小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ③

2016-11-27 11:24:39 | Weblog
 自民改憲草案に対する批判を続ける。今回も9条「改悪」に絞って検証する。正直前回のブログは中途半端な終わり方だった。私のブログは長文なので、しばしば友人たちからクレームを付けられていた。とりわけ9月1日と10日の2回に分けて書いた『アベノミクスはなぜ失敗したのか?』は全文で2万字を超えており、雑誌に掲載すれば20ページを超える長文だった。そのため、友人たちから「疲れる」という指摘をいただき、11月21日に投稿した憲法改正問題の検証記事は6000字を超えた時点でストップした。実はこの原稿はすでに21日前に書き終えており、前回ブログの閲覧者の増減状態を見ながら投稿することにした。そのため、前回ブログを読まれた方はやや消化不良を生じたかもしれない。

 前回のブログで私が検証した事実の一つを想起していただきたい。第2次世界大戦後、国連を中心とした国際平和秩序がそれなりに構築され、第1次世界大戦、第2次世界大戦で列強同士が激しく争った「植民地獲得競争」は、ほぼ完全に終焉した。唯一現代の国際社会で「侵略戦争」を行ったのはフセイン・イラク軍によるクウェート侵攻だけである。この事実を認めない人は、日本の平和についても憲法についても語る資格がない。
 そして「湾岸戦争」の発端となったイラクのクウェート侵攻は世界に激震を生じた。クウェートは国連に提訴し、「国連軍」がまだ創設されていなかったため「多国籍軍」と称する事実上の「安保理によるイラクへの軍事制裁」が発動された。
 第2次世界大戦以降の、国際間の紛争は、アメリカの妄想によるイラク戦争(フセイン・イラクが大量の核兵器・生物化学兵器を隠し持っている、という妄想)と、イスラム過激派が起こした9・11同時多発テロを契機にアフガニスタンを事実上制していたタリバン政権による「国家によるアメリカへの攻撃」と、これまたアメリカが確たる根拠もなくタリバン勢力を攻撃したケースのみである。
 アメリカが世界中で最も信頼している同盟国のイギリスは、アメリカの要請を受けてイラク戦争に参加したが、イラクは核兵器も生物化学兵器も隠し持っていなかったことが戦後明らかにされ、イギリス政府は国民から猛烈な批判を浴び、それ以降イギリスはアメリカにも距離を1歩置くようになった。
 これらのケース以外に国際間の紛争は、戦後一度も生じていない。この重要な事実を事実として認めるか否かが、憲法改正問題についてのスタンスを決定づける。
 しかし、戦後、国際間の紛争は上記したケース以外に生じていないが、同盟国や親密な関係がある国の国内紛争に、アメリカや旧ソ連が傀儡政権を助けるために軍事介入したケースは多々ある。アメリカが他国の内戦に傀儡政権を支援するために軍事介入し、結果的に日本独立のきっかけとなった「朝鮮戦争」やベトナムの国内紛争に軍事介入して世界から非難を浴びた「ベトナム戦争」、ハンガリーの反政府運動やチェコのプラハの春を戦車で押しつぶした旧ソ連は、明らかに内政干渉であり、国連憲章51条が認めた「集団的自衛権」などではまったくありえない。
 そうした観点から考えれば、国連憲章51条が定めた「集団的自衛権」を行使したのは、フセイン・イラク軍に侵攻されて、国連安保理に救済を求めたクウェートだけである。
 国連憲章は、国連加盟国に対し「国際間の紛争の平和的解決」を義務付けており、もし加盟国が他国から侵略を受けた場合は国連安保理があらゆる権能(非軍事的および軍事的)の発動を認めており、他国から侵略された加盟国は国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って「個別的又は集団的自衛権」の発動を憲章51条で認めている。
 にもかかわらず、同盟国の傀儡政権を「他国からの攻撃ではなく、国内の反政府勢力からの攻撃」から軍事的に守るために行った行為(国連憲章のいかなる条文も認めていない内政干渉)を正当化するために米・旧ソ連が強引に主張してきたのが「集団的自衛権の行使」という屁理屈にもならない口実による軍事介入だった。そしてアメリカの傀儡政権である日本の自民党を中心とした勢力が、内閣法制局の公式見解として定義したのが「同盟国や親密な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして同盟国や親密な関係にある国を軍事的に支援する集団的自衛権を、日本も固有の権利として有しているが、憲法の制約上行使できない」というデタラメ解釈をしてきたのである。
 改めて再確認しておくが、戦後「集団的自衛権」を行使したのは、フセイン・イラク軍の侵攻を受けたクウェートだけである。「個別的」(自国の軍事力、日本の場合は自衛隊)であるにせよ、「集団的」(密接な関係にある他国の軍事力、日本の場合は在日米軍)であるにせよ、日本が他国から攻撃された場合にのみ行使できる「自衛のための軍事行動」である。だから国連憲章は、自衛権を発動する条件として「国連安保理が紛争を解決するまでの間」に限っている。

 が、安倍内閣が閣議決定し、衆院・参院で強行採決した安保法制は、単に従来の内閣法制局のデタラメ解釈を変更しただけでなく、日本政府の勝手な判断で密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、その国からの要請がなくても軍事行動ができることにした。「戦争法案」と言われる所以はそこにある。安保法制による「武力行使(個別的及び集団的)の新三要件」を明らかにしておこう。
 ①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。
 ②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと。
 ③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。
 この「武力行使の三要件」について、いざというとき誰が判断するのか。まさか最新鋭の人工知能を擁したロボットではあるまい。ということは、時の内閣と総理大臣が判断することになるのは自明である。たとえば①の前半部分は自明であるとしても後半部分の「我が国の存立が脅かされ…明白な危険があること」に恣意的な判断が入り込む余地がないとは言い切れない。②においても「他に適当な手段がないこと」は誰がどうやって証明するのか。③の実力行使を行う場合も、誰が武力行使の「必要最小限度」の範囲を決めるのか。

