小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

安保法制の真の目的は、自衛隊をアメリカの「忠犬ハチ公」にすることだった。

2015-08-31 08:50:00 | Weblog
「ペンは剣よりも強し」という格言がある。そうであってほしい、と私も思う。が、「既成事実の積み重ねはペンよりも重し」という冷たい現実に私たちは直面している。「憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使を可能にするための安保法制」の成立が今月中には確実になる。参院では過半数を占めていない自公与党政権だが、今月14日に参院での審議日数が60日を数える。与党は衆院特別委では強行採決したが、参院特別委ではおそらく強行採決を避けるだろう。法案は参院で60日以内に採決できなければ否決されたと見なし、衆院に差し戻して採決をやり直すことが国会の規則で決められている。それがいわゆる「60日ルール」と呼ばれているものだ。が、衆院で再採決したうえで3分の2の賛成が得られれば、安保法制は正式に国会で成立することになっている。
 かつてこの「60日ルール」によって法案を強行成立させようと考えた総理がいた。小泉純一郎氏だ。いわゆる郵政民営化法案で、衆院ではかろうじて通過したが、自民党内部から党議拘束に従わず反対に回った造反議員が多数出た。参院の与野党反対派議員は活気づき、郵政民営化法案の成立が危うくなった。このとき小泉元総理が大ばくちを打ったのが衆議院の解散(「郵政解散」)だった。党議拘束に従わなかった自民党議員を全員除名処分にしたうえで、彼らの選挙区に強力な対立候補者(「落下傘部隊」)を擁立して、一気に3分の2以上の郵政民営化賛成派議員を確保した。
 結局、小泉内閣は「60日ルール」を行使せずに民営化法案を成立させることが出来た。参院の反対派議員たちがいっせいに寝返ったからだ。
 が、今回は衆院の自公与党はすでに3分の2を超えており、ただひたすら参院での審議に真摯に応じた、という形だけを国民に見せればそれでいい。現に参院の維新が修正案を提出したとき、高村自民副総裁は「審議には応じるが、政府案との乖離が大きく妥協は難しい」とそっけなかった。が、維新分裂必至の状況になった途端「参院で法案を修正したとしても、修正案を衆院で審議して可決しなければならなくなるが、衆院の維新議員の動向が読めないので…」と一転、維新の出方によっては柔軟な姿勢に転じてもいいかのような発言をするようになった。法案成立のための事実上の総参謀長を自負する高村氏にとっては、維新の混乱はもっけの幸いとなったようだ。

 いずれにせよ、安保法制は間違いなく成立する。が、同時に全国8高裁で憲法学者や弁護士などから「違憲訴訟」が提訴されることも間違いない。
 安倍総理が集団的自衛権の行使を可能にするための私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(座長・柳井俊二元駐米大使)を再発足させたのは2013年2月8日である。「再発足」と書いたのは、安倍総理が病で退陣した第1次安倍内閣時に、この私的諮問機関を発足させていたからだ。
 が、2013年に再発足させたこの諮問機関の位置付けについてメディアの間に混乱が生じた。朝日新聞や毎日新聞が「私的諮問機関」と位置付けたのに対して読売新聞、産経新聞、NHKは「政府の有識者会議」と位置付けた(NHKは私の執拗な抗議により最終的には「安倍総理が設置した懇談会」と位置付けを変えたが)。
 NHKは多少表現を変えたが、読売新聞と産経新聞は最後まで安保法制懇の位置付けを変えなかった。変えない以上、誤報ではないと考えているようだ。だとすれば、第1次安倍内閣が設置した安保法制懇(メンバーは第2次法制懇と同じ)も「政府の有識者会議」でなければおかしいということになる。政府が設置した有識者会議であれば、安倍総理が病で総理を退いても後継内閣に課題は引き継がれなければならない。「政府の…」という以上、公的諮問機関になるからだ。メディアとはいかに論理的思考力に欠けたいい加減な存在であるかということを、とりあえず読者にご理解いただければ十分である。
 さて13年夏までにはまとめられる予定だった安保法制懇の報告書は、なぜか遅れに遅れた。遅れに遅れた理由の一つに、私が同年8月29日に投稿したブログ『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』を首相官邸に通知したからだ。その要旨を述べる(追記した個所もある)。

 国連憲章は1945年5月にドイツが無条件降伏した翌月、第2次世界大戦後の世界秩序の安定のために連合国が中心になって作られた。
 憲章の最大の目的は戦争のない平和な世界の構築にあった。従って国際紛争が生じても、武力行使によって紛争を解決することを、国連加盟国に原則として禁じることにした。ただし、この時点ではまだ日本は降伏しておらず、国連も発足していない。日本が無条件降伏したのは8月15日、国連憲章をベースにして国連が発足したのは戦後の10月24日である。
 憲章では、国際間の紛争が生じた場合、平和的な話し合いによる解決(当事国間、第三国の仲介、国連あるいは国際司法裁判所などへの提訴)を最優先することを加盟国に求めている。
 ただし、国連は国際連盟以上の非民主的な国際機関として作られた。国際紛争を国連の場で解決するに際し、加盟国全員の多数決によるのではなく、安保理に事実上の決定権を付与し、さらに戦勝国の米・英・仏・ソ(現ロ)・中の常任理事国に拒否権を付与してしまった。さらに先に述べたような話し合いによる平和的解決が不可能になった場合に備えて、憲章は安保理に対して紛争解決のための「あらゆる非軍事的措置」(外交関係の遮断=国際社会からの村八分的制裁=や経済制裁など)と、「あらゆる軍事的措置」(原爆投下も含む)を行使できる権能を付与することにした。この時点では、国連憲章は国連軍の創設を前提にしていたと考えられる。
 が、常任理事国の国益が完全に合致することは、まずありえない。そのため国連軍の創設はおろか、実際に国際紛争が生じても平和的に解決する機能を国連安保理は最初から持ち得なかった。そのことは当然予測されていたため、憲章は例外的に紛争当事国が武力によって国際紛争を解決することを認める条項を設けることにした。それが憲章51条である。憲章51条は紛争解決の手段として、加盟国に個別的自衛権と集団的自衛権の行使を固有の権利として認めた。憲章51条の全文を転記する。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この(個別的又は集団的)自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない」
 国連憲章において「集団的自衛権」という言葉はこの51条以外には1カ所も記載されていない。従って集団的自衛権の行使とは何を意味するか、を論じる場合、この51条での規定を前提にしない解釈は不可能なはずである。
 が、東西冷戦下において米ソ両大国は、自国の国益のために「集団的自衛権行使」の権利をかってに拡大解釈してきた。たとえばハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱(プラハの春)、ベトナム戦争などが典型的な例である。これらはいずれも国内の政治的主導権を争った内乱であり、外国からの侵略を受けたケースは一つもない。ハンガリー動乱やプラハの春の場合は、共産党独裁政権に対して自由を求めた民衆の反乱に危機感を抱いた共産党政府がソ連に氾濫弾圧のために軍事支援を求めたケースであり、ベトナム戦争はベトナムの政治支配を巡って親米の南ベトナム政権が北ベトナムの共産軍(ベトコン)との内乱で、アメリカに軍事支援を要請したケースである。いずれも憲章51条が想定した自衛権行使の条件である「国連加盟国に対して(他国から)武力攻撃が発生した場合」ではない。
 憲章51条を素直に読めば、他国から武力攻撃が生じた場合、自国の軍事力で防衛したり(「個別的自衛権」の行使)、自国の軍事力だけでは対抗できないと判断した場合、友好的あるいは密接な関係にある国に軍事的支援を要請して共同で防衛すること(「集団的自衛権」の行使)を国連加盟国に「自衛のための固有の権利」として認めていることは、中学生にも理解できる文脈だろう。
 そういうふうに「集団的自衛権行使」の意味を解釈すれば(それ以外の解釈のしようがないはずだ)、日本はすでに日米安全保障条約によって、日本が他国から攻撃された場合、自衛隊の軍事力で防衛する(個別的自衛権の行使)だけでなく、アメリカに軍事的支援を要請できる権利(集団的自衛権の行使)をすでに保有していることになる。

