小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

 安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している!!

2013-08-30 03:30:30 | Weblog
 あらかじめお断りしておくが、今回のブログは相当高度な理解力の持ち主(もっとはっきり言えば高校生高学年から大学生程度の理解力)で、かつ
既成概念を捨てられる人でないと、読んでも無駄である。
 が、日本が置かれている国際的環境(軍事的・経済的・その他もろもろ)の激変を真剣に憂い、私たちの子供や孫、さらに将来にわたって私たちの血を継承する未来の日本の国づくりを担ってもらわなければならない後継者たちのために、私たちは今何を成すべきかを真剣に考えておられる方には、ぜひいったん、自分の価値観や既成概念を白紙に戻して読んでいただきたい。
 理解力については、前回のブログでも書いたが、台形の面積を公式を使わず計算できる論理的思考能力が基準である。次に既成概念を捨てるということは、現行憲法について「平和憲法」とお考えの方は、そうした考え方を捨てていただきたい。とくに「平和憲法が戦後の日本の平和を守ってきた」という「憲法神話」にとらわれている方は、その既成概念を捨てていただかないと、このブログを読むのは時間の無駄である。たとえば、NHKの元エグゼクティブアナウンサー(理事待遇)三宅民夫氏(現在は嘱託)の討論番組での発言(私はNHKに猛烈に抗議した)や、朝日新聞の論説委員の社説での表記にあるような無定見な「言葉遊び」がやめられない人には、はっきり言って「馬の耳に念仏」のブログだからだ。
 私の考え方は、実はこれまでさんざん批判してきた読売新聞の主張に非常に近い。近いが、その短い距離の間に超えられない成層圏まで達するような高い壁がある。私が読売新聞に近寄ることは絶対にありえないので、読売新聞が私の思考方法を理解してフェアな主張をしてくれるようになることを期待するしかないと思っている。無駄な期待かもしれないが……。
 
 私は新聞社が主張を変えることは構わないと思っている。状況が変われば、以前の主張を変える必要が生じるのは当然である。が、言論機関として「言論の自由」を主張するなら、いったん行った主張に対する責任も果たすべきだ。具体的には「いついつはこういう主張をしたが、その主張をしたのはこういう背景のもとでの主張だった。だが、現在は状況がこう変わり、前に主張したことは実行不可能になった。したがって主張をこう変える」と、読者に対する説明責任があるはずだ。読売新聞だけではないが、新聞はその説明責任を果たさずに、勝手に主張を変えている。それで「言論の自由」を声高に叫ぶ権利があると思っているのだからタチが悪い。
 具体例を書く。野田民主党政権時代、野田首相が政治生命をかけたという「税
と社会保障の一体改革」を読売新聞は社説で支持したはずだ。ところが、安倍自公政権になって、安倍総理が消費税増税に消極的になった途端、主張をがらりと変えて「今消費税を増税すると、せっかく回復しつつある景気の腰を折りかねない」と増税反対論を打ち出した。消費税増税に代わる税収確保の提案もせずにだ。だから私は「政権与党にすり寄ることを社是にしている読売新聞」と決めつけているのである。
 
 さて政権与党にすり寄ることを社是とする読売新聞は、いま全力を挙げて安倍総理の憲法解釈の見直しをバックアップしている。具体的には、これまで「集団的自衛権は固有の権利としてあるが、憲法の制約によって行使できない」としてきた政府解釈を見直して、「憲法解釈上も集団自衛権を認められるようにしよう」という安倍総理の考えを全面的に支持し、その理論的裏付けを試みている。それはそれで自由だが、捻じ曲げた印象を読者に与えかねないアンフェアな主張がしばしば見られることだ。
 そのことはこのブログを読めば自明になるが、なぜ日本の「自衛隊」は「自衛軍」でもなければ「国防軍」でもないのか、という疑問から解明していこう。
 憲法9条は、①「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」②「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある(一部省略)。
 日本を占領下に置いたGHQは、マッカーサー総司令官の指示に背いて「自衛権まで否定するものではない」という考え方をしていたが、実際には自衛のための最小限の戦力すら完全に解体してしまい、事実上「否定しないはずの自衛権」を奪い、日本を丸裸にしてしまった。そのため、吉田首相は自衛権もないと国会で答弁している。そこに矛盾が生じなかったのは、当時日本は連合軍(実態はGHQ)の占領下にあり、GHQによって日本の安全が保障してきたからである。だから、自衛のための自前の戦力を解体されても、国連憲章51条が定めた固有の自衛権の一つである集団的自衛権の行使によって日本は安全地帯に置かれていたと考えるのが論理的であり、妥当な集団的自衛権解釈の第1歩である。安倍総理をはじめ政治家やジャーナリストには、この視点が完全に欠落している。
 だから私は占領下において日本の主権がなかった時代に、形式上は日本政府がGHQの顔色をうかがいながら作成した憲法は、日本が独立を回復した時点で「無効」として、独立国としての尊厳を反映した憲法に改正しておくべきだったと何度も主張してきたのである。
 が、どんなに愚痴を言っても死んだ子が生き返るわけではないので、「押し付
けられた」とか「日本政府が作成した」といった無意味な憲法論争はいい加減にやめて、現行憲法は独立国としての日本の尊厳が反映されているかという視点から見直せば、当然憲法を改正すべきだという結論に達するはずだ。この視点で改憲論を主張すれば、いわゆる「護憲勢力」も反論できまい。
 そうした視点からの改憲論争を避けてきた(というより政治家の頭に浮かばなかった)ため、朝鮮戦争が始まって、それまで日本の防衛を肩代わりしてきた米軍が戦争に駆り出された結果、日本の安全(実際には外国からの侵略を防ぐためではなく国内の共産勢力の台頭を防ぐのが目的だった)を守るための「実力部隊」として警察予備隊を創設したという経緯がある。日本で猛烈な「赤狩り」が行われたのもこの時期である。その警察予備隊が自衛隊の母体になるのだが、「戦力の保持」を禁じてしまった憲法9条によって「自衛軍」あるいは「国防軍」という名称を付けることができなかったのである。自衛軍や国防軍の名称にすると、明らかに軍隊(つまり「戦力」)ということになり、憲法9条に抵触してしまう。そのため歴代政府は自衛隊は「戦力」ではなく「実力」だとへんてこりんな言い訳をしてきた。憲法9条と自衛隊の関係を前提にしないと、集団的自衛論は非論理的にならざるを得ないのは当然である。なのに、読売新聞はあえてこの問題に目をつぶり、集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更によって認めようという安倍総理の片棒を担いでいるのだ。これがあるべきジャーナリズムの姿勢なのか。私が「読売新聞はジャーナリズム失格」と烙印を押したのは、その故である。
 私自身はこれまでも述べてきたように、まず憲法を改正して、国民主権のもとで新憲法を制定し、自衛のための固有の権利として自衛軍(あるいは国防軍)の保持を明記したうえで、自衛のための軍隊の行動を国民の意思によって規制することを定め(緊急時には政府が戒厳令を発布して政府の管理下で自衛のための軍隊の発動を許可し、事後に政府の決定について国民の意思を問う仕組みにする)、集団的自衛権については国連憲章51条の正確な理解に基づいたうえで、日本としての集団的自衛権行使の義務の範囲を明確に定める(この書き方にほとんどの読者は違和感を感じられるだろう。いや、違和感を感じてもらわないと困るのである。私がなぜこういう書き方をしたかはおいおいわかる)。
 すでに私はブログで詳述したが、国連憲章51条は「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、(中略)個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」(邦訳)とあり、おそらく原文(英語だと思う)では「個別的」or「集団的」自衛の権利となっているはずだ。つまり「個別的」and「集団的」ではなく、どちらか一方の権利の行使しか認めていない。
 なぜそういうおかしな表現になったのか。実は国連憲章は戦争を犯罪行為とみなし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対し武力攻撃が行われた場合は、自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国の軍隊に守ってもらう(これが「集団的自衛」の意味)権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的妥当性を有する。
 そういう集団的自衛権を権利として国連憲章が認めた背景には、国際会議で承認された「永世中立宣言」国が非武装だったため他国から侵略され占領された過去があり、そうした悲劇を二度と繰り返さないため、個別的自衛力のない国を他国の攻撃から国連加盟国が共同で守ってあげようという意味なのである。つまり国連憲章が認めた集団的自衛権とは、同盟国や「日本と密接な関係にある国」(日本政府の定義)を、攻撃された国と一緒に守ることを意味するものではないのである。非武装や十分な「個別的」自衛の戦力を有していなかった場合に、他の国連加盟国に応援を頼める権利が集団的自衛権の本来の意味である。
 国連憲章がなぜそういう権利を明記したかと言うと、いざというときに国連安保理の決定によって国際紛争を解決するための実力装置である「国連軍」の創設を前提にしていたからである。だから、国連憲章の真意は、個別の軍事同盟を認めず、国際紛争はすべて国連軍が解決することを最終的目的としていたためと考えられる。
 だが、そんなに簡単に平和な国際社会をつくることは不可能である。国連憲章が理想としたのは、「帝国主義国家」が軍事同盟を口実に侵略戦争を繰り返した第1次世界大戦、第2次世界大戦への反省から、個別的軍事同盟に代わるものとして国連軍の創設を高らかにうたいあげたのだが、冷戦下で各国の利害が激しく対立する中で国連軍の創設は容易ではなく、いまだに創設されていない。日本の歴史を見ても、第1次世界大戦で、日英同盟を口実に参入し、アジア方面のドイツ軍と戦いドイツがアジアに持っていた権益を奪っている。
 だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係が築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。
 まず安倍総理自身がこの問題をごっちゃにしている。安倍総理は初めて総理になった2007年5月に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長は柳井俊二・元駐米大使)を首相官邸に設置した。同懇談会について、当時のマスコミはすべて(読売新聞も含め)首相の私的諮問機関(あるいは有識者会議)と位置付けた。当然である。この懇談会が「政府の有識者会議」(最近の読売新聞の位置づけ)であれば、当然政府与党の公明も認めたオフィシャルな機関で、そこが出した結論は相当高いレベルで政府の方針に影響を与える。たとえば現在政府の有識者会議である消費増税の是非を検討する集中点検会合は、
政府が主催しており、事務局は内閣官房が担当している。
 なぜ読売新聞が政府に君臨するポジションに就いて、首相の私的に設置した機関を「政府の有識者会議」に格上げできたのかは知る由もないが、この懇談会を設置した理由について安倍首相(当時の)は「公海上での自衛隊艦船による米艦船擁護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」は「もし日本が助けなければ同盟はその瞬間に終わる」と述べている(なおこの安倍総理の発言を「引用」としてではなく、読売新聞は剽窃してあたかも自社独自の主張であるかのごとき社説を掲載した)。この発言はその通りだが、これは日米軍事同盟の不安定要素についての安倍首相の考えで、集団自衛権を解釈改憲で認めるか否かとは次元が違う話だ。

 集団自衛権を行使する対象について日本政府は「同盟国及び日本と密接な関係にある国」と定義しているが、国連憲章によれば「国連加盟国」と明確に定義している。つまり、国連加盟国は「無法な侵害を受けている。助けてくれ」と、他の国連加盟国に要請する権利があり(これが集団的自衛権)、支援を要請された国連加盟国はその国を助ける義務(権利ではない)があるということを明確に述べている。それをあえて安倍首相も読売新聞も無視して、日本が集団的自衛権を解釈改憲で認めないと、日米関係が危うくなるかのごときの主張は「ためにする」以外の何物でもない。
 そう解釈しなければ、国連憲章51条が定めた「自衛の権利」について、「個別的又は集団的」と二者択一的な表記で「固有の権利」を認めた理由の意味を理解できない(その点は、私が7月21日に投稿したブログ『参院選挙の自民大勝によって、憲法改正は実現に向けて大きな一歩を踏み出した』での主張に一部不十分な説明と主張をしたことを率直に認める)。つまり、日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが日本を防衛する義務を負っていることにより、すでに集団的自衛権を有しているのである。どうして日本の政治家やジャーナリストはここまで頭が悪いのか、私には理解できない。そこで、別の視点から日米安全保障条約について再考してみよう。

