小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

社説読み比べ(2) 読売新聞社説は剽窃だった 日本経済新聞社説は日本への警戒心をあおるだけだ

2013-02-18 07:31:22 | Weblog
 日本経済新聞が17日になってようやく集団的自衛権問題についての社説を発表した。これで全国紙のうちまだ集団自衛権問題についての社説を発表していないのは毎日新聞だけとなった。毎日新聞はなぜ自社の主張を表明しようとしないのか。一般的には全国紙5紙の中で最も左翼的と見られてきただけに、集団的自衛権問題についての議論をまとまり切れていないのだろうか。だとしたら、TPP交渉については一般の予想に反して『参加を決断する時だ』と題する社説を15日には発表している。なぜ毎日新聞が集団的自衛権問題について社内をまとめ切れないのか疑問を禁じ得ない。
 それはともかく、日本経済新聞の社説に対する論評を加える前に、読売新聞社説氏の「剽窃(ひょうせつ)」問題について指摘しておきたい。
 私は『社説読み比べ(1)』で集団自衛権問題について主張した3紙について論評した。その中で、私は読売新聞社説の一部を引用した個所に注釈(※の部分)を加えた。まず読売新聞の社説を再度転記する。

「集団的自衛権を持つが、行使できない」との奇妙な憲法解釈を理由に、日本が米韓防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する。国際平和活動で自衛隊だけが過剰に法的制約を受ける現状も早急に改善すべきだ。

 この文章は形式上も、誰かの主張を引用したり、解説したものではなく、明らかに読売新聞社説氏による地の文である。私はこう批判した。

 この指摘には問題がある(※「日米同盟崩壊論」は5年半前に出された報告書をもとに、当時の安倍首相が述べた内容)。主張したい意図は理解できるが、「日米同盟が崩壊する」のは現憲法のもとで集団的自衛権を行使できるという憲法解釈が国民的合意を得たのちの話である。読売新聞が「奇妙」と呼ぼうが呼ぶまいが、憲法解釈上。集団的自衛権を行使できない現在、日本が米艦防護やミサイル迎撃を行えば。アメリカは喜ぶかもしれないが、日本政府は崩壊する。まず現行憲法下で集団的自衛権の行使を容認するべく国民的合意を得るか、「解釈改憲」はこれ以上無理ということになれば、極めてハードルが高い憲法改正を行うことが必要となる。ハナから「奇妙な憲法解釈」と決めつけ、自衛隊が「米艦防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」と主張するのはあまりにも論理が飛躍しすぎている。
 
 実はこのくだりで私がさりげなく読売新聞社説の内容に注釈を加えた部分が、「剽窃」に当たることがはっきりしたのだ。
 私がブログを投稿したのが2月11日の早朝(正確には午前5時50分)。このブログで取り上げた社説は9日付の朝日新聞、読売新聞と10日付の産経新聞の3紙である。事実上ブログの原稿を書き上げたのは10日の夕方。翌朝誤変換のチェックなど推敲したうえで投稿した。読売新聞の社説の表記について剽窃ではないかとの疑問は持ったが、確認する時間的余裕がなく、※印で注釈をつけるにとどめた。
 その後、重複記述になると思って、このブログでは書かなかったが、産経新聞が社説で安倍首相の、かつて「日米同盟崩壊論」を紹介しており、その内容が事実であることが自民党などへの問い合わせで明らかになった。産経新聞は社説でこう述べている。

 懇談会が平成20年にまとめた報告書は集団的自衛権の行使を容認すべき4類型を例示した。中でも「公海上での自衛隊艦船による米艦船防護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」は、首相も「もし日本が助けなければ同盟はその瞬間に終わる」と重視する。

 産経新聞の社説氏は平成20年に発表された集団的自衛権行使を容認すべきとした4類型のうちの二つについて、特に安倍首相が重要視したケースを紹介している。つまり、この文章は地の文ではなく、安倍首相の集団的自衛権についてに当時の発言を紹介したものである。
 一方読売新聞の社説氏は、安倍首相の発言要旨として「日米同盟崩壊」論を記述してはいない。明らかに社説氏が自らの主張として記述した地の文である。社説氏の「前後の脈絡の中で読んでほしい」という言い訳を完全に封じるため、この文章の前文を転載する(後文は社説氏が書いた問題の文章とは関係がないので転載しない)。

 第1次安倍内閣が設置した懇談会は、首相退陣後の2008年6月に報告書をまとめたが、具体化されなかった。安倍首相にとっては今回が「再チャレンジ」だ。
 日本の安全確保に画期的な意義を持つ報告書であり、本格的な法整備につなげてもらいたい。
 報告書は、共同訓練中の米軍艦船が攻撃された際や、米国へ弾道ミサイルが発射された際、日本が集団的自衛権を行使し、反撃・迎撃を可能にするよう求めた。
 国際平和活動では、近くの他国軍が攻撃された際の「駆けつけ警護」を自衛隊が行えるようにする。「武力行使と一体化する」他国軍への後方支援は憲法違反とする政府解釈も見直すとしている。(※ここまでは2008年6月の懇談会報告書の要約と、多少意見を加えたことを明らかにしており、問題はない。問題はこの報告書を受けて社説氏が書いた次の地の文にある)
「集団的自衛権を持つが、行使できない」との奇妙な政府の憲法解釈を理由に、日本が米艦防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する。国際平和活動で自衛隊だけが過剰に法的制約を受ける現状も早急に改善すべきだ。

 産経新聞の社説は安倍首相の発言として、繰り返しになるが、こう紹介している。

「公海上での自衛隊艦船による米艦船防護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」は、首相も「もし日本が助けなければ同盟はその瞬間に終わる」と重視する。
 
 もう誰の目にも読売新聞社説氏が安倍首相の発言を剽窃したことが明らかになったであろう。社説は、どの新聞でも論説委員という記者集団のトップクラスが、各自が記者時代に担当してきた専門分野に応じて書く。社説氏は、「公海上での」とか「米国に向かう弾道」という表現を省略し、「その瞬間に終わる」という安倍首相の発言を「崩壊する」と言い換えることによって、あたかも自らの主張であるかのように言いつくろっているが、このような手法は記者として最も恥ずべき破廉恥な剽窃行為である。読売新聞の論説委員の国語能力についてはこれまでもさんざん指摘してきたが、これはもはや国語能力の問題ではない。はっきり言えば懲戒解雇に相当する行為である。またこのような剽窃行為を見逃した論説委員室責任者の責任も免れ得まい。
 週刊朝日の連載企画『橋下 奴の本性』で朝日出版の社長や週刊朝日編集長の首が飛び、著者で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した佐野眞一氏はおそらくノンフィクション作家として再起することは不可能と考えられている状況をかんがみれば、読売新聞が行うべき処分と、社説氏や論説委員室責任者が自ら取るべき責任はおのずと明らかであろう。

 さて読売新聞社説氏の剽窃問題はこの辺で終え、日本経済新聞の集団的自衛権についての社説を考察する。
 集団的自衛権についての説明は、他紙の説明に比べ(というより、他紙は集団的自衛権について中学生にも理解できるようなやさしい解説をしていない)、まず集団的自衛権について非常にわかりやすい説明から始めた。そうした書き出しには好感が持てる。その部分を引用しよう。

 集団的自衛権とは、日本の同盟国などが攻撃された時、たとえ日本が直接攻撃されていなくても自国への武力行使とみなし、反撃する権利である。

 これ以上簡潔で分かりやすい説明はないといえよう。ただ引っかかる個所が一か所だけある。「同盟国が」ではなく「同盟国などが」と記述された箇所である。「同盟国」といえば、現在は安全保障条約を締結しているアメリカだけが対象になる。現に安倍首相も集団自衛権行使のケースとして想定しているのは「公海上での自衛隊艦船による米艦船防護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」などである。なぜ日本経済新聞社説氏は、「同盟国」に「など」という複数を意味する言葉を付け加えたのか。
 実は、日本経済新聞社説が「など」と複数化を意味する表記をした理由は、そのあとに述べられている。他紙の社説と大きく一線を画する重要な主張である。その個所を転記する。

 日本の周辺では、さまざまな安全保障上の火種がくすぶっている。北朝鮮は核とミサイルの開発を加速し、挑発を強めている。尖閣諸島への中国の姿勢も止まる気配がない。
 これらの危機に対応するため、日本は米国や他の友好国との安保協力を強めなければならない。集団的自衛権についても、行使に道を開くときだ。

