小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

BRC決定に屈したNHK幹部は最高裁判決の重みを噛み締めよ

2008-06-19 14:18:57 | Weblog
 6月12日、最高裁は原告である市民団体(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク=バウネットジャパン)の訴えのすべてを退け、NHK全面勝訴の判決を下した。当然である。
 その2日前の10日、BRC(放送と人権等権限に関する委員会)は07年1月29日のNHKのニュース番組『ニュースウォッチ9』に対して抗議を申し入れていたこの市民団体の主張を全面的に認め、このニュース番組が「公平・公正を欠き、放送倫理違反があった」との決定を下した。
この決定に対しNHKは「今回の決定を真摯に受け止めて、さらに放送倫理の向上に努める」とのコメントを発表した。つまりNHKはBRCの決定に全面屈服したわけだ。
一方市民団体は記者会見を開き、「主張がほぼ全面的に認められて大変うれしく思う」とコメントした。
このBRCの決定と最高裁の判決が相反しているといった誤解を持たれた方が多いようなので、論点を整理しつつ、NHKは今後どういう視点で報道番組を制作していくべきかについてこのブログの読者と一緒に考えていきたい。その前に、NHKと市民団体がなぜ対立するに至ったか、経緯を簡単に述べておこう。
『問われる戦時性暴力』という番組を企画したのは、もちろんNHKである。この番組を制作するに当たってNHKは市民団体に取材を申し入れた。この市民団体は、いわゆる「従軍慰安婦」問題などについて、当時の日本軍が韓国人女性などに対して行っていた非人道的行動を弾劾する活動を行ってきた。そして市民団体はNHKが自分たちの主張を大きく取り上げ、支持もしくは理解を示した番組を制作してくれるものと期待して取材に応じることにした。
しかし01年1月30日に放映された『問われる戦時性暴力』は、市民団体の期待と信頼を大きく裏切るものであった。そのため市民団体は、「取材意図を説明に来たNHK職員の話とまったく違う番組になり、期待と信頼が裏切られた」として、NHKおよび下請け制作2社に損害賠償を求める訴訟を起こしたというわけだ。
一審の東京地裁は、この訴訟を受けて04年3月、実際に取材に当たったNHKの孫請けプロダクションに100万円の賠償を命じた。
二審の東京高裁は07年1月29日、NHKに200万円の賠償を命じ、そのうち100万円についてはプロダクション2社にも連帯責任があるとの判決を下した。
ここまでが、市民団体が起こしたNHKに対する訴訟の途中経過である。が、二審判決を巡って市民団体とNHKの間で二度目の紛争が始まった。その火をつけたのがNHKだった、と言えば、そう言えなくもない。
二審判決があった日、NHKは午後7時のニュースで二審判決の内容を報じ、市民団体が起こした訴訟の概要とNHKの言い分を報道した。その直後、NHKの記者がそのニュースを見た政治家二人のコメント(私はNHKの番組内容に干渉するつもりもないし、干渉したこともないという趣旨)を入手し、その夜9時からの「ニュースウォッチ9」で、政治家二人のコメントとあわせ、改めてNHKの見解を報道した。
実はこの二人の政治家は、NHKに圧力をかけて『問われる戦時性暴力』の番組内容を変えさせたと朝日新聞が報じた当事者だった。そこで市民団体はBRCに「ニュースウォッチ9」の報道は公共放送として守るべき放送倫理に違反している、と訴えたのである。
NHKは市民団体の言い分はすでに7時のニュース(NHKは総合テレビだけでなくあらゆるNHKのニュースの中で最重要視しているのが午後7時のニュースであると位置づけている)できちんと報道している、と考えたのだろう、「ニュースウォッチ9」では市民団体の主張に触れなかった。
その後、約1年半後の今年6月10日、BRCは突如「ニュースウォッチ9」の報道に対し「公平・公正を欠き、放送倫理違反があった」という決定をしたと発表した。この決定に対し、NHKは「今回の決定を真摯に受け止めて、さらに放送倫理の向上に努め、公共放送に対する期待に応えていきます」とコメントし、BRCに完全屈服したことを明らかにした。一方の当事者である市民団体は記者会見を開き「主張がほぼ全面的に認められて大変うれしく思う。2日後の最高裁判決にも期待したい」と述べた。

とりあえず、「期待権」を損害賠償の理由として市民団体が訴訟に踏み切った事件と、NHKの「ニュースウォッチ9」に下したBRCの決定とはまったく次元の違う問題だったことだけは、このブログの読者はご理解いただけただろうか。
ご理解いただけたという前提に立って、(ここまでは事実を検証しただけで、私の主張はこのブログの冒頭で書いた最高裁の判決に対し「当然である」と書いた部分だけである。この後私の主張を述べる。実はこの文章はgooのブログページでは書いていない。マイクロソフトの「ワード」で書き、後から1ページずつgooのブログページに貼り付ける。その理由は二つあって、①gooのサーバーが欠陥品で、しばしばせっかく書いた文章を「完了」「投稿」しても「投稿が完了」するケースが極めて少ないこと、さらに「投稿が完了」の表示がパソコン画面に出ても実際には記事が掲載されないこともあり、gooに対する信頼感が完全に失われたこと、②この問題を論じるためには読売や朝日の常套手段である、自分たちが主張するために都合のいい事実だけを主張の根拠として取り上げるという戦時下よりひどい体質に私は染まりたくないため、この文章をブログ投稿する前に市民団体とNHKに、私が主張する前提とする事実認識に誤りがないかを確認してもらうため、この文書を両者にFAXした。私が事実と認識していることに誤りがあった場合、ブログ投稿する前に訂正したいからである。だから、両者に事実確認を依頼しても、両者ができることは事実誤認の訂正だけで、私の主張の変更を要求されても一切応じない(ただし重大な事実誤認があった場合、事実誤認に基づいた主張は変更する。それが自称「ジャーナリスト」と私が違う根本的なスタンスである)。

