小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

思わず、 涙した。黒田投手の広島復帰――野球人生最後の生き様は日本人の誇りだ。

2014-12-29 06:44:25 | Weblog
 26日に投稿したブログで、今年最後のブログにするつもりだったが、最終編の続編を急きょ書くことにした。
 黒田博樹投手(39)が、広島東洋カープに戻るという。夢破れて、の日本球界復帰ではない。
 私は初めて明かすが、子供のころからの阪神ファン。藤村とか別当、若林といった名選手などが活躍した第1期タイガース黄金期時代からのファンである。当時、私は小学3,4年生。父の勤務先の関係で兵庫県伊丹市に住んでおり、休日にはしばしば甲子園に連れて行ってもらった。父がタイガース・ファンであり、私もその影響を受けて阪神ファンになった。
 実は阪神が星野仙一氏のサジェッションを受けて井川投手を米大リーグに放出したとき、広島の黒田投手を獲得できると考えていたようだ。実際、広島カープを国内フリーエージェント(FA)宣言して阪神に入団した選手は「兄貴」と呼ばれて慕われた金本選手や新井選手などがおり、黒田投手も阪神入りを真剣に考えていた時期もあったらしい。
 が、野球人として自分の力が大リーグでどこまで通用するか試してみたいという気持ちのほうが、黒田投手の心の中で勝った。
 08年、FA宣言で大リーグのドジャースに移った黒田投手は、同年9勝10敗、09年8勝7敗と、そこそこの成績に終わったが、翌10年からがすごかった。10年11勝13敗、11年13勝16敗と二けた勝利を上げると、ヤンキースに移籍した12年からは16勝11敗、11勝13敗、昨年も11勝9敗と5年連続で二けた勝利を上げるという金字塔を立てた。
 そのヤンキースをFAとなった黒田選手の動向に、大リーグファンの注目も集まっていた。39歳という、投手としての選手生命の峠を越えつつあるという事情もあったと思う。黒田投手の今季年俸は1600万ドル(約19億円)。高年齢高年俸というネックはあったものの、大リーグではまだまだやれる力は持っている。実際、黒田獲得に動いていた大リーグ球団も複数あったようだ。が、黒田投手は広島カープへの復帰を決めた。1年契約で年俸は4億円プラス出来高払いだという。
 思い起こすに巨人からヤンキースに移った松井秀樹選手の「散り際」も見事だった。巨人からの「戻っておいで」とのラブコールを、「巨人ファンは、松井秀樹の過去のイメージで私を迎えてくれるだろう。その期待を裏切るわけにはいかない」と断った。思えば、阪神ファンの私にも松井選手は因縁のある選手だった。星陵高校時代の松井選手の部屋には、阪神選手のポスターや球団グッズが埋め尽くされていたという。もしドラフト制がなかったら、松井選手は間違いなく阪神に入団していただろう。
 王貞治氏も阪神入りするはずだった。阪神のフロントがバカだったのは、なぜ条件面で合意に達したときに、直ちに仮契約を結ばなかったのかということだ。阪神側は、話が一気に進むとは考えていなかったため、仮契約の書類を用意していなかったのかもしれない。が、「王、阪神入り」のスクープ記事が翌日のスポーツ紙の1面を飾った。
 びっくりしたのは読売巨人軍。まだ合意に至っただけで仮契約はしていないことをキャッチするや、品川主計社長が直々に王家に乗り込んで、一説には阪神が提示した契約金の1.5倍を提示し、王氏の父親が巨人入りを強力に進めたため、その場で王氏は巨人との仮契約に応じたという。
 契約金の話を除いて、私が王氏と会ったとき、そうした巨人入りの経緯が事実であることは確認している。
 ただ王氏が阪神に入っていたとして、果たして「世界の王」になれたかどうかは別である。巨人には荒川コーチという名伯楽がいて、彼の打撃センスを最大限に引き出すために一本足打法を生み出した。阪神の選手になっていたら、一本足打法は生まれなかったと思う。
 だが、私は王氏と会ったとき、こう聞いてみた。
「もし、一本足打法でなかったら、ホームラン数は激減したかもしれないが、ヒット数は相当増えていたと思う、ひょっとしたら、空前絶後の4割バッターになれていたかもしれませんよ。一本足だと重心移動の関係から引っ張るしかできないため、守る側はレフト方向には球は飛んでこないと考えて“王シフト”を容易に敷くことができた。レフト側ががら空きだということが分かっていても、一本足打法では当たりそこない以外に球が左方向に飛ぶことはありえませんからね」
 王氏はにこっと微笑んで、「その通りです。当時の野球評論家たちはまったく勘違いの解説をしていましたけどね」と答えてくれた。もちろん王氏は、私がスポーツ関係のジャーナリストではないことを承知していた。
 その王氏の「引き際」も見事だった。
 イチロー選手も、私たちを感動させてくれた。どの内閣の時代だったか覚えていないが、国民栄誉賞受賞の話があった。イチロー選手は「まだ現役だし、私は自分の野球に挑戦を続けている。引退したとき、私の野球人生にそれなりの価値を認めていただけたら、そのときは喜んでお受けさせていただく」と受賞を断った。このテレビでの会見を見て、私は涙した。
 黒田投手の話に戻る。
 彼は大リーグで5年連続二けた勝利という金字塔を成し遂げた。が、黒田投手は毎年のように200インニング前後を投げ続けてきた。年齢も投手としては限界に近付きつつある。自分の野球人生をどういう形で締めくくるべきか、その一点に、彼は「日本に戻る。広島カープに戻る」という決断の思いを込めたのではないだろうか。
 だとしたら、広島カープの首脳陣にお願いしたい。彼の起用法には格別の配慮をしてほしい。どんなに調子が良くても酷使は避けてほしい。黒田投手の雄姿をいつまでマウンドでファンに見せることができるか、に最大限の配慮をお願いしたい。それが、一日本人が示した心意気に対する、日本の組織が報いる唯一の方法だと思うからだ。黒田投手が引退する時、もう一度、涙を流せるような引退の場面を、テレビで見たいと思う。

今度こそ本当に「よい、お年を」


追記  26日、NHKは11月に横浜市で酒気帯び運転で道交法違反の現行犯逮捕されたNHK放送文化研究所の男性職員(49)を同日付で諭旨免職の処分にしていたことが分かった。事故を起こしたわけではなく、警察署によるネズミ捕りに引っ掛かったようだ。
 この処分についてNHKふれあいセンターの職員は、報道機関として飲酒運転撲滅を訴えている立場でもあり、一般の方から見ると重すぎる処分という声もあるが、あえて一罰百戒の意味も込めての処分にしたのではないかと思うと感想を述べた。あくまで一職員の感想であり、NHKの公式見解ではないが、通常、この程度のケースであれば戒告、重くて停職1~2週間程度の処分だろう。が、NHKがこのような厳しい処分を下したということが社会に与えた影響は、決して軽くない。諭旨免職処分された職員には気の毒だが、このケースが社会に大きな警鐘を鳴らす一事となれば、それはそれで大きな意味を持つ。
 私は70歳になったとき、運転免許書を返上した。67歳のとき、幼稚園の孫と Wii Fit というテレビゲームで遊んでいて、孫がバランス・ボードの上でぴょんぴょん跳ね回った後、得意げな顔で「じいちゃん、やってごらん」と挑発され、日ごろフィットネスクラブでエアロビクスやステップなどで汗を流していた私としては、4歳や5歳の孫に負けるわけがないと挑んでみたが、まるで歯が立たなかった。その結果、バスや公営地下鉄などが乗り放題になる「敬老パス」が支給される70歳になったのを機に、運転免許書を返上することにしたのだが、前にもブログで書いたが、車は「走る凶器だ」という認識をすべての運転者は持ってほしい。
 私は今年1月10日から4回にわたって『法務省官僚と国会が世論とマスコミの感情的主張に屈服して、とんでもない法律を作ってしまった』と題するブログを投稿したが、一定の基準を超えた運転操作(スピード違反、飲酒運転、ドラッグ運転など)は、道交法で取り締まるべきではなく刑法で取り締まるべきだと主張した。つまり一定の基準を超えた運転は「走る凶器の操作」に相当し、刑法による犯罪行為として扱えるようにすれば、交通ルール違反は一気に減少する。ネズミ捕りは、罰金取りが目的ではないだろう。

 
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STAP騒動は何だったのか②  理研は解体し、野依理事長は懲戒免職だ。

2014-12-26 08:21:21 | Weblog
 今日、理研がSTAP研究についての最終報告書を出すようだ。そのことを知ったのは今朝7時のNHKニュースによってである。だからこの文は今朝7時過ぎに書いている。以下はすでに23,24の両日に書いたものだ。一切手を加えずに投稿することにした。

 STAP騒動をどうして防げなかったのか。
 私は官僚社会特有の責任たらいまわしの体質にあると考えている。
 小保方晴子がようやく記者会見に姿を現し、「自分はSTAP現象の再現に200回以上成功している」「私以外にも成功した人がいるが、個人情報なので私には公表できない」「STAP細胞を作るにはちょっとしたコツとレシピが必要だが、それは特許との関係で公開できない」としゃべりまくったのは4月9日。
 理研のSTAP細胞研究の最高責任者であり、小保方の上司でもあった理研の発生・再生科学総合研究センター副センター長の笹井芳樹が、沈黙を破り報道陣の前に姿を現すことにしたのは4月16日午後3時だ。その日の朝、私は「状況が一変するかもしれない」という趣旨のブログを書いた。なおその時点では会見場所は東京としか知らされていなかった。理研の組織的圧殺を避けるために、あえて笹井は会見を、研究センターがある神戸から遠く離れた東京で行い、場所も直前まで明らかにしないことにしたようだ。そのブログで私はこう書いた。

 もし、笹井氏が腹をくくって記者会見に臨むというなら、おそらく理研の承認を得ずに個人的に行うつもりなのだろう。そうだとすれば、これまでは防戦一方だった小保方氏にも追い風が吹き出したのかもしれない。米ハーバード大額のチャールズ・バカンティ教授が昨日の気管支関係の国際会議の基調講演(テーマは「再生医療と幹細胞」)の中で「STAP細胞はある」と断言もしている。ハーバード大学教授というだけで世界の一流研究者の折り紙つきのようなものだが、国際会議の基調講演を行えるほどの大物ということになると、理研が束になってかかっても適いっこない。そのバカンティ教授が小保方氏を名指しで「ボストン(米ハーバード大の所在地)に戻ってこい」と呼びかけたというから、風向きが一変するかもしれない。
 いずれにせよ、理研への不服申し立てを行った小保方氏が、形勢を逆転すべく自ら開いた記者会見でかえって窮地に追い込まれた感があったが、記者会見での説明が不十分だった部分を補うべく、かなり説得力があると私は認める文書をマスコミ各社に送付したこと、またおそらく理研があずかり知らない記者会見をSTAP細胞研究の最高責任者の笹井氏が、理研の発生・再生科学総合センターがある関西から遠く離れた東京でわざわざ開くという行為そのものが、今日の会見に並々ならない決意で笹井氏が望むつもりではないかと思わせるに足る十分な根拠がある。
 いずれにせよ、理研が1年もかけて行うという小保方氏のSTAP現象の検証研究から、笹井氏も、肝心要の小保方氏を外したことは、もはや理研が日本屈指の研究機関というより、もう救いようがない官僚組織に成り下がってしま
ったことを意味する以外の何物でもない。笹井氏がどういう発言をするかは知る由もないが、理研は会見の前に「急きょ、検証研究に小保方氏の参加を要請することにした」と発表すべきだ。小保方氏を排除しての検証研究の結果など、発表したとたんに「やはり結論ありきだった」と世界の科学界から拒絶反応が出るのは必至である。そういう常識すら失っている理研は、もはや研究機関としてはだれも相手にしてくれなくなる。

 このブログを投稿したのは4月16日である。理研は3月、笹井・小保方の二人を外した検証研究チームを発足させており、理研が小保方を独居房のような一室に閉じ込めて監視カメラ付きで研究させることにしたのは6月末である。しかも理研が小保方をすでにスタートさせていた検証研究グループとは隔離してひとりで実験させることにしたのは、文科省の圧力に屈して野依良治理事長が指示したことによる。
 さて笹井は記者会見で真相を語ったのか。翌17日朝、私は『ノーベル賞級と言われる理研・笹井氏の釈明会見は一見理路整然に見えたが、実は矛盾だらけだった』と題するブログを投稿した。そのブログの冒頭で、私はこう書いた。
「笹井氏の記者会見は、結局理研がセットした形になってしまった。理研の理事が同席した会見なら、理研にとっては都合が悪いことを笹井氏がしゃべるわけがない。笹井氏が記者会見で説明したことは、STAP細胞研究の最終段階であり、小保方氏が論文としてまとめる段階だったから、それ以前の研究内容には責任が持てないという弁解に終始した」
 この記者会見によって疑惑がますます深まったが、同時に科学論文には著作権が存在しないという重要なことも分かった。メディアは、そこまでの理解が及ばなかったようだが…。私は17日投稿のブログでこう書いた。

