「集団的自衛権」問題についての私の考察の最後だ。私はツィッターやフェイスブックはやっていないので、私の考察に共感してくださった方は、このブログをツィッターやフェイスブック、あるいはほかのSNSやメディアを利用して読者層の拡大に協力して頂けないだろうか。昨日のブログでも書いたが、私はこの作業で1円の対価も得ていないし、今後も得るつもりはない。読者が増えればメディアも私のブログを無視できなくなるし、メディアが変われば政治も変わり、日本も変わる。
今月17日で74歳になる私にはもう物欲も金銭欲も名誉欲もない。ただ、将来の日本を背負ってもらわなければならない若者たちが、自己中心的基準や知識を頼りに物事を考えるのではなく、純粋な論理的思考力を唯一の手掛かりに、将来の日本という国の在り方に取り組んでほしいという思いだけでブログを書いている。もちろん私のブログ読者が増えれば、広告が貼り付けられるようになるかもしれないが、たぶんその広告費は広告代理店とブログのサイトを運営しているgooに入る仕組みになるはずで、私はそのことには一切関与しない。
私はブログ記事をワードで書いて貼り付け投稿し、ワードで書いた原本はプリントアウトしているので、パソコンで私のブログ記事を読み直すことはしていない。そのため読者が増えたらどんな状況になるか、私には分からない。もし不適切な広告が貼り付けられるような事態が生じたら、何らかの対策をしなければならないので、そのときはコメントで連絡していただきたい。
さて読者諸氏は、「集団的自衛」「集団的自衛権」「集団的自衛権行使」のそれぞれの意味合いを論理的に考えて頂いただろうか。実はメディアも政治家も学者も、その区別をせずに自分たちの主張にとって都合がいいように使っている。意識して使い分けている方もゼロとは言わないが、集団的自衛権問題を論じる人たちは、その言葉の厳密な定義を無視して使っている。
かく言う私自身が、昨年8月に初めて集団的自衛権問題についてのブログを書いて以降、この問題に取り組むたびに新しい疑問を持ち、その疑問を解決するために思考を重ねてきた。この三つの用語の使い分けが必要だという意識を明確に持ったのも、6月18日から3回にわたって投稿したブログ『最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ』を書き終えた後、昨日のブログの冒頭で書いたように自民が舵を大きく切ったことの意味を考えた中で、ふと気づいた疑問だったのである。
そして、私がたどりついた論理的解釈はこうである。つまり結論を先に述べてしまうことにした。その方が、いま起きているいろいろな事態について、読者自身が論理的に理解しやすくなると思うからだ。
「集団的自衛」……仲間同士、共同で仲間を守り合おう、という意味。つまり、仲間のうちどこかの国が他国から攻撃されたら、その仲間の国ををみんなで守ろうという「共同安全保障体制を作る」のが「集団的自衛」の本来の意味。NATOや旧ワルシャワ条約機構がそれに当たる。
「集団的自衛権」……国連憲章51条によって加盟国に認められた「固有の権利」。国連憲章は、国際紛争を武力によって解決することを禁止している。が、その大原則を破って他国を武力攻撃する国が出た場合、国連憲章はその国に対して外交・経済・通信などあらゆる「非軍事的(制裁)措置」を行ってもいいよ、という権能を安保理に与えている(第41条)。が、そうした制裁では解決できなかった場合は、やはり安保理にあらゆる「軍事的(制裁)措置」をとることを認めている(第42条)。が、安保理には拒否権を持つ5大国(米英仏露中)が常任理事国として君臨し、41条や42条による制裁を行うことが事実上困難だということがあらかじめ予想されたため、国連憲章が作成される過程でラテンアメリカ諸国の主張を受け入れる形で、共同防衛(集団安全保障)の権利が認められた。
「集団的自衛権行使」……国連憲章51条は、「個別的自衛権」(自国の軍隊で自国を防衛する権利=自然法と解釈されている主権国家が持っている当然の権利)や「集団的自衛権」の行使については、勝手にやってもいいよとは認めていない。国連憲章は安保理に国際紛争解決のためのあらゆる権能の行使を認めており、安保理の権能が加盟国の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」より優位にあることを前提にしている。そのため国連憲章51条は「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という期限付きで加盟国に行使を認めている権利である。
