あらかじめお断りしておくが、今回のブログは相当高度な理解力の持ち主(もっとはっきり言えば高校生高学年から大学生程度の理解力)で、かつ
既成概念を捨てられる人でないと、読んでも無駄である。
が、日本が置かれている国際的環境(軍事的・経済的・その他もろもろ)の激変を真剣に憂い、私たちの子供や孫、さらに将来にわたって私たちの血を継承する未来の日本の国づくりを担ってもらわなければならない後継者たちのために、私たちは今何を成すべきかを真剣に考えておられる方には、ぜひいったん、自分の価値観や既成概念を白紙に戻して読んでいただきたい。
理解力については、前回のブログでも書いたが、台形の面積を公式を使わず計算できる論理的思考能力が基準である。次に既成概念を捨てるということは、現行憲法について「平和憲法」とお考えの方は、そうした考え方を捨てていただきたい。とくに「平和憲法が戦後の日本の平和を守ってきた」という「憲法神話」にとらわれている方は、その既成概念を捨てていただかないと、このブログを読むのは時間の無駄である。たとえば、NHKの元エグゼクティブアナウンサー(理事待遇)三宅民夫氏(現在は嘱託)の討論番組での発言(私はNHKに猛烈に抗議した)や、朝日新聞の論説委員の社説での表記にあるような無定見な「言葉遊び」がやめられない人には、はっきり言って「馬の耳に念仏」のブログだからだ。
私の考え方は、実はこれまでさんざん批判してきた読売新聞の主張に非常に近い。近いが、その短い距離の間に超えられない成層圏まで達するような高い壁がある。私が読売新聞に近寄ることは絶対にありえないので、読売新聞が私の思考方法を理解してフェアな主張をしてくれるようになることを期待するしかないと思っている。無駄な期待かもしれないが……。
私は新聞社が主張を変えることは構わないと思っている。状況が変われば、以前の主張を変える必要が生じるのは当然である。が、言論機関として「言論の自由」を主張するなら、いったん行った主張に対する責任も果たすべきだ。具体的には「いついつはこういう主張をしたが、その主張をしたのはこういう背景のもとでの主張だった。だが、現在は状況がこう変わり、前に主張したことは実行不可能になった。したがって主張をこう変える」と、読者に対する説明責任があるはずだ。読売新聞だけではないが、新聞はその説明責任を果たさずに、勝手に主張を変えている。それで「言論の自由」を声高に叫ぶ権利があると思っているのだからタチが悪い。
具体例を書く。野田民主党政権時代、野田首相が政治生命をかけたという「税
と社会保障の一体改革」を読売新聞は社説で支持したはずだ。ところが、安倍自公政権になって、安倍総理が消費税増税に消極的になった途端、主張をがらりと変えて「今消費税を増税すると、せっかく回復しつつある景気の腰を折りかねない」と増税反対論を打ち出した。消費税増税に代わる税収確保の提案もせずにだ。だから私は「政権与党にすり寄ることを社是にしている読売新聞」と決めつけているのである。
さて政権与党にすり寄ることを社是とする読売新聞は、いま全力を挙げて安倍総理の憲法解釈の見直しをバックアップしている。具体的には、これまで「集団的自衛権は固有の権利としてあるが、憲法の制約によって行使できない」としてきた政府解釈を見直して、「憲法解釈上も集団自衛権を認められるようにしよう」という安倍総理の考えを全面的に支持し、その理論的裏付けを試みている。それはそれで自由だが、捻じ曲げた印象を読者に与えかねないアンフェアな主張がしばしば見られることだ。
そのことはこのブログを読めば自明になるが、なぜ日本の「自衛隊」は「自衛軍」でもなければ「国防軍」でもないのか、という疑問から解明していこう。
憲法9条は、①「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」②「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある(一部省略)。
日本を占領下に置いたGHQは、マッカーサー総司令官の指示に背いて「自衛権まで否定するものではない」という考え方をしていたが、実際には自衛のための最小限の戦力すら完全に解体してしまい、事実上「否定しないはずの自衛権」を奪い、日本を丸裸にしてしまった。そのため、吉田首相は自衛権もないと国会で答弁している。そこに矛盾が生じなかったのは、当時日本は連合軍(実態はGHQ)の占領下にあり、GHQによって日本の安全が保障してきたからである。だから、自衛のための自前の戦力を解体されても、国連憲章51条が定めた固有の自衛権の一つである集団的自衛権の行使によって日本は安全地帯に置かれていたと考えるのが論理的であり、妥当な集団的自衛権解釈の第1歩である。安倍総理をはじめ政治家やジャーナリストには、この視点が完全に欠落している。
