【追記】このブログはもう少し更新しない。閲覧者が一向に減少しないからだ。本当は書きたいことが山ほどある。たとえば東京オリンピックのマラソンや競歩競技がIOCの突然の方針転換によって開催地が札幌に変更になったこと。カタールのドーハで行われた世界陸上の女子マラソンで棄権者が続出し、アスリートの健康のために平均気温が東京より低い札幌の方がアスリートのためにはいいと考えたようだが、東京は東京でそれなりに暑さ対策は講じてきた。
そもそも東京で8月にオリンピックを開催するなどということ自体、気違いじみたことだった。私たち国民が最初から夏季オリンピックは8月が前提になっていたことを知ったのは、東京開催が決定した後のことだ。「ばかげている」という都民の苦情が都庁に殺到したようだ。ちなみに次のオリンピックは今夏42℃という猛暑を記録したパリだ。いまのところパリのオリンピック組織委員会は東京オリンピックに水を差してはいけないという配慮をしてか沈黙しているが、東京オリンピックが終わった途端「オリンピック開催の返上」を発表する可能性が極めて高い。東京よりパリの方がアスリートにとっても観客にとってもはるかに危険だからだ。オリンピック憲章がどうであろうと、いまやオリンピックはプロ・スポーツやコンサートと同様の「興業」でしかないことが、今度の騒動であからさまになった。。
もう一つ見逃せない問題がある。消費税増税直後に政府は増税直前の駆け込み需要の反動はそれほどでもなかったと胸をなでおろしたが、1か月たった今、想定以上の消費減退がはっきりした。その理由は軽減税率とキャッシュレス決済のポイント還元制度の導入にある。軽減税率の問題についてはこれまでも何度も書いてきたが、ポイント還元の問題についていろいろわかってきたこともあるので、次のブログで書く。(11月4日)
10月28日、NHKがようやく立花孝志氏(「NHKから国民を守る党」党首)に対して放送受信料の支払いを求める民事訴訟を東京地裁に提訴した。ただ、受信料請求は立花氏が埼玉知事選に出馬するため(知事選は大差で落選)、自動失職した参議院議員会館の議員室に設置した受信機の受信料2か月分(衛星契約)4560円だけだ。
立花氏は自宅や事務所にもテレビは持っているはずで、なぜ議員会館の議員室に設置したテレビにのみ受信料の支払いを求めたのか。どうせなら「N国党」から参院選に出馬した立候補者や支持者も一網打尽で提訴しないのはなぜか。
立花氏の政策はNHKにスクランブル放送を義務付ける法律を国会で成立させることだ。それ以外に政策は何もない。この法律を国会で成立させるためには安倍憲法改正論に賛成してもいいとまで主張している。またポスト安倍の有力候補の一人である石破氏も、NHKの放送は公共放送の範囲を逸脱しているとして、立花氏の主張に一定の理解も示している。
私も石破氏が指摘しているNHKの放送内容には限りなく物足りなさと疑問を抱いている。「パーキンソンの法則」というのがあるが、官僚組織は組織を維持するため、不必要になった業務の代わりに次々に「仕事」を作り出して組織体を維持拡大するという理論で、「官僚組織の肥大化」という社会的現象を解明した理論である。
たとえばNHKの場合、Eテレはかつては中卒就職者が高卒の資格を得るための学習番組を放送することが目的でつくられた。だから「教育テレビ」という名称だった。が、中卒就職者が激減した結果、公共放送としての「教育テレビ」は存在価値を失った。だったら中卒就職者のための「教育テレビ」は廃止すればいいのだが、いまは「Eテレ」と名を変えて、ほとんど限りなく視聴率ゼロに近い番組ばかり放送している。
BS放送も最初は難視聴地域対策として誕生したから、BSの番組は大半が総合放送と同じだった。が、地デジになって難視聴問題がほぼ解消してもNHKはBS放送を止めるどころか2、3局に増やした。まさに「パーキンソンの法則」がこれほどぴったり当てはまるケースは、そうはないだろう。
