小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

菅総理が掘った墓穴――「日本は法治国家ではない」と事実上宣言 片山さつきは国会議員の資格なし

2020-10-29 11:00:22 | Weblog
「学術会議国会」が始まった。12月4日までの短い臨時国会で、政府提出の法案は10件ほどで、与野党が激突するような法案は一つも含まれていない。必然的に予算委員会では会期中を通して学術会議問題を巡って紛糾する国会になることは間違いないだろう。
それにしても菅総理の初めての所信表明演説は聞くに堪えないほどの稚拙さだった。官房長官時代は1日2回の記者会見で、「いい悪い」は別にして、短い表現で記者の質問にずばずば対応していたのに、あらかじめ官僚が書いた原稿を読む段になると、こうも変わるものかと唖然とさせられた。単純な読み間違いが4か所もあり、また読み方も中学生レベルの、まったく抑揚のない棒読みで、自民党総裁になってから相当の時間があったのだから、アナウンサー教室にでも通って原稿の読み方くらい練習しておけばよかったのにと思いながら聞いた。
 それにしても、学術会議問題についての総理の発言の二転三転はいかがなものか。
① 学術会議が選考して推薦した会員(日本学術会議法7条を素直に読めば、その時点ですでに会員であり、会員候補者ではない)のうち6名を罷免(「任命拒否」ではなく、すでに会員なのだから「罷免」)した理由について「総合的・俯瞰的活動を求める観点から判断した」
② 記者たちから「罷免」理由を聞かれ「私は誰が外されたのか知らない。私のところに上がってきたとき、すでに会員名簿は99人だった」
③ 「では誰が6名を外したのか」と追及されたのに対して加藤官房長官は「105名全員の名簿もあげている」と総理発言を否定。
④ 自民党内のだれの入れ知恵かは知らないが、憲法15条を援用して総理の任命権を主張した時期があったが、憲法15条は一般公務員の選任・罷免権が国民にあるといっているのではない。憲法15条にはこう記載されている。
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
  
  つまり憲法15条でいう「公務員」とは国会や地方自治体の議員のことである。この条文を援用し「特別職の公務員である学術会議会員の任命権は国民の代表である総理にある」という主張は詭弁にもならない。さすがに政府もこの主張をうやむやにして引っ込めた。
⑤ 政府が次の段階で持ち出したのが「学術会議の在り方」論だ。これは私も正直、印象操作に騙された。政府が「学術会議は最近まったく答申も提言もしていない」と決めつけ、「10億円もの税金を使うのは無駄だ」と主張したことである。安倍前総理が国会で「私や私の妻が森友学園問題にかかわっていたら、私は総理も国会議員の職も辞す」と大見得を切ったことが原因となり、財務官僚が忖度を働かせて公文書の改ざんを部下に命じ、その作業をやらされた現場の公務員が慚愧の念に堪えかねて自死するという悲惨な事件があっただけに、もう政府もあからさまなウソはつかないだろうと私は思っていた。だから「任命問題」とは別に「学術会議の在り方」については検討すべきだとブログでも書いたが、政府にまんまと騙された。その経緯については前回のブログで書き、私は読者に謝罪している。総理や政府、官僚の辞書には「謝罪」という日本語が載っていないようだ。
⑥ そしてついに菅は居直った(もう菅は犯罪者扱いする)。所信表明演説では学術会議問題に一切触れなかったが、代表質問で追及されるや、それまでの前言を翻し「多様性が大事だということを念頭に任命権者として(6名の会員の「罷免」を)判断した」と居直ったのだ。加藤官房長官の証言によって「罷免」された6名を含む全105名の会員名簿に菅は目を通していなかったことがはっきりした。確かに総理は多忙であり、すべての書類に目を通すことは不可能かもしれないし、あるいはいちおう目は通しても重要な案件ではないと思い記憶に留めなかったということもありうる。そういう時は素直に「書類は届いていたのかもしれないが、申し訳ないが覚えていない」と頭を下げ、「改めて調査する」と言えば済む話だ。それを、今度は「任命権者として自分が判断した」とは何事か。
⑦ 確かに菅が言うように学術会議の会員が、一定の政治的思想に偏ることは民主主義の阻害要因になる。多様性は私も重要だと思う。「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りがみられる」との主張も、本当に菅が学術会議会員の全員について自ら調べてそう主張したのであれば、私も「その言やよし」と思う。だけど、その言もうかつには信じられない。本当に調査したのであれば、会員の偏りについて具体的に言ってみろ。言えないだろう。210名の会員の偏差について、民間出身者が何人で、若手(いちおう40代までと、私は考えるが)が何人しかいないとか、出身(意味不明)の偏りの具体性や大学の偏り(東大が何人、京大が何人…)と、説得力のある説明はしていない。実際には調べていないから、「偏り」を具体的に証明できないだろう。できるのならやってみろ。
⑧ 立憲の枝野代表が、憲法6条の「国会の指名に基づいて総理大臣を天皇が任命する」という規定との整合性から、日本学術会議法7条の「(会員は)学術会議の選考・推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する」との規定は「総理の任命権」を意味しないという主張に対して、菅のバカは「法文の文言のみで比較することは妥当ではない」と、法文解釈は権力者が恣意的に行っても差し支えないという致命的な判断を示した。総理大臣が、そういう発言をしたということは、そのこと自体で日本が法治国家ではないことを総理が宣言したに等しく、この一言だけで内閣不信任案が提出されてしかるべきだ。野党は一致して「法治国家とはどういう意味か、説明してみろ」と菅をつるし上げるべきだ。(※私は10月8日、『首相官邸に「物申した」――天皇が政治権力を持つことになる』と題したブログで、憲法6条との論理的整合性を問題提起している。憲法6条との法文解釈の論理的整合性を日本で最初に提起したのは、おそらく私だ)

【追記】学術会議会員の選考基準について
 まず会員の選考権は日本学術会議にしかないことを明確にしておく。そのことは日本学術会議法7条で明らかであり、そのことに疑念をさしはさむ余地はない。選考権が学術会議にしかない以上、総理の任命権はない。
 問題は菅氏が指摘したような選考に「偏り」があったかどうかである。当初のように選挙制ではなくなったため、選考に執行部の恣意性が反映されやすくなっているだろうことは十分予測できる。それだけに選考基準について日本学術会議法17条のような大まかな基準ではなく、内規でもいいから女性会員の割合、若手会員の割合、民間企業会員の割合、学問分野ごとの割合など、バランスが取れるような基準を作っておくべきだと思う。
 そのうえで、政府には新しい法案を国会に提出する前に緊急的な場合を除いて原則的に学術会議に諮問することを義務付ける必要もある。学術会議側は政府の諮問に対して偏った答申を避けるため、広く会員外からも意見を集め、法案のメリット・デメリットを両論併記して答申すべきである。薬の副作用と同様、いかなる法案もメリットだけではない。必ずデメリットも伴う。国会審議を効率的に行うためにも、学術会議があらかじめ論点整理しておけば、学術会議の存在意義は非常に重くなる。学術会議側にも現状に甘んじず、自ら改革の道を示してほしい。(30日)

【追記2】片山さつきは国会議員の資格なし
『朝まで生テレビ』を見た。コロナ禍で初めてスタジオでの開催だった。テーマは「コロナ禍での経済再生」だったが、司会の田原総一朗氏が冒頭で学術会議問題を取り上げた。ゲストの片山さつきがしたり顔で菅総理の任命権をぶった。片山は安倍第4次内閣で内閣府特命担当大臣(地方創生・規制改革・男女共同参画)に任命されたくらいだから、菅総理を弁護するのは致し方ない。
 が、こともあろうに片山は、自民党員ですら誰も言わなくなった憲法15条を持ち出し、しかも条文の冒頭部分をタテに総理に任命権があると主張した。このブログの本文部分でも憲法15条を記載したが(全文ではない)、念のため再度、冒頭部分を記載する。
「公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である」
 片山は、この冒頭部分をもって総理に任命権があると主張した。この条文にある「国民固有の権利」について「学術会議会員は特別公務員であり、したがって推薦された会員の一部を任命しなかったのは、国民から選ばれた国会議員の代表である総理の権利だ」とわざわざ講釈を加えてだ。
 百歩どころか千歩譲って片山説を前提にしても、この条文は総理の任命権を認めてはいない。この条文で「国民固有の権利」として認めているのは「公務員の選定」と「公務員の罷免」の二つである。だから片山説を前提にした場合、学術会議会員は菅総理あるいは安部前総理が選定していなければならない。が、日本学術会議法によれば、学術会議会員の選定権は学術会議にある(7条)。ということは、片山解釈によれば、菅総理あるいは安部前総理が、法律で定めた学術会議だけが有する権利を侵害したことになる。
 さらに、憲法15条が認めている、もう一つの「国民固有の権利」は、「公務員の罷免権」である。この場合の「罷免」とは、「学術会議会員資格のはく奪」を意味しており、片山説を前提にすれば、「総理が自ら選定した学術会議会員を、総理自ら首にする」ことを意味する。それ以外の解釈は不可能だ。
 実際、安倍前総理は自ら任命した大臣を、不祥事や失言を理由に自ら罷免してきた(表向きには大臣自身が「責任を取って辞任」という形式をとったが)。そしてその都度、「任命権者たる私の責任だ」と、安倍総理は潔く(?)自らの任命責任を認め、国会で謝罪してきた。この謝罪は国民に対してだ。
 その例に倣えば、菅総理は自ら105人の学術会議会員を選定し、その後、6名を罷免したということになり、「任命権があるから任命しなかった」という解釈は論理的に成立しない。憲法の条文について、その程度(高校生レベルかな?)の理解力もない片山には、国会議員の資格がない。口が達者だというのは、杉田水脈と同様、国会議員の資格ではない。(31日)




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臨時国会で大荒れ必死の日本学術会議問題についての考察

2020-10-23 06:45:15 | Weblog
26日(月)から40日間の日程で臨時国会が開催される。菅総理の初めての所信表明演説も行われる。果たして、何を語るか。
所信表明が終われば、与野党の代表質問が行われる。所信表明演説で菅総理が学術会議問題に触れることはないだろうが、野党側は腕まくりしているはずだ。

●私は謝罪しなければならない
22日19:02配信の朝日新聞デジタルによれば、22日、立憲など野党共同会派の面々が集まり、学術会議問題についての部会を開いたようだ。臨時国会冒頭から、この問題で大荒れすることは必至だ。菅総理も、日本学術会議が推薦した105名の会員「候補」のうち6名を任命しなかったことが、これほどの大問題になるとは、思ってもいなかっただろう。が、7年8か月、「1強」と呼ばれた安倍総理の官房長官として、安倍総理の「お友達優遇」がどれだけ社会問題化し、国会が空転する事態になったことを、菅氏は総理になった途端、もう忘れたのか。
日本人の特質として「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」があると言われるが、安倍さんが総理を辞任してもモリカケ問題や「桜を見る会」問題は依然としてくすぶっている。「お友達になれない人」を排除する姿勢も、「お友達優遇」の裏返しにすぎず、安倍スキャンダルの火消しに走り回った菅さんは、どんな教訓を得たのか。
ここで私は読者に謝らなければならない。日本学術会議の活動実態について、ほとんど何もしていないと断定し、「07年以降、一度も政府に答申していない」ことについては「政府からの諮問がないため」という学術会議側の説明については肯定しながらも、たとえ諮問がなくても自ら政策提言できることは日本学術会議法に明記されており、その権利・義務を行使してこなかったのは明らかに学術会議の怠慢であり、もはや学術会議の存在意義はなくなっていると断定的に書いた。メディアの報道を鵜呑みにしたこと、また実際に元学術会議会員がテレビのインタビューで「学術会議の会議ほどつまらないものはなかった。時間の無駄だった」という発言を真に受けてしまったこと、これほど情報が錯綜している問題で、私自身がある種の情報操作の罠にはまってしまったことを、読者の皆さんに深くお詫びする。
22日の野党共同会派の部会には、内閣府の日本学術会議事務局の職員や日本学士院を所管する文科省の職員も出席して、事実関係について説明したという(朝日デジタルによる)。事務方の説明によれば、学術会議は最近1年間に80件超の提言や報告を公表しているという。学術会議は法に基づく権利・義務を果たしているといわざるを得ない。「活動実態がない」と学術会議を糾弾してきた政府は、だれも学術会議の提言や報告に目を通していなかったということを意味する。
かつて「省庁中の省庁」といえば大蔵省(現・財務省)を指していた。いまや各省庁に君臨する中央官庁である内閣府が「省庁中の省庁」という位置づけになっている。日本学術会議は、内閣府に属する政府機関という位置づけになっている。その学術会議の提言や報告をだれが握りつぶしてきたのか。握りつぶした官僚(あるいは政治家)の責任は重く問われなければならない。
野党議員は国会で、学術会議が行った最近1年間分だけでも80件を超える提言・報告の一つひとつについて、内閣府のだれが、いかなる理由で握りつぶしたのかの追及を徹底的にすべきだ。

