小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

緊急提言――オバマ大統領の恫喝発言に、またも屈した安倍総理は一国のリーダーとしての自覚はあるのか。

2014-04-28 06:25:08 | Weblog
 5月6日までブログは休止するつもりだったが、昨日のNHKニュース7での安倍総理の発言を聞いて、怒り心頭に発したので、急きょ連載中のブログに割り込んで書くことにする。まずどういう発言がどういう背景で行われたかを読者にお知らせする必要があるので、NHKオンラインに掲載されているニュース記事をそのまま転載する。なおニュース記事のタイトルは『首相「慰安婦思うと胸が痛む」』である。

 安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領がいわゆる従軍慰安婦の問題について、「甚だしい人権侵害」と述べたことに関連して、「慰安婦の方々のことを思うと本当に心が痛む」と述べたうえで、同様の問題が起らない21世紀にするため、日本も大きな貢献をしていく考えを示しました。
 アメリカのオバマ大統領は25日、韓国のパク・クネ大統領と行った共同記者会見で、いわゆる従軍慰安婦の問題について、「はなはだしい人権侵害で、安倍総理大臣も日本国民も過去は誠実、公正に認識されなければならないことは分かっていると思う」と述べました。
 これに関連して安倍総理大臣は27日午後、視察先の岩手県岩泉町で記者団に対し、「筆舌に尽くし難い思いをされた慰安婦の方々のことを思うと、本当に胸が痛む思いだ。20世紀は女性をはじめ、多くの人権が侵害された世紀だった」と述べました。
 そのうえで安倍総理大臣は、「21世紀はそうしたことが起らない世紀にするために日本としても大きな貢献をしていきたい。今後とも国際社会に対して、日本の考え方、日本の方針について説明していきたい」と述べました。

 一見問題にするような発言ではないように思われるかもしれないが、オバマ大統領が日韓関係を正常化するため、そこまで韓国に肩入れするなら、日本も「はい、ごめんなさい」と頭を下げるべきではない。従軍慰安婦問題で戦後最悪の関係になりつつある日韓関係の正常化をオバマ大統領が日韓両国首脳に働きかけることは、アメリカの国益として中国の海洋進出を防ぐための防波堤づくりのためであること、さらに今年11月に控えた中間選挙で自らが属する民主党が共和党との戦いを有利に進めなければならないという重大な責任をオバマ大統領が背負っているという意味では、多少のことには私も目くじらを立てたりするつもりはない。
 だが、従軍慰安婦問題で、そこまで韓国に肩入れするなら、安倍総理も主権国家であり、アメリカの「同盟国」のリーダーとして言うべきことは言うべきである。少なくとも従軍慰安婦問題は吉田清治氏がノンフィクション作品として上梓した『私の戦争犯罪』(1983年、三一書房から出版。韓国でも韓国版が89年に出版)、それを朝日新聞が大々的に報道したことが韓国に伝わり、従軍慰安婦問題が一気に浮上した経緯(外交問題になったのは92年)をオバマ大統領に説明すべきだった。
 また吉田氏が205人の朝鮮人婦女子を慰安婦にするため10人の兵士とともに済州島で強制連行(いわゆる慰安婦狩り)について、済州島の地元紙「済州新聞」が調査に基づいて吉田氏の証言が事実無根であることを報道し、吉田氏自身も95年に「自分の役目は終わった」として作品がフィクションであることを認め、さらに翌96年には「週刊新潮」のインタビューで「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない」と語った事実も明らかにすべきだった。
 にもかかわらず、96年の国連クマラスワミ報告や2007年の米下院121号決議では出吉田氏の著作が有力な証拠として採用されたまま、撤回も修正もされていない。さらに従軍慰安婦問題の大々的プロパガンダによって韓国の反日世論形成に大きな役割を果たした朝日新聞は97年3月31日になって吉田氏の「著述を裏付ける証言は出ておらず、審議は確認できない」との記事を掲載したが、朝日新聞自身による検証作業もせず、訂正記事も出していない。戦後のメディアの最大の「誤報犯罪」と言っても過言ではない。
 このケースに限らず、メディアはどうでもいいような誤報は小さく訂正記事を書いて、あたかも「誤報はちゃんと訂正しますよ」とPRしているが、報道の信頼性にかかわるようなケースについては検証もしなければ、第三者による検証結果も無視して紙面に載せない。もちろん誤報だったことは絶対認めない。
 今回のブログは朝日新聞社の姿勢に対する批判が目的ではないから、この辺で止めておくが、少なくとも安倍総理がオバマ大統領とパク・クネ大統領の共同記者会見を受けて従軍慰安婦問題について発言するなら、こう発言してほしかった。

「先の大戦時に日本軍が進駐先で日本軍兵士の性欲処理のために慰安所を設けたことは事実であり、売春婦を中心に慰安婦を公募したことも事実で、女性に対する人権を侵害したことを心から謝罪したい。また海外での慰安所設置だけでなく、敗戦後にわが国を占領した進駐軍兵士の性犯罪防止と性欲処理のために、日本の売春婦を中心に慰安婦を公募して慰安所を設置するという行為まで日本政府は行い、日本の女性の人権も侵害した。その反省に立って、日本は戦後売春禁止法を制定する一方、性犯罪を防止するためソープランドやピンク・キャバレーなどでの事実上の売春行為に目をつぶることにしている。そのため
現在の日本は先進国の中で最も性犯罪が少ない国の一つになった(※最後の部
分は私の推定)」と。

 そもそも安倍総理は腰が据わっているように見えて、実はふらふらしすぎている。靖国神社参拝問題も、中韓が反発するのは承知の上で強行した(※もし中韓の反発が安倍総理にとって想定外だったとしたら一国のリーダーどころか、政治家としての見識が決定的に欠けていると言わざるを得ない)。この行為に米国政府が反発したことは、総理にとって想定外のことであっただろうことは理解できないでもない。
 結果論で、メディアは一斉に総理の靖国参拝を批判した(「全国民がこの日を待っていた」と支持した産経新聞を除いて)。批判の視点は「国際感覚がなさすぎる」というのが共通点だった。
 私は別の視点で総理は靖国参拝をすべきでないと考えている。靖国神社は、現在は国が管理する施設ではなく一宗教法人に過ぎないから、戦死者でもないのにA級戦犯を「昭和受難者」(「先の大戦の犠牲者」)と位置付けて戦死者と同等に扱おうと扱うまいと、基本的に自由だと思っている。だが、A級戦犯をそう位置づけて合祀するなら、なぜ沖縄で集団自決を日本軍兵士によって命じられた人たちも合祀しなかったのか。「昭和受難者」「先の大戦の犠牲者」として考えるとき、A級戦犯と集団自決を強制されて自ら命を落とした人たちと、どちらが重いか。そんなことは考えなくてもわかることだ。
 私は、国立の戦没者追悼墓地を作った方がいいと考えているが、自民党内に反対者が多いため実現は出来そうにない。だったらせめて沖縄に「集団自決者哀悼の碑」を立てて、終戦の日(いちおう玉音放送が行われた8月15日が妥当だと思う)に総理が哀悼の念をささげる習慣を作れば、沖縄の人たちの本国政府への不信感もどれだけ癒されることか。
 沖縄の集団自決が実は2か所だけだったことは読売新聞が調査して明らかにしたが、先の大戦における日本の軍国主義の行き過ぎを象徴した事件であり、だから二度と過ちを犯さないことを全国民、全世界の人々に誓う行為として最もふさわしい、と私は考えている。
 メディアもそういう視点を共有して貰いたい。おそらく国民の大多数も支持してくれるだろう。戦争の悲惨さを語り継ぎ、二度と過ちを犯さないという非戦の信念を、戦争を知らない世代に語り継いでいく活動も必要だが、広島・長崎の平和集会は、無意味とまでは言わないが、これは日本の一般市民が原爆という史上類を見ない非人道的兵器の犠牲者を追悼するための行為であり、先の大戦による国の犠牲になった人たちに哀悼の念を捧げる行為でもありえない。
 
 事のついでに書いておく。オバマ大統領が、韓国での従軍慰安婦問題について「甚だしい人権侵害で、安倍総理も日本国民も過去は誠実、公正に認識されなければならないことは分かっていると思う」と述べたのなら、安倍総理も(日本はアメリカの従属国ではないのだから、主権国家のリーダーとしての誇りを持って)「広島・長崎への原爆投下は世界史上空前の無差別殺人行為で、オバマ大統領もアメリカ国民も過去は誠実、公正に認識されなければならないことは分かっていると思う」と述べるべきだ。
 現在のオバマ政権は、TPP交渉の主導権を確立したいためか、あるいは中間選挙での民主党の勝利のためか、ことさらに日本を見下した言動で日本に圧力をかけようとしているかに見える。まさに、パワー・ポリティクスの典型的手法である。いまさら河野談話を見直したところで、すでに韓国政府は吉田清治氏の『私の戦争犯罪』が捏造「ノンフクション作品」であることをとっくに承知していながら、ことさらに従軍慰安婦問題を政治問題化して、それを政権に対する求心力に利用していることくらい、多少国際感覚があればわかりそうなものだが。
 ま、安倍総理がおかしな「集団的自衛権解釈」によって憲法解釈の変更を可能にし、日米安保条約の片務性を解消して対米関係を一歩でも対等に近づけたいと考えているのだとしたら、米政府の恫喝に屈してアリバイ作りのために、国会審議の場で自民党女性議員にわざわざ質問までさせて「河野談話を見直すつもりはない」と河野談話の作成過程の検証作業を棚上げにしてしまったことは、スタンスが支離滅裂状態になっているとしか思えない。安倍総理には、日本のリーダーとしての誇りと自覚をもう少し持っていただきたい。
 

日米のきしみの本当の理由は何か?--単眼思考では分からない⑤ 

2014-04-25 06:01:17 | Weblog
 昨日(24日)、安倍総理とオバマ大統領が東京・元赤坂の迎賓館で会談した。この首脳会談における日本の目的は二つだった。こじれにこじれて落としどころがなかなか見つけられないTPP交渉の大筋合意をトップ会談で図ること、さらに尖閣諸島の防衛について米国が日米安保条約に基づいて軍事的支援を行うことの確約をオバマ大統領から取り付けることであった。
 すでに4月5日に来日した米国防長官ヘーゲルが、尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲に入る、と明言していた。ただし、口には出さなかったが「中国が海洋進出の野望を捨てるまでは」という「限定条件」付きである。アメリカの尖閣諸島に対するスタンスが今後も続くという保証は何もなかった。アメリカの国益にとって、日本より中国の方が重要ということになれば、スタンスはいとも簡単にひっくり返る。それは竹島に対するアメリカのスタンスを見れば一目瞭然である。そういう意味では、米大統領が初めて「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用範囲だ」と明言したことの意味は小さくない。が、日本にとってものすごく有利な言質をオバマ大統領から取り付けたと考えていたら、お人好しもいいところである。
 では日米安保条約の5条とはどういう内容か。実はこの解釈をめぐっていろいろな説がある。現に米下院では「日本側に有利すぎる」と問題になった条項でもある。
「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危機に対処するように行動することを宣言する」
 この条項を読んで、日本が第三国から攻撃された場合、アメリカが日本を防衛する義務が自動的に生じることを明記したものと、素直に解釈できるだろうか。この条文の「各加盟国」が「米国」と書かれ、「いずれか一方」や「自国」が「日本」と書かれていれば、「5条の適用範囲」と米大統領が明言したら、アメリカは尖閣諸島の防衛義務がアメリカにあることを米大統領が認めたことになるが、オバマ大統領はヘーゲル国防長官の発言をオーソライズしたに過ぎないと考えざるを得ない。あまり有頂天になっていると、とんでもないことになりかねない。

