小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

何度でも問うぞ!  オスプレイの「安全性」に対する疑問はまだまだある。

2012-09-30 09:36:39 | Weblog
 オスプレイV22の普天間基地への移転が迫ってきた。まだ安全性が確認されていないのにである。
 すでに投稿したブログ記事『緊急告発! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』(8月15日投稿)、『オスプレイ事故の「調査結果報告書」で米国防総省は墓穴を掘った」(8月16日投稿)で私はオスプレイV22型が開発途上であって実用運用にはまだ安全性が十分確認されたとは言えないことを指摘した。
 その後2000年12月には、初代オスプレイ大体の初代隊長が予定されていたキース・スウィーニー中佐(42歳)が操縦し、クリントン大統領の専用ヘリコプターの操縦士を3年間にわたって務めてきたミッチェル・マーフィー少佐が副操縦士の任に就いていたオスプレイが「メーデー」を発信した直後に墜落して操縦士・副操縦士を含む乗員4人が全員死亡するという、米海兵隊史上例を見ない大事故を生じていた。
 ここで私があえて「大事故」と書いたのは事故の規模、惨事や被害の大きさを意味してのことではない。これだけの、米海兵隊が誇る超一流のパイロットが二人も搭乗・操縦していて墜落、といった最悪の事故を起こしたケースは米海兵隊史上空前だっただろうと思うからである。
 当然米国内でもオスプレイ計画は無謀だという声が巻き起こった。にもかかわらず、米国防総省はオスプレイの開発をやめるどころか、膨大な防衛予算を投じ、開発を進めてきた。そしてようやく実用配備できるとの確信を得て配備計画を作成していたのがV22型である。この計画を成功させるためには、米海兵隊としては絶対に事故を起こしてはならなかった。当然海兵隊の中でも選りすぐりのパイロットに試験飛行をさせてきたはずだ。
 にもかかわらず今年に入って4月11日にはモロッコで墜落事故を起こし、乗員4人のうち2人が死亡、2人が重傷を負う事故を起こした。
 さらに6月18日には米フロリダ州で訓練中のオスプレイが墜落、乗員5人が負傷した。幸い死者は出なかったが、米国防総省にとっては想定外の事故であった。
 その後も、墜落ではなかったが、計器が異常信号を発しオスプレイが不時着したケースも生じた。
 当然米国防総省は事故原因の解明を「いちおう」行った。原因分析の結果は「操縦ミス」つまり人的ミスであり、オスプレイの安全性に影響するものではないという発表だった。この「機体自体には欠陥がない」という発表の根拠が全く明らかにされてはいない。ただ「パイロットが禁止されている行為を行った」ことが墜落の原因で「だから人的ミスだ」という。
 自動車事故について考えてみよう。『交通安全白書』(内閣府。国土交通省の『交通白書』とは別。『交通白書』も自動車事故の推移を発表しているが、データはいずれも警察庁資料に基づいており、『交通安全白書』のほうが交通事故に特化した白書だけにより詳細であるため『交通安全白書』の記載をベースにした。なお警察庁も「警察白書』を出版しており、『交通白書』も『交通安全白書』も警察庁資料に基づいて書かれており、まさに縦割り行政の無駄の典型の一つと言っていい」によれば、自動車事故は自動車が普及し始めた昭和30年代半ばから年々増加し、約10年後にいったんピークを迎える。
 その後いったん急減するが、昭和53年を底に再び増加に転じ、平成16年には100万台寸前まで達したが、その後は再び減少に転じ平成23年には16年比30%減の70万台未満になった。これは危険運転致死障害罪の新設による飲酒運転の激減、自動車メーカーが事故防止策に全力で取り組んできたことによる安全性能の向上、警察による交通違反の取り締まり強化が大きな効果を生んだと考えられる。
 またこれも重要なデータだが、平成23年度における年齢層別自動車運転事故死亡者数はまだ運転技術が未熟な16~24歳の若年層が180人を数えた後は一気に減少し、25~29歳では82人、さらに30~64歳ではほぼ30~40人で推移したあと65歳以上になると今度は急増して561人を数え、全年齢層別の死亡者数の38.9%に達している。なおこのデータが絶対的に信頼できるとは考えられないことだけ指摘しておく。このデータをオスプレイの未完成度の証明手段として利用する以上、データが不完全であることも明らかにすることがジャーナリストの基本的スタンスであるべきだと思うからだ。
 このデータの不完全制は次の2点である。
1.64歳までは5歳単位で年齢層を区分しているのに、65歳以上は5年単位の区分で死亡者数を調査していないこと(おそらく調査しているはずで、警察庁が何らかの意図を持って65歳以上の高齢者をひとくくりにしたデータしか公表していないのだと思う)。
2.各年齢層別の有運転免許者数を明らかにしていないこと。つまり公表しているのは死亡者数のみで各年齢層別の有運転免許者数も明らかにすれば、各年齢層別の死亡事故率が明白になる。そうすれば各年齢層別の運転免許更新の制度をより合理的なものに改正することが可能になり、自動車事故を激減させるきわめて有効な手段になりうる。
 いずれにせよ、こうして自動車事故は年々減少傾向を示してきたが、一方65歳以上の高齢者の交通事故が年々増加している。私の予想だが、いわゆる「団塊の世代」が65歳以上の高齢者(これは警察庁が勝手に定義した高齢者。一般には70歳から高齢者としての扱いを受けている)が急増する来年から事故件数は一気に増加傾向に再突入するだろうと思う。そうした事態を予測した私は2008年5月10日付で警察庁長官宛に高齢者免許更新のあり方について送付した文書があるので(かなりの長文)、後に公開したい。
 また飲酒運転など悪質な交通法規違反に対する罰則が強化された結果、飲酒運転による事故件数が激減し、平成13年度の事故件数に比べ23年度には77.8%も減少したという実態が明らかにされている。
 簡単に自動車事故件数の推移について述べたのは、この推移がオスプレイの完成度がいかに低いかを証明していることを意味しているからである。
 これは米国防総省が肝心のデータを公表していないのでかなり乱暴な推測によるしかないのだが、自動車事故の原因の大半(昔の自動車ではなく現在の自動車を前提にしていることをお断りしておく)は人的要素にあり、かつその要因は運転者の高齢化と完全に比例していること、また飲酒運転による事故が危険運転致死傷害罪の新設によって激減したこととの関連性が重要な意味を持つと私は考えたのだ。
 これまで何回もオスプレイの安全性はまだ証明されていないことを書いてきたので、過去に述べたことは繰り返さない。「パイロットの操縦ミス(禁止されている操縦行為を行った)による」ということが何を意味しているかに絞る。
 自動車事故の人的ミスの要因は3つであることを『交通安全白書』(データは警察庁資料)で明らかにした。
1.飲酒運転など法令違反の運転による。
2.免許取りたての運転技術が未熟な運転者。
3.65歳以上の高齢者。
 ではこの3つのケースのどれにオスプレイ墜落の操縦ミスが相当するというのか。
 まず「禁止されている操縦を行ったから人的ミス」という主張が一応該当するのは2のケースしか考えられない。とすれば、禁止されているような操縦ミスを起こしかねないような、操縦技術が未熟なパイロットに米海兵隊はオスプレイの操縦を任せているのか、という疑問が生じる。
 米国防省がまず明らかにすべきは墜落事故を起こしたパイロットの年齢と航空機操縦歴(キャリア)である。もし操縦技術が未熟なパイロットに米国内でも危険性が指摘されているオスプレイの操縦を任せてきたのだとしたら、まさにオスプレイのパイロットは米海兵隊によって「モルモット」扱いの対象でしかなかったことを意味する。そんな「モルモット」が操縦するオスプレイを日本に持ち込ませるなどということは、日本とアメリカは対等な立場に立って日本及び極東の安全を守るための義務と責任を分かち合うという「日米安全保障条約」の基本理念は「絵に描いた餅」に過ぎず、アメリカのご都合主義による事実上の日本に対する軍事的支配を継続(敗戦後の占領下に置かれて以降)するための「隠れ蓑」だったのかと言わざるを得ない。
 誤解を避けるために言っておくが、私は日米同盟は経済的にも軍事的にも最重要な友好関係を維持すべきだと考えている。その私にしてここまで言わざるを得ないのが、森本防衛相の「安全宣言)である。また森本防衛相の「安全宣言」を全く検証せずに支持してオスプレイの日本配備に賛意を示した読売新聞を、私は同じジャーナリズムの世界にいるものとして絶対に許すことができない。
 もちろん私もすでにブログに書いたようにオスプレイの強力な抑止力を否定するものではない。さらに改良が進められ、安全性が、現在米海兵隊が所有する他の航空機9機種並みに確保できた場合は、自衛隊自ら購入して領土紛争が生じている東南海地域の日本領土を守るために活用してほしいと思っているくらいである。
 オスプレイが未完成である証拠をもう一つ挙げておこう。このことを、マスコミをはじめ誰も指摘していないことが不思議でならない。それは墜落事故の原因について「禁止されている操縦をパイロットが行った」という米国防総省の事故原因解明の結果報告である。
 子供以外のほとんどの日本人がまだ記憶にとどめておられるであろうJP西日本の福知山線脱線事故の悲惨さである。この事故の原因は3つが指摘されている。
1.事故現場は急カーブでありながら、法令で定められた基準を無視したJR西日本がATS(自動列車停車装置)を設置していなかったこと。
2.私鉄との競争のため過密ダイヤで乗客の獲得を図ろうとしたJR西日本の列車運行方針。
3.運転技術が未熟な若い運転手が、手前の駅でホームをオーバーランして生じた列車の遅れを取り戻そうとして禁止されているスピード制限を超えた運転をしたこと。
 つまりこの事故の要件がオスプレイ墜落事故にすべて当てはまっているのである。3のスピードの出し過ぎというのは若さゆえの運転技術の未熟さであり、若い人の自動車事故が多いのも過信によるスピードの出し過ぎが最大の要因をなしており、この「過信」が運転技術の未熟さを意味しているのである。と考えればオスプレイのような高度な操縦技術を要するはず(と私は考えている。米国防総省は「高度な操縦技術は必要としない」と主張するかもしれないが……」の航空機は列車のATSのような「禁止されている操縦をパイロットが行おうとした時、自動的にブレーキをかける機能を持つ装置が搭載されていなければならないのは当然だと思う。私の考えが間違っているのかな?
 私の考えが間違っていなければ、ATSのような、禁止されている操縦をパイロットがしようとした場合、その違反行為をストップさせる装置が搭載されていないこと自体が、オスプレイの未完成度を証明する何よりもの証拠となる。
 森本防衛相は「日本独自の分析」によって「オスプレイそのものの機体に欠陥はない」と主張し、何の裏付けも取らず森本防衛相の「安全」宣言を支持した読売新聞は、オスプレイにはATSのような禁止されている操縦をパイロットが行おうとしたとき自動的に禁止行為を停止する制御装置が、オスプレイには必要がないことを立証しなければならない。それが日本の安全に責任を持たねばならない防衛大臣や日本最大のマスコミが果たすべき最低限の責任であり義務である、と私は思う。
 改めて問いたい。私の考えは間違っているのかな?

輿石幹事長再任は「規定」の人事ーー今度は私の読みが当たった

2012-09-24 08:21:19 | Weblog
 今度は私の読みが当たった。政局の話である。
 昨夜(23日)民主党の野田代表が輿石氏と首相官邸で約1時間会談し、野田氏のたっての要請にこたえる形を演出したうえで、輿石氏が幹事長を続投することになった。私に言わせれば、あまりすんなり輿石幹事長再任を発表してしまうと、党の内外から「やっぱり」といった半ば批判的な声が飛び交いかねないからであった。
 案の定、自公は「民主党はまた解散を先送りしようとしている」といった反発を早くも示している。幹事長は政府を代表する内閣人事と違い、政党内部の人事に過ぎず、他党が口をはさむ話ではない。現に党人事に先立つ代表選に自公が口を出したことはないし、今5人の立候補者が熾烈な戦いを行っている自民の総裁選に民主が口を挟んだこともない。
 そういう意味では、あえてタブーである他党の人事に反発したのは、これから述べるように消費税増税法案の成立で自公が輿石幹事長に手玉に取られたという悔しさがつい表面化したのであろう。そして輿石氏が事実上民主の最高権力者であることが、再び白日の下に明らかになったことを、この人事は意味している。そのことを私は8月28日に投稿したブログで示唆しており、この人事は見事に私の読みを裏付けたものだった。

