小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

政官財癒着のトライアングルはいつから形成されたのか。

2010-02-16 07:20:51 | Weblog
 前回のブログ記事『いわゆる「太平洋戦争」について(歴史認識の方法論)』は昨日までに、私のブログ読者数として記録的な人数になった。おそらく私のブログを常に読んでくださっている方が、友人などにこのブログ記事は面白いよ、とお勧めいただいた結果ではないかと思う。
 前回のブログで書いた「殖産興業政策が政官財癒着の鉄のトライアングルの構築の原点になったことの検証は別の機会に行う」とお約束したので今回書くことにする。なお前回のブログはわけがあって(読者からの要請によって書いたため)私の文章としては異例の「です・ます」調で書いたが、今回から再び「である」調で書くことにする。
 前回のブログで書いたように明治政府が欧米列強と肩をならべ、徳川幕府が欧米列強と結んだ不平等条約を解消するために、まず最大の国家戦略として打ち立てた「富国強兵・殖産興業」政策の2本柱のうち、「富国強兵」政策が軍国主義への道しるべになったことについてはご理解いただけたと思う。
 ではもうひとつの「殖産興業」政策について検証する。もちろんこの政策の目的は軍事力と同様、産業分野においても欧米列強と肩を並べるための近代産業を育てることであった。しかし欧米列強には到底太刀打ちできなかったものの、幕藩体制下においていちおう武士階級という軍事力を擁してきて、欧米列強の近代軍事技術や近代兵器を導入できる基盤があった分野と異なり、商工分野においては欧米の近代産業技術を導入できる既存の基盤がなかった。そのため明治政府は自ら近代産業を興す必要に迫られ、いわゆる「官営模範工場」を創設することにした。
最初に創設したのが「高島炭鉱」(創設年不詳)で、採算基盤が確立できた1874年に政商・後藤正二郎に払い下げられている。また1873年に創設された「院内銀山」は84年に、「院内銅山」は85年に、のちに古河財閥を創設する古河市兵衛にともに払い下げられている。さらに77年に創設された「新町紡績所」と「長崎造船所」、「兵庫造船所」の3社はいずれも10年後の87年にそれぞれ三井財閥、三菱財閥、川崎正蔵(川崎重工の創設者)に払い下げられている。
なかでも「官営模範工場」として最も有名になった「富岡製糸場」は72年11月に操業が開始され、93年に三井財閥に払い下げられた。
明治政府にとって軍事力の近代化と産業力の近代化を進めるためには欧米近代諸国から近代兵器や近代産業施設・機械を購入する必要があったが、そのための原資は輸出によって稼がなければならないのは当然であった。当時利益を上げることが期待されたのはお茶と絹(生糸)だったが、近代的製糸技術を擁していなかった日本の絹の品質は輸出先から低く評価されていた。また繭から生糸を紡ぐ製糸方法も素朴な器具と人力に頼っていたため生産量も少なかった。
そのため明治政府はフランスから製糸機や蒸気機関を購入し、養蚕が盛んだった富岡に近代装備した製糸工場を建設し、フランス人技師のポール・ぶりゅーナの指導を受けて世界有数の近代的製糸工場に育てた。しかし政府のこの政策は当初莫大な赤字を生んだ。富岡製糸場が生産した絹(生糸)の品質は世界最高レベルにはなったが、外国製品に対する競争力をもつためには価格にコストを反映させることができず、赤字垂れ流しの生産を続けざるを得なかった。そのため採算がとれるようになるまでに20年もかかり、ようやく21年後の93年に三井財閥に払い下げられている。
このようにして政官財癒着のトライアングルが形成され、官による民への「行政指導」という名の干渉と天下りが定着するようになった。たとえば私のブログ記事「論理的思考力について私のブログ読者に挑戦します」のケースとして取り上げた電車内の携帯電話規制の行政指導を運輸省(現国土交通省)が行った業界団体の「日本民営鉄道協会」の理事長職は国土交通省の天下りポストの一つである。マスコミが大々的に取り上げたがる官僚の天下り先はいわゆる「独立行政法人」や「特殊法人」(公社・公団・事業団等)の各省庁の直接的管理下にある団体への天下りや渡りとされているが、民間の業界団体への天下りも少なくない。それどころか完全な民間企業である地銀最大手の横浜銀行の頭取職は大蔵省(現財務省・金融庁)の事務次官の天下り指定席であり、現頭取の小川是(ただし)氏も大蔵事務次官を退任後、日本たばこ産業に天下った(会長・顧問)後、横浜銀行頭取に就任している。
このようにして構築されてきた政官財癒着のトライアングルが破壊されるゆいつのチャンスは日本が敗戦した時に訪れた。すなわちGHQが行った「日本の民主化」政策がゆいつの機会だった。GHQは財閥解体、独占企業の分割(三井物産は約220社に、三菱商事も約140社に分割した)など一連の経済民主化政策を行った。政治家や軍人だけでなく松下幸之助など大企業のトップの多くも公職追放した。また独占禁止法や過度経済力集中排除法なども制定するなど民主化政策を行った。
だが、こうしたGHQの経済民主化政策の基本は、日本経済の民主的再建をバックアップしようというものでは必ずしもなかった。むしろ日本の工業力を徹底的に骨抜きにし、農業国に先祖返りさせてしまおうという報復的意味合いのほうが強かった。GHQはいわゆる民主化政策を行いながら、同時に日本に巨額な損害賠償を求める計画を練っていた。もちろん当時の日本にそんな経済余力がないのはGHQも十分承知していた。アメリカは日本の軍事基地や軍需工業地帯は徹底的に空爆で破壊してしまったが、それ以外の工業地帯は空爆の対象から外したのである。そのため日本の民主的経済復興の可能性はわずかに残っていたのだが、GHQはそうした日本の工業力を根こそぎ破壊するため、それらの戦火から免れた工業地帯に残った設備や機械類の売却によって損害賠償させるというたくらみを持っていたのである。
そうしたGHQの「民主化政策」にアメリカ政府の中で「やりすぎだ」という批判が高まった。1947年8月、占領政策の見直しのため来日したストライク調査団は「軍需施設以外の生産施設まで除去してしまうと、日本の自立が不可能になり、かえってアメリカの負担が増大する」と警告、続いて来日したドレーバー使節団も日本の経済復興に必要な生産設備を賠償対象から外すようGHQに勧告した。
こうした米政府の厳しい批判を受けてGHQも占領政策の大転換に踏み切る。厳しい賠償計画を中止し、財閥解体や公職追放の緩和、過度経済力集中排除法の適用を緩和することにした。松下幸之助ら大企業のトップも追放を解除された。しかしGHQの占領政策の転換だけで日本の経済力が急速に復興したわけではもちろんない。
じつはGHQは日本の民主化を進める過程で明治政府の「殖産興業」政策が生み出した政官財癒着のトライアングルの構造には気づかなかった。それゆえトライアングル構造は温存されてしまったのである。そのため官僚の民間事業に対する支配力は、「経済復興を支援する」という名目のもとでかえって強化されてしまったのである。明治政府の「殖産興業」政策に端を発して構築されてきた政官財癒着のトライアングルは単なるトライアングルから「鉄のトライアングル」へと変貌していったのだ。

が、歴史の皮肉さはこのトライアングル構造が温存されたため日本が戦後、世界史的奇跡とさえ言われる急速な経済復興を成し遂げることができたことも指摘しておく必要がある。
戦後の日本は当然といえば当然だが、生産力を大きく失い、物資不足によるインフレに襲われた。政府の最大の使命はインフレの克服になったのである。
インフレにしても、現在の日本経済が直面しているデフレにしても要因は共通している。需要と供給力のバランスが崩れたことが要因である。需要が供給力を上回ればインフレになり(売り手市場)、その逆に供給力が需要を上回るとデフレになる(買い手市場)。これは資本主義社会の抱える宿命的問題で、それを克服するゆいつの手段は中央銀行(日本の場合は日銀)の金利政策とマネー供給のコントロールしかない。それが最高にうまくいったのがアメリカのニューディール政策だった。
1929年10月24日(のちに「暗黒の木曜日」と呼ばれる)、ニューヨークで株式の大暴落が突如として生じた。いわゆる世界大恐慌の発端である。この大恐慌を克服したのが33年3月4日に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトだった。ルーズベルトは大統領就任の翌日には日曜日だったにもかかわらず「対敵通商法」に基づき国内の全銀行に休業を命じ、国民にはラジオ放送で預金の保障を公約した。これでとりあえず金融危機を回避すると、議会で次々に景気回復の政策を提案、成立させた。その柱となったのがニューディール政策と呼ばれる大規模公共工事を行うことで経済界に事業機会を与え、その結果として雇用の需要を掘り起こすという方法だった。これが劇的な効果を生んでアメリカがまず恐慌から脱し、ヨーロッパや日本も含め恐慌の克服に成功したのである。