それだけ公共放送の中身が充実したかというと、まったく逆である。たとえば自民党から嫌われていた国谷氏がキャスターを務めていた『クローズアップ現代』(月~金、午後7時30分~8時)は、いま週3日に減らされ(火~木)、時間も午後10時からにずらされた。かつてはNHKの良心とさえ言われた看板番組だったが、いまや当時の見る影もない。また『NHK特集』が衣替えした『NHKスペシャル』に至っては、スタッフからは特ダネをものにしようという心意気さえ感じることができない。実は私はこの衣替えの直前にNHKから新番組への期待を語ってくれと頼まれた。我が家に中継車で数人のスタッフが来て、ディレクターかプロジューサーかは覚えていないが、「小林さんがいろいろお書きになっている中で『タブーへの挑戦』を新番組への期待としてお話しして欲しい」ということだったので、喜んで応じた。その30秒ほどの番組案内は数回放映されたようだ。が、残念ながらタブーに挑戦したと思えるような番組は、最近の『NHKスペシャル』では見たことがない。たとえば『NHKスペシャル』が初めて公開した戦後の田島宮内庁長官に語った昭和天皇の戦争への思いについても、天皇の悔悟や反省の気持ちは私たちにもひしひしと伝わったし、再独立を祝うお言葉の中にどうしても「反省」の言葉を入れたかったというのは、そのときに天皇のお気持ちとしては事実だと思うが、まだドイツが降伏していなかった1945年2月14日に近衛文麿氏が天皇にじきじき敗戦が必至であること、その場合に日本がソ連によって侵略される可能性があることを説き、直ちに米英と講和すべきだと上奏した時、天皇は「講和するにしても、敵に一泡吹かせてからにすべきだ」と近衛氏の上奏を却下したこととの整合性はちゃんと報道すべきだった。もしこのとき昭和天皇が近衛氏の進言を受け入れて大権を行使して講和に踏み切っていたら、沖縄の悲劇も広島・長崎への原爆投下も、ソ連による北方領土の侵略もなかった。
NHKがいま本当に公共放送としてふさわしい番組を放映しているか、新聞などメディアが世論調査をしてみたらいい。何も私は硬派の番組に特化しろとまではいわない。NHKの遺伝子ともいえる紅白やのど自慢、朝ドラや大河ドラマなどは維持すべでだと思う。ただ大河ドラマはもう取り上げる歴史上の偉人は残っていず、主人公がだんだん小粒になってきた。一時はNHKの看板番組になったこともある『プロジェクトX』が、長期にわたったためだんだんつまらないケースをテーマにせざるを得なくなって中止に追い込まれたが、その二の舞になる前にそろそろ幕を閉じたほうがいいかもしれない。
また地上波とBSと合わせて2局しか持っていない民放の方が、NHKの合わせて4,5局より報道番組や政治討論番組にはるかに多くの時間を割いている。どういうことか。国民を1億総白痴化にすることがNHKの目的なのか。政府にとってはその方が都合がいいのかもしれないが…。
NHKの番組が低俗化したのは、ほかならぬ「パーキンソンの法則」に従って組織の肥大化を最大の目的にしてきたからだ。組織を肥大化し、番組を低俗化してきたのは、組織の肥大化には総務省の協力がどうしても必要だったし、国会で承認を受けるには政権の言いなりになるしかなかったからだ。実は「パーキンソンの法則」に欠けていたのは、官僚組織の肥大化を組織論として解明したまではよかったが、肥大化を可能にするためには権力への迎合が不可欠だということまでは見抜けなかったことにある。NHKが『クローズアップ現代』で昨年4月24日に、かんぽ生命の保険商品を郵便局員が詐欺まがいの方法で販売していたことを報じた後、続編をつくるためにネットで情報提供を呼び掛けたとき総務省事務次官出身の鈴木副社長(次期社長の最有力候補)がNHK経営委員会を恫喝していったん番組の続編中止に追い込んだことにもあらわれている。日本郵政側には大量に保有しているかんぽ生命株の25%を近々放出する計画があり(実際、今年4月に最高値水準でかんぽ株を放出している)、不祥事はなんとしても表面化したくなかったという事情もあった。立花氏にそうしたNHKの体質改善を図りたいという思いがあったとしたら私も支持しないわけではないが、残念ながら古巣(かつて立花氏はNHK職員だった時期があるが、不正を働き懲戒解雇されている)への愛情からとは到底思えない。