 8月9日に投稿したブログ記事『明日にも成立する一体改革法案に国民は納得できるか?』で、私はお盆明けの20日か、少なくとも翌21日には野田総理が衆議院を解散するだろう、との読みを書いた。その理由をかいつまんで書く。
 実はその前日午後8時半過ぎにオリンピック放送を中断してNHKが臨時ニュースを報じた。社会保障と税の一体改革について3党合意が成立したという話だった。
 3党合意に至るまでの与野党の駆け引きは熾烈を極めた。衆院では3党合意が比較的容易に成立し、シャン、シャン、シャンで法案が通過した。が、法案が参院に送られた途端、自民が衆院での3党合意を反故にしてしまった。自民が衆院では法案に賛成しながら、参院では態度を一転したのは、石原幹事長を筆頭とする自民の強硬派が、解散時期について民主が明確にしない限り法案成立に協力すべきでないと谷垣総裁に注文を付けたからだ。
 よく知られているように、国会はねじれ状態にあり、重要法案がなかなか成立しない。衆院では民主が過半数を占めているため自民が抵抗しても法案通過を阻むことができない。下手に抵抗すると「反対のための反対」を繰り返したかつての社会党と変わらないではないかというマスコミの集中砲火を浴びかねない。そこで衆院ではそこそこの批判で矛を収め、法案を通過させてきたが、参院では与野党の勢力図が逆転し、今度は民主が野党側に歩み寄らない限り法案を通さないという姿勢をとってきたせいだ。
 で、「社会保障と税の一体改革」法案が衆院を通過して参院に送られた途端、自民は「民主が解散時期を明確にしない限り協力できない」と態度を一転したのだ。これに対し民主は「解散は総理の専権事項であり、法案成立との引き換えに解散することなどあり得ない」と反発。こうした民主の対応に、自民は石原幹事長を筆頭とする党内強硬派が「野田総理に対する参院での不信任決議、衆院では問責決議を行う」と揺さぶりをかけ始めた。
 こうして与野党の対立は完全に膠着状態になり、にっちもさっちも行かなくなったのである。そして決定的な瞬間が来た。8月6日から7日にかけて民・自両党の動きが一気に加速しだした。読売新聞の記事の大見出しが、この間のあわただしい政局の動きを物語っている。
①「自民、不信任・問責案提出へ 解散確約ない限り」(7日朝刊1面トップ)
②「首相手詰まり 輿石氏、党首会談認めず」(同日スキャナー)
③「不信任・問責、谷垣氏一任」(同日夕刊1面)
④「一体改革に危機 自民きょう不信任・問責案」(8日朝刊1面トップ)
⑤「自民『強硬』一点張り 党内『主戦論』抑えられず」(同日スキャナー)
⑥「解散時期『近い将来』 民主、3党首会談を打診」(同日夕刊1面トップ)
 この2日間の状況から見て取れることは、自民が攻勢の手を緩めず、民主が窮地に追い込まれていく状況がうかがえる。そして民主では肝心の野田総理がまったくリーダーシップを発揮できず、②の見出しにあるように輿石幹事長が総理の意向を無視して「党首会談認めず」といった、事実上民主の実権は自分が握っているかのごとき発言をしている。こうした事実から野田総理が輿石幹事長の操り人形に過ぎない存在であることがうかがえる。
 幹事長という党の役職は、党首に次ぐナンバー2の存在である、というのが一応政界では常識になっている。しかし過去にも例外がなかったわけではない。1991年には直前まで自民党幹事長の地位にあった小沢一郎が、海部総理の辞任を受けて次期総裁に名乗りを上げた宮沢・渡辺・三塚の3氏を自らの個人事務所に呼びつけ(いわゆる小沢面接)、3氏の政治理念を聞きただしたうえで宮沢氏を後継総裁に指名するという思い上がった行動をとったケースもあった。小泉氏を除いて、長期政権の座を維持してきた実力者総裁が、身を引くに際し後継総裁を指名することは自民のいわば慣行だった。が、総裁になったことさえない小沢氏が海部内閣の後継総裁を選ぶといった例は過去の自民党史にはない。
 野田総理が輿石氏を幹事長に抜擢したのは党内融和を最優先したためとされている。輿石氏はもともとは小沢氏に近いとみられていた人物で、党内最大派閥を誇っていた小沢グループを政権運営に協力させるため、あえて小沢氏に近いとみられていた輿石氏を幹事長という要職に抜擢したというわけだ。
 が、結局小沢氏がマニフェストにうたっていなかった消費税増税に反対して離党した時、当然のことながら輿石氏の去就が注目された。これは「たられば」の話になってしまうが、もし小沢チルドレンの大半が小沢氏と行動を共にしていたら、輿石氏も小沢氏の新党結成に参加していたのではないかと私は思っている。が、小沢氏と行動を共にした小沢チルドレンは予想を裏切る少数でしかなかった。それも当然で、小沢氏の主張はただマニフェストにうたっていなかったというだけで、増税なき社会保障制度確立の構想など小沢氏にはまったくなかったからで、結局小沢氏は政界遊泳のテクニックにたけているだけで、何の政治理念も持っていないということが白日の下にさらけ出してしまったからだ。とはいえ小沢氏とたもとを分かったチルドレンたちは大半が1年生議員で、選挙区での地盤づくりはこれからという致命的なハンディキャップを抱えていた。その彼らにとって、もともと小沢氏に近く、また現在は党のナンバー2であり、選挙活動の差配を一手に握る幹事長の要職についていた輿石氏を頼るしかなかったのである。かくして小沢氏の遺産ともいえる小沢チルドレンをタダで相続した輿石氏が、事実上党の最高実力者になってしまったのだ。まさに「棚から牡丹餅」で得た権力であった。
 こうして自民の攻勢で土壇場まで追い詰められながら、輿石氏が野田総理の意向も確かめず「党首会談を認めない」などという思い上がった発言ができたのも、こうした経緯があったからである。
 しかし、さすがにここまで追い詰められて、やっと輿石氏の呪縛から脱しようと決意した野田総理が、8日になって自ら谷垣総裁に直談判で党首会談を申し入れ、自民の谷垣総裁も「振り上げたこぶしの引っ込め時」と判断し、二人の話し合いで合意に達した時は、公明の山口代表を会談に加え同意を取り付ける、という条件で会談に応じることにした。それが3党合意を回復するためには待ったなしだった8日夜のことである。
 3党合意を回復するためにこの日の会談で申し合わせが成立したのは、①早急に参院で法案の採決を行い、自公は政府案に賛成する、②「近いうち」に国民の信を問う(解散・総選挙を意味する)、③自民は不信任・問責を問わない、の3点だった。
 党内基盤が脆弱で、石原幹事長を筆頭にする強硬派を抑えきれなかった谷垣総裁としては、ようやく解散時期についての具体的な言質を取り付けたという安どの気持ちを持ったのは疑いを入れない。会談直後の「近いうちという約束は重い言葉だ」、と今国会中の解散が暗黙の了解事項になったことを匂わせる発言をしている。これで党内強硬派を抑えられるという思いが記者団に囲まれた谷垣総裁の顔ににじみ出ていた。
 野田総理が「党首会談は認めない」と公言した輿石の頭越しに自民の谷垣総裁と直談判でかろうじて「社会保障と税の一体改革」法案を成立させたことは、輿石氏にとって当然面白くない。法案成立が事実上決定した直後、記者団から「近いうちの解散は今国会中か」と聞かれ、「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改正など重要法案がまだ残っている」とうそぶいた。
 ここまでは事実を書いてきただけだが、ここで私は大きな読み誤りをした。8月9日に投稿したブログ記事で私はこう書いた。
「ここまで来たら輿石幹事長がいかに抵抗しようとも、もはや野田首相から党のリーダーシップを再び奪い返すことはだれの目にも不可能としか見えまい。現在の政治状況を、そう解釈するのが、最も論理的整合性を満たした政治ジャーナリストのあるべきスタンスだろう」と。
 ところが、輿石氏失脚のシナリオは見事に外れてしまった。輿石氏の猛烈な巻き返しが始まり、小沢チルドレンの残党という民主党の最大勢力を輿石氏が完全に掌握していたとまでは推察できなかったのだ。むしろ輿石氏の「了解」を得ることなく、3党合意を復活させた野田総理のリーダーシップにチルドレンは期待を寄せるようになるのではないかと私は考えたからである。
 8月28日に投稿したブログ記事『私はなぜ政局を読み誤ったのか? 反省に代えて』の中で、私は率直にその事実を認めた。一切報道の誤りや主張の非論理性を読者から指摘されても、そのことを紙面では絶対に認めない大新聞社とは、ジャーナリストとしてのスタンスがまるで違うをこの際はっきり言っておく。

 決定的なケースを一つだけ述べておく。読売新聞も朝日新聞も「あの戦争」(これは私の定義。読売新聞は「昭和戦争」と定義し、朝日新聞は「アジア太平洋戦争」と定義している)について、ともに「軍の圧力に屈し、軍に協力してきた」と、いかにも「反省」しているかのごとき言い方で、実は「軍の圧力」に責任転嫁していることでは共通しているが、実際には国民の軍国主義思想をあおりにあおり、軍の独裁政権を作り上げてきた張本人が読売新聞や朝日新聞などの大新聞社だった。
 そのことの証明は簡単である。明治維新によって近代国家建設に着手した明治政府は、欧米先進国から近代軍事技術や最新の兵器を導入して軍事力で欧米先進国に追い付こうという戦略と、やはり近代産業技術や最新の製造装置導入によって産業力も強化しようという戦略を国造りの2本柱にしてきた。いわゆる「富国・強兵」の旗印がそのスローガンである。
 そしてイギリスとのアヘン戦争で大敗しながら、日本のように軍事力と産業力の近代化を目指そうとしなかった中国(清国)にまず侵略戦争を仕掛けて大勝利を収め、先進国の仲間入りを果たした日本は、次に朝鮮を濡れ手に粟同然で併合し、さらには南下政策を進めていたロシアと、無謀としか言いようのない戦火を交え、これまた奇跡としか言いようがない大勝利を収めた。この時期、読売新聞や朝日新聞はどういう報道スタンスをとっていたか。
 欧米先進国はこの日露戦争で、まさか日本が勝利を収めるとは全く予測していなかった。だから日本が勝利した瞬間、欧米先進国にとっては、当時世界最強と言われていたロシアのバルチック艦隊を撃破した日本の軍事力が、一挙に脅威の対象になったのである。そこで欧米列強が、勝利によって得た日本の戦果の多くを放棄するよう日本に圧力をかけることにした。そしてこの圧力に日本政府は屈した。勝つことは勝ったが、膨大な軍事費と乃木将軍の無理に無理を重ねた突撃作戦で失った膨大な人命によって、日本の軍事力は疲弊しきっていた。日本政府はこの干渉を受け入れざるを得なかったのだ。
 この時の日本政府に対し、「弱腰外交」と猛烈な怒りの声を上げたのが、当時の一般国民であり、そうした国民の怒りをあおりにあおったのが日本の大新聞だった。連日国会を取り巻いた激しいデモ活動に対し、大新聞社は英雄扱いする記事を連日流し続けた。
 読売新聞の読者センターや朝日新聞のお客様センターの方に、この事実を伝え、「読売新聞も朝日新聞も歴史認識が全く間違っている。日本の軍国主義化に大新聞社がいつから、どのように手を貸し、また率先して国民に軍国主義思想を植え付けてきたかをきちんと検証することが一番大切な歴史認識の視点ですよ」と言うと、誰一人として反論しない。しない、というより「できるわけがない」のである。さらに「私もそう思います」と同意する方が大半であった。しかし、そういう視点からの再検証は読売新聞も朝日新聞もいまだしていない。「あの戦争」の時のように「軍の圧力」に責任転嫁する対象がないからである。
 私はそういう卑劣極まりない大新聞社の仮面をかぶったジャーナリストではない。数百人の読者しかいないブログでも、書いた結果に対しては責任をとる。

 で、本題に戻るが、なぜ私が8月9日に投稿したブログで「解散はお盆明けの20日か21日」と予測した根拠について8月28日に投稿したブログではこう書いている。
「私は状況にもよるが、自民党内の強硬派(石原幹事長を筆頭とする)を説得できるだけの根拠を谷垣氏が確信したこと(「近いうちとは重い言葉だ」との発言を再三繰り返したことによる)、さらに民主・輿石幹事長が参院採決の合意ができた当日に記者から「近いうちとは今国会中か」との質問に対して「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改革などの重要法案がまだ残っている」と発言したことを聞き、谷垣総裁が「こんな幹事長が与党にいるなんて信じられない」と激怒したこと、また肝心の野田総理が「私は社会保障と税の一体改革に自らの政治生命をかけている」と耳にタコができるほど聞かされてきたことの3点から、おそらく野田総理がお盆明け早々の解散をそれとなく(谷垣総裁に)示唆したか、あるいは密約したかのどちらかだと今でも思っている」
「(輿石氏が)絶対に参院で否決されて廃案になることを百も承知で今国会に特例公債発行や選挙制度改革法案を衆院に提出して自公ボイコットの中で単独強行採決に踏み切ったということは、解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、うまくいけば衆議院議員の任期満了まで政権を維持しようという作戦に出たと解釈するのが妥当だろう(その間に選挙基盤がまだ弱い元小沢チルドレンに地元に確固たる基盤づくりをする時間的余裕を与えるのが目的と考えられる)。
 昨夜(23日)夕方からの野田代表と輿石氏の会談で、輿石氏が野田代表の要請を受け入れて幹事長続投を決めたというのは、8月28日投稿のブログで分析した輿石氏の作戦通りの読み筋だったことがご理解いただけたと思う。
 この民主党人事に自民は反発しているようだが、反発して民主との対立を激化させればさせるほど、自民は輿石氏の手のひらで踊る結果になる。当然民主は特例公債発行や選挙制度改革法案が成立しない限り、重要法案を積み残したままで解散するわけにはいかない、というのが輿石作戦のポイントだからだ。
 そうした輿石作戦に乗らないためには自民が子供じみた反発をせず、むしろ積極的に法案審議に協力し、早期に民主が主張している「重要法案」を成立させてしまうことだ(政府案を丸呑みしろと言っているわけではない。自公も対案を出し、一致できる点は争うことなく同意し、一致できない問題は審議を尽くして妥協点を見つける。そういうスタンスをとるべきだ、と私は言っているのだ)。
 自公がそういう作戦に出れば、民主としては解散を先延ばしする理由がなくなってしまう。そもそも前の国会で審議や採決をボイコットしたりせず、さっさと成立させてしまっていれば、民主は会期末に解散せざるを得なくなっていたのだ。
 私は別に民主の肩を持つつもりもなければ、自民の肩を持つつもりもない。はっきり言って私は積極的無党派層の一人である。その意味は、選挙当日、白紙票を投じるために選挙会場に行っているくらいなのだから。特例として記入投票することがないわけではないが、それは所属する政党のいかんを問わず、こういう人にこそ日本の将来を担ってもらいたいと思えたケースだけである。ジャーナリストである以上、その程度の信条は持っていただきたい。

頭の悪い奴でないと読売新聞社には入社できないぞ!!  前回の追記

2012-09-23 16:07:38 | Weblog
 21日に投稿したブログ『オスプレイ問題で米国防総省の有料広報紙に堕した読売新聞』には、投稿当日だけでなく翌22日にも予想をはるかに超える読者が訪問してくれた。感謝、感謝 !!
 で、その後改めて読売新聞の社説を読み直した結果、当初は見落としてしまった読売新聞論説委員の国語力の低さ、非論理的思考力の呆れるばかりの無能力さに改めて気づき、その点に絞って追記することにした。 
 そのすべては社説のタイトルに集約されている。社説のタイトルは『オスプレイ配備 抑止力と安全性の両立を図れ』であった。
 21日に投稿したブログでは、「両立」という表記に私は噛みついた。「両立」の意味は、相容れない(「相容れがたい」が正確な表現で、これは私のミス)二つの課題を100%ではなくても、ある程度納得できる妥協点を見つけること、と説明した。
 今回は「両立」という単語だけではなく「両立を図れ」という文節の自己矛盾を指摘しておこう。すでに述べたように「両立」とは相容れがたい二つの課題をある程度納得できる妥協点を見つけることを意味する。したがって「両立を図る」という文節(単に表記といってもよい)の意味は、当然「抑止力」を高めることと「安全性」を高めるという相容れがたい二つの課題をどうやって妥協点を見出し、落としどころを提案したというのであれば、(その是非は別としても)この社説のタイトルは非の打ちどころがないと言わざるを得ない。
 ではもう一度社説がオスプレイの「抑止力」と「安全性」の二つについてどう評価しているかを確認しておきたい。
 まず「抑止力」についてだが、社説では何らの検証をしていないが、私もその必要はないと考えている。現に先のブログで私も「自衛隊がオスプレイを購入できれば、尖閣諸島領海域の監視力が飛躍的に高まり、中国にとっては脅威になる」といった趣旨の主張をしたくらいだ。厳密に検証するとすれば、オスプレイが世界各地の紛争地帯でどのような抑止力を発揮したかを確認する作業が必要だが、オスプレイの航空機としての能力はすでに公表されており、その抑止力には疑いを入れない立場をとるのは当然と考える。
 問題は「安全性」のほうだ。検証済みなのは(米国防総省の発表が正しいと信じた上でだが)、海兵隊所有の航空機の中で、10万時間飛行した場合に死者や200万ドル以上の損害を出した重大事故の件数は、オスプレイが1.93なのに対し、オスプレイを除く9機種の平均件数2.45をかなり下回っているということだけである。だが、米国防総省が公表しているオスプレイを除く9機種の平均事故件数であって、9機種個々の事故件数は公表していない。そこに米国防総省の公表に意図的なうさん臭さを感じないようではジャーナリストとして失格である。
 では読売新聞の社説はこの問題についてどう主張したか。「(オスプレイは)最新の安全対策を講じており、老朽化したCH46輸送ヘリなど米軍の他の航空機より危ない、といった議論は合理的ではない」と。まさにこういう主張こそ「合理的ではない」ことはもはや説明を要しないだろう。もし私のこの主張に疑問を感じられるなら、21日投稿のブログをもう一度読み返してほしい。
 ほかにもオスプレイの「安全性」について社説は必死に書いているが(だから私は「読売新聞は米国防総省の有料広報紙に堕した」と断じたのだ)、オスプレイの安全性がすでに確認済みなら、抑止力との「両立」はすでに成功しており、いまさら「両立を図る」必要はさらさらないことになる。要するに『抑止力と安全性の両立を図れ』というタイトルそのものが自己矛盾を生じており、論理的説得力は完全に破たんしたことを意味している。
 こうして社説の論理的検証をしてみると、読売新聞の論説委員の国語力と論理的思考力で。大学(どこかは知らないが)をよく卒業できたものだと感心してしまう。頭の悪い奴、読売新聞社なら入社できるぞ!! いや、頭が悪くないと読売新聞社には入社できないぞ!!