 日本人の多くは、GHQ総司令官マッカーサーが天皇の戦争責任を不問に付して皇室の存続を認めたことで、マッカーサーに感謝している人たちが多いが、実はマッカーサーは日本を二度と工業国家として復活させない方針を持っていた。マッカーサーがアメリカで大統領になれなかったのは日本占領政策が過酷にすぎ、日本の共産主義化を招きかねないと米政府から懸念を持たれたからである。実際、マッカーサーは日本の軍事産業を解体させただけでなく、あらゆる工業生産設備をアジアに移してしまうという計画まで立てており、実施に移す直前に米本国政府から「待った」をかけられている。
 竹島も、マッカーサーは日本の施政権から外しており(マッカーサー・ライ
ン)、1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効によって、ようやくマッカーサー・ラインが廃止され、竹島の施政権は日本に返還された。が、その直前の同年1月に大韓民国の李承晩大統領が竹島の領有権を主張、マッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインを設定する。日本政府は当然反発して抗議、アメリカもこのときは「国際法上不当」と日本政府に同調する姿勢を示した。日本側は、とりあえず竹島の実効支配をアメリカに委ねるべく、竹島を米軍の訓練地として日本が提供することを約する協定を米政府との間に結んだが、もちろん竹島を軍事訓練地にできるわけがなく、アメリカは基地をつくることなど毛頭考えていなかった。一方韓国は翌53年4月には「独島義勇守備隊」が竹島に駐屯、その後は韓国警察の警備隊が占領を続けている。
 安倍政府は今年の小学校の社会科教科書検定基準に「竹島、尖閣諸島は日本の領土」と明記する方針を策定、実際にそう明記された。当然、中韓は歩調を合わせて日本の教科書検定に抗議、中韓との関係はますます悪化した。ここで問題が生じた。
 とくに竹島は日本の領土であるのに、韓国に占領されている。日本政府は韓国政府に対して一貫して「韓国の不法占拠だ」と抗議し、「国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)での法的決着」を申し入れているが、韓国側が応じない。国連安保理も「われ関せず」だし、そうなると日本は国連憲章51条で認められている二つの自衛権を行使するしかない。
 言っておくが、私は「軍事力で竹島を奪還すべきだ」などと言いたいのではない。小学生の教科書に「竹島は日本の領土」と明記させておきながら、韓国
に占領されている状態を子供たちにどう学校で説明するのかという問題を問題にしているのだ。
 安倍内閣は竹島返還にアメリカの支援を期待しているのかもしれないが、かつては「韓国の不法占拠」に抗議していたアメリカも、今は「だんまり」を決め込んでいる。肝心の個別的自衛権すら行使できない状態なのに、集団的自衛権どころではないだろう、と言いたいだけだ。
 だから私は今日のブログの冒頭で、オバマ大統領は尖閣諸島については日米安保条約5条の適用範囲に入ると明言してくれたが、いつそのスタンスをひっくり返すかわからないよ、と書いたのだ(オバマ大統領がひっくり返すことは考えられないが)。とりあえず現時点では中国の海洋進出を阻止することが極東におけるアメリカの国益に大きな影響を及ぼすから中国に対する牽制球を投げてみたというのがオバマ大統領の本音で、実際に日中で火花が散る事態になった時、アメリカがどう出るかはふたを開けてみるまでわからない。パワー・ポリティクスの世界とは、そういう世界であって、日本人は国際情勢についてあまりにも情緒的すぎる。日本人の国際感覚を情緒的にしてきたのは政府にも責任はあるが、メディアの責任も大きい。
 情緒的すぎるのは、憲法についてもそうだ。左翼政党やいわゆる「市民団体」が勝手に「平和憲法」と定義づけるのはいいとしても、メディアが同調して「平和憲法」と定義して矛盾を感じない感覚が私には信じがたい。
 私は何度も書いてきたが、「現行憲法無効」論である。理由についても何度も書いてきたが、現行憲法は占領下において制定された憲法であり、サンフランシスコ講和条約締結で独立を回復して主権国家になった時点で現行憲法は法的に無効になっていたはずである。その時点で改めて主権国家としての尊厳と国際社会に対して負うべき責任を明確にした憲法を制定すべきだった。その新憲法が、条文において現行憲法とまったく同じになったとしても、それは日本国民の総意として制定された憲法ということになり、法的にも有効である。その手続きを現行憲法は踏んでいない。だから私は現行憲法は無効だと主張しているのである。
 私も、「平和憲法」という定義は否定しているが、現行憲法の底流に脈々と流れている平和主義の考え方は基本的に尊重しているし、新憲法を制定する場合も現行憲法の平和主義は永続的に継承すべきものと考えている。ただ、現行憲法が制定された当時と、いまの日本が国際社会で占めている立場や地位は大きく異なっている。日本は自国の平和だけ考えていればいい、といった一国平和主義は国際社会から受け入れられない。そういう意味で安倍総理が国際平和の実現と維持に対して、現在の日本が国際社会で占めている地位にふさわしい責任を果たす義務があり、それを「積極的平和主義」と主張しているのであれば、私も諸手を挙げて支持したいのだが、肝心の安倍総理が「積極的平和主義」の
概念を明確にしないから、安倍総理がどういう国づくりを目指しているのかが
よくわからない。うかつには安倍総理の「積極的平和主義」を支持できないのはそのせいだ。
 安倍総理自身は、「外国の首脳たちから安倍政権の積極的平和主義は歓迎されている」と主張するが、日本人の私たちが理解できないのに外国の首脳が理解できるというのも不思議な話だ。

 中国の尖閣諸島領有権の主張は1971年から活発化しだした。1968年の海底調査で東シナ海の大陸棚に膨大な石油資源の埋蔵の可能性が指摘されたのとである。中国の主張は、①尖閣諸島は中国の大陸棚に接続している、②古文書に琉球への渡航の際に尖閣諸島を目印にしていたとの記述があり尖閣諸島を最初に発見したのは中国だ、という二つである。さすがに石油が埋蔵されたことが分かったから、といった主張はしていない。
 が、70年以前に用いていた中国の地図や公文書では尖閣諸島は日本領であることが明記されており、またアメリカの施政時代においても米国統治に抗議したこともない。こうした経緯から日本側は尖閣諸島に領有権問題は存在しないという立場をとっている。
 尖閣諸島の領有権についてはかつてブログで書いたことがあるが(いつだったか記録を探したが、かなり前だったため見つからなかった)、航路の目印にしていた時代があったなどという主張が国際的に領有権の存在理由として認められたケースは皆無であること、明清時代を通じて中国が尖閣諸島に上陸したこともなければ実効支配した事実もないことから、客観的に見ても中国の主張には無理があると書いた記憶がある。また当時は琉球王朝は中国の属国的状況にあり、そのため中国・琉球間の渡航が行われていたという事実が前提であり、琉球(沖縄県)の日本への帰属を認めている以上、論理的整合性にも欠けると書いたが、今一度確認のためウィキペディアで尖閣諸島の領有権問題を調べ直したところ、最近中国は沖縄についても領有権を主張する構えを見せつつあるらしい。私のブログを中国人が読んでいることは100%ありえないから、中国政府自身が尖閣諸島だけを自国の領土と主張することは論理的整合性に欠けることを理解したようだ。
 が、沖縄もかつては中国の属国だった時代があると中国の領有権を主張するなら、朝鮮の方が中国に対して属国的立場をとっていた期間も長いし、属国性も琉球よりはるかに大きかった。実際豊臣秀吉が朝鮮征伐を行った時には中国は朝鮮の集団的自衛権行使に応じて軍事的支援を行い秀吉の野望を粉砕したが、薩摩の島津藩が徳川幕府の許可を得て琉球を攻撃・占領したとき、琉球王朝はやはり集団的自衛権を行使して中国に軍事支援を要請したが、中国は応じなか
った。中国が沖縄まで過去の従属関係を理由に領有権を主張するなら、韓国・北朝鮮に対する支配権の方が歴史的にも、また支配権の大きさからいっても、中国に領有権主張の正当性があることになる。中国の主張は牽強付会にも相当しない。
 ただ琉球民族は人種的に日本人とは異なるため、もし沖縄県民が民族自決権を求めて独立運動をはじめたら、問題が生じかねないと私は思っている(沖縄県民に独立を勧めているわけではない)。日本は聖徳太子の憲法17条(※後世の創作説もあるが)以降「和を以て貴しと為す」という精神的規範を培ってきており、先の大戦時においても支配下に置いた朝鮮や台湾の人たちに対しても日本人と平等に扱い、教育制度の充実を図るなど融和的政策をとっていた。だからといって私は日本の「大東亜共栄圏」構想を支持しているわけではないが、「勝てば官軍、負ければ賊軍」といった世界共通の歴史認識の基準に疑問を呈しているだけである。
 
 明日からゴールデンウィークに入る。読者の方たちも行楽などのご予定があるだろう。私も一息入れたい。この続きは5月7日から再開する。ただ予告編的なことだけちょこっとお知らせしておこう。
 実は23日、集団的自衛権に重要な関係がある中央官庁の官僚に電話した内容だ。その官僚とのやり取りを再開後に書くつもりでいる。これだけは情報源を明かすわけにはいかない。大メディアだったら政府の弾圧からその官僚を守れるかもしれないが、私には不可能だ。だから「○○省庁の○○官僚」としか書けない。朝日新聞の記者のようなでっち上げ発言ではないことだけは私の名誉にかけてお約束する。

 

