小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「N国党」の立花党首はNHKの提訴に勝てるか?

2019-10-29 01:27:52 | Weblog
【追記】このブログはもう少し更新しない。閲覧者が一向に減少しないからだ。本当は書きたいことが山ほどある。たとえば東京オリンピックのマラソンや競歩競技がIOCの突然の方針転換によって開催地が札幌に変更になったこと。カタールのドーハで行われた世界陸上の女子マラソンで棄権者が続出し、アスリートの健康のために平均気温が東京より低い札幌の方がアスリートのためにはいいと考えたようだが、東京は東京でそれなりに暑さ対策は講じてきた。
 そもそも東京で8月にオリンピックを開催するなどということ自体、気違いじみたことだった。私たち国民が最初から夏季オリンピックは8月が前提になっていたことを知ったのは、東京開催が決定した後のことだ。「ばかげている」という都民の苦情が都庁に殺到したようだ。ちなみに次のオリンピックは今夏42℃という猛暑を記録したパリだ。いまのところパリのオリンピック組織委員会は東京オリンピックに水を差してはいけないという配慮をしてか沈黙しているが、東京オリンピックが終わった途端「オリンピック開催の返上」を発表する可能性が極めて高い。東京よりパリの方がアスリートにとっても観客にとってもはるかに危険だからだ。オリンピック憲章がどうであろうと、いまやオリンピックはプロ・スポーツやコンサートと同様の「興業」でしかないことが、今度の騒動であからさまになった。。
 もう一つ見逃せない問題がある。消費税増税直後に政府は増税直前の駆け込み需要の反動はそれほどでもなかったと胸をなでおろしたが、1か月たった今、想定以上の消費減退がはっきりした。その理由は軽減税率とキャッシュレス決済のポイント還元制度の導入にある。軽減税率の問題についてはこれまでも何度も書いてきたが、ポイント還元の問題についていろいろわかってきたこともあるので、次のブログで書く。(11月4日)

 10月28日、NHKがようやく立花孝志氏(「NHKから国民を守る党」党首)に対して放送受信料の支払いを求める民事訴訟を東京地裁に提訴した。ただ、受信料請求は立花氏が埼玉知事選に出馬するため(知事選は大差で落選)、自動失職した参議院議員会館の議員室に設置した受信機の受信料2か月分(衛星契約)4560円だけだ。
 立花氏は自宅や事務所にもテレビは持っているはずで、なぜ議員会館の議員室に設置したテレビにのみ受信料の支払いを求めたのか。どうせなら「N国党」から参院選に出馬した立候補者や支持者も一網打尽で提訴しないのはなぜか。
 立花氏の政策はNHKにスクランブル放送を義務付ける法律を国会で成立させることだ。それ以外に政策は何もない。この法律を国会で成立させるためには安倍憲法改正論に賛成してもいいとまで主張している。またポスト安倍の有力候補の一人である石破氏も、NHKの放送は公共放送の範囲を逸脱しているとして、立花氏の主張に一定の理解も示している。
 私も石破氏が指摘しているNHKの放送内容には限りなく物足りなさと疑問を抱いている。「パーキンソンの法則」というのがあるが、官僚組織は組織を維持するため、不必要になった業務の代わりに次々に「仕事」を作り出して組織体を維持拡大するという理論で、「官僚組織の肥大化」という社会的現象を解明した理論である。
 たとえばNHKの場合、Eテレはかつては中卒就職者が高卒の資格を得るための学習番組を放送することが目的でつくられた。だから「教育テレビ」という名称だった。が、中卒就職者が激減した結果、公共放送としての「教育テレビ」は存在価値を失った。だったら中卒就職者のための「教育テレビ」は廃止すればいいのだが、いまは「Eテレ」と名を変えて、ほとんど限りなく視聴率ゼロに近い番組ばかり放送している。
 BS放送も最初は難視聴地域対策として誕生したから、BSの番組は大半が総合放送と同じだった。が、地デジになって難視聴問題がほぼ解消してもNHKはBS放送を止めるどころか2、3局に増やした。まさに「パーキンソンの法則」がこれほどぴったり当てはまるケースは、そうはないだろう。
 それだけ公共放送の中身が充実したかというと、まったく逆である。たとえば自民党から嫌われていた国谷氏がキャスターを務めていた『クローズアップ現代』(月~金、午後7時30分~8時)は、いま週3日に減らされ(火~木)、時間も午後10時からにずらされた。かつてはNHKの良心とさえ言われた看板番組だったが、いまや当時の見る影もない。また『NHK特集』が衣替えした『NHKスペシャル』に至っては、スタッフからは特ダネをものにしようという心意気さえ感じることができない。実は私はこの衣替えの直前にNHKから新番組への期待を語ってくれと頼まれた。我が家に中継車で数人のスタッフが来て、ディレクターかプロジューサーかは覚えていないが、「小林さんがいろいろお書きになっている中で『タブーへの挑戦』を新番組への期待としてお話しして欲しい」ということだったので、喜んで応じた。その30秒ほどの番組案内は数回放映されたようだ。が、残念ながらタブーに挑戦したと思えるような番組は、最近の『NHKスペシャル』では見たことがない。たとえば『NHKスペシャル』が初めて公開した戦後の田島宮内庁長官に語った昭和天皇の戦争への思いについても、天皇の悔悟や反省の気持ちは私たちにもひしひしと伝わったし、再独立を祝うお言葉の中にどうしても「反省」の言葉を入れたかったというのは、そのときに天皇のお気持ちとしては事実だと思うが、まだドイツが降伏していなかった1945年2月14日に近衛文麿氏が天皇にじきじき敗戦が必至であること、その場合に日本がソ連によって侵略される可能性があることを説き、直ちに米英と講和すべきだと上奏した時、天皇は「講和するにしても、敵に一泡吹かせてからにすべきだ」と近衛氏の上奏を却下したこととの整合性はちゃんと報道すべきだった。もしこのとき昭和天皇が近衛氏の進言を受け入れて大権を行使して講和に踏み切っていたら、沖縄の悲劇も広島・長崎への原爆投下も、ソ連による北方領土の侵略もなかった。