 日本人のほとんどは日本とアメリカは同盟関係にあると思っている。とんでもない話だ。
 アメリカ人(とくに政治家)は、日本との関係をどう見ているか、日本の政治家は黙して語らないし、マスコミもうすうす気づいていながら、あえてこの問題を正面から取り上げようとしてこなかった。
 アメリカにとって最大の同盟国はイギリスである。米英の間にどういう条約
が締結されているか、私には知る由もないが、おそらく双務的な軍事同盟としての細かい約束事が盛り込まれているはずだ。だから湾岸戦争やイラク戦争にも、アメリカが直接他の国家によって不法に攻撃されたわけでもないのに、アメリカの報復行動にいち早く軍事的協力をしている。もちろんイギリスでも議会の承認を経て行っているはずだ。
 日本は勝手にアメリカを同盟国と位置付けているが、アメリカは単なる友好国の一つ(ただし重要な友好国とみてくれているとは思うが)と位置付けているはずである。確かに日米安全保障条約は、日本が攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務があると書かれている。アメリカはその義務を負う代償として米軍基地を日本から無償で借り上げ、米兵士の宿舎をはじめ様々な施設を日本から無償で提供させ、さらに日本政府は「思いやり予算」などという屈辱的な財政的支援まで行っている。
 が、日本の米軍基地の大半は、実は日本を防衛するためのものではない。首都圏周辺にもいくつかの基地が配備されてはいるが、これらの基地にどれだけ日本の首都を防衛できるだけの軍事的整備が行われているか、マスコミは報道しようとさえしない。私はかなり前だが、米軍の座間キャンプ内にあるゴルフ場でプレーしたことがあるが、軍事基地としての緊張感はまるで感じられなかった。はっきり言って米兵のための日本における保養地でしかない。
 アメリカにとって最重要な軍事拠点は沖縄に配備されている基地群である。
もちろん沖縄を攻撃する外国があるとは考えられないし、沖縄を直接の攻撃目
標にしないまでも、沖縄方面から日本を攻撃する国もない。なのに、アメリカにとっては沖縄は最重要な軍事拠点なのである。
 なぜか。東南アジアおよび東南海をアメリカの勢力圏に収め続けるためには、沖縄基地はグアムと並ぶ2大軍事拠点なのである。少し前までは韓国やフィリピンもアメリカにとって重要な軍事拠点だったが、両国民の反発が強く、両国に配備されていた基地は次々に撤去せざるを得ない状況になっている。当然アメリカの東南海方面における制空権・制海権は弱体化せざるをえなくなり、その間隙をぬって中国海軍が跳梁し始めており、アメリカにとって沖縄はグアムとともに最後の砦となっている。沖縄、とくに市街地周辺の米軍基地を撤去させることは沖縄県民の悲願だが、アメリカが頑として沖縄県民の要望を退けているのは、そういう事情が背景にあるからだ。
 そもそも同盟というのは対等に双務的な関係にある国同士の結びつきである。現に米英との関係がそうであり、韓国も米英軍事同盟に近い同盟関係をアメリカと結んでいるが(だから韓国はベトナム戦争でも米軍に協力した)、韓国はアメリカにとって頼りにできるだけの軍事力を持っておらず、しかも韓国は自国の軍事力の大半を北朝鮮対策に割かざるを得ないという事情も抱えているため、沖縄の基地群の重要性はアメリカにとって増す一方である。かといって、さらに沖縄に基地を増設することは不可能であるため、オスプレイのようにまだ安全性が十分確保されていないにもかかわらず、最新鋭の兵器を配備することで沖縄基地の軍事的強化を図っているのである。
 つまりアメリカは、日本防衛の集団的「自衛の義務」を負う代償として、アメリカの東南海地域の軍事的支配権を維持するために沖縄に米軍基地を集中配備しているのである。沖縄における様々な問題の根源は、すべてここに根拠があるのだ。
 だから、沖縄の問題を解決するためには、現在の片務的関係にある安保条約を、双務的なものに改め、アメリカが不当な侵害を受けた場合は日本軍(あえて「日本軍」と書く)が米軍に協力して、アメリカ防衛の義務を負うという対等な条約に改正すれば、沖縄の問題も含め、すべて解決する。
 そのためには、やはり「憲法9条」の矛盾を解決しなければならない。解釈改憲で、実際には諸外国からすでに「軍隊」とみなされており、また「軍隊」と呼ぶにふさわしい軍事力を有しながら、「戦力の保持」を禁じた憲法9条に拘束されて、自衛隊といった意味不明な名称を捨てられず、さらにより意味不明な「実力」という定義を自衛隊に付けるという、独立国家としての尊厳すら放棄した状況で、さらに解釈改憲で、すでに保有していることが明らかな「集団的自衛権」を認めることにしようなどという姑息な政治手法は、いい加減にやめてほしいと言いたい。
 これまで何度もブログで主張してきたが、やっと憲法96条を改正できる可能性が現実的になりつつある。いまは、とりあえず96条を改正して憲法改正の発議要件のハードルを低くし、日本という国の在り方を国民が自ら決められるようにすることを最優先すべきだ。そうした状況を整備したうえで、日本が国際社会にどういう貢献をすべきかを国民に問い、国民が決める。そういうプロセスを作り上げるのが「政治の王道」ではないだろうか。



現代の寵児・孫正義の「金儲けのためなら何でもやる」体質を暴く。

2013-08-25 04:37:32 | Weblog
 私がインターネットを始めたのは、1998年、インターネット時代が爆発的に始まった年だった。いまから15年前である。
 私がジャーナリストとして文章を書いていたころは、ワープロやパソコンは一切使わなかった。原稿はすべてシャープペンシルでの手書きだった。実際には、1990年代の初め、ワープロをやろうとチャレンジしたことはある。だが、当時のワープロは圧倒的に日本語入力が主流で、富士通の技術者・神田泰典氏が開発したキーボードの「親指シフト」がワープロの世界を席巻していた。このキーボードはJIS規格や新JIS規格とも違う独特の文字配列を考案したもので、当時毎年行われていたワープロコンテストで「親指シフト」のワープロが常にベストテンをほぼ独占していた時代だった。私も富士通のワープロ『オアシス』を買って、必死に「親指シフト」に取り組んでみたが、徒労に終わった。何しろ40代半ばになってひらがな50文字(正確には46文字)の配列を覚えること自体、少なくとも記憶力に乏しい私にはどだい無理な話だった。
 それに、当時の編集者の間には「ワープロを使うと文章が下手になる」という「神話」(実際にはワープロを使えない編集者の偏見だったと思う)が蔓延していた。私自身は手書きの時代も推敲という作業を一切したことがなかったので、なぜワープロを使うと文章が下手になるのか未だ理解できないが、今はパソコンを使うことで文字入力は簡単になり(句読点を別にすると実際に常時使うキーはローマ字27文字中24文字でしかないため)、書くスピードも格段に速くなったが、推敲という面倒な作業が不可欠になり、しかも推敲しても必ず見落としがある。
 ちなみに現在のパソコンのキーボードの文字配列は、アメリカの文字配列と全く同じで、日本語50音では絶対に使わない文字がキーボードにいくつか配列されている。たとえばq、l、x、vなどである。このうちvは次にiを入力すると「ヴぃ」となり、カタカナ変換すると「ヴィ」となる。「ヴィ」は今は日本語ひらがなの規格では「ビ」になっているが、慣例的に残っているだけである。同様に「ヴァ」も今は正確には「バ」と表記することになっている。
 なおxとlはその文字のあとに母音(本当は母音だけではないのだが)を加えると小文字になる。たとえばxとaを続けて入力すると「ぁ」となるわけだ。しかしxやlがなければ、普通に「あ」と入力した後「あ」だけ小文字変換すれば済むことで、あえてxやlを使わなければ日本語入力ができないわけではない。でも私もxは使うので、あったからといって不都合というわけではないが、q、l、vはキーボードの片隅に配置したほうがいいと思っているくらいだ(メールアドレスなどを入力することを考えるとなくしてしまうわけにはいかない)。ただ私が知っている限り、「つ」の小文字入力の方法を説明している入門書はない。たとえば一番売れている『できる』シリーズ(インプレスジャパン)のWord版には巻末に「ローマ字変換表」が載っているが、なぜか「あっ」とか「わっ」の入力方法が載っていない。たとえば「あっ」の入力方法には二通りあって、attuと入力すると「あっつ」となるので、最後の「つ」を消せば「あっ」となる。もうひとつはaxtuと入力すれば「あっ」となる。そんな簡単なことをインプレスの著者(あるいは編集者)はご存じないようだ。
 また「―」と「p」の入力にしばしば間違う。ブラインドタッチで実に打ちにくい場所にキーが配置されているからだ。国際化がますます進んでいく中で、キーボードのアルファベット配列は英語入力も考慮しながらも、やはりローマ字でひらがな入力するケースが圧倒的に多いことを考えると、日本人向きのローマ字入力がもっと容易なキー配列を考えてもらいたいと思う。
 キーボードの話はその辺でやめておく。本筋に戻って私のインターネットと
のかかわりに戻る。漫画ブームで職を奪われた私は1998年3月に光文社から上梓した『西和彦の閃き 孫正義のバネ』を最後に文筆活動を終えることになった。まだ57歳の若さだった私は、ワープロへの挑戦に失敗して以来、パソコンにも無縁の生活を送っていたが、インターネットが無限のビジネス・チャンスを生むだろうという予感はあった。そして私は二つのビジネス・アイディアを考えた。その二つのビジネス・アイディアは山内特許事務所(東京都新宿区代々木)の山内梅雄氏に頼んで特許を出願したので、資料は残っているはずだ。
 一つはインターネットでチラシを配布しようというアイディアで、実際に新宿に小さな事務所を構えて事業を始めたが、結局「武士の商法」で失敗に終わった。郊外の住宅地ではなく、なぜ新宿を選んだかというと、新宿という大商業地区は大小取り混ぜたビッグ・ショッピングセンターでありながら、その地区で店を出している商店主たちには「セール情報の発信手段がない」という最大の弱点を抱えていると考えたのである。
 新宿駅の乗降客は毎日数十万人いるという。彼らは本来最大の見込み客なのに、彼らに対して情報を発信する手段がない。大きなデパートだったら沿線の住宅街に新聞折り込みチラシを配布するという手段があるが、小さな専門店にはそのチャンスすらない。駅頭で配布するタウン誌はあったが、広告料がべらぼうに高いため(紙媒体で発行部数が多ければ広告料が高くなるのはやむを得ない)、粗利益率が非常に高く一度気に入ってくれれば常連客になってもらえるチャンスがある飲食店やエステティクなど広告主は限定されざるを得ない。しかしインターネットでセール情報を発信すれば、無数の見込み客がセール情報を手に入れることができるし、広告費も紙媒体に比べればべらぼうに安くすむ、というのが私のアイディアだった。
「敗軍の将、兵を語らず」というが、私は兵を語ることにする。
 大企業がバックについているわけでもない、吹けば飛ぶような零細ベンチャー企業に優秀な人材が入社してくれるわけがなかった。いちおう開いた会社説明会にはかなりの若い人たちも集まってくれたのだが、私の会社設立の趣旨(先に述べたことがすべて)を理解してくれたような姿勢だけは見せてくれるのだが、全然理解していなかった。営業マンが「これからはインターネットでの情報発信が小売業、とくに零細専門店の優勝劣敗を決める」という単純な論理を商店主に説明できないのだ。
 また、少し時代が早すぎたのかもしれない。肝心の商店主は年配者が多く、商売を従来からの顧客に頼り切っていた。「ウチは常連客がついているから大丈夫」と、インターネットが従来の経営基盤を根こそぎ崩壊してしまうという危機感をまったく持っていなかった。でも、このビジネス・アイディアは全国で年に200~300社程度しか認定されなかった(当時)「中小企業創造活動促進法」(創活法)に認定され、石原慎太郎東京都知事署名入りの認定書を頂いた。実は簡単に認定されたわけではなく、当時はインターネットが世界をどれだけ変えるかという想像力に富んだ有識者は少なく、石原都知事が任命した有識者も全員が首をかしげたようで、何度も追加資料の提出を要求された、また実際問題として「画期的なビジネスアイディア』も一応認定対象に入っていたが、申請されるのは技術的な開発のアイディアばかりで、私のように純粋にニュービジネスのアイディアを申請した人は皆無だったようだ(認定後、東京都の担当職員から聞いた話)。
 それでも何とか認定を受け、東京信用保証協会から最大2億円までの信用供
与を貰った。つまり金融機関の融資に対し2億円までは東京信用保証協会が保証しますよ、というお墨付きなのだが、意気揚々と第一勧業銀行(現みずほ銀行)新宿西口支店に融資を願い出たら、けんもほろろに断られた。「いくら信用保証協会の保証があっても、事業実績のないところにはお貸しできません。いまの都銀の融資方針については小林さんもご存じでしょう」と、玄関払いされたのである。バブル崩壊の後遺症で、すべての都銀が「貸し渋り、貸しはがし」に奔走していた時代である。「お天気なのに傘を貸したがり、雨が降りそうになったら傘を取り上げる」とよく言われる銀行の体質をいやというほど味あわされた思いだった。いまネットでチラシ配信している会社は捨てるほどある。彼らの成功が、私にとってはせめてもの慰みでもある。
 もう一つは、もっと画期的なアイディアだった。生命保険の設計を、インターネットを利用して加入者自身が行えるシステムを開発するというアイディアである。生命保険にご加入の方ならご存知だが、保険の設計をするのは生保の営業者(大半が既婚の「セールス・レディ」)である。いかにも、加入者にとって最も有利な設計をするかのように加入者に思わせるのが、彼女(あるいは彼――最近は男性の営業マンもいるので)の手腕が問われるところである。もちろん彼らの目的は、加入者の最大利益の追求ではなく、彼らが属する生命保険会社の最大利益の追求である。つまり加入者にとって有利な設計ではなく、生保会社が最も利益を上げられる設計をして、その設計がいかに加入者にとって有利かを説得する手腕を競い合う世界なのだ。
 こうした生命保険会社にとって都合のいい保険設計から、加入者にとって本当に最も有利な保険を、生命保険会社の営業者任せにするのではなく、加入者自らがインターネットという手段を活用することによって設計することが可能になる――そういうシステムを作れば、おそらく保険金も半額程度にできるのではないかと私は考えたのである。
 しかし私はSEやプログラマーではないし、自分でそういうシステムを開発することは不可能だ。専門の会社に頼めば。莫大なシステム開発料がかかるだろう。そんな大金を私が持っているわけがなかった。そのため約100社の大企業(生保会社を除いて)の社長あてに、このアイディアを書いて手紙を出した。しかし、この手紙が社長やそれなりにが理解力ある実力者の手に渡ることはなかった。結局、どの会社からもなしのつぶてで、私のアイディアは煙と消えた。

