうして誤報を防げなかったのかの社内の報道体制のはずだ。
 ここまで書いてきた、たった今NHKのニュース7で、東大が森口氏を懲戒解雇処分したことを知った。当然の処分であろう。森口氏自身も「もう研究者としてはやっていけない」と覚悟していたくらいだから、処分は時間の問題だった。あとは東大としては、「この処分で森口問題は解決した」と蓋を閉めてしまわないことだ。勘違いしていけないのは、森口氏が虚偽の研究成果を発表したことと、実際に森口氏が東大医学部や附属病院の特任研究者として研究してきた内容の検証は別個の問題だということだ。もし東大で森口氏が行ってきた研究がいい加減なものだったとしたら、森口氏の懲戒解雇はトカゲのしっぽ切りになってしまう。当然、いい加減な研究を今日まで誰もチェックしていなかったとしたら、東大は研究者や研究内容についての管理システムが全く機能していなかったことを意味する。もしそうだとしたら、森口問題の責任を組織としてどう解明し、森口問題を防げなかった管理体制の徹底的な見直しと、医学部のトップ(医学部長)の責任まで問われなければならない。
 同じことが読売新聞や共同通信の場合にも言える。ただ謝罪して済む問題ではない。森口氏に対する追及を、重箱の隅をつつくようにすることが誤報の責任の取り方と考えていたとしたら、マスコミとしての責任感が皆無であると断じざるを得ない。
 JR西日本の若い、運転技術が未熟な運転手が起こした尼崎脱線事故。直接の原因は脱線事故を起こした急カーブの現場にATC(自動列車停止装置)が設置されていなかったこととされているが、マスコミ各社はJR西日本の企業体質、安全重視を無視した過密ダイヤ、日勤教育と称する懲罰的社員管理体制などに事故を誘発した要因があると糾弾、事故の重大性もあったがトップを総退陣に追い込んだ。
 もちろん森口問題と尼崎脱線事故を同列視するわけではないが、他社には厳しい追及をすることを権利と考え、誤報を防げなかった原因究明をさらなる森口批判にすり替えるようでは、もはやジャーナリズムとしての資格がないと言わざるを得ない。読売新聞や共同通信が行うべき検証は、再び言うが、誤報を防げなかった社内体制の欠陥と、その結果防げなかった誤報についての人的組織的責任を明らかにし、責任を取るべき社員に対する厳しい処分を行い、そのことを紙面で明らかにすることである。
 