 だから私はこのブログの冒頭で「ペンは剣より強し」という格言があるが、「既成事実の積み重ねはペンより重し」と書いたのだ。つまり米ソ両大国による「集団的自衛権行使」の既成事実の積み重ねに日本政府もメディアも振り回されてきた。安保法制に反対の朝日新聞も、米ソ両大国による既成事実の積み重ねを前提に、こう解説している(朝日新聞『ニュースがわからん』より)。
「集団的自衛権は密接な関係にある他国が攻められたとき、自国が攻撃されたと見なして反撃する権利だ。国連憲章は加盟国に自分を守る個別的自衛権とセットで認めている」
 これは従来の政府見解(内閣法制局による)を丸写しした解説でしかない。中学生並みの読解力しか持っていない記者が解説記事を書くと、こういうデタラメな文章になるという格好のお手本だ。
 かつて日米貿易摩擦が生じた1980年代半ば、アメリカでは猛烈な「ジャパンバッシングの嵐」が吹き荒れた。当時のアメリカ自動車産業の聖地だったデトロイトでは、日本車の輸入増加によって職を失った米自動車メーカーの元従業員たちが日本車をハンマーで叩き潰したり、ひっくり返して火をつけたりする光景をニュースでしばしば見た。そのころの米メディアの対日批判の論調は「安保タダ乗り」論が主流だった。
 最近メディアが米国内の対日感情についてあまり報道しないので、当時の「安保タダ乗り」論は消えたのかと思っていたが、そうではないことをつい最近知った。ある集会で、講演者が「日米安保条約の下では、アメリカは日本を守る義務があるのに、日本にはアメリカを守る義務がない。これはフェアな関係と言えるか」と参加者に質問したところ、全員が総立ちになって「アンフェだ」と叫んだというのだ。アメリカ政府も、自国のために日本がどれだけ犠牲を払ってくれているのか、とくに沖縄県民が払っている犠牲の大きさについて説明していないし、日本政府も日米軍事関係の実態についてアメリカ国民に事実を知ってもらう努力もしていなければ、韓国のようなロビー活動もほとんどしていないようだ。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいのかもしれないが、その結果どれだけ日本が国益を失っているかを考えてほしい。
 私はこれまでも何度もブログで書いてきたように、一国平和主義者でもなければ「平和憲法が日本の平和を守ってきた」などと信じている空想家でもない。むしろ憲法を改正して、日本が国際社会に占めている現在の地位にふさわしい国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全に貢献できるような「新しい国づくり」に取り組むべきだと考えている。
 が、その「新しい国づくり」は安倍総理が目指しているようなアメリカとの「新しい軍事同盟関係づくり」とはまったく違う。
 もちろん日本にとってアメリカが大切な友好国であることは認めるが、安保法制によって日本がアメリカと対等な関係になるかと言えば、絶対にならない。谷垣幹事長が6月20日の講演会でつい本音を漏らしたように「アメリカは、かつてほど世界のどこにでも目を光らせているという状況ではなくなってきており、(日本は)それを補わなくてはならない」というのが安保法制の真の狙いなのだ。つまり、自衛隊をアメリカの「忠犬ハチ公」にすることが安保法制の目的である。だから野党の追及に対し、安倍総理も中谷防衛相もしばしばしどろもどろでちぐはぐな答弁に終始せざるを得なくなってしまう。
 政府によれば、集団的自衛権行使は「日本の存立危機事態」が前提になるという。では日本の存立危機事態とはどういうケースかとなると、途端に説明がおかしくなる。当初、安倍総理は「有事の際に救出した日本人を乗せた米艦船の防衛」と、かなり限定した事態を想定していたが、8月26日には中谷防衛相が「邦人の乗船は絶対的な条件ではない」と武力行使の範囲を一気に拡大した。結局、存立危機事態とはどういう事態なのかを野党からしつこく追及されると、「そういう事態が生じたときの政府の判断だ」と逃げるしかなかった。
 政府に代わって私が教えてあげよう。
「日本にとって存立危機事態とは、アメリカから自衛隊の出動を要請されたときです」
 安倍総理に言わせれば、アメリカの要請を断った瞬間日米同盟は崩壊するのだから、アメリカの要請が自衛隊出動の絶対必要条件になり、アメリカの要請を断れば即日本の存立危機事態が生じる。
 だが、仮に自衛艦や自衛機が尖閣諸島周辺で中国艦船や中国機と偶発的に衝突するような事態が発生しても、アメリカは絶対に手を出さない。アメリカの日米安全保障条約に基づく日本防衛義務にしても、アメリカの国益に反してまでは絶対にやらない。
 実は安倍総理もそのことが分かっているから、「集団的自衛権の行使」によって日米軍事同盟を強化することが、日本にとって抑止力を高めることになると強調しているのである。その限りにおいては、安倍総理の考えはあながち間違っているとは言わない。だが、安保法制も法律として成立させただけでは、アメリカにとって日本が運命共同体になることが保証されたわけではないことは分かりきった話だ。
 私自身は、日本が国際社会に占めている地位にふさわしい国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全に貢献するには、現行憲法を改正してアジア太平洋諸国との集団安全保障体制の構築に全力を注ぐべきだと考えているが、安倍総理のようにアメリカとの軍事同盟の強化だけに抑止力を求めるのであれば、いっそのことアメリカの主要都市(ワシントンDC、ニューヨーク市、ロサンゼルス市など)の近郊に自衛隊基地を設置し(もちろん地位協定は不可欠だ)、もしアメリカが他国から攻撃されたら自衛隊が直ちに反撃に出る体制にすればよい。そこまで日本がアメリカのためにも血を流す姿勢を見せれば、日本の抑止力は飛躍的に高まる。米国内のインテリ層にいまだに根強い日本に対する「安保タダ乗り」論も雲散霧消する。
 アメリカを攻撃しようという国などないから、これほど安全で、かつ抑止力効果を高める方法はない。もっともアメリカが、この提案に「ウン」と言えばの話だが…。