日米のきしみの本当の理由は何か?--単眼思考では分からない④

2014-04-24 06:39:45 | Weblog
 自衛の意味を個人の争いで考えてみよう。個人間の争いで、自衛として法律上の責任が問われないケースは「正当防衛」である。正当防衛とは「急迫不正の侵害に対し、自分または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」である。そのため行為が相手を殺傷するといった他人の権利の侵害行為になっても刑法上の犯罪も成立しなければ、民法上の損害賠償責任も発生しない。この正当防衛権は民主主義世界共通のルールでもある。この権利を認めていない民主主義国家はない。
 この権利が、国際間の紛争には必ずしも適用できないのは、個人間の争いで正当防衛権が成立する要件は「自分または他人の権利を防衛する」となっているためである。これが、実は集団的自衛権問題をややこしくしている。
 実は国連憲章は原則として自衛のための武力行使も禁じている。まず話し合いなどによる平和的解決(第三国や国際司法機関などの仲裁を求めることもできる)を原則的に義務付けている。
 しかし、当事国間の平和的解決が不可能な場合も国連憲章は想定した。それが安保理に対して紛争解決のためのあらゆる権能を与えている条文である。その条文は第6章の「平和に対する脅威、平和の破壊および侵略行為に関する行動」の41条(非軍事的措置)と42条(軍事的措置)である。
 国連憲章41条は経済制裁や外交関係の遮断など武力によらないあらゆる制裁を行う権能を安保理に与えている。実際にその対象になったのがアパルトヘイト(人種隔離)政策を法的に制度化していた南アフリカ共和国である。経済制裁などだけでなく国連の南アに対する制裁はオリンピックからも締め出すというくらい厳しいものだった。当時、南アの最大の貿易相手国は日本で、国連は日本に対する非難決議を採決したほどである。この屈辱的な事件は、日本ではほとんど報道されていない。日本の政治記者のモラルの基準は、日本の政治家は目の敵にするが、日本のアンモラルな国際的行動についてはまったく関心を示さないという好例でもある。
 しかし41条の行使によっても問題が解決しない場合を想定して設けられたのが、あらゆる軍事的制裁の権能を安保理に与えるという42条である。この武力制裁には限度が設けられていない。安保理の決議によって、原爆投下という制裁を加えることもできる。国連憲章が制定されたのは1945年6月であり、その後、連合軍の中心のアメリカは実際に日本に2度も原爆を投下している。
 ただし、41条も42条も安保理理事国の多数決では行使できない。国連安保理は現在15か国で構成されているが、そのうち米・英・仏・露・中の常任理事国5か国が拒否権を有しており、そのうちの1か国でも反対したら行使できな
いというおかしな制度だ。とくに42条は「国連軍」を前提にしているが、安保理の多数決では結成されず、常任理事国がすべて同意することが絶対的条件に
なっており、今日まで国連軍が結成されたことはない。
 そこで、国連が認めていない疑似「国連軍」ともいえる「多国籍軍」が国連軍の代行的役割を果たすことが時々ある。多国籍軍が一躍有名になったのは湾岸戦争の時で、国連決議に基づき(安保理決議ではない)、アメリカが中心になってEUや中東など約30か国がイラクに制裁を加えたケースだ。アフガニスタンでのターリバーン政権を打倒したのもアメリカが中心になって結成された多国籍軍である。またイラク戦争もアメリカが中心になって結成された多国籍軍である。いずれも多国籍軍の中心はアメリカであり、はっきり言ってしまえば多国籍軍とは米連合軍を意味する。
 これらの多国籍軍の結成の中で、とくに大きな意味を持つのはターリバーン打倒の多国籍軍である。湾岸戦争もイラク戦争も、アメリカは直接攻撃されていないにもかかわらず、「世界の警察」としてふるまった。が、ターリバーン攻撃の名目は9.11事件(イスラム過激派による同時多発テロ)に対する報復であった。アメリカは、このテロを計画したのはターリバーン政権だと主張して「個別的自衛権」を発動してターリバーンを攻撃した。そしてアメリカの要請に応じてNATO軍(北大西洋条約機構)が軍事行動を共にした。問題は、このときのNATO軍の共同軍事行動の名目である。ウィキペディアはこのケースについて「北大西洋条約機構がアメリカ同時多発テロに対する(北大西洋条約に基づく)集団的自衛権を発動して攻撃を行った」と記している。この記しかたは正確とは言えない。NATO軍は北大西洋条約に基づいて自動的に米軍と軍こと行動を共にしたわけではなく、北大西洋条約に基づいたアメリカの要請に応じて参戦したのである。つまり、アメリカは同時多発テロをターリバーン政権による自国への攻撃とみなして「個別的自衛権」を行使すると同時に、そうした「個別的自衛権」の行使を正当化するため「集団的自衛権」も行使して北大西洋条約機構に軍事的共同行動を要請したと解釈するのが合理的である。
 そう理解せずに、NATOが集団的自衛権を行使したと解釈すると、ではベトナム戦争やキューバ危機の時になぜNATOは北大西洋条約に基づく集団的自衛権を行使しなかったのかの説明がつかなくなる。ターリバーンはアメリカを目の敵にしてはいるが、EU諸国にはイスラム系住民が多く生活しており、現にターリバーンがEU諸国を相手にテロ活動を行ったこともない。NATOがアメリカの要請に応じて軍事行動を共にしたのは、そうすることがNATOにとってもヨーロッパで紛争が生じた時アメリカに軍事的支援を要請できる条
件を確実なものにするためだったのである。
 実際、国連憲章の規定もこのケースを裏付けている。先に述べたように、国連憲章は国連加盟国に原則、国際間の紛争は話し合いによる平和的解決を義務付けている。しかし、現実には紛争が生じた場合、話し合いによる平和的解決は難しい。そもそも話し合いで解決できるような問題だったら、紛争にまで至らない。現にTPP交渉も難航はしているが、日米ともに話し合いによって妥協点を見出そうと努力しており、紛争にまでは至っていない。
 そこで、話し合いによる平和的解決が不可能になった時に国連安保理に紛争解決のためのあらゆる手段をとれる権能が与えられているが、多数決主義ではないため複雑化した紛争を安保理も解決できないケースが生じることを国連憲章は想定した規定を設けている。それが加盟国すべてに「固有の権利」として認めた自衛権(51条)なのである。その固有の権利としての自衛権を憲章では「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間(※41条または42条の発動によって紛争を解決するまでの期間のこと)、個別的又は集団的自衛の固有の権利」と規定している。つまり、「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も、ともに自国防衛のために行使できる権利なのである。もっとわかりやすく書けば、個別的自衛権は自国の軍事力の行使を意味し、集団的自衛権は他の国連加盟国(実際には同盟関係にある国に限定されるが)に軍事的支援を要請できる権利のことなのである。
 日本の場合、いちおう日米安全保障条約によって日本が攻撃を受けた場合、アメリカは日本を防衛する義務を負うことになっている。だから私は何度も日本はすでに集団的自衛権をいつでも行使できる状態にあると主張してきたのだ。が、実際に有事の際、アメリカが日本の要請に応じて軍事的協力をしてくれるという保証はない。昨日オバマ大統領が来日して安倍総理とミシェラン三つ星のカウンター席だけのすし店で寿司をつまみながら懇談したようだが、その懇談での安倍総理の目的は、TPP交渉での落としどころについてアメリカはどう考えているか、また尖閣諸島で中国との間に不遜の事態が生じた時アメリカは本当に自衛隊に協力して尖閣諸島の防衛に力を貸してくれるのか、オバマ大統領の腹を探ることと言われている。つまり日本政府はアメリカを「同盟」「同盟」て連発して、国民には平和ボケを促しながら、現実に他国と武力衝突が生じたときのアメリカの対応を信用していないことを明確にしてしまったのが、今回のトップ会談である。
 今日のブログの冒頭で個人間の争いについての「正当防衛」の定義について書いたが、正当防衛は「急迫不正の侵害に対し、自分または他人の権利を防衛する行為」であるが、国際紛争における「自衛」は「自己防衛」の意味であり、他国を頼まれもしないのに防衛する権利や義務を意味してはいない。現に、ボツダム宣言に署名した中国の代表は国民党総裁で中華民国総統の蒋介石だったが、毛沢東率いる中国共産党との国共内戦で苦境に陥りながらアメリカの軍事支援を要請しなかったため、米国は中国が共産主義に支配されるのを指をくわえて見ているだけだった。蒋介石がなぜ集団的自衛権を行使してアメリカに軍事支援を要請しなかったのかは不明だが、日本政府の集団的自衛権についての従来解釈が正しければ、アメリカが指をくわえて中国の内戦に軍事介入しないはずがない。同様に、日本が他国から攻撃を受けた場合、日本が支援を要請しない限りアメリカは一歩も動けない。国連憲章が、個人間の争いにおける正当防衛と異なり、自国を守るための軍事力行使について「個別的又は集団的」としたのは、「第三国を防衛する」というこじつけで自国の利益のために軍事力を行使することを厳しく制止する目的もあったからである。
 が、問題は本当に日本が他国から攻撃された場合、アメリカが軍事的支援に乗り出してくれるという保証はない。安保条約には、アメリカが日本を軍事的に支援する場合に米議会(上院・下院)での決議が必要と明記されている。米議会が軍事的支援を決議する場合は、その支援がアメリカの国益にかなうか、少なくともアメリカの国益を損なわないことが前提になるのは当り前だ。だから朝日新聞の記者は外務省幹部の発言をでっち上げてこう書いた。「新聞記者、見てきたような記事を書く」を地でいったような記事だ。

 日本は米国をどこまで頼るのか――安倍政権内部で、激しい議論が交わされたことがある(※これは記者の想像)。
 政権発足間もない昨年春、安倍は執務室に外務省幹部らを招き、日本が第三国から攻撃を受けたときに、米国がどの段階で報復処置をとるかを議論した。「日本を助けなかったら米国の世界に対する信用は失墜する」。ある外務省幹部
はこう語り、日本が少しでも攻撃を受ければ、米国は即座に対応してくれる、
と強調した。だが、安倍の反応は違った。幹部に「本当にそうか」と問いかけて、こう続けた。「東京が攻撃を受ければ報復するかもしれないが、そうでなければ米国は迷うだろう」。(※こんな子供じみた議論を安倍総理や外務省幹部がするわけがない。こんな議論があったと記事にしたこと自体がでっち上げの何よりもの証拠だ。が、この後続く記事はいい線をいっている)
 軍事介入に及び腰な米国が、果たして尖閣諸島の防衛に無条件で手を貸すだろうか、との疑問は政権内にも広がっている。有事の際の日米の具体的な共同作戦の用意がないまま日米同盟だけに頼っていられない、という危機感だ。

 最後のくだりも記者の想像の産物だが、おそらくそれは事実だろう。安倍総理が集団的自衛権についての従来の政府解釈を変えまでして「限定容認」にしゃかりきになっているのは、有事の際の米国の軍事的支援をより確実なものにするためなのだ。どうして朝日新聞の記者はここまでたどり着きながら、集団的自衛権に政治生命をかけている安倍総理の真意を見抜くことができないのか。ひょっとしたら、この記者は私の見方に近い見方をしているのかもしれない。ただ私のようにはっきり書いてしまうと、これまでの朝日新聞の主張を覆さざるをえなくなるため、競技場の入り口まで差し掛かりながら、踵を返してしまった可能性は低くない。「宮仕え」の身も楽ではないのかな…。(続く)

