参院選の結果はマスコミ各社が行ってきた世論調査に基づく予想通りだった。政府与党の自公が過半数を占めて、衆参ねじれ現象は解消した。これで政治の停滞にピリオドが打たれることが確実になった。
このブログは前もって準備していたものに、テレビでの速報を見ながら加筆修正している。今、実際にこの文章は加筆しつつあるものである。だから明日(22日)の新聞各紙がこの選挙結果をどう分析・評価するかは全く分からない。
私が感じる危惧の一つは、自民が勝ちすぎたことだ。衆院のように単独で過半数を獲得できたわけではないが(非改選組も含め)、政府与党内での公明の発言力は相対的にかなり後退することは必至だ。公明が予想されていたほど伸びなかったからだ。ある意味では公明は自民の暴走に対する歯止めの役割を果たしてきた。公明の意向をある程度のまないと、自民は政策立案に持ち込めなかったからだ。
が、考えようによっては、自民にとってはこの重しがかなり軽くなったことを意味する選挙結果だったという見方もできる。このことは公明にとっては大きな試練の場を迎えることになったとも言える。発言力が相対的に低下した政府与党にとどまって、いかに存在感を維持するかという難題に直面することになったからだ。
いま日本で一枚岩のリベラルな政党は公明とみんなだけだ。維新はリベラル派と超保守主義派の混合政党だし、民主に至っては何でもありのガラガラポン政党だ。リベラルな政治家は日本でもかなり増えてはきたが、さまざまな政党に四散しており、公明とみんな以外にリベラル色を前面に打ち出している政党はない。
その公明の政府与党内での影が相対的に薄くなることによって、日本の政治は保守傾向に大きく舵を切る可能性が生じた。それがどういう結果を生むか。差し当たっては憲法96条改正問題である。
憲法96条について改めて基礎的な解説をしておこう。
憲法96条は、憲法改正の要件を定めた条文である。具体的には憲法を改正するためには、①衆参両院における決議で3分の2以上の賛成を持って憲法改正案を発議でき、②国民投票で有効投票数の過半数の同意を得て成立する、という憲法改正の手順を定めた条文である。このように憲法改正についての極めてハードルの高い要件を定めた96条があるため、日本国憲法は「硬性憲法」と言われている。
自民の結党以来の熱望は、「日本人の手で日本国憲法をつくる」ことにある。「今の憲法は占領下においてGHQによって押し付けられた憲法」という考えが底流にある。歴史的事実としては、そういう側面があったことは否定できない。一方、そうした憲法観に異を唱える憲法学者も少なくない。憲法原案作成の過程で、日本政府が最終的に憲法原案を作成し、日本側の主張もかなり反映されているというのである。それも歴史的事実としては否定できない側面がある。
だが、それらの憲法観は単に歴史的事実について、自分たちの主張にとって都合のいい解釈をしているに過ぎない。
歴史的事実は一つしかない、というのは実は錯覚なのである。先の大戦における歴史認識で韓国や中国と対立が激しくなっているのも、実は自国にとって都合のいい歴史的事実だけを唯一のよりどころとして主張し合うから噛み合わなくなってしまう。
目からうろこが落ちる話をしたい。否、すでに多くの読者の目からうろこが落ちかかっているのではないだろうか。
日本国憲法は、かなりの部分において日本側の主張が反映されたというのは、間違いなく歴史的事実である。しかし、独立国としての主体性を持って行った日本側の主張が、果たしてGHQから無条件で承認されるような状況下で、日本国憲法原案が作成され、国会で承認されたのかという視点で、改めて日本国憲法制定過程を検証してみると、結論はおのずと明らかである。GHQの意に反するような日本側の憲法原案が通るような状況下に、当時の日本があったかどうか考えると、それでも日本政府による自主性を主張できる憲法学者はおそらくいないはずだ。最終的な憲法原案は日本政府が作成したという形式論で日本の自主性を主張するのであれば、憲法学者としての見識を疑われてもやむを得ないと言えよう。
そういう視点で考えると、押し付けられた憲法か否かという論争自体がまったく不毛な議論でしかないことを読者はご理解いただけたと思う。
憲法改正論議の焦点になっているのは言うまでもなく憲法9条の扱いである。
改めて憲法9条について記載する。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この条文を子供のような素直な感覚で読めば、自衛隊は明らかに憲法9条が
定める「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という戦力不保持条項
に違反していることは明らかである。現に吉田茂首相は国会で、日本共産党の野坂参三書記長の代表質問「自衛のための戦争すら放棄するのか」と詰め寄られ「憲法の定めるところにより自衛のためであっても戦争はしない」と明確に答弁している。だから自衛隊設立以降自民党政府は一貫して「自衛のための戦力」という言い方をせず、「自衛のための実力」といった、だれが考えても理解に苦しむ表現をしてきたのである。
また、GHQ総司令官のマッカーサーはのちに回顧録で、日本に戦力不保持の憲法をつくらせたのは失敗だったと告白している。
憲法9条の作成についての経緯はこのあと簡単に触れるが、要するに子どもが母親の顔色をうかがいながら、どこまでおねだりできるか試すのと全く同様のやり取りが日本側とGHQとの間であった。
終戦後の日本政府は、憲法改正に着手するに際し、大日本帝国憲法の一部条項を修正し、「陸海軍(※空軍という別個の独立した軍隊は存在しなかった)を一括して『軍』とし、軍事行動には議会の賛成を必要とする」といったムシのいい修正ですませるつもりだった。
一方GHQは独自に日本に対する制裁的意味合いが濃厚な憲法原則を練っていた。その過程でまとめたのがマッカーサー三原則と呼ばれるもので、その第二項に事実上9条の骨子を成すことになる要素が含まれていた。その部分(邦訳)を転記する。
「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」