●政府は日本学術会議をなぜ活用しなかったのか
日本学術会議の位置づけについて、私は白紙に戻して考え直してみた。まず、日本学術会議は学問・研究の機関ではない。たった10億円の予算で実際に学問や研究活動が行えるわけがない。
では、日本学術会議が果たすべき役割はどうあるべきか。すでに日本学術会議法で「政策の答申・提言を行う」と定められている。が、07年以降、政府は学術会議に諮問をしていない。
例えば安倍前総理は第1次政権の時にすでに「安保法制懇」を総理の私的諮問機関として設置し、集団的自衛権行使容認への道を切り開いてきたが、従来の内閣法制局の「集団的自衛権は日本も固有の権利として認められているが、憲法の制約によって行使できない」という解釈の変更が可能か否かの諮問をまず学術会議に行うべきだった。日本学術会議はそういうケースのために設置された政府機関ではなかったのか。
集団的自衛権に関して言えば、唯一の国際法上のよりどころは国連憲章51条である。国連憲章は日本国憲法の原型ともいえる平和主義を国際関係の原則にしており、国際間の紛争の武力による解決を禁じている。その国連憲章が認めた武力行使容認のケースとして51条が設けられ、国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って自衛(自国防衛)のために行使できる武力手段として、「個別的(自国の軍事力、日本の場合は自衛隊)または集団的(親密な関係にある他国の軍事力、日本の場合は同盟国である米軍)自衛の固有の権利」の行使が認められている。つまり、片務的ではあるが、日本はすでにいつでも集団的自衛権を行使できることが日米安保条約によって保障されているのだ。
ただし、日本を防衛するのはアメリカの「権利」ではなく、日米安保条約に基づくアメリカの「義務」である。またアメリカに「日本防衛の義務」が発生するのは、日本が他国から違法な攻撃を受けた場合のみである。
安倍総理(当時)が、1973年の内閣法制局解釈がおかしいと思ったら、学術会議に諮問すべきだった。安倍さんの本来の目的は、内閣法制局の誤解釈を利用して米軍の軍事行動に日本が協力できるように法改正することだった。
だったら、安保条約を改定して、アメリカが違法な攻撃を受けた場合、自衛隊がアメリカ防衛の義務を負うように双務的なものに改定して、米本土にアメリカ防衛のための自衛隊基地を設置しろというのが私の論理的結論である。
安倍さんが、73年内閣法制局の解釈について、学術会議に諮問し、私の集団的自衛権についての論理的解釈を学術会議に示せば、学術会議は間違いなく私の解釈に軍配を上げただろう。
もし、学術会議が思想的に偏っていると政府が考えるのであれば、日本学術会議法を見直して会員の選考法について、思想的な偏りが生じないように法改正すべきだったのではないか。それが法治国家のあるべき姿だ。
学術会議に諮問もせず、提言や報告も無視しておいて、「活動実態がない政府機関に税金を10億円も使ったりするのはもったいない」とは、よく言えたものだ。

●日本学術会議は日本の研究開発の方向性を策定する参謀本部にすべきだ
私は日本学術会議の位置づけについて、学問・研究の参謀本部にすべきだと、いまは考えている。日本のスーパーコンピュータ研究・開発について、国会で「1番でなければなぜいけないのか、2番じゃダメなのか」と大演説した議員がいたが、日本の学問・研究の在り方について私はもっと戦略的であるべきだと思っている。
日本には無限に研究開発の人的・資金的余裕があるわけではない。私に言わせれば、「費用対効果」の観点、また日本が行える世界の未来への貢献はどうあるべきか、という観点から考えても、宇宙開発で米中ロと張り合うことより、スーパーコンピュータやips細胞の応用研究などに人的・金銭的資源を集中的に投下すべきだと考えている。
もちろん日本は自由主義国家だから、中国のように中央集権で戦略的な投資を行うことはできないが、少なくとも税金を投入して行う研究開発の分野選定については政府機関である日本学術会議が参謀本部として機能すべきだと思う。確かに宇宙にはロマンを感じるし、H1ロケット打ち上げで日本が宇宙開発競争に参入したときには、私も種子島に取材に行ったし、日本の宇宙開発技術レベルについて単行本を上梓もした。
政府は宇宙開発とりわけロケット開発の技術を、将来軍事転用する必要が生じたら、弾道ミサイル開発はすぐにでも可能になるという計算で宇宙開発を重要視しているのかもしれないが、どう逆立ちしてもアメリカやロシア、中国との競争に勝てるとは思えない。日本がいくら国威発揚だと力んでみても、世界が認めてくれるわけでもない。ロマンのために使える莫大な余裕資金があるなら、もっと必要なところに使ってほしいと思うし、赤字国債の乱発で膨れ上がった借金を少しでも減らしてもらいたいと思う。
日本学術会議には、学者だけでなく様々な分野の人材を集めて、日本の50年後、100年後のための研究開発の基本的方向性を策定する、参謀本部的な使命を持たせるべきだと私は考えている。

NHKは23日9:00になっても明後日(25日)の『日曜討論』のテーマを公表していない。こんなことは過去にはなかった。私の推測だが、これだけ社会問題化している学術会議問題を避けて通るわけにはいかないだろうという良識派と、いま政府に恩を売ってNHKの政府への要望を受け入れてもらった方が得だという非国民派が、おそらく一歩も譲らないのではないかと思う。

【追記】23日午後4時ころになってようやく25日の『日曜討論』のテーマをNHKが公表した。翌26日から開催予定の臨時国会をめぐって与野党が討論する。こんな当たり前のテーマの発表に、なぜこんなに遅れたのか。やはり、何とかふぃだいから学術会議問題を外したかったのではないか、と勘繰らざるを得ない。60分の放送時間のうち、どのくらいの時間を学術会議問題に割くか、NHKの政府への忖度度が明らかになる。(23日)

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菅新政権の「人気取り政策」は実現可能か?

2020-10-19 01:37:27 | Weblog
安倍政権の「負のレガシー」の検証記事を書き始めて2回目が終わった時点で学術会議問題が発生し、その問題をずっと追いかけているうちに、いまさら安倍政権の「負のレガシー」の検証を再開しても、という感じになった。
実は4回目まで原稿は完成していたのだが、そのポイントはすでに学術会議問題の記事の中で書いてしまった部分もあり、菅政権が取り組もうとしている課題の検証をしていく中で、安倍前総理が残した「負のレガシー」を継承している場合にあらためて触れることにする。
とりあえず、学術会議問題の今後だけ、簡単に触れておきたい。

●総理の任命権問題と学術会議の存続問題は別だ
 政府はあくまで学術会議会員の任命権はあり、「総合的・俯瞰的観点で判断した」という見解を維持している。が、総理の任命権は法律(日本学術会議法)上は「会員は学術会議が選考・推薦し、内閣総理大臣が任命する」となっており、任命権はあくまで形式的と考えるのが文理的解釈だ、というのが私の見解。
もし「内閣総理大臣が任命する」という表現が実質的に任命権の存在を意味するなら、憲法6条の規定により内閣総理大臣の任命権を天皇が有することになり、天皇は国民の象徴ではなく総理大臣の任命権を有する最高の政治権力者ということになってしまう。
法文の解釈は恣意的・ご都合主義的になされてはならず、憲法6条の「国会の指名に基づき、天皇が内閣総理大臣を任命する」は「天皇の任命権の存在を意味しない」と解釈するならば、学術会議会員の任命権も総理大臣にはないと解釈すべきである。法文解釈の整合性は法治国家にとって不可欠な要素である。
実は、法文解釈における任命権問題はないがしろにはできない重大事なのだ。たとえば、いま五神真・東大総長(任期は来年3月まで)の後任選考をめぐって東大内部で揉めているようだが、基本的に学長(東大の場合は総長)選考の手続きは大学の自治権に含まれる。が、東大をはじめ国立大学の学長は法律上では「文部科学省大臣が任命する」ことになっており、もしこの条文が「文科相に学長任命権がある」と解釈されると、大学の自治を認めた法律との齟齬が生じることになる。
このように法文解釈の整合性を「総合的・俯瞰的観点から判断」したら、学術会議会員の任命権は総理大臣にはなく、学術会議が日本学術会議法で定められた基準によって選出された会員の権利は総理大臣といえど侵すことはできず、当然総理大臣の任命権は形式的なものと解釈するのが妥当である。

この問題がこじれたのは政府が以前から学術会議の在り方について問題視していたことにあったようだ。
日本学術会議の前身は学術研究会議で、戦時中は日本における軍事研究の総本山だった。敗戦後、軍部の解体に伴い軍事研究も禁止され、1949年、GHQの助言によって平和的学問研究活動の拠点として日本学術会議が発足した。「軍事研究はしない」という伝統と、「学者の国会」と評価されるほどの権威はこうして生まれ、引き継がれてきた。
戦後の貧しい時期には、学問の砦として日本学術会議が果たしてきた役割は決して小さくなかったが、日本の経済復興とともに日本における学問・研究の場も拡大し多様化していった。国立の研究機関や大学の研究所、民間の研究機関も充実し、日本学術会議そのものの権威も形骸化していったことは否定できない。いま日本学術会議には10億円余の国家予算が投じられているというが、本当に「学者の国会」として日本の学問・研究活動の総本山としての活動を維持するとすれば、10億どころか数百億、数千億の国家予算を投じても過分ではない。実際、10億程度の予算で、何ができるのか、疑問が生じる。たとえば、新型コロナの治療法やワクチン開発に、日本学術会議がいかなる貢献をしているのか、まず私はそれが知りたい。
日本学術会議の活動実態は、報道によれば、ほとんどないようだ。会員に選ばれることが文化勲章や国民栄誉賞のような名誉のためだとしたら、そんな組織は必要ないと思う。学者たちが金を出し合って、勝手に権威付けをしあうのは自由だ。そんな権威など、外部には通用しないだろうが…。
日本学術会議法には、政府は学問的立場から政策について学術会議に諮問できるとあるが、07年以降、政府からの諮問はないという。その理由は政府に説明責任があるだろう。だが、「諮問がないから」という学術会議側の抗弁も説得力に欠ける。日本学術会議法には「政府に政策の勧告することができる」という記載もある。が10年以降、勧告は一度も行われていない。そのことについて、私はすでにブログで、この学術会議の怠慢については指摘しているが、「勧告」という重い権利も行使できなくなった組織はもはや賞味期限切れと言っても差し支えないだろう。いまさら梶田会長が菅総理との会談で「これからは頑張ります」と約束しても、組織存続のための言い訳でしかないように聞こえる。

なお学術会議やメディアの一部から行われている「憲法で保障された『学問の自由』に対する侵害だ」という批判も的外れだ。任命を拒否された6名の学者が安保法制や共謀法に反対の考えだったとしても、彼らが自分の思想に基づく学問・研究の機会を奪われたわけではない。だいいち、学術会議自身が与えられた「政府に対する勧告の権利」を放棄しているのだから、会員がどんな反政府思想の持主であっても、政府にとっては怖がる必要もなければ排除する必要もないからだ。「学問の自由に対する侵害」という批判はこじつけに過ぎない。その程度の批判しかできないところに、学術会議の存在意義が問われていると考えるべきであろう。
ただ、ネットで調べてみると似たような科学者団体がほかにもあるようだ。省庁横断的な政策提案を目的とする「総合科学技術・イノベーション会議」(内閣府所管 国家予算450億円)があり、独立法人の「日本学術振興会」(国家予算2600億円)、基礎研究を行う「科学技術振興機構」(国家予算1000億円)などもある。私には日本の科学技術行政が「屋上屋を重ねる」状態に見えてならない。既得権益を一切排除して、効率的な科学技術行政にしてほしい。「過去の慣行にとらわれず行革を推進する」というのが菅総理の一枚看板なのだから。
だが、それならそれで6名だけ任命拒否などという姑息な手段を使わず、いったん全員の任命を棚上げするか全員任命したうえで、過去の慣行にとらわれず効率的な学問研究
行政の在り方を全面的に見直すようにすべきだろう。
ピーターの法則「あらゆる組織は無能化する」
パーキンソンの法則「あらゆる組織は肥大化する」

●ハンコ廃止を公務員の生産性向上につなげよ
よく知られているように、日本の労働生産性は世界各国に比べてかなり低い。2019年11月にOECDが公表したデータによれば、日本の1時間当たり労働生産性は46.8ドルで、OECD加盟36か国中21位だ。いわゆる先進国とされているアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、日本の7か国では断トツの最下位だ。「何でも1位であることはいい」などとは言っていられない。1位でも下から数えての順位だからだ。とくにショックだったのは、アメリカの労働生産性が1時間当たり74.7ドルで、日本の1.6倍も高いことだ。
なお、各国の労働生産性を単純にドル換算すると、算出時の為替相場によって誤差が生じるので、OECDは購買力平価で算出している。
かつて日米貿易摩擦が火を噴いた時期、アメリカは日本の非関税障壁を散々問題にした。アメリカは何でも自国の基準が最高だと思っている国だが、自動車の排ガス規制に世界で最初に乗り出したのもアメリカだった。地球温暖化に歯止めをかけるパリ協定にソッポを向き続けている今のアメリカを見るとき、これが同じアメリカかと「不思議の国のアリス」になったような気がする。
アメリカが自動車の排ガス規制に乗り出したのは1970年。この年3月、上院議員のマスキー氏が大気浄化法を議会に提出、喧々囂々の議論の末、同年末に採択され、翌71年6月に施行された。通称「マスキー法」と言われている。
これを受けて日本でも排ガス規制問題が生じた。日本ではトヨタ、日産の2大メーカーが猛烈に反対したが、川崎を中心とする京浜工業地帯の公害問題や、いまでは死語になってしまったが「光化学スモック」問題もあって環境庁が排ガス規制に乗り出し、当時としては世界一厳しいと言われた「53年規制」に踏み切った。
実はアメリカでマスキー法が成立したのは、アメリカ独特の政治事情がある。日本ではアメリカの下院に相当する衆院が優位だが、アメリカは上院が優位な仕組みになっている。アメリカの上院は人口に関係なく各州2人が上院議員になる(計100人)。トランプ氏のようなケースは異例中の異例で、通常、共和党にしろ民主党にしろ有力州の知事か上院議員が大統領候補になる。だからアメリカの自動車のメッカと言われるデトロイトがあるミシガン州選出の議員がいくら頑張っても、消費者が多い州の議員に勝てないのだ。
それはともかく、日本の自動車王国、豊田市の治安は極めていいが、デトロイトはもともと失業率・貧困率が高く、「犯罪都市」と言われるほど治安も悪い。当然デトロイトで働く自動車産業の労働者のレベルも低く、アメ車を買った日本人が運転しているとカラコロカラコロ音がするので、整備工場に持ち込んだら中からコーラの空き瓶が出てきたという、笑うに笑えない話が当時あった。
そういう話を知っている私としては、有能だと思っていた日本人労働者の生産性がアメリカの6割でしかないという現実を突きつけられて、本当にショックだった。
この日本人の労働生産性の低さを、果たして「ハンコ革命」で解決できるのか。日本の労働生産性を低くしている要因の一つに公務員の仕事ぶりにあるとは私も日ごろから感じていたので、ハンコをなくすことで公務員の仕事が劇的に効率化することを期待したいのだが…。
この記事を書いているとき(17日午後)、河野行革担当相が「こより閉じ」の慣習を廃止したというニュースが飛び込んできた。官公庁では数枚の書類を閉じるのにホッチキスではなく、千枚通しで穴を開け、こよりで閉じるという、お話にもならないような慣行が官公庁では続いていたようだ。
ついでにその日の朝のテレビ番組では元女子アナが、リモート生出演していた河野大臣に「日本にはハンコ文化があって、例えば人生の大切な節目である婚姻届けからもハンコを失くすのか」とばかばかしい質問をしていた。河野氏は苦笑いしていたが、実際「ハンコ文化」なる日本の伝統を声高に叫ぶ輩もいるが、ハンコを押した書類は自分の手元には残らない。別に私は婚姻届けからもハンコを排除すべきだと主張しているわけではないが、ハンコを押した婚姻届けは役所に提出され、戸籍の手続きが済んだら何年後かに処分されるはずだ。婚姻届けが手元に戻ってきて、額縁にでも入れて、夫婦喧嘩をした時額縁を見て仲直りする習慣ができるのであれば、それはいいことだと思うが、肝心の婚姻届けは手元にはない。「ハンコ文化」なんてたわごとは、ハンコを商売にしている連中の身勝手でしかない。
※なお、ある弁護士がネットで婚姻届けや離婚届からもハンコを失くしたほうがいいと主張していた。婚姻届けも離婚届も実印である必要はなく、ねつ造が可能だというのだ。ハンコを廃止すれば、当事者の本人確認の書類が必要になるから、ねつ造した婚姻届けや離婚届を役所に提出することが難しくなるというのだ。ごもっとも。なお元女子アナとは河野恵子氏である。