だから私は占領下において日本の主権がなかった時代に、形式上は日本政府がGHQの顔色をうかがいながら作成した憲法は、日本が独立を回復した時点で「無効」として、独立国としての尊厳を反映した憲法に改正しておくべきだったと何度も主張してきたのである。
が、どんなに愚痴を言っても死んだ子が生き返るわけではないので、「押し付
けられた」とか「日本政府が作成した」といった無意味な憲法論争はいい加減にやめて、現行憲法は独立国としての日本の尊厳が反映されているかという視点から見直せば、当然憲法を改正すべきだという結論に達するはずだ。この視点で改憲論を主張すれば、いわゆる「護憲勢力」も反論できまい。
そうした視点からの改憲論争を避けてきた(というより政治家の頭に浮かばなかった)ため、朝鮮戦争が始まって、それまで日本の防衛を肩代わりしてきた米軍が戦争に駆り出された結果、日本の安全(実際には外国からの侵略を防ぐためではなく国内の共産勢力の台頭を防ぐのが目的だった)を守るための「実力部隊」として警察予備隊を創設したという経緯がある。日本で猛烈な「赤狩り」が行われたのもこの時期である。その警察予備隊が自衛隊の母体になるのだが、「戦力の保持」を禁じてしまった憲法9条によって「自衛軍」あるいは「国防軍」という名称を付けることができなかったのである。自衛軍や国防軍の名称にすると、明らかに軍隊(つまり「戦力」)ということになり、憲法9条に抵触してしまう。そのため歴代政府は自衛隊は「戦力」ではなく「実力」だとへんてこりんな言い訳をしてきた。憲法9条と自衛隊の関係を前提にしないと、集団的自衛論は非論理的にならざるを得ないのは当然である。なのに、読売新聞はあえてこの問題に目をつぶり、集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更によって認めようという安倍総理の片棒を担いでいるのだ。これがあるべきジャーナリズムの姿勢なのか。私が「読売新聞はジャーナリズム失格」と烙印を押したのは、その故である。
私自身はこれまでも述べてきたように、まず憲法を改正して、国民主権のもとで新憲法を制定し、自衛のための固有の権利として自衛軍(あるいは国防軍)の保持を明記したうえで、自衛のための軍隊の行動を国民の意思によって規制することを定め(緊急時には政府が戒厳令を発布して政府の管理下で自衛のための軍隊の発動を許可し、事後に政府の決定について国民の意思を問う仕組みにする)、集団的自衛権については国連憲章51条の正確な理解に基づいたうえで、日本としての集団的自衛権行使の義務の範囲を明確に定める(この書き方にほとんどの読者は違和感を感じられるだろう。いや、違和感を感じてもらわないと困るのである。私がなぜこういう書き方をしたかはおいおいわかる)。
すでに私はブログで詳述したが、国連憲章51条は「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、(中略)個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」(邦訳)とあり、おそらく原文(英語だと思う)では「個別的」or「集団的」自衛の権利となっているはずだ。つまり「個別的」and「集団的」ではなく、どちらか一方の権利の行使しか認めていない。
なぜそういうおかしな表現になったのか。実は国連憲章は戦争を犯罪行為とみなし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対し武力攻撃が行われた場合は、自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国の軍隊に守ってもらう(これが「集団的自衛」の意味)権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的妥当性を有する。
そういう集団的自衛権を権利として国連憲章が認めた背景には、国際会議で承認された「永世中立宣言」国が非武装だったため他国から侵略され占領された過去があり、そうした悲劇を二度と繰り返さないため、個別的自衛力のない国を他国の攻撃から国連加盟国が共同で守ってあげようという意味なのである。つまり国連憲章が認めた集団的自衛権とは、同盟国や「日本と密接な関係にある国」(日本政府の定義)を、攻撃された国と一緒に守ることを意味するものではないのである。非武装や十分な「個別的」自衛の戦力を有していなかった場合に、他の国連加盟国に応援を頼める権利が集団的自衛権の本来の意味である。