この第二項をベースにGHQが作成した憲法原案(マッカーサー草案ともいう)は以下のものだった(外務省仮訳)。
「国民の主権としての戦争は之を廃止す 他の国民との紛争解決の手段として
の武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す 陸軍、海軍、空軍又はその他の戦力は決して許諾せらるること無かるへく又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるへし」(原文はカタカナ)
マッカーサー三原則をベースにしながら、GHQは重要な個所を削除した。削除されたのは「自己の安全を保持するための手段としてさえも」という自衛権を否定した箇所である(私が下線を引いた個所)。だが、自衛のための最小限の戦力の保持についての明文はなく、憲法解釈において、吉田総理が自衛権すら放棄しているとの認識を国会答弁で行っている。だが、憲法9条は自衛権については一切触れずに「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されており、小学生でも「自衛のための戦力は別」とは解釈しないだろう。
このGHQ原案をベースに日本側は「国民の主権としての戦争」の箇所を「国
家の主権において行ふ戦争…」と改めたり、何度かGHQと交渉を重ねながら、最終的にはGHQの承認を経て政府原案がまとめられ、国会の決議を経て日本国憲法が制定されたのである。そういう経緯からは、いちおう日本政府とGHQの合作のように見えるが、日本政府が常にGHQの顔色をうかがいながら作成していった過程が目に見えるようだ。私が子どもが母親の顔色をうかがいながらおねだりするプロセスに酷似しているとたとえたことがご理解いただけよう。
そのため、この憲法9条に縛られ、その後の国際状況の変化の中で、アメリカも日本もにっちもさっちもいかない状況が続いてきた。とりあえず自衛権は国際法上の、だれも奪うことができない権利として認められているという立場に立って自衛隊が設立され、以降解釈改憲が相次いできた。自衛権については、1945年に発効した国連憲章51条でこう定められている。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な処置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない(※あとで触れるが、この表現はおかしい。というより、間違っている。そのことに気が付いた人がだれもいないのも不思議な話だ)。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった処置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この処置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く機能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない」
このように、国連加盟国は、国家の固有の権利として自衛権を認めている。日本の憲法9条の解釈でしばしば問題になるのは、国連憲章が認めている「個別的又は集団的自衛の固有の権利」である。
自衛権とは、言うまでもなく他国(敵国ということになる)から不当な侵害・武力攻撃を受けた場合、自衛のための行動(敵国に対する武力反撃)を行える権利を意味する。ところが、GHQは自衛のための武力行使は認めながら(ただし憲法9条には明文化されていない)、日本の軍事力を完全に解体してしまった。どうしてそうなったのか、私には憲法9条の七不思議としか思えないのだが、どうしてこのような矛盾した憲法が制定されたのかに疑問を抱いた憲法学者はいないようだ。読者の皆さんどう思われますか。
憲法9条は、縦に読んでも、横に読んでも、斜めに読んでも、逆さに読んでも、どう読んでも「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されている。なのに自衛権までは否定していないと主張し(GHQ)、だが「自衛のための最小限の戦力の保持」については憲法のどの条文にも明記されていない。日本政府とGHQの合作とされる憲法で、なぜ自衛のための戦力についての記述が抜け落ちてしまい、かつ自衛のために必要な戦力まで解体してしまった経緯を憲法学者も歴史家も一切不問に付してきたのはなぜか。また、そのことへの疑問を提起したジャーナリストすら皆無なのはなぜなのか。私がもう少し若ければ、この歴史に埋もれた摩訶不思議な憲法制定の経緯を解明したいのだが、いかんせん73歳の老齢の身には余る作業なので、どなたか、若い方が憲法9条の七不思議(別に疑問が七つあるという意味ではない。比喩的表現である。短絡してイチャモンを付けられても困るので)を解明していただければと願う。もしその解明に成功すればノンフィクション賞か日本記者クラブ賞を受賞できるのではないかと思う。そのくらいの価値は十分にある。
さらに国連憲章にあるように、自衛権には「個別的自衛権」と「集団的自衛権」のふたつがある。「個別的自衛権」とは、自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利を意味し、「集団的自衛権」は同盟関係を結んでいる国が侵害を受けた場合、同盟国とともに侵害を排除する行為を行う権利のことである。
日本はアメリカと同盟関係を結んでいる。同盟関係は通常双務的なもので、片務的関係というのは、対等な同盟関係とは言えない。「双務的」というのは、相互に相手国とともに侵害を排除する責任を持ち合うことを意味し、「片務的」というのは同盟関係にある一方だけが相手国に協力して侵害を排除する責任を持つが、もう一方の国は相手国に対する侵害を協力して排除する責任を持たない関係を意味する。そういう関係が成立するのは、「同盟」というより「従属」的関係にある場合であることが、歴史的にも証明されている。