なお裁判に関して言えば、立花氏にほぼ勝ち目はない。実際、NHKが渋谷の住民(仮にA氏とする)と争った裁判では最高裁が放送法64条は合憲であり、したがって「契約の義務」があるという判決を下している。A氏は「契約の自由」を主張したが、最高裁はその主張を認めず、A氏は敗訴した。翻って立花氏はNHKと契約はしているが受信料は払わないと公言しており、NHKに対して放送のスクランブル化を求めている。もしスクランブル化が認められるということになると、事実上A氏が主張した「契約の自由」を認めることになり、裁判官によっては地裁や高裁では立花氏の主張を認めるかもしれないが、最高裁が認めるわけがない。「契約は法律上の義務だからするが、受信料は支払わない」という主張の正当性についての論理的根拠は、これまでの立花氏の主張を見る限り示されていない。実はその主張を正当化できる決定的な根拠を私は持っているが、立花氏のこれまでの活動を知る範囲では、彼を支援するつもりはない。ただやり方によっては勝てる可能性がかなりあることだけ言っておく。
【別件追記】萩生田文科相の発言をめぐってメディアや野党が追及を強めている。それほど大騒ぎするような問題なのか。事の始まりは、2020年度から実施される大学入試共通テストで導入されることになっている英語民間試験に関してである。この民間試験は大都市中心に行われる可能性が極めて高い。本来教育は機会均等が原則である。地方の高校生にとっては不利になる要素が高い。だからこの制度に参加する民間教育機関に対して、参加要件としてユニバーサル・サービスを義務付けていれば問題は生じなかった。テストの料金も文科省が一律にすれば地域格差も生じず、教育の大原則である機会均等も保たれる。そうした認識が萩生田氏に欠けていたことは間違いない。が、萩生田氏は9月に新任したばかりの大臣だ。この制度設計についてはおそらく一切関与していなかったはずだ。
確かにこの制度設計について萩生田氏が(地方の高校生に対して)「身の丈に合わせて頑張って」と発言したのは勇み足だったと思う。が、菅原元経産相の場合と違って違法行為を行ったわけではなく、むしろ地方の高校生を励ますための発言のように、私には聞こえる。ただし、言っておくが萩生田氏はいまだ加計学園獣医学部新設事件に関する疑惑が晴れたわけではなく、そういう人物を文科相に起用した安倍総理の任命感覚は当然問われるべきだと思う。加計学園問題は森友学園疑惑とともにいまだ政界にくすぶっている大きな問題であり、安倍総理はもとより萩生田氏の説明責任も追及し続ける必要がある。
が、何もかも一緒にして政治問題化するほど日本の政治家やメディアは暇なのか。英語民間試験の導入に関しては、いまのIT技術をもってすれば全国一斉に平等に行えるはずだ。もちろんIT技術だけでなく全国の試験会場(高校も含めて)で実施するには、それなりの資金力も必要だろう。小規模の教育機関が、受験生が集まりやすい大都市だけでやるといったことを認めたら教育の大原則である機会均等が失われる。メディアも野党も萩生田氏の「失言」を重要視するより、文科省が導入しようとしている制度の欠陥を指摘し、受験機会に地域格差が生じないよう要求すべでではないかと思う。
【別件2】共同通信が10月26・27の両日、今後の皇室の在り方について世論調査を行った。具体的には女性天皇を認めるか否かという単純な設問だったが、世論調査の結果は「賛成」が81.9%、「反対」が13.5%と、容認派が圧倒的に多かった。
実は明治時代に作られた皇室典範には天皇になる資格として「男系男子」と明記されている。はっきり言って時代錯誤の規定である。過去にも女性天皇は何人か存在している。だが、その女性天皇のお子さんが天皇の地位に就いたことはない。男性皇族の男のお子さんが皇位継承できる年齢に達するまでの、いわばリリーフとして男系の女性が臨時に皇位につかれたにすぎない。明治時代は皇族に限らず妻妾が認められていた。つまり「お妾さん」である。だから、天皇に男子のお子さんが生まれるまで、天皇は何人もの妻妾との間に関係を続けることが前提だった。そういうことが可能であれば、皇位継承者を「男系男子」に限定することも可能である。