 確かに笹井氏が京大教授から理研の発生・再生科学総合センターに副センター長として転職したのは昨年の4月であり、小保方ユニットチームのSTAP細胞研究は最終段階に入っていたことは間違いない。だから笹井氏の研究への関与は主に論文作成の手伝いにすぎなかったであろうことは否めない。
 だったら、笹井氏は論文の責任共著者として名を連ねるべきではなかったはずだ。責任共著者として名を連ねた以上、論文全体に責任を負わなければならないのは、一般社会(たとえば私企業や公的組織でも)では、それが常識というものだ。(中略)
 ところが、科学の世界では、こうした著作物の原則が無視されているようだ。責任共著者でありながら、「文章の改良や書き直しの指導をしただけ」だから(責任の重大性は言葉では認めながら)事実上、自分には論文の誤りについての責任はないと主張した。ということは『ネイチャー』などの科学誌に掲載された論文は著作物ではない、ということを意味している。つまり無断で引用しようと盗作しようと自由気ままにどうぞ、という世界だということになる。
 笹井氏は、こうも主張した。「私は小保方氏の直属の上司ではない。(中略)私は論文の改良や書き直しの指導をしただけ」というなら、書籍や雑誌記事で言えば編集者の仕事をしただけということになる。
 笹井氏はこうも弁解した。「本当は共著者にはなるべきではないと思っていたが、若山教授らに責任共著者になってほしい」と頼まれ、「いやとは言えなかった」とも述べた。少なくとも私の世界では、編集の仕事しかしていないのに共著者として名を連ねることは絶対にありえない。共著者になったら、著作物に対する責任も発生するが、権利も発生する。編集者に自分の著作物の権利(たとえば印税収入など)を頭を下げて貰ってもらうようなことは常識から考えてもあり得ない。そういった非常識な論理が、科学論文の分野ではまかり通っているということを、笹井氏の釈明は図らずも明らかにしてしまった。(中略)
 笹井氏は「STAP現象は合理性が高い可能性のある仮説として再検証する必要がある」とも述べた。そしてSTAP現象が存在する可能性の高さを示す例として「STAP細胞は非常に小さい細胞で、山中先生が作ったips細胞よりはるかに小さい。再現に成功する人がいないのは、STAP細胞が小さくて電子顕微鏡で見ても発見できなかったのではないか」と述べた。また細胞は死ぬときに緑色発行するのをSTAP細胞の発光と勘違いしたのではないかという研究者たちの疑問に対しては「細胞が死ぬ時の発光とは明らかに違う発光をしており、しかも発光しながら動き回っているのを確認している」とも述べた。
 それが事実だとすれば、笹井氏はSTAP細胞の存在を確認しており、「STAP現象を前提にしないと説明できないデータがある」などと回りくどい言い方をしなくても「私は自分の目でSTAP細胞の存在を確認している」と明言すればいいのではなかったのかという疑問を持たざるを得ない。(中略)
 STAP細胞が小さすぎて発見しにくいことを確認しているなら、せめて「理研の再検証研究チームに小保方氏も加えるべきだ。小保方氏でなければ再検証研究をしてもSTAP細胞の存在を確認できないおそれがある」と主張してほしかった。笹井氏に、科学者としての良心が爪の垢ほどでもあったなら、という話だが…。

 私は小保方、笹井両氏の記者会見を見て、この「研究」は世紀の科学的詐欺事件だという確信を持った。以降、私は両氏には「氏」という敬称を付けず、呼び捨てにして犯罪者として扱うことにした。その後、しばらくの間は安保法制懇が提出した「集団的自衛権行使のための憲法解釈変更」論に対する批判に集中してきた。再びSTAP騒動をブログで取り上げたのは6月5日に投稿した『小保方晴子のSTAP細胞研究は科学史上、空前の虚偽だったことがほぼ確実になった』である。
 実はその前日、小保方が『ネイチャー論文』の取り下げに同意したというニュースが報じられた。それまで小保方とバカンティは論文取り下げにあくまで同意しないと言い張ってきた。理研が小保方にどういう圧力をかけたのかは知らないが、小保方に何らかの餌を与えることで論文取り下げの同意を取り付けたのだろう。理研、という官僚組織を維持するために、理事長の野依は死にもの狂いになったのではないか。この日投稿したブログでこう書いた。

 このヒチコック映画さながらのどんでん返しは、いったい何を意味するのか。純粋に論理的に考えれば結論は一つしかない。
 理研改革委による、STAP細胞の有無を調べる検証実験に小保方を参加させるべきだという要請を受け、理研が小保方に「検証実験への参加」を打診したのではないか。その打診を受けて、小保方もとうとう嘘をつきとおすことは不可能になったと諦めたのではないか。
 小保方が記者会見で強気だったのは、理研が検証実験から小保方を外すという決定をしていたため、言いたい放題デタラメを話してもバレないと思い込んでいたからではないか。
 刑事コロンボの推理ではないが、このどんでん返しの理由はそれしか考えられない。そうなると、小保方も笹井もバカンティも、若山氏を除くすべての論文共著者は世界中の科学者を手玉に取った科学史上まれにみる大犯罪の共犯者ということになる。
 言っておくが、理研は私的研究機関ではない。小保方の研究は税金を注ぎ込んで行われてきた。理研の調査活動も検証実験もすべて税金で賄われている。メディアは小保方の主論文撤回によって「STAP細胞研究が白紙に戻った」としているが、そんな生易しいことではない。(中略)
 私も小保方が、初めから詐欺的研究をするつもりだったとは考えていない。が、偶発的に生じたSTAP現象(※突然変異のこと)を何とか正当化しようとして行った行為ではないかと思ってはいる。が、自分の功名心のために多くの人を騙し、税金をむさぼり使ってきた行為は、明確な意図のもとに行われたと解釈できる。彼らは国家権力(具体的には警察)によって徹底的に取り調べられるべきであろう。そうでもしなければ、この問題の真相は永遠に明るみにでない。

 改めて言っておくが、このブログを投稿したのは6月5日である。このブログを最後に、私はSTAP騒動についてのブログ投稿を休止してきた。8月5日、STAP細胞研究の最高責任者である笹井芳樹が、首つり自殺をしたためだ。自業自得とは言え、「死者に鞭打たず」の倫理観が根強い日本社会で、死後も笹井に鞭打つようなブログはさすがに私も書けなかった。
 理研は最終的にSTAP研究に終止符を打つという。が、それで済ませていいのか。昨日(24日)私は文科省著作権課に電話した。「科学論文には著作権がないことが分かったが、勝手に盗用しようと剽窃しようと自由ですよね」と聞いた。
 著作権課の担当者は「いえ、著作権はあります。盗用や剽窃は困ります」と答えた。
「ふざけるな」
 私は怒鳴り返した。著作者の権利は、著作物に対して責任を持つことが大前提だ。権利だけあって、問題が生じたときには責任は取ろうとしない――それが科学論文の世界だ。
 たとえば、殺人犯が警察の捜査に追い詰められて自殺したとする。笹井の自殺は、私に言わせれば、そうした行為となんら変わることはない。だとしたら、自殺した殺人犯も、笹井と同様同情の目で見られるべきだろう。
 最大の問題は理研のトップ、野依良司だ。笹井の自殺についても他人事のようなコメントを出したが、理研の決定を受けて辞表を提出した小保方晴子に対しても、他人事のようなコメントを出した。野依のコメントはこうだ(毎日新聞より)。
「STAP論文が公表されてからこの10か月余り、小保方晴子氏にはさまざまな心労が重なってきたと思います。このたび退職願いが提出されましたが、これ以上の心の負担が増すことを懸念し、本人の意思を尊重することとしました。前途ある若者なので、前向きに新しい人生を歩まれることを期待しています」
 小保方に、研究者としての前途なんかあるわけがない。たとえば佐野眞一氏や猪瀬直樹氏に、ノンフィクション作家としての将来が絶たれたのと同じだ。理研の最高責任者である野依も、かつてはノーベル賞の栄誉に輝いたが、STAP細胞騒動についての対処の不始末によって晩節を汚すことになった。
 まず新年度を迎えて管轄の文科省が取り組むべきは、野依の懲戒免職と理研の完全解体だ。理研は日本最高の研究機関とされてきた。優秀な科学者・研究者には引く手があまたになる。理研が解体されても、小保方のようなペテン師でなければ研究の場はいくらでもある。民間企業の中村修二氏のような研究者でも、日本に研究の場がなければアメリカはもろ手を挙げて迎えてくれる。
 ちょっと気になることは、小保方が提出した退職願が受理されたということは、おそらく規定にのっとった退職金も支払われるということだろう。
 理研の最後の仕事は、小保方の退職願の受理を取消し、懲戒解職扱いにすることだ。年末に差し掛かって、こんな不愉快なブログで締めくくることになるとは、つゆ思っていなかった。

 明日から長期休暇に入られる方も多いようだが、私のブログの読者には年末年始もない方が多いと思うが、来年はこんな不愉快な気持ちで年越しをしたくないものだ。
「よい、お年を」
 
 
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STAP騒動は何だったのか① 追記:アベノミクスは崩壊寸前だ。

2014-12-22 08:17:45 | Weblog
 いったいあの騒動はなんだったのか。メディアも困惑を隠しきれない。
 今日の全国紙5紙は、一斉に社説でこの騒動について報じた。昨日、理化学研究所(理研)が発表したSTAP細胞なるものの検証実験の結果についてだ。(※このブログは20日に書いた。投稿がずれたのは急用ができたため)
 世界で最も権威があるとされるイギリスの科学誌『ネイチャー』が、小保方晴子らが投稿した論文を掲載したことで、世界中が興奮の渦に巻き込まれた。記者会見で小保方は「夢の若返りも…」と研究成果を誇った。小保方の隣では指導者の笹井芳樹が満面の笑みを浮かべていた。その笹井は、いまはいない。衝撃的な自殺を遂げたからである。笹井は遺書で小保方にSTAP現象の再現への悲痛な期待を寄せた。が、4月の記者会見で小保方が「200回以上作製に成功した」と言い切ったSTAP細胞の作製に、失敗した。
 私がSTAP騒動を知ったのは3月10日。NHKが『ニュース7』で、共同研究者だった山梨大学の若山昭彦氏が『ネイチャー論文』の取り下げを共著者に呼びかけていると報じたのがきっかけである。その翌日、私は『小保方晴子氏のSTAP細胞作製はねつ造だったのか。それとも突然変異だったのか?』と題するブログを投稿した。その中で私はこう書いた。

 自然科学の分野における新発見や発明は、再現性の確認が極めて重要な要素を占める。生物学の分野においては「突然変異」という現象が生じることはよく知られている。私も多分中学生のころ理科の勉強で学んだと記憶している。なぜ突然変異が生じるのかは、私の中学生時代にはもちろん解明されていなかった。ただ、科学的に説明不可能な変化が生物界にはたびたび生じていて、その現象を「突然変異」と称することになったようだ。
 いまは、なぜ「突然変異」が生じるのかの研究がかなり進んでいて、DNAの塩基配列に原因不明の変化が生じる「遺伝子突然変異」と、染色体の数や構造に変化が生じる「染色体突然変異」に大別されているようだ。こうした変化が生じる原因を特定できれば、同様の状況を遺伝子や染色体に作用させれば、それは「突然変異」ではなく人工的に同様の変異を作り出すことが可能になるはずだ。
 実は農作物の新種改良は、意図的に突然変異をたまたま作り出すことに成功した結果である。種無しブドウや種無しスイカなども、たまたま突然変異で生じた種無し果物を何世代にもわたって掛け合わせて創り上げたもので、研究室の中のフラスコやビーカーの中で創られた新品種ではないのである。遺伝子操作による品種改良の最初の商用栽培は1994年にアメリカで発売された「フレーバーセーバー」で、熟しても皮や実が柔らかくならないトマトである。
 で、問題はSTAP細胞が原因不明で生じた「突然変異」だったのか、それとも研究者としては絶対に許されないねつ造研究だったのか、ということに絞ら
れるのではないかと私は見ている。(中略)
 が、STAP細胞の場合は、単に再現性が確認できなかったというだけでなく、小保方氏の研究グループが発表したSTAP細胞の写真に何らかの人工的な作為の形跡が見られたようだ。そうなると、再現性が確認できたかできなかったかというレベルの問題ではなくなる。
 物理的現象でも、必ず再現するとは限らない。私自身の経験で言えば、40年近くのことだが、妻が東芝のスチームアイロンを使っていた時、アイロンの注水口から突然熱湯が噴出して娘の足に飛び散り大やけどしたことがあった。私は直ちに県の試験場にアイロンを持ち込み調べてもらった。実験の結果、再現が確認できたため、試験場は記者会見を開いて公開実験をした。公開実験は失敗だった。熱湯が噴出しなかったのである。が、熱湯が噴出した瞬間を写した写真を記者に配布していたため、かなりの新聞が大きく取り上げ、スチームアイロンは危ないという認識をかなりの人が持った。これは40年近く前の話で、現在のスチームアイロンが危険だと言うつもりはない。(中略)
 話が横道にそれたが、ある種の状況下でSTAP細胞ができたというのは事実だろうと思う。しかし再現実験をすると同じ結果にならなかった。そこで「再現性がある」ことを証明するために写真を人工的に作為を施したとしたら、悪質と言わなければならない。(中略)ひょっとしたらSTAP細胞も100年後に確実に再現できる方法を誰かが見つけるかもしれない。自分たちの研究成果を、いま間違いのないものにするための細工をすれば、その研究に手を染める人はいなくなってしまう。そのことのほうが、失われるものは大きい。

 この時点では理研は「研究の本質的な部分については揺るぎないものと考えている」と発表していた。が、理研の構造的な問題が次第に明らかになっていく。若山教授が論文取り下げを共著者に呼びかけたとNHKが報じ、私がSTAP騒動についての最初のブログを投稿した3日後の14日、私は『小保方晴子氏のSTAP細胞作製疑惑に新たな疑惑が浮上した。彼女はなぜ真実を明らかにせず逃げ回るのか?』と題するブログを投稿した。そのブログで私はこう書いた。

