小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「安倍・加計面談」は加計学園事務局長のでっち上げではない。事実だったことを証明する。

2018-06-23 02:10:20 | Weblog
 22日のBS日テレ『真相NEWS』を見た。テーマは「加計問題で与野党激論…理事長緊急会見の疑問」である。国民の多くが重大な関心を寄せている問題だけに、かなり多くの人が視聴したのではないかと思う。
 討論(?)の参加者はタイトルの大袈裟さとは裏腹に、テリー伊藤氏を別にすれば自民党政調会長代理の片山さつき氏と共産党書記局長の小池晃氏の二人だけ。これで「与野党激論」とは……?
 局が野党代表として小池氏だけを選んだとは考えにくいので、立憲民主党や国民民主党はなぜ逃げたのか?
 その追求は置いておくとして、ほぼ片山氏と小池氏のバトルに終始した番組だったが、ある意味、人身御供にされた片山氏がちょっと気の毒だったような気がするバトルになった。
 こういう番組を制作する場合、局は政治家個人に直接交渉することはまずない。出演者の人選は政党に任せるのが通例だ。自民党が片山氏を選んだのは、たぶん彼女の印象面の好感度のためだろう。片山氏が断らなかったのは「ご立派」と言いたいところだが、彼女の「争点そらし」の術は成功したのだろうか。
 争点は、19日に地元記者だけを呼んだ加計学園理事長の加計孝太郎氏のたった25分の緊急記者会見で、果たして加計問題の疑惑は解消できたのかという一点だった。片山氏は「疑問は解消できたとは言えない」としながらも、愛媛県今治市に獣医学部を新設したことの是非を問うという戦術に出た。「争点そらし」と私が書いたのはそのためだ。ま、彼女としてはそうするしかなかったのかもしれないが…。
 が、小池氏も番組キャスターたちも、「それは争点そらしだ」と片山氏の戦術を封じることはしなかった。なぜなのかは、わからん。
 もっとも、加計氏会見の翌日20日の朝日新聞も1面記事だけでなく「時々刻々」や社説まで総動員して論評したが、加計氏発言の最大の問題点には気づいていなかったくらいだから、小池氏が肝心の問題点を指摘できなかったのもやむを得なかったのかもしれない。
 これから書くことは、20日に朝日新聞の「お客様オフィス」に電話した内容である。電話に出た方は「大変重要なご指摘です。報道局に伝えます」と言ったが(そういう言い方をした場合、必ず報道局に伝えている)、その後の紙面にはこの重大な視点が反映されていない。外部からの指摘で批判の視点を変えることを、恥だと思っているのかもしれない。が、これから書くこと、つまり朝日新聞に伝えたことに、反論できる人は絶対にいない。安倍総理も加計氏も、反論しようのない重要な指摘だ。

「本人(加計学園事務局長で、愛媛県に安倍・加計面談の内容を報告した渡辺良人氏)が、前に進めるために申しあげたとのことでございます」

 これが実は加計氏の記者会見での発言における最大の「キーワード」だった。朝日新聞も小池氏も、総理発言や柳瀬氏の発言とのつじつまが合っていないことに批判を集中したが、この重要なキーワードが持つ意味が分かっていない。
 もし渡辺氏が、加計学園の獣医学部新設計画を「前に進めるために」安倍・加計面談をでっち上げたとしたならば、その捏造話を持ち込む相手は加計学園の獣医学部新設についてそれなりの権限を持っている相手でなければ意味がない。文科省だったら、それなりの意味を持ったかもしれないが…。
 愛媛県は加戸前知事時代から10数回にわたって文科省や構造改革特区のプロジェクトチームに働きかけてきた。が、そのつど「岩盤規制」とやらに跳ね返され涙を呑んできた。
 ちょっと話が横道にそれるが、医療界は極めて保守的な体質である。最近も専門医が初期がんを見落として患者が命を失い、病院が謝罪会見をする羽目になった事件が報道されたが、AIによる画像診断技術は専門医による画像診断技術をはるかに上回るレベルに達しているが、AIによる画像診断の導入には医療界は否定的だ。自分たちの仕事がAIによって奪われかねないからだ。
 同様に、四国には獣医学部がなく、何とか招致したいという加戸時代からの念願の前に立ちふさがったのも、競争相手が増えることを恐れた獣医師会という圧力団体であることは明らかだ。獣医師会とつるんだ農水省が文科省にくちばしを突っ込んで、愛媛県の念願を踏みにじってきたことも間違いない。
 ついでに、別に文科省の天下り事件を弁護するつもりはないが、ちょっとかわいそうな面もある。というのは、文科省は他の省庁と異なり、傘下の外郭団体が極めて少ない。霞が関では、外郭団体への「転職」は「天下り」とは考えていないようだが、文科省はキャリア官僚でも次官レースから外れた人材をおしこめることが出来る外郭団体が少ないため、OBを利用して私立大学などに「転職」の世話をせざるを得なかったのだろう。国家公務員を目指す学生諸君は、事実上の「天下り」先である外郭団体を傘下にたくさん持っている省庁を選んだほうがいい。財務省や経産省、おっと厚労省も悪くないよ。地方に行くことをいとわないなら、自治省も悪くない。
 話を本筋に戻す。加戸時代の経験から、加計学園の事務局長が安倍・加計面談話をでっち上げてまで、獣医学部新設にまったく権限がない愛媛県に報告しても何の意味もないことは、赤ん坊でもなければ誰にでもわかることだ。
 実際、この「でっち上げ話」を聞いた愛媛県は、まったく行動を起こしていない。その証拠に、安倍・加計面談についての愛媛県文書はごく最近、国会に提出されたことで明らかになった。柳瀬氏(元総理秘書官)の国会答弁に疑惑がもたれなかったら、この文書は永遠に闇に葬られていた可能性が高い。
 頭が悪い人のために、もう一度、整理しておく。
 安倍・加計面談は100%、実際にあった。そして話の内容は加計氏が事務局長に伝えたのだろう。また愛媛県にあいさつに行って来いという指示も、加計氏が出したはずだ。
 これは加戸氏の国会での証言だが、愛媛県と加計学園との関係は「たまたま愛媛県の獣医学部招致計画の担当職員が加計学園の有力者と知り合いで、そこから話が進んだ」ということだ。つまり10数年にわたって愛媛県と加計学園は二人三脚で獣医学部新設プロジェクトに取り組んできた。
 安倍総理の力添えが期待できるという状況に至った時、加計氏が真っ先にこの朗報を愛媛県に伝えようとしたのも、人情としては十分理解できる。
 
 この問題は四国に獣医学部が必要か否かの問題ではない。たとえどんなに必要であったとしても、獣医学部新設に至るプロセスに、すでに「一強」体制を作り上げていた安倍総理が直接関与していたことが問われている。安倍総理が柳瀬氏に指示して、獣医学部新設計画を構造改革特区ではなく、自らが率いる国家戦略特区に変更させ、柳瀬氏自ら加計学園の担当者を官邸に呼んでいろいろ指導してきた経緯も、また加計学園担当者が柳瀬氏との面談に愛媛県と今治市の担当者を同行したにもかかわらず、柳瀬氏の念頭には加計学園の担当者のことしかなく、「愛媛県や今治市の方とは会ったことはない」と記憶の外だったことも、すべて合理的に説明がつく。
 柳瀬氏がおかした致命的なミスは、国家戦略特区プロジェクトの主体は、事業者ではなく地域であることを熟知していなかったことだ。この初歩的ミスを柳瀬氏がおかしていなかったら、柳瀬氏が官邸に呼ぶ相手はまず愛媛県の担当者でなければならない。その際、愛媛県担当者が最大の事業者候補として加計学園の担当者を同行するという経緯であれば、安倍総理の関与も表面化しなかったかもしれない。
上手の手から水が漏れた。

