小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

働き方改革の問題点を検証してみた③ 同一労働同一賃金はどういう結果をもたらすか

2019-04-22 01:24:02 | Weblog
【緊急】今日(4月29日)のNHKニュース7で重大な報道があった。米海軍第7艦隊が4か月連続で台湾海峡を通過したというニュースだ。私はこれまで、何度も「なぜ沖縄に米軍基地を集中させる必要があるのか」という問題提起をしてきた。これまで政府は細川内閣や民主党政権時代も含めて、この問題を頬かむりしてきた。いま安倍内閣は普天間基地の辺野古移設について「日本の安全保障のため、これ以外の選択肢はない」と言い続けている。沖縄を攻撃する国がどこにあるのか。そんなことは考えられない。まさか、中国が沖縄を軍事力で支配するとでも思っているのか。が、アメリカが沖縄を重視する理由が今日やっとわかった。台湾を中国から守るためだというのがその理由だ。それ以外にアメリカが沖縄を重視する理由はない。
 私はNHKふれあいセンターのスーパーバイザーに、その視点で「米軍基地問題」の報道特集番組をつくってほしいと要請した。スーパーバイザーは「報道部門に伝えます」と確約してくれたが、いまのNHKの報道姿勢から考えて、かなり難しいだろうと思う。とりあえず、この問題を緊急提起しておく。


 同一労働同一賃金の問題を検証する前に17日付の朝日新聞が掲載した記事について触れておきたい。記事の見出しは『異端の経済理論、日米で論争「日本の債務、全く過大でない」ニューヨーク州立大・ケルトン教授』。数年前、フランスの経済学者、トマ・ピケティ氏が『21世紀の資本』という600ページを超える本(日本版)を出版し、世界中で大ベストセラーになった。ピケティ理論とは、かいつまんで言うと「高度に発達した資本主義社会では貧富の差が必ず拡大する」という説で、膨大な資料を駆使して自論の正当性を主張したが、資料の扱い方に問題があったようで、いつの間にか話題にもならなくなった。
 ピケティ理論は、これもかいつまんで書くと「高度に発達した資本主義社会では、富裕層は余裕資金を株や債券、不動産などに投資するが、投資によって得られる資産の増加率は常に給与所得層の賃金上昇率を上回り、かくして富める者と一般労働者の貧富の差は拡大の一途をたどる。ゆえに格差を是正するには富裕層への累進課税を強化すべきだ」という説である。確かに日本のバブル景気時のように景気の浮揚期にはピケティ理論は当てはまるが、景気の後退局面では富裕層が受ける打撃のほうが大きく、一般論としての妥当性に欠ける。気持ちはわからないことはないし、私もピケティ氏とは別の視点で、少なくとも日本では富裕層への課税強化を行うべきだと考えてはいる。
 さて朝日新聞が取り上げた『異端の経済理論』とはMMT(現代金融理論)というもので、ステファニー・ケルトン氏が提唱しているという。MMTは「Modern Monetary Theory」の略で、朝日新聞の解説によると、「独自の通貨をもつ国の政府は、通貨を限りなく発行できるため、財政赤字が大きくなっても問題はない」という考え方が中核で、政府が財政を拡大しすぎることは財政破綻を招きかねないとされてきたが、インフレ率が一定の水準に達するまでは財政支出をしてもかまわないという。ケルトン氏は「巨額債務を抱えるのにインフレも金利上昇も起きない日本がいい例だ」と主張しているらしい。私に言わせれば「赤字国債依存症」患者の日本政府にとってはありがたい味方があらわれたと言えるかもしれない。朝日の記者が「財政赤字を出して何をするのか」と質問したのに対してケルトン氏はこう答えている。
「米国も日本も、人材や資源をフル活用できておらず、私たちは実力よりもだいぶ低い生活水準に甘んじています。財政支出を増やせば失業者が経済活動に戻り、生産量も増えます」。さらに日本については「国内総生産(GDP)比の公的債務は米国の3倍もあるのに、超インフレや金利高騰といった危機は起きていない。自国通貨建ての債務は返済不能にならないと、市場が理解しているからだ」という。アホとちゃうか、この経済学者。
 日本の平成30年度の財政状況を見てみよう(財務省による)。歳出総額は98兆円で、内訳は社会保障33兆、地方交付金16兆、公共事業6兆、防衛5兆、教育4兆、その他11兆、借金の返済と利息23兆である。当然歳出に見合う歳入を図る必要があるが、歳入98兆円の内訳は所得税19兆、消費税18兆、法人税12兆、酒税・たばこ税など10兆、新たな借金(赤字国債)34兆である。単純計算すれば、返した借金23兆円に対して新たな借金が34兆円で、差し引き借金が11兆円増えたことを意味する。
 財務省のホームページによれば「普通国債」(実態は赤字国債)という名の借金総額は平成30年度末で883兆円に上る見込みで、この額は税収15年分に相当するという。実際には私が手元の電卓で計算したところ、平成30年度の税収総額は64兆円だから、883÷64=13.8年である(私の計算は利息を含んでいないので、利息を含めると財務省が試算したように返済に15年かかるのかもしれない)。言っておくが、この計算は税収をすべて返済に回したとしての話で、歳出はゼロという前提である。例えば家計を借金で賄っていた場合、お金を1円も使わない原始人的生活をしたとしても借金の返済に13.8年かかるという意味だ。身の毛がよだつ様な話ではないか。
 ケルトン氏がアホなのは、「財政出動すれば生産が増え、失業率も改善して税収が増えるから、いずれ借金は返せる」と錯覚しているからだ。確かに日本はいま空前の低失業率で有効求人倍率はほぼすべての都道府県で対前年比プラスだ。ではその結果、借金が減ったかというと、かえって11兆も増えている。さあ、ケルトンさんよ、この日本財政の実態をどう説明する?
 借金を減らす方法は二つしかない。一つは税収を増やし、歳出を削減することだが、そのためには国民総所得が増大しなければならない。厚労省のバカな役人がデータをねつ造して労働人口の平均賃金が上昇しているかのような報告書を書いて国会で問題になっているが、確かに外国人労働力に頼らなければならないほど、いまの日本は人手不足状態が続いているが、実質平均賃金は減少の一途をたどっている。増えた雇用は平均賃金を押し下げる「効果」をもたらす非正規雇用や主婦のパート、定年退職者の再雇用などで、これらの労働人口の賃金は正規社員の賃金を大幅に下回るため、雇用は増えても平均賃金は下がる。しかし、データのねつ造問題は別としても、労働人口の総所得は増大しているのに、それが消費に回っていない。少子化と高齢化で、将来に不安を持つ人たちが多いため、増えた所得が消費には回らず、貯蓄に回ってしまうからだ。その結果、国民金融総資産だけは増え続け銀行を困らせている。豊富な資金を運用したくても、優良な貸出先が見つからず、不動産関連融資と消費者金融事業を収益を上げるための二本柱にせざるを得なくなっているのが銀行経営の現状だ。マイナス金利で銀行をいじめておきながら、自分の責任を棚に上げて日銀は、いま銀行の不動産関連融資の増大に警鐘を鳴らしている。銀行の穴(けつ)の穴(あな)くらい、日銀が拭いてやれよ。
だから税収を増やす方法は通常の経済活動の活性化に頼るのではなく、ピケティ氏が提唱したように富裕層への課税強化を行う以外方法はない。またロシアとの交渉で、北方領土問題とのセットをやめて平和条約締結を先行し、日本の安全保障環境を改善して防衛予算を大幅に削減することだ。アメリカのご機嫌は損なうだろうが、ロシアと平和友好関係を構築すれば、日本は「アメリカの核の傘」神話に頼らなくても安全保障環境は劇的に改善する。
 だが、税収増と歳出減だけでは、気が遠くなるような借金の返済は困難を極める。その場合の最終的手段はケルトン氏がハチャメチャな理論を展開したように、通貨発行量をべらぼうに増やして通貨の価値を下落させ、見かけ上の借金額の実質的負担を大幅に減らしてしまうことだが、そんなことをやれば日本の国際的信用は地に落ちる。そもそも政治に哲学がないから、借金を重ねても何とかなると、日本の政治家はホントに思い込んでいるようだ。アベノミクスが日本を地獄の底に陥れようとしている実態は、そういうことを意味している。お分かりかな、この論理。