実は日本が戦後の大インフレを克服できたのは、吉田内閣が行った「傾斜生産方式」と呼ばれる、ニューディール政策と同様経済界に劇的効果を与えた政策だった。傾斜生産方式とは、資源(資金および原材料)を特定の基幹産業に重点的に配分、その産業の生産物をさらに別の基幹産業に重点的に配分することにより、経済界全体に波及効果を生み出そうというものだった。
吉田内閣が実際に取った傾斜生産方式は、まず資金を鉄鋼と石炭という当時の2大基幹産業に重点的に注ぎこみ、さらに鉄鋼の生産量を拡大するため重油を鉄鋼産業に重点的に配分し、こうして生産量が増大した鉄鋼を石炭産業に重点的に配分して石炭の増産を図り、その結果生産量が増大した石炭を再び鉄鋼産業に重点的な配分するという循環構造を整備したことである。そうすることで、まず日本の2大基幹産業を立ち直らせるという方法をとったのである。
もちろんそれだけで日本の経済がインフレを克服できたわけではない。インフレの勢いはかなり弱まったが、完全に沈静化したわけではなかった。
吉田内閣が行った傾斜生産方式が劇的効果を日本の経済界にもたらしたのは50年6月25日に勃発した朝鮮戦争だった。朝鮮戦争は53年7月27日の休戦協定まで3年余も続いた。そして鉄鋼と石炭という2大基幹産業の生産力の回復に成功した日本は莫大な戦争特需にありつくことができた。日本が世界史的奇跡とまで言われた経済復興への第一歩はこうして踏み出すことができたのである。もしGHQが日本経済の民主化を図る過程で、自由主義先進国の中で日本だけが作り上げてきた政官財のトライアングル構造を見抜き、その構造を破壊していたら、もちろん吉田内閣は傾斜生産方式という政官財癒着のトライアングル構造が維持できたから実現できたはずの政策を実行することは不可能だったに違いなく、朝鮮戦争特需に日本経済界はおそらくありつけなかったであろう。
明治政府の「殖産興業」政策についての歴史的検証はこれで終えるが、これだけの長い歴史を積み重ねてきた政官財癒着の「鉄のトライアングル」を破壊するには気が遠くなるほどの時間と官僚の人数を半減するくらいの公務員制度改革を行わなくてはならないことは、ご理解いただけたと思う。
 

いわゆる「太平洋戦争」についいて(歴史認識の方法論)

2010-02-12 08:44:03 | Weblog
 私の大切なブログ読者Unknown氏から「太平洋戦争についての見解を一度お願いしたいです。良識ある貴殿の意見を聞いてみたいと思いました」というコメントをいただきました。
 実はこの問題は徳川幕府末期にさかのぼって日本の近代化への歩みの中で位置付けて再検証すべき重要な問題です。残念ながら日本の近代史の学者もマスコミもまた司馬遼太郎などの歴史小説家もフェアで論理的整合性を最重要視した歴史認識の方法論を持っていないようです(ひょっとしたらいるのかもしれませんが、そういう方の日本近代史を私は読んだことがありません)。
 まず、いちゃもんをつけるわけではありませんがUnknown氏はおそらく意識せずに「太平洋戦争」という言葉をお使いになったと思いますが、太平洋戦争と言った場合「日米戦争」と同意語であり、あの時代の日本の戦争の一部だけを切り取って評価するのは歴史認識の方法として妥当ではないと思いますので、どうして日本が世界一の巨大軍事国家アメリカに無謀な戦争を仕掛けるに至ったのかの歴史的背景をできるだけ手短に述べたいと思います。なおあの時代の日本の戦争については朝日新聞は「アジア太平洋戦争」(もともとはこの表記は「岩波用語」とされています)と表記を統一しており、読売新聞は「昭和戦争」と表記を統一しています。こうした表記はその表記自体に日本が行った戦争についての歴史認識が反映されており、私はどちらの歴史認識にも同意できないため「あの戦争」という言い方をしています。
 