 NHKがいま本当に公共放送としてふさわしい番組を放映しているか、新聞などメディアが世論調査をしてみたらいい。何も私は硬派の番組に特化しろとまではいわない。NHKの遺伝子ともいえる紅白やのど自慢、朝ドラや大河ドラマなどは維持すべでだと思う。ただ大河ドラマはもう取り上げる歴史上の偉人は残っていず、主人公がだんだん小粒になってきた。一時はNHKの看板番組になったこともある『プロジェクトX』が、長期にわたったためだんだんつまらないケースをテーマにせざるを得なくなって中止に追い込まれたが、その二の舞になる前にそろそろ幕を閉じたほうがいいかもしれない。
また地上波とBSと合わせて2局しか持っていない民放の方が、NHKの合わせて4,5局より報道番組や政治討論番組にはるかに多くの時間を割いている。どういうことか。国民を1億総白痴化にすることがNHKの目的なのか。政府にとってはその方が都合がいいのかもしれないが…。
 NHKの番組が低俗化したのは、ほかならぬ「パーキンソンの法則」に従って組織の肥大化を最大の目的にしてきたからだ。組織を肥大化し、番組を低俗化してきたのは、組織の肥大化には総務省の協力がどうしても必要だったし、国会で承認を受けるには政権の言いなりになるしかなかったからだ。実は「パーキンソンの法則」に欠けていたのは、官僚組織の肥大化を組織論として解明したまではよかったが、肥大化を可能にするためには権力への迎合が不可欠だということまでは見抜けなかったことにある。NHKが『クローズアップ現代』で昨年4月24日に、かんぽ生命の保険商品を郵便局員が詐欺まがいの方法で販売していたことを報じた後、続編をつくるためにネットで情報提供を呼び掛けたとき総務省事務次官出身の鈴木副社長(次期社長の最有力候補)がNHK経営委員会を恫喝していったん番組の続編中止に追い込んだことにもあらわれている。日本郵政側には大量に保有しているかんぽ生命株の25%を近々放出する計画があり(実際、今年4月に最高値水準でかんぽ株を放出している)、不祥事はなんとしても表面化したくなかったという事情もあった。立花氏にそうしたNHKの体質改善を図りたいという思いがあったとしたら私も支持しないわけではないが、残念ながら古巣(かつて立花氏はNHK職員だった時期があるが、不正を働き懲戒解雇されている)への愛情からとは到底思えない。
 なお裁判に関して言えば、立花氏にほぼ勝ち目はない。実際、NHKが渋谷の住民(仮にA氏とする)と争った裁判では最高裁が放送法64条は合憲であり、したがって「契約の義務」があるという判決を下している。A氏は「契約の自由」を主張したが、最高裁はその主張を認めず、A氏は敗訴した。翻って立花氏はNHKと契約はしているが受信料は払わないと公言しており、NHKに対して放送のスクランブル化を求めている。もしスクランブル化が認められるということになると、事実上A氏が主張した「契約の自由」を認めることになり、裁判官によっては地裁や高裁では立花氏の主張を認めるかもしれないが、最高裁が認めるわけがない。「契約は法律上の義務だからするが、受信料は支払わない」という主張の正当性についての論理的根拠は、これまでの立花氏の主張を見る限り示されていない。実はその主張を正当化できる決定的な根拠を私は持っているが、立花氏のこれまでの活動を知る範囲では、彼を支援するつもりはない。ただやり方によっては勝てる可能性がかなりあることだけ言っておく。

【別件追記】萩生田文科相の発言をめぐってメディアや野党が追及を強めている。それほど大騒ぎするような問題なのか。事の始まりは、2020年度から実施される大学入試共通テストで導入されることになっている英語民間試験に関してである。この民間試験は大都市中心に行われる可能性が極めて高い。本来教育は機会均等が原則である。地方の高校生にとっては不利になる要素が高い。だからこの制度に参加する民間教育機関に対して、参加要件としてユニバーサル・サービスを義務付けていれば問題は生じなかった。テストの料金も文科省が一律にすれば地域格差も生じず、教育の大原則である機会均等も保たれる。そうした認識が萩生田氏に欠けていたことは間違いない。が、萩生田氏は9月に新任したばかりの大臣だ。この制度設計についてはおそらく一切関与していなかったはずだ。
 確かにこの制度設計について萩生田氏が(地方の高校生に対して)「身の丈に合わせて頑張って」と発言したのは勇み足だったと思う。が、菅原元経産相の場合と違って違法行為を行ったわけではなく、むしろ地方の高校生を励ますための発言のように、私には聞こえる。ただし、言っておくが萩生田氏はいまだ加計学園獣医学部新設事件に関する疑惑が晴れたわけではなく、そういう人物を文科相に起用した安倍総理の任命感覚は当然問われるべきだと思う。加計学園問題は森友学園疑惑とともにいまだ政界にくすぶっている大きな問題であり、安倍総理はもとより萩生田氏の説明責任も追及し続ける必要がある。
 が、何もかも一緒にして政治問題化するほど日本の政治家やメディアは暇なのか。英語民間試験の導入に関しては、いまのIT技術をもってすれば全国一斉に平等に行えるはずだ。もちろんIT技術だけでなく全国の試験会場(高校も含めて)で実施するには、それなりの資金力も必要だろう。小規模の教育機関が、受験生が集まりやすい大都市だけでやるといったことを認めたら教育の大原則である機会均等が失われる。メディアも野党も萩生田氏の「失言」を重要視するより、文科省が導入しようとしている制度の欠陥を指摘し、受験機会に地域格差が生じないよう要求すべでではないかと思う。

【別件2】共同通信が10月26・27の両日、今後の皇室の在り方について世論調査を行った。具体的には女性天皇を認めるか否かという単純な設問だったが、世論調査の結果は「賛成」が81.9%、「反対」が13.5%と、容認派が圧倒的に多かった。