このように論理的に三つの用語を理解できれば、安倍・自民党政権が強行しようとしている「集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更」が、どう屁理屈をこねても国連憲章が認めているものとはまったく違うということが、読者には手に取るようにご理解いただけたのではないだろうか。
安倍・自民党執行部は、当初は従来の「集団的自衛権」についての政府見解を踏襲したうえで、その権利を行使できるように憲法解釈を変えるというスタンスだった。従来の政府見解は、読者には目にたこができるほど書いてきたが、改めて書くと「自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」で、「国際法上(※国連憲章のこと)、固有の権利としてわが国も保持しているが、憲法9条の制約に
よって行使できない」というものだった。
そもそも、そんな解釈は国連憲章をどう読んだらできるのか。国連憲章が認めている「集団的自衛権」は、すでに書いたように「共同防衛(集団的安全保障)」の権利であって、集団的安全保障条約の締結国間で認められている権利である。そうした共同防衛体制を構築していないのに、勝手に「密接な関係にある他国が攻撃されたら自国が攻撃されたと見なす」権利など、国連憲章が認めるわけがないことに、メディアや政治家、学者はまだ気が付かないのだろうか。
そもそも終戦直後に憲法制定に当たって吉田茂内閣が作成した政府原案(現行憲法は政府原案をベースに、いわゆる「芦田修正」が加えられたもの)をめぐる国会論議で、共産党の野坂参三議員との間で、こういうやり取りがあった(1946年6月28日。芦田修正が加えられる前)。
野坂「戦争には侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」
吉田「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」
現行憲法は、政府原案が修正されることによって「個別的自衛権」までは憲法9条は否定していない、と自衛隊の合憲性が認められている。その代わり自衛隊法で、自衛隊の行動範囲が「専守防衛」であり、その目的のための「必要最小限度の実力(※戦力のこと)」しか持てないことになっている。
国会での吉田答弁は、自衛権をも否定してはいるが、「近年の戦争は多くは国家防衛の名において行われたることは顕著な事実」であることは疑う余地がない。現在もイラクやウクライナにおける紛争に、アメリカやNATO、ロシアが不必要な介入をしているのも、それぞれの「国益」にかかわる事態だからだ。
そもそも国連憲章が認めている自衛権は、「個別的」であるにせよ「集団的」であるにせよ、他国から不法な武力侵害を受けた場合にのみ行使できる権利であって、一国の国内紛争に他国が介入する権利など、どの条項も認めていない。泥沼化したイラク紛争は宗教対立に民族対立が複雑に絡み合ったケースであり、現在のイラク政府がアメリカに軍事的支援を要請する権利もないし、またアメリカもイラク政府の要請に応じる義務(権利?)も国連憲章は認めていない。
また、ウクライナの紛争もようやく実態が分かってきた。現在のポロシェンコ大統領の立ち位置はかなり微妙である。ロシアと米欧が対立したのは、クリミア自治共和国のウクライナからの独立を問う住民投票であった。
そもそもウクライナは旧ソ連邦の構成国家の一つだったし、国境をヨーロッパと接しているという意味においても重要な軍事的位置を占めていた。ソ連邦の解体によってウクライナは分離独立し、ウクライナ国内の核基地も撤去された。が、ロシアにとってはウクライナは重要な「同盟国」のはずだった。実際独立後もウクライナ政府はロシアとの友好関係を築いていたし、経済関係も緊密だった。
が、2004年の「オレンジ革命」によって初めてウクライナに親欧米派のユシチェンコ政権が誕生し、NATO加盟の方針を打ち出したことから、ロシアにとっては重大な軍事的脅威をまともに受ける可能性が生じた。そこでロシアはそれまでウクライナに特別価格で提供していた天然ガスの価格を国際市場並みに引き上げるという経済的制裁を発動し、2006年の総選挙でユシチェンコ政権に代わって親ロ派のヤヌコーヴィチ政権が誕生、ロシアとの友好関係が復活した。