再び「女性宮家」問題についてー朝日はなぜ①案をでっち上げたのか。

2012-10-11 10:20:17 | Weblog
 再度、皇族問題を論じる必要が生じた。朝日新聞のとんでもない社説がその原因である。
 10月10日の朝日新聞社説『皇族の在り方 国民の支えあってこそ』はこう述べている。
「示された案は、①女性(内親王のことー筆者注)も結婚後に宮家を構え、皇室にとどまる。夫や子も皇族とするが、子は結婚すると身分(皇族のー筆者注)を離れる②宮家をつくるが、夫や子は皇族としない③(結婚後、内親王はー筆者注)皇族ではなく、特別な公務員として皇室活動を手伝うーーの三つ。天皇の子や孫である内親王に絞り、本人の意思を尊重するとしている」
 私が10月8日に投降したブログ記事ではこう書いた。
「現在の未婚の女性皇族(内親王という)3人が結婚後も皇族の身分を維持し(ただし一代限り)、皇室活動の一翼を担えるよう『女性宮家』を創設するというのだ(もちろん構想段階)。その場合、内親王という皇族の身分を持ち続ける案も検討されたようだが、現時点では実施困難という結論になり国家公務員の身分で皇室活動を支援できるようにする案も併せて検討しようというのだ」
 つまり政府案は二つという理解で、政府案に対する読売新聞社説(10月6日)の安易な支持を批判したのが、このブログの趣旨であった。読売新聞社説はこう述べている。
「(女性宮家の創設について)妥当な内容だろう。財政支出を抑制する観点から、結婚後も皇室にとどまることができる女性皇族を天皇の子・孫である内親王に限定した点も理解できる」
 実は政府が「皇族の在り方」について国民の総意を問うべく有識者へのヒアリングを踏まえた「論点整理」を公表したのは10月5日の午前であった。その日の夕刊各紙はいっせいに政府が公表した論点整理を記事にした。すべての記事を併記するのは消耗なので、論点が三つだったことを(記事の訂正を行わずに)社説で明らかにした朝日新聞の5日夕刊1面の記事の要点を原文に忠実に転記する。
 まず3段抜きの大見出しでは「女性宮家・公務員案を併記」と記し、サブタイトルでは「対象は内親王限定」とある。この記事の冒頭で朝日新聞はこう述べた。
「野田政権は5日午前、皇室典範の見直しに向けた論点整理を発表した。女性皇族が結婚後も皇籍にとどまる『女性宮家』創設案を盛り込む一方、皇籍を離れて皇室活動を続ける案も併記した」「論点整理は、(中略)女性女系天皇誕生につながる反発が根強いことに配慮し、皇位継承権には踏み込まない前提で2案を併記した」「女性宮家創設案では、女性皇族が結婚後も皇族の身分を維持することから『皇室のご活動を安定的なものとすることができる』と明記。女性皇族の夫と子を皇籍に入れる案と、入れない案の両論を並べた。子を皇籍に入れる場合は女系の宮家後継者となって皇位継承権に踏み込みかねないことから、子は結婚後に皇籍を離れることとした。夫や子を皇籍に入れない場合は戸籍や夫婦の氏の扱いなど『適切な処置が必要』と指摘した」「一方、女性宮家を創設せず、『皇室離脱後も皇室のご活動を支援することを可能とする案』も併記。皇籍を離れた元女性皇族が『尊称』を使うことは困難とする一方、『国家公務員として公的な立場を保持』して新たな称号を付与することを検討課題にあげた」
 この記事では政府が発表した論点整理では「2案」と記載されている。ところが、10日の社説では「示された案は(中略)の三つ」と記載されている。社説では「(政府案は)全体としてわかりにくい印象になったのは否めない」とあるが、朝日新聞だけでなく読売新聞や毎日新聞も5日の夕刊や社説(読売新聞の社説の主張については前述のブログで批判した)でも「2案」あるいは「両論」と表記している。朝日新聞は「2案」が誤報で「3案」が正確だとするなら、5日夕刊の「2案」記事の訂正記事を掲載するのが新聞社としての当然とるべき姿勢だろう。
 では5日夕刊の記事が誤報だったのかどうか、いくつかの報道機関(マスコミ)に聞いた。その結果、誤報ではないことが明らかになった。ではなぜ朝日新聞は10日の社説で、政府発表の論点整理の案を二つから三つに増やしたのか。その理由は3案に増やした直後の主張で明らかになった。社説はこう述べている。
「イメージしやすいのは①案だろう。②案は一家の中で身分や待遇がばらばらになり、違和感が残る。③案はまとめの段階でやや唐突に出てきた。なお詰めるべき点があるように思う」
 ところが、実は①案はすでに論点整理の過程で葬られた案である。5日の夕刊1面での記事のサブタイトルで、すでに述べたように「対象は内親王限定」と明記している。なぜ対象を内親王に限定したのか。この記事を補足して解説する。
 女性宮家を創設して内親王(天皇からみて直系で2親等以内の皇族女子の身分の称号)を皇族にとどめる場合、夫や子供の処遇をどうするか、論点整理の過程で議論されたことは事実である。その過程で、もともと皇室とは縁もゆかりもない民間人の夫を皇族にするなどということは誰が考えてもあり得ないことで、真っ先に否定された。このことは有識者の間でも議論の余地がない当然の結論だったようだ。
 一方子供の扱いについては議論百出とまではいかなくても、様々な視点から議論されたようだ。皇室典範第1条には皇位継承について「皇位は、皇統(筆者注ーこの言葉は事実上死語となっているので以下「皇族」と記す)に属する男系の男子が、これを継承する」と定められている。もし女性宮家の創設で皇室にとどまった内親王(結婚後は新しい女性皇族の身分の名称がつくられることになる)が男子を生んだ場合、現在の皇室典範によれば自動的に皇位継承の資格を得る。そこで問題になったのは皇室典範で定められている皇位継承資格の「男系」に抵触する可能性が生じかねないということだった。だから論点整理では女性宮家を創設する場合でも一代限りとして、夫は言うまでもなく子供も皇族にはしないことにしたのが論点整理の結論であった。この「皇位継承問題」を正確に理解するのはかなり高度な論理的思考力が要求される。前ブログでも一応説明したが、やはりわかりにくいという読者の声があったので、後で現在の皇室の構成を踏まえてわかりやすく説明したいと思う。
 その問題は、したがって後回しにするとして朝日新聞は社説でなぜ「3案」に増やしたのか、の問題に戻る。
 朝日新聞社説はこう述べた。「イメージしやすいのは①案だろう」と。では①案はどういう内容だったか。読者に画面をスクロールして読み返していただくのは恐縮なので、もう一度①案だけ転記する。「女性も結婚後に宮家を構え、皇室にとどまる。夫や子供も皇族とするが、子は結婚すると身分を離れる」。
 こんな案は論点整理の中にない。子供の扱いについて論点整理の過程で議論されたことは事実であり、それは私も認めている。しかし、その議論の過程ですでに除外され、女性宮家を創設する場合でも一代限りにすることにした理由も私はすでに述べた。
 つまり5日夕刊の第1報の「2案」が正確なのか、10日社説の「3案」が正確なのかの問題では、もはやないということを賢明な読者はもうお気づきだろう。
 実は朝日新聞は6日朝刊2面トップ記事で続報している。大見出しは「女性宮家 踏み込まず」でサブは「政権『本命』案 反対受け後退」である。この記事のリードで記者はこう書いている。
「野田政権は皇室典範の見直しに向けた論点整理で、『女性宮家』創設案と皇籍を離れて国家公務員として活動を続ける2案を示した。女性女系天皇容認につながるという強い懸念を背景に、当初目指した女性宮家の創設は後退した」と。
 このリード文には読者の誤解を確実に招く誤った表記が含まれているが、それは後で指摘する。とりあえず論点整理は、①内親王が結婚後も皇族として皇室活動を行えるよう「女性宮家」を創設する、②それが不可能な場合国家公務員として云々(この案の表記が不正確)、の2案に絞られたことを明記している。
 その後、朝日新聞には女性宮家問題に触れた記事は掲載されていない。したがって10日社説の「3案説」は朝日新聞論説委員の完全なでっち上げであることが明らかとなった。なぜ朝日新聞論説委員は追加の①案をでっち上げたのか。そういう意図的なでっち上げをする場合、それなりの意図なり目的があってのことであることはジャーナリストにとって常識である。
 その朝日新聞のでっち上げの真意を忖度する前に6日の続報リード文の間違いをここで指摘しておこう。あまり後に延ばすと読者が忘れてしまいかねないからである。私はなんて読者に親切なんだろう(自画自賛)。
 リード文の2案について記者は「皇籍を離れて国家公務員として活動を続ける」と記載した。皇籍を離れれば、当然のことだが民間人になる。民間人になれば国家公務員になれる。通常国家公務員になるには採用試験に合格しなければならないが、そういう揚げ足を取るようなことはやめておく。問題は国家公務員の場合行政機関に所属する、つまり政治と密接不可分な仕事をするのが国家公務員の仕事である。だから国家公務員には高度な守秘義務が課せられているのである。そういう特殊な職務に就く国家公務員が、元皇族であっても皇室活動を続けられるわけがない。だから論点整理では「国家公務員の身分で皇室活動を支援する」と、多少意味不明と取られかねない文章にしたのである。この文の意味するところを正確に理解するには多少の困難さが伴うが、正確を期すため難解な表現にせざるを得なかったのだ。
 まず「国家公務員の身分」という新しい概念を作り出しておきながら、その意味の説明をしていない(というより、できない)ことがひとつ。また「皇室活動を支援」とはどういう行為あるいは活動を意味するのか、私にも依然としてさっぱりイメージがわかない。論点整理をまとめた方も苦肉の策として意味不明な表現を採用せざるを得なかったのだろう。
 たぶんリードを書いた記者自身がこの難解な文章が意味しようとした意図をまったく理解できなかったがゆえに、読者に対する親切心で、誰にでも理解できる文章にしようとしたことがそもそもの間違いのもとだったのだろう。本来なら原稿段階でデスクがチェックして多少難解でも正確な文章に書き換えるべきだったのだが、デスクも無能だったため「誤訳」がそのまま活字になってしまったのだろう。
 さて朝日新聞の社説は①案をなぜでっち上げたのか。朝日の真意はどこにあるのか。
 ここまで綿々と批判しながら、いったい何が言いたかったのか、という読者のお叱りを、実は私は最初から覚悟の上でここまで書いてきた。社説の締めくくりと私の全部ロブの締めくくりを併記する。まず朝日新聞。
「悠仁さまが生まれ、皇位継承への差し迫った不安はない。今考えるべきは、皇室活動の内容や規模はいかにあるべきかで、それを皇族方にどう担ってもらうのが適切かという問題だ。政府案を踏まえ(筆者注ー政府案を踏まえたという形式にこだわったため①案をでっち上げることになってしまった。まさに痛恨のでっち上げと言えよう)、合意を探る努力を重ねる必要がある」「将来、皇位継承の問題を真剣に検討しなければならない時が来る可能性はある。そうなった時は、その時点で考えられる選択肢の中から、その時の国民が答えを出せばいい」「今の世代は判断の幅を残しながら次代に引き継ぐ。この問題にはそんな姿勢でのぞみたい」
 次に私の前ブログ『なぜ読売新聞論説委員室は政府の「女性宮家」創設案に賛成したのか!?』(10月8日投稿)朝日新聞社説が問題提起した点に対応した個所を再記する。まず「今考えるべきは、皇室活動の内容や規模はいかにあるべきで、それを皇族方にどう担ってもらうのが適切かという問題だ」という朝日新聞社説に対応する個所を再記する。
「皇室の公務は大きく分けて、国内の大きな行事への出席と、いわゆる皇室外交の二つである。二つのうちあまり減らすべきではないのは皇室外交のほうだ。国内行事についてははっきり言ってどうにでもなる」「通常独立国の外交力を左右する要因は、軍事力と経済力の両輪である。中国が急速に国際的発言力を強化できたのは、この両輪で世界を脅かすほどの存在になったからである」「現在の日本がどうかというと、日本の軍事力は他国にとって脅威の対象ではまったくない。相当の軍事力を持ってはいるが、憲法の制約もあり、軍事力を外交の切り札に使うことができないからだ。誤解を避けるために言っておくが、私は事実を述べているだけで、日本が保有する軍事力を外交手段に使えるよう憲法を改正した方がいいなどとは毛頭考えていない。ただ日本の防衛力を高め、国土と国民の安全をより確実なものにするため集団自衛権については国民的議論を行うべきだとは考えている」「さらにもう一つの外交力である経済力については、残念ながらひところの威力を失っている。単に数字の上でGNPが中国に抜かれたというだけでなく、国内の産業空洞化(実質的に日本が世界に誇ってきた最先端技術の海外進出を意味する)に歯止めがかからず、最先端技術製品の分野すら日本メーカーのブランド力は低下の一途をたどっている」「そうした状況の中で皇室外交が果たすべき使命は今まで以上に大きくなりつつあることは疑いを容れない事実である。が、皇室外交は皇族の数を増やせば解決できるような話ではない。いま皇室外交の要は皇太子が事実上お努めされている。秋篠宮さまも力の尽くせる限りご努力いただいている。日本人の一人として感謝の念に堪えない」「外交はいかなるケースも含めて微妙な問題を含んでいる。そういう教育を子供のころから受けてきたのは親王(男性皇族)だけである。そういう教育を受けていない内親王(女性皇族)に、付け焼刃で教育したところで親王に匹敵する外交手腕を身に付けれるようになるかといえば、それは不可能と言うしかない」「確かに国際的にみて女性の地位は高まってきている。そのことを考えると、女性皇族の教育方針も考えるべき時期に来ているのではないかとは私も思う。が、それは今後の親王、内親王の教育の在り方について有識者会議で検討し提案してもらいたいとは思う。しかし、今3人の女性宮家を創設することと直結するような話ではない。少なくとも「有識者」とされるジジイやババアの感覚で考えるような問題でもない。もっと長い目と複眼的視点で将来の皇室の在り方、皇室に何を期待すべきか、皇室の公務はどこまで求めるべきかなど、若い人の感覚で考え提案してもらいたいと思う」
 次に朝日新聞の社説にある「将来、皇位継承の問題を真剣に検討しなければならない時が来る可能性はある。そうなった時は、その時点で考えられる選択肢の中から、その時の国民が答えを出せばいい」という主張に対応する私のブログを再記する。
「すでに述べたように現在の皇室典範を継続した場合、皇位継承者がいなくなる可能性は否定できない。そこで女性天皇については多数の国民が賛意を示しており(※)、女系天皇とは切り離して皇位継承問題を考えたほうがよいのではないかと思う」
 ※ 秋篠宮さまに男子が生まれる前は、約40年の長きにわたり皇族に男子が生まれなかった。そのため当時の小泉総理が私的諮問機関を設置して国民の意を問うたことがある。この時朝日新聞をはじめ大マスコミはすべて「女性天皇を容認するか否か」の世論調査を行った。その結果は75%以上の国民が女性天皇を容認するという意思を示した。この時の状況で、国民が望んだのは皇太子の女子である愛子天皇だった。
「私論として提案するのは、皇位継承者候補(「候補」と書いたのは間違いで「順位」と書くべきだったー私のミス)の第1位は男女を問わず天皇の第1子、第2位は第2子、第3位は第3子……とする。要するに天皇の血が1/2受け継がれている子供たちの生まれた順にする。もし万一子供がすべて他界してしまった場合は、子供の子供(つまり孫)をやはり子供の継承順位からはじめて第1子、第2子……とする」「このような皇位継承制度にすれば、最もシンプルで合理的なシステムになる。ただし、この方法だと1/2の確率で女性天皇が生まれる。さらに女性天皇の第1子が皇位に就くと、男女を問わず自動的に女系天皇になる。しかし男系にこだわると、女性天皇は認めても甥や姪が天皇になる可能性は否定できない。そうなった場合、果たして象徴天皇に対する敬意を国民が持ち続けられるだろうか。これは男系にこだわるか、直系の血筋にこだわるかの問題である」「現状では何もことを急ぐ必要はない。ただ『有識者』の意見に頼るのではなく、広く国民の意思を問い、国民の総意に結論をゆだねることが最も大切なことだと思う」