 こうして私の夢はまさに幻のごとく消えた。私ごとの話はこの辺でやめておくが、日本にインターネットの風を持ち込んだのは今を時めくソフトバンクの孫正義社長である。
 私と孫氏との付き合いが始まったは意外と古く、パソコンの黎明期と言って
もいい1985年の春か夏頃ではなかったかと思う。その年11月に私は光文社から『日本電気が松下・富士通連合軍に脅える理由』という本を上梓していた。そのころ私は若いアントレプレナーたちとの交流の場として偶数月のその月の日に「ぞろ目会」という会を主催していた。その後うるう年の関係でぞろ目の曜日が一律ではなくなってしまったが、そのころは2月2日、4月4日、6月6日、8月8日、10月10日、12月12日はすべて同じ曜日だった。銀座で一流とまでは言いすぎだが、二流並み上の料亭の女将がなぜか私のことを気に入ってくれて、一人1万円ぽっきりの会費でコース料理を出してくれ、しかも飲み放題、時間無制限で10人ほど入れる個室を提供してくれた。その会に孫氏や西和彦氏、千本倖生氏などもたまに出てくれていた。そのころ孫氏は生きるか死ぬかと自分でも思っていたほど重病のB型肝炎で、入退院を繰り返していた。
 私の名誉のためにこの際明らかにしておくが、「ぞろ目会」を主催した私は1円たりとも自分の懐に入れていない。それどころか、1万円の会費すら私も払っていた。私が自分の財布から1万円を取り出すのを見た参加者の一人が見かねて、「小林さんは私たちのためにやってくれている。小林さんの会費くらい私が出すよ」と言ってくれた方がいたが、お断りした。「あなたからだけ頂いたら、ほかの参加者たちの立場がなくなる。みんな『俺が払う』と言い出して収拾がつかなくなる。私が自分のビジネスとして、この会を主催するなら10万円くらいの会費にするよ。それだけの価値のある会にしてきたつもりだ。お気持ちだけ頂いておく」とお断りした。
 このブログにしてもそうだ。もし私がこのブログを私の金儲けの手段にしようとしたら、それなりの書き方をする。つまり、これ以上書かれたくなかったら話し合いに応じるよ、といった誘い水をそれとなく文章の中で匂わせる書き方をする。私はこの世界でそういう連中をいやというほど見てきたから、そういう手法はいくらでも知っている。が、私は過去も現在も文筆活動の中で、そういうことは一切したことがなかったし、今後も絶対にしない。残り少ない人生の末路をはした金で汚すようなことは、私の生き様が許さない。
 それはともかく、孫氏がそんな状況の中で「ぞろ目会」に出席してくれたのは状況から考えて85年の12月12日だったのではないかと思う。彼はすでに『日本電気が松下・富士通連合軍に脅える理由』を読んでいてくれていたようで、「松下が富士通と組みますかねぇ」と疑問を投げかけてきた。私はこう答えた。
「それはわかりません。ただ、松下も富士通も連合軍を組んで闘わない限り、日本電気の牙城を崩すことはできない、という私の提案です」
 孫氏は「確かにそう言えるかもしれない」と言った。この本のまえがきの一部を転記しておこう。まえがきの書き出しから挑戦的だった。
「わが国。パソコン業界の盟主、日本電気が、一つの影に脅えている。
 その影は、我が国電機業界で圧倒的な販売力を誇る松下電器グループと、我
が国コンピュータ業界のトップ富士通の対日本電気『連合軍』結成の動きであ
る。
 その動きが現在、表面化しているわけではない。しかし、ワークステーションと呼ばれる16ビット・パソコンの上位機種(※サーバーの前身)では、富士通と松下はすでに同じ機種を別々のブランドとそれぞれの販売ルートで売っているのである。これが、パソコン戦争での松下と富士通の全面的な提携に進んでもまったくおかしくないのである。(中略)
 C&C(コンピュータ&コミュニケーション)を企業戦略とする日本電気は、通信の分野では常に我が国のリーディング・カンパニーとして確固たる地位を築いてきた。しかし、コンピュータの分野では、大中型汎用機でIBM互換路線をとらなかったこともあって、常に富士通、日本IBM、日立の後塵を拝し続けている。
 日本電気のコンピュータ事業がここ数年急伸し、日立を抜いて日本IBMまでとらえることができたのは、言うまでもなくパソコンのおかげである。中大型機市場での劣勢を早急に回復することがきわめて難しい現在、パソコンは日本電気にとってコンピュータ事業部門での最後の砦なのだ。
 その日本電気を急追しているのが富士通。初期戦略を誤ったためパソコン戦争では日本電気にかなりの差をつけられたが、来るべき高度情報化社会のキーをパソコンが握るとあっては、日本電気との差をいま詰めておかなければ大変なことになる。
 我が国家電の盟主、松下電器も、日本電気の独走を指をくわえて見ているわけにはいかない。
 松下電器は昭和39年、松下幸之助の決断で、いったんコンピュータ事業から撤退した。そのツケをいま払わなければならなくなっている。
 パソコンを手掛かりに、コンピュータへの再参入を図ろうとしている松下電器だが、20年近くもの間、汎用のコンピュータ事業にソッポを向いてきただけに、一朝一夕では先発メーカーとの技術格差は埋められない。
 しかし、家電で培った販売のノウハウと流通チャネルは、ライバルが束になってもかなわないものがある。(※当時はまだ家電量販店は家電流通のほんの数%のシェアしか握っていなかった。家電流通の主流は自動車と同じくメーカー系列の小売店だった)
 その松下電器の販売力と富士通の技術力がドッキングすれば、パソコン戦争に大波乱が起こることは必至である。日本電気が両社の動きに戦々恐々とするわけだ。                        昭和60年10月」
 実は水面下で松下と富士通が連携を模索していたわけではない。このような
書き方は、ジャーナリズムとして許容限度ぎりぎりのレトリックであると私は考え、こういうショッキングなまえがきを書いた。だから本文では、松下電器と富士通は連合軍を組み、それに日立や東芝、三菱などを巻き込むべきだという趣旨の提案をしている。その部分も転記しておく。
「(逆立ちしても日本電気には勝てない)富士通と松下電器にも、起死回生の手が一つだけある。パソコン事業に関して両社が全面的に提携することだ。具体的には、16ビット機及び次世代の32ビット機を共同開発するのだ。その舞台はパナファコムであってもいいし、新しい共同開発体制を作り上げてもいい。
 もちろん、共同開発した機種は松下電機、富士通の販売ルートに同時に乗せる(ブランドは別でもよい)。そのうえで、開発したマシンのアーキテクチャーを思い切って公開してしまうのだ。松下・富士通連合軍に他のパソコン・メーカーを取り込むためである。そうなればサードパーティや他メーカーも無視できなくなる」
 これで、私が極秘情報を入手してスクープしたものではないことが明白になったと思う。で、結果はどうなったか。このブログの読者も興味をそそられるであろう。私の提案は実現したのである。ただ、時間がかかりすぎた。私が提案したのは85年11月で、この時期だったらまだ日本電気の独走に「待った」をかけるチャンスが多少はあった。が、松下と富士通が連合軍を組んでクローンなパソコンを売り出したのは87年10月だった。その2年の間に、日本電気のPC98シリーズはパソコン市場の90%近くを占めてしまっており、PC98用のアプリケーション・ソフトが“万里の長城”として機能し、ライバルを市場から締め出していた。そうなってしまってから松下と富士通が手を組んだところで、それは負け犬の遠吠えほどの威力もなかった。実際、連合軍は敗北に次ぐ敗北を続けた。
 それはともかく、松下と富士通がパソコン事業で連携するというのは、パソコン業界のビッグニュースだった。両社のトップが顔をそろえた記者発表の会場には外国人特派員も含め数百人の記者が押し寄せ、会場に入れない記者が出る騒ぎとなった。当然日本経済新聞は1面トップで大々的にこのビッグニュースを取り上げ、一般紙も経済面のトップは言うまでもなく、1面でもかなりのスペースを割いて報道したくらいだった。NHKも7時のニュースのトップで報道したと記憶している。
 実はそのことで私は妻からえらく叱られた。せっかくそれだけの記者会見に出ていながら、なぜあなたが松下・富士通連合軍を2年前に提案していたことを会見の席上で言わなかったのか、というのである。私はすごくシャイな性格で、ものを書くときはきわめて厳しい書き方をするが、自分を売り込むことになんとなく恥ずかしさを感じてしまう性分がある。たとえば処女作の『徳洲会の挑戦』を出した時、竹村健一氏のテレビ番組にゲストとして呼ばれ(祥伝社の伊賀編集長が竹村氏に頼んでくれたのだと思う)、収録が終わった後竹村氏から呼び止められ、名刺をくれて「君は面白い発想をするね。私の事務所に遊びに来なさい」と言ってくれたが、私は一度も竹村氏の事務所に足を運んだことがない。この損な性格は一生、治らないだろう。
 孫氏との付き合いは、彼が重い病を患っていたこともあって、その後、途絶えていた。そして漫画ブームによってものを書く機会を失い、無為な日々を過ごしていた時、ふとパソコン戦争に関する本はかなり書いてきたのに、パソコンの黎明期を走り抜けていった「神童と天才」のライバル物語はだれも書いていないことに気づいた。で、急にそのライバル物語を書きたくなり、親しかった光文社の編集長に持ちかけたところ、二つ返事でOKをくれた。それが私の最後の著作となった『西和彦の閃き 孫正義のバネ』である。同書のまえがきで私はこう書いた。
「私はライバルを否定的な関係ととらえていない。相手から刺激を受け、互いに切磋琢磨することで自らを向上させ合うような関係であるべきだと考えている。
 日本では競争するというと、互いに足の引っ張り合いをするという関係のように思われがちだが、これはフェアな競争の仕方ではない。フェアな競争とは、相手をつまずかせることではなく、知恵と努力によって相手の優位に立つことでなければならない。だから最大のライバルとは、互いに尊敬し合える関係でなければならない。私はそういう関係として西と孫の二人をとらえ、二人がパーソナル・コンピューティング革命の影の仕掛け人としていかに競い合ってきたかを書きたいと思う。(中略――このあと西と孫が直面している重大な難問について書いたが、長くなるので省略する)
 たとえそうした問題を抱えていようと、西と孫の二人は依然として日本の輝けるベンチャーの足であり、のちに続く若者たちのためにもジャパニーズ・ドリームの芽を摘んではならないと思う。
(※私の最後の著作になるかもしれないという予感を込めて)最後に、ジャーナリストとしての私の信条を述べておく。
 批判する時は愛情を持って、評価する時は批判精神を持って――」
 さて、書き終えた後のあとがきではどう書いたか。
「私は本書の執筆に際し、二人のアントレプレナーに対してここまで厳しく迫るつもりは、当初はなかった。西も孫も私の取材に気持ちよく応じてくれた。
 ただ私のスタンスは、二人のアントレプレナーのほうにではなく、私の本を、お金を出して買い求めてくださるだろう読者の方に向いていたというだけのことである。
 今さら言うまでもなく、一歳違いの西と孫は、日本の産業史の中でも一つの
エポックを築いた時代を、自らがその担い手になることで風のように駆け抜け
ていこうとしている。
 新しい時代の風を肩に背負う人間は、どの時代でも、古い時代にしがみつこうとする人たちからの抵抗を受ける。孫の好きな坂本龍馬や織田信長がそうだったし、私はこの二人に高杉晋作も加えたい。高杉晋作は坂本と同じく若くして人生を閉じたが、彼は明治維新が成る前にすでに士農工商の封建的な身分制度を排した軍隊を創設し、長州藩の長老たちから命を狙われた。そういう意味では、坂本が仕組んだ薩長連合より、思想的には一歩先に維新を実現していたと言えなくもない。
 西和彦も、そして孫正義も、これから旧勢力との骨身を削る戦いの秋(とき)を迎えようとしているように、私には思える。その中を、彼らがどんな羅針盤を操って乗り切っていくか、彼らの本当の真価が問われるのは、これからの10年間である。(後略)」
 読者の皆さんはすでにご承知のように西氏は経営していたアスキーの粉飾決算が税務当局によって摘発され、責任をとってアスキーの経営から身を引いただけでなく実業界からも姿を消した。孫氏は同書で私が徹底的に批判した、「メディアの帝王」と呼ばれていたルパート・マードック氏と組んで始めたデジタル衛星放送のJスカイB(のちのスカパー)の社長の座を追われ、デジタル衛星放送の世界から追放された。そして現在は携帯電話市場(スマホも含む)で先行していたNTTドコモやKDDIとしのぎを削る戦いをしている。
 当時、孫氏は自らの企業理念について「デジタル情報革命のインフラ事業で世界一を目指す」と豪語していた。そのころ彼はやたらめったらM&Aを繰り返していて、マスコミから「マネーゲームだ」と批判を浴びていた。その批判に対する孫氏の反論が、「私が買収しているのはデジタルインフラの会社だけだ」だったのである。その当時はまだ日本長期信用銀行の買収に乗り出していず、彼の言い分の化けの皮はまだかろうじて剥がれていなかった。
 実際、孫氏は毀誉褒貶が多く、多くのノンフィクション・ライター(私のよ
うなジャーナリストではない)が、彼の評伝を書いていた。彼らのすべてが、孫氏の事業やM&Aはすべて「デジタル情報インフラの構築のため」という主張の虚構を見抜けなかった。その虚構を初めて明らかにしたのが私である。そのため私は孫氏から、その後取材拒否宣告を受けた。とりあえず私が孫氏の化けの皮を剥いだ個所を同書から転記しておこう。

 ところが、キングストン・テクノロジーはアメリカの増設メモリボードの最大手メーカーである。パソコンのハードウェアの心臓部はもちろんMPUだが、MPUだけではパソコンは動かない。MPUにどういう演算をさせるかという命令を蓄えるメモリがパソコンには必要不可欠だ。だから、どんなに安いパソコンでも必ず、ある程度の量のメモリが搭載されているのだが、メーカーはパソコンのハード・コストを安く抑えるためメモリの容量をできるだけ小さくする(※今はそういうパソコン・メーカーはほとんどない。最初からある程度の容量のメモリを搭載しておいた方がかえって安上がりになり、消費者から歓迎されることにようやく気づいたからだ)。たとえばウィンドウズ95を動かすには最低でも16メガバイトのメモリが必要で、ウィンドウズ95の上で動かすアプリケーションによっては32メガバイト以上のメモリ容量が必要となる。そこでパソコン本体に内蔵されているメモリ容量では不足することになるため、ユーザーは増設メモリボードを買うことになる。キングストン・テクノロジーはこの分野で世界のトップに位置し、シェアは60%に達しているといわれる。
 しかし、それにしても、なぜ孫は増設メモリという異質なビジネスに手を出したのか。孫はこう釈明した。
「パソコンが情報を提供するメディアだとするならば、情報の容れ物に相当するのがメモリボードで、その分野のナンバーワンがキングストンです。たとえば出版の世界で言えば紙に相当するのがメモリ。つまりメモリはデジタル情報のインフラの一つなんです」
 しかし、これはどう贔屓目(ひいきめ)に見てもこじつけでしかない。で、私はこう批判した。
 ――孫さんの説明には無理がある。これまで孫さんがやってきたのはデジタル情報のインフラ。シスコシステムズのルーターだけが例外でハードウェアだが、実際に付加価値を持っているのはルーターに組み込まれているソフトだというから、私は納得した。しかしキングストンがやっているのはパソコンの周辺装置で、それをあえてインフラと位置付けるならパソコン関連のビジネスはすべてインフラということになるではないか。
 孫は私の主張に何度も頷いた。
「おっしゃる意味は非常によくわかります。実はキングストンは厳密な意味で
は製造業ではないんです。工場を持っていませんからね。メモリボードは半導
体メーカーに外注しているんですよ。
 ではキングストンの製品にはどんな付加価値があるかというと、パソコンの種類は全部で2千機種ほどあって、皆少しずつ違う。そのためメモリボードも相手の機種に合わせてサイズとかスピードを少しずつ変えなければならない。そしてキングストンはその設計技術で世界一なんです。だからわれわれはテクノロジー・サービス・カンパニーという位置づけをしているんですよ。建築でいえば設計事務所みたいなものです」
 ――かと言ってインフラ・ビジネスではありませんよね。
「実はキングストンを買収した理由は三つあります。
 一つはJスカイBの創業赤字をどうやって埋めるかということです(※このインタビューの時点では孫氏はデジタル衛星放送で先行していたパーフェクTVやディレクTVの2社と競争して勝てると、まともに考えていたことのれっきとした証拠である)。おそらく2~3年間はソフトバンクだけで年間100~200億円の赤字を覚悟しなければならない。で、その赤字を埋める収益源がどうしても欲しかったのです(※この発言こそマネーゲームのれっきとした証拠だ)。
 二つ目は、ソフトバンクはソフトだけを流通させてきただけではなく、現在では売上の5割以上がハードになっていて、その中心がメモリボードなんです。だから、いずれはやりたいとずっと思っていたんです。
 最後に、キングストンの二人のオーナーとずっと付き合ってきて、かなり意気投合していました。彼らなら安心してそのまま経営を任せることができると思いました」(※最後はキングストン買収の理由にはならない。こじつけもいい加減にしろと言いたいくらいの詭弁でしかない)(中略)
 私がアスキーの西和彦を取材した時、「孫さんのM&Aは基本的には理解できるが、キングストンだけはわからない」と言ったら、西は「ボクが半導体に手を出したから対抗意識でキングストンを買ったんじゃないの」とうがったことを言った。案外、それが真相なのかもしれない。