 私個人としては同感を表したい。だが、日本は「あの戦争」による重い荷物を今も負い続けている。その荷の重さは日本経済新聞社説氏が考えている以上に重たいものがある。
 日本もアジアの大国としてアジアの平和と経済的繁栄、アジアの発展途上国へのあらゆる援助を通じて、アジア諸国に残る貧困層の撲滅や民主主義の定着なども含めた貢献活動をすべきことは疑いを入れない。
 だが、日本がアジアのために何かしようとしても、必ずしもアジア諸国のすべてから善意を持って受け止められるとは限らない。というより、やることなすこと警戒心を持って受け止められるケースがいまだ後を絶たないのが現実である。そういう状況の中で、安全保障体制をアメリカ以外の他の友好国との間にも確立し、その安全保障体制の中で集団的自衛権行使への道を開くべきだという主張が、アジア諸国から、たとえ友好国からであっても善意を持って迎えられるとは到底考えられない。日本経済新聞が望むような時代がいずれくるだろうことは私も大きな期待を持って望んでいるが、そういう時代が来るのは早くても私たちの孫の世代だろう。私たちの孫の世代にそういう日本が実現できるよう、道しるべを用意するのが私たち世代の責任だと思う。
 そういう意味で、いま私たちの世代が実現すべきは、日米安保条約を片務的条約から双務的条約に変えることが最優先されるべきではないか。
 私も日本経済新聞社説に倣って、中学生にも理解できるように現在の日米安全保障条約の問題点を明らかにしておこう。
 まず「片務的」というのは、アメリカだけが日本を防衛する義務を負い、日本は同盟国のアメリカを防衛する義務を負わないという意味である。
 それに対して「双務的」というのは同盟国同士が互いに相手を防衛する義務と責任を分かち合うという意味である。日米間で言えば、アメリカが日本防衛の義務を負うと同時に日本もアメリカ防衛の義務を負うということである。二国間の安全保障体制の在り方としては当たり前すぎるほど当たり前の話だ。
 しかし、現在の日米安全保障関係は、その当たり前の関係にない。アメリカだけが日本防衛の義務を負い、一方日本はアメリカが攻撃されても知らん顔をしていてもいい、という関係なのだ。
 そういう関係が永続的に続くという保証は全くない。今は、アメリカにとっても片務的な安保条約のほうが自国の利益にかなっているから、日本に対し「安保条約を双務的なものにすべきだ」という要求はしてこないが、アメリカが自国の安全性に不安を抱くような事態が生じたら、間違いなく日本に安保条約を双務的なものに改定することを要求してくる。
 ではアメリカにとって、片務的な日米安保条約が現時点では自国の利益にかなっているという理由を、これまた中学生にでもわかるようにやさしく説明しておこう。
 現在日本の米軍専用基地の74%は沖縄に偏在している。首都圏にも基地はあるが、米軍専用基地はキャンプ朝霞(埼玉)だけで、木更津飛行場(千葉)、横田飛行場(東京)、厚木海軍飛行場・キャンプ座間・横須賀海軍施設(以上神奈川)の5基地は自衛隊との共用施設である。首都・東京を防衛すべき6基地に配備されている陸上戦力はほぼ皆無で、事実上空軍・海軍基地化しているのが現状である。
 ではなぜ米軍は沖縄に基地を偏在させているのか。そこにアメリカの極東戦略が透けて見える。中学生にでも理解できることだが、沖縄方面から日本を侵略する可能性がある国は皆無である。日本にとっての現時点での軍事的脅威の対象は①北朝鮮②中国③ロシアくらいで、この3国が仮に日本を侵略しようとしたとしても、わざわざ沖縄を経由する必要性は皆無である。それにこれらの国が沖縄を占領したところで得るものは何もない。
 ではなぜアメリカは沖縄に専用基地の74%も集中しているのか。その目的は沖縄・韓国・フィリピン・グアムを結ぶ東南海の制海・制空権を堅持することにあるのだ。はっきり言えば日本を防衛するための基地ではなく、アメリカの制海・制空権を守るための基地なのである。だからアメリカにとっては日本が集団的自衛権を行使できるように憲法解釈を変えたり、あるいは憲法そのものを改正して集団的自衛権の行使を固有の権利として確保して、日米安保条約を双務的なものに変えようとすると、沖縄に米軍基地を偏在させる理由がなくなり、かえって困るのはアメリカなのだ。
 所詮、日本もアメリカも、国家としてはエゴ原理の上で外交・軍事・経済etcの諸関係を結び、双方が妥協点を探りあいながら「友好関係」を維持しているのである。日米同盟が永遠に続くなどと考えるのは愚の骨頂である。
 だからと言って、私は日米同盟を軽視せよなどと主張しているわけではない。少なくとも現時点においてアメリカは日本にとって最大の友好国であり、かつ唯一の同盟国である。アメリカとの友好関係を損なうようなことは厳として慎むべきだと考えている。ただ現在のアメリカとの友好関係が永続的に続くという保証は何もないことを日本人は理解しておくべきだということである。そのうえで日本は日本の国益のために日米同盟をどう継続・発展させていくべきかを考えるべきで、集団的自衛権問題を論じる場合も、日本の国益とアメリカの極東戦略とのバランスをどうとるかを抜きに語っても意味がないのである。
 ちなみにアメリカ政府も日本の憲法上の制約は百も承知している。だから日本に対して過剰な双務的関係を求めたりはしていない。だが、個々のアメリカ人はアメリカ政府と同じような理解をしてくれているわけではない。むしろ「アメリカのために血を流そうとしない日本のために、なぜ我々だけが血を流さなければならないのか」と考えても不思議ではない。むしろ人間の心理としてそう考えるほうが自然であろう。沖縄で米兵がしばしば起こす犯罪行為の心理的背景には、そういった米兵の個人的心理が働いていると考えたほうがいい。
 実際、双務的な関係を結んでいる他の国の米軍基地に配属されている米兵が、沖縄のような事件を頻繁に起こしているだろうか。日本も同盟国アメリカが攻撃された時は、自ら血を流してアメリカを守るという姿勢を明らかにすれば、沖縄の米軍基地に配属されている米兵も日本の尊厳を冒すような行為には出ないであろう。集団的自衛権問題を考える場合、そういった米兵の人間としての自然な心理に対する作用も考慮のうちに入れる必要がある。
 東京大学法学部教授で憲法学者として有名な長谷部恭男(やすお)氏はこう語っている(朝日新聞2月14日付朝刊)。

 日本国憲法はアメリカの贈り物である。日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい。個人を尊重し、多様で相対立する世界観・価値観の存在を認め、その公平な共存を目指す立憲主義の憲法原理である。

 この指摘に異存があるわけではないが、アメリカがなぜそうした憲法原理を作る必要があったのかについて、長谷部氏はご存じないようだ。あるいはお忘れなのかもしれない。
 アメリカが「人種のるつぼ」「多民族国家」という事実は誰でも知っている。そういう国が軍事力という暴力によらず、星条旗のもとに一つの国民として、ことあるときには一致団結した行動をとれるようにするためには、特定の人種・民族の宗教・価値観・文化的伝統・歴史認識(あるいは歴史観)などを国家原理として他の人種・民族に押し付けることを防ぐ方法を国の社会的規範として確立することが絶対的な条件になる。アメリカを建国したアングロサクソン族が、自分たちの民族原理を国の社会的規範として他民族に押し付けていたら、アメリカという国は今存在していなかったであろう。
 その大元はイギリスからの独立戦争にあった。長谷部氏は南北戦争にアメリカの憲法原理の原点を見ているようだが、アメリカ歴史についての不勉強のそしりを免れえないだろう。アメリカ独立戦争について詳しく述べる必要はないが、この戦争でアメリカ軍にとってショックだったのは、先住民のインディアンがイギリス側についたことだった。またアフリカ系奴隷黒人の多くもイギリス側でアングロサクソン族を中心としたアメリカ軍に反旗を翻した。
 しかしカナダを勢力圏においていたフランス軍がアメリカ独立軍側につき、さらにスペイン、オランダもアメリカ側についた結果、当初は軍事力で圧倒的に劣勢だったアメリカが8年半の長きにわたる戦争で最終的に勝利を収め、初代大統領になったジョージ・ワシントンが『独立宣言』を発表した。ワシントンは独立戦争を通じ、自国民(インディアンや黒人)の多くがイギリス側についたことから、自国民が一つにまとまるための社会的規範としての国家原理を確立する必要性を強く感じた。それが『独立宣言』における有名な言葉「すべての人間は平等に造られている」と、不可侵の自然権として「生命・自由・幸福の追求」を宣言したことであった。
 この『独立宣言』は福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭でも紹介され、さらに現憲法第13条にも「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という条文に引き継がれている。
 長谷部氏は朝日新聞への寄稿文『米と同じ憲法原理 あえてなぜ変える それで何をするのか』と題して。先述した日米共通の憲法原理を冒頭に持ち出したが、この憲法原理を変えようなどと考えている人は誰もいない。アメリカ独立宣言に端を発した国民の権利は、今や自由世界共通の社会的規範として確立しており、不可侵な普遍的原理としてだれも否定したりしていない。
 だが、長谷部氏はこの憲法原理の延長上で集団的自衛権問題を論じている。しかもこの論文のタイトルにもあるように、集団的自衛権行使は憲法原理の変更にあたると主張する。そう論じるのは勝手だが、それなら、集団的自衛権行使がなぜ憲法原理に違反するのかを論理的に説明していただかないと、「はい、そうですか」と簡単に納得するわけにはいかない。長谷部氏の主張に少し耳を傾けてみよう。

 自民党が最近用意した改憲草案を見ると、9条を改正して「国防軍」とする一方、その出動について国会の事前の同意を憲法原則としてはおらず、具体の制度は法律に委ねることとされている。(中略)
 憲法による政府の権限抑制は、手続きではなく内容面でなされることもある。日本国憲法9条の下では、国に自衛権はあるものの、それは個別的自衛権であり、集団的自衛権は認められないとされてきた。国際上認められている権利を自国の憲法で否定するのは背理だと言われることもあるが、これは背理ではない。(※その理由を長谷部氏は説明していない)
 
