小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「イスラム国」はなぜ何度も最後通告を破棄してきたのか。オオカミ少年になった理由をひも解いてみる。

2015-01-30 10:41:17 | Weblog
「イスラム国」はこれまで、敵国側と見なす人質の殺害予告に関しては、「イスラム国」の要求が受け入れられなかった場合、例外なく予告通り殺害してきた。今回の人質事件も、当初日本政府に対して72時間以内に2億ドルを身代金として要求したときは、72時間を経過したのち、民間の軍事会社を経営しているとされる湯川遥菜氏だけを容赦なく殺害した。そのとき、「イスラム国」を名乗るテロ集団がなぜ湯川氏だけを殺害し、フリー・ジャーナリストの後藤健二氏を殺害しなかったのか、その疑問がようやく解けだした。
「イスラム国」側の姿勢に大きな変化が見られたのは、1月25日(日本時間)に後藤氏が殺害されたと見られる湯川氏の写真を胸に抱いて、自分とヨルダンに拘束されている死刑囚の元テロリストのリシャウィの人質交換をネットで要求した時点からだ。後藤氏はこう言った。
「もうテロリストに金を払う必要はなくなった。ヨルダンに拘束されているリシャウィ死刑囚を釈放すれば、私の命は救われる。簡単なことだ」
 死刑囚、それも日本の死刑囚ではなくヨルダンの死刑囚と自分の命を引きかえに出来るかどうかは、紛争地域を取材してきた後藤氏には「ありえないことだ」ということは分かりきった話のはずだ。おそらく後藤氏は、テロリスト側が用意した原稿を棒読みさせられたにすぎないとは思う。ただ、その時の英語での発言では「もうテロリストに金を払う必要はない」と言っていることに、私は多少の違和感を抱いた。テロリストは、自らの行動を正当な行動と見なしており、自らをテロリストと名乗ることはありえないからだ。ひょっとすると陽動作戦の一種のつもりかとも思ったが、死刑囚の釈放を「簡単なこと」とあっさり言ってのけたことにも不自然さを覚えた。
 時系列で人質事件を振り返ってみよう。

20日14:50 「イスラム国」が日本政府に2億ドルの身代金を要求。

24日23:00すぎ 湯川氏が殺害されたとみられる画像がネットで公開。後藤氏が英語で「イスラム国」の要求が身代金請求から死刑囚釈放に変わったことを肉声発言。

27日23:00頃 後藤氏が「イスラム国」の最後通告を代読。「24時間以内にリシャウィ死刑囚を釈放しなければ、『イスラム国』はまずヨルダン軍パイロットのカサースベ中尉を、続いて私を殺害する」と発言(英語)。

28日20:00すぎ ヨルダン政府が初めてリシャウィ死刑囚釈放の条件を提示、カサースベ中尉との人質交換に応じる用意があることを明言。
同日23:00頃 「イスラム国」の最後通告は事実上破棄された。

29日8:00前 後藤氏が「イスラム国」の二度目の最後通告を代読。「イラク時間29日日没(日本時間23:30頃)にリシャウィ死刑囚と私を人質交換」の要求を英語で発言。
同日(時間不明) 後藤氏の妻が初めて声明を発表、すでに後藤氏が代読した後藤氏解放条件と同じ内容を公開。後藤氏の妻によれば、テロリスト集団から「このメッセージを国際的なメディアに公表しろ。さもなければ次は健二だ」とのメールを受け取ったということだ。
同日23:30頃 二度目の最後通告に期限切れ。「イスラム国」はなんの声明も出さず。

 現在30日の9:00。依然として人質事件はこう着したままだ。事件発生以来、日本政府は中山外務副大臣がヨルダンに詰めきりで、本国政府と緊密な連絡を取りながらヨルダン政府側と事態収拾に向けて交渉を重ねているという。
 が、日本政府としてはまさか「ヨルダンのパイロットの救出とは無関係に、後藤氏解放のためにリシャウィ死刑囚を釈放してくれ」とはいくら何でも頼めない。そんなバカな要求をしたら日本政府は国際社会から袋叩きに会う。
 それにしても日本のメディアの無神経さは、「イスラム国」がヨルダン軍パイロット・カサースベ中尉についての情報を一切開示していないことへの疑問を抱いたことさえないことだ。もしカサースベ中尉が無事だったら、「イスラム国」にとってはリシャウィ死刑囚の釈放条件の武器としては、後藤氏との人質交換よりはるかにヨルダン政府と合意しやすい条件になる。「イスラム国」はなぜ最高の交渉条件であるカサーベス中尉を表に出さないのか。あるいは出したくても出せない状況、つまりすでに何らかの事情で(つまり見せしめのための処刑ではなく)カサーベス中尉が死亡している可能性が極めて強まったと考えるのが合理的だ。処刑だったら、「イスラム国」は間違いなく公表している。
 ヨルダン政府側が、カサーベス中尉の生存と開放を前提にしない限り、リシャウィ死刑囚を釈放などできないことは赤ん坊でも分かる道理だ。中山副大臣も、いくらなんでも「カサーベス中尉の生死とは関係なく後藤氏とリシャウィ死刑囚との人質交換の話を進めてくれ」とは言えない。ヨルダン政府側は何度も「イスラム国」にボールを投げかけている。が、投げたボールはブラックホールに吸い込まれたように、まったく返ってこない。
「イスラム国」も、完全に当てが外れた。「イスラム国」にとっては、彼らのテロ活動の象徴的人物にさえなってしまったリシャウィ死刑囚の奪還は、「イスラム国」内部の権力構造に大きな変化を与えかねない状況になっているとみるのが自然だろう。
 いかなる組織でも権力争いはある。サルをはじめ動物たちの集団でも、権力の座を巡る争いは熾烈である。日本のメディアは「イスラム国」は一枚岩だと思っているのかもしれないが、組織が人間たちの集団である以上、権力闘争はたとえ表面化していなくても必ずある。
 改めてこのブログの冒頭で書いたことを繰り返すが、「イスラム国」が身代金や人質交換を目的にして、要求が拒否された場合、拘束していた人間を無事に解放したケースはかつてない。最後通告通り、人質を殺害してきた。だいいち最後通告を何度も譲歩して、先延ばししたりしたこともない。
 いま「イスラム国」にとっては後藤氏の存在は、武器どころか重荷にさえなっていると思う。二度の最後通告を自ら破棄してきた「イスラム国」にとっては、三度目の最後通告はおそらく出せないと思う。「イスラム国」の最後通告におたおたしているのは日本だけで、今度最後通告を出して破棄せざるを得ないことになったら、国際社会から「イスラム国」は間違いなく「オオカミ少年」扱いされることになり、テロの「脅威」も意味を持たなくなってしまうからだ。

