小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

石原派の「分党」? 維新と結いは新党結成に際し野合政党の轍を踏むな。 拉致問題へのオバマの反応は?

2014-05-30 05:56:36 | Weblog
 日本維新の会が分裂した。共同代表の一人、石原慎太郎氏が「自主憲法」の制定を主張して譲らず、「憲法改正」で結いの党との合流を目指す橋下徹氏率いる多数派とたもとを分かつことにしたのだ。
 28日午後、二人は名古屋市のホテルで20分話し合って結論を出したという。わずか20分という短時間だから、話し合う前から結論は双方とも出していたのだろう。翌29日、石原氏は国会内で記者会見し、維新を「分党」する意向を明らかにした。分党?――意味不明な表現だ。なお、この記者会見で石原氏は「憲法を変えて…」と発言した。「憲法を変える」のであれば、現行憲法の否定ではなく、現行憲法の改正を意味する言葉のはずだが…。石原氏は文学者でもあるから、言葉の用法については厳密であるはずだ。ますます分からん。

 もともと日本維新の会は2010年4月に大阪都構想実現のための地域政党として発足した「大阪維新の会」を母体に、自民・民主・みんなから離党した国会議員らを加えて2012年9月に設立された政党である。設立直後に日本創新党が、11月にはたちあがれ日本と太陽の党が合流して今日に至った。その際、太陽の党の石原氏が代表に就任し、橋下氏は代表代行に退いた。翌12年12月に行われた総選挙では54議席を獲得する「維新旋風」が巻き起こり、国政で自民、民主に次ぐ第3党に躍進した。13年1月以降は共同代表制に移行してきた。
 橋下氏はよく知られているようにタレント弁護士の出身。タレント活動で抜群になった知名度を武器に2008年1月の大阪府知事選に出馬し、大差で当選した。その後、橋下知事は大阪府の財政再建に辣腕をふるう。ハコモノ行政に大ナタを振るう一方、府職員の天下り先事業に対する補助金も大幅カット、自らの給与や退職金も大幅カット、上級職だけでなく一般職員の給与や退職金、共済年金も財政再建のための俎上に載せる大改革を断行、府議会や府職員組合と真っ向から対立しながら信念を貫く姿勢を崩さなかった。
 さらに橋下氏は2011年12月、前年に大阪府と大阪市の二重行政を解消するため設立した大阪維新の会をバックに、府知事から格下の大阪市長に「転職」。橋下人気は一気に全国区に広がった。その橋下人気にあやかろとしたのが太陽の党の石原氏。石原氏が国政からいったん距離を置いて都知事になって以降、周辺では「石原新党」立ち上げへの憶測や期待が高まっていった。それをホンモノ、と錯覚したのが石原氏。神輿に担ぎ上げられて新党・太陽の党を設立したが、騒いでいたのは無責任な週刊誌だけで、自民党からの合流はまるでなし。石原氏自身も発起人に名を連ねたたちあがれ日本の平沼赳夫代表を口説いて設立直後の日本維新の会に合流することにした。その結果が衆院選での大躍進であった。
 が、国民の人気は移ろいやすい。日本維新の会への支持率は急降下。石原氏のおひざ元のはずの都議選(13年6月)でも日本維新の会は選挙前の3議席に対して34人の公認候補を立てたが、結果は2議席の獲得にとどまり「惨敗、完敗」を喫した。
 29日のNHKのニュースによれば石原新党に移るとみられている国会議員は15人前後、結いの党との合流が確実になった日本維新の会に残るのは30人前後、残りは去就定まらずといったところのようだ。
 現在の小選挙区比例代表制が導入実施されたのは1996年の衆院選から。導入の理由として上げられた大義名分は政権交代可能な2大政党政治の実現と派閥政治の解消だった。確かに小選挙区効果で自民党政治が幕を閉じた時期もあった。細川内閣と民主党内閣の誕生である。が、細川内閣は野合政権であり、民主党は野合政党だった。先の大戦時における中国の「国共合作」と同じで、政権をとるまでは足並みを揃えるが、政権を握った途端主導権争いによって内部崩壊するのはいやというほど歴史が証明している。
 太陽の党やたちあがれ日本が合流して大躍進を遂げた日本維新の会も、大躍進がとん挫した途端主導権争いが始まった。もともと水と油のような野合政党になったのだから、遠心分離器にかけたらきれいに分離するのは当然と言えば当然だった。
 野党が一致できる点で政策合意して共同戦線を組み、自公連立政権に立ち向かうことを、私は否定しているわけではない。が、橋下氏率いることになった日本維新の会と江田憲司氏がみんなの党から分かれて独立した結いの党がどこまで政策的に歩み寄れるのかが問われている。実は政党の分裂は、些細な政策での対立に端を発することが多い。些細な対立であっても、それが主導権争いに発展すると、歴史のない政党は求心力に欠ける要素が大きいため、抜き差しならない対立に至ってしまう。
 その点自民党はそれなりの歴史を積み重ねてきただけあって、派閥は温存されたが、いったん党から離れたグループも復帰するなど、求心力の高さを維持してきた。日本維新の会と結いの党が一緒になって、どんな党名にするか、そこから主導権争いは始まる。そこは、日本維新の会が数に頼らず、結いの党に歩み寄るくらいの度量がないと、「結婚」はうまくいかない。さらに、新党に期待したいのは、議会での採決で絶対に党議拘束をかけないこと。議員が自分自身の良心に従った投票を行う権利を認めること。そうすれば些細な対立が党分裂に至るようなこともなく、むしろ党の求心力が高まる。まだ政治家としてはうぶな橋下氏と江田氏が、うぶなまま新党のかじ取りをすることを望みたい。
 そのうえで比較的緩やかな綱領を作り、民主党議員たちに呼びかければ、連合の影響で政策もままならないと感じている議員たちも新天地を求める動きに出る可能性も生じる。自民からの合流議員が出る可能性もある。そうなれば、右から左まで幅広い自民党のような政党になれる可能性はある。自民党の派閥は、弊害ばかりメディアは取り上げるが、派閥公認のおかげで総裁の独裁政治が阻止され、自由な議論ができる風土が醸成されてきた。そういう自民党的風土を醸成しつつ、アメリカの民主党や共和党のように、採決に際して党議拘束をかけないことを綱領に掲げるべきだ。党首脳部が、論理で説得できなかったら、その責任は首脳部にあり、党議拘束で所属議員が自らの良心に従った投票の権利を奪うべきでない。政党助成金は、所属議員を拘束するためにあるのではない。

 なお、北朝鮮が拉致したと思われる被害者の調査を行うことが明らかになった。単なる口約束ではなく文書で明記し、テレビ放送でも公表した。日本人の一人として喜ばしいことではあるが、多少の懸念もある。北朝鮮の放送が「すべての制裁を解除」としたことだ。早くも日朝の温度差が表面化した。はたしてメディアが気付いただろうか。期待は持てないがね。
 また、安倍内閣が、米オバマ大統領の逆鱗に触れるだろうことも懸念される。安倍総理は、日本の総理でありながら、日本の国益よりどちらかというとアメリカの国益を重視してきたきらいがある。 
 集団的自衛権行使問題もそうだが、最たるはウクライナ問題でオバマ大統領の恫喝に屈して対ロ制裁に踏み切ったことだ。昨日のブログでも書いたが、とうとうロシアのプーチン大統領からカードを切られてしまった。「驚いた」などという言葉はどうでもいい。読売新聞が敢えて無視した「北方領土問題も中断するのだろうか」というカードだ。
 ウクライナ情勢は、どう転ぼうと日本にとってはどうでもいいことだ。だから安倍内閣も当初は静観していた。が、突然、対ロ制裁に踏み切った。日本の国益を犠牲にしてまで。
 当然、北朝鮮が核を諦めるまで国際的孤立政策を強めつつあったオバマ大統領にとっては、拉致問題の調査と引きかえに日本が対北朝鮮制裁の手綱を緩めることは、日本の「宗主国」アメリカの大統領として耐え難いことであろう。オバマ大統領も、人権問題がからんでいるだけに表立った安倍総理への恫喝はできないだろうが、安倍総理が「ご主人様」のご機嫌を損ねたことだけは間違いない。
 だが、どうせオバマ大統領の「信頼」を裏切ったのなら、集団的自衛権問題やウクライナ問題でも、日本の国益を最優先してみたらどうか。アメリカだって、在日米軍基地の存在を恩着せがましく言ってはいるが、少なくとも沖縄の米軍基地は日本防衛のためではなく、アメリカの力による均衡を維持するのが目的だから、「どうぞ、出て行って下さい」と日本から言われて「はい、そうですか」と簡単に腰を上げるわけにはいかないことくらい、分かりきった話だ。
 実際、有事の際、アメリカが本当に頼りになるのか、安倍総理が一番わかっている。だから安倍総理は、オバマ大統領に土下座までして「アメリカを頼りにしてまっせ」と媚びへつらっているのだ。国際政治力学とは、そういうものだということを、メディアもそろそろ分かってもいいころだと思うのだが…。
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政府の産業競争力会議と厚労省の対立は、頭が悪いもの同士の意地の突っ張り合いにすぎない。

2014-05-29 07:55:19 | Weblog
 厚労省が政府方針に逆らった。国の行政機関(省庁)の長は大臣、つまり政府の要職に在り、省庁に政府の方針を伝え、政府方針に従った行政を指導する、ことになっている。
 が、いちおう日本は、司法・行政・立法の三権分立の国である。国の立法府は国会であり、国会議員の多数派が政府を構成する。三権分立とは言いつつ、政府が行政を牛耳ることが多い。が、安倍内閣の方針は行政との軋轢をしばしば生じている。農協改革方針もそうだし(この問題は近いうちに取り上げる)、混合診療容認方針もそうだ(混合医療問題については昨年4月8日に投稿した『アメリカは勝手すぎないか。日本はTPP交渉を新しい国造りのチャンスにせよ』で書いた)。農協改革問題は農林水産省が、混合医療問題は厚労省が、それぞれ業界の利益を擁護する立場に立って抵抗している。
 安倍総理が議長を務める政府の「産業競争力会議」の方針が明らかになったのは4月22日。サラリーマンやOLの賃金を、労働時間にかかわらず一定にする賃金制度(残業代ゼロ)を導入するというのだ。当然連合をはじめ労働団体は一斉に反発した。長時間労働や過労死が増える、というのが反対の理由だ。
 私は安倍総理の方針に何でも反対というわけではない。ただやり方がすべて中途半端で、論理的整合性に欠けると指摘してきた。集団的自衛権行使問題も、安倍総理の頭にはアメリカしかなく、日本が国際社会に占めている現在の状況下で、国際社会とくに環太平洋の平和と安全を守るために日本が果たさなければならない義務と責任は、現行憲法下では不可能だと主張してきた。公明党が、支持母体の創価学会と亀裂を生じながら現行憲法の解釈変更による集団的自衛権行使の限定容認についての議論の場についたことに、創価学会が「憲法改正で対応すべきだ」と、宗教法人として異例のコメントを出したのは、「憲法改正の議論なら前向きに応じるよ」というサインなのに、それすら気づかない総理の鈍感さに、私は呆れているだけだ。
 政府の産業競争力会議(以下「会議」と略す)の方針については5月21~23日の3回にわたり、私は『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結びつけることができるか』と題するブログで書いた。同会議の方針は労働時間を基準に賃金を支払うのではなく、成果に応じて賃金を支払う仕組みに変えることを提案した。その提案に対して厚労省が「待った」をかけたのである。
 厚労省も、連合と同じスタンスで反対したのではない。一応「成果主義賃金」制度を受け入れながら、対象を絞り込んだ。

 まず年収の基準だが、会議が「なし」としたのに対し、厚労省は「数千万以上」とした。
 対象職種についても、会議が「一定の責任ある業務・職責を持つリーダー、
経営計画・全社事業計画策定リーダー、新商品企画・開発やブランド戦略リーダー、IT・金融ビジネス関連コンサルタント、資産運用担当者、経済アナリスト」と幅広くしながら、リーダーの位置付けについては曖昧な要素を残したままなのに対し、厚労省は「為替リーダー、資産運用担当者、経済アナリスト」と、企業経営に直結する業務に限定している。
 また適用対象者の条件については、会議が「労使の合意、本人の同意」としたのに対し、厚労省は「未定」としている。

 この厚労省の会議への反発は意味がない。触手を限定するまでもなく、年収基準が数千万円としたことで、すでにその対象者は労働時間にかかわらず事実上「残業代ゼロ」になっているはずだ。いちおう安倍総理がじきじき議長を務める会議が出した方針に、一定の配慮を示したということだろう。
 労働基準法(以下「労基法」と略す)によれば、1日の労働時間が8時間を超えれば「残業代」(時間外労働割増賃金)が自動的に生じることに一応なっている。が、管理職にはこの時間外割増賃金制度が適用されず、外食チェーンの店長に「管理職」という名目で割増賃金を支払わない外食会社を相手取って店長たちが訴訟を起こし(店長の反乱)、会社側が敗訴したという経緯もあった。
 似たようなケースでコンビニの店長(事実上の店舗経営者)が、賞味期限切れの商品の廃棄をコンビニ本社から強制されているケースで、賞味期限切れ直前の商品を割引販売できる自由裁量権を求めた訴訟を起こし、やはり会社側が敗訴した。
 日本の管理職は「割に合わない」と、私が若かったころから言われてきた。管理職に昇格したときに付く役職手当が少なすぎて、それまでは支給されていた時間外手当がなくなるため、事実上「減収」になるという理由からだった。また営業職の場合は、最初から労働に対する時間規制が困難ということで時間外賃金を支払わない代わりに、一定以上の営業成績を上げた営業職に従事する社員には、営業成績に比例した割増賃金が支払われている。その結果、営業成績が優秀な社員を年齢や勤続年数、学歴などにとらわれず早めに管理職に登用するといった傾向があり、そうした会社の人事に抵抗して管理職への登用を拒否する営業職員が続出するといった事態も生じた。
 このように、日本の雇用システムや、個人経営者との契約関係が、大きな曲がり角に来ていることは間違いない。安倍総理が目指しているのは、アメリカ型の雇用システムであろうことは想像に難くない。アメリカでは、早くから「同一労働同一賃金」制度が確立しており、性別はもちろん年齢・勤続年数・学歴は一切賃金に反映されていない、ことに一応はなっている。が、人種差別は、昔に比べれば少なくなったとはいえ、南部諸州では依然として残っており、黒人労働者が管理職に就くのは至難とされている。
 日本の場合、戦後、アメリカから持ち込まれた民主主義の考え方、が奇妙な「平等主義」と理解され、社会に定着されてきた。連合(旧総評が簿た)は「労働者の味方」と自負しているが、はっきり言ってしまえば「無能な労働者にも、有能な労働者と同等の処遇を要求する」団体なのである。そういう社会が平等だと連合は考えている。だから労組の組織率が低下している現状の分析が、怖くてできないし、無能なジャーナリスト集団のメディアも労組の組織率低下の実態に迫ろうとしない。従業員の労組離れの実態を調査して見ればすぐに分かることだが、有能な社員ほど労組離れの傾向が強く、無能な、はっきり言えば会社にとって足手纏いな社員ほど労組にしがみついて既得権益を労組に守ってもらおうとしている実態が浮かび上がってくるはずだ。
 いま世界の産業界は第二の産業革命の時代を迎えている。いや、もうとっくに入っているのだが、時代の境目は後世にならなければわからないという側面もあり、ただ時代の境目には必ず様々な分野で若いリーダーが突出し始めるという現象に気づく人たちがどれだけいるかということによって、時代の流れが速くなるか遅滞するかの差が出てくるだけだということである。
 たとえば、戦国時代の幕開けを象徴した織田信長や豊臣秀吉、徳川家康、NHKの大河ドラマの主人公の黒田官兵衛なども、若くして頭角を現し、当時の時代の先駆者となった。明治維新の立役者たちも高杉晋作や坂本龍馬、西郷隆盛などの改革派だけでなく、幕府側でも若い勝海舟が身分の低さにもかかわらず元老たちをしり目に幕政を取り仕切った。
 私は、いま第二の産業革命の時代を迎えていると書いた。「IT革命」と言い換えてもいい。IT技術は世界のあらゆる既成のシステムを崩壊しつつ、新しい時代を切り開きつつある。
 中国や北朝鮮など共産主義を標榜する国にとって、情報の流通手段がアナログ媒体しかなかった時代は、反政府運動を抑え込むことはそれほど困難なことではなかった。たとえば1989年6月4日に生じた天安門事件を想起してみよう。
 この事件は1986年に当時の中国共産党総書記だった胡耀邦氏が「百花斉放・百家争鳴」を提唱して言論の自由化を推進したことが、そもそもの発端だった。これに呼応して中国国内には一時的に「プラハの春」(チェコスロヴァキアで実現した言論などの自由化時代。ただしソ連軍の軍事介入によって壊滅した)のような様相を呈し始めた。が、その3年後に胡耀邦氏が死去、中国政府の実権は保守派が掌握、民主化を求めて天安門広場に自然発生的に集結した学生や一般市民に向かって中国人民解放軍が無差別発砲や装甲車でデモ隊に突っ込むなどの弾圧で多くの死傷者を出した事件である。
 天安門事件については中国政府が言論統制を強め、のちに上海などの大都市で小規模なデモが起きたが、政府を震撼させるような事態にはなっていない。が、もし天安門事件が今日生じたらどうなっているか。間違いなく中国共産党政権は崩壊する。言論統制は、情報の流通手段がアナログに限られていた時代には有効だったが、パソコンや携帯、スマホなどのデジタル・メディアが主流になりつつある時代には、一党独裁の政権といえど、完全に言論の自由を封殺することは不可能である。そういう時代に天安門事件が再発したら、反政府運動は燎原の火のごとく中国全土に広がり、一夜にして共産党政権は崩壊する。またそういう時期には、必ず政権内部から「勝ち馬に乗ろう」という動きが出てくるものだ。それが政治の世界の宿命でもある。