国連憲章がなぜそういう権利を明記したかと言うと、いざというときに国連安保理の決定によって国際紛争を解決するための実力装置である「国連軍」の創設を前提にしていたからである。だから、国連憲章の真意は、個別の軍事同盟を認めず、国際紛争はすべて国連軍が解決することを最終的目的としていたためと考えられる。
だが、そんなに簡単に平和な国際社会をつくることは不可能である。国連憲章が理想としたのは、「帝国主義国家」が軍事同盟を口実に侵略戦争を繰り返した第1次世界大戦、第2次世界大戦への反省から、個別的軍事同盟に代わるものとして国連軍の創設を高らかにうたいあげたのだが、冷戦下で各国の利害が激しく対立する中で国連軍の創設は容易ではなく、いまだに創設されていない。日本の歴史を見ても、第1次世界大戦で、日英同盟を口実に参入し、アジア方面のドイツ軍と戦いドイツがアジアに持っていた権益を奪っている。
だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係が築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。
まず安倍総理自身がこの問題をごっちゃにしている。安倍総理は初めて総理になった2007年5月に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長は柳井俊二・元駐米大使)を首相官邸に設置した。同懇談会について、当時のマスコミはすべて(読売新聞も含め)首相の私的諮問機関(あるいは有識者会議)と位置付けた。当然である。この懇談会が「政府の有識者会議」(最近の読売新聞の位置づけ)であれば、当然政府与党の公明も認めたオフィシャルな機関で、そこが出した結論は相当高いレベルで政府の方針に影響を与える。たとえば現在政府の有識者会議である消費増税の是非を検討する集中点検会合は、
政府が主催しており、事務局は内閣官房が担当している。
なぜ読売新聞が政府に君臨するポジションに就いて、首相の私的に設置した機関を「政府の有識者会議」に格上げできたのかは知る由もないが、この懇談会を設置した理由について安倍首相(当時の)は「公海上での自衛隊艦船による米艦船擁護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」は「もし日本が助けなければ同盟はその瞬間に終わる」と述べている(なおこの安倍総理の発言を「引用」としてではなく、読売新聞は剽窃してあたかも自社独自の主張であるかのごとき社説を掲載した)。この発言はその通りだが、これは日米軍事同盟の不安定要素についての安倍首相の考えで、集団自衛権を解釈改憲で認めるか否かとは次元が違う話だ。
集団自衛権を行使する対象について日本政府は「同盟国及び日本と密接な関係にある国」と定義しているが、国連憲章によれば「国連加盟国」と明確に定義している。つまり、国連加盟国は「無法な侵害を受けている。助けてくれ」と、他の国連加盟国に要請する権利があり(これが集団的自衛権)、支援を要請された国連加盟国はその国を助ける義務(権利ではない)があるということを明確に述べている。それをあえて安倍首相も読売新聞も無視して、日本が集団的自衛権を解釈改憲で認めないと、日米関係が危うくなるかのごときの主張は「ためにする」以外の何物でもない。
そう解釈しなければ、国連憲章51条が定めた「自衛の権利」について、「個別的又は集団的」と二者択一的な表記で「固有の権利」を認めた理由の意味を理解できない(その点は、私が7月21日に投稿したブログ『参院選挙の自民大勝によって、憲法改正は実現に向けて大きな一歩を踏み出した』での主張に一部不十分な説明と主張をしたことを率直に認める)。つまり、日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが日本を防衛する義務を負っていることにより、すでに集団的自衛権を有しているのである。どうして日本の政治家やジャーナリストはここまで頭が悪いのか、私には理解できない。そこで、別の視点から日米安全保障条約について再考してみよう。
日本人のほとんどは日本とアメリカは同盟関係にあると思っている。とんでもない話だ。
アメリカ人(とくに政治家)は、日本との関係をどう見ているか、日本の政治家は黙して語らないし、マスコミもうすうす気づいていながら、あえてこの問題を正面から取り上げようとしてこなかった。
アメリカにとって最大の同盟国はイギリスである。米英の間にどういう条約