 ここで長谷部氏の主張の矛盾点を一つだけ指摘しておくが、日本国憲法9条は、国の自衛権も否定しているという厳然たる事実である。9条を指して「平和憲法」と勝手に解釈している日本人は少なくないが、少なくとも国際的に日本の憲法を「平和憲法」と認めている国は一つもない。なぜなら憲法9条第2項は「(戦争放棄を定めた)前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と軍隊の保持も禁じている。実際、吉田茂首相は国会答弁で「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した」と述べている。これが憲法9条の真の目的であって、軍隊である自衛隊の存在そのものがすでに憲法に違反しているのである。
 戦後、GHQがなぜ、そんな憲法を日本に押し付けたかというと、前回のブログでも書いたように、戦後賠償を放棄する代償として日本を永久に軍事的無力国家にしてしまえ、という日本に対する制裁目的で作った憲法だったからだ。だから、憲法改定にめちゃくちゃ高いハードルを設けたのである。長谷部氏は、「日本国憲法9条の下では、国に自衛権はあるものの、それは個別的自衛権であり、集団的自衛権は認められないとされてきた」と、従来の憲法解釈の変更は認めながら、新たな解釈改憲は認められないとする論理的根拠を明らかにしていない。
 実際、中国で毛沢東率いる共産軍が勝利し、朝鮮が南北に分断され、ソ連を中心とする共産勢力の南下作戦に直面しなければ、アメリカが日本に「自衛のための軍隊まで憲法で禁止していない」と自衛隊創設を日本に働きかけたりしていなかっただろう。
 アメリカの憲法も日本と同様硬性(硬直的という意味)とされているが、それはアメリカの憲法が原理的な要素にとどめ、かつ個別的要素については解釈の幅を大きくしているため世界環境の変化に応じて憲法をその都度いじる必要がないためである。憲法で個別的要素まで細かく定めている国もあるが、そういう国は改憲のハードルを低くして(軟性)、容易に憲法改正ができるようにしている。自民党はこれまで何度も解釈改憲で、事実上憲法9条を骨抜きにせざるを得なかった経緯にかんがみ、憲法改正のハードルも低くしようとしている。
 憲法そのものは硬性を維持しながら、憲法改定の必要性を少なくするよう憲法の条文を原理的要素にとどめ、また憲法で規定する個別的要素は解釈の幅をはじめから広げておくか、あるいは改憲のハードルを低くして個別的要素も細部にわたって定めるようにするか(軟性)、それこそ国民的議論をあまねく巻き起こすべき時期かもしれない。
 憲法9条だけがクローズアップされがちな今日だが、憲法の在り方という本質的議論を避けて、集団的自衛権問題だけを論じても、日本経済新聞のような集団的自衛権の超拡大解釈も出てくることを考えると(私は先述したように、現時点では非現実的だが、孫の世代まで考えて議論を重ねておくことまで否定しているわけではない)、やはり憲法の在り方という原理原則を国民的同意を得て確立することが喫緊の課題ではないかと思う。
 今回で集団的自衛権問題についての私論はほぼ語りつくしたと思う。毎日新聞が想定外の社説を書けば、再び論じることもありうるが、想定内の主張であったら無視することにする。またまた長文のブログになってしまったが、読者にはご容赦願いたい。


コメント

社説読み比べ(1)  集団的自衛権問題についての主張は産経新聞がベスト

2013-02-11 05:50:19 | Weblog
 読者の皆さんにお約束した『社説読み比べ』の第1回を書く。取り上げた社説のテーマは集団的自衛権行使である。
 安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二元駐米大使)が2月8日、5年半ぶりに再開され、今日的状況を踏まえて集団的自衛権についての論議を深めることになった。この懇談会の目的は、これまでの政府の憲法解釈(自国、すなわち日本への攻撃に対する自衛権は固有のものとして認められるが、同盟国といえども他国に対する攻撃に対して共同して軍事力を行使することは許されない)を改めるか、あるいは憲法を改正して公然と集団的自衛権を認めるようにするかの議論を行うことである。
 これを受けて翌9日に社説で主張を述べたのは全国紙5紙のうち読売新聞と朝日新聞の2紙だけで、翌10日には産経新聞が主張(以下「社説」と記す)で述べただけだった。尖閣諸島問題をめぐり中国が軍事的挑発行動を繰り返し、北朝鮮が弾道ミサイルを発射し、さらに3回目の核実験を公言するなど、日本を取り巻く軍事的環境が緊張度を高めていく中で、なぜ日本経済新聞と毎日新聞がこの問題を社説で取り上げなかったのか理解に苦しむ。
 そのことはさておいて、3紙の社説について論じる前提として、歴代政府が「集団的自衛権の行使は認めることができない」と解釈してきた日本国憲法第9条と、国連加盟国のすべてが集団的自衛権を有することを明文化した国連憲章第51条を転記しておこう。

[憲法第8条]
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
 たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段と
 しては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国
 の交戦権は、これを認めない。

[国連憲章第51条]
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な処置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった処置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この処置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能および責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。(※国連憲章に限らず、英語で書かれた国際的文書の日本語訳の分かりにくさは何とかならないか、といつも思う。いっそのことスーパーコンピュータに自動翻訳させてみたらどうか、とさえ思う)

 このように国連憲章は集団自衛権は国連加盟国の固有の権利として認めている。しかし、これまでは自民党政府も反自民党政府も、日本が集団的自衛権を行使することは憲法9条に違反するという解釈をとり続けてきた。この問題を論じる場合、論点を整理してから行わないと、平行線をたどるだけである。
 まず、集団的自衛権が憲法9条に本当に違反しているのか、という問題である。違反しているという立場に立つと、そこから二つの議論が生じる。一つは違反しているから集団自衛権は認めるべきでないという主張。もう一つは、だから集団自衛権を行使できるよう憲法を改正しようという主張。
 違反しているから集団自衛権は認めるべきではないという主張の代表的な日本共産党の考え方を、あくまで論理的に検証してみよう。同党の機関紙「しんぶん赤旗」はこう主張している(2001年5月17日付)。

 小泉首相は、「日米が一緒に行動していて、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということが果たして本当にできるのか」といい、集団的自衛権の行使について検討していると表明しています。この発言に示されるように、集団的自衛権の行使とは、日本が外国から侵略や攻撃を受けた時の「自衛」の話ではなく、軍事同盟を結んでいる相手の国が戦争をするときに共同で戦争行為に参加することです。(中略)1999年、小淵内閣の時、憲法の戦争放棄の規定を踏みにじって、アメリカの軍事介入に自衛隊を参加させるガイドライン法=戦争法が作られました。しかし同法も憲法9条があるため、自衛隊の活動は「後方地域支援」に限るとされています。この制約を取り払い、自衛隊が海外で米軍と共同で武力行使ができるようにしたいというのが、今の集団的自衛権論の狙いであり、実際、この議論は、9条の明文改憲論と一体のものとして出されています。首相らの集団的自衛権発言の背景には、憲法上の制約を取り払って自衛隊が米軍の軍事力行使に共同で参加できるように集団的自衛権を採用すべきだというアメリカの圧力があります。これまでアメリカは、「自国の死活的な利益」を守るため、必要な場合、一方的な軍事力行使をすることを公式の戦略にし、99年のユーゴ空爆をはじめ、一方的な武力行使を繰り返してきました。集団的自衛権の行使は。無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同で参加するという危険な「集団的軍事介入」の道でしかありません。憲法の平和条項を葬り去るこのような企ては絶対に許せません。