が、戦後、時代は大きく変わった。皇族といえど妻妾を抱えることは不可能になった。そうした中で「男系男子」にのみ皇位継承権を認めることは現実的だろうか。たとえば民法では親族間の婚姻が禁止されているのは親子・兄弟・親の兄弟までである。いとこ同士は結婚できる。ということは「血の交わり」による遺伝上の問題は、いとこ同士だったら生じないという(どこまで科学的かは不明だが)根拠に基づく。
いま超保守系政治家の間で、「男系男子」にこだわるため宮家を増やせという声が高まっている。確かに皇族のお仕事は大変なようで、民間に嫁がれた女性皇族にも、可能な限りある程度お仕事を続けていただく必要はあるかもしれない。が、現天皇といとこ関係以上に血縁関係が薄れた男性の旧皇族を宮家として復活させることはいかがなものか。その男性皇族の男子のお子さんが天皇の皇位を継承することになると、天皇の血が継承されたと言えるのか。日本に天皇制が根付いてきたのは、天皇の血の継承が維持されてきたからではないか。血の継承が限りなく薄くなっても直系の女性より「男系男子」を重視するという超保守系政治家の感覚を私は疑う。すでに国民の大多数は次の天皇として愛子さまを望んでいる。国民に愛され親しまれてこそ、象徴天皇の意味もあろうというものだ。
【別件3】どうして急に立て続けに書きたいことが生じるのだろう。昨日30日から始まったオリンピックの調整委員会のことだ。調整委員会は4者の会議で3日間にわたって行われるという。4者とは東京都知事、IOC(国際オリンピック委員会)、東京オリンピック組織委員会、東京オリンピック担当相である。IOCがそれまで認めていた東京でのマラソンや競歩の競技場所を、突然札幌に変えろと言い出したことでメディアも大騒ぎする事態になった。IOCの言い分はドーハで行われた女子マラソンで暑さと湿気で競技が続けられなくなり、途中棄権者が続出したことで、東京より札幌の方がアスリートに優しいというのが理由のようだ。一方東京都は、これまで暑さ対策のために300億円を使ってきたし、地域住民の協力も得てきた。いまさら競技場所を札幌に変えると言われても、札幌マラソンのために都民の税金使えないと反論した。両者の言い分は、それぞれの立場に立って考えれば、両方とも正論である。そこで私は「現在のオリンピックとは何か」の原点に立ち返って、この問題を考えてみた。
実は私はマラソンでは裸足の走者アベベが勝ち、女子バレーでは東洋の魔女と言われた大松監督率いる日本チームが優勝したことを知っている世代だ。当時のオリンピックは「参加することに意義がある」と言われていたアマチュア・スポーツの祭典であり、世界は一緒という「平和の祭典」でもあった。それから半世紀余がたち、オリンピックは大きく変質した。商業化の波にのまれ、そして今やスポーツの祭典ではなく、「興業の祭典」と化している。つまりスポンサーをはじめ、オリンピック開催地など関連団体(当然IOCも含まれる)が、いかにビジネスとして利益を上げられるかという世界に変質した。だったら「アスリート・ファースト」などというきれいごとは言ってほしくない。
そもそも2020年東京オリンピックの開催が決まった時、すでに最大の利権者であるアメリカから8月開催という条件が付けられていたようだ。東京オリンピックの旗振り役を演じた当時の石原慎太郎都知事は、当然そのことを知っていたはずだ。が、私たち国民がそのことを知ったのは、2020年オリンピックが東京に決まった後だった。「8月に東京、そんな馬鹿な…」と多くの国民はびっくりした。実際、東京都庁には抗議の声が殺到した。たまたま時期を同じくして築地市場から豊洲市場への移転問題で都政が大混乱していた時期であり、都民の関心はオリンピックより市場問題に移っていった。
1964年の時の東京オリンピックは開催時期について、夏と冬をはずして春を秋で最も気候が安定している時期を、過去の気象データを分析したうえで10月10日を開催日を決めた。「体育の日」が祝日になったのは、そういう経緯があったからだ。が、今回の東京オリンピックは、1964年のオリンピック環境とは雲泥の差がある。「アマチュア・スポーツの祭典」ではなく、興行としてのビジネスが目的になっていたからだ。だったらアスリート・ファーストではなくビジネス・ファーストの視点から競技場所も決めるべきだろう。そう考えたら、札幌より東京の方が、はるかにビジネス機会は大きい。これで決まり。