 憲法改正の気運が国民の間で定着しだしたことを、これ幸いと安倍総理は自民党の党則を変更してまで総裁任期を3年延長し、自らの手で何が何でも憲法を改正しようとしている。
 確かに現行憲法は現実とそぐわない部分もある。たとえば「主権在民」と言っても、現行憲法自体、帝国議会で成立され、日本が独立を回復したのちも国民の審判を仰いでいない。
 国権と地方自治権の関係も明確ではない。柏崎刈羽原発の再稼働を巡って再稼働に反対の元民進党で無所属の米山隆一氏が新潟知事選で勝利したとき、菅官房長官は「県民の意思は尊重しなければならない」と記者会見で述べた。(もっとも地元の柏崎市長選挙では容認派が勝利し、原発再稼働を巡って県と市でねじれが生じたが)
 一方、沖縄では県知事選、那覇市長選、衆参国政選挙のすべてで普天間基地の辺野古移設反対派が勝利を収めている。なのに、政府はアメリカとの約束のほうが県民の総意より優先すると考えている。
 実は「辺野古移設をためらうな」と主張している読売新聞読者センターの方と議論したことがある。論点は二つに絞られた。
 一つは日本の安全保障の観点である。普天間基地が世界一危険な基地であることについては政府も認めているくらいだから、問題にもならなかった。問題になったのは、果たして辺野古基地は「日本の安全保障のためなのか」それとも「アメリカの東・南シナ海ににらみを利かせ、中国の海洋進出に対する抑止力のためなのか」という点だった。私が論点をそう絞ると読売新聞読者センターの方はしぶしぶ「両方の目的があるんでしょうね」と言った。私が、本土からはるかに離れた沖縄の米軍基地が、なぜ日本の安全保障にとって欠かせないのか、と問い詰めると黙ってしまった。
 もう一つは「総意」を巡っての解釈だった。読売新聞読者センターの方は「沖縄県民のすべてが米軍基地に反対しているわけではない」と主張した。私も沖縄県民のすべてが米軍基地に反対しているわけではないことくらい承知だ。基地で働いている人や、在日米兵を相手に商売している人たちにとっては基地がなくなることは自分たちの生活を直撃する。そういう人たちにとっては基地がなくなることは困るに決まっている。が、今の沖縄では、そういう人たちが声を出せないことも理解できる。政治は、そのために機能しなければならない。
 民主主義という政治のシステムは「多数決原理」という大きな欠陥を抱えているが、一歩後退二歩前進あるいは一歩前進二歩後退を繰り返しながら、2000年以上の歴史を経て人類は蟻の歩みではあっても民主主義の政治システムを少しずつ成熟させてきた。その歩みを一気に後退させようというのが安倍改憲の意味するものだ。自民改憲草案の検証を続ける。

 前回の検証記事でも述べたが9条はその1条だけで憲法の第2章をなしている。その章目次が現行憲法の「戦争の放棄」から「安全保障」に変更されている。「安全保障」のためなら戦争するよ、ということだ。さらに9条は3つに分けられ、「第9条(平和主義)」「第9条の2(国防軍)」「第9条の3(領土等の保全等)」とされた。
 第9条の1項は現行憲法1項をほぼ踏襲しているかに見えるが、微妙に改ざんされている。現行憲法では「(武力行使は)国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とされているのを「(武力行使は)国際紛争を解決する手段としては用いない」と書き変えている。つまり、私の頭の悪さを証明しているのかもしれないが、「国際紛争の解決」以外の目的なら武力行使もいとわないと読める。どういうケースを想定しているのかは、不明だ。
 さらに現行憲法の2項は完全に削除され、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と書き変えられている。自衛権は、すでに明らかにしたように我が国が他国から侵略された場合にのみ行使できる権利であり(国連憲章51条の規定)、自衛権を発動せざるを得ないケースはずばり「国際紛争を解決するため」ではないのか。明らかに自民草案は1項と2項で矛盾をきたしている。それとも私の頭が悪すぎるのか?

 自民草案の「第9条の2(国防軍)」に移る。この条文は、明白にこれまでの自衛隊の矛盾を解決することを目的としている。現行憲法は「戦力の保持」を禁じており、そのため自衛隊は「戦力」ではなく「実力」だという苦しい規定をしてきた。「戦力」ではないのだから、当然自衛隊は「武力行使」ができないことになっている。たとえばPKO(国連平和維持活動)に自衛隊が参加する場合も護身用の軽武器しか持つことが許されなかった。いま問題になっている南スーダンでの「駆けつけ警護」は、現に戦闘状態にある地域の邦人などを助け出すために自衛隊員が駆けつけることを意味しており、軽武器では不可能な任務になる。戦車などの重兵器は想定していないが、護身用ではなく攻撃用の武器が必要になる。国民的議論を経ずして、そこまで現行憲法下で踏み込んでもいいのか。良し悪しはともかく、安保法制を可決したからといって現行憲法の枠組みを閣議決定だけでそんなに簡単に変えてよいものなのか。
 自民草案の9条の2ノ3項で「国防軍の武力行使の範囲」が定められている。
「国防軍は、第1項に規定する任務(我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保すること)を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協力して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」とされている。ここでの問題は「国連安保理の要請」という絶対に外してはならない前提を意図的に無視していることだ。つまり、アメリカの要請にも、時の内閣が「国際社会の平和と安全を確保するため」と解釈すれば、たとえばイラク戦争のようなケースにも「国防軍」が「国際協力」の名のもとに参加できる余地を作ったことである。「戦争法案」の骨子となる条項がここに記載されている。安倍総理がいち早く、この改憲草案を手土産にトランプ次期大統領と面談し、良好な関係を築けた事情がここに隠されている。