 この件については5月29日と6月7日に投稿したブログでも詳しく分析しているので、そちらも参考にしていただければ幸いである。

「骨太の方針」はアベノミクス破綻を証明した。少子高齢化社会で成長神話にしがみつくのはアナクロニズムだ。

2018-06-19 02:11:26 | Weblog
16日、政府は新たな「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)を閣議決定した。民主党最後の政権・野田総理との約束によって消費税を5%から8%にアップし、消費税増税による消費の冷え込みを防ぎ日本企業の国際競争力を回復するために、日銀・黒田総裁とのタッグで異次元の金融緩和を行い、景気のテコ入れを行ったが、結果はどうだったのか。
 確かに大企業は軒並み史上空前の利益を計上し、株価もかなり上昇した。失業率も回復して史上空前の人手不足状態が続いている。大卒の就職希望者は完全な売り手市場になり、企業は人材確保に躍起だ。それなのに、消費税10%へのアップを安倍内閣は2度も延期し、来年10月に予定されている「3度目の正直」も実施が危ぶまれている。しかもプライマリーバランス(国家財政における歳入と歳出の引き算)を黒字化する時期の目標を、5年も延期して2025年まで延期した。アベノミクスは成功過程にあると、政府は強調するが、それならなぜプライマリーバランスの黒字化を延期する必要があったのか。
 少子高齢化に歯止めがかけられず、社会保障費が予想より膨らんだからだというのが、政府の説明だ。もともと政権交代につながった国会での野田・安倍「約束」は、「税と社会保障の一体改革」を断行するということだった。ただ当時の野田総理はその青写真を提起できなかった。民主党が野合政党だったため、青写真を作ることが出来なかったのかもしれない。
 が、政権を引き継いだ安倍内閣は一強体制を作り上げることに成功した。本気で「税と社会保障の一体改革」を実現するつもりだったら、やれたはずだ。「二兎を追うものは一兎も得ず」という。痛みを伴わない景気回復に奔走した結果が、消費も回復せず(消費税増税にもかかわらず消費税の歳入は思ったより増えなかった)、プライマリーバランスは悪化の一途をたどる結果になった。

 今回は安倍総理への『追悼の辞』の続編を書く。経済政策であるアベノミクスへのレクイエムだ。
 アベノミクスの目的は、日本経済を再び成長路線に回復することにあった。
 そして日本の大企業の多く、とりわけ輸出企業が次々と史上最大の利益を計上したり、日経平均が大きく回復したことで、アベノミクスは成功過程にあると多くの国民は思っているかもしれない。
 そのため、各メディアの世論調査でも、モリカケ問題のようなスキャンダルが生じると一時的に内閣支持率は下落するものの、騒ぎが収まるとすぐ回復する。また内閣支持率が低下しても自民党支持率は30%台を維持し、公明党支持率と合わせると与党の支持率は40%台を常に維持している。「支持政党なし」という無党派層がやはり40%台と高いため、野党の支持率は立憲民主党だけがかろうじて2ケタ台前後で推移している以外は1~2%と低迷しており、当面の政権交代可能性は極めて低い。
 与党が衆参両院で3分の2以上を占めるという異常事態の原因については、小選挙区制にあるという指摘もあるが、この選挙制度を導入したのは細川政権であり、野党も選挙制度を批判しにくい状況にある。
 そもそも政治的価値観が多様化している状況の中で、なぜ政権交代可能な2大政党政治を、当時の与野党が一致結束して日本に導入すべきだと考えたのか(メディアもこぞって支持した)、私にはそのことが不思議でならない。曲がりなりにも2大政党政治が行われているのは先進国ではアメリカとイギリスだけで、イギリス以外のヨーロッパ諸国の大半は多党政治である。国会での絶対過半数を占める政党がなく、第1党がどの党と連立を組むか政党間の駆け引きが日常茶飯事である。極端な話、いまのイタリアでは左翼政党が右翼政党と連立を組むという、かつての村山政権をほうふつさせるようなことが当たり前になっている。
 いま世界の先進国はいずれも経済問題を抱えている。日本だけではない。なぜ共通した課題を抱えているのか。
 その原因は、先進国のすべて(と言ってもいいと思う)が、従来の「経済成長神話」から脱皮できないためではないか、と私は考えている。
 政治の目的は、基本的には二つしかない。そのことは資本主義の国であろうと社会主義の国であろうと、変わりがない。
 一つは国と国民の安全保障をどう確保するか。
 もう一つは国民生活の向上と安定をいかに実現するかである。
 安全保障については、私もさんざんブログで書いてきた。軍事的抑止力に頼ることだけが、唯一の安全保障策であるべきなのかという疑問を呈してきた。
 もう一つの国民生活の向上と安定についても、アベノミクスの検証を通じて「必ずしも成功したとは言えない」と、やはりさんざん書いてきた。
 アメリカの大統領選で、当初は泡沫候補と見られていたトランプ氏が大逆転勝利を収めたのも、彼の経済政策がアメリカ国民の心をわしづかみした結果である。日本では「メキシコとの国境に壁を作る」と言ったエキセントリックな政策だけがクローズアップされる傾向があったが、そんな単純なことでトランプ氏が勝利を得たわけではない。
 日本でも安倍政権が長期化した最大の理由は、バブル崩壊以降の「失われた20年」からの回復期待がいまだに国民の多くにあるからでもある。メディアは世論調査で安全保障政策やモリカケ問題などのスキャンダルは調査するが、アベノミクスについての成否についての調査はしていない。確かに調査がしづらいという面はあるだろう。せいぜい「豊かさの実感があるか」といった質問に留まらざるを得ないのかもしれない。
 が、なぜ先進国のすべてが経済問題をいま抱えているのか。
 実は先進国のすべてに共通した現象がある。
 少子高齢化、がその共通点だ。日本だけではない。すべての先進国がこの問題を抱えている。唯一フランスが少子化の歯止めに成功したかのように伝えられているが、多民族国家のフランスでも「貧乏人の子だくさん」の結果であり、中流階層以上の白人社会では日本と同様少子高齢化問題を抱えている。
 少子高齢化が、経済的にはどういう結果をもたらすか。
 消費が伸びない。その一点だ。
 世界中の先進国が共通して抱えている経済問題の根本には、この同じ現象がある。富が一部の高齢者に集中し、消費の底支えを担うべき中間所得層が将来の生活不安のために消費より貯蓄や投資にカネを使っているためだ。
 日本もそういう状況を前提に、経済政策を考えなければならなかった。が、アベノミクスは依然として「成長神話」にかじりついている。そういう目線でアベノミクスの検証を、経済学者やメディアは行うべきなのだが、残念ながらそういう方は一人もおられないようだ。
 アベノミクスの提唱者は世界的に権威のある経済学者であり、リフレ派と見られている浜田宏一氏(内閣官房参与)とされている。浜田氏は必ずしも金融緩和だけを提唱したわけではないようだが(浜田氏は「金融政策だけではデフレ脱却は無理」と主張している)、「失われた20年」はデフレ不況によるという見方は変えていない。はたして「失われた20年」はデフレ不況によるものだったのか?
 デフレかインフレかは、需要と供給の関係による。本来はシーソーのようなもので、需要が供給を上回れば商品価格が上昇し(過度に上昇した場合は悪性インフレ=ハイパーインフレとなり、石油ショック時のような状況が生まれる)、消費が手控えられることで需要が減少して商品価格も次第に下向く。供給が需要を上回った場合がデフレだが、いったん商品価格は下落するが、その結果消費が回復して商品価格も次第に上向く。アダム・スミスの「神の見えざる手」が働くのだ。こうして行き過ぎたアンバランスは自然に解消される。
 だから、はっきり言って「失われた20年」はデフレが続いた結果ではない。少子高齢化が急速に進んだ、という別の要因にある。
 なぜ世界の先進国で少子高齢化が共通して進んだのか。
 消費の核を担うべき中間所得層以上の人たちの家に育った女性の高学歴化と社会進出の機会増大が、その原因である(そのことを私は否定しているわけではない。先進国共通の現象として私はそう認識しているだけだ)。
 私がその現象を重く見ているのは、私が生まれ育った時代と無関係ではない。私は昭和15年(1940年)の生まれだが、小学校時代の同級生で大学に進学した女性は裕福な家庭に育った方一人だけであった。さらに私たちの世代が結婚した場合は女性は家庭に入り専業主婦になるのが当たり前という時代でもあった。実際、私の妻も結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦になったし、これは偶然だが結婚して新居を構えた新築のアパート6世帯がすべて新婚家庭で、しかもすべて奥さんたちは専業主婦だった。
 いい配偶者に恵まれずに結婚が遅れた女性は職場の上司から、いまだったらセクハラになる「まだ結婚できないの」などと、暗に「寿退社」を求められるような時代でもあった。
 ところが敗戦ですべてを失った日本が「世界の奇跡」と言われるような経済復興を成し遂げ、戦後の過度の累進課税制度もあって中間所得層の可処分所得が急増し、それが3種の神器や新3種の神器時代という消費の急拡大時代を迎え、それが高度経済成長を促した。日本の高度経済成長は池田総理の「所得倍増計画」によるという誤解が流布されているが、池田内閣は給与所得者の所得を倍増させるための具体的な経済政策は何も行っていない。皮肉な言い方をすれば、何もやらなかったからこそ日本の高度経済成長が可能になったとも言える。
 その結果、日本のサラリーマンの所得水準は短期間で欧米先進国の水準に追いついた。だから少子高齢化も欧米先進国とほぼ同時期に訪れている。そして戦争のない平和な時代が世界的規模で続いた結果、日本も含め先進国の女性の高学歴化と社会進出の機会増大が急速に進む。
 女性が高学歴化し、社会進出の機会も増えれば、当然のことながら家庭に閉じこもって子育てに専念するより、社会から受ける刺激に人間としての生きがいを見出すようになるのは当たり前のことだ。こうして少子化が急速に進んだ。実際「失われた20年」とされた時代でも、女性相手のビジネスはむしろ活況を呈していた。産業構造が変化しただけの話だったのだ。
 産業構造が変化すれば、旧態型産業に対する需要が冷え込むのも当たり前の話だ。たとえば、若者たちの自動車離れ。交通インフラの整備とともに、所有することがさほどの意味を持たなくなっただけのこと。若い人たちの経済力が自動車を所有できないほど低下したわけではない。金の使い方に対する価値観が大きく変わっただけのこと。そうした社会現象の変化が見えないから、「失われた20年」はデフレ不況のためなどという非論理的な検証をしてしまい、デフレ脱却がアベノミクスの目的になってしまったというわけだ。
 私は第2次安倍政権が誕生した直後の12年12月30日、『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』で、アベノミクス(当時はまだその呼称はなかったが…)についてこう注文を付けている。いまでも当時のブログはさかのぼって読めるから、結果解釈ではない。

 まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共事業による経済効果の2点である。(※当時は「矢」はまだ2本だった)
 金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか。私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。では例えば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはあり得ない(※結果論からいえば銀行はサラ金まがいのことを始めた。日銀がマイナス金利を始めたためである)。優良企業が銀行から金を借りなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業と言っても、銀行が融資する場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ。
 そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい。国内に優良な貸出先がなく、金融緩和でだぶついた金の運用方法に困り、リーマン・ブラザーズが発行した証券(日本にもバブル期に流行った抵当証券のような有価証券)に大金をつぎ込み、リーマン・ブラザーズが経営破たんしたあおりを食って大損失を蒙り、金融界の再編制に進んだことは皆さんも覚えておられるだろう。金融緩和で金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない(※スルガ銀行の不正融資で実証された)。自公政権の金融緩和政策に世界の為替市場が敏感に反応して急速に円安が進み株も年初来の最高値を記録したが、そんなのは一過性の現象にすぎない。とにかく市場に金が出回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。
 そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯め込んでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる(※この提案は一部安倍内閣が「違法」コピーした。私はコピーを禁止してはいないが、するなら完全コピーしてもらいたい。それと提案者に対する礼儀として報告ぐらいしろ)。(中略)
 また所得税制度も改革の必要がある。(中略)
 私は消費税増税はやむを得ないと考えている。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、「聖域なき」一律課税にして、低所得層には生活保護対策として所得に応じて所得税を軽減すべきであろう。
 なぜ生活必需品を非課税あるいは軽減税率にすべきではないかというと、国産ブランド牛のひれ肉とオージービーフの切り落としが同じ生活必需品として非課税あるいは軽減税率の対象になることに国民が納得できるかという問題があるからだ(※最近自民党の石破氏が同様の主張を始め、軽減税率を自民党に認めさせた公明党・山口代表の反発を受けているが、こういう時こそ野党は石破氏の見解を支持し、軽減税率導入を阻止すべきだ)。

 翌13年3月8日にも、もう引用はしないが『再び断言する――公共事業で景気は回復しない。ケインズ循環論は今の日本には通用しない』と題したブログを投稿している。浜田氏がケインズ循環論をベースにアベノミクスの経済政策を構築したことは否定できない。しかし少子化で社会全体の需要が減退する中で、企業の業績だけを上げるための公共事業をいくら行っても、景気の浮揚策にはならない。
 成長神話の時代は終わった。そうした認識をベースに、これからの経済政策はどうあるべきかを構築すべきではないか。シャウプ税制まで戻せとまでは言わないが、ある程度社会主義的政策を取り入れて累進課税制を多少強化し、消費社会の核になる中間所得層の可処分所得を拡大すべきだと思う。「孫に対する教育費」などという限定を付けずに、高齢者富裕層がため込んでいる金が市場に出回るように、贈与税を思い切って軽減化し(その場合、税負担は贈与者ではなく、贈与を受ける側にすることが重要…そのことは12年12月30日のブログでも書いている)、税率を相続税より低くすること。」
 そうすれば株価の上昇は止まるかもしれないが、経済は成長しないまでも、ある程度活性化する。さらなる豊かさを求める時代の終焉を、私は宣言する。
 