オスプレイ問題で米国防総省の有料広報紙に堕した読売新聞

2012-09-21 20:56:53 | Weblog
 頭が悪いジャーナリストがオスプレイ問題について主張すると、こういう結論になるのか、という格好の社説が20日掲載された。読売新聞の社説『オスプレイ配備 抑止力と安全性の両立を図れ』のことである。
 まずこの社説のタイトルが支離滅裂である。「両立」とは『広辞林』(三省堂)によれば、「二つが並び存すること。『家庭と職業を――させる』」とある。『広辞林』の例だけでなく、岩波書店の『現代用字辞典』には「学業とスポーツを――させる」と記載されているし、講談社の『正しい漢字表記と用例辞典』には「仕事と趣味の――」とある。今風に言えば「仕事と子育ての――」と言った用例が最も適切かもしれない。つまり「二兎を追う」の反意語で、相容れにくい二つの課題を100%ではなくとも、ある程度納得できる妥協点を見つけることが「両立」の意味である。二つの目的を両方とも実現できるようなケースには「両立」という言葉は使わない。この程度のことすらご存じないのが読売新聞の論説委員諸氏のようだ。
 では読売新聞の論説委員諸氏(新聞社の社説は通常論説委員が書く。ただし個人の主張ではなく、社としての主張になるため、論説委員室内部での徹底的な議論を経て誰かが書く)は、オスプレイの「抑止力」と「安全性」の「両立」を主張するためには、それなりの妥協点を提案するのでなければ社説の体をなさない。また「二兎を追うものは一兎をも得ず」という格言もある。「二兎を追うことがいかに困難か」という戒めの格言であることをアドバイスしておこう。
 そもそもオスプレイそのものが「ヘリコプター」と「飛行機」という相容れがたい「二兎を追った」まったく新しい航空機である。「二兎を追うことがいかに困難なことか」ということは、これまでの墜落事故の多さや、つい最近は計器に異常を知らせるランプが何度も点いて、墜落に至る前に不時着して難を免れたというケースも生じたことはよく知られている。
 これらの事故について米国防総省はすべて「パイロットの操縦ミス」と主張し、日本側も一応オスプレイの安全性について「検証」したうえで、森本防衛相は「安全性が確認できた」としてオスプレイの普天間基地などへの配備や試験航空を認めた。
 ところで日本側はどのような安全性確認作業を行って「安全性」を「確認」したのか、その詳細はまったく明らかにしていない。ジャーナリストであるならば、当然、日本側がどのような安全確認作業を行ったのかの情報公開を政府に要求すべきであろう。が、読売新聞がそうした取材を行った形跡は全く認められない。そのくせ社説では「政府は(中略)『安全性は十分確認された』と結論付ける安全宣言を発表し、国内飛行を容認した」「安全宣言は、4月のモロッコと6月の米フロリダ州の墜落事故に日本独自の原因分析に加えて、日米合同委員会で具体的な安全確保策に合意したことを踏まえたものだ。日本側として安全策を追及した成果と評価できる」と主張した。これでは戦時中の大本営発表を丸呑みして一切の検証抜きに報道してきた過去の報道姿勢とまったく変わらないではないか。
 私は別にオスプレイの日本配置に絶対反対しているわけではない。本当にオスプレイの安全性が十分確認されたならば、日本への配備は日本にとっても大きな抑止力になるし、とくにきな臭くなりつつある尖閣諸島問題をめぐる中国との確執、竹島を実効支配されてしまった韓国との確執を巡り、中国や韓国にとっては大きな脅威になるだろう。そういう意味では自衛隊自体が(もしアメリカが呑めばだが)オスプレイを購入し、尖閣諸島や竹島周辺の領海域の監視に充てることも考えられる。
 だが、安全性の確認作業がきちんと行われたか、私は極めて疑問に思っている。「日本独自の原因分析の結果」というが、どんな方法で原因分析をしたのか、政府はまったく明らかにしていないのに、読売新聞の論説委員は政府発表を鵜呑みにして、オスプレイの安全性を裏付け保証してしまった。戦時中ではあるまいし、そんな新聞が存在すること自体、私はひょっとしたら夢を見ているのではないかとわが目を疑ったほどである。
 国民のほとんどが疑っているように。度重なるオスプレイの墜落事故の原因は米国防省が主張しているように「パイロットの操縦ミス」などではない。もし本当に「パイロットの操縦ミス」が墜落事故の原因だったとしたら、その理由は二つしか考えられない。
 ひとつはオスプレイのような複雑な航空機の操縦を素人に毛が生えた程度の新人パイロットに任せてきたという可能性。そうだったら墜落の原因が「操縦ミス」であってもおかしくない。しかしオスプレイの墜落事故は今年の4月(モロッコ)と6月(米フロリダ州)の2件だけではない。特に現行機種のⅤ22型ではないが、2000年12月には初代オスプレイ飛行大隊の大隊長になるはずだったキース・スウィーニー中佐(42歳)が操縦し、副操縦士にはクリントン大統領の専用ヘリコプターの操縦士を3年間にわたって務めてきたミッチェル・マーフィー少佐(38歳)を含む4人の乗員を乗せたオスプレイが「メーデー」を発信した直後に墜落し、全員が死亡するという悲劇も起こしている。スウィーニー中佐にせよマーフィー少佐にせよ、米軍としては絶対に事故死などさせてはならない最重要なパイロットであった。その二人の事故死もいまだ原因は解明されていない。原因が解明されていない以上墜落事故を起こした本当の原因が改善されないまま「まずオスプレイありき」で開発を進めてきたのが偽らざる事実である。
 その程度の知識すら持たずにオスプレイの安全性にお墨付きを与えてしまった読売新聞の論説委員たちの頭の中をかち割って、脳神経がどうなっているか検査してみたいという衝動に駆られた脳神経外科医は山ほどいるのではないだろうか。
 読売新聞論説委員たちの悪質さはそれだけではない。自らオスプレイの安全性にお墨付きを与えておきながら、ちゃっかり「米軍が今回の合意を順守し、安全性の確保に努めるよう求めたい」と白々しく「注文」をつけることでアリバイ作りをしていることだ。何の検証もせず、日本側がオスプレイの安全性についてどういう「日本独自の原因分析」を行ったのかの確認も行わず「日本側として安全策を追及した成果と評価できる」と結論を出したことと明らかに矛盾しているではないか。もっとも高校生程度の理解力さえ持っていないらしい読売新聞論説委員たちが、この自己矛盾すら自覚できないであろうことは、私にはよーく理解できるが……。
 さらに読売新聞はいつから米国防総省の有料広報誌になったのかと思わせる記載もある。この一文を読んで私は呆れるのを通り越した。「そもそもオスプレイが極めて危険な航空機であるかのような見方は、誤解に基づく部分が多い。無論、航空機である以上、事故や故障は起こりうるが、最新の安全対策を講じており、老朽化したCH46輸送ヘリなど米軍の他の航空機より危ない、といった議論は合理的ではない」と。
 これは完全な論理のすり替えである。いったい誰がそういった議論をしているのか。少なくとも私は寡聞にして聞いたことがない。「他の米海兵隊所有の航空機の中で事故率が一番低い」とオスプレイの欺瞞に満ちた安全性を強調してきたのは米国防総省ではなかったか。米国防総省が最初に公表した事故件数は米海兵隊所有の航空機が10万時間飛行した場合に生じた重大事故の平均値(乗員に死者が出た件数)であって、死者が出なかった事故件数は圧倒的にオスプレイが多いことは、後に米国防総省がやむを得ず明らかにしている。
 その結果はっきりしたことは、オスプレイは墜落や不時着などの事故は他の航空機に比べ圧倒的に多いということと、オスプレイは墜落しても乗員が助かっているケースが他の航空機より圧倒的に多いという事実だけである。つまり乗員の安全性は高いが(オスプレイはヘリコプター機能も持っているため地面に激突して瞬時に炎上するケースが少ないことを意味している)、オスプレイの配置が予定されている沖縄県の人たちが心配しているのはオスプレイのアメリカ人乗員の安全性ではなく、もしオスプレイが地上に墜落した場合、事故に巻き込まれて大惨事を生じる可能性が高い沖縄県民の安全性についての不安感なのである。沖縄県民の安全性より、アメリカ人のオスプレイ乗員の安全性のほうが重要と考えている読売新聞は、もはや米国防総省の有料広報誌に成り下がったという以外言いようがない。
 最後に読売新聞にとどめを刺しておこう。米国防総省が、8月9日になって結局公表せざるを得なくなった事故の3分類は、私はすでに8月15日に投稿したブログ記事『緊急告発! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』で明らかにしたが、再度記載しておこう。
 Aクラス(死者や200万ドル以上の損害を出したケース)
  オスプレイ:1.93件  海兵隊平均(オスプレイを除く9機種):2.45件
 Bクラス(負傷者に重い後遺症があるか損害額50~199万ドルのケース)
  オスプレイ:2.8件   海兵隊平均:2.07件
 Cクラス(軽傷者が出るか損害額5~50万ドルのケース)
  オスプレイ:10.46件  海兵隊平均:4.58件
 当然ながら、これらの事故の大半は墜落あるいは不時着を意味すると考えられる。が、これらの事故は具体的にどういう事故だったかは米国防総省は公表していない。このことを追及しなかった無能なジャーナリストは読売新聞だけではないので、読売新聞だけをことさらに批判するのはフェアではないので目をつむるが、最低マスコミはオスプレイの普天間配備について「訓練は原則海上のみで行うこと」と「やむを得ず地上を飛行せざるを得ない場合も、市街地はもちろん人が住んでいる場所の上空は絶対に飛行しないこと」の2点を米軍に約束させるべく、日本政府に対し、オスプレイ受け入れの絶対条件として要求すべきであった。ま、米国防総省の有料広報誌に堕した読売新聞にそういうことを求めるのは無理か……。