 同書で、私は「JスカイBは絶対失敗する」とも書いた。それが、孫氏の逆鱗に触れたようだ。ゲラを広報に渡して「読んでいただいた」直後、孫氏から呼び出された。
 私がゲラを「読んでいただいた」と書いたのには私なりのジャーナリストとしての良心の表れである。なぜ「読んでいただく」必要があると私が思ったのか。私は孫氏や西氏のための本を書いたのではなく、貴重な金を出して買ってくださる方のために、万一私の思い違いや独りよがりの思い込みで間違ったことを書いたら取り返しがつかないことになる、と考えたからである。そうした考え方はしばしばジャーナリスト、とくに新聞社系の先輩諸氏から批判を受けた。だが、私は自分の信念を最後まで曲げなかった。私のスタンスは取材対象にも、出版社にも、顔を向けないという主義だからだ。私が顔を向ける相手は常に金を払って私の本を読んでくださる読者である。
 だからゲラを広報に渡す時、「読んでください」とお願いしてきた。その上で、「ただし、私が修正するのは事実に関する間違いの部分だけです。私の主張は私自身のものであり、私の主張を変えてほしいと言われても、私が納得できる理由がないかぎり変えません」と申し上げてきた。実は三菱重工の広報にゲラを渡して間違いがないかどうかのチェックをお願いしたとき、「小林さんと全く同じご依頼をされた方がいます。柳田邦男さんです」と言われて、私は自分の姿勢が間違っていなかったと、涙が出るほど嬉しくなったことを昨日のように覚えている。
 しかし、こうした行為はしばしば取材相手とのトラブルを引き起こすことになる。事実についての間違いに対する指摘だったら、私は一も二もなく訂正するのだが、「都合の悪いことは書いてほしくない」といった要求を取材相手からされることがあるのだ。「そういうたぐいの要求には一切応じられない」と、広報には伝えてあるのだが、広報が取材相手にゲラを渡す時、「小林さんから、そう釘を刺されていますから」と説明していないことが多いのである。そのためゲラを読んだ相手は、「検閲する権利がある」とでも勘違いしてしまうようだ。
 この本の場合も、そうだった。実は孫氏に対する批判より西氏に対する批判のほうがはるかに手厳しかったのだが、西氏は「間違いはまったくありません。このままで結構です」と電話してきた。が、孫氏のほうは一筋縄ではいかなかった。私が日本という狭い市場で、しかも地上波やWOWOWによっていやというほどエンターテインメントのコンテンツが溢れている。そうした日本の放送事情を知りながら、新たに1基で100~150チャンネルをカバーできるデジタル放送衛星(正確には放送ステーション)が3基も競争して、共倒れしないわけがない、というのが私の論理的結論で、だから孫氏がマードック氏と組んで始めようとしているJスカイBは間違いなく失敗に終わると結論付けたのである。
 その主張が孫氏のご機嫌を損ねた。彼はソフトバンク本社の社長応接室で、3時間に及んで私を何とか説得しようとした。
 孫「私はゴルフが大好きだ。暇なときにいつでもゴルフのコンテンツを見ることができるようになったら、こんな素晴らしいことはない」
 私「それは孫さんの個人的事情でしょう。日本人の何人が孫さんのような個人的事情を持っていますか。何人が孫さんのように特定のコンテンツにこだわりますか。そういう調査をしたうえでの主張でしたら、調査結果に基づいて成功する可能性についても書きますよ」
 孫「……」
 私「あるいは、私の論理的結論の出し方について批判がおありなら、孫さんの主張も書き加えますが……」
 孫「小林さん、わかってくださいよ。私はこのビジネスに命をかけているんです。本当に命がけでやっているんですよ」
 私「私も、命がけで本を書いています。だけど命がけで書けば本が売れると
は限らない。事業経営者はみな命がけで経営に取り組んでいる。命がけで取り
組めば成功するなら、失敗する経営者はいませんよ」
 どうしても私を説得できないことを悟った孫氏は、とんでもないことを言い
出した。
 孫「じゃあ小林さん、賭けをしよう。もし来年中に会員が150~200万人になったら私の勝ち。そこまでいかなかったら小林さんの勝ち。掛け金は、そう、私が負けたら30万円払う。私が勝ったら貰うのは3万円でいい」
 私は呆れるしかなかった。孫氏の最後の捨て台詞がこの賭けの約束を私に勝手に押し付けたことだった。もちろん、私は無視した。まさか、と思われる方が多いと思うが、このやり取りは当時の広報室長が同席し、録音もしている。孫氏は私を名誉棄損で告訴することもできない。
 ついでに書いておくが、彼はこの話し合いの席で、突然席を立つと、1冊の薄っぺらな本を持ってきた。
「これは孫家の系図に代々の孫家の人間がどういうポジションにあり、何をしてきたかを書いた世界に1冊しかない本です。私は日本国籍を獲得するまでは、在日韓国人三世だったと思われているけど、孫家のルーツは韓国ではなく中国の由緒ある名家なんです。たまたま先祖が中国国内での権力闘争に負けて韓国に逃れ、祖父の代に日本に来たから在日韓国人ということになってしまったんです。当時は日本では孫姓を名乗れないため、便宜上安本という姓を名乗ってきたけど、私は孫家のルーツに誇りを持っているから、安本姓を捨てて孫姓にこだわって日本国籍を獲得したんですよ」
 何が目的で、「今まで家族以外にだれにも話したことがない」という、そんな孫家のルーツをこの場で持ち出したのかは知る由もないが、孫氏としては私を泣き落としたかったのかもしれない。いずれにせよ、そんな話はスクープにもならないと思ったので同書に書き加えることはしなかったが、それほど私を説得することに孫氏は必死だったということだけは言える。
 ちなみに、その後、孫氏は命をかけたはずのデジタル衛星放送の事業から完全に手を引いた。孫氏は、いったい、いくつ命を持っているのだろうか。彼のルーツに伝わる中国伝来の不老長寿の妙薬を服用しているのかもしれない。
 これまでは、武士の情けでこの話は墓場まで持っていくつもりだったが、孫
氏が社長を務めるソフトバンクBBから私は詐欺に会いかけたため、孫氏の人
間性をこの際、明らかにすることにしたというわけだ。

 さて私が被害に会いかけたソフトバンクBBの組織的詐欺行為について書く時が来た。私はインターネットを始めた当初は、パソコンショップが設定してくれたNTT系のプロバイダーを使っていた。が、友人からソネットがいいという話を聞いてソネットに乗り換えてかれこれ10年近くになっていた。ソネットはきわめて良心的で、技術サポートもしっかりしており、ずっと信頼してきた。
 私はNTTやNTTの代理店や光とセットでパソコンをディスカウント販売し
ている量販店やパソコンショップが推進しているひかりをまったく信用していない。それにインターネットとセットでしかひかり電話に加入させないNTT商法に指をくわえている消費者庁や公正取引委員会に疑問を持たざるを得ない。
 実はソネットもひかりのキャンペーンをした時期があって、私もひかり回線にしたことがある。キャンペーンの一つにNTTの工事費が無料ということだったが、その代わり6か月以内に解約すると工事代金が発生するということだったので、やむを得ず6か月間契約を続けたが、6か月後には直ちに契約を解消した。何のメリットもなかったし、ひかり電話ではかけられない先もあり(初期にはフリーダイヤルの0120やナビダイヤルの0570、他社の携帯電話やIP電話にもかけられなかった)、かえって不便になった。そういうデメリットをNTTも代理店も一切説明せず、ひかり電話は安いというメリット(これも誇大広告)だけを強調していた。
 結局12メガのADSLに戻したが、ひかりよりADSLのほうが有利なこととADSLを普及させるために、例えば携帯電話の基地局のように無人の基地局を多く配置したほうが理にかなっていることを、2009年10月18日に投稿したブログ『インターネット接続を最も早くする方法をお教えします』で詳述したので、まだお読みになっていない方はぜひ読んでいただきたい。
 私がプロバイダーをソネットからソフトバンクBBに代えたのは、「ヤフオク(ヤフー・オークション)」に金額制限がなく入札できるためだった。送料を考えるとディスカウント・ショップで買った方が安いケースもあるが、出品商品の大半は送料を加算してもオークションで買った方が有利である。また12メガADSLの料金も、ソネットよりかなり安いキャンペーンをソフトバンクBBはしていた(現在も継続中だと思う)。
 で、ソネットに解約を申し出ると、「もし料金のことならご相談に応じさせていただきますが」と言われたが、私の最大の目的はいつでもヤフオクに入札できることにあったので、考えを変える余地はなかった。
 契約を申し込むため私が電話したソフトバンクBBの契約窓口の女性は実にフェアだった。キャンペーン内容の確認はもとより付帯の各種セットについてもきちんと説明してくれた。彼女からまず、現在のインターネット使用状況を尋ねられた。私は目が悪いので(そのため自動車運転免許も更新できなかった)、新聞などは拡大鏡を使って見ているほどだと伝え、だからパソコンもノート型は無理で、21インチのディスプレーとDELLのデスクトップ・パソコンにしていると答えた。
「では無線LANはお使いですか」と聞かれたので、「いや、壁の電話ジャックから直接電話線でモデムにつないでいます」と答えたら、彼女は「それなら無線LANパックは必要ないですね。本当のところ、無線にされる場合でも量販店でLAN機器をお買いになったほうが、うちのパックよりはるかに有利ですからね」と丁寧に説明してくれた。私は「無線は必要ないが、IP電話だけ付けてください」とお願いして、基本的な契約内容の確認はすんだ。またソネットから切り替える時期も、私にとって最も有利な時期にしてくれた。雑談で、ひかりよりADSLのほうがはるかに合理的で有利だという私の持論にも大賛成してくれ、本当に客の立場になって考えてくれる方だった。
 ところが実際には、私の知らないところでとんでもないことがソフトバンクBBの内部で進行していた。私がまったく覚えのない契約をさせられていたことを知ったのは、まったくの偶然からだった。
 実は8月の初めに、私は個人的事情で転居した。転居することをソフトバンクBBに電話連絡したところ「契約内容にご変更はありませんか」と聞かれたので、ふと不安を感じ、「どういう契約になっているか教えてほしい」と言ったところ、「お調べします」と言って少し待たされた後「無線LANパックをご利用ですが、それは継続されますか」と聞かれ、私はびっくりした。
 当然私は「無線LANなんか使っていないよ。私はモデムを直接電話ジャックから電話コードでつないでいる。ソフトバンクBBさんに契約を申し込んだ時点で、そのことはお話してあるはずだ」と言ったが、相手は「でも無線LANパックに申し込まれています。モデムをお送りした箱にLANカードが入っていま
せんでしたか」と聞かれ、覚えがなかったので「そんなの知らない」と答えた。
 歳なので忘れてしまっていたようで、あとで書くがLANカードがモデムと一緒に送られていて、私はソフトバンクBBに送り返していたようだった。
 いずれにせよ、無線LANは使っていなかったが、転居先ではパソコンを使う予定の部屋に電話ジャックがないので、何らかの方法を考える必要があった。で、ヤフオクで無線LAN用の親機と子機のセットの相場を調べてみたらせいぜい3000円程度だった。買ってもその程度の値段ならソフトバンクに「無線LANセット」を申し込んでも月額せいぜい100円くらいだろうと思い、「転居先では無線LANを使いたいのだが、ソフトバンクBBさんにお願いするといくらするんですか」と聞いて、再び仰天した。「月額1000円ちょっとです」と、いけしゃあしゃあと答えたからだ。「買っても3000円くらいのものだよ」と言ったが、相手は動じない。「当社の無線LANパックはその料金をいただいております」「そんなパック料金払う人がいるの?」「さぁ、ほかの会員さまのことについてはお答えしかねます」「じゃ、いい。自分で対策を考えるから」と言い、ソフトバンクBBに無線LANパックを申し込むのはやめることにした。
 その直後、ソフトバンクBBから電話があり、「確認したところ、無線LANパックのご契約はされていないことがわかりました。ただ、お客様はクレジット払いにされており、すでに8月請求分がクレジット会社にわたってしまっています。そのため、ご請求を取り消すことができませんので、クレジット会社を経由してお返しするか、来月以降の請求分で調整させていただいてよろしいでしょうか」ということだった。私は「契約をしていないことさえ分かれば、どちらでも構わない」と申し上げ、この問題は解決したと思っていた。
 その後、転居当日、電話の工事に来たNTTの下請けの方が、「電話ジャックがあるのは隣の部屋だし、ドアの下に多少隙間があるから電話コードを引くのが一番安上がりですよ。コードの長さは5mもあれば十分でしょう。1000円もかかりませんよ」とアドバイスしてくれ、インターネット環境の問題は解決した。
 ところが、転居して数日後、転居先にソフトバンクBBからとんでもない通知(張り合わせハガキ)が届いた。宛名面には「無線LANパックご利用継続についてのお伺い」とあった。貼り合わせを剥がした中には以下の文面が書かれていた。

「平素は弊社サービスに格別のご高配を賜り深く御礼申し上げます。
 さて、お客様は『無線LANパック』にお申し込みをされておりますが、この
たび無線LAN機器が弊社に返却されておりましたので、確認のためご連絡差し
上げました。
 機器を返却された状態では、『無線LANパック』をご利用いただくことがで
きません。ご利用を継続される場合は、弊社インフォメーションセンターまでご連絡ください。
 なお、誠に恐れ入りますが、お客様からご連絡をいただけない場合は、下記期日にご利用を停止し、オプション解除の手続きを進めさせていただきます。
 何卒ご理解、ご了承いただけますようお願い申し上げます。
オプション利用停止日
2013年09月01日
ご解約日
上記ご利用停止日を含む月の末日」