 STAP細胞の夢が消えようとしている。昨日(13日)、STAP細胞の作製に成功したとされてきた小保方晴子氏が「研究ユニットリーダー」として籍を置いている理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター長の竹市雅俊氏が毎日新聞の取材を受け、『ネイチャー』に投稿・掲載された論文について「取り下げざるを得ない」と語った。(中略)
 いま『ネイチャー』に投稿した論文に掲載された写真が、過去の論文に掲載した写真と酷似していることも問題になっている。この問題の仕方もおかしい
と言わざるを得ない。万能細胞であることを証明する根幹ともいうべき写真だそうだが、でっち上げの写真なのか、単に過去の論文に掲載した写真と酷似しているだけなのか、それを調べなければ結論は出せないはずだ。マウスを使って作製した万脳細胞だったら、同じ実験で得た写真が酷似するのは当り前ではないか。『ネイチャー』に掲載した写真が、人工的に細工が施されたものであれば、とんでもない話だが、その証明はされていないようだ。
 第一、論文の著者名には14人の研究者が名を連ねている。論文を取り下げるよう告発した若山氏も名を連ねた著者の一人だ。彼は研究には参加せずに、名前だけ貸した人間なのか。メディアは告発した若山氏を英雄のように扱っているが、今頃になって研究者の良心がとがめるくらいなら、安易に名前を貸したことについて「STAP細胞作製についてどのような関与をしたのか、なぜ確信が持てない研究論文に著者として名を連ねたのか、当時は確信していたとしたら、なぜ今になって確信が持てなくなったのか」といった疑問に、まず答える必要があるのではないか。そうすればSTAP細胞作製に対する疑惑の解明にも大きな役割を果たすことになる。
 11日に投稿したブログにも書いたが、100%の再現性がなければ事実として認められないというのであれば、少なくとも若山氏は共同研究をしていた時には100%の再現性を認めていなかったのか。ips細胞発見の山中伸也教授にしても、いきなり100%の再現性が認められる結果に出くわしたわけではないと思う。
 自然界の状況は、同じ日、同じ場所でも、1分違えば差異が生じる。そうした差異が偶然の大発見、大発明につながるケースも少なくない。そうした現象を生じさせた自然界の状況を突き止めることができれば、同じ条件を人工的に作り出すことによって再現性は限りなく高まる。
 私はいまでも、事実としてはSTAP細胞は出来ていたのではないかと思っている。(中略)
 ネイチャー誌の規定により、論文の取り下げには著者全員の同意が必要だという。果たして全員が同意するのか。もし同意するということになると、若山氏も含め著者全員に、論文に名を連ねたことの説明責任が生じる。「ビールをごちそうになったから名前を貸した」では済まされない。
 また、これだけ大騒ぎになっているのに、肝心の小保方氏はなぜメディアから逃げ回っているのか。たとえ再現性に問題があったとしても、少なくとも13人の研究者がいったんはSTAP細胞作製の成功を認めたわけで、小保方氏自身の説明責任は何よりも重い。自分が首をくくれば、それで済むという問題ではない。冗談ではなく、追い詰められて、真相を闇に葬ったまま小保方氏自身が自ら命を絶つことを私は一番恐れている。

 当初「研究の本質的な部分については揺るぎないものと考えている」と断言していた理研も4月1日にSTAP論文の取り下げを恭茶者全員に勧告することに決めた。その報道を受け、私は2日に投稿したブログ『小保方晴子氏ら14人共著のSTAP論文は「改ざん・捏造」だったのか? 論文取り下げには全員の同意が必要』と題するブログでこう書いた。

 STAP細胞発見の研究そのものが不正ということになると、小保方氏の研究者生活は終わりを告げることになる。少なくとも『ネイチャー』に論文を投稿した時点では、理化学研究所の調査対象になった3人(※若山照彦氏、笹井芳樹氏、丹羽仁史氏)だけでなく、他にも10人の国内外の研究者全員が小保方氏の不正研究を見抜けなかったことになる。世界最高権威とされる科学誌に投稿する論文、それも常識的にはありえないとされた発見に、発見者の小保方氏以外に13人もの研究者がいとも簡単に権威づけのために名前を貸したのか、という疑問が生じる。もしそうだとしたら、『ネイチャー』に掲載された論文すべて疑いの目で見なければならないということになる。しかも小保方氏以外にも『ネイチャー』論文には笹井氏や丹羽氏をはじめ理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの研究者6人が共著者として名を連ねている。この6人の研究者は一切STAP細胞研究に関係していなかったというのか。理化学研究所の調査対象にすら入っていなかったということは、そういうことを意味する。
 日本の基礎研究の最高峰の一つとされている理化学研究所では、そうした名前の貸し借りが日常的に行われているとしか考えられない。(中略)小保方氏はなぜ再現性が証明できないのか、自ら語る責任がある。いつまでも姿を現さずに「このままでは、あたかもSTAP細胞の発見自体がねつ造であると誤解されかねない」と研究の「正当性」を主張しても、説得力に欠けると言わざるを得ない。

 4月9日になって、ようやく小保方氏が記者会見の場に姿を現した。その記者会見は予定をオーバーして2時間半に及んだ。この記者会見を見ていて、私は初めて、たとえ突然変異であったとしても本当にSTAP現象はあったのか、という疑問を抱いた。私は10日に『小保方晴子氏が反撃を開始した①――STAP現象は証明できるのか?』、11日に『同②――論文ミスは悪意の所産だったのか?』と題するブログを続けて投稿した。まず10日のブログではこう書いた。

 基本的に記者たちの関心はSTAP細胞が本当に存在するのかという一点に絞られていたようだ。そうした専門的な質疑応答に私が口を挟めるほどの知識があるわけではないので、一見よどみなく答えていた小保方氏の説明については
専門の研究者の判断に任せるしかないが、小保方氏が「私自身はSTAP現象の
再現に200回以上成功しており、(証拠の)写真も1000枚以上ある」と主張したこと、また「自分が関係しない実験で(STAP現象の再現に)成功した人も一人いるが、その人の名前はプライバシーの問題もあって公に出来ない」と証言したことについては、私自身は多少もやもやしたものを禁じ得ない。
 私は一貫して「STAP細胞は存在したのではないか。ただし再現実験に成功したという人が現れていない以上、きわめて再現性が低い“突然変異”的現象ではないか」と主張してきた。そして突然変異などないと、常識的には考えられている物理現象にも、きわめて再現性が困難で、現象としては突然変異的に見えるケースに私自身が遭遇したことも書いた。
 そういう意味では小保方氏が200回以上も成功していながら、再現に成功した人がいぜんとして出てこない以上、考えられる一般的なケースは二つしかないと思う。
 一つは、小保方氏が万能細胞の一つとされているES細胞を何らかの理由で勘違いして新種の万能細胞と思い込み、STAP細胞と命名し、いまでもその思い込みを信じている可能性である。それは小保方氏がSTAP現象が生じたと主張している根拠の1000枚に及ぶ証拠写真の精査を、理研以外の権威ある研究機関に依頼すれば第3者の判定として有効性が高まると思う。それもできれば複数の研究機関(海外も含め)に依頼すれば、信ぴょう性はより高くなる。
 もう一つ気になるのは、小保方氏にとってはいとも簡単に再現できるSTAP現象が、なぜほかの研究者にとっては不可能なのかということだ。小保方氏によれば、「ちょっとしたコツとレシピが必要」ということだが、その「コツとレシピ」をなぜ公開しないのかという疑問が残る。
 いま私は白内障の手術を受けており、4月3日に右目を手術して視力は順調に回復しつつあるが、非常に慎重な眼科医で左目の手術は17日の予定になっている。テレビで見たことだが、三井記念病院には日帰りで両眼の手術をする名医がいるという。ただ、この手術はだれにでもできる手術ではなく、芸術家のような手先の器用さが必要らしく、この医者が開発した手術法が一般化するとしたら、この眼科医のテクニックをコンピュータに記憶させてロボットに手術させるようにするしか方法がないと思う(※これは医者ではない私の思い付き)。
 私が白内障の手術を例に出したのは、小保方氏がSTAP現象の再現のために使用したと主張する「コツとレシピ」が極めて特殊なもので、誰にでも使えるものではないとしたら、「コツとレシピ」が小保方氏の頭の中にしかない状態のままでは、STAP細胞が実在したとしても人類の未来に光をともす画期的な発明にはなりえない。「コツとレシピが必要」と主張する以上、その中身を公開するのが研究者としての責務ではないか。

 翌11日に投稿したブログではこう書いた。

 小保方氏とは別に再現実験に成功した人がいるというのだから、その人の同意を得て成功者の名前や所属研究機関名などを明らかにすべきだろう。多くの人が再現実験に挑戦して失敗し続けているのだから、成功者が一人でもいれば、再現性の困難さはあってもSTAP現象は間違いなく存在したという証拠の一つにはなる。(中略)
 小保方氏が、その成功者をプライバシーを理由に公表することをためらった理由が私には分からない。(中略)少なくとも私が小保方氏の立場だったら、「私が関係していない研究者が再現実験に成功したという話も聞いていますが、実験データも写真も私は見ていないし、論文も出ていませんから、STAP現象の証明には相当しないと思っています」と話していた。それにしても記者会見には300人のジャーナリストが集まったというから、その中から誰一人としてプライバシーを理由に成功者の特定を拒んだ小保方氏に対して「特定できない成功者が何百人いようとSTAP現象の裏付けにはならない」と追及する人がいなかったのは、情けないとしか言いようがない。

 4月上旬の時点では、私もSTAP細胞の存在に一縷の可能性を期待していた。私がこれは犯罪行為だという確信を持ったのは笹井氏の記者会見によってである。そのことは改めて書く。(続く)

追記 これは今朝書いている。あらかじめお断りしておくが、メディアや政治関係者は、22日の朝、私が予測したことを記憶にとどめておいてほしい。
 いわゆるアベノミクスは早晩崩壊する。理由は、OPECが石油生産量を調整することにするからだ。いま世界経済は大混乱に陥っている。OPECが石油生産量の調整をしないことを決定した瞬間から原油価格が暴落し始めた。
 安倍さんが勝手に「アベノミクスの継続について国民に信を問う」という屁理屈にもならない口実で衆院を解散したとき、この選挙に国民はしらけきっていた。私は公示日(12月2日)の翌日のブログで「今回の総選挙は憲政史上空前の低投票率を記録することは間違いない」と書いた。その時点でそう予測したメディアはまったくなかった。
 結果は戦後の衆院選で最低の投票率だった前回の衆院選を7ポイントも下回
る52.66%という投票率だった。メディアはすべて「予想を下回る低投票率」と解説した。が、私は17日に投稿したブログで「予想をはるかに上回る高投票率になった」と書いた。数字の読み方である。そのブログで私はこう書いた。
「投票日直前にメディアが、自民党が300超の議席を獲得する可能性が高いと報じた。びっくりした有権者が、安倍政権に対する反対票を投じるために投票所に足を運んだ。その結果が50%を上回る「高投票率」となって表れた。(中略)15日に投稿したブログで書いたように、アナウンス効果が劇的に働いたことを意味する」
 安倍政権にNOという意思表示をするために、しらけきっていた有権者が動いてしまった。
 私はブログで読者に「投票所に足を運ぶな」などとは書いたことはない。たとえ書いたところで、そんな影響力を私のブログが持っているわけではない。私は先の衆院選が「憲政史上最低の投票率になる」と予測しただけだ。結果は私の予想をはるかに上回る高投票率になった。安倍政権にNOを突きつけるために投票所に足を運んだ有権者の選択肢が割れた。議席を大幅に減らすとみられていた民主党が議席を11も増やした。劇的だったのは共産党の躍進である。
 共産党の躍進をどう考えるかの論理だ。日本が左傾化していると思う人はおそらくいないだろう。共産党に一票を投じた有権者は、安倍さんにNOを突きつけるために消去法で共産党を選んだだけだ。日本が共産主義国家になることを望んで票を投じたわけではない。
 時間がないので結論を急ぐ。安倍さんは「アベノミクスの継続について国民に信を問う」という屁理屈をこいて700億円もの税金を投じて党内独裁権力を固めようとした。その安倍さんにとんでもないクリスマス・プレゼントとお年玉が届いた。OPECが石油生産量の調整をしないと決めたことだ。そのためアベノミクスの崩壊がかろうじて免れた。そのことは15日に投稿したブログでこう書いた。
「もしOPECが原油の生産調整を決めていたら、原油価格は現在進行中の暴落とは逆の、大暴騰になっていた。アベノミクスの失敗に原油価格の暴騰が重なっていたら、日本経済と国民生活は致命的な大打撃を受けていたはずだ」
 いま世界の経済を左右している最大の要素は原油価格である。OPECが生産量の調整をしないことにしたため、アメリカとロシアの経済が窮地に陥っている。オバマ大統領は安倍政権の継続にリップ・サービスを贈ったようだが、いま水面下でロシアと足並みを揃えてOPECに石油生産量を調整するよう迫っているはずだ。安倍政権が吹っ飛ぼうがどうなろうと、アメリカとロシアの国益はその一点で合致している。そのことに、メディアはなぜ気付かないのか。
 いま、アメリカとロシアが足並みを揃えてOPECに圧力をかけているはずだ。
おそらくOPECは石油生産量の調整に踏み切るだろう。その瞬間、アベノミクスは崩壊する。その日がそう遠くない、と私は思っている。そのことを、今朝私が論理的結論として予測したことを、メディアと政治関係者は記憶にとどめておいてほしい。

 

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民主主義とは何か」がいま問われている⑧--「一票の格差是正」か「重複立候補制の廃止」か。