緊急告発! 高齢者による自動車事故急増の原因は、無能な警察庁の免許更新制度にある。

2018-06-14 01:44:57 | Weblog
 75歳以上の高齢者による自動車事故が急増している。「急増」と書くと、ごく最近の傾向のように思われるかもしれないが、そうではない。
 実は私は68歳だった2008年5月、2度にわたって警察庁長官あてに高齢者の免許更新制度について意見具申している。
 最初の文書は10日付。この文書で私は70歳になった時点で自動車免許を返納することを申し出ている(当時は返納制度がなかったため更新しないことを申し出た)。理由についてこの時の文書で、こう書いている(一部抜粋)。

 私はいま毎日のようにフィットネスクラブで汗を流していますが、エアロなどをなさっている方はお分かりですが、インストラクターは毎回新しいステップを考案して指導します。若い人は1~2回やれば新しいステップをすぐ覚えますが、私くらいの年になると最後までインストラクターの動きについていけないことがしばしばあります。私はバーベルエクササイズやプールなどでの筋トレメニューでは若い人に負けない体力がありますが、運動神経(反射神経と言ってもいいかもしれません)は確実に年とともに後退していることをいやというほど知らされるのがエアロです。私が70歳になった日に、つまり免許の有効期限が切れる日に運転をやめることに決めた最大の理由です。
 また川崎市では(※当時は川崎市に住んでいました)、川崎市内から上下車するバスは横浜市内に行く場合でも月額1000円で無料利用できる制度を設けていることも免許更新をしない音にした大きな理由です。

 実はこの時の文書の目的は別にあり、免許更新料や紛失したときの再発行料が異常に高いことに対する抗議が本来の目的だった。この手続きになぜ異常なほどの高額料金を設定する必要があるのか。警察官の天下り先でもある交通安全協会に儲けさせるためとしか考えられないことも指摘した。当時すでに1000万画素を超えるデジタルカメラが普及しており、免許更新時に警察署で行う視力テスト以上に簡便な方法で本人確認も確実な顔写真も警察署で撮れるようになっており、さらにICチップ付の住民基本台帳カードは区役所でデジタルカメラで撮影し、原価数百円で作成できるようになっていることなどを指摘し、もはや交通安全協会などアナクロニズム的存在であることも指摘した。警察はだれのためにあるのかという疑問を呈している。
 その2週間後の25日には新たに警察庁長官あてに文書を送った。この文書では明確に高齢者免許更新制度についての提案をしている(一部抜粋)。

 今月10日付で免許書発行(更新及び再交付)のシステム改革の提案をしましたが、まだ警察庁からのご連絡をいただいておりません。検討に値しない提案だとお考えなら、その旨ご連絡ください(※なおこの文書もたぶん警察庁広報部によって握りつぶされたようで、いまだ返事はない)。
 前の文書で私が満70歳の誕生日に有効期限が切れる運転免許の更新はしないことを明らかにしましたね。その理由は、健康のために通っているフィットネスクラブでのエアロビクス・レッスンに若い人のようにはとてもついていけないことから、例えば路地から子供が飛び出したようなときに、急ブレーキを踏むか、急ハンドルを切って電柱に車をぶつけても子供を避けるとかといった、とっさの正確な判断と、その判断を下す反応スピードについて自信が持てなくなったからです。
 さらに昨日娘の家に行き5歳の孫と遊んでいてまたショックを受けました。任天堂が発売して大ヒットし、テレビゲーム機の王座をソニーから奪い返したWiiのことは多分ご存じでしょう。そのWiiで遊ぶゲームでやはり大ヒットしたのがWiiフィットです。その中のバランスゲームが実に優れもので、5歳の孫がバランスボードの上でぴょんぴょん跳ね回り、「じいちゃんもやってごらん」と言われ、やってみたのですが、全然ついていけないのです。バランスゲームという名前から単純にバランス感覚を養うためのゲームだろうと思っていたのですが、エアロ以上に反応速度と判断の正確さが試されるゲームなのです。
 で、私の提案ですが、任天堂と共同で判断力や反応速度を3分くらいで測定できる装置を開発し、70歳以上の高齢者の免許更新時には、視力だけでなくとっさのときの反応スピードと判断力を検査項目に加えればいかがでしょうか。現在70歳を超えた人が免許の更新をする場合は民間の教習所で3時間の高齢者講習を受けなければなりませんが、講義を除けば本当に必要なとっさのときの反応スピードや判断力の検査は行われていないのが実情です。実際に、最寄りの教習所に高齢者講習の内容を聞きましたが「15分ほど車に乗ってもらうが、ハンドルを握らなくても乗っているだけでいい」ということでした。(※今は運転実技が義務付けられているようだ)。
 いま私の手元にはインターネットで検索した交通安全白書の19年版に記載されている「交通事故」をプリントしたものがありますが、高齢者が起こす自動車事故は平成元年の3倍に達しています(全年齢の事故件数は65%に減っているのにです)。この高齢者事故をどうやって減少させていくかが、飲酒運転の撲滅とともに全国の警察組織が全力で取り組まなければならない課題だと考えています。

 はっきり言って高齢者事故の激増は昨今のことではない。放置してきた警察官僚と、社会問題化するまで放置してきたメディアの責任は軽くない。最近の、90歳女性が起こした自動車事故犯罪(赤信号であることを認識しながら横断中の歩行者がいないと勝手に思い込んで交差点に進入して殺人を犯した事件)がきっかけで、メディアも本腰を入れて高齢者免許問題に取り組みだしたが、はっきり言って生ぬるい。
 この事故の直後、朝日新聞は『天声人語』でこうのたもうた。「道路での危険を回避できる自信は高齢者になるほど強くなる。そんな調査結果もあるようだ。自信は、ときに過信になる」(5月30日)
 私は強く朝日新聞に抗議した。電話に出た方は、そういう調査が実際にあること、その調査をした学者と原典も教えてくれた。世の中には、バカな学者も多い。バカな学者の常識はずれの論文を信用した天声人語氏もバカだ。
 私は電話に出た方にこう言った。「高齢者が起こす事故の大半はブレーキとアクセルの踏み間違いだ。つまりとっさのときの反応スピードと判断力に問題が生じているからだ。高齢者が若い人のようにスピード違反をしているか。むしろ運転は極めて慎重になっている。それでも事故を起こすのは、自分の運転能力を過信しているからではない」と。電話に出た方は、私の主張を肯定したうえで、担当者に伝えるといった。が、『天声人語』で訂正しない限り、読者はそう思い込んだままだ。朝日の傲慢さは、いまだに治っていない。
 さらにNHKにもこの事件をきっかけに高齢者免許更新問題を「クローズアップ現代で取り上げてほしい」と申し入れた。私はそのとき、10年前に警察庁長官あてに申し入れたことも伝え、高齢者事故の激増は警察庁の責任でもあり、そのことも明確にしてほしいとお願いした。
 私の提案が受け入れられたのか、あるいはすでに取り上げることに決まっていたのかはわからないが、6月7日に『クローズアップ現代』が取り上げた。タイトルは『90歳事故で議論再燃!? 高齢者の運転どう考える』だったが、中身はこれ以上ないというほどお粗末だった。『クローズアップ現代』では珍しく生放送で、85歳の高齢者ドライバーとその家族との中継で武田キャスターがやり取りしたり、地域で高齢者の足を支えあうケースを紹介したり、スタジオでは「日本の高齢者免許更新制度は世界レベルから見てかなり厳しいほうだ」と言った専門家(ジャーナリスト)が大きな顔をしたり、まるで警察庁に忖度しまくりという内容だった。