 これはいったいどうなっているのか。私は怒り心頭に発した。
 もちろん、私は直ちにソフトバンクBBに電話をした。「こういう通知が来たが、話がまた振出しに戻ってしまった。いったいお宅の顧客管理はどうなっているんだ」と怒鳴った。
 電話に出た女性は「お調べします」と言って、少し待たされた後「お客様はまだ無線LANパックの契約を解約されていらっしゃいません。解約されますか」と、白々しくも言い放った。「ふざけるな。もう一度調べなおせ」と言って電話を切った。
 しばらくたって、その女性から電話があり、「申し訳ありませんでした。私ど
ものミスでございました」と謝ってきた。が、私はこのミスはケアレスミスではなく、ソフトバンクBBの組織的詐欺行為だと確信した。そのため「社長の孫が謝罪に来い。そうでなければ、この経緯をブログで告発するぞ」と怒りをぶちまけた。彼女は「しばらくお待ちください」と言って、いったん電話を切った。数分後、再度電話があり「孫は確かに当社の社長ですが、お客様に謝罪はいたしません。お客様にお送りした文書は私どものミスですので破棄してください」と言ってきた。
 私は「分かった。ブログにすべて書く。なお文書は重要な証拠物件だから破棄はしない」と言い、彼女は「ブログをお書きになるのはお客様の自由ですから、私どもがとやかく言えません」と答えた。
 実際、冗談もいい加減にしろ、と言いたい。転居後に送ってきた文書には「「お客様は『無線LANパック』に申し込みをされておりますが、この度無線LAN機器が当社に返却されておりました」「機器を返却された状態では、『無線LANパック』をご利用いただくことができません」と書かれており、かつ利用停止日は9月01日で解約日は9月末というふざけた内容だった。私はLANカードについては覚えがないと先に書いたが、ソフトバンクBBからの文書には「返却されている」と明記してある。もし返却していたのなら、モデムが届いた直後のはずで(その後私が返却したのは6月2日か3日だったことが分かった)、今頃になって「返却されているが、9月末までの料金は取る」という。豊田商事顔負けのあくどさだ。これが詐欺でなかったら、世の中に詐欺罪は存在しないことになる。
 まだある。私が今日(19日)不要になった品物をヤフオクに出品しようとしたが、どうしても出品できない。何度パソコン操作を繰り返しても出品が完了できないのだ。で、ためしに「プレミアム会員に申し込む」のボタンをクリックしたとたん出品ができた。ヤフオクのマイオークションには、プロバイダーがソネットだった時から、「今月の残り出品無料回数あと10回」と常に表示されていた。だが、ソフトバンクBBに加入後、「今月の残り出品無料回数あと30回」に増え、ヤフーのサービスもいいなと思った矢先だったので、やり方の汚さに怒りが倍加したというわけだ。
 なおソフトバンクBBのこういう営業手法(「無料出品回数あと○○回」と、あたかも無条件で無料出品できるかのような「プロポーズ」をしておきながら、実際には有料のプレミアム会員になることが条件だったという詐欺そのものの表示は、ソフトバンクが携帯電話の広告で公正取引委員会から厳重警告を受けたように、孫正義氏の常とう手段であり、その手法はおそらく彼がアメリカに留学中に身に付けてしまった体質的なものと言っても差し支えないだろう。 
 前回のイオンに関するブログは消費者庁の表示対策課に原文をFAXしたが
(ブログでは「公取委」に告発すると書いたが、管轄が消費者庁に移ったということなので、消費者庁にFAXした)、今回のブログも当然消費者庁に告発する。「赤子の魂百まで」と言われるが、仮に孫氏がソフトバンクから手を引いたとしても、彼のDNAはソフトバンクグループに当分の間継承されるだろう。企業文化というものはそういうものだからだ。
 おそらく私の年齢が若ければ、ソフトバンクBBもこうしたあくどいやり方はしなかったと思う。年寄りだから簡単に騙せると思ってやった組織犯罪だと私は確信した。つまり「振り込め詐欺」と同じ手口なのだ。そうした組織的詐欺行為の責任は、当然最高責任者の孫にある。孫が指図していなければ、このような組織的詐欺行為はできないはずだからだ。
 孫は高校卒業後、渡米して名門カルフォルニア大学バークレー校で学んだ。が、彼がアメリカで学んだことは、ビジネス社会でのアメリカ人の最も汚いやり方でしかなかったようだ。
 
 








































 








やっぱりイオンの抽選会はインチキだった。「つるかめ」を抽選対象から外したのは違法行為だ。

2013-08-18 12:31:05 | Weblog
 やはり「イオンつるかめ青葉すすき野店」の領収書(レシート)は抽選会で認められなかった。認めなかったのは「イオン新百合ヶ丘店」(工藤一美店長)である。
 イオン新百合ヶ丘店の1階エレベータホールに工藤店長の顔写真と「お気軽に声をおかけ下さい」と書かれた張り紙が掲示されているが、何か問題が生じても工藤氏が顔を出すことは絶対にない。「店長にお会いしたい」と店員に言っても、ガードは総理大臣並みに固く、出てくるのはせいぜい売り場の責任者である。「あなたじゃ、話にならない」と言っても、「店長は今不在でして」とやんわり断る。私はこれまで何度もそういう目に合っているので、店長は常に不在のようだ。それで、よく店長が務まるな、と思う。
 どうしても店長に会えないので、やむを得ずイオンの本部に新百合ヶ丘店の問題を伝えたが、本部自体が煮え切らない。新百合ヶ丘店には何か特別な事情があるのかもしれない。
 そういえば、工藤氏が店長になったのはいつなのかは知らないが、少なくとも10年以上にはなると思う。ということは、イオン新百合ヶ丘店は特定郵便局のように、工藤家の家業店なのかもしれない。
 小田急線の新百合ヶ丘駅が開業したのは1974年である。多摩ニュータウンと都心を結ぶ路線の中継駅として百合ヶ丘駅と柿生駅の間に作られた。それから39年になる。工藤家はひょっとしたら、その周辺の大地主だったのではないか。
 新百合ヶ丘店は元からイオンだったわけではない。中堅スーパーのマイカル(食品部門)とマイカル系列のショッピングセンター・ビブレ、それに複合映画館のワーナー・マイカル・シネマズが一つのビルにおさまっていた。マイカルは、商業部門だけでなく、日本最大のフィットネス・クラブのエグザスも運営していた。マイカル新百合ヶ丘店(ビブレ・映画部門を含む)に隣接してエグザス・グループでも最大級のフィットネス・クラブがあった。ただ妙だったことは、このフィットネス・クラブはエグザスの直営店ではなかったようだ。正式な店名は、もう忘れたが舌を噛みそうな呼びにくい名前がついていたように思う。ひょっとしたら、これもエグザスのフランチャイズ店で、工藤家の誰かが経営していたのではないかと想像している。そう考えれば、工藤一美氏が死ぬまでイオン新百合ヶ丘店の店長の椅子に座り続けたとしてもおかしくない。
 私が何度も工藤店長に面会を求めても、売り場の責任者が絶対に店長に合わせない理由も、店長が新百合ヶ丘店の事実上のオーナーで、雲の上の天皇のような存在だと考えれば理解できる。また、本部に物申しても、新百合ヶ丘店に関しては針に触るように神経質になる理由も理解できる。また私が新百合ヶ丘店の問題を、売り場責任者が頑として拒絶してきたことも、本部も手が付けられなかったことも、そう考えれば納得がいく。
 私が問題にしたのは、新百合ヶ丘店の食品売り場に設置されている冷蔵保管庫を有料(1回の使用料が200円)にしたことだった。しかも、その理由が振るっていた。保管庫に「お客様のご要望により有料にしました」と書いたポスターを貼ったのだ。どこのだれが、保管庫を有料にしてくれなどと希望する客がいるか。
 私自身は、冷蔵保管庫を利用したことは一度もない。しかし、通常どのスーパーやデパートで保管庫を有料にしている店があるか。私は寡聞にして聞いたことがない。で、店員の一人の「保管庫の有料化について店長に言いたいことがある」と会見を申し入れたが、先に述べたように現れたのは食品売り場(スーパーマーケット部門――このことは非常に重要なことなので、イオン新百合ヶ丘店の1階にある食品・日用品売り場はスーパーマーケット部門であることを記憶にとどめておいてほしい)の責任者だった。ちなみに2~5階はショッピングセンター部門で、店名も「ビブレ」と称しており、6階は複合映画館である。複合映画館は今年6月までワーナー・マイカル・シネマズの名称で営業していたが、7月からイオンシネマに変更した。
 さてイオンが『期間中のお買い物が(最大10万円まで)買った分だけ、ただになる!』キャンペーンを行ったのは8月8日~8月15日の8日間に買ったレシートを持って行けば、「50人に1人が当たる確率」でレシートの合計金額を0円にしてしまうという、おそらくスーパー業界でも初めての異例なキャンペーンだったと思う。抽選日は8月14・15日の2日間だけで、抽選できる条件は「期間中に集めた5,000円以上(税込)のレシートで、お一人さま1回だけ」というもので。その店だけの買い物ではなくてもいいというのだ。
 ただし、レシートの対象店舗は「全国のイオン・イオンスーパーセンターおよびイオンモール・イオンショッピングセンター・イオンタウン内の専門店」に限定されると、このキャンペーン用ポスターには記載されている。対象外は「マックスバリュ、マルナカ、山陽マルナカ、KOHYO、ミキサワ、キミサワグラッテ、ザ・コンポおよびスーパーマーケット各店」とされている。
 なお私が問題にしたのは「イオンつるかめ青葉すすき野店」のレシートである。紛れもなくイオンの「つるかめ青葉すすき野店」だ。「イオン新百合ヶ丘店」と、レシートを見る限り、まったく同じである。だが、「イオンつるかめ青葉すすき野店」のレシートは抽選の対象外だという(イオンの本部の主張)。
 実はつるかめは元々は英国最大、世界でもウォルマート(米、西友は日本に
おける同社の子会社である)、カルフール(仏)に次ぐ世界第3位の規模のチェ
ーンストア、テスコ社が日本に進出して運営していたスーパーだった。が、業績が上がらずテスコ社は2011年8月、日本からの撤退を発表、翌12年6月にはイオンがテスコジャパン(テスコ社の日本法人)の株式の過半を1円で取得する予定であると発表、テスコ社との交渉を経て13年1月株式の50%をイオンが取得し、3月にはテスコジャパンの商号が「イオンエブリ株式会社」に変更された。イオン自体は持株会社(ホールディング・カンパニー)であり、イオン新百合ヶ丘店も運営会社はイオンリテール株式会社である。そういう意味では、つるかめはイオンの関連会社と言えなくもない(イオンの出資比率は現在50%だから、子会社とは言えない)。イオングループと称してはいるが、イオンの支配下にあるわけではない。ただ、英テスコ社は近い将来、日本から完全撤退すると言われており、その時はおそらくイオンが全株を取得して子会社化する可能性はあるし、イオンエブリもイオンリテールに吸収される可能性が高い。が、現在は少なくとも持ち株比率50%(残りの50%はテスコ社が保有している)に過ぎず、領収書(レシート)をイオンが発行するのはきわめて紛らわしい行為と言えよう。
 なおイオンはバブル崩壊で会社更生法を申請したヤオハンやマイカルを傘下に収めて以降、急速に事業や業態の拡大路線に転じ、現在はかつて日本最大の小売業にのし上がったこともあるダイエーの再建にも参画し、いずれはダイエーも傘下に収める意向とみられている。
 ほかにも静岡県や神奈川県で広く店舗展開しているドラッグストアのHAC(同社の経営実態は複雑で、キミサワと合併してハックキミサワとなり、その後CFSコーポレーションと社名を変更した)も買収し、現在はイオンの子会社であるマックスバリュ東海に合併されている。だから、今回の抽選会のイベントからはマックスバリュ、キミサワ、キミサワグラッテなどがイベント・ポスターには除外対象として明記されている。
 またコンビニ業界5位のミニストップもイオンの傘下に入り、しかもイオンの連結子会社であるが、抽選会の参加対象から除外されているにもかかわらず、イベント・ポスターに明記されている除外対象の中に「ミニストップ」の店名もコンビニも明記されていない。
 つるかめの問題に戻る。つるかめが発行しているレシートは、イオンの紛れもないレシートである。実は「つるかめ青葉すすき野店」は当初つるかめという店名でスタートしたが、その後親会社のTESCOと店名を変え、テスコ社がテスコジャパンの株式の50%をイオンに譲渡して以降再び店名をつるかめに戻して現在に至っている。問題のイオン・レシートを発行するレジが同店に導入されたのは6月中旬であった。レジはイオンから提供されたという。
 イオン新百合ヶ丘店が発行するレシートと違うのはレシートの発行元である「AEON」の印刷の下部に記載される店名が違うだけである。さらにあえて細部にわたってレシートのプリントで違うのは店名の下に印字されている電話・ファックス番号とホームページアドレスだけだが、それが違うのは当たり前で、さらにその下にはレシートのトップに大きく印字されたAEONよりやや小さめの字で、だが目立つように黒べた白抜きで記載されている領収書という文字の下部に、イオン新百合ヶ丘店の場合はイオンリテール株式会社と印字されているのに対し、つるかめ青葉すすき野店の場合は領収書の下部にイオンエブリ株式会社というつるかめを運営している社名すら記載されていない。ということは、つるかめ青葉すすき野店はイオン新百合ヶ丘店と違ってイオンが直接運営主体のスーパーだということになる。それほどイオングループの中で重要な地位を占めている同店のレシートが抽選対象から除外される理由はないはずだが。
 私は抽選日にイオンで幹部の一人と話し合った。その場でイオン本部の顧客担当部門に電話をして、「なぜ、つるかめのレシートが抽選対象から除外されるのか」と聞いてもみたが、納得できる説明は一切なかった。しどろもどろで理由の説明もできず「つるかめは除外されています」と繰り返すだけだった。で、私は「これからポスターを見ます。つるかめを除外することが明記されていれば除外した理由と責任は追及を続けますが、もしそうした明記がなければポスターを破り捨てます。器物破損で警察に訴えるなら、どうぞ」と捨て台詞を残して同店の幹部とポスターをチェックするため売り場に行った。
 ポスターには除外対象の中に「つるかめ」の名も「イオンエブリ」というつるかめの運営会社(レシート上ではつるかめはイオンの直運営店になっている)の名も記載されていなかった。ただポスターのチェックに立ち会った幹部との話し合いの中で問題になったのは、除外対象の中に「スーパーマーケット各店」とあり、彼は「つるかめはこのジャンルに入る」と主張した。が、対象店舗のほうには「イオンスーパーセンター」とあり、いったい「スーパーマーケット」と「スーパーセンター」はどこが違うのかということが問題になった。つるかめはレシート上では仮にスーパーマーケットであるとしても「イオンスーパーマーケット」であることは間違いない。私は幹部に「消費者にその違いがわかるか。いやそもそもあなたにその違いを説明できるか」と詰問した。彼は無言になった。説明できないのは彼のせいではない。その差を説明できる人はイオンの岡田元也社長をはじめ日本中探しても一人もいないはずだ。
 私は幹部にこう言って、実際に行動に出た。
「これから約束した通り、ポスターを片っ端から破ります。器物破損で警察を呼ぶならどうぞ」
 犯罪を防止するのは国民の義務でもあり権利でもある。幹部は私の行動を阻止しようとしなかった。良心があったら阻止できるわけがないからだ。私は20枚ほどポスターを破いて店を後にした。全部破っている時間がなかったからだ。