 IT時代においては、労働者の労働の質も大きく変化する。アメリカ型「同一労働同一賃金」は、基本的に肉体労働が産業の基盤労働力だった時代に確立されたルールである。IT時代における労働の質をどうやって評価したらいいか、私も分からない。大企業のトップも分からないから、新しいIT技術の開発に成功したり、新しいITビジネスのアイディアを思いついた若い人たちがどんどんIT起業家になって、会社と飛び出している。
 そうした時代の変化を先取りした「成果主義賃金制度」であれば、それなりに説明はつくのだが、会議も厚労省もそうは考えていないようだ。
 前回のブログでは、現在の残業代の算定基準そのものが労働基準法に違反しており、9年ぶりに復活したベースアップも「有能であろうと無能であろうと、また会社への貢献度も不問にした」ベース賃金の引き上げであり、そうしたベースアップを大企業に要請した安倍総理が、ベース賃金(いわゆる「基本給」)を今度は否定する成果主義を主張するというのは、はっきり言って頭が悪すぎるとしか言いようがない。頭が悪い人は自己矛盾に気づかない人である。

 念のため、基本給は年齢・勤続年数・学歴によって自動的に決まる賃金であり、労働基準法が定めている基準外賃金(扶養家族手当・住宅手当・通勤手当など職務職能と無関係な要素の賃金)に相当し、本来時間外労働に対する割増賃金の算定基準になりようがないはずの賃金である。
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対ロ制裁におそるおそる踏み切った安倍内閣の「集団的自衛権行使」の目的がかなり鮮明になってきた。

2014-05-28 07:01:55 | Weblog
 安倍総理は、日本をアメリカの従属国にしたいのか。
 本来、安倍総理が、いわゆる「集団的自衛権」の行使容認を憲法解釈の変更によって可能にしようとした原点は、日米安保条約の片務性を解消し、双務的関係つまり「いちおう対等な日米関係」に近づけたいという念願にあったと、私は考えていた。
 そうした理解の上で、総理の基本的考えは理解できないことはないが、二つの点で無理があると、これまでブログで書いてきた。私のブログが世論を直接左右できるような力はないことは百も承知だが、メディアは私の主張を無視できない状況になっている。それが、「集団的自衛権行使の憲法解釈による限定容認」についての世論調査の結果として現れ始めた。どのメディアの世論調査でも、反対が過半数に達し、賛成は30%以下でしかない。
 たとえば朝日新聞が24,25日に行った全国世論調査(電話)の結果では、賛成は29%、反対は55%と倍近くに上回った。さらに憲法改正の手続きを踏まずに内閣の判断で憲法解釈を変えるという安倍総理の方針に対しての国民の拒否反応は強く、「適切だ」とするのが18%、「適切でない」と答えたのが67%に達し、さらに安倍内閣支持層や自民支持層でも「適切でない」としたのが5割前後に達し、公明支持層では8割以上が「適切でない」とした。
 安倍総理は5月15日に行った記者会見で、国民に「憲法解釈を変更して集団的自衛権を限定的に行使する」という方針について理解を求めた。その切々とした訴えに対する国民の回答である。
 安倍総理の基本的思考法に対する、別の角度からのメッセージがある。ウクライナ紛争に関して日本が対ロ経済制裁を科したことに対するロシアのプーチン大統領の発言だ。「日本は北方領土問題の話し合いも中断するのだろうか」という内容だ。安倍総理が、対ロ制裁に踏み切って以降、プーチン大統領が初めて示した反応である。このことの意味は大きい。はっきり言えば、北方領土問題は完全に白紙に戻ったということだ。なお読売新聞は27日付朝刊でプーチン大統領の発言について「驚いた」という部分しか報じなかった。読売新聞はそこまで安倍総理の走狗(そうく)になったのか。
 ウクライナ問題は非常にややこしい側面がある。メディアの報道では「暫定政権」vs「親ロシア派」という対立構造で描かれることがこれまでは多かった。こういう対立は、どう考えても論理的にありえない。「どういう対立なのか」私もメディアの報道ではよく分からない。ウィキペディアで調べても、やはり分からない。で、何度もNHKのふれあいセンターの上席責任者に『クローズアップ現代』で分かりやすく解説してほしいと要請してきた。5月21日(木)にようやく『クローズアップ現代』がウクライナ問題を取り上げた。金・土・日は『クローズアップ現代』は放送しないので、25日(日)に行われるウクライナの大統領選挙の日程から、ギリギリの放送スケジュールだったのだと思う。
 そもそも「親ロシア派」とは何を意味する言葉なのか、また「ロシア系住民」とはどういう意味なのか。それがどうしても理解できない。
 対立軸の一方が「暫定政権」であるならば、その対立軸にあるのは「前政権派」か、あるいは第三の政治勢力でなければおかしい。そうだとしたら、その対立が突然「国家分裂」に至るのも理解しかねるし、欧米やロシアがウクライナの紛争に内政干渉するのもおかしい。現にタイでも前政権のタクシン派と反タクシン派が対立し、中立的立場をとっていた軍がクーデターによって政権を掌握する事態になっているが、国家分裂に至ることは懸念もされていず、まして他国がタイの紛争に内政干渉に乗り出すような動きも報道されていない。なお軍は反タクシン派色を鮮明にしつつあるようだ。
 また対立軸のもう一方を「親ロシア派」とするならば、その対立軸にあるのは「親欧米派」とするのが妥当だろう。そう考えると、「ロシア系住民」とはロシア民族を意味し、「暫定政権派=ウクライナ民族」という民族間の紛争ということになる。ただ、これまで民族間の対立がウクライナでくすぶっていたのかどうかも分からない。経済関係においても外交関係においても、これまで日本とは縁が深いとは言えないウクライナの国内情勢に、メディアがあまり関心を払ってこなかったことは理解できるが、安倍総理がオバマ大統領の恫喝に屈して、「暫定政権」を支持している欧米に足並みをそろえて対ロ制裁に踏み切った以上、メディアはウクライナ紛争の真相を報道する義務がある。
 が、『クローズアップ現代』は、残念ながら私の期待を裏切った。番組終了後、ふれあいセンターではなく番組担当者に電話をした。「対立軸の一方を親ロシア派とする以上、暫定政権は親欧米派とするのが妥当だ。また国谷氏(キャスター)は放送で2度『民族主義』という言葉を使っている。ウクライナの紛争は民族対立ではないのか」と質問をぶつけた。番組担当者は「スタジオでは親欧米派とすべきだという考えもありましたが、他のメディアも暫定政権vs親ロシア派という対立軸で報道しているので、その方が分かりやすいのではないかという結論になりました。かえって分かりにくくなったというご指摘は今後の番組に生かしたいと思います。また国谷が『民族主義』という言葉を使ったことは事実ですが、その言葉が何を意味するのかは私も分かりません」と答えた。
 基本的に国家分裂に至るような国内の紛争は、民族対立か宗教対立しか考えられない。が、近代以降は宗教対立が国家分裂の主要な原因になったケースはないようだ。現代に入って民族対立が大規模な国家分裂に至ったケースとしては、旧ユーゴスラビア連邦共和国があげられよう。旧ユーゴは国名に「連邦」とあるように各共和国の自治権がもともと強く、東欧革命によって共産主義勢力の1党独裁政治が崩壊し、各共和国に民族色の強い政権が生まれた。その後、さまざまな過程を経て旧ユーゴは2006年にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6か国に分裂した。が、それで民族対立が収まったのかというと、そうではなく2008年にはセルビアの自治州だったコソボが独立を宣言したが、クリミア自治共和国と同様「戦争→独立」といった形ではなく、ある意味では「平和的」に実現した独立であった。が、コソボを独立国家として承認している国は少数のようだ。またボスニア・ヘルツェゴビナにはボシュニャク人(ムスリム人)、セルビア人、クロアチア人がそれぞれ44%、33%、17%という異なる民族の構成になっており、血を血で洗う内戦を生じた。
 また中国ではウイグル族が大多数を占める新疆ウイグル自治区での混乱がしばしば報じられている。2013年10月には北京の天安門にガソリンを満載した自動車でウイグル族一家が自動車で突入して自爆した。最近も(5月22日)ウルムチ市の繁華街の朝市でにぎわう人ごみに自動車2台が突っ込み、人ごみに爆発物を投げ数十人の死傷者が出た。中国政府は「イスラム原理主義者によるテロ行為」と断定し、徹底的に弾圧する構えを見せている。ウイグル族の多くはイスラム教徒であることは間違いないが、「イスラム原理主義過激派のテロ」とすると、違和感がある。イスラム原理主義では「自殺による闘争」を正義としており、実際、中東でのイスラム原理主義者のテロは「自爆」が原則である。ウルムチ市の場合、「自爆テロ」ではなく、犯人は爆発物を人ごみに投げたあと逃走している。しかも天安門事件とは異なり、ウイグル族同胞に対するテロ行為である。そういうことがありうるのだろうか。私は新疆ウイグル自治区の共産党指導部が仕組んだ「自作自演」のテロ行為ではないかとみている。少なくとも私はイスラム原理主義者(あるいは過激派)が、同胞を標的にしたテロ行為に走った事件は、寡聞にして知らない。
 24日、TBSが『報道特集』でウクライナ問題を取り上げた。TBSは「親ロシア派」とされるウクライナ東部2州(ドネツク州、ルガンスタ州)のウクライナからの分離独立を求めた「親ロシア派」にかなり深く踏み込んだ取材をした。「親ロシア派」のリーダーにインタビューして「我々はロシア民族だ」という主張も紹介した。一方で、一般の女子大生にインタビューして「ロシアのテレビしか見ない父とインターネットで情報を入手している母との意見が対立し、私も困っている」という家族内の複雑の事情も明らかにした。対立軸も、「親欧米派vs親ロシア派」と明確にした。
 この放送によって、ようやく私は、暫定政権は親欧米派であり、EUへの加盟を目指しているようだという論理的推測に達することができた(※そんなことは常識だ、というメディア側の反論は認めない)。そのためロシア民族を中心とする「親ロシア派」が住民投票による「平和的独立」を成し遂げ、ヨーロッパの一員になることを拒否したのだろうという結論に達することができた。おそらく、これまではウクライナで民族間の表立った紛争はなかったのだろう。一般的に民族紛争は、多数派民族あるいは少数派でも軍事力を掌握している側が、少数民族あるいは軍事的弱者民族を支配し、明らかな差別をしてきたことに端を発して生じている。ウクライナ政府は、そうした民族紛争の火種となるような差別政策をとってこなかったのだと思う。現に暫定政権の前の政府は親ロシアだったし、ある意味では異なる民族が平和的に共存してきた理想的な国家だったのだろう。
 が、ウクライナが合法的にEUに加盟するとなると、ロシア民族を中核とする「親ロシア派」にとっては耐え難いことなのかもしれない。いや親ロシア派だけでなく、ヨーロッパ諸国とロシアにとっては、ウクライナの去就に国益がかかってくる。そもそも、少数派の「親ロシア派」が政権の座に就くことができたのも、ロシアが天然ガスのウクライナへの輸出価格を国際市場価格の半分程度に抑えるという政策をとってきたからでもあった。ウクライナとくにクリミアはロシアにとって極めて重要な軍事拠点であり、しかも「ロシア系住民」が6割を占めている。クリミア自治共和国のウクライナからの分離独立とロシアへの編入を、背後でロシア政府が画策した可能性は否定できない。
 が、クリミアに続いて東部2州が住民投票でウクライナから分離独立し、ロシアへの編入を求める事態に至るまでは、ロシアも欧米も予想していなかったのだろう。ロシアのプーチン大統領も東部2州の住民投票に対しては遺憾の意を表明したのも、これ以上欧米との軋轢を強めたくないという思惑が働いたのだろうと思う。
 『報道特集』によって、ようやくウクライナ紛争の真相に迫れたと思った私は、放送当日NHKふれあいセンターの上席責任者に電話した。「はっきり言って21日放送の『クローズアップ現代』は、今日放送したTBS『報道特集』に完敗した。私がなぜ『クローズアップ現代』が完敗したと判断したのか、『報道特集』を録画でみていただきたい」と申し入れた。