 手元に警察庁のWebサイトをプリントした文書がある。75歳以上のドライバーが受ける認知機能検査についての説明だ。それによれば、この検査では3つの項目について検査用紙に記入し、「記憶力や判断力を測定する」とあるが、果たして高齢者の事故防止に役立つ検査か。3つの項目とはこうだ。
●時間の見当識…検査時における年月日、曜日及び時間を回答する。
●手がかり再生…一定のイラストを記憶し、採点には関係ない課題を行った後、記憶しているイラストをヒントなしに回答し、さらにヒントをもとに回答する。
●時計描写…時計の文字盤を描き、さらにヒントをもとに回答する。
 読者の皆さん。このテストでとっさのときの反応スピードや判断力の正確さを測定できると思いますか。こんなペーパーテストで、とっさのときの高齢者のアクセルとブレーキの踏み間違いを防げると思いますか。アホと、ちゃうか!
 私はいま、このブログを書きながらかなり頭にきているので、書きながら怒りがますます増幅している。過激な表現になっていることはご容赦願いたい。
 
 悪質な自動車事故に対する処罰について、私が書いたブログの原本を改めて読み返した。1回目は13年1月20日に投稿したもので、タイトルは『自動車重大事故に対する刑罰の細分化は裁判官・裁判員を困惑させるだけだ』とある。「自動車重大事故の罰則がまた重くなるようだ」という書き出しから始めたこのブログでは、自動車運転棄権致死傷罪の適用ハードルが高すぎて事実上罰則が軽くなることに対する被害者や遺族の反発が大きく、最高が懲役7年の自動車運転過失致死傷罪との間に最高が懲役15年の「中間の罪」(17日付の朝日新聞朝刊記事の表現)を設けようという動きが法務大臣の諮問機関で検討されているという記事を巡って、「意図した犯罪行為」と「過失」の間に「未必の故意」に相当する罰則を加えることを意味するのかという疑問を呈した内容だ。
 日本では「未必の故意」は確信的な「犯意」がなくても、「行為の結果を予測していた」ことを立証しなければならない。このことは行為者の深層心理の解明に相当し、実際には危険運転致死傷罪の適用より困難になると私は思った。
 が、結局「中間の罪」が新たに制定された。私は14年1月10日、14日、15日、16日、17日と5回にわたって『法務省官僚が世論とマスコミの感情的主張に屈服して、とんでもない法律を作ってしまった』と題するブログを投稿した。
 私の主張は結論から言えば、自動車事故に関しては「犯意」があろうとなかろうと、飲酒運転や薬物などを摂取した状態での運転、過度のスピード違反はすべて「未必の故意」による行為として一般刑法で殺人罪や傷害罪で罰すべきというものだ。何のために交通法規があるのか。交通法規には2種類あり、一般の交通の妨げになる行為(駐車違反など)と、事故を起こす危険性が高い行為や状態(スピ-ド違反や飲酒運転など)に分けられる。前者の処罰は交通違反として取り締まるべきだが、後者には一般刑法を適用し、自動車運転免許を取得した時点で、重大な違反行為による事故はすべて「未必の故意」によるとすべきだと私は考える。
 たとえば最近社会を騒がせているあおり運転は、「事故になるとは思っていなかった」と「故意」を否定しても、免許取得の条件として危険な運転をしないことが前提になっており、その前提を無視した時点で必然的に「未必の故意」が成立するという判断を最高裁は示すべきだ。そうでなければ、意識を失うほどの過度の飲酒運転は、意識がある軽度の飲酒運転より危険運転致死傷罪に問うことが論理的にはかえって難しくなる。重大なスピード違反も、自分の運転能力に自信があり、100キロ超のスピード違反でも過去に事故を起こしたことがないと主張されたら、「故意」を前提とした危険運転致死傷罪に問えなくなる。
 90歳女性のケースも、私は「未必の故意」の殺人罪で処罰すべきだと考えているが、もし弁護士が「警察の認知機能検査に合格しており、運転能力にも自信があった。したがって偶然の事故であり、過失に過ぎない」と主張されたら、裁判官はどう判断する。現行法と、警察の高齢者免許更新の際の認知機能検査では、高齢者の反応スピードや判断力低下による事故は防げない。「法と警察の検査の不備が原因だから無罪」と、弁護士が主張したら、私が裁判官だったら認めざるを得ない。
 はっきり言って、高齢者事故の激増の最大の責任は警察庁にあり、したがってペーパーテストによる認知機能検査で合格させた高齢者の事故はすべて免責にすべきだ。
 それはおかしいというなら、現在の高齢者免許更新制度に対する手厳しい批判をメディアはあらゆる手段を講じて行うべきだ。とりわけ警察庁に対する忖度番組を報道したNHKは深刻に反省してもらいたい。当然この番組を制作した担当者は社会的制裁を受けるべきだと考える。

 ただし、高齢者が自主的に自動車免許を返納するようになるためには、地域の行政による「高齢者のための足のインフラ整備」が不可欠である。東京や横浜、大阪、名古屋などの大都市では高齢者に対して有料の敬老パスを発行している地域もあるが、地方は財政難もあってそうしたインフラ整備にまでは手が回らないようだ。これは基本的に国の地方に対する助成金についての考え方にも問題があるためだ。箱もの重視から、高齢化社会に対応したインフラ整備への手厚い補助があってしかるべきだと思う。
 東京都の音喜多議員のように、高齢者に対する敬老パスをなくせと主張するバカもいるが、では高齢者が起こす交通事故に対する責任を自らが負ってほしい。敬老パスは、高齢者に対する過度の社会保障ではない。自動車免許を返納した高齢者の足を確保するために絶対必要な交通インフラなのだ。
 私に言わせれば、保育所の整備のほうが過度の社会保障だ。「少子化対策」などといわれるが、保育所に子供を預けることが出来た母親は社会復帰して仕事に意欲と生きがいを回復する。そのこと自体は、女性の高学歴化により社会がより高度化された女性の労働力を要求した結果であり、また女性の生き方のひとつとして私も否定はしないが、そうした生き方の選択は当然、自ら結果責任も負うべきであり、行政が支援すべき話ではない。高額の保育費を支払っても社会で自分の存在感を見出したいと考える女性も少なくない。認可保育園は、少子化対策ではなく、共稼ぎ夫婦に対する生活支援に事実上なっていることを社会は認めるべきだ。そのうえで、そうした制度を充実すべきだというのが民意だというのなら、私はあえて反対はしない。が「保育園落ちた。日本死ね」とほざいた女性は、自分だけは行政から特別扱いされるべきだと考えているようだ。そうした自己中の声が社会の共感を得るような、いまの日本にこそ私は「死ね」と言いたい。