そもそも東京で8月にオリンピックを開催するなどということ自体、気違いじみたことだった。私たち国民が最初から夏季オリンピックは8月が前提になっていたことを知ったのは、東京開催が決定した後のことだ。「ばかげている」という都民の苦情が都庁に殺到したようだ。ちなみに次のオリンピックは今夏42℃という猛暑を記録したパリだ。いまのところパリのオリンピック組織委員会は東京オリンピックに水を差してはいけないという配慮をしてか沈黙しているが、東京オリンピックが終わった途端「オリンピック開催の返上」を発表する可能性が極めて高い。東京よりパリの方がアスリートにとっても観客にとってもはるかに危険だからだ。オリンピック憲章がどうであろうと、いまやオリンピックはプロ・スポーツやコンサートと同様の「興業」でしかないことが、今度の騒動であからさまになった。。
もう一つ見逃せない問題がある。消費税増税直後に政府は増税直前の駆け込み需要の反動はそれほどでもなかったと胸をなでおろしたが、1か月たった今、想定以上の消費減退がはっきりした。その理由は軽減税率とキャッシュレス決済のポイント還元制度の導入にある。軽減税率の問題についてはこれまでも何度も書いてきたが、ポイント還元の問題についていろいろわかってきたこともあるので、次のブログで書く。(11月4日)
10月28日、NHKがようやく立花孝志氏(「NHKから国民を守る党」党首)に対して放送受信料の支払いを求める民事訴訟を東京地裁に提訴した。ただ、受信料請求は立花氏が埼玉知事選に出馬するため(知事選は大差で落選)、自動失職した参議院議員会館の議員室に設置した受信機の受信料2か月分(衛星契約)4560円だけだ。
立花氏は自宅や事務所にもテレビは持っているはずで、なぜ議員会館の議員室に設置したテレビにのみ受信料の支払いを求めたのか。どうせなら「N国党」から参院選に出馬した立候補者や支持者も一網打尽で提訴しないのはなぜか。
立花氏の政策はNHKにスクランブル放送を義務付ける法律を国会で成立させることだ。それ以外に政策は何もない。この法律を国会で成立させるためには安倍憲法改正論に賛成してもいいとまで主張している。またポスト安倍の有力候補の一人である石破氏も、NHKの放送は公共放送の範囲を逸脱しているとして、立花氏の主張に一定の理解も示している。
私も石破氏が指摘しているNHKの放送内容には限りなく物足りなさと疑問を抱いている。「パーキンソンの法則」というのがあるが、官僚組織は組織を維持するため、不必要になった業務の代わりに次々に「仕事」を作り出して組織体を維持拡大するという理論で、「官僚組織の肥大化」という社会的現象を解明した理論である。
たとえばNHKの場合、Eテレはかつては中卒就職者が高卒の資格を得るための学習番組を放送することが目的でつくられた。だから「教育テレビ」という名称だった。が、中卒就職者が激減した結果、公共放送としての「教育テレビ」は存在価値を失った。だったら中卒就職者のための「教育テレビ」は廃止すればいいのだが、いまは「Eテレ」と名を変えて、ほとんど限りなく視聴率ゼロに近い番組ばかり放送している。
BS放送も最初は難視聴地域対策として誕生したから、BSの番組は大半が総合放送と同じだった。が、地デジになって難視聴問題がほぼ解消してもNHKはBS放送を止めるどころか2、3局に増やした。まさに「パーキンソンの法則」がこれほどぴったり当てはまるケースは、そうはないだろう。