たとえば朝鮮は、今は韓国も北朝鮮も独立国としていかなる国にも従属していないが、日清戦争までは朝鮮は中国に対し従属的関係にあった。だから豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出した時、当初は日本軍が連戦連勝を続けたが、中国軍が朝鮮軍を支援したことにより戦局が一変して日本軍は敗退を余儀なくされた。西郷隆盛が「征韓論」を唱えたが、政府内で孤立したのも、大久保ら政府の主流派が、「韓国を攻撃したら中国とも戦うことになる。中韓連合軍を相手に戦えるだけの戦力はまだない」という判断に傾いたため、西郷は野に下り、バカげた西南戦争まで引き起こすことになったのはご承知のとおりである。が、国力を整えた日本が、朝鮮ではなくアヘン戦争以降疲弊の一途をたどっていた中国を直接攻撃した「日清戦争」で、中国に対し従属的関係にあった朝鮮はこの戦争に関与せず、中国を破った戦果として朝鮮を一方的に併合したことも歴史的事実として明白である。歴史家は、日清戦争のとき、朝鮮軍が中国軍と一緒になって日本軍に対抗しなかった事実とその理由を解明することを完全に怠っている。そんなスタンスで日本の近代史を語ろうとするのを「おこがましい」という。
ついでに鳩山由紀夫元総理のいわゆる「国賊発言」についても言及しておく。この「国賊発言」というのは、訪中を前に6月26日、香港のテレビ局のインタビューに応じ「(尖閣諸島は)中国側から見れば盗んだと思われても仕方がない」と発言したもので、日本の国益を大きく害したと理解されている。
鳩山氏はこの発言について現在の段階では一切弁解も、そういう認識に至った理由も説明していないから、単純に「国益」なるものを基準にするのではなく、どういう経緯で尖閣諸島が日本の領土になったかの歴史的検証をしてみたい。
もともと現在の沖縄県(尖閣諸島も含む)は「琉球王国」という独立国家だった。歴史的には中国に対し、朝鮮ほどではなかったが、準従属的関係にあった。琉球王国時代、王が変わるたびに琉球は中国に使者を派遣して中国の承認を得ていたのは紛れもない歴史的事実であり、中国側もたびたび琉球に使者を派遣して友好関係を密にしていた。その際、中国が琉球への渡航の目印にしていたのが尖閣諸島だったようだ。目印にしていたから中国領土だという言い分もおかしな理屈だが、琉球王国が中国に対し準従属的関係にあった歴史的事実を消すことはできない。
実はあまり知られていない歴史的事実だが、秀吉が朝鮮征伐を始めたとき、秀吉は日本の支配下になかった琉球に対し助勢を命じている。が、朝鮮と中国の関係から日本軍に助勢すると中国と敵対関係になりかねないと判断した琉球政府は、秀吉の命令を拒否している。が、日本軍が優勢に戦争を進めるのを見て、琉球は軍事的助勢こそしなかったが、食料を提供するなど日本軍を支援した。弱小独立国家が生き延びるための苦肉の外交手段だったことを理解しておく必要がある。
その琉球王国を1609年、島津藩が3000の軍勢で侵攻した。琉球側は4000の軍勢で対抗したが、戦国時代を経て軍事力で圧倒的に優勢だった島津軍に完敗、以降琉球王国は島津藩の支配下にはいる。島津藩の侵攻を受けたとき、琉球王国は中国に支援を求めたが、秀吉の朝鮮征伐の時琉球が日本軍に食料を提供したこと、また中国にとっては朝鮮ほどとの深い関係にはないこと、さらに琉球を支援することに当時の中国が国益を見いだせなかったことなどの理由から、琉球王国の支援要請に応じなかったという歴史的経緯もある。
さらに、琉球王国は島津藩の支配下に入りながら、いちおう独立国家として存続してきた。完全に日本の領土として組み込まれたのは明治維新後で、廃藩置県の際、島津藩からも分離されて沖縄県となる。そういう意味では沖縄を日本が奪った(どこから ?、と聞かれると奪った相手はないのだが)ことは紛れもない歴史的事実である。
似たようなケースにアメリカのハワイ州がある。ハワイはもともとは琉球と同じく独立王国だった。が、1843年にイギリスが何の根拠もなく一方的にハワイの領有を宣言すると、49年にはイギリスに負けじとフランスがやはり一方的にハワイの領有を宣言した。この時期、世界各国からハワイへの移民が盛んに行われるようになり、68年には日本人も集団移民している。アメリカも多少遅れをとったが、ハワイへの進出を始め、政治的経済的影響力を強めていく。そうした状況下で、81年、当時のハワイ国王カラカウアが来日して明治天皇に皇
族間の政略結婚を申し入れる。当時の日本移民のハワイでの仕事ぶりや生活、原住民との良好な関係を見て(これは根拠のない私の推測)、カラカウア王は日本との国家間の緊密な関係を結びたかったのではないだろうか。が、日本政府はアメリカとの関係悪化を恐れて、この申し入れを断る。
さらに93年、リリウオカラニ女王がアメリカとの不平等条約廃止の動きを見せると、アメリカ移民が米海兵隊の支援を得てクーデターを起こし、王制を打倒して女王を宮殿に軟禁した。この時国王派から要請を受けた日本海軍は邦人保護を理由に東郷平八郎率いる軍艦「浪速(なにわ)」他2隻をハワイに派遣しホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。この日本側の対応にハワイ原住民は涙を流して歓喜したという。先の大戦で、日本海軍が真珠湾を奇襲したことをいまだに「リメンバー・パールハーバー」と反日感情を持ち続けているアメリカ人が少なくない中で、肝心のハワイ原住民が日本人への親しみを持ち続け、州知事に日系人を選んだりするのも、こうした埋もれた歴史によってハワイ原住民が親日感情を持ち続けてくれているからではないかと私は思う。この日本とハワイの関係の埋もれた歴史を発掘すれば、やはりノンフィクション賞の対象に多分なるだろう。
ハワイ王朝を打倒した米人樹立の臨時政府は、アメリカに併合を求めるが、当時のアメリカ政府は海外進出に消極的で、臨時政府はアメリカ併合を断念、94年には新憲法をつくってハワイ共和国建国を宣言した。「初代大統領」はサンフォード・ドール。彼は最初で最後のハワイ共和国大統領となった。翌95年、ハワイ原住民が武装蜂起して王政復古を目指したが、近代兵器で武装していた共和国軍に短期間で鎮圧され、反乱派に対する大虐殺が始まる。共和国側はリリウオカラニ女王がこの反乱に加担したとして女王を廃位、ハワイ王国は滅亡した。その後、ハワイの地政的重要性に気づいた米政府は98年にハワイ共和国を併合、ハワイ準州(米自治領)にした。ハワイが50番目の州になったのは1959年になってからである。