 では日本が近代化への歩みを開始した徳川幕府末期の検証から始めます。徳川幕府の鎖国体制(これは外交政策です)が崩壊したのは、1853年6月3日にアメリカのペリーが大艦隊を率いて浦賀に強行入港し、国書を徳川幕府につきつけ、幕府が受理したのがきっかけです。
 実はそのかなり以前からヨーロッパ列強やロシアなどが徳川幕府に「開国して通商関係を結びたい」と申し入れてきていましたが、幕府はすべて拒絶してきました。一番遅れて日本にやってきたのがアメリカで、一気に日本への攻勢を強めるためペリーを派遣したというわけです。この時代の世界史的背景を少し述べておきますと、ロシアも含めヨーロッパ列強がアジアとアフリカを支配下に置くための植民地政策(帝国主義とも言います)を一斉に取りだした、世界史の中でも最も暗黒と言える時代でした。その典型的な証拠がアフリカの国境線です。五大陸のうち国境線が直線で引かれているのはアフリカだけです。アフリカ人はさまざまな部族がそれぞれの部族の勢力圏をあまり意識せず、たがいにその勢力圏を尊重するといった部族間の関係が続いていました。だからヨーロッパ列強がアフリカの分割支配に乗り出した時に国境を直線で決めたというのが歴史的事実です。ちょっと横道にそれますが、イラクのフセインがクウェートに侵攻した時主張した「もともとクウェートはイラクの支配下にあった」というのはある程度歴史的事実と言ってもいいのです。
 さて初めて外国の国書を受け取ってしまった徳川幕府は翌月諸大名にアメリカの国書を示し意見を求めました。このことはもはや徳川幕府は政権担当能力を失っていたことを意味します。そして翌年3月3日、徳川幕府はペリーとの間で日米和親条約(神奈川条約ともいう)を結び、下田・函館の2港を開港しました。
 アメリカとだけ和親条約を結び、他のヨーロッパ列強には鎖国を続けるというわけにはいきません。徳川幕府は次々と和親条約を結び事実上鎖国体制は崩壊しました。ただし幕府は諸外国に開港しただけで、まだ通商関係は結んでいませんでした。しかし諸外国の軍事的圧力に屈して鎖国体制の廃止に追い込まれた幕府への批判の声は徐々に日本中に広まっていきました。ただし、この時点では幕府の弱腰外交に対する批判が中心で、攘夷運動はまだ始まっていません。このことは記憶にとどめておいてください。
和親条約の締結で先陣を切ったアメリカは56年8月以降、総領事のハリスに命じ日本との間に通商条約を結ぶよう幕府に働きかけます。当時の外交担当者の老中・堀田正睦は58年1月、孝明天皇の勅許を得るため京都に向かいましたが、鎖国をやめたことに対して反発した公家たちの抵抗により天皇は勅許を下さず、堀田は老中職を解任されました。
堀田の後を継いだのが大老・井伊直弼です(就任は58年4月)。井伊は朝廷に無断で同年6月19日アメリカとの間に日米修好通商条約を結んでしまいます。この通商条約はアメリカの巨大な軍事力を背景に締結されたわけですから平等な通商関係であろうはずがありません。そのため鎖国を解除した徳川幕府に対する批判(当然保守的反発です)が、一気に攘夷運動に転換していくのです。そして翌7月、朝廷は幕府の条約調印を責め、不満の旨を水戸藩他13藩に伝えました。
その後幕府は当然ですがヨーロッパ列強(イギリス・フランス・オランダ・ロシア)とも同様の不平等条約を締結しました(「安政五カ国条約」と言われています)。一方井伊は過激な攘夷論を主張し始めたものを弾圧し、橋本佐内・頼三樹三郎・吉田松陰らを処刑するなど、いわゆる「安政の大獄」を行いました。
こうした井伊直弼の幕政に猛烈に反発したのが水戸藩の志士たちでした。水戸藩はよく知られているように徳川御三家でありながら水戸光圀以来勤皇思想(間違えないでください。「尊王」思想ではありません。その違いに気が付いていない歴史家が大半を占めているため、明治維新の原動力を「尊王攘夷」という4字熟語でくくってしまい、その結果歪んだ歴史認識を近代歴史の専門家も抱いてしまっているからです。その典型的な例を示します。以下に引用する文章は山川出版社が発行した「Story日本の歴史・近現代史編」の本文の冒頭です)。
1858年(安政5)年6月、日米修好通商条約が締結された。「遺勅」調印(天皇の勅許を得ずに通商条約に調印したこと)と、開港による経済的混乱はそれまで別々であった尊王論と攘夷論を一体化し、反幕的意識が下級武士を中心に生み出された。安政の大獄に憤激した志士が大老井伊直弼を暗殺した1860(安政7)年3月3日の桜田門外の変は尊王攘夷運動の本格的幕開けとなった。
この本の著者名は「日本史教育研究会」とされ、24人の主に私立高校の日本史教師によって書かれています。さらに山川出版社といえば歴史書(教科書を含む)の最高権威とされている出版社です。
さて桜田門外の変の実態は勤皇派の水戸藩の浪士たち(彼らは類が水戸藩に及ぶことを恐れ脱藩した志士です)が中心になって行った暗殺事件でした。ひとりだけ薩摩藩士も加わりましたが、この攘夷運動がきっかけになり反幕勢力が各藩に生まれていきます。中でも突出したのが長州藩でした。毛利藩(のちの長州藩)は関ヶ原の戦いで戦争には参加しなかったけれども西軍の総大将でした(毛利藩は大阪城にたてこもっていました)。そのため領地の大半を削られ、以来徳川幕府に対する遺恨の念を遺伝子的に受け継いできた藩です。
その長州藩にとって、この幕末の混乱は徳川幕府を倒す絶好のチャンスが来たと考えたのは当然でした。もう政権担当能力を失いつつあった徳川幕府を倒すための大義名分として長州藩が担ぎあげたのが名目上(当時)の最高権威だった朝廷でした。長州藩が歴史的事実として勤皇主義(これは水戸藩に代表されるように政権交代は目的にしていません)であったことも、尊王主義(これは政権を朝廷に返還するという政権交代を目的とした思想です)であったこともありません。
当時大大名は自分の藩に城を構えていただけでなく、江戸と京都に藩邸を持っていました。江戸の藩邸は参勤交代のため、京都の藩邸は朝廷がある京都の安寧を守るためでした。このことが長州藩にとって幕末の混乱期に乗じることができた最大の要因でした。そして長州藩は燎原之火のごとく広がっていった攘夷運動を巧みに利用し、攘夷派の公家たちを味方につけ朝廷内に大きな影響力を形成していったのです。それを苦々しく見ていたのが、のちに連合する薩摩藩でした。
この時期日本は政治的に大混乱しています。長州藩の工作が成功し62年9月には朝廷が攘夷を決定し、これを受けて諸外国と通商条約を結んで鎖国体制を解除したはずの徳川幕府も翌63年5月10日に攘夷の決行を決断しました。また長州藩も一応攘夷派であることを「証明」するため同じ5月に下関で米・仏・蘭艦船を砲撃しています。しかしただ攘夷の姿勢を見せるためだけの砲撃でしたから外国艦船には何の損傷も与えていません。このしっぺ返しは当然あり、64年8月には英・仏・米・蘭の4国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩はすぐ謝っています。
実はその間に京都で大きな政変が起きています。朝廷を牛耳っていた長州藩を苦々しく見ていた薩摩藩が京都守護を命じられていた会津藩に働きかけ長州藩の朝廷内での振る舞いに反発していた公家らを抱き込み、63年8月18日に突然行動を起こして長州藩士を京都から追放してしまいました。このとき攘夷派の公家7人も京都を追われ(「七卿落ち」)、長州藩は京都での足場を完全に失いました。さらに再びひそかに京都に潜入した長州藩士が64年6月5日、新撰組に襲われ多くの藩士が命を落としました(「池田屋事件」)。
これで長州藩は一気に硬化、再び京都を制するべく進軍し、7月19日、薩摩藩や会津藩と戦い、散々な敗北を喫します。いわゆる「蛤御門の変」(あるいは「禁門の変」)と呼ばれている事件です。その直後徳川幕府は第1次長州征伐を行い、長州藩は「ごめんなさい」をして許されています。
長州藩と2度にわたって戦った薩摩藩はもともと尊王派でも佐幕派でもなく、いわば中立的立場をとっていました(公武合体論が主流になった時期もあります)。まして攘夷派でもなく、攘夷派藩士の有馬新七らを「上意」により殺害しています(62年4月の寺田屋事件)。また同年8月21日には薩摩藩の大名行列を乗馬して横切ったイギリス人3人を薩摩藩士が殺傷するという事件を起こし(生麦事件)、翌63年7月にはイギリス艦隊から報復攻撃を受けました(薩英戦争)。この敗戦で薩摩藩の実権を西郷隆盛や大久保利通らの改革派が握り、イギリスとの友好関係を結んで若手藩士をイギリスに派遣してイギリスの近代軍事技術を学ばせると同時に近代兵器を輸入し、日本最大の軍事大藩になったのです。
その薩摩藩と長州藩の間を取り持ったのが坂本龍馬であったことはよく知られています。ただ坂本龍馬を英雄にしてしまった司馬遼太郎は歴史小説家としては絶対にやってはいけない事実の歪めを行っています。彼の小説『竜馬が行く』は龍馬という実名を「竜馬」と書きかえることでフィクションであると言いたいのでしょうが、そうすることで事実を歪めることが許されると考えていたのだとしたら読者に対する裏切り行為です。ここで明らかにしておく明確な事実は、坂本が薩摩藩と長州藩を取り持ったのは彼自身のビジネスのためだったということです。坂本は日本で最初に(疑似)株式会社を創設した人物であることは事実ですが、彼が作った亀山社中(のち海援隊)の第1の社是は「手段を選ばず利益を求めよ」でした。要するに豊作だった長州の米を薩摩に売り、その代償として長州は薩摩の近代兵器と軍事技術を買う、その仲立ちをすることで商社として利益を上げることが坂本の本当の狙いだったのです。
しかし、坂本龍馬の目的は別として結局薩摩藩に対する恨みを抱き、なかなか「ウン」と言わなかった長州藩の桂小五郎が薩摩藩の西郷隆盛と通商関係を結ぶことにしたのは、薩摩藩の持つ近代兵器と軍事技術がなければ長州藩の軍事力を高めることができないという厳然たる事実を認めざるを得なかったからです。
こうして薩摩藩から近代兵器と軍事技術を導入した長州藩は再び徳川幕府に対して反旗を翻します。幕府は諸藩に命じ第2次長州征伐を行いましたが、薩摩藩は幕府の命に従わず中立を守りました。もし幕府側が優勢な戦局になっていたら薩摩藩はどういう行動に出ていたでしょうか。赤子でもわかる話ですね。
それはともかく近代武装化し、さらに高杉晋作が事実上封建制度の根幹をなしていた士農工商の身分差別を排して奇兵隊や力士隊など、武士以外の戦力を作り上げ、幕府軍をコテンパンにやっつけたことで、事実上明治維新が成功することが決まったのです。
ここまで検証してきたことで、明治維新を実現した革命エネルギーが「尊王攘夷」という4字熟語でくくられるようなものではなかったということがお分かりいただけたと思います。