まずBRCの決定とNHKが完全屈服した件から書こう。
最初に私が抱いた疑問は、BRCが問題にした「ニュースウォッチ9」の報道だが、なぜ1年半も経って、しかも最高裁判決の2日前というタイミングで公表したのかということである。難しい判断を迫られるようなケースではなく、「公平・公正に欠けた」報道だというなら、どんなに長くても1週間もあれば結論を出せたはずだ。なぜ結論を1年半も経って、しかも最高裁判決の2日前というタイミングで公表する必要があったのか、BRCには厳密な説明責任がある。
「下司のかんぐり」と言われてしまえばそれまでだが、発表のタイミングを考えると最高裁判決への圧力をかけるため、と解釈されても反論はできまい。一刻一秒を争うような問題だったから発表が最高裁判決の直前になってもやむをえなかったと言うなら、なぜ1年半後が一刻一秒を争うケースになったのか、やはり説明責任を果たすべきだろう。
次にBRCが問題にした「公平・公正に欠けた」と言う主張だが、NHKという公共放送の義務と明記した「公平」とはどういう報道スタンスを要求するのか、きちんと「公平」な報道についての定義を明確にすべきだった。三省堂の『広辞林』によれば、「公平」は「偏っていないこと。片手落ちのないこと」と意味説明がされている。すでに述べたようにNHKは7時のニュースで高裁判決を報じ、その際に市民団体の訴訟理由も報じている。その後政治家のコメントをキャッチして、それは7時のニュースの後だったから9時のニュースで報じた。
確かに政治家のコメントをキャッチした時点で、政治家のコメントに対する市民団体の見解も取材し、報道したほうがよかったとは私も思う。しかしかつてジャーナリストとして駆けずり回っていた私の経験からすると、夜の7時以降9時までの時間帯に市民団体の責任者への取材をすることは事実上不可能だったろうと思う。
現にBRCの責任者が、午後9時まで視聴者からいつかかってくるかもしれない電話に対応するため事務所に居残っているか。NHKがすでに市民団体の主張は7時のニュースで報じており、「公平」は期していると判断してもやむをえない状況だったと私は思う。それでもBRCは「公平」を欠いたとNHKを責めるなら、決定を下すまでの1年半、NHKの報道スタンスを改善するため、NHKにどのような働きかけをしてきたのか、やはり説明責任を果たすべきだ。
 実はこの事件が起きるまで私はBRCという機関はまったく知らなかった。で、BRCはどういう機関なのか調べてみた。その結果BPO(報道倫理・番組向上機構)の内部に属する機関ということがわかった。 
 となると、おかしな事件があった。私は昨年1月テレビ朝日の看板番組「サンデー・プロジェクト」に対するクレームをBPOに申し立てたことがある。が、BPOは「ご意見はテレビ朝日に伝えますが、それ以上のことは出来ないんです」と言われた。BPOにもできないことが、なぜBRCにできるのか。BPOにはできないが、「内部機関のBRCならできます」と、なぜBPOはBRCに私のクレームを取り次がなかったのか。BPOは視聴者のクレームに対する単なるガス抜き機関なのか、と絶望して私は直接テレビ朝日の君和田正夫社長宛てに抗議文を送った(07年2月7日付)。その一部を抜粋する。
  極めて重大なことですが、御社の看板番組である「サンデープロジェクト」で田原氏が安倍内閣の支持率低下をテーマにしたことがありました。そのとき田原氏はいつものように看板(というのかどうか知れませんが)を手にマスコミ各社の世論調査のデータを折れ線グラフで示しながら、安倍内閣の支持率低下を「証明」して見せました。そのとき田原氏がデータとして取り上げたマスコミは朝日新聞、毎日新聞、共同通信、ANNの4社で、各社の支持率はいずれも50%を切っておりました。私は日本で一番売れている読売新聞の世論調査を無視したことに疑問を抱き、同紙に問い合わせたところ同紙の世論調査でも安倍内閣の支持率は低下しているものの数字は55%だったことがわかりました。つまり田原氏は50%台の支持率を出した読売新聞のデータをことさらに無視して安倍内閣を窮地に陥れることを意図した番組を作ったわけです。(中略)
  さて私は当然のことですが、御社の視聴者センターに「なぜ読売新聞のデータをはずしたのか」という問い合わせを入れました。電話に出た女性はあいもかわらず「ご意見は担当者に伝えます」と答えるのみでした。もちろん視聴者センターの女性にその理由がわかるわけがありません。そこで私は「番組担当者に電話をつないでほしい」と頼みましたが、「おつなぎできません」と断られました。そこで私はさらに「では私の電話番号を教えるから、あなたが担当者から理由を聞いて私に電話してほしい」とお願いしましたが、「視聴者の方にいちいちご返事はしておりません」と断られました。これが御社の視聴者センターの視聴者の意見や疑問に対する基本的スタンスです。
視聴者からこういう類のクレームが寄せられた場合、もちろん社長がいちいち対応することは通常ありえない。一般的には抗議文は広報担当のセクションに回され、広報のそれなりの責任者から回答が寄せられるものだが、テレビ朝日からはどの部署からも回答はなかった。つまり完全黙殺されたのである。
私のクレームが理不尽で悪意に満ちたものだったら黙殺されても当然だろう。が、私は『サンデープロジェクト』がある種の政治的意図を持って作られていることを事実を明らかにすることによって証明したこと、さらにテレビ朝日の視聴者センターの対応に対し当たり前の批判をしただけである。このブログをお読みの方は果たして私の抗議文について「悪意に満ちた理不尽なもの」という印象をお持ちになっただろうか。
そして私からテレビ朝日へのクレームを聞いたBPOの職員は、なぜ放送局に対して権限を行使できるBRCにこのクレームを取り次がなかったのか。私はBPOとBPO傘下のBRCに大きな疑問を感じざるを得ない。
再びBRCがNHKに下した「公平・公正を欠いた」との「決定」についての疑問に戻る。すでに「公平」という概念についての『広辞林』の説明は書いた。実は「公平」も「公正」も「民主主義」という概念に含まれたルールである。「民主主義」の概念に含まれたルールはほかにも「いろいろな意見が対立した場合多数決で決める」や「多数決で決める前に少数意見も尊重して議論を尽くす」など、議会制民主主義を制度として維持するためのルールも確立されている。その結果、国会では早く多数決に持ち込みたい政府与党と、それを防ごうとする野党の間で「議論はもう尽くした」と主張する政府与党と「まだ議論は尽くされていない」と抗議する野党の間で本論から外れた、質疑応答に費やす時間をめぐっての議論を延々と何時間も続けるバッカみたいな時間の無駄遣いがしばしば行われる。だからプラトンは「民主主義は愚民政治だ」と決め付け「哲人による独裁政治」を主張したほどである。
実際、民主主義がほぼ世界共通の社会規範として浸透している現在でも、民主主義を維持するために設けられている「少数意見も尊重する」というルールは多数意見を採用するための儀式でしかなく、議会制民主政治の下で少数意見が採用されたためしは世界中で1件もないはずだ。だから私は民主主義については「時間をかけて、多数者の利益(あるいは意見)を正当化するための手続きを定めたルールでしかない」と定義している。
そう考えると、BRCが公共放送の報道番組に求めた「公平」とはどういうことを意味するのか、BRCはまずもって明確にする義務がある。
まずNHKの番組編集に介入したと朝日新聞が報じた政治家のコメントをNHKの記者がいつ(何時何分)入手したかをBRCは確認したのか。そして、政治家のコメントを急遽「ニュースウォッチ9」で放送することにし、NHKもそのコメントに関して見解を述べる必要があると決めたのはいつ(何時何分)で、その時点から市民団体に取材すべきあらゆる手段を尽くしたのか、あるいはすでに7時のニュースで市民団体の主張は充分報じており、政治家のコメントで市民団体が主張を変えることはありえないと判断して市民団体への取材をしなかったのか、BRCが結論を出すのに1年半もかけたのなら、この程度の確認作業をする時間は充分すぎるほどあったはずで、そうした手続きを踏まずに一方的な決定を下したのだとしたら、直ちにBRCは「決定」を取り消し、NHKのニュース番組で謝罪会見をしなければいけない。
実は「公平」という民主主義のルール自体が誤りだとまでは私も主張しないが、「公平」を実施する方法はいろいろあって、どういう方法が完璧に「公平」と言えるのかは判断の基準が極めて難しい。たとえばNHKが毎週日曜日の朝9時から総合テレビで放送している『日曜討論』は出席した各政党の代表者にまったく平等に発言時間を与えている。一方国会の審議で各政党の代表者に与えられる質問時間は各政党に属する議員の数に比例配分して決められている。NHK方式は、国民からの信任を受けて政府与党の座についている自公両党にとっては相対的に不利な扱いを受けていることになる(野党のほうが政党が3つあり、放送時間の5分の3が野党発言に費やされている)。つまり「公平」という民主主義のルール自体が極めてあいまいであって、NHK式のほうが「公正」なのか、国会式のほうが「公正」なのか、そうした議論さえ行われたことがないのが現状である。
公共放送であるNHKは、にもかかわらず民主主義の「ルール」を最大限守ろうという姿勢で、「この放送が視聴者から『公平・公正』だと判断してもらえるだろうか」と常に自己検証することは望みたい。
この後、私がこの問題についてNHK副会長の今井義典氏にお送りしたFAX文書の一部を抜粋してこのブログの結論にしたい。なおFAX文書を会長宛でなく副会長宛にしたのは、会長はまったく違う畑の民間企業の出身であり、NHKの経営体質を改善するために重責を担われることになった人で、この問題に対応するにふさわしい人とは思えなかったからで、それ以外の他意はない。なおそのFAX文書はBRCが決定を下した翌日の6月11日に送ったもので、翌12日の最高裁判決を知る由もない時点で書いた文書であることをお断りしておく。

