小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

NPT(核不拡散条約)では核はなくならない。NPTを潰すことが非核世界をつくる唯一の道だ。

2015-05-25 08:38:39 | Weblog
 核大国のエゴが、再び民主主義を破壊した。国連本部(ニューヨーク)で5年ごとに開催されているNPT(核不拡散条約)再検討会議が、22日、何の成果も出せずに先月27日から約1か月もかけた議論を終えた。
 NPTは各5大国のみが、他国からの核攻撃に対する自衛力として核戦力の保持を国際社会から承認され、5大国以外には核を拡散させないという国際条約で、日本も含め約190か国が加盟している。核戦力の保有を認められている5大国は米・英・仏・露・中で、言うまでもなく国連安保理の常任理事国である。
 NPTは1963年に国連で採択され、62か国が加盟し、1970年3月に発効し、現在の加盟国は約190に増えている。が、この間、インド、パキスタン、北朝鮮が、それぞれ他国の核が脅威だとして核を開発保有していることが明らかになっている。インドは国境紛争を生じている中国の核が脅威だと主張し、パキスタンはやはり国境問題を抱えているインドの核が脅威だと主張して核を開発した。北朝鮮は、北朝鮮に対する敵視政策を続けるアメリカの核が脅威だとして核保有の正当性を主張している。
 今回のNPTが不調に終わったのは、中東や北アフリカ諸国などで組織する「アラブ連盟」が要求している中東非核地域構想の国際会議の開催を、アメリカが最終段階でつぶしてしまったためだ。
 中東でアラブ諸国と対立しているイスラエルはNPTには加盟していず、同国の核保有は公然の秘密とされ、すでに約80発の核弾頭を保有しているとされている。イスラエルは対立するイランやイラク、シリアなどの核疑惑を口実にしているが、そのイスラエルの世界最大の庇護国はアメリカであることも公然の秘密。日本も一応アメリカの核の傘で守られていることになっているが、日本以上にアメリカが核攻撃から庇護することを国是としている国がイスラエルである。が、それでもイスラエルはアメリカの核の傘にも全福の信頼を置かず、アラブ諸国との対立に備えて核を保有している。
 今回のNPTが不調に終わった経緯について朝日新聞は24日付朝刊でこう解説している。あくまで朝日新聞の解説であることをお断りしておく。

 22日午後5時過ぎ、国連本部。1か月に及んだ会議の最終の全体会合が予定の2時間遅れで始まった。
 集まった各国代表団の手には、同日未明に配布された最終文章案。加盟国の求めで繰り返し文言が修正された文章案が何とかまとまったことで、核軍縮の専門家らの間には「ここまで来て4週間の会議をぶちこわす勇気のある国はないだろう」と採択を楽観する見方も出ていた。
 全体会合で最初に演説したアラブ諸国代表のチュニジアは「文章案には懸念が残るが、賛成する準備は出来ている」と採択への同意を表明した。
 しかし、2番手の米国の演説で会議の決裂は決定的になった。米オバマ政権で核軍縮・核不拡散を担うゴットメラー国務次官が、関係者の4週間にわたる協議の苦労をねぎらった後、「しかしながら、この文章案には合意できないと言わねばならない」。静まり返った議場に向け、最終文章案に「残念ながら同意できない」と言い切った。(中略)
 中東の非核地帯構想の国際会議が開かれれば、中東で唯一の核保有国とされるイスラエル(NPT非加盟)がやり玉に挙げられることは確実だ。オバマ大統領は、事実上の同盟国であるイスラエルへの配慮から、会議の開催手法に反対したとみられる。