 最後に、読者に約束した皇位継承の順位の定め方について、現在の皇族の構成をベースに解説しておく。すでに読者もご承知のように皇位継承者資格保有の3条件は①皇族であること、②男系であること(父親が皇族であることを意味する)、③男子であること、である。なお皇族の範囲は天皇(今上天皇ではなく、当該者が生まれた当時の天皇)からみて2親等までである。
 その条件を満たす皇位継承権がある皇族を、継承順位から書く。
 第1位 皇太子徳仁親王(今上天皇の第1男子 52歳)
 第2位 秋篠宮文仁親王(今上天皇の第2男子 46歳)
 第3位 悠仁親王(秋篠宮家の第1男子 6歳)
 第4位 常陸宮正仁親王(昭和天皇の第2男子 76歳)
 第5位 三笠宮崇仁親王(大正天皇の第4男子 96歳)
 第6位 桂宮宜仁親王(三笠宮家の第2男子 64歳)
 皇位継承者は10月10日現在この6方だけである。年齢から考えて事実上の皇位継承者は第3位の悠仁親王までである。悠仁親王が無事ご成人され、少なくとも複数の男子のお子様を未来のお妃がお産みになるまでは男系男子の天皇が継続するという保証はない。
 朝日新聞社説は「(男系男子の皇位継承者がいなくなる可能性に触れ)そうなった時は、その時点で考えられる選択肢の中から、その時の国民が答えを出せばいい」としたうえで「(そうなった時の)判断(つまり選択肢)の幅を残す」ことを主張したかったのである。そう解釈して初めて①案をでっち上げた目的が理解できる。つまり朝日新聞論説委員の真意は女性女系天皇を容認すべきと考えている点にあるのではないか。それならそれで姑息な手段によらず、「論点整理」が①案を葬ったことを、皇位継承者がいなくなる可能性を無視していると批判して、小泉総理の時議論された皇室典範改正案の原点に立って皇族問題を考えるべきで、皇族数の増減という一時的な現象で内親王の結婚後の処遇を検討するのは筋が通らないと指摘すべきだったと思う。

 

京大・山中教授のips細胞の研究は日本を救えるか。

2012-10-08 22:26:24 | Weblog
 うれしい、の一言に尽きる。
 ネット上には喜びの声が次々と書き込まれている。
 書き込みのキーワードは言うまでもなく「山中伸弥」。日本時間8日6時半過ぎ民放のニュース番組でアナウンサーが「たった今入ってきたニュースです」と上ずった声で、山中伸弥・京大教授のノーベル医学・生理学賞受賞が決まったことを伝えた。
 その瞬間から喜びとお祝いの声がネットに殺到した。
 昨年から山中教授のノーベル賞受賞はすでに決定視していた。実際、昨年のノーベル賞選考段階で山中教授は本命視されていた。だが、残念ながら、昨年は最有力候補とされながら受賞を逃した。私も含めて日本国民の落胆は大きかった。その思いがやっとかなった。
 ノーベル賞を受賞した日本人は米国籍の南部陽一郎氏も含めると山中教授が19人目になる。だが、山中教授の研究業績は、単なる1/19ではない。
 科学分野(医学・生理学、物理学、化学)のノーベル賞受賞者は毎年選ばれる(該当者なし、という年もまれにだがある)。なかにはキューリー夫人のように2度もノーベル賞を受賞した偉人もいる。
 ノーベル賞の受賞者は、日本人であろうと外国人であろうと、受賞に値する研究成果を出した人たちである。そういう人たちにケチをつけるつもりは毛頭ない。だが、過去のノーベル受賞の対象になった研究成果に比べても、山中教授の研究成果は突出した数少ない研究の一つと言っても差し支えないと思う。
 1947年、米ベル研究所(日本でいえばNTT研究所のようなもの)のウィリアム・ショックレイをリーダーとする研究グループがトランジスタを発明した。そのトランジスタはのちに「3本足の魔術師」と絶賛されるに至るが、いったい何に使えるのか、肝心の発明者たちにすらわからなかった。
 それを世界で初めて実用化したのが東京通信工業(現ソニー)の創始者の一人、井深大氏だった。彼が実用化した製品がトランジスタラジオであった。その後単体の半導体素子だったトランジスタを集積したICが発明され、第2の産業革命と言われるエレクトロニクス時代が始まった。もちろんショックレイらトランジスタの発明に大きく貢献した3人はノーベル物理学賞を受賞した。
 山中教授の研究は、トランジスタを発明して第2の産業革命への第一歩を踏み出したショックレイらに匹敵すると思う。医学的知識が皆無の私にはips細胞なるものがどういう細胞なのか、ウィキペディアの解説を読んでも専門的すぎる説明なのでさっぱりわからない。ただ回復不可能な臓器を移植によらず患者の体の一部からとった細胞に何らかの細工を施すことによって正常な臓器を作り出す可能性があるようだということ、またその根拠もさっぱりわからないがこれまでは創れなかった夢の新薬を創れる期待があることぐらいしかわからない。NHKのニュースで山中教授自身がアナウンサーのインタビューに答えて、「実用化は10年、20年先でしょう」と述べたくらいだから、ショックレーらがトランジスタを発明した時と状況も似ている。
 ただ夢が実現した時は、ショックレーらが切り開いたエレクトロニクス革命と同様、世界の医薬界に革命をもたらすことだけは疑いを容れない。山中教授の研究成果はそれほど大きな意味を持っている。というより、山中教授を中心に日本の医薬界(公的研究機関や大学医学部、医療界、製薬会社の研究所など)がいくつかの横断的研究チームを作って、ips細胞の実用化で日本が世界をリードできるよう、厚労省は直ちにテーマごとの横断的研究グループを作るための努力を、厚労省の総力を挙げて取り組んでほしい。
 幸いなことに、エレクトロニクス産業と違って工場や技術を人件費が安い国に移転して、肝心の日本メーカーが国際競争力を失うような分野ではない。しかも後発グループに甘んじていた日本の医薬界が一気に世界の最先端に踊り出れる最後のチャンスだ。この分野の研究に必要な資金をつくるための特別目的税をつくってもいいとすら私は思っている。