さて問題のBRC決定に屈服したNHKの姿勢に疑問を感じました。昨夜(10日)川崎の視聴者センターの二人のチーフの方に以下のような意見を申し上げました。
ジャーナリズムは政治家や政府、省庁の官僚だけでなく、どんな巨大企業であろうとも、また政党や市民団体であろうとも、いかなる圧力にも屈してはいけない。教育テレビが放送した『問われる戦時性暴力』は私は見ていないが、NHKの記者やディレクターあるいはプロジューサが意図的に偏向番組を作ったとは思えない。NHKの記者といえども思想の自由はあるが、自分の主張を視聴者に押し付けるような番組を作ることなど不可能なことは、私も知っている。なのにBRCの決定に屈したかのような「真摯に受け止め、今後は公平・公正を期した番組を作るようにします」といった公式見解を発表されると、現場の記者が萎縮してしまい、今後は市民団体の怒りを買うような番組を作ってはいけない、と市民団体の顔色を伺いながら取材することになりかねない。そうなるともう市民団体には取材しないほうがいいと、記者の義務である取材を回避するようになるかもしれない。
市民団体の「自分たちの主張を放送してくれると期待したから取材に応じたのに、自分たちの主張を放送で取り上げなかったはけしからん」という主張自体がNHKの編集権に対する重大な侵害である。なぜNHKは市民団体の主張を丸呑みしたBRCの「公平・公正を欠き、放送倫理違反があった」という決定に屈したのか(筆者注:この時点では私も市民団体の裁判での主張と、BRCに「ニュースウォッチ9」に対する批判の申し立てをした二つのケースを混同していました)。
これはNHK職員の不祥事が相次いで発覚し、魔女狩り的批判の矢面に立たされている中で生じたことだけに、職員、とくに現場で昼夜を問わず仕事をしている記者たちの士気にもかかわりかねない。
NHKのジャーナリズムとしての姿勢が問われたケースだけに、改めてこの番組を総合テレビで再放送し、取材した市民団体の録画も放送し、この番組の編集責任者に、なぜせっかく取材した内容を番組で取り上げなかったのかを説明させ、NHKの番組制作の基本姿勢を明らかにすべきだ。

ここまで書いて、NHKと市民団体の双方に、私が事実誤認をしていないかの確認を求めるため、今日(19日)の午前中に、事実誤認があった場合ご指摘いただきたいとの依頼のFAXを送った。そして双方から事実誤認の指摘がなかったのでブログで公表することにしたのだが、今朝の朝日新聞の報道でNHKの今井環理事(報道統括)がBRC決定に反論したことを知ったので、今井氏の反論を急遽このブログに追加することにした。 
今井氏の反論は、①原告勝訴の場合、原告側のコメントは放送しないことが多い ②このケースの場合、7時のニュースで原告側コメントを放送しており、その後介入が疑われた二人の政治家の談話が入ったが、放送時間の関係で原告側コメントは省いた、という趣旨であった。NHKがいったん認めたBRCの決定に、毅然とした態度で反論したことを私は高く評価したい。


   


朝日の論説委員室は精神分裂集団になったのか ②の続々編

2008-06-06 07:09:10 | Weblog
 このシリーズもこれが最終回です。ここまで読み続けていただいて感謝しています。読者の中には、「朝日の新人材バンク批判がおかしいことはわかったが、朝日の論説委員室が精神分裂集団になったとまで極め付けるほどではないのではないか」という疑問を持たれた方もいらっしゃると思います。
 確かにこれまで論じてきたのは、昨年6月までの朝日の社説に対する批判で、その時点までは朝日の主張は一貫していました。だからそれまでは朝日の論説委員室は精神分裂症状を起こしていたわけではないのです。朝日の論説委員室が突然精神分裂状態に陥ったのは今年2月です(実は歓迎すべきことなのですが)。この最終回でそのことを、これ以上フェアで論理的な批判は不可能、と言い切れるだけの証明をして見せます。

 朝日が公務員制度改革について、初めて社説で論じたのは昨年4月2日だった。『新人材バンクーー天下りの温存にすぎぬ』とタイトルを付けた社説の書き出しはこうだった。すでにこのシリーズの1回目で引用したのだが、お忘れの方もおられると思うので、もう一度引用する。短文なので3回くらい読んで頭に叩き込んでほしい。