が締結されているか、私には知る由もないが、おそらく双務的な軍事同盟としての細かい約束事が盛り込まれているはずだ。だから湾岸戦争やイラク戦争にも、アメリカが直接他の国家によって不法に攻撃されたわけでもないのに、アメリカの報復行動にいち早く軍事的協力をしている。もちろんイギリスでも議会の承認を経て行っているはずだ。
日本は勝手にアメリカを同盟国と位置付けているが、アメリカは単なる友好国の一つ(ただし重要な友好国とみてくれているとは思うが)と位置付けているはずである。確かに日米安全保障条約は、日本が攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務があると書かれている。アメリカはその義務を負う代償として米軍基地を日本から無償で借り上げ、米兵士の宿舎をはじめ様々な施設を日本から無償で提供させ、さらに日本政府は「思いやり予算」などという屈辱的な財政的支援まで行っている。
が、日本の米軍基地の大半は、実は日本を防衛するためのものではない。首都圏周辺にもいくつかの基地が配備されてはいるが、これらの基地にどれだけ日本の首都を防衛できるだけの軍事的整備が行われているか、マスコミは報道しようとさえしない。私はかなり前だが、米軍の座間キャンプ内にあるゴルフ場でプレーしたことがあるが、軍事基地としての緊張感はまるで感じられなかった。はっきり言って米兵のための日本における保養地でしかない。
アメリカにとって最重要な軍事拠点は沖縄に配備されている基地群である。
もちろん沖縄を攻撃する外国があるとは考えられないし、沖縄を直接の攻撃目
標にしないまでも、沖縄方面から日本を攻撃する国もない。なのに、アメリカにとっては沖縄は最重要な軍事拠点なのである。
なぜか。東南アジアおよび東南海をアメリカの勢力圏に収め続けるためには、沖縄基地はグアムと並ぶ2大軍事拠点なのである。少し前までは韓国やフィリピンもアメリカにとって重要な軍事拠点だったが、両国民の反発が強く、両国に配備されていた基地は次々に撤去せざるを得ない状況になっている。当然アメリカの東南海方面における制空権・制海権は弱体化せざるをえなくなり、その間隙をぬって中国海軍が跳梁し始めており、アメリカにとって沖縄はグアムとともに最後の砦となっている。沖縄、とくに市街地周辺の米軍基地を撤去させることは沖縄県民の悲願だが、アメリカが頑として沖縄県民の要望を退けているのは、そういう事情が背景にあるからだ。
そもそも同盟というのは対等に双務的な関係にある国同士の結びつきである。現に米英との関係がそうであり、韓国も米英軍事同盟に近い同盟関係をアメリカと結んでいるが(だから韓国はベトナム戦争でも米軍に協力した)、韓国はアメリカにとって頼りにできるだけの軍事力を持っておらず、しかも韓国は自国の軍事力の大半を北朝鮮対策に割かざるを得ないという事情も抱えているため、沖縄の基地群の重要性はアメリカにとって増す一方である。かといって、さらに沖縄に基地を増設することは不可能であるため、オスプレイのようにまだ安全性が十分確保されていないにもかかわらず、最新鋭の兵器を配備することで沖縄基地の軍事的強化を図っているのである。
つまりアメリカは、日本防衛の集団的「自衛の義務」を負う代償として、アメリカの東南海地域の軍事的支配権を維持するために沖縄に米軍基地を集中配備しているのである。沖縄における様々な問題の根源は、すべてここに根拠があるのだ。
だから、沖縄の問題を解決するためには、現在の片務的関係にある安保条約を、双務的なものに改め、アメリカが不当な侵害を受けた場合は日本軍(あえて「日本軍」と書く)が米軍に協力して、アメリカ防衛の義務を負うという対等な条約に改正すれば、沖縄の問題も含め、すべて解決する。
そのためには、やはり「憲法9条」の矛盾を解決しなければならない。解釈改憲で、実際には諸外国からすでに「軍隊」とみなされており、また「軍隊」と呼ぶにふさわしい軍事力を有しながら、「戦力の保持」を禁じた憲法9条に拘束されて、自衛隊といった意味不明な名称を捨てられず、さらにより意味不明な「実力」という定義を自衛隊に付けるという、独立国家としての尊厳すら放棄した状況で、さらに解釈改憲で、すでに保有していることが明らかな「集団的自衛権」を認めることにしようなどという姑息な政治手法は、いい加減にやめてほしいと言いたい。
これまで何度もブログで主張してきたが、やっと憲法96条を改正できる可能性が現実的になりつつある。いまは、とりあえず96条を改正して憲法改正の発議要件のハードルを低くし、日本という国の在り方を国民が自ら決められるようにすることを最優先すべきだ。そうした状況を整備したうえで、日本が国際社会にどういう貢献をすべきかを国民に問い、国民が決める。そういうプロセスを作り上げるのが「政治の王道」ではないだろうか。