 実は明治時代に作られた皇室典範には天皇になる資格として「男系男子」と明記されている。はっきり言って時代錯誤の規定である。過去にも女性天皇は何人か存在している。だが、その女性天皇のお子さんが天皇の地位に就いたことはない。男性皇族の男のお子さんが皇位継承できる年齢に達するまでの、いわばリリーフとして男系の女性が臨時に皇位につかれたにすぎない。明治時代は皇族に限らず妻妾が認められていた。つまり「お妾さん」である。だから、天皇に男子のお子さんが生まれるまで、天皇は何人もの妻妾との間に関係を続けることが前提だった。そういうことが可能であれば、皇位継承者を「男系男子」に限定することも可能である。
 が、戦後、時代は大きく変わった。皇族といえど妻妾を抱えることは不可能になった。そうした中で「男系男子」にのみ皇位継承権を認めることは現実的だろうか。たとえば民法では親族間の婚姻が禁止されているのは親子・兄弟・親の兄弟までである。いとこ同士は結婚できる。ということは「血の交わり」による遺伝上の問題は、いとこ同士だったら生じないという(どこまで科学的かは不明だが)根拠に基づく。
 いま超保守系政治家の間で、「男系男子」にこだわるため宮家を増やせという声が高まっている。確かに皇族のお仕事は大変なようで、民間に嫁がれた女性皇族にも、可能な限りある程度お仕事を続けていただく必要はあるかもしれない。が、現天皇といとこ関係以上に血縁関係が薄れた男性の旧皇族を宮家として復活させることはいかがなものか。その男性皇族の男子のお子さんが天皇の皇位を継承することになると、天皇の血が継承されたと言えるのか。日本に天皇制が根付いてきたのは、天皇の血の継承が維持されてきたからではないか。血の継承が限りなく薄くなっても直系の女性より「男系男子」を重視するという超保守系政治家の感覚を私は疑う。すでに国民の大多数は次の天皇として愛子さまを望んでいる。国民に愛され親しまれてこそ、象徴天皇の意味もあろうというものだ。


【別件3】どうして急に立て続けに書きたいことが生じるのだろう。昨日30日から始まったオリンピックの調整委員会のことだ。調整委員会は4者の会議で3日間にわたって行われるという。4者とは東京都知事、IOC(国際オリンピック委員会)、東京オリンピック組織委員会、東京オリンピック担当相である。IOCがそれまで認めていた東京でのマラソンや競歩の競技場所を、突然札幌に変えろと言い出したことでメディアも大騒ぎする事態になった。IOCの言い分はドーハで行われた女子マラソンで暑さと湿気で競技が続けられなくなり、途中棄権者が続出したことで、東京より札幌の方がアスリートに優しいというのが理由のようだ。一方東京都は、これまで暑さ対策のために300億円を使ってきたし、地域住民の協力も得てきた。いまさら競技場所を札幌に変えると言われても、札幌マラソンのために都民の税金使えないと反論した。両者の言い分は、それぞれの立場に立って考えれば、両方とも正論である。そこで私は「現在のオリンピックとは何か」の原点に立ち返って、この問題を考えてみた。
 実は私はマラソンでは裸足の走者アベベが勝ち、女子バレーでは東洋の魔女と言われた大松監督率いる日本チームが優勝したことを知っている世代だ。当時のオリンピックは「参加することに意義がある」と言われていたアマチュア・スポーツの祭典であり、世界は一緒という「平和の祭典」でもあった。それから半世紀余がたち、オリンピックは大きく変質した。商業化の波にのまれ、そして今やスポーツの祭典ではなく、「興業の祭典」と化している。つまりスポンサーをはじめ、オリンピック開催地など関連団体(当然IOCも含まれる)が、いかにビジネスとして利益を上げられるかという世界に変質した。だったら「アスリート・ファースト」などというきれいごとは言ってほしくない。
 そもそも2020年東京オリンピックの開催が決まった時、すでに最大の利権者であるアメリカから8月開催という条件が付けられていたようだ。東京オリンピックの旗振り役を演じた当時の石原慎太郎都知事は、当然そのことを知っていたはずだ。が、私たち国民がそのことを知ったのは、2020年オリンピックが東京に決まった後だった。「8月に東京、そんな馬鹿な…」と多くの国民はびっくりした。実際、東京都庁には抗議の声が殺到した。たまたま時期を同じくして築地市場から豊洲市場への移転問題で都政が大混乱していた時期であり、都民の関心はオリンピックより市場問題に移っていった。
 1964年の時の東京オリンピックは開催時期について、夏と冬をはずして春を秋で最も気候が安定している時期を、過去の気象データを分析したうえで10月10日を開催日を決めた。「体育の日」が祝日になったのは、そういう経緯があったからだ。が、今回の東京オリンピックは、1964年のオリンピック環境とは雲泥の差がある。「アマチュア・スポーツの祭典」ではなく、興行としてのビジネスが目的になっていたからだ。だったらアスリート・ファーストではなくビジネス・ファーストの視点から競技場所も決めるべきだろう。そう考えたら、札幌より東京の方が、はるかにビジネス機会は大きい。これで決まり。



新聞は民主主義の砦か? 電気や水道より新聞の方がと主張した読売と、世論調査で軽減税率の対象からあえて宅配新聞を除外した朝日の感覚を問う。

2019-10-24 05:06:44 | Weblog
 私たちは「民主主義」という言葉をあまりにも安易に使いすぎていないだろうか。メディア自身が「民主主義=利己主義」と思い込んでいないだろうか。
 人間は誰でも、多かれ少なかれ利己主義的存在である。人間に限らず、生き物が、そう考える能力があるか否かはわからないが(人間以外の生き物に思考力があるか否かは証明されていないので)、少なくとも人間は自らの思考力に従って主張したり行動したりする。例えば、神奈川県相模原市の老人介護施設で多くの認知症患者を殺害した犯人にしても、彼は彼なりの「正義感」で殺人行為を行ったのかもしれない。あるいは、かつて市ヶ谷の自衛隊基地で自衛隊員に決起を促し、自衛隊員から嘲笑を浴びて割腹自殺した文豪・三島由紀夫氏も、彼なりの強い「正義感」があってのことだったのかもしれない。
