前回のブログを書いてから1か月近くになる。私も昨年、喜寿を迎えた後期高齢者だからしばしば体調を崩すことがあり、長期の療養生活を余儀なくされてブログを中断したこともあったが、今回はそういう事情ではない。前回のブログの読者(閲覧者)数が日を重ねても一向に減らず、書きたいことはたくさんあるのに更新することができなかったためである。
私のブログの読者の大半はジャーナリストか政治家(国会議員)である。前回のブログは彼らにかなりの衝撃を与えたようだ。私自身、原稿を書きながら、ジャーナリストや政治家はかなりのショックを受けるだろうなと思っていた。理由は彼らがそれまでなんとなく(つまり確たる根拠もなく)思い込んでいた「自分の中の『民主主義』観」を木っ端みじんに砕くだろうことを確信していたからだ。もし、私のブログを読んで「自分の中の『民主主義』」が崩壊しなかったジャーナリストや政治家がいたら、彼らはもはやジャーナリストや政治家である資格がない。そのくらい重い問題提起を、私はしたつもりだ。
まだ前回のブログの読者が一向に減る気配を見せないが、このあたりでそろそろ書いておかなければならないことがある。財務省事務方トップだった福田前事務次官の「セクハラ問題」である。
セクハラ問題が世界中に広がったのは、米ハリウッドで燃え広がったme too運動がきっかけである。簡単に振り返っておくと、女優のアリッサ・ミラノ氏が有名な映画プロジューサーのハーヴェイ・ワインスタイン氏から性暴力被害を受けたことを告発し、同様の被害を受けたことのある女性たちに“me too”と声をあげるようツィッターで呼びかけたことから性的被害を受けた女性たちが「私も」「私も」と声を上げ始めたというわけだ。
報道などではセクハラとパワハラを別の次元で論じているようだが、私はセクハラはパワハラの1類型だと考えている。つまり異性に対する性的パワハラがセクハラなのではないか。題名や主演俳優の名前が思い出せないが(考えられる限りのキーワードでネット検索してみたが無理だった)、ハリウッド映画でセクハラをテーマにした映画があった。通常のケースと違って、男性の部下に女性の上司が性的関係を迫るという意外性が面白かったが、男性が女性上司のセクハラ会話を電話録音して女性上司を破滅に追い込むというストーリーだったと記憶している。
私が現役で仕事をしていた時代に取材で知ったことだが、アメリカに進出した企業の日本人トップが頭を抱えるケースのひとつとして、アメリカでは日本と違って直属の上司が部下に対する生殺与奪の権限を持っているという状況があるようだ。つまり自分の地位が脅かされるような有能な部下がいると、難癖をつけて首にしたり、窓際に追いやって仕事をさせないといったケースがあるというのだ。日本の企業では人事部が採用や異動、昇進を決めるが、アメリカは違う。そうした人間関係が社会の根底にあることを前提に考えないと、セクハラとパワハラの関係は理解できない。
私ははっきり言ってこれまで現役時代も、いまは職業ではないブログでも、個人のスキャンダルは書いたことがない。現役時代はいろいろスキャンダルの売り込みもあったが、私はすべて無視してきた。人間だれしも重箱の隅をつつかれればほこりが出ない人はいない。私自身清廉潔白な人生を送ってきたなどと言うつもりもないし、だから個人のスキャンダルを告発する資格など私にはないと考えてきたからだ。
そもそもこのブログシリーズ『小林紀興のマスコミに物申す』の目的も、「第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと…それが許せるか」である。テレビ朝日の女性記者に対してたびたび問題発言を繰り返してきた福田氏だが、いまだに「全体としてみればセクハラではない」と言い逃れようとしている。そのうえセクハラ事件として報道した週刊新潮に対して提訴すると息巻いている。福田氏は「名誉棄損で新潮社を提訴する」と主張しているが、実際に提訴するとなれば被告は新潮社の社長なのか、週刊新潮の編集長なのか、明らかにしてはいない。だいいち、福田氏を弁護する勇気ある弁護士がいるのだろうか。私はパスモ社や小田急電鉄を相手取って提訴したときは、弁護士に頼まず一人で闘ったが、福田氏にそんなことができるとは思えない。