既成概念を捨てられる人でないと、読んでも無駄である。
が、日本が置かれている国際的環境(軍事的・経済的・その他もろもろ)の激変を真剣に憂い、私たちの子供や孫、さらに将来にわたって私たちの血を継承する未来の日本の国づくりを担ってもらわなければならない後継者たちのために、私たちは今何を成すべきかを真剣に考えておられる方には、ぜひいったん、自分の価値観や既成概念を白紙に戻して読んでいただきたい。
理解力については、前回のブログでも書いたが、台形の面積を公式を使わず計算できる論理的思考能力が基準である。次に既成概念を捨てるということは、現行憲法について「平和憲法」とお考えの方は、そうした考え方を捨てていただきたい。とくに「平和憲法が戦後の日本の平和を守ってきた」という「憲法神話」にとらわれている方は、その既成概念を捨てていただかないと、このブログを読むのは時間の無駄である。たとえば、NHKの元エグゼクティブアナウンサー(理事待遇)三宅民夫氏(現在は嘱託)の討論番組での発言(私はNHKに猛烈に抗議した)や、朝日新聞の論説委員の社説での表記にあるような無定見な「言葉遊び」がやめられない人には、はっきり言って「馬の耳に念仏」のブログだからだ。
私の考え方は、実はこれまでさんざん批判してきた読売新聞の主張に非常に近い。近いが、その短い距離の間に超えられない成層圏まで達するような高い壁がある。私が読売新聞に近寄ることは絶対にありえないので、読売新聞が私の思考方法を理解してフェアな主張をしてくれるようになることを期待するしかないと思っている。無駄な期待かもしれないが……。
私は新聞社が主張を変えることは構わないと思っている。状況が変われば、以前の主張を変える必要が生じるのは当然である。が、言論機関として「言論の自由」を主張するなら、いったん行った主張に対する責任も果たすべきだ。具体的には「いついつはこういう主張をしたが、その主張をしたのはこういう背景のもとでの主張だった。だが、現在は状況がこう変わり、前に主張したことは実行不可能になった。したがって主張をこう変える」と、読者に対する説明責任があるはずだ。読売新聞だけではないが、新聞はその説明責任を果たさずに、勝手に主張を変えている。それで「言論の自由」を声高に叫ぶ権利があると思っているのだからタチが悪い。
具体例を書く。野田民主党政権時代、野田首相が政治生命をかけたという「税
と社会保障の一体改革」を読売新聞は社説で支持したはずだ。ところが、安倍自公政権になって、安倍総理が消費税増税に消極的になった途端、主張をがらりと変えて「今消費税を増税すると、せっかく回復しつつある景気の腰を折りかねない」と増税反対論を打ち出した。消費税増税に代わる税収確保の提案もせずにだ。だから私は「政権与党にすり寄ることを社是にしている読売新聞」と決めつけているのである。
さて政権与党にすり寄ることを社是とする読売新聞は、いま全力を挙げて安倍総理の憲法解釈の見直しをバックアップしている。具体的には、これまで「集団的自衛権は固有の権利としてあるが、憲法の制約によって行使できない」としてきた政府解釈を見直して、「憲法解釈上も集団自衛権を認められるようにしよう」という安倍総理の考えを全面的に支持し、その理論的裏付けを試みている。それはそれで自由だが、捻じ曲げた印象を読者に与えかねないアンフェアな主張がしばしば見られることだ。
そのことはこのブログを読めば自明になるが、なぜ日本の「自衛隊」は「自衛軍」でもなければ「国防軍」でもないのか、という疑問から解明していこう。
憲法9条は、①「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」②「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある(一部省略)。
日本を占領下に置いたGHQは、マッカーサー総司令官の指示に背いて「自衛権まで否定するものではない」という考え方をしていたが、実際には自衛のための最小限の戦力すら完全に解体してしまい、事実上「否定しないはずの自衛権」を奪い、日本を丸裸にしてしまった。そのため、吉田首相は自衛権もないと国会で答弁している。そこに矛盾が生じなかったのは、当時日本は連合軍(実態はGHQ)の占領下にあり、GHQによって日本の安全が保障してきたからである。だから、自衛のための自前の戦力を解体されても、国連憲章51条が定めた固有の自衛権の一つである集団的自衛権の行使によって日本は安全地帯に置かれていたと考えるのが論理的であり、妥当な集団的自衛権解釈の第1歩である。安倍総理をはじめ政治家やジャーナリストには、この視点が完全に欠落している。