●郵政民営化がかんぽ生保の不正販売を生んだ理由
 前回のブログの【追記4】(17日)で、郵便物の配達を土日を除く週5日体制にすることになったと書いたが(正確には「時事通信のネット配信で来秋から郵便物の配達を週5日にすることが決まったというニュースがあった」と記載)、
まだ決定したわけではないようだ。実はネットで検索して分かったのだが、昨年8月にいったん政府は土曜日の配達を廃止する郵便法改正案をまとめ、秋の臨時国会に提出、今年秋から土曜日配達を辞めることにするつもりだったようだ。が、「桜を見る会」問題で国会が紛糾し、見送られたという事情がある。時事通信の配信記事がちょっと先走った感がある。
 それはともかく【追記4】で私が主張したことは、郵便配達の全国一律ユニバーサル・サービスを義務付けられたことが、郵便局員のかんぽ生保不正販売の原因になったと私は考えており、日本郵便も民間企業になったのだから集配体制についてもコスト・パフォーマンスを重視した体制にすべきだと主張した。
私自身、年賀状もやめたし、よほどのことでない限りはがきや手紙を出すことはない。文字でのやり取りが必要な場合はほとんどメールで行っている。郵便物の集配需要が激減しているのに、集配のユニバーサル・サービスが義務付けられ、郵便料金はコストに見合った料金改定も政府(総務省)の許可なしにはできず、郵便事業の赤字体質を穴埋めするため郵便局員がかんぽ生保の不正販売に走らざるを得なくなったのは当然の帰結であり(不正販売を容認しているわけではない)、小泉郵政改革の「負のレガシー」だと私は考えている。だから、郵便料金を大幅値上げするか、需要に応じて週3回の地域、週2回の地域、週1回の地域と集配体制を効率化すれば、かんぽ生保の不正販売などしなくても済んだはずである。
実際、中曽根内閣の時、国鉄を民営化したが、JRは赤字のローカル路線の大半を廃止するか第3セクタ-化した。それに電車の運行本数も需要に応じて大幅に削減した。なぜ郵便物だけ大都市も地方の過疎地も同じ集配体制を義務付けたのか。国営であれば、大都市の住民も過疎地の住民も同一のサービスを提供できるが、民営化しておきながら国営企業のような全国同一サービスを義務付けるというのは、その基本設計自体が間違っていたといわざるを得ない。電話の場合は交換機を経由するから市内料金と市外料金(電車運賃と同様の距離制料金)を採用できるが、ポスト投函のはがきや手紙の場合は配達距離による料金差をつけることが不可能だ。だから、郵便事業の赤字化を防ぐためにははがきや手紙の料金を大幅に値上げするか、さもなければ集配体制を自由化するしかなかったのである。
そういうことを当日、日本郵便に申し上げておいたが、携帯電話料金問題については真逆の状態にあり、16日、総務省にある提案をした。その内容を書く。

●菅総理の「思い付き政策」は人気取りのためか
 菅総理が具体的な政策として打ち出したのが、不妊治療の保険適用と携帯電話料金の値下げ要求である。行政改革については具体策は何も示していない。
 不妊治療の保険適用は少子化対策のためと考えられる。私は別に反対はしないが、健康保険は病気を治療するための制度だ。不妊治療を健康保険の対象にするには「不妊の原因が病気である」ことの科学的証明が必要になる。菅さんは厚労省の健康保険担当官僚に健康保険適用が法的に可能かどうかを確認したうえで発言したのか、それとも女性の人気取りのための思い付き政策だったのかは、いまのところ不明だが、もし健康保険の適用ということにすると介護保険との整合性が問われることになる。おそらく、この観点からの問題提起は私が初めてだと思う。
 日本で介護保険制度がスタートしたのは2000年4月1日からである。私の記憶では、最初は健康保険と同様銀行口座からの引き落としで支払ってきたと思うが、いまは健康保険も介護保険も年金から自動的に引かれている。私はまだ介護認定を受けていないが、そろそろ区役所に相談に行こうかと考えている。
 区役所で説明してもらわないとわからないことが多いが、ただ歳を取って掃除・洗濯や料理が面倒臭くなったという程度の理由では要介護の認定は受けられそうもない。要支援との違いも分からない。交通事故で手足が不自由になったとか、認知症で日常生活に支障をきたすようになったという明確な理由があれば認定も容易だろうが、その場合でも健康保険ではなく介護保険という別の保険制度の対象になる。
 そう考えると、不妊が病気でないとしたら(病気だったら、とっくに健康保険の対象になっている)、医療の専門家の判断ではなく総理判断で不妊は病気だと決めることになる。介護保険と同様に不妊治療保険という保険制度を作るのなら別だが…。
 
私に言わせれば、官がやることはなんでも遅い。遅いというより、問題が生
じてから初めて考えるという体質になっている。先読みして失敗したときの責任を取りたくないからか。
 日本の携帯電話料金が高いという話はかなり前からあった。ソフトバンクの孫社長が携帯電話事業に参入するときも、「日本の携帯電話料金は高すぎる」と参入理由を述べていた。が、ドコモやKDDIに説得されたのか、やっぱり儲けたかったのかは知らないが、結局、足並みを揃えてしまった。ユーザーを囲い込むための「4年縛り」とか「2年縛り」も足並みを揃えた。東日本大震災の後だったと思うが、テレビのCMで「ソフトバンクの携帯が一番つながりやすい」とPRした時期がある。私はソフトバンクに電話をして、「このCMはまずい。つながりやすいのはソフトバンクのユーザーが少ないため、政府から割り当てられた電波帯に余裕が生じているだけのことで、ソフトバンクの経営努力や技術力のためではない。だからCMを信じてユーザーがどっと増えたら、ソフトバンクの携帯が一番かかりにくくなる。わかっているんだろうね」とクレームをつけたことがある。当然、ソフトバンクはCMをやめた。
 実際携帯電話3社と総務省はこの間ずっと闘ってきたといっていい。私は妥協せず攻めまくった高市前総務相を高く評価している。世界主要都市の料金との比較調査を継続的に行い、携帯電話会社にしばしば値下げを迫ってきた。菅氏が官房長官時代に「日本の携帯電話料金は4割値下げできるはずだ」と記者会見で発言したことがあったが、その根拠となるデータも高市氏のもとで総務省が調査したものだ。
 今年3月時点での主要6都市の料金比較でも、東京が一番高いという結果が出た(※調査対象は各国シェア1位の事業者で20GBプランの場合。日本はドコモ)。料金の高い順から転記する。
① 東京8175円 ②ニューヨーク ③ソウル6004円 ④デュッセルドルフ(ドイツ)4179円 ⑤パリ3718円 ⑥ロンドン2700円
もっとも、日本の携帯会社に言わせれば、いまは利益が出ているが、G5,G6に対応するための設備投資が膨大になるため内部留保が必要だからだという。また日本ではどんなへき地でも電波が届くように全国にくまなく基地局を作ってきたため設備投資がかさみ、それが料金に反映されているとも。
実際、ネットに投稿されている記事のなかには「日本の使い勝手は世界最高」というのがあるのは事実だ。海外に行くと日本の使い勝手の良さ(どこにいても電波が届く)を感じるという記事も見かける。その記事の書き手が冒険家・探検家ならわかるが、仕事で主張した人なら、果たして携帯が使えないような場所に行くだろうかという疑問は残るが…。

●携帯電話料金を安くする方法はこれしかない
実は、これから書くことは総務省の担当者には電話で伝えてある。担当者は
「携帯電話料金の値下げ問題については、ドコモに対抗する携帯電話会社を国が作れなど、いろいろ国民から提案をいただいているが、あなたの提案が最も合理的だと思う」と言ってくれた。が、電話の途中で割込みが入ったため、やや中途半端で終わった。
 私の提案は携帯電話会社事業と、携帯電話のインフラである基地局事業を分離し、基地局は国が設置するという体制にすることである。ただし、国が設置する基地局の運営は、全国をいくつかの地域に分けて(例えば北海道・首都圏・首都圏以外の東日本・西日本・四国・九州)民間に委託する(地域ごとに入札を行い民間企業に運営させる)。携帯電話会社への電波割り当て制は廃止し、まったく平等な競争条件で料金・サービスの競争をさせる。だから、東日本大震災の時のように、ある地域で携帯使用が許容量を超えたら、空きが出るまでどの携帯電話も使用できなくなる。「つながりやすさ」の差別化はできなくなる。
 固定電話の場合も、NTTの電話網(もともとは電電公社の電話網)をKDDIやソフトバンクが借りて事業を行っている。同様に通信など、巨額な設備投資が必要な社会インフラを、民間がそれぞれ自前で作れというのは必ずしも効率的ではない。
「官の仕事は非効率だ」という思い込みがあって、「民ができることは民に」という行革思想が定着してしまったが、BSやCSのように放送衛星を打ち上げる民間会社があって、その衛星会社が各放送局にチャンネルを貸すというプラットホーム・ビジネスを民間企業が行うのならいいが、携帯電話事業の場合はNTTが始めた自動車電話からスタートしており、携帯の時代に入っても衛星放送のようにテレビ局が一斉に衛星を利用するというような経緯にならなかったことが、きわめて非効率な設備投資を各社が別々にしなければならない状態になった。
 そういう意味ではG5やG6という新たな巨額の設備投資を要する時期に差し掛かったことは、基地局というインフラ整備を国が行うことによって携帯会社の設備投資負担を軽減し、競争条件を公平化する絶好のチャンスでもある。そうすれば、携帯電話会社間で料金とサービス、ユーザーの利用目的に応じたプランの開発をめぐってフェアな競争ができるようになる。
 ただ、携帯電話料金を引き下げろと上から押し付けるのではなく、フェアな競争ができる条件を整えながら、料金の引き下げにつながるような施策を行うのが政府の使命ではないか。
【特別追記7】19日現在、依然としてNHKからの回答はない。

【特別追記】19日、再度NHKに問い合わせに対する回答を要求した結果、ようやく同日午後6時ころ、以下のような回答があった。
「日曜討論では、様々な政治課題をテーマに、与野党同席による討論や、専門家による討論、個別インタビューなど様々な形式で放送を行っています。
今回(10月11日)は、政府内で具体的な検討が進行している「不妊治療の保険適用拡大」について、保険の適用対象や範囲、治療をめぐる現状と課題、そして必要な少子化対策などについて考えるため、田村厚生労働大臣と専門家による討論を企画しました」
 はっきり言っておくが、不妊は病気ではない。菅総理は安倍総理と同様、総理になれば憲法も法律も自分の意のまま、好き勝手に恣意的解釈で変更できると考えているようだ。
 私は厚労省にも問い合わせたが、「不妊は病気ではないから、いくら総理のご発言でも健康保険の対象にするのは難しいと思います。厚労省としては従来、助成金で扶助しており、助成金の引き上げを検討することになると思います」との回答を得ている。
 私自身は少子化に歯止めがかからない現状で、子供が欲しいと願っている夫婦には、少子化対策として国が支援することにはむしろ賛成の立場だ。が、菅総理の思い付き的な「不妊治療に保険を適用する」という発言には、二つの重要な問題があると考えている。
 一つは言うまでもなく、不妊は病気ではないから治療に健康保険を適用することは法律違反になるということ。総理が自ら法律違反をやると公言したことが、これまで学術会議問題に隠れて追及されてこなかったことも重要な問題である。メディアや野党の無能さのためだ。
 もう一つは、やはり菅総理の発言だが、個人と地域社会、国や自治体といった公的機関の関係について「自助、共助。公助」と順番を付けておきながら、不妊治療に関しては自助も共助も通り越して公助を優先した腹黒さだ。はっきり言えば、選挙で女性票を増やしたいだけの発言だろう。
 10月11日と言えば、国会の閉会中審議で紛糾し、またNHKを除くあらゆるメディアが大騒ぎをしていた(今でも騒ぎが収まる気配すらないが)学術会議問題をわざわざ避けて、まったく政治問題化していない「不妊治療の保険適用」をテーマにして、田村厚労相を「お招き」してまで「日曜討論」をしなければならなかった理由は何だったのか。
 私が指摘した菅発言の二つの重要な問題を抉り出して、菅政権が発足早々に生じた学術会議問題と並ぶ重要な法律違反であり、かつ菅総理自身が最重要視した「自助」を自らひっくり返すようなことをやろうとしている意図を、公共放送として明らかにする必要があると判断し、田村厚労相に問題提起したのであれば、私はわざわざNHKに質問をぶつけたりしていない。(20日)