2014-12-19 07:36:10 | Weblog
 衆議院選挙が実施された翌日(15日)、早くも選挙無効の訴えを弁護士グループが起こした。それも各地の地裁ではなく、全国の8高裁・6高裁支部にである。地裁→高裁→最高裁、という通常の手続きを省いて、いきなり高裁→最高裁という最短ルートで短期決戦を挑むためだ。
 提訴したのは「一人一票実現国民会議」を主宰する升永英俊弁護士のグループである。別のグループも同日、広島高裁で選挙無効の提訴を起こした。
 今回の選挙では小選挙区定数295人、比例区定数180人を選出した。1票の格差を是正するため小選挙区定数を「0増5減」したため小選挙区が5区減少して295になった。それでも選挙当日の有権者数が最多の東京1区と最少の宮城5区の間で2.13倍の格差が生じており、違憲状態が解消されていないというのが、選挙無効の訴因である。
 衆院選の「1票の格差」については最高裁が、09年と12年に「違憲状態」と裁定し、選挙制度の抜本的見直しを立法府である国会に命じた。国会は区割り変更を伴う「0増5減」による定数削減によって、いったんは1票の格差をギリギリ2倍以内に納めたが、その後の各小選挙区内の有権者数の増減によって再び格差が2倍を超えた。
 今回の衆院選も、おそらく最高裁は「違憲状態」と裁定すると思われる。最高裁は09年選挙に対する判決(11年3月)で、「47都道府県に最初に1議席ずつ割り振って、残りを人口比例で配分する一人別枠方式に違憲状態が解消されない原因がある」と小選挙区制の制度疲労にまで踏み込んだ。
 最高裁のその指摘は、論理的には正しい。が、民主主義という制度は「多数決原理」という致命的欠陥を持った政治システムである。
 もし多数決原理を完全に実施したら、日本の政治はどうなるか。最高裁は、そこまで考慮に入れたうえで「一人別枠方式」を否定したのか。
 選挙制度は、その国の民主主義の成熟度を測る重要な指標になる。論理的には正しくても、国民の生活に格差が広がることになると、民主主義という政治システムの欠陥がむき出しになってしまう。
 いま日本は少子高齢化と、人口の大都市集中という、二つの大きな問題を抱えている。この問題をどう解決するかが、選挙制度に絡んでくる。
 もし多数決原理を完全に反映した選挙制度(「一人一票実現国民会議」の弁護士グループの主張はそういう選挙制度を目指しているようだ)にしたら、高齢者福祉最優先・大都市中心の予算配分(つまり地方切り捨て)の政治を行わざるを得なくなる。
 そういう多数決原理の持つ致命的欠陥の修正策として「一人別枠方式」が機能しなければならないのだが、自民党の党利党略のための制度になっていることに問題があると考えるのが合理的であろう。
 そもそも小選挙区制は宮沢内閣のときに、アメリカ型の「政権交代可能な2大政党政治」を日本にも導入することを目的に実施されることになった。先進国で「政権交代可能な2大政党政治」が実現されているのは、事実上アメリカとイギリスだけである。多くのヨーロッパ先進国は多党政治・連立政権になっている。
 実は日本も事実上2大政党政治が行われていた時代があった。自民党と社会党が対峙した55年体制時代である。が、社会党に政権担当能力がなかったため、自民党による1党支配の政治が長年続いてきた。そうしたいびつな1党支配の政治システムに終止符を打つために導入されたのが小選挙区制である。
 実はの話を続けて恐縮だが、日本が小選挙区制を導入する少し前の1993年8月に「非自民・非共産」を旗印にした連立政権が誕生したときがある。細川内閣がそれである。が、自公連立のような政策協定のない、寄り合い所帯の政権だったため、結局、何も決められない短命の「野合政権」に終わった。この野合政権から政権を奪還するため、自民党はあえて「禁じ手」を使った。
 宿命のライバル政党だった社会党を細川連立政権から引き抜いて、社会党党首の村山富市氏を担いだのである。政権を担うことのうまみを知った社会党は、自民党からポイと捨てられたあと分裂し、その一部が自民党から飛び出したグループと合流して作ったのが民主党だった。民主党は09年7月の衆院選で、絶対安定多数を超える308議席を獲得して政権の座に就いた。
 ようやく日本にも政権交代可能な2大政党政治時代が来たかと思われたが、それは錯覚でしかなかった。細川内閣は「野合政権」だったが、民主党は寄り合い所帯の「野合政党」でしかなかったためである。決められない政治が再び繰り返されただけで、国民は民主党にも見切りをつけざるを得なかった。
 そうなった原因の一つに選挙制度の問題があった。日本の場合は、単純小選挙区制ではなく小選挙区比例代表制である。「一票の格差」の問題とは別の致命的欠陥を含んだ制度にしてしまった。
 比例代表制は、小政党も国政の場から排除しないという、多数決原理の修正策として導入されるのが一般的だが、日本は小選挙区での立候補と比例代表名簿にも搭載できる重複立候補制にしてしまった。その結果、選挙民から選ばれなくても、政党の比例名簿上位にランクされていれば当選してしまうというおかしな制度になった。今回の選挙で言えば、管直人元総理が小選挙区では落選したのに、比例で当選してしまった。いわゆる「復活当選」である。
 小選挙区の選挙は、有権者が直接立候補者を選択する選挙である。が、比例は政党に投票した票である。小選挙区で選択されなかった人が、なぜ比例で復活当選できるのか。有権者には理解しがたい制度、と言わざるを得ない。
 本来比例は、選挙活動を行うほどの資金力や組織的バックのない人が、「選挙
活動をしなくてもいいよ。あなたの見識や政策立案能力を国政の場で活かして
もらいたい」という趣旨で設けられてこそ、比例区を作った意味があると私は考える。
 いま主な政党は、選挙の立候補者を応募者から選ぶ方式を採用している。私自身は政治家になるつもりもないし、なりたいとも思わない。過去に「金の心配はしなくていいから」と誘ってくれた政党もあったが、「すぐ総理大臣にしてくれるならいざ知らず、ただの一平卒として党の方針に唯々諾々と従わなければならないようなロボット議員になるより、好き勝手なことを書いていた方がいい」と、生意気なことを言ってお断りしたこともある。
 私のことはともかく、カネもなければ知名度もない。だが、日本の将来を真剣に憂い、人気取りのためではなく、本当に明るい日本の未来図を設計できる人をこそ比例代表の名簿に載せるべきだろう。弁護士グループは、表面的な「一票の格差」にばかりとらわれるのではなく、現在の重複立候補制を廃止に追い込むための法的手段を考えてほしい。
 
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安倍サンよ、勘違いしてもらっては困る。安倍・自民党を支持したのは有権者のたった20%だ。

2014-12-17 06:28:51 | Weblog
 案の定、安倍総理は「自民党の公約が国民から支持された」と言い出した。その「公約」の中には国民が支持したとは言いきれない集団的自衛権行使のための国内関連法案の整備も含まれているという。そんな勝手な話があるか。
 今回の総選挙の投票率は戦後最低の52.66%。私は50%すら割ると思っていたが、予想をはるかに上回る「高投票率」になった。
 なぜか。投票日直前にメディアが、自民党が300超の議席を獲得する可能性が高いと報じた。びっくりした有権者が、安倍政権に対する反対票を投じるために投票所に足を運んだ。その結果が50%を上回る「高投票率」となって表れた。その状況証拠が共産党の躍進であり、劣勢が報じられていた民主が議席を11も伸ばし、維新も現有勢力をほぼ維持する結果であり、300超の一人勝ちが予想されていた自民は逆に議席を減らす結果となった。15日に投稿したブログで書いたように、アナウンス効果が劇的に働いたことを意味する。
 安倍総理は選挙の総括として「予想をはるかに上回る支持だ。アベノミクスをさらに前進させろとの声を国民からもらった」と胸を張った。本当にそうか。
 投票率は52.66%。比例区での自民党に対する支持率は37.78%(自民党の当選議員数68人の比率。本当は比例区での自民党の獲得票比率で計算すべきだが、現時点では不明)。
 ということは、安倍内閣の継続を支持した有権者は52.66×37.78%=19.89%で、残りの80.11%は安倍内閣の継続を支持しなかった。そう考えるのが、最も合理的である。
 私は7回にわたる連載ブログ『総選挙を考える』で書いてきたように、安倍総理は当初、消費税増税の延期を選挙の争点にしたかった。が、どの政党も消費税増税時期を延期すべきではないなどとは主張しなかった。が、安倍総理が海外から永田町に吹き込んだ解散風は、さすがの安倍総理もストップできないところまで吹いてしまった。
 やむを得ず安倍さんは争点を「アベノミクスの継続」に勝手に変えた。「アベノミクスが失敗だというなら、対案を出せ」と野党に迫った。
 その前に、私は11月18日早朝に投稿したブログで「争点は明らかになったが、有権者には選択肢がない選挙」と位置付けた。私が消去法で争点を「アベノミクスの総括」と断定した時点では安倍さんは、まだ解散表明をしていない。安倍さんが解散を表明したのは18日の夜であり、その記者会見で初めて「アベノミクスの継続について国民に信を問う」と選挙の争点を明らかにした。私のブログはメディアだけでなく、首相官邸や内閣府もチェックしているから、私が安倍さんに解散の大義を提供してしまったのかもしれない。
 が、アベノミクスは安倍さんが、黒田日銀総裁とつるんで勝手に始めた経済政策であり、野党は特段反対していたわけではない。私だけが、安倍政権が誕生した直後の12年12月30日に投稿したブログ『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』で疑問符をつけただけだ。その時点ではアベノミクスという言葉もなかったし、安倍さんが日本経済回復のために打ちだした経済政策は①金融緩和によるデフレ脱却と②公共工事による経済効果の二つだけだった。この二つに③成長戦略を加えていわゆる「アベノミクスの3本の矢」にしたのは13年4月に入ってからである。
 アベノミクスの継続について国民の信を問うというなら、野党と唯一対立した集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更についてだろう。
 また、沖縄県知事選で明らかになった沖縄県民の意志を無視してもいいか、を国民に問うべきだろう。沖縄に集中している米軍基地は、本当に日本にとって抑止力になっているのか、を明らかにすべきだろう。
 私は単純な「平和主義者」ではない。日本が現在、国際社会に占めている地位にふさわしい「アジアと環太平洋の平和を維持するための貢献」ができるように、憲法を改正してアジアおよび環太平洋の国々と協力してアジアと環太平洋の平和をまもるための体制を整えるべきだと考えている。
 が、憲法を改正せず、憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使するというのなら、集団的自衛権を行使する前に、韓国に実効支配されている日本の領土を取り返すために個別的自衛権をなぜ行使しないのか、の説明を国民に果たす責任があるのではないか。
 日本は国際紛争を平和的に解決するための努力をするために個別的自衛権の行使に踏み切らないというのなら、少なくとも韓国に実効支配されている竹島やロシアに不法占拠されている北方四島を返していただくために重ねている平和的解決の努力の期間(つまり60余年間)は、集団的自衛権を行使する前に話し合いによる平和的解決の努力をすべきだろう。
 国民に信を問わなければならないのは、アベノミクスの継続なのか、それとも憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使なのか。
 安倍さんは19.89%の支持率で、集団的自衛権の行使も国民から容認されたという。バカも休み休みに言え。驚き・桃の木・山椒の木、とはこのことだ。
 読者に約束した全国紙5紙の社説の検証は、馬鹿馬鹿しくなったので止める。
 
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総選挙で国民が示した民意は何だったのか?

2014-12-15 08:36:58 | Weblog
 11月18日夜、海外歴訪から帰国した安倍総理は解散を初めて明言した。その日の早朝投稿したブログの最後に、私はこう書いた。
 
 今日安倍総理が解散を宣言するようだ。「早まった」と後悔しているかもしれないが、ここまで来た解散風を止めることは総理にも出来まい。「争点なき選挙」と言われてきた12月総選挙だが、アベノミクスの総括が最大の争点になることは必至だ。野党間の立候補調整がうまくいけば大逆転もありうるが、野党が勝利しても所詮野合政権の再登場になるだけだ。アメリカと同様、何も決められない政治になることは必至だ。「争点は生じたが、選択肢のなくなった総選挙」と私は定義する。

 21日のブログではこう書いた。

 安倍総理は解散表明後の記者会見でこう述べた。「今回の選挙で自公が過半数を取れなければ、アベノミクスが国民から否定されたことを意味する。私は直ちに退陣する」と(19日)。つまり与党が過半数を獲得すればアベノミクスは国民から支持されたことになる、と言いたいようだ。(中略)野党の足並みが揃わないうちに解散に打って出て、今後もアベノミクスを強引に進めるための解散と考えるのが自然だろう。安倍総理は解散記者会見でこうも述べていた。「消費税増税という国民生活にかかわる大きな税制改革は民意を問うべきだ。民主政権はマニフェストにうたっていなかった消費税増税をやろうとして失敗した」。それが解散の大義だという。が、自民党単独政権時代の竹下総裁も橋本総裁も、消費税導入や増税をマニフェストでうたって総選挙を戦ったことはない。しかも普天間基地移設問題について、沖縄県民の民意が明確に示された沖縄知事選については「すでに過去のこと」と考慮に値しないことを菅官房長官は表明している。だったら3党合意による消費税増税も、今さら民意を問う必要はないのではないか。安倍総理が主張する大義は、いかにもしらじらしいとしか思えない。

 公示日(12月2日)の翌日(3日)に投稿したブログではこう書いた。

 いずれにせよ、今回の総選挙は憲政史上空前の低投票率を記録することだけは間違いない。結果として国民に選択肢がないため(野党が効果的な経済政策を打ち出せないため)、自公連立政権は継続されることも間違いないが、はっきりしていることは選挙の低投票率は、国民が突き付けたアベノミクスに対するNOであることだけは言っておく。昨日から選挙戦は本番に突入したが、「こん
なに盛り上がらない選挙は、かつてあっただろうか」という有権者の反応の実
態がもうすぐ見えてくる。

 その総選挙が昨日行われた。結果は皆さんご存じだから繰り返さない。ただ選挙戦の終盤にメディアが予想した自民党の獲得議席が、予想の300超をかなり下回る291議席にとどまったことの意味だけ明らかにしておきたい。また、投票率が戦後最低だった前回総選挙の59.32%をかなり下回る52%前後になった(朝日新聞)ことに示した有権者の意志の意味も明らかにしておきたい。メディアにその能力を期待することは無理だからだ。
 実は私は、今次総選挙の投票率は50%を割ると思っていた。史上空前の低投票率になるとの予測は当たったが、有権者の50%超がなぜ投票所に足を運んだのか。そしてメディアの世論調査による自民党の当選者が予想をかなり下回ったのか。実は同じ理由による。 