 1970年3月31日、日本中を震撼させた事件が発生した。赤軍派によるよど号ハイジャック事件だ。このとき、運輸省の山村新次郎政務次官は乗客・乗員の身代わりとしてハイジャック犯の人質になり、人質の解放にこぎつけた。もし、後藤氏の解放に政府が責任があると考えるのなら、中山康秀外務副大臣を後藤氏の身代わりとして「イスラム国」に人質交換を申し入れたらどうか。
 私は責任を持てないが、「イスラム国」も今さら身代金要求に戻すわけにもいかず、ヨルダン政府が要求しているカサーベス中尉を解放できる状態にないとしたら、はっきり言って「イスラム国」は後藤氏を持て余している。中山外務副大臣が身代わりを買って出れば、「イスラム国」はもっけの幸いと、日本側の提案に飛びつくのではないか。その場合、中山氏が新たな殺害対象になる可能性は極めて低いと思う。もし「イスラム国」が中山氏を殺害対象の人質として身代金要求やリシャウィ死刑囚の釈放を要求したりしたら、「イスラム国」自体が瓦解しかねない。
 ま、最も私自身は26日に投稿したブログでも書いたように、後藤氏のシリア潜入は、仮に湯川氏救済目的であったとしても(後藤氏の妻はそう信じているようだが、それを裏付ける状況証拠もない)、明らかに自己責任行為であり、後藤氏自身「自分の身に何があろうと自己責任だ」とのメッセージを残してシリアに潜入している。安倍総理をはじめとして日本政府が大騒ぎをして後藤氏解放にしゃかりきになる必要はない、と私は思っている。
 メディアは、もっと冷静に報道して欲しい。後藤氏の母親が息子の命乞いをしているが、こんな人騒がせな事件を起こした息子を育てた私が悪かったと、私なら言う。それでも息子を助けたいなら、「私が身代金の一人分1億ドルを何としてでも支払う」と言うべきだろう。1億ドルもの大金は持っていないかもしれないから、その場合は「自分の全財産を『イスラム国』に寄付するから、それで何とか息子の命の代わりにしてほしい」と「イスラム国」にお願いすべきだろう。自分は安全地帯にいて、政府に頼めるだけの権利があるのだろうか。

 

テロ撲滅は日本が国際社会に果たすべき責務の一環だ。これは集団的自衛権行使問題とは別だ。

2015-01-26 08:08:53 | Weblog
 新聞各紙に「残虐非道」という言葉が躍った。「イスラム国」に捕らわれていた日本人二人のうち湯川遥菜氏が殺害されたとみられる映像がインターネットで公開されたからだ。湯川氏の写真を胸に抱いたもう一人の「イスラム国」の捕らわれ人・後藤健二氏が切々と訴えた。
「哀願」ともとられる後藤氏の発言部分は日本語ではなく英語だった。が、専門家による声紋分析では99.9%本人のものだという。が、後藤氏本人が自発的にした発言とは到底思えない。銃かナイフを突きつけられて、テロリスト集団が用意した原稿を棒読みさせられた可能性は高い。
 後藤氏はフリーのジャーナリストである。すでに「イスラム国」に拘束されていた湯川氏救出のために、あえて危険なシリアに入国したとも伝えられている。シリア入国の際にガイドに撮影させたとみられるビデオでは、後藤氏は「今回の行動は自己責任だ。自分の身に何が生じようと、その責任は自分一人が取る」という趣旨のことを語っていた。そのときのかっこいい発言と、湯川氏の写真を抱いての発言には、どうしても違和感が残る。
 湯川氏殺害後の発言では、はっきり言って後藤氏は命乞いをしている。
 私は命乞いそのものを否定するわけではない。誰だって、いかなる理由があろうとも自分が銃やナイフで「殺すぞ」と脅されたら、命乞いをしたくなるのは人間としての自然の行動だ。私自身1月2日に投稿したブログ以降、きわめて悪質なサーバー攻撃を受けており、いつ命を狙われるかわからないという恐怖を感じている。
 私が受けているサーバー攻撃は【meiwaku】として本来ならプロバイダーによって振り分けられているメールだ。それが毎日500~1000通送られてきている。最初は何かの間違いかと思って一切開かずに削除してきたが、時間がかかって仕方がないので別のメールアドレスを発行してもらい、必要な先には連絡したので、新しいアドレスに届いたメールだけを読めばよいことにした。旧アドレスは廃止せず、そのまま放置してある。そのため旧アドレスの受信ボックスには万を超える【meiwaku】メールがたまっている。もし私の身に何かあれば、警察が私に対するサーバー攻撃との関係を捜査してくれるだろうと期待しているからだ。
 それにしても後藤氏の事前と事後の発言に、違和感を覚えるのは私だけではあるまい。私の友人たちはみな同意見だった。
 メディアとしては、まさか「自業自得」と切って捨てるわけにはいくまい。まして後藤氏の母親がしゃしゃり出て来て「私の息子の命を救ってください」と訴える姿を映像で流しておいて、「生後2日にしかならない赤ん坊と自分の妻を見捨ててテロリストが支配する危険な地に、テロの対象になることを百も承知で出かけておいて、今さら命乞いとははた迷惑もいいところだ」とまでは言
えまい。
 メディアとしてはそこまで言えないまでも、一般庶民ははっきり言って「いい加減にしろ」と思っている。
 まだ湯川氏が生存していた時に二人を左右に跪かせてテロリストが「72時間以内に身代金として2億ドルをよこせ」と言ったときには、私もその金額から「イスラム国」も本気ではないだろう、日本側がどう出るかのアドバルーンを打ち上げただけだろうと思っていた。が、テロリストは実際に一人を殺害した。許しがたい暴挙だ。日本だけでなく国際社会が憤激したのは当然だ。
 が、もともと命をかけてシリアに潜入した後藤氏が、今さら命乞いするのは、たとえテロリストに強要されたとしてもいかがなものか。命乞いだけなら、まだいい。「湯川さんを殺したのは安倍さん(※安倍総理のこと)だ。私を助けるためにテロリストに金をやる必要はもうない。ヨルダンに拘束されている、自爆テロに失敗して逮捕されたテロリストのサジダ・リシャウィ死刑囚を釈放してくれればいい」と懇願した。いくらテロリストに強要されたにしても、死刑囚、それも日本のではなくヨルダンの死刑囚の釈放を自分の命乞いの材料にするとは…。そんなみっともないことを今さら言うくらいなら、最初からかっこいいことを言って危険地帯に潜入などしなければよかったのではなかったか。
 こんなバカげた「お願い」を、日本政府が相手にするわけがないと思っていたが、メディアの報道によれば、日本政府は水面下でヨルダン政府と後藤氏解放のための連携を模索しているようだ。ヨルダン側にはヨルダン側の事情もあるようだ。ヨルダン空軍のパイロットが「イスラム国」に拘束されており、その人質交換に便乗して後藤氏を助けようというのが日本政府の思惑のようだ。
 だとしたら、とんでもない話だ。ヨルダンが「イスラム国」と交渉の結果、人質交換に応じたとしても、それはヨルダン政府と「イスラム国」の間の問題で、それに日本が便乗できる権利も何もない。もし日本政府がヨルダン政府に対して、後藤氏解放のために「イスラム国」との人質交換の話し合いを進めてほしいなどと要請したとしたら、重大な内政干渉であり、国際社会から「日本は何様のつもりか」と蔑視されるだけだ。
 メディアもこの問題を騒ぎ立てすぎるから、政府も黙視できなくなってしまった。一応「放っては置けない」というジェスチャーだけは取らざるを得なくなってしまった。
 が、今回の問題については、人質問題とは別の視点で私も考えさせられることがある。それは、他国とくにアメリカの要請に応じて自衛隊が実力を行使するか否かのレベルとは別に、テロという国際社会が直面している暴力の脅威に、国際社会の一員として日本が、今後どう国際社会と協力して立ち向かうかの問題だ。これはテロが横行している地域が日本から遠いか近いかの問題でもない。現代社会の病巣の一つとも言えなくもないテロリズムに、「平和を願う日本」が手をこまねいていていいのかという問題である。「手をこまねくことが平和をまもる唯一の道」といった手前勝手な屁理屈がまかり通っている日本国民への大
きな警鐘でもある。
 テロ根絶、を口先だけでいうのはたやすい。口だきだけでテロを非難するのもたやすい。そうして「平和的手段」でテロが根絶できるなら、とっくにテロは根絶できている。
 今回の日本人人質事件は、はっきり言って湾岸戦争のときの人質事件とは違う。今回の人質事件は、はっきり言って二人とも自己責任が問われても仕方のない無謀な危険地帯潜入に端を発しており、二人を拘束したのは勝手に「イスラム国」を名乗っているテロリスト集団だ。が、湾岸戦争の場合は、イラクのフセイン政権という国際社会が認めていた国家権力によって、民間人を含む141人の日本人が不当に拘束された。このとき海部内閣はカネだけ出して、日本人の人質解放はアメリカ任せにした。独立国家としての尊厳をすべて放棄した体たらくだった。このとき、私はひそかに日本人であることを恥じた。
 集団的自衛権問題も含めて、改めて国民的規模で考えてほしい。いま日本が世界の平和と安全に資することは、アメリカとの軍事同盟を強化することなのか、それともより崇高な理念を持って国際社会の平和と安全のために日本は何をなすべきなのかを、原点から考えるべき時期ではないのか、と。

「民主主義とは何か」がいま問われている⑨--岡田民主党はどこに行く?