 
 

安倍政権はまだ崩壊したわけではないが、この時点で「安倍政治」の総括をしておく。

2018-06-07 02:17:32 | Weblog
 安倍政治とはなんだったのか。
 まだ安倍政権が倒れたわけではない。が、私の目から見ると、もはや断末魔の状態だ。「断末魔」と書いたのは、安倍政治そのものが末期的症状にあるという意味で、政権の行方は現時点では依然として不透明だ。明日にでも倒閣するような状況にあるわけではない。それでも、私はこの時点で安倍政治とはなんだったのか、という総括をする。その目的は、日本型民主主義政治を改めて検証することにある。なお、この稿では敬称は一切略させていただく。
 安倍政治の本質は、ひとことで言えば「情の政治」だった。
「情の政治」という定義に、」あっ、なるほど」とうなずく人は少なくないと思う。「そう言えば」と、納得される方も多いと思う。
 日本社会の底辺に流れる精神構造について独自の視点で研究してきたのが山本七平だ。その集大成が『空気の研究』だった。
 山本七平は、イザヤ・ベンダサンなるペンネームで『日本人とユダヤ人』を著わし、著書は単に大ベストセラーとなっただけでなく、日本人社会の底辺に脈々と流れる精神的規範と欧米社会のそれとのパーセプション・ギャップを初めて解き明かした歴史的名著である。私自身、若いころ同書を読んで、言葉には表せないほどの精神的ショックを受けたことを今でも鮮明に覚えている。
 安倍は外交の名手だった。安倍の外交テクニックは相手国の首脳との信頼関係を築くことに大きな力を発揮した。トランプとも最初の会見でたちまち意気投合した。彼の外交テクニックの機微はどういう点にあったのか。相手の情に訴えることの巧みさにあった、と私は思っている。
「日本は100%アメリカとともにある」
 安倍はつねにこう言いつづけた。トランプが喜ばないわけがない。
 ただし、その考えは必ずしも安倍の本音とは限らない。「日本の国益にかなう限り」という本音が隠されているはずだ。ただ、そう言ってしまったらおしまいよ、ということになるから、その言葉は発しない。相手の耳に心地よいことだけをとりあえず言っておく。
 安倍とトランプの親密さは、そうやって構築されてきた。
 安倍がトランプの言いなりになっているように振る舞っている間は、トランプにとっても安倍は最も頼りになる海外の友人である。だから安倍がトランプに会いたいと申し入れると、最優先で会うようにしている。とくに国内にも国外にも敵が多いトランプにとって、安倍は海外の得難い友人なのだろう。
 安倍とトランプの関係については、メディアも政治家もその程度のことは百も承知しているはずだ。ただ、私のようにあからさまに書いたり言ったりしないだけだ。
 安倍外交の威力は他の国々に対してもいかんなく発揮されている。安倍が第2次政権を確立して以来の海外訪問歴は、それまでの歴代総理の訪問歴を圧倒している。1国の首脳が訪問すれば、相手国も首脳が対応せざるを得ない。安倍は相手国首脳との間に親密な関係を構築することにかけては、他に例をみないほどに辣腕だ。どうやって相手国の首脳を誑(たら)し込むのかはわからないが、その交渉テクニックは歴代総理の中でも群を抜いていると思う。
 そうした外交術によって日本産業界はかなりの恩恵を被ってきた。高度技術が要求される新幹線や原発などのインフラ産業の海外進出はアベノミクスによる円安効果も相まって大きく進んだ。
 が、そうした外交テクニックは、想定外の弊害も生みかねない。相手国の首脳から「くみやすし」と、足元に付け込まれかねないからだ。たとえばアメリカにとって最も忠実な同盟国であるはずなのに、アメリカは日本に鉄鋼・アルミの関税を引き上げたり、自動車に至っては関税を25%に引き上げると脅かされたりしている。「そんな勝手な話があるか」と、安倍はトランプに怒りをぶつけようともしない。せいぜい、鉄鋼やアルミにかける関税について、カナダやEUの尻馬に乗ってWTO(世界貿易機関)に提訴する可能性を示唆する程度の抵抗しかできないでいる。
 EUや中国は「それなら我々も報復処置をとるぞ」と猛烈に反発したが、日本の姿勢は「同盟国じゃないですか、どうかお手柔らかに」と、頭を下げて交渉しているようにしか見えない。
 そもそもトランプが主張する「貿易の公平性」とは、輸入と輸出のバランスを取るという単純なことでしかない。アメリカは輸入超過で貿易収支の赤字が続いている。その赤字を解消するために、輸入超過が目立つ国の主力輸出品をやり玉に挙げて関税を引き上げようというものだ。さすがにそういうあからさまな関税引き上げ理由は国際社会の理解が得られないことも分かっているから、「安全保障上の観点から」というおかしな理由付けをしている。
 そもそも安全保障上の問題であるならば、関税の引き上げで輸入量を制限するというのは理屈に合わない。該当品目のすべてを輸入禁止にすべき話だろう。関税の高率化で輸入量を制限することが、アメリカにとってどういう安全保障策を意味するというのか。日本政府に誇りと矜持があれば、トランプ主張の自家撞着を追及すべきだった。安倍外交の矛盾点がこうした形で表面化せざるを得なくなったのだ。いくらゴルフ外交で「親友ぶり」をアピールしても、肝心の安全保障政策や貿易問題で言うべきことも言えないのでは、安倍はどの国の国益を最優先しているのかと言いたくなる。
 国益より、トランプとの友好関係を重視するように見える安倍の「情の政治」は、国内でも表れている。たとえばモリカケ問題。同じように見えて、実は二つの問題は本質的に違う。加計学園の加計孝太郎は安倍の大親友だが、森友学園の籠池泰典との交友関係はほとんどない。実際森友学園との国有地払い下げ交渉の文書にも、安倍自身の名前はまったく出ていない。
「忖度は片想いとは違うよ」ということは5月22日のブログでも書いたが、安倍は5月14日、国会の集中審議での答弁でこう主張した。
「忖度されたか否かは、される側にはですね、例えば私のことを忖度していると言われているんですが、される側にはわかりにくい面がありまして…」
 ご冗談もほどほどに、と苦言を呈しておく。たとえばアイドル・タレントに勝手に片想いをし、それが嵩じてストーカーになったり、時に凶行に及ぶファンがいて民放のニュースショーの格好な話題になることがあるが、こうしたケースはタレント側には責められる要素はまったくない。
 が、忖度は違う。相手に忖度させるための何らかのアクションがあったはずだ。そうでなければ、官僚が危ない橋を好んで渡るわけがない。
 忖度という言葉は、籠池が国会での証人喚問で、財務省が国有地払い下げで破格の対応をしたことについて「たぶん忖度があったのだと思う」と述べたことがきっかけで一躍流行語になったが、籠池は役人に忖度させるために昭恵夫人の名前を交渉過程で頻繁に出し、ちょっと顔見知り程度の政治家の名前も出して自らの政界への影響力をこれでもかこれでもかとばかりにちらつかせてきた。実際には籠池の政界への影響力はさほどではなかったため、籠池は逮捕され締め上げられている。昭恵も籠池からそういう形で利用されているとは思いもよらなかっただろうから、いまは相当籠池に対して相当頭にきているはずだ。このケースはしかるべき地位にある官僚がある時点で昭恵をたしなめていれば、籠池の芝居は「カラカラ空回り」に終わっていた。
 しかし、加計学園の問題は全く違う。安倍自身が、官僚に忖度させるために、自らの権力をフルに行使した。
 15年2月15日に、安倍が加計と会って加計学園の「国際水準の新しい獣医学部を作りたい」という計画を聞いて「いいね」と賛意を示したのは、5月29日のブログで書いたように99.99%事実だろう。
愛媛県や今治市の文書の中に安倍・加計面会の記録が書かれていたのは、加計学園からの情報提供だったことははっきりしている。が、安倍が加計との面会を強く否定したため、加計も口を合わせ、そのうえ加計学園の事務局長の渡辺が虚偽情報を愛媛県や今治市に伝えてしまったことにした。記録文書が愛媛県や今治市に残っている以上、その記録を否定するためには加計学園としてはトカゲのしっぽを創らざるを得なくなったというわけだ。
トカゲのしっぽに指名された渡辺によれば、「その場の雰囲気で、とっさに私が思いつきで言ったのだと思う」ということだが、どう考えてもそういうことはあり得ない。
まず愛媛県や今治市には獣医学部新設を認可する権限がない。権限のない自治体に、「その場の雰囲気で思いついた作り話」というのは、どう考えても筋が通らない。強いて最大限善意に解釈して、愛媛県と今治市が国家戦略特区プロジェクトに申請する際の、内閣府官僚に忖度させるための材料として提供したというなら、まだ理解できないこともないが、愛媛県も今治市もこの材料を使って内閣府に働きかけていないのだから、加計学園側は愛媛県や今治市に「こんなにいい材料があるのに、なぜ使ってくれないのか」とせっついていなければ筋が通らない。
愛媛県今治市に獣医師養成大学を誘致するという計画の推進主体は、それまでの愛媛県から、安倍・加計会談を機に加計学園側に移行したと考えるのがもっとも論理的な帰結だ。
 29日のブログを書いた時点では、国家戦略トップのキーマンである柳瀬がいつ動き始めたのかは不明だったが、いまは3月3日ということが判明している。この日、柳瀬は加計学園側と最初の面談を行っているが、加計学園の計画をバックアップするために同行した愛媛県や今治市職員のことは、柳瀬の記憶からすっぽり抜け落ちていた。柳瀬は国会に参考人として招致されたとき、加計学園担当者とは3回面会したことは認めたが、愛媛県や今治市職員が一緒だったことは全く覚えていなかった。ということは、柳瀬は加計学園の計画を国家戦略特区プロジェクトに認めさせるための方策を考えるのに必死で、それ以外のことは頭の片隅にもなかったことを意味する。
 なぜか。
 安倍から、直接「加計学園の面倒を見てやれ」と指示されていたからに他ならない(この部分は、私の論理的推測。しかし、この推測には100%の自信がある)。そうでなければ、この時期、国家戦略特区プロジェクトのキーマンである柳瀬が、直々加計学園担当者を総理官邸に呼び、直々に指導することなどあり得ないからだ。実際国家戦略特区プロジェクトに関して、自治体以外の事業者と面会したのは加計学園だけだったということも明らかになっている。
 前回のブログにも書いたように、国家戦略特区プロジェクトの主役は地域の自治体である。地域の経済振興を政府が後押ししようというのがプロジェクトの趣旨で、安倍自身が最高責任者にもなっている。つまり、安倍の指示がなければ、柳瀬が面会すべきは特区として名乗りをあげようとしていた愛媛県と今治市の担当者のはずだ。
 四国には獣医師が少ないという。そのため前愛媛県知事の加戸時代から、県は構造改革特区の制度を使って愛媛県に獣医学部の大学を誘致したいと何度も文科省に願い出ていたという。が、獣医師会の既得権益死守による強い反対と、その政治力によって愛媛県の思いは何度も厚い壁に跳ね返されてきたという。「岩盤規制」とやらの規制が本当にあったのかどうかは知らないが、安倍が加計に「国家戦略特区ならオレが最高責任者だから、何とかなる」とアドバイスしただろうことも想像に難くない。そしてキーマンであり総理秘書(当時)だった柳瀬に指示こともたぶん間違いないと思う。おそらく安倍の直接的関与はここまでだったと思う。だから前文科省事務次官の前川の証言のいくつかは、柳瀬が内閣府に根回ししたために官僚が行った忖度によると思う。安倍も、それ以上危ない橋を渡るほどのバカではあるまい。