いずれにせよ、公開された音声録音から考える限り、これがパワハラの一環でなければ、相手が接客業の女性でなくても「飲んだ席でのたわいのない戯言」の範疇に入るかもしれない。またテレビ朝日の女性記者も、たまたま居酒屋などで知り合った飲み友達の発言だったら、おそらくセクハラとは受け取らなかっただろう。「私のキスは高くつくわよ」などと冗談のやり取りで笑い合っていたかもしれない。
問題は、福田氏が女性記者との仕事上の関係を百も承知でキスを迫ったり、疑似性的行為に及ぼうとしたことだ。録音されたやり取りの中に「キスをすれば、いい情報をあげる」と受け取られても仕方がないような発言がある。そうした発言が出ること自体に、自分と相手との仕事上の関係を前提にしていることが明らかである。発言そのものはセクハラ的だが、これは明らかにパワハラでもある。もし福田氏が主張しているように、接客業の女性だったら「キスしてくれれば情報をあげるよ」などと言うわけがない。せいぜい「キスしてくれれば1万円あげるよ」で、これならセクハラにもパワハラにもならない。そのくらいのことが頭脳明晰なはずの福田氏には理解できないのだろうか。
一方、財務省に抗議したテレビ朝日側にも問題がある。女性記者がパワハラを伴うセクハラ(女性記者に、このセクハラはパワハラ抜きにはあり得ないという自覚的意識があったかは不明だが)について上司に報道すべきではないかと相談したとき、上司が下した判断「二次被害が生じる可能性があるから無理」とした点だ。私ならむしろ「二次被害を防ぐためにも報道すべきだ」という判断を下していた。ただ、「確実な証拠が必要だから今度取材のため会食するときは会話のすべてを録音しておくように」と指示していた(実際には女性記者はすでに録音していたが、そのことを上司には伝えていなかったようだ)。ここで問われるのは、テレビ朝日の「報道に値する公共的倫理性の有無」についての判断の甘さだ。アメリカ発の“me too”運動の社会性に対する無自覚さが厳しく問われるべきだろう。
次に自社記者の訴えに耳を貸さなかったテレビ朝日に、財務省に抗議する資格があるのかという疑問もある。まして取材で得た情報を第三者に提供したことについて「遺憾」とし、女性記者も「反省している」としたことだ。よくもまあ、そんな図々しいことが言えたものだ、と私は呆れた。
そもそも女性記者が週刊新潮にこの情報を提供したのは、テレビ朝日が無視したからではないか。ジャーナリストして何よりも重視すべきことは、自分が属する組織体への忠誠ではなく、真実と社会正義をあらゆる手段で訴えることだ。第三者に情報提供したことを問題視したこと自体、パワハラではないか。
今回の騒動で、私は毎日新聞の西山記者事件を思い出した。この事件は佐藤内閣が実現した沖縄返還に関し、公式発表とは異なる密約があったことを西山氏が外務省の女性事務官との不適切な関係を通じて知り、毎日新聞で報道する前に当時の社会党国会議員に提供したことで問題になった事件である。
西山氏が情報を得るために女性事務官にアプローチしたのか、それとも恋愛関係になった後で女性が西山氏にスクープ種を提供したのかは、今となっては二人の心の中にしまいこまれている本音を聞き出すしかない。ただ裁判の判決としては、西山氏が情報を得るために手練手管で事務官と不適切な関係を持ったことになっており、その結果、密約問題は吹き飛んで毎日新聞までも世論の袋叩きにあった。ジャーナリストの使命感と社会的倫理観の狭間が問われる事件でもあった。