緊急告発! ! イオンはついに詐欺商法にも手を染めだした。

2013-08-13 20:57:51 | Weblog
 日本最大の小売業にのし上がったイオン。いまイオンの領収書を提示して抽選に当たると買い物代金全額が0になるというコマーシャルを大々的に打っている。
 ところが、それが真っ赤なウソなのである。私がイオン本社に、イオンの関連会社ではあるが、イオンではない「つるかめ」と称する小規模スーパーがイオンの領収書(レシート)を発行しているというクレームを付けたのは約1か月以上前である。お客様部門の担当者は「すぐに対処します」と答えたが、相変わらず「つるかめ」はイオンの領収書を発行している(8月13日現在)。
 で、私は「つるかめ」で13日に買い物をして、店長を呼んでもらい、「当たれば買い物代金が0になる」という抽選をさせてくれと申し入れた。が、店長は「ウチはイオンではないので、コマーシャルでやっている抽選はしておりません」と言う。
「でも、この領収書はイオンが発行しているではないか。そうするとつるかめはイオンの名を詐称してお客様を騙していることになる。これは悪質な詐欺的行為だ」と抗議した。店長はひたすら頭を下げて「申し訳ありません」と言うだけだった。
 私は少なくともイオン本社のお客様担当部門に電話でクレームを付けただけでなく、本物のイオンの領収書とつるかめのイオン領収書を並べてコピーし、FAXまでした。担当者は「これはまずいですね。お客様がつるかめをイオンと思われるのは当然ですね。すぐ対処します」と言った。
 私はさらに言いつのった。「もしつるかめが何か問題を起こしたら、イオンは『ウチは無関係だ』と言い逃れることはできませんよ。社会通念上、イオンが領収書を発行している以上、裁判になってもつるかめが起こした問題はイオンが責任を負うことになりますよ。そのくらいお分かりでしょう」。
 担当者は「間違いなくそうなるでしょうね」と二つの領収書を見たうえで答えた。
 私は明日(14日)つるかめが発行したイオンの領収書を持って本物のイオンで「当たれば買い物代金が0になる」という抽選を申し込む。本物のイオンの店が私の要求を受け入れても拒絶しても、どっちにしてもイオンの信頼に大きな傷がつく大問題になることは必至だ。どういう結果になろうと、その結果はまたブログで報告するからだ。
 それだけではない。このブログの原本と本物及び偽物イオンの領収書(レシート)のコピーを公正取引委員会に14日早朝FAXする。公取委がどう出るか。まさか日本最大の小売業者に頭が上がらないというようなことはないと思うが。

集団的自衛権――読売新聞にはジャーナリズムとしての良心のひとかけらもないことが分かった

2013-08-03 17:07:23 | Weblog
 7月23日(火)、読売新聞がとんでもない社説を書いた。「安倍政権の課題」として国力の向上へ経済に集中すべきだという主張が主で、おおむね同感できる内容だ。
 問題はこの社説の末尾に「集団的自衛権を見直せ」という見出しで付け足した個所である。短い文章なのでその主張を全文転記する。

「政府が、長年の懸案である集団的自衛権行使に関する憲法解釈の変更に取り組むのは当然だ。日米同盟の強化にもつながる。
 政府の有識者会議は、10月前半にも新たな報告書をまとめ、集団的自衛権の行使を可能にするよう提言する。政府はこれを受け、解釈変更を進めるべきだ。
 国家安全保障会議(日本版NSC)創設や、米軍普天間飛行場の辺野古移設の推進、新たな防衛大綱の策定と合わせ、安全保障体制を強化しなければならない。
 次の国政選挙までは最大3年ある。首相は経済政策とともに外交・安保の課題も段階を踏んで進めていくことが肝要だ」