 さて「働き方改革」の柱ともいえる「同一労働同一賃金」問題の検証に移る。前回のブログで、高度プロフェショナル制度の前身は、5年ほど前に政府が導入を進めてきた「成果主義賃金制度」にあることは書いた。そして私は14年5月21日から23日まで3日連続で『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』と題したブログを書いた。このブログを読み返してみて、我ながら、ここまでよく考察したなと自分で感心している(年寄りの自画自賛)。ウソだと思うなら、「記事一覧」で探して読んでみてほしい。ただ、この時点では気づいていなかった視点がある。それは「働き方改革」の最大の柱となる同一労働同一賃金には社会主義型と資本主義型(欧米型)の2種類があり、私は欧米型を前提として書いているが、実は表面的な文字の羅列を見る限り、社会主義型と資本主義型は全く同じなのである。というのは、近代資本主義社会がまだ黎明期だった時代の1875年5月にカール・マルクスが自著『ゴータ綱領批判』のなかで、社会主義社会と共産主義社会における生産と分配の関係について、こう主張しているからだ。
社会主義の段階では「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」が、共産主義の段階になると「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ようになると、マルクスは定義している。この定義の、とくに社会主義段階での「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」という生産と分配の関係については、ケインズ学派の経済学者も否定しないだろう。ただ、かつての日本や現代の韓国のように学歴社会の国では「各人は学歴に応じて働き、職位に応じて受け取る」という傾向が強くみられるが、終身雇用年功序列型賃金体系が「親方日の丸」企業を除いて徐々に崩壊しつつある日本では、『ゴータ綱領批判』でのマルクスの社会主義の段階での生産と分配の関係を、言葉の上では否定する人はいないと思う(※)。ただ、社会主義の国と欧米型資本主義の国とでは、この定義の前半の部分は共通の理解があると考えてもいいが、後半の部分「労働に応じて受け取る」の解釈が大きく異なる。少なくともスターリンが支配した旧ソ連や毛沢東時代の中国では「労働=働いた時間」という基準認識が強く、またGHQが進めた戦後の日本社会の民主化にも、実は社会主義的「生産と分配」の考え方が強く反映された。高度経済成長時代を経て日本がGDPでアメリカに次ぐ世界2位の位置に昇り詰めていく過程では、「日本は世界で最も成功した社会主義国家」という評価が世界的に定着し、大企業でも経営トップと新入社員の給料格差は驚くほど少なかった。当時の日本は、おそらく世界一格差が少ない社会だったと思う。この格差の少なさが国内での国民共通の夢「三種の神器」や「3C」需要を生み、その結果、国内市場が短期間に大きく広がり、日本の急ピッチの高度経済成長を支えてきた。
(※ 実際19日、経団連の中西会長が首相官邸で記者団に対して、大学側との議論の結果を踏まえ「日本の企業は今後、終身雇用を継続することは困難」という認識を示した。だが、肝心の年功序列型賃金体系については言及せず、そのことへの記者団からの追求もなかったようだ。日本のメディアに対する国際的評価が低いのも宜なるかな?)
なお、ウィキペディアは『ゴータ綱領批判』の解説で、「資本主義社会から社会主義社会への過渡期における国家をプロレタリア独裁とした」としているが、その記述はうそ。プロレタリア独裁を社会主義への過渡期として位置づけたのはレーニンで、「プロレタリア独裁=共産党独裁」としたのはスターリンや毛沢東であり、まさに共産党独裁政権を維持するためのご都合主義まる出しの解釈である。日本共産党の主張にはしばしば同感することも多いが、「党名から共産をはずせ」という声が共産党支持者の間でも多いのは、「共産党が政権をとると、旧ソ連や今の中国のように、独裁政権を目指すのではないか」という危惧が少なくないからでもある。
話が横道にそれるが、先の参院選で民主党(当時)は大敗したが、共産党は躍進した。日本共産党は「選挙協力が国民から支持された結果だ」と自画自賛の評価をしたが、先の衆院選で議席数が半減するという大敗をしたことについても「選挙協力した結果だ」と、勝った参院選と同じ論理で言い訳した。本来民主主義政党は、選挙の結果責任を執行部が取らなければならない。自民党も55年体制時代の社会党も、選挙で負けたら執行部は責任を取って退陣してきた。議席数を半分も失うという歴史的大敗を喫しながら、執行部だけはのほほんと責任を回避し、衆院選で負けた理由付けを「選挙協力」に求めたため、今夏の参院選での選挙協力が難しくなった。政治思想に哲学がなく、ご都合主義なのは自民党だけでなく、共産党も同じだと断罪せざるを得ない。そうした体質を変えない限り、いまの共産党の一見正論に見える主張も、実は「赤ずきんちゃん」に出てくるおばあさんの仮面をかぶった狼ではないかという疑問を払しょくできないのは、私だけだろうか。