日米のきしみの本当の理由は何か?--単眼思考では分からない③

2014-04-23 06:12:01 | Weblog
 今日オバマ大統領が来日する。今夜は銀座の「次郎」で寿司をつまみながら、安倍総理はオバマ大統領との会談に臨むつもりのようだ。が、首相官邸の応接室のような場所ではなく、カウンターの席に隣り合って座り寿司をつまむくらいでは、日米間に横たわっている諸問題を解決するため腹を割って話し合うつもりは、安倍総理もないようだ。ま、腹の探り合い、で終始するだろう。
 当然、「次郎」にはメディア関係者は入れない。裁判と同じで、二人が握手しながら席に座るところまでを、おそらくNHKのカメラマンがメディアを代表して撮影し、そのあとは密室になる。
 朝日新聞の記者だけではないと思うが、メディアの政治記者は政治家にぶら下がって情報を得ることだけが仕事だと思っているようだ。政治家、とくに政治部の記者がぶら下がるような大物政治家の発言は、鵜呑みにしてはいけないということぐらいわきまえておいてほしい。
 大物政治家がうそつきだと言いたいのではない。スキャンダルが生じた場合は「秘書が」「家内が」と責任逃れの答えしか返さないが、政局とか外交などについての発言は、その発言がどういう影響を発揮するかを考えて喋っている。その場合、政治家の頭のなかは国益・党益・自身の選挙などが大半を占めている。だから、発言をうのみにするのではなく、「この問題で、なぜ政治家はこういう発言をしたのか」と考える習慣を身に付けておかなければならない。そういう訓練が、メディアは記者教育の基本にしなければいけない。
 まず政治記者は、パワー・ポリティクスという言葉を理解しておく必要がある。この言葉を知らなかったら、それだけで政治記者として失格である。この言葉は、ウィキペディアによればイギリスの国際政治学者マーティン・ワイトの著書『パワー・ポリティクス』(第1版1978年)が初出とされている。そんなに古い話ではない。しかし、私はまだ学生だった1960年代にはこの言葉をすでに知っていたから、もっと古くから一般用語として認識されていたのではないかと思う。
 私のおぼろげな記憶では、パワー・ポリティクスという言葉は使わなかったかもしれないが、1920年代後半に草稿を書いたとされているプロイセンの将軍で陸軍大学校校長を務めたカール・フォン・クラウゼヴィッツが現した『戦争論』(未完成の原稿をクラウゼビッツの妻のマリーが編集した)に、すでにパワー・ポリティクスの理解が込められていたと思う。クラウゼビッツはこの有名な著書で、これまた有名になった戦争についての定義を書いた。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というのがその定義である。
 私はこの有名な定義をこう書き換えたい。
「戦争とは、外交手段による国際間の問題(紛争)解決が行き詰まった時、武力によって問題を解決しようとする政治の形態である」と。
 そこで外交的に大きな力を発揮するのがパワー・ポリティクスなのである。
ウィキペディアによれば、マーティン・ワイトはパワー・ポリティクスについてこう解説している。
「主権国家同士が軍事・経済・政治的手段を用いて互いに牽制しあうことで自らの利益を保持しようとする国際関係の状態を指す。諸国家は世界の資源を巡って争い、他国や国際社会全体の利益よりも自国の利益を優先する。その手段は、核兵器の開発・保有、先制攻撃、恫喝外交、国境地帯への軍隊の配備、関税障壁や経済制裁など多岐にわたる」
 この解説からも明らかなように、パワー・ポリティクスは人類の歴史始まっ
て以来の紛争(国際間だけとは限らない)を有利に解決するための手段として強者がとってきた政治手法なのである。そのことについての基本的理解がないと、オバマ大統領・プーチン大統領・習近平国家主席・朴大統領、そして日本の安倍総理の行動や発言がどういう意味を持って行われているのかが理解できない。
 なぜ世界でアメリカの発言力が最も大きいのか。アメリカが常に正論を主張しているからではない。アメリカの軍事力が他を圧倒しているからなのだ。それが現在のパワー・ポリティクスの現実だ。
 朝日新聞の記者はこう書いている。
「日本の歴代政権は基本的に米国の方針に従うことを日本の『外交方針』としてきたが、安倍政権では『果たして米国にだけに頼っていて、日本は生きていけるのか』という疑問が政府高官らに広がりつつある」
 この記事を書いた記者は歴代日本政府の対米姿勢の上面だけしか見ていないから、日本が外交方針を変えようとしているかに見えてしまう。安倍総理が目指しているのはアメリカ離れではなく、むしろ「日本もアメリカから頼られる存在になる」ことが日本の安全保障をより強固なものにでき、それが日本の国益だと考えていることへの理解が及ばない。
 今までの日本政府は一方的にアメリカに追随していれば、アメリカがいざというときには日本を守ってくれると考えてきた。「パワー・ポリティクスはそんな義理人情の世界ではない」ということを理解したのが安倍総理なのだ。日米間のきしみはそこから生じだしたと言ってよい。
 安倍総理がそのことに気づいたのは靖国参拝に対する米政府の反応だった。これまでも中曽根氏や小泉氏など在任中に靖国参拝をしてきた総理は何人もいる。が、これまでの日本の総理の靖国参拝に対して米国政府が「失望した」などと「同盟国」のリーダーに対して非礼な言葉を発したことは一度もなかった。そもそも「同盟国」のリーダーの行動に対して政府高官が「失望した」などという言葉を発すること自体が異例中の異例であり、非礼極まる行為だということにすら気づかない感覚は、政治記者として「鈍感」のレベルを超えている。
 しかも安倍総理は、第1次内閣発足時から憲法解釈変更によって「集団的自衛権の行使容認」を念願にしてきた。このとき安倍総理の頭の中にあったのは「固有の権利として集団的自衛権はあるが、憲法9条の制約によって行使できない、という奇妙な憲法解釈を理由に日本が米韓防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」というものだった。
 実際石油ショックを神風に変えて技術立国への道を確立した日本がアメリカ産業界にとって脅威になってきたとき、アメリカ国内で猛烈な「ジャパン・バッシング」が吹き荒れた時期がある。それまでは日本製品がアメリカ中に氾濫するようになっても「しょせん物まね」と高をくくっていたアメリカが、自分たちが石油ショックを克服するための技術開発に注力しなかった自己責任を棚に上げて、日本に対する「安保タダ乗り」論が一気に噴き出したのである。「日本はアメリカのために血を流そうとしないのに、アメリカを経済分野で苦境に追い込んでいる日本のために、なぜアメリカが血を流さなければならないのか」というアメリカ人の反日感情の爆発が「安保タダ乗り」論である。
 アメリカが日本、とくに沖縄に軍事基地を重点的に配備してきたのは「日本防衛」を口実にしつつ、実際はアメリカのパワー・ポリティクス政策のためである。が、日本もまた日米安保条約を防壁にして経済力の強化に注力してきたのも事実である。これはアメリカのパワー・ポリティクスを逆手にとった手法といわれても仕方がない政策だった。そういう意味では、「アメリカ人が日本のために血を流してくれるのなら、日本人もアメリカのために血を流す覚悟がある」という姿勢をアメリカに示すことによって米国の対日感情を好転させたいと願う安倍総理の姿勢には私も共感を覚える。
 だが、そのためには現行憲法が占領下において制定され、日本が独立を回復したのちも、当時の吉田内閣が経済復興を最優先するために主権国家としての尊厳も責任も放棄したまま憲法を改正せずに放置してきたことについて、安倍総理は正直に国民に謝り、主権国家としての権利、義務、責任はどうあるべきかを国民とともに考え、そのうえで今日の日本が国際社会に占める地位にふさわしい貢献、なかんずく環太平洋の平和と安全に対して日本が負うべき責任や義務について国民の意思を問う姿勢が必要なのだ。
 私は湾岸戦争で、日本が国際平和のために何の貢献もできなかっただけでなく、犯罪集団ではなくフセイン政権という国家権力によって日本の民間人141人が人質として拘束されたとき、当時の海部内閣が日本人の命を守るために何もしなかったことを、外国人はどう見ていたか。クウェートがイラクの占領から解放されたとき、世界の主要紙に感謝広告を掲載した中で日本はクウェートが感謝した国から外された。「カネしか出さず、軍事的支援をしなかったから」と知ったかぶりの記事を書いたジャーナリストは多かったが、私は「自国の国民の安全すら守ろうとしなかった日本」を侮蔑することがクウェートの意図だったと思っている。
 私がこのとき書いた『日本が危ない』(コスモの本)のまえがきで、平和ボケした日本政府についてこう書いた。
 
 私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
 海部内閣が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなか
ったに違いない。
 もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。

 私はこれまで安倍総理の「集団的自衛権行使容認」のための方策をことごとく批判してきた。そもそも、集団的自衛権についての従来の政府解釈(国会答弁での)そのものが間違っており、間違った解釈を正さずに憲法解釈の変更で「集団的自衛権」なるものを行使できるようにするといった姑息な方法をとるべきではない、というのが私の基本的スタンスである。
 集団的自衛権は国連憲章51条に明確に規定されており、日本はいつでも行使できる権利である。いや、日本だけでなく、すべての国連加盟国は他国から攻撃された場合、いつでも行使できることを定めたのがこの規定だ。
 日本語を知っている人なら、だれでもすぐ分かりそうなものだが、「自衛」とは「自己防衛」のことである。他国を防衛することではない。『広辞林』も自衛の意味について「自分を防衛すること」と簡単に説明しているだけだ。それ以外の解釈はありえない。問題はこの「自己防衛」の範囲をどこまで認めるかである。国際間の紛争ではなく、個人間の争いで考えると分かりやすい。(続く)
 


日米のきしみの本当の理由は何か?--単眼思考では分からない②

2014-04-22 06:44:05 | Weblog
 さてこの記事を書いた朝日新聞の記者の目の付け所はなかなか良かったと思う。が、なぜ日米関係がぎくしゃくしだしたのか、朝日新聞が「牽強付会」とまで決めつけた高村副総裁の砂川判決の解釈は、何が目的だったのか。TPP交渉での対立はなぜ生じたのか。そもそも今のオバマ大統領の外交政策は、アメリカではリベラルとされる民主党的なものというより共和党に近いことに気が付いていないのか。
 確かにオバマ大統領はヒラリー・クリントンがクリントン政権時代に政治生命をかけて取り組んだ国民皆保険制を、いちおう共和党をねじ伏せて導入した。アメリカでは、どこまで実効性があるかはまだ不明だが…。が、保険制度を除けばオバマ大統領の政策、とくに外交方針は共和党の代表といっても過言ではないくらい覇権主義的だ。いまアメリカでオバマ大統領の支持率は日本の安倍首相や韓国の朴大統領の支持率より高いのではないだろうか(日本のメディアがアメリカの大統領支持率を報道しないので私の想像だが)。民主党支持者は当然オバマ大統領を支持しているだろうが、共和党支持者もかなりの人たちが現在のオバマ大統領の政策を支持していると思う。そうとしか考えられないほど、オバマ大統領は「国益」を前面に打ち出した外交を行っているからだ。こうした外交政策は民主党の伝統的なものとはまったく違う。
 アメリカは今秋、中間選挙を控えている。現在2期目のオバマ氏は2年半後の任期満了で大統領を退く。今オバマ大統領にとっては中間選挙に勝利して民主党政権を継続させることが最優先の政治的課題になっている。前回の中間選挙(2010年11月)では上下両院とも民主党は議席数をかなり減少しており、12年の大統領選も事前予測では「オバマ不利」がささやかれていたが、選挙戦終盤の追い込みで逆転して再選を果たしたという経緯もあった。今年の中間選挙では何が何でも民主党の躍進を果たすことが党のリーダーとしての責任でもある。
 オバマ大統領は内政面では、健康保険制度を導入したことで、自分の役割は終えたと考えている。経済政策では共和党のレーガン大統領が採った極端な自由競争主義政策(レーガノミクス)に近い。健康保険制度は導入したが、銃規制はまったく行おうという気配すら見せない。

「漂う日米」を書いた朝日新聞の記者は、かつて現在以上に日米間がぎくしゃくした時期があったことを知らない若い世代の記者なのだろうか。そんな若い記者が、これだけの「大論文」といっても差し支えないほどの記事を書けるとも思えないのだが(なお記者は一人ではない)。
 日米経済戦争――そう呼ばれた時期がある。日本が実質的に高度産業分野でアメリカを抜いて世界NO.1に躍り出たことによって生じた摩擦である。
 きっかけは2度の石油ショックだった。ほとんど100%近くを輸入、とくに
中東からの輸入に頼っていた日本は、OPEC(石油輸出国機構)のカルテル原油値上げに悲鳴を上げた。結果的にはこの石油ショックが日本の産業競争力を一気に高めることになったのだが、そういう意味では結果論ではあるが、石油ショックは日本産業界にとっては「神風」になったのである。日本はこの高度経済成長期以来、初めて訪れた危機を克服するため、日本産業界は総力を挙げて生き残りのための死に物狂いの技術開発に取り組んだ。 
 高度経済成長期の日本の技術は先進国アメリカの後追いに終始してきた。確かに日本の生産技術は世界の一流レベルに達しており、そういう意味では日本製品に対する世界の信用は急速に高まっていた。が、それは生産技術の高度化にすぎず、アメリカからは「物まねにすぎない」と揶揄されていた。そのころのアメリカ産業界はまだ開発技術力に関しては自信を持っており、日本製品を「物まね」と揶揄するだけの余裕があった。
 が、石油ショックで窮地に陥った日本産業界は一致団結してこの危機を打開するための技術開発に取り組んだ。その時期の合言葉が三つあった。
 ●省エネ省力
 ●軽薄短小
 ●メカトロニクス
 この合言葉を日本の産業界は技術革新の基本に据えた。この技術開発の目的は“脱石油”だった。脱石油といっても、石油に代わるエネルギー資源を求めただけではない。確かに化学産業は石油化学からかつての石炭化学への回帰を試みようとしたが、それは失敗に終わった。そういう失敗もあったが、石油がエネルギー資源や化学原料として欠かせないことが分かった時、石油の消費量を少なくすることによってコスト削減を図ろうと全力を傾けることにしたのである。そのための技術革新の合言葉が、先に述べた三つだったのである。そうした日本の「逆風を神風に変えた」大逆転劇のことを記憶にとどめている記者は、もう朝日新聞にはほとんど残っていないのかもしれない。
 一方アメリカの石油輸入量は国内消費の約半分だった。そのためOPECとの力関係も日本とは違い、石油ショックによる打撃をそれほどは受けなかった。その結果、日本産業界のように一致団結して「省エネ省力」「軽薄短小」「メカトロニクス」に本腰を入れて取り組もうとしなかった。アメリカが悪い、と言ってしまえばそれまでだが、この石油ショックを神風に変えた日本の産業界と、ほとんど脱石油の技術開発に取り組まなかったアメリカ産業界との競争力は一気に逆転してしまったのである。
 こうして技術立国の名をほしいままにした日本は、アメリカ産業界にとって脅威を通り過ぎて憎しみの対象になっていく。現在の日米対立はまだ政府レベ
ルにとどまっているが、当時はアメリカ国内が「ジャパンバッシング」一色に
染まっていったのである。アメリカを象徴する一大産業都市だったデトロイトには失業者が溢れ、街角のあちこちで日本車がハンマーで叩き壊されたり火をつけられたりした。その時アメリカを覆う世論として吹き出したのが「安保タダ乗り論」だった。日本は自国の安全保障をアメリカに委ね、税金を産業界のためにだけ使っているというのが「安保タダ乗り論」の中身である。
 そうした国内世論を背景に、米政府が日本の経済政策に攻撃を仕掛けた象徴が「日米構造協議」(1989~90年にかけて5回行われた2国間協議で、今日のアメリカのグローバル化の原点になった経済外交政策である)だった。アメリカは「日本の経済政策は生産者の立場に立っており、消費者を無視している」と徹底的に批判し始めた。また日本のメディアもアメリカ政府の応援団になった。とくに朝日新聞はアメリカの対日批判を肯定して、日本の経済政策に対する批判キャンペーンをはった。
 戦後の日米関係が最も悪化した時期である。このアメリカの対日批判によって、日本政府が歴代守ってきた零細商店を保護するための「大店法」も廃止された。そういう時代があったということを朝日新聞の記者はまったく知らないのか、すっかり忘れていたのか、朝日新聞の記者が私のブログを読めば「あっ、いけねぇ」と頭を抱えるはずだ。目先の情報にばかり目がとられているとそういう齟齬(そご)をきたす。単眼思考ではジャーナリスト失格と言わねばならない。
 日米構造協議では、日本側もかなり強烈にアメリカ企業の経営姿勢を批判した。アメリカ企業の経営者は、株主の利益を最優先することを最大の使命と考えている。しかも日本の原則1年決算方式と異なり、四半期決算が原則である。つまり3か月ごとに経営者は株主から厳しい目で業績を評価される。だから、アメリカの経営者は目先の利益を重視し、中長期にわたる経営戦略を立てたり、長期の開発努力が必要な研究にはあまり力を入れない。アメリカの場合は軍事研究は利益を目的にしていないから、人材もカネも惜しみなく注げる(最近はそういった余裕もなくなりつつあるが)。その軍事力向上のための研究成果のおこぼれを、民間企業はいわば「タダ同然」に手に入れてきた。アメリカがかつて誇ってきた最先端技術力は、企業努力によるもの(もないではないが)ではなかったのである。そのうえ企業の業績が悪化すれば、50%以上をオーナー(家族や緊密な関係の株主も含み)が株式を保有していれば株主総会を乗り切れるが、それでも少数株主が、明らかに経営者の失敗と考えると裁判に訴えることもする。日本でも最近、少数株主訴訟が生じるケースがいくつか出ており、東京電力なども現在係争中だが、日本の大企業の大多数の経営者はサラリーマン社長であり、少数株主が勝訴しても損害を取り戻せるわけではない。
 日米の経営者の会社に対する思いは日本とはまるで違う。同じ資本主義といっても、「資本主義」という言葉で一括りにはできないのだ。
 実は日米構造協議で日米が官民挙げて非難し合った時期、日本でも「会社は誰のものか」という議論が盛んに新聞紙面や経済誌をにぎわせていた。そのことを頭の片隅に残している経済評論家も経済ジャーナリストもほとんどいない。
 日本のオーナー経営者は「かまどの灰まで自分のもの」という感覚を持っている人たちがまだ多い。私はそうしたオーナー経営者のことを「儒教型経営者」と呼ぶことにしているが、アメリカ型の経営者は自分の会社も「商品」として考える傾向が強い。だから自分より有能な人材を見つけるとさっさとCEO(最高意思決定者)の座を譲ってしまう。ただし、そのCEOは「やとわれマダム」のような存在だから、利益を上げられなければ直ちにオーナーからクビを宣告される。最近日本もそういうアメリカ型のオーナーが増えてきて、ファーストリテーリング(結局オーナーが返り咲いたが)や和民などのように経営権を有能な人材に譲る会社が増えては来ている。どちらのタイプがいいのかは一概には言えないが、そうした日米の経営風土の違いくらいは、政治部の記者でも基礎知識として知っておいた方がいい。軍事・外交・経済は政治の基本政策に直結するからだ。政治家の言動ばかり追いかけていると。そうした複雑な絡み合いの中でリーダーの意思決定がなされていくことに気づかない。(続く)