 問題はウクライナ問題に対する安倍内閣の対応であった。すでに述べたように、ウクライナがどうなろうと、こうなろうと、日本の国益にとってはどうでもいいことだ。だから、安倍内閣もウクライナ問題をめぐる欧米とロシアの対立には、当初「われ関せず」のスタンスをとっていた。が、オバマ大統領が「日本は西側の一員だろう」と安倍総理を恫喝した(と思う。そうでなければ安倍総理の変心の説明がつかない)。尖閣諸島問題での「借り」がある安倍総理としては、「はい。わかりました。ご主人様のおっしゃる通りにします」と、欧米に足並みをそろえて対ロ制裁に踏み切った。日本がアメリカの従属国であることを、総理自身が認めた瞬間である。過去の日本政府には、こうしたことはなかったからである。
 実は前にブログでも書いたが、アメリカにとっても米ソが対立していた冷戦時代が終わった今日、ウクライナがどうなろうとアメリカにとってもさしたる影響はない。が、アメリカはEU諸国の多くと同盟関係にあり、EU加盟国の多くにとってはウクライナの分裂は国益を左右する重要な関心事にならざるを得ない。EUがウクライナ紛争に内政干渉したのも、自分たちの国益がかかっていたからである。
 一方、ウクライナの動向が直接国益を左右するとは考えにくいアメリカにとっては、EUにこの際「貸し」を作っておくことが将来の「国益」につながる可能性が高い。アメリカは「人種のるつぼ」と呼ばれるほどの多民族国家である。当然宗教問題が頻発してもおかしくないのだが、アングロサクソン民族が長い間政治的支配権を掌握してきた過程で、アフリカ系黒人の多くもキリスト教に改宗してきた。初の黒人系大統領のオバマ氏もキリスト教徒である。
 アメリカでは、ベトナム戦争の敗北で徴兵制が撤廃されて以降徴兵制はなくなったが、徴兵制時代でも宗教上の理由で徴兵義務を拒否する権利を国民に認めていた。日本でも大きな人気を集めていた世界最強のプロ・ボクサーだったモハメッド・アリが、イスラム教徒に改宗して徴兵を拒否したことで、「偽装改宗ではないか」と疑った米政府に訴訟を起こされたが、長期にわたる裁判の結果、アリが無罪になったという経緯もある。

 基本的には宗教に対しては寛容なアメリカだが、イスラム原理主義者に対しては厳しい態度をとってきた。アメリカにとって唯一といってもいい「頭が痛い」問題はイスラエルである。世界中のどの国に対しても膝を屈することがないアメリカだが、イスラエルにだけは頭が上がらないようだ。「核不拡散条約」についても、イランや北朝鮮に対しては厳しい姿勢で臨んでいるアメリカだが、事実上核保有国とみられているイスラエルには、国連による調査に対しても拒否権を発動してイスラエルの防波堤になっている。では、イスラエルがアメリカの戦争行為に、イギリスのように同調するかといえば、「アメリカが勝手にやっている戦争だ」と言わんばかりに知らんぷりを決め込んでいる。アメリカが日本に君臨しているように、イスラエルはアメリカに君臨できる世界唯一の国なのかもしれない。
 それはともかく日本の外交は、しばしば「対米追随だ」とメディアからも批判されてきた。が、少なくともこれまでは、日本の重要な「国益」に反するような対米追随をアメリカから強いられることはなかった。湾岸戦争のときも「日本は金だけ出して血を流そうとしなかった」と欧米から厳しい批判を浴び、以降日本は軍事行動を伴わないPKO(国連平和維持活動)には積極的に貢献することにした。PKOの予算は国連加盟国が分担しているが、途上国に負担軽減を認める一方で、安保理常任理事国には加重負担を求めることに一応なっている。日本は拒否権を行使できる常任理事国ではないが、分担金はアメリカに次ぐ大金を負担している。なおアメリカは未払いを続けているが、日本は律儀に支払っている。
 これまでは、日本の外交政策がアメリカの言いなりだったとしても、それが国益を大きく損ねるということはなかった。が、日本にとってどうでもいいウクライナの問題で、オバマ大統領に膝を屈して対ロ制裁に踏み切り、プーチン大統領から「日本は北方領土問題の話し合いも中断するのだろうか」とカードを切られてしまった。「これとそれとは別の問題」とは、いくら厚顔無恥な安倍総理も言えまい。もう日本政府は後が引けなくなった。核大国のロシアに対して「宣戦布告」をして北方四島を取り返すか、「もう北方領土問題は二度と口にしません。日本は領有権を放棄します」と言うか。あるいは、ひざを屈しついでに安倍総理がオバマ大統領に土下座して「ご主人様におっしゃる通り対ロ制裁に踏み切ったのですから、北方領土問題の解決のためにアメリカの核の力を貸してください」と願い出るか。ま、無駄だろうけどね。

 実はこのブログ原稿は25日から26日にかけて書いたものに今日多少手を加えた。25日に行われたウクライナの大統領選挙の結果は最初から火を見るより明らかだったし、私には憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認についての世論調査の結果が明らかになったことで、安倍総理が執念とも言える対米追随政策を、世論に逆らってまで強行するかどうかの方がはるかに重大な関心事であった。
 が、26日のNHK『ニュース7』を見ていてびっくりした。ウクライナの大統領選挙で決選投票を待たずにいきなり1回目の投票で過半数を獲得して新大統領の椅子を獲得したポロシェンコ氏に対して「親欧米派」と呼んだからだ。さらに、そのニュースのあとでフランスの議会選挙で極右政党の「国民戦線」が大躍進し、EUの方向性を左右するヨーロッパ議会の選挙でも極右政党の議席が増大しているというニュースを流した。NHKはウクライナ問題とヨーロッパにおける極右政党の台頭を関連付けてはいなかったが、無関係ということはありえない。
 またロシアの軍事的後ろ盾への期待が薄らいだドネツク州の「親ロシア派」が、空港を武力制圧して気勢を上げた。それに対して暫定政権は数日中に誕生する新政権の意向を先取りして武力弾圧に乗り出し、数百人の犠牲者を出したようだ。プーチン大統領が東部2州の「親ロシア派」勢力を軍事的に支援することはもはやありえない、と暫定政権は読んだのだろう。一方、ヨーロッパで台頭しつつある極右勢力が、ウクライナ内紛に乗じてどういう行動に出るか、ウクライナ情勢はさらに混迷の度を高めつつある。その場合、オバマ大統領が安倍総理にどういう命令を下すだろうか。安倍内閣は、対ロ制裁に踏み切ったとはいえ、欧米のような厳しい経済制裁(資産凍結)には至っていない。オバマ大統領にとっては極めて不満のようだ。
 さらに降ってわいたようなベトナムと中国の争いが生じた。日本にとって、経済的には中国ともベトナムとも関係が深い。昨日両国の漁船同士が衝突し、ベトナム漁船が沈没した事件について、ベトナム政府は中国漁船が突っ込んできたと抗議し、中国政府はベトナム漁船が突っ込んできたと正反対の声明を出した。真相はおそらく今日中に映像で流れると思うが、昨日のNHKのニュースでは、小野寺防衛相が「中国漁船がベトナム漁船に衝突した」と明確に中国側の比をコメントしたのに対して、政府の公的スポークスマンである菅官房長官は国名を一切出さず、きわめて歯切れの悪い声明を発表した。中国に対する配慮というより、オバマ大統領の意向を見極めてからにしようという姿勢が見え見えの発表だった。

 歴代総理の中でも比較的長期にわたって高い支持率を維持してきた安倍内閣だが、国民の総意に逆らって憲法解釈の変更による集団的自衛権の限定行使容認を閣議決定に強引に踏み出したら、支持母体の創価学会の意向に逆らってまで安倍政権の補完的役割をはたしてきた山口公明党も、自民党とたもとを分かたざるをえなくなる。安倍政権の足元がぐらつきだした。
 読売新聞は、安倍総理と墓場まで手をつないで行くつもりなのだろうか。
 
 

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大飯原発判決…全国紙5紙の主張に呆れた。学ぶべきは予測困難な自然災害より人的ミスの防止ではないか。②

2014-05-27 06:51:51 | Weblog
 結論から先に言う。日本の原子力発電の安全性を高める方法は、東京電力を解体し、国の直接管理下でゼロからの再出発をすることだ。当然、東電社員は全員解雇。再雇用すべき人材もいるが、その人たちも全員新入社員として扱う。そのくらいの強硬手段をとらないと、電力会社の社員の安全意識を向上させることは、残念ながらできない。
 そもそも「安全神話」なるものはどのようにして醸成されてきたかを考えると、結論は極めて明快に出るはずだ。すでに書いたように、日本は二度の原爆とビキニ被曝という苦い経験を持っている。その記憶をいまだに失っていない人たちがだんだん少なくなってきた。かつては原発立地では、必ずと言っていいほど「反原発」の激しい運動が起きた。その都度電力会社は「原発は安全だ」と言い張ってきた。そうした地元民との対立があったから、「事故を起こしたら大変なことになる」という危機感を電力会社の社員たちは共通認識として抱いていた。
 つまり「反原発運動」が日本の原発の安全確率を高めてきたのである。私は昨日のブログで転記した『核融合革命』(1989年8月上梓)でこう書いた。

 (米スリーマイル島の原発事故の4年前にも、アメリカで危うくチャイナ・シンドローム事故につながりかねないお粗末な人為的ミスがあったことを書いた後)日本では、チャイナ・シンドロームの危機一髪、と言った事故はいまだに公表されていない。隠しているわけではなく、そうした類の事故はいまだに本当になかったのであろう。
 その点では、豊田(※有恒:SF作家。原発問題にも造詣の深さを誇っている作家で『原発の挑戦――足で調べた全15カ所の現状と問題点』の著作がある)が書いているように「アメリカより、日本の方が、危機管理が、数段すすんでいる」ことは確かである。
 だが、それはあくまで安全率の問題であり、その限りでは「絶対にない」と断言しうるものではあるまい。どのように安全管理が行き届いていても、事故が皆無になるという保証はない。それは過去の事例が教えているとおりである。
 私は危険はあるかもしれないが必要だということであれば、またそれが国民的コンセンサスを得られるのであれば、原発はつくらざるをえないだろうと考えている一人である。
 よく言われるように「自動車は走る凶器」である。自動車を運転する人も、自動車に乗らない人も、それを承知で自動車事故が頻発する大都市で生活している。自動車がまき散らす公害や危険性を重視して自動車反対論をぶつ人もいるが、それはいまのところ国民的コンセンサスとなりえていない。大都市に住むに人びとの大半は、自動車の利便がなければ、生活できない状態になってい
るからだ。原発についても同じことが言えるのではないだろうか。
 原発は、結論的に言えば、危険なエネルギーという面を否定できない。しかし、「だったら、すぐやめろ」といった短絡的主張をとるべきではないと思う。あとでみるように、これにかわる代替エネルギー(※太陽光発電などの再生可能な自然エネルギーのこと)にもさまざまな問題があるからだ。われわれはいま、厳しい選択を迫られている。

 そういう視点で福島原発事故を歴史の教訓とするならば、自然災害に対する物理的対策もさることながら、人的ミスをどうやって防ぐかという視点も同時に考えなければならない。物理的対策はいま政府の行政機関でありながら、きわめて大きな権限を付与された原子力規制委員会が一つ一つの原発再稼働と新原発建設立地について徹底的な科学的調査を行っている。もちろん科学的調査といっても、現時点で可能な限りの科学的、な調査だが。が、現時点で可能な限りの調査を司法が否定するなら、永遠に「絶対に安全な原発」は、地震大国・日本に限らず世界中探しても一つもない。たとえば横浜市の大規模施設建設計画に対して地域住民が「富士山が、過去の噴火を超えるような大爆発をおこしたら、被害は甚大になる。建設中止を求める」といった訴訟に対して、司法が「もっともだ」と住民勝訴の判決を出すようなものだ。それこそ科学的根拠を欠いた判決と言わなければならない。
 朝日新聞は福島原発事故の直接の責任者である福島第一原子力発電所所長の吉田昌郎氏(2013年7月、がんで死去)が政府事故調の調べに対して答えた「聴取結果書」を入手したようだ。事故調の畑村委員長は「貴重な歴史的資料」と位置付けている。この資料について朝日の記者はこう書いた。

 吉田調書の特徴は「吉田氏の言いっぱなしにはなっていない」点にある。政府事故調は聴き取りを始めるに当たり、「後々の人たちがこの経験を生かすことができるような、そういう知識を作りたいと思って、それを目標にしてやろうとしています」「責任追及とか、そういうことは目的にしていません」と趣旨説明をした。だが、聴取は決して生ぬるいものではなかった。それは吉田氏への聴取が政府事故調事務局に出向した検事主導で行われたからである。調書は微妙な言い回しも細かく書き起こされている。
 一方、吉田氏の方も、聴き取りに真剣に応じている様子が調書の文面からうかがえる。調書には、吉田氏が「ここだけは一番思い出したくない」と苦しい胸の内を明かすように話す場面がある。震災当時の社長の清水正孝氏を「あの人」と呼んだり、管直人氏や原子力委員長の斑目春樹氏を「おっさん」呼ばわりしたりして、怒りをぶちまけながら話をする場面もある。全編を通して感情
を包み隠さず答えていることから、全体としては本音で語っていると感じられ
る。

 吉田調書によれば、電源喪失時に原子炉を冷やす1号機の非常用復水器の仕組みをよく理解していなかったため、中央制御室の運転員が11日(2011年3月)夕方、非常用復水器(緊急時の原子炉冷却装置)の機能低下に気づき、冷却水不足ではないかという疑問を抱いた。そのため吉田氏が総指揮をとっていた緊急時対策室に「軽油で動くポンプで水を補給する」よう指示を促した。このとき、吉田氏が決定的なミスを犯す。非常用復水器の仕組みを理解していなかったため適切な対応をせず、「原子炉への注水準備の継続」という指示しかしなかった。これが最初の人的ミスであり、取り返しがつかない事態を招く。
 吉田氏によれば、過去20年間、非常用復水器を作動させたことはなかったという。吉田氏は調書で「非常用復水器そのもののコントロールの仕方はほとんどわかりません」「非常用復水器というのは特殊なシステムで、はっきり私もよくわかりません」と、正直に述べている。だとしたら、なぜ現場の判断を無視して別の指示を出したのか。そもそも「非常用」というくらいだから、緊急時に原発の暴発を防ぐためのものという認識くらいはあってしかるべきだったと思う。その程度の認識があれば、非常用復水器についての詳細な技術的知識が不足していたとしても、現場の判断をなぜ採用しなかったのか。
 1号機は午後6時に炉心損傷し、その2時間後に炉心溶融した。
 さらに所員の9割が所長命令に違反して第一原発から逃げ出し、第二原発にかってに避難していたことも判明した。東日本大震災の4日後の15日午前6時15分頃、緊急時対策室に「2号機方向から衝撃音がして原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになった」という報告が届いた。その報を受け、吉田氏はテレビ会議で「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を命じた。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってもらう」とも。
 が、所員の9割は吉田氏の命令に違反して職場放棄した。バスや自家用車で、第一原発にはすぐには戻れない第二原発に逃げ出したのだ。
 いま集団的自衛権問題で国会が揺れている。自衛隊員の中に動揺が広がっているとの話も聞く。国家非常時に、自衛隊員が「戦争をするために入隊したつもりはなかった」と、緊急事態が生じたときに戦線離脱するようなものだ。日本の場合、自衛隊法でどうなっているかは知らないが、兵士が上官の命令を無視して戦線離脱したら、普通の国なら死刑になる。東電福島原発の社員は、それにひとしい行為をしたことになる。
 東電福島原発の社員の危機対応意識だけが、特に低かったわけではあるまい。東電の体質が、そういう「非常時の場合、自分だけ逃げられればいい。被害がどんなに拡大しようと、俺の知ったことか」という共通認識が東電社内に定着していたと考えざるを得ない。
「一罰百戒」という言葉がある。本来の意味は犯罪抑止効果を指す言葉だが、東電解体は他の電力会社の社員に対しての「見せしめ」効果が目的だ。非常時に職場放棄すれば、会社が潰されるという危機感が他の電力会社社内に定着するようになれば、予測困難な緊急事態が生じたときの対応力の向上に、電力会社も総力を挙げて取り組まざるをえなくなる。
 福井地裁の判決に批判的な社説を書いた読売新聞、日本経済新聞、産経新聞も、原発に頼らなくても国民生活を維持できるエネルギー環境が整うことに反対しているわけではあるまい。原発が不要な状態になって困るのは原子力技術者くらいのものだ。もし脱原発の技術開発に日本が成功したら、日本産業界の国際競争力は飛躍的に高まる。脱原発が現実性を帯びるとしたら、そのときだろう。
 残念ながら、現時点ではその可能性を論じることすら夢物語だ。少なくとも、脱原発の最有力候補と期待されている太陽光発電にしても、現在のシステムの延長上でエネルギ-・コストが採算ラインに達するのは、はっきり言って不可能だ。でも、スマホがパソコンの個人市場を奪ったような、画期的な太陽光発電システム開発の夢は持ち続けたい。その夢が、いつ叶えられるかは、だれにも答えられないだろうが…。(終わり)
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大飯原発判決…全国紙5紙の主張に呆れた。学ぶべきは自然災害より人的ミスの防止ではなかったか。①