このようなハワイの歴史を振り返ると、琉球がたどった道と酷似していることが理解できよう。そしてハワイ州民が米国人であることに今では何の疑問も抱いていないのと同様、沖縄県民も日本人であることに何の疑問も抱いていない以上、琉球王国の支配下にあった尖閣諸島が、固有の領土とまでは言えないまでも、沖縄県に属する日本の領土であることに疑いを容れる余地はない。
ついでの話はこの辺でおいて、自衛権問題に戻ろう。自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権の二つがあり、個別的自衛権は国連加盟国であれば自動的に付与される権利であることはすでに述べた。ただ国連憲章の51条条文におかしな、というより間違った表現があると、条文転記の中で注釈を加えたことを覚えておいでだろうか。そのおかしな表現とは「個別的又は集団的自衛の固有の権利」という表現である。日本語では通常「又は」という場合(おそらく原文では、「or」と記載されていると思う)、「二つの選択肢のどちらかを選ぶ」という意味である。もし国連憲章51条が二つの権利を有することを意図したものであれば、「or」ではなく「and」を使うべきだろう。ひょっとしたら「or」には「and」の意味も含まれているのかもしれないと思って英和辞典を調べてみたが、そうではないようだ。とすれば、なぜ国連憲章は「and」ではなく「or」という文字を用いたのか。
ウィキペディアの解説によれば、自衛権の意味はこうである。
「自衛権とは、急迫不正の侵害を排除するために、武力を持って必要な行為を行う国際法上の権利であり、自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利である。国内法上の正当防衛権に対比されることもあるが、社会的条件の違いから国内法上の正当防衛権と自衛権が完全に対比しているわけでもない。他国に対する侵害を排除するための行為を行う権利を集団的自衛権といい、自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利である個別的自衛権と区別する」
つまり国連憲章51条を条文に従って忠実に行使できる自衛権は、集団的自衛権or個別的自衛権のどちらかで、どちらを選択するかは国連加盟国の自由ということになる。
現在、日本の憲法9条についての解釈は「個別的自衛権は固有の権利としてあるが、集団的自衛権は国連憲章では認められているものの、現行憲法下においては行使できない」というのが通説になっており、政府もその通説に従っている。そこで自民党は、集団的自衛権が認められるような条文に9条を改正し、日米同盟を双務的なものにしたいというのが結党以来の執念である。そのため、憲法改正の発議要件を定めた96条をまず改正して発議要件のハードルを下げておきたいというのが現時点での憲法改正の目的である。
憲法改正派は「押し付けられた憲法」と主張するし、護憲派は「平和憲法のおかげで日本は戦後、平和を維持できた」と主張して、議論がまったくかみ合わない。この議論のおかしさについてこれまで何度も書いてきたので、これ以上繰り返す必要はないだろう。
ただ、勢力は伸ばしたものの、自民の圧倒的勝利によって、かえって政府与党の中で影が薄くなってしまった公明が改憲問題にどう取り組むかが注目の的になる。公明は憲法問題については、現実に対応できるよう「加憲」を主張してきた。「加憲」とは現行憲法の平和主義は維持しつつ現実を反映した条文(具体的には自衛隊の存在や国際貢献の在り方)を加えようという意味と思われるが、維新やみんなは自衛隊の位置づけを憲法で明確にする必要性を認めている。
共産・社民はいずれも憲法改正反対を主張しているが、さすがにかつてのような「日本丸裸」論は引っ込めており、そうなると戦力保持を全面否定した9条と現実との乖離(自民はこの乖離を埋めるため、「戦力」という言葉を使用せず「実力」と言い換えるなど苦肉の策に追われている)をどう説明するのか。
問題は民主で、もともと野合政党であるため改憲派と護憲派がごちゃ混ぜになっており、政府与党が96条改正を上程した時、どういう方針を党として打ち出すのか、皆目見当がつかない。党を維持するためには党としての方針を打ち出さず自由投票にするしかないが、そうなると「民主はいったい政党といえるのか」という民主支持者の反発が生じるのは目に見えており、かといって党としての方針を両院議員総会を開いて決め、法案採決の際党議拘束をかければ分裂はおそらく避けられない。改憲問題という基本的スタンスすら同一の価値観を共有せず、ただ「反自民」の旗印だけ掲げて船出した野合政党がたどるべき必然的結果が目前に迫っている。
最後に、もはや死に体になっている小沢新党(生活と称してはいるが)の動向などどうでもいいから論評しない。
いずれにせよ、この参院選で、とりあえず改憲手続きを定めた96条の改正案(憲法改正は衆参両院の過半数の賛成で発議でき、国民投票で過半数の賛成で実施されるという改憲手続きの改正案)は衆参両院で3分の2以上の賛成により成立し、国会が発議するに至ることはほぼ間違いない状況になった。その結果、国民が直接憲法改正に国民の意思を反映できる道が短くなることは間違いない。
まだどの政党も憲法改正案に入れていないが、改正憲法にぜひ「国民投票権」の規定を設けてもらいたい。つまり国論を二分するような重要法案は、一定の衆参両院議員の賛成(憲法改正の手続きよりハードルは下げる必要がある)で国民に直接意思を問う制度を設けていただきたい。
国民主権と言いながら、実際には国民が政治に関与できる機会は選挙の時だけで、国論を二分するような重要法案すら国会議員たちだけで決められては困るのである。
国民が重要法案の決定に直接関与できるようになった時、当然考えられるのは政治がポピュリズムに流れることだが、それは民主主義が成熟するための過渡的な道としてどのみち避けられない。そういう苦難を乗り越えて初めて人類は民主主義の欠陥を少しずつ、かたつむりのような歩みであったとしても修正することが可能になる。