 この結果を受け、日本の岸田文雄外相は23日、「被爆70年の節目に当たるNPTで合意に至らなかったことは残念」と述べたが、「核のない世界」を作ることに日本がいかに無力であるかを世界に示した結果でもあった。
 政府は何かといえば「国連、国連」と、国連を最重要視する姿勢を示しているが、国連はもともと民主的組織ではない。国連は第2次世界大戦が最終段階に入った1945年6月に連合国が戦後の世界秩序をどうするかを決めた国連憲章をベースに、戦争終結後の10月に発足した「国際組織」である。戦後世界の平和と安定を守ることを目的にはしているが、国際間の紛争が生じたときには紛争解決のためのあらゆる権能(「非軍事的措置」および「軍事的措置」)の行使を安保理に認めている。が、安保理の決定は民主主義の大原則である多数決によらず、米・英・仏・ソ(現露)・中の5か国が常任理事国として拒否権を有しており、常任理事国が一致して国際紛争を解決すべく安保理に付与された権能を行使したことは一度もない。今回のNPT会議の最終文章案もアメリカ一国の反対によって灰燼と化した。

 核廃絶に関しては、世界で日本が最大の発言権を有しているはずだ。唯一の被爆国であり、核の悲惨さを唯一体験している国だからだ。
 その権利を、日本が行使するためにとるべき方法は、現在の国際組織を前提にする限り、たった一つしかない。
 その方法とは、日本がNPTからの脱退を宣言し、日本自身が中国や北朝鮮の核に対抗するために、いつでも核を開発保有する権利を行使する権利があることを世界に向かって宣言することだ。もちろん現段階においては宣言するだけでいい。ただし、いつでも核を開発できる準備だけはしておく必要がある。
 そのうえで、他国の核を脅威と感じている国があれば、日本はいつでもその国に核開発の技術を供与する用意があることも、同時に世界の非核国に向けて宣言する。
 そのうえで、世界に向かって「非核新国連」の結成を呼び掛ける。「非核新国連」には拒否権を有する常任理事国など設けず、国際間の紛争は新国連総会あるいは新国連安保理の多数決によって決める。とくに新国連が紛争の解決のために軍事的措置を行使する場合は総会における3分の2以上の支持を必要とするようにする。
 そのような提案を国際社会に向かって日本が行えば、現在の国連常任理事国(すなわちNPTを牛耳っている核5大国)を除く大半の国が、日本の提案にのってくれるのではないだろうか。少なくともそうした根回しを世界の非核国に対して行えば、多くの国から同意は得られると思う。世界の流れが、日本の提案によって大きく動けば、その流れはどの国にも止められなくなる。実はアメリカが一番恐れているのは、そうした動きが世界に生じることなのだ。
 唯一の被爆国である日本が、恐るべき人体実験として日本に原爆を投下したアメリカの核政策にストップをかけるには、そうするしかない。なおあえて「人体実験」と書いたのは、広島に投下した原爆はウラン分裂型であり、長崎に投下した原爆はプルトニウム分裂型である。アメリカはどのタイプの原爆が「費用対効果」の面で有利であるかを、砂漠での実験ではなく、大都市への投下によって検証したかったからに違いない。その目的以外に二種類の原爆を投下した理由は考えられない。現に原爆を投下したアメリカ自身、なぜ二種類の原爆を投下したのかの説明をしていない。説明できないからだ。

大阪市住民投票の意味について考えてみた…「民主主義とは何かがいま問われている⑭」

2015-05-18 07:40:18 | Weblog
 昨日(17日)大阪都構想を巡って大阪市住民有権者の住民投票が行われた。橋下徹大阪市長が「二重行政の解消」を訴え、大阪市の現在ある24区を市の出先機関ではなく、東京都23区のような特別区に再編して区長公選制を導入しようというのが住民投票の二者択一の選択肢だった。
 が、橋本氏が大阪府知事になって構想した大阪都と、住民投票で訴えたこととは大きく変貌を遂げていた。そのことを橋下氏は誠実に住民に説明すべきだった。その説明をせずに、最初にぶち上げた大阪都構想のイメージを色濃く残したまま、大阪市民だけを対象に住民投票を行ってしまった。
 もともとの大阪都構想は大阪市だけでなく、周辺の堺市や岸和田市、東大阪市など10都市をいったん合併して東京都23区に近い規模に再編して特別区制を導入し、大阪府を大阪都に変えることだった。ところが大阪市と同様の政令指定都市である堺市の市長選挙で大阪維新の会の推薦候補が敗れて、大阪都構想はいったんとん挫したかに見えた。
 そこで橋下氏は大阪市だけに特別区制を導入して、現在の24区を特別区5区に再編するという、当初の構想から大幅に後退した提案をして住民投票を行った。住民投票で橋下市長の提案が賛成多数を占めれば法的拘束力を持つことになっていた。が投票結果はわずか1万票の差で否決された。橋下氏は政治責任をとって市長に任期満了となる今年12月の市長戦には立候補せず政界からも引退するという。