だから私は占領下において日本の主権がなかった時代に、形式上は日本政府がGHQの顔色をうかがいながら作成した憲法は、日本が独立を回復した時点で「無効」として、独立国としての尊厳を反映した憲法に改正しておくべきだったと何度も主張してきたのである。
が、どんなに愚痴を言っても死んだ子が生き返るわけではないので、「押し付
けられた」とか「日本政府が作成した」といった無意味な憲法論争はいい加減にやめて、現行憲法は独立国としての日本の尊厳が反映されているかという視点から見直せば、当然憲法を改正すべきだという結論に達するはずだ。この視点で改憲論を主張すれば、いわゆる「護憲勢力」も反論できまい。
そうした視点からの改憲論争を避けてきた(というより政治家の頭に浮かばなかった)ため、朝鮮戦争が始まって、それまで日本の防衛を肩代わりしてきた米軍が戦争に駆り出された結果、日本の安全(実際には外国からの侵略を防ぐためではなく国内の共産勢力の台頭を防ぐのが目的だった)を守るための「実力部隊」として警察予備隊を創設したという経緯がある。日本で猛烈な「赤狩り」が行われたのもこの時期である。その警察予備隊が自衛隊の母体になるのだが、「戦力の保持」を禁じてしまった憲法9条によって「自衛軍」あるいは「国防軍」という名称を付けることができなかったのである。自衛軍や国防軍の名称にすると、明らかに軍隊(つまり「戦力」)ということになり、憲法9条に抵触してしまう。そのため歴代政府は自衛隊は「戦力」ではなく「実力」だとへんてこりんな言い訳をしてきた。憲法9条と自衛隊の関係を前提にしないと、集団的自衛論は非論理的にならざるを得ないのは当然である。なのに、読売新聞はあえてこの問題に目をつぶり、集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更によって認めようという安倍総理の片棒を担いでいるのだ。これがあるべきジャーナリズムの姿勢なのか。私が「読売新聞はジャーナリズム失格」と烙印を押したのは、その故である。
私自身はこれまでも述べてきたように、まず憲法を改正して、国民主権のもとで新憲法を制定し、自衛のための固有の権利として自衛軍(あるいは国防軍)の保持を明記したうえで、自衛のための軍隊の行動を国民の意思によって規制することを定め(緊急時には政府が戒厳令を発布して政府の管理下で自衛のための軍隊の発動を許可し、事後に政府の決定について国民の意思を問う仕組みにする)、集団的自衛権については国連憲章51条の正確な理解に基づいたうえで、日本としての集団的自衛権行使の義務の範囲を明確に定める(この書き方にほとんどの読者は違和感を感じられるだろう。いや、違和感を感じてもらわないと困るのである。私がなぜこういう書き方をしたかはおいおいわかる)。
すでに私はブログで詳述したが、国連憲章51条は「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、(中略)個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」(邦訳)とあり、おそらく原文(英語だと思う)では「個別的」or「集団的」自衛の権利となっているはずだ。つまり「個別的」and「集団的」ではなく、どちらか一方の権利の行使しか認めていない。
なぜそういうおかしな表現になったのか。実は国連憲章は戦争を犯罪行為とみなし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対し武力攻撃が行われた場合は、自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国の軍隊に守ってもらう(これが「集団的自衛」の意味)権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的妥当性を有する。
そういう集団的自衛権を権利として国連憲章が認めた背景には、国際会議で承認された「永世中立宣言」国が非武装だったため他国から侵略され占領された過去があり、そうした悲劇を二度と繰り返さないため、個別的自衛力のない国を他国の攻撃から国連加盟国が共同で守ってあげようという意味なのである。つまり国連憲章が認めた集団的自衛権とは、同盟国や「日本と密接な関係にある国」(日本政府の定義)を、攻撃された国と一緒に守ることを意味するものではないのである。非武装や十分な「個別的」自衛の戦力を有していなかった場合に、他の国連加盟国に応援を頼める権利が集団的自衛権の本来の意味である。