私は2月9日に投稿したブログ「論理的思考力について私のブログ読者に挑戦します③」の中でこう書きました。覚えていらっしゃるでしょうか。
「その方法とは、世の中のあらゆる仕組みや事象について、常に幼児のごとき素直さで(つまり一切の価値観や宗教観、あるいは常識とされていることなど)疑問を持つことである」と。
歴史研究家でもなければとくに歴史に詳しいわけでもない私が明治維新を実現した革命エネルギーについてこれだけの検証ができたのは幼児のごとき素直さで、たった一つの事実について疑問を持ったからです。
その疑問とは「尊王攘夷」と4字熟語でくくられてきた革命エネルギーの「攘夷」思想が、明治維新が実現した途端、なぜ煙のように消えてしまったのか、という疑問です。この疑問を持てば、あとは山川出版社の『日本史少年表』で事実を確認していくだけで明治政府がどういう性格の政府にならざるを得なかったのかが論理的結論として誰にでも理解できます。でも一応続けます。

長州軍の圧倒的勝利で薩摩藩は薩長連合を公然化し、薩長を中心とする「官軍」(すでに朝廷は薩長を始め諸藩に「王政復古の大号令」を67年12月9日に発令していました)が68年1月3日、鳥羽・伏見で幕府軍と戦火を交え、完膚なきまでに幕府軍を破りました。その
後官軍は何らの抵抗も受けず江戸城に向けて進軍を開始し、江戸城総攻撃の前夜、幕臣の勝海舟が西郷隆盛を指名して会談し、無血開城を決定しました。ここでもちょっとした疑問を持っていただきたいのですが、勝はなぜ西郷を指名したのだろうか、という疑問です。

勝は、これは私の論理的推測ですが、もし官軍が江戸城総攻撃に出たら、旗本を中心に徳川家への忠誠心に凝り固まって江戸城に立てこもっている幕府軍は死に物狂いの反撃に出る。そうなると日本中が戦火の海になり、日本侵略の機会を虎視眈々と狙っている欧米列強によって日本が分割支配されかねない。それだけは何としても防ぎたい。しかし徳川家への忠誠心に凝り固まって籠城している旗本たちに無血開城を納得させるには徳川家の存続とある程度の経済的基盤を保証してもらうことを条件にしなければ彼らを「ウン」と言わせることができない。この条件を呑んでくれる相手は、徳川憎しの怨念に凝り固まっている長州の桂小五郎では無理だ。官軍の総攻撃によって日本中が火だるまになった時の危機感を共有できるのは西郷しかいない。そう勝は考えたに違いない。
一方西郷のほうは勝の提案をのんだ場合、自分の命が長州藩士に狙われるだろうと思ったに違いない。が、あとから分かることだが、西郷は「命もいらぬ、名誉もいらぬ、金もいらぬ」という生きざまを貫いた人物だった。勝の提案に一言の注文もつけずに「分かった。総攻撃は中止する」と言ったに違いない。勝が抱いた危機感を西郷も抱いたからであろう。

いずれにせよこうした状況の中で明治維新が実現し、明治政府は欧米列強が植民地拡大競争をますます激化させている状況の中で近代化への道を歩まざるを得なくなりました。明治政府にとって、まず取り組まなければならない最大の課題は徳川幕府が欧米列強の圧倒的軍事力に屈服して結ばされた不平等条約の解消でした。国家戦略として「富国強兵・殖産興業」を掲げたのもそのためです。
そしてこの国家戦略の一つ「富国強兵」がその後日本が軍国主義国家への道しるべになったのも当然の論理的結論でした。まず日本が侵略戦争への道に踏み出そうとしたのは早くも73年(明治6年)です。日本が近代化への道を歩みだした時期、隣国の朝鮮は「鎖国攘夷」を国是にしていました。70年ごろから明治政府は朝鮮に開国を求めてきましたが、朝鮮は話し合いにも応じず73年にはかえって排日運動が激化しだしたのです。それに呼応するように日本で征韓論が巻き起こり、その中心人物だった西郷隆盛や板垣退助は政争に敗れて下野しています。
歴史的には朝鮮は現中国の事実上支配下にありました。天下を統一した豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出し失敗したのも朝鮮を中国が守ったからです。日本にとって朝鮮を支配下に置くためには中国と戦って勝つことが絶対的条件だったのです。
それでは日本がどういうきっかけで中国(当時は清国)と戦争するチャンスをつかんだのかを検証します。94年、朝鮮で官吏の腐敗と農民への重税に反発した農民が一斉に蜂起し農民軍は首都ハンソンに迫る事態が生じました。農民軍の鎮圧に窮した政府は清に応援を要請したのです。明治政府は農民軍に正義があると考え(そういう考え方自体が清に対して戦争を仕掛ける口実なのです)、軍隊を朝鮮に派遣し、清軍と戦って破りました。そして朝鮮を日本の支配下に置くため清軍が撤退した後朝鮮王宮を占拠し、朝鮮と中国との従来からの従属関係を断ち切らせました。その後も日本は清との戦争を継続し(これからがいわゆる「日清戦争」です)、圧倒的な軍事力で清国に勝ちます。この勝利で日本は欧米列強から仲間入りを認められ、徳川幕府が欧米列強と結んだ不平等条約は解消されます。
それで明治政府が欧米列強との不平等条約の解消のため始めた「富国強兵」の国家戦略の目的は実現できたのです(もう一つの国家戦略である「殖産興業」は政官財癒着の鉄のトライアングルの形成につながっていくのですが、この問題はまた別の機会に書きます)。
しかし欧米列強と一応肩を並べた日本はアジアへの侵略を国家戦略にします。その場合、日本のアジア支配にとって最も脅威だったのは満州を勢力下におさめ、さらに南下政策を進めようとしていたロシアでした。一方アヘン戦争で清に勝ち中国に大きな権益を持っていたイギリスは、やはりロシアの南下政策を脅威に感じていました。こうして対ロシアの利害関係が一致したことにより1902年1月30日、日英同盟が成立しました。
その結果日本はイギリスの後ろ盾を得て日本はロシアに宣戦布告しました。しかし戦争を仕掛けるには侵略戦争が当たり前だった当時でも一応大義名分が必要です。実は日清戦争で勝利した日本は清から遼東半島を割譲されていました。しかしロシア・フランス・ドイツの3国干渉により遼東半島は清に返還しました。その遼東半島の旅順にロシア軍が要塞を築き朝鮮半島へのにらみを利かせだしました。ロシアが旅順に要塞を築いたことは国際法に違反したとして日本はロシアに宣戦布告したのです。
私はこの日露戦争で日本が負けていれば、中国や朝鮮での権益を失っていたでしょうが、軍国主義への更なる傾斜は止まっていただろうと考えています。実際旅順攻撃の責任者だった乃木希助大将は日本軍兵士の莫大な損失を被っています。イギリスが、当時世界最強とされていたロシアのバルチック艦隊をイギリスの制海権領域を通過させないという協力をしてくれたため、日本海軍が万全の準備を整えることができ、世界の海戦史上の奇跡とまで言われる大勝利を収めることができ、乃木将軍も英雄の仲間入りを果たしてしまったのです。
その後は日本の世論が日本の更なる軍国主義への傾斜をあおって行きました。そもそもロシアに勝ちながら得たものが戦果としては不十分だと政府を責める世論が圧倒的だったのです。もちろんそういう世論の形成にあずかったマスコミの責任は小さくありません。マスコミは日本が初めて負けた「あの戦争」についてだけ一生懸命検証し、あるいは「誤った報道をして読者を裏切った」(朝日新聞・船橋洋一主筆)などとしおらしい「反省」をしていますが、もし朝日新聞が読者を裏切らず、戦争の真実を伝えていたら、政府や軍からの弾圧を受ける前に読者から見離され朝日新聞社は間違いなく倒産していました。
日米戦争を意味する、いわゆる「太平洋戦争」も、アメリカが日本につきつけたハル・ノートが、日本がアメリカに宣戦布告せざるを得ないことを目的にしたものであることはいまでは明らかです。当時日本陸軍の前線はアジア全域に伸び切っており、到底アメリカと戦える状態にないことを百も承知で、日本が絶対呑めない条件を突きつけ、日本から戦争を仕掛けざるを得ない状況に追い込むことがハル・ノートの目的でした。ただアメリカにとっての誤算だったのは日本海軍の軍事力を軽視していたことでした。そのため日本海軍の暗号電文を解読していながら、パールハーバーに集積していたアメリカ艦隊に警戒態勢を取らせなかったことです。その自分たちの怠慢を不問にして日本の野村・来栖アメリカ大使の怠慢で宣戦布告がパールハーバー攻撃に遅れたことで日本を卑怯な国と極め付け、いまだに年配のアメリカ人が「リメンバー・パールハーバー」という反日感情を抱いている状況の改善の努力をしていないことは極めて遺憾としか申し上げるしかないと思っています。
さらに広島・長崎に原爆を投下し、なんの戦争責任もない数十万人を虐殺した行為について、「1日も早く戦争を終わらせるため。アメリカ軍兵士の損傷を最小限にするため」などという口実でいまだに正当化していることにも私は許しがたい怒りを抱いています。
またやはり戦争を早期に終結させるためという口実でソ連に対日参戦を要請し、日本軍兵士の多くが極寒のシベリアに抑留され、さらに国際的に日本の領土と認められている北方4島をいまだに占領されている原因を作ったことについても、アメリカはいまだに日本に謝罪していません。
戦後の日本が世界一平和な国として過ごしてこられたのはアメリカの核の傘で守られてきたという紛れもない事実として私はアメリカに感謝していますが、「あの戦争」で犯したアメリカの過ちについて、未だにアメリカが正当化していることに対し、歴代総理がアメリカに謝罪を要求したことがないことを極めて遺憾に思っています。


