小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

今年最後のブログ――菅政権が年越しで積み残した3つの政治課題

2020-12-28 10:22:34 | Weblog
これまでの年末は、それなりに新しい年への期待と新しい年の努力目標に向かう気持ちが高まるものだが、残念ながら、そういう明るさをまったく感じない。コロナの感染がどこまで広がるのか、メディアは危機感を募らせる一方だ。
というわけで、新しい年に積み残した課題について、今回のブログで整理しておく。この正月休暇中に目からうろこを落としてほしい。

●コロナ封じ込めに、なぜガースーは失敗したか。
年末に向かってコロナ感染者数が急増している。感染状況は安倍前政権が発令した緊急事態宣言の時よりはるかに悪い。にもかかわらずガースー政権は緊急事態宣言を発令しようとしない。感染状況がそこまでは悪化していないという常識外れの認識だからだ。
そもそも「Go Toトラベルが感染拡大の主要な原因だというエビデンス(証拠)はない」とうそぶき、最後の最後までGo Toトラベル中止に抵抗して国民の命より経済活動を重視してきたガースーだから、彼の認識基準では国民の半数くらいが犠牲にならないと、危機的状況と認識できないのだろうか。
私が一つ残念に思うことがある。今年の流行語大賞は「3密」になったが、安倍政権がGo Toトラベルを前倒しして7月にスタートさせたとたんコロナの「第2波」が日本を襲い、8月中旬にピークを迎えてGo Toトラベルのせいではないかと一部で声が生じたときに、この迷言を発していたら、今年の流行語大賞は「エビデンス」が選ばれていた可能性が高かったことである。
実は私は「ソーシャル・ディスタンス」が大賞に選ばれるのではないかと思っていた。というのも、年かいもなく若い女性にそっと近づくと「ソーシャル・ディスタンスを取って!」とはねつけられるので、外出先で私が一番耳にした言葉が「ソーシャル・ディスタンス」だったからだ。「マスク美人」という言葉は昔からあるが、いま老若男女を問わずみんなマスクをしているから、若い女性はすべて美人に見える。だから今年は痴漢大流行の年になったのではないかと思っていたが、実態はそうでもなかったようだ。リモート・ワークとか時差出勤が増えて、電車の中がすし詰め状態にあまりならなかったかららしい。そういえば「リモート・ワーク」が大賞に選ばれてもよかったと思う。大賞の
選考委員が英語苦手人類なのかもしれない。
冗談はともかく、ガースーの非常識さはGo Toトラベルの一時停止を突然発表した当日に「定員」オーバーの会食をはしごしたことにも表れている。私自身は「会食は5人以内」という政府の要請そのものが、感染防止策としてはピントが外れていると思っているが、国民に会食の人数制限を要請した当のご本人が堂々とルール違反の会食を3回もはしごして「自分は感染防止対策を取っているから大丈夫」とうそぶく感覚が、私には信じがたい。
基本的に、安倍前政権からコロナ対策が非常識だった。コロナ対策の基本は「隠れ感染者」(無症状の感染者のこと)をいち早くあぶりだして健康な人との接触を防ぐ手立てを打つことだ。そのためにはPCR検査を増やすことをすべてに優先させるべきだった。
が、政府がやってきたことはせいぜい、PCR検査能力を拡大することでしかなかった。27日時点の我が国のPCR検査能力(検査可能最大件数)は112,953
件だが、当日の検査実施数は32,677人でしかない(これは日曜日のせいでもある。平日は6万人以上を検査している)。それでも平日の検査実施数は最大能力の55%程度しか実施していないのだ。つまり検査能力の44%は「宝の持ち腐れ」状態なのだ。なぜか。

●日本でPCR検査を受けるためのハードルが高い理由
なぜか政府(厚労省)は世界各国の感染者数は公表しているが(データは外務省)、世界各国のPCR検査実施数は公表していない。秘密主義の日本でも感染者数や重症者数、死者数だけでなく、PCR検査の最大能力や検査実施数を毎日発表しているくらいだから、「国民の知る権利」「国民に知らせる義務」を重要視している欧米諸国がPCR検査数を公表していないわけがない。政府(厚労省)が海外のPCR検査に関するデータを明らかにしない、というより「明らかに出来ない」理由を、私が明らかにしてしまおう。
保健所の既得権益を守る――その一言に尽きる。学術会議会員の「既得権益」とやらは寡聞にして承知していないが、保健所の既得権益だけは明確である。健康保険行政を担当した厚労省職員や地方自治体の職員の天下り先として欠かせないからだ。だから、世界中でコロナが感染し始めた今年2月ごろ、政府はまずPCR検査体制の拡充を考えるべきだったのに、PCR検査は保健所と、最初から決めてかかり、保健所以外の検査を認めなかった。
実は私は日本最大の政令都市・横浜市の住民だが、3月中旬、午前中は何ともなかったのに、ちょうど正午前後から体調がおかしくなり、熱を測ったら39.5度の高熱だった。近くのかかりつけの内科クリニックに電話し、「もしコロナだったら、ほかの患者さんに迷惑かけるので診療時間外に診察してほしい」と頼んだ。が、電話口に出た受付の方が言うには「当院ではコロナの診察はできません。横浜市のコロナ・コールセンターに電話してください」と言われ、電話番号を教えてくれた。で、すぐに電話をして状況を伝えると、聞かれたことは3点だけ。
① 最近、海外渡航歴があるか?→「ない」
② 年齢は?→「79歳」(現在は80歳)
③ 持病は?→「高血圧・痛風・前立腺肥大」
コールセンターの方はご親切に「あなたはPCR検査の基準に達しませんか
ら、数日自宅で安静にしてください」という宣告を下してくれた。
私はとりあえず高熱を下げるため、常備薬の風邪薬を飲んだ。風邪薬は解熱作用もあるからだ。幸い、翌日には38度前後に下がり、そういう状態が1週間ほど続き、平熱に戻った。
その後、知ったのだが、横浜市には保健所が1か所、横浜市役所にしか付設していないのだ。人口375万人の市民のPCR検査をできる施設が1か所しかない。そりゃ、カジノでぼろ儲けしなければ市民の健康に責任が持てないという林市長の考えはよくわかる。
あっ、ゴメン。年のせいですぐ勘違いする。林市長のカジノを含むIR施設誘致の目的には「保健所増設」は入っていなかった。「自分の退職金を確保するため」という目的は入っていたかどうか、覚えていない。
いずれにせよ、当初政府はPCR検査は保健所しか認めなかった。だから保健所が1か所しかない横浜市の検査ハードルは日本1、いやギネスブッククラスのダントツで世界1位だった(今は大学病院など地域医療センター的役割を担っている総合病院にも検査を依頼しているが)。
こんなことを書きながら、クラスター(集団感染)が発生したところはどんなところだったか、考えてみた。コロナ患者を受け入れた総合病院、老人ホーム、カラオケ・スナック(老人の憩いの場所である昼カラを含む)、ホステスやホストの接客業(いわゆる「夜の街」)などだ。少なくとも保健所でクラスターどころか感染者が出たという話すら聞いたことがない。はっきり言ってPCR検査は危険な作業ではない。それをあたかも危険な仕事であるかのような喧伝をして、保健所に検査を独占させてきたのだ。そういうのを「既得権益」という。誰か、ガースーに教えてやってくれ。

●なぜガースーは緊急事態宣言を渋るのか?
日本がもうすぐ感染大国になるエビデンスを明らかにしよう。私は6月中旬頃から厚労省発表のコロナ関係のデータを取り続けている。
6月15日は、PCR検査実施数は4,908件で感染が判明した人は73人。緊急事態宣言の発令で、ある程度感染拡大を抑え込みに成功していた時期だから感染者数も少ない。この日の陽性率(検査で感染が判明した比率)は1.5%と極めて低かった。
ついで「第2波」がピークに達していた8月15日は、PCR検査実施数が11,750件で、感染が判明した人数は1,133人。陽性率は9.6%に達している。
そして直近の12月25日は検査数は63,512件で、感染者数は3,849人。陽性率は6.0%である。「第2波」の8月に比べれば陽性率は下がっているが、検査数は5.4倍に増えている。(なお参考記録として27日は検査数32,677人で感染者数3,694人。陽性率は11.3%に達している)
常識がある人なら理解できると思うが、PCR検査数を増やすということは、検査を受けるためのハードルを低くすることを意味している。だから検査を増やせば増やすほど陽性率は下がる…はずだ。
私が一貫して分科会に統計学者を入れるべきだと主張しているのは、PCR検査数の増加に伴って陽性率がどのくらい下がれば感染状況が良化しているのか、それとも悪化しているのかのエビデンスが得られるからだ。分科会に統計学者をこれから入れるのが難しければ、厚労省が独自に大学に依頼して統計学的分析をなぜ頼まないのか。
そうすれば、「第3波」と言われている現在の感染者の急増が、実は現状維持にすぎずPCR検査数を増やした結果かもしれないし、やはり緊急事態宣言を発令しないと大変なことになる状況かが、確実なエビデンスで示せる。
私の直感では、PCR検査数の増加に対して8月の「第2波」のピーク時に比して下がり方が小さすぎる感じがする。緊急事態宣言で感染をある程度抑え込んだ6月中旬の陽性率が1.5%だったことを考えると、8月のピーク時に比べてPCR検査数を5.4倍に増やしていながら陽性率が6%もあるということは、感染状態は8月の「第2波」ピーク時より悪化していると考えるのが自然ではないか。分科会に統計学者を入れないのは、感染状態のエビデンスが明確になることを恐れているのか、ガースーよ。