2015-01-20 09:30:46 | Weblog
「原点回帰」――党の再建方針について岡田新代表はそう述べた。「原点」と岡田氏が言う場合、岡田氏の頭の中で去来したものは何だったのか。民主党結成時のことなのか、それとも第1次岡田代表選出時のことなのか。
 今回の民主党代表選では岡田克也氏のほかに細野豪志氏、長妻昭氏が名乗りを上げた。選挙では約20万人とされる民主党員・サポーターは自分が住んでいる都道府県を単位として郵便投票を行い、各代表候補の得票数に応じて各都道府県にあらかじめ配分されたポイント(全国の総数は354ポイント)がドント方式によって配分される。たとえば、ある県に割り当てられたポイントが5の場合、一番得票数が多かった候補者が5ポイントを総取りする仕組みだ。かつて小泉純一郎氏が自民党総裁選を橋本龍太郎氏と争ったとき、「自民党が変わらなければ、私が自民党をぶっ壊す」と全国を遊説して回り、やはりドント方式で47都道府県の党員・サポーター票の大半を獲得して、橋本氏を立候補辞退に追い込んだケースがある。
 党員・サポーター以外では、地方議員が各1ポイント、国会議員・国政選挙の公認内定者が各2ポイントを持っている。
 今回の民主党代表選では、当初から岡田氏と細野氏の一騎打ちが予測されていた。が、両者とも1回目の投票で過半数のポイントを獲得することは不可能で、決選投票になることは必至だった。案の定、1回目の投票で各候補者が獲得したポイントは細野氏298ポイント、岡田氏294ポイント、長妻氏168ポイントで、全760ポイントの過半数を獲得した候補者はなく、上位2名、つまり細野氏と岡田氏の決選投票になった。決選投票は国会議員と国政選挙の公認内定者のみで行われ、総ポイント265のうち岡田氏が133を獲得して細野氏の120を抑えて新代表に選出された(12ポイントが棄権・無効)。
 かつて自民党内で「総理・総裁分離論」が噴出したことがある。総理大臣は衆参国会議員が選出する議院内閣制だから、総理候補は国会議員のみによる選挙で選ぶべきだが、総裁は党の代表であり、党員の総意によって選出すべきだという議論だった。まさに「民主主義とは何か」が問われる議論ではあった。
 が、いつの間にか「総理・総裁分離論」は煙のように消えてしまった。総裁を党内民主主義で選出するということになると、派閥の存続が困難というより不可能になるからだ。
 衆院選でも参院選でも、すでに最高裁は「違憲状態」と裁定している。1票の格差が大きすぎるというのがその理由だ。
 原理的には1人1票の重みは同等でなければならない。民主主義の大原則である「多数決原理」は、1人1票の価値が同等であることを前提にしないと成り立たないからだ。「1人1票の価値を同等にせよ」と主張する弁護士グループもいるが(実際、先の衆院選について全国の高裁に無効の訴えを起こしているグ
ループもある)、本当にそれで民主主義はより成熟するのかという疑問がぬぐえない。私は『民主主義とは何かがいま問われている』と題するブログ・シリーズで、民主主義システムの最大の欠陥は「多数決原理にある」と書いてきた。民主主義システムの欠陥は、私が発見したわけでもなんでもなく、大哲学者のプラトンやアリストテレスもとっくに指摘している。
 が、民主主義に変わる、よりベターな制度がない以上、私たちに課せられた責任は、いかに民主主義の欠陥を補うか、あるいはいかに民主主義を成熟させていくかにあると私は考えている。そうした考えはプラトンやアリストテレスにはなかった。
 そういう意味で私は、日本が議会内閣制を採用している以上、「総理・総裁(あるいは代表)分離」は、政党を民主的な組織に育てるために欠かせないのではないかと思っている。政党は政治の志を共有する共同体の一種である。である以上、共同体の一員である党員は、党運営に必要な党費をひとしく党に納めており、一党員も国会議員も党の代表を選ぶための1票の価値は同等でなければおかしいと思う。今回の民主党代表選の場合、1票の格差は一般党員と国会議員・国政選挙公認内定者とでは0.00177:2つまり国会議員との格差は1130倍にもなる。ま、小泉劇場のようなことも現に生じたわけだから党員・サポーター票がまったく無意味だとまでは言わないが、党利党略のために1票の格差に目をつぶり続けている自民党を批判するからには、まず党内民主主義の在り方を改善することから始めるべきだろう。
 それはともかく、先の総選挙と同様、今回の民主党代表選もまったくわけのわからない選挙だった。強いて言えば、先の総選挙は安倍総理が自民党内の権力基盤を盤石のものするために700億円もの税金をどぶに捨てて行った選挙だったし、今回の民主党代表選は海江田前代表が選挙で落選して辞任したことによって新代表を選出せざるを得なかったという「お家の事情」があったことは理解できないこともないが、それにしても争点がまったく理解できない選挙だったことは先の総選挙と同じだった。
 候補者の3人とも、多少の温度差はあったにしても「党勢の回復」「自公政権との対決姿勢」を打ち出してはいたが、肝心の温度差がどの程度なのかが民主党員にもわからなかっただろう。私は民主党員でもなければサポーターでもないので、党内事情など知る由もないが、各メディアの解説を読んでも対立軸がさっぱりわからなかった。
「野合」という、言い古された言葉がある。「敵の敵は味方」とも言う。後者の方が分かりやすい。たとえば日中戦争時、中国では「国共合作」を実現して旧日本軍と対峙した。蒋介石率いる国民政府軍も、毛沢東率いる共産軍も、敵は同じく日本軍だということで協力関係を結んだ。結果的に日本がアメリカにコテンパンにやられたため、中国の国共連合軍は漁夫の利を得て勝利した。勝利したとたん、勝利の果実を巡って、今度は「敵の敵」として「味方同士」のはずだった国民政府軍と共産軍が対立し、毛沢東派が勝利の果実をもぎ取った。
 なぜ、こんな話を持ち出したかというと、民主党が政権を自公連立から奪い取った後、なぜ崩壊したのかという根本的な反省抜きに党勢を立て直そうとしても、そんなことは不可能だと言いたいためだ。
 民主党はそもそも1998年4月に、院内会派「民主友愛太陽国民連合」に参加していた旧民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が基本路線のすり合わせも行わずに合流して結成した政党である。2003年には小沢一郎氏が率いる自由党も合流して自公に対抗できる一大政党になった。
 が、結成の当初から党の基本路線が明確ではなかった。基本路線がバラバラな政党が、ただ自公政権への対抗勢力をつくるという目的だけで一緒になった「野合政党」だったからだ。つまり旧日本軍に対峙する勢力にするための国共合作と、その本質において変わらない新党でしかなかったからだ。
 それでも国民は新しい顔の民主党に過大な期待を寄せた。結党11年を経て2009年8月の総選挙で民主党は、絶対安定多数を超える戦後最多の308議席を獲得、比例区でもわが国選挙史上過去最多の2984万4799票を獲得し、政権の座を自公から奪い取った。それほど国民が新しい顔の民主党に寄せた期待は大きかったと言える。
 が、基本路線のすり合わせもせずに、「敵の敵は味方」論で一緒になった野合政党がたどる道は、中国の国共合作と同じだった。結果論で言っているのではない。そうしたケースは数えきれないほどの歴史的事実が証明していることは、今さら言うまでもないだろう。
 民主党が政権をとるまではよかった。これも過去の歴史を見るまでもなく、勝利を収めるまでは「敵の敵は味方」なのだから。が、勝利を収めた途端、勝利の果実の奪い合いが始まるのは、これも数えきれないほど歴史が証明している。あれほどの国民の期待を集めた民主党が、いま勢力を4分の1以下に落としてしまった。そのことへの根源的な検証と反省を抜きに、岡田新代表が「原点回帰」を訴えても、国民はしらけるだけだ。
 私は何も「一枚岩の政党にしろ」と言いたいのではない。多様な価値観が混在しないところに民主主義は育たないからだ。ただ、基本路線だけはしっかりしたものを確立しないと、いまの政治に対するタダの不満分子の寄り合い所帯の域を脱することができない。
 そこで岡田新代表に問いたい。「原点回帰」とはどういう意味なのか。民主党結党時の「敵の敵は味方」論に基づく野合政党づくりに戻るということなのか。まさか、そうは考えていまい。だとしたら、岡田代表が言う回帰すべき「原点」とは何を意味するのか。
「原点回帰」といえば、一般的には「初心に帰れ」と同意語だが、その「初心」がただ自公政権を倒すことだけだったら、もう国民はさじを投げている。そもそも民主党政権が誕生する前の1993年8月には小沢一郎氏の画策によって細川連立政権が生まれたが、わずか半年余の短命内閣に終わった。総理になっても、何も自分の思い通りにならないというのが、「お殿様」が総理の椅子を投げ出した理由だった。
 岡田民主党は、いまは政権の座からほど遠い。国民はあらゆるメディアの世論調査の結果からも「自公政権の受け皿になれる野党の出現」を待ち望んでいる。が、国民は二度も苦い思いをしてきた。最初は細川連立政権、二度目は民主党政権。最初の政権は「野合政権」であり、二度目の政権は「野合政党政権」だったからだ。つまり、何も決められない政治には、国民は絶望している。それでも国民は自公の受け皿になりうる野党への淡い期待を捨て切れていない。
 岡田民主党が国民のそうした期待に応えられる政党づくりに成功するためには、「原点回帰」ではなく、なぜ結党の「原点」を間違えたのかの検証と、改めて「原点」を作り直すことを国民に誓い、その「原点」の青写真を早急に国民に示すことしかない。その時、初めて国民はもう一度、「新民主党」に政権を託す気持ちを抱くかもしれない。