たばこを目の敵にする厚労省は、なぜ飲酒の害毒には目をつむるのか

2012-09-15 06:48:45 | Weblog
 酒に関する故事・ことわざ・慣用句はかなり多い。旺文社発行の『成語林』によれば47もある(ただし、酒が頭文字になっているケースのみでだ)。おそらくひとつの単語についてこれほど多くの故事・ことわざ・慣用句は他に例を見ないであろう。その中で、最も人口に膾炙しているのは「酒は百薬の長」であろう。『成語林』によればその意は「酒は節度を心得て適度に飲めば、どんな薬よりも体のためになる。酒を賛美したことば」だそうだ。
 飲酒を美化した故事・ことわざ・慣用句は、そのほかに五つある。
 「酒は天の美禄」(酒は天から賜った素晴らしい俸禄)。
 「酒は憂いを掃う玉箒」(酒は心配事や悲しみを払ってくれる箒)。
 「酒に十の徳あり」(①百薬の長である。②寿命を延ばす。③旅の時は食事の代わりになる。④寒いときに体を温める。⑤他家を訪問するときの手土産によい。⑥憂鬱な気分を晴らす。⑦平凡な人でも偉い人と対等に話ができる=酒の席は無礼講の意。⑧労苦をいやす。⑨酒の席は地位を気にせず和やかに話ができる。※⑦と同じ。⑩一人暮らしの友となる)。
 「酒なくて何の己が桜かな」(酒がなくては花見をする気になれない)。
 「酒の徳狐ならず必ず隣あり」(酒飲みは孤独でなく必ず友達ができる)。
 しかも「酒が健康に良い」とするものは「酒は百薬の長」のほかには「酒に十の徳あり」のうちの①(これはすでに重複している)と②だけである。
 一方飲酒がもたらす害悪を強調した故事・ことわざ・慣用句は枚挙にいとまがないくらいある。
 まず「酒は百薬の長」に対峙する故事・ことわざ・慣用句から紹介しよう。
 なんといってもその一番は「酒は百害の長」だ。これは説明するまでもないと思うが、酒は体に害を与える中で最たるもの、万病の原因という意味である。
 また「酒を嗜む勿れ、狂薬にして佳味に非ず」という格言もある。その意味は、酒を嗜好品にしてはいけない、酒は人を狂わせる飲料で、決しておいしいものではない。
 健康問題とは限らないが、酒の害を表す言葉に「酒は諸悪の基」というのがある。酒は様々な悪事の原因になっているという意味。諸悪と言ってもいろいろある。そういう意味の格言の類は多すぎるので箇条書きで紹介しよう。
①「酒入れずば舌出ず」「酒を口に入る者は下出ず」(酔うと口数が多くなり、失言をしてしまう。酒は身の破滅を招く)
②「酒が言わせる悪口雑言」(酔うと発言に抑制力がなくなり他人の悪口を言いたい放題になる)
③「酒買って(あるいは酒盛って)尻切られる」(酒をごちそうしたのに酔っぱらった相手から尻を切られるの意から転じて好意を寄せた相手から逆に損害を被る。※「飼い犬に手を噛まれる」)
④「酒が酒を飲む」「人酒を飲む」「酒酒を飲む」「酒人を吞む」(酒を飲みだすと抑制が効かなくなる)
⑤「酒極まって乱となる」「酒は礼に始まり、乱に終わる」(最初は和やかに始まった酒宴も、酒量が限度を越すと席が乱れ喧嘩沙汰になる)
⑥「酒と朝寝は貧乏の近道」(酒を飲みすぎたり、朝寝坊して仕事ができなくなると貧乏になる)
⑦「酒に吞まれる」「酒に回される」(酒を飲みすぎると正体を失う)
⑧「酒には猛き鬼神もとらくる習い」(いくらしっかりした者でも酒に酔えば正体を失う。「とらくる」は心の締りがなくなるという意味)
⑨「酒によって件のごとし」(酒によってくだをまくことを洒落て言った言葉)
⑩「酒飲みは半人足」(酒飲みは飲んでいないときも半人前の仕事しかできない)
⑪「酒は先に友となり、あとに敵となる」(見知らぬ人と隣り合って飲むうち互いに打ち解けあって友達になることがあるが、次第に口喧嘩が始まり、殴り合いの喧嘩になる)
⑫「酒は三献に限る」(酒は三献でやめないと酒席を乱したり、体にも良くない)
⑬「酒は猶兵のごとし」(酒は武器を同じで酔っぱらうと人間兵器になる。「兵」は兵器のこと)
⑭「酒は飲むとも飲まれるな」「酒は飲むべし飲むべからず」「酒はほろ酔い」(適度な飲酒は良いが、限度を超えるとろくなことはない)
⑮「酒は人を酔わしめず人自ら酔う」(酒に酔うのは酒のせいではなく、飲む人に責任がある)
⑯「酒は本性を現す」(正気の時は抑制できていた本性が、酔うと抑制が効かず表面化する。酒癖が悪いこと)
 以上は故事・ことわざ・慣用句であるから、当然科学的根拠に基づいたものではない。が、「酒は百薬の長」が最も有名な格言となったため、本気でそう信じている人が大半のようだ。日本でなぜこのような格言が最も有名になったかというと、江戸時代の酒売り商人がこの格言を酒を売るために流布させたという説がある。
 では本当のところはどうか。健康に良いことがいちおう科学的に証明されているのは赤ワイン、それも熟成した高級ワイン(「ビンテージワイン」)を少量飲むのが健康に良いというだけである。ビンテージワインにはポリフェノールが大量に含まれており、ポリフェノールは赤ワインの長期貯蔵によって重合体になり制がん効果が生じるようだ。がんは酸化酵素がDNAに触れDNAを傷つけることが原因とされている。ポリフェノールは酸化しやすい物質で、体内に入ると活性酸素とすばやく結合し、がんの原因となる悪玉活性酸素を消滅させてしまうという。
 しかし、いくら制がん効果があるといっても大量に飲めば、赤ワインもアルコール飲料だから、かえって健康を損じかねない。これまでの研究結果によれば、グラス約1杯で十分効果があるらしい。ポリフェノールを大量に含んでいる野菜類に対し、赤ワインは20倍以上のポリフェノールを含んでいると言われているから大量に飲む必要もない。
 さらに問題なのは、ワインはビールと同じく日持ちがしないということである。いったん栓を抜いたらその日のうちに飲んでしまわなければならない。高額なビンテージワインをグラス1杯(約150ml)飲むためだけに買うバカはいないだろう。がん予防のためにビンテージワインをグラス1杯だけ飲め、などと勧める医者がいたら精神病院にでも入ってもらった方がいい。
 健康にいいとされる唯一のアルコール飲料である赤ワインにしてこの有様だ。まして他のアルコール飲料であるビールやウイスキー、日本酒、焼酎などが体にいい訳がない。なのに厚生労働省は酒の害毒には目をつむり、たばこばかり目の敵にしている。どういうことか。実際たばこの箱の両側面にはどういう記載がされているか、それをまず読んでいただきたい(念のため、私は10年ほど前から禁煙している)。
  「喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性があります。疫学的な推計によると、喫煙者は心筋梗塞により死亡する危険性が非喫煙者に比べて約1.7倍高くなります」(※主流煙による健康被害)
  「たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの
  健康に悪影響を及ぼします。喫煙の際には、周りの人に迷惑にならないよ
  うに注意しましょう」(※副流煙・間接煙による受動的健康被害)
 なお主流煙とは喫煙者自身が吸引するたばこの煙のこと、副流煙あるいは間接煙とは喫煙者の近くにいる人が受動的に吸ってしまうたばこの煙や喫煙者の呼気を吸ってしまうことである。
 煙草の箱の両側面に記載されている注意書きはこの二つだが、なぜ心筋梗塞の危険性が強調され、肺がんの危険性が記載されていないのか、このブログをお読みになっている方は疑問に思われたのではないだろうか。
 ただし厚労省もたばこに含まれている発がん性物質については公表している(財団法人「健康・体力づくり事業財団」による)。その報告(要約)によれば、こういうことだ。
 たばこからは3044の、たばこの煙からは3996の化学物質が分離されているという報告がある。これらの化学物質は主流煙の重量の95%以上を占めており、このうち1172はたばこおよびたばこの煙の両方に存在していたと報告されている。また煙草の主流煙、副流煙に含まれる化学物質のうち人体に有害なものは250を超え、発がん性を疑われるものは50を超えていると言われる。煙草の煙および受動喫煙は、いずれもそれ自体で「ヒトへの発がん性あり」と判断されている。これらの発がん性物質は グループ1・グループ2A・グループ2B に分類され、発がん性があると確認されている「グループ1」に属する化学物質は10種類ある、というのが厚労省管轄の財団が報告した内容だ。
 しかし私がかつてがん研の所長に取材したとき、えっとびっくりした話があるので皆さんにもお伝えしておこう。私が取材した当時は所長によれば、たばこの煙に含まれる化学物質のうち発がん性が疑われているのは40数種類発見されているが、実は同じくらいの数のがん抑制物質も含まれているというのだ。「今の社会的風潮を考えると、あまり大きな声で言えないけどね」と所長は笑いながらそう言った。所長が続けて言ったことは、かなりの年配の方なら覚えていると思うが、かつてがん研の所長が「魚の皮の焼き焦げには発がん性物質が含まれている」という研究論文を書き、その論文が、世界的に権威が認められている『ネイチャー』(イギリス)だったか『サイエンス』(アメリカ)だったかに掲載されたことで日本でも大騒ぎになり、家庭でも料理店でも焦げができないように魚を焼く工夫をしたり、焦げてしまった時は皮をはぎ取るといった社会的風潮が生じた時期がある。そのエピソードを持ち出して所長は「実は当時の研究員のほとんどが腹の中でせせら笑っていたんです。がんになるほどの量の魚の焦げ皮を食べるには一度に4トントラックに山積みするくらいの量を食べないとがんにはならないからです。欧米には魚の塩焼きという食文化がないことと、論文の投稿者ががん研の所長という肩書がものを言ったんでしょうね」と内輪話をしてくれた。
 で、私はこの取材で感じた疑問をぶつけてみた。「たばこや魚の焼き焦げの話を伺うと、あらゆる食品には発がん性物質とがん抑制物質が同居しているのではないかという気がするのですが、違いますか」と。所長は大きくうなずき「その通りなんです。だから発がん性物質の探索にはいろんな要素を考慮に入れながらやらないと、元所長のようにあとで笑い者になってしまうことになりかねませんからね」。
 ではどっちの化学物質(つまりあらゆる食品に含まれている発がん性物質とがん抑制物質)が人にどういう影響を与えるかを私は考えてみた。もちろん私は医者でもなければがんについて特に興味を持って調べてきたわけではない。あくまで私なりの論理的思考力を駆使して考えた結論だということを前提に、読者自身も自分の思考力を駆使して考えてみてほしい。「素人の発想」は時にバカにできないんですよ。
 私はまず人種差が大きいのではないかと考えた。煙草の煙に含まれる発がん性物質が悪影響を与える臓器の大半は肺だが、大まかに白人・黄色人・黒人・アラブ人ごとに喫煙率と死亡原因に占める肺ガン率を調べれば、たばことがんの因果関係が人種によってかなり違うことがある程度明確になるのではないだろうか。これが専門家ではない素人の論理的視点である。
 そう考えた理由は簡単である。世界中でたばこを目の敵のように扱いだしたのは欧米諸国、つまり白人が多数を占める国である。まずたばこ税がめちゃくちゃ高い(その結果イギリスのたばこは世界一高く、ひと箱1000円以上する)。さらに航空機の全面禁煙を始め、公共機関や飲食店の全面禁煙など、1日に何10本もたばこを吸う日本人にとって欧米旅行は苦痛以外の何物でもない。
 次に、同じ人種であっても様々な要因による個体差を無視できないのではないかとも思う。その個体差の中でも最大の要因が遺伝子にあることはよく知られている。ただ必ず遺伝子が個体差を決定づけているかというと、そういうわけではない。あくまでも統計的比率でガンになりやすい確立が高いか低いかを推測できるだけの話だ。こうした傾向はガンに限らず、ほとんどすべての病気に共通して言えることである。
 ちょっとたばこに深入りしすぎたが、厚生労働省が公表しているアルコールの健康に与える影響の研究結果を『健康日本21』から抜粋しよう。 
   我が国においてアルコール飲料は、古来より祝祭や会食など多くの場面で飲まれるなど、生活・文化の一部として親しまれてきている。一方で、国民の健康の保持という観点からの考慮を必要とする。他の一般食品にはない次のような特性を有している。
  (1)致酔性:飲酒は、意識状態の変容を引き起こす。このために交通事故などの原因の一つになるほか、短時間の多量飲酒による急性アルコール中毒は、死亡の原因になることがある。
  (2)慢性影響による臓器障害:肝疾患、脳卒中、がん等多くの疾患がアルコ   ールと関連する。
  (3)依存性:長期にわたる多量飲酒は、アルコールへの依存を形成し、本人の精神的・身体的健康を損なうとともに、社会への適応性を低下させ、家族等周囲の人々にも深刻な影響を与える。
  (4)未成年者への影響・妊婦を通じた胎児への影響:アルコールの心身への影響は、精神的・身体的発育の途上にある未成年者には大きいとされており、このため、未成年者飲酒禁止法によって、未成年者の飲酒が禁止されている。また、妊娠している女性の飲酒は、胎児性アルコール症候群などの妊娠に関連した異常の危険因子である。
   アルコールに関連する問題は健康に限らず交通事故等、社会的にも及ぶため、世界保健機関では、これらを含め、その総合的対策を講じるよう提言している。
   アルコールに起因する疾病のために1987年には年間1兆957億円が医療費としてかかっていると試算されており、アルコール乱用による本人の収入減などを含めれば、社会全体では約6兆6千億円の社会的費用になるとの推計がある。これを解決するための総合的な取り組みが必要である。
 ではなぜたばこについては社会悪のような扱いをしながら、アルコールについては野放しにしているのか。まず考えられるのは欧米ではあまりアルコール飲料についての厳しい規制をかけていないことから、日本だけ厳しい規制をかけることをためらっているのではないか、ということである。これも素人ゆえに思いついた論理的視点である。
 よく知られている事実は、フランス人はワインを水代わりに飲み、ドイツ人はビールをやはり水代わりに飲んでいるということである。となると疑問に思うのはイギリス人である。これもよく知られている事実だが、イギリスの水は多量の石灰分を含んでおり、洗濯物を干す場合、取り込む直前に乾いた衣類やタオルをパタパタはたいて洗濯物に付着した石灰分の粉を叩き落とすという習慣がいまだ定着しているということだ。イギリスの飲食物がまずいというのは世界中で知られている事実だが(最近はレストランなどでは石灰分を含まないミネラルウォーターを調理には使っているようだ)、はたして家庭での飲料水はミネラルウォーターにしているのか、それともフランスやドイツのようにアルコール飲料で代用しているのか、ご存知の方がいらしたら教えていただきたい。
 つまり、こうした事例から一般的に(あくまで個体差を無視した一般論として)言えることは、白人はアルコール飲料に強いのではないかという推論である。もし日本で朝から水代わりにアルコール飲料を飲む人がいたら、どんなに酒に強い人でも「アル中」の部類に入れられるであろう。
 日本の医療改革は明治維新によって始まった。当然それ以前は東洋医学しか日本では認められていず、明治政府が目指した「日本近代化」はあらゆる分野、制度、産業や文化、教育に至るまですべてを欧米化することと同義であった。この「日本近代化」政策が、今日に至るまで日本のあらゆる分野に大きな痕跡と影響力を残しており、例えば読売新聞の「無能」としか言いようがない記者グループは「昭和時代」という本来なら重要な意味を持つ歴史検証のシリーズを連載しながら、その検証をまったく行っていない。新聞記者にとって「無能」と烙印されることは、私が読売新聞読者センターの某から受けた屈辱的な表現「ねつ造した方ですね」と同様、「死ね」と言われるに等しい屈辱的な表現である。私の場合は、残念ながら電話での会話の中で投げつけられた言葉であって「侮辱罪」が成立するための「公然と」という要件を満たしていなかったため告訴は断念したが、このブログはだれでも読めるものであり、「公然と」という要件を完全に満たしているからぜひ告訴してもらいたい。読売新聞側がどんな大弁護団を組んで私を裁判所に引っ張り出しても、私はたった一人で闘い、勝つ自信がある。
 それはともかく、たばこと酒に対する厚労省のスタンスは依然として「欧米に倣え」という明治体質を引きずっているということを言いたかったのが、このブログの趣旨である。なぜ厚労省はたばこや酒について、その影響度を、まず日本人と欧米人との人種差があることを前提に考え、欧米は欧米、日本は日本、といった当たり前の考え方を前提に(世界中に通用させる必要がない)制度や規制を設けようとしないのか。そういう意味では厚労省の担当者(当然キャリア組も含め)も読売新聞の記者同様「無能」という烙印を押さざるを得ない。
 私が10年ほど前に禁煙に踏み切ったことはすでに書いた。アルコール飲料にドクターストップがかかり、禁酒に踏み切ったのはごく最近の8月4日である。その前日、かかりつけの内科クリニックに診察を受けに行った。血圧降下剤と尿酸値を下げる薬(痛風の治療薬)をもらいに行ったのだが、「小林さん、ちょっと顔色が悪いね。血液検査をしてみましょう」と言われ、別に拒否する理由もないので血液検査をしてもらった。ところがその夜7時ごろ看護師から電話があり、「先生から早急にエコー(超音波による画像診断)検査をしたいというお話がありました。ご都合がつけば明朝8時に来ていただけませんか。なお今日の夕食後は水かお茶以外のものは一切口にしないでください」と言われ、別によんどころない予定もなかったので行ったのである。午前8時というのはもちろん診療時間外の特別診察である。それほどの重大な何かがあったのかと不安に駆られてエコー検査を受けたのだが、そのあと診察室でかなりショックな話があった。
 医師はまず血液検査のデータの説明から始めた。
 ① γ―GTP(アルコールが肝臓に機能障害をもたらす数値):1580(基準値:
   0~70) ※以下カッコ内は基準値を示す数値。
 ② GOT(肝機能が正常か否かを示す数値):72(10~40)
 ③ GPT(同上):31(5~45)
 ④ ZTT(肝硬変を生じている可能性を示す数値)14.6(2.0~12.0)
 ⑤ 中性脂肪(膵臓機能が正常か否かを示す数値):258(35~149)
 以上の五つの数値が異常であることの説明をしたうえで、肝臓のエコー検査による画像をモニターに示し、「この個所が肝硬変を起こしている可能性がきわめて高いと考えられます。機能障害を起こした肝臓を正常化する薬は少なくとも現在はありません。すり減ったタイヤを復元する方法がないのと同じで、タイヤを交換せず使い続けたらますますすり減ってパンクするかスリップして事故を起こすか、お分かりですね。この五つの異常値はすべてアルコールによる内臓障害であることを示しています。ただちに飲酒をやめてください。そうしてくれないと、今後小林さんの健康について責任を持てません」と、いわば最後通告を宣告された感じだった。その日から私は禁酒を始めたのである。
 禁酒の結果は劇的だった。
 このことはあまり公表したくなかったのだが、実は1年ほど前から尿失禁・便失禁になっていた。尿失禁・便失禁を経験したことがない方は「失禁」の意味がお分かりではないだろうが、尿意も便意も感じないのに尿を漏らしたり便を垂れたりすることを「失禁」という。尿失禁の場合は少し時間がたつとパンツが冷たくなるので「あ~、やっちゃった」とわかるのだが、便失禁の場合はトイレに行ったり風呂に入るためパンツを脱ぐまでわからないので厄介なのだ。
もちろん対策がないではない。尿失禁の場合は泌尿器科のクリニックでタムスロシン塩酸塩OD錠という薬(前立腺の尿の通りをよくする薬)を処方してもらって以降治まった。
 便失禁の場合は肛門科も兼ねている例の内科クリニックでロペミンカプセル(下痢止めの薬)を処方してもらった。この薬は大腸の中で便を固める効能がある薬なのだが、定期的に飲み続けると便秘になってしまうという副作用がある。だから、いったん固い便が出るようになったら薬の服用を中断し、また便が軟らかくなったら服用しなければならないのだが、軟らかい便が固くなるのに即効性がなくて数時間かかるのに、効能が切れるのは一瞬で、しばしば突然便失禁を生じたりした。ところが禁酒を始めてから3日も立たないうちに軟便がまったくなくなり、以降ロペミンカプセルはまったく呑んでいない。
 私は週末を除いてほぼ毎日フィットネスクラブに行っているが、禁酒するまでの約2年半の間、ただ風呂に入りに行くくらいで肝心のエクササイズをする気にもなれなかったし、ブログもこの間まったく中断していた。私がブログ活動を再開したのは禁酒生活に入ってから5日目の『仙台育英高校は甲子園大会に出場できるのか?』(8月8日)と題するいじめ問題を取り上げたのが第1弾で、以降 1か月余の期間にこのブログで15回目を数える。しかもこの間フィットネスクラブでは毎日最低3プログラムに参加し、プールで泳いだりジムでも20~30分間の筋トレを欠かしたことがない。フィットネスクラブの友人たちもインストラクターも「一体小林さん、どうなっちゃったの?」と聞くぐらいだ、彼らは私がブログ活動を行っていることを知らないから、もし知ったら腰を抜かすのではないかとひそかに微笑んでいる。
 そうした状況は禁酒を始めて約1か月後に行った血液検査の結果にもはっきり表れた。たったひと月で五つの重要な異常測定値が、すべて著しく下がったのだ。
 ① γ―GTP:1580→403 (基準値:0~70) ※以下カッコ内は基準値
 ② GOT:72→34 (10~40)
 ③ GPT:31→27 (5~45)
 ④ ZTT:14.6→10.3 (2.0~12.0)
 ⑤ 中性脂肪:258→57 (35~149)
 この五つの重要項目の中で「基準値」を超えたのはγ―GTPだけで、あとはすべて基準値内に収まった。特に肝機能状態を示す項目はγ―GTPを除いてすべて正常値になった。γ―GTPの場合は最初が高すぎたためで、数値が4分の1になったことの意味は大きいとの医者の判断だった。
 禁煙したときは健康的にも生活面でも変化は全く感じなかったが、禁酒の効果はもはや多言を要しないことはご理解いただけたと思う。私はこのブログ記事をプリントして厚労省のしかるべき部署に送付するつもりだが、このブログが飲酒規制に何らかの貢献ができれば幸いである。少なくともたばこと同様アルコール飲料の容器に、たばこの箱と同様に危険性の告知を酒造業者に義務づけることを厚労省には望みたい。 
 なお蛇足かもしれないが、このブログで述べたのはアルコール飲料を飲む人の健康への影響だけで、たばこのように受動喫煙のようなケースまで含めて考えると、飲酒運転、飲酒による喧嘩、仕事への影響、経済的問題なども受動喫煙に相当するアルコール飲料のもたらす社会的害悪として考慮に入れなければ、たばこだけを目の敵にする論理的合理性がすでに破たんしていることを付け加えておく。