西山事件との関連を含めて考えると、私はテレビ朝日の女性記者の勇気を称賛したい。彼女もメディアの世界で生きていれば、テレビ朝日の記者会見発表があってもなくても、時間の問題で週刊新潮に情報提供した人は特定されてしまう。それがネット社会の宿命でもある。実際、すでに彼女の氏名も、また彼女の上司の氏名もすでにネット上で暴露されている。そうなることを百も承知で彼女はあえて「巨悪」(とは言いすぎか?)に闘いを挑んだ。ネット情報によれば、彼女は既婚者で、夫もテレビ朝日の社員だという。当然、彼女は「巨悪」との闘い方について夫と相談していると思う。ご主人も、彼女の闘う姿勢を支持したのだろう。いい夫婦だなあ、と思う。
そもそもこの事件の根底にあるのは、巨大化した財務省の権限の大きさにある。皮肉な言い方をすれば、福田氏はたまたまその「巨悪」組織のトップに上り詰めてしまったため、自らの力の行使とは考えずに「冗談半分」(最大限、善意に解釈して)のつもりで風俗営業の接客女性と同一視して発してしまった言葉だったのかもしれない。だとすれば、「巨悪」化してしまった官僚組織の、彼も犠牲者という見方ができる可能性もないではない。が、だとしたら、そんな程度の思考力しかない人間を最強官僚組織のトップに任命した内閣人事局の政治責任が問われることになる。福田氏を財務省事務次官に任命したのは内閣人事局だからだ。
そもそも財務省は前身の大蔵省時代から、官庁中の官庁と言われてきた最強組織の「巨悪」化が問題にされてきた。いまでも語り継がれている「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」は贈収賄罪にまで至ったケースだが、この事件を契機に大蔵省は財務省と金融庁に分割されたが、それで財務官僚の権限が縮小したというわけではない。力の行使が、今回のセクハラ事件のような陰湿な形で継承されているとしたら、やはり一罰百戒のけじめをつける必要があるだろう。
前にもブログで書いたが、アメリカには「1ドル規制」という連邦公務員に対する厳しい規制がある。1ドルを超える接待を受けたら、その相手と自分の職務との利害関係がなくてもクビになるという厳しさがアメリカにはあるらしい。実際、私の学生時代の友人で、アメリカの大学を卒業した後、連邦公務員になった人がいて、たまたま日本に帰ってきたときに会食したことがある。会計のときに私が支払おうとしたら、「割り勘にしてくれ」と、頑として譲らない。そのときに彼から聞いたのが「1ドル規制」の厳しさだった。
私が「ここは日本だよ。日本で、学生時代の友だちからごちそうになったからといって、そんなことが問題になるわけないだろう」と言ったが、彼は「そういう気のゆるみが生じるから駄目なのだ」と言い張って、とうとう厳密に1円単位まで割り勘にしたことがある。
私はアメリカがすべて素晴らしいなどとは思ってもいないし、こんな自分勝手な国はないとすら思っている。しかし、アメリカの素晴らしい点の一つは社会的強者と社会的弱者を必ずしも対等には扱わないというスタンスが社会的規範として根付いていることだ。アメリカ人が重視する「フェアネス」は、力関係を無視した公平さを意味していない。とりわけ社会的強者の力の行使による犯罪に対しては、やりすぎではないかという批判がアメリカでも出るほどに手厳しい。私が『忠臣蔵と西部劇』(祥伝社、1992年上梓)で書いたように、野村証券がおかした経済犯罪(当時)は、アメリカだったら、おそらく倒産に追い込まれるほどのものだった。
そういう視点で考える時、麻生財務大臣の「福田の人権は考えなくてもいいのか」という身内意識丸出しの発言は、そういう感覚だけで大臣失格の烙印を押されても仕方がない、と私は思う。アメリカだったら間違いなくそうなる。
戦後日本に根付いた形式民主主義は、社会的強者と社会的弱者会を同列に扱うという、いびつな平等意識をはびこらせてしまった。福田氏から依頼を受けて新潮社のだれかを提訴するかもしれない弁護士ならいざ知らず、力を背景にセクハラ問題を起こした部下の人権を擁護するような大臣が、のほほんとして政権の中枢に居座っている現実に対して、どう「社会の木鐸」を鳴らし続けるかが、いますべてのジャーナリストに問われている。