 私はこの問題を考える時、いろいろ仮説を立てて考えてみた。現場のメディア記者は直接自分の目や耳に入る情報に振り回されるため、樹を見て森が見えなくなるきらいがある。が、私には情報量が圧倒的に少ないため、森の全体像から樹を探すという方法を取らざるを得ない。
 私が立てた仮説の一つに、もし安倍の親友が加計ではなく加戸だったら、柳瀬はどう動いただろうかというものがあった。
 当然柳瀬は、まず愛媛県の考えを聞き、四国の獣医師不足問題の解決法として愛媛県の担当者にアドバイスをしていたはずだ。愛媛県のどこに作りたいのか、また愛媛県に獣医学部を新設しようという大学があるのか。計画はどこまで具体化しているのか。etc
 加戸の国会での答弁から、たまたま加計学園の役職者と愛媛県の担当者が昵懇にしていて、愛媛県の計画を聞いて加計学園が乗り気になったという経緯が分かっている。
 こういう経緯を考えると、柳瀬が最初は愛媛県の担当者と会い、2回目の面会の時に候補地の今治市の担当者や事業者である加計学園担当者の同行を求め、今治市や加計学園の本気度や具体的計画を確認するというのが、このプロジェクトのまともな進め方にならなければおかしいのだ。それが、柳瀬の頭の中には、最初から最後まで加計学園のことしか念頭になかったということ自体が「加計ありき」の紛れもない証左である。「(忖度)される側にはわかりにくい面もありまして」とは、安倍も白々しすぎる。忖度どころか、まぎれもなく「情の政治」の一環として安倍は「岩盤規制にドリルで穴をあけた」のだ。これが加計学園問題の真相であることは、99%間違いない。