日米のきしみの本当の理由は何か?--単眼思考ではわからない①

2014-04-21 05:50:00 | Weblog
 朝日新聞の記者が、今頃になって少しわかりだしたようだ。でも「少し」にすぎない。19日付朝刊2面で『(漂う日米)有事の不安、首相譲歩、きしむ首脳間、修復に必死』と題するかなり長文の署名記事を掲載した。この記事は同紙1面に掲載された『(漂う日米:下)TPP交渉、靖国の負い目』に続く解説記事である。とりあえず1面記事からさわりの部分を転載する。

 会談を求めたのは米国大統領オバマの方だった。
 3月25日夜、オランダ・ハーグの米大使公邸。オバマが仲介して実現した日米間首脳会議の後、日本の首相、安倍晋三とオバマが部屋に残った。同席者は通訳のみ。オバマが話したかったのは環太平洋経済連携協定(TPP)だった。
「国内外の目は今回の訪日(※今月24日から2泊の予定)をTPPの成否で評価する。そこは分かってくれ」
 ふだんは冷静なオバマが強い調子で日本の妥協を迫った。安部はその場で日本の立場を即答せず、深入りを避けた。首相は次の予定を理由に、わずか10分で会談を打ち切った。
 安倍がオバマに即答ができなかったのは、米側が求める牛・豚肉などの農産物「重要5項目」の関税撤廃に対し、自民党の反発が強いからだ。(中略)
 しかし、安倍には負い目があった。昨年末の自身の靖国神社参拝だ。冷え込んでいた日韓関係はさらに悪化。日米韓連携を重視するオバマ政権がアジア外交の「礎石」と位置付ける日本が、逆に米国の「リスク」になってしまった。

 この1面記事に続いて2面に掲載されたのが、私が「朝日新聞が、今頃になって少しわかりだしたようだ」と冒頭に書いた記事である。その記事のさわりも転載する。

 靖国神社参拝で悪化した日米関係の修復のため、安倍晋三がオバマに大きく譲歩したのが、従軍慰安婦を巡る河野談話だった。
 3月14日の参院予算委員会。安部は河野談話について「安倍内閣で見直すことは考えていない」と明言した。この答弁は、米側の強い要請にこたえたものだった。安部は事前に、自らの口で米政府高官に河野談話を見直さない方針を説明。安部の考えはオバマにも伝えられた。日米韓は安倍の発言で、首脳会談に向けて大きく前進した。
 安倍はもともと河野談話には否定的だ。第1次内閣では、軍や官憲による強制連行を直接示すような記述はなかった、とする政府答弁書を閣議決定。2012年9月の自民党総裁選でも河野談話を見直す考えに言及している。
 オバマ政権は安倍のこうした姿勢を当初から警戒していた。従軍慰安婦問題
で、ともに米国の同盟国である日韓がこじれれば、軍事的に台頭する中国、核・
ミサイル開発を進める北朝鮮につけいるスキを与える。米国が描くアジア外交は日米間の強固な関係が大前提。安部の靖国参拝で米国が「失望」を表明したのも、そうした米国の基本戦略を安倍が狂わせた、と見たからだ。(中略)
 安倍とオバマの関係は、今も「うまくいっていない。あまり話せていないようだ」(首相周辺)。
 それでも安倍は妥協を重ね、オバマとの関係の修復を目指すのは、それだけ米国抜きでは日本の安全保障が考えられないからだ。
 中国は尖閣諸島沖の日本の領海に公船を侵入させ、尖閣を含む上空を自国の防衛識別圏に設定するなど、日中は一発触発の状況すらはらむ。圧倒的な軍事力を持つ米国に「にらみ」をきかせてもらわないと、中国はどんな挑発をしてくるかわからない。北朝鮮は、日米韓首脳会談の最中に中距離弾道ミサイル「ノドン」を発射した。日本全体が射程に入るミサイルだ。こうした状況を考えれば「いまのところ日本が生きる道は米国に頼るしかない」(日本政府高官)のが現実だ。
 米側にそんな日本の足元を見る空気も漂う。日米関係に詳しいワシントンの識者は「オバマ政権は、米国による尖閣防衛とTPP交渉を結びつけ、TPPで譲歩を引き出す考えかもしれない」と話す。
 一方、安倍は米国との同盟は日本の安全を守るうえで欠かせないと認めつつ、米国依存からの自立志向を時にちらつかせる。
 日本は米国をとこまで頼るのか――安倍政権内部で、激しい議論が交わされたことがある。
 政権発足間もない昨年春、安倍は執務室に外務省幹部らを招き、日本が第三国から攻撃を受けたときに、米国がどの段階で報復処置をとるかを議論した。
「日本を助けなかったら米国の世界に対する信用は失墜する」。ある外務省幹部はこう語り、日本が少しでも攻撃を受ければ、米国は即座に対応してくれる、と強調した。だが、安倍の反応は違った。幹部に「本当にそうか」と問いかけて、こう続けた。「東京が攻撃を受ければ報復するかもしれないが、そうでなければ米国は迷うだろう」。
 軍事介入に及び腰な米国が、果たして尖閣諸島の防衛に無条件で手を貸すだろうか、との疑問は政権内にも広がっている。有事の際の日米の具体的な共同作戦の用意がないまま日米同盟だけに頼っていられない、という危機感だ。
 4月5日に来日した米国防長官ヘーゲルは、尖閣諸島を念頭に、日中で軍事的な危機が高まれば、日米安保条約に基づく「防衛義務を果たす」と明言した。
 しかし、オバマはこれまで、尖閣諸島の防衛義務に直接言及したことはない。
今回の会談で、オバマの口からどのような言葉が語られるのか。日本側は息をのんで見守っている。(中略)
 日本の歴代政権は基本的に米国の方針に従うことを日本の「外交方針」としてきたが、安倍政権では「果たして米国だけに頼っていて、日本は生きていけるのか」という疑問が政府高官らに広がりつつある。
 それが安倍政権の「独自外交」の形で姿を見せ始めている。その象徴が、昨年のシリア問題への対応だ。(中略)
 ロシアのクリミア併合への対応でも、日米の温度差が際立った。ロシアを激しく非難するオバマに対し、北方領土問題の解決を重視する安倍はロシア大統領プーチンへの批判を避けた。日本のロシアに対する制裁も米欧に比べて軽いものにとどめた。
 それでも、安倍は米欧に足並みを揃えざるを得ない。(中略)
 中国や北朝鮮の「脅威」から日本を守るためには、アジア・太平洋地域で圧倒的な軍事力を持つ米国との強固な結びつきは維持しなくてはいけない。しかし、世界唯一の超大国だった米国の威信が揺らぎ、世界秩序が混乱する時に、とにかく米国についていけば日本の国益が守られるほど、世界の情勢は甘くはない。
 アジア歴訪で存在感が問われるオバマとともに、安倍の立ち位置もまた、揺れている。

 かなり長文の転載だった。私がこれだけの長文を転載したのには、当然それなりの理由がある。
 理由については長くなるので、明日以降のブログで詳細に述べるが、一言でいえば朝日新聞の記者は、マラソンに例えれば観客が待ち受ける競技場の入り口まで差し掛かったと言える。そこまでたどり着きながら、踵を返してしまった。「もったいない」と、マジで思う。
 まず基本的なことを朝日新聞の記者は十分に理解していないようだ。一国のリーダーは、それが本当に国益にかなっていたかどうかは歴史の検証を待たねばならないが、いちおう国益(リーダーが考えている「国益」にすぎないが)を最重要視した政策(軍事・外交・経済・社会福祉・スポーツに至るまで)を模索している。本来ウクライナの内紛は、アメリカにとっても日本にとっても、極端な言い方をすればどうでもいいことなのだ。が、EUにとっては安全保障に直結するきわめて重要な国際問題である。EUにとって重要な国際問題は、当然アメリカの国益を左右する。オバマ大統領がロシアに対する制裁を強めたのは、EUとの強固な関係を維持することが現時点では最優先すべき国益だと、オバマ大統領は考えたからだ。
 一方、安倍総理の方は北方領土やシベリヤの資源開発でロシアとの友好関係
を深めつつあったときに生じた問題で、日本の国益にとってはウクライナの暫定政権を支援するよりロシアを支持したほうがいいと考えるのは当たり前の話だ。またクリミアのウクライナからの離反・独立は国連憲章が重要視する民族自決の問題だと主張すれば、住民投票まで行ってクリミアの住民たちが出した結論に対して内政干渉すべきではないという「正論」も成り立つ。しかし、ロシアを支援したらアメリカが「日本はそういう国か」とアメリカは思うに決まっている。安倍総理は確かに逡巡はしたが、結局アメリカを選んだのは、揺れているのではなく、安倍総理が考えた日本の国益を最優先しただけの話だ。
 オバマが日韓の仲介役をあえて買って出たのも、中国の海洋進出の防波堤として日韓は重要な地理的・軍事的地位を占めている、と考えているからである。だから、私は3月17,18日に連続投稿したブログで、安倍総理が「河野談話の
見直しはしない」と、わざわざ自民党の議員に質問させて答弁したことの意味
を書いた。内容の要点は明日以降(いつになるかは、今は分からない)のブログで改めて書くが、そのブログのタイトルだけ書いておこう。