私のブログの読者の大半はジャーナリストか政治家(国会議員)である。前回のブログは彼らにかなりの衝撃を与えたようだ。私自身、原稿を書きながら、ジャーナリストや政治家はかなりのショックを受けるだろうなと思っていた。理由は彼らがそれまでなんとなく(つまり確たる根拠もなく)思い込んでいた「自分の中の『民主主義』観」を木っ端みじんに砕くだろうことを確信していたからだ。もし、私のブログを読んで「自分の中の『民主主義』」が崩壊しなかったジャーナリストや政治家がいたら、彼らはもはやジャーナリストや政治家である資格がない。そのくらい重い問題提起を、私はしたつもりだ。
まだ前回のブログの読者が一向に減る気配を見せないが、このあたりでそろそろ書いておかなければならないことがある。財務省事務方トップだった福田前事務次官の「セクハラ問題」である。
セクハラ問題が世界中に広がったのは、米ハリウッドで燃え広がったme too運動がきっかけである。簡単に振り返っておくと、女優のアリッサ・ミラノ氏が有名な映画プロジューサーのハーヴェイ・ワインスタイン氏から性暴力被害を受けたことを告発し、同様の被害を受けたことのある女性たちに“me too”と声をあげるようツィッターで呼びかけたことから性的被害を受けた女性たちが「私も」「私も」と声を上げ始めたというわけだ。
報道などではセクハラとパワハラを別の次元で論じているようだが、私はセクハラはパワハラの1類型だと考えている。つまり異性に対する性的パワハラがセクハラなのではないか。題名や主演俳優の名前が思い出せないが(考えられる限りのキーワードでネット検索してみたが無理だった)、ハリウッド映画でセクハラをテーマにした映画があった。通常のケースと違って、男性の部下に女性の上司が性的関係を迫るという意外性が面白かったが、男性が女性上司のセクハラ会話を電話録音して女性上司を破滅に追い込むというストーリーだったと記憶している。
私が現役で仕事をしていた時代に取材で知ったことだが、アメリカに進出した企業の日本人トップが頭を抱えるケースのひとつとして、アメリカでは日本と違って直属の上司が部下に対する生殺与奪の権限を持っているという状況があるようだ。つまり自分の地位が脅かされるような有能な部下がいると、難癖をつけて首にしたり、窓際に追いやって仕事をさせないといったケースがあるというのだ。日本の企業では人事部が採用や異動、昇進を決めるが、アメリカは違う。そうした人間関係が社会の根底にあることを前提に考えないと、セクハラとパワハラの関係は理解できない。
私ははっきり言ってこれまで現役時代も、いまは職業ではないブログでも、個人のスキャンダルは書いたことがない。現役時代はいろいろスキャンダルの売り込みもあったが、私はすべて無視してきた。人間だれしも重箱の隅をつつかれればほこりが出ない人はいない。私自身清廉潔白な人生を送ってきたなどと言うつもりもないし、だから個人のスキャンダルを告発する資格など私にはないと考えてきたからだ。
そもそもこのブログシリーズ『小林紀興のマスコミに物申す』の目的も、「第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと…それが許せるか」である。テレビ朝日の女性記者に対してたびたび問題発言を繰り返してきた福田氏だが、いまだに「全体としてみればセクハラではない」と言い逃れようとしている。そのうえセクハラ事件として報道した週刊新潮に対して提訴すると息巻いている。福田氏は「名誉棄損で新潮社を提訴する」と主張しているが、実際に提訴するとなれば被告は新潮社の社長なのか、週刊新潮の編集長なのか、明らかにしてはいない。だいいち、福田氏を弁護する勇気ある弁護士がいるのだろうか。私はパスモ社や小田急電鉄を相手取って提訴したときは、弁護士に頼まず一人で闘ったが、福田氏にそんなことができるとは思えない。