 かなり前の主張だが、この主張を変えていない以上、この主張について検証することにする。
 日本共産党の主張には重大な論理のまやかしとすり替えがある。日本共産党が認めている小泉発言は「日米が一緒に行動していて、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということが果たして本当にできるのか」というものであって、米軍が攻撃を受けた場合という限定条件のもとでの集団的自衛権について語っていることは明白である。
 この小泉発言を援用して、日本共産党は、無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同で参加するという危険な集団的軍事介入の道、と極端な拡大解釈をしている。確かにアメリカは冷戦時代、共産勢力の拡大を防ぐため、「集団的自衛権」を口実に世界各地で戦争を行ってきた(その戦争を「侵略戦争」と位置付けるか否かは議論の分かれるところだが、例えばベトナム戦争などは腐敗して民心を失っていたゴ・ディン・ジェム大統領が支配していた南ベトナムを、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムの侵攻から防ぐために軍事介入したようなケースも少なくなかった)。もっともソ連もハンガリー動乱やプラハの春を、やはり「集団的自衛権」を口実に戦車で踏みにじってきた。
 第二次世界大戦以降、米ソが対立する冷戦時代が長く続いたが、ソ連も直接アメリカを攻撃しようなどという無謀な試みを考えたことなど一度もない。ゆいつ米ソが直接対決する危険性が生じたのはキューバ危機の時だけだが、米ケネディ大統領の米ソ戦争も辞さずという強硬姿勢の前に、フルシチョフ・ソ連が全面的に屈服してキューバにミサイル基地を建設しようという野望を放棄した事件もあった。
 いまアメリカと軍事的衝突をも辞さず、という馬鹿げた姿勢を見せているのは北朝鮮だけだが、これは国内にくすぶる金一族による世襲独裁政治に対する国民の不満が爆発するのを防ぐために「仮想敵国」に対する国民の危機感をあおることによって国内の治安を維持しようという独裁政権の常套的な古典的手法にすぎず、アメリカも国際協調による経済的制裁などによって北朝鮮の無謀な挑発を阻止しようとはしているが、北朝鮮を軍事力で侵略しようなどとはまったく考えていないことは明々白々である。またたとえ、将来の米大統領が、目障りな北朝鮮の金独裁政権を崩壊させてしまえ、と馬鹿げた軍事行動に出たとしても、それは「同盟国のアメリカが攻撃を受けた場合」という条件に該当しないから、日本が「集団的自衛権」によってアメリカの馬鹿げた軍事行動に共同歩調をとることなどあり得ない。
 現に、冷戦時にアメリカやソ連が自国の勢力圏における反体制活動を抑止するために「集団的自衛権」を口実に軍事介入した多くのケースは、現在では、国連憲章が認めている外国からの侵略行為に対するものではないため「集団的自衛権」の行使には相当しないという解釈が国際的に定着している。例えば、日本で共産勢力が拡大して民主主義政治が危うくなったとしても、アメリカは軍事介入できないというのが国際的な合意事項になっている。まして、アメリカが仮に無法な侵略戦争を起こしたとしても、日本がそれに加担する義務などまったく生じない。
 むしろ現行の日米安保条約は、日本が他国から攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務を負うが、日本はアメリカ防衛の義務を負わないという片務的条約になっており、アメリカ人の多くに「なぜアメリカのために血を流さない日本のために、アメリカだけが一方的に血を流さなければならないのか」という素朴な国民感情があることは否めない。そもそもそういう日本に対する侮蔑的感情が、沖縄などでの米軍兵士による婦女暴行の底辺に流れている対日感情の現れと言っても差し支えないほどである。
 自国を外国からのいわれなき侵略から防衛するのはあらゆる国の固有の権利であり、また義務でもある。すでに日本の軍事力は、核攻撃を受けない限り、自衛隊の戦力だけで十分対抗できるだけの状況にある。また帝国主義(あるいは植民地主義)の時代と異なり、日本を植民地化しようなどと考える国はない。たとえばイラクのフセイン政権やアフガニスタンのタリバン勢力を攻撃したアメリカも、イラクやアフガニスタンを植民地化しようなどというばかげた発想はこれっぽっちも持っていない。そういう帝国主義的行動は、世界最大の軍事力を誇るアメリカでも、自由には行使できない時代が現在なのである。「集団的自衛権の行使は、無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同して参加するという危険な集団的軍事介入の道」という日本共産党の認識は、時代錯誤も甚だしいと言わなければならない。
 政治勢力としてはほとんど無力といっても差し支えない日本共産党の主張の論理的破綻に、私がなぜこれだけのスペースを割く必要があったのかというと、共産党員あるいはシンパではなくても、事実上共産党の集団的自衛権解釈に毒されている人たちが日本にはまだ多数いるからである。例えば「憲法9条を守る会」などの市民団体の人たちもそうである。彼らは必ずしも共産主義者とは言えないが、「憲法9条があったから、戦後の日本は平和を守れた」と主張してはばからない。この主張も論理的には完全に破たんしているのだが、そのことに彼らは気づいていない。戦争体験・被爆体験を持たない若い人たちの間にも、日本人特有の遺伝子として刻み込まれている状況の中では、そうした考え方に同調する人たちが少なくないことも私は理解できる。
 しかし、もう少し論理的に考えて見よう。独立国家はすべて自国の憲法を持っている。憲法は国の在り方を決める規範的制度であり、すべての法律や政治体制をはじめ国民生活に至るまで憲法の制約を受けている。だが、この制約は国内のみに適用される制約であって、外国の行動を縛る制約ではない。この論理は小学生でも理解できるはずである。
 では「永世中立」を国際社会に向かって宣言しているスイスについて検証してみよう。スイスは1815年、当時の国際会議のウィーン会議で永世中立が承認され、今日に至るまで他国からの侵略を受けていない。しかしこの「永世中立」宣言が他国からの侵略を防いできたわけではない。他国からの侵略を防ぎ、自国の平和を守るためにスイスは並々ならぬ努力を重ねてきた。その最たるものは独自の国民皆兵制にある。「民兵組織による国民総武装制」とも言われている。具体的には国民皆徴兵制が原則で、すべての国民(障碍者は除く)は基礎訓練を受けたのちは一般市民として生活するが、定年(兵役終了年齢)になるまで定期的な再訓練を受ける。定年を迎えるまでは武器や戦闘装備は国民が個々人で管理しなければならない。そして万一他国から侵略された場合、兵役適用年齢の国民は一切兵役から逃れることはできない。つまり敗戦直前の日本の「全国民竹槍武装」のような防衛体制をとってきたのである。もっとも最近は国民皆兵制は金がかかりすぎる、また国際情勢の変化によって無法な侵略を受けるリスクが軽減したという理由で民兵制から通常の軍隊制に比重を移しつつある。
 ではスイス以外の「永世中立」宣言した国の運命はどうだったか。ベルギーとルクセンブルグの例を見てみよう。両国ともスイスのように永世中立を宣言していたが、第一次世界大戦でドイツの侵攻を受け、ベルギーは国土の大半を占領されながらも国民が抵抗を続けて何とか凌いだが、ルクセンブルグは全土が占領された。この時はドイツの敗戦により独立をいったん回復したが、1940年にはナチス・ドイツにより両国とも占領された。日本の憲法9条が日本の平和を守って来たという屁理屈は真っ赤な嘘にすぎないということがお分かりだろう。日本という国が勝手に作った(アメリカに押し付けられたという説については後述する)憲法をどの国が尊重してくれるというのか。
 日本が戦後、他国からの侵略を受けなかったのは、簡単に侵略戦争ができなくなったという国際情勢の変化と、アメリカの核の傘で守られてきたという二つの要因によるというのが、日本が平和を維持できた正確な理由である。
 日本がアメリカの核の傘で守られてきたというのは、独立国にとっては最大の弱みでもあった。そして憲法9条で日本の再軍備を事実上不可能にしたため、アメリカの占領下時代は日本防衛の任に米軍が当たってきた。だからサンフランシスコ条約によって日本の独立が国際社会から承認されたのちも、アメリカは日本の安全を自らの責任で守ることを約束する必要が生じ、日米安全保障条約を締結したのである。
 もう一度憲法9条の第2項を読んでほしい。こう書いてあるではないか。
「前項(国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」
 この中(第1項)で「国際紛争を解決する手段としては」という条件はなぜつけられたのか。国内における治安維持ための警察組織や共産勢力によるクーデターを防ぐための最小限の軍事力は除く、ということを意味しているのである。
 第1次世界大戦の戦後処理の中で、戦勝国側は敗戦国ドイツに対し過酷な賠償責任を負わせた。それがドイツでナチスの台頭を招き、第2次世界大戦を引き起こす要因の一つになったという反省から、第2次世界大戦の戦後処理で連合国側は敗戦国の枢軸3国(日本・ドイツ・イタリア)に対し、過酷な賠償請求は行わないことにした。その代り国の尊厳を奪う方法で、敗戦国が二度と大国になれないような手段を講じたのである。
 その手段の一つが、日本の場合、憲法9条の制定であった。独立が国際社会からまだ認められていなかった占領下においては軍事力の解体はやむを得ないとしても、それだけでなく近い将来の独立を前提にして、憲法改定が極めて困難になる条件を憲法の中に盛り込んだのである。具体的には憲法96条で①両議院において総議員(出席議員)の三分の二以上の賛成によって国会が憲法改正を発議し、②国民投票の結果、有効投票の二分の一以上の賛成によってのみ憲法の改正ができる、という極めて高いハードルを設定したのである。こうして事実上日本を丸裸の無防備状態にするという、損害賠償に代わる報復的意味合いが濃厚な憲法をGHQは制定したのである。GHQが日本に押し付けたのは憲法9条というより、憲法96条によって、憲法改正に極めて高いハードルを設定したことのほうが大きな意味を持ったと言ってもよいだろう。 
 いわゆる「平和主義者」は、憲法9条を世界に例を見ない「平和憲法」と高く評価しているが、憲法9条を平和憲法と解釈しているのは日本の「平和主義者」だけで、世界中どの国も日本の憲法9条を「平和憲法」などという評価はしていない。当然、戦後の日本が平和状態を維持できたのは、憲法9条があったからではない。
 しかし戦後、急速に勢力を拡大していった共産勢力の脅威に欧米戦勝国は直面することになった。アメリカが日本の再軍備化を容認、というより日本政府に働きかけて憲法9条の骨抜き化を図りだしたのは、日本を防共ラインのかなめにするためであったことは否定できない。
 日本が自衛隊という名の、事実上憲法違反の「陸海空軍その他の戦力」を保有する「解釈改憲」はこうして始まり、今問題になっているのは集団的自衛権について、憲法を改正しない限り無理だという従来の説と、いやまだ解釈改憲で集団的自衛権を固有の自衛手段として認めることができるという説に分かれており、その両論の決着をそろそろつけなければならないという判断に至ったのが、安倍総理が私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(以下、懇談会と記す)を5年半ぶりに再開させた最大の理由である。もちろん、その背景にはすでに核を保有し、少なくとも日本全土を射程距離に入れる弾道ミサイルを開発した北朝鮮の軍事的脅威に対する備えや、日本の固有の領土である尖閣諸島をめぐる中国の軍事的挑発に対する備えを万全なものにしたいという、安倍総理の執念ともいうべき政治姿勢がある。そうした位置づけを前提にして、すでに社説で基本的主張を明らかにした3紙を読み比べてみよう。

 まず朝日新聞。『首相は何をしたいのか』というタイトルからも読み取れるように批判的主張を展開している。まず、現行憲法について「平和憲法」と位置付けていることからして、朝日新聞のスタンスが透けて見える。同紙社説はこう主張する。
「(集団自衛権に道を開くこと)によって日米同盟を強化するのだと安倍首相は言う」「では、日米同盟をどう変えたいのか。平和憲法の原則をなし崩しにすることはないか。議論の出発に当たり、首相はそのことをまず明確にすべきだ」
 そんなことは自明だろう。朝日新聞は北朝鮮の軍事的脅威をまったく感じていないのか。だとしたら、「鈍感」を通り越した無感覚としか言いようがない。
 朝日新聞はこうも言う。
「日本は戦後、憲法の制約のもと、自衛のための必要最小限の武力行使しか許されないとの立場をとってきた」「日本が直接攻撃されていないのに米国を守るのはこの一線を越え、憲法違反だというのがこれまでの政府の解釈である」
 これまでは、確かにそうだった。北朝鮮が核や弾道ミサイルを持つまでは。朝日新聞も安倍総理が懇談会を再開するに至った日本を取り巻く軍事的環境の変化は認めている。 
「東アジア情勢は大きく動いている。日米協力のあり方も、状況にあわせて変える必要はあるだろう。だからといって、なぜ集団的自衛権なのか」「自民党は、その行使を幅広く認める国家安全保障基本法の制定をめざしている」「これによって、憲法が求める『必要最小限の自衛』という原則や、それを具体化するために積み上げてきた数々の歯止めを一気に取り払おうとしているのではないか」「だとすれば、かえって国益を失うだけである」
 では、朝日新聞に聞きたい。解釈改憲で行くか、あるいは憲法を改正するかの議論は別としても、集団的自衛権を持つと、なぜ国益が失われるのか。集団的自衛権を日本が持つと、「平和憲法の原則がなし崩しになる」からか。朝日新聞は「平和憲法があれば、北朝鮮の核や弾道ミサイル、恐るるに足らず」という理論的根拠をまず明らかにすべきだろう。「平和憲法」の条文を守ることと、日本が現に直面している北朝鮮や中国の軍事的脅威に対する抑止力として日米同盟をより強固なものにするために集団的自衛権を確立することと、どちらが大事か、よーく考えてほしい。