 

戦後70年『安倍談話』を改めて検証する。

2015-08-24 08:09:51 | Weblog
 歴史をフェアに検証することのむずかしさを、つくづく感じた。もちろん、8月14日午後6時から記者会見で公表された安倍総理の『戦後70年談話』(以降、安倍談話と記す)についてである。
 そもそも20年前の村山談話、10年前の小泉談話は第2次世界大戦(いわゆる「先の大戦」)における日本政府の国策が誤りであったこと、またアジア諸国とそれらの国民に多大な犠牲をもたらしたことを謝罪することが目的だった。
 実際、関東軍の謀略であることがいまでは明確に証明されている満州事変(南満州鉄道爆破事件=1931年9月18日)を口実に、日本政府が事実上の対中攻撃を開始し、関東軍がわずか5か月で満州全土を占領するという紛れもない侵略行為を行ったことは否定できない歴史上の事実である。本格的な日中戦争の開始は1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件とされているが、安倍談話の「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」という件にある「事変」とは関東軍が大陸への進出のきっかけとした満州事変を指していることは明らかである。
 ただし安倍談話が村山談話、小泉談話と大きく異なる一点は、単に先の大戦における日本政府の国策の誤りによる「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」という四つのキーワードを盛り込んだというだけでなく、なぜ日本が国策を誤るに至ったのかという歴史認識の原点を「先の大戦」ではなく、私が昨年から使い出した「先の不幸な時代」に置いたことにある。その結果、安倍談話にも盛り込まれた「反省」や「お詫び」が自身の言葉として語られず、「歴代内閣の継承」という「間接」的な表現にとどまったという批判が生じた。が、それは、歴史認識の原点を安倍総理が「先の大戦」に置かず、いわゆる「植民地時代」にさかのぼったことによるためであり、そういう意味では安倍談話の歴史認識における新たな試みは、私としては共感するものがある。ただその新たな試みがフェアなものだったかどうかは別であり、私の安倍談話検証の視点もその一点に絞ることにする。
 ただお断りしておかなければならないことは、このブログでは全国紙5紙の社説の検証を通じて安倍談話の読み方を書く予定だったが(そのことは8月10日のブログで読者にお約束していた)、夏休みをいただいた間に軽度の熱中症にかかり、入院するほどではなかったが医師から自宅休養を命じられ、17日に投稿する予定だったブログでの全国紙の社説検証は今となっては賞味期限切れになってしまったので、今回の私自身の安倍談話検証をもって当初の目的に変えさせていただくことにする。

 安倍談話は冒頭でこう述べている。
「100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術的優位(※この表記は外交的配慮によると考えられるが、実際は「圧倒的な軍事力」と表記するのが正しい)を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力になったことは、間違いありません。(日本は)アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました」
 この日本近代化についての歴史認識には大きな誤りがある。日本が僥倖だったのは、日本が置かれていた地勢的条件によるところが大きい。日本はアジアの東端に位置し、かつ四方を海に囲まれ、ヨーロッパ列強が日本での利権争いを始めたときは、すでにアジア諸国は「早いうもの勝ち」で列強による分割支配が終わっており(アフリカ諸国も同様)、しかもヨーロッパ列強がアジア諸国の分割植民地支配が終わったころになって、遅れてアメリカが対日利権獲得競争に乗り出し、いわば米欧列強(ロシアも含む)が横一線に並んでしまい、互いに牽制をし合う事態になったことが日本にとっては植民地化されずに済んだ最大の要因だった。日本が自主的に立憲政治に移行し、独立を守り抜いたわけではない。ご都合主義的な歴史解釈は止めた方がいい。
 実際、日本がかつて一度も他国による侵略攻撃を受けず(元寇による侵略の試みはあったが、そのときだけである)、他国からの干渉も受けず、徳川幕府が鎖国制度を貫き通せたのも、そうした日本の地勢的条件による。
 それでも列強は日本の内乱(幕府勢力vs反幕府勢力)に乗じて、日本の植民地支配は諦めたものの、内乱収拾後の新政権への影響力を強めるための様々な画策を行っていた。実際、列強のうち1か国でも「一抜けた」と攻撃してきたときに、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜く」だけの国力は、当時の日本にはなかった。自国の歴史に誇りを持つことは決して悪いことではないが、幕末時の日本が独力で列強の植民地支配政策を排除したなどと考えるのは自画自賛もいいところだ。
 実際、この視点で幕末史を分析した歴史家は皆無だと思うが、実は「一抜けた」で1,853年6月にペリー提督率いる米艦隊が浦賀に強行入港し、幕府に和親条約の締結を強要し、幕府がアメリカの要求に屈服したことで鎖国体制が崩壊し、その事件をきっかけに日本国内に尊王攘夷運動が燎原の火のごとく燃え広がり明治維新の原動力になったのだが、この時アメリカがヨーロッパ列強と戦火を交えても対日利権の独占を確保しようとしていたら(それだけの力が当時のアメリカにはなかったと思うが)、日本の近代史はまったく様相を変えていたはずだ。また、幕府がアメリカに続いて他の列強とも通商条約を結ぶのだが、日本にとって一方的な不平等条約を押し付けられていなかったら、日本の近代化への歩みは相当遅くなっていたと考えるのが合理的だ。
 私はかつて『忠臣蔵と西部劇』(1992年、祥伝社から上梓)の中で「石油ショックは日本産業界にとって神風だった」と分析したが、その理由は石油ショ
ックによって世界の先進国の中で日本が最も打撃を受けた国だったからこそ、日本は産業界を挙げて「省エネ省力」の技術開発に取り組み、日本ほどの危機感を持たなかったアメリカを一気に追い抜いて世界の技術大国になりえたという事実もある。明治維新以降の日本が、「富国強兵・殖産興業」を旗印に急速に近代化を進めることができたのは、列強との不平等条約がかえって神風になったためなのである。「ピンチの後にチャンスが来る」というのは、スポーツの世界だけではないのである。ただピンチの後にチャンスが自動的にやってくるわけではなく、日本がピンチに屈することなく、その危機感を逆に飛躍へのきっかけにしてきたことへの誇りを、私たち日本人は持ってもいいだろうとは思う。