国連憲章がなぜそういう権利を明記したかと言うと、いざというときに国連安保理の決定によって国際紛争を解決するための実力装置である「国連軍」の創設を前提にしていたからである。だから、国連憲章の真意は、個別の軍事同盟を認めず、国際紛争はすべて国連軍が解決することを最終的目的としていたためと考えられる。
だが、そんなに簡単に平和な国際社会をつくることは不可能である。国連憲章が理想としたのは、「帝国主義国家」が軍事同盟を口実に侵略戦争を繰り返した第1次世界大戦、第2次世界大戦への反省から、個別的軍事同盟に代わるものとして国連軍の創設を高らかにうたいあげたのだが、冷戦下で各国の利害が激しく対立する中で国連軍の創設は容易ではなく、いまだに創設されていない。日本の歴史を見ても、第1次世界大戦で、日英同盟を口実に参入し、アジア方面のドイツ軍と戦いドイツがアジアに持っていた権益を奪っている。
だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係が築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。
まず安倍総理自身がこの問題をごっちゃにしている。安倍総理は初めて総理になった2007年5月に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長は柳井俊二・元駐米大使)を首相官邸に設置した。同懇談会について、当時のマスコミはすべて(読売新聞も含め)首相の私的諮問機関(あるいは有識者会議)と位置付けた。当然である。この懇談会が「政府の有識者会議」(最近の読売新聞の位置づけ)であれば、当然政府与党の公明も認めたオフィシャルな機関で、そこが出した結論は相当高いレベルで政府の方針に影響を与える。たとえば現在政府の有識者会議である消費増税の是非を検討する集中点検会合は、
政府が主催しており、事務局は内閣官房が担当している。
なぜ読売新聞が政府に君臨するポジションに就いて、首相の私的に設置した機関を「政府の有識者会議」に格上げできたのかは知る由もないが、この懇談会を設置した理由について安倍首相(当時の)は「公海上での自衛隊艦船による米艦船擁護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」は「もし日本が助けなければ同盟はその瞬間に終わる」と述べている(なおこの安倍総理の発言を「引用」としてではなく、読売新聞は剽窃してあたかも自社独自の主張であるかのごとき社説を掲載した)。この発言はその通りだが、これは日米軍事同盟の不安定要素についての安倍首相の考えで、集団自衛権を解釈改憲で認めるか否かとは次元が違う話だ。
集団自衛権を行使する対象について日本政府は「同盟国及び日本と密接な関係にある国」と定義しているが、国連憲章によれば「国連加盟国」と明確に定義している。つまり、国連加盟国は「無法な侵害を受けている。助けてくれ」と、他の国連加盟国に要請する権利があり(これが集団的自衛権)、支援を要請された国連加盟国はその国を助ける義務(権利ではない)があるということを明確に述べている。それをあえて安倍首相も読売新聞も無視して、日本が集団的自衛権を解釈改憲で認めないと、日米関係が危うくなるかのごときの主張は「ためにする」以外の何物でもない。
そう解釈しなければ、国連憲章51条が定めた「自衛の権利」について、「個別的又は集団的」と二者択一的な表記で「固有の権利」を認めた理由の意味を理解できない(その点は、私が7月21日に投稿したブログ『参院選挙の自民大勝によって、憲法改正は実現に向けて大きな一歩を踏み出した』での主張に一部不十分な説明と主張をしたことを率直に認める)。つまり、日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが日本を防衛する義務を負っていることにより、すでに集団的自衛権を有しているのである。どうして日本の政治家やジャーナリストはここまで頭が悪いのか、私には理解できない。そこで、別の視点から日米安全保障条約について再考してみよう。
日本人のほとんどは日本とアメリカは同盟関係にあると思っている。とんでもない話だ。
アメリカ人(とくに政治家)は、日本との関係をどう見ているか、日本の政治家は黙して語らないし、マスコミもうすうす気づいていながら、あえてこの問題を正面から取り上げようとしてこなかった。
アメリカにとって最大の同盟国はイギリスである。米英の間にどういう条約