憲法改正を、単に9条の改正にとどめることなく、真に国民主権の政治が実現できる一里塚にしてほしいと私は切に願う。(7月21日23時50分)
このブログは前もって準備していたものに、テレビでの速報を見ながら加筆修正している。今、実際にこの文章は加筆しつつあるものである。だから明日(22日)の新聞各紙がこの選挙結果をどう分析・評価するかは全く分からない。
私が感じる危惧の一つは、自民が勝ちすぎたことだ。衆院のように単独で過半数を獲得できたわけではないが(非改選組も含め)、政府与党内での公明の発言力は相対的にかなり後退することは必至だ。公明が予想されていたほど伸びなかったからだ。ある意味では公明は自民の暴走に対する歯止めの役割を果たしてきた。公明の意向をある程度のまないと、自民は政策立案に持ち込めなかったからだ。
が、考えようによっては、自民にとってはこの重しがかなり軽くなったことを意味する選挙結果だったという見方もできる。このことは公明にとっては大きな試練の場を迎えることになったとも言える。発言力が相対的に低下した政府与党にとどまって、いかに存在感を維持するかという難題に直面することになったからだ。
いま日本で一枚岩のリベラルな政党は公明とみんなだけだ。維新はリベラル派と超保守主義派の混合政党だし、民主に至っては何でもありのガラガラポン政党だ。リベラルな政治家は日本でもかなり増えてはきたが、さまざまな政党に四散しており、公明とみんな以外にリベラル色を前面に打ち出している政党はない。
その公明の政府与党内での影が相対的に薄くなることによって、日本の政治は保守傾向に大きく舵を切る可能性が生じた。それがどういう結果を生むか。差し当たっては憲法96条改正問題である。
憲法96条について改めて基礎的な解説をしておこう。
憲法96条は、憲法改正の要件を定めた条文である。具体的には憲法を改正するためには、①衆参両院における決議で3分の2以上の賛成を持って憲法改正案を発議でき、②国民投票で有効投票数の過半数の同意を得て成立する、という憲法改正の手順を定めた条文である。このように憲法改正についての極めてハードルの高い要件を定めた96条があるため、日本国憲法は「硬性憲法」と言われている。
自民の結党以来の熱望は、「日本人の手で日本国憲法をつくる」ことにある。「今の憲法は占領下においてGHQによって押し付けられた憲法」という考えが底流にある。歴史的事実としては、そういう側面があったことは否定できない。一方、そうした憲法観に異を唱える憲法学者も少なくない。憲法原案作成の過程で、日本政府が最終的に憲法原案を作成し、日本側の主張もかなり反映されているというのである。それも歴史的事実としては否定できない側面がある。
だが、それらの憲法観は単に歴史的事実について、自分たちの主張にとって都合のいい解釈をしているに過ぎない。
歴史的事実は一つしかない、というのは実は錯覚なのである。先の大戦における歴史認識で韓国や中国と対立が激しくなっているのも、実は自国にとって都合のいい歴史的事実だけを唯一のよりどころとして主張し合うから噛み合わなくなってしまう。
目からうろこが落ちる話をしたい。否、すでに多くの読者の目からうろこが落ちかかっているのではないだろうか。
日本国憲法は、かなりの部分において日本側の主張が反映されたというのは、間違いなく歴史的事実である。しかし、独立国としての主体性を持って行った日本側の主張が、果たしてGHQから無条件で承認されるような状況下で、日本国憲法原案が作成され、国会で承認されたのかという視点で、改めて日本国憲法制定過程を検証してみると、結論はおのずと明らかである。GHQの意に反するような日本側の憲法原案が通るような状況下に、当時の日本があったかどうか考えると、それでも日本政府による自主性を主張できる憲法学者はおそらくいないはずだ。最終的な憲法原案は日本政府が作成したという形式論で日本の自主性を主張するのであれば、憲法学者としての見識を疑われてもやむを得ないと言えよう。
そういう視点で考えると、押し付けられた憲法か否かという論争自体がまったく不毛な議論でしかないことを読者はご理解いただけたと思う。
憲法改正論議の焦点になっているのは言うまでもなく憲法9条の扱いである。
改めて憲法9条について記載する。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この条文を子供のような素直な感覚で読めば、自衛隊は明らかに憲法9条が
定める「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という戦力不保持条項
に違反していることは明らかである。現に吉田茂首相は国会で、日本共産党の野坂参三書記長の代表質問「自衛のための戦争すら放棄するのか」と詰め寄られ「憲法の定めるところにより自衛のためであっても戦争はしない」と明確に答弁している。だから自衛隊設立以降自民党政府は一貫して「自衛のための戦力」という言い方をせず、「自衛のための実力」といった、だれが考えても理解に苦しむ表現をしてきたのである。
また、GHQ総司令官のマッカーサーはのちに回顧録で、日本に戦力不保持の憲法をつくらせたのは失敗だったと告白している。
憲法9条の作成についての経緯はこのあと簡単に触れるが、要するに子どもが母親の顔色をうかがいながら、どこまでおねだりできるか試すのと全く同様のやり取りが日本側とGHQとの間であった。
終戦後の日本政府は、憲法改正に着手するに際し、大日本帝国憲法の一部条項を修正し、「陸海軍(※空軍という別個の独立した軍隊は存在しなかった)を一括して『軍』とし、軍事行動には議会の賛成を必要とする」といったムシのいい修正ですませるつもりだった。
一方GHQは独自に日本に対する制裁的意味合いが濃厚な憲法原則を練っていた。その過程でまとめたのがマッカーサー三原則と呼ばれるもので、その第二項に事実上9条の骨子を成すことになる要素が含まれていた。その部分(邦訳)を転記する。
「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」
この第二項をベースにGHQが作成した憲法原案(マッカーサー草案ともいう)は以下のものだった(外務省仮訳)。
「国民の主権としての戦争は之を廃止す 他の国民との紛争解決の手段として