2014-05-26 06:27:36 | Weblog
 福井地裁の判決に対する全国紙5紙の社説が出そろった。判決が下ったのは21日。翌22日には読売新聞、朝日新聞、毎日新聞が、23日には日本経済新聞、産経新聞が社説で「大飯判決」について社としての主張を述べた。
 福井地裁が下した「大飯判決」とは、関西電力が大飯原発の3,4号機について、国の原子力規制委員会の安全審査に合格したのを受けて再稼働を申請したのに対して、地元住民を中心に「安全性が確認されたとは言えない」として再稼働の差し止めを求めて起こした訴訟に対する判決で、住民側勝訴の「再稼働差し止め」を命じた判決を指す。
 各紙の社説を読む前から予想していた通り、原発に対する考えが真っ二つに割れた。それぞれの社説の要旨と私の見解を述べる前に、各紙の社説が論理的整合性をどれだけ満たしているか、また原発の存在抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるかという視点で、「大飯判決」について読者自身が思考力を駆使して考えてほしい。なお私が言う「国民生活」は国民生活を支えている経済・社会・文化活動のすべて(もちろん産業だけでなく、公共インフラ、農水産業、医療、メディア、文化、スポーツ、教育など)も含んだ概念として使用していることをお断りしておく。

 そのことを前提に、まず判決支持派の朝日新聞と毎日新聞の主張(社説の核心部分を抜粋)から見ていこう。
 朝日新聞……見出しは『大飯差し止め 判決「無視」は許されぬ』である。「原発は専門性が高く、過去の訴訟で裁判所は、事業者や国の判断を追認しがちだった。事故を機に、法の番人としての原点に立ち返ったと言えよう。高く評価したい」「特筆されるのは、判決が、国民の命と暮らしを守る、という観点を貫いていることだ」「関電側は電力供給の安定やコスト低減を理由に、再稼働の必要性を訴えた。これに対し、判決は『人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いを同列に論じること自体、法的に許されない』と断じた」「『原発停止は貿易赤字を増やし、国富流出につながる』という考え方についても、『豊かな国土に、国民が根を下ろして生活していることが国富だ』と一蹴した」「福島原発事故で人々が苦しむのを目の当たりにした多くの国民には、うなずける考え方ではないか」「事業者や国、規制委は、判決が投げかけた疑問に正面から答えるべきだ」
 毎日新聞……見出しは『大飯原発差し止め なし崩し再稼働に警告』である。「判決の考え方に沿えば、国内の大半の原発再稼働は困難になる。判決は、再稼働に前のめりな安倍政権の方針への重い警告である」「住民の生命や生活を守る人格権が憲法上最高の価値があると述べ…『原発の存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然』と結論付けた」「住民の安全性を最優先した司法判断として画期的だ」「司法判断を無視し、政府が再稼働を認めれば世論の反発を招くだろう」「原発の持つ本質的な危険性に楽観的すぎ、安全技術や設備は脆弱(ぜいじゃく)だという判断だ」「原発の稼働を温暖化対策に結びつける主張を一蹴した。共感する被災者(※福島原発事故の)も多いのではないか」

 次に、地裁判決に批判的な主張を見てみる。
 読売新聞……見出しは『大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決』である。「『ゼロリスク』に囚(とら)われた、あまりにも不合理な判決である」「昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい」「判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは『仮説』であり、いくら大きな地震を想定しても、それを『超える地震が来ないという確たる根拠はない』と強調した点も、理解しがたい」「非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない」「関電は規制委に対し…審査を申請している。規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている」別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。…常識的な判断である」「最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、『きわめて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている』との見解を示している」「原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった」「福井地裁が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」
 日本経済新聞……見出しは『大飯差し止め判決への疑問』である。「疑問の大飯判決である」「とくに想定すべき地震や冷却機能の維持などの科学的判断について、過去の判例から大きく踏み込み、独自の判断を示した点だ」「地震国日本では、どんなに大きな地震を想定しても『それを超える地震が来ない根拠はない』とも指摘した」「これは原発に100%の安全性を求め、絶対安全という根拠がなければ運転は認められないと主張しているのに等しい」「国の原子力規制委員会が昨年定めた新たな規制基準は、事故が起こりうることを前提に、それを食い止めるため何段階もの対策を義務付けた。『多重防護』と呼ばれ、電源や水が絶たれても別系統で補い、重大事故を防ぐとした」「判決はこれらを十分考慮したのか。大飯原発は規制委が新基準に照らし、安全審査を進めている。その結論を待たずに差し止め判決を下したのには違和感がある」「安全審査が進む中、住民の避難計画づくりが遅れている。安全な避難は多重防護の重要な柱だ」
 産経新聞……見出しは『大飯再稼働認めず 非科学、非現実的判決だ』である。「あまりにも非現実的な判断ではないか」「同じ大飯原発の再稼働差し止めを求
めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が『裁判所が差し止めを判断するのは相当ではない』として申し立てを却下したばかりだ」「(福井地裁は)安全対策そのものを否定した。それこそ、科学的な知見に基づかない悲観的見通しとはいえないか」「『世界一厳しい』とされる評価も考慮されていない。百パーセントの安全はありえない。これを求めては技術立国や文明社会の否定につながる」「(国富についての福井地裁の見解について)国富とは、国家の富であり、経済力のことである。語句の解釈までは司法に求めていない」「万が一のリスクについては多くが述べられながら、原発を稼働させないリスクについては、ことごとく一蹴した。『電気代の高い低い』は、多くの人や企業にとって死活の問題そのものである」

 以上が全国紙5紙の主張の核心部分の抜粋である。原発問題を論じる場合の視点はいくつもある。二度の原爆投下に被害を受け、水爆実験の被害もこうむった日本には原子力そのものに対する感情的アレルギーが強いことも無視できない。
 司法が、原発問題に判断を下す場合、まずそうした感情論に走っていないか、自ら顧みる必要がある。読売新聞が重要視した最高裁判決の「きわめて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」は、司法の判断基準として確立されていると考えるべきだろう。
 確かに規制委が発足した当初、委員長に、元日本原子力研究所東海研究所副理事長・元原子力委委員長代理・元原子力学会会長といった肩書を持つ田中俊一氏が就任したことで、「これまで原発を推進してきた側の責任者の一人が安全性を審査する規制委のトップに就けば、審査は電力会社側に甘くなるのではないか」という指摘がされたことはあった。が、規制委の審査に厳しさについて、現在疑問を呈する声はない。むしろ電力会社が「厳しすぎる」と悲鳴を上げているのが現状だ。
 その規制委の結論が出ないうちに、司法が安全基準について判断を下すということであれば、まず規制委の審査基準についての科学的知見による判断をするのが先だろう。それだけの科学的知見を福井地裁の裁判官が持っているとは、この判決からは到底うかがえない。そもそも、原発という「国の在り方」が問われるような問題について、科学的知見に基づかない主張を地裁がすること自体、司法の権限を逸脱しているとは考えなかったのか。
 私はこのブログの冒頭で、こう書いた。
 原発の存在抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるかという視点で、「大飯判決」について読者自身が思考力
を駆使して考えてほしい。なお私が言う「国民生活」は国民生活を支えている
経済・社会・文化活動のすべて(もちろん産業だけでなく、公共インフラ、農
水産業、医療、メディア、文化、スポーツ、教育など)も含んだ概念として使用していることをお断りしておく、と。
 もちろん福島原発事故が起きる前だが、原発について「必要悪」と奇妙な原発肯定論を主張するメディアや評論家と称する人たちもいた。事故が起きてから政府も(当時は民主党政権だったが)「安全神話に寄りかかりすぎた」と繰り返し述べていた。が、本当に「安全神話」など存在していたのか。あたかも反省しているかのような発言を繰り返すことによって、言い逃れの隠れ蓑にしていたのではなかったか。私は、もちろん単なるジャーナリストの一人にすぎない。が、1989年8月に上梓した『核融合革命』(早稲田出版刊)のなかでこう書いている。

 出力の小さい、つまり小規模の原発であれば、原子炉本体と一次冷却水の回路をすっぽり頑丈な容器で包んでおけば、万一、事故が起きても、格納容器で外界と遮断することが可能である。
 ところが、100万キロワット級の大規模発電所の場合は、万一、爆発事故が起こった場合、そのエネルギーを格納容器に完全に封じ込めることは困難である。 そこで、原発の安全対策の最大のポイントとして考え出されたのが緊急炉心冷却装置(ECCS)である。
(原子炉内の)一本一本の燃料棒はジルコニウム合金のチューブで被覆されている。この合金は高温状態では水蒸気と反応して水素を発生する。1000度を超すと、この反応は急激に活発になり、この合金の融点である1900度になると、反応は爆発的になるとされている。だから、ジルコニウム合金チューブの温度が絶対に1000度を超えないようにしなければならない。
 一方、燃料棒の内部は、核分裂によって高温になっている。一次冷却水が正常に作用していれば、燃料棒のチューブが1000度以上の高温にさらされることはないのだが、万一、パイプの破損などで冷却水が流れ出てしまったらどうなるか。
 その時制御棒を大量に投入し、核分裂の進行をストップさせても、燃料棒内部の高熱はいっきには下がらないおそれがある。冷やしてくれる水がなくなれば、燃料チューブは短時間で千数百度の高温になり、先に述べたような爆発的な化学反応を起こして崩壊してしまう可能性もある。
 この最悪事態が、原発事故で最も恐れられている「炉心溶融」(メルトダウン)である。そうなると、周辺に死の灰をまき散らす程度では済まない。灼熱のドロドロになった炉心が、原子炉の底を溶かし、コンクリートの底も突き抜けて地面の奥深くへもぐりこんでいくかもしれないのである。
 アメリカでは、いったんこうした事態が起こると地球の裏側の中国まで炉心の“旅行”が続くというブラックジョークで「チャイナ・シンドローム」と呼んでいる(そういうストーリーの映画も作られた)。だが今日では、メルトダウンした炉心は、地価の土壌に含まれる諸物質が灼熱で溶けてできたガラスの泡に封じ込められ、地下20メートルの地点で蒸気爆発を起こすと考えられている。 
 いずれにせよチャイナ・シンドロームが大惨事を起こすであろうことについては、科学者の意見は一致している。
 そういう恐るべき事態に立ち至らぬよう、万一原子炉が暴走し始めたときに、最後の一瞬で食い止めようという装置が緊急炉心冷却装置である。これは、別のタンクにためておいた冷却水を、イザというとき一気に炉心に送り込んで炉心を冷やそうという仕組みだ。
 問題は、緊急時にこの装置が確実に働いてくれるか、である。そしてまた、緊急炉心冷却装置が作動したとして、それが有効に暴走をストップしてくれるかどうかである。
 緊急炉心冷却装置はアメリカで開発されたものだが、肝心のアメリカにおいてすら、原子力学者の間では有効性を疑問視する人もいるのである。
 ATS(自動停止装置)がついているにもかかわらず、電車の追突事故がときどき起きるように、どんな安全装置であっても、百パーセントの完璧性を期待するのは難しいようである。

 私はこの文章に続いてチェルノブイリ原発事故の検証作業を行った。その後半部分を転記する。

 (定期検査のため)先ず半日かけて出力を半分に落とし、二つあるタービンの一つを止めた。ここまでは、すべて順調であった。
 午後2時過ぎ、実験計画に従って緊急炉心冷却装置のスイッチを切った。 
 ところがその直後、「そのまま出力を下げずに、もう少しの間、発電を続けろ」という予定外の指令が入った。当然、オペレーターはいったん切った緊急炉心冷却装置のスイッチを入れなければならないのに、入れ忘れたのか、面倒くさかったのか、切ったままにしておいた。重大な規則違反であった。
「もう少しの間、発電を続けろ」という予定外の指令が撤回され、発電停止のOKが出たのは午後11時10分。オペレーターは制御棒を入れて出力を下げていった。このとき、オペレーターはまたミスを犯した。自動制御系のミスである。そのため出力が下がりすぎ、発電能力がガクンと落ちた。これでは緊急炉心冷却装置のポンプを始動させることができない。
 あわてたオペレーターは制御棒を次々に引き抜いて核反応を活発化させるこ
とにした。出力は少しずつ上がったが、20万キロワットのレベルで安定してしまった。実験を行う予定の出力よりまだかなり低かったが、20万キロワット以上にはどうしても上がらない。やむを得ず、その状態で実験に入ることにした。
 午前1時19分、オペレーターの一人が、炉心で発生した蒸気を集める蒸気・水分離器内の水位が下がりすぎていることに気づき、直ちに分離器への給水を増やした。それはいいのだが、この措置でコンピュータが異常を感知して原子炉を自動停止させてしまうことを恐れたオペレータ-は、この系統の安全装置である緊急停止信号回路も切ってしまった。安全装置が働くと実験ができなくなる、という実験優先の考えであった。
 さらにミスは続く。このとき出力が再び低下しだしたため、オペレーターが残っていた制御棒を引き上げてしまったのだ。一方、分離器の水位が回復したため、オペレーターは給水を絞った。
 1時22分45秒、各種計器は炉心の状態が安定していることを示した。
 午前1時23分4秒、実験開始。まずタービン発電機につながる蒸気弁を閉じた。だが、タービンは慣性でしばらく回り続け、お余りの電気を作っている。その電気で緊急炉心冷却装置のポンプが作動するはずであったが、出力が少なかったためポンプの作動が遅くなり、炉心への冷却水の流れが穏やかになっていった。当然、冷却水は沸騰し、炉心温度が急上昇した。
 オペレーターはあわてて緊急停止スイッチを押した。制御棒を一斉に炉心に投入しようとしたのだ。このときドンという衝撃があった。制御棒が何かに引っ掛かってしまったのだ。オペレーターは直ちに制御棒を作動させる歯車のピンを外し、重力で落下させた。だが、間に合わなかった。
 1986年4月26日午前1時23分45秒、チェルノブイリ原発4号炉は大爆発を起こした。
 ことわっておくが、私は原発に対し格別のイデオロギー的立場を持っているわけではない。言うならば公平な第三者のつもりだ。自分のイデオロギー的主張を正当化するため都合のいいデータだけをかき集め、賛成論や反対論をぶつ人が多いが、それは客観性のある主張とはいえないであろう。