なぜ読売新聞論説委員は政府の「女性宮家」創設案に賛成したのか!?

2012-10-08 08:54:21 | Weblog
 政府はなぜ今頃になって「女性宮家」創設の検討を始めたのか。
 劣勢が予測されている次期総選挙での、起死回生的手段として国民から支持を得るための一石を投じたいと考えたのか。
 いちおう政府は今年2月から12人の有識者から6回にわたって有識者からヒアリングした結果を踏まえ、論点整理を公表した。
 政府によれば、論点整理の具体的内容とはこうだ。
 現在の未婚の女性皇族(内親王という)3人が結婚後も皇族の身分を維持し(ただし一代限り)、皇室活動の一翼を担えるよう「女性宮家」を創設するというのだ(もちろんまだ構想段階)。その場合、内親王という皇族の称号を持ち続ける案も検討されたようだが、現時点では実施困難という結論になり国家公務員の身分で皇室活動を支援できるようにする案も併せて検討しようというのだ。
 意味がさっぱり分からないのは「国家公務員の身分で皇室活動を支援する」という内容だ。国家公務員は日本の行政機関や特定独立行政法人に勤務する人である。行政機関は政府の政策の立案や実施に直接関与する。その行政機関の職員(そういう立場の人を国家公務員という)はいわば「政治職」である。したがって「皇室活動を支援する国家公務員」は基本的には宮内庁の職員ということになる。いったい宮内庁の職員として、どういう役職に就き、どういう「皇室活動の支援」(皇室活動そのものではない)をするというのか。そこを明確にしてもらわないと議論のしようがないではないか。「女性宮家」の創設は困難であることを見越して、こういう意味不明な案も作ったのだろう。従ってこのブログでは「国家公務員の身分で……」案については無視し、「女性宮家」の創設に絞って問題点を指摘する。
 