   政府が公務員制度改革の基本方針を決めた。天下りをあっせんする新人材バ  ンクを設けるのが柱だ。

 実はこの社説の最後のほうで、この主張には私も異論がない正論も書かれている。このシリーズの1回目ではその部分を引用しなかったのは、私の朝日批判にとって都合が悪いからではない。視点が、公務員制度改革の目的を公務員の処遇や採用方法、再就職などに絞った主張だったからである。つまり安倍内閣が、小泉改革の流れを引き継いで始めることにした、明治以来140年間にわたって構築されてきた『政官財癒着のトライアングル』にメスを入れ、断ち切ることを最終目的にしたのが公務員制度改革の真の狙いであり、そのためのファーストステップとして省庁が権限を行使できる業界や団体への、官僚の天下りを封じる手段として「新人材バンク」を作ることにした、という理解をしなかった(否、出来なかった)ことにそもそもトンチンカンな「公務員制度改革批判」を延々と続けてきた原因があったのである。だから私はこのシリーズの1回目で「政府が丸抱えで、官僚のためだけの再就職機関を作ることへの批判はきちんとするのはジャーナリズムの義務だが、なぜ政府がマスコミや国民からの批判を百も承知で新人材バンクを作ろうとしたのは、天下りを全面的に禁止して再就職先は勝手に自分で探せ、と官僚を突き放してしまうと、全省庁の官僚や族議員から猛反発を受け、小泉内閣が道路公団改革に失敗したのと同じ結果になることがわかっていたからであった。そのことに朝日の誰も気づかなかったのは、そもそも朝日が政府(自公連立政権であろうと自民単独政権であろうと)のやることなすことにハナから「悪意」を持って批判するという体質がどうしようもないほど染み付いてしまっていたからである。だから50年近く朝日を購読してきた私が、そうした朝日の体質を改善しようと「権力に対する批判精神を持ち続けることは大切だが、それよりもっと大事なことはフェア精神を持つことだ」というスタンスから朝日のアンフェアな主張(常にアンフェアな主張をしているわけではない)に対して厳しい批判をするようになったのだ。でも4月2日の社説で私も異論がないことも主張された、と書いたので公平を期すため、その部分も引用しておこう。
   今回の公務員制度改革では、能力主義を取り入れ、年功序列をやめる方針が
  盛り込まれている。公務員を民間から公募する構想もある。そこで描く公務員
  像は、専門性を磨き、知識と経験を豊富に持つ人だろう。そんな人なら、自力
  で再就職先を見つけられるはずだ。
   こうした改革は、新人材バンクと切り離して、ただちに手をつければいい。
 もう一度書くが(ごめんなさい。自分でもちょっとしつこいことはわかっています)、この社説の冒頭で朝日は「公務員制度改革の柱は、天下りを温存するための新人材バンクを作ることだ」(要旨)と主張した。そして6月21日の社説まで4度も繰り返し同じ主張をしてきた。それほどまで公務員制度改革に否定的だった朝日が突如主張を180度転換したのは10ヶ月の沈黙を経て今年2月3日に発表した社説であった。その社説のタイトルはこうだった。

   『公務員制度ーー改革の動きを止めるな』

 たぶんこのブログを読んでくださっている読者は目を疑うだろう。私のでっちあげではないか、と思われる方もいるかもしれない。そういう方にはぜひお勧めしたい。朝日の縮刷版がある図書館で、ご自分の目で確認されることを。
 この社説では朝日の論説委員はこう主張した。

   (首相の私的懇談会がまとめた報告書について)「官民人材交流センター」
  (筆者注・新人材バンク構想に基づいて設置された官僚の再就職あっせん機関
  の正式名称)を設けることが決まった天下り問題とは別に、公務員制度全体の
  改革をめざしたものだ。
   大きな柱は二つある。人事を内閣で一元管理することと、「政官接触」を制
  限することだ。前者には各省の縦割りやキャリア制度の弊害をなくすねらいが
  ある。後者の目的は、政治家と官僚との癒着を断ち、政治主導を確立すること
  だ。
   人事管理では、「内閣人事庁」を設け、幹部公務員の採用や各省への配属を
  一括して扱う。再配置や中途採用を積極的に進め、本省管理職の半分を幹部候
  補以外から登用することをめざす。
   採用時に昇進の道筋をほぼ固定してしまうキャリア制度の枠組みを完全にな
  くすものではない。だが、「省あって国なし」といわれる現状を、人事の一元
  化で打ち破ろうという姿勢は評価したい。(その後「政官接触」のルールにつ
  いて若干の疑問を提起しているが、その批判もフェアである)
   このように報告書には疑問もあるし、たった半年でまとめた粗さも目立つ。
   だが、相次ぐ不祥事や、優秀な人材が集まりにくくなったという現状を見れ
  ば、戦後の発展を支えた官僚制が曲がり角にあるのは間違いない。
   問われているのは、政治の側が今回の報告書の長所と短所をにらみながら、
  どのように改革を進めていくかだ。長く続いてきた制度を改めるには相当な力
  業が必要になる。公務員改革を進めれば、それに応じた政治改革にも手をつけ
  ざるをえない。(中略)
   この際、民主党も独自の案を示し、政府の背中を押すかたちで改革を競って
  もらいたい。