 以上が、1989年8月に上梓した著書からの抜粋である。私はいまは自分自身について「公平な第三者のつもり」とは考えていない。そもそも「公平な第三者」などはありえないと、いまは考えている。私はジャーナリストはいかなる価値観も主義・主張も持つべきではない、といまでも思っているが、そういうスタンスそのものが一種の主義・主張であり、いまは主張する場合、自分はどういうスタンスで考えているかを自己検証しながら行うようにしている。だから原発問題を考える場合も、「原発抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるか」という視点と、「原発のリスクをどうしたら最小にとどめることができるのか」という視点を両立させる論理的整合性のある方法を考えている。
 この本を書いた当時は地球温暖化は世界的な問題になっておらず、動燃の考えられないような「バケツ事件」も発覚していなかった。だが、原発はどんなに技術的安全対策を講じていても、人的ミスが一瞬にしてすべての安全システムを崩壊してしまうということだけ書きたかった。
 私たちが、東電福島原発事故から学ぶべきことは、自然災害の恐ろしさより、
緊急時の人的ミスがどういう結果を招くかが、いま少しずつ明らかになりつつあり、その教訓を今後にどう生かすかだということだと思っている。(続く)
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「残業ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか。③

2014-05-23 05:10:05 | Weblog
 昨日は、日本になぜ、そういう経緯で「年功序列・終身雇用」という、おそらく世界に例を見ない(※ひょっとしたら韓国も同じかもしれない)「年功序列・終身雇用」という雇用形態が形成され、そして崩壊しつつあるのかを見てきた。
「見てきた」と、勝手に書いたが、歴史的経緯はネットでいろいろなキーワードで検索してみたが、残念ながらそうした研究をした学者はいなかったようで、歴史的経緯を確認することはできなかった。したがって、昨日書いた歴史的経緯に関しては戦国時代の始まりと言える「下克上」、戦国時代の風雲児・織田信長の能力主義人事政策と秀吉の継承、そして能力主義・実力主義をはびこらせておくと徳川政権もいつ崩壊するかわからないという前2代政権の脆弱さの教訓から、「儒教」を国の規範とすることによって「年功序列・終身雇用」の雇用形態の基礎が築かれたという考え方は、私の純粋な論理的思考による結論の出し方であり、事実確認によって裏付けられたものではないことをお断りしておきたい。本来、昨日のブログで明らかにしておくべきだったが、書き忘れてしまったので、今日のブログの冒頭でお断りした次第だ。
 実は30年ほど前から、儒教が日本をダメにしたと私は考えており、当時の私は儒教研究をライフワークにしようと思っていたくらいだった。その当時私は山本七兵氏が行きつけの銀座の小さなクラブで何度か山本氏と飲んだことがある。最初に偶然出版社の編集長にそのクラブで紹介されたのがきっかけであった。山本氏は一応クリスチャンということになってはいるが、日本の儒学についても緻密に研究しており、昭和の儒学研究の第一人者と言ってもいいだろうと私は思っている。
 山本氏の著作は、鋭い視点で誰もがテーマにしようともしなかったことに、何らかの意味を見出して掘り下げるという手法だった。自分自身は特に主張はせず、たとえば日常的に使われている「空気」(自然界の空気のことではなく、「その場の空気」「空気が変わった」といった使用法での「空気」)とか「水」(やはり自然界の水のことではなく「水を差す」「水に流す」と言った使用法での「水」)の意味を分析したりする能力にかけては抜群であった。私が言葉にこだわるようになったのは、山本氏の著書からの影響が多分にあったと思う。
 ただ、山本氏が儒学研究の第一人者でありながら、世に隠れた儒学者の功績を発掘するだけで、儒教が日本をどう変えたのか、その残滓を日本人はいまだに社会的規範として引きずっていることの指摘をしたこともなければ、日本人がそうした呪縛から自らを解放しない限り国際社会で日本は再び孤立しかねないといった視点は持っていなかった。
 氏は山本書店という小さな出版社の社長兼編集長としての長い経験を積み重ねたことが、自分自身が著者になって以降も編集者的スタンスから脱皮できなかった最大の理由ではなかったかと私は思っている。私もこの年になって儒教の研究を再開しようとは思わないが、儒教の原点は支配者の権力を維持するための屁理屈をあたかも学問あるいは宗教として集大成したものにすぎず、それを家康が日本に定着することに成功した結果が、「徳川300年」の礎を築くことになったことだけは疑いようのない事実である。

「年功序列・終身雇用」の雇用形態の原点は、こうして徳川家康が導入した儒教精神を基盤に形成されてきたと私は考えている。
 日本の学者の最大の欠陥は、ジャーナリストと同様、自分の専門分野のことしか調べようとしない単眼思考にある。だから、歴史学者は歴史的事実の表面しか研究しないし、雇用・賃金問題の研究者は日本の「年功序列・終身雇用」という雇用・賃金形態がバブル崩壊によって徐々に崩れつつあるという事実を丹念に調べることしかしていない。もちろん、そういう研究は研究として意味がないわけではなく必要なことだが、「では日本の雇用形態は今後、どのように変わってくのだろうか。あるいはどのように変わるべきなのか」ということまで頭が回らない。「回らない」というより「回す」ための思考力を身に付けていない。単眼思考とはそういうことを意味する。
 あまり回り道をせず、結論を急ごう。
 私が江戸時代にさかのぼって「年功序列・雇用形態」の原点を求めたのは、徳川政権だけでなく、さまざまなビジネス社会にとっても極めて都合のいいシステムになったからだ。たぶん「徒弟制度」(年季奉公制度あるいは親方制度、丁稚制度とも)は江戸時代に作られたと私は想像している。そう考えないと論理的整合性が取れないからだ。
 実は中世ヨーロッパ(14世紀頃)にも似た制度はあった。これは産業革命を生み出す原点になった制度と思われるが、職業技能の訓練のために行われたもので、「親方制度」とも言われている。親方・職人・徒弟の3階層による技能の継承・向上を図るために確立された身分的階層制度と言われているが、親方が徒弟を住み込みで衣食を保証して技能を修得させていくが、労働に対する対価は「衣食住の提供」であり賃金は支払わない。厳密に言えば、徒弟を卒業して職人になると(結婚して一家を構えた時が職人になる条件だったようだ)、親方との間には雇用関係が生じるが、徒弟の間は雇用関係とは言えないと思う。有名なのはドイツのマイスター(親方)制度で、これは読者の方たちも高校時代に学ばれているはずだ(覚えていないかもしれないが)。
 日本でも刀剣や鉄砲、農業器具(スキ・クワなど)の製造技能を訓練するという名目で低賃金(小遣い程度)の弟子を雇う仕組みは古くからあったが、年季奉公が制度化されたのは江戸時代に入ってからである。職業によって呼び方は様々だが、丁稚(でっち)、小僧、弟子、奉公人などの呼称が知られている。
 ヨーロッパの雇用形態は、職人になると労働の対価としての賃金が発生し、
その基準は年功序列ではなく職務職能になる。だから労働力に価値が持続する
間は、能力に応じて賃金も上昇し、近代・現代の雇用形態に近付いて行ったと
考えられる。一方職人時代に独自のデザイン開発・製造技術の発明などに成功した職人は、資産家の支援を得て独立して親方になるケースもあった。スイスの時計メーカー、フランスやイタリアのファッションやバッグなどのメーカーは世界的に有名になっても、意外に会社としての規模がそれほど大きくないのはそのためと思われる。
 それに対して日本の場合は、江戸時代に入り徳川幕府が反幕勢力の出現を防ぐため武器類の製造技術の研究開発を厳しく規制した。そのためヨーロッパのような産業革命が日本では生じなかったと考えられる。多くの工業技術の原点は武器を含む軍事技術の民間移転にあるとされるが、日本で近代工業の発展がヨーロッパに比べ大きく遅れを取ったのはそのためではないか、と私は考えている。
 日本で徒弟制度が最も発展したのは商業分野であった。これはやはり江戸時代に確立した「士農工商」という身分制度が大きく作用したのではないかと思う。商業はもっとも卑しい職業と見なされ、その結果、権利・義務の関係もあまり幕府は関与することを避けたのではないだろうか。その結果、商業分野では独特な徒弟制度が生まれたと考えられる。ヨーロッパでは工業分野で発達した徒弟制度が、日本では商業分野でもっとも発達したのも、「そうした前提なしには説明できない」(理研・笹井の言葉)「暖簾分け制度」が生まれた事情が見られるからである。
 これは戯言だが、理研・笹井の言葉は今年の流行語大賞の候補にしてもいいのではないかと、私はマジに思っている。
 日本の商店では雇用関係は、丁稚→手代→番頭(商店の規模により小番頭・中番頭・大番頭と分けられることもある)→のれん分けによる独立、という流れになっていた。住み込みは手代までで、手代になると賃金が発生するが、丁稚時代は無給である(なおこれもネット検索では分からなかったが、日本におけるお年玉の慣習は無給の丁稚に対して、正月くらいはお小遣いをやろうという商店主の行為が始まりではないかと思う)。なおのれん分けの費用は商店主が負担しており(現代は違う)、そのためのれん分けを許された番頭は実際に独立して店舗を持つまでの間「お礼奉公」として一定期間勤務を続ける慣習があったようだ。のれん分けにあずかれるチャンスは意外に厳しく、三井家の丁稚がのれん分けまで立身出世できた確率は300分の1だったとされている。またのれん分けで独立のための費用を雇い主が負担したのは、現代における退職金としての意味だったと思う。
 こうして江戸時代に基礎が確立された「年功序列・終身雇用」のいわゆる日本型雇用形態は、いったん明治維新によって事実上崩壊する。崩壊させた原因は身分制度の廃止である。
 その先駆けを作ったのは高杉晋作と坂本龍馬であった。高杉は長州藩兵力を強化するため、まだ士農工商の身分制度が存続していた時代にいち早く身分制度を廃止し、武家以外の家業に就いていた人たちを武士として公募するという、封建制度破壊を試みた最初の日本人である。一方日本における株式会社の元祖とされる亀山社中(のちの海援隊)を創設した坂本は、その社是として利益至上主義を高々と掲げている。そういう意味では株式会社の元祖というより資本主義思想の先駆者と言った方がいいだろう。
 二人とも明治維新が実現する前に高杉は病死、坂本は暗殺という形で生涯を閉じたが、この二人の思想が明治維新以降の新政府の政策に継承され、いったん日本は米欧型の実力主義の世界に入る。ただ、人材育成の目的もあって、「年功序列・終身雇用」の雇用形態は薄らいだが、学歴社会が始まった。私事で恐縮だが、私の父は旧帝国大学を卒業して就職したため、現在では考えられないような優雅な生活を終戦までは送ったようだ。東京都世田谷区の東急沿線で一軒家の社宅を与えられ、子供ができたときは乳母を雇っていたという。
 
 先を急ぐ。戦後、日本は民主化され(かなり左翼主義的な民主化)、「なんでも平等が民主主義だ」という風潮が日本社会全体を覆うようになった。教育もそうなら、国民皆保険制度もそう、雇用形態も「民主化」された。今はそんなことはないと思うが、一流企業の社長の平均給料が大卒新入社員の30倍でしかないということが報道され、それが消費税導入の引き金になったといういきさつもある。その結果、定着したのが実力主義ではなく、みんな一緒に幸せになりましょうという「年功序列・終身雇用」の雇用形態だった。安倍総理が座長を務める産業競争力会議は、そうした日本型雇用形態を一変させるための労働基準法改定を考えているのだろうか。
 もしそうだとしたら、おかしなことがある。現在の時間外労働(残業や休日出勤)に対する割増賃金は基本給を基準に計算されている。だから、大半の企業の「労働基準法違反」をまず是正してからの話であるべきだろう。労働基準法は、賞与や退職金の算定基準については何も決めていない。企業の自由な裁量に任せている。が、時間外労働に対する割増賃金の算定基準は決めている。その基準は、基本給ではなく基準内賃金である。昨日のブログに書いたように、基準内賃金とは基準外賃金(扶養家族手当・住宅手当・通勤手当など仕事に関係ない要素の賃金)を除いたすべての、つまり労働に対するすべての賃金のことである。
 一方、基本給は年齢・勤続年数・学歴の3要素によって決められている。本来、こうした要素の賃金は労働力の価値と直結した賃金ではない。むしろ基準外に相当する賃金と考えるのが合理的である。が、ほとんどの企業が時間外手当手の算定基準を基本給にしている。つまり労働基準法の精神に違反しているということだ。現に欧米の給与体系に、日本のような基本給があるだろうか。メディアは欧米の給与体系について一切報道しないが、メディアの社員自身が日本型給与体系の恩恵を被っているから報道しないのでは…と思うのは勘ぐりすぎだろうか。
 私は憲法にせよ法律にせよ、条文の解釈より条文に盛り込まれている本来の精神の方を重視すべきだと考えている。「法の精神」という言葉があるが、「解釈」によって肝心の「法の精神」を台無しにしてしまう行為がまかり通るのは「法治国家」とは言えない。中国が自らを「法治国家」と称しているのは「独裁権力による統治」を法の精神にしているからだろう。
 朝日新聞は、4月28日付朝刊の社説で「残業と賃金 成果主義を言う前に」
と題する社説の冒頭でこう述べた。「何時間働いたかではなく、どんな成果を上げたかで賃金が決まる。それ自体は、合理的な考え方だ」と。その書き出しに続いて、朝日新聞はこう主張した。「だが、過大な成果を求められれば、長時間労働を余儀なくされ、命や健康がむしばまれかねない。その危機感が薄いのが心配だ」と。笑ってしまったよ、思わず。
 自分が勤めている会社(朝日新聞社)が労働基準法に違反して、何時間働いたかを基準に賃金を支払っているのに、それに抗議もできない論説委員が「時間ではなく成果で賃金が決まること自体は合理的だ」などとよく言えたものだ。
 一般的に言われていることだが、従業員の3割は会社に貢献し、3割は足を引っ張り、残りの4割は可もなし不可もなしだ。つまり足を引っ張っている3割の従業員は、会社に貢献している3割の従業員を搾取していることになる。それが実は「年功序列・終身雇用」の日本型雇用形態が生み出した結果なのだ。成果主義とは、会社に貢献した者が報われる雇用形態に変えようということなら、まずもって「年功序列・終身雇用」の温床になっている基本給制度を廃止することが先だ。
 別に「基本給」という名目の給与を失くせと言っているわけではない。時間外労働に対する割増賃金の算出基準を労働基準法が定めている基準内賃金にすれば、事実上企業にとって基本給は意味を持たなくなる。意味を持たないどころか、むしろ基本給制度を存続させれば企業にとっては業績を悪化させる大きな要因になる。否応なく米欧型の「同一労働同一賃金」に移行せざるをえなくなる。そうなった場合、企業業績の足を引っ張っている3割の従業員が人並みの給料をもらうためには、長時間労働によって会社への貢献度を高めるしかない。朝日新聞は、そうなることが不愉快なのか。ということは、この社説を書いた論説委員は足を引っ張っている3割の中に入っているのだろうな。ま、そうでなければ、こんな「心配」はしないだろうから。
 朝日新聞の論説委員に対する嫌味はそのくらいにしておくが、米欧の「同一労働同一賃金」はキリスト教の精神から生まれたとされている(ウィキペディアによる)。キリスト教の精神とどう結びつくのかはウィキペディアでは説明していないので不明だが、日本特有の「年功序列・終身雇用」という雇用形態が儒教精神を基盤に確立されてきたことはたぶん間違いないと思う。
 ただ「同一労働」の基準をどう算定するかは非常に難しい。「科学的管理法の父」と称されている米フェデリック・ウィンスロー・テイラーはミッドベール製鋼所の機械技師だったとき、当時の米産業界に蔓延していた組織的怠業問題を解決するため、単純に労働時間で賃金を決めるのではなく、個々の労働者の作業能率を基準にした賃金や工程の配置を提案するため、ストップウォッチで個々の単純作業にかかっている時間を計り、流れ作業の効率化を実現することに成功した。トヨタの「看板方式」はテイラー・モデルの現代版と言ってもいいかもしれない。 
 ただ「科学的管理法」の欠陥は単純作業にしか適用できないという致命的欠陥を持っている。研究者などの専門職や、デスクワークの仕事が多い知的職種の労働力の価値を算定する基準はおそらく100年研究しても作ることは出来ないだろう。
 元日亜化学工業の社員だった中村修二氏(現在は米カリフォルニア大学教授)が在職中に高輝度青色発光ダイオードを発明し、発明に対する「正当な報酬」を会社に要求して話題になったことがある。この係争は東京高裁で日亜化学工業が中村氏に8億4000万円を「発明の対価」として支払うことで和解が成立し、その後次々に「発明に対する正当な報酬」の支払を会社に要求する訴訟が起こされるようになった。今は、会社が技術系社員との間に「発明に対する報酬契約」を結ぶようになり係争はなくなったが、会社の利益に貢献する仕事は発明だけではあるまい。技術系社員にのみ「会社の利益に貢献した報酬」が支払われるということになると、技術系社員はプロスポーツの選手や芸能人のように「個人事業者」扱いするのが正当であり、会社との関係も雇用関係ではなく契約関係にすべきだろう。 
 中村氏の場合は、当初会社から公認されていた研究開発がストップされ、アングラ研究を続けた結果として発明できたという事情があったが、研究が会社から公認されていた時代、数億円の研究開発予算を自由に使える立場にあり、会社から研究のストップを命じられたのちもアングラとはいえ事実上、ほかの名目での研究費を使っての研究活動であり、またアングラ研究を続けていた間も、そのことを会社に隠して給与を支給されていた。そう考えると「発明の対価」という考え方そのものが、技術系社員の正当な権利と言えるのかどうか、私は疑問に思っている。当時のメディアは、一斉に中村氏の肩を持ったが、技
術系社員ではなく事務系社員や営業職社員が会社の利益に大きく貢献する業績を上げた場合、会社は数億円単位の成果報酬を支払う義務が生じるはずだとは考えなかったのか。
「同一労働同一賃金」は、単純作業の従事者には最適の賃金システムだが、労働の価値をフェアに算定できない職種の場合はどうするのか、そういうことも考慮に入れた「成果主義賃金制度」なのか。米欧型の「同一労働同一賃金」制度は、知的労働に従事する社員の労働の価値に対する評価の権限は上司が握っており、上司の評価が低いという不満を持った部下は、その上司より大きな権限を持つ人とのよほどのコネでもないかぎり、自分の能力を正当に評価してくれる会社に転職してしまう。そうしたケースをとらえて一時日本では「アメリカでは転職を重ねることで給料が上がっていく転職天国の国」といった誤解が生じたが、そういうケースはほんの一握りであって、実態は権限を持つ上司に逆らえないというのがアメリカの雇用形態である。その反映として、能力の高い部下を持った上司はしばしば、部下をクビにしてしまうといった弊害もあり、米産業界でもそうした事態に対する対策をいろいろ考慮しているはずだ。何でもアメリカのシステムは正しいと思い込んだ規制改革は、日本をとんでもない社会に変えてしまう危険性もあることを指摘して、このテーマの結びとする。
 