 

論理的思考力について私のヴブログ読者に挑戦します④

2010-02-10 20:22:20 | Weblog
 前回のブログ記事の最後で、次は「小沢問題」について書きます、という約束をした。しかし今日私のブログ記事一覧を見た結果、すでに「小沢問題」について言うべきことは言いつくしており、付け加えることがなかったので「小沢問題」を蒸し返す必要がないことを確認したうえで約束を撤回する。申し訳ありませんでした。
 私は今年7月でちょうど70歳になる。「年はとりたくないものだ」という老人の気持ちが痛いほど理解できる年齢に私も近付きつつあることを、正直認めざるを得ない。
 私は子供のころから左脳が異常に発達し、その代わりに右脳が著しく後退してきた。「小沢問題」についてすでに書いていながらすっかり忘れていたことがその証左でもある。
 で、今回のブログは私のブログ記事の、たぶん最大の読者と思われる方から寄せられたコメントに限りなくフェアでかつ論理的整合性を満たした回答をしたい。まずその方から寄せられたコメントを無断で転記する。

びっくりだな。電車内の携帯電話の制限に疑問を持つような人が、女性専用車両には論理的思考をしたことがないのか?
なんぼ携帯電話を制限することに論理的誤りがあったとしても、たった3秒の携帯の電源を消す手間でむやみに物議を醸さずに自分の居場所を自由に選べるのに、女性専用車両には性別っつう生まれつきもってきて換えがたいもんでどうにもできないまま居場所を不自由にされるんだぞ。そっちのほうが深刻だと思わないのか?
是非とも女性専用車両の正当性について論理的思考を求めたい。

この方が私のブログ記事を真剣にかつできるだけフェアに受け止めされようとされていることは私も感謝ししている。が、そういう善意の読者であってもこの方の思考方法が混乱していることは指摘せざるを得ない。
この方にご指摘したいことは論理的思考の結果として電車内での携帯電話の使用規制は間違っているということを明確にしたことと、しかし元運輸省(現国土交通省)が電鉄事業者各社に優先席付近での携帯電話の電源を切らせろという通達(行政指導)が、いまだ撤回されていない状況の中で現実的に可能な解決策を提案することとはまったく別の次元の問題だというご理解をしていただきたい。
論理的整合性を最重視するならば公共交通機関内での携帯電話使用規制はすべて撤去すべきだと私は考えている。その理由はこのシリーズで述べてきたので今更再証明する必要はない。不信があればもう一度このシリーズの①からすべてを読み直していただきたい。
この方はなぜ通勤時間帯に限って女性専用車両を設けたのかご存じではないようだ。実は女性が痴漢の被害に会う可能性は通勤時間帯が圧倒的に多い。そのため通勤時間帯に限って女性専用車両を設けたという経緯がある。だから通勤時間帯を外れた時間帯(日中など)は女性専用は解除されている。通勤時間帯に限って女性専用車両を設けたのは論理的思考とは全く関係がない。通勤時間帯に女性が痴漢の被害を受けないように設けられた車両だったのである。もしこの問題を論理的整合性を基準に考えるならば、一応通勤時間帯の乗客が男女同数だとしたら、1両置きに男性専用車と女性専用車両を設けるべきなのである(ただし夫婦や親子、恋人同士、友人関係などが別の車両に乗車しなければならないとなると問題なので、そういう方たちのための車両を別途設けるべきだろう)。これが論理的整合性をベースにした思考方法である。
つまりこの方の主張は全く論理的思考力を欠いた私への批判だということがこれで明らかにになったはずである。
私は心臓ペースメーカーを体内に埋め込まれている方が1本の電車に何人乗られるのかは分からない。その実態を調べる責任は国土交通省と総務省にあると考えている。ただ私の勘としてどの車両でもいいが1車両の優先席を心臓ペースメーカー専用席にしたらすべての携帯電話問題は解決すると考えている。そしてそのことをすべての乗客に理解していただく最も有効な方法は女性専用車を通勤時間帯だけでなく全日女性専用車にして、その車両の優先席をペースメーカー専用にするしか解決方法がないと主張した。なぜなら女性専用車は電車の最後尾に設置されており、車掌の目が常に行き届いているからペースメーカーを付けた男性が痴漢行為など絶対にできないからである。
私がなぜ前回のこのシリーズの3回目で、絶対に実現不可能な暦の論理的非整合性を書いたのか、私の文章の行間から読み取ってほしい。現在のいろいろなシステムや約束事は、極端にいえばすべて論理的整合性を欠いている。その中であらゆる事象に対して幼児のごとき素直さで疑問を持ち、動かしがたい現実のシステムの中で極力論理的整合性のあるシステムに変えていくことが現実的な方法である。論理的思考力を身につけていく場合、やむを得ざる妥協は覚悟しなければならないことは、前回のブログで書いた暦の矛盾についての記述で分かったほしい。これで私への批判をされた方への回答を終える。批判はどんどんしていただきたい。手厳しい反論を受けても、そのことによって私への批判をした方の論理的思考力は高まっていくはずだし、私にとってもさらに論理的思考力に磨きをかける契機になるからだ。最後に私への批判をされた方に感謝の念を捧げたい。


論理的思考力について、私のグログ読者に挑戦します③

2010-02-09 20:01:47 | Weblog
 2回にわたりブログ読者に「論理的思考力」について挑戦し、読者の方からのコメントを要請したが、たった一人から「答は分かりません」とコメントをいただいただけだった。
 もし私のブログ読者にジャーナリストや政治家あるいはそれに準じる立場の人がいたら、この程度の論理的思考力がなかったら職業を替えたほうがいい。
 実は数日前、読売新聞読者センターの方と約1時間半に及ぶ話をした。その方はやはり「電車内での携帯電話使用規制にについて疑問を持ったことはない」と正直にお答えになった。が、私がるる説明をしたら「うーん」としばらくお考えになったうえで「小林さんの主張のほうが正しいと思います」とおっしゃってくださった。
さらに私鉄事業者連合の日本民営鉄道協会に電話をして、私の主張についてお話し、その方からも読売新聞読者センターの方とまったく同じ回答をいただいた。
そこで私の主張をウィキペディアで検証してみようと思い「心臓ペースメーカー」というキーワードで検索してみた。その中の「電磁波による影響」という項目の中の「携帯電話」を無断で転載させていただく。