 最後に第9条の3(領土等の保全等)を検証する。9条の2に比して極めて単純で明快だ。が、その目的のために安倍総理は領土奪還の戦争を始めるつもりなのか。とりあえず条文を転記する。
「国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」
 一見、日本の正当な権利の確保を訴えているように思えるが、現に韓国に実効支配されている「竹島」をどうするのか。また旧ソ連に不法占拠され、今もロシアに実効支配され続けている日本固有の領土である「北方四島」問題をどう解決するつもりなのか。
 従来日本は領土問題は平和的に解決することを目指し、水面下も含めて外交ルートや首脳会談を重ねてきた。が、「領土等の保全等」の条項が憲法第2章『安全保障』の中に含まれ、かつ9条の2「国防軍」の規定に続いて規定されていることに、私は大きな危惧を覚えざるを得ない。しかも「国民と協力して」とされていることは先の大戦で一般国民(女性も含めて)も巻き込んだ歴史的事実をほうふつさせるものがある。私の杞憂にすぎなければいいのだが…。

 憲法9条についての自民改憲草案の検証は、とりあえずこれで終える。
 しかし安倍政権による憲法改悪は、9条にとどまらない。現行憲法が世界に優れて理想を高々と掲げているのは9条に象徴される「平和主義」だけではない。「主権在民」「基本的人権の保障」を含む三大原則が踏みにじられようともしている。先に述べたように、「国権」と「地方自治権」の関係など現実社会が生み出している矛盾を現行憲法が抱えていることも事実だ。
 果たして自民改憲草案は、そうした問題にどう対応しようとしているのか。この検証作業は今後も続ける。

憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ②

2016-11-21 01:14:49 | Weblog
 自民党改憲草案検証の続きを書く。すでに衆院・参院で憲法審査の特別委員会がスタートした。民進党も自民党の改憲草案に対する個別的な対案を出すことにしたようだ。現実的に蓮舫・野田執行部が党内をまとめきれるかどうか疑問は残るが、いちおう党として自公に対決する姿勢を固めたようだ。前回のブログで現行憲法9条は記載したので、まず自民党改憲草案の9条を記載する。

第9条(平和主義)
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
第9条の2(国防軍)
1 わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮者とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第1項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協力して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制および機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
第9条の3(領土等の保全等)
国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

 まず多くの国民が抱くであろう印象は、自民党改憲草案は現行憲法に比してえらく細かくしたな、ではないだろうか。最大限、善意に解釈して「解釈改憲」の余地を極力排するためと受け取れないこともないが、本音は「国防軍」なる軍隊が武力行使をできるケースを細かく定めることによって、現行憲法の「解釈変更によって自衛隊が行使可能にした武力行為の範囲(限界)」をさらに拡大することに、安倍自民党の改憲目的があると考えるのが文理的解釈だろう。
 そのことはおいおい検証していくが、その前提として読者の方たちにご理解していただいておきたいことがある。
 現行日本国憲法9条は、『前文』『第1章(天皇)1~8条』に次ぐ『第2章』に記載されている。そして第2章は9条の一カ条のみである。自民の改憲草案も第2章は9条の一カ条のみだ。つまり日本国憲法の三大原則の一つとされている「平和主義」に関する記載は、前文と第2章9条のみである。そのことを前提に自民党改憲草案を読む必要がある。
 まず現行憲法との大きな違いは第2章のタイトルに反映されている。
 現行憲法第2章のタイトルは『戦争の放棄』である。
 一方自民党改憲草案の第2章タイトルは『安全保障』と改ざんされている。
 つまり、安全保障のためなら、戦争してもいいよ、というわけだ。そして戦争するためには、単なる「実力」にすぎない自衛隊を『国防軍』なる「戦力」に改組しようというのが自民草案の最大の目的である。もちろん『国防軍』は専守防衛のための「実力」ではなく、「安全保障」を口実にした攻撃可能な「戦力」に変えることを意味する。
 私は現行憲法の一部が今日では非現実的であることは、認める。この連載ブログの①でも明らかにしたが、現行憲法は日本が主権国家ではない占領下で、かつ国民の審判を仰がずに国会での審議だけで制定されたものであり、現行憲法の3大原則のひとつである「国民主権」が無視された憲法の制定だったことは否定できない。
 そういう意味では日本という国の在りようを、国民自らが選択できる憲法に改正することは大切なことだと思っている。
 とりわけマッカーサーが、巨大国家アメリカを相手に国民が全滅してでも対米戦争を続けようとした日本の軍部と、その軍部の言いなりになっていたメディア、さらにメディアの報道を信じて現在のIS(「イスラム国」)のような精神状態にあった日本人と日本を、二度と戦争が出来ないようにしようとした占領政策は、やむを得ない選択だったかもしれない。実際、日本が降伏した直後に厚木飛行場に降り立ったマッカーサーが発した第一声は「日本人は12歳の子供と同じだ」だった。
 そんな、かつての日本に戻ることは、たとえ安倍総理が望んでも絶対に不可能だ。では、なぜ安倍総理は改憲に自らの政治生命を賭すのか?
 実は、今世紀に入って以降、日本人の憲法観は少しずつ変化しつつあった。護憲勢力の中心だった社会党が分裂して、かなりの旧社会党議員が保守勢力の一翼として誕生した旧民主党に呑み込まれ、護憲派のよりどころがなくなったことも原因して、現実社会に合うよう憲法を改正することによって、これ以上の解釈改憲ができないよう権力に縛りをかけた方が現実的だ、と考える人たちが増えだしたのである。そうした国民の意識の変化を見て自民党が改憲のチャンスが到来したと考えたのは、ある意味当然だった。
 実際、1955年に自由党と日本民主党が合併して(保守合同)自民党(正式名:自由民主党)が誕生して以来、憲法改正は党是になっていた。が、憲法改正には国民の反発が強く、改憲の党是は事実上棚上げ状態が続いていた。が、国民の意識が少しずつ変化してきたのをチャンスととらえた自民党の強硬派が作ったのが自民の改憲草案である(公表は2012年4月)。
 が、国民の意識は各メディアの世論調査によれば、かなりぶれだしている。憲法論議そのものには「賛成」派が過半数を超える一方、9条の変更には「反対」派が60%近くを占めている。とりわけ安倍政権下での改憲には多くの国民が疑念を抱いており、右寄りのメディアであるフジテレビと産経新聞の共同世論調査でも「安倍政権下での改憲」には55%が反対している。大多数の憲法学者が「違憲」と判断している安保法制を強行成立させた、安倍政権による憲法改正に対する危惧が国民の間で根強いことを意味している。