 

 
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「残業ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか。②

2014-05-22 04:59:09 | Weblog
 昨日の続きの本題に入る前に、書いておくべきことが生じた。昨日のNHKニュース7でSTAP細胞について新たな疑惑が判明したとの報道があった。私はこれまでSTAP細胞の存在そのものについては存在する可能性が高いと考えてきたし、そのようにブログでも書いてきた。『ネイチャー』に投稿された論文については「お粗末すぎる」とは書いたが、国際学会の基調講演をするほどの米ハーバード大のバカンティ教授が「STAP細胞は存在する」と何度も発言し、STAP細胞の作製手順もWebで公開したことから、30歳の小保方ユニットリーダーの論文作成過程のミスと考えてきた。そして論文作成の指導を担当した笹井氏の責任は免れ得ないとも主張してきた。
 が、理研の論文調査委員会が「論文はねつ造と改ざんによる不正行為」と決めつけた以外にも、別の検証チームが論文の調査を行っており、理研の正式な調査委員会が「ねつ造と改ざん」の根拠とした二つの不正以外にも重大な不正が行われていたことを見つけ、すでに理研に報告書を提出しており、その報告書を理研が握りつぶしていたことがNHKの取材で明らかになった。私は科学者ではないので、その報告書についての評価はできないが、「STAP細胞が万能性を持つ証拠として2種類の異なる細胞から作ったとしていた2枚のマウスの写真が、実際には2枚とも同じ種類の細胞を使って出来たマウスの写真だった」という。また「異なる種類のマウスで撮影していたという2枚の写真が実際には1匹のマウスの写真だった」ともいう。
 そこまで論文の不正が行われていたとすると、いかに世界的権威のあるバカンティ教授の後ろ盾があったとしても、STAP細胞の存在についての疑惑がぬぐえない段階になった。小保方氏の代理人を務める三木弁護士は「肝心の小保方氏に何の説明もなく、聞き取りもしていない、寝耳に水の話」と困惑している。日本分子生物学会の副理事長で九州大学の中山教授は「ここまでミスが重なるのは、明らかに不自然だ。STAP細胞が存在するならば、こうしたことが起こるとは考えにくく、そもそもSTAP細胞はなかったのではないかと強く疑わざるを得ない」とコメントした。
 私はSTAP論文の疑惑が表面化した時点で、「突然変異だった可能性はある」と書いた。その時点では『ネイチャー』に投稿するほどの論文に名を連ねた研究者たちの顔ぶれから考えても、共著者のだれも「STAP細胞の作製過程を見ていなかった」などということは考えられなかったからだ。さらにバカンティ教授が作製方法をWebで公開したことからも、再現の困難なことは認めつつもSTAP細胞が存在する可能性は高いとみていた。
 しかし、小保方氏が記者会見で「私は200回以上STAP細胞の作製に成功している」と言い切ったあたりから、頭の片隅に多少の疑念が生じだしたことも事実である。「なぜほかの研究者たちはだれも再現に成功しないのか」という記
者の質問に対しても「コツとレシピが必要で、それは特許の関係で公開できな
い」と疑惑を積極的に晴らそうとしなかったことも、私にとってはいぶかしかった。自身の研究者生命が絶たれようとしていている事態に、「特許もへったくれもないではないか」と正直思った。ただその時の私の追及の矛先は理研の体質と笹井氏の責任に向けられており、「理研がSTAP細胞作製の検証研究チームに、なぜ肝心の小保方氏を加えないのか」という批判は何度も行ってきた。
 事ここに至って、小保方氏に対する疑惑が私の中で急浮上したのは、NHKのニュースによって、これまで小保方氏が主張してきた「単純なミスで、悪意のある不正ではない」という主張が根底から覆ったと考えざるをえなくなったからである。小保方氏が、あくまで「STAP細胞は存在する」と主張するなら、「コツとレシピ」を公開するか、理研に対して「検証研究チームに私を参加させてくれ。研究チーム全員の目の前でSTAP細胞を作製して疑いを晴らす」と申し入れるしかない。また理研も「検証研究チームの目の前でSTAP細胞を作ってみろ」と、小保方氏に命じるべきだ。そうすれば、単純な論文の作成ミスだったのか、STAP細胞の存在そのものが絵空事だったのか、はっきりする。それ以外にSTAP騒動に決着をつける方法はない。

 さて本題に戻る。日本の大企業は今春9年ぶりにベースアップを行った。安倍総理の要請にこたえて、言うなら政労使の三者揃い踏みで実現したベースアップだった。安倍総理としてはアベノミクスを成功させるためには消費税増税による景気後退を極力抑えるためには、円安効果によって史上空前の利益を上げた輸出関連企業を中心に景気の牽引車にどうしてもする必要があった。
 メディアもそろって好感を示した。「憲法違反の賃上げ」だということを知りながら、その指摘すら行わずに諸手を挙げて支持した。「お前らアホか」と言いたい。「憲法違反の賃上げ」ということを知らなかったとしたら、もっとアホと言わなければならない。
 憲法に違反している法律は、言うまでもなく労働基準法である。労働基準法では、賃金の形態を「基準内賃金」と「基準外賃金」に分類している。
 基準外賃金の方から説明しよう。その方がわかりやすいからだ。
 労働基準法で基準外賃金の対象とされているのは、主に三つだ。扶養家族手当、住宅手当、通勤手当、である。すべて「属人的要素」つまり個々の従業員の個人的な諸事情に対して支給されている手当で、会社で仕事をした労働力に対する対価として支給される賃金ではない。そういう意味では年齢・学歴・勤続年数を基準にした基本給は、本来「基準外賃金」である。これらの要素は「職務遂行に要する労働力の価値」とは無関係だからだ。
 これに対して基準内賃金は、基準外賃金を除くあらゆる名目の手当を含む賃金を指す。労働基準法では、時間外労働(残業、休日出勤など)に対する割増賃金の割増率の基準になる賃金である。
 ところが、今春9年ぶりに行われたベースアップは、本来の意味での基準内賃金の底上げではない。慣行として連合(旧総評系)などが容認してきたせいもあるのだろうが、日本におけるベースアップは基準外賃金の中の基本給(年齢・学歴・勤続年数)により物価変動を加味して自動的に一律上下するはずの賃金)だけをアップすることにしたということである。こうしたベースアップは本来、労働基準法違反でなければおかしい。
 が、日本の労働基準法は「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取扱いをしてはならない」(第4条)としているだけで、年齢・学歴・勤続年数の「3基準外賃金」についての差別的取扱いは認めている。はっきり言って憲法違反の法律だが、労働組合側も慣行として容認してきたし、輸出関連の大企業に対して安倍総理が要請したベースアップも、総理自身はそのことを百も承知で行っている。
 そう言い切れるのは、竹中平蔵氏が著書『日本経済の「ここ」が危ない――わかりやすい経済学教室』で「安倍晋三内閣(※第1次)で同一労働同一賃金の法制化を行おうとしたが、既得権益を失う労働組合や、保険や年金の負担増を嫌う財界の反対で頓挫した」と述べていることからも明らかである。
 安倍総理が実現したいとする100年後を見据えた日本社会の根本的改造の理念には、私も同感する要素が多いが、それが直ちには実現不可能となると対処療法的手法の行使によって、かえって目標が遠のいてしまう結果になっていることは、集団的自衛権行使問題で私は明らかにしてきた。現行憲法は日本が戦後の、何もかも失った占領下の時代に制定された憲法であり、日本国民の総意によらず、帝国議会・枢密院(天皇の最高諮問機関=帝国議会の上位に位置づけられていた)での採決を経て天皇が裁可した憲法である。当然、サンフランシスコ条約で独立を回復して主権を取り戻した時点で、天皇の裁可によって制定された現行憲法は無効になっていたはずだ。
 当時の吉田内閣が、朝鮮特需で息を吹き返した日本経済を本格的な回復軌道に乗せるため、あえて憲法改定を行わず日本の国力のすべてを経済再建に注いだ意図は理解できないではないが、当時の日本が国際社会に占めていた立場と現在とでは雲泥の差がある。日本が現在の国際的地位にふさわしい国際、とくに地理的には環太平洋の平和と安全に貢献すべき責務はきわめて大きい。その責務を果たすため、現行憲法の平和主義の理念は継承しつつ、現実的にそれを可能にするためには憲法を改正して環太平洋集団安全保障体制の構築に貢献すべき責任があることを、吉田内閣が主権国家としての義務を放棄してまで経済再建に国力のすべてを注がざるを得なかった事情を国民に誠意を持って説明すれば、日本国民はバカではない。集団的自衛権の行使を「行使できる要件」の限定までして憲法解釈によって可能にしようという対処療法的行為そのものが、かえって憲法の権威を損ない、国際社会に占める日本の立場にふさわしい権利・義務・責任を明確にした憲法に改定することを困難にしていることが、安倍総理にはまだ分かっていない。