の武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す 陸軍、海軍、空軍又はその他の戦力は決して許諾せらるること無かるへく又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるへし」(原文はカタカナ)
マッカーサー三原則をベースにしながら、GHQは重要な個所を削除した。削除されたのは「自己の安全を保持するための手段としてさえも」という自衛権を否定した箇所である(私が下線を引いた個所)。だが、自衛のための最小限の戦力の保持についての明文はなく、憲法解釈において、吉田総理が自衛権すら放棄しているとの認識を国会答弁で行っている。だが、憲法9条は自衛権については一切触れずに「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されており、小学生でも「自衛のための戦力は別」とは解釈しないだろう。
このGHQ原案をベースに日本側は「国民の主権としての戦争」の箇所を「国
家の主権において行ふ戦争…」と改めたり、何度かGHQと交渉を重ねながら、最終的にはGHQの承認を経て政府原案がまとめられ、国会の決議を経て日本国憲法が制定されたのである。そういう経緯からは、いちおう日本政府とGHQの合作のように見えるが、日本政府が常にGHQの顔色をうかがいながら作成していった過程が目に見えるようだ。私が子どもが母親の顔色をうかがいながらおねだりするプロセスに酷似しているとたとえたことがご理解いただけよう。
そのため、この憲法9条に縛られ、その後の国際状況の変化の中で、アメリカも日本もにっちもさっちもいかない状況が続いてきた。とりあえず自衛権は国際法上の、だれも奪うことができない権利として認められているという立場に立って自衛隊が設立され、以降解釈改憲が相次いできた。自衛権については、1945年に発効した国連憲章51条でこう定められている。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な処置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない(※あとで触れるが、この表現はおかしい。というより、間違っている。そのことに気が付いた人がだれもいないのも不思議な話だ)。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった処置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この処置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く機能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない」
このように、国連加盟国は、国家の固有の権利として自衛権を認めている。日本の憲法9条の解釈でしばしば問題になるのは、国連憲章が認めている「個別的又は集団的自衛の固有の権利」である。
自衛権とは、言うまでもなく他国(敵国ということになる)から不当な侵害・武力攻撃を受けた場合、自衛のための行動(敵国に対する武力反撃)を行える権利を意味する。ところが、GHQは自衛のための武力行使は認めながら(ただし憲法9条には明文化されていない)、日本の軍事力を完全に解体してしまった。どうしてそうなったのか、私には憲法9条の七不思議としか思えないのだが、どうしてこのような矛盾した憲法が制定されたのかに疑問を抱いた憲法学者はいないようだ。読者の皆さんどう思われますか。
憲法9条は、縦に読んでも、横に読んでも、斜めに読んでも、逆さに読んでも、どう読んでも「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されている。なのに自衛権までは否定していないと主張し(GHQ)、だが「自衛のための最小限の戦力の保持」については憲法のどの条文にも明記されていない。日本政府とGHQの合作とされる憲法で、なぜ自衛のための戦力についての記述が抜け落ちてしまい、かつ自衛のために必要な戦力まで解体してしまった経緯を憲法学者も歴史家も一切不問に付してきたのはなぜか。また、そのことへの疑問を提起したジャーナリストすら皆無なのはなぜなのか。私がもう少し若ければ、この歴史に埋もれた摩訶不思議な憲法制定の経緯を解明したいのだが、いかんせん73歳の老齢の身には余る作業なので、どなたか、若い方が憲法9条の七不思議(別に疑問が七つあるという意味ではない。比喩的表現である。短絡してイチャモンを付けられても困るので)を解明していただければと願う。もしその解明に成功すればノンフィクション賞か日本記者クラブ賞を受賞できるのではないかと思う。そのくらいの価値は十分にある。
さらに国連憲章にあるように、自衛権には「個別的自衛権」と「集団的自衛権」のふたつがある。「個別的自衛権」とは、自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利を意味し、「集団的自衛権」は同盟関係を結んでいる国が侵害を受けた場合、同盟国とともに侵害を排除する行為を行う権利のことである。
日本はアメリカと同盟関係を結んでいる。同盟関係は通常双務的なもので、片務的関係というのは、対等な同盟関係とは言えない。「双務的」というのは、相互に相手国とともに侵害を排除する責任を持ち合うことを意味し、「片務的」というのは同盟関係にある一方だけが相手国に協力して侵害を排除する責任を持つが、もう一方の国は相手国に対する侵害を協力して排除する責任を持たない関係を意味する。そういう関係が成立するのは、「同盟」というより「従属」的関係にある場合であることが、歴史的にも証明されている。