今回のブログも、またかなりの長文になりそうなので本筋に戻る。
アベノミクスの新しい柱として14年6月に閣議決定した成長戦略には、「成果主義賃金制度」が大きな柱として盛り込まれた。連合などの労働側や野党、メディアも「残業代ゼロ」政策だと批判したが、私は先の3回連載のブログで「成果主義賃金制度を日本に定着させるためには欧米型同一労働同一賃金の雇用形態に変えないと無理だ」と主張した。この時点では政府には「同一労働同一賃金」の考えは、頭の片隅にもなかったはずだ。だから、「働き方改革」の最大の柱に「同一労働同一賃金」の導入を据えても、それがどういう結果を生むことになるか、政府もメディアも全く想定していない。私は14年5月の連載ブログ1回目の最後にこう書いた。
「ここで読者に理解していただきたいことは『同一労働』の意味である。アメリカにおける『同一労働』の意味は労働の結果としての成果、つまり会社への貢献度が基準になっているということだ。つまりAさんが10時間働いて生み出した成果と、Bさんが5時間働いて生み出した成果がまったく同じならば、時間当たりの賃金はBさんはAさんの2倍になるということなのである」
 さて政府は「同一労働同一賃金制度」をどう考えているか。厚労省のホームページには、こういう記載がある。
「同一企業内において正規雇用労働者と非正規雇用労働者の間で、基本給や賞与などの個々の待遇ごとに、不合理な待遇差を設けることが禁止されます」
 なお、正規社員と同じ勤務形態でありながら賃金格差が大きかった非正規社員だけでなく、ここでいう「非正規雇用労働者」の範疇には、パート社員(有期パートも含む)や外国人労働者も含まれる。限りなく欧米型「同一労働同一賃金」の形態に近づくことになる。が、政府は欧米型「同一労働同一賃金制度」導入の、本来なら足かせになるはずの労働基準法を改正しようとはしていない。
 実は、成果主義賃金制度の導入を目指していた14年、安倍総理は経済界トプに強く申し入れ、この年大企業は9年ぶりにベースアップを行った。このベースアップについて、私は連載ブログの2回目にこう書いた。
「(ベースアップに)メディアもそろって好感を示した。『憲法違反の賃上げ』だということを知りながら、その指摘さえ行わずに諸手を挙げて支持した。『お前らアホか』と言いたい。『憲法違反の賃上げ』ということを知らなかったとしたら、もっとアホと言わなければならない。
 憲法に違反している法律は、言うまでもなく労働基準法である。労働基準法では、賃金の形態を『基準内賃金』と『基準外賃金』に分類している。
 基準外賃金のほうから説明しよう。その方がわかりやすいからだ。
 労働基準法で基準外賃金の対象とされているのは、主に三つだ。扶養家族手当、住宅手当、通勤手当、である。すべて『属人的要素』つまり個々の従業員の個人的な諸事情に対して支給されている手当で、会社で仕事をした労働力に対する対価として支給される賃金ではない。そういう意味では年齢・学歴・勤続年数を基準にした基本給は、本来『基準外賃金』である。これらの要素は『職務遂行に要する労働力の価値』とは無関係だからだ」
 転載があまり長くなると読者が退屈するだろうから、以下要点に絞って書く。おそらく欧米の賃金形態にはこの三つの「基準外賃金」もなければ、年齢・学歴・勤続年数を基準にした基本給などという、時間外労働に対する割増賃金の基準給与はないと思う。実はこの時期、NHKをはじめ大手メディアに私は、欧米の賃金体系と残業代やボーナス、退職金の基準となる給与にはどういう要素が含まれているか調べて報道してほしいと要請していたのだが、どのメディアも私の要請に応じてくれなかった。自分たちにとって都合が悪いからだろうと私は思っている。
 だから「働き方改革」で同一労働同一賃金を日本に定着させるには、労働基準法の根本的改正を伴わないと無理なのだ。文言的には厚労省が行政指導しているように、正規・非正規の賃金格差を解消することには私も大賛成だが、そのためには労働基準法の大改正が避けられないし、労働基準法に手を付けずに形式的な正規・非正規の賃金格差の是正を企業に要求しても、企業側は実際の運用に困惑するばかりだろう。
 さらに、もっと深刻な事態も想定できる。いくら法律で義務付けても、企業が支払える賃金支給の総額が自動的に増えるわけではない。非正規の賃金を正規並みに引き上げれば、どこかにしわ寄せしなければ企業は給与倒産してしまう。そのしわ寄せがどこに行くか。二つのケースが考えられる。
 一つは厚労省が正規・非正規の賃金格差を禁止しているのは「同一企業内」である。子会社や関連企業は別会社だから、親会社の給与形態に縛られる必要がない。そうなると、例えば非正規従業員は子会社や関連会社に移してしまえば、非正規従業員の賃金は親会社の縛りを受けずに済む。いまのところ、おそらく大半の大企業が行うだろう対策は、人材派遣会社を作って、非正規はその人材派遣会社に移す、また新たな採用は親会社ではなく人材派遣会社で行うようにするだろうということだ。大企業がそういう対策をとれば、実質的に賃金格差は解消できない。
 もしそういう対策をとらずに、非正規の賃金を正規並みに引き上げる場合、企業はどういう対策をとるか。役立たずの、年功だけで高い給与を支給されている中間管理職が地獄を見ることになる。
 かつて、まだ日本経済が「失われた20年」に突入する前の好景気時代に流行語になった言葉がある。「窓際族」だ。ネットで調べると、言葉としては1980年前後の高度経済成長時代からあったようだが、本格的に流行したのはバブル景気の頃だったと思う。まだ終身雇用年功序列が定着していた時代に、役立たずとみなされた中高年社員に対する冷遇扱いの言葉で、要するに窓際にポツンと机だけ置いて仕事は何も与えず、いたたまれなくなって自主退職するのを気長に待つという人事方針の犠牲者を意味した言葉だ。
 役立たずの中高年社員でも、その時代の企業には仕事を与えずに年功による高額給与を支給できる余裕があったが、その余裕は若年社員の低賃金によって支えられていた。が、同一労働同一賃金が本格的に導入されると、年功など意味を持たなくなる。おそらく「基本給」という賃金も消滅する。年功だけで高額給与の権利に胡坐をかいていた中高年社員に対して、企業が同一労働同一賃金を厳密に適用するようになれば、彼らの給与は一気に下がる。企業としては有能な若手社員に対して、彼らが企業に提供する労働価値にふさわしい給与を支給して、さらに企業への貢献度を高めるための給与体系にするだろう。企業が支給できる賃金の総額に限界がある以上、有能な若手社員を厚遇するには、そういう賃金体系を導入せざるを得なくなる。そういう時代に突入してから「想定外だった」とほざいても、政治の責任は免れ得ない。政治に哲学がないことによる悲劇が、もうすぐやってくる。