 問題は、個人の正義感と、自分が属する正義が乖離した場合だ。最近の例でいえば、神戸市東須磨小学校で行われた信じがたい「組織的正義感」の発露としてのいじめ行為がある。主犯格の40代女性教師が「教育のために可愛がったつもりだった」という感覚が通用したのは昔の話だ。「可愛がる」という行為が許されれば、可愛がり方はどんどんエスカレートしていく。「可愛がり方」が問題にされるようになったのはスポーツの世界だ。「暴力指導」が「育てる行為」として容認されてきたことが社会的問題になったためだ。
 問題は「組織のため」という行為がいまだ許容されていることだ。かつてロッキード事件が世間を騒がしたことがあった。この事件について詳細をこの稿で語るつもりはないが、主役の一人である全日空の若狭社長は罪には問われたが、社内では「会社のためにやったことだ」と、かえって若狭氏の人望は高まったという。バブル経済時代、住友銀行の頭取で、「住銀のドン」と呼ばれた磯田頭取は「向こう傷は問わない」と部下を叱咤激励をした。私が磯田氏にインタビューした時、その意味を問うた。「向こう傷は問わないといっても、利益を上げるためなら何をしてもいいというわけではないでしょう。どこまでが許容できる範囲の向こう傷なのですか?」。磯田氏は一瞬返事に困ったような顔をしたが、「それは住銀マンとしてのモラルの範囲内でしょう」と答えた。いまかんぽ生命の保険販売で、郵便局員は局員としてもモラルの範囲内で「押し売り」をしてきたのだろうか。関西電力経営陣の不祥事も、相当善意に解釈したとして、「会社のためにやむを得なかった」と言いたいのかもしれない。
「組織のためなら許される」――そうした感覚の時代がいつまで続くのだろうか。前回のブログで、読売新聞が社説で「水道や電気より新聞のほうが重要」と主張したことを批判した。人は水や電気がなければ生きていけない。水や電気がなくても新聞さえあれば生きていけるというなら、台風15号や19号で生死の境をさまよった避難民のために、「電気も水も作れる新聞紙をまず作ってからにしろ」と言いたい。メディアが民主主義を守るための大切な砦でなければならないことは私も否定しない。で、かつて戦時中、メディアは民主主義を守る砦としての義務と責務を果たしたのか。むしろ率先して民主主義を破壊するための大きな役割を果たしたのではなかったか。政府に媚を打って宅配の新聞だけ軽減税率の対象にしてもらって、果たして政府に逆らうことができるのか。
 言っておくが、私は何も政府に逆らうことが民主主義だとは思っていないし、時には政府の政策をバックアップする必要があることもわかっている。が、例えば小泉総理の郵政改革の時もろ手を挙げて支持したメディアは、なぜ今かんぽ生命の不祥事が生じたのか、小泉郵政改革時にメディアはどういうスタンスで報道をしたのか、その結果が郵便局員の詐欺まがいの「押し売り」を生んだことをなぜ正直に反省しないのか。それで「民主主義の砦」などと大きなことがよく言えたものだ。
 盗人猛々しい読売新聞と比べたら、朝日新聞はまだましなのか。朝日は19,20日に全国世論調査を行い、その結果を22日の朝刊に掲載した。その記事の冒頭で朝日はこう書いた。
「安倍政権が10月に消費税率を10%に引き上げたことに『納得している』は54%で、『納得していない』の40%を上回った。食料品などの税率を(※えっ、食料品だけ?)8%に据え置いた軽減税率を『評価する』は58%、『評価しない』は33%だった」
 ふざけるなよ、軽減税率の対象は食料品だけではない。「食料品など」とはどういう意味だ。食料品以外の軽減税率対象商品は宅配(定期購読)の新聞だけだ。「など」とは食料品以外にもいろいろあることを意味する表現だ。食料品以外に軽減税率の対象が1種類しかなかったら「など」とは書かない。軽減税率について世論調査をするなら、「宅配の新聞は軽減税率の対象になって、水道代や電気代が対象にならなかったことについてどう思うか」と、なぜ質問しなかったのか。ま、読売と朝日のどちらが盗人猛々しいかは、国民が判断すればいいことだが、政府におねだりして甘い汁を吸った新聞が民主主義の砦になれるかどうかは、中学生でもわかることだ。
【追記】経済学者の竹中平蔵氏が22日配信のプレジデント・オンラインで元財務官僚の高橋洋一氏の異説を激賞した。日本の財政赤字1000兆円は問題にする必要はないというのが高橋氏の説で、その根拠は「純資産」がプラスかマイナスかを根拠に考えるべきだという説である。高橋氏は数学者で、経済学の専門家ではない。それはそれで異分野の専門家が従来の説に異論を唱えることは悪いことではない。問題は経済学の専門家の竹中氏がころりとだまされたことだ。高橋氏の「純資産」論は、総資産マイナス総負債が純資産で、日本の財政は総負債は約1000兆円あることは間違いないが、総資産も430兆円あり、差し引き純資産はマイナス570兆円に過ぎない。この程度のマイナスなら日本経済の底力から考えて問題にするほどでなく、だから増税の必要はない、という説だ。
 数字のプラス・マイナスを基準に考えれば、高橋氏の説はあながち間違いとは言えない。問題は負債は借金(大半が赤字国債)であり、これは返さなければならず踏み倒すことはできない。一方資産は有価証券など換金可能な資産を除けば、換金して借金の返済に充てることができないものが多いということだ。例えば「国道」。これは国の資産のうちかなりを占めているが、財務諸表上は資産として計上されていても借金の返済に充てることは不可能だ。国道を売却すれば、その分借金を減らすことは理論上可能だが、さて国道を切り売りしたらどうなる? せっかく「純資産=総資産―総負債」という新設を提案するなら、「総資産=換金可能な資産」「総負債=返済する必要のない負債」と振り分けて計算してほしかった。ま、学者の能力とはこんな程度だということが分かっただけで私は快感を覚えた。

メディアが絶対報道できない消費税増税の3つの疑問

2019-10-15 04:25:23 | Weblog