やっぱり沖縄の米軍基地は日本の安全保障が目的ではなかった。

2015-01-16 10:21:25 | Weblog
「やっぱり」。……そういう感じがぬぐえない。
 そもそもサンフランシスコ条約で日本が独立を回復した時点で、なぜ沖縄の施政権が日本に返還されず、米軍の占領下に置かれたままだったのかの、きちんとした説明責任を回避してきた日本政府の責任が改めて問われることになる。
 外務省は15日午前、沖縄返還についての日米間の外交交渉文書ファイル41冊を東京・麻布台の外交史料館で公開した。
 沖縄返還が実現したのは1972年5月15日。サンフランシスコ条約が発効して日本が独立を回復したのが1952年4月28日。日本が独立を回復してのちも、沖縄は20年間にわたって米軍の占領下に置かれてきた。なぜアメリカは長期にわたって沖縄を占領し続ける必要があったのか。
 実は日本が独立を回復したのは朝鮮戦争の真っ最中。朝鮮戦争は50年6月25日に始まり、53年7月27日の休戦協定まで続いた。朝鮮戦争の真っ最中に日本を独立させたアメリカの事情についてはここでは述べない。ただ日本の領土である沖縄の占領をアメリカが続けた理由だけ書いておく。
 朝鮮戦争のさなか、ベトナムではフランスからの独立を巡ってインドシナ戦争(1946~54年)が行われていた。先の大戦で疲弊していたフランスはベトナム民族の攻勢に耐え切れず、アメリカに資金・軍事両面での支援を要請、50年にはアメリカ軍がフランス軍への支援を始めた。が、フランスのインドシナ植民地支配の悪質性もあって、アメリカ国内でのフランス軍支援に対する厳しい世論もあり、本格的な支援には至らなかった。そうしたこともあってインドシナ戦争最後の戦いとなったディエンビエンフーの決戦でフランス軍はベトナム軍に大敗、54年4月26日にスイス・ジュネーヴに関係国が集まって戦争が終結した。この和平により、ベトナムは朝鮮と同様北緯17度線を境に南北に分裂、フランスの支配からそれぞれ独立することになった。
 このとき締結されたジュネーヴ協定では2年後の56年には南北統一全国選挙が行われることになっていたが、アメリカは協定を拒否、統一選挙も拒否して55年10月には傀儡政権のゴ・ディン・ジェム政府を樹立して南北分断の固定化を画策した。ゴ政府は南ベトナムのベトミン勢力を激しく弾圧、ベトミン勢力は南ベトナム解放民族戦線を組織し、60年12月にはゴ政権に対して武力攻撃を開始して長期にわたるベトナム戦争が始まった。
 このジュネーヴ協定が締結された時期の54年、アメリカではアイゼンハワー大統領とダレス国務長官が中心になって、冷戦時代におけるアメリカの基本的な外交戦略を決定していた。それが、いわゆる「ドミノ理論」である。
 ドミノ理論とは、一国が共産主義化するとドミノ倒しのように近隣諸国が次々と共産主義化していくという、当時のスターリン・ソ連の共産主義勢力の拡大政策に対抗するための理論である。実際、先の大戦後、東欧諸国は次々に
共産主義化し、ソ連の勢力圏に組み込まれていった。同様にアジアでもドミノ
理論が実現した場合、中国→朝鮮→ベトナム→ラオス→カンボジア→タイ→マレーシア→インドネシア→ビルマ(現ミャンマー)→インド、と次々に共産主義化しかねないという考え方が、アメリカの基本的外交戦略の根幹になる。アメリカが沖縄にしがみついてきた基本的理由は、そこにあった。
 そのため沖縄県民の悲願でもあり、日本政府にとっても沖縄返還は歴代政府の大きな課題でもあった。沖縄返還が実現したのは、すでに述べたように72年である。が、56年度の『経済白書』はその結びで「もはや戦後ではない」と高らかに宣言した。日本経済は確かに朝鮮戦争特需で奇跡的な復興を成し遂げつつあったが、まだ高度経済成長期には入っていない時期だ。しかも沖縄はいぜんとしてアメリカの占領下にあった。日本が独立国家としての尊厳も矜持も投げ捨てた瞬間でもあった。そのことを私たち本土の人間も沖縄県民も、一生忘れてはいけない。
 先を急ぐ。このほど明らかになった外交文書によれば、返還前の65年8月、日本の総理として戦後初めて沖縄を訪問した佐藤栄作首相が、那覇市で行われた歓迎式典で行う予定の演説内容に関し、アメリカ側が強く異議を唱え、沖縄の安全保障上の重要性を盛り込むよう要求していた内容が判明した。
 佐藤首相が沖縄を訪れたのは8月19日。その2日前の17日に日本政府は米側に演説の原案を示していた。その内容に米側が注文を付けたのである。
 佐藤首相は訪沖縄当日、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております」と述べた。が、歓迎式典での演説では「安保条約に基づく日米盟邦関係、沖縄の安全保障上の役割の重要性および米国の施政下でも経済的社会的進歩のあった事実」に言及させられた。実際に佐藤首相が米側の要求を受け入れて修正演説した部分は以下である。