 

札幌市立中学校1年男子生徒の飛び降り自殺の真相は……

2012-09-09 10:50:55 | Weblog
 皇子山中学校の悲劇以来、しばらく鳴りを潜めていた「いじめ」の犠牲者がまた出たようだ。札幌市立中学校の1年生男子が「いじめられていて死にたい」との「遺書」を残し、5日午前7時ごろ同市白石区の自宅マンションから飛び降り自殺した。ここまではマスコミでも報道されているが、まだネット上にも学校名などの情報は流れていないようだ。ただ男子生徒が通学していた市立中学は白石区内ではなく中央区の学校であること、同級生の中で「いじめがあったと認識していた」生徒が今のところ皆無であることなどから、本当にいじめ自殺だったのかどうかの疑問が残っているため、この事件をネットに流した記者も学校名を記載しなかったのではないか。なぜ「記者」と断定できるかというと、この事件をネットに流した記事に、5日夜の市教育委員会と学校関係者の記者会見の現場写真や、6日朝同校に登校中の生徒たちの写真が掲載されているからだ。いずれにしても、いじめがあったことが事実であると判明した場合は学校名や自殺男子氏名、加害者氏名などもネットに流れるであろう。
 私が「いじめ」問題に取り組むのは、「仙台育英高校」「大津市立皇地山中学校」の「いじめ」事件について3回目である。
 ここでちょっと余談を書く。
 カギカッコの使い方である。別にすべての学生が小説家や活字世界のジャーナリスト、随筆家(エッセイスト)を目指しているのではないから、国語の授業で教える必要はないのだが、これらの職を目指す人にとっては、カギカッコの使い方を知っておく必要がある。実は新聞社や雑誌(月刊誌・週刊誌など)でも新人ジャーナリストにちゃんとした教育をしていない。そもそも新米記者の教育の任に当たるべき上司自身がカギカッコの正しい使い方をご存じないからだ(上司自身もかつての上司からそういう教育を受けていないのだから仕方がないといえば仕方がない)。かく言う私自身もそういう教育を受けたことがない。だからこれから述べるカギカッコの使用法は、私がひょっとしたきっかけで物書きの世界に飛び込んでから試行錯誤しながら自分自身で考えだした「カギカッコ」の使い方である。
 まず小説家が使うカギカッコは基本的に会話文だけである。とくに二人のやり取りの会話をカギカッコを付けずに書いたら、読者が、いったいこれはどっちの発言か混乱してしまう。
 随筆家もあまりカギカッコを使わない。エッセイストがカギカッコを使う場合の多くは、だれか著名人(とは限らないが)が書いた文章を引用する場合か、とくに強調したい言葉(よほどのケースである)に付けるくらいである。エッセイストと言ってもそれぞれ自分の世界を持っており、日常的にだれにでも起こりうる些細なことを独特な感性で読者の感銘や感動を呼び起こすような文章に仕立て上げる人はほとんどカギカッコは使わない。エッセイストではないが、歌人・田原万智の短歌  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  の中で使われたカギカッコ(短歌としてはいわば禁じ手なのだが)、そのカギカッコの使い方の妙が読者の大きな感動を呼んだ。この話し言葉にあえて彼女はカギカッコをつけて強調することで、「サラダ記念日」という言葉に無限の重みを持たせることができたと言える。
 最後に活字ジャーナリストだが、この職種についている人たちが最もカギカッコを使う機会が多いのだが、その正しい使い方を学んでいないため(というよりカギカッコに限らず言葉の使い方ひとつとっても、一つ一つの言葉や句読点の使い方すらまったくわきまえていない人(現場で取材して記事を書く記者に限らず論説委員や編集委員の人たちも)が多いのはどういうことか ?
 私が田原万智の短歌の前後に二文字分のスペースを空けたのはなぜか。彼女の短歌を引用してカギカッコの使い方を説明する場合、ほかにもいろいろ方法がある。ひとつは短歌全体をカギカッコでくくってしまう場合。そういうケースはこういう引用の仕方になる。「『この味がいいね』と君が言ったから……」と。こういう引用の仕方をすると、「サラダ記念日」に無限の重みを与えた何気ない恋人のひとことを短歌の冒頭に持ってきた意味が消えてしまう。つまり凡作になってしまう。
 次に行変え(段落)をするケース。実は私はこのケースを採用すべきかどうかでかなり迷った。彼女の短歌を評価・解釈することが目的だったら、間違いなくそうしていた。しかしあえてそうしなかったのはこの短歌に重みを与えた彼女のカギカッコの使い方を評価することに重点を置くため、一連の文章の中であえて短歌の前後に二文字分のスペースを空ける手法をとったのである。
 ほかにも短歌全体を太文字(ゴシック)にするとか、短歌全体にアンダーラインを引くなどの方法もあるが、今私はワードでブログを書いているからそうした作業も不可能ではないのだが、ブログページに貼り付け投稿した途端、すべてブログ文字に変換されてしまうのでゴシック体やアンダーラインは消えてしまう(文章自体は残る)。
 活字ジャーナリストが使うカギカッコにはどういうケースがあるか。一番多いのは取材相手の発言(あるいは談話)を記事にする場合、必ずカギカッコを付ける。その取材相手が発言(談話)の中で第三者の発言(談話)を取り上げて何らかの主張(意見)を述べた場合、第三者の発言(談話)内容を二重カギカッコ(『……』)でくくるか、第三者の発言(談話)の前後に句読点を入れるかのどちらかにする。どちらを選択するかはジャーナリストの習慣か、その都度どの方法を採用すべきか考えるケースがある。私自身は後者のほうで、しばしば迷うことがある。
 さらに事実かどうかの確認ができないため事実上疑問符をつける意味でカギカッコを付けるケースだ。私がこの記事の冒頭で、いじめ、という言葉にカギカッコを付けたのはそういうケースである。
 また、たとえば日中間で領有権を巡って争いが生じている尖閣諸島の場合、日本は尖閣諸島の最大の島を魚釣島と称し、中国は尖閣諸島全体を魚釣島と称している。私はこの一文では魚釣島に両方ともカギカッコを付けなかったが、ジャーナリストがこの問題について記事を書く場合、日本側の行動(例えば尖閣諸島を政府が買い上げることにしたこと)について魚釣島と書く場合は絶対カギカッコを付けない。一般に日本政府の決定に中国が抗議した場合に中国側の抗議に使用された「魚釣島」にはカギカッコを付けるべきである。
 私が今回の「いじめ自殺」事件に関してカギカッコの使用法を解説したのは活字ジャーナリストへのアドバイスという形をとったが、読者側にとっても、そういう意識を持って新聞や雑誌類を読めば、読解力が格段に上達すると思うからだ」。余談はこの辺で終える。
 いまワードでブログ記事を書いているのは8日の早朝である。この記事を書き始めたのは6日のやはり早朝。その間、疲労感が激しく、とてもパソコンに向かう気になれなかった。いまも疲労感は残っているが、尿意を催して目が覚めてしまったのでブログの続きを書くことにしたというわけだ。
 さて新聞やテレビニュースでは、その後、この事件についての報道がまったくなかったので、ネットで調べてみた。その結果、ネットで3件だけ関連情報が流されていた。そのうち1件は、札幌市教育委員会の発表で、自殺した生徒が通っていた中学校の生徒にアンケートをとったが「いじめ」は確認できなかったということと、外部有識者を加えた調査検討委員会の設置を決めたということだった。この件をマスコミが報道しなかったということ自体、マスコミは「事件性がない」と判断したのだろう。すでに私はこの記事の冒頭でカギカッコをつけて「いじめ」と書いており、カギカッコの意味まで説明した。
 もう一つ自殺した生徒の手帳には「いじめ」が原因ではないことをほのめかす重要な手記があったことが明らかになった。その手記には家族に対して「ありがとう」という感謝の言葉と、「死んだらどうなるか知りたい」という、明らかにいじめとは無関係な内容の記述もあった。そうなるとこの自殺は「愉快犯」に類似した行為ということになる。愉快犯とは、人や社会を恐怖や大混乱に陥れ、世間を騒がして喜ぶ類の行為で、その行為が法に触れれば犯罪となる。自殺した中学1年生の場合、死んでしまうわけだから関係者(団体)を大混乱に陥れ喜ぶことはできないのだが、自殺の原因を「いじめ」と書き、学校や教育委員会、マスコミまで巻き込んで、彼らが事実上存在しない加害者探しに奔走する様を想像したのではないか、と思わせるに足る極めて重要な記述である。この記述は「いじめられていて死にたい」という「遺書」が書かれた同じ生徒手帳に書かれており、道警や市教委はなぜ生徒手帳を精査せずに一部だけを発表したのか理解に苦しむ。
 最後に、絶対許せないのは『美少女完全マニュアル』なるブログの筆者である。氏名・年齢不詳。顔写真のみ掲載されているが、氏名不詳のため本人かどうかも分からないM.Keiなる人物である。彼はこの事件を扱ったブログ記事でこう書いている。
「男子生徒のマンション転落事故の原因はわかっていません」「今回のブログでは、自殺と関係する病気『うつ病』について紹介します」(小林注・この文章自体が読者を錯覚させるための極めて悪質な誘導的記述である。その証明は後でする)「自殺をしたい人は、うつ病にかかっています」と自殺とうつ病の「関連性」について専門医なら絶対に否定する「新学説」を発表している。そのうえで「抗うつ薬」「抗不安剤」「睡眠薬」をいくつか紹介し、そのあと自分がネット販売しているLトリプトファンなる「心をサポートするサプリメント」(3980円。1日2錠で67円未満。税込・送料別)の営業活動を行っている。ブログやツイッターは検索エンジンが無料で提供しているサービスの一つで、当然ながら営業活動をブログで行うことは禁止されている。なおこの卑劣な行為を行っているM.Keiなる人物のブログは楽天ブログに載っている。
 彼の卑劣さはこの程度ではない。まず、学歴・職歴・専門分野が、詐称すれすれの自己紹介を行っていることだ。彼がブログに記載している略歴はこうだ。
  藤田保健衛生大学卒。
  元三重大学医学部付属病院勤務。
  皮膚科学専門
 まず藤田保健衛生大学とはどういう大学なのか。愛知県豊明市に現存する大学で医学部・医療科学部の2学部を擁する。医学部は医者を育てる学部で、国家試験に合格させるための教育を行う。そこは他の学部と大きく異なる点で、例えば法学部は法律家(裁判官・検察官・弁護士など)を育てることを必ずしも目的にしていない。
 彼は皮膚科医と称さず「皮膚科学専門」と称しているから医学部ではなく医療科学科で学んだことになる。つまり医師資格を得るための医学部ではなく医師の管理下で医療補助を行う人を養成するのが医療科学部なのである。
 では医療科学部にはどんな学科があるか、興味がそそられるではないか。
 実は医療科学部には彼が学んだ当時、臨床検査学科・看護学科・放射線学科・リハビリテーション学科の四つしかなかった。つまり彼が専門と称している皮膚学科なる学科はなかったのである。同学部は2,008年に2つの学科を新設したが、その中にも皮膚学科はない。では彼は皮膚科学という専門的医学知識をどこで学んだのかという疑問が生じる。
 さらに彼の職歴として記載されている元「三重大学医学部付属病院勤務」というという表現のまやかしである。「勤務」したこと自体は事実だろう。が、病院勤務にもいろいろな職種がある。医師だけでなく、薬剤師、看護師、受付、掃除婦、さらにアルバイトなども履歴上は「勤務」の範疇に入る。問題は、彼が三重大学医学部付属病院で、どのような職種に就いていたかだ。そしてその職種と自称「皮膚科学専門家」がどう結びつくかだ。少なくとも彼が卒業した大学には皮膚科学を学ぶ学科はないので、大学で学ぶことは不可能なはずだ。        
 しかし三重大学医学部付属病院には診療科目の中には間違いなく「皮膚科」は存在する。以下は私の想像だが、その皮膚科で専門医のもとで何らかの補助的業務に携わったことがあるのではないだろうか。その場合、医療知識について一番勉強できる状況にあるのは看護師である。もちろん看護師になるには国家試験に合格する必要があるが、例えば大学の法学部を卒業しなくても独学で法律の知識を勉強して司法試験に通れば、裁判官や検察官、弁護士などの職に就ける資格が得られる。またほとんどの大学が教育学科は設けていなくても、教師志望の学生のために必須のカリキュラムは設けている。おそらく彼の場合、看護師資格を取るため大学で看護師学科を専攻したか、他の学科で看護師資格を取るために必要なカリキュラムを受講したかで看護師になり、三重大学付属病院の皮膚科に、たまたま配属されたと考えるのが自然である。つまり自称「皮膚科学専門」は限りなく詐称に近い自己紹介と言うしかない。
 この辺でM。Kei氏に対する告発はやめておこう。私は彼がネットで販売しているサプリメントやクリームなどに対する評価をする立場でもないし、またその分野での知識もないので、買うか買わないかはそれぞれの方の自己責任だということだけ指摘しておく。
 本題に戻るが、昨日(8日)現在、札幌市立中学1年生男子の自殺についての新しい情報はマスコミでもネットでも流されていない。ということは、やはり私が予想した通り「愉快犯」の類似形だったようだ。自らの命をかけて学校関係者や世間を大騒ぎさせるという彼の目論見(あくまで私の論理的推測による結論、ということをお断りしておく)は見事に外れてしまったようだ。それはそれで、このままそっと無視してしまうのが最善の方法だと思う。どっちに転んだにせよ、マスコミやネットが後追い情報を流すような事態になると、「愉快犯」的自殺が社会現象化しかねないからだ。むしろ問題は、こういう形でしか自己のアイデンティティを証明する手段を持てなかったような、彼の社会環境(学校、家庭、友人関係など)をきちんと解明して。再発を未然に防ぐ方策を考えることだと思う。
 