※ 今週末から大型連休に突入するため、次のブログは5月13日に更新する。テーマは若い母子が死亡した痛ましい池袋事故についてである。私自身は70歳になった時点で運転免許を更新しなかった。この事故の全責任は、運転していた87歳の男性にあるのではなく、2年前に免許を更新させた警察機構にある。検察が起訴すべきは警察庁長官だ。尼崎事故ではJR西日本のトップが責任を取って辞任した。民間企業ではトップが責任を取らされるのに、官僚機構ではなぜトップが直接関与していないと責任問題が生じないのか。忖度社会の温存は、そうした実態に根拠がある。



【追記】無事に皇位継承の儀式は粛々と行われた。渋谷をはじめ繁華街には多くに人たちが繰り出し、カウントダウンに参加した。私も自宅で祝杯を挙げながら一人静かにカウントダウンに参加した。 
 思えば平成の30年間、日本がなんとか平和を維持できたのは、別に平成天皇・皇后のおかげだけでは必ずしもなかったが、皇室外交が昭和の時代での、かつて日本と戦火を交えた国々の日本に対する敵意を少なからず緩和してくれたことは間違いない。そういう意味で、多くの国民とともに、私も平成天皇・皇后に感謝の気持ちを捧げたい。
 翻って平成天皇は上皇になられるという。もう、いいではないか。もちろん平成天皇・皇后のお体はこれからも安全のための警護を欠かすべきではないと思うが、皇室からは離脱させてあげてはいかがかと思う。残り、そう長くはないと考えられる平成天皇・皇后は一般人としてもっと自由にこれからの残された人生を楽しんでいただきたいと思う。メディアも、平成天皇・皇后の日常をこれまでのように一挙手一投足を追いかけて報道したりせず、そっとしてあげてほしい。見知らぬ国民と一緒に歩行者天国の街中を散歩されてもいいし、やはり見知らぬ国民と温泉宿の大風呂で裸の会話を楽しまれてもいいのではないか。そんな一般国民と同じ生活の楽しみを、味わうことができるようにしてあげたいと思う。本当にありがとうございました。(5月1日記す)



働き方改革の問題点を検証してみた② 高度プロフェショナル制度の疑問

2019-04-15 00:05:51 | Weblog
 8日にアップしたブログは、実は「働き方改革」の本丸ではない。ではなぜ私は、「働き方改革」にとって派生的な政策にすぎない外国人労働者の受け入れを3回連載のトップに持ってきたのか。
 安倍政権の政策が、その場しのぎの場当たり的なものに過ぎないことが、最も象徴的に表れた対症療法的「人手不足」対策でしかなかったからだ。私はブログで何度も書いてきたが、いかなる政策も薬と同様、必ず副作用を伴う。与党も野党も地中深くに根を張った政治哲学がないから、与党はその場しのぎの政策に終始するし、野党はその政策の副作用ばかりを批判する。
 ある政治集会で、野党第1党の枝野幸雄・立憲民主党代表が「メディアは、私たちが反対ばかりしていると批判するが、私たちは政府が提出した法案の8割に賛成している。反対ばかりしているわけではない。が、そうした実態をメディアはちゃんと報道していない」とメディア批判をぶった。枝野氏が嘘をつくとは思えないから、実際成立した法案の8割くらいは、与党も野党の修正案を取り入れて成立させていると思う。が、野党もとんでもない勘違いをしているケースもある。
 例えば「カジノ法」と言われているIR法。「ギャンブル依存症が増える」と野党は全面的に反対を打ち出しているが、カジノができてもギャンブル依存症が増えるとは限らない。いまパチンコ業界では客離れが進んでいるが、ではそれだけギャンブル依存症の人が減ったのかというとそうではない。ほかのギャンブルに人気が移っただけで、ギャンブル依存症の人たちは依然として健在(?)である。だからカジノができたからといってギャンブル依存症の人が増えるとは限らない。ギャンブル業界での競争が激化するだけの話だと私は考えている。
 ただし、大阪とか横浜とかの大都市に「カジノ村」を誘致することはいかがなものか、と私は思う。「ギャンブル=暴力団=売春組織」は、落語の三題噺ではないが、切って切れない関係にある。私が住んでいる地域は、実際にそうかどうかは別にして、日本ではもっとも文化のにおいを感じさせると、多くの国民から思われている地域だ。それが、やくざと売春婦の街になんかされてたまるかという思いがある。外国人観光客を誘致して、疲弊した地域経済を活性化するのが狙いだったら、福島に「カジノ村」をつくったらどうか。名ばかりの「復興五輪」より、いまだ東北大震災の痛手から立ち直れていない東北地方にとって「振興のシンボル」になることは間違いないだろう。もちろん山の中にポツンと「カジノ村」だけ作っても客は来ないだろうから、交通インフラをはじめ魅力的な都市づくりも同時に行う。アメリカのラスベガスだって、もともとは砂漠だった。アメリカがラスベガスをつくったくらいの度胸でやれば、福島が日本を代表する一大観光拠点になるかもしれない。