携帯電話・PHSの普及に伴い、それらの端末から出る電磁波で心臓ペースメーカーが誤作動する可能性が、実験などにより指摘され、公共交通機関や病院等で、端末の電源を切ることが呼びかけられるなど、社会問題化した。しかし。日本では携帯電話の急激な普及と、利用者のマナーの悪さに対するマナー啓発キャンペーンとして悪用され、強調された結果、不必要に心臓ペースメーカー装着患者の恐怖心をあおり、心身に被害をもたらしてしまったという側面もある。[注・この検証作業は正しくない。この記事の作者は自分の想像による勝手な思い込みで携帯電話の使用規制が始まったという経緯を書いているが、事実は全く違う。郵政省(現総務省)が1964年から電波障害について研究を行ってきており、研究結果は公表されている。その研究結果を重視した運輸省(現国土交通省)が1997年5月1日に優先席付近での携帯電話の電源を切るように通達を日本民営鉄道協会に出した結果始まったのが携帯電話使用規制の経緯である。なお一般席でのマナーモード設定の規制には国土交通省は何の指示も出しておらず、2003年にJRも含め私鉄各社が協議してマナーモード設定の規制を決めたのである(電車の中の騒音はかなりうるさいため、携帯電話で通話した場合つい大きな声を出してしまうケースが多く、乗客からの苦情が多く寄せられたことがきっかけになって一般席での使用規制が始まったというのが事実である)

実際に、携帯電話が心臓ペースメーカーに対して誤動作を引き起こしたという事故は世界中で一例も報告されていない。日本以外では携帯電話使用による心臓ペースメーカーの誤作動の可能性さえ問題視されておらず、公共交通機関で携帯電話の電源オフの呼びかけ実施している地域は世界でも日本のみ、もしくは極めてまれで異常な状態である。最近ではペースメーカーに対する影響を理由とした電源オフの呼びかけアナウンスは行われなくなっている。

携帯電話通信方法の世代交代によって干渉のリスクはさらに大きく下がっており、また、ペースメーカーにも日々干渉防止の改良が施されている。2006年に行われた調査では(注・総務省が公表した「電波の医療機器への影響に関する調査結果」)800MHz帯の電波を利用した端末の最大干渉距離は3cmであった。「最大干渉距離」とは、干渉が起こる最大の距離であり、それ以上離れると干渉が起こらなかった距離である。また、いずれも携帯電話端末を遠ざければ正常に回復することが確認された。

 これで電車内の優先席付近での電源を切れという規制がおかしいということは科学的に証明された。さあ、国土交通省どうする?
 実は一般席での規制(マナーモードにせよ)は運輸省(現国土交通省)が電鉄事業者に義務付けたことではない。すでに述べたように電車内の騒音が影響して携帯電話で会話する際の声が通常の声より大きくなりがちで、一般乗客からのクレームが各電鉄事業者に多く寄せられ、JRも含めすべての電鉄事業者が一堂に会して2003年に「一般席での携帯電話はマナーモードに設定させる」という方針で一致してから電車内でのいかなる場所でも携帯電話での通話が禁止されるようになった。
 現在乗客から寄せられるクレームの1位は「乗客同士の会話」である(日本民営鉄道協会、つまりすべての業界にある同業者団体に問い合わせて得た情報)。読売新聞読者センターの方が認められただけでなく、日本民営鉄道協会も私の主張を全面的に認め、乗客同士の会話をどう規制すべきかを検討することになっている。私が日本民営鉄道協会の存在と電話番号を知ったのは国土交通省に「あらゆる業界は同業者団体を作っている。鉄道事業者も同じはずだ。団体名と電話番号を教えてほしい」と要請して知り得たことである。パソコンと電話だけでこれだけの情報が得られることをマスコミ関係者なら心得ているべきである。
 とりあえず運輸省が1997年に各鉄道事業者に出した「優先席付近での携帯電話は電源を切らせろ」という通達がまだ生きている以上(国土交通省はこの通達をまだ撤回していない)、最善の解決方法をこれから提案したい。
 
まず電車の最後尾に通勤時間帯のみ適用される女性専用車がある。この女性専用車を通勤時間帯だけでなく全時間帯で女性専用車にし、その車両の優先席は男女を問わず心臓ペースメーカー使用者の専用席にして、その付近では携帯電話の電源を切らせる。ペースメーカー使用者は通院している医療機関が証明書をペースメーカー使用者に発行し、車掌の求めに応じてその証明書を見せることを義務付ける。
 次に他の車両では優先席であっても一般席であっても使用規制を統一するか、もしくは乗客同士の会話を禁止しない場合は携帯電話での通話を許可する。
 
これが1997年規制がまだ生きている間に電鉄事業者が取るべき最もフェアでかつ論理的整合性を満たした解決策である。
 論理的思考方法とはこういう主張をするという意味だということをブログ読者はご理解いただけただろうか。もしまだご理解いただけないようであれば、論理的思考能力を身につけるための最善の方法をお教えしたい。

 その方法とは、世の中のあらゆる仕組みや事象について、常に幼児のごとき素直さで(つまり一切の価値観や宗教観、あるいは常識とされていることなど)疑問を持つことである。たとえばうるう年には2月が29日になることは小学校の高学年生以上なら日本人のすべてがご存じである。それは4年に一度1年間の日数が365日ではなく366日になるため2月の平年日数を1日増やすことにしたからだということはご存じだろう。
 そこで幼児のような素直さで私が抱いている疑問をお伝えする。
 それは、うるう年があるのは分かるし、いずれかの月の日数をうるう年には1日増やさなければならないことは承知しているが、なぜ2月の平年月の日数が28日になったのか、という疑問である。皆さんご存じのはずだが、それぞれの月の日数は2月以外不変である。つまり1月31日、2月28日(うるう年は29日)、3月31日、4月30日、5月31日、6月30日、7月31日、ここからおかしくなるのだが8月31日、9月30日、10月31日、11月30日、12月31日である。「そんなこと教えてもらわなくても知っているよ」と皆さんはお考えのはずだ。
 実はこの暦のおかしさは7月までは奇数月の日数が31日(1・3・5・7月)となり、偶数月(4・6月)は30日である。ところが8月以降は偶数月(8・10・12月)が31日になり、奇数月(9・11付き)は30日と逆転してしまう。その結果月日数31日が連続する回数が2回生じてしまった。7・8月と12・1月である。この現状を奇数月は31日、偶数月は30日という疑問の余地が生じないように月日数を決めると偶数月である2月の平年の日数は30日になる。そしてうるう年のときだけ6回ある偶数月のいずれかを31日にすれば2月だけの特異性は解消される。2月の平年月の日数を28日にして、7・8月、12・1月をなぜ連続して31日にしたのか、ウィキペディアで調べても全く分からない。いろいろな暦で様々な計算方式を駆使してうるう年を定めたことは理解できたが、なぜか私が抱いた幼児のごとき素朴な疑問は解決されなかった。
 この暦のおかしさは全世界で統一した暦として定着しているので、今更変更することは不可能だが、このような幼児のごとき素朴な疑問を様々な事象に対して抱く訓練をしていただきたい。そのうえで幼児のごとき素朴な疑問を持った時、その疑問を解決する方法を確立していただきたい。

 最近日本の大学でも学生の論理的思考力を育てることを目的にディベート教育をするようになった。が、このディベート教育は極めて危険な方法である。日本で行われているディベート教育はアメリカ式を導入しているケースが大半である。アメリカ式ディベート教育は、たとえば「核のない世界にするためにはアメリカが率先して核兵器をすべて廃棄すべきかどうか」といったテーマを設け、抽選で学生たちを賛成派と反対派に分け、論争させるといったやり方である。これは多少論理的思考力を高める効果があることは私も否定しないが、ディベート教育の目的は論理的思考力を高まるためではなく弁論術を学生に教えることである。つまりフェアで論理的整合性のある思考力を高めるより屁理屈をあたかも正論のごとく主張させるテクニックを学ばせる結果になっている。屁理屈をあたかも正論のごとく主張させるテクニックをアメリカの大学が学ばせているのは、「訴訟社会」と言われているアメリカで自分を守るための弁論術を身につけることが重要と考えられているからである。そのアメリカ式ディベート教育を論理的思考力を高める教育方法と誤解して行われているのが日本のディベート教育の実態であり、私は百害あってわずか一利しかない(「百害あって一利なし」ではない)教育だと断じざるを得ない。
 私はこういう思考力でブログを書いている。これからは私のブログ記事を読んでいただく場合、私の主張の行間に秘められた私の思考方法を読み取る訓練をしていただきたい。なお次のブログはいわゆる「小沢問題」について述べる。乞う、ご期待。