 安倍談話に戻る。安倍談話にある「日露戦争は、植民地支配にあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」も結果解釈にすぎない。確かにそういう要素がまったくなかったとまでは言わないが、そもそもなぜ日本が世界の大国ロシアを相手に勝利できたのか、冷静に検証しなければならない。
 そもそも韓国は日本が日清戦争のどさくさに紛れて朝鮮を植民地化(日韓併合)したと主張しているが、これは明らかに歴史のねつ造である。
 日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌95年4月17日に講和条約を結んでいる。日本はこの勝利により清国から遼東半島割譲などの権益を得たが、英露仏の三国干渉により返還を余儀なくされている。一方清国の属国だった大韓帝国は清からの独立を果たしたが、その結果、清に代わって日本とロシアが朝鮮の権益をめぐって対立する。これが日露戦争の原因となった。日本には英米がつき、ロシアには仏独がつく、いわば第ゼロ次世界大戦と言えなくもない。肝心の大韓帝国も国内が二分し、親日派と親ロ派が対立した。清は露側につく密約を交わしていたが、1902年に日英同盟が成立し、日本がロシアだけでなく二国以上と戦争状態になったときは英が参戦することを約したため、清も仏独もロシアへの戦争協力ができなくなった。第ゼロ次世界大戦が回避できたのはそのためだ。
 正直言って日本が日露戦争で勝ったのは奇跡と言ってもよかった。アメリカによる仲介でロシアが折れなかったら、最終的には日本は敗戦に追い込まれていただろう。ロシアがアメリカの仲介に飛びついたのは、当時国内で燃え広がっていた共産主義革命運動に手を焼いていたからであった。実際日露戦争は1904年2月6日に始まり、翌05年9月5日に集結しているが、ロシア国内では日露戦争をきっかけに革命運動が各地で勃発し、05年6月には有名なロシア戦艦ポチョムキン号の反乱も生じている。日露戦争は、日本が勝ったというよ
り、ロシアが勝手に転んでくれたおかげと言っても過言ではない。なお日韓併
合が実現したのは、さらにその5年後の1910年8月29日であり、1914年7月28日には第一次世界大戦が勃発した。朝鮮の植民地化(日韓併合)は、はっきり言って「先の大戦」とは何の関係もない。

 安倍談話には、そうした歴史認識の誤りはあるにせよ、村山談話や小泉談話
には触れられていなかった、「なぜ日本が国策を誤るに至ったのか」という問題
提起をしたことは評価されるべきであると私は考える。安倍談話にはこうある。
「世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は『平和』を強く願い、国際連盟を創設
し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮
流が生まれました。
 当初は日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムはその歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失って行きました」
 それはその通りだが、なぜ当時の日本の「国内の政治システムはその歯止めたりえなく」なってしまったのか。そして今の政治システムは、そうした事態が生じたときの歯止めができる健全な機能を確保できるようになっているのか。そのことについて、私は深い危惧を抱かざるを得ない。
 安倍談話が模索されていた時期の今年6月25日、自民党本部の会議室で安倍総裁に近い若手議員ら37人が集まり、『文化芸術懇談会』なる「勉強会」を開いた。官邸からは加藤勝信官房副長官が出席し、総理と親しい作家の百田尚樹氏が招かれたという。
 この「勉強会」で、百田氏は「沖縄の地元紙は潰すべきだ」と主張し、多くの参加者が賛同したという。あまつさえ出席議員から「広告を出す企業やテレビ番組のスポンサーに働きかけて、メディア規制をすべきだ」「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけて欲しい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」などという意見も出たという。
 安倍総理は談話で「外交的、経済的行き詰まりを、力の行使によって解決しようという試み」に対して「国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」と述べている。
 6月下旬と言えば、公明党の支持母体である創価学会員が安保法制への反対姿
勢を強めたり、普天間基地の移設問題をめぐって沖縄県民が国の方針に対して強固な反対姿勢を鮮明にし、あまつさえ東京オリンピック競技施設計画のずさんさが明るみに出て、あらゆるメディアの世論調査で内閣支持率が急落し始めた時期だ。そうした時期に、安倍総裁の足元から民主主義の根幹である「報道の自由、言論の自由」を力によって封殺しようという動きが表面化したのである。安倍総裁は、この「勉強会」に参加して、力で民主主義をねじ伏せようとした若手自民党議員や加藤官房副長官を党からの除名処分にしようともせず、ただ「今後はいい子にしていなさい」と優しくお叱りになっただけだった。
 もちろん国会議員は有権者から選挙で選ばれた地位が保証されており、彼らの政治生命を奪うことができるのは、次の選挙における地元の有権者だけだ。が、こうした自民党議員の党籍を除することは、党の最高責任者である安倍総裁の責任であり、義務でもある。総裁としての、この重要な責任と義務を放棄していながら、「国内の政治システムは(先の大戦に対する)歯止めたりえなかった」とは、いくら何でもしらじらしすぎるのではないか。これを言い換えれば、「もはや自民党の党内システムは、民主主義の破壊活動に対する歯止めたりえなくなった」として、自民党を解党したほうがいいのではないか。歴史から学ぶということは、それだけの重みを持っているはずなのだが…。