 次に読売新聞。社説のタイトルは『集団自衛権 安全保障体制を総点検したい』である。この問題についての発想の原点は私と近い。同紙の書き出しはこうだ。
「安全保障政策の立案では、『現行の憲法や法律で何ができるか』にとらわれるだけでなく、『何をなすべきか』を優先する発想が肝要だ」
 この書き出しで多少気になるのは、「とらわれるだけでなく」という表現である。おそらく社説氏自身が悩んだと思うが、私なら「とらわれるのではなく」と言い切ってしまう。確かに「とらわれるのではなく」と言い切ってしまうと、「では現行の憲法や法律をハナから無視していいのか」という反発が生じるだろう。たとえそうであっても、私は無理に無理を重ねてきた「解釈改憲」にそろそろ見切りをつけないと、いつまでたっても真の独立国家としての尊厳を回復することができないと思うからである。法を順守する精神は大切だが、条文の解釈を変えてさらに無理を重ねることは、かえって国家の尊厳を損なうのではないか。
 ちょっと気になった表現はともかく、読売新聞の主張にはおおむね同意できる。ただ読売新聞は5年半前に提出された報告書を前提に論じている。これから再開される懇談会は、第1次安倍内閣時代に作られた報告書の内容を踏まえ、当時とは激変した軍事的環境下における日本の安全保障体制の再構築がテーマになる。したがって、5年半前の報告書を踏まえながら、今日的課題を明確にし、集団的自衛権の中身をどう具体化すべきかを提言してほしかった。今さら過去に提出された報告書を再評価しても、あまり意味を持たないと言わざるを得ない。もちろん、読売新聞も再構築についての課題も一部提言している。その部分はこうだ。
「『集団的自衛権を持つが、行使できない』との奇妙な政府の憲法解釈を理由に、日本が米艦防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する。国際平和活動で自衛隊だけが過剰に法的制約を受ける現状も早急に改善すべきだ」
 この指摘には問題がある(※「日米同盟崩壊論」は5年半前に出された報告書をもとに、当時の安倍首相が述べた内容)。主張したい意図は理解できるが、「日米同盟が崩壊する」のは、現憲法のもとで集団自衛権を行使できるという憲法解釈が国民的合意を得たのちの話である。読売新聞が「奇妙」と呼ぼうが呼ぶまいが、憲法解釈上、集団的自衛権を行使できない現在、日本が米艦防護やミサイル迎撃を行えば、アメリカは喜ぶかもしれないが、日本政府は崩壊する。まず現行憲法下で集団的自衛権の行使を容認するべく国民的合意を得るか、「解釈改憲」はこれ以上無理ということになれば、極めてハードルの高い憲法改正を行うことが先決である。いきなり「奇妙な政府の憲法解釈」と決めつけ、自衛隊が「米艦防護やミサイル要撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」と主張するのはあまりにも論理が飛躍しすぎている。
 米政府も日本政府の憲法解釈を理解しており、仮に読売新聞の社説氏が想定したような事態(日本が米艦防護やミサイル要撃を見送った)としても、それで日米同盟が崩壊するようなことはありえない。もちろんそのような事態が生じたら、米国内で「日本がアメリカのために血を流してくれないのに、なぜ我々だけが日本のために血を流さなければならないのか」といった片務的日米安保条約に対する国民感情の反発が生じるのは当然考えられる。しかし、残念ながら現在の日本人の国民感情は「二度と戦争に巻き込まれたくない」という方向に向いており、日本がアジアの平和と安全のためにどのような寄与ができるか、また責任を持つべきか、という議論ができる雰囲気ではない。日本というアジアの大国が、アジアの平和と安全を守るためにどのような責任を持ち、そして果たすべきかを国民レベルで議論できるのは、おそらく私たちの孫の世代まで待たなければならないかもしれない。

 最後に産経新聞である。朝日新聞や読売新聞に1日遅れて発表したせいかもしれないが、論点のまとめ方も一番しっかりしており、主張も論理的かつ明確である。産経新聞はこう主張した。
「尖閣諸島に対する中国の力ずくの攻勢は、度重なる領海・領空侵犯に加え、海上自衛隊護衛艦への射撃管制用レーダー照射で深刻の度を増した」「首相が日米共同の抑止力強化を重視するのは当然といえる。課題は多いが、可能なものから早急に実現することが必要だ」「とりわけ核心的な課題は『保有するが行使できない』とされてきた集団的自衛権の行使容認だ」
「懇談会が新たな報告書をまとめるのは今夏の参院選前となる。集団的自衛権の行使容認の関連法となる国家安全保障基本法を早急に成立させるのは簡単ではない」「懇談会や政府内の議論を加速する一方、行使容認に慎重な公明党を説得し、憲法解釈の変更にいかに踏み切るかが問われる」「首相が『国民の生命と財産、領土・領海・領空を守る上でどう対応していくかをもう一度議論してもらう』と安保政策の総点検を求めていることにも注目したい」「政府が直ちに取り組むべき課題は、ほかにもある」「国連海洋法条約が『領海内の無害でない活動に対して必要な処置をとれる』と規定しているのに、日本が国内法で領海警備法を制定していないことはその一例だ。中国公船による主権侵害を排除できない状況が続き、個別的自衛権が不十分な点を示している」
 産経新聞の社説には無駄が一切ない。問題点をわかりやすく整理し、主張も明確で説得力がある。

 懇談会の報告は今夏の参院選前には出されるという。その報告に対し、安倍首相がどういう見解を表明するか、参院選での大きな争点になる可能性は高い。野党も日本という国の形を決めるきっかけになる問題だけに、党利党略であら探しをするのではなく、独立国としての日本の尊厳をどうやって守っていくか、という視点を与党と共有して議論を深めてもらいたい。

 今回のブログは『社説読み比べ』の第1回目である。国民的関心度がそれほど高いとは思えないテーマをあえて取り上げたのは、平和ボケしている日本人に警鐘を鳴らす意図もあった。
 
 
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阿部政権は亡霊化した農民票にしがみつくのをやめて直ちにTPP交渉に参加せよ

2013-02-08 08:03:23 | Weblog
 安倍内閣が揺れている。
 TPP(環太平洋経済連携協定)交渉に参加するか否かを巡って、肝心の安倍総理が党内をまとめることができないからだ。
 もともと自民党は農業団体や農業従事者を最大の支持母体としてきた。その支持母体を強固なものにするため自民党政権は代々農業保護に力を注いできた。一方戦争直後は「安かろう、悪かろう」と海外から酷評されてきた第2次産業分野(工業製品)に対しては、海外から近代的生産技術を積極的に導入し、工業製品の品質向上を図ると同時に、先進的技術開発にも官民挙げて取り組んできた。
 その結果、日本は豊かになり、GNP(国民総生産)もアメリカに次ぐ世界2位の経済大国に生まれ変わった(現在は中国に抜かれ世界3位)。その過程で日本人の食生活も大きく変化し、日本の総人口は伸び続けたが(昨年、戦後初めて減少に転じた)、主食のコメの消費量は減少の一途をたどり続けた。
 このブログ読者の皆さんはひっくり返るほどびっくりされるかもしれないが、日本のコメの生産性(平年作)は、アメリカの穀倉地帯であるカリフォルニアと比べ1978年までは高かったのである。が、この年を境に日米のコメの生産性は逆転し、その後大きく差をつけられる一方となった。なぜか。
 実はこの年が農業革命の年で、それまで人力に頼っていた稲作をはじめ農作業の機械化が一気に進みだしたのである。
 農業の最適条件は、農作物によって異なるが、とりあえずコメについて言えば大きく分けて三つある。
 一つは土壌の豊かさ(つまり土壌がどのくらい稲作に必要な栄養分を含んでいるか、また栄養分の再生産が容易か否か)である。稲作の場合、最も重要なのは水田の水質である。日本の水質は軟水で、稲作に最も適している。カリフォルニアも軟水でやはり稲作に適している。ビジネスマンを除けばカリフォルニアに行く観光客はそう多くないと思うが、日本の観光客が最も多く訪れるハワイで口にするコメは(日本食店も含め)ほとんどカリフォルニア米である。日本で食べるコメとの違和感を感じた方はどのくらいおられるだろうか。ほとんどいないはずである。当たり前の話で、カリフォルニア米のほとんどは日本から輸入した種モミがもとになっているからである。かなり昔から生産されているカリフォルニア米の大半はコシヒカリである。新潟産のコシヒカリと比べると食味は落ちるかもしれないが、宮崎産や千葉産のコシヒカリよりおいしいと、私や私の家族、友人たちは口をそろえる。ハワイだけではない。ニューヨークやサンフランシスコなど、日本企業が進出したり、日本人が移住したりしている都市の日本食店(とくに寿司屋)はすべてカリフォルニア産のコシヒカリを使っていると言ってもいいだろう。
 次に重要なのは環境整備である。この場合の環境とは稲が育つ時期の雨量や灌漑用水のインフラが整備されているかどうか、また植え付けから刈取りまでの平均気温である。カリフォルニア産のコシヒカリが宮崎産や千葉産よりうまいといわれるのは、コシヒカリにとっての最適条件がカリフォルニアのほうが宮崎や千葉より優れているからである。
 最後に、これが日米の生産性の差を決定づけた要因となった、機械化に適した土地か否かである。そして平地が少ない日本の場合、どんなに機械化を図ってもカリフォルニアに太刀打ちできないのはそのためである。日本の場合、水田に苗を植え付けて稲を育てる。手作業の植え付け作業は今ではほとんど見られなくなったが(植え付け機で植えるため)、稲作の基本的方法は昔から変わらない。一方カリフォルニアでは軽飛行機やヘリコプターで空からある程度湿らせた稲作地に種モミを蒔き、芽が吹いてある程度育ってから灌漑用水を入れて水田にする。その後の農薬も、日本のように手作業でするのではなく(日本では稲が生育過程にある段階では田植え機のようなものを水田に入れることはできない)、カリフォルニアではやはり軽飛行機やヘリコブターで空から農薬を散布する。稲が実り、刈り取る段階になると、日本でもコンバインを使用する農家が増えたが、カリフォルニアで使用されているコンバインとでは、大きさにたとえれば軽飛行機とジャンボ機くらいの差がある。
 これだけの差があったら、日本の稲作がカリフォルニア米に勝てるわけがない。しかし、仮に「聖域なき自由化」に日本が踏み切ったとしても、日本のコメ消費量の4割は国産米が生き残れるという試算もある。たとえばコシヒカリではないが、あきたこまちや、寒冷地に適したコメ開発に成功した北海道のきららなどは十分生き残れるというのだ。