 10月1日から消費税が2%増税になった。増税そのものには私は必ずしも反対ではないが、今回の増税には多くの疑問がある。とくに政府が消費税増税以外に税収を増やす方法を考えたことがないことだ。次に消費税はよく言われるように逆進税制だが、軽減税率を導入したのは逆進性を増幅しただけだということ。さらになぜキャッシュレス化を消費税増税と同時に推進する必要があるのかの説明が一度もされていないことだ。実際、小売業界では早くも大混乱が生じている。この3つの疑問を検証する。
消費税を日本で初めて導入したのは竹下内閣の時で3%だった。消費税導入の動きはそれまでも何回かあったが、国民の反発が強く実現できなかった。消費税は「間接税」、所得税は「直接税」と言われるが、竹下内閣が消費税を導入するまでは日本の税収はほぼ直接税に頼ってきた(酒税やたばこ税、自動車関連税などを除く)。それは戦後の所得税制が累進性の高いシャウプ税制を維持してきたからである。そこで竹下内閣が消費税を導入するために使ったレトリックが「高額所得者は有能な人たちだ。その人たちが働く意欲を失う」というものだった。このレトリックを当時のメディアが支持してしまった。橋本内閣の時の5%増税でも同じレトリックが使われた。その結果、現在の所得税制がつくられたのである。
その結果、日本の所得税制は先進国で高額所得者にとって最も有利な税制になった。そのことにようやく気付いたのが、皮肉なことに安倍内閣だった。日本の高額給与所得者の給与所得控除が他の先進国に比べて優遇されすぎていることを明らかにしたのだ。で、安倍内閣は高額給与所得者の給与所得控除の減額に踏み切った。この処置に猛反発したのが読売新聞。社説で「日本の消費が停滞する」と批判した。社説は論説委員が書く。当然高額給与所得層だ。どうせ反対するなら「私たちの働く意欲が失われる」と書けばよかったのに…。安倍さんが側近に「私は結構リベラルなんだよ」と言ったという話があるが、安倍さんの頭の中にはそのことがあったのかもしれない。
いずれにせよ、これからの日本(だけでなく先進国共通のことだが)の労働力人口(あるいは生産人口)の消費力は減少を続ける。そうした中でどうやって後世の世代に財政赤字の付けを回さずに財政の健全化を図るかは、直間比率だけでなく、所得税体系や相続税、贈与税の在り方も含めて税体系そのものを抜本的に見直す必要がある。財政の要諦は「入るを図りて出ずるを制す」だが、「入る」は消費税増税だけしか視野に入れず、「出る」ほうは高齢者への福祉を削減することだけでいいのか、野党やメディアにも税と社会保障についての根本的な政治哲学が試されている。
次に軽減税率を導入したことだ。公明党が人気取りのために軽減税率導入にこだわったためだ。消費税導入の先進国であるヨーロッパ(ヨーロッパ諸国は消費税ではなく付加価値税)は食料品などの軽減税率を採用しているが、様々の矛盾が噴出し、いま問題化されている。公明党はなんでもヨーロッパのほうが進んでいるとでも考えているのだろうか。
 すでに述べたように消費税は逆進税制である。高額所得者も低所得者も同率の税負担をしなければならないからだ。ただでさえ逆進性が大きい消費税に軽減税率を導入したらどうなるか。高額所得者は見向きもしないだろうオージビーフの切り落としも、低所得者には手が出せない国産ブランド牛のサーロインやひれ肉も等しく軽減税率の恩恵を受ける。つまり逆進性がさらに高まるのが軽減税率制度だ。あっ、そうか。公明党はそれが狙いだったのか。自分たちが食べる高級食材を安く買えるようにすることが目的だったのか。
 低所得層のために食料品の軽減税率を導入するというなら、低所得層に対して恒久的な給付金制度を設けるほうが増税による消費減少を防ぐことができるし、もともと今回の消費税増税は膨れ上がる社会保障費をまかなうことが目的のはずだから、給付金制度のほうが増税目的にも合致する。そのくらいの理屈は馬鹿でもチョンでも理解できるはずだ。
 さらに弁当などを「持ち帰る」場合と「イート・イン」で税率が変わるというのもおかしい。そもそもかつては蕎麦屋やラーメン屋でも、外食は「贅沢」という時代があった。若い人たちは知らないだろうが、私が小学生だったころはソフトクリームは蕎麦屋の専売品だった。力道山のプロレスや巨人阪神戦を見るため(当時はテレビは高級品でサラリーマンの父には手が出なかった)、近所のお蕎麦屋さんに連れて行ってもらったことを覚えている。コンビニやスーパーで安い弁当を食べるのが贅沢な食事だと、政治家や官僚は本当に思っているのか。自分たちが毎日のように通っている高級料亭と、普通の庶民のコンビニやスーパーでのイート・イン食事が同じ贅沢だと思う感覚が私には理解できない。
はっきり言えば、この問題は簡単に解決できる。飲食に伴う店側のサービスが伴うか否かで区別すればいいだけのことだ。ファミレスでも食事や飲み物をテーブルまで運んでくれる場合は税率10%でいいが、セルフサービスのドリンクバーは軽減税率を適用すればいい。また宅配は自宅まで運んでもらうのだから税率10%を適用すべきだろう。つまり飲食に伴うサービスの有無によって税率を変えればいいだけのことで、セルフサービスの水やお茶すらペットボトルの商品を買わなければならないコンビニやスーパーでのイート・インが贅沢な食事かどうか、自分で試してみたらいい。