 安倍談話には村山談話より多くの文字を割いて日本国民への追悼の念も盛り込まれた。その部分は多少評価できなくもないのだが、安倍談話が私には他人事のように聞こえてならない。
 村山談話には「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機の陥れ」とある。
 一方安倍談話はこう述べている。
「先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、極寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました」
 社説については検証しないと書いたが、先の大戦における日本国民の犠牲者への思いは、二つの談話には隔絶の差があり、その差異を指摘した社説は一つもなかった。確かに安倍談話には、この文に先立ち「戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます」とはある。だが、この一文にも、何かよそよそしさを感じるのは私だけだろうか。
 村山談話は短いながら「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機の陥れ」と国策の誤りが国民を存亡の危機に陥れたことを率直に指摘しているが、安倍談話はただの歴史家のように、「命が失われました」「無残にも犠牲となりました」と、単に事実を述べているにすぎない。三百万余の民間人も含む、世界戦争史上空前の犠牲者を生んだのは、だれか。国策を誤った当時の政府であり、誤った国策を賛美し続けたメディアではなかったか。そのことへの痛切な悔悟の念が、安倍談話にはひとかけらも感じられない。
 村山元総理は、談話を発表した年の8月15日に、特別の意味を込めて靖国神
社に行っていただきたかった。もちろん「今日の日本があるのはあなたたちのおかげです」などと感謝の念を捧げるためではなく、「国策の誤りによって、あたら将来のある若い人たちを無意味な戦場で無駄死にさせたことに深い謝罪」を示すためだ。A級戦犯が合祀されていようがいまいが、そんなことは関係ない。自分がどういう気持ちで靖国に行くかが問われている。国策の誤りによって無駄死にした若人への謝罪をした後、合祀されたA級戦犯に対しては神殿に向かってつばを吐きかければいいだけの話だ。それが戦死者に対する謝罪と、A級戦犯を合祀した靖国神社への抗議の現し方ではないだろうか。そういう信念を持って靖国へ行くのであれば、政治家の靖国参拝は政治問題化しない。
 もちろん政治家だけではない。誤った国策を賛美したメディアが、敗戦と同時に自分たちが生き残るために主張を180度転換した責任をとるためにも、メディアの幹部は8月15日に靖国に謝罪のために行くべきだ。「靖国に行く」という行為が、そういう形になれば遺族の方たちも納得するだろうし、中韓も歓迎してくれるはずだ。
 もっとはっきり言えば、戦後の日本経済の復興と繁栄を担ってきたのは、「靖国参拝」をする政治家たちが口をそろえて言うように、国策の誤りによって無駄死にさせられた戦死者たちではない。幸いにして無駄死にから免れて戦後も生き残った明治後半から大正、そして昭和半ばまでに生まれた人たちだ。かく言う私たち世代も、捕虜生活から帰還した父親も含め、生き残ることができた戦争被害者たちが、必死になって働き、日本経済をけん引してきたことが今日の日本を築いてきたはずだ。戦死者たちが、日本の戦後経済の復興を担ってきたわけではない。戦死者たちには謝罪はすべきだとは思うが、感謝する筋合いではない。「靖国参拝」をする政治家たちは、戦死者のおかげで自分たちがぜいたくな生活ができるようになったと本当に思っているのか。アホも、いい加減にしろと言いたい。

 ただ安倍談話の中には共感できる個所もある。その一文がこれだ。
「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人一人に、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」
 この一文だけで終えていればよかった。が、安倍総理が本当にそう思うなら、総理自身が靖国神社の神殿の前の砂利道でひざまずき、深く戦死者に対して断腸の念を伝えるべきだろう。が、安倍総理はこの一文の後にこう続けた。
「これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります」
 あくまで私は論理的に考察する。もし本当に「尊い犠牲の上に、現在の平和
がある」のであれば、先の大戦における国策は誤っていなかったことになる。戦争犠牲者のおかげで現在の平和があるのであれば、日本はいっさいの軍事力を必要としない。ただひたすら戦争犠牲者の魂を慰めるための追悼行事を年中行っていれば、日本の平和は保たれるはずだ。こんなレトリックは屁理屈にもならない。さらに安倍総理はこう続ける。
「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から決別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念とともに、我が国は、そう誓いました(以下略)」
 もしそうなら、自衛隊など必要ないではないか(※誤解を招くといけないので強調しておくが、私は自衛のための戦力の保持を否定しているわけではない。むしろ憲法を改正して、国際社会とりわけアジア太平洋地域の平和と安全のために、日本が国際社会のなかで占めている地位にふさわしい貢献をすべきだとさえ考えている)。はっきり言って安倍談話は、その内容の論理的整合性において高校生以下のレベルでしかないことを明らかにしたまでだ。

 最後に安倍談話の中核をなすとも言える、問題の一文について検証してみたい。安倍談話にはこうある。
「日本では、戦後生まれの世代が、いまや、人口の8割を超えています。あの戦争には何らかかわりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
 論理的には、この主張は間違っていない。「私たちの子や孫」だけではなく、安倍総理自身が戦後の生まれだ。先の大戦について何ら責任を負うべき世代ではない。20歳で終戦を迎えた方たちも、現在90歳になる。赤紙1枚で戦場に駆り出された旧日本兵士も、先の大戦についての責任を負うべき立場にはない。先の大戦における何らかの責任を負うべき年代と言えば、終戦時には若くても
40代半ばになっていたはずだ。つまり現在は110代半ばの生存者ということに
なる。少なくとも国際法上においても、先の大戦における国策の誤りについて責任を負うべき日本人はおそらく現存していない。
 が、それぞれの国の国民の心の底には、遺伝子的に過去のしいたげられた民族の怒りが継承されている。韓国の朴大統領にしても中国の習近平主席にしても、戦後の生まれであり、先の大戦の直接の被害者ではない。さらに言えば、韓国においても中国においても先の大戦における直接の被害者で現存している方はきわめて少なくなっている。にもかかわらず、韓国や中国の国民の多くに、先の大戦の被害者が受けた傷が国民共通の遺伝子として引き継がれていることに、なぜ安倍総理は心を致すことが出来ないのか。
 他国の人の気持ちまでは分からないというのであれば、日本で広島・長崎での原爆被害者で現在も生存している方は毎年減少している。にもかかわらず、原爆被害者が受けた心身の傷は、日本人共通の遺伝子として若い人たちにも引き継がれている。
 先の大戦における責任ある加害者の立場にあった人たちは、おそらく誰一人として現存していないだろう。にもかかわらず、政治はつねに過去に国が犯した誤りに正面から向かい合うことが求められる。直接の戦争責任がない世代が、被害国の方たちがいつまでも抱き続ける憎しみを解消するのは、現代の政治の責任である。どうしたら被害国の国民感情から「憎しみの遺伝子」が自然消滅するかは、被害国の国民感情に政治がどう誠意を持って向き合うかにかかっている。いまの安倍内閣の政策、とりわけ安全保障政策はかえって被害国の国民感情を逆なでしているようにしか思えない。
 かつて現行憲法を制定した吉田総理は、憲法改正議論を行った通常国会(1946年)において自衛権をも否定した。「戦争には侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなく、侵略戦争放棄とすべきだ」と批判した野坂議員(共産党)に対しては、「国家正当防衛のための戦争は正当なりとせられるようであるが、そのような考え方は有害である。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実だ」(6月28日)と答弁している。
 現在安倍内閣が強行しようとしている安保法制は、「抑止力を高めることによって戦争のリスクを低めることが出来る」と説明されているが、中国や韓国はそう考えていない。近隣の国、とりわけ先の大戦における被害感情を持ち続けている国にとっては、「日本の軍国主義復活」に見える。安倍総理が軍国主義の復活をもくろんでいるとは私も思わないが、近隣の国々からそういう危惧を持たれるような安保法制を強行する以上、私たちの子孫は安倍総理がのこすかもしれない「負の遺産」をいつまでも負い続けざるを得ない。
 先の大戦において日本が侵略したアジアの国々が、すべて安保法制について「日本の軍国主義復活」を危惧しているわけではない。が、そういう危惧を抱いている国が、特に近隣にある以上、そうした国々の危惧を解消するためのあらゆる手段を尽くしたうえで、法制化を図るべきではないだろうか。