 わが国は、日米相互協力及び安全保障条約によって米国と結ばれており、盟邦として互いに相協力する関係にあります。また極東における平和と安全のために(※この表現が米軍沖縄基地のアメリカにおける位置づけを明白に物語っている)、沖縄が果たしている役割はきわめて重要であります。(※この後取ってつけたように)私は沖縄の安全がなければ、日本本土の安全はなく、また日本本土の安全がなければ沖縄の安全もないことを確信しております。(以下略)

 これまで、沖縄の米軍基地が日本本土の安全保障や抑止力になっているという、軍事専門家による論理的な解明は一度もされていない。
 当り前の話だ。沖縄の米軍基地は、もともとはドミノ理論に基づいて極東地
域への共産主義勢力膨張に対する防波堤として位置付けられてきたことはすで
に明らかにしてきた。森本元防衛相は民放のテレビ番組で普天間基地移設問題に関し、「移設先が辺野古でなくても九州の鹿児島・長崎あたりだったら、抑止力は多少低下するが問題ないと思う」と、あたかも沖縄県民が示した民意に同調するかのような発言をしたことがあったが、沖縄だろうと九州だろうと、米軍基地はもともと日本本土にとっての抑止力として設けられているわけではないことが、今回の外交文書公開によっても明らかになった。
 普天間基地の辺野古に限らず、沖縄県内移設に対して沖縄県民はNOという意思を、沖縄県知事選においても、また先の総選挙においても示した。それでも沖縄県民の民意を無視していいのか、ということについて国民の意志を安倍内閣は問うべきだろう。もし、日本全国の国民が「沖縄の米軍基地は日本の国益に合致する。沖縄県民は日本全体のために犠牲になってしかるべき」という民意を示したなら、それはそれで日本国民の総意として私も、日本人であることをひそかに恥じつつ認めざるを得ない。そのとき沖縄県民は、「琉球人」として民族自決の権利があることを、同時に私は認める。

イスラム過激派同士は、なぜ「残虐性」を競い合うようになったのか?

2015-01-12 08:18:21 | Weblog
 また痛ましい事件が起きた。ナイジェリア北東部の市場で10日、10歳前後とみられる女児に付けられた爆弾が爆発し、少なくとも19人が巻き添えを食って死亡したという。負傷者も数多いという。現地の警察当局は、同国でテロを繰り返しているイスラム過激派「ポコ・ハラム」の犯行とみているようだ。
 少女は市場の入り口付近で金属探知機による身体検査をされている時、体に巻きつけていた爆弾が突然爆発した結果だという。日本でも、10歳くらいの子供が、親の虐待や学校でのいじめに耐えかねて自ら死を選ぶと行ったケースは、ひょっとしたらあるかもしれない。が、何の関係もない人たちに対する自爆テロを、自分自身の意志で10歳くらいの子供が行うとは、私にはとうてい理解できない。
「イスラム過激派」とひと言で言われるが、一枚岩ではないようだ。女学校を襲撃した「イスラム国」の過激派に対しては、かつては過激派のシンボル的存在だったタリバーンが非難声明すら出した。イスラム過激派同士の主導権争いが、突出した一部の極過激派のテロ行為に拍車をかけているとしたら、悲しみを通り越して怒りを覚えざるを得ない。
 ウィキペディアで調べてみたが、いわゆる「イスラム過激派」は世界の活動地域ごとに異なった集団を形成し、それぞれが独自の活動を行っているようだ。宗教は元来排他的で、他の宗派を容認することはありえない。それはそれでやむを得ないことだが、宗教が政治的目的と一体化すると悲惨な状況が生まれる。   
 日本でも戦国時代、仏教徒が武家勢力に対抗するため、武装して権勢を誇ろうとした時代があった。全国各地で大小名の武家勢力と仏教徒勢力の武力衝突が生じ、全国統一の野望に燃えていた織田信長は仏教徒の影響力を封じ込めるため、あえて異教のキリスト教の布教を許可し、仏教徒勢力を抑えようとした。が、それでも仏教徒勢力との激突は避けられず、ついには比叡山に対する総攻撃に至り、武家勢力の支配権が確立した。
 信長の死後、豊臣秀吉はキリスト教の蔓延を好ましく思わず、キリスト教の布教を禁止する。その政策を引き継いだのが徳川家康で、より過激なキリシタン弾圧政策に出る。日本における武家勢力と宗教勢力の武力抗争は、天草四郎率いるキリスト教武装集団を壊滅させた島原の乱(1637年12月~38年4月)で終焉した。
「近親憎悪」という言葉があり、「兄弟は他人の始まり」という言葉もある。日本でも新左翼の2大過激派グループの中核派と革マル派が血で血を洗う抗争を行った時期がある。この両派は、もとは革命的共産主義者同盟という一つの極左集団の分裂によって生じた。
 イスラム教についての私の知識は、中学校時代に習ったハムラビ法典についての「目には目を、歯には歯を」くらいのことしかない。
 その考え方が、犯罪抑止力としての範囲なら効果の大きさを否定はしない。が、意見や考え方に対する敵対行為として拡大解釈されると、こんにちのような事態が生じる。
 イスラム教徒においてはジハードが基本的な義務の一つとされているようだ。ジハードは、本来「イスラム教の布教のために努力せよ」という意味だったようだが、「異教徒との戦い」「聖戦」と拡大解釈されるようになり、それが異なる宗派集団や政治勢力などへのテロ行為の正当化につながったようだ。
 いま世界各地で頻発しているイスラム過激派のテロ行為は、「イスラム国」の突出したテロ行為の刺激を受けていることは疑いを容れないだろう。ネット社会における「アナウンス効果」の一つと言えなくもない。このブログの冒頭で書いた10歳くらいの少女の「自爆テロ」も、「過激性」を競い合う現在のイスラム過激派の流れの中で生じている。
 なぜイスラム過激派は、テロ行為の過激性・残虐性を競い合うようになったのだろうか。その理由が、メディアをいくら見ても読んでも分からない。私たちの常識というか、理解できる範疇をはるかに超えてしまっているからだ。
 日本でも暴走族の若者同士が、対立して抗争に至ったり、暴走競争に走ったりすることがあるが、そういうレベルで理解できる話でもない。イスラム過激派のテロ行為は、いわば日本の暴走族が隊列を組んで、歩行者天国で賑わう人ごみに突っ込むようなものだ。いくら暴走族でも、そこまではやらない。
 信教の自由は、言論の自由とともに人間社会にとって最も重要視されるべき自由の一つではある。が、ハムラビ法典が教える「目には目を、歯には歯を」を教義とするならば、言論には言論を以って反撃すべきだろう。イスラム過激派の中から「私たちのやり方は間違っていたのかもしれない」という声が一日も早く生まれてほしい。

北朝鮮は、なぜ核を持つ「個別的自衛権」を否定されなければならないのか?