 食料品もさることながら、摩訶不思議な軽減税率対象商品もある。「週2回以上発行の定期刊行物の定期購読商品」が軽減税率の対象になるというのだ。事実上、この条件に該当するのは日刊の新聞だけである。もちろん週刊誌や月刊誌は対象外だし、新聞の場合も自宅や会社、事務所などで定期購読(つまり宅配新聞)のみということになる。公共放送で契約が法律で義務付けられているNHKの受信料は軽減対象にはならない(ただしNHKは増税分を受信料に上乗せせず、NHKが負担するというが、ということはこれまでNHKは受信料をぼりすぎていたことを意味しないか?)。新聞軽減税率を主導したのは読売新聞らしいが、実際同紙は15年12月20日付の社説で、「見過ごせないのは枝野(幸男)氏=現立憲民主党党首=が新聞の軽減税率適用に関して『新聞よりも水道や電気が必需品だ』と発言していることだ。民主主義や活字文化を支える重要な公共財である新聞や出版物に対する理解を欠いていると言わざるを得ない」と主張した。ご都合主義もいいことに、宅配新聞だけが軽減対象になって以降、他の出版物も軽減対象にせよとの主張を見たことはない。最低限、軽減税率についての論理的整合性を重視するなら、新聞本体の価格と宅配料金を別建てにして、宅配業者(新聞販売店)は中小零細業者だから、宅配料金に対しては軽減税率の適用(あるいはキャッシュレス・ポイント還元)を要求するなら理解できる。さらに言えば、「公共財」としての民主主義や活字文化を守る義務は国民にあり、新聞社ではない。国民が新聞を見捨てるとしたら、それは国民の意志であり、新聞がその責務を果たしていないという判断を国民が下した結果である。ま、新聞社が政府が与えた(あるいは新聞社が政府におねだりした)甘い餌に食いついて、自ら民主主義の砦としての責務を放棄したのが本音だと、私は思っている。今後も消費税増税は避けられない。その時、新聞は民主主義を破壊するための特攻隊になることも、疑いを容れない。いったん権力にすり寄って甘い汁を吸った新聞は、今後も権力と二人三脚で歩んでいくしかないからだ。
 最後にキャッシュレス決済に伴うポイント還元の問題だ。これほど訳が分からない「景気対策」は聞いたこともない。そもそも消費税増税と同時にキャッシュレス化を進める必要がなぜあるのかという政府の説明が全くない。日本がキャッスレス化をなぜ進めなければならないかの説明も、「諸外国に比して日本は遅れているから」というだけだ。なぜ現金決済が悪いのか、私には全く分からない。実を言うと、私はクレジットカードでの決済ができる店では基本的にカードで支払う。小銭を財布に入れるのが嫌だからだ。それにカードで支払えばポイントもたまる。しかし、カード支払いに不安を持っている人、特に高齢者も少なくないようだ。政府がキャッシュレス決済を推奨する以上、キャッシュレス決済によるすべてのトラブルは政府が責任を持たなければならない。当たり前の話だろう。野党もメディアも、どうしてそういう素朴な疑問を持たないのだろうか?
 著名な経済学者の竹中平蔵氏も、この問題では大混乱している。キャッシュレスは必要だと主張したかと思えば、キャッシュレス化を進めようとする政府の思惑はかねの流れをつかむことだと否定的な主張もしている。まずキャッシュレス化がなぜ必要なのかは、政府も竹中氏も説明していない。世界の先進国の多くがキャッシュレス化が進んでいるから日本も追従すべきだというなら、私は疑問を抱かざるを得ない。現金決済主義かクレジットカード決済主義かは、それぞれの国の文化の反映だと思うからだ。正直、私も日本社会になぜ現金決済主義の文化が根付いたのかはわからない。多分それなりの歴史的背景があってのことではないかと思うだけだ。実は私は現金決済主義者ではない。ポケットに1円玉や5円玉、10円玉をじゃらじゃら入れたくないから、コンビニでペットボトルの飲料を買う場合でもカードで支払う。だからキャッシュレスに反対するわけではないが、なぜ消費税増税とセットでキャッシュレス化を政府が進めようとしているのか、メディアは軽減税率の甘い汁を飲んでしまったせいか、なぜか問題提起をしない。民放はすべて新聞社系だから何も言えないかもしれないが、NHKくらいは「おかしい」と疑問を提起してもらいたい。次に竹中氏の説は、もっとおかしい。国民皆背番号制と同様に国民のかねの流れをつかむためにキャッシュレス決済のポイント還元をするというなら、ポイント還元の対象をコンビニのフランチャイズ店や中小小売店に限定したことはばかばかしいほどの矛盾だ。私のような貧困者はいくら調べられても痛くもかゆくもない。私が可能な店ではカード決済しているのは、すでに述べたようにポケットに小銭をじゃらじゃら貯めるのが嫌だからだけだ。だからカード決済の中身を税務署にいくら調べられても痛くもかゆくもない。本当に政府が富裕層のかねの流れ(例えば竹中氏のような)をチェックするのであれば、例えば1万円以上の決済はデパートであろうと貴金属店であろうと、あるいは銀座の高級クラブであろうと、すべてキャッシュレス決済を義務付ければいいだけの話だ。
 政府がキャッシュレス決済によるポイント還元という「エビ・タイ」を導入したのは、竹中氏が言うように国民のかねの流れをつかむためではない。実は竹下内閣が消費税(3%)を導入した時、中小零細企業対策として売上高3000万円以下の事業者は「消費税をとらなくてもいいよ」という特例を設けた。消費税は事業者の利益ではなく、買い物客からの預かり金である。本来なら消費者が確定申告で、「今年、これだけ買いました。ついては消費金額総額の3%を国に納付します」というのが理想的な納税方法だ。が、国民を信用していない政府は納税義務を小売業者に背負わせることにした。その場合、中小零細小売店の労働負担を考慮してか(?)、3000万円以下の業者に対して「消費税を預からなくてもいいよ」(「貰ってもいいよ」ではない)という特例を設けた。そういうバカな処置をした結果、「益税」業者が爆増した。当たり前の話だ。
 政府の消費税政策がいかにでたらめでめちゃくちゃかを、竹中先生はまったくご存じないようだ。それで経済学者面をしているのだからあきれ果てて物も言えない、と言いたいのだが、やはり言うべきことは言わなければならない。実は竹下内閣が消費税を初めて導入した時、政府は個々の商品に消費税をプラスするのではなく、1回の買い物の総額(本体価格)に3%の消費税をかけることを指示した。実はこのときには、この政府の政策には私は疑問を抱いたことはなかった。こうした政策に私が疑問を抱いたのは、安倍政権になって消費税が8%に増税された時だ。安倍政権による8%増税の前に、橋本政権による5%増税があった。いかに政府の税制がでたらめでめちゃくちゃかは、このとき明らかになった。そのでたらめさに、メディアは気付かなかったのか。