●学術会議会員の任命拒否でガースーが放った流行語大賞並みの「迷言」
ガースーが日本学術会議が新会員として推薦した105名の学者のうち6名を任命拒否した「任命権」問題も、まだ尾を引いている。
日本学術会議は戦後の1949年、戦前・戦中の科学者の軍国主義への傾斜を反省して設立された「学者の国会」と呼ばれた学術団体である。当初は研究者たちによる直接選挙で会員が選出されたが、1983年に日本学術会議法が改正され、「優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し」「内閣総理大臣に推薦するものとする」(17条)と選考方法が変更された。
問題が生じたのは同法7条の「会員は日本学術会議が選考・推薦し、内閣総理大臣が任命する」との条文を、「総理大臣に任命権がある」と解釈変更し(法改正を行った故・中曽根康弘総理は国会で「総理大臣の任命は形式的な行為に過ぎない」と答弁した)、ガースーは「総理に任命権がある」と主張して安保法制や共謀法に反対の姿勢を明確にしていた6人に対して任命拒否した。
この問題はかなり複雑で、基本的に法解釈として総理に任命権があるのか否かという問題と、仮に総理に任命権があるとした場合、日本学術会議の選考権(学術会議法で認められている学術会議の選考権を総理が侵害することにならないか)についての問題に分けて考える必要がある。
まず簡単な方から片付けよう。仮に法解釈の変更によって総理に任命権があるとして、学術会議法17条に明記されている選考基準とは別の選考基準を総理が恣意的に設けることができるのか、という問題だ。
ガースーは、学術会議の会員について、会員選考の偏り(女性会員が少ない、私立大学の研究者が少ない、地方の研究者が少ないなど)を指摘したが、ガースーが任命を拒否した6名のうち女性が1人、私立大学の学者が3人含まれている。国会や記者会見でそうした矛盾を突かれると、ガースーは「人事のことだから、お答えできない」と逃げ、また「総合的・俯瞰的観点から判断した」との迷言も残した。
よく考えてみれば、「総合的・俯瞰的観点」は争点外しの名文句とも言え、流行語大賞の本命候補になってもよかった。安倍さんも、「桜を見る会」前夜祭で、安倍事務所が会費を負担することにした秘書について「総合的・俯瞰的観点から事務所が費用の一部を負担すべきと判断した、と聞いている」と答弁すればよかった。
宮崎健介氏やアンジャッシュ・渡部建氏、東出昌大氏も不倫についてメディアから追及されたら「総合的・俯瞰的観点による行為だ」と、記者たちをけむに巻けばよかった。政治家も何か問題を起こして国会や記者会見の場で説明責任を求められたときの言い訳のための常とう句が、「秘書が」「秘書が」から「総合的・俯瞰的観点です」に代わるのでは…。

●日本学術会議を政府機関から除外すべき理由
私は実は現在の学術会議の在り方には疑問を持っている。「会員」になることによって何らかの「既得権益」が生じるのか否かは不明だが、ガースーが勝手にいろいろ勘違いしていたことは事実だ。たとえば位置づけは確かに「特別職の国家公務員」だが、それは身分を意味しているだけで政府との間に雇用関係は一切ない。だから、会員が会議などに出席したときは日当的な手当ては出るが、特別職国家公務員としての給与などは出ていない。
例えば安倍前総理の公設第1秘書だった配川博之氏はすでに12月24日に辞職したが、彼も特別職の国家公務員であり、給与ももらっていれば退職金も出る。が、学術会議会員は国から給与も出ていないし、辞めても退職金は出ない。学術会議には予算が10億円出ているとガースーは言うが、その金の大半は事務局の人件費で消えている。もう少し、きちんと調べてから文句をつけるならつければいい。官邸のだれがフェイク情報をガースーに吹き込んだかは知らないが、Go Toトラベルに投じた予算からすれば微々たるものだ。あまりでかい面はしない方がいい。
が、学者の世界はカネよりも名誉を巡って醜い争いが絶えないことも周知の事実だ。現に東大総長のポストを巡って醜い争いが生じている。
私は日本学術会議法などという法律は廃止して、独立法人として政府機関から切り離した方がいいと思っている。人事をめぐる争いは組織である以上、どんな形を作っても避けられない。ただ本当に学問の自由を大切にするというなら、軍事研究を専門とする学者でも、日本会議の会員学者でも排除すべきではない。また政府に提言する場合でも、両論併記を原則にするなど、政府との関係は見直すべき点も少なくない。私自身は権力とか権威といったものの価値を一切認めない主義だから、考え方を一つに絞るといったことには賛成しかねる。
だいいち、歴史学者が一生懸命に書いた歴史教科書。かつては「家永教科書」を巡って紛糾したことがあり、「新しい歴史教科書」の採用を巡って市民を巻き込んだ騒動にもなっているが、中学校でも高校でも日本史の授業で昭和の時代まで授業をしている学校はまずない(すべての学校を調べたわけではないので断定はできないが)。授業でやらない昭和の時代の記述を巡ってバカみたいな主導権争いをしているのが学者の世界だ。生徒も、授業でやらないから、どんな内容であろうと読みもしないし、影響も受けない。アホみたいな話だ。
なぜ授業でやらないのか。昭和の時代については歴史観がまだ定着していないため、入学試験の問題に出ないからだ。学校側や歴史の先生に言わせると「授業時間が足りない」というが、そうではない。最初から昭和の時代まで進まないように授業の時間割を作っているからだ。どうせ授業をしないのだから、日本史の教科書から昭和史を外した方がいい。その分、日本の財政難は少し解消する。

●憲法15条の援用で、ガースーは任命権(罷免権?)を行使できるか
なぜこんなことで揉めるのか。小学生や中学生ならいざ知らず、いい年こいた大人の政治家や学者が揉めるような話では、もともとない。言うまでもなく総理の「任命権」の存否問題だ。
学術会議法7条に、会員は学術会議が選考して推薦し、「内閣総理大臣が任命する」との記述があるから「総理に任命権がある」というバカげた主張をしたのがガースーだ。この文脈から「総理に任命権がある」と解釈するのは文理的に無理がある。もし、そういう解釈ができるのなら、憲法6条の規定により内閣総理大臣を任命する天皇に「任命権」が生じる。天皇は政治的権能を有さない「国民の象徴」という位置づけはどうなる?
この問題はこれまでさんざんブログで書いてきたので繰り返さないが、ごく最近、内閣法制局が私の主張を認めた。その内容に絞って書いておく。
ガースーは学術会議法7条の援用だけでは任命権行使のエビデンスとしては弱いことに気付いたのだろう、だれの入知恵かは不明だが、憲法15条の条文を援用することにした。これが致命的墓穴を掘ることになる。
憲法15条は1項だけである。その最初の1行目に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」という記載がある。ガースーはこの1行に飛びついた。学術会議の会員は「特別職の国家公務員であり、従って国民の代表である内閣総理大臣に任命権がある」と主張し、この判断は内閣法制局が認めたと。
が、実は憲法15条は、この1行だけではない。改めて全文を掲載する。

公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成人者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、そ
の選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

あらかじめ、このブログの読者の皆さんにご理解していただく必要があるのは、現行憲法は1946年11月3日に成立・公布され、半年間の周知期間を経て47年5月3日に施行されている。そのため、旧仮名使いの文章になっており、かつ用語についても戦前・戦時中の用語を継承していることだ。つまり、憲法15条で使用されている「公務員」という用語は、現代用語と必ずしも同じではないことを理解していただく必要がある。
そのことをご理解いただいたうえで、憲法15条の「公務員」がいかなる立場の職位を指しているかを考えてほしい。憲法15条には「公務員」という言葉が3か所出ている。1行目の「公務員」はすでに明らかにしたように、ガースーが援用した記述である。この1行目だけでは何とも言い難いのだが、果たして特別職公務員の学術会議会員を国民が選定する固有の権利を有しているか、という疑問が生じる。日本学術会議法7条によれば、会員の選定は学術会議の専権事項とされている。ということは、学術会議は国民の代表であるか、さもなければ国民の固有の権利を侵害していることになる。
次に、やはり国民の固有の権利である「公務員」の罷免権である。日本学術会議法26条に会員の罷免についての規定が定められている。

内閣総理大臣は、会員に会員として不適当な行為があるときは、日本学術会議の 申出に基づき、当該会員を退職させることができる。

ガースーが任命拒否した6名は学術会議が会員としてふさわしいとの判断で選定して総理に推薦している。推薦したばかりの会員候補を、学術会議が推薦を取り消して総理に罷免を申し出たという事実はない。
さらに罷免権は国民固有の権利であり、その権利を学術会議が収奪したという事実もない。この1行が、総理の選定・罷免の権利になりうるのか。内閣総理大臣が「国民の代表だから、国民固有の権利を代行してもいい」という判断を内閣法制局は下したことになる。

●内閣総理大臣は国民固有の権利を代行できるのか
実は憲法前文には内閣法制局が誤認した根拠が記載されている。憲法前文は主権在民の原則を明確に定めていながら、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という規定が明記されているのである。この憲法前文を援用すると、内閣総理大臣は国政においては国民の代表者として権力を行使できることになる。
この規定は、主権在民をうたっていながら、権力が国民の代表として何でもできてしまうことを意味し、我が国憲法が抱える最大の矛盾箇所である。この規定を援用すれば、内閣総理大臣は国民の代表として国会議員から地方自治体の首長、地方議員まですべて任命権を有してしまうことになる。日本の総理大臣は中国の習近平や北朝鮮の金正恩をも超える強大な権力を持つことになる。
さすがに内閣法制局も、そこまではガースーをバックアップできず、「内閣総理大臣は国民の代表」という位置づけだけにとどめたようだが、そのため墓穴を掘ることになった。憲法15条の2行目、3行目を見てみよう。憲法15条が想定している「公務員」は、学術会議会員などの「特別職国家公務員」も含まれるのか。
とりあえず2行目は公職者すべてに共通する「公務員」の立場を規定した条文であり、研究者・学者にそういう重荷を負わせることについての是非は、とりあえず置いておく。問題は3行目である。この1行で、学術会議会員は憲法15条が想定する「公務員」ではないことが明確になる。
3行目の「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」が意味することは、憲法15条が想定している「公務員」は成年者(有権者)による普通選挙で選出される人間を想定しているのだ。つまり国会議員や地方自治体の首長、地方議員たちのことである。学術会議会員が、国会議員や地方自治体の首長、地方議員ではないことは中学生でもわかっている。
どうしてこういう誤認識が生じたのか。あらかじめブログ読者の注意を促したように、現行憲法は文章においても、また条文中の用語についても戦前・戦中の用語をそのまま継承してしまっているために、こうした誤認識が生じたのではないかと思う。
実際、私たちが通常イメージしている公務員については憲法73条(内閣の権利・義務を規定した条文)の4項に、こういう記載がある。
「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること」
「掌理」などというおそらく死語になっている語彙は辞書によれば「担当して取りまとめること」とある。内閣は言うまでもなく行政府であり、総理大臣は行政府の長である。各中央省庁には担当大臣や長官がいるが、省庁に君臨する内閣府にはトップの職名がない。内閣総理大臣が内閣府の長だからだ。

●内閣法制局が私にギブアップした
これだけの材料を、私は内閣法制局にぶつけた。「戦前・戦中に似派議員のことを公務員と称し、現在の公務員は官吏と称していたのではないか」と疑問をぶつけた。
内閣法制局の職員は「いやあ、まいりました。おっしゃる通りの可能性が強いですね」と私の推測を肯定した。
「少なくとも、憲法15条で菅総理(さすがに内閣法制局の職員に対して「ガースー」とは言えない)の学術会議会員の任命権を裏付けることができますか」
「いや、ちょっと無理でしょうね」
「では、お聞きしますが、憲法15条の1行目を持ち出せば任命権の法的裏付けになるのではないかというのは、内閣法制局の方から助け舟を出したのですか、それとも官邸の方から法制局に諮問があったのですか」
「いやあ、それは私の口からはちょっと…。内閣府にお尋ねください」
で、私は内閣府に電話した。内閣法制局職員とのやり取りを話して、「いったい、このアイデアは官邸の方から出たのですか、それとも法制局が助け舟を出したのですか」
「いやあ、まいったなあ」
「諮問もされないのに、法制局の方から助け舟を出したりするわけ、ないですよね」
電話口の向こうで内閣府職員が困惑している感じが伝わったので、それ以上いじめても意味がないと電話を切った。
私の完勝である。野党議員もメディアも、肝心の学術会議も破れなかったガースーが築いた壁を、私がぶち破った。この正月はうまい酒が呑めそうだ。