 この稿を終えるにあたって、安倍政治のもう一つの「顔」について書いておきたい。
 報道によれば、昨年10月安倍は周辺に「私がやっていることは、かなりリベラルなんだよ。国際水準からいえば」と語ったという。
 リベラルという政治思想には、実は二つの流れがある。元来の意味は自由主義(リベラリズム)という意味合いで、古くはヨーロッパで発生した。個人の自由や多様性を重視すべきだという考え方で、18世紀半ば、アダム・スミスが経済学として著わした『国富論』により、経済活動は「神の見えざる手」にゆだねるべきで、政府の介入を極力排した「小さな政府」を主張したのが源流とされている。
 アダム・スミスは近代経済学の祖とされており、のちにマルクスやケインズの経済学にも多大な影響を与えたようだが、リベラルという政治思想には1930年代以降アメリカでまったく正反対の解釈が生まれた。「保守」に対する概念として社会主義的経済政策や社会保障・福祉を重視する考え方だ。アメリカでは保守の「小さな政府」を主張する共和党に対して「大きな政府」を主張する民主党という対立構図として受け止められている。そのため、選挙になると共和党候補者は民主党候補者に対して「リベラル」というレッテルを「社会主義思想の持ち主」という意味で貼り付け、民主党候補者はそのレッテルを極端に嫌う傾向があるようだ。
 安倍は成蹊大学を経てアメリカ南カリフォルニア大学に留学、立教大学を経てカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学していた加計と知り合い、親交を重ねるようになった。そうした経歴から、安倍が言うリベラルはアメリカの政治思想に近いと考えられるが、「私がやっていることはかなりリベラルなんだ」という場合、思い浮かぶのは経済界に対して毎年のように賃上げを要求したり、歴代政権に比して最低賃金制の上昇率を重視したり、正規・非正規の格差是正のために「同一労働同一賃金」の導入を図ろうとしたことくらい、つまり賃金政策に絞られているといってよいだろう。「国際水準」と安倍が言う場合、彼の念頭にはアメリカしかないようで、とりわけ外交政策とくに安全保障政策がアメリカ一辺倒と見られるのも、留学時代の影響かもしれない。

 いずれにせよ、安倍時代はそう長くないと私は見ている。「情の政治」で構築してきたお友達政権だが、安倍一強体制の「扇のかなめ」を自負してきた麻生財務相をいつまでかばい続けられるか、時間の問題になりつつある。自身が高転びに転ぶか、泣いて馬謖を斬るか、どちらにしても安倍政権にとっては命取りになる。安倍政治が果たした役割で、評価すべき点は私も評価しているが(アメリカ以外の国との外交関係の構築や弱者救済的要素が強い賃金政策など)、民主主義の大原則である三権分立を破壊した「民主主義に対する罪」は後世に大きな汚点を残した。「人間、引き際が大切だよ」と申し上げておきたい。

【追記】 上記の原稿は3日に書いた。その原稿は印刷して4日に友人と北川正恭(元三重県知事)に渡している。
 4日夕方、財務省が調査結果(第三者委員会による調査ではなく、省内調査)と処分を発表した。したがって、上記原稿の内容にはこの調査結果やメディアの反応は全く反映されていない。そのことをまずお断りしておく。なお、この追記は翌5日に書いているが、5月29日に投稿したブログの閲覧者が依然として増え続けているので更新できない状態にある。(※昨日6日現在の閲覧者数も依然として高水準を維持しているが、これ以上投稿を伸ばすと賞味期限切れになる恐れがあるので、この時点で投稿することにする)
 財務省の調査結果と処分内容については、すでに読者もご存じのはずだから、ここでは触れない。すでにメディアも指摘しているが、森友文書改ざんはあくまで理財局内部の行為として、処分対象も理財局所属職員に限定している。
 私はこれまで数度にわたるブログで指摘してきたが、果たして佐川(元理財局長)の単独判断でこれほど大規模な決裁文書の改ざんが出来るのか。
 国会での総理や大臣に対する質疑応答は原則、事前に質問事項が相手に渡され、答弁内容は官僚が徹夜で作成する。こうした慣行はなれ合いを生むとかっこいいことを言って事前の質問事項は明らかにせずぶっつけ本番で答弁すると大見得を切った小池都知事は、最初の都議会での質疑応答で悲鳴を上げて、ぶっつけ本番をやめた。
 証人喚問の場合、事前の調整があるのかぶっつけ本番なのかは私は知らないが、佐川の答え方から質問事項はあらかじめ承知していたと思われる。あらゆる質問によどみなく自信満々で即答していたからだ。
 果たして、この佐川答弁が、佐川の独断で勝手に行われたと結論付けることが出来るのか、そんなことはあり得ないと思う。私が前回と今回のブログで書いたように、森友学園の籠池が理財局との国有地払い下げ交渉で昭恵やちょっとした顔見知り程度の政治家の名前をちらつかせて自らの「政治力」を誇示して官僚に「忖度」を迫ったことは、もはや疑いの余地がない。この籠池の交渉テクニックにまんまとはまったのが理財局官僚。
 が、ことが公になって理財局だけではことを収めることが不可能になり、佐川が国会に証人喚問されることになった時には財務省全体の浮沈をかけた問題になってしまった。事態の収集方法については佐川が中心になって考えたかもしれないが、その間の経緯については逐一財務省本局のしかるべき官僚、はっきり言えば当時の事務次官にまで報告をあげ指示を仰いでいたはずだ。が、事務次官にまで報告が及んでいれば、当然のことだが麻生にも「こういう方向で事を収めたいと思う」という報告が行っていたはずだ。麻生が田中角栄のように「よっしゃよっしゃ」とOKサインを出したかどうかは知らないが、こうして財務省の調査報告の方向付けが行われたことは間違いない。
 私は前にもブログで書いたが、もはや佐川に明るい未来はない。麻生は裏社会とつながっているという噂がいまでもあるようだから(あくまでも噂で筆者が実態を知っているわけではない)、佐川の面倒は今後裏社会が見ることになるのかもしれない。ここまで書いた私の身に何かがあれば、そのことが事実として裏付けられたことになる。自分自身の安全のために、そこまで書いておく。
 佐川への処分がたった停職3月というのも、佐川の反乱を防ぐためだろう。佐川が、どこまでこの案件をあげたか口を割ってしまえば、麻生の首はおろか安倍内閣も総辞職を免れない。
 基本的に官僚社会に限らず、何か問題になりそうな案件は自分自身への保険をかけるため必ず上司に判断を仰ぐのが、組織人の習性だ。上司が「お前の判断に任せる」と逃げることもあるが、その場合も「上司に了承を得た」ことにするため、必ず結果報告はする。私自身は若いころサラリーマン生活を送った経験があるが、そうした組織人の習性になじめず、上司の決裁を仰がずに勝手に独断で決裁してきた。平社員の時代に、課長級までの人事評価と給与査定も、これはさすがに自分一人でとはいかずに常務と二人で会議室に3日間缶詰めになって行ったこともある。新製品の価格決定も、工場から原価についての報告を受けて私一人で決め、上司の決裁も仰がずに勝手にカタログまで作ってきた。
 そんなことが、いまの官僚社会で出来ようはずがない。佐川に対しては財務省は口封じの代償として停職3月という寛大な(?)処分にとどめた、と考えるのが文理的であろう。
 このことはこれまでも何度も書いてきたが、民主主義の絶対原則であり、それゆえに最大の欠陥でもある「多数決原理」が働いている国会で、いくら徹底抗戦を叫んでも風車に突っ込むドンキホーテのようなことすら出来ないのだから、唯一解散権を総理の手から奪う方法を伝授しておこう。おそらく誰も考えもしなかった伝家の宝刀になりうる緊急避難処置だ。
 それは、野党議員が結束していっせいに議員辞職に踏み切ることだ。野党議員が全員辞職しても3分の2を超える与党議員が残るのだから国会機能は保たれるが、そうした状況の中で与党だけで国会審議を進めていくとなったら、メディアや国民がどう反応するだろうか。
 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
 皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ。
 野党が本当に民主主義の危機を心底感じているのなら、そこまでやった時、国民はもう一度だけ賭けてみようかという気になるかもしれない。