 今回のブログも長くなってしまった。とりあえず安倍談話の問題点についての私の検証作業はこれで終える。来週は安保法制が、だれもまだ指摘していない、とんでもない問題を抱えていることを明らかにする。

 
 
 
 

「永遠のサユリスト」が考えた、これしかない「核廃絶の方法」を提案する。

2015-08-03 07:30:44 | Weblog
「永遠のサユリスト」を自負する私だが、残念ながら吉永氏との面会の機会にまだ恵まれていない。むしろ私が勝手に作り上げた私自身の「サユリスト・イメージ」を抱いたまま、永遠に合わないほうがいいのかもしれない。
 吉永氏は1945年3月13日の生まれ。日本が終戦を迎える5か月ほど前に生まれた。戦後70年を迎える今年、吉永氏もすでに古希を迎えた。
 その吉永氏がボランティアで原爆詩の朗読会を各地で始めるようになったのは1986年から。今週で30回目を迎えることになる。私たち日本人の心に深くしみとおるような朗読だ。
 原爆の唯一の被害国である日本は、世界に向かって原子兵器の廃絶を求める権利と義務がある。日本政府は、全国民の悲願を実現するためにどうしたらいいか。そのための提案が今回のブログの主題である。結論から書く。

日本は「核不拡散条約」への加盟を取消し、条約そのものの欺瞞性・独善性を世界に向かって発信せよ。

 読者にその理由を理解していただくには、原爆投下の歴史をポツダム宣言の作成過程にまでさかのぼって検証する必要がある。
 ポツダム宣言はナチス・ドイツが無条件降伏した約2か月後の1945年7月17日から8月2日にかけて、米英ソの3首脳がベルリン郊外のポツダムに集まり、まだ抵抗を続けていた日本軍をどうやって降伏させ、世界秩序を回復するかを話し合った結果として作成された。ポツダム宣言作成に携わった3首脳とは米トルーマン大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン共産党書記長である。宣言文の大部分は米政府が作成し、イギリスが若干の修正を行ったが、スターリンはほとんど関与していない。
 こうして作成されたポツダム宣言は7月26日、米トルーマン大統領、英チャーチル首相、中国・蒋介石国民政府主席の共同声明として日本側に突き付けられた。他の連合国首脳は宣言に関与していず、スターリンは日ソ中立条約がまだ有効だったので署名していない。このポツダム会議でトルーマンはスターリンに「日ソ中立条約の破棄・対日宣戦布告」を強く要請したが、当時ソ連軍の大半は東欧にくぎ付けになっており、シベリア方面に大軍を移動できる余裕がなかったため、スターリンは宣言への署名を拒否したと考えられる。
 これに先立ち、日本政府は7月10日、戦争最高指導会議を開き、戦争終結のあっせんをソ連に依頼することを決定、13日には近衛文麿元総理をソ連に派遣してスターリンと交渉させたが、交渉をずるずる引き伸ばしたうえで18日になってスターリンが日本政府の要請を拒否した。
 さてポツダム宣言は「日本への無条件降伏」を求めた最後通告として知られ
ているが、それほど単純なものではなかった。ポツダム宣言の現代語訳(全文)をウィキペディアから転載する。

1.我々(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意をすでに整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続きうけるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文に示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れえないからである。
7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、また日本国の主権は本州、北海道、九州、四国並びに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活できる機会を与えられる。
10.我々の意思は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍(※障害と同義)は排除するべきであり、言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有できる。また将来的には国際貿易に復帰が許される。
12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立
を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤
退するべきである。
13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障(※「保証」が正しい)することを求める。これ以外の選択肢は迅速かつ完全なる壊滅があるのみである。

 このポツダム宣言には、日本政府で危惧された「国体の維持」についての文言はいっさい記載されていない。おそらく米英ソ3国首脳での会議でも結論が出せなかったのではないかと思われる。また当時の日本政府が考えていた「国体の維持」が天皇制の維持を意味していたのか、天皇家の存続を意味していたのか、その辺も不明である。が、「国体の維持」がポツダム宣言では保証されていないことを理由に日本政府はポツダム宣言の受諾を拒否したことだけは疑いのない事実である。
 日本政府は一応満州国国境に関東軍を配備してはいたが、東欧にくぎ付けになっていたソ連軍が短時間で反転してくるとは考えていなかったようだ。だが、近衛代表がスターリンと戦争終結のあっせん工作を行っていた7月中旬ころには、ソ連軍はひそかにシベリア方面に大軍を移動させつつあったと考えられる。またアメリカの前大統領のルーズベルトが1945年2月のヤルタ会談で、スターリンに対して対日参戦を促す代償として南樺太、千島列島、満州における権益の譲渡を保証している。おそらく、ソ連軍が東欧から引き上げたのちも、ソ連の東欧における権益も、ルーズベルトは保証していたのではないか。
 ナチス・ドイツが連合国に無条件降伏したのは45年5月7日であり、ソ連軍も対独戦で相当な痛手を被っていたはずだから、容易には二方面作戦を行える状況にはなかった。が、米軍が主体の連合国軍は44年6月のノルマンディ作戦で大勝利を収めており、8月には仏パリの開放にも成功、東欧諸国は次々に共産勢力が権力を奪取し、ナチス・ドイツはすでに瀕死の状態に陥っていた。そういうヨーロッパ戦線の状況下で、ルーズベルトは早期に日本軍を壊滅させることに躍起になっていたのかもしれない。ルーズベルトがヤルタ会談当時重病で、正常な判断力を失っていたという説も有力である。
 実際ルーズベルトはこの年(44年)4月に死去しており、その跡を継いだのが副大統領のトルーマンであったが、トルーマンは外交分野の経験がなく、対日戦争作戦は事実上ルーズベルトの側近が仕切っていたようだ。
 ドイツ降伏後の戦後処理についても、おそらくルーズベルトはドイツの東西分割をスターリンに約束していただろうし、東欧諸国の共産化も容認していたのだろう。スターリンが東欧にくぎ付けになっていたソ連軍の相当に強力な部隊を、シベリア方面に安心して移動させることができる条件はこうして整ったと考えるのが論理的である。