 実は、竹下内閣時の3%消費税導入時期には、すでに書いたように1回の買い物の総額に対して3%の消費税を加算するという「外税方式」だった。が、橋本内閣時に消費税を5%に増税した時、なぜか政府は「内税方式」を指示した。実は「内税方式」の方が消費者にとっては有利になり、国の税収は「外税方式」よりも減るのだが、そのことに気づいたメディアはゼロだった。むしろ「内税方式にすることによって、今後の増税をやりやすくするのが狙いだ」と、アホみたいな論評を重ねた。ネットで検索すると、この時期、NHKは『NHKスペシャル』や『クローズアップ現代』で増税を必死にバックアップしていたようだ。日本の将来のために必要な増税なら、私も反対しない。現にこの稿の冒頭でも、私は必ずしも消費税増税に反対の立場ではないと明言している。ただ、増税によって低所得層に痛みを強いるなら、増税されても生活が困窮したりしない富裕層や内部留保がめっちゃ貯め込んでいる大企業にも、相応の痛みを伴う税制であってほしいと言っているだけだ。
 さて、メディアが一切報道しない「外税方式」と「内税方式」の違い、コンビニのチェーン店や中小零細小売業者へのキャッシュレスポイント還元のマジックを解き明かそう。橋本内閣の時の消費税5%増税の時はメディアの「今後の増税をやりやすくするため」という主張に私もそれほど違和感を覚えたわけではない。私が強烈に違和感を覚えたのは安倍内閣による8%増税時である。この増税時に、政府は再び「外税方式」に変更した。その結果、スーパーなどでは商品ごとに本体価格と税込み価格の二重表示をすることになった(竹下内閣の3%導入時には本体価格しか表示していない)。
問題は本体価格と税込み価格の二重表示の在り方にあった。これは実際に私が体験したことなのでウソも偽りもない。あるスーパーで、本体価格98円(税込み価格105円の表示)を2個買った。「レジで支払おうとすると、211円です」と言われた。「そんな馬鹿な」と私は思った。それまで内税方式に慣れていたから、105×2=210円だろうと勝手に思っていたからだ。が、外税方式だと、98×2×1.08=211.168で、消費税込み支払額は小数点以下切り捨てで211円になるのだ。で、私は1個ずつ買うことにしたら、98×1.08=105.84で、小数点以下切り捨てで1個105円。2個で110で、しかもレジ袋は最初の1個分だけで2個目はレジ袋不要で2ポイント(2円分)のサービスまでついた。はっきり言うと、消費税が10%に増税されても、買い物は1個ずつ別々に清算した方が絶対有利だ。消費者ができる反乱は、それくらいしかない。スーパーやコンビニはレジ対応で大混乱するだろうけどね。
最後のいたちっぺを書く。なぜ消費税増税とキャッシュレス化をセットでやるのか。政府の狙いをメディアも、超有名な経済学者の竹中先生も全くご存じない。久しぶりに長いブログを書いたので、私も疲労困憊している。できるだけ簡潔に書きたい。政府のキャッシュレス化推進の方針は、まともに受け取ってはいけない。来年の東京オリンピックに外国人がたくさん来日するから、外国人の利便性を図るためというのが表向きに理由だ。本当か? 実はカード決済のほうが有利だという国は、先進国では私が知る限り日本だけだ。一般の利用者はあまり知らないかもしれないが、デパートや量販店、スーパー、コンビニなどでカード決済する場合、カード会社(信販会社)に支払う手数料(ほぼ3%台)は、日本では小売店側が負担している。当然、日本では小売価格にカード決済に伴う手数料が上乗せされている。海外ではカードで支払う場合、手数料は消費者が支払うケースの方が多い。さらに、海外でカード決済する場合、小売店がカード会社との間で決済する場合は、その時点での為替相場で手数料が変わる。また為替手数料も、小売店が勝手に決めているから、海外でカード決済する場合は消費者はかなり不利になるケースの方が多い。そういう事実をメディアが知らないわけがないのだが、なぜか一切報道しない。
はっきり言えば政府がキャッシュレス化を進めたい理由は海外からの観光客のためではない。だいいち、海外からの観光客が住宅街の八百屋とか魚屋、肉屋で買い物をするか? 海外からの観光客が買い物をする店はデパートや量販店など、すでにキャッシュレス対応をしている小売業者が大半だ。せいぜい観光地の現金商売しかしていない吹けば飛ぶような土産物店や名物食品の販売店くらいだろう。
政府はつねに、本当の狙いではなく、国民をだましやすい理由を並べ立てる。「日本は海外に比べてキャッシュレス化が遅れている」と宣伝すれば、「キャッシュレス化が消費者にとってプラスになるのかマイナスになるのか」と考えずに、「世界の流れに遅れては困る」と消費者も小売業者も思い込んでしまう。はっきり言えば、政府の目的は「益税」零細小売店のあぶり出しである。すでに書いたが、竹下内閣が消費税を導入した時、年商3000万円以下の事業者に対して「消費税を預からなくてもいいよ」という特例を実施した。いまはその特例は年商1000万円以下まで下げられたが、屋台のような超零細業者は別にして、一応店舗を構えて営業している小売業者で、年商1000万円以下というケースは常識的にあり得ないと思う。こうした零細業者が、消費者から消費税を預かっておきながら、それをポッポに入れてしまう。それは許せない、と私も思う。特に悪質なのは、橋本内閣の時に「内税方式」にした価格を、安倍内閣時に8%に増税した途端、本体価格に8%の消費税を預かるならまだしも、5%の内税価格を本体価格であるかのようにごまかして、さらに8%の消費税を加算する業者が氾濫したことだ。そういうこすい業者は、私も許せないと思うし、政府の消費税増税とセットでコンビニのフランチャイズ店と中小小売業に対して、キャッシュレス決済に伴うポイント還元制度の導入と、キャッシュレス対応レジスターの導入に政府が多額の補助金を出すことにしたのも、「益税」小売業者のあぶり出しが本当の目的なのだ。そのことをメディアはわかっていて報道しないのであれば、メディアはもはや民主主義の砦ではないし、わからないから報道できなかったとしたら、メディアは廃業したほうがいい。