安倍総理の「河野談話は継承する」との国会答弁で、一番喜んだのは韓国の朴大統領だったのか? 違うよ。

 最後にチクリ。「新聞記者、見てきたようなウソを書く」といわれる。この長文の記事がびったしだ。曖昧さであふれている。
 基本的に情報源を「政府高官」とか「首相周辺」「外務省幹部」「識者」などとした不特定な発言内容はほぼすべて記者のでっち上げと考えてよい。自分の想像を裏付けるがごとき情報源を特定しない「発言」は、特定するとまずいきわめて気密性が高いケースは別として、この記事の場合、そういうたぐいのものは一切ない。私はブログで、そういう子汚い手法は一切使っていない。ブログだけでなく、32冊の著作においても情報源はすべて特定している。情報源がない場合は、自分の考え、と断って書いてきた。それがジャーナリストの基本的姿勢だと私は考えているからだ。

自民党「集団的自衛権行使」 強硬派は支離滅裂な主張で、とうとう墓穴を掘った。

2014-04-18 06:32:49 | Weblog
「屁理屈」の意味を『広辞林』で調べてみた。『広辞林』によれば、「役に立たない理屈。道理に合わない議論」とあった。なるほど安倍総理は安保法制懇に「集団的自衛権行使を容認できるようにするための憲法解釈の屁理屈」を思いつくことを要求していたらしい。その期待に応え、安保法制懇はノーベル賞級の「屁理屈」を思いついたようだ。
 ただし、感心したのは、ノーベル賞級の「屁理屈」を考え出した「才能」に対してであって、屁理屈そのものを容認したわけではない。屁理屈は、屁理屈にしか過ぎないからだ。こんな屁理屈に国民が納得するとでも、安保法制懇のメンバーは本当に思っているのだろうか。もし、安倍総理がその屁理屈に喜んでいるとしたら、われわれ日本人は救いようのない史上最大級の大バカ総理を抱いてしまったことになる。
 その「屁理屈」とは朝日新聞(4月12日付朝刊)によれば、安保法制懇は憲法9条1項の「国際紛争を解決する手段としての武力行使を永遠に放棄する」と定めているが、いまのところゴールデンウィーク明けにも提出が予定されている報告書の中で、「憲法9条がいう国際紛争とは日本が当事者である国際紛争のこと」と限定解釈すれば憲法を改正しなくても集団的自衛権を行使できるという珍説を報告書に盛り込むようだ。つまり安保法制懇は、日本が当事者ではない国際紛争については武力行使を禁止していないと言いたいらしい。従来の解釈や一般的常識を180度ひっくり返す論理であり、「ノーベル屁理屈賞」の筆頭候補になることは間違いない。そんなノーベル賞があればの話だが。
 この珍説によって「日本が紛争の当事者ではないから」という理由で憲法9条の縛りを受けずに実力行使に出た場合、そのとたんに日本は自動的に「国際紛争の当事者」になってしまうのだが、その場合はどうするのか。
 自衛隊が「集団的自衛権」を行使して他国を攻撃したら。当然その国は個別的自衛権を行使して反撃を始める。そうなったら今度はその国に対する攻撃は「集団的自衛権」の行使ではなく「個別的自衛権」の行使になる。相手国の「個別的自衛権行使」は国連憲章51条によって間違いなく認められるが、日本とは直接紛争状態にない国に先制攻撃を仕掛けておいて、反撃されたら個別的自衛権を行使するといった屁理屈を国際社会が正当な権利として認めると、本当に考えているのか。それとも先制攻撃を仕掛けておいて、「日本は当事者になったから、これ以降は武力行使をしない。紛争は平和的に解決しよう」と言っても、そんな自分勝手な主張が国際社会で通用するとでも思っているのか。
 正確に憲法9条1項を引用しておこう。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永遠にこれを放棄する」
 続く2項の原案では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」だった。この2項原案に「このままでは日本は自衛権すら放棄することになる」と現行憲法審議の国会で噛みついたのが民主党(※55年体制ができる前で保守陣営は自由党と民主党に分かれていた)の芦田均代議士だった。この芦田議員の主張が受け入れられて2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という但し書きが挿入されたのである。これを「芦田修正」という。現に芦田氏は新憲法が公布された46年11月(発効は47年5月3日)に発表した『新憲法解釈』でこう述べている。
「第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際に適用すれば、侵略戦争ということになる。したがって自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の不戦条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している」
 憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という一文を加えたことによって、日本は「専守防衛のための必要最小限の実力(※「戦力」ではない)を持つことは許されるというのが、最高裁判所が砂川判決で初めて認めた自衛権の法的根拠になっている。最高裁が「自衛権」についての憲法判断を下したのは、これが最初で、これが唯一である。明らかに芦田氏の主張を法的に認めた判決である。
 だから安保法制懇が憲法9条における「国際紛争」を限定解釈するには、まずもって砂川判決の非妥当性を明らかにして、改めて国際紛争と自衛権の関係についての最高裁の判断を仰ぐ必要がある。そうした厳密性を放棄して都合のいい判決文の一部だけを切りとって「新解釈」の裏付けにしようとしても、どだい無理な話というものだ。砂川判決の全文は非常に長いので、骨子となる憲法9条と自衛権に関する最高裁の判断の部分だけ要約せずに引用する。実は裁判の判決文はやたらと難解な法律用語がちりばめられ、相当の読解力を必要とするのが通例だが、私が引用する判決文は高校生程度の読解力があれば誤解なく理解してもらえるように最高裁判事が配慮したようで、堅苦しい文章ではあるが、それほど難解ではない。多少長いが、我慢して読んでほしい。

 先ず憲法9条2項前段の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては「前項の目的を達するため、陸海軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自
衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民とともにひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家(※「独立」を国家の頭に付け加えるか、「国家」ではなく「主権国」と書くべきだったとは思うが)固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い(※米軍立川基地拡張計画のこと)、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。

 改めて砂川判決を読み直してみると、その行間に込められた崇高な精神は、憲法に匹敵すると言っても過言ではないと思う。ただ砂川判決は米ソが対立していた冷戦時代において日本の国力や日本が国際社会の占めていた地位を前提としており、現在の国際情勢と、日本が国際社会に占めている地位、またそれに見合う国際の平和と安全に対して日本が当然負うべき責任や義務の大きさを前提に考えるとき、砂川判決を基準にするのはいかがなものかとは思う。私が判決文中の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存在を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能として当然のことといわなければならない」の「国家固有の」の頭に「独立」という二文字を付け加えるか、「主権国」と書くべきだったと書いたのは、今年1月22日から3日連続で投稿したブログ『安倍総理の憲法改正への努力は買うが「平和憲法」が幻想でしかないことを明らかにしないと無理だ』で述べたように、現行憲法
が占領下において制定されたものであり、独立国家あるいは主権国家としての
尊厳と「自分の国(領土と国民の安全は自分で守る」という、独立国家(主権国家)であれば当然生じるはずの責任と自衛の権利すら否定しかねない要素を明確に否定しないまま独立後も存続させてしまったため、自衛隊という紛れもない自国防衛のための軍隊を日陰者扱いにせざるを得ない状態を放置し続け、自衛隊の軍事力(戦力)を「実力」などといった意味不明な言葉で言い繕ってきたのは、現行憲法の「戦力は、これを保持しない」という条文は、国際的に被占領国の安全は占領国の軍隊が守ることを前提にしていたからだ。
 だから、日本が連合国側と講和条約(サンフランシスコ条約)を締結して独立を回復した時点で、日本の安全を守る責任は本来、占領国(米国)から日本に移行していたのである。独立を回復するということは、そういうことを意味するのは子供でも分かる話だ。
 私が「現行憲法無効論」を主張しているのはその故であって、「国際紛争」の屁理屈解釈や砂川判決の一部分だけを切り取って、歴代政府の「集団的自衛権」解釈をこそこそと変更したりしながら、憲法解釈の変更や言葉遊びで何が何でも行使容認に持っていこうとしても、そんなことができるわけがないことくらい、本当のバカでなければ、そろそろわかってもいいころだろう。
 いや、やはり本当のバカとしか言いようがない。そもそも「集団的自衛権」の政府解釈をこそこそ変えることで「集団的自衛権行使は憲法違反ではない」という屁理屈をこねながら(従来の政府解釈は集団的自衛権の行使に、軍事的支援の要請を受けた時、とか日本の安全が脅かされかねない時、などといった限定を付けていない)、それでいて憲法解釈を変更すると主張すること自体が矛盾していることにすら気が付いていないのは情けないとしか言いようがない。そのうえ、そんな憲法解釈の変更ができるのなら、憲法を改正する必要がなぜある。そういうことを「自家撞着」という。自家撞着の意味が分からない人のために言いかえれば「自己矛盾」と同義である。
 なおこのブログの冒頭で、高村副総裁の砂川判決解釈について、私は「屁理屈」と書いたが、朝日新聞は「牽強付会」というほとんど死語になった熟語で批判した。ま、司馬遼太郎氏が生きていたら、たぶん朝日新聞と同様「牽強付会」と切って捨てたであろう。彼が大好きな言葉だったからだ。