【追記】 昨日(20日)、文芸春秋社から1冊の新書が緊急出版された。題名は『政治家の覚悟』。著者は菅義偉とある。言うまでもなく、いまの内閣総理大臣である。
ただし、書下ろしではない。民主党政権時代の2012年、政治家としてまだ無名だったころに出版された『政治家の覚悟 官僚を動かせ』の改訂版である。菅氏が自民党総裁選の本命視されるようになった8月末ことから、ネット・オークションに出品されるようになり、高額で取引されるようになってネットでは話題になっていた。
12年に出版された本は、100%とまでは言いきれないが、99.99%自費出版だったと思う。出版不況で、文芸春秋社や新潮社、講談社といった一流出版社も、よほどの有名人でなければリスクが高い企画出版はしない。とくに無名の政治家が書いた本は、「内幕暴露」ものでもなければ、手を出さない。
出版社が儲かることが確実視できるケースしか、出版社は危ない橋はわたらない時代に、当時もうなっていた。99.99%自費出版だっただろうと書いたのはそういう事情を知っている人間だからだ。
だけど、私は自費出版が悪いとは思っていない。とりわけ政治家が自らの政治姿勢・信条・政策を、自費を使ってでも有権者に訴えることは悪いことではないと思っている。とくに菅氏の場合は、無名だった時代から高邁な「政治家の覚悟」を初版本では語っていたようだ。
菅氏は、民主党政権時代に起きた東日本大震災に関して、政府の議事録保存状態を批判し、「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です。その作成を怠ったことは国民への背信行為であり、歴史的な危機に対処していることへの民主党政権の意識の薄さ、国家を運営しているという責任感のなさが如実に現れています」と、文書管理の重要性を訴えていたという。
毎日新聞によれば、菅氏が官房長官時代だった17年8月8日の記者会見で、加計学園問題に関する議事録公開に関連して、朝日新聞の記者が同書のこの部分を読み上げ「これを書いた政治家は誰かわかるか」と質問したのに対して、菅官房長官(当時)は「知らない」としらばくれたらしい。
今回改訂出版された『政治家の覚悟』には、この箇所がすっぽり削除されたという。菅総理の「政治家の覚悟」がどの程度の覚悟かが透けて見える。ま、人間だれしも年を取ったり、立場が変わると考え方も変わるという好例として、好意的に受け止めることにしよう。(21日)


【追記2】不妊って、病気なの?
菅総理が総理になって、いくつか公約をした。公約の趣旨自体は、賛成できることが多いが、副作用もあることを、この際、指摘しておく。野党やメディアは、いかなる政策でも薬と同様、必ず副作用があることを指摘し、どうやったら副作用を軽減しつつ効果をできるだけ高めるかを考え、政府に「物申す」姿勢が必要だ。薬の場合は必ず「注意書き」として副作用の記載が法律で義務付けられているが、政治家の公約や政府の政策については、なぜか副作用の記載が義務付けられていない。
菅公約について、とりあえず私が気付いた副作用の可能性について指摘しておく。
① 「ハンコ廃止」について――これは大賛成。たぶん副作用はほとんどないと思う。実際サイン・オンリーの欧米で問題が生じているだろうか。日本の「ハンコ文化」の一つに実印には上下の印をつけないという慣習がある。これは重要な書類に実印を押す場合、ハンコの上下を確認することで、「この書類に実印を押していいか、もう一度考えろ」という意味だと聞いている。たぶん「ハンコ廃止」でも実印廃止まではいかないと思うので、とくに役所での「無駄な書類のたらい回し」がなくなるだけでも公務員の労働生産性はかなり上がると思う。
② 「デジタル庁」の新設――これはどこまでデジタル化をやるかによって異なる。まずペーパーをなくすということには基本的に大賛成。政治家の都合による官僚の深夜業務が激減する。私も現役時代を思い出しているが、どんなに締め切りに追われても徹夜で原稿を書いたことは一度もない。徹夜仕事は、ロボットではないから身体も疲れるし、頭の働きも鈍くなる。3時間でも寝れば、かなり身体も頭もリフレッシュできる。書類作成などの業務をすべてデジタル化すれば、官僚も役所で待機している必要がない。家で休んでいて、急に書類作成の要請が生じても家で作成できる。必要なデータ類はすべて書類に当たらなくてもパソコンで取り寄せればいい。ただペーパーのいいところは記録として確実に残ることと外部からのアクセスが不可能なこと。デジタル化を進める場合、データを更新・改ざんしても原データの消去ができない仕組みにしてほしい。また外部からの不正アクセスを防ぐ仕組みを常に改良し続けることが重要だ。
③ 縦割り行政打破について――これも基本的には賛成だが、縦割り行政は責任の所在が明確になるというメリットもある。これもどこまでやるかという話になるが、責任の所在が不明確になると、いざ問題が生じたとき省庁間での責任のなすりつけ合いが生じるリスクがある。すでに安倍政権の時、内閣府に担当大臣制を導入して二重行政体制になり、肝心の担当省庁が無責任状態に陥った。たとえば西村氏が経済再生担当相と新型コロナ感染対策担当相という、相反する政策の最高責任者になり、メディアは西村氏について、緊急事態宣言解除までは「新型コロナ感染対策担当相」という肩書で紹介していたが、解除後はコロナ対策の発表をしているときでも「経済再生担当相」の肩書で紹介していた。NHKには何度か「おかしいよ」と注意したが、いまでも肩書矛盾は続いている。責任の所在が不明確にならないようにしながら縦割り行政をどこまで打破できるか、政治の力量が問われることになる。
④ 「不妊治療」の保険適用――こんな馬鹿げた話は聞いたことがない。菅さんはこの政策、厚生官僚や医療の専門家に事前に相談したのかね。医療現場は大混乱する。不妊治療に健康保険を適用するという場合、不妊が病気の一種ということを政府が認めることを意味する。不妊が病気の一種ということになれば、認知症も病気、アルコール依存症、たばこ依存症、パチンコ・競馬などあらゆるギャンブルの依存症なども病気ということになり、健康保険で治療する必要が生じる。タバコはすったもんだしたあげく、肺がんの1大原因ということで禁煙治療が保険対象になった経緯があるが、不妊治療を保険で、というのはいくらなんでもめちゃくちゃ。少子化対策のためということなら、現在の助成金制度を拡充すれば済む話だ。この政策は効果より副作用の方がはるかに大きい。

このように、政策の効果と副作用を検証し、ただ副作用をあげつらうだけでなく、いかに副作用を軽減しつつ効果の最大化を図るかを野党やメディアは考えるべきだろうと思う。(21日)






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日本学術会議問題で大混乱に陥った政府と、この問題から逃げ回るNHK 毎日【追記】あり   

2020-10-12 04:44:30 | Weblog
 日本学術会議会員の任命問題をめぐって、国会閉会中審査でもメディアでも大騒ぎになっている。
 日本学術会議の会員の定員は210名で任期は6年、うち半数の105名が3年ごとに改選されることになっており、新会員については日本学術会議法(法律)の第7条2項に「会員は第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」とある。
 これまでは学術会議の推薦が拒否されたことはなく(欠員補充の推薦がたなざらしになって欠員が生じたままだったことはある)、推薦者を菅総理が「任命権」を行使して105名の推薦者のうち6名を任命拒否したのは初めてである。 
この問題をめぐっててんやわんやの騒ぎになったのだが、様々な問題が混同して論じられているので、整理しておこう。

●「総合的・俯瞰的判断」の基準は阿弥陀くじか
いま最大の論点になっているのが「任命拒否された6名の学者について、拒否した理由を明らかにしろ」というのが批判する側の最大の論点になっている。
この批判に対して菅総理は「総合的・俯瞰的判断による」としか答えていない。判断の基準が「総合的・俯瞰的」と言われて納得する人は政府内にもいないだろう。「俺が総合的・俯瞰的に考えて判断した」で通る社会はありえない。
たとえば裁判の判決理由で、裁判官が「総合的・俯瞰的に判断して被告を死刑に処す」などという判決を下したら、即その裁判官は首になる。
大学の入学試験で合格基準を「総合的・俯瞰的」にすることもあり得ない。
しかも「総合的・俯瞰的に判断した」はずの菅総理が初めて見た新任会員名簿はすでに6名を排除した後の99人の名簿だったというから、菅総理が判断する余地はなかったことになる。それでも「自分が判断した」と言い切るのだから、おそらく内閣府の担当官僚に阿弥陀くじでも引かせて不採用者を決めたのだろう。その理由は「推薦者全員を任命してきた従来の慣習を打破するため」のようだ。そう考えると、不採用になった推薦学者は不運だったというしかない。ま、宝くじに外れたと思って諦めるしかないのだろう。

が、ちょい待てよ、と言いたくなる。阿弥陀くじで重要な人選を決めるような人が総理大臣になっていいのか。総理大臣の最初の大仕事は閣僚の任命つまり組閣である。組閣については各派閥から国会議員当選回数や見識などを基準に推薦がある。その推薦者の中から総理が「総合的・俯瞰的判断」という名目の阿弥陀くじで閣僚を選んでいるのかという疑問すら生じる。ただ、この阿弥陀くじの対象者は各派閥から推薦された中から選ぶという「従来の慣習」に従っているようだが…。
ま、菅総理が105名の推薦学者全員の名簿を見たことがないというのだから、総理自身が「自分に任命責任がある」という以上、6名の学者を外した理由を内閣府の担当官僚に聞くべきだろう。実際記者インタビューで「排除された学者たちは全員、安保法制や共謀法など政府の法案に反対した人たちばかりだ。それが排除の理由か」と聞かれ、「それは絶対ない」と言い切った。ということは、やはり人選した官僚から6名の排除理由を聞いているはずだ。常識的に考えればの話だが。もっとも常識が通用しない人なら別だが、そうだとすればとんでもない人を国会は内閣総理大臣に指名し、天皇はそういう人を任命してしまったことになる。
いうまでもなく、学術会議会員は内閣総理大臣が「任命する」という学術会議法7条の規定を「総理に任命権と任命責任がある」と政府は法解釈をしている。ならば、これまでも何度もブログで書いてきたように、憲法6条の規定「天皇が内閣総理大臣を任命する」という条文も、「天皇に総理大臣の任命権があり、任命責任も天皇にある」と解釈しなければ法解釈の整合性が崩れる。阿弥陀くじで人事を決めるような人物を内閣総理大臣に任命した天皇の任命責任を問わざるを得なくなる。
誤解されると困るので、私は天皇の任命責任を問え、と主張しているのではない。私が言いたいのは、学術会議法7条によって菅総理に学術会議会員の任命権と任命責任が生じるならば、憲法6条によって天皇に内閣総理大臣の任命権と任命責任が生じるのでなければ法解釈が権力によって恣意的に行われる危険性を指摘しているだけだ。もっとも安倍前総理自身が従来の内閣法制局の解釈を変更して安保法制を強行成立させており、菅総理は「安倍路線の継承」を公言しているから、そういうことだけ「慣行に従った」わけか。「ご都合主義」とは、菅さんのためにある言葉だったようだ。

●NHKが学術会議問題から逃げ回る理由
11日にはテレビで対照的な討論番組が三つあった。NHKが午前9時からの『日曜討論』と午後9時からの『NHKスペシャル』。そしてBSテレビ朝日が午後6時からの『激論クロスファイア』である。
が、いま最も世間をにぎわしている学術会議問題をテーマにしたのは田原総一朗氏が司会を務める『激論クロスファイア』だけ。NHKの『日曜討論』のテーマは「不妊治療 保険適用 いま必要な少子化対策は」で、『NHKスペシャル』のテーマは「令和未来会議 新型コロナの不安 どう向き合うか?」だった。
なぜ、いま「不妊治療問題」であり、「新型コロナ問題」なのか。
私は11日早朝、メールでNHKに質問状を送った。いまのところ、NHKからの回答はない。その質問状を添付する。

少子化対策のためにも不妊治療は一定の条件で保険適用できるようにすることは必要だと思っていますが、いま「日曜討論」で取り上げなければならないような問題でしょうか。
いま一番社会・政治問題として国民が関心を持っているのは学術会議問題です。昨日今日、突然出てきた問題というならいざ知らず、1週間以上前から大騒ぎになっている問題です。イギリスの科学雑誌で世界的権威のある『ネイチャー』ですら、異例の警告を出しているくらいです。
なぜこの問題をあえて避けたのですか。この問題をテーマにすると政府が困るからですか。

NHKはいま受信料問題や体制改革問題に取り組んでいる。受信料は10月1日からほんの少し引き下げたが、肝心の体制改革はこれからだ。来年1月までに改革案とまとめるということで、視聴者からも提言を募った(応募はすでに締め切っている)。私も本来の公共放送の在り方という視点から「経営委員会の公選制」「番組編成の在り方」「受信料制度の改革」について革新的な提言をした。私の提言はこのブログの最後に添付する。
とりあえず、この時期にNHKが重要な討論番組で学術会議問題を避けたのは、政府に忖度するために「総合的・俯瞰的判断」した結果と、私は思っている。NHKの職員が全員、政府に忖度しているわけではなく、ジャーナリズムとしての本分を果たしたいと考えている職員の方がはるかに多い。が、上が腐っているから、こういう時期に当たり障りにない不妊治療やコロナ対策をテーマにせざるを得ない状況に、いまNHKはある。
ついでに、検察庁問題が生じたとき、アイデアとして私は「三権分立制」から「五権分立制」への移行を主張した。詳論はそのうち書くつもりだが、要するに「立法(国会)・行政(政府)・司法(裁判所)」の三権に加え「捜査・立件(検察・警察)」「公共放送(NHK)」の独立性を担保すべきだというのが私の持論。そうなればNHKも政府の顔色を窺わずに番組編成ができるようになる。

●日本学術会議は行政機関ではない
さて田原氏の『激論クロスファイア』だが、政府側からは山下貴司・自民党国会対策副委員長、野党側からは蓮舫・立憲民主党代表代行、田村智子・共産党政策委員長の3人が出席した。田原氏がいきなり「こういう苦しい状況の中でよく出席してくれました」と持ち上げた山下氏は元法務官僚で、政界入りしてからは法務大臣・法務大臣政務官・内閣府大臣政務官の要職を務めてきた法律のプロ。が、防御から攻撃に転じようと思ったのかどうかはわからないが、法律のプロらしからぬミスを犯した。
「日本学術会議は行政機関だから、行政府の長である内閣総理大臣に任命権がある」と。
確かに日本学術会議法の第1条2項には「日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする」と記載されている。が、第3条には「日本学術会議は、独立して左の職務を行う(1項:科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。2項:科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること)とあり、さらに第4条では「政府は、左の事項(略)について、日本学術会議に諮問することができる」第5条「日本学術会議は、左の事項(略)について、政府に勧告できる」とある。
この規定によれば、日本学術会議は常設の政府諮問機関であり、諮問がなくても勧告する権利が付与されていることになる。山下氏が言うような行政機関では明らかにない。ただ、下村氏が述べたように活動実績がほとんどないことについて、学術会議側は「政府の諮問がないから」と反論したが、たとえ政府の諮問がなくても第5条によって政府が求めなくても「政府に勧告できる」権利が保障されているのだから、やはり本当に活動実績が乏しいとなれば怠慢のそしりは免れ得ない。
ただ、この山下氏の詭弁に対して、蓮舫氏も田村氏も全く突っ込まなかった。司会の田原氏も同様。野党もジャーナリストも、「なぜ6名を任命しなかったのか」という問題だけに集中しすぎているから、問題の本質があやふやになってしまう。日本学術会議は法律に従えば、相当の権限を持っており、その権限を行使して日本の行政のゆがみを放置してきた責任は免れ得ない。そのくらいの自負を持って責務に取り組んでもらいたいと、私は願っている。