原発ゼロにしたら国民生活と経済活動はどうなる? (後編)

2012-09-03 10:43:09 | Weblog
 さて本論に戻ろう。前回の記事で政府が三つの選択肢を設定してアンケートをとった本当の理由とそのバカさ加減について述べた。では3回行われたアンケートの結果はどうだったのかを見てみよう。
 アンケートで行われた三つの選択肢の問題点は前回の記事で一部を指摘したが(ということは他にもあるということ。その致命的とも言える問題点の指摘は後述する)、改めて政府が国民に選択を迫った三つの選択肢をもう一度明らかにしておこう。
   ① 0%   ② 15%   ③ 20~25%
 まず1回目の世論調査は全国11か所での「意見聴取会」という形で行われた。その結果は、政府の期待を完全に裏切るものだった。政府は②を選択する人が最も多いはずだと、キャリア官僚が知恵の限りを尽くして作った選択肢だったが、その期待は空回りに終わった。それぞれの選択肢の支持率はこうだった。
   ① 68%   ② 11%   ③ 21%
 続いてインターネットなどで行われた「意見公募」の結果はもっとさんたんたるものだった。60年安保改定時に国会がデモ隊に囲まれて、総理官邸に閉じ込められた岸信介総理が吐いた「名言」が残っている。「声なき声は私を支持してくれている」というのがそれだ。カギカッコを付けながら私が「名言」と評したのは実際そういう結果になったからだ。60年安保の時に声を上げたのは学生運動家や労働組合の活動家が中心になり、彼らの扇動に乗った一般市民やノンポリ学生たちだった。確かに60年安保闘争は戦後最大の反政府運動に発展したが、その声がさらに拡大の一途をたどったかというと、そうではなかった。ノンポリ学生や一般市民が立ち上がったのは、衆院で強行採決した自民党内閣に対する一過性の怒りに過ぎず、国民は岸内閣の退陣後も自民党政権の継続を望んだのである。安保闘争の盛り上がりの先に「共産主義革命」を夢見た新左翼の活動家たちの夢はもろくも崩れ去り、それ以降少数の新左翼学生たちの活動は先鋭化していく一方、ノンポリ学生や一般市民との距離はどんどん遠のいていった。その辺は何十年と民主化を要求して、そのシンボル的存在のスーチー氏に対する支持勢力が年々増え、とうとう軍部の独裁政権に風穴をあけたミャンマー国民の根強い反政府運動とは一線を画すものだったことは間違いない。そういう意味では結果論だが、デモ隊だけでなくマスコミからも袋叩きにあっていた岸総理が吐いた「声なき声は私を支持している」というのはまさに名言(あえてカギカッコを外した)だったと言えよう。
 一見原発問題とは関係がなさそうに見える安保闘争とミャンマーの民主化運動について触れたのは、現在の反原発運動は一過性に終わる、と私は見ているからである。だが、一過性に終わらせるためにはそれなりの努力が必要だ、
 2回目の調査はインターネットを中心にした「意見公募」によって行われた。「意見公募」に応じた人は政府予想をはるかに上回る8万9千件もの意見が寄せられた。その結果はこうだった。
   ① 87%   ② 1%   ③ 8%   ④ 「その他」4%
 ④の「その他」という選択肢は政府は設けていなかった。が、政府が自分たちにとって都合がいい結果を誘導するための三つの選択肢に疑問を持った人たちが4%もいたことを証明したと言えなくもない。
 そもそも「意見公募」に応じた人は受動的な立場ではなく、能動的立場で意見を表明するのが常である。たとえば、プロ野球の「夢の球宴」と言われるオールスターの人気投票も、個々の選手の実力を客観的に評価しての投票ではなく、投票時に自分のひいきチームが好調なときはそのチームで多少活躍している選手を優先的に選ぶ。日本のプロ野球の場合、巨人と阪神が常に人気争いをしてきたが(他の球団にファンがいないなどと言っているわけではない。2球団だけが全国的な人気球団であって、特に阪神の場合は阪神の主催ゲームではなくても、観客席の半分以上を阪神ファンが占めてしまうという状態が続いている)、あまり人気がない球団が首位争いをしていた場合はファン投票が拡散する傾向がまま見られるが、特に阪神の場合は首位を突っ走っているような場合は全ポジションを阪神選手が独占してしまうケースがしばしば見られる。そうなるのは阪神ファンの場合、全国各地に「猛虎会」のようなファングループがあって、阪神の試合がある日は特定の居酒屋に結集し、あたかも球場で応援しているがごとき一喜一憂の大騒ぎに興じるといった独特なファン層がいるからだ。
 「意見公募」の場合も、それに似た風潮が応募結果に表れたと言っても差し支えないだろう。そういう意味では「その他」という意見を能動的に応募した人が4%もいたということは、日本人の民主主義に対する成熟度が増しつつあると考えてもいいのではないかと思う(その傾向は3回目でさらに強まる)。
 「意見公募」とオールスターの人気投票はいずれも能動的応募・投票だが、マスコミが定期的(だいたい毎月)に行う「内閣支持率調査」は、意見を求める相手の電話番号はコンピュータがアトランダムに選び、その人に電話で意見を聞くという方法のため、聞かれた相手にとっては受動的立場にあるため回答率はかなり低くなる。つまり能動的に自分の意見を述べる行為と受動的に意見を聞かれるケースとでは、意見の重みがまるで違うのである。もっと具体的に言えば、能動的意見を述べる機会が与えられた場合は、意見が偏る傾向が大きくなりがちだということをまず念頭に置いていただきたいのだ。そうでないと3回目の「討論型世論調査」の結果が、1,2回目の世論調査の結果とかなりの差異が生じたことを理解できない。
 ではもう一度政府が行った世論調査の方法と、1,2回目の調査結果と3回目の調査結果を並列してみよう。政府はすでに書いたように、①:0%、②:15%、③:20~25%の三つの選択肢を設け、どの選択肢を選ぶかの能動的意見を3回にわたり聞くことにした。1回目は全国11か所で行った「意見聴取会」で、政府はあえて原発の必要性を説明せず、率直な国民感情を読み取ろうとした。2回目はさらに匿名で選択できるようにインターネットを中心とした(ハガキも可)意見聴取を行った。3回目の「討論型世論調査」では原発の必要性を訴える立場にある人(経産省の職員も出席した可能性もある)も交え、言うならディベート方式で原発の必要性や危険性を論じ合う形で世論調査を行った。
 1回目   ① 68%  ② 11%  ③ 21%
 2回目   ① 87%  ② 1%   ③ 8%   ④4%(その他)
 3回目   ① 46.7%  ② 15.4%(原発依存率15%程度)  ③ 13%(20     ~25%程度)  ④ 24.1%(その他)
 この結果から読み取れる最大の特徴は、1,2回目の調査では圧倒的多数を占めていた脱原発派が、3回目の調査では過半数を切ったということである。
 次に、政府が世論調査で国民が支持せざるを得ないだろうと勝手に思い込んでいた「落としどころ」の原発依存度15%に対する支持率が、2回目の調査ではなんとたったの1%でしかなかったという、政府にとって大ショックな結果が出たことである。
 そして三つ目の大きな特徴は原発容認派(②+③)が、1回目の調査では32%を占めていたのが、2回目の調査では一桁台の9%に低下したものの、3回目には再び28.4%に回復したことである。そして3回目の調査で激減した脱原発派が大幅に減少したことで、原発容認派が増えたかというと、2回目の調査よりは増えたものの、1回目の調査より3.6%減っており反対派が容認派に転向したわけではないことも明らかになった。その一方で「その他」が一気に24.1%と2回目より大幅に増えたことは、日本が原発ゼロにした場合国民生活にどんな影響が生じるのか、脱原発を宣言したユーロ圏最大の経済大国ドイツでどういう現象が生じているかの情報も日本に伝わってきたことで、感情に溺れず改めて日本における原発の在り方を見直してみたい、という「冷静派」が急増したということを意味しているのではないだろうか。私はそれだけ日本人の思考力が民主主義の社会において成熟しつつあるのではないかと考えている。
 政府が読み誤ったのは、いったんは感情に溺れても日時の経過と情報量の増大で、日本人は次第に冷静な判断をするようになってきたということを理解していなかったことが最大の要因である。
 消費税問題一つとってもそうだ。
 消費税導入が初めて政治課題として浮上したのは意外に古く、34年も前の1978年(昭和53年)で、第一次大平内閣の時である。が、逆進性が大きい消費税に国民が反発して、政府はすぐ撤回している。その後も中曽根内閣の時に売上税構想が練られたりするなど、自民党政権にとって税制改革は憲法改正と並ぶ2大目標であった。
 その悲願ともいうべき3%の消費税導入に成功したのは1988年(昭和63年)の竹下内閣の時だった。所費税導入に成功したのは。それまで税制改革に批判的な態度をとってきたマスコミ界が、姿勢を180度転換して支持するスタンスに変えたせいでもある。このとき竹下内閣がマスコミに対して殺し文句として使ったのが「消費税導入の2大理由」である。その一つは「もはや日本はアメリカに次ぐ世界第2の経済大国になった。国民も等しくその恩恵を被ってきた。いつまでもシャウプ勧告に従った極端な累進課税を見直し、欧米先進国並みの税制にすべきだ」というのがその一つ。もう一つは「職業についている人は、その人の能力と努力に応じて報酬を貰っている。しかしそうして得た高額所得者に過酷な累進課税をいつまでも続けると、彼らの働く意欲を削いでしまうだけでなく、高額所得者に対する課税が日本に比べて少ないアメリカなどへの頭脳流出に歯止めをかけられない」というものだった。この二つの殺し文句でマスコミはスタンスをコロッと変えてしまった。だが、国民はこの殺し文句に引っかからなかった。要するに「消費税導入の目的は、高額所得層に対する税負担を軽減するために、逆進性の高い消費税を国民に押し付けるのが目的だ」と反発し、総選挙の結果を受けて竹下内閣は退陣を余儀なくされたのである。次いで1997年(平成9年)には橋本内閣が消費税を5%に引き上げ、また総選挙の審判を受けて内閣は退陣した。
 ちなみに、またちょっと余談を述べさせていただきたいのだが、この2回にわたる消費税導入が、実はバブル経済を生む大きな原因となった。「なんのこっちゃ」と思われる方が大半だと思うので、簡単にその理由を述べておきたい。要するに、消費税導入によって高額所得者の税負担が大幅に減少した。つまりその分可処分所得が増えたことを意味する。その金を高額所得層が消費に回していれば内需が一層拡大して企業が儲かり、税収は消費税と法人税の増加によって国家財政は健全化し、社会保障制度も充実させることができたはずだった。
 が、そうはならなかった。高額所得者は余剰可処分所得を、消費に回すのではなく、さらに資産を増やすべく投資(結果的に言えば投機だったのだが)に多額の資金を注ぎ込んでいったのだ。その結果不動産や株、ゴルフ会員権、絵画などの相場がうなぎのぼりで上昇していった。
 たとえばこんなエピソードが流布されたのもこのバブル経済を象徴している。日本1というより世界1と言ってもいい高額の小金井カントリー倶楽部会員権の相場が4億円に達した時期のことである。ある小金井カントリー倶楽部のメンバーが同伴したアメリカ人プレーヤーに「ここは今4億円もするんだぜ」と自慢話をした(その人は、すごいだろうと言いたかったのだと思う)。アメリカ人は「それは安いね。アメリカだったらこれだけのゴルフ場を4億円ではとても買えないよ」と感嘆の声を上げた。メンバーは慌てて「いやゴルフ場の値段ではなく、会員権つまりプレー権の相場のことだよ」とアメリカ人の誤解を解いた。アメリカ人は口をあんぐり開けて一言「オーマイ、クレイジー」と言ったとさ。