が、ウクライナ全体としては親欧米派が多く、住民投票の結果としてEUとの経済連携協定を結ばざるを得なくなった。その調印をヤヌコーヴィチ大統領が昨年11月に拒否したことで、親欧米派市民による反政府デモが首都キエフで発生、警察との衝突で多数の死傷者を出したことで、今年2月にヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、親欧米派の暫定政権が新大統領選出までの政権運営を担うことになった。この事態をロシアは「クーデター」と非難し、ロシア系住民(※人種的にはロシア人と思われる)が6割を占めるクリミア自治共和国が住民投票を実施し、ウクライナからの分離独立とロシアへの編入を決め、ロシアもクリミアの編入を認める決定をした。
クリミアがロシアの領土となると、ロシアがクリミアに核も含めた強力な軍事基地を建設することは当然考えられる。そうなるとEU諸国にとってはウクライナがNATOに加盟しても、かえってロシアの軍事的脅威が高まることになる。そこでEU諸国が同盟国のアメリカを巻き込んで「クリミアのロシア編入は認められない」として経済制裁に乗り出したというのが混乱の経緯である。一方ロシアが直接関与したかどうかは分からないが、ロシア系住民が約4割を占めるとされる東部2州がやはりウクライナからの分離独立を求める活動を始めた。その勢力が暫定政権の軍隊と武力衝突にまで発展し、そうした混乱の中で大統領選挙が行われ、現在のポロシェンコ政権が発足した。
いま現在、米欧は振り上げたこぶしの持って行き場に困惑している。ポロシェンコ政権が東部2州の自治権を拡大するなどの条件を提示し6月21日には1週間の停戦を軍に指示した。ロシア系住民がポロシェンコ政権に歩み寄って武装解除すれば、ウクライナの内紛はこれで一件落着ということになったのだが、親ロシア派も一枚岩ではない。
親ロシアは内部での主導権争いがあるだろうし、ポロシェンコ大統領の「ア
メとムチ」に応じる勢力と、あくまで分離独立を主張する勢力との対立がある
と思われる。メディアがそういう論理的視点でウクライナ情勢を取材し分析すれば、親ロシア派は最終的にはポロシェンコ大統領の説得に応じざるを得なくなることは予測できるはずだ。おそらくポロシェンコ政権はクリミア問題を事実上棚上げしてしまうであろうし、そうすることによってロシアともヨーロッパとも友好な関係を築く方針を打ち出すのではないか。
ヨーロッパ諸国も実はウクライナ経由でロシアからの天然ガス輸入にエネルギー源のかなりの部分を依存しており、本音はロシアとあまり事を構えたくない。が、アメリカを2階に上げておいてはしごを外してしまうと、今度は米欧関係に溝が生じる。そうなった場合に米欧間の仲介役として期待されるのがアメリカ最大の同盟国イギリスだが、イギリスはEUともやや距離を置いた立ち位置にいるうえ、ロシアからの天然ガスの供給は受けていない。ウクライナの内紛でロシアと事を構えたくないというのが本音だろう。
他国の国内紛争に「自国の国益が脅かされる」として介入する構図は、いまも昔も変わらない。そうしたご都合主義的な「国益重視」は、かつて吉田総理が国会で答弁したように「戦争の多くは国家防衛権の名において行われる」現実に変化はない。ただ昔と違うのは、すぐにドンパチを始めるというわけには、だんだんいかなくなりつつあるという国際情勢の変化がある。
「世界の警察」を自負してきたアメリカも、イラクの内紛に軍事介入に踏み切れないのも、アメリカ国内で「なぜ関係のないことにアメリカ人がいつも先頭で血を流がさなければならないのか」という世論が強まりつつある状況も、国際情勢の変化を反映していると言えよう。
そもそもアメリカの国際的威信が失われだしたのは、ベトナム戦争以降である。それまではアメリカが世界の警察としてふるまうことに、アメリカ人も国際世論もさほど違和感を覚えていなかったと思う。が、ベトナム戦争でアメリカがアメリカ史上初めて敗北したという現実を前に、アメリカに対する国際的評価も大きく変化し、国内世論も激変した。アメリカ国内では「反戦運動」が広まり、徴兵制も廃止されることになった。
湾岸戦争は、イラクによる突然のクウェート侵攻に端を発したケースであり、ある意味では国連憲章42条が初めて適用されたと言ってもいいと思う。国連憲章42条が本来想定していたのは「国連軍」だったはずだが、冷戦下で米ソがことごとく対立して国連軍が結成されることはなかった。そのため湾岸戦争においては、クウェート政府の要請に応じて国連加盟国有志が「多国籍軍」を結成し、イラクに対する軍事的制裁に乗り出した。またこの行為は、考えようによっては、やはり初めて国連憲章51条に基づく「集団的自衛権」が行使されたケースと言ってもいいかもしれない。