●私のNHKに対する提言
 ① 経営委員会についてー―経営委員会はNHKの最高意思決定機関であり、公正で公平な意思決定ができるように、公選制にすべきである。現在のように政府によって経営委員が任命される制度では公共放送としての、権力との適正な距離を保つことができなくなる。現に、かんぽ生保の不正販売についての番組に経営委員会が不当に関与し、公共放送としての信頼性を著しく損なったこともある。
 ② 番組編成について――NHKは公共放送であり、民間放送局には放送できないような公共性の高いコンテンツに絞るべきである。かなり前(数十年前)は娯楽が少なく、民間放送局も自前でドラマなどを制作できなかった時代には、NHKが自前でドラマ制作して放送することも合理性があったが、今はそんな必要はない。「民間ができることは民間に」が公共放送の原則であるべきだ。NHK3人娘(馬渕晴子・富士真奈美・小林千登勢)をNHK職員として育成しなければならなかった時代ではない。どうしてもエンターテイメント・コンテンツを外せないというならNHKを半官半民にして、娯楽番組は民間放送局と同様CMで制作費を賄うか、あるいは課金制のコンテンツにすべき。
 ③ 受信料制度について――かつてはテレビは一家に1台だった時代があり、いまの受信料制度はその時代に適正だった制度をいまだに続けている。いまはNHKの放送を受信できる設備も多様化しており、またテレビ自体も一家に1台から一人1台の時代に移っている。放送法64条はNHKの放送を受信できる「受信設備を設置したものは、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」となっており、この規定によれば「世帯単位の契約」は無効である。現代では一人数台の受信設備を持っている人もいる時代であり、世帯単位の受信契約でなく個人単位の視聴契約にすべきである。また現在の受信料制度は憲法14条の定めによる「法の下での平等」に抵触する可能性も高い。「法の下での平等」が「世帯単位」で行使されているのは事実上NHKの受信料制度だけであり、受信料未払で裁判になった場合、「一人暮らしの単身世帯と5人家族でテレビも5台ある世帯の受信料が同一なのは憲法違反である」と、憲法14条の解釈が争点になったら、おそらくNHKは敗訴する。
 そこで放送法64条の一部を「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した世帯に属し、協会の放送を視聴できるものは、協会とその放送の視聴についての契約をしなければならない。ただし、満1歳未満の幼児および著しく聴覚障害がある者で協会が定めた基準に該当する者は、その限りではない。また未成年者については世帯主が代理で契約することを妨げるものではない。協会と視聴契約をしたものは協会に視聴料を支払わなければならない。ただし、未成年者については世帯主が代わって支払うことができる」と改定することを求める。なお、この改訂によって事業所向けの受信料制度は廃止する。視聴の二重契約になるからである。
 また、生活保護世帯に属するものや障碍者に対する受信料(新しくは視聴料)免除制度は廃止することも求める。この制度は本来社会福祉に属する性質のもので、国なり各自治体が行うべきことである。彼らが負担すべき視聴料を一般の視聴者に自動的に負担させることは違憲の可能性がある。

【追記1】13日0:00現在、NHKからの回答なし。「総合的・俯瞰的観点から判断した」との回答を期待していたのだが…。
 なお実際に6名の推薦学者を排除したのは、2012年12月から内閣官房副長官を務めている、元警察官僚の杉田和博氏であることが判明した。安倍政権時代から菅官房長官の片腕として強権政治を支えてきた人物である。さもありなんという感じがする。
 ただ、菅総理は「自分が見た名簿は(6名排除後の)99人の推薦名簿だった」と主張していたが、加藤官房長官によれば「105名記載の名簿も添付して総理に渡している」とのことだ。総理に恥をかかせた加藤氏は「この恨み、倍返し、いや10倍返しだ」と、根に持つタイプの菅総理から睨まれること間違いない。宮仕えが下手な加藤氏を女房役の官房長官に任命したのは菅総理自身だが、自分に都合の悪いことは忘れる人だから、これで加藤氏が近いうち冷や飯を食わされることになるだろう。(13日)

【追記2】最高裁が安倍「働き方改革」にソッポを向いた
13日、最高裁は別々の訴訟で「画期的」な判決を下した。二つとも非正規社員たちが起こしていた訴訟で、ともにフルタイムの従業員だったが、退職金が支払われなかったケースと、賞与が支払われなかったケースで、正規社員との間の不合理な差別待遇についての判決である。
実は二つの裁判はともに高裁で原告(非正規社員側)が勝訴していたが、被告(雇用主側)が上告した最高裁は高裁判決を退け、原告敗訴を言い渡した。いうまでもなく安倍前総理は成長戦略の総仕上げとして「同一労働同一賃金」の原則を日本の雇用関係に導入した。
この二つのケースはともにフルタイムというだけでなく、従事した業務内容も正規社員とほとんど変わらなかったが、「正規社員とは負う責任の重さが違う」という理由で、最高裁は原告にゼロ回答の判決を下した。原告勝訴の判決を下した高裁も、正規社員と同一基準の退職金や賞与を原告に支払えと命じたわけではなく、格差については6割程度が妥当という判断を下したのだが、最高裁は「同一労働同一賃金」の原則を真っ向から否定した。
安倍政策を継承するはずの菅政府は、当然、この判決を下した最高裁判事を弾劾裁判にかけるんだろうね。

中国が国家プロジェクトとして進めている「千人計画」に日本学術会議が「積極的に協力している」という根拠のないブログ記事が問題になっている。書いたのは元経産相などを歴任した自民党の重鎮・甘利氏。そんな事実はないと指摘されて「間接的に協力しているように映ります」と訂正したが、13日のブログで訂正した理由について「表現が適切でないとしたら(※「適切でなかったから」ではない)、改めさせていただきます」と述べた。しばしば問題発言を繰り返している杉田氏も「発言が適切でないとしたら(※つまり「真意が伝わらなかったとしたら」?)、改めます」と同じ言い訳か。
念のため、中国の「千人計画」は優秀な研究者の海外流出に歯止めをかけるため、アメリカや日本などに海外留学している研究者を特別待遇で本国に戻そうというもの。ノーベル賞やフィールド賞受賞者を増やそうというのが目的で、そうした計画への協力を仮に学術会議が頼まれたとしたら、拒む理由はない。それが不都合だというなら、法律で海外からの留学生は一切受け入れないようにすればいいだけのことだ。その場合、言うまでもないことだが、日本人の海外留学も不可能になる。甘利氏もいい年こいて、何を寝ぼけたことをほざいているのか。

さらに憂慮すべきことは、妙な事件で著名人になった異色の経済学者・高橋
洋一氏が経済政策担当の内閣官房参与に任命されたことである。高橋氏が一躍有名になったのは東洋大学教授をしていた2009年3月、豊島園・庭の湯で他人のロッカーから30万円相当の高級腕時計などを盗み、即日逮捕されたが、本人が罪を認めて反省したため書類送検の上起訴猶予処分になったという、あまり芳しくないエピソードによってである。その直後、東洋大学は懲戒免職になり、嘉悦大学教授として今日に至っていた。
 異色の経済学者というのは、子供のころ数学者を目指して東大理学部数学科を卒業したが、同大経済学部経済学科に学士入学して卒業、大蔵省(現財務省)に入省、バブル崩壊後の日銀の金融政策(悪性インフレを恐れて金融引き締めを継続した)を批判し、いわゆるリフレ派官僚の筆頭になった。小泉政権では経済政策担当大臣・竹中平蔵氏の補佐官を務め、安倍政権でも一時、内閣参事官として経済政策立案にかかわったことがある。
 学術会議問題が突然生じたため、いったん中断しているが、私のブログ『菅政権は安倍政権の「負のレガシー」とどう向き合うか② アベノミクスの検証(1)』で、リフレ派とMMT派は紙一重の差でしかないことを検証している。日銀・黒田総裁は「無制限に国債を買う」と公言している(今のところ、単なるアドバルーンにすぎず、日銀自体も私の取材に「MMTに転換したわけではない」と、黒田バズーカ砲が空砲に過ぎないと主張している)。
実際日銀の主流を占めるリフレ派の主張は「MMTはインフレ率の目標設定をしていない」だけの差でしかなく、MMT派も数字目標は設定していないがインフレが悪性化しそうになったら国債発行をストップすると主張しており、日銀が目標としているインフレ率(消費者物価指数上昇率)2%設定の科学的根拠は明らかにされていない。高橋氏は一応数学者らしく、数式を考え出しているが、どの時代でも通用する数式ではない。
現に池田内閣の所得倍増計画時に、消費者物価上昇率は2%どころではなく4.8%と異常に高かったが、ハイパーインフレにはならなかった。消費者物価指数上昇率以上に勤労者の所得上昇率がはるかに上回り、インフレ下においても需要が供給をつねに上回る状態が続いたため高度経済成長が実現したのだ。いま世界先進国のすべてで人口減少が続いており(とくに日本の合計特殊出生率は1,49と、人口維持に必要とされる2.08をはるかに下回っている)、消費者市場は継続的に縮小しつつある。需要が増加しないのに、金融緩和で供給を増やそうという結果になっているのがリフレ派やMMT派であり、経済学者ではない私ですら「何を血迷ったのか」と言いたくなるような経済理論だ。
なお、14日午前0:00現在、NHKからの回答はまだない。(14日)

【追記3】15日0:00現在、NHKからの回答はまだない。(15日)


【追記4】 最高裁はとうとう気が狂った
 15日、最高裁は日本郵便の契約社員らが日本郵便を相手取って起こした、扶養手当や有給の夏休み・冬休みなどを与えろと主張した訴訟で、裁判官5人は全員一致で訴訟5件のすべてに原告勝訴の判決を下した。
 2日前の13日には、このブログの【追記2】で書いたように、2件の非正規社員(東京メトロの子会社「メトロコマース」の契約社員と大阪医科大学のアルバイト社員)がそれぞれの雇用主を相手取って起こした訴訟(退職金や賞与の支給を要求)では、原告敗訴の逆転判決(高裁ではともに正規社員の6割程度の支給が妥当との判決)を下し、安倍政権が行った「働き方改革」の柱である「同一労働同一賃金」の基本原則を無視したばかりだった。
 判決理由では、事細かに原告の主張をすべて認めた雇用事情、ゼロ回答をした雇用事情を述べているようだが、はっきり言って分かりにくい。13日の判決でも、雇用事情によっては非正規社員にも退職金や賞与を支給すべき場合もあると最高裁は述べており、正規社員と非正規社員の待遇差を認める基準が法的に明確ではない。
 15日の最高裁判決を私が知ったのは同日夕方のテレビニュースだったが、昼前時事通信のネット配信で来秋から郵便物の配達を週5日にすることが決まったというニュースがあった。つまり土日は配達しないということだ。管轄官庁の総務省が許可したのだと思うが、実にばかばかしい決定だ。総務省は郵便局員の労働条件を少し改善することで、かんぽ生保の不正販売のような不祥事を根絶できるとでも思ったのか。
 かんぽ生保の不正販売は、はっきり言って郵便局員個々の問題ではない。私は郵便局員によるかんぽ生保の不正販売は、小泉郵政改革の「負のレガシー」だと、ブログで何度も書いてきた。で、さっそく、日本郵便に電話をして、この程度の労働条件改善では不祥事はまた起きると警告した。理由はこうだ。

 小泉郵政改革は郵便事業に民間の参入を促し、競争環境をつくることで業務の効率化と顧客サービスの向上を目指そうというものだったが、全国一律のユニバーサル・サービスを義務付けた。そのため、当初は参入の意向を示していたヤマト運輸がいったん撤退を表明した。が、郵便ポストの代わりにコンビニを窓口にすることで参入条件をクリアして「メール便」という格安の郵便事業に乗り出した。
 が、ヤマトの配達人は社員(非正規も含め)ではない。請負の個人事業主である。そのため、配達人による不祥事がしばしば生じた。とくに問題が生じたのはヤフオクなどでの株主優待券や商品券などの金券類の発送方法だった。通常の郵便で発送する場合は発送記録が残らないが、ヤマトのメール便の場合は補償はないが、発送記録と追跡記録が残る。金券類のオークションには極めて利便性が高い方法だった。そのため、ほとんどの出品者はメール便を利用した。
 実は私自身が被害にあって分かったことだが、郵便局員は封筒の手触りで大体中身が分かるというのだ。信書なのか、金券類なのか、あるいは現金なのか。とくにオークションで出品した人は、出来るだけ配送コストを安上がりにするため安い茶封筒を使う。はっきり言って配達人には見え見えなのだ。そのため不着問題が頻発した。それだけではない。郵便局の配達課の課長から聞いた話だが、ヤマトのメール便は配達量が多い都市部ではヤマトの契約配達人が配達するが、配達量が少ない地方はヤマトが郵便料金を払って郵便局に配達を丸投げしていたようだ。結局ヤマトはコスト割れと不祥事の続出で個人のメール便事業から撤退することになった。
それはともかく、小泉郵政改革にとって最大の強敵があらわれた。携帯電話である。当初は携帯電話の目的は通話オンリーで、通話料金もめちゃくちゃ高かったので、あまり普及しなかった。が、この分野では民間業者の参入が相次ぎ、5分間かけ放題とか、10分間かけ放題、時間無制限かけ放題と、サービス競争が激化し、高齢者もスマホが手放せなくなった。ラインや様々なSNSツールがスマホに搭載されるようになり、手紙・はがきといったアナログ通信手段が激減したのだ。日本郵便が赤字体質になったのはそのためだ。
しかも手紙やはがきの料金改定は総務省の許可がいる。郵便料金を集配コストに見合うよう値上げしたら、内閣支持率に大きく影響する。そのため郵便料金は消費税増税分しか値上げできない状態が長く続いている。当然郵便事業は慢性的な赤字体質から抜け出せず、日本郵便は経営難に陥った。かんぽ生保の不正販売は、こうした事情を背景に生まれるべくして生まれた。私がかつてブログで「かんぽ生保の不正販売は小泉郵政改革の負のレガシーだ」と指摘したのはそのためだ。
で、15日、日本郵便に提案した。「都市部の集配は平日毎日でもいいが、地方は需要に応じて週3回(月・水・金:火・木・土)、週2回(月・木:火・金:水・土)、週1回にすべきだ。国鉄民営化でJRになったとき赤字路線は廃止したし、第3セクターに移行した。日本郵便も民間会社になったのだからコスト優先の集配体制に変える権利があるはずだ」と。「速達はどうしたら?」と聞かれたので「速達はポスト投函を禁止し、書留と同様郵便局で受け付けるようにして速達と書留の料金は距離制を導入したらよい」と答えた。「過疎地の郵便局はすべて廃止し、書留とかゆうパックなどやかんぽ生保・郵貯事業は地域の農協とかコンビニ的な小売店に事業委託すればいい」とも。
とにかく郵便事業の赤字体質を根本から改善しない限り、新たな不正事業を生み出さざるを得なくなる。郵便局はやくざを雇っていたわけではない。が、やくざも手を出さないような不正販売に手を染めざるを得なくなった根本を改善しない限り、手を変え品を変えになるだけである。
なお16日0:00現在、NHKからの回答はまだない。