●ついでに、安倍前総理もやっつけてしまおう
私のブログの読者なら、安倍総理(当時)主催の新宿御苑を借り切っての「桜を見る会」前夜祭問題はすでに私以上にご存知と思う。私はジャーナリストの信条としてスキャンダル問題には手を出さないことにしている。
実際、現役時代は出版社編集部を経由して(当然のことながら自宅住所は公開していないため)、わんさとスキャンダル情報が寄せられたが、私は一切手を出さなかった。
私は現役時代、同業者からやっかみ半分で「もう少し汚れてくれよ」などと言われたことがある。しかし私も人間、重箱の隅をつつくように調査されたら、犯罪とまではいかなくてもスキャンダル種になりそうなことが絶対ないとは言い切れない。人様のスキャンダルを批判する資格が、私にあるという自信がなかったからだ。
だから「桜を見る会」問題は外野席から見るだけにしておくつもりだったが、野党議員やメディアがまだ気づいていない大きな問題があるので、そのことだけ明らかにしておく。
 それは、安倍氏が「秘書が」「秘書が」と自らは身の潔白を主張していることへの問題だ。もちろん、野党議員やメディア、評論家たちも様々な視点から追及はしている。が、前夜祭の事務方を仕切った公設第1秘書の配川博之氏がウソの報告を何百回したかは知らないが、配川氏が略式起訴され罰金100万円の略式命令が確定して自ら「辞職」したのは12月24日。それまで安倍氏は配川氏に対する雇用責任者として何の処分もしておらず、野党議員もメディアもそのことへの追及はしていない。
国会法で国会議員の公設秘書として国費での雇用が認められるのは3人まで。政策秘書1人、公設秘書2人である。身分は「特別職の国家公務員」である。つまり形式的には学術会議会員と同等の身分である。だが、学術会議会員には国費による給与は支給されていないが、同じ特別職国家公務員の配川氏には国費で給与が支払われてきた(辞職するまで)。安倍氏を騙し続けてきたうえ、安倍氏によれば「安倍事務所が補填してきた金は私の預金から」だそうだ。ということは、配川氏は事務所の金庫番だけでなく、安倍氏個人の金庫番もしていたことになる。つまり安倍氏は自分の預金通帳も自分では管理できないようなのだ。もっとはっきり言えば、配川氏は安倍氏の公設第1秘書だけではなく、「成年後見人」でもあったのだ。成年後見人を必要とするような人(旧「禁治産者」)に国会議員が務まるのか。
だいいち、自分の個人預金から配川氏が安倍氏に無断で勝手に使っていたとしたら、立派な業務上横領罪になる。なぜ安倍氏は配川氏を懲戒解雇し、かつ業務上横領罪で告訴しないのか。そんなことをしたら自分の「お友達政治」という政治信条に反してしまうからか。
もし、安倍氏が「自分の金の管理まで任せていたわけではない」というなら、ホテル側に補填していたカネの出どころは、やはり安部氏の個人預金からではなく、事務所の預金あるいは金庫から、ということが明確になる。そうなると安倍事務所が補填していたことになり、公職選挙法違反や政治資金規正法違反
だ。
なお、特別職の国家公務員である公設秘書は、懲戒解雇ではなく自己都合退職の場合、国費から退職金まで出る。9年近く、わが国の最高権力者の地位についていた人の個人預金から、配川氏は「自分がいい顔をしたいからかどうか」は知らないが、勝手に引き出し、使っていたことになる。立派な業務上横領罪が成立する。
 単純横領罪は親告罪だが、業務上横領罪は親告罪ではない。略式起訴や軽い罰金刑で済む話でもない。
なお、配川氏が辞職した当日の24日、皮肉な巡り会わせだが、いったん東京地検が不起訴処分にした「マージャン男」の黒川弘務・元東京高検検事長について、検察審査会は「起訴相当」を決定した。東京地検は「起訴すべきか否か」再捜査することになった。
前夜祭の補填問題について、安倍氏が正直にすべて語っているとしたら、配川氏の「略式起訴・罰金100万円の略式命令」は、特別職の国家公務員の犯罪行為に対する処分としては軽すぎないか。検察審査会に持ち込んで正式起訴すべきだと思う。さんざん配川氏からコケにされてきて面目丸つぶれの安倍氏としても、正式起訴にもちこんで、これ以上国費の不当な出費を防ぐためにも、検察に全面的に協力するだろう。
安倍氏が「男を上げる」最後のチャンスだ。


 【追記】安倍さんがおかしなことを言い出したらしい。「桜を見る会」前夜祭の費用補填の問題についてだ。
 これまで安倍氏は安倍事務所の費用補填の事実を一貫して否定してきたが、否定しきれなくなって補填の事実は認めながら、「補填は秘書が私の預金から出していたようだ」と、「秘書が」「秘書が」で逃げられると思っていたようだ。
 実はこのブログでは書かなかったが、匿名のSNSで「自分のカネを自分が管理できずに、秘書に管理してもらっていたということは(この場合、秘書は『成年後見人』という立場になる)、安倍さんは『禁治産者』ということになる」と書いた。最近「禁治産者」という言葉は禁止になったが…。
 その安倍さんが、またおかしな言い訳を国会でしたようだ。
「飲食代を安倍事務所が負担したのであれば、公職選挙法違反になるかもしれないが、会場費等の負担は寄付に当たらないから問題ない」
 このひとはどこまで往生際が悪いのだろう。いままでさんざん「明細書はない」とうそぶいていながら、明細書がなければ「成年後見人」の秘書が勝手に補填した800万円の金の使途が、安倍さんにわかるわけがないだろう。
 野党議員もメディアも、「明細書がないのに、どうして補填したカネが会場費等に使われたと言えるのか」と追及すべきだ。(31日)



 【追記2】『朝まで生テレビ』を見ていた。いつもの通り白熱した議論が行われたが、こうした討論番組を見ていていつも疑問に思うことがある。
「やりたいこと」は、ほぼ異論が出ない。そりゃ、当たり前だ。だけど、「やりたいこと」が「やれる」とは限らない。基本的に「やりたいこと」が議論の対象になる場合は、「やれるかどうか」の検証である。
 コロナ対策と経済対策の両立をしたい…ガースーの基本理念だ。誰も、その理念自体には反対はできない。私ですら、「両立が可能であれば、それがベスト」と思う。
 だけど、「両立をしたい」→「両立させる」という方程式は、いまだかつてない。そんな方程式があったら、人類は苦労しない。
 『朝まで…』ではちょっとオリンピック開催もテーマになった。誰だって「やれれば、やってほしい」と思う。とくに、東京オリンピックでのメダルを目指して常人には不可能な努力を積み重ねてきたアスリートのことを考えたら、彼らの努力の成果を見てみたいと思う。体操の内村選手が、峠を越えたとみられながら、日本選手権で最高難度の技を成功させたのを見て、私も眼がしらに熱いものを感じた。彼らの努力の成果を、東京オリンピックの晴れ舞台で発揮させてやりたいと思う気持ちは、みんなが共有していると思う。
 だけど、だから「東京オリンピック」を強行するという結論が、まずありきではない。どうやったら「東京オリンピックを実現できるか」と考えたら、その前にコロナを完全に封じ込めることに成功しなければならない。が、コロナ封じ込めの前に「コロナ対策と経済対策の両立」という、世界のすべての国が失敗してきたことに、ガースーはまだしがみ付いている。
 言葉は「両立」だが、「両立」とは相反することを実現することであり、事実上不可能な「努力目標」だ。たとえば「一生懸命勉強して、成績を上げる」ことは「両立」ではない。「遊びほうけながら、成績を上げる」のが「両立」だ。
そういうことが可能な人が絶対いないとは限らない。しかし、「遊びと成績」を両立させることができる人は天才である。ガースーは日本人すべてが天才だと思っているのか。自分は「はしご会食してもコロナに感染しなかった」からすべての日本人がはしご会食しても大丈夫と考えているのか。たまたまガースーは酒が呑めなかったから、だけだろう。日本人がすべて酒を呑めないわけではない。
 私は新年の酒を呑む。ガースーが1日も早く権力の座から滑り落ちることと望みながら。(1月1日)




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菅義偉は所詮、総理・総裁の器ではなかったのかも…?

2020-12-21 01:26:17 | Weblog
「無学な輩(やから)ほど始末に負えない奴はいない」と、誰かが言ったとか、言わなかったとか。
 14日、周知のように菅総理が突然、Go Toトラベルの中止を発表した。トラベルを含むGo TOキャンペーンは安倍政権から引き継いだ自公連立政権の重要政策だった。この政策の「こころ」は、「感染対策と経済再生の両立」だった。この両立政策を、小池都知事は「ブレーキとアクセルを同時に踏むようなこと」と一発で切り捨てたが、安倍総理は意に介さなかった。
 政府はなぜ「両立」という言葉にこだわったのか。緊急事態宣言解除後、政府の本音は「緊急事態宣言中に疲弊した経済を回復したい」の一心だった。しかし、「もうコロナは抑え込んだから、これからは経済だ」と、感染対策をやめる、とまではさすがに言えなかった。やむを得ず、ほとんど不可能な「両立」政策を建前として掲げざるをえなかったのだ。
 この両立政策のキーマンは西村康稔氏だった。安倍総理は行政機構を2階建てにして、1階は従来からの各省庁、2階に内閣府という掘立小屋を増築した。もちろん2階の屋根の上には政府(内閣)がアンテナとしてそびえたつ。
 西村氏は安倍総理の信頼が相当厚かったのだろう。内閣府で「コロナ感染対策担当大臣」「経済再生担当大臣」「全世帯型社会保障担当大臣」という3足のわらじを履くことになった。さらに、結局名目だけに終わったが、もう一つの肩書「内閣府特命担当大臣」という4足目のわらじまで履いた。

●権力を回復した西村大臣
 菅政権が発足したとき、メディアは「誰を官房長官にするか」と、組閣人事についての関心を集中させていた。確かに官房長官も菅政権のありようを見るうえで重要な人事だが、私は西村氏の処遇に最大の関心を寄せていた。実際組閣(9月16日)の直後の18日付のブログで私はこう書いている。