それだけ公共放送の中身が充実したかというと、まったく逆である。たとえば自民党から嫌われていた国谷氏がキャスターを務めていた『クローズアップ現代』(月~金、午後7時30分~8時)は、いま週3日に減らされ(火~木)、時間も午後10時からにずらされた。かつてはNHKの良心とさえ言われた看板番組だったが、いまや当時の見る影もない。また『NHK特集』が衣替えした『NHKスペシャル』に至っては、スタッフからは特ダネをものにしようという心意気さえ感じることができない。実は私はこの衣替えの直前にNHKから新番組への期待を語ってくれと頼まれた。我が家に中継車で数人のスタッフが来て、ディレクターかプロジューサーかは覚えていないが、「小林さんがいろいろお書きになっている中で『タブーへの挑戦』を新番組への期待としてお話しして欲しい」ということだったので、喜んで応じた。その30秒ほどの番組案内は数回放映されたようだ。が、残念ながらタブーに挑戦したと思えるような番組は、最近の『NHKスペシャル』では見たことがない。たとえば『NHKスペシャル』が初めて公開した戦後の田島宮内庁長官に語った昭和天皇の戦争への思いについても、天皇の悔悟や反省の気持ちは私たちにもひしひしと伝わったし、再独立を祝うお言葉の中にどうしても「反省」の言葉を入れたかったというのは、そのときに天皇のお気持ちとしては事実だと思うが、まだドイツが降伏していなかった1945年2月14日に近衛文麿氏が天皇にじきじき敗戦が必至であること、その場合に日本がソ連によって侵略される可能性があることを説き、直ちに米英と講和すべきだと上奏した時、天皇は「講和するにしても、敵に一泡吹かせてからにすべきだ」と近衛氏の上奏を却下したこととの整合性はちゃんと報道すべきだった。もしこのとき昭和天皇が近衛氏の進言を受け入れて大権を行使して講和に踏み切っていたら、沖縄の悲劇も広島・長崎への原爆投下も、ソ連による北方領土の侵略もなかった。
NHKがいま本当に公共放送としてふさわしい番組を放映しているか、新聞などメディアが世論調査をしてみたらいい。何も私は硬派の番組に特化しろとまではいわない。NHKの遺伝子ともいえる紅白やのど自慢、朝ドラや大河ドラマなどは維持すべでだと思う。ただ大河ドラマはもう取り上げる歴史上の偉人は残っていず、主人公がだんだん小粒になってきた。一時はNHKの看板番組になったこともある『プロジェクトX』が、長期にわたったためだんだんつまらないケースをテーマにせざるを得なくなって中止に追い込まれたが、その二の舞になる前にそろそろ幕を閉じたほうがいいかもしれない。
また地上波とBSと合わせて2局しか持っていない民放の方が、NHKの合わせて4,5局より報道番組や政治討論番組にはるかに多くの時間を割いている。どういうことか。国民を1億総白痴化にすることがNHKの目的なのか。政府にとってはその方が都合がいいのかもしれないが…。
NHKの番組が低俗化したのは、ほかならぬ「パーキンソンの法則」に従って組織の肥大化を最大の目的にしてきたからだ。組織を肥大化し、番組を低俗化してきたのは、組織の肥大化には総務省の協力がどうしても必要だったし、国会で承認を受けるには政権の言いなりになるしかなかったからだ。実は「パーキンソンの法則」に欠けていたのは、官僚組織の肥大化を組織論として解明したまではよかったが、肥大化を可能にするためには権力への迎合が不可欠だということまでは見抜けなかったことにある。NHKが『クローズアップ現代』で昨年4月24日に、かんぽ生命の保険商品を郵便局員が詐欺まがいの方法で販売していたことを報じた後、続編をつくるためにネットで情報提供を呼び掛けたとき総務省事務次官出身の鈴木副社長(次期社長の最有力候補)がNHK経営委員会を恫喝していったん番組の続編中止に追い込んだことにもあらわれている。日本郵政側には大量に保有しているかんぽ生命株の25%を近々放出する計画があり(実際、今年4月に最高値水準でかんぽ株を放出している)、不祥事はなんとしても表面化したくなかったという事情もあった。立花氏にそうしたNHKの体質改善を図りたいという思いがあったとしたら私も支持しないわけではないが、残念ながら古巣(かつて立花氏はNHK職員だった時期があるが、不正を働き懲戒解雇されている)への愛情からとは到底思えない。