 現在の皇室典範によれば、女性皇族が皇族以外の男性と結婚した場合は皇族の身分から離れると定められている。
 実は2000年代初頭に皇室典範を見直すべきではないか、という議論が国民的規模で巻き起こったことがある。そのきっかけは2004年に当時の小泉純一郎総理が私的諮問機関の「皇室典範に関する有識者会議」を設置し、皇室典範改正の検討を始めたことによる。
 皇室典範は第1条で皇位継承に関して「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めている。ところが小泉総理が私的諮問機関を設置した当時は、事実上皇位継承者は皇太子成人親王(皇位継承資格第1位)と皇太子の実弟・秋篠宮文人親王(第2位)の二人だけだった(ほかにも3位以下5位までの3人の皇位継承資格者がいたが、年齢等から考えて事実上皇位を継承する可能性はほぼゼロと考えられていた)。当然皇太子に男性の第2子が生まれることを国民の大多数は期待していたが、雅子様の体調問題もあって、その期待はなかなかかなえられず、皇位継承資格第2位の秋篠宮様にも男子のお子様がいなかったため、皇室典範の改正が喫緊の課題として浮上したのである。
 つまり皇太子にも秋篠宮様にも男子のお子様が生まれなかった場合、「日本国と日本国民統合の象徴である天皇」(憲法による規定)の継承者がいなくなってしまう可能性が高まったというのがというのが国民大多数の危機認識となったのである。実際、その可能性が現実化した場合、そういう事態にも対処できる皇室典範に改正すべきではないかということが、小泉総理の私的諮問機関設置の最大の理由であった。
 この時国民的規模で議論されたことは、現政府が「女性宮家の創設を検討すべきだ」とするスタンスを明らかにしたこととは全く意味が違う。そのことを、まず読者は念頭に置いてこのブログを読んでほしい。
 小泉内閣時代に議論されたのは、女性天皇を認めるか否か、さらに女系天皇も認めるべきか否か、の2点だった。皇族の範囲を広げるといった視点は全くなかった。問題にしたのは皇室典範で定められている皇位継承者の3つの資格条件を部分的に改正し、資格者の範囲を広げることによって当時の危機的状況を打開することが目的だった。だから議論されたのは女性天皇を容認するか、また女系天皇を皇統史上初めて容認すべきか、という2点に絞った議論を行ったのである。
 ここでもう一度皇室典範に戻るが、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」という短い文には3つの条件が定められている。
 まず「皇統」(現在はそういう表現は事実上使われていないので、以下「皇族」と記す)という限定である。内親王(男性皇族である親王のお子様で女性の方。たとえば皇太子の第1子・愛子様、秋篠宮様の第1子・眞子様、第2子・恵子様など)は未婚の状態の間は皇族に属するが、皇族以外の方と結婚されると皇族から離れ民間人になる(自ら皇族を離脱して民間人になられた元内親王もおられる)。
 つまり男子皇族の「親王」は一生皇族の身分が保証されるが、女性皇族の「内親王」は民間人と結婚されると皇族から離脱するのである。その「内親王」を、民間人との結婚後も宮家(1代限りということだが)にする(つまり皇族の身分を維持する)というのが政府が検討している「女性宮家」案なのである。
 そうなると、たとえ女性宮家は1代限りであっても、皇族には間違いないのだから、その元内親王に男子のお子様が生まれたら皇位継承資格が生じるのか否かを明確にすることが「女性宮家」問題を論じる場合の大前提になる。それを明確にしないまま「女性宮家」の創設などあり得ないはずだ。「女性宮家」創設についての最重要視点を欠いたアボな読売新聞論説委員は、10月6日の社説『女性宮家案 皇族活動の安定へ議論深めよ』の冒頭で「皇室活動の安定性を確保するために、方向性を打ち出したことは一定の前進である」と政府案を支持した。
 これは皇室外交に日本の将来をどこまで託すべきかに関わる問題でもあり、皇族の数を増やせば皇室外交力が大きくなると期待しているようにも取れる。野田政権と読売新聞はいったい何を考えているのかと言わねばならない。この問題は後でまた触れる。
 二つめに「男系」という条件である。すでに述べたように男性の皇族は終身「親王」という身分を持つ皇族である。ただし親王の身分は天皇からみて直系で2親等までの男性とされているが、この身分はやはり終身である。
 一方「内親王」も天皇からみて直系で2親等以内の未婚の女性皇族の身分である。が、天皇のお子様の内親王であっても、民間人と結婚した時点で皇籍を失うため、そのお子様は天皇からみて2親等ではあるが、内親王にはなれない。したがって現在の内親王は皇太子の娘の敬宮愛子内親王、秋篠宮の娘の眞子内親王、恵子内親王の3人だけということになる。彼女たちは今上天皇からみて孫(つまり2親等)にあたる。
 つまり「男系」というのはそれなりの意味を持つ皇位継承資格を持つ皇族とされているのであって(だがすでに述べたように親王の男性のお子様がすべて皇位継承資格を持っているわけではない。たとえばラクビーの普及に尽力された秩父宮(以下名は省略)、競馬の「高松宮記念」で知られる高松宮、「髭の殿下」として国民から親しまれた三笠宮の3人はいずれも大正天皇の男子であり、1親等の皇族だった(この3人の長兄が昭和天皇)。またこの3人の中で男子が生まれたのは三笠宮だけで、三笠宮の3人の男子はいずれも大正天皇からみて孫(2親等)になるため「親王」の称号を持つ皇族である。しかし大正天皇からみた場合は2親等のため皇族の身分だが(親王は終身皇族)、昭和天皇からみればいずれも「甥」に当たり、三笠宮家の皇籍はこの3人で終わる。また昭和天皇には二人の男子が生まれ、長男が今上天皇、弟の常陸宮には男子はいないため、皇籍は常陸宮でなくなる。さらに今上天皇の男子は皇太子と秋篠宮(いずれも1親等)で、皇太子には男子がなく女子が一人(今上天皇からみれば2親等)、秋篠宮には女子が二人、男子が一人(やはり2親等)いる。ということは皇室典範が定めている皇位継承資格の順位は1位が皇太子、2位が秋篠宮、3位が秋篠宮の男子(悠仁親王)の事実上3人だけである。
 さて内親王が民間人と結婚されると皇族の身分から離れて一般人になるのも皇族の地位や身分、権利・義務・責任が極めて限定的に決められているからである。現在の皇族の方たちでは皇室活動が十分ではないと政府は考えているようだが、それならそれで「今後、皇室活動はどうあるべきか、そのためには皇族の範囲をどう限定すべきか」の説得力ある説明もなく。単なる数合わせのような「女性宮家」の創設について、今なぜ国民的議論を行う必要があるのか、私にはさっぱり理解できない。ま、読売新聞論説委員の方たちはご理解されているようだが……。
 ただし皇位継承資格の最後の条件である「男子」については中断状態になっている議論を再開する必要はあると私は思っている。2004年に小泉総理が設置した私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」を中心に、広く象徴天皇制の在り方について議論を始めようとしたときは、現在と違ってそれなりの必要性があったからだ。それは何度も繰り返すことになるが、皇室典範は皇位継承について「皇位は。皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めている。ところが1965年の秋篠宮文仁親王誕生以来約40年もの長きにわたって皇室に皇位継承資格を有する男子(すなわち親王)が生まれなかったため、将来皇位継承資格者がいなくなってしまう恐れが現実性を帯びてきた。その時に初めて「男系の男子」という皇位継承資格条件の是非についての国民的大議論が始まったのである。
 この議論の中で問題が生じたのは国民がこの議論の意味をよくわからず(その点についてはマスコミの責任は大きい。女性天皇を容認するかと、女系天皇を容認するかは全然別問題だという説明をきちんとしなかったからである。女性天皇を容認するということは、愛子様に皇位継承資格を与えることを意味するが、愛子様が即位された場合、次の天皇に男女を問わず愛子天皇のお子様が皇位継承者になると女系天皇が皇室史上初めて生まれることになる。そのため男系・女系の意味をよく理解しているごく少数の方たちから「愛子天皇の後継天皇の継承資格をどうするのか」といった疑問が出されたのだが、その疑問の意味を大半のマスコミが理解できなかったようだ)、その結果「海外には女性の国王もいるではないか。日本にだって推古天皇や持統天皇など8人10代もの女性天皇が存在したではないか、という女性天皇容認論が多数を占めたのである。
 ここで明確にしておくが、「女系天皇はかつてひとりたりとも存在したことはなかった」という歴史的事実である。が、「女性天皇は存在した」というのも歴史的事実である。つまり「女系天皇」と「女性天皇」は全く異なる意味を持ったカテゴリーなのだ。それが議論を混乱させた最大の要因であった。
 ところで小泉総理の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」での議論について『ウィキペディア』ではこう解説している。
 
 (有識者会議での)会合では、皇位継承の原理の案として①第1子優先、②兄弟姉妹間で男子優先、③男系男子優先、④男子優先、の4つが提示された。①の場合、男女にかかわらず天皇直系の長子が皇位を告ぐ。②の場合、例えば愛子内親王に弟が生まれた場合、その子が皇位を告ぐ。生まれなかった場合は愛子内親王が皇位を告ぐ。③の場合、父親が後続である男子が優先される。④の場合、男系女系にかかわらず、男子が優先される。(中略)(2005年)10月25日、有識者会議は全会一致で皇位継承資格を皇族女子と「女系皇族」へ拡大することを決めた。(中略)ただこの時点では、皇位継承順位は男子優先か長子優先かについて意見がまとまっていない。(中略)有識者会議の結論に対して、言論界の一部からは強い反発があり、特に女系天皇も容認しようとする同会議の姿勢に対しては「なし崩し的である」(※ 意味不明)との強い疑問の声も上がった。有識者会議には単なる男女平等論調の観点から意見を述べた委員が複数いることも判明し、また結論を急ぎすぎていると同指針に対する批判も相次いだ。女系による皇位継承の容認は、日本の建国以来、神武天皇の男系の血統を連綿と継承してきたとされている「万世一系」と称される皇統の断絶を意味するとし、有識者会議が否定した旧皇族の復籍を、特別法の制定などの方法によって実現させ、男系の皇位継承を維持するべきとする意見が表明されている。(中略)この数年間、皇位継承問題についての世論調査は全国紙や通信社、テレビ局によるものだけでも計10回以上実施されている。その結果によると、ほぼ常に2/3以上の国民が女性天皇や女系天皇に賛成し、女性天皇への賛成は75%以上にもなる。女性・女系天皇を容認する場合に男子と長子といずれを優先すべきかについては、前述のように意見が分かれている。ただし、国民が女性天皇と女系天皇との違いをどれだけ理解しているかについては疑問が残る。(中略)
前述したように、女性天皇や女系天皇の是非についての世論調査は何度も行われているが、両者の相違についての理解度についての統計調査はほとんど実施されていない。