 アナウンス効果……それが強力に働いた。「アナウンス効果」とはどういう意味か。ネット解説の一つ「はてなキーワード」はこう説明している。
「報道によりその対象に影響を与えること。とくに選挙報道の際問題にされる。ある候補者が苦戦していると報道されると、激励票や同情票が集まるアンダードッグ効果(負け犬効果)が最も多く指摘されるが、組織などが優勢候補を支持するバンドワゴン効果(勝ち馬効果)もあり、実際には誰に有利になるかはケースバイケースである。多くの陣営は当落線上、当選まであと一歩と報道されることを好む」
 このアナウンス効果が強力に働いた選挙だった。選択肢がないために投票所に足を運ぶつもりがなかった無党派有権者が、自民党の一人勝ちにNOサインを突きつけるために、投票所に足を運んだ。劣勢が伝えられていた民主党が前回総選挙より議席を11も伸ばし、同じく劣勢を伝えられていた維新がマイナス1とほぼ現勢力を保ったこと、またアベノミクスに対する強烈な拒否反応が共産党にかなり集中して、共産党は議席をほぼ倍増させたことなどが、アナウンス効果が強烈に働いた状況証拠でもある。
 今回の総選挙に示した民意を、メディアはまったく理解していない。全国紙5紙の社説についての検証は、今日のブログでは書いている時間がないので、次回に延ばすが、とりあえず各紙の社説のタイトルだけ列記しておく。各紙の立ち位置が明確になる。

産経新聞…自公圧勝 安倍路線継続への支持だ 規制緩和と再稼働で成長促せ

読売新聞…衆院選自公圧勝 重い信任を政策遂行に生かせ

朝日新聞…自公圧勝で政権継続 分断を埋める「この道」に

日本経済新聞…「多弱」による勝利に慢心は許されぬ

毎日新聞…衆院選 「冷めた信任」を自覚せよ

 私が、なぜこういう列記順にしたか、読者は分かるかな? 私は各紙の販売部数順ではなく、各紙の立ち位置順に列記した。朝日新聞の地殻変動が社説のタイトルにも現れるようになった、明らかな証拠だ。

 選挙結果は、「民主主義とは何か」が改めて問われる結果でもあった。
 
 憲法解釈変更による集団的自衛権の行使を、国民が容認したと、安倍総理は主張するだろう。普天間基地の辺野古移設も、国民が容認したと主張するだろう。戦後70年を迎えようとする日本が、改めて学んだ民主主義とはなんだったのか。
 私は選挙が終わるまで書くのを控えてきたことがある。
 選挙のたびに立候補者が有権者に約束するマニフェスト(公約)。国民の多くは政治家のマニフェストは「空手形」だと思っている。選挙の時にはおいしい話を並べ立てるが、選挙が終わって当選したとたん、政治家は有権者に約束したことをすっかり忘れてしまうと。
 確かにそういう側面はあるが、もっと大切なことがある。メディアはその大切なことに気付いていない。
 政治家が選挙のときに訴える「政策」の本質だ。
 実は政策とは、薬と同じなのだ。
 薬には必ず副作用がある。薬として製造・販売する時、また医者が薬を処方するとき、調剤薬局で薬を買うとき、なぜ「おくすり手帳」の提示が求められるのか。処方する医者や薬剤師は、ほかにのんでいる薬との複合副作用の有無を確認するためだ。
 政策も同じく、実行に移した場合の効果だけではなく、副作用もある。その副作用を、政治家は有権者に一切説明していない。
 たとえば経済政策も、メリットとデメリットの二つの側面を必ず持っている。いま安倍内閣が日銀・黒田主流派とタッグを組んで進めようとしているインフレ政策も、メリットだけではない。当然デメリットもある。政策のデメリットが、薬で言えば副作用に相当する。副作用を、政治家なぜ国民に説明しないのか。説明しない副作用を、選挙に勝ったら国民が是認したと言われても、私たちは困り果てるだけだ。
 アベノミクスの失敗については、OECDも勧告しているし、安倍さんがあれほど恋焦がれてきたオバマ大統領からも「失敗だった」と烙印を押されている。

 選挙でメディアが予想したほどの票は取れなかったが、安倍自民党は大勝し、自公は衆院議員の3分の2を超えた。憲法改正の発議を行える数だ。
 選挙戦突入後にOPECが原油の生産調整を回避したことは、安倍さんにとって思いもよらぬ「クリスマス・プレゼント」と「お年玉」が同時に飛び込んできたようなものだった。私が11日に投稿したブログの追記に書いたことを想起していただきたい。
 もしOPECが原油の生産調整を決めていたら、原油価格は現在進行中の暴落とは逆の、大暴騰になっていた。アベノミクスの失敗に原油価格の暴騰が重なっていたら、日本経済と国民生活は致命的な大打撃を受けていたはずだ。私は主なメディアの読者や視聴者の意見受付窓口には、そのことを伝え、全員が私の考えに同意してくれていた。が、選挙結果の分析で、そのことに触れた社説は一つもなかった。頭の悪い人しか、全国紙の論説委員にはなれないという、明白な証拠でもある。

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総選挙を考える⑦ 安倍さんが次の世代に回そうとしているツケにストップを。

2014-12-11 05:52:07 | Weblog
 このブログ記事が「総選挙を考える」シリーズの最後になる。
 私のブログが一般国民から多く読まれているとは到底考えられない。だから選挙結果に、ほんのちょっとの影響を及ぼすこともあり得ない。が、このシリーズを始める前の11月18日に投稿したブログ『朝日新聞社が12月5日に新体制に移行する。④ 総選挙の争点は明らかになったが…。』で書いたことが、ずばり当たりそうだ。私はその日のブログでこう書いた。

 今日安倍総理が解散を宣言するようだ。「早まった」と後悔しているかもしれないが、ここまで来た解散風を止めることは総理にも出来まい。「争点なき選挙」と言われてきた12月総選挙だが(※このブログを書いた時点では解散日も公示日も投票日も分かっていなかった。メディアは予測アドバルーンをあげてはいたが)、アベノミクスの総括が最大の争点になることは必至だ。野党間の立候補調整がうまくいけば大逆転もありうるが、野党が勝利しても所詮野合政権の再登場になるだけだ。アメリカと同様、何も決められない政治になることは必至だ。「争点は生じたが、選択肢がなくなった総選挙」と私は定義する。

 実際、当初は消費税増税時期延期を選挙の争点にしたかった安倍総理としては、解散の大義を「消費税増税について国民に信を問う」と、小泉総理が行った「郵政解散」のような選挙に持ち込みたかったのだが、国民も野党もメディアも、安倍総理の思惑に乗ってこなかった。が、安倍総理が海外から永田町に吹き込み続けた解散風は、もう安倍総理にも止められないところまで来てしまった。解散の大義をどうするか。私がこのブログで書いた時点では「アベノミクスの総括」が選挙の争点になるとは、メディアも政治評論家も政治学者も考えていなかったはずだ。もしあったとしたら、私のブログより前に、そう予測したことを、根拠を明らかにして「コメント」していただきたい。
 小泉総理の「郵政解散」とはなんだったのか。衆議院では可決した郵政民営化が、参議院では否決された。これを問答無用で可決に持ち込むためには、衆議院で支持勢力を3分の2以上に増やすことが絶対条件になる(絶対必要条件ではない)。そして小泉作戦は見事に成功した。小泉総裁は衆院の党内反対勢力をすべて除名処分にしたうえで、有力な反対派議員の選挙区には強力な対立候補を立てる作戦に出た。この対抗馬は「落下傘部隊」と呼ばれた。
 落下傘部隊の立候補者たちは、ほとんどすべての選挙区で反対派議員を破り、「小泉劇場」と呼ばれるほどの歴史的大勝利を収めた。勝利した議員たちは「小泉チルドレン」と呼ばれるほどになった。参議院の反対派議員たちは、旗を下ろさざるを得なかった。再び投票で反対票を投じたら、自民党を除名されることが必至だったからだ。
 私自身は、郵政民営化については中途半端だったと考えているが、そのことはすでにブログで書いたので繰り返さない。が、安倍総理は解散宣言をする前、「消費税増税は国民生活に直結する。民主党政権の失敗は、民主党が政権をとった時の総選挙で消費税増税をマニフェストでうたわずに増税しようとしたことだ」と、解散の大義を必死に訴えようとしていた。野党もメディアも、私のこのブログを読んで「あっ、そうだったっけ」と今ごろ思い出しても遅い。74歳の私はすでに認知症予備軍に入っている。いや、認知症の早期に差し掛かっている。人の名前は覚えられない、顔もすぐに忘れてしまう。酒を飲んで話したことなど、翌朝にはケロッと忘れている。その私以上に健忘症にかかっているのが、野党でありメディアだと言わなければならない。
 誰も消費税増税時期について国論が二分される状態になっているなどとは思っていない。一部の専門家は消費税を法定どおり実施しなければ国家財政が持たないと主張してはいるが、世論の支持を得ているわけではない。どの政党もメディアも、法定どおり実施すべきだなどとは主張していない(朝日新聞は一時そういう主張をしていたが、「大学講師」なる人物の投稿を10日も経ってから「声」欄に掲載して、主張をなし崩し的に変えだしたが)。「消費税解散」は不可能になった。だから私は消去法で「アベノミクスの総括」解散であり、「選択肢のない選挙」になると断定した。
 本来国民に信を問うべきだとしたら「憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使してもいいか」ではなかったのか。そもそも前回の選挙で安倍総理は国の方向性を左右する集団的自衛権の行使を、先の総選挙のマニフェストで公にしていたか。野合政党の民主党政権が勝手にこけたために転がり込んできただけの自公政権ではなかったのか。国民のだれも、集団的自衛権を行使してアメリカの戦争に加担できるようにしてほしいなどとは望んでいない。
 その点では私は公明党が創価学会の「鬼っこ」になっても集団的自衛権行使の要件については公明党案を安倍政権に丸呑みさせて、安倍総理の暴走を最後の一線で防いだことは評価しないわけではない。が、パンドラの箱を開けてしまったことには疑いの余地がない。
 もう集団的自衛権行使のための憲法解釈変更は閣議決定してしまっているのだから、すでに出来ているはずの集団的自衛権行使のための国内関連法案の素案を国民に示し、さらに自国防衛のための個別的自衛権行使より、アメリカのために集団的自衛権の行使を優先することが国益にかなうのか否か、を国民に問う選挙にすべきではなかったのか。
 改めて言っておくが、安倍内閣は小中学校の教科書に「竹島・尖閣諸島は日本固有の領土」と明記させた。尖閣諸島はいまのところ中国に武力占拠されていないが、竹島が韓国に実効支配されてからすでに70年になる。つい先日には
朴大統領が竹島上陸軍事演習を行おうとすらした。天候の都合とやらで演習は
中止されたが、日本の自衛隊は韓国の軍事演習阻止のための実力行使に出よう
とすらしなかった。
「なぜ日本は竹島の韓国による占領を許しているのか。なぜ個別的自衛権を行使して竹島を奪還しないのか」と言う国民の抗議の声は、首相官邸や外務省に多く寄せられている。首相官邸や外務省の返答はつねに変わらない。
「日本は国際紛争を平和的に解決することを最優先しています。竹島問題についても平和的に解決するための努力を続けています」
 公明党は少なくとも、集団的自衛権行使の要件に、「実力の行使に出る前に、少なくとも竹島問題の平和的解決にかけている期間(現時点では約70年間)は、平和的解決のための努力をすること」を加えるよう、安倍総理に強く要求すべきだった。つまり、安倍総理が日本を守るための個別的自衛権より、アメリカの要請に応じてアメリカのために実力を行使する集団的自衛権行使を優先していることを、だれの目にも明らかになるよう国民に示すのが、野党やメディアの責務ではなかったか。
 投票日まで、今日も含めて3日しか残っていない。が、政治家よりメディアより、はたまた学者より国民のほうがはるかに英知に満ちている。
 つい先日行ったNHKの世論調査によれば、今回の総選挙での最大の国民の関心事に、ついに「社会保障の見直し」がトップに躍り出た。これまでは常にトップは「景気回復」だった。「社会保障」はランキングのせいぜい3位どまりだった。
 この世論調査はNHKのどういう意図が働いたのかは想像の域を出ないが、従来の世論調査では選挙で重視するランクとして「社会保障」と言うカテゴリーしか使用してこなかった。「社会保障の見直し」というカテゴリーに変更した意図を、私たちは見抜く必要がある。「社会保障の見直し」というと、「社会保障の充実」と錯覚する人もいそうだが、社会保障を充実・維持させることを選挙の選択肢にしようというなら、「見直し」ではなく「充実」あるいは「維持」というカテゴリーにしているはずだ。「見直し」という表現は、「従来の福祉政策を継続したら国家財政が破たんするから、政策転換すべきだ」という意味である。私が一貫してNHKに苦情を言ってきたことだ。
 ただ、「社会保障の見直し」が選択肢のトップに躍り出たことは、必ずしもアンケートに答えた人たちが、その意図を理解しているとは限らないことも意味している。「見直し」という言葉の意味を理解していない人にとっては、どちらにも解釈できる曖昧な言葉になりかねないからだ。「見直し」は「見直す」の名詞だが、これまでのやり方を変えることを前提として使われる否定語だ。ただの「社会保障」だと「充実」の意味合いが濃くなるが、そのあとに「見直し」という言葉がつくと意味が正反対になる。
 NHKが「見直し」という、これまで世論調査で使用したことのないカテゴリーをなぜ選択したのかは不明だが、NHKの世論調査は大きな意味を持つだけに、意図的なものを感じるのは私だけだろうか。
 ついでにNHKの世論調査に対する疑問をもう一つ呈しておく。今回の総選挙に対して「関心がない」「あまり関心がない」層が「関心がある」層よりかなり多く過半数を占めているのに、投票には「必ず行く」「多分行く」層が約3分の2を占めるというおかしな結果になっていることだ。例えばスポーツ。「関心がない」のに見に行く人がいるだろうか。誰かの付き合いで行くケースはあるだろうが、投票に付き合いで行く人がいるのだろうか。なぜNHKは「関心がない」のに「投票には行く」と答えた人に、その理由を聞かないのか。そういうアンケートのとり方をすれば、国民の政治不信の原因にも迫れたかもしれないのに。