が、このケース以外にアメリカや旧ソ連が「集団的自衛権行使」を口実に他
国に軍事介入したケースは、すべて国連憲章に基くものではない。ベトナム戦争も然り、2001年の9.11事件(同時多発テロ)に端を発したアフガニスタンのタリバン政権への攻撃も、9.11事件そのものがアフガニスタン政権による戦争行為ではないにもかかわらず、アメリカは勝手に「個別的自衛権」を行使してタリバン勢力をアフガニスタンから一掃しようとした。このときイギリスはアメリカとの同盟関係によってタリバン攻撃に参加した。
このケースを国連憲章51条に当てはめて考えると、アメリカがイギリスに共同攻撃を要請した行為がアメリカの「集団的自衛権行使」なのか、それともアメリカの要請に応じたイギリスのタリバン軍攻撃がイギリスによる「集団的自衛権行使」なのか、どちらが集団的自衛権を行使したのか、メディアや政治家、学者は論理的整合性がある説明を行う必要がある。
まして湾岸戦争で敗北したイラクだが、イラクのフセイン政権は合法的に存続した。フセイン政権が存続できたのは、多国籍軍が中途半端な状態でイラク・フセイン政権と和平してしまったからでもある。が、9.11事件の発生で国際世論がアメリカへの同情に傾いたのを好機として、湾岸戦争以降とくに問題を起こしていなかったにもかかわらず、当時のブッシュ大統領が2002年の年頭教書演説でイラク、イラン、北朝鮮を名指しで「悪の枢軸」と非難し、9.11事件の直後ということもあって国際世論はアメリカに同調気味になった。当初アメリカはイラクの大量破壊兵器保持の疑問を口実に、国連にイラク制裁行動を提案し、日本も根拠なくアメリカに同調したが、国連での決議は成立せず、2003年3月、アメリカとイギリスが国連の決議を得ずにイラクへの戦争を始めた。これが「イラク戦争」であり、その目的はフセイン殺害にあった。
さあ、安倍さん、「イラク戦争のような戦争には参加しない」理由を論理的に説明してよ。
安倍さんは「中国や北朝鮮の軍事力の強化」を「脅威」と考えている。その「脅威」を「集団的自衛権行使」によって排除するという。もっともらしく聞こえるが、「集団的自衛権行使」による日米軍事同盟強化は、中国や北朝鮮にとっては「脅威」にならないと、安倍さんは考えているようだ。「日本が戦争を仕掛けることはない」からだ。が、安倍さんがそう主張するのは勝手だが、中国や北朝鮮は鵜呑みにせず「脅威」と感じるかもしれない。本当は感じていなくても、感じたふりをして自国の軍事力の強化の口実には、間違いなくする。明治維新以降の歴史は、そういう「負の連鎖」によってつくられ、日本はアジアに拭い消すことができない「負の遺産」を残した。
さあ、安倍さん、「集団的自衛権行使」が「負の連鎖」を生じないことを論理的に説明してもらいたい。できるかな、あんたの頭で…。
日本経済新聞が昨日の朝刊1面トップでスクープ記事を流した。北朝鮮が拉致生存者30人のリストを作成したというのだ。が、菅官房長官が「未確認」と日本経済新聞の報道を否定した。喜びが、一瞬で消えたのは私だけではないだろう。しかし、今回の北朝鮮の拉致問題に対する取り組みは本物だ。北朝鮮は国際的孤立(実際には北東アジアでの孤立)から脱却するための最後のカードを切ってきた。
今まで唯一の友好国だった中国からも冷たくあしらわれるようになり、北東アジアでの孤立から抜け出す最後のカードが拉致被害者の調査だ。「北朝鮮はどこまで本気か」などという疑問を持ち、調査機関の人選を見て北朝鮮の「本気度」を計るという発想そのものが非論理的だ。
実際、このカードを切りそこなったら、金政権は崩壊するという危機感を北朝鮮は持っている。北朝鮮が本気で調査をして、横田めぐみさんをはじめとする日本政府認定の17人の拉致被害者を含む、拉致疑惑を持たれている人たちの現状を徹底的に調べることに疑いを抱く余地はない。
むしろ問題は、北朝鮮が「本気度」を証明するに足るだけのデータ(生存者リストを含む)を出してきたとき、必ず日本に対して新しいカードを切ってくる。どんなカードになるかは分からないが、おそらくアメリカがOKしないようなカードになることは覚悟しておかなければならない。