 【追記5】 NHKが回答しない理由が分かった
 17日0:00現在、依然としてNHKからの回答はない。過去だけでなく、今後もないことが分かった。NHKの予定によれば、18日の『日曜討論』のテーマはコロナ禍での学生生活について萩生田文科相を「お招き」して対策を伺うようだ。前回の「日曜討論」(11日)のテーマは田村厚労相を「お招き」して菅総理の目玉政策である不妊治療の保険適用について政府のためのプロパガンダ番組だった。
 ここまでやるのはなぜか。すでに視聴料値下げは発表しているし、値下げをするのに政府の顔色をうかがう必要はないはずだ。私自身はこのブログで公表したように、NHK改革についての提言はしたが、私の提言を潰すために政府におもねる放送をする必要もあるまい。
 そう頭をかしげていたら、16日共同通信がびっくりするようなニュースをネット配信した。共同通信によれば、16日、受信料制度などの在り方を検討する総務省の有識者会議で、あろうことか家庭や事務所がテレビを設置した場合はNHKに届けることを義務化する制度変更を要望したようだ。受信契約を結んでいない世帯の居住者の氏名や、転居した場合は転居先などの個人情報を公的機関などに紹介できるようにする仕組みの導入も求めたという。テレビを設置していない場合も届け出を求めるという。
 放送法64条には、こうある。

協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であって、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第126条第1項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。

この条文が唯一の義務条項だ。この条文に書かれていることは、テレビを設置したものはNHKとの間に受信契約をしなければならないことだけである。受信契約をする必要はあるが、受信料の支払い義務についての条項は放送法にはない。受信料についての規定はNHKが勝手に決めている内規にすぎず、これまでもNHKは何度も受信料についての規定を放送法に盛り込むよう政府に求めてきたが、その都度、門前払いされてきた。NHKがまだ公共放送としての良心を失っていなかった時代だったからかもしれない。
実際、いまでも保守的な国民は、NHKを朝日新聞と同列に扱って「左翼的傾向が強い」と思い込んでいる人が少なくない。朝日も例の慰安婦誤報謝罪騒動以来、報道姿勢を革新リベラルから保守リベラルに転換しつつあり、いまでは革新リベラル・メディアは毎日新聞と東京新聞くらいだ。
4年前にトランプが大統領になったことが、また安倍政権が7年8か月の長期にわたって続いてきたことも、あるいは習近平が覇権主義を強めてきたことも、時代の大きな変化の兆しといえるかもしれない。
資本主義経済の原理を唱えたアダム・スミスも、近代経済学の祖・ケインズや科学的社会主義経済の原理を主張したマルクスも、また来年の大河ドラマのモデルで新1万円札の肖像画になる「日本資本主義の父」と呼ばれている渋沢栄一も、高度に発達した先進国がそろって人口減少時代を迎えるなどということは予想も想定もしていなかった。
一人の女性が生涯に産む子供の数の平均値を「合計特殊出生率」(杉田水脈に言わせれば女性の「生産率」?)というが、経験値として人口を維持するためには2.08が必要とされているが、日本の場合はいま1.49で将来、社会保障制度が崩壊すると懸念されている。アメリカは白人の人口減少は想像以上で、すでに白人は少数民族になっている。白人以外のヒスパニック系・黒人・アジア系がまとまらないから、まだ白人優位の社会が続いているが、白人以外がまとまるような事態になれば世界がどういう時代を迎えることになるか、想像もできない。政治経験がまったくないトランプのような人物が大統領になれたのも、白人社会の危機感の表れといっていいかもしれない。
お隣の韓国も、実は日本以上の人口減少時代を迎えており、文大統領の反日政策も人口減少による経済停滞が原因かもしれない。
もっとリスキーなのは中国だ。現在は世界1の人口14億人を誇っているが、90年代の「一人っ子政策」のせいで人口がじわじわ減少し、2100年には人口が5億人を切るという試算もあるらしい。中国という巨大市場は今世紀のうちに消滅するかもしれない。
数年前、フランスの経済学者ピケティが、高度に発達した資本主義社会では格差が拡大するという理論を発表して話題を呼んだが、格差の拡大どころか世界中で供給が需要を上回る状態が生じ(実はもう生じている)、縮小した市場の争奪戦が始まるかもしれない。そのとき、人類の知恵が第3次世界大戦を未然に防ぐことができるかどうか、新しい「人類共存」のための理論が必要となるだろう。(17日)

【追記6】18日0:00現在、やはりNHKからの回答はなかった。私の問い合わせ内容はすでに明らかにしているが、NHKが確実に受理したという証拠に、メール送信した直後に返信があり、問い合わせ番号も添付されていた。
問い合わせ番号は D713064-3713085 である。
明日19日、改めてNHKに私の問い合わせがどうなっているのか聞く。
 まだ大方のメディアが菅総理の「庶民性」をヨイショしていた今月5日、私は『菅新総理が早くも強権体質をむき出しにしだした』と題するブログを投稿しており、それはジャーナリズムとしてはかなり早い方だったと自負している。
 なお、明日にはブログを更新する。河野行革相が強力に推進している行政改革はいまのところ私もある程度評価しており、携帯電話料金引き下げについても私の提案を書く。
 まだ書きかけの途中なので、書くかどうか決めていないが菅行革は野党にとっても踏み絵になる。菅行革の目的は中曽根行革や小泉行革と違って、中央省庁の従来の業務慣習に思い切ってメスを入れ業務の効率化を目指していると思われる。そのために口先だけに過ぎなかった小泉氏ではなく、実行力のある河野氏を行革担当相に起用し、いまのところ官僚の抵抗を押し切って大胆に業務の効率化を推進しようとしている。その展望と課題について明日のブログでは書くつもりだが、公務員の業務の効率化は無能な中間管理職が「針のむしろ」に座らされることを意味し、野党としては反対はしずらいが連合にもいい顔をしたいという、相反する立場に置かれることを意味する。
 共産党はともかく、新立憲が全国民のため行革に協力しながら、こういう効率化の方法もあると積極的に行革の旗振りを始められるかどうかに、新立憲の将来がかかっている。


 とくに国家公務員法改正には新立憲が前のめりなのが気になる。もともと政府は黒川東京高検検事長を検事総長にするため、検察庁法改正と抱き合わせで実現しようとした案件だ。その姑息なやり方は国民の反発もあって葬られたが、コロナ禍の襲来もあって国家公務員法改正も見送られる結果になった。コロナ禍で非正規社員が次々に職を失い、有効求人倍率・失業率も旧民主党政権時代以来の水準という困難な時代を迎えている日本で、なぜもっとも優遇されている国家公務員の定年延長を目的とした法改正を急ぐのか。連合のために汗をかく政党という烙印を押されたら、新立憲の未来はないことに執行部は気付かないのか。
私は公務員の定年延長に反対しているわけではないが、いまとなったら検察庁法改正と抱き合わせで行っても差し支えないはずだ。が、時期が悪い。まずコロナ禍根絶に全力を挙げ、失業に追い込まれている人たちの仕事を回復させてからの法改正だろう。
連合が公務員の定年延長を求めるのは分かるが、新立憲としては連合に一定の理解を示したうえで、「いま急ぐべき時期ではない。いまはコロナ禍根絶と仕事を失った人たちの仕事をいかに1日も早く回復するかが私たちの務めだ」と連合との微妙な距離感を保つことが重要な時期だ。そうでないと、仮に新立憲が政権を取れるときが来たとしても旧民主党の二の舞を踏むだろう。(18日)


 
 






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首相官邸に「物申した」--天皇が政治権力を持つことになる

2020-10-08 01:52:54 | Weblog
7日、私は学術会議会員の任命問題について首相官邸に2回、メールで意見を申し上げた。国会の閉会中審議(衆院内閣委員会)でも再三にわたって野党側がが「学術会議法違反だ」(立憲・枝野代表)と追及したが、政府側は6名を排除した理由の明示は避けた。
加藤官房長官は任命にかかわる法解釈について「平成30年に内閣府と内閣法制局が協議した結果、任命権者の総理が学術会議の推薦通りに任命しなければならないわけではないという結論を得た」と説明したが、だとすれば天皇は憲法6条の規定に従って、内閣総理大臣の任命権を有することになり、国会の指名を拒否することもできることになる。
私は前回のブログで、6名の任命拒否は「学問・研究の自由に対する侵害には当たらない」と書いたが、確かに菅総理が言い訳したように「学問・研究の自由を損ねることにはならない」ことは確かだが、それ以上に重要な問題が、この任命拒否問題で明らかになった。で、以下のような意見を首相官邸に発したのである。

●1回目の意見
日本学術会議会員の任命権や任命責任は内閣総理大臣にはありません。日本が法治国家であるならば、ですが。
まず、法治国家の前提として法文解釈が恣意的に行われないことが極めて重要です。政府はこれまでも憲法解釈や法律解釈をかなり恣意的に行ってきましたが、今回のケースは従来の解釈変更のレベルと明らかに異なります。
日本学術会議法第7条2項には「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」とあります。
一方、第17条には「日本学術会議は、規則に定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるとことにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」とあります。つまり選考権は日本学術会議のみにあり、第7条の「内閣総理大臣が任命する」は単なる手続きを定めた条文でしかないことも明白です。そう解釈しないと、大変な問題が生じます(後述)。
菅総理は「政府の機関であり、年間約10億円の予算を使っている」「会員は特別職の公務員であり」「総理には任命権がある」と主張されていますが、総理大臣が直接任命権を行使するのは閣僚に限られています。閣僚が不祥事を起こした場合、総理の任命責任が問われるのはそのためです。
確かに総理大臣は行政府の長ですから、行政官である公務員の任命権は形式的にはありますが、公務員が起こした不祥事についていちいち総理大臣が任命責任を取るべきだと考える法曹家はいません。しかし、総理大臣が、「日本学術会議会員の任命責任がある」から「任命権もある」とお考えなら、今回任命しなかった6名の学者を除き任命した99名に対して閣僚と同様に任命責任が生じることになります。その自覚をお持ちの上で99名は任命されたのですか。なお日本学術会議会員は公務員ですが、行政官ではありません。

さらに日本学術会議法第7条の「内閣総理大臣が任命する」という法文をもって「任命権および任命責任がある」と解釈されたのであれば、法文解釈の整合性の点からも重大な疑義が生じます。
憲法6条には「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」とあります。ここでの「任命する」が、やはり「任命権の存在」を意味することになると、天皇の位置づけは象徴天皇ではなく最高権力者としての親政天皇になります。法文解釈の整合性が崩壊します。
なお、この件についてはブログで詳述しています。

●2回目の意見
今日の第1回「規制改革推進会議」で、菅総理は「行政の縦割り、既得権益、悪しき前例主義を打ち破って規制改革を進めるために各省庁が自ら規制改革を進めることが必要だ」と指示されたようです。(日本経済新聞のネット配信記事より)
私も大賛成ですので、大いに進めていただきたいと願っていますが、まず総理ご自身が範を垂れていただかないと…。
これまで政府はご都合主義というか恣意的に憲法や法律を解釈変更しておいて、野党やメディアの質問に対しては真摯に答えない…そういう悪しき前例をぜひぶち壊してください。
まずは、日本学術会議法によれば、会員の選考権は日本学術会議にしかないことになっていますが、同法7条の「内閣総理大臣が任命する」という条文を援用して総理大臣に任命権があるかのような解釈変更をしたことについて、野党議員やメディアにその合理的理由を明確に答えてください。

なお法文解釈に整合性が欠けると法治国家とは言えないので、日本学術会議法7条の「内閣総理大臣が任命する」のだから「総理大臣に任命権がある」という解釈は当然憲法6条にも適用できることになりますので、内閣総理大臣を任命する天皇にも内閣総理大臣の任命権が付与されることになります。つまり天皇には「国会で指名された内閣総理大臣を任命しない」という政治権力が生じることになりますが、そういう法的解釈でいいのでしょうね。

もちろん憲法に、天皇に内閣総理大臣の指名権があると解釈できる条文はありませんが、日本学術会議法にも内閣総理大臣が学術会議の会員を選考・指名する権利があると解釈できる条文はありません。

天皇は日本国民の象徴ですが、内閣総理大臣は日本国民の代表です。海外の人たちから「日本人は自分の都合によって悪しき前例を踏襲したり無視したりする国民だ」という烙印を押されたら、それは菅総理大臣の責任になります。

【追記】 今朝(8日)テレビのニュースを見ていて、自民党の下村政調会長が学術会議の在り方について見直す考えを示したことを知った。内閣第2部会(平部会長)に塩谷(しおのや)・元文科相を座長とするプロジェクトチーム(PT)を設置し、議論したうえで党の提言をまとめて政府に伝えるという。
 下村氏によれば日本学術会議は平成19年以降「答申」を、また22年以降「勧告」をまったく出していないことを明らかにしたうえで、「役割がどの程度果たされているのかも含め議論する必要がある」と述べたという。
 それが事実だとして、学術会議会員の怠慢によるものなのか、それとも政府が会員の「答申」や「勧告」の機会を十分に保障してこなかったためなのかも、徹底的に検証すべきだろう。欧米のアカデミーのほとんどは非政府組織になっているようで、私も政府のひも付きの組織にはすべきではないと考えているが、いちおう日本学術会議は政府機関であっても高度の独立性が保証されており、だから会員は研究成果を自由に政府に「答申」したり「勧告」できる仕組みになっているはずだ。
 戦後の、経済力が疲弊していた日本で、学者の科学的見地からの提言を政策に生かすために設置された日本学術会議の役割は、私も今日の日本の経済状況からみて終わったと考えてもいいと思う。いまは政府が学術会議に金銭的支援をしなければ十分な研究活動ができないとは考えにくいので、欧米先進国では非政府組織のアカデミーの提言(答申・勧告)を政策にどう反映する仕組みになっているかも検証したうえで、学術会議の「あり方」を考え直すべきだろう。(8日)