「政府の有識者会議」は、政府の方針を決めるに当たって、権威あると認められる民間の専門家などに意見を集約してもらうために開催される。当然安倍政権の連立を成す公明が同意しなければ開くことはできない。憲法96条改正問題については前回のブログで散々述べたが、安倍総理の説得次第で公明は96条改正に賛成する可能性はある。だが、公明は環境権などを憲法に盛り込むべきだとは主張しているが、憲法9条の改正については慎重な態度を崩していない。果たして公明が政府の公的有識者会議(集団的自衛権の行使について)を認めるだろうか、疑問に思った私は公明に電話で聞いたが、そんな話は聞いていないという。また政府の諮問機関や有識者会議について実務面を担当する内閣府(内閣官房)にも、集団自衛権行使についての「政府の有識者会議」が存在するのか否かを聞いたが、そんなものはないという返事だった。
 ちなみに、私は2月11日と18日の2回に分けて投降したブログ『社説読み比べ』で、安倍総理が2月8日に再開した私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を再開したことについて全国紙5紙の社説について批評した。その私的諮問機関が政府の有識者会議に格上げされたのかというと、そういう事実は全くなく、現に安倍総理の私的諮問機関は今秋にも安倍総理に報告書を提出する予定だという。
 いわゆる「有識者会議」とは一般用語で、さまざまな組織が自由に開催できる。組織外の有識者たちによって調査・審議されることを強調する場合は「第三者委員会」と命名されることもある。最も重いのは国の政策・方針を決めるに当たって外部の専門家に諮問する有識者会議で、先に述べたように内閣府(内閣官房)が実務面を担当する。そういう場合に限って「政府の有識者会議」と
重い肩書が付く。また各省庁が、管轄する政策について「有識者会議」を開催することもあり、その場合も「有識者会議」が出した結論は重く、省庁の政策や法整備に反映される。それに準ずるのが「総理の私的諮問機関」とされている。たとえば皇太子に男子のお子様ができず、「男系男子」という天皇の継承問題が生じたとき、小泉総理の私的諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」が設けられたこともある。
 安倍総理が2月に私的諮問機関として「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」と称する諮問機関(一般名称として「有識者会議」と呼ぶマスコミもあったし、それは間違いではない)を設けたが、動きが遅いと思ったのか安倍総理が督促して8月から本格的に議論を再開して今秋に報告書を提出する運びになった。
 この「懇談会」は一般には総理の私的諮問機関と位置付けられているが、先に述べたように一般名称として「有識者会議」と呼ぶのは差支えないが、「有識者会議」に「政府の」という位置づけをすると、途端におかしなことになる。同じ名称の懇談会が、「総理の私的諮問機関」と「政府の有識者会議」の二つ併存し、しかも座長以下メンバーは全員同じということになるからだ。読売新聞も2月の時点では「総理の私的諮問機関」と位置付けており、それをなぜ突然「政府の有識者会議」に格上げしたのか、説明は何もない。おかしな話だが、その問題については後で再度書くことにして、前回のブログに追加したいことがあるので、それを先に書く。
 集団自衛権の行使については、少なくとも今日までの政府見解は「憲法9条を変えない限り無理」ということで定着しているので、やはり集団自衛権の行使は政府が解釈改憲で決めるべきことではなく、国民が決めることだと私は考えている。
 私は21日の参院選投票日の深夜、『参院選挙の自民大勝によって、憲法改正は実現に向けて大きな一歩を踏み出した』と題するブログを投稿した。その中で、現行憲法とくに9条がいかにしてつくられたかについて大筋の経緯を書いた。
 まず現行憲法9条はGHQ(連合国総司令部)の占領下において、日本政府とGHQの合作として作られたことを述べた。そしてGHQの総司令官、マッカーサー元帥は当初憲法作成における三つの原則(マッカーサー三原則)をGHQの担当部門(具体的にはホイットニーが局長を務めた民政局)に指示していた。その中に「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する(以下略)」という条文が含まれていた。つまり自衛のための戦争すら放棄せよ、という、日本に対する「制裁的処置」としか考えようがない内容の憲法にするようGHQ民政局に指示していたのである。
 どうしてそのような制裁処置を行おうとしたかというと、そのことは前回のブログでは書かなかったが、第1次世界大戦で敗戦国ドイツに対し過酷な賠償金を課した結果、ドイツでナチスの台頭を生んだという反省から、日本に対しては過酷な賠償を求めないほうがいい、という考えにより連合国側は日本に対する賠償請求を放棄したという経緯があった。だから連合国のアメリカをはじめ英・仏・中国(現在の台湾)・ソ連は戦後賠償を放棄したのである。その代償として連合国側は日本を占領下に置き、徹底した武装解除、財閥解体、一連の民主化政策を行うことにしたのだ。
 一方日本政府は(占領下においても政府は存在した)、独自に大日本帝国憲法を改正した新憲法原案を作成し、GHQに提示していた。最初の改正案は1946年2月8日にGHQに提示されたもので、陸海軍をまとめて「軍」と規定し、
軍事行動には議会の賛成を必要とするという内容だった。
 だが、賠償請求権の放棄の代償として戦力の完全解体を目指していたマッカーサーが、そんな甘い憲法修正案を認めるわけがなく、ホイットニーにマッカーサー三原則を示してGHQ原案の作成を命じたという経緯がある。が、ホイットニーが「自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する」という条文案に難色を示し、削除することにした。ホイットニーは自衛権まで放棄させると、国連憲章に抵触すると考えたのかもしれない。国連憲章は国際紛争の平和的解決を掲げる一方、個別的又は集団的自衛権は認めていたからである。
 その後日本政府はGHQの顔色をうかがいながら何度も修正案を作成してGHQに提示、最終的に現行憲法の条文が成立した。そうした経緯があるがために、現行憲法9条は矛盾だらけの条文になってしまった。つまりGHQは日本の自衛権を認めながら、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(全文ではない)という条文にし、しかも認めたはずの「自衛のための最低限の戦力」まで完全に解体してしまった。つまり自衛権はあっても自衛手段がない、というおかしな状態になってしまったのである。
 だから憲法制定の国会で、日本共産党の野坂参三衆院議員は「自衛権を放棄すれば、民族の独立を危うくする」と新憲法案に反対し、実際、共産は憲法法案採決の際、反対票を投じている。が現在、自民に次ぐ第2政党の民主が憲法改正について沈黙している状況の中で、形式的には自衛権の行使手段を否定している現行憲法の、改正反対派の事実上の最大勢力になっているのが共産というのも、皮肉といえば皮肉な話である。
 なお自民が公明を説得して96条改正勢力が衆参両院で3分の2を超える状況になった時、民主は間違いなく分裂する。なぜなら、民主には96条改正派と護憲派が混在しており、国会で採決に持ち込まれた際には反対派と賛成派の対立が表面化するのは避けられない。もし採決に際して民主としての態度を一本化できず、自由投票というようなことになれば、現在の民主支持者も一斉に民主離れを生じることは避けられない。野合政党がたどる道は、所詮細川野合政権と同じ運命になる。
 いま民主は参院選惨敗の責任のなすりつけ合いなどしている暇などないはずだ。直ちに改憲派と護憲派に分裂し、改憲派はとりあえず維新やみんななどの改憲派と緩やかな連携を図り、一致できる点は3者が一致して行動し、一致できない点はそれぞれの主張をぶつけ合って、議論を深めていけばいい。その先に新党結成があるのかないのか、今決める必要はない。政権獲得だけを目指すような野合は、三度繰り返せば「お前らアホか」と、国民からそっぽを向かれるだけだ。
 いずれにせよ、公明も憲法に「環境権」などの条項を加えるべきだと考えて
いる以上、自民の説得次第では憲法改正の要件を定めた96条の改正に最終的には賛成せざるを得ないだろう。もし、96条を改正せずに「環境権」だけを憲法に加えるべきだと主張し続けた場合、すでにがたがたになっている民主の中から96条改正賛成派が続出することは避けられず、そうなると維新、みんなを加えて公明抜きでも96条改正の可能性は相当濃厚になる。そうなっても公明が「加憲」だけにこだわり、96条改正後の9条改正を回避するために96条改正案に反対票を投じた場合、前回のブログで書いたように、ただでさえ政府の中で影が薄くなりつつある公明は政府与党にありながら村八分になる可能性が相当高くなる。
 そうなったら、自民は公明より維新、みんな、民主の保守グループと手を組んだ方が、今後の政局をスムーズに運営できると考えるのは、巨大政党となった自民にとって当然の選択肢である。読売新聞論説委員の方たちと違って、そうなる事態が読めない公明ではあるまい。
 読売新聞は社説で「政府の有識者会議は、10月前半にも新たな報告書をまとめ、集団的自衛権の行使を可能にするよう提言する。政府はこれを受け、解釈変更を進めるべきだ」と主張した。
 読売新聞はいったいどうやって「政府の有識者会議」なるものが10月前半(ということはまだ2か月半も先だ)にまとめる予定の報告書の中身を知り得たのか。すでに懇談会で報告書の内容がまとまっているのなら、何も10月まで待つ必要もないだろうに。
 もちろん安倍総理が集団自衛権を行使できるようにしたいというのは、第1次安倍内閣当時からの執念だった。だが、歴代自民政府がどうしても越えられなかったのが、憲法9条解釈の限界だった。つまり、個別的自衛権は「自然法」であり、すべての独立国はその権利を不文律として有するという立場をとってきた(すでに述べたように吉田茂内閣は自衛権すら否定していたが)。しかし憲法9条は「国際紛争(※当然だが他国からの侵害を受けるケースも含まれる)を解決する手段としての戦力は永久に放棄する」と、自衛のための戦力保持すら条文上では禁じている。実際、GHQは自衛のための最低限の戦力すら解体してしまった。
 実際前回のブログでも書いたが、当初、GHQ総司令官・マッカーサーは、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」と新憲法作成についての三原則で明記していた。さすがに新憲法作成の実務部隊である民政局のホイットニーが、自衛権の否定は国連憲章に違反すると異を唱え、マッカーサー原案からこの部分を削除した。削除はしたが、9条において自衛のための戦力保持を認めず(実際には自衛の権利は認めていながら)、「前項の目的(国際紛争を解決する手段)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」として、自衛のための最低限の戦力すら全面的に解体してしまったのである。
 そのためGHQ占領下において朝鮮戦争が勃発した時、日本に駐屯していた米軍が次々に朝鮮半島に送られ、日本国内の安全にGHQが責任を持てなくなった時、マッカーサーは吉田内閣に命じて「警察予備隊」を創設させた。これが、結果的に「自衛隊」の前身になるのだが、その目的は米軍の朝鮮派遣によって日本における共産勢力による武力革命を防ぐことにあった。
 実際、この時期、共産勢力は東欧やアジアを席巻しつつあり、中国では連合国の一翼を占めていた中華民国の蒋介石総統派が毛沢東率いる共産勢力に敗れて台湾に政府を移したり、朝鮮半島でもソ連や「中共」(当時はそう呼ばれていた)の軍事的支援を受けた金日成が支配していた北朝鮮が、突如韓国に侵攻を始めて朝鮮戦争が勃発したのである。当然日本でもスターリンの命令を受けた日本共産党が武力革命を目指しており、共産勢力の武力蜂起を抑え込んでいた米軍がいなくなれば、日本でも共産勢力の活動が活発化することは十分考えられる状況にあった。それを恐れたマッカーサーが、通常の警察力を凌駕する戦闘能力を有する警察予備隊と海上警備隊(のち警備隊)を創設させたのである。
 この警察予備隊および警備隊が、サンフランシスコ講和条約(1951年)によって日本が独立した際、日米安全保障条約締結と同時に「保安隊」と改称され、それまでの陸上・海上部隊に加えて航空部隊も新設された。さらに54年7月1日の自衛隊法施行により、自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊に再編成されて今
日に至っている。
 この時定められた自衛隊法には、自衛隊の果たすべき使命として「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」と定められている。そこで大問題になったのが、自衛隊は合憲か違憲かということだった。
 何度も繰り返し述べてきたように、憲法9条は、「国際紛争を解決する手段としての戦力の保持」を明瞭に否定している。他国から侵害を受ける行為は、自衛の権利の有無とは関係なく、まぎれもない「国際紛争」である。GHQは、自衛の権利を承認しながら、憲法では自衛のための戦力の保持を否定してしまった。どうしてこういう矛盾を生じたのか、その経緯を解明すれば、間違いなくノンフィクション賞か同等の賞の受賞対象になる、と私は前回のブログで書いた。
 実際、自衛隊が合憲か否かは何度も提訴されている。が、現在に至るも最高裁判所は自衛隊についての憲法判断を下していない。ただ、砂川事件について東京地裁と、第二審の高裁を飛び越して上告された最高裁での判決が分かれたほど、国内で大激論を巻き起こしたケースがあるのみである。
 砂川事件とは、自衛隊の合憲性を巡っての訴訟ではなく、日米安保条約と米
駐留軍が憲法違反ではないかという訴訟のことを指す。1957年、東京調達局が行おうとした米軍基地拡張のための測量を阻止しようとした反対派のデモ隊の一部が、米軍基地内に突入して逮捕・起訴された事件。この訴訟(第一審の東京地裁)で、被告側は安保条約とそれに基づく米軍の駐留が憲法前文と9条に違反していると主張、伊達秋雄裁判長は59年3月、「日本政府が米軍の駐留を許容したのは、憲法9条によって禁止された戦力の保持に当たり、違憲である」との判断を下した(いわゆる伊達判決)。
 この判決に対し、検察は高裁に上告せず、最高裁に審判を委ねるという挙に出た。当時は、通常の裁判の慣行に従わずにいきなり最高裁に跳躍上告したことについて様々な憶測が飛んだが、現在ではその間の事情がアメリカ側公文書の公開によってかなり明らかになっている。現在の段階で明らかになっている事実は、60年安保改定を目前にしていた米政府が駐日大使のダグラス・マッカーサー2世を通じ、伊達判決を早期に破棄させるため、藤山愛一郎外相に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけ、さらに最高裁長官・田中耕太郎氏と密談するなどの介入を行った結果によるということだ。米政府としては何が何でも安保改定前の59年内に米軍駐留は合憲との最高裁判決を引き出させる必要があったのだ。実際、田中氏は裁判長としてこの上告を担当し、59年12月、「憲法9条は日本が主権国家として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力に当たらない」としたうえで、「高度な政治性を持つ条約については、一見して極めて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」と、判断能力が最高裁にはないことを自虐的に明らかにした。当然最高裁判決に対し強い批判が浴びせられたが、ひるがえって衆議院議員の「一票の格差」問題について、「格差を生んだ原因である一人別枠方式の廃止」に踏み込んだ現在の最高裁判事の矜持の高さを見るとき、隔世の感を私は否めない。
 とまれ、そういえば、「一人別枠方式の廃止」を求めた最高裁に対し読売新聞は「出過ぎた真似をするな」と言わんばかりの主張を社説でしたっけね。
 言っておくが、私は護憲論者ではない。むしろ解釈改憲を重ねて、憲法の尊厳を損ない続けてきた状況に、やっと終止符を打てる機会が戦後初めて訪れたことに、大きな感慨を抱いている人間だ。現に(公明も含めればの話だが)憲法96条改正賛成派が衆参両院で3分の2を超える可能性が生じ、また世論も憲法96条の改正に理解を示しつつあることを喜ばしく感じているくらいだ。
 なお、先に述べたように、自衛隊についての合憲・違憲の判断は最高裁もま
だしていない。していない、というより「できない」というのが正確な言い方
だろう。というのは砂川判決(最高裁)が、解釈改憲の足がかりを作ったのと同様、皮肉なことに砂川判決が自衛隊の合憲性を最高裁すら判断することを不可能にしてしまったからである。
 砂川判決は、今まで誰も指摘したことがないようだが、二つの要素から成り立っている。一つは「憲法9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定していない」という憲法の条文からは見いだせない根拠のない判断を下しておきながら、ふたつ目の要素として「9条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから」と、日本が指揮・管理できる戦力の保持を否定してしまったため、政府はいまだに自衛隊を「軍隊」「戦力」と公認することができず、「実力」といった意味不明な言葉を使ってきた。しかし国際法上は自衛隊は軍隊として扱われており、自衛官は軍隊の構成員に該当するものとされている。実際、日本政府は自衛隊の英訳名称をJapan Self-Defense Forcesとしているが、海外ではその名称ではなくJapan Army(日本陸軍)Japan Navy(日本海軍)Japan Air Force(日本空軍)と呼ばれている。日本領土への侵害と日本国民の安全のために命をかけるべく、いざという時に備えて血と汗のにじむ訓練に日々を過ごしてくれている自衛隊員を、これ以上日陰者の状態に置き続けることに、私は日本国民の一人として忍び難く耐え難いものを感じる。
 政府は防衛庁を防衛省に格上げしたが、そんな小手先の行為で自衛隊の国際
的権威や尊厳が高まったとは到底考えられない。いま述べたように、海外では自衛隊をすでに軍隊とみなしており、庁が省に名称変更したからと言って、たとえば同盟国のアメリカの主要紙、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムス、ウォール・ストリート・ジャーナルなどが高く評価してくれただろうか。おそらく日本で言う3行記事扱いですら報道していないのではないだろうか。
 私は、集団的自衛権を法的に確立することの重要性は、これまでブログで何度も主張してきた。
 まず日米安保条約について言えば、条約そのものが「双務的」ではなく「片務的」であることから様々な問題を生じてきた。「双務的」条約は、条約締結国の双方が互いに同じく責任を持ちあうことを意味し、「片務的」条約は条約締結国の一方だけが相手国に責任を持つが、もう一方は相手国に責任を持たないという関係を意味する。日米安保条約に関して言えば、アメリカは日本に対し集団的自衛権に基いて日本が外国から侵害を受けた際、日本の自衛隊と一緒になって日本を防衛する義務を負う。が、(現実的にありうるか否かは別にして)アメリカが外国から侵害を受けても、日本は集団的自衛権を憲法で禁じられているから(現在の政府解釈)、アメリカ軍に協力してアメリカを防衛する義務も責任もないし、また協力したくてもできないということを意味するのである。
 一般論として言えば、こういう関係が存在しうるケースには二つが考えられる。一つは言うまでもなく、たとえば親と子供の間の関係が相当する。親が行った行為に対して子供は何ら責任を負う必要もないが、未成年の子供が行った行為に対しては親が子供の年齢などの成長度合いに応じて責任を持たなければならない。このケースの典型として、中学校で社会現象化している「いじめ」問題がある。いじめによって子供が自殺した場合、いじめた子供の親の責任、いじめを防止できなかった学校や教育委員会が所属する市町村の責任が裁判でしばしば争われている。
 もう一つのケースは、両者が完全に支配・被支配の関係にある場合である。国の関係で言えば植民地・保護下にある国(あるいは地域)などの統治権はいわゆる「本国」が持つ。だから日本が先の大戦に敗れて連合国(GHQ総司令部)の占領下に置かれていた間は、日本政府は形式上存在してはいたが、統治権はGHQにあり、そのため日本国憲法も文章は日本政府が最終的に作成した形にはなっているが、内容は日本を統治していたGHQの指示をいちいち仰がねばならないという状況にあったのである。憲法9条の文脈が矛盾だらけになってしまったのはそういう作成プロセスがあったためである。
 だから本来、サンフランシスコ講和条約締結によって日本が独立した時に政府が「現憲法は無効になった」と宣言し、新たに9条の矛盾をなくした新憲法制定に着手すべきだったのだ。なお同じく先の大戦で連合国に敗れたドイツは基本法(事実上の憲法)を西ドイツ時代に35回、東西ドイツ統一後も12回改正している。イタリアも現在までに15回改正を行っている。
 日本では現行憲法が施行された1947年5月3日以来66年を経たが、66年間、憲法をまったくいじらなかった国は日本以外にあるだろうか。護憲派が日本国憲法以上に硬性憲法だと主張しているアメリカ合衆国ですら過去18回、27か条を修正・追補している。確かにアメリカ合衆国の憲法改正要件は厳しく、上下両院の3分の2以上の賛成を経て発議でき、全50州の4分の3以上の州議会(もしくは憲法議会)の賛成を経なければならないことになっているが、「改正」ではなく「修正・追補」が可能になっている。つまり「改正」ではなく、「修正」や「追補」という形式をとることで事実上憲法を改正できるようにしているのだ。その場合の要件も「改正」と同じだが。
 憲法を簡単に変更できないものにすることは、憲法がその時々の政権によって都合のいいように変更できないように、普遍性の高い条文については改正要件を特に厳しくすれば済む話で、公明が主張している「環境権」などは比較的容易な手続きで「追補」できるようにすればいい。憲法9条などは、条文自体が矛盾だらけで最高裁すら合憲か違憲かの判断を下せないような状況にあることを考えれば、矛盾が生じないように修正できるようにするか、あるいは9条に第3項を加え(「追補」)「ただし、前項の規定は、自衛のための最低限の戦力の保持及び行使まで認めないものではない」という一文を加えればよい。それなら護憲派も「否」とは言うまい。
 日本で憲法改正が困難になっているのは、単に96条が定めた改正要件(両院で3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の賛成を必要とする)だけにあるわけではない。原発の「安全」神話と同様、日本の憲法に対する「平和」神話が国民の間に根付いてきたことも大きな要因を占めている。「大きな」というより「最大」の要因といった方が正確かもしれない。たとえば朝日新聞すら現行憲法を「平和憲法」と定義してはばからない。
 護憲派はしばしば「戦後、日本が平和を維持してこれたのは平和憲法のおかげ」と、お経の文句のように繰り返しているが、いったい外国人のだれが日本の憲法9条の不戦主義を知っているというのか。第一、日本人の何人が、同盟
国アメリカの憲法の1条だけでも知っているだろうか。アメリカ合衆国憲法は、前文・本文・修正条項の三つからなるが、私のブログを読んでくださっている方にお聞きしたい。
 アメリカ合衆国憲法の前文をなんかの機会に読まれたことがありますか。学校で学んだことがありますか。いま前文の中身の一部でも覚えていますか。アメリカ合衆国憲法の本文に至ってはたったの7条しかありませんが、そのことを知っていましたか。全7条のうち1条でも何らかの機会に読んだことがありますか。読んだことがあるとして、その一部でも覚えていますか。
 そのことを自分の胸に問いかけるだけで、日本の憲法に対する「平和」神話が音を立てて崩れ去ることがお分かりいただけると思う。福島原発の事故が起きて初めて「安全」神話が崩壊したのと同様に、日本が外国から侵害を受けるまで日本国憲法の「平和」神話にしがみつくのだろうか。
 実際、竹島が韓国に実効支配され、尖閣諸島周辺の日本領海域を中国の公船によって何度も侵犯されている。一昔前だったら間違いなく戦争になっていたケースだ。が、海上保安庁の巡視船が中国船を追尾し、領海から出るよう警告を発するだけで、それ以上の行動には出れない。肝心のアメリカは、尖閣諸島は日本の領土だと認めながら、領土問題は二国間で解決してくれ、とそっけない。日本の海上自衛隊も、中国船が武力攻撃を仕掛けているわけではないから動きが取れない。
 当初、東京都知事時代の石原氏が魚釣島などを所有者から買い取ることを決めたが、そこに政府が割り込み、政府が買い取ることになった。それはそれでいいのだが、政府は中国に遠慮して(?)実効支配に乗り出そうとしない。それをいいことにして中国は挑発行動をますますエスカレートさせている。
 おそらく日本政府は、もし日本が、漁船停泊用の港を造ったり、港に出入りする船を監視するための人員(公務員あるいは公務員に準ずる人)を常駐させ、中国が実力行使に出て日本の海上自衛隊が実力で対応した場合、アメリカは日米安全保障条約に基づいて実力行使に出てくれるか、といった打診くらいはしているだろう。その程度のことは、政府が尖閣諸島を買い取ることを決めたとき、当然アメリカ側に打診しているはずだ。そんなことは安全保障に関する外交の基本中の基本だからだ。
 尖閣諸島の領有権問題だけでなく、いま中国は世界最大の帝国主義的国家といっても過言ではあるまい。尖閣諸島が属する東シナ海だけでなく、南シナ海においても東南アジア各国と島嶼の領有権をめぐって争いを演じている。中国は空母など海軍力をはじめ軍事力の拡大に血道を上げており、経済成長に鈍化の兆しが顕著なのに、軍事予算だけは増大し続けている。いまのところ領海侵犯や軍事演習の常態化などの挑発行為にとどめているが、いつどの国と軍事的衝突を生じてもおかしくない状況にある。「平和憲法」のおかげで日本は安全だと「平和ボケ」していると、「安全」神話に寄りかかって原発事故への備えを怠ってきた二の舞を踏まないという保証は一切ない。
 そういう意味では、いざというときに備えた安全保障策について危機感を持って対策を考えなければならない時期であることは間違いない。だから私はこれまでブログで「集団的自衛権」の法的確立の必要性を主張してきたのである。
 現在の日米安保体制が片務的であることはすでに述べた。米政府は、日本国憲法制定の経緯を承知しているため、片務的であることにあからさまな不満を表明したことはないが、片務的であることの代償として基地協定や沖縄への過大とも言える軍事基地の配備、さらに「思いやり」予算の押しつけなどを既成事実化してきた。
 日本が憲法を改正して、自衛(あるいは国防)のための最低限の戦力保持に加えて、同盟国との集団的自衛権の確立を法的に整備すれば、日本の軍と米軍との関係は対等の協力関係になり、基地協定の廃止もしくは改定をはじめ、沖縄への過大な軍事基地の配備は日本の安全保障のためではなく、アメリカの東南アジアにおける軍事的支配力維持のためであるから、もし日本に協力を求めるなら「思いやり」予算の要求どころか、逆にアメリカが沖縄県民に対して相応の「迷惑料」を支払う義務が生じることになるし、沖縄県民の同意が得られない場所には基地を設けることができなくなる。「片務的」関係を「双務的」関係に変えるということはそういうことを意味するということを、政府は誠意を持って国民に訴えるべきだ。
 もう一つ言っておかなければならないことがある。護憲派は「集団的自衛権を確立すれば、日本がアメリカが行う戦争に巻き込まれる」という虚偽に満ちた説明についてである。なぜその説明が虚偽かというと、集団的自衛権は同盟国の一方が侵害を受けたときにのみ、侵害した相手国に対して共同して戦う義務があるという意味で、たとえばアメリカがイラクに対して起こした戦争に日本が加担しなければならないということではない。あたかもアメリカが全世界で行う戦争のすべてに、同盟国として日本がアメリカと同じ歩調をとらなければならなくなるかのような説明は、国民を騙すことを目的にする以外の何物でもない。日本が集団的自衛権を行使する義務を負うケースは同盟国(現時点ではアメリカのみ)が侵害を受けた場合だけである。たとえば9.11のようなテロ行為に対して、アメリカがタリバン勢力に報復手段に出たとしても、テロ行為に対しては集団的自衛権の行使は義務付けられないというのが国連憲章における集団的自衛権の解釈である。さらに集団的自衛権は、同盟国が第三国から攻撃を受けた場合でも、絶対に同盟国を防衛する義務を負わなければならないものではない、というのが国連憲章51条解釈の通説である。アメリカが第三国から攻撃を受けたとしても、その原因がアメリカの不正義にあると日本が判断した場合、集団的自衛権を行使する義務はないのである。
 ただし、日本政府は集団的自衛権について答弁書でこう定義している。
「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利」
 この解釈は問題である。同盟国ではなくても、政府が「密接な関係にある国」
と位置付ければ、自衛隊が他国間の紛争に軍事介入できてしまうからである。
 実際冷戦時代に米ソは自国の影響下にある勢力を防衛するために「集団的自衛権」を濫用してきた。ハンガリー動乱やプラハの春を戦車で踏みつぶしたソ連や、ベトナム内乱に軍事介入したアメリカなどはいずれも「集団的自衛権の行使」を口実にしており、日本政府の「集団的自衛権行使の対象を日本と密接な関係にある国」といった、あいまい極まりない定義は改める必要があるし、同盟国(TPP交渉が参加各国の同意を経て成立に至れば、日本もアメリカだけでなくTPP参加国との同盟関係を結ぶ可能性や必要性が生じると思う)との間で集団的自衛権を行使する権利と義務の範囲を明確にする必要が生じるだろう。集団的自衛権行使の権利を法的に整備する場合、絶対それは避けてはいけない条件であることを私は強く主張しておきたい。