2015-01-07 08:16:15 | Weblog
 このブログは本来5日に投稿する予定だった。そのため4日から5日早朝にかけて書き上げていた。が、2日に投稿したブログがフィバーし、投稿時期を延ばさざるを得なかった。アクセスランキングが2日3263位、3日1239位、4日892位と、通常ではありえない状態になったからだ。5日にようやく通常の状態に戻ったため、7日に投稿することにした。いまこの記事を書いているのは6日。ランキングは翌日にならないと分からないので、ようやく7日に投稿できる運びになった。
 実は今日(7日)投稿しようとしたのだが、6日になって再び閲覧者が急増した。が、すでに書きあげたブログが賞味期限切れになってしまうので、まだ2日のブログを読んでいない方には申し訳ないが、投稿に踏み切ることにした。
今日のブログは、国際政治を純粋に論理的に考えるということの意味だけを基準に書いた。多くの人たちやメディアは感情論でものを考える習性がついてしまっているが、国際政治は感情論で動いているわけではなく、冷徹なパワー・ポリティクスで動いている。そのことを特にメディアの方たちはよく理解してもらいたい。どういう主張が読者や視聴者に支持されるかではなく、日本の将来を確かなものにするためには、どういう主張をすべきかだけを純粋に論理的に考えてほしい。それが戦時中に国民を誤らせたメディアが、いま取るべき姿勢だと思うからだ。
 もともと2日にブログを投稿する予定はなかった。正月だし、読者も私のブログに目を通したりしないだろうと思っていたからだ。が、元日のNHKスペシャルは、朝日新聞以上の行為と思わざるを得なかったため、あまり読まれないだろうと思いつつ投稿した。私のブログは前にも書いたが、閲覧者数が訪問者数の3~5倍に達するのが常態化している。訪問者数は何台のパソコンまたはスマホなどで私のブログが読まれたかの数を指す。ブログ・ランキングは訪問者数のカウントで決められるので、閲覧者すなわちブログの読者数はランキングに反映されない。まして1台のパソコンで私のブログを数人が続けて読んだ場合は、実際の読者数とは関係なく閲覧者としては1人としかカウントされない。スポーツ選手やタレントなど常にランキング上位を占めるブログは、組織的に読まれることは考えられないので、閲覧者数≒訪問者数、と考えてもいいだろう。そういうことを考慮に入れると、2日に投稿した私のブログが、メディア界とくにNHKにとっては大変なショックだったのだと思う。そういうわけで、このブログの投稿が遅れた。
 遅れついでに、付け加えておくことがある。毎日新聞の配信によると6日、小保方晴子の不正研究が確定したという。同紙によれば「研究不正が認定された職員は懲戒対象になるが、小保方氏は昨年12月21日付で理研を退職したため、実際の処分は受けない」という。私は12月22日と26日の2回に分けて『STAP騒動はなんだったのか?』と題するブログを投稿している。そのブログで小保方の「退職願を受理した理研は、もはや解体する以外に救いようがない」と書いた。メディア界は総力を挙げて、理研の解体に取り組むべきだろう。