 敗戦後の橋下氏の記者会見では、無念そうな顔を一瞬たりとも見せなかった。常に笑みを絶やさず、「この住民投票の結果が民主主義の素晴らしさを証明したと思う」と述べ、「政治家からは引退する」と決意を述べながら、一方では「弁護士でもあるから法律顧問という方法もある」と間接的に維新の会にかかわっていく可能性も述べた。だが、記者会見の出席した記者たちは、この重要な発言に込めた橋下氏の意図に全く気付かなかったようだ。記者会見ではこの発言に対する質問すら出なかったのだから、アホな記者ばかり出席したと言われても仕方ないだろう。
 会見後のNHKの解説も、また翌日の主要紙の解説でも、この橋下氏の発言は無視された。メディアは一斉に政界からの引退と受け取ったようだ。
 もし政界からの引退表明であれば、「政治家として潔い」という見方も出るかもしれない。が、自分の思ったようにならなかったと、逃げ出すようでは駄々っ子と変わらない。次の市長選には出馬しないという決意はいいが、大差ならいざ知らず、わずか1万票余りの差での敗北である。政治家としての信念を貫く機会を再度求めて、大阪都構想の実現に執念を燃やす新人に後を委ねたい、と最低でも述べるべきではなかったか。
 記者会見では「橋下氏引退後の大阪都構想はどうなるのか」という重要な質問すら出なかった。関心は橋本氏の身の振り方にのみ集まったかのように見えた。実際、その手の質問しか出なかった。ジャーナリストがだらしがないから、政治が国民から遠くなる。
 馬鹿なジャーナリストばかりでもないだろうから、2~3日後には「大阪都構想は今後どうなる」といったテーマを新聞もテレビも取り上げることになるだろうが、大阪都構想が再燃したとき、最初にぶち上げた橋本氏は「われ関せず」ではいられないはずだ。
「政治家には二枚舌は許される」とも言う。本音を話せないことも多いからだ。約140万票の有効投票の中で1万票の差は僅差と言っていい。百分率で言えば1%未満の小差だ。この差で大阪市の民意が明確になったとは言い切れないと思う。投票日直前の予想では10ポイント以上の大差で反対派が優勢と伝えられていた。ひょっとしたらアナウンス効果が働いて無党派層が雪崩現象的に賛成派に回ったのかもしれない。そういう流れが短期間に生じたのだとしたら、投票日が1日ずれるか、あるいは世論調査の結果発表が1日早かったら、結果は変わっていたかもしれない。橋下氏は「民主主義の素晴らしさ」を強調したが、私は返って民主主義のもろさがむき出しになった投票結果だと思う。