 さて日本再生のための究極の提案の後編に移る。前回の提案では高齢者に対する社会保障とくに医療費の削減と、少子化対策には保育所増設は意味を持たないことを明らかにした。今日は生活保護対策と日本の雇用形態の見直しについて書く。選挙制度と地方分権問題は選挙後に書く。
 被生活保護者が増え続けていることは周知の事実である。当然地方自治体の財政をひっ迫させている。すべての国民が最低限の文化的生活をおくる権利は憲法が保証している。そのことに異はない。問題は被生活保護者の文化的生活水準を維持しつつ、同時に増え続ける生活保護費増大による地方財政の課題をどうするかという二兎を追う話だ。
 答えは一つしかない。都道府県単位で生活保護施設を作り、そこですべての被生活保護世帯を集める。もちろん、そこでの生活は最低限の文化的生活水準を維持させなければならない。また、その施設で、社会復帰のための対策を行う。地域によって社会復帰の手段は違うだろうから、国はその手段に口を出すべきではない。
 IT産業の担い手になれる人なら、そういう技術の習得をさせるべきだろう。地域産業の担い手になれる人なら、担い手になれるよう訓練すればいい。地域産業の担い手が増えれば、地域産業の振興にもつながる。頭は生きているうちに使え。
 いまの被生活保護者に対する政策は、生活困窮者に対する「お恵み」政策でしかない。そうしたやり方では被生活保護者の社会復帰への意欲も殺がれるだけだ。被生活保護者が、社会復帰への意欲を持たせるような社会保障の考え方に転換しない限り、「駆け込み寺」対策を継続することになり、文化的生活水準のレベルを下げていくしか地方財政とのバランスをとれなくなるのは当然である。そのくらいのことも政治家や官僚は分からないのか。
 もう一つ。被生活保護者は、最低限の文化的生活水準を受ける権利を行使するためは、同時に自分の健康に対する自己責任も自覚する必要がある。自分の健康維持のために(おそらく医療費財政の最大の重荷になっているのは高齢の被生活保護者ではないかと思う)、禁酒禁煙は当然の義務と考えてもらいたい。「酒は百薬の長」などという言葉があるが、これは江戸時代に酒売りが営業活動のためにでっちあげた根拠のない話であって、あえて健康にプラスになる要素があるとすれば、赤ワインに含まれているポリフェノールだけである。それも量的にはコップに半分程度で十分というのが医学者の科学的主張である。
 タバコについては、社会を惑わしている部分もある。確かにタバコには数十種類の発がん性物質が含まれているが、同じくらいの種類のがん抑制物質も含まれている。どちらの物質が健康にどういう影響をもたらすかは、個々人の遺伝子レベルで違う。まず人種によって大きな差があり、白人の遺伝子には発がん性物質のほうが作用する度合いが大きいようだ。欧米でタバコが目の敵にされているのはそのためだということは知っておいた方がいい。アジア系の場合は、白人ほど発がん性物質が強くは作用しないようだ。ただ、これは平均値の話で、同じ人種でも遺伝子には個体差があり、日本人でも発がん性物質が作用しやすい人と、逆にがん抑制物質が作用しやすい人がいるようだ(※この話はかつて癌研の所長から聞いた話)。
 私自身に関して言えば、飲酒は多少たしなむ程度。タバコは若いころは吸っていたが、やめてから20年近くになる。私の父はヘビースモーカーで、若いころ結核で右肺の大部分を切除したくらいだが、肺がんにはならなかった。親族にも肺がん者はいない。飲酒はかつてはかなりの量を呑んでいたが、健康診断でガンマーGTPが異常に高いと指摘され、精密検査の結果肝臓には異常は見られないが、このまま飲酒を続けると肝硬変になると医者に脅かされて、飲酒量を激減させた。
 少なくとも生活保護を受ける以上、文化的生活の範囲に入らない飲酒喫煙の習慣は絶っていただきたい。もちろんパチンコ・競馬・競輪などの賭け事は文化的生活の範疇に入らないから禁止すべきだ。そうしたことを実行させるためにも、被生活保護者のための施設を都道府県単位でつくり、健康についての自己責任感覚を持ってもらうこと、また職業訓練の機会も作って社会復帰の意欲を育てること(強制になってはいけない)を、生活困窮者対策の柱に据えるべきではないか。

 最後に雇用形態の問題だ。いわゆる日本型雇用形態とされている「終身雇用・年功序列」はなし崩し的に崩壊しつつあるが、企業経営者にとって都合がいいなし崩しになっている。これを制度的に「同一労働・同一賃金」制に改めるべきである。これは社会保障制度の見直しとともに、本当に必要な社会保障制度を構築するために避けて通れない道だ。
 言うまでもないことだが、「同一労働・同一賃金」は、年齢・学歴・性別とい
った属人的要素を賃金の決定要素から完全に除外することを意味する。これを実行するためには、すべての企業に労働基準法を完全実施させることだ。
 今年の春、安倍総理は経団連など経営者団体に賃上げを要請した。かつていかなる総理もしたことがない行為だ。あの「高度経済成長政策」なるものを掲げた池田隼人総理ですら、経営者団体に賃上げを要請したことは一度もない。安倍総理が、日本の経済回復のためになりふり構わぬ努力をしていることや、日本産業界の営業本部長として海外を歴訪している回数の多さにも、私は頭が下がる思いは持っている。が、安倍さんが頑張っているということに対する評価と、アベノミクス・サイクルが残念ながら失敗に終わったことに対する厳しい評価とは別だ。
 安倍さんが、経営者団体に要請して数年ぶりに実現させたベースアップは、実は労働基準法違反である。
 労基法では賃金を2種類に分けている。基準内賃金と基準外賃金である。どういう要素の名目を基準内にするか基準外にするかは、企業の自由ではない。法律で定められている。賞与や退職金などについての算出基準は法律では定めていない。企業が自由に決めていいことになっている。企業年金や共済年金も同じだ。
 だが、時間外勤務に対する賃金の算出基準は、法律で決められている。細かい説明はしないが、基準内賃金が算出基準である。ところが、ベースアップの算出基準になっている基本給は、実は基準内賃金ではない。法律違反、と指摘せざるを得ないゆえんだ。
 これだけは説明しておく必要がある。すでにブログで書いたが、お忘れの方もいると思うので再度、説明する。
 まず基準外賃金の対象から説明する。その方が分かりやすいからだ。 
 基準外賃金の対象になるのは、いろいろな名目で支給される賃金のうち仕事とは関係のない属人的要素の賃金である。たとえば配偶者手当、扶養家族手当、住宅手当、通勤手当などである。では、基本給のベースになっている年齢・学歴・性別(性差別は現在原則禁止されているので、同学歴の同期入社の初任給に現在は男女差はないと思う)は、基準内なのか基準外なのか…。
 そこまで説明してベースアップが法律違反であることが分からない人は、こ
れ以上私のブログを読んでも無駄だ。私のブログを読む時間を睡眠時間にあてた方が身のためだ。
 ここから先を読まれる方には、もう労基法が時間外賃金の算出基準を基準内賃金にしていることがお分かりだろう。基準内賃金とは、仕事に直接関係するすべての賃金が対象になる。ということは、仕事に直接関係ない賃金はすべて基準外賃金であり、年齢や学歴・性別を基準にした基本給を対象とするベースアップは法律違反であり、最高裁判事によっては憲法違反だという判断をする可能性すらあると思う。
 安倍さんも否定はしていない同一労働・同一賃金を実現すれば(つまり基本給制度を法的に廃止すれば)、若年労働者の賃金は当然アップし、正規雇用・非正規雇用の問題も解決する。もっともお金を使いたい層の可処分所得が増えて消費も拡大し、円安誘導のための金融緩和(実態は国債という名目の借金の次世代へのつけ回し)などに頼らなくても、内需の拡大によって景気は回復する。

 最後に、年金・健康保険制度について改革案を。
 いま、サラリーマンは結婚すると妻は第3号被保険者になる(妻が扶養家族になった場合)。この制度を廃止する。妻には国民年金への加入を義務付け、健康保険も国民健康保険への加入を義務付ける。そうするだけで、年金問題や健康保険制度の問題はほぼ解決できるのではないか。
 なぜ厚労省は、従来の制度を変えることを考えないのか。少子高齢化には、はっきり言って歯止めはかけられない。歯止めをかけられない以上、制度の見直しによって制度疲労をつくろう以外ないではないか。こういうバカどもを、なぜ国民は税金で養う必要があるのか。
 もちろん、子供ができれば子供も国民健康保険制度への加入を義務付ける(国民年金への加入は現行のままでもいいと思う。国民年金制度も制度疲労を生じているが、未成年者に加入を義務付けることは困難だ)。
 サラリーマンの負担が増えれば、少子化がさらに進むのではないか、という反論が目に見えるが、そんなことはない。同一労働同一賃金制度の全面的導入によって、若い人たちの収入が爆発的に増えるからだ。もちろん、割を食うのは役立たずの中高年層だが、どこかで思い切った手を打たなければ、日本社会そのものが崩壊する。
 消費税増税で国民に痛みを要求するなら、行政も立法も痛みを共有すべきだろう。行政改革といっても省庁の統廃合でどれだけ無駄飯を食っている公務員の首を切ったというのか。国会議員の定数削減より、歳費のカットのほうを優先すべきだろう。民間企業は、IT技術の導入によって必死に合理化努力を行い、事務系社員を大幅に減らしている。文系大卒者の就職難は、その結果だ。
 政府がやろうとしていることは、時代に逆行することばかりだ。アメリカに追随するというなら、社会の仕組みそのものをアメリカのように合理化すべきだろう。社会保障制度を維持したいというなら、維持するための痛みを官民がどう分かち合うかを、まず考えるべきだ。
 私の究極の提案は、高齢者や役立たずの中高年公務員やサラリーマンから猛反発を食うことは、私も承知の上だ。
 が、日本の将来を確実なものにするには、この方法しかない。政治家は、なぜ国民に甘い話ばかりして、次の世代に付けを回す責任をとろうとしないのか。
 今回の総選挙に対する国民のとるべき姿勢は、選挙権を放棄するか、それとも白紙投票で政治に対する不信を表明するしかない。それが、「総選挙を考える」私の結論だ。怒りをもって、このシリーズを終える。

追記 自民党の優勢が報じられている。単独で300議席を超える勢いだという。一方朝日新聞によれば投票率は戦後最低を記録する可能性すらあるという。
 そんなことはとっくの昔から私はブログで予測を書いている。私は数字で考えるのは、数字が意味することだけだ。数字が出ていないときは論理で考える。
 だから8日に投稿したブログの最後で、こう書いた。
「結果として自民が圧勝したとしても、郵政解散のときと違い、国民がアベノミクス継続を支持した結果ではない。ほかに投票したい政党がないから、投票所に足を運ばないという結果になるだけだ。つまり投票率が低かったら、アベノミクスは否認されたと見なすべきだ。メディアは、今回の選挙結果についての判断を誤ってはならない」
 アベノミクスの破たんが、なぜ国民の目に見えていないのか。原油価格の暴落によって日本経済がかろうじてスタグフレーションを免れているからにほかならない。スタグフレーションとは、このブログをお読みの方はご存じだと思うが、一言で言えば「不況下のインフレ」現象を指す比較的新しい景況概念の言葉だ。アベノミクスにとって不幸中の大幸いだったのはOPECが原油生産の調整に踏み切らず、原油価格が暴落したため、アベノミクスによる物価高が日本経済や国民生活を直撃しなかったからだ。もし、OPECが原油生産を調整して原油価格が暴騰していたら、日本経済は間違いなくスタグフレーションに突入していた。当然、そうした結果が数字として出ていれば、国民の投票行動はどうなっているか。
 なぜエコノミストやメディアは、そうした根本的な自民郵政の原因を考えないのか。考える能力がないなら、毎日白紙の新聞を出せ。たぶん読者は購読料を払わなくなるだろうが…。
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総選挙を考える⑥ 社会福祉政策を根本から見直す時が来た。