【追記2】 国民の固有の権利=総理大臣の固有の権利?
 連日、国会では閉会中審査が行われている。もちろん日本学術会議会員の任命権問題をめぐってだ。政府答弁のご都合主義的解釈も「ここに極まれり」としか言いようがない。
 8日も衆院の審査で内閣府の大塚官房長が、日本学術会議法に定める首相の任命を「形式的」とした1983年の国会答弁(中曽根総理)との整合性について、「推薦の通りに任命すべき義務があるとまでは言えないというのは一貫している」と答弁した。
 大塚氏は憲法15条の公務員の選定罷免権に触れ、「形式的な発令行為と発言はされているものの、必ず推薦の通りに任命しなければならないとまでは言及されていない」と、総理の「任命権」について新しい解釈を示した。
 なるほど。「罰則規定がない違法行為は違法ではない」と言っているようなものだ。
 国会議員の方たちはゴルフが好きな人が多いと思うので、ゴルフの規則を例にとって政府の「ご都合主義的解釈」について解明する。
 カート道路上(人工の障害物)に止まった球は救済を受けることができることは周知のルールである。ただ、救済方法は何度か変わってきた。
 私がゴルフを始めた40年ほど前のルールは、カート道路のセンターラインを基準に球が右側にあったら右側に、左側にあったら左側にドロップすることになっていた。
 その後、ドロップする地点がニアレスト・ポイントに変更になった。このときニアレスト・ポイントを決めるために使用するクラブは、もし救済の必要がなかったら使用しているだろうクラブを使うべきである、とされた。が、実際にはプロでも最も有利な地点にドロップするためのクラブ(ほとんどの場合はドライバー)を使用してドロップ地点を決めていた。
 さらに、いまではどのクラブを使ってもいいことになっている。それまでのルールは罰則規定がないため、有利なクラブを使うことができた。で、「もし救済の必要がなかったら使用しているだろうクラブを使うべき」という規定の意味がないから「どのクラブを使ってもいい」ことにした、と大半の人は思っている。実は違う(はずだ)。
「違うはずだ」と書いたのは、ルール・ブックにはルール変更の理由が書いていないからだ。法律を変える場合でも、六法全書には新しい法律が記載されるだけで、なぜ法律を変えたのかという理由など記載されていないのと同じだ。ゴルフのルールは全米ゴルフ協会とイギリスの名門ゴルフクラブのセントアンドリュースが協議して決めている。日本ゴルフ協会はまったくあずかり知らないところで決められ、ただ日本のゴルフ規則集には翻訳文が印刷されているだけだからだ。だから、このルール変更について日本ゴルフ協会の会員でも理由が分かっている人はたぶんいないと思う。だから、私も実のところ、本当の変更理由は知らない。知らないが、99%、私の理解が正しいと思っている。
 私は、なぜニアレスト・ポイントを決めるに際して罰則規定を設けなかったのか、を考えた。理由は簡単。「いま、そこにある球を打つためにどのクラブを使うべきかはプレイヤーしか決めることができない」からだ。たとえば一時、カラーに止まった球をスプーンで打つことが流行ったことがある。誰かは覚えていないが、パッティングに悩んだプロが試行錯誤の末スプーンを使いだしたのだろうと思う。これが長尺パター開発のきっかけになったようだ。
 ゴルフのルールと同様に、学術会議会員は「内閣総理大臣が任命する」という文言をどう解釈するかだ。これは義務規定なのか権利規定なのか。
 確かに「することができる」とも解釈できるし、「しなければならない」とも解釈できる。そこで大塚官房長が総理の任命権の根拠にした憲法15条を精査してみよう。憲法15条の全文はこうだ。

公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 この憲法の条文をどう解釈しても、学術会議会員に対する選定罷免権を総理大臣が権利として有していると主張するには無理がある。公務員の罷免権は国民固有の権利であることは確かだが、【国民=総理大臣】とはいくらなんでも拡大解釈が過ぎる。もし、そんな解釈が罷り通るなら、日本の首相はオールマイティの権限を有していることになる。国民から選挙で選ばれた国会議員(国会議員も公務員だ)の罷免権も有することになる。少なくとも大塚氏は憲法15条を援用して総理の任命権を解釈するなら、憲法15条でいう「国民」についての定義を明確にすべきだ。わたしたちが一般に考えている「国民」の定義とは相当の開きがあるようなので…。

 なお、改めて確認しておくが、憲法6条は政府解釈によれば「天皇に内閣総理大臣の任命罷免の権利がある」ことを定めていることを意味する。それでいいんだろうね。(9日)

【追記3】天皇は任命責任を果たせ
菅総理は9日、毎日新聞などのインタビューに応じ、学術会議会員の任命問題について語った。総理の発言によれば、
●政府が学術会議が選考した推薦会員名簿を受け取ったのは8月31日(安倍総理の在任中)。菅総理が(内閣府から?)受け取った名簿は99人に絞られたもので、すでに6名は除外されていた。
●任命権者として、広い視野に立ち、バランスの取れた活動を行い、国の予算を投じる期間として国民に理解される存在であるべきことを念頭に判断した。
●法解釈を変更してはいない。
菅総理が新会員の名簿を見たときにはすでに6名の推薦学者が排除された後だったにもかかわらず、総理は「任命権者として……を念頭に判断した」と言う。実際には「任命権者」として推薦者のだれも判断していないのに(つまり誰かに丸投げしておきながら……を念頭に判断した)と言う。
そういえば、この日、池袋での悲惨な交通事故の加害者、飯塚幸三氏は「運転ミスはしていない。クルマの故障だ」と法廷でうそぶいたようだ。

しつこいようだが、菅総理が内閣総理大臣に任命権があると主張している根拠は、日本学術会議法第7条2項の「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」という条文だけだ。この条文以外に総理大臣の任命権のよりどころはない。
ところで、憲法6条には天皇が内閣総理大臣を任命することが規定されている。菅総理の見解によれば、天皇は総理大臣の任命権者として、日本の総理としてふさわしい見識、品格、国際的視野などを有した人物かどうかを十分に精査したうえで任命しなければならないことになる。
そういう観点からすれば、過去、天皇(戦後の昭和天皇以降)はその責務を十分果たしてきたと言えるだろうか。残念ながら内閣総理大臣の任命権者としての責務を果たさず、国会に丸投げしてきたと言わざるを得ない。
学術会議会員は210名もおり、3年ごとに半数が入れ替わるとしても、総理は入れ替わる105名に対して任命権者としての責任を負うとしている。が、総理自身が105名全員を面接して会員としてふさわしいか否かの判断を個々人に対して行うのは不可能だ。が、天皇が任命責任を負うべき相手は内閣総理大臣一人だけだ。少なくとも国会に数名(3~5名)の総理大臣候補を推薦させ、その中から総理大臣としてふさわしい人物を天皇自らが選ぶのでなければ、任命責任を果たしたとは言えない。それとも憲法6条が違憲憲法なのか?(10日)





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【緊急】菅新総理が早くも強権体質をむき出しにしだした。

2020-10-05 04:38:19 | Weblog
安倍政権の「負のレガシー」の検証記事をいったん中断して、あらわになった菅新政権の強権体質の検証を行う。
◎政府が決定したことに従わない官僚は異動する(クビにする?)
◎党の方針と違う発言をしばしばしている杉田水脈議員には「注意」だけ
◎政府の考えと違う日本学術会議の会員は任命しない
発足後、まだ1か月もたたない菅新政権だが、早くもその強権体質があらわになった。「安倍1強」と言われていたが、実は権力とは「人事権」であり、7年8か月に及んだ長期政権で事実上、裏で人事権を行使して安倍政権を操っていたのが菅官房長官だったようだ。そうした事実は、菅政権が誕生してからメディアが明らかにしだした。菅氏が政治家としての第1歩を踏み出した横浜市議会議員時代(2期のみ)の2期目には、すでに「影の市長」とささやかれていたというから、只者ではない。。

●行政改革は、まず国会から―ー国会議員の生産性をアメリカ並みに
あらかじめ申し上げておくが、私は思想的には「ニュートラル」である。だから野党を批判することもしばしばあるが、必然的に政府・与党サイドを批判することの方が多くなる。行政(政策や経済)のかじ取りをしているのが政府・与党だからだ。それ以外の意味は何もない。
もともと政治とは行政を意味する言葉だし、行政の目的は「国益」の実現にある。そして権力者が「国益」という場合、それは権力者が考えている「国益」であって、本当に国民にとって有益か否かは別である。さらに「国益」の実現には、経済思想及びそれと密接不可分な政治思想がある。こんな基本的なことを確認しておかないと、私の基本的立ち位置と、それに基づく主張をご理解いただけないからだ。
国益は、たとえ権力者が考える国益であっても、言うまでもなく時代と状況によって異なる。今がどういう時代であり、どういう状況なのかについての判断を、だれが一点の間違いもなく正確にできるのか。「今はどういう時代であり、どういう状況なのか」は、神のみぞ知る。
誤解を避けるために言っておくが、私は無宗教者であり、神の存在など、これっぽっちも信じていない。「神のみぞ知る」と書いたのは、一点の間違いもなく判断を下せる人間など存在しないという比喩的表現に過ぎない。たとえトランプであっても、安倍であっても菅であっても、だ。ただ、権力者には「どうすることが国益か」を決める権利を持っている。権力者が考えている国益が間違っていると国民が判断したら、選挙で政権を変えるしかない。

私はしばしば右寄りの人からは「左翼」とみられるし、左寄りの人からは「右翼」とみられる。それは私の立ち位置がニュートラルだからだ。私が基準にするのは、政治が民主主義にどこまで近づいているか、あるいは遠ざかりつつあるのかを、偏った思想を基準にしてではなく、論理だけを基準にして判断することを心掛けているからだ。
さて菅政権が誕生したとき、菅新総理は「安倍政治の路線を継承する」と言い続けた。私は一瞬「お友達のための政治を続けるのか」と思ったが、次々に打ち出した菅政策はちょっと違った。
たとえば世界水準からみて高すぎる携帯電話料金を安くするという世論受けする政策をまず打ち出した。縦割り行政にメスを入れるとも言った。これも世論受けした。地銀が多すぎると、地方金融機関の統廃合も断行するようだ。日銀のマイナス金利政策で悲鳴を上げている、体力の弱い地方金融機関を統廃合という形で効率化を図ることも大方の支持を受けている。
だが、国民が一番望んでいるのは国会議員の数を減らすことだ。あるいは議員一人当たりの歳出を減らすことだ。そういう方針を打ち出せば、国民は拍手喝采すること間違いない。念のためGDPが20兆4000億ドルと、日本の5兆4000億ドルの3.7倍のアメリカは、総人口3億2700万人で日本の1憶2500万人の2.6倍だが、国会議員数は下院435人、乗員200人で計635人だ。一方、日本は衆院465人、参院248人で計713人もいる。議員1人を養っている国民数はアメリカが51.5万人で、日本は17.5万人。つまり、日本の国会議員1人を養うために国民が負担している税金は、アメリカ人の4.1倍になる計算だ。
【3.7÷2.6×(51.5÷17.5)=4.1】
日本の労働者の生産性を他の先進国並みに引き上げたいなら、まず国会議員の生産性をアメリカ並みにしてからにしてほしい。つまり国会議員の数を現在の4分の1に減らすか、さもなければ1人当たり議員歳費を4分の1に減らすかすれば、日本の国会議員の生産性もアメリカ並みになるということだ。(※これは私の小学生レベルの計算なので、おかしな点があったら遠慮なく指摘してほしい)

●携帯電話の料金を安くする方法はこれしかない
 さて、菅改革について検証しておくことがある。まず携帯電話料金の問題だが、IT評論家には「日本は全国津々浦々、どこでも電波が届くように基地局を張り巡らしている。日本以外は電波が届かないところもある」と、携帯電話料金が高くなる理由を弁護している向きもある。
 だが、それだけで携帯電話料金が高くなるとは思えない。日本の国土面積はアメリカや中国、カナダ、オーストラリア、などに比べてはるかに小さい。
 ということは、日本の場合、全国津々浦々に電波が届くよう基地局を張り巡らしたとしても、アメリカや中国に比べてはるかに少なくてすむ。日本の携帯電話料金が世界主要国に比べて平均4割も高いということは、携帯電話会社の儲け過ぎにあると考えるべきだろう。そもそも「日本の携帯電話料金は高すぎる」として参入した孫正義氏のソフトバンクが、価格破壊に乗り出すどころか高止まりの防波堤になっていることからも明らかである。
 アナログ固定電話時代に中曽根総理(当時)が電電公社を民営化したとき、競争相手としてまず名乗りを上げたのは京セラ系の第二電電だった。そのとき通信インフラである電話網施設はNTTの既設設備を借りるという形を取った。
 携帯電話の時代に入るとき、なぜ政府(総務省)はインフラ設備である基地局会社と携帯電話会社を完全分離しようとしなかったのか。いまNTTドコモとau、ソフトバンク、楽天がそれぞれ、この狭い日本で基地局を別々に設置している。ほとんど隣り合って別会社の基地局が設置されているところもある。
 いっぽうテレビ放送。地デジ電波を送信している東京スカイツリーはNHKをはじめ首都圏のキー局が共同利用している。衛星放送の場合も、BS、CSともに各放送局がBS衛星やCS衛星を共同利用している。
 もし放送局ごとにテレビ塔を建てろということにしていたら、いったい放送局はいくつ生き残れただろうか。国民の視聴料で賄っているNHKでも経営難に陥っていただろうことは疑う余地もない。
 菅総理がモットーとして挙げた標語「自助・共助・公助」を全否定するつもりはないが、何でも自己責任で市場を開拓しろと言ったら、経済はかえって疲弊する場合もある。基本的にインフラ整備は政府が国家責任で整備すべきだと私は考えている。そのインフラの上で公平に民間企業が競争し合える条件を整えることが政府の役割だ。
 だから、携帯電話料金を下げろと言うなら(下げさせることには大いに賛成だが)、下げることができるような仕組みを考えるのが行政だろう。具体的には5Gや6Gの基地局を各携帯電話会社が別々に作るのではなく、共同出資でもいいし、あるいは別資本の基地局会社が東京スカイツリーや地域のテレビ塔のように、各携帯会社が共同利用できるようなシステムにすれば、日本の携帯電話料金は他国並み、あるいはそれ以上に安くなる。