 いずれにせよ橋本氏の敗因は、当初の大阪都構想のほころびを大阪市民に説明せず、大阪市だけを解消して特別区5区に再編することの意味を誠実に住民に伝えなかったことに尽きると思う。住民の多くは賛成派が上回れば大阪府も大阪都になると思っていた節が見られる。堺市など周辺の都市が同調しない中で、大阪市内だけに規模を縮小して特別区に再編した場合、府の権限の方がかえって大きくなる可能性すらあったと思う。なぜなら大阪市を5特別区に再編した場合、今まで大阪市に集中していた権限は理論的には5つの特別区に5等分されるからだ。
 現に東京都の場合を考えてみても分かる。都内23の特別区を解消して東京市にして各区は東京市の出先機関にした場合、おそらく東京市の権限は東京都と匹敵するか、ひょっとしたら東京都の権限を上回ることになるかもしれない。例えば神奈川の場合、政令指定都市は横浜・川崎・相模原の3市があるが、県庁所在地でもあり、東京都内23区に次ぐ大都市である横浜市の権限は、時に神奈川県の権限を上回ることさえある。
 当初の橋本氏の構想通り、大阪都構想が大阪市の再編だけでなく、大阪市を取り巻く10の都市をひっくるめて特別区に再編するというのであれば、確かに市ごとのバラバラの行政の無駄や大阪府との二重行政もある程度は解消できたかもしれないが、その大構想がとん挫した以上、大阪市だけを解消して5特
別区体制にするというのは、振り上げたこぶしの処理に困った窮地の策のようにしか思えない。
 一政治家の信念だけで突っ走るのではなく、都市行政を専門とする学者など有識者会議を設置し、都構想を実現した場合のメリット・デメリットの精緻な検証と、メリットを最大限化しデメリットを最小限化するための都構想についての提言を求めるべきだったのではないか。その中で地盤沈下に歯止めがかからない関西地区の再建のための政策として、「思い付き的」ではない大阪都構想を時間をかけて練り上げていれば、事態も大きく変わっていたかもしれない。
「民意を大切にする」ことは民主主義の大原則だが、民意はまた移ろいやすいものでもある。極端な言い方をすれば今日の民意と明日の民意は大きく異なることもありうる。民意が分かれた場合、最終的には多数決で決めるしかないのだが、そうした決め方自体が必ずしも「ベスト」ではなく、消去法による「ベター」な方法でしかないということを私たちはよくよく理解しておく必要がある。それが民主主義という代替案のない政治システムを、より成熟なものに育てていく唯一の道だということも…。


改めて集団的自衛権問題と普天間基地移設問題を考えてみた…「民主主義とは何かがいま問われている⑬」

2015-05-11 06:18:57 | Weblog
「集団的自衛権」とは、いったいどういう権利なのか。国連憲章51条には、こう書かれている。

この検証のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が取った措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 公式文書だから、堅苦しいのはやむを得ないが、私が分かりやすく要約したりすると、たちまち筆者の主張にとって都合のいいように解釈したという非難が飛び交いかねないので、原文を忠実に転記した。集団的自衛権について、国連憲章で扱われているのは、この51条だけである。憲章の他の箇所には「集団的自衛権」については一言も書かれていない。
 そのことを前提に51条を縦から読んでも、横から読んでも、はたまた斜めから読んでも、逆さまに読んでも、「集団的自衛権」は他国の攻撃から自国を防衛することに限定して、国連憲章が「国連加盟国の固有の権利」として認めた「自衛権」の一つであることに疑問の余地はない。しかも他国の攻撃から自国を防衛する手段として、国連安保理があらゆる権能を駆使しても紛争を解決できなかった場合にのみ、攻撃を受けた国には「自衛権」(個別的又は集団的)を行使してもいいですよ、と規定したのが憲章51条である。
 もともと「個別的自衛権」については国際間で議論になるようなことはなかった。他国から攻撃を受けた場合、自国の軍事力で対抗する権利は、わざわざ明文化しなくても歴史上「すべての国に認められている普遍的な権利」として世界共通の認識になっていたからだ。
 そういう「個別的自衛権」とともに「集団的自衛権」の行使を国連加盟国すべての「固有の権利」と憲章が認めたのは、素直に解釈すれば「自国の軍事力だけでは自国を守れない場合、親密な関係にある国に自国防衛の協力を要請してもいいですよ」というのが子供にも理解できる文理的解釈のはずだ。
 その自衛権の解釈を日本の場合に当てはめれば、敗戦によって日本の軍事力はGHQが完全に解体してしまった。いかなる場合でも、占領下に置いた国の防衛については、占領国側が責任と義務を負うというのも、歴史上「世界共通の普遍的認識」である。事実、日本を占領下に置いたアメリカは日本各地に米軍基地を作って日本の平和と安全を守る義務を果たしてきた。
 が、朝鮮半島で有事が生じ、日本を防衛するために配備されていた米軍の兵力は根こそぎ朝鮮戦争に駆り出されてしまった。その時期、日本は完全に丸裸になっていたのである。そのためGHQは日本政府に命じて警察予備隊を創設させた。日本が丸裸になったことによって国内の共産勢力が台頭するのを恐れたためである。だから警察予備隊には、他国からの攻撃に備えられるような軍事力を持つことまでは許されなかった。この、日本にとって戦後最大の危機とも言える状況について、のちにGHQ総司令官のマッカーサーは『回顧録』でこう語っている。