 賃金制度の問題に戻るが、日本特有の基本給制度は、アメリカをはじめとする米欧諸国の賃金体系にはありえない。徳川幕府が国家的精神規範として定着させた儒教とは、必ずしもまったく同じとは言えないと思うが、いちおう儒教国家とされている韓国の賃金形態は分からないが、昨日のブログで書いたように江戸時代に確立した「年功序列・終身雇用」の雇用形態を前提にしない限り、年齢や学歴を基準にした基本給という名目の賃金はありえない。NHKをはじめとして大メディアは少なくともアメリカには総局や支局を置いており現地アメリカ人も雇用している。そのアメリカで、日本型の賃金体系を実施したらたちまち「同一労働同一賃金の原則に違反している」として従業員から訴えられる。こうした違反行為に対する裁判所が下す判決はきわめて厳しい。日本のよ
うな情緒的な判決は絶対に下さない。
 だから安倍総理が自ら座長を産業競争力会議が、基本給を基準にした時間外労働の割増賃金の規定を廃止しようと考えているのかが、現段階では全く分からない。何も具体的なことが分からない時点で問題点を指摘しても空転しかねないことを百も承知で、やはりこの機会に日本の将来を考えて、賃金体系の抜本的改革の提案だけはしておきたいと思う。
 まず事実上従来の日本型雇用形態であった「年功序列・終身雇用」が早晩、完全に崩壊することは不可避であることはどなたもお分かりと思う。実際この雇用形態が維持されているのは公務員や準公務員の世界と、いちおう現時点でも成長を続けている大企業に限られている。一方建設業界などは人手不足で、労働力を海外からの「輸入」に頼らざるを得ない状態になっている。さらに少子高齢化に歯止めがかからない状況から、将来的には深刻な労働力不足に陥ることも確実視されている。
 こうした事態を打開するために、若年労働力の増加に期待ができない状況にある以上、非正規社員の正規社員化、とくに非正規社員に多い結婚で主婦層になっていったん仕事から離れた女性の社会復帰を促すこと、また能力が衰えていないにもかかわらず定年で仕事を奪われて第二の人生をやむなく送っている高齢者の再活用を促すしか解決方法はない。
 そのためには、正規社員の時間外労働時間を極力減少し、その穴を埋める方策として主婦層の職場復帰の機会を増やしたり、高齢者の再雇用を強力に進めて行く方策として政府の有識者会議である「産業競争力会議」で労基法の見直しをするのは当然であり、連合や共産党ばかりか朝日新聞も4月28日付社説で「何時間働いたかではなく、どんな成果を上げたのかで賃金が決まる。それ自体は、合理的な考えだ」としながら、続けて「だが、過大な成果を求めれば、長時間労働を余儀なくされ、命や健康がむしばまれかねない。その危機感が薄いのが心配だ」と書いたのは、共産党や連合の主張の受け売りにすぎず、朝日新聞の論説委員が自分の頭で考えて共産党や連合と同じ結論に達したとしたら、「産業競争力会議」が何を目的として労基法を改定しようとしているかを自分の思考力で考える習慣を失っていると考えるべきだろう。
 はっきり言って日本企業の賃金体系は、曲がりなりにも「年功序列・終身雇用」を前提として生活給部分(年齢や学歴、勤続年数など)を「基本給」として維持し、物価上昇率をスライドさせて上昇させてきた。過去9年間大企業が基本給を据え置いてきたのはデフレ現象によって物価が下落を続け、生活給部分の家計上昇と差引してプラス・マイナス=ゼロと見なしてきたからである。
 今春、政府が輸出関連の大企業に円安誘導による結果として企業の業績が輸
出関連企業を牽引車として軒並み改善されたのを見て、安倍総理がじきじき経
財団体に「賃金アップで従業員に報いてほしい」と異例の要請をしたのも、消
費税増税による景気後退を懸念して、消費者の購買意欲が冷え込まないようにと願って打った大芝居だったのである。
 これは結果論だが、安倍総理の単眼思考が「功を奏した」ことを意味する。安倍総理はデフレ不況の原因を単眼思考で「円高」によって輸出産業が打撃を受ける一方輸入品が格安で日本に入ってきたことがデフレの原因、とみていた。しかし、物価を左右する要因は為替だけではない。インターネット・ショッピング(オークションも含む)やアウトレット店の拡大、そして何よりもスーパーやデパートに打撃を与えたのが100円ショップの予想をはるかに上回る拡大であった。とくに100円ショップが食料品や日常品の価格を従来の市場相場から大幅に引き下げ、近辺のスーパーも対抗上値下げを余儀なくされたことが大きく効いた。
 安倍総理が歴代総理では考えられなかった海外、とくに経済成長しつつある新興国をたびたび訪問して日本産業界の営業本部長として飛び回り、日本製品や日本の技術をセールすするため行脚したことは、日本国民の一人として素直に感謝している。総理は国内でもデパートなどを度々視察しているようだが、デパートだけ見て回っても消費税増税の影響はつかめない。100円ショップは消費税が増税したといっても一品に付き増税分はたった3円にすぎず、私が近辺の100円ショップの店長数人に聞いた結果として「客離れはまったく生じていないので胸をなでおろしている」と話す店長が大半だったし、スーパーは代表格のイオンとイトーヨーカドーが売れ筋の自社ブランド商品の消費税込み価格を据え置くという戦略に出たため客足も落ちていない。消費税増額の影響がもろに出たのは増税前の駆け込み需要が爆発した電気量販店と、高額ブランド商品の販売を中心にしてきたデパートくらいである。自動車は増税と引きかえの減税処置もとったため駆け込み需要はそれほど生じず、消費税増税と自動車税軽減の相殺で販売にあまり影響は出なかったようだ。ただ影響が大きかったのは、日米TPP交渉で日本の軽自動車に対する自動車増税がダブルパンチとなって、駆け込み需要が増大した反動は予想されていた通り大きかったようだ。
 安倍総理はプライドのせいか、警備上の問題かは分からないが、スーパーや100ショップを視察していないが、これはカメラ撮影を駆使してでも視察効果を実感したほうがいい。また総理はゴルフがお好きなようだが、ゴルフ用品やゴルフウェアをだれか若いスタッフに頼んでネット・オークションで買ってみたらいい。また最近急増しているアウトレット店の人気ぶりもカメラ視察でいいから見ておいた方がいい。 
 デフレ現象は円高要因もあるが、こうした100円ショップでの買い物が若い人だけでなく高額所得者にとっても抵抗感がなくなってきたこと、とくにユニ
クロのファッションはいまや若い人にとってステータスにすらなっていること、
スーパーが100円ショップに対抗して販売価格政策を見直してきたこと、こうした複合的要因がデフレを招いたことも理解しておく必要がある。だから、日銀の金融政策によって円安誘導しても、確かに輸入品はインフレ要因の一つにはなりうるが、日本の消費者の輸入品離れが生じれば、日本への輸入価格の見直しは必至になり(海外のブランド商品は二重価格制を採用しており、とくに「日本仕様」としている商品は品質を高めているわけでもないのにバカ高い価格を設定してきた)、日本への輸出量を確保するため値下げせざるを得ない状況になっている。
 話がちょっと賃金体系の改定問題から外れてしまったので、明日は本来の賃金体系の改定が何を目的にしているか、朝日新聞の頭の悪い論説委員の主張を論理的に検証しながら明らかにしていきたいと思う。(続く)


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「残業ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか。①

2014-05-21 06:24:30 | Weblog
 政府の産業競争力会議(議長:安倍総理)が、サラリーマンやOLの賃金を、労働時間にかかわらず一定にすることを検討することになった。具体的には労働時間を基準に賃金を支払うのではなく、成果に応じて賃金を支払う仕組みに変えることを提案するようだ。「時間外手当がなくなる」ことを意味する。安倍内閣は6月に改訂する成長戦略に盛り込む方針のようだ。
 私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか。それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…。
 メディアの単眼思考は、この方針についても単眼でしか見ていない。朝日新聞デジタルはこう主張した(4月22日8時配信)。
「仕事の成果などで賃金が決まる一方、法律で定める労働時間より働いても『残業代ゼロ』になったり、長時間労働の温床になったりする恐れがある」
 また朝日新聞25日付朝刊によれば、公明党も「長時間労働の常態化につながりかねない」として菅官房長官に懸念を表明したという。連合も23日夜「ブラック企業対策の強化が求められる中、長時間労働を強いられる制度の検討は行かん」とする反対声明を発表、メーデーで労働規制の緩和に反対する決議を採択した。
 現行の労働基準法によれば、1日の労働時間は原則8時間、週40時間以内と定められている。その労働時間を超えたときは残業代が発生する。時間外労働に対する割増賃金(残業代)の割増率は25%以上だったが、長時間労働を防ぐため2010年4月から引き上げられ月60時間を超える割増率は50%以上になった(中小企業は適用猶予)。なお休日労働の割増率は35%以上である。ただし、上級管理職(いちおう部長以上とされているが、課長以上の非組合員も上級管理職に位置づけている会社が大半のようだ)には割増賃金の支払い義務がないとされており、一部の専門職や営業社員にも事実上時間外労働賃金を支払っていない会社が大半と言われている(ただし、これらの職種には時間外割増賃金に相当する額を「○○手当」として職種職能に応じて支給することで公平性を維持しているケースが多い)。
 産業競争力会議で「残業代ゼロ」の対象として検討されているのは年収1000万円以上の社員だが、高給取りではなくても労働組合との合意で認められた社員も対象にする方向のようだ。ただし、いずれも本人の同意を前提とする。また、従業員の過半数が加入している労組がある企業については、新入社員などは対象から外すという。
 問題は、この労働基準法の改定につながる新しい仕組みの目的は何か、ということだ。公明党や連合は「長時間労働が増える」ことを不安視しているようだが、政府はいま正規社員の労働時間短縮によって非正規社員の正規社員への
登用やフリーターの就職機会を増やすことに力を注いでおり、またアベノミクスを成功させるためにかつて自民政権が行ったことがない「従業員へのベースアップ」を経済団体に要請したりしていることから考えても、公明党や連合が懸念しているような長時間労働が増えるような事態は防ぐ方策も、産業競争力会議は当然考慮するだろうと考えるのが合理的である。
 ただ政府与党のなかにもそういう懸念が生じたということは、「なぜ労働基準法の改定が必要なのか。改定によってどういう労使関係や企業の競争力強化を目指していくのか」というストーリーが示されずに(示していても報道機関が無視している可能性はあるが)、結論だけが先行しているように見えることは問題と言わざるを得ない。
 そもそも日本型経営形態と言われてきた「年功序列・終身雇用」はどのようにして形成されたのかを考えたい。
 これはネット検索してもわからなかったので(検索のための「キーワード」を見つけられなかったせいかもしれない)、私のおぼろげな記憶に頼りながら書く。記憶力が年々低下しているこの頃は歳相応に物忘れが激しくなっているが、ここで書くことについては確実に記憶していることだけをベースに書く。間違いがあれば指摘していただきたい。
 まず戦国時代は「下克上」が新時代の幕を開けた、とされていると思う。戦国時代は足利政権の崩壊によって生じた。12代将軍までは足利幕府が実権を握っていたが、13代将軍の足利義輝が三好長慶の謀反によって京都から追放され、政権の座にいったんついた三好家は家臣の松永久秀に政務の実権を奪われた。足利義輝の弟・義昭が急速に勢力を伸ばしていた織田信長を頼ることで、いったん14代将軍の地位に就くが、信長の勢力が高まるのを恐れて反信長勢力を結集しようとして失敗、足利政権は名実ともに崩壊した。
 この時代、風雲児として戦国時代の覇者になりつつあった信長は、徹底的な能力主義の人材活用を行った。足軽の一平卒に過ぎなかった木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)をとりたてて大名の地位にまで登用した。足利義昭の家臣で信長との間を取り持った明智光秀も「中途採用」して、秀吉と同様大名に登用した。日本で最初に能力主義人事・雇用形態を作り上げたのは信長だったと私は考えている。秀吉は、そうした信長の能力主義人事・雇用形態を継承した。具体的には竹中半兵衛や黒田官兵衛を総参謀長(軍師)として「中途採用」して重用したり、生まれも育ちも定かでない若者たちを育て大名にまで登用した。加藤清正や福島正則、石田三成、小西行長らがそうである。
 秀吉の死後、徳川家康が長期政権を目指して国教として位置付けようとしたのが儒教である。キリスト教の布教禁止政策は秀吉がすでに始めていたが、家康は布教を禁止しただけでなくキリシタンを根絶やしにする政策まで実行に移
した。これはあまり知られていないことだが、家康は仏教まで禁止することを考えていた。
 この家康の徳川政権の永続化のために行った政策がビジネスの世界での雇用形態につながる。まず丁稚奉公からスタートして最終的には番頭(現代の企業では役員に相当する)を経て「暖簾分け」によって一国一城の主になる。年功序列・終身雇用の原型が徳川時代に作られていたのだ。そのことを念頭に置いたうえで安倍内閣が行おうとしている労働基準法の改定を考えてみたい。

 アメリカはご承知のように「同一労働同一賃金」を賃金体系の大原則にしている。これは人種や性別、年齢による賃金格差を禁じていることを意味する。当然、学歴も賃金には反映しない。ハーバード大学やエール大学の卒業者が高給で就職できるのは、名門校の出身者という理由ではなく、名門校を卒業できた能力に対する正当な評価の反映なのである。
 よく知られているように、日本の大学は(韓国などもそうだが)、名門校は入学するのは大変な競争を勝ち抜かねばならないが、入学できればアルバイトに精を出す学生生活を送っても卒業は容易とされている。むしろスポーツに一生懸命に取り組んできた学生は根性があると見なされて就職活動が有利にさえなる。根性があることが、能力の証明になるわけではないのだが…。
 一方アメリカでは、学生が青春を謳歌するのは高校生の時代である。入学の難易度を基準にすれば、日本の名門校の方がアメリカの名門校よりはるかに狭き門である。だが、アメリカでは入学できても必死に勉強しないと卒業できない。大学の教授はバンバン宿題を出すし、問題も難しい。宿題や問題の答えに対する評価は、正解かどうかより、どういう思考法で問題解決に取り組んだかが大きな基準になる。
 日本の教育についての基本的な方針が儒学の伝統である「教える」ことに置かれているのに対して、アメリカの場合は学生自身が「学ぶ能力を身に付ける」ことに重点を置いているせいでもある。ディベート教育がその典型で、私は「屁理屈を考え出す能力を高める教育になりかねない」と、あまり評価はしていないが、受け身で知識を学ばせる日本の教育は画一的な思考力しか育てないのに比べれば、まだはるかにましと言わざるを得ない。あるテーマについて賛成派と反対派に分かれて論争するという従来のディベート教育の方法を変えて、テーマだけ与えて自由に自分の考えをどれだけ論理的に展開できるかを重視する方法にしたほうがいいと思う。そういうディベート教育を行うようにすれば、知識や常識を頼りにした主張は評価されず、だれも気付かなかった視点からテーマに取り組む能力が培われ、独創的な思考力を養成することもできるはずだ。日本の儒学では独創的な考え方を「異端」と決めつけて排除することにしているから(教師や上司など目上の人のいうことはつねに正しいとするのが儒学の基本理念である)、そうした教育では国際競争に打ち勝つ独創的な思考力は培われない。
 教育の問題からは離れるが、画一的な教育方針で、画一的な能力の育成を強要されてきた大学の卒業生は画一的な思考力で問題解決に当たろうとする。ある意味では日本の高度経済成長時代には、そうした画一的な労働力が企業の発展を支えてきたと言ってもいいかもしれない。日本製品の品質の高さは、そういう画一的労働力によって世界から認められるようになったのだから。
 しかし、そういう時代は終わりを告げた。いま日本が国際競争に打ち勝つためには、画一的労働力で、高品質な製品を生産するだけでは難しい時代になった。第一、高度経済成長時代には、日本人の平均賃金は国際競争力を維持していたから「世界の工場」の名をほしいままにしてきたが、「世界の工場」は韓国を経て中国に移っている。その中国はいまのところまだ「世界の工場」の地位を保っているが、現在の海洋進出政策を続ければ、「世界の工場」の地位を失いかねない。すでに日本はインドやタイ、ベトナム、ミャンマーにかなりの生産拠点を移しつつあり、中国の「世界の工場」としての地位は切り崩されつつある。
 ここで読者に理解していただきたいことは「同一労働」の意味である。アメリカにおける「同一労働」は労働の結果としての成果、つまり会社への貢献度が基準となっているということだ。つまりAさんが10時間働いて生み出した成果と、Bさんが5時間働いて生み出した成果がまったく同じならば、時間当たりの賃金はBさんはAさんの2倍になるということなのである。そのことをとりあえずご理解いただいて、日本の雇用・賃金体系はどうあるべきかについて考えてみたい。(続く)
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安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。(番外編)

2014-05-20 09:30:03 | Weblog
 まず読者にお詫びしなければならないことがある。昨日(19日)投稿したブログは、このシリーズの4回目である。勘違いして5回目としてしまったので戸惑われた方も少なくなかったと思う。お許しを願う。なお予定を変えて急きょ、今日のブログはこのシリーズの「番外編」を書く。