私自身は菅組閣で一番注目していたのが西村氏の扱いだった。一時は官房長官の菅氏の影が薄くなるほどコロナ対策と経済再生両立の中心人物として権限が集中し、菅氏との関係もぎくしゃくしているのではないかといった憶測も飛んでいたほどの西村氏をどう処遇するかで、菅政権と安倍政権の距離感を見定めようと思っていた。実際、組閣のふたが空いたら西村氏はいちおう内閣府の特命担当大臣として残りはしたが、安倍政権では担当を四つも持っていたのに、菅内閣では「経済財政政策」という、ラインではなくスタッフとしての特命担当大臣に押し込められた。明らかに菅政権は安倍政権の継承ではなく、自らの路線を新しく敷こうとしている。それにメディアが気付かないだけだ。

ただその後、一時テレビから姿を消していた西村氏が、コロナの感染拡大を受けて再びテレビにしばしば登場するようになったので、念のためネットで調べてみたら、西村氏の肩書は安倍内閣時代と同じに戻っていた。私は安倍政権時代から西村氏については「ひとりシーソー担当相」と勝手に命名していたが、いわば相容れない二つの政策を担当する事実上の最高責任者だからだ。先週まで西村氏は3週続けてNHK『日曜討論』にゲスト出演したが(11月29日、12月6,13日)、字幕での西村氏の紹介はすべて「経済再生担当相」だけだった。
私はその都度NHKに「西村氏はコロナ対策と経済対策の両方の責任者だ。実際番組での発言も、コロナ対策の責任者としての立場と経済対策の責任者としての立場を使い分けて喋っている。どの発言も経済対策担当相として扱うのはおかしい」と申し入れたが、NHKの番組スタッフがアホなのか、最後まで字幕での肩書表示は変えなかった。もっとも、どのメディアも西村氏の肩書についてはすべて「経済再生担当大臣」として表示している。最近メディアの権威が著しく低下していることは百も承知だが、優秀な人材がメディア離れしているせいかもしれない。
なお『日曜討論』の司会者は伊藤・中川氏のふたりだが。出演者に平等に発言機会を与えることだけが重要だと考えているらしく、出演者の矛盾した発言を問いただすこともしなければ、西村氏の発言に対して「いまの発言は感染対策担当相としての発言か」あるいは「経済再生担当相としての発言か」と問いただすこともしなければ、仮に西村氏が「感染対策です」と答えた場合、「では経済担当としてはどうお考えですか」と突っ込むこともしない。ただひたすら発言機会を順番に指名するだけなら、バカでもチョンでもできる(失礼、「チョン」は差別用語のようなので取り消し、「中学生でも」に訂正する)。


●二階幹事長主催の忘年会に「挨拶だけで帰るつもりだった」って?
さて冒頭の話に戻る。分科会の尾身会長をはじめ多くの感染症の専門家や日本医師会など医療現場から悲鳴に近い「Go Toトラベルを中止してほしい」という要請が殺到し、さらにメディアの世論調査でも圧倒的に「中止すべき」の声が多くなっていたのに、「Go Toトラベル参加者でコロナに感染した人は少ない。だいいちGo Toが感染を拡大したというエビデンスがない」とうそぶいて、舵を経済再生からコロナ感染対策に切り替えることをかたくなに拒んでいた菅総理を説得したのは、おそらく西村氏だと思う。菅総理の「生みの親」とも言え、また観光業界のドンでもある二階自民党幹事長にひと言の相談もなく、突然政策を180度ひっくり返してGo Toトラベルを全面的に「やーめた」と発表したため、とんでもない大騒ぎが生じた。
私は前から「両立政策を実現するには朝令暮改を覚悟しなければならない」とブログで書いたが、朝令暮改をやれば大混乱が生じることは必至であり、まさか本当にやるとは思っていなかったからびっくりした。実際、旅行を予約していた人たちは一斉にキャンセルしたため、ホテルや旅館、ツアーを計画していた旅行業界はたちまち悲鳴を上げた。Go Toトラベルの事務方を担当していた観光庁の職員は徹夜で事態の収拾に走り回ったという。
自分の朝令暮改で様々な分野に大混乱を引き起こした張本人のガースーは、こともあろうにその夜、二階幹事長主催の銀座の有名ステーキ店での忘年会にのこのこ顔を出したことで、メディアが大騒ぎを始めた。ガースーは「挨拶だけして帰るつもりだった」と、子供でも騙されないような言い訳をしたが、毎年出席している忘年会で、しかもメンバーの顔触れも分かっていて、挨拶だけで帰れるなどということはありえないことは、ガースーは百も承知だったはずだ。そんな子供騙しのような言い訳はアホな記者には通用しても、国民には通用しない。さらにガースーはやはり5人以上の別の忘年会にもはしごしていたことがのちに判明、メディアからつるし上げにあった。
 とりあえずメディアやメディアが集めた国民の声はこうだった。
「国民には『会食は5人以内で』と要請しておきながら、自分たちは8人で…。そんなのって、あり?」
 なお、この忘年会の前日の15日に西村氏は「コロナ感染対策相」として記者会見で「(会食は)クラスターの8割以上は5人以上だということも頭に置き、長時間、大人数はできるだけ避けていただきたい」と「5人以上の会食は控える」よう呼び掛けていた。

●私がGo Toトラベルを支持した理由
 あらかじめお断りしておくが、私はGo Toトラベルには基本的に反対ではない。むしろ支持しているくらいだ。詳しい理由は次回の『今年最後のブログ』で書くが(実は原稿はとっくに完成している。いままで「お蔵入り」させていただけだ)、簡単に要点を述べておこう。
 アベノミクスは基本設計が間違っていた。アベノミクスの目的は日本の経済成長を再現することだった。経済状況の指数は基本的にGDPである。日本の場合、GDPの約6割は個人消費と言われている。個人消費を増やすためには消費者物価を2%引き上げる必要がある(その主張を裏付けるエビデンスはないが)、という前提に立って日銀・黒田総裁に命じて金融緩和政策を行った(金融緩和によってインフレになり、個人消費が増えるというエビデンスもない)。
 金融緩和の手段は通貨発行量を増やすことと、長短金利の引き下げが主だが、通貨発行量を増やせば通貨の価値が下がって通貨インフレは生じる。では手持ちの通貨をものに替えようという動きは確かに理論上は生じることになるが、その場合は一般的な消費に回るより金やプラチナといった貴金属の購入に回るか、外貨に交換するという対抗策に出る。また金利の引き下げはやはり一般消費に回るより、有利な投資に回るだけだ。日銀が私のような低所得者に無利子無担保、「ある時払いの請求なし」でカネを貸してくれるのなら、大いに消費を盛り上げてあげるけどね。金融緩和で消費者物価指数が上昇するというエビデンスはない。
 正確な経済分析をすると、「失われた20年」と言われる経済停滞は、少子高齢化による個人消費の停滞による。旧民主党政権は、経済政策に失敗したわけではなく、無策だっただけだ。もっとも当時は個人消費が減少する原因がマクロ経済学者にも見えていなかったから、ある程度やむを得ないと言えるかもしれない。
 実は日本人の個人消費の減少は旧民主党政権の以前から始まっていた。ただ、あまり目立たなかったのは、インバウンド消費が日本人の個人消費の冷え込みを補ってきたからだ。最初インバウンドが話題になったのは中国人の「爆買い」で、15年である。この年、「爆買い」が流行語大賞になったこともあって、一気に人口に膾炙(かいしゃ)するようになった。その後、爆買いは減少したが、インバウンド観光が増え、日本の個人消費を支えた。このインバウンド観光がコロナによって消滅し、わが国の個人消費は激減する。
 が、私は信じている。必ずや、人類の英知がコロナに打ち勝つことを。そのとき果たしてインバウンド観光が昔日の繁栄を再現できるかは不明だが、もし日本の観光資源がコロナ禍によって消滅していたら、インバウンド観光が蘇らないことだけは間違いない。だから、私は人類がコロナに打ち勝った時、インバウンド観光が日本経済の救世主になれるように、観光資源は絶対守り抜かなければならないと思っている。そういう意味で、私はGo Toトラベルを支持してきた。

●Go Toトラベルで、感染防止と経済再生を両立させる唯一の方法
 しかし、コロナの感染が急拡大しだした。政府が緊急事態宣言を解除して舵を経済再生に切り替え、Go Toトラベルを前倒しで7月にスタートさせてからコロナが息を吹き返し始めた。8月中旬にはメディアが「第2波」と騒ぎ始め、コロナの勢いが収まらないまま、11月に入って再びコロナ旋風が吹き始め、「第3波」と騒ぎが大きくなって今日に至っている。
 実はデータ的には「第2波」のピークは8月7日で、感染者数は1605人を数えている。東京都は除外されていたが、すでにGo Toトラベルは始まっており、夏休みで旅行や帰省のシーズンでもあった。だからといってGo Toトラベルと感染拡大を直接結び付けるのはちょっと無理があるとは私も思うが、「全く無関係」とも言い切れない。
 ただ言えることは、多くの人が「蜜」状態で集まり、盛り上がったりすると感染リスクが高まることは間違いないようだ。昼カラでクラスターが頻発したことからも、関連性は高いと考えてもいいだろう。だから私は官公庁や厚労省コロナ・コールセンターにも電話で申し上げたし、ブログでも書いたが、Go To
トラベルの対象から団体客を外すことが感染拡大を防ぐ手段になると。出来れば対象を家族旅行に絞ってしまえば、感染拡大のリスクはほぼ無視できるし、観光産業の維持にもつながる。感染防止と経済再生を両立させる、たぶん唯一の方法だったと思う。

●西村「コロナ感染対策相」の苦しい言い訳
 話をガースーの忘年会参加に戻す。ガースーは総理大臣であり、この時期に限らずいろいろ「お声」がかかる。総理大臣の宿命であり、いろいろな会合に「顔出し」するのは総理の仕事でもある、という弁護論も分からないではないが、それならマスクだけでなく、せめて感染患者の治療にあたっている医師のような防護服に身を固め、飲食は一切ともにしない状態で「顔出し」すべきだろう。フランスのマクロン氏はリモートで政務を行っているというが、それで政治空白が本当に生じないなら、ガースーも忘年会に限らず、あらゆる飲食を伴う会合にはリモート参加にしたらどうか。
 ただ、この問題を追及された西村氏の記者会見での言い訳が、また混乱に輪をかけた。
「一律にですね、5人以上はダメということを申し上げているわけではありません。できるだけそれは控えていただきながら、もしどうしてもされる場合には、それは感染防止策を徹底して、アクリル板のある店を選んでくださいとか、換気に注意してくださいとか、こういったことも併せて申し上げております」
 物は言いよう、という言い方もあるが、では「クラスターの8割以上は5人以上だ」とエビデンスらしきことを持ち出して「5人以上の会食は控える」ことを国民に要請(強制ではないが)したこととの整合性は取れるのか。「一律に5人以上はダメと言ったわけではない」と主張したが、ではこの忘年会に出席したような上級国民はコロナ・ウィルスも避けて通るとでも言いたいのか。
 ガースーも、「挨拶だけして、すぐ帰るつもりだった」などと白々しい言い訳なんかする必要はない。16日になって首相官邸のエントランスホールで記者たちに囲まれたガースーは「国民の誤解を招くという意味で真摯に反省している」としおらしげに語ったが、国民は誤解なんかしていない。「国民が誤解している」と勝手に誤解しているのは、あんたガースーだけだよ。
 下々の一般国民には緊急事態宣言発令に等しい「自粛」を求めながら、自らは襟を正そうともしない。そういうガースーの傲慢さには、国民はとっくに気付いている。
 安倍前総理・総裁の突然の辞任を受けて、だれも思いもしていなかったガースーが、気が付いてみればいつの間にか「総理・総裁レース」のトップに躍り出て、そのまま独走してゴール・インしてしまった。安倍総理・総裁の突然の辞任がなければ、はっきり言って菅総理・総裁の実現はありえなかった。