 安倍自民党は昨年末の総選挙で「聖域なきTPP交渉には参加しない」と公約を掲げていた。実は前政権の野田総理はTPP交渉への参加に前向きな姿勢を明らかにしていた。しかし、選挙直前になって地方出身の議員や立候補者から「TPP交渉参加をうたうと選挙に勝てない」という悲鳴が上がり、急きょ民主党のマニフェストからTPP交渉参加問題を外したという経緯があった。
 一方、「聖域なきTPP交渉には参加しない」と公約していた安倍自民党総裁は、総選挙で自民党が大勝を収めるや否や、TPP問題に対するスタンスを180°転換し、TPP交渉に前向きな姿勢を打ち出し始めた。これで怒りを爆発させたのが地方出身の当選者たち。
 選挙戦で「TPP交渉参加は絶対阻止する」と叫び続けてきた我々の立場はどうなるんだ、というわけだ。この自民内部の反発で再び安倍総理は態度を豹変した。選挙前の公約に戻り、「聖域なきTPP交渉には参加しない」とスタンスを180°転換してしまったのである。一体安倍総理の本音はどこにあるのか、不信感をつのらせたのは私だけではないはずだ。
 
 奴隷解放の英雄という伝説が定着している米リンカーン大統領の歴史的演説に、「人民の、人民による、人民のための政治」というのがある。リンカーンやケネディ大統領の伝説の裏に隠された実像はすでにブログで書いたことがあるが、自民党の選挙対策は一貫して「農民の、農民による、農民のための政治」だった。もちろん自民党の選挙対策は、あくまで選挙に勝つための戦略に過ぎず、必ずしも農民だけを優遇する政治を行ってきたわけではない。しかし、ある程度は農民優遇政治を行わなければ、スローガン倒れになり、農民や農業団体の支持を失うことはわかりきった話である。そのためこれまではかなりの力を入れて農業保護政策を行ってきた。
 しかし、そうも言っていられない状況が目前に迫っている。TPP交渉に日本が参加するか否かという決断をしなければならない時期が目前に迫ってきたからである。これまでのように自由貿易の世界的流れに竿をさし続けるわけにはいかない状況に直面しているのだ。
 障壁なき自由貿易実現の理念は昨日今日生まれたわけではない。そもそも第二次世界大戦の原因の大きな一つは、貿易での先進国間のエゴの張り合いにあった。つまり自由勝手に為替を自国産業に有利なように変えたり、国際競争力に乏しい産業分野についてはべらぼうな関税を課したり、輸入量を勝手に制限したり、といったエゴがまかり通っていたのである。
 その反省から生まれたのがIMF(国際通貨基金)とGATT(ガット。貿易と関税に関する一般協定)という国際機関であった。とくにGATTは自由貿易を促進するために1948年に発足され、同年に第1回目の国際会議ジュネーブ・ラウンド(参加国23)を皮切りに8回の国際会議が開かれてきた。日本がGATTに加盟したのは55年で、73~79年にかけては日本で東京ラウンドが開かれている。最後のラウンドとなったのは86年から94年まで10年近くに及ぶロングランのウルグアイ・ラウンドであった。
 ウルグアイ・ラウンドは日本にとって歴史的な意義を持つラウンドとなったのだが、このラウンドで最大の焦点になったのは南北対立であった。南北対立の南は農業を中心的な産業とする発展途上国を意味し農産物の完全自由化を求めたのに対し、北の先進工業国は自国の農業を保護するため貿易障壁を高くしており、双方の対立は激しく妥協点が作れないままで終わり、障壁なき自由貿易の世界を目指してきたGATTはその使命を果たせぬまま幕を閉じ、新たな国際機関として95年1月、WTO(世界貿易機関)が発足し、今日に至っている。
 ウルグアイ・ラウンドが日本にとって歴史的な意義を持ったと書いたのは、この会議で、それまで日本人の主食であるコメは一粒たりとも入れないという農業政策の見直しを余儀なくされ、最低輸入量(ミニマム・アクセスという)を義務付けられ、さらに99年には自由化された。
 では、千葉産や宮崎産のコシヒカリよりおいしく安いカリフォルニア米が私たちの食卓にのるか、といえば絶対にのらない。スーパーの店頭に並ぶと、魚沼産のコシヒカリより高価なコメになるからだ。その理由は輸入米にかかる関税が実質778%という高率になっているからである(「実質」と書いたのは、輸入米の場合関税計算が複雑で、その計算方法をこのブログで説明しても意味がなく、関税率に換算すると、という意味である)。またミニマムアクセス米は建前として関税はかからないことになっているが、政府が国内の流通ルートに乗せる場合にはやはり778%を乗じた価格で売り渡すことになっている。当然、不作になった93年を除き、ミニマムアクセス米は全量海外への食糧援助に回されてきた。
 なぜこのようなべらぼうな関税障壁が継続されてきたのか。
 実は日本の農業就業人口は236万人(2009年、兼業農家を含む)で、全産業の3.7%を占めている。たった3.7%というなかれ。この人口は純粋に農業を営む人たちの数である。農業関連のすそ野は広く、農業機械、農薬、農産物流通など幅は全国に広がっている。これらの関連産業も含め、農家の首根っこを一手に握っているのが悪名高い全農(全国農業協同連合会。JA)である。はっきり言えば日本最大のカルテル組織がJAなのだ。ではJAはいったいどんな事業を行っているのか、またどのような組織構成になっているのか。JAのホームページから抜粋してみよう。(ママ。原文には段落がない。枠で囲ったのは筆者。これほど事業範囲が広い事業体は日本にJAしかない。JAは信用事業により、農家の全生活を事実上拘束している)

JAは、組合員の参加と結集を基本に事業活動を行う組織です。農業協同組合法にもとづき、農業生産に必要な資材を共同で購入したり、農産物を共同で販売します。また、日常的な生活物資の提供や貯金、貸出などの信用事業、生命・建物・自動車などの共済事業等、幅広い事業を展開しています。
このような単位JA(総合JA)の事業を。より効率的に行うため、都道府県単位での連合会・中央会があり、全国段階での全国連があります。単位JA-JA都道府県連合会・JA中央会―JA全国連の3段階の組織全体をJAグループと呼んでいます。
経済事業においては、連合会の組織整備により、都道府県のJA連合会とJA全農との統合が進められ、現在では全国に35の都府県本部があります。

 このようなカルテル組織は当然のことだが、独占禁止法に抵触する。ではどうしてこのようなカルテル組織が公然と存在しているのか。その理由はコメの生産と流通についての日本独自のシステムが背景にあった。
 封建時代にまでさかのぼれば、侍(大名以下下級武士に至るまで)の収入はコメを単位にしていた。何万石という石高はコメの収穫量が単位であり、農家だけがコメの収穫量に応じて物納で納税していた。そうした事情もあって、徳川幕府の時代に士農工商という身分制度が確立され、小作農家の元締めともいうべき庄屋は武士と同様、名字帯刀が認められていた。だから貧乏な零細小作農家でも、社会的地位は高かったのである。そうした農家に対する特別扱いが戦後も継続されてきたことにコメ問題の歴史的背景があった。
 とくに徳川幕府にとっては、鎖国体制を維持するためには、日本人の主食であるコメ(麦・粟なども、この場合含んで説明している)の自給自足は政治の安定のために欠くべからざる基本的政策だった。だから飢饉で農民一揆がおこっても、幕府の一揆の首謀者に対する処罰は比較的甘かったのである(幕府の目が届かない地方では過酷な刑罰が科せられていたが、そういう実態が幕府の知るところとなるとお家取り潰しになったり所領替えさせられたりした。だから飢饉になるたびに「直訴」が免税を願う手段として公然と行われていたのである)。
 戦後もかなりの期間、農地が荒れ放題になったせいもあり、コメ不足は深刻で、そのため一時は配給米制度が設けられたほどだった。政府の配給だけでは足りず、ヤミ米が流行したのも戦後風景の一つであった。
 こうした経緯を経て農家に対する過保護体質が戦後日本の政治の基本姿勢になっていった。また、それを可能にしたのが選挙制度でもあった。本来有権者の一票の重みは同じ、というのが民主政治の大原則だが、選挙区という制度のもとで議員を選ぼうとすれば、どの国でも完全に一票の重みを同じにすることは不可能である。あえて一票の重みを同じにしようとするには選挙区を設けず、全国の全有権者の投票を比例配分して各政党に議員数を割当てるしかない。
 そして日本の場合、最高裁が違憲状態という判決を出したほど一票の格差が大きく、一般的には都市部の有権者の一票と地方の有権者の一票の重みには数倍の格差がある。自民党が地方票、はっきり言えば農業関連票を重要視するのはそのせいである。だから、民主党が、野田総理がTPP交渉参加の意向を明らかにした途端、地方議員から猛反発の声が上がり、マニフェストではTPP問題に一切触れなかったのもそのせいであった。それに対して安倍自民党は「聖域なきTPP交渉には参加しない」と公約して農業関連有権者の票を大量に獲得したのが、自民党大勝の最大の要因だったのである。
 解散に先立ち、野田総理は「消費税増税は選挙のことを考えると得策ではないが、将来の日本を担う子供や孫たちに付けを回さないためには、いま社会保障制度を確実なものにしておくことが政治家としての使命だ」と、自らの政治信条を切々と訴えたが、消費税増税が国民から大方の支持を得られたのは日本で初めてだった。民主党が地方で大敗したのは消費税問題ではなく、TPP交渉参加に反対する農業関連票がすべて自民党に流れた結果である。
 ところが、自民が大勝した途端、安倍総理は舌の根が乾かないうちにTPP交渉参加への強い意欲を示した。自民党内部の地方出身議員がこれに猛反発して、安倍総理は再び「聖域なきTPP交渉には参加しない」と、君子豹変してしまった。
 だが、これまで何度もブログで書いてきたように、TPP交渉に参加するか否かは、日本という国の在り方を決める待ったなしの課題である。いま日本がTPP交渉にそっぽを向けば、日本は環太平洋地域で孤立化する危険性がかなり高くなる。そもそも農業の国内総生産(GDP)は2009年度で5兆3490億円にすぎず、全産業の1.13%を占めているだけである。しかもこの総生産額には国の手厚い保護費が上乗せされての数字だから、正味で計算すると2分の1に減ってしまうのだ。
 その農業関連票を失うことを恐れて日本の将来を危うくしているのが政権政党である自民党のあからさまな実態なのだ。
 しかし、よーく考えてみよう。安倍自民党がTPP交渉に参加したとして、農業関連票はどこに流れるというのか。既に民主党は地方選挙区で惨敗しており、今後おそらく都市型政党に変貌するだろう。また第三極の柱となった維新はもともと都市型政党としてTPP交渉参加を表明しているし、躍進著しいみんなもTPPには前向きの姿勢を打ち出している。今TPP交渉参加に正面から反対しているのは社民党と共産党だけである。安倍内閣がTPP交渉への参加を決めた場合、農業関連有権者の多くは失望するかもしれないが、彼らは次の選挙でTPP交渉参加に反対した社民党や共産党に一票を投じるだろうか。
 もう農業関連票は、自民党が心配するほどの、政局を左右する力を失っていることにそろそろ気づくべきだ。そして778%もの高率関税を課さなくても国際競争に勝てる農業政策に転換すべき時に来ているのである。
 そもそも農業保護費は農業総生産の半分を占めている。そのうちの半分を農業競争力強化対策に使い、残り半分は零細専業農家に対する生活保護費に充ててしまえという考え方を前提に農業政策を転換すれば、おそらく従来の保護費は激減するだろうし、日本が自ら血を流しても自由競争の前進に向けて大きな一歩を踏み出せば、日本の国際的発言力が倍増することは間違いない。政権政党がいつまでも亡霊化した農業関連票にしがみつこうとすればするほど、日本の将来は危うくなる。
 