 では自民改憲草案の具体的検証に移る。今回は9条に絞る。すでに9条だけで成り立っている憲法第2章のタイトル(見出し)が現行憲法の『戦争放棄』から『安全保障』に改ざんされていることは書いた。
 次に大きな特徴は現行憲法9条の第2項をすべて削除し、書き換えたことだ。改めて現行憲法9条第2項を記しておく。
「前項の目的(国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」
 この規定を削除して自民草案は「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」とした。この連載ブログの1回目(10月31日投稿)で明らかにしたが、当時の吉田茂首相は共産党・野坂参三議員の「戦争一般放棄とすべきではなく、防衛戦争は認めるべきだ」との質問(要旨)に対して「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」と答弁している。
 この吉田答弁は、連合国(事実上アメリカ)の占領下において日本の安全保障義務を当時はアメリカが負っており、日本としては経済再建を最優先すべきだという吉田首相の基本的考えに基づいており、吉田首相自身は「日本丸裸」主義者ではなかった。実際、吉田氏は総理引退後に書いた自叙伝『大磯随想・世界と日本』で「日本が経済力においても技術力においても世界の一流国と伍していけるようになったこんにち、日本の安全保障をいつまでも他国に頼ったままでいいのか」と記している。

 ちょっと話が横道にそれるようだが、しばしば主要な駅頭で「憲法9条が日本の平和をまもってきた」と主張する護憲団体がある。本当にそうか。もし彼らが言うように「憲法9条が日本の平和を守れるなら、日本の法律が犯罪を防いだか?」と問いたい。それが事実なら、日本に警察は要らないことになる。
 が、「アメリカの核の傘が日本の平和を守ってきた」「日米安保条約が日本の平和を守ってきた」「在日米軍が日本の平和を守ってきた」といった類の「神話」にも私は与さない。
 戦後、日本が平和だった本当の理由はこうだ。
 第2次大戦後、世界で侵略戦争は1回しかなかった。湾岸戦争の発端になったフセイン・イラク軍によるクウェート侵攻だ。イラク側にもそれなりの「正当な理由」があったのだが、そのことについては触れない。横道にそれすぎるからだ。
 第2次大戦後、国連が発足して今や世界の大半の国が国連に加盟している。国連の憲法とでもいうべき国連憲章は、国際間の紛争について、加盟国すべてに武力での解決を禁じている。もし侵略戦争を始める国があったら国連安保理が侵略を阻止するあらゆる権能を有しており、また侵略を受けた国は安保理が紛争を解決するまでの間、「個別的又は集団的自衛の権利」を行使することを認めている。
 第1次および第2次世界大戦の結果として国連が発足し、国際間の紛争もフセイン・イラク軍のクウェート侵攻以外、皆無になった。つまり、植民地主義はもはや過去のものとなった。日本が戦後平和でいられたのは、国際社会の劇的変化による。
 おそらく、日本が自衛隊を解散して、米軍基地をすべて撤廃しても、日本を攻撃する国は皆無であろう。ただし、尖閣諸島は中国に実効支配される可能性はある。
 北方領土問題にしても、私たち日本人にとっては旧ソ連軍による不法占領だが、では日本の「同盟国」であるはずのアメリカがロシアに対し「北方四島は日本固有の領土であり、日本に返すべきだ」と、一度でも言ってくれたことがあるか。安倍政権が安保法制を成立させたことに対してオバマ大統領が「尖閣諸島は日米安保条約5条の範疇だ」とリップ・サービスしてくれたが、公式文書になっていない一大統領のリップ・サービスなど、もうすでに反故になっていることを私たち日本人は肝に銘じておくべきだ。現に次期大統領のトランプ氏は選挙中の公約を次々に反故にしている。
 