「ノーベル賞級」と言われる理研・笹井氏の釈明会見は一見理路整然に見えたが、実は矛盾だらけだった。

2014-04-17 06:17:33 | Weblog
 笹井氏の記者会見は、結局理研がセットした形になってしまった。理研の理事が同席した会見なら、理研にとって都合が悪いことを笹井氏がしゃべるわけがない。笹井氏が記者会見で説明したことは、STAP細胞研究の最終段階であり、小保方氏が論文としてまとめる段階だったから、それ以前の研究内容については責任が持てないという弁解に終始した。
 確かに笹井氏が京大教授から理研の発生・再生科学総合センターに副センター長として転職したのは昨年の4月であり、小保方ユニットチームのSTAP細胞研究は最終段階に入っていたことは間違いない。だから笹井氏の研究への関与は主に論文作成の手伝いにすぎなかったであろうことは否めない。
 だったら、笹井氏は論文の責任共著者として名を連ねるべきではなかったはずだ。責任共著者として名前を連ねた以上、論文全体に責任を負わなければならないのは、一般社会(たとえば私企業や公的組織でも)ではそれが常識というものだ。
 たとえば私の世界――私には共著がないが、共著の本の場合、だれがどの部分を書いたかを明確にするのが基本的な決まりになっている。たとえばアメリカから袋叩きにあった石原慎太郎氏と盛田昭夫氏の共著『NOと言える日本』(光文社)の場合も、各章ごとに著者名が明記されている。実際にはこの本は二人の対談をゴーストライターが石原氏の発言部分と盛田氏の発言部分を整理して、共著の責任分担を明確にしたようだ。まれに責任分担を明確にしない共著の著作もないではないが、その場合は共著者全員がすべての内容について責任を分かち合うということが前提である。これが著作物の大原則である。そうしないと著作物の権利(著作権)が誰にあり、もし内容が不必要に誰かの名誉を気づ付けたりした場合の責任をだれがとるのかが不明になってしまう。
 たとえば比較的最近の例では『週刊朝日』が連載を始めようとした「ハシシタ・奴の本性」(2012年10月16日号)が、大阪市長の橋下徹氏の血流を根拠に人格否定を目的とした記事だとして橋下氏が激怒、朝日新聞出版の神徳英雄社長が引責辞任し、活字離れが続く中で唯一生き残っていた大宅壮一ノンフィクション賞作家の佐野眞一氏は、この記事の著者として事実上作家生命を絶たれた状態にある。
 ところが、科学の世界では、こうした著作物の原則が無視されているようだ。責任共著者でありながら、「文章の改良や書き直しの指導をしただけ」だから(責任の重大性は言葉では認めながら)事実上、自分には論文の誤りについての責任はないと主張した。ということは『ネイチャー』などの科学誌に掲載された論文は著作物ではない、ということを意味している。つまり無断で引用しようと盗作しようと自由気ままにどうぞ、という世界だということになる。
 笹井氏は、こうも主張した。「私は小保方氏の直属の上司ではない。大学で学生に実験ノートの提出を求めるような権限は、ユニットリーダーの小保方氏に対して行使できない」とも。「私は論文の改良や書き直しの指導をしただけ」というなら、書籍や雑誌記事でいえば編集者の仕事をしただけということになる。私の世界の場合、著作物に本当の著者以外に編集者が責任著作者として名を連ねるケースは、寡聞にして聞いたこともなければ見たこともない。
 笹井氏はこうも弁解した。「本当は共著者にはなるべきではないと思っていた
が、若山教授らに責任共著者になってほしい」と頼まれ、「いやとは言えなかっ
た」とも述べた。少なくとも私の世界では、編集の仕事しかしていないのに共
著者として名を連ねることは絶対にありえない。共著者になったら、著作物に対する責任も発生するが、権利も発生する。編集者に自分の著作物の権利(たとえば印税収入など)を頭を下げて貰ってもらうようなことは常識から考えてもあり得ない。そういった非常識な論理が、科学論文の分野ではまかり通っているということを、笹井氏の釈明は図らずも明らかにしてしまった。
 私は笹井氏の釈明を聞いていて、著作権無視の海賊版が市民権を得ている中国での話か、とさえ感じた。それでいて笹井氏は「論文の撤回が最も適切な処置」とも述べた。もともと笹井氏は論文の撤回に同意しており、改めて強調する必要はないのだが、そもそも論文が著作物でない以上「撤回」もへったくれもないではないか。第一「責任がない」人が論文撤回を求める「権利」などあろうはずがないではないか。こうした場合、論文を撤回する権利はだれにもなく、『ネイチャー』に論文を削除する権利があるだけだ。おそらく著作権の問題として裁判所に判断を仰いだら、裁判官はそういう判断を下すだろう。それが「著作物の権利・責任」の関係である。笹井氏ができることは「論文の撤回をうんぬんすること」ではなく、論文の著作者から降りると宣言することだけだ。そう宣言すれば、笹井氏は著作者としての責任はある程度免れることができるかもしれない。
 ただ多少、笹井氏も気が咎めたのだろう。理研がSTAP論文に批判的な丹羽氏をリーダーに据えて検証研究をスタートさせたことについては「理研内外(※理研外部からも研究者を参加させることを意味する表現だ)で再検証する必要がある」と、理研の官僚主義をチクリと皮肉ったのがせめてもの救いか。
 ほかには科学者ではない私が云々できることではないが、理研が若山氏の告発を受けてSTAP論文の検証をすることを発表したとき、論文撤回には同意しながら「STAP細胞の存在を前提にしないと説明できないデータもある」と言いながら、具体的な説明をしなかったことについては研究者たちに対してはかなり説得力をもつ具体的説明はしたように私には感じられた。
 だが、その説明の中で私のような素人でも、おかしいと感じる点があった。笹井氏は「STAP現象(※細胞とは言わなかった)は合理性が高い可能性のある仮説として再検証する必要がある」と述べた。そして、STAP現象が存在する可能性の高さを示す例として、「STAP細胞は非常に小さい細胞で、山中先生が作ったips細胞よりはるかに小さい。再現に成功する人がいないのは、STAP細胞が小さくて電子顕微鏡で見ても発見できなかったのではないか」と述べた。また細胞は死ぬときに緑色発光するのをSTAP細胞の発光と勘違いしたのではないかという研究者たちの疑問に対しては「細胞が死ぬ時の発光とは明らかに違う発光をしており、しかも発光しながら動き回っているのを確認している」とも述べた。
 それが事実だとすれば、笹井氏はSTAP細胞の存在を確認していたことになり、「STAP現象(※しつこいようだが、かつてはSTAP細胞と言っていた)を前提にしないと説明できないデータがある」などと回りくどい言い方をしなくても「私は自分の目でSTAP細胞の存在を確認している」と明言すればいいのではなかったのかという疑問を持たざるを得ない。自分の目で確認していなければ「STAP細胞はips細胞よりはるかに小さい」とか「STAP細胞の発光は一般に細胞が死ぬときの発光とは明らかに違う」とか「発光しながら動いているのを見た」という説明は「論文作成にしかタッチしていない。小保方氏の直属の上司ではないからノートや画像の提出を要求できなかった」という言い訳と明らかに矛盾する。
 STAP細胞が小さすぎて発見しにくいことを確認しているなら、せめて「理研の再検証研究チームに小保方氏も加えるべきだ。小保方氏でなければ再検証研究をしてもSTAP細胞の存在を確認できないおそれがある」と主張してほしかった。笹井氏に、科学者としての良心が爪の垢ほどでもあったなら、という話だが…。

 なお、このブログは昨夜(16日)に書いた。今日は、この後左目の白内障手術のために出かけるので、今日の朝刊の論評は何も見ていない。私程度の分析すら、おそらく理系出身の記者が記事を書くだろうが、ま、期待するのは無理だろう。
 最後にダメ押しだけしておこう。「論文の編集作業しかせず、ノートやデータのチェックはしなかった(できる立場になかった)」と主張しながら、その一方で、おそらくSTAP細胞の存在自体に疑問を抱いていた研究者たちに対する相当程度の説得力がある(と、私は思っているが)「STAP現象(※くどいようだが「STAP細胞」のはず)を前提としない限り説明できないデータがある」と主張して、かつその内容を記者会見でかなり詳細に説明したことは、完全に自己矛盾している。釈明が理路整然としていただけに、かえって釈明そのものが自己破綻していたことに、笹井氏自身気づいていないのだろう。ま、ノーベル賞級と目されている研究者の論理的思考力がその程度のものだったということが分かっただけでも、私には大きな収穫があった記者会見だった。念のため、これは皮肉でもなんでもない。事実を述べただけだ。

 この笹井氏の説明の大変な自己矛盾に気づいた新聞記者は多分いないはずだ。少なくともNHKの『ニュース7』と『ニュースウォッチ9』では、ほかに大きな事件(韓国の大型船が転覆して死者・行方不明者が多数出たこと)があったため、多くの時間を割けなかったのかもしれないが、NHKのアナウンサーやコメンテーター(科学者)は気づいていなかった。

 なお明日のブログは、前に書いておいた記事を投稿する予定でいる。

STAP細胞研究のカギを握る理研・笹井氏は今日何を語る。小保方氏に追い風が吹きだすか?

2014-04-16 07:42:05 | Weblog
 状況が一変しかねなくなった。STAP細胞問題である。今日午後3時から、小保方晴子氏の上司でSTAP細胞研究の最高責任者であり、小保方氏の論文作成を指導し、かつ論文の共著者でもある理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター副センター長という要職に就き、理研の調査チームが「改ざん・捏造」と決めつけた論文の関与についても「研究不正には関与していないが責任は重大」と断罪された笹井芳樹氏が論文の疑惑発覚後、初めて報道陣の前に姿を現して記者会見をするというのだ。
 小保方氏は理研の職員で、しかも小なりとはいえ「ユニットリーダー」(一般的職位としては課長職に相当するらしい)という一国一城の主だ。しかも理化学研究所は私企業ではない。独立行政法人という官公庁の出先機関であり、その職員は国家公務員に準じる。一般の国家公務員では、いくらキャリア組でも30歳で課長職というのは、あまり聞いたことがない。言うなら小保方氏は理研のエース中のエース(だった)と言っても過言ではない。
 その小保方氏が勤務先の理研と真っ向から対立している。毎日新聞の調査によれば、9日に行われた小保方氏の記者会見以降STAP細胞問題についてのツィートが急増しているようだが、小保方氏を支持あるいは応援するツィートが批判派の2倍に達しているという。これは昨15日にSTAP細胞論文の共著者である米ハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授が京都市で行われた気管支関係の国際会議の基調講演で「STAP細胞は存在する」と断言する前の調査だから、おそらく昨日から今日にかけて小保方氏支持のツィートが爆発的に増えているだろう。
 そして今日午後3時には理研サイドで大きなカギを握っているとみられている笹井氏が東京で記者会見を行うという。このブログは、笹井氏の記者会見が行われる前に投稿するから、読者によってはすでに笹井氏の記者会見をテレビでご覧になった後かもしれない。
 笹井氏がなぜ大きなカギを握っているとみられているのか。STAP細胞研究の最高責任者(名目上のではない)であり、研究活動の総指揮をとっていただけではなく、若い小保方氏の論文作成を直接指導してきた人物だからである。笹井氏はマスコミの報道によれば、論文の撤回には同意しているが、STAP細胞の存在については肯定的ニュアンスのコメントをしているという。STAP論文の著者たちに撤回を呼びかけた共著者の一人である山梨大学の若山照彦教授はSTAP細胞の存在もほぼ否定している。なお若山氏は2012年に山梨大学が生命環境学部を新設した際教授として招聘されたが、その以前は理研の発生・再生科学総合センターのゲノム・リプログラミング研究チームのチームリーダーであり、現在も理研の客員主管研究員である。小保方氏がSTAP細胞からSTAP幹細胞の作製を若山氏に依頼したのは、笹井氏のアドバイスによると言われている。
 実は3月10日、NHKがニュース7で若山氏のインタビューを放映して以降、一気にSTAP細胞問題が社会問題化した。そのインタビューで若山氏は「研究データに重大な問題が見つかり、STAP細胞が存在する確信がなくなった。研究論文に名を連ねた研究者たちに論文の取り下げに同意するよう働きかけている」と語ったのだ。この時点では若山氏はSTAP細胞の存在については完全否定するような発言はしていない。というのも、若山氏はかつてチームリーダーとして理研で研究活動をしており、山梨大学教授に転職したのちも理研には客員主管研究員として籍を置いており、若山氏が告発した時点では理研は単純な論文のミスと考え「研究の本質的な部分については揺るぎのないものと考えている」と発表していたため、多少理研サイドに配慮したのであろう。
 が、その時点から渦中の小保方氏はマスコミの前から完全に姿を隠してしまった。私は3月11日(STAP疑惑が浮上した翌日)に投稿したブログ『小保方晴子氏のSTAP細胞作製は捏造だったのか。それとも突然変異だったのか?』と題するブログに続いて、14日には『小保方晴子氏のSTAP細胞作製疑惑に新たな疑惑が浮上した。彼女はなぜ真実を明らかにせず逃げ回るのか?』と題するブログを投稿している。
 この時点ではまったく報道がなかったが、雲隠れしたのは小保方氏だけではなく、笹井氏も姿を見せなくなっていたようだ。当然、報道陣は渦中の小保方氏だけでなく、STAP細胞研究の最高責任者である笹井氏も探し回っていたはずだ。が、二人とも勤務先の理研はおろか自宅にも帰らず、ホテルを転々として姿を隠していたようだ。『週刊新潮』が一度、小保方氏をキャッチして話を聞いたようだが、新聞やテレビの前に姿を現すことはなかった。
 一方、いったん「研究の本質的な部分については揺るぎがない」としていた理研は、論文についての精査を続けた結果、4月1日に最終報告を発表、「論文には改ざん・捏造の不正が確認された。取り下げを勧告する」とした。この最終報告を受け、笹井氏は「すでに作成された図表データをもとに文章を書く過程でアドバイスする役割を担っただけで、問題になった図表データの過誤は論文発表前には全く認識していなかった」というコメントを発表して責任を回避しようとしていた。また理研も笹井氏については「責任は重大だが、不正には関与していない」と発表、「組織的な改ざん・捏造ではなく、小保方個人の不正行為」と断定したのである。マスコミの一部から「トカゲの尻尾切りではないか」と、理研の対応に批判が出たのはそのためである。
 私はその翌日(4月2日)、『小保方氏ら14人共著のSTAP論文は「改ざん・捏造」だったのか? 論文取り下げには全員の同意が必要』と題するブログを投稿、論文の取り下げ勧告については小保方氏が沈黙を続けている以上「やむを得ない処置と言えよう」と書いた。が、理研の最終報告についてはこう指摘しておいた。