 カジノ法のことはともかく、実は「働き方改革」はいい意味でも悪い意味でも、日本型雇用関係を根底から変革する可能性がある。「高度プロフェショナル制度(以下「高プロ制」と略す)」と「同一労働同一賃金制度」が、終身雇用・年功序列を前提としてきた雇用・賃金・人事の体系を一転してしまうかもしれない。そうした根本的問題への考察を、これまで与党も野党も重要視してこなかった。そうなった責任は野党も負わなければならない。「残業代ゼロ政策」とか「過労死政策」といった、対症療法に伴う副作用にばかり焦点を当ててきたから、かえって「働き方改革」が包含する本質的問題が見えにくくなっている。私はあえて、隠れて見えにくい、こうした問題をあぶりだすことにした。連載2回目のこのブログでは高プロ制の光と影を検証する。
 実は高プロ制は突然出てきたわけではない。原点と言える「成果主義賃金制度案」があった。労働時間(勤務時間)で賃金を決めるべきではなく、会社への貢献度(つまり労働成果)によって賃金を決めるべきだという賃金制度の見直しが原案だった。いまではネットで「成果主義賃金制度」を検索しても高プロ制の原案となったこの法案についての記事は見つけられなかった。野党やメディアが当時、「残業代ゼロ政策」と猛烈に批判していたにもかかわらずだ。
 2014年4月に安倍総理が議長を務める政府の産業競争力会議が、サラリーマンやOLの賃金を、労働時間を基準にするのではなく働いた結果の成果を基準にした賃金体系に変更すること(「成果主義賃金制」)を検討し、6月に予定されていた成長戦力の改定に盛り込むことになっていた。私はこの時期、安保法制懇の集団的自衛権行使論への批判記事を集中的に書いており、5月21日になってようやくブログで3回にわたって記事を連載した。連載記事のタイトルは『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』である。その中で私はこう書いた。

 私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか。それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…。
 産業競争力会議で「残業代ゼロ」の対象として検討されているのは年収1000万円以上の社員だが、高給取りではなくても労働組合との合意で認められた社員も対象にする方向のようだ。ただし、いずれも本人の同意を前提とする。
 問題は、この労働基準法の改定につながる新しい仕組みの目的は何かということだ。公明党や連合は「長時間労働が増える」ことを不安視しているようだが、政府はいま正規社員の労働時間短縮によって非正規社員の正規社員への登用やフリーターの就職機会を増やすことに力を注いでおり、またアベノミクスを成功させるためにかつて自民政権が行ったことがない「従業員へのベースアップ」を経済団体に要請していることから考えても、公明党や連合が懸念しているような長時間労働が増えるような事態は防ぐ方策も、産業競争力会議は当然考慮するだろうと考えるのが合理的である。(※ 実際4月から実施された「働き方改革関連法案」では長時間労働に対する厳しい規制と罰則が設けられた。14年5月の時点ですでに私は、そうした対策が行われるだろうことを予見している。我ながら、お見事。「自分で自分をほめてやりたい」と、誰かが言ったね。これ、自慢話でゴメン。だが、ジャーナリストたるもの、この程度の見識は持っていないとね…)

 このブログ記事に続いて6月13日に投稿した『残業代ゼロ制度(成果主義賃金)を定着させるには、「同一労働同一賃金」を原則にしないと無理だ』でも書いたが、この問題について、この稿であまり深入りしすぎると、3回目に書くことがなくなってしまうのでこの辺でやめておく。
 このように、こうした考え方そのものを私は否定しているわけではない。人それぞれ考え方や価値観は違うので、私は絶対的に「正しい考え方」があるとは思っていない。思ってはいないが、私は私なりの考え方があるし、価値観もある。だからこれまで書いてきた著書32冊も私の考え方や価値観をもろに読者にぶつけてきた。読者が私の主張をどう理解し、どう判断するかは読者の自由であり出版社に届けられた読者の意見にはできる限り誠実に対応してきたつもりだ。いまでもブログに対する閲覧者の意見は、悪意丸出しの暴論でない限り可能な限り誠実に対応している。
さて高プロが抱えている根本的問題の検証に移る。高プロとは、高度な専門知識を持ち、一定の年収がある働き手を労働時間規制から外す制度のこと。具体的には年収1075万円以上の専門職(金融商品開発・金融商品ディーリング・アナリスト・コンサルタント・研究開発の5業務)には、勤務時間の制約もない代わりに残業代や休日出勤の手当てもつかない。さらにこの5業務についても高プロの対象者については年収基準だけでなく、具体的な業務内容についても厳しい規制がかけられている。それはいいのだが、問題は「誰のための、何を目的とした制度なのか」という根本的な問題が国会で一度も議論されていないことだ。だからこれらの業務に携わる社員は会社から厳しいノルマを与えられ、事実上の長時間労働を強いられかねないという疑問が解消されていない。
実はメディアで、いち早く「働き方改革」を実行に移したところがある。朝日新聞の「お客様オフィス」だ。はっきり言って「働き方改革」を悪用したケースの好例だ。
新聞社やテレビ局の大半は読者や視聴者の意見を聞く窓口を設けている。朝日新聞の場合、「お客様オフィス」がその部署だ。その「お客様オフィス」の営業時間(?)が平日は9:00~18:00、土曜日は9:00~17:00に短縮され、日祝日は閉店。ライバルの読売新聞の「読者センター」は年中無休で毎日9:00~22:00まで営業をしている。NHKテレビの「ふれあいセンター」も年中無休で9:00~22:00まで営業している。朝日新聞の読者窓口の担当社員はなんと優雅な勤務状態になったのか。
営業時間だけではない。朝日新聞本社(大阪以外の支社も)の「お客様オフィス」の電話番号はナビダイヤルに変えた。ナビダイヤル(0570から始まる電話番号)は、加入者が自由に電話料金を設定できる特殊な電話だ。不便なのは携帯電話やIP電話からはかけられないことが多いことだが、朝日新聞の場合はもっと悪質だ。以前は03から始まる一般市外電話番号を使っていたが、いまはナビダイヤルしかない。東京都23区内から固定電話でかける分には特別高い電話代を請求されるわけではないが、東京都23区外からは一般市外料金にさらに上乗せした電話料金を請求される。新聞の定期購読者が減少し続け、経営が苦しい事情は理解できないこともないが、新聞の購読者から寄せられる意見はメディアにとって、言うならセカンド・オピニオンだ。いや、朝日新聞にはそんな意識すらないのだろう。読者の意見を「聞いてやるのだから」という姿勢が見え見えだ。私は購読者として朝日との付き合いが長いだけでなく、現役時代には何度かコメントを求められたこともある。そういう意味では私にとって朝日は「大好き新聞」だが、一読者として言うべきことは言う。書くべきことは書く。朝日新聞の勝手「セカンド・オピニオン」を自負しているからだ。
実際、ごく最近「お客様オフィス」に電話したことを書く。
① 塚田厚労副大臣の「忖度」発言に関連して…忖度発言自体論外だが、「ハコモノ」公共事業に対する官僚の需給見通しが常に甘い。初めから「ハコモノありき」で、公共事業を実現するための数字合わせをするのが需給予測になっているのではないか。過去の大規模公共事業の事前の需給予測と結果を徹底的に分析する大型連載をやってほしい。
② 4月5日の社説「医師の働き方について 偏在対策に踏み込め」の主張について…地域医療確保のための具体策を厚労省に強く求めたことには異論はないが、もう一歩踏み込んで朝日としての提案が欲しい。私ならこういう提案をする。 ①地域医療に従事する医師や看護師に対して最低所得補償をする ②診療収入だけでは手が出ないCTやMRIなどの高度医療機器は国か地方自治体が無料レンタルする
同様の提案はNHKの「ふれあいセンター」にもしばしば行っている。たとえば政府の経済政策について、こういう検証番組をつくってほしいと何度も提案している。
少子化によって労働人口が減少していく中で、従来のようにモノづくりを経済政策の中心に据えるのは、間違っていると私は思う。自動車のように今でも国際競争力を維持している工業製品はどんどん減っている。電気製品やカメラは競争力を失いつつあるだけでなく、市場の激変にメーカーがついていけず、衰退を余儀なくされている。現に来日外国人は予想以上の伸びを続けているが、かつての「爆買い」のような日本製品の購入目的は大幅に減少し、日本人ですら知らない隠れた観光地を訪れる外国人が急増するなど、広い意味でのサービス産業の分野が拡大している。ips関連の医療技術の分野で日本が世界をリードしているのも、私は広い意味でのサービス事業と考えているが、日本の経済政策もモノづくりから広い意味でのサービス産業の育成にかじを切り替えるべきだといった趣旨の大型番組をつくってほしい、と。