が締結されているか、私には知る由もないが、おそらく双務的な軍事同盟としての細かい約束事が盛り込まれているはずだ。だから湾岸戦争やイラク戦争にも、アメリカが直接他の国家によって不法に攻撃されたわけでもないのに、アメリカの報復行動にいち早く軍事的協力をしている。もちろんイギリスでも議会の承認を経て行っているはずだ。
日本は勝手にアメリカを同盟国と位置付けているが、アメリカは単なる友好国の一つ(ただし重要な友好国とみてくれているとは思うが)と位置付けているはずである。確かに日米安全保障条約は、日本が攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務があると書かれている。アメリカはその義務を負う代償として米軍基地を日本から無償で借り上げ、米兵士の宿舎をはじめ様々な施設を日本から無償で提供させ、さらに日本政府は「思いやり予算」などという屈辱的な財政的支援まで行っている。
が、日本の米軍基地の大半は、実は日本を防衛するためのものではない。首都圏周辺にもいくつかの基地が配備されてはいるが、これらの基地にどれだけ日本の首都を防衛できるだけの軍事的整備が行われているか、マスコミは報道しようとさえしない。私はかなり前だが、米軍の座間キャンプ内にあるゴルフ場でプレーしたことがあるが、軍事基地としての緊張感はまるで感じられなかった。はっきり言って米兵のための日本における保養地でしかない。
アメリカにとって最重要な軍事拠点は沖縄に配備されている基地群である。
もちろん沖縄を攻撃する外国があるとは考えられないし、沖縄を直接の攻撃目
標にしないまでも、沖縄方面から日本を攻撃する国もない。なのに、アメリカにとっては沖縄は最重要な軍事拠点なのである。
なぜか。東南アジアおよび東南海をアメリカの勢力圏に収め続けるためには、沖縄基地はグアムと並ぶ2大軍事拠点なのである。少し前までは韓国やフィリピンもアメリカにとって重要な軍事拠点だったが、両国民の反発が強く、両国に配備されていた基地は次々に撤去せざるを得ない状況になっている。当然アメリカの東南海方面における制空権・制海権は弱体化せざるをえなくなり、その間隙をぬって中国海軍が跳梁し始めており、アメリカにとって沖縄はグアムとともに最後の砦となっている。沖縄、とくに市街地周辺の米軍基地を撤去させることは沖縄県民の悲願だが、アメリカが頑として沖縄県民の要望を退けているのは、そういう事情が背景にあるからだ。
そもそも同盟というのは対等に双務的な関係にある国同士の結びつきである。現に米英との関係がそうであり、韓国も米英軍事同盟に近い同盟関係をアメリカと結んでいるが(だから韓国はベトナム戦争でも米軍に協力した)、韓国はアメリカにとって頼りにできるだけの軍事力を持っておらず、しかも韓国は自国の軍事力の大半を北朝鮮対策に割かざるを得ないという事情も抱えているため、沖縄の基地群の重要性はアメリカにとって増す一方である。かといって、さらに沖縄に基地を増設することは不可能であるため、オスプレイのようにまだ安全性が十分確保されていないにもかかわらず、最新鋭の兵器を配備することで沖縄基地の軍事的強化を図っているのである。
つまりアメリカは、日本防衛の集団的「自衛の義務」を負う代償として、アメリカの東南海地域の軍事的支配権を維持するために沖縄に米軍基地を集中配備しているのである。沖縄における様々な問題の根源は、すべてここに根拠があるのだ。
だから、沖縄の問題を解決するためには、現在の片務的関係にある安保条約を、双務的なものに改め、アメリカが不当な侵害を受けた場合は日本軍(あえて「日本軍」と書く)が米軍に協力して、アメリカ防衛の義務を負うという対等な条約に改正すれば、沖縄の問題も含め、すべて解決する。
そのためには、やはり「憲法9条」の矛盾を解決しなければならない。解釈改憲で、実際には諸外国からすでに「軍隊」とみなされており、また「軍隊」と呼ぶにふさわしい軍事力を有しながら、「戦力の保持」を禁じた憲法9条に拘束されて、自衛隊といった意味不明な名称を捨てられず、さらにより意味不明な「実力」という定義を自衛隊に付けるという、独立国家としての尊厳すら放棄した状況で、さらに解釈改憲で、すでに保有していることが明らかな「集団的自衛権」を認めることにしようなどという姑息な政治手法は、いい加減にやめてほしいと言いたい。
これまで何度もブログで主張してきたが、やっと憲法96条を改正できる可能性が現実的になりつつある。いまは、とりあえず96条を改正して憲法改正の発議要件のハードルを低くし、日本という国の在り方を国民が自ら決められるようにすることを最優先すべきだ。そうした状況を整備したうえで、日本が国際社会にどういう貢献をすべきかを国民に問い、国民が決める。そういうプロセスを作り上げるのが「政治の王道」ではないだろうか。