 しかし旧ソ連の崩壊による冷戦時代の終結は国際社会に、国連憲章が想定していなかった新しいリスクを生むことになる。民族紛争と、宗教対立が原因のテロ行為の活発化である。
 冷戦時代には旧ソ連の支配下で共産党一党独裁体制により民族対立が抑えられてきた東欧諸国で、民主化に伴う民族紛争が一気に火を噴いた。チェコスロバキアはチェコとスロバキアに分裂し、ユーゴスラビアに至ってはスロベニア、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボの6国に分裂した。チェコスロバキアの場合は平和的に分裂したが、ユーゴスラビアの場合は血で血を洗う争いによって分裂した。一方、ドイツのように西と東が平和的に民族統一を成し遂げたケースもある。現在でもウクライナで民族紛争が勃発し、ロシア系民族が多数を占めていたクリミア自治共和国が国民投票でいったん分離独立したのち、ロシアに編入した。東部2州でもロシア系民族がウクライナからの分離独立を目指して政府軍との間で戦争状態が続いている。
 さらに、これは冷戦終結とは直接の関係はないと思われるがイスラム過激派がテロ集団と化し、パキスタンのイスラム過激派タリバンが米貿易センタービル2棟にジェット機2機で自爆体当たりテロを行った。またアメリカが勝手に行ったイラク戦争でフセインは殺害したものの、結果的に無政府状態になったイラクでアルカイダ系のスンニ派過激主義者集団が勢力を拡大し、さらにシリア内戦に介入してISと改称しイスラム国樹立を宣言、シーア派市民を狙った無差別テロを繰り返している。
 こうした冷戦後の国際紛争に日本が巻き込まれる可能性があるか、と考えれば、仮に日本が非武装状態になっても戦争に巻き込まれる可能性は天文学的確率であろう。安倍政権ががなり立てている「日本を取り巻く安全保障状況が劇的に変化した」などというたわごとは、それこそ「為にする口実」でしかない。
 が、残念ながら国際社会環境が第2次世界大戦後、劇的に変化したといっても自国の軍事力が最大の外交手段であるという状況には変化がない。事実上、核兵器の使用など不可能ということは世界の常識であるにもかかわらず、米ロ中は核の力に頼った覇権主義を捨てようとしないし、アメリカから「悪の枢軸」「テロ国家」と名指して非難された北朝鮮が挑発に乗ったふりをして使えもしない核に国の総力を挙げているのも、そうした事情による。(続く)

緊急提言:米大統領選の大番狂わせはなぜ生じたのか?--メディアが理解していないアメリカの選挙事情

2016-11-13 12:19:21 | Weblog
 11月9日に投稿したブログ『電通がなぜ?……「超一流企業」がブラック化した理由』の訪問者・閲覧者が毎日増え続けている状況だが、どうしても緊急に投稿しなければならない事情が生じた。米大統領選の結果を巡って世界中に大混乱が生じているからだ。

 米大統領選で、なぜ大番狂わせが生じたのか。
 残念ながら日本のメディアも政治・外交評論家もまったく分かっていない。12日の『NHKスペシャル』では「隠れトランプ」の存在をつかめなかったと分析し、13日のTBS『サンデー』は放送時間を大幅に延長して「ポピュリズムの浸透」と総括した。見当はずれもいいところ、と言いたい。
 トランプ氏の選挙戦術は、確かにメディアや既存の政治家の意表をつくものだった。「きわめて巧みだった」と言えなくもない。ことさらに挑発的言動を繰り返し(メディアは「暴言王」と評したが)、既存の権威に立ち向かった。最初は「何をバカバカしいことを言っているのだ」と米国民の多くもそう受け取っていたはずだ。が、「ウソも100回つけば信じて貰える」という格言もある。繰り返し繰り返しトランプ氏の挑発的言動(ネガティブ・キャンペーン)を耳にした米国民の中に、「本当にそうかもしれない」という思いが生じ始めたのが、雪崩現象的なトランプ勝利の要因の一つであろう。

 が、決定的な要因は、これだ。
 問題はアメリカの選挙制度にある。アメリカは大半の州で選挙人(民主党または共和党の大統領候補に票を投じる権利を持つ人)の総取り制である。たとえば「この州を制する候補が大統領になる」という神話が定着しているほどの激戦区・オハイオ州の選挙人は18人。全米の選挙人総数は538人で、過半数は270人。オハイオ州の選挙人は勝利に必要な270人のわずか6.6%にすぎない。なのに、なぜオハイオ州がそれほど重要な地位を占めているのか。そのことを理解しているジャーナリストや政治・外交評論家は一人もいない。
 おっと、私だけは理解しているが…。
 実はオハイオ州は地政学的にきわめて重要な地位を占めている。アメリカ本土だけでも東海岸と西海岸では3時間の時差があり、オハイオ州は東海岸と1時間の時差がある。アメリカでも大半の州はそれぞれの州の標準時で午前8時から投票が行われるが、なかには午前0時から投票が行われる州もある。
 一般的に民主党は東海岸に面した州と西海岸に面した州に強く、共和党はその中間に位置している州に強いとされてきた。日本のように時差がなく、全国一斉に同時刻の投開票が行われる国と違って、アメリカは標準時の差により東海岸から順次投開票が行われる。
 日本の選挙もそうだが、メディアは投票を済ませた人から「だれに投票したか」を聞く。いわゆる「出口調査」である。そのため日本ではメディアが『選挙特番』では午後8時の開票開始時点で、バタバタと「当確者」を発表する。もちろん開票率ゼロなのにだ。それはアメリカでも同様で、東海岸に面した州の開票結果を開票率ゼロの時点で各メディアは発表する。その報道が有権者の投票行動に大きな影響を与えるのが、実は民主党支持層と共和党支持層が拮抗しているオハイオ州なのである。つまりアナウンス効果が最初に大きく発揮される州なのである。そしてオハイオ州の開票報道が次々に他の州の有権者の投票行動に反映していく。「オハイオ州を制したものが大統領になる」という神話はこうして定着するようになったのである。そのオハイオ州をトランプ氏が制した。流れが一気に加速したのはそのためだ。
 実際、全米の有権者の投票総数はヒラリー氏のほうがトランプ氏より上回っていたが、選挙人総取り制(「ドント方式」という)によってトランプ氏が獲得した選挙人のほうがヒラリー氏を上回ったため、トランプ氏が次期大統領になれたというわけだ。