さて高プロに代表される「働き方改革」は「誰のための、何を目的にした制度か」。このシリーズの1回目で私が書いたことを思い出していただきたい。
日本人は海外からどう見られているか。「働きすぎ」「OECD諸国で最低ランクの労働生産性」。これが海外から日本人労働者に与えられている「栄誉ある評価」だ。どうした、安倍さん、喜べるかよ。
前回のブログで、長時間労働に対する厳しい規制と罰則を設けたことについては評価したが、「労働生産性が低い」状態を放置したままで勤務時間だけ短縮したら、日本のGDPはどうなる? 当然下がるよね。景気回復どころではないではないか。労働生産性の低さを放置したままで、同様の低い労働生産性の外国人労働者を受け入れて、GDPだけ何とか維持しようというのは、経済政策としてはいかがなものか。
だから私は前回のブログで、労働生産性の低さについて、日本人は無能か、あるいは「働きすぎ」ではなくて「さぼりすぎ」なのではないかという論理的結論を導いた。
日本人がもともと無能なら、無理に背伸びをして欧米先進国並みの文化的生活を送ろうとするから長時間労働せざるを得なくなる。そういうのを「身の程知らず」という。その場合、長時間労働を規制するということは、私たちは文化的生活水準を途上国並みに引き下げる覚悟を持つ必要がある。実際、3回目のブログで書くつもりだったが、さわりだけ書いておくと、政府は「同一労働同一賃金」の基準を何も示していない。だから企業は運営について混乱するだろうが、現時点での解釈は「正規・非正規を問わず、同じ勤務形態で同じ仕事をしている場合、賃金に格差をつけてはならない」という程度でしかない。
簡単なケースで考えてみよう。スーパーのレジ係は研修中の新入社員を除いてほぼパートの女性が中心である。みんな同じ仕事に従事している。が、昼時や夕方時などレジによって行列の長さが違う。毎日買い物に来て各レジ係の仕事の効率を熟知している客は、行列が長くても効率よく客をさばいているレジ係の列に並ぶ。1時間あたりにさばける客の数が100人の人と50人の人が、同じ仕事だから同じ時間給というのが「同一労働同一賃金」の原則になったら(これが社会主義的「同一労働同一賃金」の体系で、この実験はすべての社会主義国で失敗した)、「グレシャムの法則」通り「悪貨は良貨を駆逐する」ことになることは必至だ。要領のいいひとは一生懸命仕事をしているふりをして実際には仕事の効率を落として、怠けるようになる。つまり「さぽり方」の技術を習得することに必死になる。社会主義的「同一労働横溢賃金」の体系がすべて失敗に終わったのは、こうして労働生産性が極端に低下した結果である。これ以上書くと次のブログで書くことがなくなってしまうので、この辺でやめておく。