そのとき安倍総理が「政府は国民の生命に責任を持つ」という言質を国民に与えたことを、実際の行動で証明しなければならなくなる。場合によっては安倍政権の命取りになる可能性すらある。そのことを、政治家もメディアも分かっていない。このブログを読んで、北朝鮮の「本気度」とその目的が理解できないジャーナリストは、去れ。(続く)
今月17日で74歳になる私にはもう物欲も金銭欲も名誉欲もない。ただ、将来の日本を背負ってもらわなければならない若者たちが、自己中心的基準や知識を頼りに物事を考えるのではなく、純粋な論理的思考力を唯一の手掛かりに、将来の日本という国の在り方に取り組んでほしいという思いだけでブログを書いている。もちろん私のブログ読者が増えれば、広告が貼り付けられるようになるかもしれないが、たぶんその広告費は広告代理店とブログのサイトを運営しているgooに入る仕組みになるはずで、私はそのことには一切関与しない。
私はブログ記事をワードで書いて貼り付け投稿し、ワードで書いた原本はプリントアウトしているので、パソコンで私のブログ記事を読み直すことはしていない。そのため読者が増えたらどんな状況になるか、私には分からない。もし不適切な広告が貼り付けられるような事態が生じたら、何らかの対策をしなければならないので、そのときはコメントで連絡していただきたい。
さて読者諸氏は、「集団的自衛」「集団的自衛権」「集団的自衛権行使」のそれぞれの意味合いを論理的に考えて頂いただろうか。実はメディアも政治家も学者も、その区別をせずに自分たちの主張にとって都合がいいように使っている。意識して使い分けている方もゼロとは言わないが、集団的自衛権問題を論じる人たちは、その言葉の厳密な定義を無視して使っている。
かく言う私自身が、昨年8月に初めて集団的自衛権問題についてのブログを書いて以降、この問題に取り組むたびに新しい疑問を持ち、その疑問を解決するために思考を重ねてきた。この三つの用語の使い分けが必要だという意識を明確に持ったのも、6月18日から3回にわたって投稿したブログ『最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ』を書き終えた後、昨日のブログの冒頭で書いたように自民が舵を大きく切ったことの意味を考えた中で、ふと気づいた疑問だったのである。
そして、私がたどりついた論理的解釈はこうである。つまり結論を先に述べてしまうことにした。その方が、いま起きているいろいろな事態について、読者自身が論理的に理解しやすくなると思うからだ。
「集団的自衛」……仲間同士、共同で仲間を守り合おう、という意味。つまり、仲間のうちどこかの国が他国から攻撃されたら、その仲間の国ををみんなで守ろうという「共同安全保障体制を作る」のが「集団的自衛」の本来の意味。NATOや旧ワルシャワ条約機構がそれに当たる。
「集団的自衛権」……国連憲章51条によって加盟国に認められた「固有の権利」。国連憲章は、国際紛争を武力によって解決することを禁止している。が、その大原則を破って他国を武力攻撃する国が出た場合、国連憲章はその国に対して外交・経済・通信などあらゆる「非軍事的(制裁)措置」を行ってもいいよ、という権能を安保理に与えている(第41条)。が、そうした制裁では解決できなかった場合は、やはり安保理にあらゆる「軍事的(制裁)措置」をとることを認めている(第42条)。が、安保理には拒否権を持つ5大国(米英仏露中)が常任理事国として君臨し、41条や42条による制裁を行うことが事実上困難だということがあらかじめ予想されたため、国連憲章が作成される過程でラテンアメリカ諸国の主張を受け入れる形で、共同防衛(集団安全保障)の権利が認められた。
「集団的自衛権行使」……国連憲章51条は、「個別的自衛権」(自国の軍隊で自国を防衛する権利=自然法と解釈されている主権国家が持っている当然の権利)や「集団的自衛権」の行使については、勝手にやってもいいよとは認めていない。国連憲章は安保理に国際紛争解決のためのあらゆる権能の行使を認めており、安保理の権能が加盟国の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」より優位にあることを前提にしている。そのため国連憲章51条は「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という期限付きで加盟国に行使を認めている権利である。