2014-12-08 08:02:32 | Weblog
 安倍さんがかわいそうになってきた。当然の報いと言えば言えないこともないのだが、あれほど恋焦がれてきた相手に一方的に袖にされてしまうのを見ると、気の毒に思えてきた。私にも、多少の仏心はある。
 が、アベノミクス・サイクルを肯定するわけにはいかない。念仏を唱えながら、引導を渡すのが、安倍さんに対するせめてもの思いやりだ。
 読者はオバマ大統領から「アベノミクスでは日本経済は回復できない」と三下り半を突きつけられことは、すでにご存じと思う。が、今さら安倍さんも「アベノミクスは、よーく考えてみたら間違っていました。撤回します」とは言えない。「引くに引けない」とはこういうことだ。
 オバマ大統領だけでなく、OECD(経済協力開発機構)からも「アベノミクスでは日本経済の回復は不可能」と宣告され、高齢者福祉政策の見直しを勧告されている。
 オバマ大統領はそこまで踏み込んだ日本の福祉政策批判はしなかったが、はっきり言って今の社会福祉政策を継続する限り日本経済の回復はない。
 私は1940年生まれの74歳。私たちの世代が高度経済成長時代以降、「年功序列・終身雇用」の日本型雇用形態や高齢者(親や祖父母世代)の年金制度や健康保険制度を支えてきた。言うなら2階に上がった年金生活者たちを支えてきたのが、1階の私たち(2階の重量を支える柱)だった。
 いま私たちの年代が2階に上がり、1階に住む若い人たちの柱が私たちの年金生活や健康保険制度を支えてくれている。が、2階に住む住民(年金生活者)がどんどん増えていくのに、2階を支える1階の柱はどんどん細くなっている。政府は何とか柱を太くしようと少子化対策に力を入れてはいるが、やり方が間違っている。
 ではどうしたらいいか。1階の柱を太くすることができなければ、2階の重量を減らすしかあるまい。商売も家計もそうだが、「入るを量りて、出ずるを制す」が大原則だ。出ずるを制しなければ、借金地獄に落ちるのは国も個人も同じだ。ただ一生借金から逃げられない個人と違って、政治家は政治家をやめれば借金地獄から自分だけは解放される。信用度が高い個人は銀行が、信用度が中くらいの個人はサラ金(今は大手はメガバンクの傘下に入っている)から高金利で借りるしかない。もっと信用度が低い人は闇金から借金するしかない。
 国は日銀という、国のための「サラ金」を抱えているから無制限に借金ができる。日銀は政府の借金漬け政策を支え続けているが、そうすれば当然円は安くなる。円は国際社会の信用を失い、日本の富裕層は自分の金融資産を守るため、いずれ金融資産の海外逃避を図ることになる。そういうデータは持っていないが、すでに金融資産の海外逃避は始まっているかもしれない。いざというとき、国民が国を救うため個人資産を国のために差し出してくれるだろうなど
と思っていたら、とんでもない勘違いだ。
 私は安倍政権が誕生した直後の12年12月30日に投稿したブログ『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』でこう書いた。私が結果論で、アベノミクス・サイクルは失敗だったと言っているのではないことが、ご理解いただけると思う。言っておくが、この時点では「アベノミクス」という言葉もなければ「成長戦略」「三本の矢」という言葉もなかった。「アベノミクス」とは、あとから付け加えた空念仏だ。では2年前の私のブログを転記する(一部)。

 まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共工事による経済効果の2点である。
 金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか、私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。ではたとえば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはありえない。優良企業が銀行から金を借りてくれなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業と言っても、銀行が融資する場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても、優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ。
 そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい。国内に優良な融資先がなく、金融緩和でだぶついた金の運用方法に困り、リーマン・ブラザーズが発行した証券(日本でもバブル時代に流行った抵当証券のような有価証券)に大金をつぎ込み、リーマン・ブラザーズが経営破たんしたあおりを食って大損失を被り、金融界の再編成に進んだことは皆さんも覚えておられるだろう。金融緩和で銀行に金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない。自公政権の金融緩和政策に世界の為替市場が敏感に反応して急速に円安が進み株も年初来の最安値を記録したが、そんなの
は一過性の現象に過ぎない。とにかく市場に金が回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。
 そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯めこんでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる。当然内需が拡大し、需要が増えればメーカーは増産体制に入り、若者層の就職難も一気に解消する。そうすれば内需が拡大し、メーカーはさらに増産体制に入り、若者層だけでなく定年制を65歳まで拡大し、年金受給までの空白の5年間を解消できる。ただし、このような税制改革を実現するには二つの条件がある。一つは相続税増税・贈与税減税を消費税増税の2段階に合わせて、やはり2段階に分け消費税増税と同時に行う必要がある。その理由は当然考えられることだが、消費税増税前の需要の急拡大と、増税後の需要の急激な冷え込みを防ぐためである。
 その場合、贈与税の考え方そのものを一変させる必要がある。相続税は相続人にかかるが、贈与税は贈与人にかかる仕組みになっている。その基本的考え方を変えなければならない。相続税の負担は相続人が支払うのは当然だが(相続者はすでに死亡しているから課税できない)、贈与税に関しては贈与人が贈与税を支払うだけでなく、被贈与人は収入として確定申告を義務付けることである。その場合、総合課税にすると計算がややこしくなるから、サラリーマンなど通常は確定申告せずに済む人たちの利便性を考えて分離課税にして、しかも通常の課税システムのように贈与額に応じて納税額を変動させるのではなく、たとえば一律10%の分離課税にすることが大切である(税率は別に10%にこだわっているわけではないが、贈与する側にも贈与される側にも出来るだけ負担を少なくして、頻繁に贈与が行える仕組みにすることがポイントになる。またこのシステムを導入することと同時に現在の非課税贈与制度を廃止し、消費税のように完全に一律課税制度にすることも大きなポイントになることだけ付け加えておく)。
 いずれにせよ、相続税を軽く贈与税を重くしてきたのにはそれなりの時代背景があったと思うが、時代背景が変われば課税の在り方についての発想も転換する必要がある。税金に限らず専門家は従来の考え方からなかなか抜け出せないという致命的な欠陥をもっている。私たちはつねに従来の考え方(つまり常識)に疑問を持つ習性を身に付けるよう心がけたいものだ。そうでないと日本はこの困難な状況を脱することができない。
(以下、全文転載は長くなるので要約する。全文を読みたい方はさかのぼって私のブログ記事を読んでいただきたい)
 1958年(昭和33年)から内閣府は「国民生活に関する世論調査」を行ってきた。79年に内閣府は『国民生活白書』のなかで「国民の中流意識が定着した」と宣言した。70年代に入り「自分の生活レベルは中流」と感じていた国民が9割に達したためである。が、バブルが崩壊して以降、内閣府は「国民生活に関する世論調査」から生活レベルについての意識調査を止めてしまった。いま意識調査をしたら国民の何割が「中流意識」を持っているだろうか。
 消費税増税はやむを得ない、と私は思っている。が、低所得層の生活を直撃することも疑いを容れない。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、「聖域なき」一律課税にして、低所得層の所得税の軽減化を図る必要がある。一方年収1000万円超の層は累進的に所得税を重くする必要がある。生活必需品を一律非課税か軽減税率化した場合、たとえば国産ブランド牛のひれ肉とオージービーフの切り落としを同等に非課税あるいは軽減税率にすることに、国民が納得するわけがない。
 民意とは何か。「民意」と言えば体裁はいいが、「民意」はそれぞれの職業や生活環境、時代背景によって異なる。国民の90%以上が「中流意識」を持っていた時代もあったが、いま「中流意識」を持てる国民がどれだけいるか、そのことを考えただけでも「民意」なるもののいい加減さが分かろうというものだ。
(以下原文)確かに選挙には勝たなければならないが、日本の将来を危うくするような公約(マニフェスト)を並べ立てて票の獲得を目指すような政治家に日本の将来を任せるわけにはいかない。

 以上が2年前の年末に投稿したブログの内容だ。主張をこそっと変えたり、結果論で付け加えたりするような姑息なことは私はしていない。疑う人があったら、さかのぼって私のブログを読んで検証していただきたい。批判があればコメントを寄せていただければいい。私はそうした批判は一切削除しない。答える必要性を私が認めたら、ブログで回答する。いままでもそうしてきた。
 ただ2年前の時点では日本の輸出企業は多少国際競争力が回復するかもしれない、と私は思っていた。私がショックを受けたのは、黒田バズーカ砲第2弾が炸裂した10月31日以降、円安の勝ち組と思っていたソニーが、実は負け組も負け組で、円が1円安くなるたびに毎日為替差損が20億円も出ることを公表したこと、円安で膨大な利益を上げた輸出企業ですら輸出数量はまったく増えず、為替マジックによる含み益が増大しただけという事実が明らかになったためである。エコノミストではない私が、日本の産業構造がバブル崩壊以降、生産をこれほど海外にシフトしていたとは思いもよらなかった。が、それは私の責任ではない。日本の産業構造の激変は、経産省なら掴んでいたはずで、そうした事実を国民に隠してきた政府に責任はある。私の予測ミスではない。
 私がこれまで何度もブログで書いてきたが、物事を考える基準は知識ではなく、論理でなければならない。論理というと難しく思う方もいるかもしれないが、いっさいの先入観を捨てて赤子のような素直な感覚を持てば、それでいい。
 妙な自慢話をするようだが、私は赤ちゃんからすぐに好かれる。電車やバスに乗って、隣に赤ちゃんを抱っこしたりベビーカーに座らせた赤ちゃんを連れたお母さんが座ると、私は赤ちゃんに話しかける。「可愛いね。いくつ?」と。
 もちろん赤ちゃんに答えられるわけがない。お母さんが「もうすぐ2歳になります」などと答えてくれる。私は赤ちゃんの頭をやさしく撫でながらお母さ
んと2,3分話をして「私が指を出すと握り返すよ」と言う。お母さんは「そん
なことはありえない」といった顔つきをするが、実際に私が人差指を赤ちゃんの手のひらにそっとつけると、最初きょとんとしていた赤ちゃんが、ニコッと笑みを浮かべて私の指を握ってくる。成功率は100%だ。失敗したことはない。 
 赤ちゃんは色眼鏡をかけていない。眼鏡は生まれた瞬間からかけてはいるが、まだその眼鏡には色がついていない。最初に色を付けるのは母親だ。母親はそういう意識を持って子育てをしてほしい。赤ちゃんを連れたお母さんに、私はそういう話をする。お母さんは何度も私に「ありがとうございました」と頭を下げて下車する。そのとき、私が赤ちゃんに「バイバイ」すると、赤ちゃんも「バイバイ」を返してくれる。バイバイする手は握りこぶしのままだ。十分に手を開くことが、まだできない赤ちゃんだからだ。もうすぐ2歳になるという子が、人を見抜く眼力を備えている。素直で、論理的だからだ。赤ちゃんの感覚はきわめて論理的だということを知ってほしい。

 このシリーズを終えるにあたってまず5日に読者の方にお出しした宿題の答えを書く。そのあと、日本再生の最後の選択肢を書く。どういう人たちがどういう痛みを受けようとも、選択肢はこれしかない。
 まず横浜市の保育所政策の問題だ。残念ながらコメントはゼロだった。こんなやさしい問題になぜ正解を出せないのか。私のブログを読むなら、その前に顔を洗って出直してほしい。私は有象無象の読者が激減しても痛くもかゆくもない。
 答えは「横浜市の保育所政策の目的は何か」だ。「保育所が足りないから保育所を作っている」のではない。横浜市の場合、保育所以上に不足しているのが特養(特別養護老人ホーム)だ。横浜市が、特養より保育所に力を入れているのは、選挙対策もあるが、子育て支援を厚くすることによって出生率を高めたいという目的があった。では、横浜市の合計特殊出生率(女性1人が一生のうちに産む子供の数)の推移を見てみよう(かっこのなかは全国平均)。
 07年 1.24(1.34)
 08年 1.25(1.37)
 09年 1.27(1.37)
 10年 1.30(1.39)
 11年 1.28(1.39)
 これで保育所作りの成果が出ていると言えるのか。12年以降のデータは、なぜか横浜市は公表していない。できない理由があるのか。
 少なくとも横浜市の場合、2階の住民は増え続けているようだが、どんどん重くなっていく2階を支える1階の柱を太くすることに成功しているとは言い難
い。税金の無駄遣いは保育所作りの土地代や建設費だけではない。この政策に
携わる市職員の人件費も含めると大変な額になる。横浜市は子供を保育所に預けた母親が、子育てから解放されて、どういう生活の変化が生じたかを調査したことがあるのか。ちゃんとした仕事を再開して1階の柱を太くしてくれているのなら、必ずしも出生率を高めることだけが最重要課題だとは私も考えていないから、それはそれで横浜市は特養づくりの財源を確保できることになるが、そうなっているのか。
 そういう肝心のデータを横浜市はなぜ公表できないのか。そもそも、幼い子を保育所に預けた若い母親がどういう時間の使い方をしているのかの調査すらしていないようだから、公表しようがないのかもしれない。あるいは、そういうデータは「特定秘密保護」の対象になるとでも思っているのか。
 横浜市のケースから見ても、国が少子化対策として取り組んでいる保育所作りは、まったく少子化対策にはならないことが、これで明らかになった。物事を論理的に考えるということは、これほど単純なことなのだが、頭がいいキャリア官僚はこういう単純な考え方はしないように、高等教育を受けてきているのだろうか。
 少子化には、はっきり言って歯止めはかけられない。保育所作りを一生懸命にやって、少子化対策には取り組んでいますよ、というジェスチャーを国民に示すために、大臣を作ったり官僚を増やしたり、そうすることで税金をじゃぶじゃぶ使う――それが目的なのか、と言いたくなる。

 日本再生の究極の方法を提言する。
 まず福祉についての考え方を根本から変えることだ。社会福祉は国民の権利として憲法で認められているが、憲法9条が日本の平和を保障してくれているわけではないのと同様、福祉を受ける権利には受けるために当然果たすべき義務もあることを高齢者に説明すべきだ。タバコは吸う、酒は飲む、運動はしない、パチンコ通いに精を出す……そういう高齢者に権利としての社会保障を受ける資格はない、という政策に転換しなければならない。
 国民の大半は65歳で年金生活に入る。現役並みの収入がある人は別として、年金生活者の医療費自己負担は65歳から1割にする。その代わり健康保険医療の範囲をきわめて限定する。延命治療や高額な費用がかかる医療は保険対象外とする。
 私の考えはこうだ。65歳になったら、すべて自己責任だということを自覚してもらう。健康維持のための支援は国なり地方自治体がしてもいい。たとえばフィットネス・クラブで運動をする高齢者には補助金を支給してもいい。ただし、風呂だけ入りにフィットネス・クラブに通っている高齢者もいるから、そういう目的の人には補助金を出す必要はない。そういう扱いを受けるフィットネス・クラブは国なり地方自治体から認可を受け、厳しく審査される。違法な営業をしたフィットネス・クラブは即3か月間の営業停止処分にする。
 フィットネス・クラブのケースは一つの健康維持対策の例として挙げたが、ビタミンやミネラルなどの健康サプリメントも、高齢者が健康維持のためとして申請した場合、一定の条件のもとで補助金を支給してもいい。
 日本医師会は猛反対するだろうが、2階に上がる人が増え続けるのを防げず、また2階を支える柱が細くなるのも防げない以上、2階の総重量を軽くする政策を考えるしか対策はない。「自分の健康は自分で守ってください」――そういうことを、国は高齢者にお願いするしかない。そして自分の健康は自分で守るという人にはそれなりの支援をする。社会福祉の考え方をそういう方向に転換する以外に日本再生の道はない。
 日本再生の道はこれだけではないが、今日は時間がもうない。今日でこのシリーズを終えるつもりでいたが、本当の最終回は数日後に投稿する。
 ただ、最後に一つ。投票日までわずかしかない。今回の選挙は憲政史上最低の投票率を記録するだろうと、このシリーズの最初の回に書いたが、本当にそうなりそうだ。自民圧勝というメディアの予想が私の予測を裏付けた。選択肢がない選挙だから、積極的に投票所に足を運ぼうという人が激減する。そうなれば与党にとって非常に有利な選挙になることは世界共通の原則だ。
 結果として自民が圧勝したとしても、郵政解散のときと違い、国民がアベノミクス継続を支持した結果ではない。ほかに投票したい政党がないから、投票所に足を運ばないという結果になるだけだ。つまり投票率が低かったら、アベノミクスは否認されたと見なすべきだ。メディアは、今回の選挙結果についての判断を誤ってはならない。