 トランプ氏は周知のように政治経験がまったくない。彼はなぜ共和党から出馬しようとしたのか。はっきり言えば民主党から出馬しても、知名度や政治経験豊富なヒラリー氏に勝ち目がないからにすぎなかった。実際、彼の党員歴を見ればそのことが分かる。
① 1989~1999 共和党
② 1999~2001 アメリカ合衆国改革党
③ 2001~2009 民主党
④ 2009~2011 共和党
⑤ 短期間だが、どの政党にも所属していない。おそらく、この時期大統領候補に名乗りを上げるにはどの党を選ぶべきかを考えていたと思われる。
⑥ 2012~現在 共和党
 そうした経歴から、トランプ氏はどういう選挙戦術をとれば共和党の大統領候補になれ、共和党の大統領候補になった場合、どういう選挙戦術をとればヒラリー氏に勝てるかを必死に考えたと思う。
 その結果、彼が考え出したのが、民主党の選挙基盤を根こそぎ自分の味方にすることだった。そこにビジネスマンとして大成功を収めた経験が生かされたのだろう。
 日本ではビジネス社会でも競争相手に対するネガティブ・キャンペーンはかえって消費者に不愉快な思いをさせるケースが多く、ネガティブ・キャンペーンはほとんど行われない。私が知っている限り日産が新型サニーを売り出した時、トヨタのカローラを念頭に置いて(つまり名指しはせず)「隣の車が小さく見えます」というネガティブ・キャンペーンを行ったのが唯一のケースではなかったかと思う。
 が、アメリカではビジネス社会でのネガティブ・キャンペーンの張り合いは日常茶飯事であり、トランプ氏もその手法でビジネスを成功させてきたのではないか。
 が、選挙人獲得競争で、トランプ氏は多分自分でも予想していなかったほどの地滑り的勝利を収めてしまった。だが、ビジネス社会と違って大統領選挙におけるネガティブ・キャンペーンは有権者に対する公約でもある。大統領になった途端、トランプ氏は「君子、豹変す」でネガティブ・キャンペーンの公約を次々に修正し始めた。
 トランプ氏が大統領になった途端全米の大都市で「反トランプ」デモが爆発的に生じたからではない。もともとトランプ氏のネガティブ・キャンペーンは単なるビジネス的手法にすぎなかったが、国民に対する約束であることに、トランプ氏がようやく気が付いたためだ。
 そうなると、トランプ氏は、国民とくにトランプ氏の選挙人に票を投じた有権者に対する裏切り行為を行ったことになる。既に民主党の大きな選挙基盤であり、選挙人もアメリカ最大の55人を擁するカリフォルニア州では、アメリカ合衆国からの離脱運動が始まっており、ネットで「ドナルド・トランプ」を検索すると早くも「暗殺」という項目が出ているほどだ。
 言っておくが、もしトランプ氏を暗殺するとしたら、それはヒラリー氏の支持者ではなく、トランプ氏を支持した有権者だ。
 

電通がなぜ?……「超一流企業」がブラック化した理由

2016-11-09 08:17:38 | Weblog
 自民党改憲草案の検証(続編)は次回に延ばす。今回は日本最大の広告代理店で、文系大学生の就職希望先でもトップクラスを誇ってきた電通が、実は「ブラック企業」だったことが明らかになり、メディアも大々的に報じているので、その背景を検証することにした。なおこのブログ記事は、かつて労働組合で活動されていたI氏からアドバイスを受けたことを明らかにしておく。