 これが昨年6月21日まで、安倍内閣が進めてきた公務員制度改革に罵倒を浴びせ続けてきた朝日の論説委員室が、10ヶ月にわたって沈黙を続けた後に書いた社説である。
 あの戦争(という言い方しか私はしていません。その理由は別の機会に書きたいと思っています)に負けた日本が、一夜にして帝国主義国家(私自身は軍国主義という言葉を本当は使いたいのですが、日本自身が「大日本帝国」と名乗っていましたので)から民主主義を標榜する国になったことを、この日の社説を読んだときに真っ先に思い出した。それに等しいような事件が朝日の社内で生じ、論説委員が総入れ替えにでもなったのかと思って、朝日の読者広報に問い合わせたが、そういう事実はないとのことだった。そうなるとやはり朝日の論説委員室は「精神分裂集団になったのか」という疑いを持たざるを得ない。
 もちろんいったん主張したことは絶対に変えてはいけないなどと言うつもりは、私もない。そしてそれまでの主張を大転換したこの日の社説を、これほど長く引用したのは、私がこの大転換を高く評価しているからでもある。ただ読者の認識に大きな影響力を持ち、さらに政治をも動かしかねない主張の大転換をする場合は、最低、主筆か論説主幹がその理由をきちんと述べ、これまで読者に間違った主張をしてきたことを謝罪すべきだった。
 これまで述べてきたように事実上、日本最大の権力機関になってしまい、その権力行使の一環として「素知らぬ顔で主張を大転換しても、誰にも文句を言わせない」といった思い上がりが、朝日の体質としてぬぐいがたいほどに染み込んでしまっているからである。
 朝日のずるさは、これほどの大転換をしておきながら、私が引用した部分の冒頭で、こそっと「『官民人材交流センター』を設けることが決まった天下り問題とは別に」と、昨年6月21日まで行ってきた「新人材バンク構想に対する批判を引っ込めたわけではありませんよ」と、ほとんど読者がその意味を理解できないような表記で、あらかじめ予想された批判を受け流すための伏線を張ったことである。しかしその後の文章で、朝日自身がこの伏線をひっくり返してしまった。朝日がほぼ全面的な支持を表明した「官民人材センター」が果たそうとしている公務員制度改革の中身は、まさに官僚の天下りを廃止するための条件作りである。
 前回書いたように100%の制度改革はありえない。飲酒運転を撲滅するために設けられた「危険運転致死罪」は、最初は最高10年の懲役だった。それでも飲酒運転による事故が後を絶たないため、道交法がたびたび改正され、現在の最高刑は有期刑の上限である20年(併合罪が適用されれば30年)まで延びた。この重罰化はさすがに効果があり、飲酒運転はがくんと減り、全体の交通事故も20年間で65%に減った。だが、その余波を受けてとんでもない状態も生まれた。飲酒運転以外の重大犯罪に裁判官が科す被告への量刑もどんどん重くなりだしたのである。
 私は朝日の「社会グループ」(元の社会部)の記者が、こうした傾向をどう見ているのか聞いてみた。「世論が重大犯罪に対して厳罰化を求めるようになったからではないでしょうか」が答えだった。電話での声の感じでは40代くらいの感じだったが、朝日の記者の認識力はその程度なのだ。「裁判官が世論に配慮する」などということは絶対にありえない。裁判官が量刑を決めるとき一番重要視するのは、他の類似した犯罪に科された量刑、また法改正によって科されることになった量刑の上限との整合性なのである。
 実は東名高速道路で酒に酔っ払って運転していたトラックがその前を走っていた乗用車に衝突、炎上させ、幼い女の子二人の命を奪った運転手に科せられた量刑がたったの4年だったのは、その当時の法律では、殺意が認められない死亡事故を起こした被告に対する最高刑が4年だったからではないだろうか(私は刑法の専門知識は皆無なので、これは私の論理的推測)。
 だがこの事件に世論が沸騰した。死亡したのが幼い二人の女の子だったということも、量刑の軽さに対する世論の怒りを倍化させた。一方警察も飲酒運転の撲滅に手を焼いていた。何とかしなければ、と対策を練っている最中だった。そうした状況が道交法の改正につながった。つまり殺意のない死亡事故に対する量刑の上限を超える10年の量刑を、刑法ではなく道交法で決めてしまったのだ。いったんルビコン川を渡ってしまうと、あとは一瀉千里である。どんどん量刑を重くし、現在は最高20年まで引き上げてしまった。その結果困ったのが裁判官である。すでに書いたように、裁判官は他の類似した事件に科せられた量刑との整合性を最重要視して判決を下す。そして飲酒運転によって死亡事故を起こした犯罪者に殺意を認定することは不可能であり、そうなると殺意を持って殺人を行った犯罪者に、殺意のないことが明らかな飲酒運転者より軽い量刑を科すと、刑罰の整合性が完全に崩れてしまう。これが重大事件の被告に対する判決が重くなりだした最大の要因のはず。刑法の知識がゼロでも論理的思考力さえあれば、この程度のことは十分推測できる。朝日は記者の採用に際し、論理的思考力を最重要視したほうがいい、それには私立中学の入学試験に出る程度の算数の応用問題を筆記試験に取り入れることをお勧めする。
 もちろん裁判官も、世論の動向をまったく無視しているわけではない。それが重刑化の傾向に拍車をかけているのもたぶん事実だろう。が、その場合でも裁判官は他の類似した事件で下された判決の範囲の中で、もっとも重い量刑を下した判決例を根拠に、時には過酷にすぎるのではないかとすら思える判決を下している。いずれにせよ裁判官が今、刑法で定めている量刑の上限あるいは上限に極めて近い判決を下す傾向にあることは事実で、その原因は道交法改正によって殺意のない飲酒運転者が起こした死亡事故の量刑が最高20年に引き上げられたこととの整合性を何とか保とうと苦心した結果が重罰化傾向の最大の理由であるはずだ。
 この私の論理的思考の結論として出した推測について、法律の専門家のご意見をいただければありがたいと思う。

 さてこのブログ記事の最終回も、すでに5400字を超えた。少なくともこれまでの記事は「下書き」「投稿」に成功したことは確認しているが、私の経験ではもうgooサーバーの処理能力を超えたはずである。最後に朝日が公務員制度改革について書いた直近の社説(5月30日)について簡単に触れておこう。『公務員改革ーーこの妥協を歓迎する』と題した社説の要旨はこうだ。(字数の関係で、この社説については引用はしない)

   首相の意を受けて、与党が民主案の多くを丸呑みした。民主党も「天下り禁
  止」の主張を取り下げたため与野党間で妥協が成立した。話し合いで合意に達  したことを評価したい。与野党合意による修正案は、いまの省庁の閉鎖的な人
  事制度に風穴を開け、縦割り体制を打ち破る可能性がある。長く続いてきた自  民党政権のもとでの政官業のもたれあいは行政を大きくゆがめてきた。「官民  人材交流センター」による天下りあっせんも再考する必要があるが、公務員制  度改革は、地方分権とあいまって国の統治のあり方を見直す大改革の一部だ。

 この日の社説も私は全面的に支持する。まだ「官民人材交流センター」について「天下り温存のため」と書いた社説の名残りは多少とどめているが、この程度の批判の視点の歪みはいちおう許容範囲だろう。渡辺行革担当大臣は法案成立後のテレビのインタビューで「骨抜きにされないよう頑張る」と、決意を述べたが、どんな制度改革でも頭のいい官僚が必死に知恵を絞れば抜け道を見つけ出すのは容易かもしれない。今後の朝日の使命は、「官民人材交流センター」が官僚の天下りを完全に防止する機能を発揮できるか監視を続けることと、抜け道を見つけて天下った官僚がいたら、その天下りを受けいれた企業や団体を社会的に抹殺してしまうくらいの告発を全社をあげてすることだ。そのときの朝日の主張には全国民が諸手をあげて支持するに違いない。(了)

 

朝日の論説委員室は精神分裂集団になったのか ②の続編

2008-06-04 10:02:59 | Weblog
 ひやひやしながらこの記事の前編を「投稿」したが、パソコン画面に無事「投稿が完了しました」との表示が出たのでほっとした。では続編を書く。