たとえば朝鮮は、今は韓国も北朝鮮も独立国としていかなる国にも従属していないが、日清戦争までは朝鮮は中国に対し従属的関係にあった。だから豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出した時、当初は日本軍が連戦連勝を続けたが、中国軍が朝鮮軍を支援したことにより戦局が一変して日本軍は敗退を余儀なくされた。西郷隆盛が「征韓論」を唱えたが、政府内で孤立したのも、大久保ら政府の主流派が、「韓国を攻撃したら中国とも戦うことになる。中韓連合軍を相手に戦えるだけの戦力はまだない」という判断に傾いたため、西郷は野に下り、バカげた西南戦争まで引き起こすことになったのはご承知のとおりである。が、国力を整えた日本が、朝鮮ではなくアヘン戦争以降疲弊の一途をたどっていた中国を直接攻撃した「日清戦争」で、中国に対し従属的関係にあった朝鮮はこの戦争に関与せず、中国を破った戦果として朝鮮を一方的に併合したことも歴史的事実として明白である。歴史家は、日清戦争のとき、朝鮮軍が中国軍と一緒になって日本軍に対抗しなかった事実とその理由を解明することを完全に怠っている。そんなスタンスで日本の近代史を語ろうとするのを「おこがましい」という。
ついでに鳩山由紀夫元総理のいわゆる「国賊発言」についても言及しておく。この「国賊発言」というのは、訪中を前に6月26日、香港のテレビ局のインタビューに応じ「(尖閣諸島は)中国側から見れば盗んだと思われても仕方がない」と発言したもので、日本の国益を大きく害したと理解されている。
鳩山氏はこの発言について現在の段階では一切弁解も、そういう認識に至った理由も説明していないから、単純に「国益」なるものを基準にするのではなく、どういう経緯で尖閣諸島が日本の領土になったかの歴史的検証をしてみたい。
もともと現在の沖縄県(尖閣諸島も含む)は「琉球王国」という独立国家だった。歴史的には中国に対し、朝鮮ほどではなかったが、準従属的関係にあった。琉球王国時代、王が変わるたびに琉球は中国に使者を派遣して中国の承認を得ていたのは紛れもない歴史的事実であり、中国側もたびたび琉球に使者を派遣して友好関係を密にしていた。その際、中国が琉球への渡航の目印にしていたのが尖閣諸島だったようだ。目印にしていたから中国領土だという言い分もおかしな理屈だが、琉球王国が中国に対し準従属的関係にあった歴史的事実を消すことはできない。
実はあまり知られていない歴史的事実だが、秀吉が朝鮮征伐を始めたとき、秀吉は日本の支配下になかった琉球に対し助勢を命じている。が、朝鮮と中国の関係から日本軍に助勢すると中国と敵対関係になりかねないと判断した琉球政府は、秀吉の命令を拒否している。が、日本軍が優勢に戦争を進めるのを見て、琉球は軍事的助勢こそしなかったが、食料を提供するなど日本軍を支援した。弱小独立国家が生き延びるための苦肉の外交手段だったことを理解しておく必要がある。
その琉球王国を1609年、島津藩が3000の軍勢で侵攻した。琉球側は4000の軍勢で対抗したが、戦国時代を経て軍事力で圧倒的に優勢だった島津軍に完敗、以降琉球王国は島津藩の支配下にはいる。島津藩の侵攻を受けたとき、琉球王国は中国に支援を求めたが、秀吉の朝鮮征伐の時琉球が日本軍に食料を提供したこと、また中国にとっては朝鮮ほどとの深い関係にはないこと、さらに琉球を支援することに当時の中国が国益を見いだせなかったことなどの理由から、琉球王国の支援要請に応じなかったという歴史的経緯もある。
さらに、琉球王国は島津藩の支配下に入りながら、いちおう独立国家として存続してきた。完全に日本の領土として組み込まれたのは明治維新後で、廃藩置県の際、島津藩からも分離されて沖縄県となる。そういう意味では沖縄を日本が奪った(どこから ?、と聞かれると奪った相手はないのだが)ことは紛れもない歴史的事実である。
似たようなケースにアメリカのハワイ州がある。ハワイはもともとは琉球と同じく独立王国だった。が、1843年にイギリスが何の根拠もなく一方的にハワイの領有を宣言すると、49年にはイギリスに負けじとフランスがやはり一方的にハワイの領有を宣言した。この時期、世界各国からハワイへの移民が盛んに行われるようになり、68年には日本人も集団移民している。アメリカも多少遅れをとったが、ハワイへの進出を始め、政治的経済的影響力を強めていく。そうした状況下で、81年、当時のハワイ国王カラカウアが来日して明治天皇に皇
族間の政略結婚を申し入れる。当時の日本移民のハワイでの仕事ぶりや生活、原住民との良好な関係を見て(これは根拠のない私の推測)、カラカウア王は日本との国家間の緊密な関係を結びたかったのではないだろうか。が、日本政府はアメリカとの関係悪化を恐れて、この申し入れを断る。
さらに93年、リリウオカラニ女王がアメリカとの不平等条約廃止の動きを見せると、アメリカ移民が米海兵隊の支援を得てクーデターを起こし、王制を打倒して女王を宮殿に軟禁した。この時国王派から要請を受けた日本海軍は邦人保護を理由に東郷平八郎率いる軍艦「浪速(なにわ)」他2隻をハワイに派遣しホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。この日本側の対応にハワイ原住民は涙を流して歓喜したという。先の大戦で、日本海軍が真珠湾を奇襲したことをいまだに「リメンバー・パールハーバー」と反日感情を持ち続けているアメリカ人が少なくない中で、肝心のハワイ原住民が日本人への親しみを持ち続け、州知事に日系人を選んだりするのも、こうした埋もれた歴史によってハワイ原住民が親日感情を持ち続けてくれているからではないかと私は思う。この日本とハワイの関係の埋もれた歴史を発掘すれば、やはりノンフィクション賞の対象に多分なるだろう。
ハワイ王朝を打倒した米人樹立の臨時政府は、アメリカに併合を求めるが、当時のアメリカ政府は海外進出に消極的で、臨時政府はアメリカ併合を断念、94年には新憲法をつくってハワイ共和国建国を宣言した。「初代大統領」はサンフォード・ドール。彼は最初で最後のハワイ共和国大統領となった。翌95年、ハワイ原住民が武装蜂起して王政復古を目指したが、近代兵器で武装していた共和国軍に短期間で鎮圧され、反乱派に対する大虐殺が始まる。共和国側はリリウオカラニ女王がこの反乱に加担したとして女王を廃位、ハワイ王国は滅亡した。その後、ハワイの地政的重要性に気づいた米政府は98年にハワイ共和国を併合、ハワイ準州(米自治領)にした。ハワイが50番目の州になったのは1959年になってからである。