 11月2日のNHK『クローズアップ現代+』を見た。「隠れブラック企業の実
態に迫る」というタイトルだったが、残念ながら「隠れブラック企業」の経営者の責任を問おうとする内容ではなかった。現場責任者が成績を上げるために残業記録を改ざんし、実際の勤務時間を法定内に抑えるよう従業員に強制していたという内容に終始していた。そうした現場の勤務実態を知らなかったとしたら、そもそも経営者としての資格がないという視点が番組にはなかった。
そもそも時間外勤務(サービス残業を含む)が常態化した時期は二段階に分けられる。
 最初は日本が高度経済成長を続けていた時代、自動車産業や電機産業は工場の24時間フル稼働を行っていた。が、正規社員が24時間フル勤務するようなことはありえなかった。正規社員はシフト制で、過重労働にならないように会社も配慮していた。当時のタイムカードは絶対であり、会社もごまかすような事は出来なかった。にもかかわらず24時間フル稼働が可能になったのはおもに農村からの出稼ぎ労働者(季節労働者)の存在があったからだ。
 が、当時は大家族制が一般で、家長は出稼ぎで稼いだ金を農村地帯に住む家族に仕送りして一家の生活を支えてきた。
 が、1960~70年代にかけて家族形態が大きく変貌する。日本だけでなく先進国はすべて核家族化への道を歩みだした。さらに日本では(他の先進国の実態は知らないので)若者たちの高学歴化が急速に進みだした。男性だけでなく、女性の高学歴化も急速に進んだ。
 その理由は簡単だ。核家族化によって自分たちの子供の世話を、大家族時代と違って父母(子供たちにとっては祖父母)に委ねることが出来なくなったからだ。私は1940年の生まれ(昭和15年)だが、結婚と同時に実家から離れて自分の家庭をつくった。
 すでに女性の高学歴化は始まっていたのだが、私が結婚した時代はまだ「女性は結婚すれば専業主婦になる」という社会的慣習が続いていて、妻は仕事をやめて専業主婦になった。当時は高度経済成長時代でもあり、亭主の稼ぎで十分家庭生活を維持できる状況でもあった。
 が、核家族化とともに個々人の生活スタイルも大きく変貌し始めた。高学歴の女性は子育てが終わると、自分の生きがいとして自分の能力が発揮できる仕事や趣味をやりたいと考えるようになった。
 また社会も大きく変化するようになった。そのころすでに少子化が始まっており、「寿退社」は会社にとっても有能な女性社員を失うことになることに気付き始めたのだ。こうして女性の出産・子育て後の社会復帰が緊急の課題となった。が、女性も社会復帰はしたいけれど、子育ても放棄できない。保育園に対する母親のニーズが急速に高まったのはそのせいだ。
 私の妻は二人の子供を、何の疑問も持たずに幼稚園に入園させた。私も妻に仕事をさせようなどと考えたことがなかったから、妻が選んだ幼稚園に子供を通わせることにした。が、子供たちが小学生に入るころになると、妻は自分の生きがいを家庭外に求めるようになった。仕事もそうだったし、ママ友たちとの交流からテニスや華道、お茶、はてはダンスまで趣味の範囲を広げていった。その時代は、まだ結婚した女性にとって仕事の場はスーパーのレジ係くらいしかなかったためでもある。
 そういう時代は終わった。企業が本気で能力のある女性を結婚・出産後も重要な仕事に復帰してもらいたいと考えるようになったからだ。
 そうなった理由はいくつか考えられるが、はっきり言ってIT技術は男性より女性のほうが適している。医者でも、外科手術や歯科医などは手先が器用な女性の方が有利ではないかと思う。だいいち、外科医や歯科医に頭の良さはあまり関係ない。実際山中伸也教授(京大)が手先が器用で目指していた外科医になっていたら、ips細胞は世に出なかった。福島大学附属病院での腹腔鏡手術も、病院側が手先の器用さではなく頭の良し悪しで担当医を選び、難しい手術を任せていたから悲劇が続出した。
 ただ、これは日本の教育制度のためかは分からないが、物事を論理的に考える思考力は、まだ男性に及ばないような気がする。ただこれは一般論であって、男性顔負けの思考力を持つ女性も少なくない。だから、男性か女性かの差より、やはり日本の教育制度がもたらした結果ではないかという気がする。
 いずれにせよ、有能な女性の社会進出によって、大卒という学歴だけはあるものの、企業が求める能力を有していない男性の働き口が極めて狭くなっていることは紛れもない事実である。
 かつて日本の高度経済成長を支えた中卒男性は「金の卵」と言われ、部品メーカーなどの中小零細企業から引っ張りだこだった。彼らは、いわば徒弟制度のもとで日本の工業力を支える部品加工の技能を磨いていった。「下町のロケット」で有名になった東大阪の工場や、東京では蒲田に集積していた部品メーカーなどが、世界に冠たる部品加工の技能者を輩出してきた。
 が、そうした技能の継承者が日本でどんどん少なくなっている。大卒の高学歴者が、そういう3K(きつい・汚い・危険)の仕事を拒否するようになったからだ。大学もまた教育をビジネスと考えているから、大学生としての能力がなくても、高卒者もどんどん受け入れてしまう。だいたい能力=暗記力と考えているから、論理的思考力に欠けている学生でも一流大学に入学できてしまう。一方大卒者は能力がないにもかかわらず、学卒者としてのプライドだけは一人前に持っている。そういう大卒者がたどる道はブラック企業で、中卒者でも十分勤まるような仕事にしかありつけないことになる。

 原点に戻って、なぜブラック企業がなくならないのか、論理的に考えてみよう。
① 核家族時代を迎えて若い人たちの仕事に対する価値観や生活スタイルが大きく変化したこと。
② そうした若い人たちの生活スタイルに、飲食店やコンビニが過剰に対応したこと。たとえば日本でコンビニの第一歩を踏み出したのは、いまでも最大手の「セブン・イレブン」だが、当初の営業時間は午前7時から午後11時までだった。セブン・イレブンに続いてファミリーマートやローソンなどがコンビニ業界に進出し、営業時間の長時間競争を始めた。さらにコンビニに若い買い物客を奪われた大手スーパーが営業時間の長時間化を始めた。たとえばスーパー最大手のイオンは午前7時から午後11時までを基本的な営業時間にしている。
③ スーパーにしてもコンビニにしても同業他社との競争が激しく、薄利多売の競争に走らざるを得ない。一方営業時間を延長して同業他社との競争に勝たなければならない。飲食店も同様なジレンマを抱えている。そのため、営業時間を延長しても、正規社員を増やせない。パートで正規社員の過重労働を補うにも限界がある。労基法の縛りがあるから、正規社員の勤務時間を改ざんして、事実上のサービス残業を強要することになる。