 米朝間の緊張が高まっている。
 もともとは、北朝鮮が仕掛けたサイバー攻撃に端を発したと言われている。少なくともアメリカは、そう確信している。そのためオバマ大統領は北朝鮮に対して様々な制裁を行い、「テロ支援国家」の再指定も視野に入れているようだ。とりあえずオバマ大統領は北朝鮮の政府機関や企業、それらの関係団体及び関係者への金融制裁を加えることを決定した。
 この制裁について、ホワイトハウスのアーネスト報道官は「対抗処置の第1弾」としており、追加的制裁もほのめかしている。また上下両院で過半数を占めている共和党も、さらなる制裁を加えるべきだと主張しているようだ。事実上、北朝鮮のサイバー攻撃に手を貸した形になっている中国に対しても、共和党のロイス外交委員長は名指しこそ避けたものの「北朝鮮を支援するアジアの金融機関などにも制裁を科すべきだ」とする声明を出しており、オバマ大統領としても北朝鮮に対する厳しい姿勢を後退するわけにはいかなくなっている。
 それに対して北朝鮮は、当然のことだが猛反発している。金正恩第1書記は元日に「新年の辞」のテレビ演説を行い、韓国・朴大統領に「雰囲気、環境が整えば、首脳会談もできない理由はない」とラブコールを贈る一方、北朝鮮に対する攻勢を強めるアメリカに対しては「敵視政策と侵略策動から大胆に政策転換すべきだ」と主張、「アメリカと追随勢力は、我が国の核抑止力を破壊できないと見るや、卑劣な人権騒動に躍起になろうとしている」と、国連での北朝鮮人権決議採択を非難。さらに「核抑止力を固めて国を守ることは我が国の正当な権利だ」とも強調した。
 また4日の朝鮮中央テレビは、「アメリカは制裁が正反対の結果を招いたことを知るべきだ」と猛烈に反発した。つまり北朝鮮は、アメリカの制裁が北朝鮮国民の反米感情をさらにあおり、核開発に拍車をかける結果を招いた、と言いたいようだ。
 アメリカは国内で、アメリカ国民が自分の安全を自分で守る権利として銃の保持を認めている。それも、危険を感じる具体的な状況になくても、万が一、襲われたときの正当防衛手段として銃を保持する権利を認めている。母親が2歳の幼児を連れてスーパーに買い物に行くにも銃が手放せないらしく、その銃をおもちゃのようにいじっていた幼児が暴発させ、母親が死亡する事件も3日報道された。それでも自己防衛のために銃の保持を規制しようとしないのが、アメリカのもう一つの顔でもある。
 私は北朝鮮の体制を擁護するつもりもないし、北朝鮮の核武装を支持するつもりもない。が、少なくともアメリカには北朝鮮の核武装を非難する権利はない。北朝鮮が、アメリカの核を脅威と感じたら自国の防衛のために核を持つ権利はだれも否定できない。日本が、もしアメリカの核の傘で守られていなかっ
たとしたら、北朝鮮や中国の核を脅威と感じない政治家は、国際社会を支配しているパワー・ポリティクスの原理を知ら無すぎるのか、鈍感すぎるかのどちらかだ。
 アメリカをはじめ核不拡散条約で認められている米・露・中・英・仏の5か国だけが、自国の安全のために核を保有する権利があるという考え方に、私はくみできないだけだ。「憲法9条が他国の核攻撃を防いでいる」などと考えている人は、いったい世界のどの国の国民が日本の憲法を知っているか、よーく考えたらいい。その人は例えばアメリカの憲法の1か条でも知っているのか。日本人が他国の憲法を知らないのと同様、外国人も日本の憲法のことなど頭の片隅にもないことを知るべきだ。
 とくに日本は世界で唯一の戦争被爆国だ。広島・長崎に原爆を投下して数十万人の命を奪ったアメリカは、いまだに日本国民に謝罪していない。「①戦争を早く終結させるため②米国兵士の犠牲を増やさないため」を原爆投下の正当性の口実にしている。日本のメディアは、そのアメリカの「口実」の身勝手さや論理的破綻を、一度も指摘したことがない。敗戦と同時に、それまでの「鬼畜米英」姿勢から一夜にして「親米英」に転換できる恐るべき軽業師だから、無
理はないかもしれないが…。
 はっきり言っておく。アメリカの「原爆投下正当論」は論理的に100%間違っている。私はここでは人道的立場からではなく、純粋に論理的立場からアメリカの正当性論を否定してみる。
 まず、戦争を早期に集結させたかった、というのは本音だろう。早く日本を無条件降伏させなければ、日本はソ連の侵略を受けて共産化しかねないという危惧を抱いただろうことは、対独・伊で共同作戦を連合国軍としてとった結果、東欧が軒並み共産化してしまった経緯からも、容易に想像できる。
 もともとは、ポツダム宣言の原案は1943年1月に行われたカサブランカ会談(米ルーズベルト大統領、英チャーチル首相、ソ・スターリン書記長)で、日独伊の枢軸国に対して無条件降伏を要求したことに端を発する。その場で枢軸国に対して強く無条件降伏を主張し、会談をリードしたのがルーズベルトだったと言われている。
 その後、同年11月17日に発表されたカイロ宣言に、ルーズベルトの意向がそのまま盛り込まれた。世界戦史において、相手国に「無条件降伏」を要求したケースは皆無である。ただし、降伏する機会を与えずに、占領して自国の領土にしてしまったケースはたくさんある。戦争相手国に、降伏の機会を与えながら、「無条件」としたケースはこれまでになく、実際、チャーチルやスターリンは「条件を明確にしないと相手国は降伏できない」と主張したようだが、ルーズベルトが押し切った。
 少し時系列を無視するが、米軍が広島に原爆を投下(45年8月6日)、長崎に原爆を投下(9日)した翌10日の未明に日本政府は御前会議を開き、国体維持を条件とするポツダム宣言受諾を決定、連合国側に申し入れているが、アメリカから「条件付きの降伏は認められない」として拒絶されている。
 話を戻す。カイロ宣言から1年3か月後に開かれたヤルタ会談(45年2月)で、ルーズベルトはスターリンに対してソ連に南樺太・千島列島・満州における権益を与えることを条件に、ソ連軍が対日参戦するよう要請した。ここでも時系列を無視させていただくが、安倍内閣が竹島・尖閣諸島を「日本の領土」と教科書に明記させながら、北方四島については知らんぷりなのは、ヤルタ会談でルーズベルトがスターリンに言質を与えていたことが背景にある。
 このとき、ルーズベルトはすでに重い病に侵されていたようだ。実際、ヤルタ会談の2か月後の4月12日、ルーズベルトは脳卒中で急死している。ヤルタ会談時のルーズベルトはすでに正常な判断力を失っていたという説もある。が、この時期、まだナチス・ドイツは抵抗を続けており、ソ連軍は東欧にくぎ付けになっていて、スターリンはルーズベルトの対日参戦要請に応じられる状況になかった。ルーズベルトの死後、副大統領だったトルーマンが急きょ大統領に就任したが、トルーマンはそれまで外交畑を歩いたことがなく、戦争政策も故ルーズベルトのブレーンの言いなりになったと言われている。
 5月7日、ドイツが無条件降伏したが、日本政府はこの時期揺れていた。9日には徹底抗戦を宣言しながら、14日には最高戦争指導者会議を開いてソ連に和平のための交渉を依頼することを決定している。かと思うと、6月に入り6日には最高戦争指導者会議を開いて本土決戦を決議しながら、7月10日には戦争最高指導者会議を再度開いてソ連に終戦あっせん依頼を行うために近衛文麿氏をソ連に派遣、13日に正式に申し入れたが、スターリンは即答せず、18日になって拒否している。この時期、いっさいぶれなかったのは、アメリカだけだったかもしれない。
 アメリカが日本領土への上陸作戦を行ったのは4月1日からの沖縄戦が最後である(サイパンや硫黄島など小規模の地上戦はその後もあったようだ)。米軍はノルマンディ作戦でも大きな犠牲を出したが、沖縄戦でも軍・県民挙げての抵抗にあい、6月23日に日本の沖縄守備隊が全滅するまで太平洋戦争で最大の犠牲者を出した。
 沖縄における日米両軍及び民間人の戦没者は約20万人とされる。もちろん日本側の犠牲者が圧倒的に多かったが、米軍も死者・行方不明者12,520人を数え、負傷者は72,000人に達した。大きな犠牲を払っても米軍が沖縄を全面的な支配下に置きたかったのは、日本本土攻撃のための航空基地と補給基地の確保が絶対に必要だったからだ。実際、沖縄戦の後、小規模な局地戦を除いて米軍は日
本攻撃のための地上戦は行っていない。沖縄を空軍基地としてB29による本土空襲に全力を挙げている。
 日本側は勝手に「本土決戦」を叫んでいたが、アメリカは日本本土への上陸作戦を行うつもりはまったくなかった。もし、米軍が日本本土への上陸作戦を考えていたとしたら、何らかの作戦計画が文書で残っているはずだ。沖縄攻略後にアメリカが行った対日戦争作戦は、東京や大阪、横浜などの大都市だけでなく、地方の中小都市に対しても行ったB29による空襲だけである。その歴然たる証拠は全国に作られた防空壕だ。米軍との地上戦に備えるためだったら、防空壕などまったく必要ない。
 つまりアメリカが今日でも主張している「米兵の犠牲者をこれ以上出さないため」という口実は、まったくのデタラメなのだ。現に、終戦後の日本は首都・東京だけでなく、大半の大都市や中小都市に至るまで、すでに廃墟と化しており、米兵の犠牲者など出す必要はアメリカにとってはまったくなかった。そういう日本の状態は、あらゆる証拠写真が示している。
 では、なぜアメリカは、いわば病人に例えれば瀕死の重病状態に陥っていた
日本に、あえて原爆を投下せざるを得なかったのか。
 理由はただ一つ。アメリカの要請に応じてソ連が対日参戦に踏み切る準備を整えつつあったからだ。
 実は当時のアメリカでは厭戦気分が国内に充満しており、ヨーロッパでのナチス・ドイツの攻勢に対しても当初は「われ関せず」の立場をとっていた。いわゆる「モンロー主義」である。当時のルーズベルト大統領は、大統領選挙で「諸外国の紛争には関与しない」ことを公約にして当選したくらいだった。そういう意味では「眠れる獅子」とは清国のことではなく、アメリカと言うべきだろう。
 また当時世界唯一の共産主義国家だったソ連もまたヨーロッパやアジアでの国際紛争に「われ関せず」の立場をとっていた。ソ連はドイツとポーランドの支配権を巡って争っていたが、1939年8月には独ソ不可侵条約を結びヨーロッパ諸国に衝撃を与えたくらいだった。またアジア地域においてもソ連は南下政策の野望を捨ててはいなかったが、1941年4月に日ソ中立条約を結び、「眠れる獅子」を決め込んでいた。
 が、ドイツが41年6月、突如独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵入し始めた。日本政府はドイツに抗議したくらいである。当初、ドイツは快進撃を続けたが、スターリングラードの戦いでソ連の反撃を許し、戦局は一転する。ソ連軍はドイツ軍を破っただけでなく、一気にドイツの占領地域にまで進入していく。
 こうしてヨーロッパとアジアでの戦争が拡大していく中で、アメリカも拱手傍観しているわけにはいかなくなった。そこに日本軍の真珠湾攻撃が重なった。米国内の厭戦気分は一気に吹き飛んだ。そうした中でイギリスがまずソ連と対独戦で協力体制を作り、それにアメリカも加わる。結果論と言われれば、それまでだが、アメリカの参戦によってソ連は東欧諸国を共産圏に組み込むことに成功したと言えなくもない。
 アメリカは対日戦争では当初、手を焼いていた。真珠湾攻撃の成功をはじめとして、日本軍は対米戦争においても連戦連勝を重ねた。
 太平洋戦争での戦局が一変したのはミッドウェー海戦だが、独ソ戦におけるスターリングラードの攻防ときわめて類似している。ドイツと同様、日本軍はミッドウェー海戦以降、敗北に敗北を重ねていく。が、当時の日本人は一種の「宗教団体」化していた。「お国のために死ぬこと」を名誉とさえ考えていた。
 沖縄戦以降、事実上、地上戦をやめていたアメリカだが、「竹槍でも戦う」という自暴自棄的状況にある日本にはさすがに手を焼いていた。しかも東欧の共産化に成功したソ連が、すでに反故と化していたルーズベルトの要請を口実に対日参戦すべく、ヨーロッパ戦線にくぎ付けになっていたソ連軍を根こそぎ満
州国境に移動させ始めた。この時期を歴史年表で俯瞰してみる。

43年11月 テヘランでルーズベルト・チャーチル・スターリンが会談。
44年 6月  連合軍、ノルマンディ上陸作戦開始。
45年 2月  ヤルタ会談(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)。
   5月  ドイツ、無条件降伏
   7月17日 ポツダム会議(トルーマン・チャーチル・スターリン)。
   8月6日  広島に原爆投下。
   8月8日  ソ連、対日参戦。
   8月9日  長崎に原爆投下。

 これ以上の説明は不要だろう。ソ連の日本侵攻を防ぐために、1日も早く日本を無条件降伏させたかったのが、アメリカの原爆投下の真の目的だった。そういう意味では「戦争の早期終結」という理由は、考えようによってはあながち間違ってはいない。ただ、何の戦争責任もない一般市民を大量虐殺してまで、戦争を早期終結させたかったアメリカの自分勝手さは、はっきりさせておかなければならない。
 これまで何度も書いてきたように、私は反米主義者ではない。「世界で一番好きな国はどこか」と聞かれたら、躊躇なく「アメリカだ」と答える。が、私は「あばたもえくぼ」に見える人間ではないから、歴史の検証は枝葉末節にとらわれず、360°の視野で俯瞰する癖がついているだけだ。残念ながら、日本のメディアには、そういった習性がないようだ。というより、前回のブログで書いたように、日本のメディアには歴史を語る資格がもともとない。
 でも、私は無意味な作業をやっているとは思っていない。これだけメディアに手厳しい私のブログが、メディア関係者の多くから読まれているということは、そのうち必ず実る時期が来ると信じているからだ。そうとでも思わなければ、1円にもならないこんな作業をする意味がない。
 
 

メディアに「戦後70年」を語る資格はあるのか?