●小泉「郵政改革」が失敗した理由
「民間がやれることは民間に」が行革のスローガンだが、通信に限らずインフラ整備は、インフラ企業の経営は民間が行うにしても、官が主導して作った方がはるかに効率的な場合もある。単純に公営事業を民営化すれば競争原理が働いて効率化が進むと限ったわけではない。
 たとえば郵政事業にしても、小泉氏が行った郵政民営化の「負のレガシー」がかんぽ生保の不正販売という形になって表れたことは、すでに私は何度もブログで書いた。日本郵便にはユニバーサル・サービスという義務を背負わせながら、郵便料金は赤字にならないように日本郵便が自由に決めることもできないという中途半端なやり方が原因だった。通信手段の主力が手紙やはがきからメールに移っていく中で、郵便事業の赤字を埋めるためにはかんぽ生保で詐欺まがいの商売をせざるを得なくなったのが偽りのない事実だ。郵便料金の値上げを認めたら、政府・与党の支持率が下がることばかり考えて、郵便事業の健全経営をどう維持してやるかに目を背け続けてきた結果である。
 はっきり言う。郵政民営化は失敗だった。郵便物の集配事業は完全に労働集約型産業である。人件費の高騰はもろにコスト増につながる。需要が増えれば増大する人件費をカバーできるが、すでに述べたように需要が激減する中で料金値上げはできず、人件費は膨れ上がる。どうやって郵便事業の赤字体質を埋めるかと考えたら、決していいことではないが高齢者をだましてかんぽ生保で儲けるしかなくなったのだ。

●弱小地方金融機関が増えすぎたのも、かつての国策の結果だ
 地域金融機関の統廃合問題も根は同じだ。もともとは日本国中津々浦々に金融網を張り巡らしたのは政府の国策だった。まず明治政府は徳川幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を対等なものにするため国づくりの基本方針として「富国強兵・殖産興業」を掲げた。そのための資金集めのために渋沢栄一氏らが大英帝国の金集め方法から学んで日本中に金融網を張り巡らしたのが、そもそもの発端。戦後は戦後で、やはり日本経済復興を旗印に国民から広く資金を調達するため、護送船団方式で弱小金融機関を保護しつつ国民から広く復興資金を集めてきた。が、日本の基幹産業界はいまや国民からかねを集める必要がなくなった。金融機関は言うまでもなく融資金利と預金金利の差益で成り立つビジネスだ。ところが、金融機関が融資をしたい優良企業はもはや銀行を相手にしなくなったのだ。これも需要が減少しているのに、政府が手をこまねいてきた結果だ。
 日本企業の内部留保は2009年には204兆円だったが、いまは378兆円まで膨らんでいる。10年で1.85倍にも増えたのだ。今年度の国家予算が102兆6580億円だから、国家予算の3.7倍近い大金を企業は内部留保でため込んでいるのだ。もちろん内部留保をせっせとため込む企業には企業の、それなりの理由があるのだが、この稿では触れない。
 そういう状況だから、金融機関はおいしい融資先がなくなった。かつては預金者へのサービスとしてしぶしぶ始めた住宅ローンは、いまや金融機関にとっては最も重要なビジネスになっているし、暴力団などを使ってアコギな取り立てで社会問題と化したサラ金潰しも、実は金融業界が政府とつるんで行ったのではないかとさえ私は疑っている。少なくとも現在、銀行が旧サラ金を子会社化したり、銀行自身がサラ金ビジネスに力を入れていることからも、そうした疑念が生じても仕方ないだろう。
 こうして、かつては国策で必要だった金融網が、政府にとっては今や重荷になってしまった。いくら安倍政権がキャッシュレス化を進めようとしても、国民がその笛に踊らなかったのは、全国津々浦々に金融網が張り巡らされており、現金決済の方が安全で利便性も高いからだ(そのことは依然、すでにブログで書いた)。かつての国策が、いまではかえって足かせになったという実例である。
 国益は時代と状況によって異なる。国益が変われば、国益を実現するための国策も変わらざるを得ない。また為政者が決める国益が本当に間違いないのか、常に検証作業が必要となる。日本学術会議は、そのために存在している。学者が権力におもねって、為政者の意に沿う意見しか国会で述べなくなったら、国益は国民のための利益ではなく、権力者のための利益と同義になってしまう。

●日本学術会議会員の任命権を総理大臣が行使できるのなら…
「政府が決めたことに従えない官僚は異動する」
 そんなことを総理が今更強調しなくても、これまでも政府がやってきたことだ。「政治主導」をことさら強調し、内閣府に人事局を作って官僚が政府の言いなりになるよう人事権を行使できるようにしてきたではないか。
 実際、文科省の事務次官をしていた前川喜平氏のたわいもない私事を(確かに褒められたことではないが)、あたかもスキャンダルのような扱いで読売新聞にリークして辞任に追い込んだこともある(※辞任理由はいちおう天下り問題の責任を取ったということになってはいるが)。当時官房長官だった菅氏は「前川氏は地位に恋々としていた」と人格攻撃までしたよね。前川氏の反撃が怖かったからか?
 菅総理が、「そういう姑息なやり方での人事は今後はしない。今後はマスコミから批判されようと、政府に逆らう官僚は内閣府の強権である人事権を堂々と行使して排除する」と言うなら、まだわかる。安倍前総理のように陰険極まりないやり方で自身のスキャンダルに蓋をしようとするより、はるかに正直だと私は思う。 
が、本当に人事権を行使して、政府の方針に逆らった官僚を窓際に追いやった場合、政策の裏に隠された政府の本音も明るみに出ることになる。左遷されたり、排除された官僚も黙ってはいないだろうから…。
「やられたら、やり返す。倍返しだ」(半沢直樹) 
菅総理が早速「人事権」を行使したのが、日本学術会議が推薦した新会員105人のうち6名の任命拒否である。当然、マスコミが騒ぎ出した。かつて欠員補充の推薦新会員を任命せずたなざらしにしたことはあったようだが、名指しで任命を拒否したことは初めてだったようだ。学術会議側や任命を拒否された6学者は、政府に拒否理由を問うているが菅総理は「法に基づいて適切に対応した」と言うだけだ。
「法に基づいて」は、任命権が総理にあるという意味か。つまり自分の判断で任命しなかったのは違法ではないと言いたいようだ。
「適切に」にとは、任命されなかった学者たちの考え方が政府の考えと相容れないからか。つまり政府の言いなりになる学者だけが「適切」な学者ということか。
 日本学術会議は「学者の国会」とも言われ、定員は210人。任期は6年で、3年ごとに半数が入れ替わる(再任は妨げない)。その目的は行政組織とは別に学者としての視点から国が直面している様々な問題について政府に提言することだが、行政決定権があるわけではないから単なるアドバイザー的役割と考えていい。任命されなかった6名は普天間基地移設問題や集団的自衛権行使問題などについて学者としての知見で政府の政策を批判した方たちのようだ。
 確かに日本学術会議には任命権はなく、日本学術会議法によれば「会員は、(日本学術会議の)推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」(第7条2項)とある。菅総理は、この法律が総理の任命権を認めていると解釈したようだ。
 この法律によれば、文言上は総理に任命権があるように見えるが、総理の任命権についてはかつて中曽根総理が国会で「形式的なものに過ぎない」と答弁している。その解釈を変えたというなら、大変な事態が生じかねない。実は憲法の条文上では、内閣総理大臣の任命権は天皇にあることになっているからだ。
「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」(憲法第6条)
 さあさあさあさあ、どうする。
日本学術会議法7条2項が形式上の手続きを定めたものではなく、実質的に内閣総理大臣が任命権を行使できるという法解釈が成り立つならば、憲法6条による内閣総理大臣の任命権も実質的に天皇が行使できることになる。つまり、国会の指名を天皇は拒否できることになるのだ。天皇に総理大臣任命権があるとなれば、象徴天皇制はどうなる? まさか「天皇親政」制に戻したいと考えているわけではないだろうな。
 さあさあさあさあ、どうする。

【追記】日本学術会議が推薦した新会員のうち6名を菅総理が任命しなかった件について、「学問の自由に対する侵害」という批判がある。が、そうした批判は的外れである。
 別に菅総理は任命しなかった6名の学者に対して「従来の見解を変えろ」とか、大学などでの地位をはく奪したり、あるいは研究内容に対して政治的迫害を加えているわけではない。菅総理が行ったのは任命権の拡大解釈であり、会員について内閣総理大臣が日本学術会議の推薦に基づいて「任命する」という法規定を、「任命権が内閣総理大臣にある」と、勝手に拡大解釈したことが問題なのだ。
 だから私は、そんな拡大解釈ができるなら、憲法6条の規定(天皇は…内閣総理大臣を任命する)も天皇の任命権を認めることになるぞ、と主張しているだけだ。つまり国会が指名しようがしまいが、天皇が気に食わない人物は内閣総理大臣任命を拒否することができることになる。天皇は象徴天皇ではなく、親政天皇になることを意味する。
「…に基づいて任命する」と意味の主体は「…」にあり、任命者にあるわけではない。たとえば「…」の部分が複数であり、その中から任命者が選ぶということであれば、任命者の任命権は複数の候補者の範囲に限定して行使できる。日本学術会議法は、日本学術会議が推薦した人物に対する内閣総理大臣の否認権は認めていない。(5日)


【追記2】5日夕方、ついに菅総理が内閣記者会で説明らしきことを述べた。総理の説明によれば、日本学術会議が推薦した新会員105名のうち6名を任命しなかったことについて、学術会議には年間約10億円の予算を充てており、会員の身分は公務員であるから「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保する観点から判断した」らしい。
 そのうえで総理の「任命権」行使については「法に基づいて、内閣法制局にも確認の上で、学術会議の推薦者の中から総理大臣として任命しているものであり、個別の人事に関することについて湖面は控えたい」と述べた。
 実は朝日新聞には【追記】の箇所はメールしておいたのだが、朝日はこの総理発言をいち早くネットで紹介したものの、「推薦者の中から」の「の中」を意図的に削除した。つまり朝日がネット配信した記事は「学術会議の推薦者から総理大臣として任命した」としたのである。なぜ朝日は、この菅総理の発言の中で最も重要な個所をわざわざ削除したのか。新聞の定期購読者の新聞代の消費税を据え置いてくれたことへの恩返しだったのか(駅売店やコンビニで販売している新聞にかかる消費税は10%)。半沢直樹ではないが、借りは倍返し、いや10倍返し、100倍返しすることにしたのか。
「日本学術会議法」第7条2項にはこうある。
「会員は、第17条(※学術会議が会員を選考する基準を定めた条文)の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」
 日本学術会議の定員は210名で任期は6年、3年ごとに半数が入れ替わることになっている。今回日本学術会議が推薦したのは入れ替わる105名ジャストである。つまり総理が「推薦者の中から」選考する余地はまったくないのだ。確かに定員105名に対して日本学術会議が候補者として150名を推薦し、その中から任命者が105名に絞るのであれば、間違いなく総理には会員の任命権があることになる。が、総理には任命権がないから、日本学術会議は定員ジャストの105名を推薦した。「日本学術会議法」17条にはこうある。
「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦するものとする」
 つまり会員の選考に関して総理大臣(実質的には内閣府の官僚)が口ばしを入れる余地はまったくないのだ。どうしても日本学術会議会員の選考権を総理が握りたければ、安倍前総理お得意の「法改正」をする必要があった。
が、菅総理は現行法に反して「推薦者の中から」選考したかのような説明を内閣記者会で行った。で、朝日は総理の発言通りに記事化したら「恩を仇で返すことになる」と判断したのだろう、「の中」という極めて重要な総理の法認識を示す発言個所を削除してしまった。「借り」を倍、10倍、100倍にして返した朝日は見上げたものと言いたいが、ジャーナリズムとしては自殺行為に等しい。朝日が主筆を復活して船橋洋一氏が就任したとき、1面囲み記事で「朝日のジャーナリスト魂は権力にあくまで食らいつくことだ」と述べた。朝日は権力に食らいつくより、恩返しの方を重視するようになったというわけか。
 それはともかく、「法解釈の整合性」は絶対に曲げてはならない、法治国家の大原則である。
 したがって、日本学術会議の会員は「内閣総理大臣が任命する」のだから総理大臣に任命権があるというなら、天皇は国民統合の象徴ではなく、立法府および行政府に君臨する最高権力者ということになる。憲法6条には「天皇が内閣総理大臣を任命する」と明記されているのだから。「法解釈の整合性」を保つためには、そうするしかない。朝日は天皇の位置づけを変えよ。(6日)
※この追記は5日の深夜に書いた。当然6日の朝刊は読んでいない。6日の朝日朝刊はかなり政府に手厳しい記事を書いたが、総理の任命権については理解を示しているようにも読める。
 ただ、私がブログで記載した日本学術会議法の条文記載は、2日の朝日朝刊29面に記載されたことをそのまま使った。まさか朝日が法律の条文を断りなく「作文」するとは、さすがに私にも思いもよらないことだった。
 6日朝刊に記載された法律条文が正しければ、日本学術会議法の第1条2項に「日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする」とある。この条文の意味するところと、会議の独立性との関係の検証が必要となる。菅総理が任命権を主張した法的根拠は第7条2項ではなく、この条文にある可能性が高いと思われるからだ。
 また2日の記事では17条の記載について、意図的に(としか考えられない)、学術会議が「会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦する」としているが、6日の朝刊によれば正確には「選考し」の後に「内閣府令で定めるところにより」という文言が入っている。なお2日の記事中の条文は「要旨」あるいは「要約」ではなく「抜粋」とある。29面記事は社会面であり、総合面でも政治面でもない。なぜこのようなねつ造を行ったのか、朝日は説明すべきだ。(6日)




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