 飲食業やコンビニなど小売店のブラック企業化はかなり前から知られていたが、日本を代表する広告代理店の電通がブラック企業になっていたことは、私も事件が起きるまではまったく知らなかった。メディアの報道によると、最近のクライアント(広告主)が紙媒体(新聞・雑誌など)広告→テレビCM→ネット広告に急速に方向転換しており、中高年社員はそうした時代の流れに対応できないため、ネット世代の若手社員にシワ寄せが集中したようだ。
 こうした悲劇は欧米ではまず生じない。宗教観による違いだと思うが、雇用形態が日本のような終身雇用・年功序列ではなく(この伝統的な日本型雇用形態もバブル崩壊以降、大きく崩れつつあるが)、同一労働・同一賃金の雇用形態が根付いているからだ。だからネット世代と同じレベルの仕事が出来なければ、さっさと首にできる。そして首にした中高年社員の代わりにネット世代の若手社員を増やす。だからネット世代の若手社員に過重労働のシワ寄せが生じることもない。
 ごく最近アメリカのITベンチャー企業の社長が社員の最低賃金を700万円に引き上げると発表し、日本でも大きな話題になった。その会社の社長はすでに全米で有数の富裕層になっており、これ以上自分の資産を増やしても使い道がないということで、会社の利益を社員に還元することにしたようだが、社長の兄の大株主が株主の権利を侵害したとして訴訟を起こした。社長の考えも大株主の兄の考えも、やはりキリスト教的宗教観に根差している。もちろん社長が社員の最低賃金を700万円に引き上げたからと言って、社員の長期雇用を保障したわけではない。役に立たなくなったら辞めてもらうというのが欧米の雇用制度の前提だからだ。

 もう一つ日本でブラック企業が急速に増えだしたのは労働組合がそうした時代の変化に対応できなかったことにも要因があるようだ。
 いまから60年前の1955年当時の労組の組織率は35%だった。それ以降組織率は徐々に低下していったが、82年までの27年間はかろうじて30%台を維持していたようだ。そのころから日本はバブル景気に突入し、不動産をはじめゴルフ会員権、美術品、高級ブランド商品などの資産インフレが始まった。その結果、一部の富裕層の総資産が急増し、彼らの税負担を軽減するため竹下内閣が3%消費税の導入を行った(89年4月)。
 消費税の導入は大多数の中間所得層(当時は国民の大多数が自分は中流階級に属すると考えていた)の懐を直撃する。所得格差が一気に広がりだした。この時代に労働組合は本来の社会性(低所得層の生活向上を目的とする活動)を次第に失って行く。こうした労組の変質が組合員だけでなく非組合員の失望を生み、組織率低下に歯止めが効かなくなったようだ。
 一方、政府は加熱しすぎたバブル景気を冷やすための政策に転じた。しかも軟着陸ではなく、強制着陸を図ったのだ。具体的には90年3月に大蔵省(当時)が金融機関に対して「総量規制」(不動産関連への融資を抑制)の行政指導を行った。日銀も呼応して急激な金融引き締めに転じた。こうして日本経済は不況への道を転がり出す。「失われた20年」の始まりである(その間一時的なITバブルでやや景気が持ち直した時期もあったが、リーマンショックで再び不景気に戻り、さらにアベノミクスの失敗で、いまや「失われた30年」に向かって日本経済はまっしぐらだ)。

 安倍総理はいま「働き方改革」の柱として「同一労働・同一賃金」の雇用形態導入を打ち出している。そもそもは2014年5月に年収1000万円以上の社員に適用する賃金制度として総理が導入した「成果主義賃金制度」が原型である。このとき私は同一労働・同一賃金制の導入を前提にしないと空理空論に終わるという趣旨のブログを3回にわたって投稿した。私のブログは自民党議員の大半が読んでいるようで、安倍内閣はかなり私の主張を政策に取り入れている。が、自分にとって都合のいい部分だけを取り入れており、そんなご都合主義的なやり方で日本経済の立て直しができるわけがない。
 安倍総理が「働き方改革」の一環として導入を目指している同一労働・同一賃金は、案の定経団連から猛反発を食った。「日本の賃金体系に合わない」というのが経団連の主張だ。日本型雇用形態として定着していた「終身雇用・年功序列」は事実上崩壊しつつあるが、大企業や官公庁は正規社員や公務員の首を簡単には切れない。電通の悲劇も根本的な原因はその点にある。

 かつて大家族制のもとで高度経済成長を続けてきた日本では、現役の正規社員が高齢者の生活を支えてきた。が、大家族制が崩壊し、女性の高学歴化が進み、女性の社会進出も進み(男女雇用均等法が女性の社会進出を支えた側面もある)、核家族化時代に入って若い人たちの生きる目的や価値観も大きく変化する中で、さらに医療技術が急速に進んだ結果、少子高齢化社会という負のレガシーが日本に大きくのしかかってきた。
 私は1940年の生まれで、私の世代までは社会保障制度も崩壊しないだろうが、今の現役世代が高齢者になったときには間違いなく彼らの生活を支える社会保障制度は崩壊しているだろう。誰の目にもそうした時代の到来が見えるようになるまで、目を瞑ってきた政治の怠慢と言わざるを得ない。
 問題は、経団連が反対している同一労働・同一賃金制度の導入に、連合が無関心を装っていることだ。連合は建前として正規労働者と非正規労働者の賃金格差をなくせと主張しているが、連合の主張は非正規社員の賃金を上げろとしか言わない。企業が社員に支払える給与の総額(パイ)が増えない限り、非正規社員の賃金を増やせば、正規社員の賃金を引き下げざるを得ない。が、連合は正規社員の労働組合であり、正規社員の賃金を下げてまで非正規社員の賃金を上げろ、とは口が裂けても言えない。
 日本はこれからどういう道を選択すべきかが、いま問われている。
 自公政権の対抗軸であるべき民進党も、この問題に正面から向き合おうとしていない。連合が支持母体だからだろうか?