【追記】このブログをアップした後、国税庁の消費税担当者に電話した。竹下内閣が消費税を導入した時(3%)、消費税は「外税方式」だった。橋本内閣が消費税を5%に増税した時、政府は小売業者に「内税方式」を命じた。私は単純な消費者に過ぎないから、業者間での取引については「外税方式」を続けたのか、あるいは業者間の取引にも「内税方式」にしたのかはわからない。
 業者間取引については関心がないので、消費者がスーパーなどで買う時のケースだけ考えた。で、今回のブログをアップした後(本当はブログをアップする前に国税庁に問い合わせるべきだった)、なぜ安倍内閣が8%増税したとき再び「外税方式」に変えたのかの疑問を国税庁にぶつけるべきだったと、いまは反省している。ま、私自身の反省をともかく、今回のブログをアップした後、国税庁は税制(税率ではない)をなぜ変えたのか、これまでどのメディアもその問題を追及したことがないので、ふと国税庁に聞いてみることにした。私の疑問に対応した国税庁消費税課の職員の名前はここでは伏せる。あまりにもアホすぎて、名前を明らかにすることがかわいそうになったからだ。
 仮にその職員の名前をAとする。はっきり言ってAは「外税方式」と「内税方式」の違いをまったく分かっていなかった。Aは「外税か内税かは小売業者の価格表示の違いだけで、実際の消費税は変わっていないはずです。小売業者に対して価格表示の方法を政府が指示したわけではありません」と答えた。すでにブログ本文で書いたように内税と外税では消費者が納める税額に差が生じる。そんなことすら国税庁の消費税課の職員は理解していないことが明らかになった。もう私は泣きたくなった。以上(15日記す)




『表現の不自由展』が再開されることについて思うこと。

2019-10-01 09:18:14 | Weblog
 今回のブログは消費税増税の摩訶不思議をアップする予定で、実際ほぼ原稿は完成している。が、9月30日になって、いったん中止になった『表現の不自由展』が再開されることになり、急遽、割り込みで「表現の自由」と「公的援助」の問題を書くことにした。
 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」でいったん中止になった『表現の不自由展』が再開されることになった。30日のBS日テレ「深層NEWS」は急遽この問題を取り上げ、大村愛知県知事や河村名古屋市長と中継を結び、憲法学者の木村氏などを交え激論を戦わせた。その間視聴者からのツイッターもテロップで流していた。視聴者の声の大半は「表現の自由と言っても何でも許されるというわけではないだろう」という、展示会再開に反対するものだった。
 実は私も展示会再開には疑問を持っている。私は右翼でもなければナショナリストでもない。ただ、いわゆる「少女像」は韓国の市民団体が反日運動のシンボルとして韓国に日本大使館や領事館の前に設置し、さらにアメリカでも反日プロパガンダとして設置してきている。これって、芸術作品なの?
 表現の不自由を訴えたいというなら、少女像の顔をのっぺらぼうにして、「日本ではこうでもしなければ展示できない」と主張するなら、まだわかる。あるいは公的援助を求めず、民間の展示場を借りて自前の資金だけで展示会をするというなら、それも許容範囲だと思う。芸術作品かどうかはつくった人、見る人それぞれであり、ポルノ映画だって製作者は芸術作品のつもりかもしれない。そこに誰もが納得できる線引きなどできるわけがない。だからわいせつか否かについては法律で線引きせざるを得ないし、その線引きの基準も国や時代によって変わる。例えば日本でもかつては週刊誌が掲載するグラビアアイドルの裸体写真も陰部の毛が見えたらわいせつとされていた時代もあった。
 そういう意味では少女像は法律に触れる要素は全くない。だから公的援助など求めず、民間の展示場で自前資金で開催するなら、何の問題もないと思う。ただ日本でもいまヘイトが増えているようだから、警備はやはり民間の警備会社に頼んで来場者に危険が及ばないようにする義務は開催者側にあるとは思う。ただ、韓国では日本の大使館員や領事館員が少女像に毎日花束を手向ける神対応をした方がいいとは私は考えている。

【追記】8日、約2か月ぶりに『表現の不自由展』が一定の条件の下で再開された。なぜ「表現の不自由」と名付けたのかの理由も初めて分かった。過去、公的美術館などで展示されたものの、不適切として撤去された作品ばかりを集めた展示会ということだ。
 が、テレビ局が放映したのは少女像だけで、韓国の市民団体が日本大使館や領事館前に設置したものの模倣であり、芸術性やオリジナリティは感じられない。もちろんそうした作品をナマの形で日本人に見てもらいたいという作者の意図はわからないではないが、それならむしろ「韓国の少女像を見るツアー」を企画したほうがよりリアリティがある。やはり何らかの政治的意図があり、日本人に対するヘイト作品という感じはぬぐえない。ただ、抽選に当たって入場できた人の感想は「報道で想像していたほど過激な感じはしなかった」という声が多かったようだ。メディアがあまりにも興味本位的に取り上げるから、かえって不自然さを増幅させたきらいはあるように思う。
 テレビ報道では「事前検閲は表現の自由を脅かす」としたり顔で再開を支持したコメンテーターもいたが、それはちょっと違う。公的施設を使い、さらに公的資金援助まで求めるようなケースは内容を事前にチェックするのは当然だ。「事前検閲」が嫌なら、民間の展示場などを使い、資金も自前で賄うべきだろう。たとえば政治家は公民館など地元の公的施設でタウンミーティングなどを行うことが多いが、届け出には政治家の名前は表に出せない。だから「〇〇研究会」などの名称で申し込む。届け出る人は秘書だから公民館側の職員とも顔なじみで、実際には政治家のタウンミーティングであることを百も承知で受け付ける。どうせ参加者は支持者だけで、揉めたりするようなことはないことがわかっているからだ。表現の自由は大切だが、表現の自由を守るためには「事前検閲」もやむを得ないケースもある。(8日記す)