 
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桜宮高校体罰自殺事件の実名報道をマスコミは重く噛みしめよ

2013-02-03 04:57:01 | Weblog
 このブログ記事は前回のブログ『読売新聞読者センターはついに「白旗」を挙げた!?』を投稿した1月26日から書き始め、28日には完成し、いつでも投稿できる状態になっていました。しかし前回のブログに対する訪問者数・閲覧数が昨日まで200~300を切らず、このブログをなかなか投稿できない状態が続いてきました。私のブログにはかなりの固定読者がおられるようだということは何となく承知していましたが、これほどロングランの状態が続くということは、たぶん読者の方がツイッターなどで広めてくださったからではないかと思います。感謝、感謝。 
 その後も、安倍内閣が次々と民主党政権時代の政策をひっくり返してきたことについて、以前のブログでお約束した「社説読み比べ」の記事をも書き,やはりいつでも投稿できる状態にしてあったのですが、これは残念ながらタイミングがずれすぎてしまったため、いったんボツにすることにしました。予算委員会で本格的な与野党の論争が展開されるようになった時期に改めて与野党の攻防を踏まえて書き直し、時機を見て投稿したいと思っています。
 また、いま田原総一郎氏の『真実の近現代史――田原総一郎の仰天歴史塾』(田原総一郎/著 テレビ東京報道局/編)を読んで仰天しています。自称ジャーナリストが、どのように歴史的事実を「解釈」したら、このような近現代史論を書くことが出来るのか、大げさではなく仰天しています。
 そもそも、著者が田原氏で、編者がテレビ東京という、通常ありえない作り方自体が、テレビっ子ならではの面目躍如たるものがあるように感じましたが、また同書のカバーについている帯が、ただ売れさえすれば日本人の近現代歴史観をさらに歪めてもいいと考えておられるようで、そうなると前々からマスコミ(特に朝日新聞や読売新聞)によって歪められてきた近現代史観を、歴史家の目線ではなくジャーナリストの目線で書きたいと思っていましたので、この本をまな板の上で一刀両断することで、読者の方たちの目からうろこを落とさせていただきたいと考えています。なお同書の帯にはこう記されています。
「領土問題の真実、政治経済の弱体化などすべての根源は戦前戦後の歴史観の欠乏にあった ! なぜ日本人は本当のことを知らないのか」
 さらに同書の「初めに」(※前書きのこと)で「日本は太平洋戦争の総括を、まったく行っていません。……いまだ自らの手で、このような戦争が起きたのはなぜか、そしてこの戦争の結果起こったことに対する総括を、行っていません」という、近現代史専門の歴史学者やマスコミがひっくり返ってしまうような事実の歪曲すらしています。歴史学者やマスコミが偏った近現代私論を行っているのは事実ですが、それならマスコミや歴史学者の歴史認識の間違いを批判するのがジャーナリストの本道であり、今まで歴史学者やマスコミが無視あるいは歴史的価値が少ないとしてきたことを指摘し、一見些細に見える事実が日本の近現代史に大きな影響を及ぼしたと主張するなら、そうした歴史の片隅に追いやられてきた事実を発掘することは大きな意味があることは私も否定しませんが、そうした要素もほとんどありません。
 田原氏は同書「初めに」でこうも書いています。
「戦後70年近くも経た今もなお、すべてがあいまいにされたままになっているのです。しかし史実を知らなければ、近現代史をきちんと学ばなければ、現代の問題――原発問題にせよ。出口の見えないデフレ不況の問題にせよ、その他もろもろの問題もすべて、その根本から理解し、解決することは、まず不可能なのです」
 同書はBSジャパンで8回にわたり放映された『田原総一郎の仰天歴史塾 ニッポンリーダー列伝』という番組(現在も継続中)をベースに書いたということですが、歴史上の人物に目新しい視点を当てることが無意味とまでは極論しませんが、人物伝だけで歴史を語るというのは司馬遼太郎氏の小説方法論で、それは小説だからある程度は許容できますが、正面切って近現代史に挑戦しようとするにはあまりいい方法論ではありません。
 田原氏は日本の近代革命と言っても差し支えない明治維新の大パラドックスについて全く理解していません。つまり歴史認識の方法論としては、従来の歴史学者たちの歴史認識方法論の手のひらの上で踊っているにすぎません。
 私はこれまでブログで何回か書いて来ましたが、明治維新を実現した運動エネルギーは、「勤王」「攘夷」「尊王」(運動が生じた歴史順)の三つに大別され、「勤王」思想が長州藩若手藩士の画策によって「尊王」思想に変質し、その思想転換によって初めて維新実現の最大の起爆剤となった「攘夷」と結びついた(はっきり言えば長州藩の若手藩士が発明した接着剤で)結果、幕藩体制が崩壊し、日本が近代国家建設への歩みに踏み出すことになったという大パラドックスについての、基本的な歴史認識の方法論を田原氏はまったく理解していません。それが証拠に、田原氏は本文で「世の中に吹き荒れる尊王攘夷の嵐は一層の勢いを見せ始め」と、明治維新を実現した運動エネルギーについての通説をいとも簡単に認めています。そもそも「尊王攘夷」などという四字熟語は維新以降に作られた造語であって、「尊王」と「攘夷」は別々の意味を持っていたのです。そんなイロハすら識別できないジャーナリストに歴史認識の方法論を語る資格はないと言ってもいいでしょう。
 同書は7章からなっており、私も1章ずつ、田原氏の歴史認識の誤りをこのブログで指摘していきたいと思っています。つまり7回にわたるロングランのブログになりますが、その間、今回のブログのような時事的な問題についてのブログも挿入していきますので、ご承知ください。
 では本題のブログに移ります。

 案の定、桜宮高校事件はニュースショー(テレビ)の格好な大きい話題になった。著名な教育評論家が引っ張りだこになって茶の間では家族の間で、てんやわんやの「ああでもない、こうでもない」の大議論が始まっているようだ。
 この問題がこのように大騒ぎになったことは、ひとえに体罰を苦に生徒が自殺した学校名をマスコミが実名で公表したからである。
 私がいじめ自殺について本格的にブログでマスコミの報道姿勢を批判するようになったのは、仙台育英高校のいじめ自殺についてのマスコミの報道基準に疑問を抱いて以来である。この事件について昨年8月8日に投稿したブログで、私はこう書いた。

 仙台育英が悪質なのはいじめの被害にあった生徒に自主退学を迫るという教育評論家の尾木氏がコメントしたように「天地がひっくり返ったような話」ということにとどまらないということだ。つまり仙台育英は(当然校長も含め)相当前にこのいじめを承知していながら甲子園出場を辞退せず、ひた隠しに隠してきたという問題である。
 問題が明るみに出たのは今月6日にNHKがニュース7でスクープしたことがきっかけだった。被害生徒が仙台警察署に被害届を提出したことをキャッチしたNHKのスクープだ。 このニュースを見た直後、私はNHKの視聴者センターに電話し、チーフに代わってもらって「なぜ校名を明らかにしなかったのか。これほどいじめが社会問題化している時期に加害生徒を処分せず、逆に被害生徒に自主退学を迫るという悪質な学校名を明らかにしなかったのはなぜか」と苦情を述べた。25年間教育問題に取り組んできたというチーフは「いじめ問題を扱う場合はかなりデリケートにならざるを得ないんです。お客様のおっしゃることは十分理解できますが、校名を明らかにした結果、かえって被害学生が学校に戻れなくなる可能性がかなり高いと報道部門は考えたのでしょう」と答えた。
 私は「あなた方は現在のネット社会の広がりを全く理解されていないようだ。今日中に校名はネットに流れますよ。NHKが校名を明らかにしないという配慮はネット社会では通用しない。もうかつてのような大手マスコミが自分たちの社会にしか通用しない自主規制や被害者に対する配慮は今のネット社会によって完全に崩壊したということを念頭において報道しないとマスコミに対する信頼感は雪崩を打つように崩壊していきます」と応じた。
 現に厳しいネット規制を行っている中国ですら次々に共産党幹部の腐敗がネットで暴かれ権力の中枢部でもネットの告発を抑えきれない状況である。(後略)