 朝日の「新人材バンク」に対する悪意丸出しの批判はまだ続く。6月2日には安倍首相に『少し頭を冷やしては』と、一国の首相に対し『赤旗』ならいざ知らず、子ども扱いするような表現で批判した。
 もちろん政府に対し、常に国民的視点から厳しい批判精神を持ち続けることはジャーナリズムの義務と言っていい。だから時には政治権力のトップにある首相に対しても厳しい表現で批判することは大切だ。が、「少し頭を冷やしたは」と言うのはたとえば親が子どもに対して、あるいは上司が部下に対して、小学校の先生が生徒に対して、半分からかい気味なニュアンスでたしなめるときに使う言葉だ。朝日の論説委員室はいつから一国の首相に対してそのように上から見下して「ご説教」が出来るほどの権力集団になったのか。
 政治家や官僚がちょっとでも口を出そうものなら、たちまち「言論の自由」を錦の御旗のごとく振りかざして「言論弾圧」と金きり声を上げて反発し、読者の批判はすべて黙殺(その証拠にどの新聞も読者の『投稿』欄は設けているがその新聞に対する批判的な投稿は採用されたためしがない。あげく、フェアで論理的な批判を受け、反論の余地がなくなってしまうと、私のように手厳しい批判をする読者に対しては「悪意の読者」と極め付け、「悪意の批判には一切答えない」と居直る。そのうえ同業者間では相互批判をしないという暗黙の「村社会」を構築し、言いたい放題、書きたい放題の絶大な権力をほしいままにしているのが読売と朝日である。
 ただ読売のほうがまだましなのは、読者センターの人数も朝日の読者広報のほば倍、朝日の読者への対応は平日の午前9時~午後9時、土曜日は午後6時まで、日曜・祝日は休みにしているのに対し、読売は年中無休で午前9時~午後10時まで読者の声に耳を傾けている。それだけでなく、読売の読者センターも個人差はあるが、おおむね私の批判に対しフェアに対応してくれる。たとえば新人材バンクについての社説(前編の冒頭で記述)に対して批判の電話をしたときも「おっしゃることはごもっともと思います。必ず論説委員に伝えます」とフェアな対応をしてくれた。私のブログで『読売の年金改革提言は中学生以下のレベルだ』と題した記事を読んだ読者センターの人は「よくここまでお調べになりましたね。計算方法もフェアだし、私には反論できません」と正直に話してくれた。
 それに引き換え、私の批判に反論できなくなったとたん、私を「悪意の読者」と極め付けて批判を免れようとする朝日。私が子どものころは朝日が新聞界の王者として君臨していたが、今は見る影もない。読売に200万部も差をつけられて、さらに部数は減少の一途をたどっているようだ。読売との比較は本題から外れるし、私は読売をヨイショするつもりもないので本題に戻るが、朝日の読者広報が読者の善意の批判(朝日のためを思っての批判は当然厳しくなる。そういう認識を読売の読者センターの多くの社員は持っているようだ)に対して敵意をむき出しにしている間は、朝日の論説委員室の体質も変わらないだろう。なぜなら朝日の読者広報が社説への読者の批判に対する防波堤の役割を果たすことが自分たちの義務だと考えている間は、読者のどんな批判も絶対に論説委員室に伝わらないからだ。ただし読売にも私の批判に敵意をむき出しにして「聞く耳持たぬ」人もいないわけではない。
 さて阿倍首相に対して『少し頭を冷やしては』と思い上がりも甚だしいアドバイスをした朝日の社説はこう述べた。
   政府の新人材バンク構想は、そもそも天下りを前提にしたものだ。それで談
  合社会の根を断てるとはとても思えない。あっせんを一元化しても、政府の予
  算や許認可と引き換えに民間が再就職を受け入れる、天下りの構図は変わりそ
  うもないからだ。
   公務員の再就職と役所の権限とが絡む構造をどう断ち切るか。公務員の意欲
  をそがないような人事制度も含め、幅広く対策を考えねばならない。
 一見もっともな主張に見える。「絵に描いた餅」に等しい主張をいかにももっともらしく書くテクニックだけは、朝日の論説委員も身につけているようだ。もし朝日が、政府構想に替わる「政官財癒着のトライアングル」を一気に破壊できるアイディアを提言して、それが実現可能なものだったらこの社説を私は諸手をあげて支持したし、朝日は往年の権威を取り戻すことも出来たとすら思う。しかし朝日の主張は常にそうだが難癖をつけるだけで、本当に日本を変えようという建設的な提案など一度もしたことがない。ただひたすら「絵に描いた餅」をいかにもっともらしく見せるか、という詐欺師的テクニックを磨くことにのみ研鑽を積んできただけなのだ。
 東名高速道路で酒に酔っ払った状態でトラックを運転し、乗用車に追突して乗用車を炎上させ、後部座席に乗っていた二人の幼い女の子を殺した運転手が裁判で受けた量刑がたったの4年だったことに、世論の憤激が社会的なうねりとなって道路交通法が改正され、危険運転致死罪が新設されて最高10年(その後も改正が続き現在は20年)の量刑が課せられるようになったが、それで飲酒運転は断ち切ることが出来たであろうか。『交通安全白書』によれば、確かに飲酒運転事故は減少しているが完全に飲酒運転を撲滅することなど、大昔にアメリカが作った「禁酒法」がどういう結果を招いたかを考えてみるだけで明らかだ。朝日が政府に要求したような「天下り絶滅」「談合社会の根絶」など絵にも描けない餅でしかない。そんなバカな主張をした社説に社内から批判の声が上がらないほど朝日の現状は絶望的状態になっているのだ。
 朝日の非論理的主張はまだ続く。6月21日の社説ではこう主張した。
   いまは省庁ごとに行っている官僚の天下りを禁じる代わり、内閣に新人材バ
  ンクをつくって一元的に再就職をあっせんする。それが(新人材バンク)法案  の核心だ。
   つまり、政府案が通っても、依然として天下りはなくならないのだ。これで
  官製談合や税金の無駄遣いを根絶すると言われても、説得力を欠く。
   首相にすれば、年金問題への有権者の怒りをかわすためにも、この法案を成
  立させて「公務員たたき」を焦点のひとつにしたいのだろう。だが、天下り温
  存では真の対策にはならない。
 もうこの主張に対する批判を繰り返す必要はないだろう。朝日が社説で一言一句変わらないと言い切ってもいい主張は4度目の繰り返しであり、いちいちそれに反応して同じ批判を私も繰り返すことは、このブログの読者に対してあまりも失礼だからだ。
 すでに書いたが、私は朝日の読者広報の大半から「悪意に凝り固まった読者」と思われている。どうやら読者広報ぐるみで私をそう極めつけることにしたようだ。 実は今年3月18日、朝日は17面の半分の紙面を割いて『朝日新聞出版4.1START!』と題する「記事っぽい書き方をした広告」(私の認識)を掲載した。が、紙面のどこにも「広告」という表示がない。で読者広報の「問い合わせ」のほうに電話して、この紙面になぜ「広告」表示がないのかと聞いた。電話に出た方は紙面を仔細に検討した後「何故でしょうかね。私にもわかりませんので広告審査に回します」と電話をつないだ。その電話に出たのが広告審査の岡野氏だった。彼は即座に「記事だからです」と答えた。広告審査部門の岡野氏が即座に「記事だ」と答えることが出来たということは、この紙面を広告審査部門が担当したことを意味する。もし彼がこの紙面にぜんぜんタッチしていなかったら、「私は関与していないからわからない」と答えるはずである。つまり「記事」だったらタッチできるはずがない岡野氏が「記事だ」と断定したことで彼は自ら墓穴を掘ってしまったのである。
 私は即座に岡野氏が「記事だ」と主張した根拠を聞いた。岡野氏は「この紙面は編集部が作成し、編集部の記者が書いたから記事です」と答えた。だがその後の私の調査によって岡野氏の言ったことがまったくのウソであることが判明した。実際には出版局が作成した紙面で、編集部はまったくタッチしていなかったのである。その事実を知った上で岡野氏に再度電話して「あなたウソをつきましたね」と言ったとたん、岡野氏は「申し訳ありませんでした」と謝った。
 ところが、読者広報の「意見」のほうにこの紙面について聞くと全員が「記事です」と岡野氏と同じくウソをついたのである。部長代理の一人だけが「稚拙な紙面だと思います」と言ったが、その部長代理ですら「記事扱いしたのは間違いだった」とは言えなかった。そうした経緯を経て私は、その紙面は朝日のトップが「記事扱いにする」と決定したのではないかという確信的疑問を持ったのである。
 もし朝日が組織ぐるみで「記事扱いにする」と決めていなかったら、読者広報の「意見」担当者がそろって「記事だ」と主張するはずがない。問題はそうした決定に対して「読者からの批判に答えられない」と反旗を翻した社員が一人もいなかったということである。さらに朝日の読者広報には部長代理が二人いるが、二人とも調べもせず、「岡野は勘違いしたんです」とかばったのである。
 もし本当に記事だとしたら、朝日の編集長が、朝日の出版局が分離独立することは全紙面の半分を割くに足るだけのビッグニュースと判断したことを意味する。そうなると今年に入ってから出版界を本当に揺るがした二つのビッグニュースである草思社の倒産や漫画全盛時代を築いたマガジンとサンデーの提携を、朝日はどれだけのスペースを割いて報道したかを問題にせざるを得なくなる。当然朝日は、草思社の倒産やサンデーとマガジンの提携という、まさに出版界に激震が奔った大事件より、朝日が出版部門を分離して子会社化したことのほうをニュース価値が大きいと判断したことになり、そうなると朝日のジャーナリズムとしての資格さえ問われかねなくなることに誰も気づかなかったのかという疑問が生じる。そのことを指摘し朝日の危機的状況に対する告発を文書にして朝日の秋山社長宛てに送り、今は削除したがブログでも告発したことが、朝日が私を「悪意に満ちた読者」と位置づけることにした原因である。私は悪意があってこの事件(いずれ朝日も私の批判を記録に残していれば、大きな汚点を作ってしまったと、反省される時期が来ると思うが)をしつこく追求したわけではない。ただこの事件を追及した私を「悪意の読者」扱いすることで、自浄能力をもう失っていることを自ら明白にした朝日の体質改善は、明治以来続いてきた「政官財癒着のトライアングル」を崩すのと同じぐらい困難な道になるだろうことだけは疑う余地がない。