 当時一流銀行の営業マンが、取引先の業者の「営業マン」のごとく、開発中の住宅地やゴルフの会員権を売りまくったことは知る人ぞ知る話だ。こうした銀行員の行為は当然銀行法に触れるから、銀行の営業活動の一環としてはできないはずで、おそらく就業時間内の個人的アルバイトだったのだろう。極め付きは、友人に誘われて10人前後のグループで仙台市郊外の宅地開発地を見に行ったことがある。驚いたのは、このグループに某大銀行の支店長が同行し、業者営業マンの説明を引き継いで「今なら開発完了後の売り出し価格よりかなり安くで買えます。購入価格の全額を当行が融資しますから資金的問題はまったくありません」と購入を勧めたことである。まさにバブルの片棒を担いだ銀行を、公的資金を投入して救済した政府は、何を考えているのかと言いたい。
 バブルの演出者であった銀行と、その銀行を救済した政府(あまりにも悪質だった北海道拓殖銀行は、政府もさすがに見放したが)に対する批判はこの辺で打ち切るが、今の日本人の成熟度は、政府が考えているよりはるかに進んでいる。その何よりもの証拠は、今国会で成立した消費税増税に対して反対運動はほとんど生じず、むしろ理解を示していることからも明らかである。いまは民主党の支持率は低下の一途をたどっているが、もし自民党が消費税問題を政局にするため、参議院で反対票を投じて法案の成立を阻んでいたら、自民支持率は暴落し、民主党は次の総選挙で漁夫の利を得ていた可能性がかなり高くなっていたであろう。
 そういう国民の意識の変化をまったく見抜けなかったのが、小沢一郎氏と、彼と行動を共にした小沢チルドレンの一部の国会議員だった。確かに民主党は先の参院選で消費税増税をマニフェストでうたっていなかったことは事実だが、かといって「消費税増税はしない」ともマニフェストでは主張していない。「マニフェストでうたわなかったことをやろうというのはマニフェスト違反だ」という小沢氏の屁理屈には、さすがに小沢チルドレンの大半が反発して小沢氏と行動を共にしなかったのは国会議員の良識ある行動だったと私は評価している。少なくとも小沢氏が「消費税増税なき社会保障制度」の設計図を示していたら、小沢氏と行動を共にした議員は数倍に増えていたであろう。私は小沢氏が政治の表舞台から姿を消すのはそう遠くないだろうと思っている。
 余談はこの辺で打ち切って原発問題に戻ろう。
 日本には現在50基の原子炉が存在する。その中で今稼働しているのは大飯原発の2基だけである。まさに電力供給は綱渡り状態にある。
 政府はもともとは原発による電力供給を35%まで引き上げる予定でいた。理由は大きく分けて三つある。
 ひとつは何と言っても燃料原のウラン鉱山が(日本国内ではほとんど未開発だが)世界各地に分散しており、供給元の選択肢がかなりあり、その結果原料調達のコストも比較的安定していること。
 二つ目は地球温暖化の最大の要因とされている化石燃料(石油・天然ガス・石炭)を使用する火力発電所を今以上に増やしたくないというスタンスを堅持し、エネルギー問題と地球温暖化問題についての国際発言力を増大したいという狙い。
 最後に火山と地震の世界的「大国」である日本には原発建設のための立地条件が極めて厳しく、新たな建設予定地を探すのがかなり困難であることから電力供給の原発依存度は35%が限界とみなしていること。
 またこれまで日本の原子炉の平均稼働率は欧米の平均稼働率の80%をかなり下回る平均70%にとどまっていた。欧米は定期点検の期間は当然原子炉を止めるが、コンピュータによるストレステストの期間は原子炉を止めない。その必要がないからだ。それに対し日本は、ストレステストの期間中も原子炉を止めている。
 原子炉に限ったことではないが、電力で稼働状態を止めたり再稼働する場合の機械や装置にかかる負荷はかなり大きくなる。厳密に言うと止めるときはそれほどでもないが、再稼働するときの負荷は相当大きい。しかも機械や装置にかかる負荷だけでなく、再稼働するときの電力消費量は通常運転しているときの数倍から数十倍消費してしまう。例えば自動車の場合、バッテリーの性能が経年劣化してくるとスタートするときセルを回してもエンジンが一発ではかからず、困った経験は皆さんされているはずだ。もっと身近な話では蛍光灯をしょっちゅう点けたり消したりすると蛍光灯の寿命も短くなるし、点けるときにかなりの量の電気を消費する。だから台所などの蛍光灯は相当の時間台所を離れるのでなければ、点けっぱなしにしておいた方がいいということはご存知だろう。また比較的短い時間しか照明を点けない場所(トイレや玄関など)には蛍光灯は付けないのもそのためだ。
 日本の場合、ストレステストの期間中も原子炉を止めてきたのは、ストレステストによって重大な欠陥や自然災害によるリスクの大きさがわかった場合、急きょ原子炉を止めなくてはならなくなる。そして再稼働する際に原子炉にかかる負荷の大きさを考えると、定期点検が終わってもストレステストで安全が確認されるまでは原子炉を再稼働させないほうがいいと考えたのではないだろうか。もちろん活火山の周辺や、当時の研究レベルで発見されていた地下の活断層の周辺には原発は作ってこなかった。そのくらい安全性については厳しい基準と対策を電力会社は設けてきたのである。そういう意味では東日本大震災による福島第1原子力発電所の大事故は想定外の大震災に見舞われたという不幸なケースであり、一概に東電の責任だけを追及すれば問題が解決するというわけではない。このことはすでにこの長いブログの前編で書いたが、被害を大きくしたのはひとえに素人総理の管直人氏が、厚生大臣時代に血液製剤の問題点をすでに把握していた厚生省(当時)の記録を見つけ(管氏が自分で見つけたとは考えにくい。おそらく当時の厚生省の心ある職員が、菅氏なら血液製剤で感染したエイズ患者の立場になって早期問題解決に乗り出してくれるのではないかという期待から極秘情報を管氏に提供したのだと思う)、ただちに訴訟を起こしていた原告(エイズ患者)に深く謝罪し、一気に問題を解決した「手腕」を再び発揮して国民的英雄への返り咲きを狙ったとしか思えない不可解な行動に出て現場の大混乱を招き、被害の拡大を招いたことを考えると国の責任は極めて大きいと言わざるを得ない。もちろん事故後の東電の危機管理体制の欠陥が露呈したことは、管氏に責任を押し付けて解決できる問題ではない。
 私は東電を実質国有化して経営の立て直しを図ろうとしている国の対策は、さらに国民を愚弄するに等しい行為だと考えている。私はいったん東電に「会社更生法」を申請させ(実質的倒産)、私利私欲に走らない正義感の強い弁護士に経営の実権をゆだね、東電の垢を徹底的に洗い出し、人員の大幅削減、施設の大胆な整理・売却(都心の1等地にある本社も売却して、大半の本社機能を東北3県や千葉県などの、地価が暴落している被災地域に移して、東京には経産省や原子力安全委員会などとの折衝に当たらなければならない、せいぜい数十人程度の人員が仕事をできるスペースを賃貸ビルに確保すればいい)、企業年金の廃止(リタイアした元社員も含む。これは過酷のように見えるが、会社が倒産したのだからやむを得ない)などのコストダウンを徹底的に行い、そうして浮いた余剰資金の半分は被害者への賠償に充て、残り半分は既存原発を想定外の自然災害からも守れるよう安全策の向上のために使うべきだと思う(半々としたのは、はっきり言って素人判断で、その配分比率は専門家たちが知恵を絞って決めてくれればいい。ただし余剰資金を電気料金のアップ率を下げるために使うべきではない)。安全策についても素人考えだが、相当年数のたった原発については建屋の補強対策、原子炉容器や配管を、現在最も強度が強く耐久性も高いチタン合金で被膜するなどの方策が考えられよう。そうしたことに余剰資金を使うことによって、国民の原発に対する信頼感を回復することを、会社更生法適用後に新経営陣が取り組むべき最優先課題だと思う。
 またこの機会に他の電力会社も「対岸の火」と傍観するのではなく、私が提案した既存原発の安全性を高めるための努力を行ってほしい。余裕資金のある電力会社だけとは限らないので、消費者に目的をきちんと説明し「合理化努力もするが、多少の値上げをお願いしたい」と誠意を示せば、大方の消費者は納得してくれるはずだ。
 私が長々と書いた余談で、日本人の思考力は急速に成熟化しつつあると書いてきたのは、このことを言いたかったためである。大新聞社を始め、このような日本国民の成熟度を見誤ると、国民のマスコミ離れはますます進行する一方になることを心してほしい。
 さて「後編」も許容文字数が限界に達しつつある。そろそろ記述を「起承転結」の「結」に移していきたい。
 政府が行った3回目の世論調査「討論型」では何度も書いたように「原発ゼロ派」は1,2回目に比べかなり減りはしたものの、依然として50%近い多数派であることは疑いを入れない。この46.7%は全回答者の中に占める割合で、「その他」(政府が設定した三つの選択肢のうちから一つを選ばせるという趣旨をあくまで基準として考え、この24.9%を「無効票」扱いにすると、有効回答率は75.1%になる)を除くと実質「原発ゼロ派」は一気に62.2%に跳ね上がる。もちろんこれはあえてレトリック手法を悪用した計算法で、すでに私は「その他」25.1%について、冷静に原発問題を考え直してみようという、原発に対する考え方の基準を白紙に戻した人たちだろうと書いており、あえてレトリック手法を使ってみたのは政府の世論調査がいかにでたらめだったかを証明することが目的だったことをお断りしておきたい。
 では原発問題で、国民の意思を問うにはまず政府がフェアなアンケートの設定をしなければいけなかった。三つの選択肢を意図的に設け、そのうちの一つを選ばせようなどという試みは、すでに書いたが官憲がしばしば行う「誘導尋問」と極めて類似したやり方である。
 これもすでに書いたが、現在日本の原子炉(広義な意味で原発と言ってもいいだろう。マスコミはすでに広義な意味で原発と言っている)は50基あり、平常時の稼働率は70%だ。つまり平常時なら35基の原発が稼働していなければならないのだが、現在稼働しているのは大飯原発の2基だけである。大事故を起こした東電の管轄内原発はすべで稼働を停止しており、いつ、どの原発が再稼働できるかの見通しは全く立っていない。
 そうした状況を踏まえ、8電力会社が擁している原発の数(厳密には原子炉の数)と、それぞれの出力電力量をまず明らかにすること(たとえば。1997年に7号基が稼働を始めた新潟県の柏崎刈羽原発の出力数は最大で871万2千キロワットに達し、当時世界最大の原発になったが、地理的には北陸電力の管轄内だが東電が擁する原発である)。
 で、原発の立地ではなく各電力会社が要する原発の総数と合計最大出力数(原発稼働率の全国平均70%ではなく、各電力会社が擁する原発の合計最大出力数の何%が平均して出力されているかを各電力会社ごとに明らかにすることと、各電力会社ごと(管轄内地域)の年間平均の原発依存度を明らかにすること、そのうえで各電力会社の管轄内の住民に対し、それぞれの地域での原発依存度について判断を仰ぐというのが最もフェアで、かつ国民がより適正な判断をすることができる唯一の手段であった。
 その場合、世論調査を行う際の参考資料として、欧米先進国の大まかな地域別原発依存度を明らかにできれば、国民の判断はさらに適正度を増すと思われる。
 私が「大まかな」と書いたのは、例えば東電管轄内でも原発依存度を高める必要がある地域と、そういう必要があまりない地域が混在しているからだ。例えば東京23区内や横浜、川崎、千葉の臨海工業地域などは当然のことながら二酸化炭素の排出量が大きくなるし、電力需要も大きい。そういう地域の原発依存度を高めることは電力会社の社会的責任として重要なことだし、また政府は実質的に東電を国有化したわけだから、ただ東電の経営再建を図るだけでなく、(配電網の配置換えなどかなりの資金が必要にはなるが)公共事業の在り方の模範例を示す意気込みで取り組んでもらいたい。