なお裁判に関して言えば、立花氏にほぼ勝ち目はない。実際、NHKが渋谷の住民(仮にA氏とする)と争った裁判では最高裁が放送法64条は合憲であり、したがって「契約の義務」があるという判決を下している。A氏は「契約の自由」を主張したが、最高裁はその主張を認めず、A氏は敗訴した。翻って立花氏はNHKと契約はしているが受信料は払わないと公言しており、NHKに対して放送のスクランブル化を求めている。もしスクランブル化が認められるということになると、事実上A氏が主張した「契約の自由」を認めることになり、裁判官によっては地裁や高裁では立花氏の主張を認めるかもしれないが、最高裁が認めるわけがない。「契約は法律上の義務だからするが、受信料は支払わない」という主張の正当性についての論理的根拠は、これまでの立花氏の主張を見る限り示されていない。実はその主張を正当化できる決定的な根拠を私は持っているが、立花氏のこれまでの活動を知る範囲では、彼を支援するつもりはない。ただやり方によっては勝てる可能性がかなりあることだけ言っておく。
【別件追記】萩生田文科相の発言をめぐってメディアや野党が追及を強めている。それほど大騒ぎするような問題なのか。事の始まりは、2020年度から実施される大学入試共通テストで導入されることになっている英語民間試験に関してである。この民間試験は大都市中心に行われる可能性が極めて高い。本来教育は機会均等が原則である。地方の高校生にとっては不利になる要素が高い。だからこの制度に参加する民間教育機関に対して、参加要件としてユニバーサル・サービスを義務付けていれば問題は生じなかった。テストの料金も文科省が一律にすれば地域格差も生じず、教育の大原則である機会均等も保たれる。そうした認識が萩生田氏に欠けていたことは間違いない。が、萩生田氏は9月に新任したばかりの大臣だ。この制度設計についてはおそらく一切関与していなかったはずだ。
確かにこの制度設計について萩生田氏が(地方の高校生に対して)「身の丈に合わせて頑張って」と発言したのは勇み足だったと思う。が、菅原元経産相の場合と違って違法行為を行ったわけではなく、むしろ地方の高校生を励ますための発言のように、私には聞こえる。ただし、言っておくが萩生田氏はいまだ加計学園獣医学部新設事件に関する疑惑が晴れたわけではなく、そういう人物を文科相に起用した安倍総理の任命感覚は当然問われるべきだと思う。加計学園問題は森友学園疑惑とともにいまだ政界にくすぶっている大きな問題であり、安倍総理はもとより萩生田氏の説明責任も追及し続ける必要がある。
が、何もかも一緒にして政治問題化するほど日本の政治家やメディアは暇なのか。英語民間試験の導入に関しては、いまのIT技術をもってすれば全国一斉に平等に行えるはずだ。もちろんIT技術だけでなく全国の試験会場(高校も含めて)で実施するには、それなりの資金力も必要だろう。小規模の教育機関が、受験生が集まりやすい大都市だけでやるといったことを認めたら教育の大原則である機会均等が失われる。メディアも野党も萩生田氏の「失言」を重要視するより、文科省が導入しようとしている制度の欠陥を指摘し、受験機会に地域格差が生じないよう要求すべでではないかと思う。
【別件2】共同通信が10月26・27の両日、今後の皇室の在り方について世論調査を行った。具体的には女性天皇を認めるか否かという単純な設問だったが、世論調査の結果は「賛成」が81.9%、「反対」が13.5%と、容認派が圧倒的に多かった。
実は明治時代に作られた皇室典範には天皇になる資格として「男系男子」と明記されている。はっきり言って時代錯誤の規定である。過去にも女性天皇は何人か存在している。だが、その女性天皇のお子さんが天皇の地位に就いたことはない。男性皇族の男のお子さんが皇位継承できる年齢に達するまでの、いわばリリーフとして男系の女性が臨時に皇位につかれたにすぎない。明治時代は皇族に限らず妻妾が認められていた。つまり「お妾さん」である。だから、天皇に男子のお子さんが生まれるまで、天皇は何人もの妻妾との間に関係を続けることが前提だった。そういうことが可能であれば、皇位継承者を「男系男子」に限定することも可能である。
が、戦後、時代は大きく変わった。皇族といえど妻妾を抱えることは不可能になった。そうした中で「男系男子」にのみ皇位継承権を認めることは現実的だろうか。たとえば民法では親族間の婚姻が禁止されているのは親子・兄弟・親の兄弟までである。いとこ同士は結婚できる。ということは「血の交わり」による遺伝上の問題は、いとこ同士だったら生じないという(どこまで科学的かは不明だが)根拠に基づく。