 が、アメリカにとって対日戦争作戦が思わぬ結果を生んだのは沖縄上陸だっ
た。42年6月のミッドウェー海戦で大勝利を得た米軍は、その後、連戦連勝を続け、日本軍が支配していた南太平洋の諸島を次々に奪還、日本軍は後退に次ぐ後退を余儀なくされていた。米軍総司令官マッカーサーも、沖縄上陸作戦は容易に成功すると考えていたようだ。
 実は沖縄に配備されていた日本軍の3分の1は、台湾防衛のために割かれていた。にもかかわらず、沖縄の日本軍守備隊はすさまじい抵抗を示した。守備隊の戦力だけでは到底勝ち目がないため、沖縄県民を総動員して沖縄防衛の任につかせた。「戦って死ぬか。それとも自殺するか」と沖縄県の民間人を戦争に駆り出したのだ。女子学生まで駆り出され「ひめゆり部隊」と呼ばれた。
 米軍が沖縄本島の上陸作戦を開始したのは45年4月1日、日本軍守備隊が全滅したのが6月23日。死者は日米合わせて19万人に達するという世界の戦争史で、おそらく最大の犠牲者を出した戦場になった。
 アメリカは急きょ、対日戦争作戦を見直すことにした。沖縄戦終結後は本土上陸作戦を考えていたのだが、本土上陸作戦を敢行すれば沖縄戦以上の膨大な犠牲者を出すことが必至であった。そのため本土上陸作戦を諦め、以降は空爆作戦に切り替えることにした。東京をはじめとする大都市だけでなく、軍需産業のかけらすらない地方まで見境なしの空爆作戦を行うことにした。原爆を含め、空爆による民間人犠牲者は、これまた世界の戦争史上空前の数にのぼった。
 東京大空襲だけでも民間人の犠牲は10万を超えたのだから、日本にはもはや戦争を継続できるだけの戦力さえなかった。なのにアメリカは広島と長崎に原爆を投下した。この行為は何のためだったのか。その意味を考えてみる。
 アメリカは今でも「戦争の早期終結のため」「これ以上米軍兵士の犠牲を出さないため」と、原爆投下を正当化しているが、そんな理由は論理的に成立しえないことを明らかにする。
 まず、アメリカは本土上陸作戦を止めていた。日本への攻撃は空爆に絞っていた。上陸作戦を止めた以上、本土攻撃で米軍兵士の犠牲はほとんど出ないことになる。B29を迎え撃つべき日本の戦闘機はもはやゼロだった。特攻隊はB29に体当たりするためではなく、米艦船に体当たりして撃沈することが目的であり、実際アメリカは本土攻撃作戦での戦死者を公表もしていない。公表したら「これ以上米軍兵士の犠牲を出さないため」という口実のウソが明らかになってしまうからだ。
 しかし「戦争を早期に集結させる」必要性は、間違いなくあった。ソ連が対日戦争に踏み切ったからだ。
 ドイツの東西分割と東欧の共産化にアメリカがお墨付きを与えたため、スタ
ーリンは東欧方面に配備していたソ連軍のかなりをシベリア方面に密かに移動させつつあった。ノー天気な日本政府はそうした状況すら知らずに、近衛代表をソ連に派遣してスターリンに戦争終結のあっせんを頼むというバカげた行動に出ている。実際近衛代表がスターリンにあっせんを依頼したのが7月13日。スターリンが拒否したのは18日。この間の5日間は日本側に一縷の望みを持たせつつ、ソ連軍の密かな大挙移動のための時間稼ぎのためと考えるのが合理的である。ルーズベルトがスターリンに約束した対日参戦の代償である南樺太・千島列島・満州の権益を確実なものにするためには、ソ連軍の対日参戦体制が整うまでは日本に無意味な抵抗を続けてもらわなければならなかったからだ。
 が、トルーマンはそうしたスターリンの対日戦略が目に見えるように分かっていた。ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告をする前に、日本を何が何でも降伏させなければならなかったのだ。それが8月6日の広島への原爆投下のホントウの理由である。
 焦ったのはスターリンだった。アメリカはまだ空爆作戦を続行するだろう、そして日本は竹槍でB29を撃墜するというバカげた試みに必死になっているだろうと思っていたのだが、アメリカが原爆投下に踏み切ったことで、急きょ、8日に日ソ中立条約の破棄と対日宣戦布告を行い、満州国境の関東軍守備隊への攻撃を開始したのだ。それであわてたのが今度はアメリカだ。日本がソ連の侵攻を受けて共産化してしまうと元も子もなくなることを恐れた。
 アメリカにとっては、ソ連軍の日本侵攻を防ぐためには、一日も早く日本にポツダム宣言を受諾させる必要が生じた。それがソ連の対日宣戦布告の翌9日に長崎への原爆投下に踏み切った最大の理由である。
 それでも日本の軍部はしぶとかった。正常な判断力などとっくに失ってはいたが、最後の抵抗に出る。
 実は9日に急きょ、日本政府は御前会議を開いて翌10日の午前2時半、国体維持を条件とするポツダム宣言受諾を決定した。そして直ちにその旨を連合国へ伝え、海外放送で条件付きの受諾申し入れを放送した。ただし、国内では極秘扱いとされた。
 その期に及んでも、メディアは軍部に忠実だった。翌11日の新聞各紙は、1面トップで下村情報局総裁の国体維持談話と阿南陸曹の断固抗戦訓辞を並べて掲載したのである。14日になり、ようやく政府は軍部を抑えてポツダム宣言受諾を御前会議で決定、翌15日正午の玉音放送で天皇みずから戦争終結を宣言した。それでも陸軍の一部将校は玉音盤〈レコード〉を奪取して戦争継続を試みたが、もはやクーデターを支持する勢力もなく、反乱は鎮圧された、
 ただアメリカによる原爆投下について、これまで誰も指摘してこなかった重
要な問題がある。事実はすでに明らかにされているのに、なぜ誰も(メディア
も含めて)この問題を追及しないのか。それは原爆投下の、もう一つの目的のことだ。
 技術開発は、企業も軍関係も、常に複数の開発プロジェクトを走らせている。日本の企業での開発競争で最も有名なのは、ホンダのエンジン冷却方式を巡る二つの開発プロジェクトである。
 創業者でもあり、自分の技術力とアイディアに誇りを持っていた本田宗一郎氏が次期エンジンの冷却方式として空冷式を提唱した。だが、エンジニアの中には「日本の交通事情では水冷式でないとダメだ」と主張するグループがいた。ホンダはまだ今日のような大企業ではなく、二つの開発プロジェクトを同時に走らせるのは、かなりの負担があった。が、本田氏は困難を承知で二つのプロジェクトを同時に走らせることにした。
 理論的には、自動車が一定の速度を保って走行できる状態なら空冷式の方が有利である。が、信号で停車したり渋滞に巻き込まれたりした場合、空冷式ではどうやって温度が上昇し続けるエンジンを冷却するのかという問題があった。いまのIT技術を駆使すれば車の走行状態に応じて水冷と空冷を自動的に切り替えることが可能だろうが、当時はそういうことを可能にするエレクトロニクス技術はなかった。本田氏は、二つのプロジェクトの結果を見て、自らが提唱した空冷式を諦め、水冷式にすることにした。
 なかには一つの方式に決めず、市場の反応を見ることにするケースもある。たとえばパナソニック(当時は松下電器産業)が、ブラウン式テレビに代わる次世代テレビ開発について液晶方式とプラズマ方式の二つの開発プロジェクトを同時に走らせ、ともに製品化に成功した。当時は液晶の微細化技術には限界があると考えられており、小型テレビは液晶、中大型はプラズマが有利とパナソニックの経営陣は考えた。で、二つの方式の次世代テレビを商品化したのだが、液晶の微細化技術が当時の予測を超えて急速に進んだ。その結果、液晶に絞っていたシャープが一時はテレビ業界の覇者になった。
 競争が激しい世界ではそうしたことがしばしばあるのだが、パソコンOSでほぼ独占状態にあったマイクロソフトが「禁じ手」を使って失敗したことがある。ウィンドウズ98の後継OSの開発チームを複数同時に走らせた。そして二つのOSを商品化し、消費者の選択に任せるという作戦に出たのだ。それが2000年に商品化されたウィンドウズ2000とMeである。消費者の選択に任せるという考え方そのものを私は否定しないが、消費者やソフトメーカーがどちらかを選ぶ権利を行使するには、二つのOSのスペックをすべてオープンにする必要がある。が、マイクロソフトは自社開発のアプリケーションであるオフィスの優位性を維持するため、スペックのすべてはオープンにしていない。そのため
消費者やソフトメーカーは選択できない状態に陥った。結局マイクロソフトは
短期間でウィンドウズ2000とMeを自ら市場から消滅させてウィンドウズXPに切り替えた。それまで2~3年のペースでOSをチェンジしてきたマイクロソフトが,XPについてはかなり長期にわたって市場に提供せざるを得なくなった裏事情にはそうした戦略的失敗があったからだ。
 原爆問題に戻る。米軍も原爆開発について二つのプロジェクトを走らせていた。一つがウラン分裂型であり、もう一つがプルトニウム分裂型である。成功確率が高いのはウラン分裂型であることは最初から分かっていた。そのため最初に投下した広島の原爆はウラン分裂型だった。そしてウラン分裂型原爆は見事に成功した。こうした場合、戦争終結のために長崎(最初の目標は小倉=現北九州)に投下すべき原爆は、すでに成功が証明されたウラン分裂型を選択するのが軍事上の常識である。が、長崎に投下した原爆は水爆開発に欠かせないとされていたプルトニウム分裂型であった。つまり、広島と長崎に投下した二つの原爆のタイプを変えたのは、人類史上かつてない人体実験を行うためだったのである。