 ウィキペディアの解説の引用も含め、私のブログを読んでくださっている方は、これで女性天皇と女系天皇の違いについては十分ご理解いただけたと思う。
 秋篠宮に男系男子の悠仁親王がお生まれになったことによって、とりあえず皇位継承問題は回避できたが、今後も男系男子の皇位継承が保証されたというわけではない。そういう意味では、国民の総意に基づいた皇室典範の見直しや皇室活動の内容について有識者からヒアリングを行い、その論点を整理して国民の意見を問うことは決して意味のないことではない。が、国民の議論も経ず、論点整理がなぜいきなり「女性宮家」の創設(たとえ一代限りとしても)に直結するのか、また「女性宮家」の創設が困難な場合は国家公務員の身分で皇室活動を行うという代案(両論併記といってもいい)を提案したのか、私にはまったく理解できない。
 でも理解できる方はいらっしゃるようなので、その方の主張にとりあえず耳を傾けてみよう。言うまでもなくバカ集団の読売新聞論説委員が書いた社説である。読売新聞論説委員(以下論者と記す)はこう主張する。
「(女性宮家の創設について)妥当な内容だろう。財政支出を抑制する観点から、結婚後も皇室にとどまることができる女性皇族を天皇の子・孫である内親王に限定した点も理解できる」
 この文脈はめちゃくちゃである。まず「財政支出の抑制」という表現に私は引っかかった。女性宮家の創設がなぜ財政支出の抑制になるのか? 内親王が民間人と結婚して皇籍を外れると(その時には相当額の生活支援金が与えられるが)、普通の民間人になるのだから以降財政負担はなくなるはずだ。一代限りであっても女性宮家を創設して内親王を終身皇族にとどめると、その間財政負担は増大する。どういう算盤を使用すれば、皇族にとどめつつ財政負担を抑制できるのか教えてほしい。ひょっとすると一般家庭にとっても家計を抑制できるアイディアがおありなのかもしれないので、ぜひお聞きしたい。
 さらに論者の主張に耳を傾けよう。
「論点整理は、『女性皇族が、婚姻を機に皇籍を離脱することで、皇族数が減少し、皇室のご活動を維持することが困難になる事態』に強い危機感を示している。
 未婚の女性皇族8人のうち秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまをはじめ6人がすでに成人された。
 女性皇族の結婚後の身分をめぐる議論が長期化すれば、眞子さまらのご結婚にも深刻な影響を及ぼしかねない」
 まず論点整理が主張する「皇族数が減少し、皇室のご活動を維持することが困難になる事態」は現状では確かに避けられない。そういう場合、選択肢は皇族数を減らさないために女性宮家を創設するというだけではないはずだ。いったん女性宮家を創設してしまうと、将来内親王が増えたから元に戻しましょうと制度を簡単に変えられるわけがない。そうなると皇族が増えた分だけ皇室が行う公務を増やそう、となることは目に見えている(ピーターの法則)。
 IT技術の急速な進歩によって公務員の仕事の能率は急速に向上した。たとえば市役所や区役所で住民票や印鑑証明などを発行してもらう場合、銀行のATM機のような設備を導入することによって人手を要さず短時間で発行できるようになった。民間企業ならその分社員を減らす工夫をするが、官公庁や役所は違う。その実態は、A官庁は所属する公務員の仕事を確保するため不必要な業務を無理やり作り出し、B官庁、C官庁と縄張り争いを始める。皇族を増やすということは、官公庁と同じく皇族の公務を増やす結果になりかねない。皇族の数が減ったら皇室の公務を減らし、宮内庁の幹部や政府高官が肩代わりすることをなぜ考えないのか。
 皇室の公務は大きく分けて、国内での大きな行事への出席と、いわゆる皇室外交の二つである。二つ
のうちあまり減らすべきではないのは皇室外交のほうだ。国内行事についてははっきり言ってどうにでもなる。
 通常独立国の外交力を左右する要因は、軍事力と経済力の両輪である。中国が急速に国際的発言力を強化できたのは、この両輪で世界を脅かすほどの存在になったためである。
 現在の日本はどうかというと、日本の軍事力は他国にとって脅威の対象ではまったくない。相当の軍事力を持ってはいるが、憲法の制約もあり、軍事力を外交の切り札に使うことができないからだ。誤解を避けるために言っておくが、私は事実を述べているだけで、日本が保有する軍事力を外交手段に使えるよう憲法を改正した方がいいなどとは毛頭考えていない。ただ日本の防衛力を高め、国土と国民の安全をより確実なものにするため集団自衛権については国民的議論を行うべきだとは考えている。
 さらにもう一つの外交力である経済力については、残念ながらひところの威力を失っている。単に数字の上でGNPが中国に抜かれたというだけでなく、国内の産業空洞化(実質的に日本が世界に誇ってきた最先端技術の海外流出を意味する)に歯止めがかからず、最先端技術製品の分野すら日本メーカーのブランド力は低下の一途をたどっている。
 そうした状況の中で皇室外交が果たすべき使命は今まで以上に大きくなりつつあることは疑いを容れない事実である。が、皇室外交は皇族の数を増やせば解決できるような話ではない。いま皇室外交の要は皇太子が事実上お努めされている。秋篠宮さまも力の尽くせる限りご努力いただいている。日本人の一人として感謝の念に堪えない。
 外交はいかなるケースも極めて微妙な問題を含んでいる。そういう教育を子供のころから受けてきたのは親王(男性皇族)だけである。そういう教育を受けていない内親王(女性皇族)に、付け焼刃で教育したところで親王に匹敵する外交手腕を身に付けれるようになるかといえば、それは不可能と言うしかない。
 確かに国際的にみて女性の地位は高まってきている。そのことを考えると、将来的に女性皇族の教育方針も考えるべき時期に来ているのではないかとは私も思う。が、それは今後の親王、内親王の教育の在り方について有識者会議で検討し提案してもらいたいとは思う。しかし、今3人の女性宮家を創設することと直結するような話ではない。少なくとも「有識者」とされるジジイやババアの感覚で考えるような問題でもない。もっと長い目と複眼的視点で将来の皇室の在り方、皇室に何を期待すべきか、皇室の公務はどこまで求めるべきかなど、若い人の感覚で考え提案してもらいたいと思う。
 さらに論者は「論点整理」についてこう紹介している。
「女性皇族が結婚後も皇族にとどまって宮家を創設した場合も問題はある。その夫や子供に対し、皇族の身分を付与すべきかどうかといった点だ。これについても両論併記にとどめている」
 内親王が民間人と結婚後も皇族としての身分を維持するという規定だけなら、皇室典範の部分的改定ですむが、その夫や子となると皇族の原則をそっくり変えなければならなくなる。まず男子・女子にかかわらず、皇族は在位中の天皇の2親等までという大原則がある。この原則により、大正天皇の1親等は昭和天皇を含め4人の男子皇族(親王)がおり、そのうち昭和天皇を除いて2親等の男子皇族がいたのは三笠宮さまの3人の男子(すべて親王)だけである。次に昭和天皇の場合は男子1親等は今上天皇と常陸宮さまの二人だけで、2親等の皇族は今上天皇の1親等である現皇太子と秋篠宮さまだけである。そして現時点での今上天皇の2親等皇族は4人である(うち親王は一人だけ、後の3人は内親王)。したがってこの3人の内親王が、仮に結婚後も皇族にとどまるとしても、その期間は今上天皇の在位中までであって、皇太子が即位されると愛子様を除いてほかの2人は天皇の「姪」になって2親等から外れてしまうのだ。たとえ親王と同じく終身の皇族身分を与えるようにしたところで、それは彼女たちだけの話で、夫や子供が皇族になれるわけがない。そんな絶対にありえないケースを「両論併記にとどめている」と評価する記述をした論者の頭の中を見てみたい(ただし私が「絶対にありえない」と書いたのは現在の3人の内親王が結婚後も皇族の身分を維持できるようにした場合ということを前提にして言っており、将来に生じうるあらゆる可能性まで想定はしていない。そこまで考慮するとしたならば内親王が二桁になる可能性だってありうるわけで、その場合どうするのかも併記する必要が生じるからだ)。
 
 以上で内親王の皇籍離脱問題についてのブログを終えるが、すでに述べたように現在の皇室典範を継続した場合、皇位継承者がいなくなる可能性は否定できない。そこで女性天皇については多数の国民が賛意を示しており、女系天皇とは切り離して皇位継承問題を考えたほうがよいのではないかと思う。
 私論として提案するのは、皇位継承者候補の第1位は男女を問わず天皇の第1子、第2位は第2子、第3位は第3子……とする。要するに天皇の血が1/2受け継がれている子供たちの生まれた順にする。もし万一子供がすべて他界してしまった場合は、子供の子供(つまり孫)をやはり子供の継承順位からはじめて第1子、第2子……とする。
 このような皇位継承制度にすれば、最もシンプルで合理的なシステムになる。ただし、この方法だと1/2の確率で女性天皇が生まれる。さらに女性天皇の第1子が皇位に就くと、男女を問わず自動的に女系天皇になる。しかし男系にこだわると、女性天皇は認めても甥や姪が天皇になる可能性は否定できない。そうなった場合、果たして象徴天皇に対する敬意を国民が持ち続けられるだろうか。これは男系にこだわるか、直系の血筋にこだわるかの問題である。
 現状では何もことを急ぐ必要はない。ただ「有識者」の意見に頼るのではなく、広く国民の意思を問い、国民の総意に結論をゆだねることが最も大切なことだと思う。
 

読売新聞論説委員の国語能力を再び問う  お前らアホか!