2015-01-02 09:35:31 | Weblog
 今年は「戦後70年の節目の年」だという。10年刻みの区切りが節目なのか。それとも、戦後70年を経て、日本が戦後の歩みに一区切りをつける時が来たという意味なのか。
 1月1日、NHKは総合テレビ午後5時からNHKスペシャルを放送した。終戦までの東京の歴史を、当時の白黒映像をカラー化して放送した。白黒映像をカラー化する技術は20年以上前に開発されていたが、コストがかかりすぎるということで実用化には至らなかった(短時間のカラー化はされていたかもしれない。NHKの映像もすべてをカラー化したわけではない)。
 その放送の中で、NHKは「1938年が節目の年になった」と位置付けた。新鮮な歴史認識の視点で、過去の歴史観を塗り替えようとしたと言うのであれば、その挑戦意欲は買うが、残念ながら論理的な検証とは言えない。
 1938年に何があったか。
 これまでの戦争史観では、2.26事件(1936年)が、日本が軍国主義への、坂道を転がり落ちる雪だるまのような急傾斜への節目とされてきた。2.26事件とは、皇道派青年将校らが企てたクーデター。たった1400余人で国家改造を実現しようとしたのだから、たった一人で自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んで自衛隊の決起を促そうとした三島由紀夫と、大差のないバカげた行動にすぎなかった。
 しかし、2.26事件が歴史の転換点を作ったことは疑いを容れない。青年将校らの行動がメディアの報道によって国民の同情を集め、それが日本の流れを大きく変えることになった。軍部、とりわけ陸軍がそうした空気の変化を利用して、軍国主義への道を突き進んだこともすでに検証された歴史的事実である。
 閉鎖された情報化社会においては、情報網を握ることが権力を奪取しようとする者にとっては最も重要な手段である。いま北朝鮮や中国の権力者たちが、いかにネット社会から閉鎖的情報空間を守ろうと躍起になっているか、そのことを考えただけでも理解できるだろう。もし北朝鮮や中国が、ネット社会を完全に解放したら、いかに軍部を掌握していたとしても、権力構造は一瞬にして崩壊する。民衆が立ち上がったら、軍部はいとも簡単に権力に反旗を翻すことは、歴史がやはり証明している。
 翻って、三島由紀夫が切腹自殺を遂げたとき、しらけきっていた自衛隊員に対して、メディアが一斉に批判の嵐を浴びせていたら、自衛隊を巡る空気はその瞬間一変していた。2.26事件も、メディアが「お前ら、アホか。たった1400人余で何ができるというのか。織田信長を本能寺に襲って、いったん天下を掌握したかに見えた明智光秀は数万の軍勢を率いていた。どうように、大義のない反乱は単なる暴動にすぎない」と、こっぴどく批判していたら、その後の日本がたどった歴史はまったく違うものになっていたはずだ。
 日本の軍国主義への傾斜を掃き清めた「露払い」は、はっきり言って当時の
メディアだった。
 権力とメディアが癒着したら、国民は彼らが吹く笛と太鼓に踊らされることは、これまた歴史が証明している。

 1938年の話に戻る。その前年37年7月7日、盧溝橋で日中軍が軍事衝突し、日中戦争が始まった。戦線は上海、南京と拡大し、翌8月には日本軍は対中全面戦争に突入していた。もう日本は後戻りできないところまで進んでしまった。メディアが「大義のない戦争だ」と批判していたら別だったが…。
 では1938年に何があったというのか。歴史年表を頼りに振り返ってみよう。
 1月、日本政府は対中和平交渉を打ち切り「国民政府(※蒋介石政権)を相手にせず」と声明。
 4月、国家総動員法公布(5月5日施行)。
 12月、近衛首相、日中国交調整につき善隣友好・共同防共・経済連携の3原則を発表。
 めぼしい事件はそのくらいだ。はっきり言って日本政府も揺れていた。1月には「国民政府を相手にせず」と強硬姿勢を打ち出しながら、12月には事実上対中和平を呼びかけている。私は歴史家ではないので、詳細な検証は歴史家にお任せするが、おそらく英米の干渉によって、日本政府も和平への道を探らざるを得なくなっていたのではないだろうか。これまで、私のブログでの、「事実」を根拠としない論理的推測はすべて結果によって検証されている。
 この年を、なぜNHKは「節目の年」としたのか。
 実はNHKは白黒映像のカラー化で、「この年の国民の軍国主義への傾斜」を放映した。本当にその映像が、その年のものであったかどうかは、定かではない。メディアが「その年の映像」と位置付ければ、私たち視聴者はそれを「事実」として受け入れるしかない。メディアが国民を思想操作しようとすれば、このように赤子の手をひねるように簡単だ。意図的に「思想操作」しようとしたのではなくても、言論の自由の名のもとにねつ造映像を放映されても、それがねつ造であることを視聴者が見破ることは、容易ではない。
 なおNHKが「節目の年」とした38年以降、日本の政界はどういう道をたどったか。

 39年4月、政友会分裂。
    7月、日英会談(8月、決裂)。
       米、日米通商条約破棄を通告。
    8月、日本、ドイツに対し独ソ不可侵条約は防共協定違反と抗議。
    9月、日本、欧州戦争不介入を声明。
   11月、日米会談開始。
 40年2月、民政党・斉藤隆夫議員が衆議院で戦争政策批判(同議員は3月、議員を除名されたが、メディアはこの民主主義の破壊行為に対してどう報じたか、メディア自身による検証はない)。
    3月、聖戦貫徹議員連盟結成。
    7月、社会大衆党解党。日本労働総同盟解散。内務省、左翼的出版物に対する弾圧強化。
    8月、民政党解党(全政党の解党終了)。
    9月、日独伊3国同盟成立。
   10月、大政翼賛会発足。
   12月、情報局官制公布。以降、メディアに対する言論統制が始まる。

 本来、日本を占領したGHQは、日本の軍国主義への道を掃き清めた「露払い」役のメディアを解体すべきだった。が、そうしなかった。なぜか。
 日本に健全なメディアが残っていたら、おそらく軍部に協力したメディアは一掃されていた。が、メディア自身が自分で自分の首を絞めた結果、メディア自身が自主性を完全に失っていた。メディアは自分自身が生き残るため、操をGHQに売ることにした。GHQにとっても、メディアの「売春行為」は歓迎すべきことだった。占領政策を成功させるためには、メディアの協力が欠かせないからだ。
 クーデターを成功させるためにはメディアを抑えることが絶対必要条件であることはすでに述べた。メディアが操を売った経緯を、私は知っているわけではない。GHQが与えたエサにメディアが飛びついたのか、それともメディアがGHQにすり寄ったのか…あるいは日本的な表現で言えば「阿吽の呼吸」でそうなったのか。
 いずれにせよ、メディア自身に、自己検証抜きの「戦後70年」を語る資格はない。

 最後になったが、新年のご挨拶を。「今年もよろしく」。
 「おめでとうございます」とはとても書く気にはなれないので…。