 さて本題に戻ろう。核不拡散条約は1963年、核保有国(当時は米・英・仏・ソ・中の5か国=国連常任理事国)の軍事的優位性を維持しつつ、核保有国の拡大を抑止する目的のために国連で採択された条約である。68年に62か国が調印し、70年3月に発効した。その後、加盟国が増大し、2010年の締結国は190か国に上っている。日本は70年2月に署名し、76年6月に批准している。
 が、日本政府は署名に際し、条約第10条が自国の利益を危うくする事態と認めたときは脱退する権利を有するとしていることに留意し、「条約が25年間わが国に核兵器を保有しないことを義務付けるものである以上、この間日米安全保障条約が存続することがわが国の条約加入の前提」であり、「日米安全保障条約が破棄されるなどわが国の安全が危うくなった場合には条約第10条により脱退しうることは当然」との声明を発表した。
 分かりやすく言えば、アメリカが日本を核の傘で守ってくれることを保障してくれている間は、日本も核を保有しないが、アメリカの核の傘があてにならなくなったら日本も核を保有するぞ、というのが日本政府の立場なのだ。
 ということは、たとえば北朝鮮の場合、中国が核の傘で北朝鮮を守ってくれない場合は核を保有する権利があることを国際社会が認めていることを意味し、北朝鮮が「アメリカが自国に対して敵視政策をとっている」とアメリカの核を脅威に感じ、友好国の中国もあてにならない以上、核を持つ権利を有するのは当然なのだ。
 現在、核保有国は5大国以外に北朝鮮、インド、パキスタンである。ほかにイスラエルは核兵器の保有について否定も肯定もせず、また核不拡散条約にも
加盟していない。またイランの核開発にも疑惑がもたれているが、どの国も、
自衛のために核を保有する国に対してクレームを付ける権利がないことは、肝心の核不拡散条約10条が認めているのである。
 まさに核不拡散条約は各5大国のみが「自衛権」として(他国を攻撃するために核を保有すると主張している国はない)核兵器を保有する権利を主張している以上、他国の核を脅威に感じた国が核を保有することは国連憲章でさえ認めている主権国家の個別的自衛の権利なのだ。現に北朝鮮はアメリカの核を脅威に感じ、中国と国境問題を抱えているインドが中国の核を脅威に感じ、さらにインドと国境問題を抱えているパキスタンがインドの核を脅威に感じて、それぞれ核を保有するのは主権国家として当然の権利である。
 そういう状況の中で、この世界から核を廃絶するには、すべての国連加盟国が核を保有する権利があることを明らかにしたうえで、日本が率先して核不拡散条約から脱退することだ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、全世界のあらゆる国が核を保有することになれば、核を独占することの意味がなくなり、すべての国が核を保有することをやめようということになる。この美しい地球から核を廃絶するには、その方法しかない。

追記:私のブログの読者約3000人の1に相当する方から「パチンコ産業について」という質問が寄せられた。私はパチンコはしないし、答えようがない。質問をする場合の礼儀として、「自分はこう思うが、この考え方についてどう思うか」という質問ならば、答えられる範囲について答えるが、そもそもパチンコをしたことがない人間に「どう思うか」と質問を寄せられても答えようがない。この質問のコメントはあえて削除しなかったが、質問をする場合、自分の意見を述べたうえで私の主張を求めるのが礼儀だろう。今回は私に寄せられた質問をあえて削除はしなかったが、私の主張に反論があるなら、まず自分の意見を述べたうえで質問してほしい。
 その読者がパチンコ業界について何か言いたいことがあれば、私のブログに便上しないで自ら告発していただきたい。私のブログは当初数人の閲覧者からスタートして、いまメディアや政界を動かすまでに影響力を持つようになってきた。「継続は力なり」という格言を自分自身で確信できる状態になってきた。そのことの重みを感じてほしい。