このようなハワイの歴史を振り返ると、琉球がたどった道と酷似していることが理解できよう。そしてハワイ州民が米国人であることに今では何の疑問も抱いていないのと同様、沖縄県民も日本人であることに何の疑問も抱いていない以上、琉球王国の支配下にあった尖閣諸島が、固有の領土とまでは言えないまでも、沖縄県に属する日本の領土であることに疑いを容れる余地はない。
ついでの話はこの辺でおいて、自衛権問題に戻ろう。自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権の二つがあり、個別的自衛権は国連加盟国であれば自動的に付与される権利であることはすでに述べた。ただ国連憲章の51条条文におかしな、というより間違った表現があると、条文転記の中で注釈を加えたことを覚えておいでだろうか。そのおかしな表現とは「個別的又は集団的自衛の固有の権利」という表現である。日本語では通常「又は」という場合(おそらく原文では、「or」と記載されていると思う)、「二つの選択肢のどちらかを選ぶ」という意味である。もし国連憲章51条が二つの権利を有することを意図したものであれば、「or」ではなく「and」を使うべきだろう。ひょっとしたら「or」には「and」の意味も含まれているのかもしれないと思って英和辞典を調べてみたが、そうではないようだ。とすれば、なぜ国連憲章は「and」ではなく「or」という文字を用いたのか。
ウィキペディアの解説によれば、自衛権の意味はこうである。
「自衛権とは、急迫不正の侵害を排除するために、武力を持って必要な行為を行う国際法上の権利であり、自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利である。国内法上の正当防衛権に対比されることもあるが、社会的条件の違いから国内法上の正当防衛権と自衛権が完全に対比しているわけでもない。他国に対する侵害を排除するための行為を行う権利を集団的自衛権といい、自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利である個別的自衛権と区別する」
つまり国連憲章51条を条文に従って忠実に行使できる自衛権は、集団的自衛権or個別的自衛権のどちらかで、どちらを選択するかは国連加盟国の自由ということになる。
現在、日本の憲法9条についての解釈は「個別的自衛権は固有の権利としてあるが、集団的自衛権は国連憲章では認められているものの、現行憲法下においては行使できない」というのが通説になっており、政府もその通説に従っている。そこで自民党は、集団的自衛権が認められるような条文に9条を改正し、日米同盟を双務的なものにしたいというのが結党以来の執念である。そのため、憲法改正の発議要件を定めた96条をまず改正して発議要件のハードルを下げておきたいというのが現時点での憲法改正の目的である。
憲法改正派は「押し付けられた憲法」と主張するし、護憲派は「平和憲法のおかげで日本は戦後、平和を維持できた」と主張して、議論がまったくかみ合わない。この議論のおかしさについてこれまで何度も書いてきたので、これ以上繰り返す必要はないだろう。
ただ、勢力は伸ばしたものの、自民の圧倒的勝利によって、かえって政府与党の中で影が薄くなってしまった公明が改憲問題にどう取り組むかが注目の的になる。公明は憲法問題については、現実に対応できるよう「加憲」を主張してきた。「加憲」とは現行憲法の平和主義は維持しつつ現実を反映した条文(具体的には自衛隊の存在や国際貢献の在り方)を加えようという意味と思われるが、維新やみんなは自衛隊の位置づけを憲法で明確にする必要性を認めている。
共産・社民はいずれも憲法改正反対を主張しているが、さすがにかつてのような「日本丸裸」論は引っ込めており、そうなると戦力保持を全面否定した9条と現実との乖離(自民はこの乖離を埋めるため、「戦力」という言葉を使用せず「実力」と言い換えるなど苦肉の策に追われている)をどう説明するのか。
問題は民主で、もともと野合政党であるため改憲派と護憲派がごちゃ混ぜになっており、政府与党が96条改正を上程した時、どういう方針を党として打ち出すのか、皆目見当がつかない。党を維持するためには党としての方針を打ち出さず自由投票にするしかないが、そうなると「民主はいったい政党といえるのか」という民主支持者の反発が生じるのは目に見えており、かといって党としての方針を両院議員総会を開いて決め、法案採決の際党議拘束をかければ分裂はおそらく避けられない。改憲問題という基本的スタンスすら同一の価値観を共有せず、ただ「反自民」の旗印だけ掲げて船出した野合政党がたどるべき必然的結果が目前に迫っている。
最後に、もはや死に体になっている小沢新党(生活と称してはいるが)の動向などどうでもいいから論評しない。
いずれにせよ、この参院選で、とりあえず改憲手続きを定めた96条の改正案(憲法改正は衆参両院の過半数の賛成で発議でき、国民投票で過半数の賛成で実施されるという改憲手続きの改正案)は衆参両院で3分の2以上の賛成により成立し、国会が発議するに至ることはほぼ間違いない状況になった。その結果、国民が直接憲法改正に国民の意思を反映できる道が短くなることは間違いない。
まだどの政党も憲法改正案に入れていないが、改正憲法にぜひ「国民投票権」の規定を設けてもらいたい。つまり国論を二分するような重要法案は、一定の衆参両院議員の賛成(憲法改正の手続きよりハードルは下げる必要がある)で国民に直接意思を問う制度を設けていただきたい。
国民主権と言いながら、実際には国民が政治に関与できる機会は選挙の時だけで、国論を二分するような重要法案すら国会議員たちだけで決められては困るのである。
国民が重要法案の決定に直接関与できるようになった時、当然考えられるのは政治がポピュリズムに流れることだが、それは民主主義が成熟するための過渡的な道としてどのみち避けられない。そういう苦難を乗り越えて初めて人類は民主主義の欠陥を少しずつ、かたつむりのような歩みであったとしても修正することが可能になる。
憲法改正を、単に9条の改正にとどめることなく、真に国民主権の政治が実現できる一里塚にしてほしいと私は切に願う。(7月21日23時50分)