●本当は危険なNO.2の地位
 実はNO.2は危険な地位である。権力に一番近い存在だから、権力者にとっては片腕であると同時に、自分の地位を脅かしかねない存在でもあるからだ。だからNO.2がちょっとでも権力への色気を見せると、たちまち権力者からNO.2の地位を追われるのが常だ。毛沢東・中国の時代に、ポスト毛沢東の色気を見せた林彪が「反逆者」の汚名を着せられ、ソ連に逃亡を図った飛行機を撃墜されたこともある。だから身の保全を図るためにもNO.2は絶対に権力の座に就こう、就きたいなどと考えてはいけない。命取りになりかねないからだ。
 そういう意味で、ガースーは見事にNO.2としての役割をこなしてきた。本来官房長官は総理の女房役兼政府のスポークスマンではあるが、NO.2の地位ではない。だが、8年間にわたって「安倍1強体制」を支えてきたことによって、いつの間にかガースーがNO.2の地位に上り詰めてしまった。それだけ見事に権力を支え続けた結果と言えなくはない。安倍氏も自身の後継者としてガースーを考えたことは、おそらく一度もなかったと思う。
 通常、権力者は権力の地位をできるだけ長く維持しようとするが、同時に後継者として目星をつけた人物に対してはそれなりに「帝王学」を勉強させるものだ。安倍氏の岸田氏に対する扱い方を見ても、岸田氏の番記者は気づいていたと思う。が、岸田氏にそれだけの器がなかったのか、あるいは安部氏が政治家としての執念ともいえる憲法改正について、まだ岸田氏に全幅の信頼を持ち切れなかったのか。結局、安倍氏は岸田氏への禅譲という手段を取らなかった。
 この辺りは人事の妙という感じもあって、実は私は安倍氏が任期を満了していた場合、いくらなんでも4選はないと読んでいた。安倍氏は、憲法改正は自分でなければやれないと考えていたし、かといって今の任期中には不可能ということも認めざるを得ない状況はわかっていた。
 安倍氏が禅譲方法を取らなかったのは、多分公明党との関係だろう。
 安倍氏は安保法制で公明党を、支持母体の創価学会の「鬼っ子」にして、憲法改正への道を掃き清めたと思っていたのだろうが、案に相違して公明党に対する創価学会の締め付けが厳しくなりだした。安倍政権にとって「金魚の糞」的存在でしかなかったはずの公明党が、自らのアイデンティティを急に主張し始めたのだ。コロナ禍での給付金問題も、当初、低所得層に限定するという岸田氏の案は、公明党が体を張って抵抗するような事案ではない。が、「全国民に一律給付」にあくまで公明党がこだわったのは、安倍政権の「金魚の糞」ではないことの証明が必要だったのだ。
 公明党の改憲の立場は立憲主義(憲法は国家が国民を縛ることではなく、国民が国家権力に制約を加えることが目的――公明党の理解)に基づく「加憲」である。そして安倍氏の改憲構想である「憲法9条に自衛隊条項を加える」に対して公明党・北側副代表が公然と支持を表明したことで創価学会が大混乱に陥った。創価学会の加憲思想とは全く相容れないからだ。

●ガースーが「天下を取ったような気分」を味わえた理由
 こうして憲法9条に自衛隊条項を加えることは、現内閣では不可能と考えざるを得なくなった安部氏は、健康状態が問題なければ来年の総裁選で二階氏をショート・リリーフに据えるのではないか、と私は考えていた。岸田氏では憲法改正は実現できないだろうと考えていた安倍氏は、二階氏であれば年齢のこともあり、1年で「これ以上は総理の激務に耐えられない」と辞任の名目が立つ。そうなれば、安倍氏は4選という強引な方法を取らなくても堂々と再出馬できる。総裁任期は自民党の党則改正によって総裁任期が3期9年に延びたから、もう一度改憲の機運を自分の手でつくることができる、と踏んだのではないか。私は、そう推測していた。
 が、持病が悪化するという、思いがけないアクシデントが生じた。そのため。二階氏をショート・リリーフに、という構想が根底から崩れた。そうなると、この時点で総裁選をすると、国民的人気が高い石破氏が勝利しかねない。岸田氏では石破氏に勝てないのではないか――そう考えるのは権力の座を降りることになった安部氏としては当然の帰結でもあった。ガースーがポスト安倍候補として急浮上した背景には、そういう事情があったと思われる。
 ともあれ、権力者の突然の持病の悪化によって、思いがけなく権力の座に就いてしまったガースーだが、権力の座に就いていまさらながら居心地の良さにびっくりしただろう。それまで上から目線でガースーに接してきた自民党の古参議員たちも、ガースーに対する態度を一変させたのだから。
 さらに、総理になって最初の世論調査の結果が、またガースーを有頂天にさせた。支持率がいきなり70%台を記録したからだ。過去の事例と比較しても、田中角栄氏や小泉純一郎氏の支持率に匹敵するほどの数字だったからだ。ガースーも人間である以上、この支持率を見て有頂天になるなと言っても無理な話だ。安倍「1強体制」がびくとも揺るがなかったのも、高い支持率が彼の権力を補強していたからだ。
 高い支持率は権力をさらに強化するが、当然のことながら支持率が低下すれば権力は弱体化する。そんなことを、8年間も安倍総理に仕えてきて、ガースーはわかっていなかったのだろうか。それとも、自分の支持率はそう簡単には下がらないと自惚れていたのだろうか。

●「両立」政策が事実上不可能な理由
 菅総理は一貫して「両立政策」にこだわり続けた。
 「両立」という言葉が安倍内閣から出た途端、小池都知事は「アクセルとブレーキを同時に踏むようなもの」と切って捨てたが、私は安倍さんの代理である西村氏が「ひとりシーソー」を踏むことになる、と最初からブログで書いてきた。アクセルとブレーキを同時に踏むことは物理的に不可能だが、「ひとりシーソー」は物理的には不可能ではない。だが、「ひとりシーソー」で上手にバランスを取るには政策を朝令暮改的に、極端に言えば毎日のように変えなければならないことを意味する。
 もう少しわかりやすいケースで説明しよう。自動車レースでレーサーはコース上をアクセルとブレーキをしょっちゅう踏み代えながら運転操作をする。つまりそういう政策操作をしなければ両立は不可能なのだ。そんなことが政治の世界でできるか。だから私は「両立政策は不可能」と断言してきた。
 実際、安倍さんは緊急事態宣言を解除した後、直ちに経済再生にかじを切り替えた。が、経済再生を急ぎすぎたために、西村氏の「ひとりシーソー」のバランスが大きく崩れた。感染拡大の、いわゆる「第2波」が日本を襲ったのはGo Toトラベルを前倒しで発動させたためである。経済活動の再生を急いだため、Go Toの規模は、まさに大盤振る舞いだった。そのくらいのショックを与えないと、経済再生は困難と、安倍さんは思ったのかもしれない。
 その結果、確かに観光業界は一息ついた。が、経済効果が大きいということは感染拡大を招く。実際、緊急事態宣言中、日本の経済はリーマン・ショック以上に疲弊した。リーマン・ショックは全世界の金融業界に大打撃を与えたが、日本の金融業界は直接的にはそれほど大きな打撃を受けたわけではなかった。
が、アメリカをはじめEU先進国の金融機関が大打撃を受けたため、世界経済がその影響を受け、日本も「世界同時不況」の嵐から逃れることができなかったのである。「風が吹けば桶屋が儲かる」という落語の三題噺があるが、その逆の経済現象が生じたのだ。

●ちょっと、お勉強――リーマン・ショックとは?
 リーマン・ショックのことをご存じない方のために少し、お勉強をしておこう。日本ではバブル経済期に「抵当証券」という高利回りの金融商品が生まれた。当時、長谷川慶太郎という始末に負えない無学の輩が「土地は増やすことができないから、土地価格は永遠に右から上がりで上昇する」という珍説をばらまいた。この珍説を広げるのに一役も二役も買ったのが、当時の民放テレビ各局だった。そして土地バブルに便乗して生まれたのが「抵当証券」という新しい金融商品だった。
 たとえば1億円の不動産があったとする。その不動産を担保にして1億円分の証券(100枚だったら1枚の額面は100万円)を発行する。土地の価格が2倍の2億円になったら、額面100万円の証券は200万円の価値になる。手っ取り早く説明すると、「抵当証券」とはそういう性質の金融商品である。
 バブル期、じゃぶじゃぶカネが余っていた日本の銀行が、この金融商品に飛びついた。結果、バブルの崩壊で土地価格が暴落したため、銀行が飛びついた抵当証券はたちまち紙くず同然になった。このとき日本の銀行は自らの身を守るために中小企業を狙い撃ちして「貸し渋り・貸しはがし」に奔走した。長谷川慶太郎のような無学の輩と違って、一流大学を卒業した「学のある」銀行マンはさすがにやることがせこい。
 アメリカのリーマン・ブラザースという証券会社が、この抵当証券という日本生まれの金融商品に目を付けた。返済能力が疑わしい低所得層に高利で金を貸して「持ち家」を購入させ、その不動産を担保に融資金を証券化して世界中の金融機関に売りまくったのである。が、バブル期の抵当証券で痛い目にあった日本の金融機関はリーマン・ブラザースが発行した「抵当証券」にはほとんど飛びついていない。だから日本の銀行はリーマン・ブラザースの倒産によって直接的な打撃は被っていない。が、アメリカやEUの金融機関が大打撃を受けたため、世界経済が動かなくなり、その余波を日本も受けざるをえなかった。リーマン・ショックとは、日本ではこういう社会経済現象だったのだ。