原発ゼロにしたら国民生活と経済活動はどうなる? (前編)

2012-09-03 10:30:40 | Weblog
 大飯原発の再稼働を受けて反原発運動が全国的な規模で広がっている。広島・長崎と、2度にわたる米軍による原爆投下で数十万人の犠牲者を出した日本人の脳裏には深く刻み込まれた「反原子力」の遺伝子が、東電の福島原発の大事故で目を覚まし、大飯原発の再稼働で一気に反原発運動が燎原之火のごとく燃え広がりだしたのだ。首都・東京でも毎週金曜日に総理官邸周辺に一般市民が普段の外出着で集まり、穏やかなデモをする光景が風物詩になりつつある。ある意味ではそういう国民感情を私も理解できないことはない。
 実は60年安保闘争以来、社会現象にまでなった「全共闘」時代、そのエネルギーを引き継いだ70年安保闘争、さらにその時代と重なった時期もある成田新国際空港反対闘争(「25年闘争」とも言われた長期戦)まで新左翼集団が主導的立場で反対運動をリードしてきた。
 ところが現在全国的に広がりつつある反原発の運動は、ツィッターの呼びかけに応じて右とか左とかいった思想的立場と無縁な一般市民がデモに参加しているという。
成田闘争の場合は、候補地にされた三里塚の農民を中心に近隣の住民が始めた反対運動に、「支援」を口実にして新左翼の中核派が合流、いつの間にか主導権を握って活動の方向性を反権力・反体制に導いていった。当初は中核派の衣をかぶった「支援」の申し出に感謝していた農民たちの中から反発するグループが生まれ、肝心の闘争主体であったはずの農民たちの「反対同盟」が分裂、そこを政府側に付け込まれ反対運動はあっという間に崩壊したしまったという経緯がある。
今回の場合、新左翼の学生運動グループが、久しぶりに生まれた「反原発」運動に紛れ込んで、成田闘争のように主導権を握って運動の方向を左翼化しようと試みるかどうかは、いまのところ不明だが、私自身若いころの経験で言えば(かつて私は新左翼の学生運動に参加した時期があるので)、新左翼集団が「反原発」運動に介入し、左翼化を図ろうとする可能性は小さくないと思う。。
ただ生活がかかっていた農民たちが始めた成田闘争と違い、素朴な国民感情だけでデモに参加した一般市民が新左翼集団の容喙を許すかどうかは疑問である。ヘルメットをかぶり旗竿を持った学生グループがデモ隊に合流しようとした途端、「お前たちは出て行け!!」といったシュプレヒコールが生じるのは必至だろう。
反原発運動が左翼化するかどうかは、今のところ推測の域を出ないが、反対派が、政府の行った世論調査の結果に勇気づけられたことだけは間違いないだろう。政府は最悪の時期に、しかも最悪かつ姑息な方法で世論調査を行い、かえって窮地に追い込まれてしまった。福島第一原子力発電所の事故以来、政府がやってきたことは後手後手に回っただけでなく、原子力について全くの素人に過ぎない管直人総理(当時)が事故現場に対して愚かとしか言いようのない指示を繰り返した結果、現場が混乱し、かえって被害の拡大化を招いてしまったこと、さらに「加害者」と言えなくもない東京電力が待ったなしの状況でありながら適切なタイミングで適切な手を打たなかった結果被害の拡大を招いてしまったこと、さらにその後の東電が行った事故の検証結果を即座に開示せず、本社とのテレビ会議の録画も事故から1年半近くたってから、しかもその一部(昨年3月11日夕から16日までの5日間余)しか開示せず、さらに一部はモザイクをかけた映像のみで音声はカットするなど、東電の危機管理の甘さと不誠実さを「これでもか、これでもか」というまで見せつけられた国民が、反原発という市民感情を全国的規模で共有してしまったのは当然すぎるほど当然であった。
さらに政府は愚かなことに、そういう最悪な時期に世論調査を行うというばかげた行為に出た(世論調査は3回行われ、1回目は全国11か所での「意見聴取会」での意見聴取、2回目は12日に締め切られた意見公募で約6万件の意見が国民から寄せられた)。しかもその世論調査の内容が、国民をこども扱いするかのようなふざけたものだった。
政府が行った調査方法は、2030年における原発依存度を以下の3つの選択肢から選べ、というアンケートだった。  
①0%  ②15%  ③20~25%
実は自公内閣時代から政府は、将来の原発依存度を35%まで引き上げる計画を立てていた。日本が提案した京都議定書を、肝心の日本が自ら反故にするわけにはいかず、地球温暖化の最大の要因である火力発電所に付き物の二酸化炭素ガスをまったく排出せず、環境にやさしい(危険性の問題はとりあえず無視)原発依存度を高めるというのが日本のエネルギー戦略だった。その35%という目標を自ら放棄して、なぜ最大依存度を20~25%にまで下げたのか、そしてこの選択を国民がしなかった場合の次の選択肢は16~19%という中間選択肢を飛ばして15%という固定数値にしたのか、さらには国民が15%という選択肢も選ばなかった場合はなぜいっきに0%という数値を設定したのか。
このような選択肢の設定には、実は国民感情をまったく無視した「落としどころ」を国民が選択せざるを得ないだろうという、永田町のような特殊な世界でしか通用しない論拠があったのである。具体的にはこういうことだ。
一応日本の原発規制として設けられた方針は、40年で廃炉にするというものだった。だが、日本という国は四方を海で囲まれ、しかも海底は複雑に絡み合った様々なプレートで囲まれている。東日本大震災も太平洋プレートが日本海溝の海底に潜り込み、何らかの障害物で潜り込みがストップされ、後方から押し寄せる前進エネルギーが太平洋プレートの先端に蓄積され限界に達したときピーンと跳ね上がり大地震と大津波を起こしたのが原因とされている。こうしたプレート構造だけでなく、日本は世界最大級の火山国としても国際的によく知られており、さらに国土の地下にはいつ大地震を引き起こしても不思議ではないと考えられている無数の活断層がある。つまり日本は原子力発電所の立地条件としては最も困難な問題を抱えているのである。ということは新原発の建設候補地は極めて限定的にならざるを得ないということだ。そのため政府(自公政権時代)はいったん40年で廃炉にするという方針を転換して40年以上稼働した原発の延命を図ることにした、が。東日本大震災の洗礼を受け再び政府(自公ではなく民主政権)は方針を転換、稼働年数が40年を超えた原発は原則廃炉することにした。それだけでなく現在大間原発をはじめ建設及び計画中の3原発(計4基)はすべて凍結することにした(事実上の中止)。
1979年に世界で初めてメルトダウンの事故を起こしたアメリカは(ソ連のチェルノブイリ事故がメルトダウンを生じていたかどうかはソ連政府の秘密主義のため不明)、当時建設あるいは計画中だった新原発をすべて中止した。その後、ブッシュ大統領(息子のほう)が原発建設の再開を決断、現在のオバマ大統領が新原発建設を推進しようとしたがコスト問題で実現に至っていない。
ちなみに現在では死語となってしまったが、かつてはメルトダウンを生じたら「チャイナ・シンドロームを引き起こす」と、当時の物理学者たち(主に米国の)は信じきっていた。その意味は、米国の原発がメルトダウンを生じたら、核燃料が地底深くに突入し、連鎖反応を起こしながら地球の中心を突き抜け、アメリカにとっては地球の反対側に位置するチャイナ(中国)にまで達し、中国の地表に到達した瞬間大規模な核爆発を生じるという仮想。だからスリーマイル島事件が生じたとき、米物理学会では「なぜチャイナ・シンドロームが生じなかったのか」といった大論争が生じたくらいである。
もう一つついでに書いておくが、スリーマイル島事件が日本の原発技術者や通産省(当時)に与えたショックは計り知れないものがあった。まず「原発はいかなる事態が起きてもメルトダウンが生じないように設計されている」という神話が崩れたことである。つまり絶対の自信を持っていた日本の原発も、メルトダウンを生じる可能性を否定できないことがはかなくも証明されてしまったという危機感に襲われたのである。
その結果、日本国民とくに新左翼の学生たちによって大規模な原発反対運動が生じるのではないかという懸念が生じたのである(実際、日本政府が1960年代になってエネルギー政策の軸足を原発推進に置くようになって以来反原発運動が建設地などでは必ず生じてきた)。
が、日本のマスコミがスリーマイル島事件について比較的冷静な報道に徹したため、日本の原発当事者たちが一番恐れていた全国的な規模の反原発運動はほとんど生じなかった。その前も、それ以降も日本の原発は世界を騒がすような大事故をほとんど生じなかったため、日本の原発にはいつの間にか「安全神話(日本の原発は世界一安全だという)」が定着していった。
その結果どういう事態が電力会社や通産省(現在の経産省)などの、いわゆる「原発村」で生じていったか。「安全神話」にもたれかかった驕り、さらには「安全神話」を守るための隠ぺい体質が根をはびこるようになっていったのだ。
それが福島第1原発の大事故を起こした東京電力の、あらゆる場面での責任逃れ、隠ぺい、無責任体質を生み、そして育てていったと言える。もちろん管直人という原発についての何の知識もなければ見識もない総理大臣が、事故の発生を聞くや否や、直ちにヘリコプターで現場に飛び、「現状視察」をして、「素人の口出し」をしたことが現場の混乱をさらに拡大した一面は無視できない。だが、「責任逃れ・隠ぺい・無責任体質」に染まっていた東電にとっては、そういう体質をひた隠しに隠すための絶好の口実を与えてくれたのが管首相だったと言えなくもない。
 ちなみに管氏はかつて厚生大臣の任に就いていた時、国と、エイズ発症の原因となるHIVウイルスの非活性化をせずに(非加熱製剤)売っていた製薬会社のミドリ十字を相手取って告訴したエイズ患者に謝罪し、和解したことで一気に国民的英雄になったことがあり、一時は次期総理の筆頭候補(マスコミの世論調査)になった時の快感が忘れられず、未曽有の大事故の陣頭指揮をとって再び国民の英雄になろうとしたのではないか。ま、のぼせ上るとろくな結果を生まない、という大きな教訓を残したことだけは管にとって予想外の功績だったと言うほかないだろう。
 もちろん私もあの大事故の最大の要因が東電の体質にあったとまでは決めつけているわけではない。最大の要因は想像を絶する大津波で建屋がもろくも崩壊してしまったこと、それによって原子炉を自然災害から守る手段が失われたことまで東電の責任範囲とする考え方には私は与しない。1000年に1回あるかないかという自然災害にも耐える建屋を作るべきだったなどというまことしやかな議論は、ためにする議論、としか言いようがない。もちろん安全性を無視していいとまでは言わないが、原発は経済活動の範囲内で許容できるコストを超えてまで安全対策を講じるべきだなどと言い出したら、あらゆる経済活動が不可能になってしまう。現に世界中で最大の事故死を引き起こしているのはクルマであって、100%事故を起こさないクルマができるまではクルマの生産をすべて中止すべきなどという屁理屈と同じ類の主張になってしまう。
 論理的に考えれば誰でもそういう結論に達するはずなのだが、一般国民の思考方法は必ずしも論理的整合性を保っているわけではなく、かなりの部分が感情や世論の動向などによって左右されがちである。それは大飯原発の再稼働に対して、もし万一福島第一原発のような大事故が起きたら、直接我が身に被害が及ぶ地元民だけでなく、関西電力管外の一般市民までがツィッターの呼びかけに応じて老若男女を問わず自然発生的に反原発のデモに参加している現状、さらには大飯原発の再稼働がなければ計画停電が必至になる関西電力管内の人たちすら再稼働反対の声を上げている現状を、政府は「一過性」にすぎないと考えたのだろう。私も組織立った反原発運動ではないようだから(今後の反原発運動の動向は不透明だが)、一過性で終わる可能性のほうが高いと思っているが、そうだとしても国民感情が爆発している真っ最中に18年後(2030年)の原発依存度の比率についてのアンケートを取るという感覚自体、「一体政府は何を考えているのか」と呆れるほかはない。
 全国11か所で開いた「意見聴取会」、及び一般市民約8万9千人が自らの意見を今後のエネルギー政策に反映させたいと期待して政府の公募に応じた結果はどうだったのか。もう一度政府が国民に問うたアンケートの選択肢(2030年における原発依存率)を書いておこう。
   ①0%  ②15%  ③20~25%
 あらかじめ政府が考えていた「落としどころ」は、実は15%であった。実際細野原発相は5月の段階で「15%は一つのベースになりうる」と述べており、国民の怒りの大きさから考えて③は選択してくれないだろうが、まさか①を選択することもないだろうという国民の理性的な判断を期待し、②を選択させるために熟慮に熟慮を重ねて作った三つの選択肢だった。
 15%を落としどころと考えた政府の計算にはもう一つ、のっぴきならない事情があった。政府は新しい安全基準として稼働開始が40年を経過した原発は原則廃炉にすることを決定した。しかも建設中及び計画していた原発(3原発・4基)はすべて中止(事実上)せざるを得なくなった。そのため現在50基ある原子炉は2030年には20基に自然減少することになった。しかもこのわずかに残された20基をすべて稼働させることは不可能だ。一定期間稼働したら定期検査とストレステスト(コンピュータによるシミュレーションテスト)のために原子炉の運転を一時停止せざるを得ないのだ。欧米では定期検査の時は運転をストップするが、コンピュータによるシミュレーションテスト(設計当時の想定を超えた自然災害や飛行機が墜落したとき、あるいはテロリストに襲われた時の被害度を予測するシステム)の時は運転を停止する必要がないため欧米の原子炉稼働率は日本の平均70%よりかなり高い(国によって違うが平均で80%と言われている)。日本も欧米に倣い稼働率を80%に上げたときに原発へのエネルギー依存度は15%になる。これがアンケート調査を行うに当たって政府が15%を「落としどころ」にしようとしたもう一つの論拠である。つまり政府の行ったアンケート調査の方法は、悪名高き官憲による「誘導尋問」とまったく同じ思考方法によって作られた三つの選択肢だったのである。
 政府が国民の意思を尊重して、最低でも国民の過半数が支持する政策を立案し、国会の審議を経て実施に移すというのは民主主義政治の大原則である。民主主義は確かに大哲学者プラトンが指摘したように「愚民政治」になりかねない要素を間違いなくはらんでいる(なおプラトンはその欠陥を是正するには哲学者による独裁政治しかない、と我田引水的主張をして自らの生涯に消すことができない汚点を残してしまった)。だから民主主義をより高度な成熟したシステムに育て上げていくためには、国民の論理的思考力を高める教育をしていく以外に方法はない。
 ちょっと主題から外れるが、この機会に書いておきたいことがある。日本人の論理的思考力を高めるには、まだ先入観や、いわゆる「常識」に染まっていない子供に対する教育のあり方を見直すことが肝心だ。そのもっとも重要なポイントは算数・数学の教育方法を抜本的に改革することである。私は2010年3月31日に投稿した『なぜ小学5年生に台形の面積の公式を教える必要があるのか』というタイトルのブログ記事を投稿したことがある。            
 この記事で私が主張した要点は、ゆとり教育によって教師・教諭にはゆとりが生じたが、一方日本の将来を担わなければならない子供たちへのちゃんとした教育を放棄する結果を生じ、その結果国際学力コンクールなどで日本の子供たちの学力が目に見えて低下するようになり、ゆとり教育への社会的批判が強まったのを受けて、2008年に当時の安倍内閣の主導のもとで新学習指導要領が施行され、「脱ゆとり教育」が行われるようになった。
 そもそもは「ゆとり教育」は当時日本共産党の影響力が強かったとされていた日教組(同党は「現在は共産党の影響力はほとんどありません。日教組も『連合』傘下の労組ですから」と主張している)が、1970年代に「今の教育は知識重視型で、詰め込み教育になっている。こういう教育では子供たちが自分の頭で考える能力がかえって損なわれる」といった主張をしてきたことが経済界などの支持も受けて1980年代から小学校、中学校、高校の順に次々と実施されていった。が、すでに述べたように「ゆとり」を享受できた教師・教諭が子供たちにどういう教育をしてきたかの結果が、子供たちの学力低下に直結していくのである。ゆとり教育の実施によって教科書は薄くなり、子供たちの負担が大幅に軽減したのはいい。どっちみち子供たちはいずれ大人になるのは当たり前の話だが、小学校、中学校、高校で詰め込まれた知識をどれだけ覚えているだろうか。たとえば日本最古の憲法である「17条憲法」は聖徳太子が制定したが、その中身をこのブログ読者はどの程度覚えていられるだろうか。正直なところ私自身第1条の書き出しの一部「日本人は和をもって貴しと為す」くらいしか記憶に残っていなかった。実はウィキペディアで調べたところ「日本人は」という冠の表現は全くなく、私が記憶していたのは第1条の中でもほんの一部でしかないことが分かった。こんな知識が社会人になったときどれほど役に立っているのだろうか。問題は聖徳太子がなぜ「17条憲法」を制定したのか、その結果日本の権力構造はどうなったかを教師・教諭は子供たちの理解力に応じてどう説明するかが、教師・教諭の能力にかかってくるのだ。
 ウィキペディアやヤフー百科事典で解ったことだが、聖徳太子がこの「17条憲法」の制定で目指したのは「天皇を中心とした中央集権の国家体制の確立」だったということである。このことさえ分かれば、あとは論理的推理力を働かせれば当時はまだ天皇家は絶対的権力を確立していなかったんだな、聖徳太子が「皇太子」の地位についていながら、あえて天皇にならず「摂政」という実務の最高責任者にとどまったのは、当時聖徳太子自身が皇族や貴族の絶対的信頼を得ていず、もし天皇になっていたら「自らが絶対的権力を持つ独裁者になろうとしている」という反発が肝心の朝廷の中で生じかねないという危機感を持っていたからではないか、さらに想像をたくましくすれば「独裁者」に対する反発の大きさによっては肝心の「17条憲法」が葬り去れ、歴史の舞台から消えていた可能性すらあったかもしれないといった歴史的洞察に結びついていくのではないかと思う(ちなみにこの推測は私独自のもので、純粋に論理的思考力を働かせて得た推測である。歴史研究家の中には私と同様な推理をしている方がいる可能性は否定しない)。
 なおこの推理が当たっているか否かは、私は別に歴史家でもなんでもないから、批判されようと否定されようとなんとも思わない。私がこのエピソードで言いたかったことは「知識重視の詰め込み教育」を復活させるべきではなかったと言うことである。歴史の授業でも知識として教えることは最小限にとどめ(すでに述べたように社会人になってすっかり忘れてしまっても何ら支障が生じない「知識」をむやみやたらと増やしても子供たちの論理的思考力の向上にはまったく結びつかないということを指摘したかっただけである。
 ブログの主題から外れた話が長くなりすぎた。とにかく教育の目的は子供たちの論理的思考力を高める訓練を最重要視すべきであり、そのためには算数・数学の授業で、できるだけ公式に頼らず解を導く思考力を身に付けさせることだということが言いたかっただけである(物理、とくに光学や力学も論理的思考力を高める効果が大きい)。
 もう少し主題から外れさせていただくが、最近日本でもディベート教育が盛んに行われるようになってきたが、これはあまり感心できない。ディベート教育の誕生は古代ギリシャ時代に遡るとされているが、現在ではイギリス型とアメリカ型が世界のディベート教育の二大主流をなしており、日本では大多数の学校がアメリカ型を踏襲している。
 イギリス型は一時日本でも流行ったことがあるレトリックの手法で(レトリックを日本語に翻訳して説明すると、読者は混乱してしまうだろうから述べない。ただイギリスの国会では、日本の法廷で裁判官の両サイドに原告と被告が対峙して口頭弁論を行うのと近い形で与党内閣と野党のシャドウ内閣が議長の両サイドに陣取って論争する形になっているため、ディベート教育もレトリックを重視しているのだと思う。
 一方アメリカ型は論理的要素を重視するやり方だ。イギリス型と同様あるテーマを巡り二つのグループに分かれて論争(一般的には「討論」という言い方がされている)するのだが、その勝敗を決めるのは審判員で、どっちの陣営のほうがより論理的だったかを判定する競技の形式をとっている。
 イギリス型のレトリック手法にしてもアメリカ型の論理重視にしても、現実には本当の意味での論理的思考力を高めることにはあまり役立たない。かえって屁理屈の巧みさを身に付けてしまいがちになっている。
 私が強調する「論理的思考力」とは言い換えれば「論理的整合性を常に維持できる思考力」のことである。だから私は私の著書でもこのブログでも常に批判する場合の視点は「論理的整合性を欠いている」という点に軸足を置いている。たとえばソフトバンクの孫正義が「メディアの帝王」と言われていたマードックと組んでCS放送の「JスカイB」の設立に乗り出そうとしたとき、私は結果的に最後の著書となった『西和彦の閃き 孫正義のバネ……日本の起業家(アントレプレナー)の光と影』の取材のときこう訊いた。「すでにCS放送はディレクTVトパーフェクTVが先行している。BS衛星と違いCSは衛星1基で100~150チャンネルの放送が可能だと聞いている。そこにJスカイBが割り込むと最大で300~450ものチャンネルが誕生することになる。とうてい勝ち目がないというのが大方の見方だが」と。
 実は私は東京都港区にあるNHK放送文化研究所に取材で数回訪れ(世界主要国のテレビ放送事情を調査・分析しているのは日本ではここだけである)、マードックがイギリス・アメリカ・香港でのCSビジネスで成功したケースと失敗したケースの理由をそれぞれの国の担当研究者から聞いており、そのことを伝えたうえで「CSビジネス3社が共存できる可能性は皆無といっていい」と主張した。
 孫は、「自分ほど頭がいい人間はいない」と思い込んでいるようで、論理的主張をすることにかなりこだわっている。この時も私の主張を論破しようとして「ああでもない」「こうでもない」と屁理屈までこねて抵抗しようと試みたが、とうとう自分自身が論理的に破たんしたことがわかったようで、「小林さん、僕は命をかけてCSビジネスをしようとしているのだ。わかってよ」と哀願してきた。私は苦笑しながら「僕も命がけで本を書いている。命懸けでやれば何でも成功するのならベンチャービジネスはすべて成功する。彼らは皆、命懸けでやってますからね」。このダメ押しで、孫は私を説得することはとうとう諦め、「もう二度と小林さんの取材は受けないからね」とイタチの最後っ屁を放って席を立った。
 ちょっと余談が長すぎた。が、原発問題を論理的思考力を唯一の手段としてフェアに解決するにはここまで書いてきた余談を前提にしないと説得力のある主張ができないからだ。ただすでに正味でここまでで約9700字に達しており原発問題についての本題は続編で書くことにせざるを得ない。お許しを願う。