このように論理的に三つの用語を理解できれば、安倍・自民党政権が強行しようとしている「集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更」が、どう屁理屈をこねても国連憲章が認めているものとはまったく違うということが、読者には手に取るようにご理解いただけたのではないだろうか。
安倍・自民党執行部は、当初は従来の「集団的自衛権」についての政府見解を踏襲したうえで、その権利を行使できるように憲法解釈を変えるというスタンスだった。従来の政府見解は、読者には目にたこができるほど書いてきたが、改めて書くと「自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」で、「国際法上(※国連憲章のこと)、固有の権利としてわが国も保持しているが、憲法9条の制約に
よって行使できない」というものだった。
そもそも、そんな解釈は国連憲章をどう読んだらできるのか。国連憲章が認めている「集団的自衛権」は、すでに書いたように「共同防衛(集団的安全保障)」の権利であって、集団的安全保障条約の締結国間で認められている権利である。そうした共同防衛体制を構築していないのに、勝手に「密接な関係にある他国が攻撃されたら自国が攻撃されたと見なす」権利など、国連憲章が認めるわけがないことに、メディアや政治家、学者はまだ気が付かないのだろうか。
そもそも終戦直後に憲法制定に当たって吉田茂内閣が作成した政府原案(現行憲法は政府原案をベースに、いわゆる「芦田修正」が加えられたもの)をめぐる国会論議で、共産党の野坂参三議員との間で、こういうやり取りがあった(1946年6月28日。芦田修正が加えられる前)。
野坂「戦争には侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」
吉田「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」
現行憲法は、政府原案が修正されることによって「個別的自衛権」までは憲法9条は否定していない、と自衛隊の合憲性が認められている。その代わり自衛隊法で、自衛隊の行動範囲が「専守防衛」であり、その目的のための「必要最小限度の実力(※戦力のこと)」しか持てないことになっている。
国会での吉田答弁は、自衛権をも否定してはいるが、「近年の戦争は多くは国家防衛の名において行われたることは顕著な事実」であることは疑う余地がない。現在もイラクやウクライナにおける紛争に、アメリカやNATO、ロシアが不必要な介入をしているのも、それぞれの「国益」にかかわる事態だからだ。
そもそも国連憲章が認めている自衛権は、「個別的」であるにせよ「集団的」であるにせよ、他国から不法な武力侵害を受けた場合にのみ行使できる権利であって、一国の国内紛争に他国が介入する権利など、どの条項も認めていない。泥沼化したイラク紛争は宗教対立に民族対立が複雑に絡み合ったケースであり、現在のイラク政府がアメリカに軍事的支援を要請する権利もないし、またアメリカもイラク政府の要請に応じる義務(権利?)も国連憲章は認めていない。
また、ウクライナの紛争もようやく実態が分かってきた。現在のポロシェンコ大統領の立ち位置はかなり微妙である。ロシアと米欧が対立したのは、クリミア自治共和国のウクライナからの独立を問う住民投票であった。
そもそもウクライナは旧ソ連邦の構成国家の一つだったし、国境をヨーロッパと接しているという意味においても重要な軍事的位置を占めていた。ソ連邦の解体によってウクライナは分離独立し、ウクライナ国内の核基地も撤去された。が、ロシアにとってはウクライナは重要な「同盟国」のはずだった。実際独立後もウクライナ政府はロシアとの友好関係を築いていたし、経済関係も緊密だった。
が、2004年の「オレンジ革命」によって初めてウクライナに親欧米派のユシチェンコ政権が誕生し、NATO加盟の方針を打ち出したことから、ロシアにとっては重大な軍事的脅威をまともに受ける可能性が生じた。そこでロシアはそれまでウクライナに特別価格で提供していた天然ガスの価格を国際市場並みに引き上げるという経済的制裁を発動し、2006年の総選挙でユシチェンコ政権に代わって親ロ派のヤヌコーヴィチ政権が誕生、ロシアとの友好関係が復活した。