いま超保守系政治家の間で、「男系男子」にこだわるため宮家を増やせという声が高まっている。確かに皇族のお仕事は大変なようで、民間に嫁がれた女性皇族にも、可能な限りある程度お仕事を続けていただく必要はあるかもしれない。が、現天皇といとこ関係以上に血縁関係が薄れた男性の旧皇族を宮家として復活させることはいかがなものか。その男性皇族の男子のお子さんが天皇の皇位を継承することになると、天皇の血が継承されたと言えるのか。日本に天皇制が根付いてきたのは、天皇の血の継承が維持されてきたからではないか。血の継承が限りなく薄くなっても直系の女性より「男系男子」を重視するという超保守系政治家の感覚を私は疑う。すでに国民の大多数は次の天皇として愛子さまを望んでいる。国民に愛され親しまれてこそ、象徴天皇の意味もあろうというものだ。
【別件3】どうして急に立て続けに書きたいことが生じるのだろう。昨日30日から始まったオリンピックの調整委員会のことだ。調整委員会は4者の会議で3日間にわたって行われるという。4者とは東京都知事、IOC(国際オリンピック委員会)、東京オリンピック組織委員会、東京オリンピック担当相である。IOCがそれまで認めていた東京でのマラソンや競歩の競技場所を、突然札幌に変えろと言い出したことでメディアも大騒ぎする事態になった。IOCの言い分はドーハで行われた女子マラソンで暑さと湿気で競技が続けられなくなり、途中棄権者が続出したことで、東京より札幌の方がアスリートに優しいというのが理由のようだ。一方東京都は、これまで暑さ対策のために300億円を使ってきたし、地域住民の協力も得てきた。いまさら競技場所を札幌に変えると言われても、札幌マラソンのために都民の税金使えないと反論した。両者の言い分は、それぞれの立場に立って考えれば、両方とも正論である。そこで私は「現在のオリンピックとは何か」の原点に立ち返って、この問題を考えてみた。
実は私はマラソンでは裸足の走者アベベが勝ち、女子バレーでは東洋の魔女と言われた大松監督率いる日本チームが優勝したことを知っている世代だ。当時のオリンピックは「参加することに意義がある」と言われていたアマチュア・スポーツの祭典であり、世界は一緒という「平和の祭典」でもあった。それから半世紀余がたち、オリンピックは大きく変質した。商業化の波にのまれ、そして今やスポーツの祭典ではなく、「興業の祭典」と化している。つまりスポンサーをはじめ、オリンピック開催地など関連団体(当然IOCも含まれる)が、いかにビジネスとして利益を上げられるかという世界に変質した。だったら「アスリート・ファースト」などというきれいごとは言ってほしくない。
そもそも2020年東京オリンピックの開催が決まった時、すでに最大の利権者であるアメリカから8月開催という条件が付けられていたようだ。東京オリンピックの旗振り役を演じた当時の石原慎太郎都知事は、当然そのことを知っていたはずだ。が、私たち国民がそのことを知ったのは、2020年オリンピックが東京に決まった後だった。「8月に東京、そんな馬鹿な…」と多くの国民はびっくりした。実際、東京都庁には抗議の声が殺到した。たまたま時期を同じくして築地市場から豊洲市場への移転問題で都政が大混乱していた時期であり、都民の関心はオリンピックより市場問題に移っていった。
1964年の時の東京オリンピックは開催時期について、夏と冬をはずして春を秋で最も気候が安定している時期を、過去の気象データを分析したうえで10月10日を開催日を決めた。「体育の日」が祝日になったのは、そういう経緯があったからだ。が、今回の東京オリンピックは、1964年のオリンピック環境とは雲泥の差がある。「アマチュア・スポーツの祭典」ではなく、興行としてのビジネスが目的になっていたからだ。だったらアスリート・ファーストではなくビジネス・ファーストの視点から競技場所も決めるべきだろう。そう考えたら、札幌より東京の方が、はるかにビジネス機会は大きい。これで決まり。