●緊急事態宣言中に消費が激減した理由が分かっていれば…。
 話が少し横道にそれたが、私は「学がある」から、時々「学」をひけらかしたくなるいい性格なので、ご容赦を。
 さて安部さんにしても、ガースーにしても、もう少し「学」があれば、緊急事態宣言によってコロナの感染拡大をある程度封じ込めることに成功した経験から、逆のことをやればどういう結果を生じるかがGo Toトラベルをやるときに計算できていたはずだ。だから一気に大盤振る舞いするのではなく、経済再生と感染拡大の状況を両目でにらみながら小刻みに経済再生計画を立てるべきだった。安倍さんもガースーも眼は二つ持っているんだろう?
「無学な輩ほど始末に負えないやつはいない」ってわけだ。
 私もだいぶくたびれたので(この7月に80の大台に乗ったのだから、くたびれるのもしょうがないわな)、そろそろまとめに入ろう。
 緊急事態宣言で、人の移動がパタッと止まった。お金は人と一緒に動く。当然、政府の要請によって「不要不急の外出」を自粛すれば、消費が減少する。だからコロナ禍でも収入が減らなかった人、例えば安定した収入が約束されている公務員をはじめ、年金生活者(私もその一人)はカネを使う機会が激減したはずだ。生活保護の受給者も緊急事態宣言中、貯金が多少できたのではないだろうか。そういう状況の時の一律10万円の特別給付は何が目的だったのか。
 私なんかは年金は国民年金プラスαだから、所得税はおろか住民税も非課税だが、それでも「外出自粛」だから、カネの使いようがない。食費と光熱費くらいだから、10万円に満たない収入でも多少貯金が増えたほどだ。ただでくれるという特別給付だから遠慮なくいただいたが、貯金が増えただけだ。
「無学な輩」が考えると、そういう金のばらまき方しかしない。それで内閣支持率がアップするのだったら、このバラマキは票目当ての公職選挙法違反にならないか。
 河合杏里氏は「県議員を辞めるので、これまでのお礼の意味でばらまいたのであって、参院選挙目当てではない」とうそぶいているようだが、安倍長期政権を選挙で支えてくれた国民へのお礼か。そう考えたら、カネの使いようがない人にまでカネをばらまいた意味もよーく理解できる。さらに、そう考えたら、「特別給付金は消費に回らなかった」と嘆いた麻生副総理兼財務相は、何も分かっていないということか。実際、特別給付金を消費に回そうと、私たち国民が不要不急の外出を始めていたら、緊急事態宣言はもっと長期化していただろう。私たち国民が特別給付金を貯金に回して不要不急の外出自粛を続けたから、5月末に緊急事態宣言を解除できたのだ。
 そう考えたら、Go Toトラベルが感染拡大を招いたというエビデンスにこだわるガースーは、やはり「学」がないと言わざるを得ない。
 Go Toトラベルの目的が観光業界の救済だけだったら、インバウンドが復活したときの受け皿維持のために外国人観光客が訪れる観光地の観光施設(ホテルや旅館も含む)に対して特別な支援をすればいいだけの話だ。それをキャンペーン活動にして、日本人旅行者にエサをばらまいたのは、個人消費を復活させることが本当の目的だったのではないか。
 免疫力が低下している高齢者がそのエサに飛びついて旅行に出かけ、コロナに感染してコロッと行ってくれれば、少子高齢化問題も少しは片付くと。
 なるほど、政府は観光業界支援と消費拡大、それに高齢者のあの世送りという一石三鳥を狙ったというわけか。バカ呼ばわりして、ゴメン。
 私はいい性格をしているから、この辺でやめとく。
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サッちゃんになったガースーこと菅総理大臣

2020-12-15 06:38:03 | Weblog
14日、とうとうガースーが降参した。年末の28日から新年の1月11日まで、Go Toトラベルを全国で一時停止すると発表したのだ。
その前日、インターネット放送の「ニコニコ動画」に出演した菅総理は、キャスターから紹介されるや、いきなり「こんにちは、ガースーです」とニコニコ笑みを浮かべながら挨拶した。
そういえば「サッちゃん」という童謡があった。

サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね 
だけど ちっちゃいから じぶんのこと サッちゃんって呼ぶんだよ
おかしいな サッちゃん

サッちゃんはね バナナが大好き ほんとだよ 
だけど ちっちゃいから バナナを はんぶんしか たべられないの
かわいそうね サッちゃん

サッちゃんがね 遠くへ行っちゃうって ほんとかな 
だけど ちっちゃいから ぼくのこと わすれてしまうだろ
さびしいな サッちゃん

●サッちゃんとガースーの共通点
この童謡をベースに替え歌を作ってみた。

ガースーはね 菅義偉っていうんだ ほんとはね
だけど ボケてるから じぶんのこと ガースーって呼ぶんだよ
おかしいな ガースー

ガースーはね 旅行が大好き ほんとだよ
だけど ボケてるから Go Toで 遠出はできないの
かわいそうね ガースー

ガースーがね Go Toやめたの ほんとかな
だけど ボケてるから 二階のこと 忘れてたんだ
逆らっちゃったのね ガースー

ふつう「サッちゃん」は3番までだが、怖い4番があるらしい。こういう詩だそうだ。

 
サッちゃんはね 線路で足を なくしたよ
だから お前の 足を もらいに行くんだよ
今夜だよ サッちゃん

この4番も替え歌を作ってみた。

ガースーはね Go Toで コロナに感染したの
だから アメリカにワクチン 貰いに行くんだよ
兵器買う代わりに ガースー

もともとコロナを完全に抑えきっていないのに、経済再生政策としてGo To事業を始めたことが無理だった。

●山中教授の「ファクターX」は?
今年5月、ノーベル賞学者の山中伸弥氏が、日本では感染者数も死者数も少ないことに目を付け、そこには特殊な要因があるのではないかという仮説を立て、その要因「ファクターXを探せ」と主張した。その時点で、山中氏がファクターXの候補として挙げたのが、次の6つだった。


・マスク着用や毎日の入浴などの高い衛生意識
・ハグや握手、大声での会話などが少ない生活文化
・日本人の遺伝的要因
・BCG接種など、何らかの公衆衛生政策の影響
・2020年1月までの、何らかのウイルス感染の影響
・ウイルスの遺伝子変異の影響

この時期は中国や韓国はまだコロナの猛威にさらされており、山中氏は遺伝子的要因としては日本人に限定して考えていたようだ。が、沖縄の琉球民族も、この時期はまだ日本で最も安全な地帯だった。琉球民族は南方系であり、モンゴル系と言われているヤマト民族とは遺伝子的要素は明らかに異なる。だから私は遺伝子的要因は考えにくいと考えた。
ただ4番目の「BCG接種など、何らかの公衆衛生政策の影響」は可能性が高いと思った。とくに私が注目したのはインフルエンザ・ワクチンの接種率である。日本の医学は「予防」に重点を置いており、BCGもそうだが、子供のころから様々な予防接種を行っている。そのため、副作用問題も発生しており、むやみやたらと予防接種すべきではないという考えも強くなっている。
ただ、日本のインフルエンザ・ワクチンの接種率は、少なくとも今年春の段階ではかなりコロナに対する免疫力を作っていたのでないかと私は考えた。で、山中氏の研究室にも電話でその可能性を伝え、厚労省にも「世界中の国のインフルエンザ・ワクチンの接種率を調べるべきだ」と申し上げた。
インフルエンザ・ワクチンの効果は個体差はもちろんあるが、厚労省の見解では接種して2週間後に免疫ができ、4~5か月くらいは免疫力が持続するということだった。多くの人は接種すればすぐ免疫ができると思っているようだが(実は私もコロナ騒動の中でいつインフルエンザ・ワクチンを接種すべきか、厚労省に電話で聞いて、免疫ができるのは接種して2週間後ということを初めて知った)、インフルエンザが流行し始めてから接種したのでは遅いということが分かった。で、いつもは12月に入ってから接種するのだが、今年は11月半ばに接種した。
実は、かかりつけ医でインフルエンザ・ワクチンを接種してもらおうと思い、予約しようとしたのだが、「今年は予約は受け付けていません。いまはワクチンを切らしているので、次の金曜日に入りますから金曜日に来てください」と言われて、やっと接種してもらった。今年、インフルエンザの流行が見られないのは、多くの国民がワクチンを接種したためかもしれない。
が、この時期にコロナ感染が急拡大している状況を見ると、BCG接種もインフルエンザ・ワクチン接種もコロナに対する免疫力にはなっていないのかもしれない。あるいはコロナがかなりAI能力を持っていて、BCG接種やインフルエンザ・ワクチンの免疫力を無効にする変異を遂げているのかもしれない。いずれにせよ、きわめて厄介な強敵であることは間違いない。

●コロナ対策にエビデンスは必要か?
当初政府(当時は安倍内閣)は、緊急事態宣言中に冷え込んだ経済を再活性化するための切り札としての「Go Toキャンペーン事業」は、コロナを抑えきってから発動するはずだった。
が、そもそも緊急事態宣言に踏み切るのが遅れた。そのため当初予定ではゴールデンウィーク前に感染拡大を抑えきり、Go Toキャンペーンをゴールデンウィークに間に合わせる予定だったのが、1か月延ばさざるを得なくなった。そのため日本経済は予想以上の打撃を受けた。
直接的には観光業界や飲食業界が大打撃を受けたが、その範囲にとどまらなかった。
3密回避とかマスク着用はともかく、「ステイホーム」「不要不急の外出自粛」「テレワークの推進」が、日本経済のあらゆる分野に多大な影響を与えた。私もそうだったが、外出は食料品購入のために近くのスーパーやコンビニに出かけるくらいがせいぜいだった。
とくに大企業が可能な限りテレワークに踏み切ったことは、交通関連業界やファッション業界、ゴルフやゲームセンター、パチンコ業界などに大打撃を与えた。デパートやショッピングセンターは食品売り場を除いて事実上閉鎖状態に追い込まれ、非正規社員の雇止めや派遣切りが始まった。ガストなど、すでに調理食品の宅配ビジネスを行っていたレストランはともかく、多くの店が慌てて宅配やテークアウトに力を入れだした。コロナ禍に襲われる前だったら、人手不足で宅配ビジネスに手を出す余裕などなかったが、失業した非正規社員が宅配事業展開の受け皿になった。
政府、とくに財務省は何を考えているのか。酒税の改革である。ビールの酒税を値下げして、第3のビールを値上げした。ビールの販売が停滞し、価格が安く競争が激しいため、利益の少ない第3のビールを値上げしてほしかったビール業界のロビー活動の成果だと思うが、低所得層には酒税改革はこたえた。
さらに、保健医療制度の改革も低所得の高齢者には大きな打撃を与えるだろう。実施はまだ先だが、年金生活の高齢者に与えた心理的不安感は、当然やがてやってくる医療費の増加に備えて出費をできるだけ抑えようとする。いっぽうでGo Toキャンペーンなどの経済再生政策を打ち出しながら、他方で消費の足を引っ張るようなことをしている。いったい政府は何を考えているのか、不信感は募るばかりだ。
言うまでもないことだが、政治はあくまで結果だ。「Go TOトラベルが感染を拡大したというエビデンスはない」と、当初はうそぶいていた菅総理だが、Go Toトラベルに参加した人の感染率だけがエビデンスではない。緊急事態宣言が国民の気を引き締め、不要不急の外出を自粛し、ガースーの好きな「自助努力」によって感染の拡大を防いだことを忘れてもらっては困る。当然、Go Toキャンペーンによって国民の気が緩み、例えばこの週末の繁華街での人出の多さがそのことのエビデンスとして十分認められる。Go Toトラベルの参加者から、必ずしも多数の感染者が出ていなくても、社会全体に与えた影響力は、Go Toトラベル参加者に対してだけではない。