 STAP細胞の研究そのものが不正となると、小保方氏の研究者生活は終わりを告げることになる。少なくとも『ネイチャー』に論文を投稿した時点では、理化学研究所の調査対象になった3人(※若山・笹井・丹羽=後述=の3氏)だけでなく、ほかにも10人の国内外の研究者全員が小保方氏の不正研究を見抜けなかったということになる。世界最高権威とされる科学誌に投稿する論文、それも常識的にはありえないとされた発見に、発見者の小保方氏以外に13人もの研究者がいとも簡単に権威づけのために名前を貸したのか、という疑問が生じる。もしそうだとしたら、『ネイチャー』に掲載された論文すべてが疑いの目でみなければならないということになる。しかも小保方氏以外にも『ネイチャー』論文には笹井氏や丹羽氏以外にも理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの研究者6人が共著者として名を連ねている。この6人の研究者は一切STAP細胞研究に関係していなかったというのか。理化学研究所の調査対象にすら入っていなかったということは、そういうことを意味する。日本の基礎研究の最高峰の一つとされている理化学研究所では、そうした名前の貸し借りが日常的に行われているとしか考えられない。
 
 理研はSTAP細胞論文を「改ざん・不正」と決めつける一方、STAP細胞の作製そのものもでっち上げだったとは、さすがに断定はしなかった。というのは研究グループを率いた笹井氏が、論文の撤回には同意したものの「STAPを前提にしないと説明が容易にできないデータがある」と主張していたからのようだ。そのため、理研は発生・再生科学総合センターのプロジェクトリーダーであり丹羽仁史氏をリーダーとして検証研究を6人のスタッフで1年かけて行うことにしたのである。ただし、この検証チームからは笹井氏も小保方氏も意図的に排除されている。
 こと、ここに至って、沈黙を続けていた小保方氏が反撃に出た。理研に対して不服を申し立てるとともに、マスコミの前にようやく姿を現し、2時間半の反論会見を行ったのだ。その記者会見はほとんどのテレビ局が緊急生中継したほどの過熱ぶりで、私も翌日の4月10日には『小保方晴子氏が反撃を開始した①――STAP現象は証明できるのか?』と題するブログを投稿、翌11日にも『小保方晴子氏が反撃を開始した②――論文のミスは悪意の所産だったのか?』と題するブログを投稿した。
 この二日にわたって書いた小保方氏の説明に対して私が感じた疑問は、専門的なことを除けばその後多くの研究者たちが同じく指摘し始めた。
 その基本的なポイントは、①小保方氏が200回以上もSTAP細胞の作製に成功しているのに、ほかに再現に成功した人がいないのはなぜか、②STAP細胞を作製するのにはちょっとしたコツやレシピが必要というが、特許の関係で公開できないという主張は説得力に欠ける、③インデペンデントに(小保方氏の研究とは直接の関係がない人の意味)成功したというが、その人の名前を明らかにできないなら信用できない、というものだった。
 ところが、こうした批判を受けて14日、小保方氏がかなり説得力がある説明
を文書にしてマスコミに配布した。たとえば①に関しては、研究者の中には「200
回以上もの実験をそんなに短期間にできるわけがない」と批判していた人もおり、それに対して小保方氏は「私は毎日、それも1日に複数回の実験をしていた」とはねつけた。②の「コツやレシピ」についても、「言葉ではなかなか伝えきれないので、再現実験をしている人から協力を要請されれば積極的に協力する」と断言した。③については「迷惑がかかってはいけないので、私の判断だけで名前を公表することはできないが、理研はその事実を知っている」と述べている。ただし、③の成功者について理研は「成功したとは認識していない」と反論している。
 そういう状況の中で、カギを握っていると目されている笹井氏が今日午後3時から記者会見をするという。ただ、笹井氏はなぜわざわざ東京で記者会見を行うのか。理研の会見も、小保方氏の会見もすべて大阪で行われてきた。理研の発生・再生科学総合研究センターは神戸にあり、笹井氏の自宅も神戸にある。理研や小保方氏の記者会見に出席したマスコミの記者たちも、大阪勤務の人たちが中心だったはずだ。そうした経緯を考えても、わざわざ東京で記者会見を行うというのはやはり不自然さを感じざるを得ない。ひょっとしたら、理研の官僚的体質に嫌気がさして、理研に反旗を翻す意思を固めたのかもしれない。
 実際、笹井氏は万能細胞の一つとされるES細胞研究では世界的な権威者である。京都大学医学部を卒業後、米カリフォルニア大学ロスアンジェルス校医学部の客員研究員を経て、母校の京大再生医科学研究所教授になり、昨年4月に理研に移った。ノーベル賞を受賞した山中伸也京大教授とは宿命のライバルと目されてきたほどの研究者だ。屈辱感を抱きながら理研にしがみつかなければならないような立場ではない。
 もし、笹井氏が腹をくくって記者会見に臨むというなら、おそらく理研の承認を得ずに個人的に行うつもりなのだろう。そうだとすれば、これまでは防戦一方だった小保方氏にも追い風が吹きだしたのかもしれない。このブログの冒頭に述べた米ハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授が昨日の気管支関連の国際会議の基調講演(テーマは「再生医療と幹細胞」)のなかで「STAP細胞はある」と断言もしている。ハーバード大学教授というだけで世界の一流研究者の折り紙つきのようなものだが、国際会議の基調講演を行えるほどの大人物ということになると、理研が束になってかかっても適いっこない。そのバカンティ教授が講演で小保方氏を名指しで「ボストンに戻ってこい」と呼びかけたというから、風向きが一変するかもしれない。
 いずれにせよ、理研への不服申し立てを行った小保方氏が、形勢を逆転すべく自ら開いた記者会見でかえって窮地に追い込まれた感があったが、記者会見での説明が不十分だった部分を補うべく、かなり説得力があると私は認める文
書をマスコミ各社に送付したこと、またおそらく理研があずかり知らない記者会見をSTAP細胞研究の最高責任者の笹井氏が、理研の発生・再生科学総合センターがある関西から遠く離れた東京でわざわざ開くという行為そのものが、今日の会見に並々ならない決意で笹井氏が臨むつもりではないかと思わせるに足る十分な根拠がある。
 いずれにせよ、理研が1年かけて行うという小保方氏のSTAP現象の検証研究から、笹井氏も、肝心要の小保方氏も外したことは、もはや理研が日本屈指の研究機関というより、もう救いようがない官僚機構に成り下がってしまったことを意味する以外の何物でもない。笹井氏がどういう発言を今日するかは知る由もないが、理研は会見の前に「急きょ、検証研究に小保方氏の参加を要請することにした」と発表すべきだ。小保方氏を排除しての検証研究の結果など、発表したとたんに「やはり結論ありきだった」と世界の科学界から拒絶反応が出るのは必至である。そういう常識すら失っている理研は、もはや研究機関としてはだれも相手にしてくれなくなる。


池上彰がレギュラー番組の司会者に復活した本当の理由。

2014-04-15 07:25:36 | Weblog
 今14日の午後8時過ぎ。テレビを見ながら、このブログを書いている。
 見ているテレビですか? 決まってるじゃないか。テレビ朝日が午後7時から放映している『ここがポイント◌◌』だ。◌◌は人の名前。誰だって? 池上彰に決まっているでしょう。
 今回のブログには池上に敬称をつけない。私のブログでは異例中の異例だ。
 池上は2、3年ほど前だったと記憶しているが、「私の仕事はいつの間にかビジネスになっていた。ジャーナリストに戻る」と、ずいぶんかっこいいことを言ってテレビのレギュラー番組を降板した。メディアは、テレビを除いて、そうした池上の姿勢を称賛した。読売新聞など「寸評」で「私たちも見習わなければ」とまで持ち上げた。
 その池上が14日からテレビ朝日のニュースショーにレギュラー出演するという。私は1年365日、基本的に7時からはNHKのニュース7と『クローズアップ現代』を見ることにしている。プロ野球のファンで、好きなチームの試合を欠かさず見たいため(ただし優勝争いから脱落するまでだが)高い金を払ってスカパーの「プロ野球セット」を契約している。好きなチームが有利に試合を進めていても、午後7時になったらNHKにチャンネルを切り替える。
 その私が14日だけは7時から1~2分ほどだけテレビ朝日にチャンネルを合わせた。池上がニュースショーにレギュラー復活する理由をどう説明するかに興味があったからだ。番組については「ニュースのポイントを分かりやすく解説したい」と語ったが、「ジャーナリストに戻る」と、かっこいいことを言ってレギュラー番組から降りたことから変節した理由をどう説明するかを聞きたかったのだが、その説明は一切なかった。
 政治家が説明責任を果たさないことには慣れっこになっていた私も、ジャーナリストになることを公言した池上が、まさか説明責任を果たさず、恥ずかしげもなく民放ニュースショーのレギュラー番組によく戻れたものだ。自称「ジャーナリスト」も地に堕ちたものだという感慨をぬぐえない。
 私は池上がテレビのレギュラー番組に出ること自体に反対しているわけではない。民放のニュースショーとしては比較的ジャーナリズムに近い番組だし、私の孫が小学生のころに池上ファンだったくらいで、確かに解説の分かりやすさはニュース・キャスターのなかでは群を抜いた存在であることは私も認めている。だから、もともと「解説屋」で視聴率を稼いでいたのだから、せっかく成功しているのにもったいないな、と思っていたくらいだ。
 池上の番組を見ていた人たちも、彼にジャーナリズムを期待していたわけではないし、単純化しすぎるきらいはあったにしても、複雑に絡み合った様々な問題を小学生にも理解できるように解説する能力は、それはそれで社会が求める重要な要素であった。だから池上がみのもんた氏のように民放各局から引っ
張りだこになっていたことを、何も恥じる必要はなかったと思う。
 それを何を勘違いしたのか、「ジャーナリストに戻る」と宣言して、せっかく高い視聴率を稼いでいた民放のニュースショー番組のレギュラー司会者の地位を投げ捨てた。池上はNHKの出身だから、ジャーナリストの世界にあこがれていたのかもしれない。憧れるのは自分の勝手だが、テレビのニュースショーから距離を置いてみて、ではジャーナリストとして何ができたのかというと、テレビのニュースショーでやってきた分かりやすい解説を活字の世界でやっただけだった。
 活字の世界となると、語り口とは別の要素が要求される。ただわかりやすさだけでは受け入れられない。テレビの場合は30分くらいの間が空けば、言っていることがちぐはぐになっても視聴者から気づかれずに済むが、活字の世界は終始論理的一貫性がないと化けの皮がすぐはがれる。そのことに池上がやっと気が付いたのであれば、「私は勘違いしていた。ジャーナリストには向いていないことが分かった。私はテレビの世界でないと生きていけない人間だということが分かったので、テレビ朝日さんにお世話になることにした」というのであれば、私も目くじらなど立てるつもりはないし、やはり人はそれぞれ向き不向きはあるのだから、向かない世界に挑戦したことを糧としてテレビの世界で活かせるようにすればいい、と応援団に回っていた。
 ま、池上の解説は分かりやすいし面白くもあるので、私もせいぜい見るようにしたいと思うが、くれぐれも気を付けてほしいのは、政治家に対し「説明責任云々」といった批判はしないことだ。天に唾するようなものだからだ。
 イタチの最後っ屁――この番組の最後に池上が石破幹事長に集団的自衛権についてインタビューした。「みっともない」の一言に尽きる。この番組を見ていた人は、これがジャーナリストを目指した人か、と呆れたと思う。
 私は何も池上に、田原総一郎氏のように傲慢不遜にふるまえと言いたいのではない。少なくともNHKの『クローズアップ現代』のメインキャスターを務めている国谷裕子氏のように、インタビュー相手に対する礼儀をわきまえながら、しかしジャーナリストとしての毅然とした姿勢で追及すべきことは追及してほしかった。池上の石破氏に対する態度は、まるで顧客にペコペコするセールスマンのようだった。「これではジャーナリストになれなかったのも無理はなかったな」と、妙に合点がいったことを付け加えておこう。この番組の成功のために、池上にはインタビューはさせない方がいいとだけアドバイスしておこう。