パスモ社告発・最終編

2010-02-03 18:35:08 | Weblog
これまで小田急電鉄やパスモ社に対する告訴、また小田急電鉄に対する告発に不当な判決を下した横浜地裁川崎支部の福島節男裁判官に対する告訴についてブログで訴状や準備書面を公開してきたが、訴状はともかく、被告の答弁書に対する反論である準備書面は、被告の答弁書を原告である私がすべて公開することは問題化しかねないと思ったので被告の答弁書を公開せず、私の反論である準備書面だけを公開してきた。そのためパスモ社の豊田商事を上回ると言っていいほどの詐欺的体質について、私のブログ読者に対する説明不足は私自身認めざるを得ないと思っていた。1月26日の横浜地裁での裁判で私の闘いは一応終結した。パスモ社に対する告訴の判決は2月22日、福島節男氏に対する判決は3月3日に下されることになった。その結果は私が勝訴しようと敗訴しようと必ずブログで公開する。判決結果はともかく、パスモ社の詐欺的体質についてブログ読者に改めて明らかにしておこう。

① まず券売機で購入するパスモとスイカは全く同じである。デポジットもともに500円取られるし、チャージは券売機でその都度現金で行う。紛失したら、現金の紛失と同じで一切の補償はない。また交通手段としてだけではなく電子マネーとして提携先のコンビニなどで現金同様に商品の購入代金をカードで支払うことができる。
② 問題はオートチャージ式のパスモとスイカは、「似て非なる」カードだということである。このタイプのパスモはデポジット500円を払い、購入する駅の電鉄会社が発行しているクレジットカードとのセットで申し込む必要がある。一方JR東日本が発売するビュースイカは「一体型」と言って、スイカ機能にJR東日本のクレジット機能であるビュー(クレジットカードのビューは発行していない)がびたっと糊で貼りつけたように一体化している。「一体化」とはそういう意味であることを読者は脳裏に刻み込んでおいてほしい。ただし2008年まではビュースイカはJR東日本だけが発行しており年会費が500円必要だった。その代わりデポジット500円は徴収しないことにした。その理由は、ビュースイカには大手クレジット会社のクレジット機能が搭載されており、そのため大手クレジット会社に支払う年会費が必要だったのだ。しかし昨年からJR東日本がビュースイカの発行を民間企業にも開放したため、イオンや楽天、ビッグカメラ、エルミロードなどが年会費無料のビュースイカを発行するようになった。私はもともとイオンカード(VISAが搭載されているクレジットカード)を持っていた。このクレジットカードは、イオン系列のスーパーなどで買い物をする場合はイオンのクレジット機能で支払い、イオン系列ではない店などで買い物をする場合はVISAのクレジット機能で支払うことになる。大手クレジット会社のVISAの年会費はイオンが負担してくれるため私の負担はない。念のため、多くの小売業者は自社のクレジットカードを発行しているが、すべて大手クレジット会社のクレジット機能が搭載されており、どこでもクレジット払いができるようになっている。年会費がかかる大手クレジット会社の単独発行しているクレジットカードのポイントは私が知っている限り0.1%だが、小売業者が発行しているクレジットカードの大半は0.5%のポイントが付く。クレジットについてはもっともっと読者に提供してあげたい情報があるが、このブログであまり深入りすると論点が横道にそれすぎてしまうため、パスモ問題に戻る。
③ オートチャージ式のビュースイカは最初から「一体型」であったが、パスモの場合は当初「2枚型」しかなかった。つまり交通手段と電子マネー機能を併せ持ったパスモカード(これはすでに述べたようにスイカと同じ)とパスモ取扱事業者(主に大手私鉄)が発行しているクレジットカードとのセットになったタイプだった。そのためパスモの購入には券売機で購入するパスモと同様500円のデポジットを支払う必要があった。しかしオートチャージ式パスモは購入時にデポジット500円を払えば、その後は年会費がかからないということで予約が殺到し、予定発行数をはるかに超えてしまったため、予約受付を半年間停止し、また予約が受け付けられたケースでもオートチャージ式パスモが手元に届くのに1カ月以上かかる状態が続いた。まさに大ヒット商品になったのである。
④ 問題はオートチャージ式パスモの発売に先立って私鉄各社が主要駅でキャンペーン活動を行ったときに、営業マンがオートチャージ式パスモのリスクについてどういう説明をしたか、またパンフレットや約款でリスクについて誤解を招かないように正確に記載したかという点である。結論(裁判でいえば判決の主文に相当すること)を先に述べておく。ビュースイカの場合、すでに述べたようにスイカの機能(交通手段+電子マネー)にビューというクレジット機能が糊でびたっとくっついたカードになっている。そのため紛失した場合、ビュースイカに残っているチャージ残高はそのカードを取得した第三者が現金と同様電子マネーとしてコンビニなどで不正に使用した分については補償がないが、その第三者がオートチャージを繰り返し不正に使用した分についてはクレジット補償が適用される(クレジット補償の説明は省略する。詳しくお知りになりたければクレジット会社に問い合わせるなりウィキペディアでお調べください)。一方パスモの場合は、クレジット補償が一切ない。紛失して第三者にオートチャージを繰り返され電子マネーとして使用されても一切補償されない。そのことを消費者が知ったらだれもオートチャージ式パスモを買わない。そのため実に巧妙な方法でパスモ社は免責事項を設けている。約款の第23条に記載されている免責事項の全文とその意味についての説明は後述するが、オートチャージ式パスモを売りまくったキャンペーン部隊の営業マンですらその免責事項の意味が理解できず、私の場合は小田急線の主要駅のキャンペーン部隊の営業マンから「オートチャージ式パスモは小田急電鉄が発行しているクレジットカードのOPカードからチャージされますからクレジット補償が適用されるため安全です」という説明を受けてセットで購入した。それがまったくのウソであったことは私がオートチャージ式パスモを紛失し、第三者によって不正にオートチャージされ電子マネーとして使用された後やっとわかった。そこで私は小田急電鉄を相手取って訴訟を起こし、同時に依然としてキャンペーン活動を行っていた営業マンのA氏に当時使用していた無記名パスモを見せ、「その都度現金チャージするのは面倒だけど、オートチャージ式パスモは紛失した時のリスクが怖いので使用する気になれない。オートチャージ式パスモは紛失した場合どうなるのか?」と尋ねた。A氏はかつて別の営業マンから受けた説明と全く同じ説明をした。そこで私はA氏にメモ書きでいいからそのことを書いてほしいと頼み、A氏は何の疑問も抱かず書いてくれた。その全文を公開する(ただし、A氏の実名は伏し、誤字は訂正した)。
  記名パスモ(オートチャージ)が不正使用された場合、60日間さ
かのぼって全額が補償されます。(オートチャージもクレジット
利用となるため)
OOOO(A氏の実名)
小田急エージェンシー
3月20日
 私は小田急電鉄を告訴した時の決定的証拠として裁判所に提出するつもりだったが、裁判官の妨害行為によって提出することができず。結局敗訴した。そのような場合、通常は東京高裁に上告して一審の判決をめぐって再度小田急電鉄と争うのだが、私は精神障害者の認定を受けているそううつ病の病人であり、判決文の主文(1 原告の請求をいずれも却下する。 2 訴訟費用は原告の負担とする。)を読んだ瞬間強烈なうつ状態に陥り、そのあとに書かれた判決理由を読むことさえできない状態に陥った。その状態からようやく脱し、昨年末パスモ社を東京簡易裁判所に告訴した(小田急電鉄に対する上告期限はとっくに過ぎており、また同じ理由で小田急電鉄を再度告訴することはできない)。パスモ社を告訴するにあたって、私はA氏のメモ書きだけでは証拠として弱いと思ったので以下のようなアンケートを本人の実名で集めることにした。
   記名オートチャージ式PASMOをご利用の方にアンケート
にお答えくださるようお願いします。
小林紀興
アンケートの目的