●直ちに緊急事態宣言を発令せよ、ただし、地域限定でだ。
一つの政策が及ぼす影響力は、その政策に直接関係する分野だけではない。緊急事態宣言でテレワークが増え、「不要不急の外出」を人々が避けるようになると、当然ファッションへの関心も薄れるし、美容院や理髪店に行く機会も激減する。
そもそも、私がずっとブログで書き続けてきたように、感染防止と経済再生の両立など、絶対にありえないのだ。両立が可能だと思うこと自体錯覚であり、本当に両立できると考えているとしたら、そのことだけで政治家失格である。
だいいち、安倍前総理や菅総理が何を考えているのか、西村康稔氏は確かにかなり優秀な政治家であることは私も認めるにやぶさかではないが、政府機構のトップに位置する内閣府で、新型コロナ感染対策と経済再生という「シーソー」を一人で操る担当大臣の職に就いている。「二足のわらじ」と言いたいところだが、もう一つ「全世代型社会保障改革」の担当大臣も兼ねている。
内閣府は本来、各行政機構に対して助言や提言をするスタッフ的立場にあるが、内閣府が行政機構の人事権を握っているため、実際には行政機構のトップである大臣に君臨する「お殿様」になっている。つまり、本来はコロナ感染対策のトップであるはずの田村厚労大臣や、経済再生担当の梶山経産相は、いちいち西村氏にお伺いを立てなければ何も決められないのである。
それが証拠に、NHKは3週連続で『日曜討論』を感染対策と経済再生をテーマにしたが、ゲストとしてご指名にあずかったのは田村氏でも梶山氏でもなく、3回とも西村氏だった。
「ひとりシーソ―」をしなければならなくなった西村氏は大変なご苦労をされていると思うが、おそらく菅総理を説得しGo Toトラベルの一時停止を決断させたのは西村氏だったと思う。
疑問に思うのは、Go Toトラベルを一時停止しながら、なぜその期間だけ緊急事態宣言も発令しないのかということだ。そもそもGo Toキャンペーンと緊急事態宣言解除はセットだったはずだ。Go Toトラベルを一時停止するくらいなら、Go Toトラベルの停止期間だけでも緊急事態宣言を発令すべきではないか。ただし、Go Toトラベルと違って緊急事態宣言で「不要不急の外出自粛」や地域外への移動自粛は、繁華街など「蜜」になりやすい地域に限定して実施すべきだと思う。

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学術会議問題にフタを閉めさせるな――内閣法制局の悪だくみをついに暴いた。

2020-12-07 01:27:57 | Weblog
 5日、政府与党は野党の延長要請を無視して臨時国会を閉会した。どさくさ紛れにGo Toトラベルを6月まで延長することを決めて、早すぎる「冬休み」に入った。
本来、国会議員にとって「冬休み」と「夏休み」はのんびり休養してはいられない「稼ぎ時」である。稼ぐといっても金だけではない。金稼ぎのためのパーティを地元の一流ホテルなどで行ったりもするが、忘年会・新年会と、支持者たちの小さな集会にも顔つなぎをして「票稼ぎ」をしなければならない重要な時期になるはずだ。が、今年だけはコロナ禍のせいで、そうは問屋が卸さない。「政治資金」という名目の金稼ぎパーティなど企画しようものなら、「俺たちをコロナ・リスクにさらしてまで金が欲しいのか」と、古くからの支持者たちからもソッポを向かれかねないからだ。まして忘年会や新年会も、今年はほとんど出来ないだろう。
実際、そろそろ私にも友人たちやちょっと関係している団体から忘年会や新年会の通知がある時期だが、「今年は中止」という案内はあっても開催の案内はまったくない。私は別にあいさつ回りをしなければならないような立場ではないから、のんびり過ごそうと思う。が、政治家はそうはいかない。忘年会や新年会が無くなった分、ちょっとした町や村の「顔役」の家に戸別訪問して顔つなぎしておく必要がある。いつもより、かえって忙しい「冬休み」になるかもしれない。
この臨時国会は、私は「学術会議国会」になると思っていたし、ブログでもそう書いた。実際、出だしはそういう感じだったが、「桜を見る会」問題が再び噴火したり、コロナ禍(いわゆる「第3波」)が再燃したりで、いつの間にか学術会議問題は下火になってしまった。「学問の自由」を侵すつもりなど全くなかった菅総理は、思わぬ展開に「杉田(※事実上、6名を除外した元警察官僚)の野郎、余計なことをしやがって」とほぞを噛んでいたところだけに、ある意味、総理として初めての国会を何とか乗り切ったとほっとしているだろう。
学術会議問題については与党の一部から「いっそのこと、学術会議を政府機関から外して民間化してしまえば」という声も上がっているが、私も大賛成だ。アメリカやイギリスのアカデミーを見習って「かねは出すけど口は出さない」研究者組織にした方がいいと思う。「政府が出す金は必ずひも付き」という二本の政治の貧しさの突破口になれば、災い転じて福となる。
実は11月5日、私は首相官邸に学術会議問題について5項目からなる質問状を出した。回答期限は11月20日ころまでとしたが、回答はなかった。有象無象の1国民になんかにいちいち対応していられるかと考えたのか、答えに窮したのかは不明だが、とりあえず私の質問状を公開する。



●首相官邸への質問状
1 まず日本学術会議会員の任命権が総理にあるとした場合、日本学術会議法7条の規定による「選考権」はどう解釈すればいいのでしょうか。通常「任命権」は「選考権」と同一と解されています。たとえば中央省庁の大臣・長官は総理が選考し任命します。日本学術会議法7条によれば、会員は「日本学術会議が選考して推薦する」することになっています。総理大臣の「任命権」の中に、日本学術会議法7条に認められている日本学術会議の「選考権」を侵害あるいは超越する権利まで含まれるのでしょうか。だとすると、憲法6条によって、天皇は総理大臣を選考し任命する政治権力を有することになりませんか。法治国家においては、法文解釈の整合性は極めて重要であり、適当に解釈することはあってはならないと思います。

2 次に日本学術会議会員の選考基準について菅総理は国会で「総合的・俯瞰的な活動、すなわち専門分野にとらわれない広い視野に立ってバランスの取れた活動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきということ、さらに言えば、例えば民間出身者や若手が少なく、出身者や大学にも偏りがみられることも踏まえて、多様性を念頭に私が任命権者として判断を行った」と答弁されました。私は会員の「偏り」については寡聞にして存じ上げませんが、会員に求められる要件として総理のご指摘には賛成します。が、会員の選考基準については日本学術会議法17条で定められており、その選定基準が不十分ということであれば、まず17条を法律改正したうえで、「任命権」を行使されるべきではないでしょうか。少なくとも、現時点で「任命権」を行使することは脱法行為に当たりませんか。

3 さらに、総理は憲法15条を法的根拠として「必ず(学術会議の)推薦通りに任命しなければならないわけではないという点について内閣法制局の確認を得ている」と6名の推薦者を任命しなかった理由を述べておられますが、憲法15条には「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と明記されています。従って総理がこの条文に記された「国民固有の権利」を行使したということであれば、総理はいったん(日本学術会議が推薦した)105名の会員を自ら「選定」し、特別職の公務員の職を与えたうえで、そのうち6名を「罷免」したことになります。そういう事実があったのでしょうか。(排除した6名について)もし総理が「選定」せず「任命」もしていなかったとしたら、その6名はまだ公務員になっていない「民間人」のままですから、総理は民間人を「罷免」したことになります。憲法15条は公務員に対する選定・罷免についての国民の権利を認めた条文であり、公務員ではない6名の推薦者に対して適用することはできません。このケースにおいては、なぜ憲法15条の適用を内閣法制局が認めたのか、説明してください。

4 任命しなかった理由の開示について、総理は「人事のことだから説明を控えさせていただく」と答弁されていますが、これは民間人の人事ではありません。安倍政権時代に何人もの閣僚が不祥事を起こし、安倍総理は「私に任命責任がある」として事実上更迭してきました(表向きは本人の自主的「辞任」という形式をとりましたが)。菅総理は「任命権者」として「罷免権」を行使したのであれば、菅総理は任命責任があるわけですから、「罷免」した理由を開示して「任命責任」を取るべきだと考えます。

5 憲法15条の規定によって公務員の任命権が総理にあるとしたら、当然すべての公務員に対して菅総理は任命責任をおとりになる覚悟がおありなのでしょうね。安倍前総理の場合、閣僚が不祥事を起こして辞任に追い込まれた場合、国会で常に「任命責任は私にあり、申し訳なかった」と謝罪されています。この「任命責任」を菅総理は日本中の一般及び特別職の国家公務員についてお取りになるという理解でよろしいのでしょうか。その場合、どうやって「任命責任」をおとりになるのでしょうか。
 たとえば自衛官が不祥事を起こしたら、その都度国会を開いて「任命責任は私にある。申し訳なかった」と国民に謝罪されるのでしょうか。