 ところで日本はどうなるのか。私の第一義的責任は日本にあり、ワシントンからの最新の指令も「韓国の防衛を優先させた結果、日本の防衛を危機にさらすようなことがあってはならない」と強調していた。日本を丸裸にして、北方からのソ連の侵略を誘発しないだろうか。敵性国家が日本を奪取しようとする試みを防ぐため、現地部隊を作る必要があるのではないか。

 こうしてGHQは日本の再軍備化に着手していくことになる。警察予備隊はあくまで国内の治安を守ることに限定されていたため、米軍から貸与された武器類もカービン銃、機関銃、ロケット弾発射筒、迫撃砲などにすぎなかった。これらの装備で国内の治安は維持できても、万一外国(当時の仮想敵国はソ連)からの攻撃を受けた場合、日本には自力で国土と国民を守る手段がなかった。こうして警察予備隊は「保安隊」に発展解消され、保安隊が「自衛隊」の母体になる。戦後、自衛隊の戦力も次第に整備され、いまでは中国に次ぐアジアの軍事大国として、アメリカから頼りにされるほどになった。
 一方サンフランシスコ講和条約調印によって独立を回復した日本は、しかし自国防衛のための十分な軍事力は有していなかった。そのため当時の吉田総理は講和条約調印と同時にアメリカとの間に日米安全保障条約を締結し、日本の安全と防衛を米軍に委ねる方針を採用した。もちろんアメリカにとっても共産勢力の南下を防ぐ軍事拠点として設けた日本や韓国、フィリピンなどにおける米軍基地は、自らの国益にとっても十分かなうものでもあった。
 日本は高度経済成長期を経て国力を回復させると同時に、自衛隊の軍事力の強化にも力を注いでいった。その過程で日米安全保障条約も改定され、日米軍事協力の在り方を細部にわたって定めるガイドラインも、たびたび改正されていく。集団的自衛権問題が浮上していったのも、そうした過程を経てであった。
 集団的自衛権の行使と憲法の関係について政府が正式にまとめたのが1981年5月に鈴木善幸総理による「答弁書」である(内容は内閣法制局が作成)。

 国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。
 わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法9条のもとにおいて許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。
 なお、我が国は、自衛権の行使に当たってはわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによって不利益が生じるというようなものではない。