2012-10-02 10:28:10 | Weblog
 「自分のことを棚に上げて」とは、こういうことを言うのだろう。
 読売新聞9月30日付朝刊に掲載された社説『漢字書く力の低下が気になる』のことである。
 正直高齢者世代に入った私の「漢字書く力」はかなり低下している。老齢化に伴って漢字だけでなく友人の名前など度忘れすることが激しくなっている。
 困るのはフィットネスクラブでエクササイズをしているとき、「こんにちは」と挨拶された時である。私はフィットネスクラブでジムだけでなく、スタジオでのレッスンプログラム(エアロ・骨盤・ピラティス・パワーヨガなど)やプールでのレッスンプログラム(アクア・ウォーキング・クロール・平泳ぎ・背泳ぎなど)に参加している。周りにはいっぱいレッスンに参加している会員がいる。私がいる方面に向かって挨拶されても、私に挨拶されたのか、それとも私の近くにいる人に挨拶されたのかさっぱりわからない。そこでどっちともとれるようなあいまいな会釈じみたうなずき方をして難を逃れることにしている。「難を逃れる」というのはおかしな表現だが、私にとっては心底そういう感じなのだ。
 もともと私は子供のころから記憶力が弱かった。抜群の記憶力を80歳を超えても維持していた亡父を思うと、つくづく不肖の子だったなと思う。
 もともと記憶力が弱かったため、かえってプラスになったこともある。私が偶然のきっかけからジャーナリズムの世界に飛び込んで(当時は当然のことながら手書き)、自分がいかに漢字を覚えていないかをつくづく思い知らされた。だからものを書くときは辞書{国語辞典より用字用語辞典}がものすごく役に立った。
 英語でもそうだが、ひとつの単語が複数の意味を持つケースがたくさんあることは誰でも知っている。しかし日本語の場合は一つの単語が複数の意味を持つだけでなく、「同音異義語」がこれまたたくさんあるという厄介な言語なのだ。
例えば「こえる」という言葉に当てはまる漢字は常用漢字でしょっちゅう使用されるのは(ということは常用漢字に含まれない漢字もあるということ)「超える」と「越える」の二つがある。ほとんど使われない漢字まで含めると「肥える」「乞える」「請える」などの常用漢字すらある。パソコンや携帯電話の普及が漢字を記憶する必要性を急速に奪ったことは事実で、私に言わせれば漢字を書く力を付けたところで文章を手書きで書くケースがほとんどなくなっている現代社会が最も必要としているのはパソコンで漢字変換したとき意味が正しく伝わる漢字を選択する能力を向上させることのほうがはるかに重要なのだ。
 私は現在ワードは2010を使用しているが、利便性は抜群に良くなった代わりに漢字変換能力がめちゃくちゃ低下してしまった。2007までの学習能力に代えて人工知能を変換の際に採用するようにしたということだが、その結果変換能力がめちゃくちゃになってしまった。読売新聞の社説のタイトルを再変換せずにひらがな入力して変換してみよう。
 『漢字角地からの低下が気になる』
 これがワード2010の変換能力である。人工知能を組み込んだら、どうして「角地から」などという日本語にはない漢字変換になってしまうのか(「かどち」とひらがな入力すれば「角地」と変換されても不思議ではないが)、私はこれまで「漢字書く力」という文を4回入力した。少なくとも学習機能(最後に選択した漢字が最初に変換される機能)だったら、初めはおかしな変換をしても再変換して正しい変換を選択すれば、次からは正しい変換が行われる。2007をお使いの方がいたら同じ作業をやってみてほしい。おそらく正確な変換をしてくれるはずだ。
 しかし2010の変換能力は別として、私たちは学校で言葉を漢字で教えられてきた。これは国語教育の欠陥の一つだと思うが、教科書の「国語」には漢字に振り仮名をつけていないはずだ。そのためパソコンを使いだして一番困ったのはひらがなの入力ミスである。例えば「せんきょぢばん」と入力して変換するとこうなる。「選挙ヂバン」。
 もちろん正確な漢字は「選挙地盤」である。私が正確な返還をするため改めて入力したひらがなは「せんきょじばん」であった。では今度は「じ」という一語を入力して変換をかけてみよう。最初に出てくるのは「自」である。そこで再変換してみた。結果は以下のごとしである。
  字・時・辞・地・痔・児・寺・次・ジ・磁・路……
 このくらいでいいだろう。今度は「地」を読みで漢和辞典で調べてみた。意外と「じ」という読みで「地」という漢字が使われるケースが多いのである。
  地獄・地酒・地所・地震・地蔵・地代・地頭・地主・地盤・地元……。
 まだまだあるのだが、この辺でいいだろう。ここで使われている「地」という漢字は「土地」あるいは「地域」を意味している漢字である。本来なら「ち」の濁点が正しい読みだと思うのだが、なぜ「し」の濁点になってしまったのか、そこから先は言語学者でない私にはさっぱり見当がつかない。日本語のおかしさというか、あるいは矛盾と言ってもいいのかもしれないのだが、いつの間にかこうした誤った読みが定着してしまったのだろう。
 まだ「こす」にはどういう漢字を当てはめるべきかは、比較的容易に判断がつく。例えば距離や年齢、スポーツの記録など数字が基準になる場合は「超す」が普通の使い方である。一方国境、峠など場所や地域が基準になる場合は「越す」が妥当な漢字である。
 だが、「はやい」を漢字にする場合は、私自身、非常に困惑することがしばしばある。「はやい」に該当する常用漢字では「早い」と「速い」の二つしかないが、その違いが判然としない。ほとんど同音同義語と言ってもいいくらいなのだ。「朝が早い」は簡単だが、講談社の『正しい漢字表記と用例時点』では、こういう用例を紹介している。「理解が早い」と「仕事が速い」。この用例を見てどう思われるか。私の場合は、このケースだったら両方ともたぶん「早い」を使うと思う。日本語にはこのような同音同意語、同音類似語が大変多い。子供が漢字を使う場合、そこまで神経質になる必要はないかもしれない。社会人になっても大方の人は職業上、そこまで厳密な用語法を身に付ける必要性はあまりないだろう。
 しかし、法律家やジャーナリスト、そして時には政治家などは正しい用語法を身に付ける必要が絶対にある。
 たとえば参院で野田総理が「社会保障と税の一体改革」法案を可決するため、自公から求められていた「早期の解散時期の明示」に対し、「近い将来」から「近いうち」に表現を変えて自民・谷垣総裁の同意を取り付け、その直後に公明・山口代表も同意して3党合意が復活して法案が成立したことは皆さんもご存じのはずだ。谷垣総裁はこの言葉を信じ「近いうちとは重い言葉だ」と記者団に繰り返し述べ、石原幹事長を筆頭とする対民主強硬派を抑え込んで政府提案に賛成して法案を成立させた。
 この「近いうち」がジャーナリストの間で大問題になった。3党合意が復活した直後、民主・輿石幹事長が「近いうちとは今国会中か」との記者団の質問に対し「そんなことはないだろう。まだ特例公債発行法案や選挙制度改革法案など重要案件が残っている」とうそぶき、その話を聞いた谷垣総裁が激怒したことは有名な話である。まさに民主が行ったのは政治的詐欺行為であり、どこまで輿石氏と野田氏が連携を組んで詐欺行為を働いたかは不明だが、この詐欺行為に引っかかった谷垣おろしに石原幹事長が舵を切った原因はこの一点にあった。
 ちなみに当時民主政権に対しマスコミの限度を超えた支持をしてきた読売新聞は「近いうち」の解釈についても限りなく「近い将来」を意味する政治家のコメントばかり紹介し、事実上輿石発言を容認するスタンスで政局記事を書き続けた。いったい読売新聞は事実上民主の主導権を完全に握ってしまった輿石氏にどこまで肩入れするつもりなのか。
 話が横道にそれたが、読売新聞の社説はこう述べている。
 「今後、日本語の能力が十分身に着いていない子供たちが、パソコンや携帯電話を使ってコミュニケーションを図る機会は増えていくだろう。漢字を書く能力が、ますます衰えていくのではないかと、懸念せざるを得ない」と。
 では読売新聞論説委員の漢字用語法の能力を検証してみよう。
 私はこのブログで「みにつける」(ひらがな入力)という言葉をこれまで2度使った。その個所をもう一度書く(漢字変換した文章)。
 「社会人になっても大方の人は、職業上、そこまで厳密な用語法を身に付ける必要性はあまりないだろう」「しかし法律家やジャーナリスト、そして時には政治家などは正しい用語法を身に付ける必要が絶対にある}
 私がこのブログで主張したかったことは大方の読者はもうお気づきだろうと思うが、漢字を書く能力より正しい漢字の選択と用語法を子供たちに学ばせることのほうがパソコン時代でははるかに大切だということを書きたかったのである。
 さて読売新聞論説委員の方は「みにつける」という言葉にどういう漢字を使用されたかである。
 読売新聞論説委員は「身に着ける」と表記した。
 私は「身に付ける」と2度にわたって表記した。
 では「着ける」と「付ける」の用例を講談社発行の『正しい漢字表記と用例辞典』が、どういう用語法を例示しているか転記する。
「着ける」……[身にまとう。位置にすえる]「衣装をー」「飾りをー」「色をー」
「付ける」……[合わせる。向ける。あとを追う]「名をー」「学力をー」「目をー」
      「気をー」「あの男をー」
 もう賢明な読者はお分かりだろう。「漢字書く力」とは学力や能力のことである。いったい読売新聞論説委員室は何を根拠に「漢字書く力」について「身に着ける」という表記を選択したのか。こんなアホが子供たちの漢字を書く能力を憂う資格があるのだろうか。だから私は『頭が悪い奴でないと読売新聞社には入社できないぞ』というブログを書いたのだ(9月23日投稿)。学力や能力を衣類と考えているような連中が何をほざこうが、説得力などあるわけがない。小学生からやり直してからものを書くように、これは心底親切心からのアドバイスだ。