 もうこの記事の文字数が4500を超えた。この続きは続々編で書く。

朝日の論説委員室は精神分裂集団になったのか ②

2008-06-03 09:13:38 | Weblog
 6月3日の朝刊で朝日は社説で『天下り規制ーー人事より制度の議論を』を書いた。朝日の主張の重要な部分を無断転記する。
   今年10月に発足する新人材バンクが本格的に動き出すまでの3年間、天下  りをチェックする目的などで「再就職等監視委員会」が置かれる。この委員
  長、委員4人の人事に民主党など野党が反対しているのだ。(中略)
   野党が不同意の構えを見せているのは、予定されている人物がふさわしくな
  いからという理由ではない。野党は天下り規制の実効が上がらないなどとし
  て、新人材バンク自体に反対してきた。だから、人選はどうであれ同意できな
  い、新制度に加担はできないというわけだ。(中略)
   政府与党は、現在、省庁ごとに行われている再就職のあっせんを新人材バン
  クに一元化することで、官製談合の癒着や腐敗を防ぐとしている。これに対し
  て民主党など野党は、天下りを温存し、制度化する仕組みだと主張してきた。  (中略)
   政府与党は同意人事の採決をひとまず先送りし、与野党協議を呼びかけたら
  どうか。民主党も、人事案をつぶせば事足れりとはいかない。新人材バンクは
  法律に基づく新制度である。それに人事でストップをかけるだけなら無責任の
  そしりは免れない。
   官製談合や税金の無駄遣いにつながる天下りをどうするのか。制度の廃止な
  り、手直しなり、国家公務員の天下り規制のあるべき姿を提示し、主張するの
  が筋ではないか。
 私は朝日のこの主張に格別異議をさしはさむものではない。むしろ大まかに言えば私がいちおう支持できる範疇に入れてもいい主張だとも思っている。それなのに、何故この社説に対して『朝日の論説委員室は精神分裂集団になったのか ②』というタイトルを付けたのか。この先を書くには図書館に行って朝日の縮刷版で、過去朝日が新人材バンクについてどういう主張をしてきたか調べてくる必要がある。(6月3日午前9時)
 