いずれにせよ、公開された音声録音から考える限り、これがパワハラの一環でなければ、相手が接客業の女性でなくても「飲んだ席でのたわいのない戯言」の範疇に入るかもしれない。またテレビ朝日の女性記者も、たまたま居酒屋などで知り合った飲み友達の発言だったら、おそらくセクハラとは受け取らなかっただろう。「私のキスは高くつくわよ」などと冗談のやり取りで笑い合っていたかもしれない。
問題は、福田氏が女性記者との仕事上の関係を百も承知でキスを迫ったり、疑似性的行為に及ぼうとしたことだ。録音されたやり取りの中に「キスをすれば、いい情報をあげる」と受け取られても仕方がないような発言がある。そうした発言が出ること自体に、自分と相手との仕事上の関係を前提にしていることが明らかである。発言そのものはセクハラ的だが、これは明らかにパワハラでもある。もし福田氏が主張しているように、接客業の女性だったら「キスしてくれれば情報をあげるよ」などと言うわけがない。せいぜい「キスしてくれれば1万円あげるよ」で、これならセクハラにもパワハラにもならない。そのくらいのことが頭脳明晰なはずの福田氏には理解できないのだろうか。
一方、財務省に抗議したテレビ朝日側にも問題がある。女性記者がパワハラを伴うセクハラ(女性記者に、このセクハラはパワハラ抜きにはあり得ないという自覚的意識があったかは不明だが)について上司に報道すべきではないかと相談したとき、上司が下した判断「二次被害が生じる可能性があるから無理」とした点だ。私ならむしろ「二次被害を防ぐためにも報道すべきだ」という判断を下していた。ただ、「確実な証拠が必要だから今度取材のため会食するときは会話のすべてを録音しておくように」と指示していた(実際には女性記者はすでに録音していたが、そのことを上司には伝えていなかったようだ)。ここで問われるのは、テレビ朝日の「報道に値する公共的倫理性の有無」についての判断の甘さだ。アメリカ発の“me too”運動の社会性に対する無自覚さが厳しく問われるべきだろう。
次に自社記者の訴えに耳を貸さなかったテレビ朝日に、財務省に抗議する資格があるのかという疑問もある。まして取材で得た情報を第三者に提供したことについて「遺憾」とし、女性記者も「反省している」としたことだ。よくもまあ、そんな図々しいことが言えたものだ、と私は呆れた。
そもそも女性記者が週刊新潮にこの情報を提供したのは、テレビ朝日が無視したからではないか。ジャーナリストして何よりも重視すべきことは、自分が属する組織体への忠誠ではなく、真実と社会正義をあらゆる手段で訴えることだ。第三者に情報提供したことを問題視したこと自体、パワハラではないか。
今回の騒動で、私は毎日新聞の西山記者事件を思い出した。この事件は佐藤内閣が実現した沖縄返還に関し、公式発表とは異なる密約があったことを西山氏が外務省の女性事務官との不適切な関係を通じて知り、毎日新聞で報道する前に当時の社会党国会議員に提供したことで問題になった事件である。
西山氏が情報を得るために女性事務官にアプローチしたのか、それとも恋愛関係になった後で女性が西山氏にスクープ種を提供したのかは、今となっては二人の心の中にしまいこまれている本音を聞き出すしかない。ただ裁判の判決としては、西山氏が情報を得るために手練手管で事務官と不適切な関係を持ったことになっており、その結果、密約問題は吹き飛んで毎日新聞までも世論の袋叩きにあった。ジャーナリストの使命感と社会的倫理観の狭間が問われる事件でもあった。