 この「憲法と集団的自衛権」の関係が、従来の政府の公式見解であり、防衛省のホームページでも2014年7月7日15時までは、この政府見解がそのまま踏襲され「集団的自衛権は認められない」としてきた。
 なぜ「集団的自衛権」についての、こうしたおかしな解釈がまかり通ってきたのか。すでに書いたように国連憲章で「集団的自衛権」についての記述は51条に記載されているだけである。そして51条は、国連安保理が国際の紛争を解決できなかった場合に、他国の攻撃を受けた国連加盟国が「自衛」のためにとりうる手段について設けた項目であって、「自衛=自国の防衛」以外の目的での軍事力の行使を規定した項目ではない。そういう意味では、1981年に政府を通じて内閣法制局が発表した公式見解にある「集団的自衛権=自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」では、明らかにない。あまつさえ「わが国が国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、…憲法上許されていない」といったバカげた見解まで述べてしまった。
 なぜ内閣法制局ともあろうものが、このような集団的自衛権について誤った解釈をしてしまったのかは不明だが、我が国の憲法9条の解釈いかんにかかわらず、国連憲章は自国の防衛以外の武力行使(自国軍による個別的自衛手段および自国軍だけでは防衛できない場合に密接な関係にある国に自国の防衛に協力してくれるよう要請する権利=集団的自衛権)以外の武力行使は、いかなる国にも「権利」として認めていない。
 しかし実は米ソは冷戦時代、国連憲章が認めていない他国への軍事介入(内政干渉)を、「集団的自衛権の行使」を口実に行ってきた。
 例えばベトナムでの内乱へのアメリカの軍事介入(ベトナム戦争)、東欧共産圏のチェコスロバキアやハンガリー、ポーランドなどの反政府運動に対するソ連軍の弾圧など、どのケースをとっても外国からの侵略行為に対する防衛のための軍事介入ではなかった。が、国連憲章が認めていない「密接な関係にある国」に生じた国内紛争への軍事介入を米ソが「集団的自衛権の行使」と正当化し続けたため、いつの間にか法的根拠がないにもかかわらず、「集団的自衛権は紛争当事国以外の第三国が紛争に軍事的に介入できる権利」という誤解が定着してしまったのだろう。
 わが国内閣法制局が集団的自衛権について「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」と勝手に解釈し、「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条のもとにおいて強要されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」としたのは、米ソの屁理屈に振り回されたためと考えるのが文理的である。
 改めて、今回のブログの冒頭に帰した国連憲章第51条を熟読してみて頂きたい。個別的自衛権も集団的自衛権も、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」にのみ行使できる固有の権利であり、武力攻撃を受けた国が自国の軍事力で防衛する権利(個別的自衛権)と、自国の軍事力だけでは自国を防衛できなかった場合に密接な関係にある第三国に軍事的支援を要請する権利(集団的自衛権)であることは中学生にも理解できる文理的解釈である。国連憲章51条のどこをどう読めば、内閣法制局のようにチンプンカンプンな解釈が可能になるのか、中学生でも頭を抱えてしまうに違いない。

 これまでも何度も書いてきたように、私自身は一国平和主義者ではない。戦後70年、日本がそれなりに平和を維持できたのも憲法9条のおかげだなどと考えている「平和ボケ」した連中とも違う。現行憲法の作成過程にはGHQの関与が相当あったことも事実だが、GHQによって日本が武装解除されていなくても、戦後の日本には戦争によって外国を侵略できる軍事力などなかったし、また「先の不幸な時代」と異なり力で他国を支配するようなやり方は、憲法9条がなくても国民が許さなかったに違いない。
 だが、戦争直後の日本の国力や国際社会に占めていた地位や国際の平和と安
全のために果たすべき責任は、現在のそれとは雲泥の差がある。経済力においては中国に抜かれはしたが、世界3位の地位を維持しており、アジア太平洋地域においてもわが国の軍事力は米中に次ぐ規模に達している。GHQとすったもんだの交渉を経て現行憲法を作り上げた日本側の最高責任者だった故・吉田茂総理も、1992年1月に上梓した回顧録『世界と日本』(中公文庫)において、
「すでに経済的にも技術力においても世界の一流国と伍するようになった現在、いつまでも自国の安全を他国に頼ったままでいいのか」と、憲法改正の必要性を訴えている。
 現在、安倍総理は憲法改正も視野に入れながら、憲法を改正しなくても「憲法解釈の変更」によって事実上、憲法による制約を無効化しようとしている。集団的自衛権は、すでに述べたように自国防衛のために密接な関係のある国に軍事的支援を要請できる権利のはずなのに、他国(具体的にはアメリカとオーストラリア)のために実力を行使出来る(つまり自衛隊の軍事力を行使すること)ようにしようとしている。憲法を改正せずに、アメリカやオーストラリアのために自衛隊の軍事力を行使できるようにするのであれば、ことさらに憲法を改正する必要はあるまい。
 安保法制については、これから国会で集中的に議論されるはずだから、野党がどこまで安倍内閣の「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認」方針の欺瞞性を追求できるか注視していきたい。
 