 昨夜、いろいろ考えていてふと気づいたことがある。一つはメディアが盛んに報道しているアメリカの反応。二つ目は、もしいわゆる「集団的自衛権行使の限定容認」が国会で可決されたとして、その影響を最も受けると思われる沖縄県民の負担は軽減されるのかという視点。三番目に公明党と、公明党の支持母体である創価学会との間に亀裂が生じつつあるのではないかと思わせる創価学会の政治的主張についてである。
 まずアメリカの反応だ。オバマ大統領もケネディ駐日大使も安倍総理の「集団的自衛権行使」政策に積極的な支持を表明している。そのことはメディアもしばしば報道しているが、なぜ米政府が日本に対する内政干渉とも受け取られかねない発言を繰り返すのか。安倍総理の靖国参拝に対しても公然と「失望している」と非難した。安倍総理の靖国参拝は政府の公式行事として行われたわけではなく、総理の個人的信条による行為であり玉串料も総理の懐から出している。
 私自身は、靖国神社がA級戦犯を合祀して理由として「昭和受難者」(先の大戦の犠牲者)と説明しているのに、では沖縄の集団自決者を合祀しないのはなぜかという論理的非整合性を指摘してきたが、これまで中曽根総理や小泉総理の靖国参拝に一切口出しをしなかった米政府が突如「最大級の親米派」とみられる安倍総理の靖国参拝に対しては、一国の総理に対しては非礼とも言える表現で非難した。その理由ははっきりしている。中韓の反日感情を刺激して極東に緊張が高まることは、アメリカの国益に反するからだ。 
 だとしたら、ウクライナの内紛にEUが内政干渉し、EU諸国の大半と同盟関係にあるアメリカがロシアへの経済制裁など圧力を加えている行為に対し、日本政府は「失望した」と公然と表明すべきではなかったか。いま日本はロシアとかつてないような友好関係を築きつつある途上にあり、重要な国益がかかっている最中である。この機会を逃せば、いつ同様な機会が訪れるかわかったものではない。日本にとっては迷惑至極な話であり、そうした立場から同盟国日本の国益を阻害しかねない米国の対ロ政策に対して、明確に「失望した」と表明すべきではなかったか。
 同様に安倍総理の「集団的自衛権行使」政策に対しては、なぜ日本国民の世論を無視してまで、あえて安倍総理の政策に対して支持を表明しているのか。はっきり言えば米政府の「政益」に合致した政策だからだ。
 米国内には、いまだに「リメンバー・パールハーバー」の対日感情を抱いている人たちが少なくない。日米安保条約についても米政府が米国民に正確な実
態を説明していないから、日本はアメリカのために血を流そうとしないのに、
なぜアメリカが日本のために血を流さなければならないのかといった感情を持っている人たちが少なくない。
 そもそも国家間の条約は双方にとって利害関係が一致した部分についてのみ結ばれるというのが通常である。かつて日露戦争で日本が勝利できた大きな要因の一つに日英同盟によってイギリスがバルチック艦隊のスエズ運河の通過を認めず、世界最強と言われていたロシア海軍を疲弊させたことが、日本海海戦での歴史的大勝利に結びついたように(私はそれだけが日本勝利の要因とは言っていない)、当時においては西と東に勢力の拡大を図りつつあったロシアを封じ込めるという点で日英の利害が一致したからである。が、イギリスが考えていた以上に日本が大勝利し、アメリカの仲介によって日露戦争が終結したのち、日本がロシアから莫大な権益を獲得したとたんイギリスにとっては、中国やインドに獲得してきた権益の維持にとって日本が驚異の対象に変わり、日本が獲得した権益の一部をロシアに返還させようとするヨーロッパ列強と足並みをそろえて日本に圧力を加える側に寝返ったという歴史的事実もある。
「国益」というものは、そういうものであり、アメリカの「国益」と日本の「国益」が合致していた時代に結ばれたのが現在の日米安保条約であり、そのため日本の国力(おもに経済力)がまだ十分に回復していなかった時代、アメリカにとっては対ソ防波堤として日本を軍事的に防衛することが日米双方にとって共通した国益だった。
 言っておくが、現在の日米安保条約は日本が独立を回復した1951年9月に締結された条約を60年に岸内閣の下で改訂したものであり、日本が「世界の奇跡」と言われた高度経済成長時代に入るのはその後である。まだ日本の国力は十分に回復しておらず、日本側の負担は米軍基地のための土地を提供するだけで、基地の維持費用の負担義務はないことになっていた。が、その規定もなし崩し的に変更され。1978年から日本政府は「思いやり予算」というおかしな名目で米軍基地の運営維持費用の一部を負担することにした。2011年度の「思いやり予算」は一応1,858億円とされているが、それとは別に「基地周辺対策費」などの名目で5,053億円が米軍基地運営維持のために支払われている。
 アメリカ政府は日本とくに沖縄に偏在する米軍基地が日本防衛のためというより、東南アジアの軍事的支配権を維持するために重要な基地であり、日本から多大な貢献を得ていることを米国民に説明していない。そのため、多くのアメリカ国民は日米安保条約の下で、アメリカが一方的に日本防衛の義務を負っていることに少なからず不満を抱いており、日本がいわゆる「集団的自衛権」を行使できるように憲法解釈を変更して、アメリカが攻撃された際は日本もイギリスと同様アメリカのために血を流してくれることになったと米国民に説明
したいのだ。それが、オバマ大統領やケネディ大使が安倍総理の政策に対する支持を公然と表明している理由、と考えるのが最も合理的である。それ以外に説明できる合理的理由はない。メディアの思考力が低下しているだけのことだ。
 次に、もし「集団的自衛権の限定行使」を憲法解釈で容認できるとしたら、沖縄の米軍基地はどうなるかという問題である。この問題にも政府は一切口をつぐんでいるし、メディアもまったく問題視していない。
 はっきり言えば、日本が「集団的自衛権」を行使できるようになったとしたら、アメリカが沖縄に基地を偏在させる理由が消滅する。東南アジア方面における米軍の最大の軍事拠点は沖縄とグアムに置かれており、グアムの米軍基地が攻撃され、米政府から支援の要請があったら自衛隊が出動することになるわけだから、沖縄の米軍基地は、ゼロとまでは言わないにしても少なくとも半減はできることになるはずだ。沖縄県民の負担は大きく軽減できなければおかしい。安倍総理も米政府も、日本が「集団的自衛権」を行使できるようになったら、沖縄に偏在している米軍基地がどうなるか、沖縄県民の苦痛は解消されるのか、そのことになぜ口をつぐんでいるのか、メディアはなぜこの重大な視点を持たないのか。私には理解できない。
 最後に創価学会の態度表明である。創価学会の広報室が集団的自衛権行使問題について異例の発表をした。メディアの質問に対して答えたのではなく、自ら態度表明したようだ。その内容とはこうだ。
「私どもの集団的自衛権に関する基本的な考え方は、これまで積み上げられてきた憲法9条についての政府見解を支持しております。従って集団的自衛権を行使する場合には本来憲法改正手続きを経るべきであると思っています」
 公明党が創価学会を支持母体としていることはすでによく知られている。というより、創価学会の政治部門が学会から分離して公明党という政党になったというのが正確な表現である。そのため選挙の際には創価学会の信者が鉦や太鼓で立候補者を応援し、その選挙応援があまりにも社会常識を逸脱したものであったためメディアから袋叩きにあった。以来、公明党は一応創価学会とは一線を画すとしてきたが、実際には創価学会の意向にそった政治スタンスをとってきた。創価学会も「政教分離」の原則に従って創価学会自身が政治的主張をしたことはなかった(と思う)。
 そういう意味では、創価学会の主張自体には私は否定しないが、なぜこの時期敢えて禁じ手を使ったのかに大きな疑問を持たざるを得ない。なぜかメディアはそうした疑問を持たない。持てないのか(つまり思考力不足)、持たないことにしているのか。
 私はこのブログで公明党の山口代表がNHKの取材に対して与党協議に前向きに応じるかのような発言をしたことの意味について推測記事を書いたが、ひ
ょっとしたらその山口発言が創価学会の逆鱗に触れたのかもしれない。その後、公明党は「個別的自衛権で対応できるケースだ」と憲法解釈の変更には応じない姿勢を表明しながら、与党からの離脱は否定し与党協議にも応じることにしている。ただし、安保法制懇の報告書が「集団的自衛権の行使」は「わが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」と限定したことについて、山口代表は講演会で「きわめて抽象的であいまいだ。こういう基準ではどこをどう限定しているのかが疑問だ」と発言した。公明党が創価学会のコントロールが聞かなくなりつつあるのか、そうだとしたら公明党が党勢の伸び悩みについて「その理由は創価学会のコントロール下にある」というイメージが国民の間に定着していて、そうしたイメージを払しょくしない限り党勢の拡大は期待できないと考え、敢えて創価学会との距離を置こうとして学会に逆鱗を買ったのか、そういう視点で今後の公明党の動向を見ていく必要があるだろう。
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安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。⑤

2014-05-19 06:28:23 | Weblog
 17日のブログの続きを書く。
 1946年4月17日、政府は憲法改正草案を発表し、枢密院(天皇の最高諮問機関)に諮詢(検討を依頼するの意。「諮問」)した。その草案はこうだった。

第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

 枢密院は第2項について意見を述べ、政府は翌5月25日に修正案を再び枢密院に提示した。その修正は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない」である。私は法律家ではないので、最初の草案と修正案との意味の違いはよくわからない。意味の違いの説明もネットでは調べられなかった。なんとなく二つの文章を見比べて感じるのは、修正案の方がより厳しく「戦力の保持や国の交戦権」を否定しているように思える。そのあたりは個人の主観によって異なると思うので、憲法学者が差異を明確に説明してくれればありがたいと思う。
 いずれにせよ、この修正案が枢密院で可決され、6月25日に第90回帝国議会に上程され、衆議院帝国憲法改正小委員会において7月25日から8月20日にかけて13回の審議が行われた。その間、本会議では新憲法をめぐって政府と野党の間で激しい論戦が繰り広げられていた。その国会審議のやり取りは私が『日本が危ない』(1992年7月上梓)で書いているので、その個所を転記する。なおこのときの総理大臣は吉田茂(自由党)、帝国憲法小委員会の委員長が芦田均(民主党)である。

 吉田首相は国会での日本進歩党・原夫次郎議員の「自衛権まで放棄するのか」との質問に答え、「第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と、明確に自衛権を否定している(6月26日)。
 この吉田答弁に猛反発したのが、今日では護憲を旗印にしている社会党と共産党。まず共産党の野坂参三議員が「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」と噛みついた。吉田首相は次のように答弁した。「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは百害であろうと思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛の名において行われたることは顕著な事実であります」(6月28日)
 社会党の森三樹二議員も「戦争放棄の条文は、将来、国家の存立を危うくしないという保障の見透しがついて初めて設定されるべきものだ」と主張した。これに対して吉田首相は次のように答弁した。「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として、相当の制裁が加えられることになっております」(7月9日)

 なお7月9日の吉田答弁とそっくり同じ主張を、日本共産党前委員長の不破哲三氏が劇作家の井上ひさし氏との対談本(光文社刊。題名は忘れた)で主張した。不破氏は新憲法制定過程における国会審議を勉強していなかったようだ。あるいは不破氏は所属すべき政党を間違えたのかもしれない。
 ご都合主義なのは安保法制懇も同じだ。このときの吉田答弁をもって、「憲法9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には『自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した』としていた」と報告書で述べているが、これは真っ赤なウソである。この時期、日本国憲法はまだ制定されていない。本会議での審議を踏まえて帝国憲法改正小委員会は様々な角度から検討し、芦田氏がまとめたのが現行憲法の原案である。その原案を、いわゆる「芦田修正案」という。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この芦田修正案が帝国議会における審議を経て通過し、政府は10月12日に「修正帝国憲法改正案」として枢密院に諮詢し(19日と21日に審査委員会)、10月29日に枢密院は天皇臨席のもとで可決した。同日天皇は憲法改正を裁可、11月3日に日本国憲法が公布され、翌47年5月3日から施行された。つまり吉田総理の「自衛権をも放棄する」との答弁は芦田修正案が帝国議会で審議される以前の、結局葬られることになった最初の憲法改正草案(政府原案)についてのものであり、一番早く考えても枢密院が可決し天皇が裁可した10月29日以降には、「自衛権放棄」の答弁は政府から一度もされていない。
 なお芦田修正案の大きな意味を持つのが下線を引いた個所であり、のちに自衛のための実力の保持と行使は憲法9条も否定していないという砂川判決の理論的根拠になった。国際状況の変化に対応して政府が憲法解釈を変えてきたというのは、安保法制懇のバカどもが憲法制定の歴史を捏造してでっち上げた「ウソ八百」以外の何物でもない。総理の諮問機関が、そこまでやるかと暗然たる思いがする。
 ただ「芦田修正」と言われる下線の部分が「自衛権の保持を意味するか」という疑問が憲法学者の一部から出てはいるようだ。しかし、芦田自身が新憲法が公布された46年11月に発表した『新憲法解釈』で次のように述べており、修正案を作成した時期と公布時期の間隔から考えると、芦田の主張は「結果論」とは言えないと思う。芦田は『新憲法解釈』でこう述べている。
「第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争ということになる。したがって自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の下関条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している」

 総理は記者会見で「いわゆる芦田修正論は政府として採用できません」と述べた。が、「憲法9条は、自衛権まで否定したものではない」という政府の立場は憲法制定以降、まったく変わっていない。ただ、玉虫色と言えなくもない9条の条文によって、自衛隊創設後も自衛隊が日本社会から「日陰者」扱いされ、自衛隊を「軍隊」と規定できず、「実力」という意味不明な扱いをされてきた経緯については、私が今年1月22日から3回にわたって連載した長文のブログ『安倍総理の憲法改正への意欲は買うが「平和憲法」が幻想でしかないことを明らかにしないと無理だ』で詳述した。
 そのブログで展開した「現行憲法無効論」の立場に立って、独立回復後も占領下で制定された憲法を主権国家の憲法として存続させてきた事情について、国民と真摯に向かい合って誠実に説明しないと、憲法改正も無理だ。
 確かに中国の海洋進出など日本を取り巻く国際環境の変化は無視できないものがあることは疑いを容れない。だからと言って、国民も納得していない「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の限定容認」を国会での力関係だけで強行していいのか。自民党は憲法改正は公約で謳っていたが、集団的自衛権行使は公約で謳っていない。日本の総理はアメリカなどのように国民の直接選挙で選ばれた大統領ではない。「自分のしたことは選挙で洗礼を受ける」とはのぼせ上った考え方だ。
 総理の、つねに微笑みを絶やさない柔和な笑顔と、穏やかな語り口で、内閣支持率は高いが、個々の政策に対する支持率は反比例するように低下しつつある。消費税増税の支持率は高かったが、それは国民の総意を必ずしも反映したものとは言えない。高齢化社会が進む中で、自分の将来の生活不安を解消してもらえると考えた高齢者が、自分のために消費税増税支持に一斉に動いた結果と考えた方がいいかもしれない。
 私は何度もNHKふれあいセンターの上席責任者に世論調査の在り方について提案してきたが、上席責任者は私の主張に同意するものの、実際に工夫の形跡は見られないのが残念だ。私の提案は簡単だ。「コンピュータによる無作為な選択ではなく、都市と地方、年代別の二つを組み合わせた加重平均で選択対象を絞り込んだうえで、あとはコンピュータがその範囲で無作為な選択をするようにすべきだ」と主張しているだけなのだが。 
 ただ、問題があるのは、若い人たちの固定電話離れである。私はブログを書くためと、キーボード入力になれてしまっているので、パソコンが手放せないから、固定電話もバカ高い基本料を支払わされているが、若い人たちの大半は固定電話を持たず、携帯やスマホで電話もメールもネットも1台で済ませている。その人たちが、NHKだけではないが世論調査の対象から最初から除外されているのである。若い人にとっては、自分の将来が高齢者によって左右されてしまうことになりかねないのだ。消費税増税を若い人たちも支持してくれることを願ってはいるが、自分が高齢者になったときに貰える保証がない、と国民年金に加入しない若い人たちが激増している。そういう若い人たちの不安を取り除くための努力を高齢者はすべきだと思うのだが、そもそもそういう考え方をする人たちが政府にいないのが残念である。
 横浜市が、待機児童をいったんゼロにしたが、そのとたん保育園への入園希望者が増えて、また保育園増設を計画しているという。が、増設を決める前にすることがあったはずだ。保育園に幼児を預けた母親が、育児の苦労から解放された時間をどう使っているかの調査を横浜市はしたのだろうか。母親が、自分のために使う時間を増やすことが目的で育児を市に委ねているとしたら、それは「待機児童ゼロ計画」の目的とは大きくかけ離れているはずだ。そんなことに市民の税金を使われたらたまらない、という声が聞こえてくるようだ。
 世論の動向は政治を動かす力になりうるわけだから、本当に国民の総意が反映されるような世論調査システムを1日も早く構築してもらいたい。

 とりあえず、安保法制懇の報告書と安倍総理の記者会見についてのブログはこれで終了する。明日からは、すでに書きためておいた、いわゆる「残業ゼロ問題」についてのブログ(3回連続)を投稿することにする。
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