が、ウクライナ全体としては親欧米派が多く、住民投票の結果としてEUとの経済連携協定を結ばざるを得なくなった。その調印をヤヌコーヴィチ大統領が昨年11月に拒否したことで、親欧米派市民による反政府デモが首都キエフで発生、警察との衝突で多数の死傷者を出したことで、今年2月にヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、親欧米派の暫定政権が新大統領選出までの政権運営を担うことになった。この事態をロシアは「クーデター」と非難し、ロシア系住民(※人種的にはロシア人と思われる)が6割を占めるクリミア自治共和国が住民投票を実施し、ウクライナからの分離独立とロシアへの編入を決め、ロシアもクリミアの編入を認める決定をした。
クリミアがロシアの領土となると、ロシアがクリミアに核も含めた強力な軍事基地を建設することは当然考えられる。そうなるとEU諸国にとってはウクライナがNATOに加盟しても、かえってロシアの軍事的脅威が高まることになる。そこでEU諸国が同盟国のアメリカを巻き込んで「クリミアのロシア編入は認められない」として経済制裁に乗り出したというのが混乱の経緯である。一方ロシアが直接関与したかどうかは分からないが、ロシア系住民が約4割を占めるとされる東部2州がやはりウクライナからの分離独立を求める活動を始めた。その勢力が暫定政権の軍隊と武力衝突にまで発展し、そうした混乱の中で大統領選挙が行われ、現在のポロシェンコ政権が発足した。
いま現在、米欧は振り上げたこぶしの持って行き場に困惑している。ポロシェンコ政権が東部2州の自治権を拡大するなどの条件を提示し6月21日には1週間の停戦を軍に指示した。ロシア系住民がポロシェンコ政権に歩み寄って武装解除すれば、ウクライナの内紛はこれで一件落着ということになったのだが、親ロシア派も一枚岩ではない。
親ロシアは内部での主導権争いがあるだろうし、ポロシェンコ大統領の「ア
メとムチ」に応じる勢力と、あくまで分離独立を主張する勢力との対立がある
と思われる。メディアがそういう論理的視点でウクライナ情勢を取材し分析すれば、親ロシア派は最終的にはポロシェンコ大統領の説得に応じざるを得なくなることは予測できるはずだ。おそらくポロシェンコ政権はクリミア問題を事実上棚上げしてしまうであろうし、そうすることによってロシアともヨーロッパとも友好な関係を築く方針を打ち出すのではないか。
ヨーロッパ諸国も実はウクライナ経由でロシアからの天然ガス輸入にエネルギー源のかなりの部分を依存しており、本音はロシアとあまり事を構えたくない。が、アメリカを2階に上げておいてはしごを外してしまうと、今度は米欧関係に溝が生じる。そうなった場合に米欧間の仲介役として期待されるのがアメリカ最大の同盟国イギリスだが、イギリスはEUともやや距離を置いた立ち位置にいるうえ、ロシアからの天然ガスの供給は受けていない。ウクライナの内紛でロシアと事を構えたくないというのが本音だろう。
他国の国内紛争に「自国の国益が脅かされる」として介入する構図は、いまも昔も変わらない。そうしたご都合主義的な「国益重視」は、かつて吉田総理が国会で答弁したように「戦争の多くは国家防衛権の名において行われる」現実に変化はない。ただ昔と違うのは、すぐにドンパチを始めるというわけには、だんだんいかなくなりつつあるという国際情勢の変化がある。
「世界の警察」を自負してきたアメリカも、イラクの内紛に軍事介入に踏み切れないのも、アメリカ国内で「なぜ関係のないことにアメリカ人がいつも先頭で血を流がさなければならないのか」という世論が強まりつつある状況も、国際情勢の変化を反映していると言えよう。
そもそもアメリカの国際的威信が失われだしたのは、ベトナム戦争以降である。それまではアメリカが世界の警察としてふるまうことに、アメリカ人も国際世論もさほど違和感を覚えていなかったと思う。が、ベトナム戦争でアメリカがアメリカ史上初めて敗北したという現実を前に、アメリカに対する国際的評価も大きく変化し、国内世論も激変した。アメリカ国内では「反戦運動」が広まり、徴兵制も廃止されることになった。
湾岸戦争は、イラクによる突然のクウェート侵攻に端を発したケースであり、ある意味では国連憲章42条が初めて適用されたと言ってもいいと思う。国連憲章42条が本来想定していたのは「国連軍」だったはずだが、冷戦下で米ソがことごとく対立して国連軍が結成されることはなかった。そのため湾岸戦争においては、クウェート政府の要請に応じて国連加盟国有志が「多国籍軍」を結成し、イラクに対する軍事的制裁に乗り出した。またこの行為は、考えようによっては、やはり初めて国連憲章51条に基づく「集団的自衛権」が行使されたケースと言ってもいいかもしれない。