高プロが包含する致命的欠陥を指摘しておく。野党やメディアは「対象者の労働時間規制を外す残業代ゼロ政策だ」と批判する。その批判が全くの的外れだとまでは言わないが、一応高プロ対象者に対しても長時間労働の規制や有給休暇の取得を義務付けるなどの対策は講じており、「過労死」が爆発的に増えるとは限らない。むしろ問題なのは企業側の権利としてこの制度が運営されないか、つまり高プロ対象者に対して過大な成果(目標)を設定して、一定の賃金に抑えながら高い成果を要求することができる制度になる可能性が払しょくしきれていないことにある。高プロ対象者は「年収1075万円以上」という制度枠を定めたことが、そうなる危険性を拡大する可能性を高めている。
高プロが、企業側にとって有能な人材を安上がりに雇用できる制度ではなく、労働者が効率よく働き、より生産性を高めるための制度にすることを目的にするのであれば、年収のいかんにかかわらず、高プロは労働者の権利である、と位置付けるべきだった。つまり、勤務時間や勤務体系の規制を一切外し、企業側との契約に基づいた成果さえ上げれば、仕事をする場所や働く時間帯さえ労働者側の自由裁量を認めるという制度にすべきだ。その場合、企業側との契約に基づく業務以外の「サービス業務」を命じられた場合は、高プロ従業員は「サービス業務」を拒否できる権利の保障と、もしやむを得ず「サービス業務」に従事した場合は、その労働対価として労働基準法で定められた残業や休日出勤と同等の割増賃金を別途請求できる権利も保証することが必要だ。
私は20数年前、ビル・ゲイツにインタビューするため米シアトル郊外のマイクロソフト本社を訪問したが、社員の働き方の自由度にびっくりしたことを覚えている。仕事場はすべて個室で勤務時間中なのに、広い芝生の広場では社員が寝転んで音楽を聴いたり本を読んだり、仲間同士でだべったり、さすがに飲酒は駄目のようだが、本当にのびのびした雰囲気を感じた。これなら、当然社員の労働生産性は高くなるだろうという確信を抱いたことがある。
高プロ対処にするには従業員側の同意が必要という制約があること自体、この制度が労働者側の働き方の自由度を高めることによって労働生産性を向上させることにあるのではないことが、もはや明らかになったと言えよう。その根底には「従業員の自由度を高めると、さぼってばかりいるのではないか」という企業側の従業員に対する根本的な不信感があるからではないか。この制度の背景にはそうした要素が見え隠れしているような気がしてならない。
野党も労働組合もメディアも、高プロが目的とすべきことは何かという原点を見据えて、従業員の働き方の自由度をより高めることによってOECD諸国の中で最低ランクとされている労働生産性を向上させるような制度運用を、政府や企業に要求すべきではないか。私自身、自由業だっただけに、働き方の自由度が労働生産性に直結していることを、身をもって体感してきたことを、最後に付け加えておく。(この稿、終わり)





 
 

働き方改革の問題点を検証してみた ①

2019-04-08 07:58:24 | Weblog
 この4月1日から「働き方改革関連法」が実施されることになった。そこで、この法律の実施に伴う「光と影」をあぶりだしておきたい。今回は、焦点を「外国人労働者の受け入れ」問題、「高度プロフェショナル制度」問題、そして「同一労働同一賃金」問題の三つに絞り、3回にわたってブログを書く。第1回目は「外国人労働者の受け入れ」問題を検証する。

 すでにメディアも、また地方行政機関も、「外国人労働者の受け入れ」によって生じるであろう近隣の日本人住民とのトラブルについては懸念の声を上げており、その問題に関しては私もすでにブログで何度も書いてきた。
 果たして「先見の明」と言えるのかどうかは別にして、作家の曽野綾子氏が4年以上前の2015年2月11日、産経新聞に「労働力不足と移民」をテーマにコラムを書き、その後、曾野提案をめぐってテレビやラジオも含めてメディアで大論争が始まったことがある。
 曾野氏の主張の趣旨を簡単に紹介しておくと、南アでの人種差別政策廃止後のある事件(白人だけが居住を認められていたマンションに黒人が住むようになって環境が悪化し、白人がマンションから退去する事態が生じたこと)を例に挙げ、「仕事は人種の分け隔てなくできるが、居住区だけは人種ごとに分けたほうがいい」というのが曾野氏の「移民政策論」。この移民政策論が人権派言論人やリベラル派政治家たちから「新アパルトヘイトだ」と袋叩きにあったことがある。私も当時、ブログで曽野氏を厳しく批判したことを覚えている。
 難民問題と外国人労働者居住問題を一緒に論じることはできないが、IS(イスラム国)がシリア・イラク地域で猛威を振るいだし、難民がヨーロッパ諸国にどっと押し寄せ始め、イギリスがEUからの離脱に踏み切ったのも、「外国人を受け入れることがいかに困難か」を歴史が証明したと言えなくもない。
 私が前に書いたことだが、日本人が海外に行っても現地の近隣住民とトラブルを起こすことはほとんどない。自分を押し殺すことがいいことか悪いことかの価値観は別にして、日本人の精神的規範として培われてきたことの一つに「郷に入れば郷に従え」という掟(おきて)のようなものがある。この格言の出典は中国の『童子教』にあるようだが、中国ではほぼすたれた儒教精神が日本にはいまだに根付いているからだ。もっともヨーロッパでもローマ時代に「ローマにいるときはローマ人がするようにせよ」という格言があったようで、個人主義思想が生まれ育っていく過程で、そういったトラブル回避の知恵も失われていったのかもしれない。
 そういう意味では、日本に働きに来る外国人に、「日本は個人主義の国ではないから、あなたも個人主義的な考え方を捨てなさい」と強要していいのだろうか、という気はする。はっきり言って、地域社会で様々な価値観を持つ多人種が共生することは困難かもしれない。例えばごみの捨て方ひとつにしても、どうやって分別方式を理解させ納得させることができるか、すでに各地で生じているトラブルの数々を見ても容易ではない。「新アパルトヘイト」と非難されようと、外国人労働者を受け入れるには曾野氏の提案を受け入れるしかないのかもしれない。私もかつては人権主義の立場から曾野氏を批判するブログを書いたが、曾野氏が反論したように「差別と区別は違う」と割り切るしかないのだろうか。少なくとも人権主義の立場から、どうやれば外国人労働者と日本人が地域社会で共生できるかの具体的提案がないなら、理想だけを主張しても問題の根本的解決にはならない。
 単純な人権主義者の欠陥は、具体的対策なしに理想論だけ唱えて気持ちがすっとしたと自己満足してしまう点にある。理想は理想として私も否定するわけではないが、現実社会の中で理想をどう実現するかの方法論なしに、現実的解決論を提起した曾野氏を理想論だけでレッテル張りの批判をしても、自己満足の域を出ない。
 ただ、そうした問題は別として、なぜいま外国人労働者を受け入れなければならないのかという根本的問題の検証は別だ。
 そもそも日本の政治家には哲学があるのかと疑いたくなる。何か問題が生じても、初期のうちに手を打てば大ごとにならずにすんでいたのに、末期的状態になるまで放置し、これ以上は放置できないという段階になって初めて対症療法的処置を考える。政府だけでなく日銀の金融政策も含めてだが、バブルを招いたのも景気対策のための末期的対症療法的経済政策だったし、バブルを退治したのも同様に末期的状態になるまでバブル景気を放置しておいて、悪性インフレを招きかねないという状態になってようやく対症療法的経済政策に乗り出して、挙句の果てに「失われた20年」を招いた。政府の経済政策にも日銀の金融政策にも哲学がないから、常に後追いの対症療法的対策しか打てない。振り回されて右往左往させられるのは国民だけだ。
 外国人労働者の受け入れも同じだ。現在は確かに人手不足の状態が続いている。が、そうした状態が今後も続くとは限らない。労働力の需給バランスが崩れたとき、「もう外国人労働者はいらないから帰国してください」と、そのときの都合で言えるだろうか。もし政府がそういう方針を打ち出したら、当然諸外国から日本は袋叩きに会う。そうなる事態も想定したうえで、政府は外国人受け入れ方針を決定したのだろうか。とりあえず政府の外国人受け入れ態勢を見てみよう。受け入れる外国人労働者には2種類と定められている。