 その3日後、私は再びマスコミ界に怒りの矛先を向けた。8月11日に投稿したブログ『いじめ社会の復活に手を貸した大手マスコミの罪』というタイトルで大手マスコミに対する批判を展開したのだ。今度は大津市立皇子山中学で、いじめを苦にした2年男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した事件についてである。再びマスコミは学校名を伏せ、事件を大々的に報道した。だが、 
その日のうちにネットには学校名だけでなく加害者生徒3人の実名も流れた。 
 いくらなんでも、匿名で自分が知り得た情報を何でも流していい、と考えるのは行き過ぎだとは思う。しかし、それでもマスコミは学校名を明らかにしなかった。NHK視聴者窓口のチーフが言ったように「学校名を公表すると、かえっていじめにあった生徒が学校に戻れなくなる可能性が高いと報道部門は考えたのでしょう」という理由は、この事件では通用しない。いじめにあった学生が自殺してしまったからである。学校名をマスコミ界にしか通用しない論理で伏せても、自殺した生徒が生き返ることは「天地が引っくり返っても」あり得ないからだ。マスコミ界の自主規制が破たんしたことを、この事件が証明した。私はマスコミのいじめ報道についての姿勢をこう批判した。

 現代のネット社会が持っている社会的影響力がもはや大手マスコミの思惑やマスコミ界にしか通用しなくなった自主規制を完全に過去のものにしてしまったことに、そろそろ気づいてもいいころだ。
 あえて言う。いじめ事件の増大にストップをかけ、被害学生を守る最善の手段はニュース報道で学校名を明らかにしてしまうことだ。ここまで私がいじめ問題についての私論を展開しても、依然として従来のスタンスから脱皮できないようなら、もはや日本人とくに若い人たちのマスコミ離れはとどまることがないだろう。(中略)
 実は大手マスコミの読者や視聴者の意見を聞く窓口担当者の大半は「ネット社会化におけるマスコミが果たすべき役割と権利・義務・責任」についての私の主張を理解・支持してくれているのだが、肝心の現場が、窓口担当者が伝えてくれた私の「マスコミ論」を全く理解してくれていないようなのだ。現に仙台育英の校名を公表すべきだという私の主張に対して当初反論していたチーフも最後まで私の主張に耳を傾けてくれ、「貴重なご意見として必ず担当部門に伝えます」と言ってくれていたのだが、仙台育英のいじめ事件についての報道で校名を明らかにすることは最後までなかった。
 ※私のブログの読者のお教えしておくが、マスコミの読者・視聴者窓口が、
  読者・視聴者からの意見(賛否を問わず)に対して電話を切る前に最後に
  言う二つの言葉の意味をご説明しておこう。
  「承りました」……「聞き置く」つまり聞き捨てにすること。
  「担当者に伝えます」……必ずメモが担当者にわたる。ただしメモなので、
  読者・視聴者の意見がどこまで正確に担当者が理解してメモしたかは保証
  の限りではない。
 
 実はマスコミが誤解、というより完全に理解していない教育委員会の構成と責任者の所在について説明しておこう。
 教育委員会には二人の「権力者」がいる。教育委員会委員長と教育長の二人である。委員長は一応最高権力者のはずなのだが(一般社会においては……ただし特殊法人などの理事長のように、単なるお飾りの名誉職は別として)、実は教育委員会委員長は単なるお飾りの名誉職に過ぎず、教育界の出身者はほとんどいない。いじめ問題や今度の体罰問題など現実の問題が生じた時に実務上の最高責任者として学校に対する監督・指導を行うのは教育長であって、教育長には原則校長経験者がなる。この仕組みが学校問題が生じたときに最大のがんとなるのである。つまり教育長は単なるお飾りではなく、事実上学校内での様々な問題が生じたときの実務面の最高権力者なのだ。教育長は校長経験者であるがゆえに、実務上の経験や知識は確かに豊富なのだが、学校で問題が生じたとき、どうしても身内意識が働いて学校寄りのスタンスをとってしまう。
 たとえば桜宮高校の今年度の入学試験について、橋下市長が「体育関係学科の入試は行うべきではない」と主張したのは、確かに権限の乱用と私も思うが、感情的には大半の方々と同様橋下市長の見識を支持したい。この常識的感情に最後まで抵抗したのが教育長であり、結局世論には逆らえず「入試は(名目上)普通科のみで行う」と発表した。が、普通科で入学しても、どういう名目にするのかは不明だが、やはり体育教育専門のクラスは存続させるようだ。玉虫色の解決ではあるが、スポーツ名門校としての伝統は、私も絶やすべきではないと思うので、やむを得ない解決策として容認せざるを得ないのが実情だ。
 ただ桜宮高校の部活体罰が、桜宮高校だけでなく全面的に不可能になったのは、ひとえにマスコミが桜宮高校を実名で報道したからである。つまり部活体罰が明らかになると学校名が実名で報道されるという危機感を、スポーツに力を入れている学校がいっせいに抱いたという意味合いが、この実名報道の最大の成果だった。
 確かに仙台育英や皇子山中学のいじめ事件を実名報道しなかったマスコミが抱いた、「実名報道すると大混乱が生じる可能性」が桜宮高校の実名報道で検証された。桜宮高校の在学生やその父兄、体罰を行っていなかった部活顧問教諭や普通科教諭も肩身の狭い思いをしたであろうことは想像に難くない。
 また桜宮高校の「悪名」は当分消えないだろうから、今年の入試は桜宮高校に絞っていた中学生は桜宮高校を受験するだろうが、来年度以降、桜宮高校の受験生が激減することはほぼ間違いない。場合によっては近い将来、桜宮高校は廃校になる可能性すら否定できない。
 そういう意味では非常に大きな犠牲を伴う実名報道だったが、私は「一罰百戒」の効果の方を重要視する。この実名報道によって、すべての学校(中学から大学まで)で、スポーツ系部活の在り方が一変することは疑いを容れない。要は日本のスポーツ教育でこれまで最重視されてきた「精神主義」が、この実名報道で根絶するであろうこと、そしてアメリカのような科学的トレーニング法を日本も導入せざるを得なくなるだろうこと、そういった効果を考えると、仮に桜宮高校が廃校に追い込まれるような事態(入学者が一定数確保できなくなれば自動的に廃校になる。少子高齢化で小・中学校が統廃合されるのと同じ)になっても、そのマイナス面をはるかに上回る大きな効果が期待できる。
 この教訓は学校の体育系部活だけではない。プロ・スポーツの世界でも大きな変化が期待できるし、これまで負のアナウンス効果を恐れて実名報道を避けてきた報道機関にとっても大きな課題を突きつけたといえよう。
 私はNHKと朝日新聞に「仙台育英や皇子山中学のいじめ事件を実名報道せず、桜宮高校の体罰教育を実名報道した報道の基準と結果についての検証を番組や紙面で明らかにしてほしい」と要求したが、まだ実現されていない。さらに加えてアメリカの科学的トレーニング法を紹介し、日本も精神主義トレーニング法(はっきり言えば、「カツを入れる」という名目での「しごき」)から脱皮すべきことを主張してほしい。
 それはプロの世界でも共通するテーマである。柔道は日本で生まれ世界中に広まったゆいつのスポーツだが、世界の柔道指導法を学ぶようになった(まだ中途半端で、「しごき」はあまり見られなくなったようだが、「量は質に転化する」式の非論理的な練習量の増大化は依然として続いている)。だが、実際のところ、練習量をいくら重ねてもあまり効果はない。豊富な練習量によって精神を鍛えるというバカげた発想は依然として残っている。いくら練習量を増やしても、素質がなければ強くはなれない。素質のある柔道選手に対しては長所を伸ばし、欠点を克服するための効率的な科学的トレーニング法を取り入れなければ、日本の柔道の復活は期待できない。(※このブログを書いた時点では柔道女子日本代表の園田隆二監督の「熱血」指導の問題は全く明らかになっていなかった)
 たとえば、日本でもアメリカでも人気が高いプロ野球だが、アメリカのキャンプは期間も短いし、1日の練習量も日本よりはるかに少ない。それでいて、アメリカのプロ野球選手の試合状況の過酷さは日本の比ではない。年間試合数も多いし、日本に比べると、とてつもなく広い国だから(そのためメジャーリーグは日本と違い地区別に四つに分かれている。昔は日本と同様地区別ではなく2リーグ制だった)、移動によって受ける疲労度も日本の選手よりはるかに大きい。それなのにメジャーリーグの先発投手は4人のローテーションで投げている。日本の選手は自主トレやキャンプでくたくたになるまで練習をさせられてシーズンに入るから、1週間に1回しか先発できないほど体力をすでに消耗してしまっている。そんなやり方をしていたら、いつまでたってもアメリカに追いつくことはできない。
 私はスポーツ関連の専門家ではないが、スポーツというのは、もともと素質がある選手は一度コツをつかめば、そのコツを忘れない程度に練習量はとどめた方がいい。コツを完全に体に染み込ませようとして練習をやりすぎると、疲労によってかえってせっかくつかんだコツが歪んでしまう。そのリスクの方が大きいことに、選手も指導者も気づくべきだ。アメリカ式の科学的トレーニング法を取り入れるとはそういうことなのである。
 余計な話になったが、日本のスポーツ練習の在り方が桜宮高校の体罰事件をきっかけに大きく変われば、体罰練習に対して抗議自殺した生徒の思いは日本のスポーツ史に末永く残るであろう。
 私はそうなることを願うし、また生徒の自殺を一過性の事件に終わらせないことが、マスコミの果たすべき大きな責任である。

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