が、このケース以外にアメリカや旧ソ連が「集団的自衛権行使」を口実に他
国に軍事介入したケースは、すべて国連憲章に基くものではない。ベトナム戦争も然り、2001年の9.11事件(同時多発テロ)に端を発したアフガニスタンのタリバン政権への攻撃も、9.11事件そのものがアフガニスタン政権による戦争行為ではないにもかかわらず、アメリカは勝手に「個別的自衛権」を行使してタリバン勢力をアフガニスタンから一掃しようとした。このときイギリスはアメリカとの同盟関係によってタリバン攻撃に参加した。
このケースを国連憲章51条に当てはめて考えると、アメリカがイギリスに共同攻撃を要請した行為がアメリカの「集団的自衛権行使」なのか、それともアメリカの要請に応じたイギリスのタリバン軍攻撃がイギリスによる「集団的自衛権行使」なのか、どちらが集団的自衛権を行使したのか、メディアや政治家、学者は論理的整合性がある説明を行う必要がある。
まして湾岸戦争で敗北したイラクだが、イラクのフセイン政権は合法的に存続した。フセイン政権が存続できたのは、多国籍軍が中途半端な状態でイラク・フセイン政権と和平してしまったからでもある。が、9.11事件の発生で国際世論がアメリカへの同情に傾いたのを好機として、湾岸戦争以降とくに問題を起こしていなかったにもかかわらず、当時のブッシュ大統領が2002年の年頭教書演説でイラク、イラン、北朝鮮を名指しで「悪の枢軸」と非難し、9.11事件の直後ということもあって国際世論はアメリカに同調気味になった。当初アメリカはイラクの大量破壊兵器保持の疑問を口実に、国連にイラク制裁行動を提案し、日本も根拠なくアメリカに同調したが、国連での決議は成立せず、2003年3月、アメリカとイギリスが国連の決議を得ずにイラクへの戦争を始めた。これが「イラク戦争」であり、その目的はフセイン殺害にあった。
さあ、安倍さん、「イラク戦争のような戦争には参加しない」理由を論理的に説明してよ。
安倍さんは「中国や北朝鮮の軍事力の強化」を「脅威」と考えている。その「脅威」を「集団的自衛権行使」によって排除するという。もっともらしく聞こえるが、「集団的自衛権行使」による日米軍事同盟強化は、中国や北朝鮮にとっては「脅威」にならないと、安倍さんは考えているようだ。「日本が戦争を仕掛けることはない」からだ。が、安倍さんがそう主張するのは勝手だが、中国や北朝鮮は鵜呑みにせず「脅威」と感じるかもしれない。本当は感じていなくても、感じたふりをして自国の軍事力の強化の口実には、間違いなくする。明治維新以降の歴史は、そういう「負の連鎖」によってつくられ、日本はアジアに拭い消すことができない「負の遺産」を残した。
さあ、安倍さん、「集団的自衛権行使」が「負の連鎖」を生じないことを論理的に説明してもらいたい。できるかな、あんたの頭で…。
日本経済新聞が昨日の朝刊1面トップでスクープ記事を流した。北朝鮮が拉致生存者30人のリストを作成したというのだ。が、菅官房長官が「未確認」と日本経済新聞の報道を否定した。喜びが、一瞬で消えたのは私だけではないだろう。しかし、今回の北朝鮮の拉致問題に対する取り組みは本物だ。北朝鮮は国際的孤立(実際には北東アジアでの孤立)から脱却するための最後のカードを切ってきた。
今まで唯一の友好国だった中国からも冷たくあしらわれるようになり、北東アジアでの孤立から抜け出す最後のカードが拉致被害者の調査だ。「北朝鮮はどこまで本気か」などという疑問を持ち、調査機関の人選を見て北朝鮮の「本気度」を計るという発想そのものが非論理的だ。
実際、このカードを切りそこなったら、金政権は崩壊するという危機感を北朝鮮は持っている。北朝鮮が本気で調査をして、横田めぐみさんをはじめとする日本政府認定の17人の拉致被害者を含む、拉致疑惑を持たれている人たちの現状を徹底的に調べることに疑いを抱く余地はない。
むしろ問題は、北朝鮮が「本気度」を証明するに足るだけのデータ(生存者リストを含む)を出してきたとき、必ず日本に対して新しいカードを切ってくる。どんなカードになるかは分からないが、おそらくアメリカがOKしないようなカードになることは覚悟しておかなければならない。
そのとき安倍総理が「政府は国民の生命に責任を持つ」という言質を国民に与えたことを、実際の行動で証明しなければならなくなる。場合によっては安倍政権の命取りになる可能性すらある。そのことを、政治家もメディアも分かっていない。このブログを読んで、北朝鮮の「本気度」とその目的が理解できないジャーナリストは、去れ。(続く)