 今回のブログを終えるにあたって最後に普天間基地問題に改めて触れておく。9日に中谷防衛相が翁長知事と初めて会談した。さすがに「粛々と…」という言葉だけは中谷氏も使わなかったようだが、政府の主張が一歩でも軟化したわけではなかった。
 中谷氏は辺野古移設について「日米同盟の抑止力の維持と普天間基地の危険性の除去を両立させるための唯一の解決策だ」と改めて強調しただけだった。一方、翁長氏は「移設は不可能であり、絶対に反対する」として政府に移設計画の断念を求めたようだ。
 私はこれまでもこの問題に関して、一貫して沖縄県民の総意を無視した安倍内閣の中央集権主義的手法であり、民主主義とは相反すると、ブログで書いてきた。あくまで政府が中央集権主義的手法を貫くというなら、地方行政の在り方を一変して県や市町村などすべての地方行政組織は国の出先機関に変えるべきだとすら申し上げてきた。もちろん膨大な税金を使っての地方議会議員選挙など直ちに廃止すべきだとも。そんな「歴史を逆行させる行為」を国民が総意として認めるならば、という前提だが…。
 ここまで国と県の対立が深刻化してしまった以上、政府は政府がアメリカと
約束したことのほうを強行すべきか、それとも沖縄県民の総意を尊重すべきか、について国民投票を行うべきだろう。その場合、政府は国民に対して、「沖縄に米軍基地を集中させていることが、なぜ日本にとって最大の抑止力になるのか。米政府は沖縄基地の負担軽減を約束していると主張しているが、基地負担を軽減するというのが単なる口約束でないなら、まず世界一危険とされる普天間基地を廃止するか、即グアムに移設できない事情の説明。アメリカの沖縄基地負担軽減プログラムを具体的に開示したうえで、普天間に限らず沖縄に偏在している米軍基地をどう軽減していくのか、米政府の具体的なタイム・スケジュールを公文書化すること」が最低の説明義務になる。
 翁長知事もかたくなに「移設計画は絶対に認めない」との反対姿勢を繰り返すだけでなく、「沖縄の米軍基地が日本の抑止力として必要だというなら、その理由を日本国民や沖縄県民が理解できるように説明せよ」と要求すべきだし、まして普天間基地の辺野古移設が「誰にとっての唯一の解決策と政府は考えているのか」という最も肝心な点を厳しく追及すべきだろう。「日本の抑止力維持にとっての唯一の解決策」というなら、少なくとも日本の国防計画の中で米軍辺野古基地建設がどういう位置を占めるのかを明確にすべきだと主張すべきだ。アメリカのアジア東南海支配のために沖縄の基地が必要だというなら、それは沖縄県民の了解をとってからの話ではないか、とも。

 いずれにせよ、沖縄県民の総意を無視して政府が普天間基地の辺野古移設を強行するのであれば、「日本の民主主義は死滅の危機に瀕している」ことを全国民は噛みしめるべきだ。私自身は何度も書いてきたが、沖縄には観光旅行で2,3度訪れだけだ。とりわけ沖縄に親しみを感じているわけではない。だから今回の問題に関してはいっさい私の私情が入り込む余地がない状態で『民主主義とは何かがいま問われている』というブログ・シリーズを書いてきた。
 橋下徹・大阪市長の「大阪都構想」は大阪市民による投票だけで是非を問おうとしており、民主主義的手法としてはやや乱暴という感じを受けざるを得ないが(大阪都構想は大阪市を大阪都に変えるのではなく、大阪府を大阪都に変える構想である以上、大阪府の有権者すべてを対象に府民の総意を問うべきだからだ)、一方普天間基地移設問題は名護市長選、沖縄県知事選、先の総選挙のすべてで沖縄県民の総意が明確に示された。日本の民主主義の在り方を考える場合、そのことの意味は地球より重い。
 