 読売が阿部内閣(当時)の新人材バンクを含む公務員制度改革の政府構想を朝刊1面トップで報道したのは2007年3月8日。記事の書き方から見て読売のスクープではないようだったが、なぜか朝日はこのビッグニュースを完全に無視した。私はその日の朝、読売と朝日の読者窓口に電話して「ジャーナリズムの使命は政府を常に批判することにあるわけではない。時にはマスコミが全力を挙げて政府をバックアップしなければいけないときもある。たとえば小泉内閣がやろうとした道路公団改革も結果的にマスコミが足を引っ張ったため骨抜きにされてしまった。郵政民営化もマスコミが足を引っ張っていなかったら自民党から造反組が出るようなことはなかったし、小泉首相も郵政解散に打って出る必要もなかった。どんな改革もすべての国民が納得したり、すべての国民が等しく利益を享受できたりすることはありえない。今回の公務員改革もそうだ。私自身、何故官僚のためだけに政府丸抱えで再就職あっせんをする「新人材バンク」を作る必要があるのか、ハローワークもあれば、リクルートやパソナ、マンパワーなど民間の再就職あっせん機関もある。またインターネットで官僚時代に培った職務知識やノウハウを生かせる職探しも簡単に出来る。「民に出来ることは民に」というのは小泉以来の自公連立政権の基本理念ではなかったのか、という批判はきちんとしておくべきだ。しかし、渡辺行革担当大臣はたぶん、そうした批判を受けることを百も承知で、官僚や族議員の抵抗を最小限に抑え込んで、明治以来140年続いてきた政官財癒着のトライアングルをぶち壊すことを最優先したのだと思う。その視点に立って、新人材バンクへの批判はきちんとしながらも公務員改革の真の目的に対しては全面的にバックアップすべきだ。いたずらに批判するだけがジャーナリズムの使命ではない」と申し上げ、両紙の読者対応の担当者はいずれも「ご主張はもっともだと思います。関係部門に必ずお伝えします」と私の主張に理解を示してくれた。
 が、両紙が安倍内閣が始めようとした公務員制度改革について初めて書いた社説は「これがジャーナリストが主張すべきことか」と愕然とするほどひどいものだった。このブログは朝日の論説委員室が精神分裂集団であることを照明することが目的だから、読売の主張については深入りしないが、いちおう公平を期すため読売が社説で主張したことを論評抜きに紹介だけしておく。「公務員がやる気を失い、優秀な人が公務員を志望しなくなる恐れがある」という趣旨だった。いっぽう朝日は4月2日の社説でこう主張した。
   政府は公務員制度改革の基本方針を決めた。天下りをあっせんする新人材バ
  ンクを設けるのが柱だ。(筆者注・すでに私は朝日と読売の読者窓口に「安倍
  内閣の公務員制度改革の真の目的は明治以来続いてきた政官財癒着のトライア
  ングルを破壊することで、新人材バンクの設置は官僚や族議員の抵抗を防ぐた  めのやむを得ざる妥協策だと思う」と私の考えを伝え、両紙の読者窓口の賛意
  を得ていた。読者の意見は両紙とも必ず記録に残しており、もし否定されるな
  ら少なくとも読売の読者センターの責任者(当時)佐伯氏と朝日の読者広報部
  長(当時)両角氏に宛てて郵送したA4版16ページに及ぶ文書に書いている
  ので、今になって言い出したことではないことが証明できる。私は朝日や読売
  の論説委員のようにアンフェアなジャーナリストではない)
   (中略)「省庁の予算や権限を背景とした押し付け的の再就職の根絶」を表
  明した首相にすれば、その第一歩だということらしい。
   だが、新バンクが首相の狙い通りのものになるとはとても思えない。
   そもそも新バンクは、天下りを続けることを前提にしている。(後略)
   表向きは新バンクであっせんするかたちを取るが、実際には各省庁が前もっ
  て天下り先を話をつけておく。そんな展開も十分に考えられる。
 実は渡辺行革担当大臣は、そうした事態を防ぐため、官僚の再就職には、その官僚の出身省庁の役人には一切タッチさせないこと、さらにその官僚が在職中に関与していた企業や団体などへの再就職あっせんはしないことを何度も何度も言明してきた。それを知らずにこうした社説を書いたとしたら、そしてその無知な論説委員の文章へのチェックを怠ったとしたら、この社説の書き手の論説委員だけでなく、論説主幹、さらに社長と同格の主筆は読者が払っている購読料を収奪していると言われても返す言葉があるまい。
 このブログの読者は、この日の朝日の社説が冒頭で延べた「政府が決めた公務員改革の柱は、天下りをあっせんする新人材バンクを設けることだ」と100%の悪意をむき出しにして、意図的に、新人材バンクの設置と天下りを防ぐために設けたセーフティネットをネグったことをよく記憶しておいてほしい(ちなみに私は朝日の読者広報部長代理の小堺氏から「朝日に悪意を持つ読者」と極めつけられている。私は過去もこれからも、厳しい批判はするが、朝日の論説委員のような「批判のための批判」つまり悪意を持って事実を捏造してまで「批判」するような卑劣な文を書いたことは一度もない。
 とりあえず、朝日の主張の検証をさらに続けよう。4月13日の社説『新人材バンクーー選挙目当ては論外だ』ではこう主張した。
   私たちは社説(既述)で、そもそも天下りを続けることが前提の新人材バンク
  に、官製談合や税金の無駄遣いを防ぐ効果があるとは思えない、と疑問を呈し
  てきた。
   なぜなら、あっせんを一元化しても、役所の予算や許認可の権限を背景にし
  なければ天下りさせるのは難しいからだ。受け入れる企業や団体も、本人の能
  力というより役所の見返りを期待している。(中略)政官業がもたれ合う温床と
  なってきた天下りを本気でやめるというには、新バンクの構想は中途半端で小
  手先にすぎる。
 ただし、この日の社説では前回の社説とはちょっと違って公務員制度の改革について評価するに値する提言も、最後のほうでしている。私の批判が効いたとまでは私もうぬぼれていないが、評価に値する提言をネグるような、朝日の常套手段を真似るような卑劣漢では私はない。その部分も紹介しておこう。
   有能な官僚機構が国政の運営に大切であることは、私たちも異論がない。だ
  からこそ、優秀で使命感のある官僚をどのように採用し、育て、やりがいを持
  って仕事をする環境を整えるか。省益優先をやめさせ、公益・国益にそった仕
  事をさせるか。ここは公務員制度改革の原点に立ち返り考え直す必要がある。
   ひとつは、キャリア官僚も民間と同じように定年まで役所で働けるようにす
  ることだ。そのためには、年功序列の人事制度の見直しや、出世レースを外れ
  ても働き続けられる専門スタッフ職の導入などが欠かせない。
   採用時に出世コースを分けるキャリアとノンキャリアの制度を改め、人事を
  能力・実績主義に切り替える必要もある。
   民間からの公募を含め、官民交流も拡大すべきだ。省益優先を改めるには、
  異動を省庁横断的にしていかなければならない。高齢化の時代に定年延長も必
  要だろう。
   このように公務員制度全体を改革していかないことには、天下りの構図は変
  えられない。
 この主張には私だけでなく、このブログの読者も異論がないであろう。ただ残念なことは、この提言は目新しいものではなく、散々言い古されてきたことをまとめただけで、朝日独自のオリジナリティな主張ではないことだ。それをあたかも朝日の英知を絞って生み出したアイディアであるかのような書き方をするところに朝日の救いがたさがある。
 
 この先は『朝日の論説委員室は精神分裂集団になったのか ②の続き』に書く。というのは、gooブログのサーバーは1万字までの処理能力があると公表していながら、実際の処理能力はその半分もなく、goo公認のブログ入門書のサポートセンターのアドバイスを受け、約2000字前後でいったん「下書き」「投稿」をして、パソコン画面に「投稿が完了しました」の表示が出るのを確認してから続きを書くことにし、実際この後約2000字書いたところで同じ作業をしたのだが、投稿が完了せず、せっかく書いた約2000字が瞬時に消滅してしまった。というわけでこの続きは、このブログ記事で書くことが出来ないので、いったん「完成」「投稿」して「公開」し、続きは新たに「新規投稿」するしかないという判断に至ったという次第。お手間を取らせて申し訳ないが、もう一度gooブログ検索からこの続きをパソコン画面に出していただきたい。