●内閣法制局の憲法15条の解釈はデタラメだった
 この質問状を首相官邸に提出してから、もう一度「総理の任命権」の法的裏付けとして、内閣法制局が政府説明を擁護するために持ち出した憲法15条をもう一度チェックしてみた。その結果、とんでもないでたらめ解釈であることが分かり、私は『政府答弁の欺瞞性を暴いた――内閣法制局の憲法解釈はデタラメだ』と題するブログを11月14日にアップした。詳細はそのブログを読んでいただければ、いかなる法学者も私の主張に抗弁できない。
 実は昨6日のBSテレ朝の討論番組『田原総一朗の激論クロスファイアー』で自民党の片山氏と新立憲の長妻氏が学術会議の任命問題でもバトルを繰り広げた。その中で片山氏が「内閣法制局の判断でも総理の任命権は憲法15条によって確認されている」と述べたのに対して長妻氏は「2年前には違う判断をしていた」と述べるにとどまり、憲法15条は総理の任命権を認めてなどいないと反論できなかった。
 いまだに自民党議員が内閣法制局の誤解釈を信じていることに、私はびっくりした。で、簡単に内閣法制局のデタラメ解釈ぶりを再度明らかにしておく。
 まず、憲法15条の全文を見てみよう。憲法15条には「公務員」についての位置づけが3か所出てくるが、もちろんこの条文に書かれている「公務員」はすべて同じである。そのことをあらかじめ念頭に置いて読んでほしい。
  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、 その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
この憲法15条の条文に書かれている「公務員」とはすべて同一の職を示している。が、政府が「総理の任命権」の裏付けとしているのは最初の行に出てくる「公務員」の選定・罷免権について「総理大臣は国民の代表であるから『国民固有の権利』を行使できる」という、こじつけにもならない解釈である。
憲法15条が意味している「公務員」とは3行目に明らかにされているように、国会や地方議会の議員のことを指していることは疑う余地もない。だから1行目の「公務員」の選定や罷免(リコールのこと)が「国民固有の権利」として憲法が保障しているのである。
一方、日本学術会議法7条には学術会議会員は「学術会議の推薦に基づいて、総理大臣が任命する」とあり、「基づいて」の解釈も極めて明確である。政府はその後に続く「総理大臣が任命する」という表現を過大に解釈して総理に任命権があるかのように主張しているが、もし、そのような解釈が成り立つとしたら、「基づかない任命が総理にはできる」ということになる。
国のトップが、そういう大きな権利を持っているケースもある。中国や北朝鮮のような共産圏の国だけではなく、独裁国家はすべて独裁者に権限が集中している。アメリカは独裁国家ではないが、大統領の人事権の大きさはトランプ前大統領が行った人事を見ればわかる。
だいいち、「国民固有の権利」とは主権在民を意味した言葉で、「総理大臣は国民の代表だから」という論理がこの条文解釈から導けるとしたら、「総理大臣は国民の代表だから、総理大臣に憲法改正の権利がある」という解釈だって成り立つことになる。そんな馬鹿なことはいくらなんでもありえないだろう。
野党議員の皆さんもメディアも、「国民固有の権利」と憲法で定められていることを、「総理大臣は国民の代表だから国民固有の権利を国民に代わって代理行使できる」という論理構成をなぜ打ち破れないのか。

●憲法の表現を勝手に現代用語で解釈した内閣法制局の悪だくみ
現行憲法は戦争終結直後からGHQの監督下で作成過程に入り、最終的には衆議院で成立、1946年11月3日に公布、翌47年5月3日から施行された。実は、このあわただしい作成過程において、現行憲法で使用されている用語も現代語感覚からすると、多少違和感を覚えることもある。
憲法15条で使用された「公務員」という用語も、現在の感覚とは違う意味で使われているようだ。現在は「公務員」と言えば通常、国家公務員や地方公務員を意味するが、現行憲法制定時にはまだ戦時中までの一般的な呼称である「官吏」という言い方が定着していた。現代用語としての公務員という呼称がいつごろ定着したかは不明だが、例えば現行憲法においても73条が定めた内閣の職務について次のような規定がある。

73条4項 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。

内閣は言うまでもなく「行政府」であり、各省庁は内閣の指示に従って行政事務を担当する「行政機関」である。そういう内閣と省庁との関係を前提に考えると、憲法73条4項でいう「官吏」は現代用語としては「国家公務員」を意味することは明白である。つまり日本学術会議会員も、憲法上は「公務員」ではなく、「官吏」なのである。
憲法73条の呼称を考慮すると、憲法15条で使用されている「公務員」が現代用語である国家公務員や地方公務員を意味していないことも明白になる。政府が憲法15条を、学術会議会員の任命権が総理にあることの法的裏付けにするというなら、学術会議会員は憲法上の用語としては「公務員」ではなく「官吏」でなければならない。だから内閣は、この憲法の規定によって日本学術会議に様々な問題についての諮問を行う義務があり、学術会議はまた独自に研究成果を政府に提言する権利が生じるのだ。
現行憲法については前文と9条くらいしか記憶にない(全文を読んだこともない)私ですら、ネットを活用すれば、内閣法制局の悪だくみを見抜くことができる。ただ、ネットを活用するにはちっとばかり頭がいるがね…。
かつて新人の新聞記者は「記事は足で書け」と先輩記者から教えられてきたという。「新聞記事のネタは机の上には転がっていない」という意味らしいが、時代は大きく変わった。足で稼げるネタはたかが知れているが、インターネットには「宝の山」と言えるほどネタ材料が転がっている。ふと疑問に思ったら、とりあえずネットで調べてみる。ネットで得た知識を武器に取材をかける。そういう姿勢がこれからの記者には求められると思う。

【別件追記】Go Toトラベルで感染拡大を最小限にとどめる唯一の方法
政府は何を考えているのか、さっぱりわからない。菅総理は「Go Toトラベルが感染拡大を招いたというエビデンスはない」ことを唯一の口実としてGo Toトラベルの見直しをまったく考えていない。
だが、実はGo Toトラベルが感染拡大と無関係だというエビデンスもない。頭が悪いのか、それとも極めてご都合主義的な考え方が身についてしまっているからなのかはわからないが、私はGo Toトラベルには一定の理解を示している人間として、いまの時期は規模ややり方を見直すべきだと考えている。
政府がGo Toトラベルを6月まで延期した理由は、ひょっとしたら経済活性化対策というより、Go Toトラベルの利用客が正月休みやゴールデンウィークに集中することを避けるためかもしれない(最大限、好意的に解釈して)。
が、政府の都合でGo Toトラベルの利用客がばらけることを期待するのは甘い。それより、正月休みやゴールデンウィーク、大型連休はGo Toトラベルの適用外にした方が効果は大きい。ただでさえ観光地の旅館やホテルの宿泊料金は観光客が殺到する時期は特別料金にしている。それでも客は来るからだ。
一方、ビジネス客の利用がほとんどなくなる都心のホテルは集客のために正月などは格安料金を設定している。そういう下々の事情をまったく分析せずに、机上の計算でGo Toトラベルの期間を延長したら利用客がばらけるだろうと考えること自体、政治家の発想は中学生並みとしか言いようがない。
Go TOトラベルが感染を拡大を招かないようにする方法はたった一つしかない。部屋を複数予約する団体旅行をキャンペーンの対象から外すことだ。東京都の65歳以上や基礎疾患の持ち主を除外するといった姑息な方法は、感染防止に何の意味も持たない。私自身の経験からも、ちょうどそのくらいの年齢の時は孫がまだ小さくて、3世帯(孫は世帯主ではないが)での家族旅行を楽しんだ。小池氏は孫がいないから、そうした利用客のことを考えることができないのだろう。高齢者を除外するより、大騒ぎをしかねない団体客をGo Toトラベルの対象から外すことが、感染拡大を水際で食い止める唯一の方策だ。(7日11:30)




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当事者能力を失った菅政権が招いた「無政府」状態

2020-12-02 07:52:31 | Weblog
1日夜、小池都知事が菅総理と会談、東京都民については「65歳以上の高齢者や基礎疾患のある人については一時(酒類を提供する飲食店とカラオケ店の営業時間短縮を要請している12月17日まで)、自粛するよう要請する」ことを条件にGo Toトラベルを継続することで「合意?」した。
高齢者が重症化しやすいことは統計学的に明らかになっているが、基礎疾患がある人についてのエビデンスはあるのか。そもそも「基礎疾患」と言われてもどういう疾患なのか、正直私も知らなかった。で、ネットで調べたら、厚労省の定義ではこうだった。

1.慢性呼吸器疾患
2.慢性心疾患(高血圧を除く)
3.慢性腎疾患
4.慢性肝疾患(慢性肝炎を除く)
5.神経疾患・神経筋疾患
6.血液疾患(鉄欠乏性貧血と、免疫抑制療法を受けていない特発性血小板減少性紫斑病・溶血性貧血を除く)
7.糖尿病
8.疾患や治療に伴う免疫抑制状態
8-1悪性腫瘍
8-2関節リウマチ・膠原病
8-3内分泌疾患(肥満含む)
8-4消化器疾患
8-5HIV感染症・その他の疾患や治療に伴う免疫抑制状態
9.小児科領域の慢性疾患

これらの基礎疾患のある人について、新型コロナに感染しやすいとか重症化しやすいといったエビデンスは科学的に証明されているのか。
そもそも、小池都知事は「Go Toトラベルは国の事業だし、東京都を外した時も東京都に何の相談もなく、国がお決めになった。Go Toトラベルの見直しについても私たち自治体が決める話ではなく、国が決めればいい」と、東京都としての独自の対策は取らないことを表明していた。筋論から言えば、小池氏の言い分の方がもっともである。



Go Toトラベルの見直し、というより「中止すべきだ」という世論が澎湃と巻き起こったのは、11月に入ってからコロナの感染者が急増したためである。が、緊急事態宣言時のように経済活動が疲弊することを恐れた菅政府が、Go Toトラベルを継続するために、感染が急拡大している地域を除外して感染拡大に一定の歯止めをかけようとしたのが「見直し」政策だった。
その場合、政府が感染が急拡大している自治体(都道府県あるいは市区町村単位)を指定して除外していれば、小池氏がむくれることもなかったはずだ。
実際、東京都全域が感染者まみれになっていたわけではなかった。いわゆる「夜の街」を抱える新宿区・豊島区・渋谷区以外はGo Toトラベルから除外すべきではなかった。
そもそものスタートで失敗したのが、今回の騒動の始まりだった。
だから、確かにGo Toトラベルとの因果関係は科学的に証明されたわけではなかったが、感染が急拡大した札幌市や大阪市が独自にGo Toトラベルからの「脱退」を表明し、それを無定見に政府が承認してしまったことに混乱の原因があった。
が、感染が急拡大したのは札幌市や大阪市だけではなかった。感染拡大は全国に広がった。そのため、それまで政府の言いなりになってきた分科会に属する専門家たちも政府に対して公然と突き上げを始め、世論も「中止やむなし」に傾いていった。
これほど一つの政策を巡って、事実上の「無政府」状態になったことは私は知らない。メディアはそれほど騒がなかったが、政府が国策として始めた政策について、その実行責任を自治体に丸投げして、政府自身は「おら知らねぇ」と頬被りしたことはかつてなかったと思う。
「Go Toトラベルが感染拡大を招いたというエビデンスはない」と、継続ありきで経済活動に軸足を置き続けてきた菅政府は、7月に前倒しでスタートさせたGo Toトラベルから、なぜ東京都を除外したのか、そのエビデンスをまず明確にすべきだ。また10月から東京都を参加させたエビデンスも明らかにする義務がある。エビデンスをそれほど重要視するならばだが。
そのうえ、政府はGo Toトラベルを来年2月以降も継続し、ゴールデンウィークまで続けるという。これからコロナが猛威を振るいだすであろう冬の季節を迎える。少なくとも菅政府の面々より賢い国民は、正月休暇も旅行や帰省を控えるという行動判断をしている。
ともあれ、小池氏がなぜ折れたのかは不明だが、東京都と国の対立は菅政権に当事者能力がないことだけは明らかになった。そういう状態を「無政府」状態という。野党やメディアはそのことを厳しく追及すべきだ。


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