 ついでにイトーヨーカドーの悪質極まりない宣伝表記について告発しておこう。イトーヨーカドーは8のつく日(毎月8日、18日、28日の3回。シニアは15日も適用される)をハッピーデーとして「ほとんどの商品を5%割引」というビラを店内随所に貼っている。
 私はこのブログで野田総理が「政治生命をかけている」と耳にタコができるほど聞かされてきた「社会保障と税の一体改革」法案の成立を訴え、自民・谷垣総裁の協力を得るため「近いうち解散」を約束したことを反故にしたことに対し「政治的詐欺行為」という厳しい批判をした。誰が考えても「近いうち」は事実上解散が可能になった最短の時期、というのが一般常識だろう。だから私はお盆に入る直前の採決、可決した場合はお盆明け直後、と予測したのである。私は新聞社の読者センターやテレビ局の視聴者センター、さらにフィットネスクラブの友人たちに片っ端から「常識的時期」について聞いた。結果はフィットネスクラブの友人たちの「常識的判断」はせいぜい1週間から長くても10日だろう、という意見が大多数を占めた。一方マスコミ関係者は今月中かいくら長くても今国会中ではないかという意見が多かった。
 では読者皆さんにお尋ねしたい。イトーヨーカドーのハッピーデーの「ほとんどの商品を5%引き」という表示についてだが(もちろん「ほとんど」とある以上すべてでないことは誰にでもわかる)、では割引対象外の商品は全体の何%くらいをイメージされるであろうか。
 ちなみにライバルのイオンの場合だが、20日、30日の感謝デー(シニアは15日も)は5%引きだが、やはり割引対象外がある。具体的にはビール類(ビール・発泡酒・第3のビール。ノンアルコールは割引対象商品)、タバコ、切手、商品券などの金券など極めて限定している。もちろん「トップバリュー」というイオンのプライベート商品や特売品も対象になる。しかも割引対象外のビール売り場には「割引対象外」という表示板が設置されている。それだったら(イオンはそういう表示をしていないが)「ほとんど」という言葉を使っても「不当景品類及び不当表示防止法」に違反していないと思うが、イトーヨーカドーの場合は明らかにこの法律に違反していると私は思う。
 というのは、イトーヨーカドーの場合、対象外商品が多すぎるのだ。まずプライベート商品や特売品は対象外である。しかもそのことをチラシや張り紙に表示していないだけでなく、割引対象外の特売品陳列場所にあろうことか「5%割引のハッピーデー」という看板を立てている始末だ。特売品は割引対象外ということを私は知っていたので、店員に注意したところ、店員は「ちょっとお待ちください」と言ってレジ係の女性と何やら話していたが、戻ってくると「申し訳ありません。お客様のご指摘の通りでした」と看板を撤去した。が、私もプライベート商品まで割引対象外にしているとは知らず、ハッピーデーに「7プレミアム」(イトーヨーカドーのプライベートブランド)の商品を買って、家に帰ってからレシートを何気なく見ると(私はずぼらなのかもしれないがレシ-トをチェックすることはほとんどない)割引きがされていないのに初めて気が付いた。不審に思った私は電話で「割引されていないが、なぜか」と問うた。電話に出た店員は「間違いなくハッピーデーでのお買い物ですか?」と聞くのでレシートの日付と買った商品を告げた。「おかしいですね。レシートに印字されているナンバーとレジ担当者の名前を教えてください」というので教えたところ、[お客様の電話代がかさみますので、調べてこちらからお電話します]という返答が返ってきた。数分後かかってきた電話で初めて「7プレミアムは割引対象外」であることを知った。しかもレジ係ではない店員何人かに聞いたが、すべて「少なくとも食料品売り場の商品はすべて割引対象ですよ」と答えた。そこで昨日ナナコ担当の責任者に「いったい7プレミアム商品は割引対象外なのかどうなのか」と聞いたところ、即座にこたえられず「今調べてまいります」とエスカレータで2階に上がっていった。かなり待たされたが「7プレミアムの商品はハッピーデーの割引対象外です」と答えた。私はフィットネスクラブのレッスン時間が迫っていたので、「マジックを貸してくれ」と頼み。「ほとんどの商品が5%割引になります」といった表示の個所にマジックで「ウソ」と書いて「後で来る」と言い残してフィットネスクラブに行った。
 特売商品は割引対象外(イオンは対象内)、プライベート商品も対象外(イオンは対象内)、それでいて割引外商品の陳列場所には「割引対象外」の表示すらない(イオンにはある)、さらに割引対象商品と割引外商品について知っているのはレジ係だけ(イオンについてはわからない。確認する必要がないから)。
 これで「不当景品類及び不当表示防止法」に違反していないのだったら、この法律はザル法と言わざるを得ない。
 漢字の用法だけに限らず、言葉や文章はそれだけ重いものだということを自戒を込めて改めて思った次第である。