 何かを得んとすれば、何かを失う。この原則はいかなるケースにも当てはまる。日本には「二兎を追うもの一兎も得ず」ということわざがあるではないか。憲法というものは、その国の権力をしばることと、基本的人権など国民の権利・義務・責任の関係を定めたものであり、他国の行動に対して規制力を持つものではない。護憲派が言ういわゆる「平和憲法」を守るために日本は何を失ってきたか。基地協定、沖縄県民の苦しみ、「思いやり」予算……それらのすべてに、護憲派(政党や市民団体だけでなく、護憲主義マスコミも)は責任を負わねばならない。
 翻って読売新聞の社説を改めて検証してみよう。社説氏は、ありもしない「政府の有識者会議」なるものをでっち上げ、まだ結論が出ていないはずの報告書(読売新聞によれば報告書は10月前半にまとまるようだ)の提言を受け、集団的自衛権行使を可能にするよう憲法解釈を変更すべきだとのたまう。
 実は第1次安倍内閣の時作られた安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長=柳井俊二・元駐米大使)がまとめた報告書は、安倍総理が体調を崩して退陣した後、福田総理に提出されたが、福田総理が握りつぶしてしまった。その報告書に以下の一文がある。

(憲法9条の)国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使を「国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」ものであって、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障への参加を禁ずるものではないと読むのが素直な文理解釈であろう。

 第2次安倍内閣の発足により、安倍総理は直ちに今年2月8日、やはり総理の私的諮問機関(「政府の有識者会議」ではない)の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を再開させることにした。が、その後、懇談会は2,3回開かれたものの事実上休眠状態になっていた。で、先の参院選の結果を見て安倍総理がせっついたのであろうか、懇談会の議論が8月に再開され、報告書作成作業が本格化し、今秋にはまとめられる見通しとなっている。
 懇談会の議論がこれから本格化するというのに、読売新聞は7月23日の社説で「政府の有識者会議は、10月前半にも新たな報告書をまとめ、集団的自衛権の行使を可能にするよう提言する。政府はこれを受け、(憲法9条の)解釈変更を進めるべきだ」と主張した。まるで懇談会を読売新聞が仕切っており、かつ総理の私的諮問機関を「政府の有識者会議」に格上げする権利を持っているかのような書き方である。
 今秋にまとめられるという報告書は、おそらく社説氏の読み通りになるだろう。というのは懇談会の座長以下メンバー全員が、第1次安倍内閣時に設けられた懇談会と同じだからだ。だが、たとえそうであったとしても、報告書をま
とめるための本格的議論はこれから再開される段階だ。それを先取りして勝手に報告書の「結論」を決め、かつ総理の私的諮問機関よりはるかに重い(つまり政府に対して相当程度の強制力を持つ)「政府の有識者会議」に格上げするといったことが読売新聞には可能なのか。それほどの権限を読売新聞は持っているのか。のぼせ上がるのもいい加減にしろ、と言いたい。
 そもそも読売新聞は集団的自衛権確立の必要性についての論理的主張をしたことなど一度もない。2月18日に投稿したブログ『社説読み比べ 読売新聞社説は剽窃だった。日本経済新聞社説は日本への警戒心をあおるだけだ』で明らかにしたように、第1次安倍内閣の時の安倍総理の発言を剽窃し、あたかも読売新聞独自の主張であるかのごとき社説を発表するくらいしか能がないのだ。私の主張と読売新聞の主張のどちらに論理的説得力があるか、読者に判断を仰ぎたい。
 
 と、ここまで書いて昨日(8月2日)このブログを投稿するつもりでいたが、2日の朝刊を見てびっくりし、追記する必要が生じたので投稿を1日延ばすことにした。安倍総理が内閣法制局長官の山本庸幸(つねゆき)氏を退任させ、駐仏大使の小松一郎氏を後任の長官に抜擢する人事を固めたというのだ(山本氏は最高裁判事に転出の予定)。読売新聞によれば、こういう理由のようだ。
「集団的自衛権を巡る憲法解釈の見直しを進めるため、従来の政府解釈を堅持する立場だった山本氏を退任させ、解釈見直しに前向きな小松氏を起用することで、態勢一新を図る」ためということである。小松氏は外務省出身で法制局勤務の経験はないという。異例の人事のようだ。
 安倍内閣の支持率は6月まで60%台の高い支持率を維持してきた。アベノミ
クスの効果がある程度明らかになり、自動車や家電など輸出産業の経営が相当程度改善し、株価もミニバブル的現象を呈してきたことによると思われる。が、「得るものがあれば、必ず失うものもある」の原則通り、円安による物価上昇が家庭の台所を直撃した。富裕層は株価上昇の恩恵を受けて高級マンションや高級自動車の購買力が増えたようだが、固定為替制度(1ドル=360円という超円安)だった高度経済成長期のように国民各界層に広く内需が拡大しているわけではない。安倍総理は大企業に対して、「収益増大を先取りして社員の給与をアップしてくれ」と異例の要望をしているが、為替の変動は実体経済を反映したものではなく、投機筋(ヘッジファンド)のマネーゲームによって左右されているのが実態である。だから大企業も今期は円安効果によって増収増益になったが、来年以降もその傾向が続くという保証がないため、「はい、わかりました」と二つ返事で給与の大幅アップには二の足を踏まざるを得ない。しかも異常気象によって野菜類の高騰、夏物衣類の売れ行き不振などで内需はむしろ下降線をたどっているように思われる(データが公表されていないので、はっきりしたことはわからないが)。
 そのせいかどうか、7月に入って、それまで順調だった安倍内閣の支持率も初めて60%を割った。安倍内閣としては景気回復のために打てる手はすべて打ち尽くした感もあり、さらなる景気回復のための妙手も見当たらない。
 デフレと円高からの脱却、名目経済成長3%以上を目標として掲げたアベノミクスの具体的経済政策は「3本の矢」と呼ばれている。具体的には①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③民間投資を喚起する成長戦略、がその骨子だが、この「3本の矢」の中で残されているのは②の財政出動による公共事業投資だけだが、これは私が当初から「先進国にはケインズ循環経済論」は効果を発揮しないと主張してきたことに安倍総理もようやく気付いたようで、事実上棚上げとなっている。
 そうした状況の中で安倍総理が揺れだした。当初はとりあえず憲法96条を改正して改憲要件を緩やかにする(衆参両院で3分の2以上の賛成で発議できるという要件を2分の1以上に下げる)ことを目的としたはずだ。これはあくまで「発議」のための要件であって、国会が発議しても国民投票で有効投票数の過半数の賛成が得られなければ改正はできない。
「国民主権」とか「主権在民」などと言われながら、実際に国民が政治に関与できる機会は国会議員を選出する時だけである。66年間も憲法の一条一句改正(修正・追加を含む)していない国は日本だけだろうことはすでに述べた。公明が主張している「加憲(環境権)」は「追加」になるが、そういうことすら現行憲法下では極めて困難である。まして自衛権を認めながら自衛のための戦力の保持を否定している9条の拘束を受けて、政府はこれまで自衛隊を「戦力」
には当たらない「実力」という奇妙な言い訳をして正当化してきた。だが、集団的自衛権を行使するということになると、これは他国の防衛のために自衛隊を出動させるということになるわけだから、「実力」などという言葉でごまかすことは不可能になる。
 やはり、無理に無理を重ねた解釈改憲でつぎはぎするのではなく、憲法96条を改正し、国会の憲法改正発議要件を緩やかにすることによって、国民が自ら自国の憲法に国民の総意(民主主義のもとでは過半数の意見を以て「総意」とするしかない)を反映できるようにするのが政治の王道ではないだろうか。
 96条の改正なら、維新やみんなも賛成しているし、民主にも賛成派が相当いるから、安倍総理が誠意を持って公明を説得したら両院で3分の2以上の賛成で発議できる可能性が高い。世論調査でも96条改正については国民の過半数が支持しているから、国会が発議できれば憲法改正への道はほぼ開けると考えていいだろう。その後、自衛のための最低限の戦力の保持(個別的自衛権)及び自衛力強化のため集団的自衛権を有することを認める旨、9条を改定もしくは第3項として追加すると同時に、集団的自衛権の行使要件についても明確な歯止めをかけておく必要があるだろう。

 ここまで補足して今朝(3日)、投稿しようと準備しておいたところ、また今日の読売新聞朝刊1面トップ記事を見てびっくりした。見出しは「集団自衛権 全面容認提言へ」とあり、リードでこう書いている。
「集団的自衛権を巡る憲法解釈見直しを検討するため安倍首相が設置した有識者会議『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)』(座長=柳井俊二・元駐米大使)が第1次安倍内閣の際に検討した『公海における米艦の防護』などの4類型の憲法解釈見直しにとどまらず、集団的自衛権の行使を全面的に容認する新たな憲法解釈を提言することが2日、わかった」
 私がなぜびっくりしたか。
 読売新聞は「安保法制懇」について「政府の有識者会議」と位置付けていたはずだ。もともと第1次安倍内閣の時から「安保法制懇」は総理の私的諮問機関として設置されたものだった。「諮問機関」を「有識者会議」と称してもあながち誤りとは言えないが(実際、読売新聞に限らず「諮問機関」を「有識者会議」と記している新聞もある)、その「有識者会議」(諮問機関)を設置したのが総理であるのか政府なのかで、重みが月とすっぽんほど異なる。総理が個人的に設置したのであれば当然、政府は拘束されない総理の私的なものであり、政府が設置したのであれば当然のことだが政府の方針を左右するだけの重みをもつ。
 読売新聞はこの記事の本文で、こう書いている。
「政府は、新たな報告書の提言を受け政府としての憲法解釈の見直しを検討するが、政府内には『安保法制懇の提言がそのまま政府の憲法解釈見直しになるわけではない』との意見もある。安保政策上の重要性を踏まえ、検討は慎重に進める方針だ」
 なんじゃ、これは ? 私は思わず目を疑った。
 読売新聞は安倍総理が私的に設置した「安保法制懇」を政府の公的な有識者会議に格上げしたはずだ。読売新聞は政府に君臨できるほどの権力を持っているからこそ、そういう常識的にはありえないことをやってのけることが出来たのではなかったのか。
 それなのに今度はまた「安倍首相が設置した有識者会議」に格下げし、かつ政府内には「安保法制懇の提言がそのまま政府の憲法解釈の見直しになるわけではない」との意見もある、とこれまでの主張を一変してしまった。
 私があっちこっちに電話して、安保法制懇を設置したのは安倍総理なのか、それとも政府なのかと、読売新聞の表記の真偽を聞きまくったため、何らかの筋から「政府の有識者会議ではない」と、読売新聞に訂正を求めたからかもしれないが、それならそれで、表記の誤りの訂正文を載せるべきだろう。
「読売新聞にはジャーナリズムとしての良心のひとかけらもない」
 私は、そう断定せざるを得ない。読者の皆さん、どう思われますか。

 なお、もし安倍総理が「安保法制懇」の提言を採用して憲法解釈で集団的自衛権を認めるよう政府を動かすようなことをしたら、間違いなく公明は閣外に去るだろうし、参院では自民党は過半数を獲得していないから不信任決議案が通る可能性も出てくる。そうなれば96条改正についても維新やみんなの協力も得られなくなるだろうし、国民の安倍離れは一気に加速することも疑いを容れない。