「特定技能1号」労働者は在留5年を上限とし、家族の帯同は不可。
「特定技能2号」労働者は何回でも更新が可能で(事実上永住権の付与)、家族の帯同も可。ただし、2号対象の労働者は建設・造船などに限定。
 また現時点では最大で34万5150人の受け入れを想定し、必要に応じて受け入れ停止の措置をとる。さらに大都市への集中を防ぐための必要な措置もとる。

 果たしてこれが問題解決のための最善の対策と言えるだろうか。「必要に応じて受け入れ停止の措置をとる」というが、それは新たな受け入れを停止するということで、すでに日本で働いている外国人を排除するということは意味しない。だいいち、そんなことをしたらすでに書いたように諸外国から日本は袋叩きに会う。あのトランプでさえ、メキシコとの間に壁をつくることには必死だが、すでに米国内で働いている不法移民を排除はできない。人道問題になりかねないからだ。
 また大都市への集中を防ぐ措置をとるというが、具体的な行政方針は示されていない。とくに特定2号の就職先企業は大都市に集中しており、採用した企業に対して「外国人労働者は地方に配属しろ」などと行政指導できるのか。また諸外国に進出している日本企業だって、ほぼ1か所の大都市に集中して「日本人村」をつくっている。日本に進出している外国企業も、拠点を田舎に作ったりしていないではないか。政府はどうやって外国人労働者を地方に分散させるつもりなのか。あっ、そうか。とりあえず中身が伴わなくても恰好だけつけておけば、野党やメディアの批判をかわせると思っているからか。それなら分かる。
 また今回は触れるつもりはなかったが、ちょっとだけ書いておくと「働き方改革」で唯一評価できるのは労働時間の制限を厳しくしたことだ。日本人労働者の生産性はOECDの中で最低クラスという評価がされている。労働時間の長さに比べてGDPが他国に比べて低すぎるからだ。おそらくこの評価は労働人口一人当たりの1時間の生産性を比較したものだと思う。
 そこで私は疑問を抱いた。「日本人は働きすぎ」とよく言われる。ホントかいな? 日本の労働人口一人当たり1時間単位の労働生産性が、もしOECDの中でトップクラスだったら、おそらく日本のGDPは現状よりはるかに多くなっていなければ計算が合わない。
 そういう前提で考えたら、日本人の労働生産性が低い理由は二つのうちどれかしかない。あるいは両方かもしれない。
 一つは「日本人は働きすぎ」なのではなくて、実は「さぼりすぎ」なのではないか。私自身の現役時代の経験から言うと、集中して仕事ができる時間は1日せいぜい5時間程度だった。それ以上根を詰めて仕事をすると、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積して、翌日は仕事にならなかった。締め切りなどの関係でやむを得ず限界を超えて仕事をしたこともあったが、そういう場合は翌日の予定は入れないようにしていた。だから長時間労働をしている人たちは、実は机に向かって仕事をしているふりをする技術を相当磨いているのだろうと、私は思っている。だから、そういう「ふりをする技術」を習得できなかった生真面目な人が過労死したり、うつ病を発症したりしているのではないか。「働きすぎ」神話は全くの嘘であるという確信を、私は持っている。
 いや、ひょっとしたら、「働きすぎ」神話は事実なのかもしれない。が、だとすれば、日本人労働者の能力がOECD諸国の労働者に比べて低すぎるせいだ。だったら背伸びをして先進国並みの生活水準など求めずに、身の丈にあった生活水準に甘んじるべきだと思う。能力がないのに能力以上の生活水準を求めるのなら、過労死しようとうつ病を発症しようと、死に物狂いで働き続けるしかない。が、労働時間が長くなればなるほど、精神的肉体的疲労によって能率も生産性も下がることぐらい、子供でも理解できるだろう。人間は疲れを知らないコンピュータではないのだから。そんなことも理解できずに体を壊してまで長時間労働にいそしむのなら、それはもはや「自己責任」の範囲であり、政府が口出しすべきことではない。
 日本人労働者の生産性が低い理由はこの二つしか考えられない。もし日本人労働者の能力が決して低くはないのなら、生産性が低い理由は「さぼりすぎ」にあることになるし、さぼらずに長時間労働を続けなければ先進国並みの生活水準を保てないのなら、過労死のリスクを覚悟で人並み以上の生活をしたい人は自己責任で長時間働けばいいし、身の丈にあった生活で我慢しようという人はそれなりの働き方をすればいい。人の働き方を、政府が決める必要などさらさらない。
 さらに日本企業の体質としてシェア至上主義がある。そのため過剰サービス競争に走り、それが人手不足を招いている要素もある。とくにコンビニや外食産業、スーパーなどはいま長時間営業による過剰サービス競争を改善しようという動きが出始めた。たった一人の、セブン・イレブンのオーナー店主が挙げた声が、コンビニという業界の枠を超えて広がりつつある。こういう人にこそ、行政のかじ取りをしてもらいたいと、切に願う。
来週、月曜日には「高度プロフェショナル制度」の問題点について検証する。