 
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総選挙を考える⑤ 保育所増設では少子化に歯止めをかけられない。

2014-12-05 07:30:44 | Weblog
 今回の総選挙で少子化対策が、ことさら大きな争点になっているわけではないが、政治家や官僚(中央および地方)がいかに無能か、また彼らの無能さにメディアがいかに鈍感かを今日は証明したい。
 いま安倍政権は女性の活用政策を重視している。が、はっきり言って女性の登用は、政府が口を出すような話ではない。管理職の何%を女性に割り当てることを官公庁に義務付けるというバカげた発想で、女性票を獲得しようとしているのは見え見えだ。
 私は女性がその能力を十分に発揮できる社会をつくることに反対しているわけではない。優れた能力を持て余している女性もたくさんいることは知っているし、「もったいないな」と思うこともしばしばある。が、女性管理職を増やせば解決するという貧困な発想では、女性の能力を十分に社会に役立たせることはできないと思っているだけだ。
 少子高齢化に歯止めがかからない状況の中で、少子化対策と女性の活用はこれからの日本が避けて通れない重要な社会問題であることには、私もあえて否定はしない。この二つの課題は別々のように見えて、日本の社会構造の中で複雑に絡み合っている。この二つの問題の根っこにあるのが「核家族化」だということに、政治家や官僚、メディアも気付いていない。もっとも、いくつかのメディアには、こうした問題を解決するためのヒントはすでに与えた。私が電話したメディアは、すべて「確かに重要な指摘です。担当部署に確実に伝えます」と言ってくれたが、果たして放送や紙面に反映されるかは保証の限りではない。とくにNHKの上席責任者は『クローズアップ現代』で取り上げるべき問題だと思うと言ってくれたが、私がブログでそのことを書いてしまうと、逆効果で無視される可能性はある。
 結論から先に書く。少子化は核家族化と切って切り離せない。つまり少子化は核家族化が生み出した世界共通の現象であり、保育施設をいくら作っても少子化対策にはならない。
 女性の活用は、日本型雇用形態とされてきた(事実上崩壊しつつあるが)「終身雇用・年功序列」を憲法違反として強制的に排除する以外に解決できない。つまり性別・年齢・学歴を基準にしている基本給制度は労働基準法違反として最高裁が認定するのが一番手っ取り早い方法なのだが、なぜか連合も消費者団体、市民団体もこうした問題にソッポを向いたままだ。
 このブログは2回に分けて書く。今日は、少子化問題を先に書く。
 政府や地方自治体は、少子化対策の目玉として保育施設増加に取り組んでいるが、本当に保育所を増やせば少子化に歯止めがかかるのか。すでに結果が出ているはずの大都市があるのに、その結果に政治家もメディアも無関心なのはどういうわけか。
 その大都市とは、東京都23区に次ぐ日本第二の大都市・横浜市である。
 横浜市は、現在の林文子氏が市長になる前から待機児童ゼロを目指して保育所の整備に取り組んできた。どういう取り組みをしてきたか、横浜市こども青少年局・保育対策課のホームページにはこう記載されている。
「これまで横浜市では、増え続ける保育所入所申込者に対応するために、保育所の整備を積極的に進め、10年間(平成14~24年)で約2万人分の保育所定員を整備し、1.8倍に拡大しました。22年度からは待機児童対策を本市の重点施策とし、ハードとソフトの両面から取り組みを進めてきた結果、25年4月1日時点の待機児童数は、横浜市中期計画の目標である0人を達成しました(過去最少)。
 しかしながら、待機児童ゼロ達成による保育所入所を希望するかたの期待の高まりなどにより、入所申込者総数が4114人増(過去最大)となり、26年4月1日現在の待機児童数は20人となりました。
 これからも地域分析を丁寧に行い、必要な保育施設の整備を行うとともに、子育てしやすいまちを目指して、引き続き様々な子育て支援施策の充実に向け取り組んでまいります」
 以上がホームページによる横浜市の子育て支援策である。私が意図的に削除した個所はまったくない。もちろん横浜市が取り組んでいる少子化対策としての子育て支援は細かく調べれば、もっといろいろあるだろうとは思う。だが、私が横浜市の市長や市議会議員、市職員のために「横浜市はこんなこともしています、あんなこともしています」とPRしてやる義理はない。細部にわたった施策は、お調べになりたい方がお調べいただきたい。問題は、横浜市のホームページに、どういう目的かは知らないが、明らかに意図的に掲載していない、最も大切なことが抜けていることだ。読者は、お分かりかな。
 当初は、そこまでこのブログで書いてしまうつもりだったが、止める。答えは次のブログ(たぶん8日に投稿)で書く。読者は、週末に自分がかけている色眼鏡の色をできるだけ落として、横浜市のホームページから何が抜けているかを見抜いてほしい。見抜けた方は、コメントに答えをお寄せいただきたい。少なくとも、今日のブログですでにかなり重要なヒントは提供している。ただし、すでに電話をしたメディア関係者には答えも伝えているので、その方たちはコメントをご遠慮願う。
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総選挙を考える④ 「アベノミクス・サイクル」はなぜ空転したのか。

2014-12-03 05:11:08 | Weblog
 昨日、12月2日、衆院選挙が始まった。NHKは午後7時からのニュース枠を特別拡大し、8時45分まで延長した。その大半は、武田アナウンサーによる政党党首へのインタビューだった。安倍総理へのインタビューに最大の時間を割いたことは、必ずしも不公平な扱いだったとは思わない。が、武田氏はなぜか安倍総理に「当初予定していた選挙の争点を『消費税増税延期』から『アベノミクスの継続を国民に問う』に変えたのか」をインタビューで問わなかった。
 私が総理の解散表明の当日早朝(11月18日)、「アベノミクスの総括が最大の争点になることは必至だ」とブログで書いた。もともと安倍総理は消費税増税延期を争点に総選挙を行いたいと考えていた。APECを皮切りとする海外活動に出かける直前、安倍総理は記者団に囲まれ(ぶら下がり)、こう語っていた。
「消費税増税の時期(法定どおり来年10月に行うか、延期するか)については、7~9月期のGDP(国内総生産)の数値を見てから、12月に決める」
「解散についてはまったく考えていない」
 が、安倍総理が国際会議に出席して首脳会議を繰り返している間、永田町では解散風が台風のように勢いを増しながら吹き出した。安倍総理が事実上総理としての実権を喪失している状態なら、総理の意向抜きに永田町の論理が先行することもありうるが、安倍総理の権力は一時ほどではないにしてもまだ強大である。総理の意向抜きに解散風が勝手に勢いを増すなどということはありえない。
 解散については、安倍総理の頭には海外に出かける前から決まっていた。当初、安倍総理が描いていた争点は「消費税増税時期を巡って、法定どおり来年10月に行うべきだ」とする民主党と、「法定どおり実施すれば日本経済に大きな負担がかかる」とする自公との対立になるはずだった。
 が、安倍総理の「解散作戦」は空振りに終わった。民主党が消費税増税延期に反対しなかったからだ。当り前である。いま国民生活は円安と増税によるダブルパンチで、富裕層と非富裕層に二極分解した状態になっている。富裕層は株高で富をさらに増大したが、非富裕層はもろにダブルパンチを受けた。いま原油安で国民生活への円安影響はかなり軽減されてはいるが、もしOPECが生産調整を決め、原油高になっていたら国民生活は崩壊しかねないところまで追いつめられていた可能性すらあった。そういう意味では安倍さんは、本当についている総理だと思う。アベノミクスの失敗を原油安が多少補ってくれているからだ。
 それでも物価は上昇し続け、今年春のベースアップ効果は完全に吹き飛んでしまった。賃金の上昇以上に物価が上昇すれば、事実上可処分所得は減少することを意味する。いくら経済音痴の安倍さんでも、そのくらいのことは理解できるだろう。
 実は7~9月期のGDP数値が内閣府から正式に公表されるまでもなく、マイ
ナス成長になることは分かり切っていた。毎月内閣府は消費動向調査の結果を発表しているし、経産省も景気動向について毎月青の点滅信号を出していた。黄色信号なら「赤から青に変わるシグナル」だが青の点滅信号は「青から赤に変わるシグナル」である。さらに、安倍さんが最も頼りにしている日銀も短観で日本の景気がいぜんとして上向きに転じていないことを明らかにしていた。日銀短観だけは、公的指標であり、いくら安倍総理のちょうちん持ちの黒田総裁でもねつ造はできないからだ。
 これらすべての経済指標は毎月発表されており、消費の冷え込みは安倍総理の想定以上であることは、何も7~9月期のGDP公表を待つまでもなく明らかだった。で、安倍総理としては自分の内閣が行った今年4月の消費税増税による景気後退を、前政権の民主党の責任に押し付ける作戦に出たかったのだが、その作戦が完全に空振りに終わった。
 なぜ4月の消費税増税が日本経済にとって想定外の足かせになってしまったのか。安倍さんも、黒田さんも、まだ分かっていないようだ。
 安倍さんの景気回復作戦の成功は「アベノミクス・サイクル」がうまく回転することが前提であった。アベノミクス・サイクルとは、昨日のNHKでのインタビューによればこうである。
 ①円安誘導(日銀の金融政策)による日本企業の国際競争力の回復。
 ②日本企業の生産性が高まり企業の利益が増大。
 ③雇用が増大し、賃金も上昇する。
 ④消費活動が回復し、アベノミクス・サイクルが順調に回りだす。
 安倍総理は、このアベノミクス・サイクルが「まだ道半ば」であることは渋々認めている。だが実は「道半ば」なのではなく、完全に軌道が外れ、脱線してしまったのだ。なぜか。①が安倍・黒田ラインが考えていたような結果をもたらさなかったからだ。
 日本の産業構造は、かつての高度経済成長期とは様変わりしていることに、安倍総理も黒田総裁も気が付いていなかったからだ。日本企業で最初に世界ブランドを確立したソニーは、本来円安による勝ち組になるはずだった。もちろんソニーの現在の苦境は「ソニーらしい」ヒット商品を出せなくなったソニー自身の責任による要素が一番大きいが、ソニーは生産拠点の大半を海外に移しており、そのため海外で生産した「ソニー・ブランド製品」を国内に輸入すればするほど、円安によって足を引っ張られる状況になっていたのだ。その結果、ソニーは円が1円安くなるごとに毎日20億円の為替差損が生じている。
 ソニーに限ったことではなく、生産拠点を海外に移転している日本企業の大
半が円安直撃で国際競争力はかえって悪化しているのが現実である。為替相場
を円安に誘導すれば、国内企業の国際競争力が回復すると夢を見たのは、安倍・
黒田ラインの「夢想」にすぎなかったのだ。だから円安になっても日本からの輸出量は増えないという安倍・黒田ラインの「想定外」の結果が生じたのだが、今さら舵を大きく切り替えたりしたら韓国のセウォル号のように日本経済は転覆しかねない。また舵を大きく切り替えれば、アベノミクスが失敗だったことが明らかになり、当然安倍・黒田ラインの責任問題が発生する。「今さら後には引けない」解散になったのは当然と言えば当然である。
 要するにアベノミクス・サイクルが失敗に終わったのは、スタートラインと位置付けていた円安による日本企業の国際競争力回復が実現しなかったことによる。確かに日本企業の国際競争力が回復していれば、国内企業は生産力の増大に走り、設備投資も活発になっただろうし、そうなれば雇用の拡大や賃金の上昇が、増税という消費活動にとってのマイナス要素を吹飛ばしていたかもしれないが、そもそもスタートラインを間違えてしまったら、アベノミクス・サイクルが空回りどころか逆回転を始めることくらいわかりそうなものだと思うのだが…。
 が、野党もだらしがないのは、「なぜアベノミクス・サイクル」が失敗に終わったのかの理由の解明ができていないことにある。「消費が伸びない」とか「賃金の上昇が物価上昇に追いついていない」とか「大企業や富裕層の利益だけが増大して、中間層や低所得層は物価の上昇に悲鳴を上げている」という結果論だけの批判にとどまっているからだ。「企業の生産拡大→設備投資→雇用の拡大→賃金増大→消費の回復」という非アベノミクス・サイクルが回りださない限り、日本経済の本格的な回復はないことに、なぜ野党やアベノミクスに批判的なメディアも気がつかないのか。

 いずれにせよ、今回の総選挙は憲政史上空前の低投票率を記録することだけは間違いない。結果として国民に選択肢がないため(野党が効果的な経済政策を打ち出せないため)、自公連立政権は継続することも間違いないが、はっきりしていることは選挙の低投票率は、国民が突き付けたアベノミクスに対するNOであることだけは言っておく。私の周辺には「今回の選挙には投票に行かない」という人たちが大半である。昨日から選挙戦は本番に突入したが、「こんなに盛り上がらない選挙は、かつてあっただろうか」という有権者の反応の実態がもうすぐ見えてくる。
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