新ガイドラインや安倍総理の米両院合同会議での演説の意味を考えてみよう。

2015-05-02 06:39:55 | Weblog
 今日から大型連休に入る。私のブログの読者の大半はメディア関係者、特にジャーナリストなので「大型連休など、私には関係ない」と、連休中ほぼ好天気に恵まれそうな予報なので、かえってムカついている方も少なくないかもしれない。実は私自身は連休中は大いに汗を流す予定を立てている。
 連休明け後に何回かに分けて新ガイドラインと、安倍総理の米国両院合同議会での演説について分析したいと思っているが、マスコミや評論家、学者の見方も様々なようだ。
 だが、皆さん健忘症になられたようで、安保法制懇が「憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使を可能にする」ために脳みそを絞って書いた屁理屈報告書との関係の検証作業をする必要性をすっかりお忘れのようだ。
 もともと国連憲章51条で国連加盟国に固有の権利として認めているのは「自衛権」だけである。他国のために、その他国が別の国から攻撃され、軍事的支援を要請されてもいないのに、自国の軍事力をかってに行使して他国を防衛する権利など国連憲章では認めていない。
 憲章は、国際間の紛争が生じたときは紛争解決のための「非軍事的措置」および「軍事的措置」を行うあらゆる権能を国連安保理に認めているだけだ。が、国連安保理には拒否権を持つ常任理事国5か国が絶大な権限を有しているため、国際紛争を国連安保理が多数決で決めることができない仕組みになっている。はっきり言って国連安保理は民主的組織ではない。
 そのためこれまで国連安保理が国際間の紛争を「非軍事的措置」あるいは「軍事的措置」の権能を行使して解決できたことはない。そうした国連安保理の欺瞞性を明らかにして、国連を真の民主的組織に改革すべきなのだが、日本政府は日本自身が拒否権を有する常任理事国入りを目指しているのだから、何をか言わんやである。
 そのことはさておき、「集団的自衛権」についての従来の政府解釈は「密接な関係にある国が攻撃されても、自国が攻撃されていない以上その国を防衛するために実力を行使することは憲法上認められない」というものだった。
 問題は国連憲章が「集団的自衛権」についてどう定義しているかである。まず明らかにしておかなければならないことは、「集団的自衛権」についての項目など憲章にはないということだ。憲章にある項目は「自衛権」についての項目だけだ。
 自衛権は言うまでもなく、自国を他国からの侵略から防衛する権利のことである。それ以外に解釈の使用がない。しかも憲章が認めている自衛権の行使は、国連安保理に与えられている国際紛争を解決するためのあらゆる「非軍事的措置」および「軍事的措置」の行使によっても解決できず、また安保理がその権能を行使できなかったときにのみ、自国の防衛を「自衛権」の行使として認め
たのが憲章51条である。これは憲法解釈の問題ではなく、国連憲章51条の規定にかかわる問題なのだ。
 では憲章51条は、どういう「自衛権」の行使を認めているか。実は二つあり、「個別的自衛権」(自国の軍隊による防衛の権利)と「集団的自衛権」(自国の軍隊だけでは自国を防衛できないと判断したときに密接な関係にある他国に自国の防衛を要請する権利)の二つである。日本で言えば、自衛隊という「個別的自衛権」行使のための軍隊(政府は「軍隊」ではなく「実力」と称してはいるが…)を擁しているし、「集団的自衛権」については日米安保条約によって、日本が攻撃されたときは米軍が日本を軍事的に支援することになっており、既にいつでも権利を行使できる状態にある。
 そうした「自衛権」行使の範疇に、ガイドラインや安倍総理の演説は入るのかどうかが問われなければならないのだが、残念ながら日本のジャーナリストや軍事評論家、学者はそうした論理的思考力を完全に喪失しているようだ。今日は、ここまでにしておく。