   私は某私鉄が行っていたPASMOとその私鉄系のクレジットカードをセットでキャンペーン販売していた営業マンから「パスネットは紛失したら損害を取り戻すことができませんが、記名オートチャージ式PASMOは当社のクレジットカードから自動的にチャージされるためクレジット補償が適用され損害が発生しません」という説明を受け、「それならば安心」と思い購入しました。しかし実際に紛失して悪用されましたがクレジット補償は適用されませんでした。そのため私は東京簡易裁判所にパスモ社を告訴しました。このアンケートはあなたが記名オートチャージ式PASMOにはクレジット補償が適用されないことの説明を、購入する際受けていたかどうかの調査で、裁判所に証拠として提出するためのものです。ご協力をお願いします。
 私は当初100人のオートチャージ式パスモの利用者のアンケートを集めるつもりだったが、ぎっくり腰になって腰をかがめてお願いすることが不可能になり、結果的には66人のアンケートを集めることしかできなかった。そのうち一人だけが○(知っていた)を付け、65人は×をつけた。○をつけた方に理由をお聞きしたら「関係者だから」とお答えになった。×をつけた方にも全員に「どういう説明を受けられましたか」とお伺いしたが、約半数が「全く同じ説明を受けた。ひどい話だ。裁判で絶対に勝ってくれ」と激励まで受けた。残りの約半数は「覚えていないが、当然クレジット補償が適用されると思っていた」と答え、65人全員が直ちにパスモを解約しビュースイカに切り替えると言われた。
⑤もちろんパスモ社が発行している『PASMOご利用案内』のどこにも「パスモにはクレジット補償は適用されません」との記載はない。それどころ「紛失の際もご心配なく」という項目を設け、「万一紛失しても再発行できるので、安心です。最寄りの駅やバス営業所にお申し出ください」と記載し、別のページで再発行の手続きを説明しているだけである。そして再発行するには手数料500円とデポジット500円が必要だとの記載もある。しかし私が紛失したパスモにはまだ844円のチャージ残高が残っているが、再発行しなければチャージ残高を返さないとの記載はどこにもない。一体チャージ残高の844円は誰に所有権があるとパスモ社は考えているのか。私は小田急の駅に、「こんな危ないパスモの再発行は求めない。したがってチャージ残高の844円を返してくれ」と申し出たが、「再発行していただかないとチャージ残高は新しいカードに移せないんです」と言われた。私は「どこにそんな記載がある」と聞き駅員は約款を隅々まで読んだ上で「確かにそういう記載はありませんが、そういう指示を受けています。再発行していただかないとチャージ残高を現金でお返しできない仕組みになっているようです。私どもには対応できないのでパスモ社に直接聞いてください」とパスモ社の「お客様相談センター」の電話番号を教えてくれただけであった。小田急を相手取った訴訟とパスモ社を相手取った訴訟を審理した裁判官はいずれもこの問題を不問に付してしまった。844円という金額が少額だったから不問に付したのだろうか。それとも安全対策がまったく講じられていないオートチャージ式パスモの再発行を求めればそのパスモカードにチャージ残高の844円をチャージするという卑劣極まりない説明をフェアだと思ったのだろうか。私はすでに年会費無料でクレジット補償が付いたビュースイカイオンカードを持っている。このカードを紛失して第三者に悪用されてもクレジット補償が直ちに適用されるため、紛失した時点でのチャージ残高は現金同様に使える電子マネーだから補償はされないが、不正にオートチャージされた以降の損害はすべてクレジット補償の対象になる。パスモ社が「オートチャージ式パスモを再発行しなければ紛失したチャージ残高を返済しない」などという、つまり再び欠陥商品を強制的に売りつける商法の悪質性に気がつかれていないようなのだ。だから被告の「チャージ残高は再発行すれば新しいカードにチャージできます」といった説明に論理的疑問を持たなかったようだ。
⑥ここまで私が知っている限りのパスモ社の詐欺的商法を中学生程度の理解力があれば十分ご理解いただけるように解明してきた。ここまで説明してきたことを前提にパスモ社が約款23条に設けた免責事項の卑劣さを追求していく。そのため約款23条を転記する。
第23条 PASMOの再発行または交換により、PASMO裏面に刻印されたものと異なるカード番号のPASMOを発行したことによる使用者の損害等については、当社はその責めを負わない。
2 紛失した記名パスモの再発行整理票発行日における払い戻しやバリューの使用等で生じた使用者の損害については、当社はその責めを負わない。
3 一体型PASMOについて、提携先に起因する使用者の損害又は提携先のサービス機能にかかわる使用者の損害等については、当社はその責めを負わない。
すでに書いたようにパスモとクレジットカードとのオートチャージに関する関係はまったくない。オートチャージはクレジット機能を意図的に外したパスモ社のコンピュータからオートチャージされる。だったら私鉄各社が発行しているクレジットカードとのセットで販売を強制することは独占禁止法違反に該当する。どのクレジットカードでもパスモ社のコンピュータからオートチャージした金額を支払うことができるはずだ。それを私鉄各社のクレジットカードとのセットで販売を利用者に強制したのは、このシステム(オートチャージはクレジット機能のないパスモ社のコンピュータからオートチャージして、その後私鉄各社が発行しているクレジットカードで引き落とすという極めてアンフェアな方法)を構築していながら、その最重要な説明義務を果たさなかったため、私鉄各社のキャンペーン活動をした営業マンたちはてっきり自社のクレジットカードからオートチャージされるものと思い込み(営業マンたちにパスモのオートチャージの仕組みを意図的に説明しなかった私鉄各社のクレジットカード部門の責任はパスモ社と同様犯罪的行為である)、利用者に意図せず誤った説明(パスモ紛失の場合クレジット補償が適用される)をした。そして実際紛失して第三者に悪用された場合、パスモ社も私鉄各社も責任を回避するため「免責事項」の第23条を設けたのである。私がパスモ社に対する少額訴訟で「これほど悪質な企業は豊田商事以外に知らない」とまで極め付けたのはそのためである。
⑦さらにパスモ社が悪質なのは「一体型」と称しているオートチャージ式パスモにはデポジットを取らないことである。これはいわゆる「一体型パスモ」がJR東日本が発行しているビュースイカと同じ機能を持っていると利用者を騙すための手口である。すでに述べたようにビュースイカはビューというクレジット機能がスイカに糊でびたっとくっつけたもので、第三者が不正にオートチャージして電子マネーとしてコンビニなどで買い物をした場合クレジット補償が適用される。だからJR東日本は「一体型」と称している。しかしパスモ社が称している「一体型」とは従来のオートチャージ式パスモ(何度も繰り返すが、このカードにはクレジット補償がない)に私鉄各社などのクレジットカ機能を搭載したというだけのものであり、オートチャージ式パスモとそのカードに搭載されたクレジット機能とは何の関係もない。つまり従来は「2枚型」だったのを「1枚型」にしただけで、利用者にとっての利便性は財布に入れるカードが1枚減っただけでしかない。したがってパスモ社がなぜそれを「一体型」と称しデポジットを取らないことにしたかは、賢明なブログ読者にはもう想像がついたはずである。そう、あなたが想像されたように、あたかも「一体型パスモ」はビュースイカと同じ安全対策を取っていると利用者に錯覚させることが目的だったのである。私がパスモ社のあくどさは、「豊田商事以外に知らない」とまで書いた意味をもう十分ご理解いただけたと思う。いやもっと厳しい言い方をすれば、豊田商事の場合は正常な判断力を失った老人を対象に行った詐欺行為だったが、公正取引委員会や横浜地裁川崎支部の裁判官すら見抜けなかったほどの巧妙な手口で利用者をだまし続けてきたという意味では豊田商事をはるかに上回る悪徳企業と言ってもいいだろう。

以上で私のパスモ社に対する告発を終える。長期にわたり私の告発をお読みいただいてきた読者諸氏に心からお礼申し上げる。
                                     小林紀興