西山事件との関連を含めて考えると、私はテレビ朝日の女性記者の勇気を称賛したい。彼女もメディアの世界で生きていれば、テレビ朝日の記者会見発表があってもなくても、時間の問題で週刊新潮に情報提供した人は特定されてしまう。それがネット社会の宿命でもある。実際、すでに彼女の氏名も、また彼女の上司の氏名もすでにネット上で暴露されている。そうなることを百も承知で彼女はあえて「巨悪」(とは言いすぎか?)に闘いを挑んだ。ネット情報によれば、彼女は既婚者で、夫もテレビ朝日の社員だという。当然、彼女は「巨悪」との闘い方について夫と相談していると思う。ご主人も、彼女の闘う姿勢を支持したのだろう。いい夫婦だなあ、と思う。
そもそもこの事件の根底にあるのは、巨大化した財務省の権限の大きさにある。皮肉な言い方をすれば、福田氏はたまたまその「巨悪」組織のトップに上り詰めてしまったため、自らの力の行使とは考えずに「冗談半分」(最大限、善意に解釈して)のつもりで風俗営業の接客女性と同一視して発してしまった言葉だったのかもしれない。だとすれば、「巨悪」化してしまった官僚組織の、彼も犠牲者という見方ができる可能性もないではない。が、だとしたら、そんな程度の思考力しかない人間を最強官僚組織のトップに任命した内閣人事局の政治責任が問われることになる。福田氏を財務省事務次官に任命したのは内閣人事局だからだ。
そもそも財務省は前身の大蔵省時代から、官庁中の官庁と言われてきた最強組織の「巨悪」化が問題にされてきた。いまでも語り継がれている「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」は贈収賄罪にまで至ったケースだが、この事件を契機に大蔵省は財務省と金融庁に分割されたが、それで財務官僚の権限が縮小したというわけではない。力の行使が、今回のセクハラ事件のような陰湿な形で継承されているとしたら、やはり一罰百戒のけじめをつける必要があるだろう。
前にもブログで書いたが、アメリカには「1ドル規制」という連邦公務員に対する厳しい規制がある。1ドルを超える接待を受けたら、その相手と自分の職務との利害関係がなくてもクビになるという厳しさがアメリカにはあるらしい。実際、私の学生時代の友人で、アメリカの大学を卒業した後、連邦公務員になった人がいて、たまたま日本に帰ってきたときに会食したことがある。会計のときに私が支払おうとしたら、「割り勘にしてくれ」と、頑として譲らない。そのときに彼から聞いたのが「1ドル規制」の厳しさだった。
私が「ここは日本だよ。日本で、学生時代の友だちからごちそうになったからといって、そんなことが問題になるわけないだろう」と言ったが、彼は「そういう気のゆるみが生じるから駄目なのだ」と言い張って、とうとう厳密に1円単位まで割り勘にしたことがある。
私はアメリカがすべて素晴らしいなどとは思ってもいないし、こんな自分勝手な国はないとすら思っている。しかし、アメリカの素晴らしい点の一つは社会的強者と社会的弱者を必ずしも対等には扱わないというスタンスが社会的規範として根付いていることだ。アメリカ人が重視する「フェアネス」は、力関係を無視した公平さを意味していない。とりわけ社会的強者の力の行使による犯罪に対しては、やりすぎではないかという批判がアメリカでも出るほどに手厳しい。私が『忠臣蔵と西部劇』(祥伝社、1992年上梓)で書いたように、野村証券がおかした経済犯罪(当時)は、アメリカだったら、おそらく倒産に追い込まれるほどのものだった。
そういう視点で考える時、麻生財務大臣の「福田の人権は考えなくてもいいのか」という身内意識丸出しの発言は、そういう感覚だけで大臣失格の烙印を押されても仕方がない、と私は思う。アメリカだったら間違いなくそうなる。
戦後日本に根付いた形式民主主義は、社会的強者と社会的弱者会を同列に扱うという、いびつな平等意識をはびこらせてしまった。福田氏から依頼を受けて新潮社のだれかを提訴するかもしれない弁護士ならいざ知らず、力を背景にセクハラ問題を起こした部下の人権を擁護するような大臣が、のほほんとして政権の中枢に居座っている現実に対して、どう「社会の木鐸」を鳴らし続けるかが、いますべてのジャーナリストに問われている。